4 義朝敗北の事

平家追懸てせめければ、三条河原にて鎌田兵衛申けるは、「頭殿はおぼしめす旨あって落させ給ふぞ。よく<ふせぎ矢つかまつれ。」といひければ、平賀四郎義宣、引返し散々にたゝかはれければ、義朝かへり見給て、「あっぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」との給へば、佐々木の源三・須藤形部・井沢四郎を始として、われも<と眞前に馳ふさがってふせぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎切っておとし、我身も手負ければ、近江をさして落にけり。須藤形部俊通も、六条河原にて、瀧口と共に討死せんとすゝみしを、とゞめ給ひしかども、こゝにて敵三騎討取て、つゐにうたれてけり。井澤四郎宣景は、廿四さしたる失をもって、今朝のたゝかひに敵十八騎討おとし、いまの合戦によき敵四騎射ころしたれば、ゑびらに二ぞ残たる。その後打物に成てふるまひけるが、いた手おふて引にけり。東近江におちて疵療治し、弓うちきり杖につき、山づたひに甲斐の井沢へぞゆきにける。


平家軍は逃げる源氏軍を追いかけ攻めましたが、源氏軍が三条河原に差し掛かった時、鎌田兵衛正清が、「頭殿(こうのとの::義朝)は考えるところがあって、落ち延びることになった。ここは防ぎ矢に励めや」と言えば、

平賀四郎義宣は引き返し激しく戦うのを、義朝が振り返って、「あぁ、源氏の武者は鞭さし(鞭を持って主人に従う者、小者)と言えども、勇猛でない者はいないのだ。惜しい兵士ではないか、平賀を討たせるな、義宣を討たせるな」と言われると、

佐々木の源三、須藤刑部、井澤四郎を始めとして、我も我もと前に駆け出し防ぎました。しかし佐々木源三秀義は敵を二騎斬り落としましたが、自分も傷を負い、近江に向かって落ちて行きました。また須藤刑部俊通も六条河原にて、

瀧口と共に討ち死にせんと進んで行くのを、押し止められ、ここにて敵三騎を討ち取ったものの、ついに討たれてしまいました。井澤四郎宣景は二十四本挿した矢で、今朝の戦いで敵十八騎を射落とし、ここでの合戦で相手に不足のない敵を四騎射殺したから、

背負った箙には二本の矢が残っていました。その後太刀にて奮戦したのですが、痛手を負い退却しました。東近江に逃げて傷の治療にあたり、弓の弦を外して杖にして、山伝いに甲斐国の井沢に落ちて行ったのです。


か様に面々たゝかふ間に、義朝おちのび給ひしかば、鎌田をめして、「汝にあづけしひめはいかに。」との給へば、「私の女に申をきまいらせて候。」と申せば、「いくさに負ておつるときゝ、いかばかりの事か思らん。中中ころしてかへれ。」との給へば、鞭をあげて、六条堀川の宿所にはせ来てみければ、軍におそれて人ひとりもなきに、持仏堂の中に人音しければ、ゆきて見るに、姫君仏前に経うちよみておはしけるが、政家を御覚じて、「さてそも、軍はいかに。」と問給へば、「頭殿は打負させ給て、東国のかたへ御おち候が、姫君の御事をのみ、かなしみまいらっさせ給ひ候。」と申せば、「さては我らも只今敵にさがし出され、是こそ義朝のむすめよなどさたせられ、恥を見んこそ心うけれ。あはれ、たかきもいやしきも、女の身ほどかなしかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なればいくさに出て、御供申給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とてのこしをかれ、我身の恥を見るのみならず、父の骸をけがさん事こそかなしけれ。兵衛、まづ我をころして、頭殿の見参にいれよ。」とくどき給へば、「頭殿も此仰にて候。」と申せば、「さてはうれしき事かな。」とて、御経をまきおさめ、仏にむかひ手をあはせ、念仏申させ給へば、政家つとまいり、ころし奉らんとすれども、御産屋のうちよりいだきとり奉りし養君にて、今までおふしたてまいらせたれば、いかでか哀になかるべき。なみだにくれて、刀の立所もおぼえずして、なきゐたりければ、姫君、「敵やちかづくらん、とく<。」と進め給へば、力なく三刀さして御首をとり、御死骸をばふかく納めて馳かへり、頭殿の見参に入たりければ、たゞ一め御覧じて、涙にむせび給ひけるが、東山のほとりにしりたまへる僧の所へ、此御頸をつかはして、「とぶらひてたび給へ。」とてぞおちられける。


