保元物語

元帖  日本文学大系 「保元物語」(非売品) 誠文堂    現代語訳  木村 暉     2009.7.21

 

(はじめに)  平家物語の現代語訳をしてみれば、やはり平家物語における源平の争いは、保元の乱、平治の乱を避けて通れないと思った。

平成21年7月に平家物語を完訳したのを機に、保元物語に挑戦を始めた。

 

 保元物語は保元元年の崇徳院への譲位問題より始まり、鳥羽法皇が崩御したのをきっかけに(1156年)に起こった保元の乱を中心に、その前後の事情を描いたものです。崇徳院が挙兵し、崇徳院と後白河天皇との皇位継承争いを軸に、藤原忠通、藤原頼長の摂関家の対立、

それに源義朝と源為義の源氏の対立、平清盛と平忠正との平家の対立が加わり乱が起こります。結局崇徳側の敗北に終わり、以降の平治の乱、治承、寿永の内乱(平家物語)の予兆までを記してあります。また戦局については源為朝の活躍が中心になっています。

そのほか為朝の父源為義をはじめ、敗者となった崇徳上皇や藤原頼長らに同情的でもあります。作者については、はっきりしていません。

 

  目 次     あ   ら   す   じ
      易経に記述されているように、天文、人文の教えに従って国家は治められるべきです。しかし、人民がいたずらに欲望を満足させんがため、
 戦いを起こせばその結果は、歴史が証明しています。
  巻之 一  鳥羽天皇の安定した国家も、美福門院が男児を出産することによって変わってきます。鳥羽天皇は幼い皇子を皇太子、天皇へと進め、
 位を追われた崇徳上皇は悶々と日を過ごしていきます。新帝近衛は夭折し、崇徳上皇は我が子の一宮を新帝にと思っていたのですが、
 それもかなわず 鳥羽の第四皇子が、後白河天皇として践祚されたのです。やがて保元元年七月二日に鳥羽法皇も崩御され、
 崇徳上皇と後白河天皇の対立がはっきりとしてきます。悪左府頼長は、崇徳上皇をそそのかすようにして、謀反を計画し、
 それに気づいた後白河天皇側も、合戦の用意を進めます。新院側では源為朝が夜襲を提案しますが、頼長に一蹴され、軍は一日延ばしに
 なりました。後白河天皇側では、信西入道が義朝に作戦を問い、彼の夜襲案が採用されます。そして保元元年七月十一日の寅の刻(午前四時)に、
 新院崇徳上皇の御所に攻め込みました。
  巻之 二  保元元年七月十一日の未明に、下野守義朝が白河殿に夜討を掛け保元の乱が勃発します。戦いは一進一退を繰り返していたのですが、
 義朝が火を掛けることにより展開し、崇徳上皇と左府頼長は院を脱出し、上皇は仁和寺に入られました。合戦は崇徳上皇と左府藤原頼長の
 逃亡で終わりを告げます。戦後、為義の捜索を清盛に命じました。為義は子供等とも別れ、義朝を頼りますが、結局処刑されます。
 清盛の叔父である平馬助忠正は、出家して隠れていたのですが、結局清盛に処刑されます。義朝に今度は弟達を探し出し、
 処刑するように命令がありました。弟達五人は捕らえられ、船岡山にて処刑されました。ただ一人、為朝だけが逃げ延びました。
  巻之 三  義朝に残っている弟達も、処分するよう命令が下ります。このことを聞いた母親も入水して果ててしまいます。悪左府頼長の死体検分に
 役人が派遣されますが、特定できませんでした。崇徳上皇は讃岐に流されることとなり、都を出発します。配所に着いた上皇はやがて
 自分の後世を思い、写経に勢を出します。しかし、都に送った写経は送り返され、院の怒りは頂点に達します。色々なこと全て院の祟りで
 あると言われ、怒りを鎮めるため、内裏は手を打ちます。義朝の弟の中、一人逃げ延びていた為朝も捕らえられ、伊豆に流されます。
 やがて為朝は、伊豆を支配下におきますが、朝敵とされ追討軍が押し寄せることとなります。為朝は覚悟を決め自害します。