9 六代斬られ (ろくだいきられ)

さるほどに六代御前、やうやうおひたちたまふほどに、じふしごにもなりたまへば、いとどみめかたちうつくしく、あたりもてりかかやくばかりなり。ははうへこれをみたまひて、「よのよにてあらましかば、たうじはこんゑづかさにてあらんずるものを」とのたまひけるこそあまりのことなれ。鎌倉殿、びんぎごとに、たかをのひじりのもとへ、「さてもあづけたてまつしこまつのさんみのちうじやうこれもりのきやうのしそく、六代御前は、いかやうのひとにてさふらふやらん。むかし頼朝をさうしたまひしやうに、てうのをんできをもたひらげ、ちちのはぢをもきよむべきほ殿じんやらん」とまうされければ、もんがくばうのへんじに、「これはいつかうそこもなきふかくじんにてさふらふぞ。おんこころやすくおぼしめされさふらへ」とまうされけれども、鎌倉殿なほもこころゆかずげにて、「むほんおこさば、やがてかたうどすべきひじりのおんばうなり。さりながらも頼朝いちごがあひだは、たれかかたむくべき、しそんのすゑはしらず」とのたまひけるこそおそろしけれ。


やがて六代御前は成長され、十四、五歳頃になられると、容姿も大変優れ、そこに居られるだけであたりが明るくなるかと思われる程でした。母上はこのような六代を見るたびに、「世が世であれば、近衛の司になられているのに」と、言われるのは、

すこし危なげなことでした。鎌倉殿は何かにつけて高雄の聖に、「預けてある小松の三位の中将惟盛卿の子息、六代御前は、どのような人間になっておるのか、その昔頼朝を占ったように、貴僧の見るところ、朝廷の怨敵を調伏し、

父親の恥を雪がんとするほどの人間なのか」と、問われますが文覚坊は、「いやいや、彼は底抜けの大ばか者なので、御安心ください」と、返事をするばかりです。しかし鎌倉殿はなんとなく不安で、「もし謀反を起こすと、すぐに片棒を担ぐ貴僧のことだ、

信用は出来ない。頼朝の目の黒いうちは、誰にも手を出させはしないが、その後のことは知らないぞ」と、言われるのは何とも恐ろしいことでした。


ははうへこのよしをききたまひて、「いかにや六代御前、はやはやしゆつけしたまへ」とありしかば、しやうねんじふろくとまうししぶんぢごねんのはるのころ、さしもうつくしきおんぐしを、かたのまはりにはさみおろし、かきのころも、かきのはかま、おひなどよういして、やがてしゆぎやうにこそいでられけれ。さいとうご、さいとうろくも、おなじさまにいでたつて、おんともにぞまゐりける。まづかうやへのぼり、ぜんぢしきしたまひけるたきぐちにふだうにたづねあひ、ごしゆつけのさま、ごりんじうのありさま、くはしうたづねとひ、かつうはそのあともなつかしとて、くまのへこそまゐられけれ。はまのみやとまうしたてまつるわうじのおんまへより、ちちのわたりたまひたりしやまなりのしまみわたいて、わたらまほしくはおもはれけれども、なみかぜむかうてかなはねば、ちからおよびたまはず、ながめやりたまふに、わがちちはいづくにかしづみたまひけんと、おきよりよするしらなみにも、とはまほしうぞおもはれける。はまのまさごもちちのごこつやらんとなつかしくて、なみだにそではしをれつつ、しほくむあまのころもならねど、かはくまなくぞみえられける。渚にいちやとうりうし、よもすがらきやうよみねんぶつして、ゆびのさきにてはまのまさごにほとけのすがたをかきあらはし、あけければ、そうをしやうじ、さぜんのくどくさながらしやうりやうにとゑかうして、みやこへかへりのぼられけんこころのうち、おしはかられてあはれなり。


母上はこのことを聞いて、「大変です、六代御前よ、早く急いで出家しなさい」となり、文治五年の春の頃、十六歳にしてあれほど美しかった髪を肩のあたりで切り、柿色の衣、袴、笈などを用意して修行に出られたのでした。

斉藤五、斉藤六も同じく出家しお供をしました。とりあえず高野山に上り、善知識の滝口入道を訪ねて、父惟盛のご出家の様子や、ご臨終の有様などを詳しくお聞きになり、また父の足跡も懐かしく思い、熊野へ参ったのです。

浜の宮と申す王子の前より、父がお渡りになられた山のような島を見渡して、自分も渡ろうと思いましたが、波風が激しくて、渡ることが出来ず、ただ眺めるしかありませんでした。沖より寄せてくる白波に、わが父上は一体どのあたりに、

お沈みになっておられるのか、聞いてみたいと思うばかりでした。浜の砂なども父の遺骨かと思えば、ただただ懐かしく思われ、涙がとめどもなく流れ、塩汲みをする海士の衣のように、袖も乾く間もない位でした。