このように殿軍の兵士らが戦っている間に、義朝は落ち延びて行ったのですが、鎌田正清を呼ばれて、「汝に預けておいた姫はどうしたのか」と、問われ、「私の妻に後事を託しておきました」と、答えると、「私が合戦に負けて落ちて行くと聞けば、

一体どう思うだろうか。いっそのこと殺してしまおう」と話され、鎌田は馬に鞭をあて六条堀川の舘に来てみれば、軍に恐れたのか人は一人も居ません。しかし持仏堂の中で、何か人の声がするので行って見たところ、姫君が仏前でお経を読んでおられました。

正清を見つけると、「一体全体、軍はどうなったのでしょうか」と問われ、正清は、「頭殿は軍に負けられ、東国に落ちていくところですが、姫君のことだけを悲しまれておられます」と、申し上げれば、「となれば、私らもすぐに敵に探し出され、

これこそ義朝の娘だと何かと取り調べられたり、恥を受けると思えば辛い限りです。あぁ、身分に関係なく女の身ほど、悲しいものはありません。兵衛佐頼朝殿は十三歳ですが男なので軍に出られ、殿のお供をされています。

私は十四歳でも女だからと残し置かれ、我が身の恥を見るだけでなく、父の遺骸を汚すことが悲しい限りです。兵衛正清殿よ、まずこの私を殺して、頭殿にお見せしてくだされ」と熱心に話され、正清は、「頭殿もそのようにおっしゃられています」と、申し上げました。

姫は、「それはまた、なんと嬉しいことではないか」と言って、御経を巻き納めると、仏に向かって手を合わせ念仏を唱えられると、正清はそばにソッと近寄り、お命を頂こうとしました。しかし、正清にすれば産屋の中より抱き取って、

今まで御育てしてきた姫君ですから、どれほど悲しいことでしょう。涙が流れ出て、刀を一体どこに当てれば良いのか分からず泣いていると姫君が、「敵が近づいているかも知れない、早く早く」と、急かされれば仕方なく、

三度刀を刺してお首を取ると、御死骸を地中深く納めて駆け戻り、頭殿にお見せしました。殿はただ一目見ただけで、涙に咽ばれていたのですが、東山のほとりにいる知り合いの僧のもとにこの首を届け、「良く弔ってください」と、言い残して落ちて行かれました。


さる程に、平家の軍兵はせ散って、信頼・義朝の宿所を始て、謀叛の輩の家々に、をしよせ<火をかけて、やきはらひしかば、其妻子眷属、東西に逃まどひ、山野に身をぞかくしける。方々におち行人々は、我行前はしらね共、跡のけぶりをかへりみて、敵は今や近付らむ、いそげ<と身をもみけり。比叡山には、信頼・義朝うちまけて、大原口へおつるとさたしければ、西塔法師これをきゝて、「いざや落人打とゞめん。」とて、二三百人千束ががけに待かけたり。義朝此由きゝ及び、「都にてともかくも成べき身の、鎌田がよしなき申状によって、是までおちて山徒の手にかゝり、かひなき死をせんずるこそ口おしけれ。」とのたまへば、斉藤別当申けるは、「こゝをば実盛とをしまいらせ候はん。」とて、馬よりおり、甲をぬいで手にひっさげ、みだれ髪を面にふりかけ、近付よっていひけるは、「右衛門督、左馬頭殿已下、おもとの人々は、みな大内・六波羅にて討死し給ひぬ。是は諸国のかり武者どもが、恥をもしらず妻子を見んために、本国におち下り候なり。討留て、罪つくりに何かし給はん。具足をめされむためならば、物具をばまいらせ候はん。とをして給はれ。」と申ければ、「げにも大将達にてはなかりけり。葉武者はうちて何かせん。具足をだにぬぎすてば、とをされよかし。」と僉議しければ、実盛かさねて、「衆徒は大勢おはします。われらは小勢なり。草摺を切ても猶及びがたし。なげんにしたがひうばひ取給へ。」といへば、おもてにすゝめる若大衆、「尤しかるべし。」とてあひあつまる。後陣の老僧も、われおとらじと一所によって、きほひあらそふ所に、実盛冑をかつぱとなげたりけり。われとらんとひしめきければ、あへて敵の体をも見つくろはざりける処に、卅二騎の兵、打物を抜て、冑のしころをかたぶけ、がはと懸入けちらしてとをりければ、大衆にはかに長刀をとりなをし、あますまじとて追懸ければ、実盛大わらはにて、大の中差取ってつがひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国住人、長井斉藤別当実盛ぞかし。留めんとおもはゞよれや。手がらの程みせん。」とて、取って返せば、大衆の中に弓取は少もなし、かなわじとや思ひけん、皆引てぞ帰りける。


