治承五年閏二月大の月  「七月十四日養和元年に」


治承五年 (1181)閏二月大四日庚戌。戌尅。入道平相國薨。〔九條河原口盛國家。〕自去月廿五日病惱 遺言云。三ケ日以後可有葬之儀。於遺骨者納播磨國山田法花堂。毎七日可修如形佛事。毎日不可修之。亦於京都不可成追善。子孫偏可營東國歸往之計者。


治承五年(1181年)閏二月大の月四日、庚戌(かのえいぬ)。戌の刻(午後八時頃)に、平相国清盛入道(享年六十四歳)が逝去しました。九条河原口にある平盛国の屋敷でのことでした。先月二十五日から病気に苦しみ、遺言には三日を過ぎてから葬儀を行い、

遺骨は播磨国の山田法花堂に納めるように。そして七日毎に形ばかりの仏事を行い、毎日行ってはならない。また京都においては法会など仏事を営んではならない。子や孫たちは、ただただ東国を降伏させることに専念すべしと、ありました。


治承五年(1181)閏二月大七日癸丑。武衛御誕生之初被召于御乳付之女〔今者尼。号摩々。〕住相摸國早河庄。依有于御憐愍故。彼屋敷田畠不可有相違之由。被仰含惣領地頭云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月七日、癸丑(みずのとうし)。義朝殿がお生まれになったとき、最初に乳を飲ませた女性をお呼びになりました。今は尼となり摩々と名乗って、相模国早河庄に住んでいます。彼女のことを愛情を持っていたわる気持ちから、

彼女が領する屋敷、田畑について、その扱いに間違いが無いよう、総地頭(地頭を統括する職)に言い含めたとか云々。


治承五年 (1181)閏二月大十日丙辰。前右大將〔宗盛卿。〕家人大夫判官景高以下千餘騎。爲襲前武衛發向東國云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月十日、丙辰(ひのえたつ)。前右大将平宗盛卿が一族の大夫判官景高以下千余騎で、頼朝殿を追討するために東国に向け出発したとか云々。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月十日の間違い?)


治承五年(1181)閏二月大十二日戊午。伊豫國住人河野四郎越智通清爲反平家。率軍兵押領當國之由。有其聞云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月十二日、戊午(つちのえうま)。伊予国の住人、河野四郎越智通清が平家に背き、軍勢を率いてこの伊予国を支配下に入れたと、聞こえて来たとか云々。


治承五年 (1181)閏二月大十五日辛酉。被下院廳御下文於東海道之諸國。藏人頭重衡朝臣帶之。率千余騎精兵。發向東國。是爲追討前武衛也。


治承五年(1181年)閏二月大の月十五日、辛酉(かのととり)。東海道の諸国に対して院より命令があり、蔵人頭平重衡朝臣がこの文書を携え、千余騎の選りすぐりの軍勢を率いて、東国に向け出発しました。これは頼朝殿を追討するためです。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月十五日の間違い?)


治承五年 (1181)閏二月大十七日癸亥。安田三郎義定相率義盛。忠綱。親光。祐茂。義C。并遠江國住人横地太郎長重。勝田平三成長等。到于當國濱松庄橋本邊。是依前武衛仰也。此所爲要害之間。可相待平氏襲來之故也。


治承五年(1181年)閏二月大の月十七日、癸亥(みずのとい)。安田三郎義定が和田小太郎義盛、岡部次郎忠綱、狩野五郎親光、宇佐美三郎祐茂、土屋次郎義清並びに遠江国の住人、横地太郎長重、勝田平三成長らを率いて遠江国の浜松庄、橋本辺りに到着しました。

これは頼朝殿の命令に従ったものです。この地は防禦に適しているので、平家の軍勢を待ち構えるためです。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月十七日の間違い?)


治承五年(1181)閏二月大十九日乙丑。中宮大夫属康信状到着鎌倉。進一通記。所載洛中巨細也。又去四日平相國禪門薨。爲送遺骨。下向播磨國已畢。世上聊令落居者。可參向之由云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月十九日、乙丑(きのとうし)。中宮大夫属(さかん)三善康信の書状が鎌倉に着きました。読み進んでいくと、京都の情勢が何くれと無く書かれていました。また去る四日に平相国禅門清盛が死去し、

