●平治物語 巻之 三 解説●

 青墓の宿で義朝は長田忠宗父子に暗殺されます。頼朝、義経らが助命され、その結果、平家は滅びることになりますが、この第三巻は頼朝が池の禅尼に助けられたり、常葉が義経の助命を求めるくだり、また義経が奥州へ下る話、また頼朝との再開、その後の不和などなど多くの話があります。しかしすべてほんの少しの記述となり、例えば義経記、源平盛衰記などの脚色豊かな記述を待つことになります。その分、この巻は前の二巻に比べてちょっと乱雑、簡潔、手抜きの感じがします。

 

1 金王丸尾張より馳せ上る事
 年も明けて平治二年になります。内裏では正月の行事は中止になりました。そんな都の正月五日、尾張から金王丸が、常葉に義朝の消息を知らせてきます。嘆き悲しむ常葉に金王丸は私が法師になって、菩提を弔いましょうと話しました。やがて金王丸は法師になり、義朝の菩提を弔います。        原帖と現代語訳

2 長田義朝を討ちて六波羅に馳せ参る事付けたり大路渡して獄門にかけらるる事
 平治二年一月六日、後白河上皇は仁和寺を出られます。しかし御所が焼けてしまったので、藤原顕長卿の家を仮の御所としました。七日には長田忠宗親子が義朝、鎌田の首を都に届けました。義朝の首は九日に獄門に架けられます。一月十日には、昨年からの兵乱が原因で改元が行われ、永暦となりました。      原帖と現代語訳

3 忠宗尾州に逃げる事
 永暦元年一月二十三日除目があり、長田忠宗、景宗にも沙汰がありましたが、両人とも不服で再度の申し入れをしました。余りの要求に平家側も手を焼き、反対に主君殺し、婿殺しに対して罪を問うことも考えました。しかし、清盛の裁量にてそれなりの恩賞は与えられましたが、噂におびえて両名は尾張に逃げ帰りました。      原帖と現代語訳  

4 悪源太誅せらるる事
 美濃国青墓の宿で義朝と別れた義平は、その後東山道を勢を募りながら都に向かっていましたが、義朝の討たれたことが聞こえると、軍勢はばらばらになり、やむなく彼は単身都に上りました。一人で六波羅を窺っていたのですが、ある時義朝の旧臣に出会い、彼と共に行動していたのですが、やがて六波羅の知るところとなり、討手を向けられました。そして石山付近に潜んでいたところ、永暦元年(1160年)一月二十五日に、捕らわれ処刑されます。     原帖と現代語訳

5 清盛出家の事並びに瀧詣で付けたり悪源太雷電となる事
 仁安二年(1167年)に平清盛は出家します。出家の原因となった病気も良くなり、一門で布引の瀧見物に出かけました。その時、悪源太の処刑を行った難波三郎経房に落雷があり、死亡します。これは悪源太が雷神になって蹴り殺したと言うことです。      原帖と現代語訳

6 頼朝生捕らるる事付けたり常葉落ちらるる事
 永暦元年(1160年)二月九日、頼朝は尾張守平頼盛の家中の者に生け捕られ、兄の中宮大夫進朝長の首と共に六波羅に連行されました。青墓宿の義朝の娘、夜叉御前は頼朝の話を聞くと、やがて自分も同じく殺されると思い、身を投げてしまいます。また常葉の生んだ義朝の子供らも、やがて捕らえられるのではないかと、常葉は清水寺を頼りに逃げ込んではみたものの、やはり安住を求めることは出来ず、大和国の伯父を頼って旅を続け、そこに身を隠すことになりました。      原帖と現代語訳  

7 頼朝遠流に宥めらるる事付けたり呉越戦ひの事
 頼朝は身柄を弥平兵衛宗清に預けられていましたが、宗清の勧めにより池の禅尼に助命を頼みます。尼は頼朝が亡き我が子、家盛に良く似ていると聞き、重盛、頼盛に頼んで清盛に頼朝の助命をお願いするよう頼みます。しかしさすが頼朝は武門の子供ですから、なかなか許しはおりませんでした。しかし、尼のたびたびの懇願にまけ、とうとう清盛は頼朝を流罪に決定します。当時の人々はこのことに対して、頼朝は十四歳になっているのに、父に殉じて自害もせず、尼に頼んで命を永らえるとは、情けないという人も居れば、またある人は、越王勾踐と呉王夫差の例を上げて、命を長らえることが何よりも大切であり、源家を再興するかも知れぬと言いました。      原帖と現代語訳

8 常葉六波羅に参る事
 清盛は義朝が常葉に産ませた子供三人を探し出すよう指図し、常葉の母を拘束しました。母を助けんがため常葉は都に戻り、以前仕えていた九条院に行き、別れの挨拶をした後、六波羅に子供ともども出頭します。子供らの命と引き換えに母は許されますが、母の嘆きは大きいものでした。常葉の美しさは街の噂になり、その選考の次第も明らかになります。また、今日明日にでも失われるべき子供らの命でしたが、何事もなく頼朝の伊豆国送りの後も、特に何も沙汰はなかったのでした。      原帖と現代語訳

9 経宗・惟方遠流に処せらるる事同じく召し返さるる事
 藤原顕長の舘に居られた後白河上皇は、内裏よりの使いに嫌がらせをされ、この嫌がらせを指図したと思われる、新大納言藤原経宗、別当藤原惟方を拘束するよう清盛に指図しました。捕らえられた二人は死罪になる予定でしたが、法性寺大殿藤原忠通卿の意見に従って、遠流となりました。その後も乱の原因等究明するうちに、信西の子供らも許されます。経宗、惟方もやがて上洛を許されます。      原帖と現代語訳

10 頼朝遠流の事付けたり盛安夢合はせの事
 頼朝の流罪が決まり、池の禅尼に挨拶に行きました。禅尼は付き従う家来などの相談にも乗り、何人かが集まりました。中でも盛安は決して髪を下ろすことのないようにと話します。東国に下る前日も、暇の挨拶に行き、禅尼は今後決して修羅の道には関わらないようにと言い聞かせました。そして永暦元年(1160年)三月二十日、伊豆に向かって出発しました。途中、盛安は自分が見た夢の話をします。それは義朝が岩清水八幡宮にて、頼朝に今後の天下などを託す内容のものでした。      原帖と現代語訳

11 牛若奥州下りの事
 常葉は清盛の寵愛を受けたからか、三人の子供らは流罪になることもなく、寺に預けられていました。末っ子の牛若は鞍馬寺に遮那王という名で、学問と武芸に励んでいました。ある日牛若は奥州の金売り吉次に出会い、奥州への出奔を考えます。承安四年(1174年)三月三日、牛若十六歳の時、鞍馬を脱出し奥州に向かいます。途中で佐藤次信、忠信兄弟や、伊勢三郎義盛などの家来を手に入れました。奥州では藤原秀衡のもとに身を潜めることとなります。      原帖と現代語訳

12 頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事
 前兵衛佐頼朝は文覚の勧めで兵を挙げます。池大納言殿に対する報恩、髭切の太刀の話、長田忠宗父子に対する報復などが語られます。平治物語としては11話迄で、この一話は治承、寿永の乱(平家物語)に含まれるものです。また内容も平家物語とは幾分違っています。      原帖と現代語訳

平治物語目次に戻る