吾妻鏡 第三巻 目次

 

養和二年(1182年)、寿永二年(1183年)は抜けているようだ。

 

寿永三年から元暦元年の主な出来事。


寿永三年正月

 一宮神社に故上総介広常が奉納した鎧を点検したところ、謀反の証拠は無く、頼朝殿は謀殺したことを後悔します。義仲が征夷大将軍になりました。
 範頼、義経は勢多、宇治両道から京に入ります。

寿永三年二月

 樋口次郎が処刑されます。これで木曾の件は終わり、いよいよ平家との軍に移ります 。一の谷に集結した平家軍にたいして、範頼、義経が攻撃します。
 義経が実施した鵯越からの攻撃に平家軍は潰走し、多くの武将が討たれます。

寿永三年三月

 頼朝殿は九州の豪族、武将らに平家追討の檄文を送り、四国には北条時政より同様に檄を飛ばします。三位中将重衡は京より鎌倉に護送され、
 頼朝と伊豆にて対面します。重衡の毅然とした態度に皆が感心します。

元暦元年四月

 池禅尼の恩に報いるため、平頼盛に元通りの所領を認めます。平重衡は鎌倉に着きます。改元があり元暦元年となりました。重衡と千手の前との
 出会いがあります。木曾義仲の嫡子志水冠者義高を殺害しました。

元暦元年五月

 頼朝は伊勢神宮の内宮、外宮に荘園を寄付しました。志田三郎先生義広を伊勢国にて討ち取りました。

元暦元年六月

 池大納言が帰京するので餞別の宴を開き、多くの引き出物を与えます。平治の乱後、捕虜となった頼朝の世話をした宗清は、鎌倉に行くことを拒み
 屋島に向かいました。謀反の疑いで、一条次郎忠頼を暗殺します。人事異動があり、蒲冠者以下官職につきます。しかし義経は推薦されませんでした。

元暦元年七月

 西海に逃亡している平家を追討するため、院に出兵を申請しました。謀反を企てた疑いで、井上太郎光盛を殺害します。伊賀国で平家の反乱があり、
 鎌倉は追討軍を派遣します。

元暦元年八月

 大内惟義が三日平氏の乱を鎮圧します。三河守範頼が一千余騎を引き連れて平家追討に出かけました。義経が鎌倉の許可もなく、朝廷より官職を
 貰い、頼朝殿は気分を悪くし、平家追討軍の司令官の任命を見合わせました。

元暦元年九月

 都に到着した三河守源範頼は院より命を受け、平家追討のため一日、西海に向け出発しました。頼朝が決めた義経の嫁、川越太郎重頼の娘が都に
 上りました。摂津の国で敗北した平家は、徐々に力を蓄えています。そこで讃岐の武士達に対して、鎌倉に帰順するよう工作が始まりました。

元暦元年十月

 文書管理を行なう公文所が出来上がりました。また訴訟に関する規定と裁判所としての問注所が出来ました。義経の昇殿が許されました。

元暦元年十一月 

 筑後守俊兼の華美な行動を注意します。園城寺より荘園の寄付を願う、長文の書状が着きました。父、源義朝公を弔うための寺院の建造が
 決まりました。

元暦元年十二月

 園城寺に対して寄進を行うことになりました。平氏の平行盛が備前国児島に砦を築いていましたが、これを源氏の佐々木三郎盛綱が馬で海峡を渡り、
 攻め込み、行盛を追い落としました。