すでに遺骨を納めるために播磨国に下って行ったことや、世の中もう少し落ち着いてきたなら、鎌倉に行きたいとか云々です。


治承五年(1181)閏二月大廿日丙寅。武衛伯父志田三郎先生義廣忘骨肉之好。忽率數万騎逆黨。欲度鎌倉。縡已發覺。出常陸國。到于下野國云々。平家軍兵襲來之由。日來風聞之間。勇士多以被遣駿河國以西要害等畢。彼此計會。殊思食煩。爰下河邊庄司行平在下総國。小山小四郎朝政在下野國。彼兩人者雖不被仰遣。定勵勳功歟之由。尤令恃其武勇給。依之朝政之弟五郎宗政。并同從父兄弟關次郎政平等。爲成合力。各今日發向下野國。而政平參御前申身暇。起座訖。武衛覽之。政平者有貳心之由被仰。果而自道不相伴于宗政。經閑路馳加義廣之陣云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月二十日、丙寅(ひのえとら)。頼朝殿の伯父である志田三郎先生義広は親族の好意に逆らい、たちまちに数万騎の反逆軍を率いて鎌倉に進出しようと思いました。しかし計画はすでに発覚し、

彼は常陸国を出て下野国に到着しているとか云々。平家の軍勢が攻撃してくるらしいとの噂が絶えないので、優秀な軍隊を駿河国以西の防禦陣地に、多数配置し終わりました。今回のこの計画は、特に多方面に考慮を払ったものです。

この時下総国の下河辺庄司行平と下野国の小山小四郎朝政の二人は派遣を命じられてはいませんが、きっと大いに働き手柄を立てるだろうと、その武勇を期待しています。それで、小山朝政の弟、五郎宗政と、

同じく従兄弟の関次郎政平らは朝政を応援するため、それぞれが今日下野国を出発しました。そこで政平は頼朝殿に出発の挨拶のため来て、帰られましたが、頼朝殿はこの様子を見て、関次郎政平は二心を持っているとおっしゃられ、

案の定、五郎宗政とは行動を共にせず、途中から裏道を通って、志田三郎先生義広の陣営に駆け加わったとか云々。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月二十日の間違い?)


治承五年(1181)閏二月大廿一日丁卯。今日以後七ケ日。可有御參鶴岡若宮之由立願給。是東西逆徒蜂起事爲靜謐也。未明參給。被行御神樂云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月二十一日、丁卯(ひのとう)。今日から七日間、鶴岡八幡宮に祈願のため参詣することになりました。これは東西の国々で反逆者が蜂起しており、これらの鎮圧を願うためです。未明に参詣しお神楽を奉納されたとか云々。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月二十一日の間違い?)


治承五年(1181)閏二月大廿三日己巳。義廣率三万余騎軍士。赴鎌倉方。先相語足利又太郎忠綱。忠綱本自背源家之間。成約諾亦小山与足利。雖有一流之好。依爲一國之兩虎。爭權威之處。去年夏之比。可誅滅平相國一族之旨。高倉宮被下令旨於諸國畢。小山則承別語。忠綱非其列。太含欝憤。加平氏。渡宇治河。敗入道三品頼政卿之軍陣。所奉射宮也。異心未散。且以次爲亡小山。有此企云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月二十三日、己巳(つちのとみ)。志田三郎先生義広は三万余騎の軍勢を率いて、鎌倉に向かいました。そしてまず足利又太郎忠綱に語りかけました。忠綱は元々源氏に好意を持ってはいませんから、共闘を約束しました。

また足利と小山は前から同族として源氏とのつながりは強く、一国に両雄が存在し、互いに覇権を争っていたところ、去年の夏頃に平相国及び一門の者どもを追討せよと、高倉宮、以仁王の令旨が諸国にもたらされたのです。

その時小山には別に何か話があり、足利又太郎忠綱には特に何もありませんでした。内心大いに憤慨し、それで平家側に加担して宇治川を渡り、源三位入道頼政卿の軍勢を破り、また宮に向かい矢を射掛けたのです。それでも憤懣は収まらず、

ついでに小山を滅ぼしてやろうと、これを計画したとか云々。


次義廣相觸可与之由於小山小四郎朝政。々々父政光者。爲 皇居警衛。未在京。郎從悉以相從之。仍雖爲無勢。中心之所之在武衛。可討取義廣之由凝群議。老軍等云。早可令与同之趣。僞而先令領状之後。可度之也者。則示遣其旨。義廣成喜悦之思。來臨于朝政舘之邊。先之。朝政出本宅。令引篭于野木宮。義廣到于彼宮前之時。朝政廻計議而令人昇于登々呂木澤地獄谷等林之梢。令造時之聲。其音響谷。爲多勢之粧。義廣周章迷惑之處。朝政郎從太田菅五。水代六次。々郎和田。池二郎。蔭澤次郎。并七郎朝光郎等保志泰三郎等攻戰。朝政着火威甲。駕鹿毛馬。時年廿五。勇力太盛而懸四方。多亡凶徒也。義廣所發之矢中于朝政。雖令落馬。不及死悶。


