11 新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事

新院は、斉院の御所より北殿へうつらせ給ふ。左府は車にて参給。白河殿より北、川原より東、春日の末に有ければ、北殿とぞ申ける。南の大炊御門面に、東西に門二あり。東の門をば平馬助忠政承って、父子五人、并に多田蔵人太夫頼憲、都合二百余騎にてかためたり。西の門をば六条判官為義承って、父子六人してかためたり。其勢百騎計には過ざりけり。是こそ猛勢なるべきが、嫡子義朝に付て、多分は内裏へ参けり。爰に鎮西の八郎為朝は、「我は親にもつれまじ。兄にも具すまじ。高名不覚もまぎれぬやうに、只一人いかにも強からん方へさしむけ給へ。たとひ千騎もあれ、万騎もあれ、一方は射はらはんずる也。」とぞ申ける。よって西川原面の門をぞかためける。北の春日面の門をば、左衛門太夫家弘承って、子共具してかためたり。其勢百五十騎とぞきこえし。


新院崇徳上皇は白川殿の斎院の御所から、北殿へお移りになられました。左府頼長は車にて北殿に参られました。この北殿と言うのは白川殿より北側で、加茂川の東側にあり、春日河原の端に位置していましたから、北殿と名付けられていました。

南側の大炊御門(郁芳門)の大路に面して、東西に二つの門がありました。東の門を平馬助忠正が受け持って、父子五人並びに多田蔵人太夫源頼憲ら、総勢二百余騎で固めました。また西の門は六条判官源為義が受け持ち、父子六人で守りにつきました。

その軍勢は百騎ばかりでした。これこそ勇猛であると言われていた軍勢は、嫡子源義朝に従い大多数が内裏天皇側に入りました。このような時、鎮西八郎為朝は、「自分は親と共に戦うことはしないし、兄に従うことも無い。

手柄を立てるか、それとも不覚を取るか、はっきりしないことの無いように、たとえただ一人であっても強敵に向かわせてください。たとえ千騎であれ、一万騎であっても、その戦いにおいては敵を追い払ってやろう」と、言いました。

そこで彼は一人で西川原面の門を固めました。北の春日面の門は左衛門太夫平家弘が受け持ち、子息らと共に固めました。その勢は百五十騎と聞いています。


抑、為朝一人として、殊更大事の門をかためたる事、武勇天下にゆるされし故なり。件の男、器量人にこえ、心飽まで剛にして、大力の強弓、失続早の手聞なり。弓手のかひな、馬手に四寸のびて、矢づかを引事世に越たり。幼少より不敵にして、兄にも所ををかず、傍若無人なりしかば、身にそへて都にをきなばあしかりなんとて、父不孝して、十三のとしより鎮西の方へ追下すに、豊後国に居住し、尾張権守家遠を乳母とし、肥後の阿曾の平四郎忠景が子、三郎忠国が聟に成て、君よりも給らぬ九国の惣追補使と号して、筑紫をしたがへんとしければ、菊地・原田を始として、所々に城をかまへてたてこもれば、「其儀ならば、いでおといて見せん」とて、未勢もつかざるに、忠国計を案内者として、十三の年の三月の末より、十五の年の十月まで、大事の軍をする事廿余度、城をおとす事数十ヶ処也。城をせむるはかりこと、敵をうつ手だて人にすぐれて、三年が間に九国を皆せめおとして、をのづから惣追補使に推成って、悪行おほかりけるにや、香椎の宮の神人等、都に上りうったへ申間、去じ久寿元年十一月廿六日、徳大寺中納言公能卿を上卿として、外記に仰て宣旨を下さる。源為朝久住二宰府一、忽二緒朝憲一、咸背二綸言一、梟悪頻聞、狼籍尤甚。早可レ令レ禁二進其身一。依二宣旨一執達如レ件云々。


為朝がただ一人で特別重要な門の警固に当たったかと言えば、彼の武勇があまりにも天下に優れたものと、認められているからです。この男の資質は他の追随を許さず、その気質も非常に勇猛であり、強い弓を自在に扱い、