やがて平家の軍兵は駆け散らばって、藤原信頼や源義朝の舘を始めに、謀反を起こした者どもの家々に次々と押し寄せ、火を掛け焼き払ったりしますから、妻子や縁ある人々など東西に逃げ惑い、山野に身を隠しました。

方々に落ちて行く人々は自分の行き先も分からぬまま、後に立ち上がる煙を振り返っては、敵がもうそこまで近づいているのではと、急げや急げと押し合いへし合い逃げました。比叡山では信頼、義朝が合戦に負けて、

大原口に向かって落ちて行くと連絡が入り、西塔の法師はこれを聞くと、「よし、落人を討ち取ってやろう」と、二、三百人が千束ヶ崖で待ち構えました。義朝はこの知らせを聞き、「本来なら都で討ち死にでもすべき我が身が、

鎌田正清のつまらぬ説得に応じて、ここまで落ちて来ておきながら、ここで山法師の手にかかり、つまらぬ死に方をするのはなんとも悔しいことである」と話すと、斉藤別当実盛が、「ここはこの実盛が何とかお通ししましょう」と言って、

馬から降りて兜を脱ぎ手に提げ、乱れた髪で顔を隠すようにして近づくと、「右門衛督信頼殿、左馬頭義朝殿以下、主だった人々は皆、内裏や六波羅にて討ち死にされました。今ここにいるのは諸国からのかき集め武者どもが、

妻子と会いたさに恥を忍んで、本国に落ち下って行くところです。この我らを討ち取って罪を作ったとしても、どうなると言うのでしょうか。我らの武具などを差し出せと言うのなら、甲冑をば差し上げましょう。

だから通して下さらぬか」と、話しかけたところ、「なるほど、大将達とは思われない。下っ端の武者どもを討ったとて、仕方なかろう。甲冑さえ脱ぎ捨てて行くのなら、通しても良いだろう」と、話し合いの結果が出たので、実盛は重ねて、

「あなた方衆徒は大勢居られます。しかし我らは少人数ですから、たとえ草摺りを切ったとしても、とても全員には行き渡りません。仕方ないので投げながら進みますから、互いに奪い合ってください」と言うと、前の方に居た若い僧兵達は、

「それもそうだ」と、集まりだしました。後ろの方にいた老僧達も、負けてなるかと前方に集まり争っているところへ、斉藤別当実盛が兜をガバッと投げつけました。集まった僧兵達は我先に奪い取ろうと揉みあいになり、

敵の様子には全く注意も払わずにいたので、三十二騎の武者は太刀を抜き、兜の錣を傾けて、ガバッと駈け散らかして通って行くと、僧兵達は慌てて長刀を持ち直し、逃すなと追いかけてきました。実盛は髪振り乱し大童になって、

箙より大きな中差と言う戦闘用の征矢を取り出して番え、「敵は敵でも自分は並みの敵ではないぞ。源義朝の家来で武蔵国の住人、長井斉藤別当実盛であるぞ。討ち取ろうと思う者は出て来い。腕前の程を見せてやろう」と言って、