次に志田三郎先生義広は小山小四郎朝政に我が軍に味方するよう誘いました。朝政の父、政光は皇居の護衛のため都に行っており、ほとんどの家来は父について都へ行っています。そのため朝政には兵力が乏しいと言えども、

忠義の心は頼朝殿にあり、義広を討ち取ってしまうよう軍議を誘導しました。老練な武者たちは、早速味方をする旨、偽の約束状を届けてから、策を練るべきだと言いました。すぐにその旨を伝えたところ義広は大変喜び、朝政の屋敷の近くまで来ました。

その前に朝政は屋敷を出ると、野木宮に閉じこもりました。義広が野木宮の前に来た時、朝政は一計を案じ、登々呂木澤、地獄谷などの林の梢近くに家来を上らせておき、閧の声を作らせました。その声は谷に響き渡り、

あたかも大勢の軍勢が控えているように思えました。義広がどうすればよいかと慌てるところに、朝政の家来である、太田管五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎並びに、結城七郎朝光の家来、保志泰三郎らが攻めかかりました。

その時小山小四郎朝政は緋縅の鎧を身に着け、鹿毛(茶褐色)の馬にまたがり、その年齢は二十五にして勇気体力とも充実し、四方に駆け巡って、多くの敵兵を殺害しました。その時義広の放った矢が朝政に命中し落馬したものの、命まで落とすことはありませんでした。


爰件馬離主。嘶于登々呂木澤。而五郎宗政〔年廿。〕自鎌倉向小山之處。見此馬。合戰已敗北。存令朝政夭亡歟之由。馳駕向于義廣陣方。義廣乳母子多和利山七太揚鞭。隔于其中。宗政逢于弓手。射取七太訖。宗政小舎人童取七太之首。其後義廣聊引退。張陣於野木宮之坤方。朝政宗政自東方襲攻。于時暴風起於巽。揚燒野之塵。人馬共失眼路。横行分散。多曝骸於地獄谷登々呂木澤。


朝政の手を離れた馬が、登々呂木澤の近くでいなないているのを、二十歳になる小山五郎宗政が、鎌倉から小山に向かっている途中でこの馬を見つけ、合戦はすでに負けて、朝政も死んだと思い、志田先生義広の陣営に向かって駆けていきました。

そこに、義広の乳母子の多和利山七太が馬を駆け寄せ、中に割って入れば、宗政が七太を左側にして弓にて討ち取り、宗政の家来が七太の首を取りました。その後、義広卿は退却し野木宮の坤(南西)の方向に陣を構えました。

朝政、宗政は東側より攻撃しましたが、その時激しい風が巽(東南)の方より起こり、焼けた野原の塵埃が舞い上がって、人馬共々目が見えず右往左往する内に、多数の者が地獄谷、登々呂木澤に死骸をさらすことになりました。


又下河邊庄司行平。同弟四郎政義。固古我。高野等渡。討止餘兵之遁走 足利七郎有綱。同嫡男佐野太郎基綱。四男阿曾沼四郎廣綱。五男木村五郎信綱。及大田小權守行朝等。取陣于小手差原小堤等之處々合戰。此外八田武者所知家。下妻四郎C氏。小野寺太郎道綱。小栗十郎重成。宇都宮所信房。鎌田七郎爲成。湊河庄司太郎景澄等加朝政。蒲冠者範頼同所被馳來也。彼朝政者。曩祖秀郷朝臣。天慶年中追討朝敵。〔平將門。〕兼任兩國守。令敍從下四位以降。傳勳功之跡。久護當國。爲門葉棟梁也。今聞義廣之謀計。思忠輕命之故。臨戰塲得乘勝〔矣〕。


また下川辺庄司行平、同じく弟の四郎政義は古河(埼玉県鬼怒川の渡し)、高野(栃木県思井川の渡し)などの渡しを警備し、逃げて来た敵兵らを迎撃しました。足利七郎有綱、同じく長男の佐野太郎基綱、四男の阿曾沼四郎広綱、

五男の木村五郎信綱及び太田小権守行朝らは、小手差原(茨城県五霞町小手指)、小堤(茨城県古河市小堤)らあちこちに陣取って戦いました。このほか、八田武者所知家、下妻四郎清氏、小野寺太郎道綱、小栗十郎重成、宇都宮所信房、鎌田七郎為成、

湊河庄司太郎景澄らは朝政に加勢し、また蒲冠者源範頼もここへ駆けつけて来ました。かの小山小四郎朝政は先祖の俵藤太、藤原秀郷朝臣が天慶年間(938〜947年)に朝敵である平将門を追討し、二か国(下野国、武蔵国)の長官を兼務して、

従四位下を授かって以来、先祖代々の領地を伝えるとともに、一族の棟梁として長らくこの地を守り続けてきたのです。今、義広の謀略を聞いて、命を惜しまず忠義だけを考えて、戦場に望んだから勝利を得られたのに違いないでしょう。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月二十三日の間違い?)