その射出の早さも飛びぬけていました。弓を持つ左手の腕は、右手に比べ四寸は長く、長い矢をつがえて引くこと、誰にも劣りませんでした。幼少の頃より怖いもの知らずで、兄に対してもその地位を尊ばず、また傍若無人な行いも多く、

手許におき都で育てることは良くないと、父は子を義絶して、十三歳の年に鎮西の方に追い出したのです。そして鎮西では豊後国に住まいして、尾張権守家遠が後見人になり、肥後国阿蘇の平四郎忠景の子、三郎平忠国の婿となりました。

また時の天皇から貰った訳でもない、九州の総追捕使と勝手に名乗り、筑紫国を支配しようとしたところ、菊池、原田を筆頭に、あちらこちらに城を築いて立て籠もりました。すると為朝は、「その気ならば、落としてやろうじゃないか」と、

まだ軍勢も充分揃っていないのに、忠国だけを案内者にして、十三歳の年の三月の末より、十五歳の十月まで、大きな軍をすること二十余回に及び、落とした城は数十ヶ所になります。その攻城における戦略や、敵を討ち取る戦術など人より数段優れ、

三年の間に九国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隈)を皆攻め落としました。その上自分から総追捕使に任命し、悪行の限りを尽くしたので、香椎宮の神社に仕える下級の神職らが都に上り、お上に訴えたところ、

去る久寿元年(1154年)十一月二十六日、徳大寺中納言公能卿を責任者として、書記職に命じ宣旨を降ろしたのです。“源為朝、大宰府に久しく住み、国の諸規則を守ろうとせず、帝の言葉にも全て背き、極悪なる行いも頻りに聞こえ、またその狼藉も甚だしい。

速やかにその身柄の自由を制限すべし。宣旨として伝達すること件の如し云々”


然れ共、為朝猶参洛せざりければ、同二年四月三日、父為義を解官せられて、前検非違使になされにけり。為朝是をきいて、「親の咎にあたり給ふらむこそあさましけれ。其義ならば、我こそいかなる罪科にもおこなはれんず。」とて、いそぎ上りければ、国人共も上洛すべきよし申けれ共、「大勢にて罷上らん事、上聞穏便ならず。」とて、かたのごとくに付したがふ兵ばかりめしぐしけり。乳母子の箭前払の須藤九郎家季・其兄あきまかぞへの悪七別当・手取の与次・同与三郎・三町礫の紀平次太夫・大の矢新三郎・越矢の源太・松浦の次郎・左中次・吉田の兵衛太郎・打手の紀八・高間の三郎・同四郎をはじめとして、廿八騎ぞ具したりける。よって去年より在京したりしを、父不孝をゆるして、此御大事にめし具しけるなり。


宣旨にもかかわらず、為朝はなおも都に上ろうともしませんでした。そこで久寿二年四月三日に、父の為義が検非違使の職を解かれ、前検非違使になりました。九州でこのことを聞いた為朝は、「自分のことで親が罪を受けるなんて、あきれ返るばかりだ。

それならこの自分が、どのような罪でも受けようじゃないか」と、急遽都に上ろうとしましたら、為朝配下の人達が自分等も一緒に上洛すると言い出しましたが、「大勢で上洛をすれば、天皇や諸卿らに聞こえが悪かろう」と、形ばかりの兵を連れて上りました。

つまり、乳母子の箭前払の須藤九郎家季、その兄あきまかぞえ(あだ名)の悪七別当、手取の与次、同じく与三郎、三町礫の紀平次太夫、大の矢新三郎、越矢の源太、松浦の次郎、左中次、吉田の兵衛太郎、打手の紀八、高間の三郎、

同じく四郎をはじめとして、二十八騎を引き連れて行きました。このような事情で、為朝が昨年より在京していたのを、父がこの度義絶を解いて、この一大事に連れて来たのでした。