引き返してきたのですが、僧兵らの中にはまともな武士も居らず、とてもかなわないと思ったのか皆、引き上げて帰りました。


義朝八瀬の松原を過られけるに、跡より、「やゝ。」と呼こゑしければ、何者やらんとみ給へば、はるかに前へぞ延ぬらんとおぼえつる信頼卿追付て、「もし軍にまけて東国へおちん時は、信頼をもつれて下らんとこそきこえしか。心がはりかや。」との給へば、義朝余りのにくさに腹をすへかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立って、一いくさだにせずして、我身もほろび人をもうしなふにこそ。おもてつれなふ物をのたまふ物かな。」とて、もたれたる鞭をもって、信頼の弓手の頬崎を、したゝかにうたれけり。信頼此返事をばし給はず、誠に臆したる体にて、しきりにむちめををしなで<ぞせられける。乳母子の式部大夫助吉これをみて、「何者なれば、督殿をばかうは申ぞ。わ人ども心の剛ならば、など軍にはかたずして、負ては国へ下るぞ。」といひければ、義朝、「あの男に物ないはせそ。討て捨よ。」との給ひければ、鎌田兵衛、「何条たゞいまさる事の候べき。敵やつゞき候らん。延させ給へ。」とてゆく所に、又横河法師上下四五百人、信頼・義朝のおつるなる、うちとめんとて、龍下越にさかもぎ引、掻楯かいてまち懸たり。


東国へ逃げ落ちる義朝が八瀬の松原を通り過ぎる時、後ろの方から、「おーい、おーい」と、人の呼ぶ声が聞こえ、何者だと思い振り返ったら、とうの昔に落ち延びたと思っていた藤原信頼卿が追いついて、

「もしも軍に負けて東国に落ちることになったら、信頼も連れて東国に下ろうと言っていたではないか。裏切る気なのか」とおっしゃれば、義朝は余りの憎々しさに腹の虫も治まらず、「日本一の臆病な大馬鹿者め、

これ程大変な事を思い立っておきながら、ただの一度も戦うこともなく、我が身も滅ぼし、また人をも巻き込んで亡き者にしておきながら、あつかましいことを良く言うぞ」と、持っていた鞭で、信頼の左の頬を思い切り叩きました。

信頼は何の返事も出来ず怖気づいた様子で、鞭で叩かれたあとをしきりに撫でていました。信頼の乳人子である式部大夫助吉はこの様子を見て、「一体貴殿は何様なのだ、右門衛督殿をそこまで言うとは。お前らが心底勇猛な人間ならば、

なぜ軍に勝つことも出来ず、負けて国に帰ろうとするのか」と言ったので、義朝は、「あの男にしゃべらすな、討ち捨ててしまえ」と言われれば、鎌田兵衛は、「今そんなことをしている場合じゃないはずです。敵が後を追っているかも知れぬのに。

早く逃げましょう」と先を急ぐと、また横川の法師ら身分の上下取り混ぜて四、五百人が信頼、義朝が落ちていくらしい、討ち取ってやろうぞと龍華越えの道に逆茂木を設え、楯を立て並べて待ち受けていました。


卅余騎の兵、各馬よりとびおり<、手々に逆茂木をば物ともせず、引ふせ<とをる所に、衆徒の中より、さしつめひきつめ散々に射たりければ、陸奥六郎義隆の頸の骨を射られて、馬よりさかさまにおちられてけり。中宮大夫進朝長も、弓手の股をしたゝかに射られて、鐙をふみかね給ひければ、義朝、「大夫は失にあたりつるな。つねに鎧づきをせよ。うらかゝすな。」とのたまへば、其矢ひつかなぐつてすて、「さも候はず、陸奥六郎殿こそいた手おはせ給ひ候つれ。」とて、さらぬ体にて馬をぞはやめられける。六郎殿うたれ給へば、頸をとらせて義朝のたまひけるは、「弓矢取身のならひ、軍に負ておつるは、つねの事ぞかし。それを僧徒の身として、たすくるまでこそなからめ、結句うちとめんとし、物具はがんなどするこそ奇怪なれ。にくいやつばら、後代のためしに一人も残さずうてや者ども。」と、下知せられければ、卅余騎くつばみをならべ懸入わりつけ追まはし、せめつめ<切付られければ、山徒立所に卅余人うたれにければ、のこる大衆、大略手負て、はう<谷々へかへるとて、「此落人うちとゞめんといふ事は、誰がいひ出せる事ぞ。」とて、あれよこれよと論じける程に、同士軍をしいだして、又おほくぞ死にける。誠に出家の身として、落人うちとゞめ、物具うばひとらんなどして、わづかの落武者にかけたてられ、おほくの人をうたせ、又同士軍し出して、あまたの衆徒をうしなふ事、僧徒の法にも恥辱也、武芸のためにも瑕瑾なり。されば冥慮にもそむき、神明にもはなたれ奉りぬとぞおぼえし。