治承五年(1181)閏二月大廿五日辛未。足利又太郎忠綱雖令同意于義廣。野木宮合戰敗北之後。悔先非。耻後勘。潜篭于上野國山上郷龍奥。招郎從桐生六郎許。數日蟄居。遂隨桐生之諌。經山陰道。赴西海方云々。是末代無雙勇士也。三事越人也。所謂一其力對百人也。二其聲響十里也。三其齒一寸也云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月二十五日、辛未(かのとひつじ)。足利又太郎忠綱は志田三郎先生義広に味方したとは言っても、野木宮の合戦に負けてからは、過去の行動を後悔し、後日の咎めを恥ずかしく思い、上野国の山上郷龍奥にひそかに身を隠し、

家来の桐生六郎のもとで、数日間隠れて過ごしました。やがて、桐生の注意と勧めに従って山陰道経由で西海、九州の方へ向かったとか云々。彼は過去に二人と居なかったような勇者であり、三つの点で他の人の追随を許しません。

一つは、その力たるやいわゆる百人力で、二つ目にはその声が十里先まで響き渡り、三つ目には歯が一寸もあったとか云々。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月二十五日の間違い?)


治承五年(1181)閏二月大廿七日癸酉。武衛奉幣若宮給。今日所満七ケ日也。而跪寳前。三郎先生蜂起如何之由。獨被仰出。于時小山七郎朝光持御釼。候御共。承此御旨云。先生已爲朝政被攻落訖歟云々。武衛顧面曰。小冠口状者。偏非心之所發也。尤可爲神託。若如思於令属無爲者。可被行優賞者。朝光今年十五歳也。御奉幣事終。還向給之處。行平朝政使參着之。義廣逃亡之由申之。及晩朝政使又參上。相具先生伴黨頚之由言上。仍仰三浦介義澄。比企四郎能員等被遣彼首於腰越。被梟之云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月二十七日、癸酉(みずのととり)。頼朝殿の鶴岡八幡宮へのお参りが、今日で満七日が経ちました。そして、神前にひざまずくと、志田三郎先生の起こした反乱はどうなったのだろうかと、独り言を言われました。

その時小山七郎朝光は剣を持って傍に控えていましたが、この言葉を聞き、志田先生義広はすでに小山小四郎朝政のため、攻め落とされてしまっていると、話したとか云々。頼朝殿は話した朝光の方に振り向き、

この若者が話したことは、若者の心から出た言葉ではなく、きっと神のお告げに違いない。もし思っているように何事も進めば、その時は褒美を取らせよう。朝光は今年十五歳になります。参拝が終り舘に戻ってきた時に、下河辺庄司行平と小山四郎朝政の使者が到着しました。

志田義広は逃亡したことを報告しました。また夜になって朝政の使者が、志田先生の首を持って、ここに到着したと申し上げました。そこで、三浦介義澄、比企四郎能員らに命じて、その首を腰越に運ばせ、さらしたとか云々。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月二十七日の間違い?)


治承五年(1181)閏二月大廿八日甲戌。宗政爲朝政名代。〔朝政依被疵不參。〕相率一族及今度合力之輩。參上于鎌倉。武衛有御對面。被感仰勳功。宗政行平以下一族列居西方。知家重成以下亦列東方。所生虜之義廣從軍廿九人。或梟首。或被召預行平有綱等 次常陸下野上野之間。同意三郎先生之輩所領等。悉以被収公之。朝政朝光等預恩賞云々。


治承五年(1181年)閏二月大の月二十八日、甲戌(きのえいぬ)。小山五郎宗政は小山四郎朝政が怪我をしているため彼の代理として、一族と今回の合戦に共に戦った武将らを率いて鎌倉に参上しました。頼朝殿はこれらの武将と面会し、

その手柄にひどく感激されました。宗政、行平以下の一族は西方に居並び、八田知家、小栗重成以下の武将は同じく東方に居並びました。義広の軍に従い生け捕りになった者は二十九人であり、ある者は斬首、獄門にされ、

またある者は下河辺庄司行平や佐野有綱に身柄を預けられました。ついで、常陸、下野、上野の国々で志田三郎先生に味方した武将らの所領は全て没収し、朝光や朝政に恩賞として与えたとか云々。(この記載は寿永二年(1183年)閏二月二十八日の間違い?)      (終)

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