為朝は七尺計なる男の、目角二つ切たるが、かちに色々の糸をもって、師子の丸をぬふたる直垂に、八龍といふ鎧をにせて、しろき唐綾をもってをどしたる大荒目の鎧、同獅子の金物打ったるをきるまゝに、三尺五寸の太刀に、熊の皮の尻ざや入、五人張の弓、長さ八尺五寸にて、つく打ったるに、卅六さしたる黒羽の矢負、甲をば郎等にもたせてあゆみ出たる体、■会もかくやとおぼえてゆゝしかりき。謀は張良にもおとらず。されば堅陣をやぶる事、呉子・孫子がかたしとする所を得、弓は養由をも恥ざれば、天をかける鳥、地をはしる獣の、おそれずと云事なし。上皇を始まいらせて、あらゆる人々、音にきこゆる為朝見んとてこぞり給ふ。左府則、「合戦の趣はからひ申せ。」との給ひければ、畏而、「為朝久しく鎮西に居住仕って、九国の者どもしたがへ候に付て、大小の合戦数をしらず。中にも折角の合戦廿余ヶ度なり。或は敵にかこまれて強陣を破り、あるひは城を責て敵をほろぼすにも、みな利をうる事夜討にしく事侍らず。然れば只今高松殿に押よせ、三方に火をかけ、一方にてさゝへ候はんに、火をのがれん者は矢をまぬかるべからず、矢をおそれむ者は、火をのがるべからず。主上の御方心にくゝも覚候はず。但兄にて候義朝などこそ懸いでんずらめ。それも真中さして射おとし候なん。まして清盛などがへろ<矢、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、けちらしてすてなん。行幸他所へならば、御ゆるされを蒙って、御供の者、少々射ふする程ならば、定而駕輿丁も御輿をすてて逃去候はんずらん。其時、為朝参向ひ、行幸を此御所へなし奉り、君を御位につけまいらせん事、掌を返すがごとくに候べし。主上を向へまいらせん事、為朝矢二三をはなたんずる計にて、未天の明ざらむ前に、勝負を決せむ条、何の疑か候べき。」と憚る所もなく申たりければ、


この源為朝と言う男は、背丈七尺ばかりもあり、左右の目じりが両方とも切れ上がって、濃い藍色に多くの色糸で獅子に丸の模様を縫った直垂を着て、源家重代の鎧である八龍に似せ、白い唐綾で威した大荒目(幅の広いさねと、太い糸で荒くつづったもの)に、

同じように獅子の金物を打ち付けた鎧を着けて、三尺五寸の太刀を熊の皮で飾った鞘に入れ、五人がかりで張った弓は長さ八尺五寸に作り、三十六本挿した黒羽の矢を背負って、兜は家来に持たせて歩み寄る姿は、

まるで樊■(はんかい:口偏に會::高祖の幼馴染)もこうであったろうかと思えて、立派なものでした。戦略においては張良(劉邦に仕えた軍師で多くの作戦の立案をした)にも劣っているとは思えません。また呉子、孫子(共に兵法家)でも難しいと思える堅陣でも、陥落させ、

弓に関しては養由(楚国の弓の名人)に劣ることも無く、それゆえ天を翔る鳥も、地上を走り回る獣も彼を恐れたということです。崇徳上皇をはじめとしてほとんどの人々は、それほど有名な為朝ならば、一度は見たいものだと集まって来ました。

その時左府藤原頼長が、「合戦について何か作戦があれば申せ」と、言われました。為朝は畏って、「この為朝は長らく鎮西に住まいし、九州の者どもを支配しようとして、大小の合戦を戦うことその数も覚えておりません。

その中でも二十余ヶ度の苦しい戦いもありました。ある時は敵に囲まれて、堅陣を破って脱出するにも、また城を攻めて敵を滅ぼそうとする時も、夜戦を仕掛けるほど有利なことはありません。だから、今すぐにでも高松殿に押し寄せ、

三方から火を掛け、残る一方を防いでいれば、火を逃れようとして逃げてきた者は、矢に射殺され、矢を恐れるものは火から逃れることが出来ません。天皇側の軍勢は大したことは無いと思われます。しかし、私の兄である源義朝などが、

建物から出てきたら、それも真ん中を射て見せましょう。まして、清盛の放つへろへろな矢など、何を恐れることがあるでしょうか。鎧の袖で払いのけ蹴散らして見せましょう。危険を避けようと、天皇が他所にお移りになろうとすれば、この私がお許しを頂き、