そこに差し掛かった三十余騎の武者は、それぞれ馬より飛び降り、飛び降りると、誰もが逆茂木など問題にせず、引き抜き倒し通って行こうとしましたが、僧兵の中から矢を次々と番えては激しく射込んできたので、

義朝の伯父、陸奥六郎義隆は頸の骨を射られて、馬より逆さまに落ちてしまいました。また次男の中宮大夫源朝長も左の股を深く射られて、鐙を踏むことも出来ずにしていると義朝が、「大夫は矢に当ったようだな。

鎧の札(さね)に隙間が生じないよう鎧を常にゆすっていろ、敵を後ろに回すな」と声を掛ければ、その矢を引き抜いて捨てると、「大したことは御座いません、それより陸奥六郎殿こそ怪我をされています」と、何事もないような様子で馬を早められました。

六郎殿は討たれ頸を取られて、義朝は、「弓矢を取る身であれば、軍に負けて逃げ延びることは当然かも知れぬ。しかし、僧侶でありながら助けようともせず、反対に討ち取ろうとしたり、甲冑などを剥がそうとするなど、余りにもけしからぬ行動ではないか。

憎っき者どもめ、後世のためにも一人残さず討ち取ってしまえ。皆の者」と命令を下すや、三十余騎が馬を揃えて駈け入り、激しく追い回し攻めに攻め上げたので、僧兵らは瞬く間に三十余人討たれてしまいました。

残った僧兵達も大方の者は傷を負い、ほうほうの態で比叡山の谷々に帰り、「この落人を討ち取ってしまえなど、一体誰が言い出したのだ」と、何やかやと言い合っている内に同士討ちとなり、またそこでも多くの死者が出ました。

誠に出家した身でありながら、落人を討ち取り甲冑などを奪おうとして、わずかな落ち武者に追い立てられ、多数の人間が討たれた上に、同士討ちまで起こし、そこでもまた多数の衆徒を失うことは、僧侶の法に照らしても大変な恥辱であり、

武芸のためにも大きな瑕を残しました。これでは神仏の思し召しに逆らうこととなり、神仏からも無視されたかと思われます。


此敵をも追ちらしければ、龍下のふもとにみなおりゐて、馬をやすめられけるが、義朝、後藤兵衛眞基をめして、「汝にあづけをきし姫はいかに。」とのたまへば、「私の女によく<申ふくめて候へば、別の御事は候まじ。」と申けり。「さては心やすけれども、汝これより都へ帰りのぼり、ひめをそだてゝ尼にもなし、義朝が後世菩提とぶらはせよ。」との給へば、「先いづくまでも御供仕り、とも角もならせ給はん御有様を見とつけまいらせてこそ帰りのぼり候はんずれ。」と申せども、「存ずるむねあり。とく<。」との給へば、力及ばずみやこへ帰り、姫君につき奉り、こゝかしこにかくしをきまいらせて、源氏の御代になりしかば、一条二位中将能保卿の北方になし奉りける也。眞基も鎌倉殿の御時に世に出けるとぞきこえし。


待ち受けていたこれらの敵を追い散らしたので、龍華のふもとまで全員が降りて馬を休めていましたが、義朝は後藤兵衛眞基を呼んで、「汝に預けておいた姫(坊門姫)はどうしているかな」と、問われ、「私の妻によくよく言い含めていますから、

特に問題は無いと思われます」と、申し上げました。「それならば安心だが、汝はここより都に帰り上って、姫を養育し尼にでもさせて、義朝の後世菩提を弔わせてくれないか」と、話されたのです。しかし眞基は、「この先どこまでもお供をし、

如何になろうとも最後まで見届けてから、都に戻りたく思います」と、申し上げたのですが、「考えることがあるのだ、早く引き返せ、早く」とおっしゃられるので、止むを得ず都に帰り、姫君に仕え、あちこちにその身柄を隠し続け、

やがて源氏の世になってから、一条二位中将能保卿の北の方として嫁がせました。眞基も鎌倉殿(源頼朝)の時代になって世に出られたと聞いています。      (終)

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