渚に一晩逗留し、夜通し念仏を上げ、砂浜に指で仏のお姿を描き、翌朝、僧を招いて父の供養をし、都にお帰りになられたのですが、そのお気持ちは本当に哀れに思えます。


そのころのしゆしやうは、ごとばのゐんにてましましけるが、ぎよいうをのみむねとせさせおはします。せいだうはいつかうきやうのつぼねのままなりければ、ひとのうれへなげきもやまず。ごわうけんかくをこのみしかば、てんがにきずをかうむるともがらたえず、そわうさいえうをあいせしかば、きうちうにうゑてしするをんなおほかりき。かみのこのむことに、しもはしたがふならひなれば、よのあやふきありさまをみては、こころあるひとのなげきかなしまぬはなかりけり。なかにもにのみやとまうすは、せいだうをもつぱらとせさせたまひて、おんがくもんおこたらせたまはねば、もんがくはおそろしきひじりにて、いろふまじきことをのみいろひたまへり。いかにもして、このきみをくらゐにつけたてまつらばやとおもはれけれども、頼朝のきやうのおはしけるほどは、おもひもたたれず。かくてけんきうじふねんしやうぐわつじふさんにち、頼朝のきやうとしごじふさんにてうせたまひしかば、もんがくやがてむほんをおこされけるが、たちまちにもれきこえて、もんがくばうのしゆくしよにでうゐのくまなるところに、くわんにんどもあまたつけられて、はちじふにあまつてからめとられて、つひにおきのくにへぞながされける。


その頃帝は後鳥羽の院で御座いましたが、政治には目もくれず、御遊のみのお方でした。御政道は一向卿の局に任せきりなので、人の嘆きや憂いなども収まることがありませんでした。呉王、剣客を好みしかば、天下に疵を蒙る輩絶えず。

楚王、細腰を愛せしかば、宮中に飢えて死する女多かりき。(剣客を好むために、傷つく者が絶えず、またやせた女を好むがゆえにダイエットしすぎて餓死する女が多い)上に立つ人の好みに、下の者は従い勝ちなので、世の中の危うい様子を見るにつけ、

物事の解る人は嘆き悲しむばかりです。その中でも高倉上皇の次男、二ノ宮(守覚親王)と言う人は、政道について優れ、また学問にもご熱心でした。文覚は少し変わった聖ですから、口出しをすべきでないことにも、口出しをし、

なんとかしてこの宮を帝につけたいと思っていたのですが、頼朝公が存命の間はさすが思い留まっていました。しかし建久十年正月十三日に、頼朝公が五十三歳にてお亡くなりになりました。そこで、文覚は謀反を計画したものの、

すぐに鎌倉の知るところとなり、文覚坊の宿所二条猪熊に多数の官人が押し寄せ、八十余歳にして捕らえられ、とうとう隠岐の国に流されたのでした。


文覚、京を出づるとて、「これほどにおいのなみにたつて、今日明日を知らぬ身を、たとひちよくかんなればとて、みやこのかたほとりにもおかずして、はるばるとおきのくにまでながされけるぎつちやうくわじやこそやすからね。いかさまにもわがながさるるくにへ、むかへとらんずるものを」と、をどりあがりをどりあがりぞまうしける。このきみはあまりにぎつちやうのたまをあいせさせたまふあひだ、もんがくかやうにはあつこうまうしけるなり。そののちじようきうにごむほんおこさせたまひて、くにこそおほけれ、はるばるとおきのくにまでうつされさせましましける、しゆくえんのほどこそふしぎなれ。そのくににてもんがくがばうれいあれて、おそろしきことどもおほかりけり。つねは御前へもまゐり、おんものがたりどもまうしけるとぞきこえし。


文覚は京都を出るとき、「このように年老いて、今日明日もわからない人間を、たとえ勅勘を蒙ったといえども、都の片隅にでも置くこともせず、はるか隠岐の国に流そうとする、玉打ち狂いこそ面白くない。

今に見ておれ、わしが流される国に、きっと迎えてやろうぞ」と、地団駄を踏んで叫び狂ったのでした。後鳥羽院があまりにも、玉打ちに興じてばかりいるので、文覚はこのようにあてつけたのです。

その後承久三年に後鳥羽帝は御謀反の疑いで、たくさんの国がありながら、文覚が言ったように、はるばる隠岐の国に流されたのでした。宿縁というものは本当に不思議なものです。隠岐の国では文覚の亡霊が現れて、

恐ろしいことが度々ありました。たまには後鳥羽帝の御前にも現れて、色々とお話されたということです。


さるほどに六代御前は、さんみのぜんじとて、たかをのおくにおこなひすましておはしけるを、鎌倉殿、「さるひとのこなり、さるもののでしなり。たとひかしらをばそりたまふとも、こころをばよもそりたまはじ」とて、めしとつてうしなふべきよし、鎌倉殿より公家へ奏聞申うされたりければ、やがてあん判官すけかぬにおほせてめしとつて、つひに関東へぞくだされける。するがのくにのぢうにん、をかべのごんのかみやすつなにおほせて、さがみのくにたごえがはのはたにて、つひにきられにけり。じふにのとしより、さんじふにあまるまでたもちけるは、ひとへにはせのくわんおんのごりしやうとぞきこえし。さんみのぜんじきられてのち、平家の子孫は永く絶えにけり。


そんな中、六代御前は三位の禅師として、高雄の奥で仏道修行に専念しておりましたが、鎌倉殿は、「平惟盛の子で、また文覚の弟子である。たとえ頭を剃ったといえども、心の中まで剃ったわけでもなかろう」と、召し取って亡き者にするため、

朝廷に奏聞するよう公家に話がありました。そして、安判官資兼に召し取らせ関東へ下らせました。やがて駿河の国の住人、岡部権守泰綱が申し付けられ、相模の国、田越河のほとりにて、ついに斬られたのでした。

十二歳より三十余歳まで命を保ったことは、みな長谷観音の御利生と言われています。三位の禅師(六代御前)が斬られたことによって、平家の子孫はここに絶えてしまいました。       (平家物語 第十二巻了))

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