天皇の御輿に控えている供の者に、少しばかり矢を射こめば、きっと籠をかついでいる人は御輿を投げ出して逃げてしまうに違いません。その時為朝が御輿に行き、ここへ天皇をお連れし、崇徳上皇を皇位に御つけすること、掌を返すくらい簡単なことでしょう。

天皇をお迎えに行くことは、為朝が矢の二、三本を放つだけでけりがつき、夜の明ける前に勝負をつけてしまうこと、何ら疑う余地はありません」と、遠慮することなく申し上げました。


左府、「為朝が申様、以外の荒義なり。年のわかきが致す所歟。夜討などいふ事、汝等が同士軍、十騎廿騎の私事也。さすが主上・上皇の御国あらそひに、源平数をつくして、両方に有って勝負を決せんに、むげに然るべからず。其上、南都の衆徒をめさるゝ事あり。興福寺の信実・玄実等、吉野・十津川の指矢三町・遠矢八町と云者どもを召具して、千余騎にてまいるが、今夜は宇治につき、富家殿の見参に入、暁是へまいるべし。かれらを待調て合戦をばいたすべし。又明日、院司の公卿・殿上人を催さんに、参ぜざらん者共をば死罪におこなふべし。首をはぬる事両三人に及ばゞ、残りはなどか参らざるべき。」と仰られければ、為朝、上には承伏申て、御前を罷立てつぶやきけるは、「和漢の先蹤、朝庭の礼節には似もにぬ事なれば、合戦の道をば、武士にこそまかせらるべきに、道にもあらぬ御はからひ、いかゞあらむ。義朝は武略の道には奥義をきはめたる者なれば、定て今夜よせんとぞ仕候覧。明日までも延ばこそ、吉野法師も奈良大衆も入べけれ。只今押よせて、風上に火を懸た覧には、戦とも争利あらんや。敵勝にのる程ならば、誰か一人安穏なるべき。口おしき事かな。」とぞ申ける。


それを聞き左府頼長は、「為朝の言われることは、無謀な策でありもってのほかである。年の若さゆえの言葉と思える。夜討ちなどと言うものは、汝等が行う合戦で、十騎や二十騎の私闘でこそ行われるものだ。まして、この合戦は天皇と上皇が、

この国の支配権を争う軍であり、源氏、平家とも出来うる限りの兵士をつぎ込み、両軍に分かれて勝負を決しようとしている時、夜討ちなどはむやみに行うべきものではない。その上我等は南都の衆徒に呼びかけ、味方にしようとしている。

興福寺の真実、玄実らが、吉野、十津川の指矢三町、遠矢八町(指矢は矢を地面と平行に距離三町射ること、遠矢は角度をつけて八町射ること)と、言う弓の上手を引き連れて、千余騎にて京に向かっており、今夜宇治に到着すると、我が父藤原忠実殿と面会して、

翌朝早くここに到着する予定である。彼等を待ち、軍を整えてから合戦をしようではないか。また、明日院に仕えている公卿や殿上人を招集するが、参集しない者は死罪に処すつもりである。二、三人も首を刎ねれば、残る者が来ないはずが無い」と、言われました。

為朝はこの話を聞くと、表立っては承服し、左府の御前を下がりながらも独り言で、「合戦と言うものは、日本や中国の先例や慣例、また朝廷における礼儀、作法とは違うからこそ、合戦のことは武士に任せるべきであるのに、

全く合戦の道理に合わない軍略であり、どうしたものであろうか。その上、義朝は武略に関しては、道を究めた者なので、きっと今夜寄せてくるだろう。戦いが明日まで延びれば、吉野の法師らや、奈良の大衆も都に入ることが出来るであろう。

しかし、今攻め込んできて風上に火を掛けられたら、如何に戦ってもとても勝ち目は無い。そして、敵が勝ちに乗じて進出してくれば、誰一人として安全では居られないのだ。悔しいことではあるが」と、つぶやいていました。      (終)

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