2 神皇正統記 巻第二


○人皇第一代、神日本磐余彦天皇と申。後に神武となづけたてまつる。地神■■草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、海神小童第二女也。伊弉諾尊には六世、大日■の尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申は神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしの詞によりてさだめたてまつる御名也。又此御代より代ごとに宮所をうつされしかば、其所を名づけて御名とす。此天皇をば橿原の宮と申、是也。又神代より至て尊を尊と云、其次を命と云ふ。人の代となりては天皇とも号したてまつる。臣下にも朝臣・宿禰・臣などといふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。上古には尊とも命とも兼て称けるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、臣を命と云事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。此天皇御年十五にて太子に立、五十一にて父神にかはりて皇位にはつかしめ給。ことし辛酉なり。筑紫日向の宮崎の宮におはしましけるが、兄の神達および皇子群臣に勅して、東征のことあり。此大八州は皆是王地也。神代幽昧なりしによりて西偏の国にして、おほくの年序をおくられけるにこそ。天皇舟楫をとゝのへ、甲兵をあつめて、大日本州にむかひ給。みちのついでの国々をたひらげ、大やまとにいりまさむとせしに、其国に天の神饒の速日の尊の御すゑ宇麻志間見の命と云神あり。外舅の長髄彦と云、「天神の御子両種有むや。」とて、軍をおこしてふせぎたてまつる。其軍こはくして皇軍しば<利をうしなふ。又邪神毒気をはきしかば、士卒みなやみふせり。こゝに天照太神、健甕槌の神をめして、「葦原の中つ州にさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ。」とみことのりし給。健甕槌の神申給けるは、「昔国をたひらげし時剣あり。かれをくださば、自らたひらぎなん。」と申て、紀伊国名草の村に高倉下命と云神にしめして、此剣をたてまつりければ、天皇悦給て、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。又神魂の命の孫、武津之身命大烏となりて軍の御さきにつかうまつる。天皇ほめて八咫烏と号し給。又金色の鴟くだりて皇弓のはずにゐたり。其光てりかゝやけり。これによりて皇軍大にかちぬ。宇麻志間見の命其舅のひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。その軍をひきゐてしたがひ申にけり。天皇はなはだほめまし<て、天よりくだれる神剣をさづけ、「其大勲にこたふ。」とぞのたまはせける。此剣を豊布都の神と号す。はじめは大和の石上にまし<き。後には常陸の鹿嶋の神宮にまします。彼宇麻志間見の命又饒速日の尊天降し時、外祖高皇産霊の尊さづけ給し十種の瑞宝を伝へもたりけるを天皇に奉る。天皇鎮魂の瑞宝也しかば、其祭を始られにき。此宝をも即宇麻志間見にあづけ給て、大和石上に安置す。又は布瑠と号。此瑞宝を一づつよびて、呪文をして、ふる事あるによれるなるべし。かくて天下たひらぎにしかば、大和国橿原に都をさだめて、宮つくりす。其制度天上の儀のごとし。天照太神より伝給へる三種の神器を大殿に安置し、床を同くしまします。皇宮・神宮一なりしかば、国々の御つき物をも斎蔵にをさめて官物・神物のわきだめなかりき。天児屋根命の孫天種子の命、天太玉の命孫天富の命もはら神事をつかさどる。神代の例にことならず。又霊畤を鳥見山の中にたてて、天神・地祇をまつらしめ給。此御代の始、辛酉の年、もろこしの周の世、第十七代にあたる君、恵王の十七年也。五十七年丁巳は周の二十一代の君、定王の三年にあたれり。ことし老子誕生す。是は道教の祖也。天竺の釈迦如来入滅し給しより元年辛酉までは二百九十年になれるか。此天皇天下を治給こと七十六年。一百二十七歳おはしき。

☆人皇(にんおう::神代と区別して神武天皇以後の天皇)の第一代は、神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)と申します。後に神武天皇と名付けられました。地神(ちじん::この国を治めている神)である■■草葺不合(ウガヤフキアエズ)の尊の第四番目の子供です。御母親は玉依姫(タマヨリヒメ)と言う、

海神(ウミノカミ)である小童命(ワタツミノミコト)の第二番目の娘です。伊弉諾尊(イザナギノミコト)にとっては六世、また大日■(天冠の下に口三つその下に女)(オオヒルメノミコト::天照大神)にとっては五世の孫にあたります。神日本磐余彦と言うのは神代よりの大和言葉です。神武と言うのは中古(ちゅうこ::主に日本文学史の時代区分で平安時代のこと)になってから、

中国の言葉より選んで定められたお名前です。またこの天皇の御代から、一代ごとに宮所(みやどころ::皇居)を移されたので、皇居のある場所名を名付けてお名前としました。この神武天皇を橿原(かしはら)の宮と申し上げるのはこう言う理由からです。また神代の時代になって尊ぶべき者を尊(みこと)と言い、

その次に尊ぶべき者は命(みこと)と言うようになりました。その後人皇の代となってからは天皇とも言うようになりました。また天皇にお仕えする臣下にも朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、臣(おみ)などの名乗りも出てきました。これらのことは神武の御代になって始まったことです。

これ以前の昔においては、尊とも命とも併用して名乗っていたようです。時代が進んでからは、天皇のことを尊と言うようなことはなくなり、臣を命ということもなくなりました。昔には使われて、聞きなれていた言葉も今では聞くこともなくなったからでしょうか。この神武天皇は御年十五歳にして皇太子になり、

五十一歳になって父の神(ウガヤフキアエズノミコト)にかわって皇位におつきになりました。辛酉(かのととり::紀元前660年)の年です。筑紫の日向(ひむか)にある宮崎の宮におられましたが、兄(このかみ::年長の兄)の神達(彦五瀬命など)や皇子、群臣らに命を発して東征することになりました。

この大八洲(おおやしま::日本の異称)は全て王地(おうち::帝王の支配する土地)である。神代においては幽昧(ゆうまい::薄暗くてはっきり分からない)なため、西に偏った国で長い年月を送られてきたのである。天皇は舟楫(しゅうしゅう::舟と舵。舟のこと)を準備し、甲兵(こうへい::武器兵士)を招集して、大日本州(おおやまとのくに)に向かわれました。

進軍の途中にある国々を征伐し、大やまとの国に侵攻しようとしたところ、その国には天の神(アマノカミ::高天原の神)である饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の子孫、宇麻志間見の命(ウマシマミノミコト::物部氏や穂積氏らの祖とされる)と言う神がいました。外舅(がいきゅう::母方の兄弟)である長髄彦(ナガスネヒコ)と言う神が、

「天神(アマツカミ)のお子さんに二系統があるはずがない」と言って、戦を起こし防衛に努めました。彼の率いる軍勢は手ごわく、神武天皇の軍勢は何度も不利な状況になりました。また邪神(邪悪な神)が毒気(毒を含んだ空気)をまき散らしたので、皇軍の将官や兵卒ら皆、病に伏せてしまいました。

この時天照大神が、健甕槌(タケミカヅチ::建甕槌)の神をお呼びになり、「葦原の中つ州(日本)で騒ぎの起こっている気配がする。汝が出向いて制圧してきなさい」と、命令を伝えました。健甕槌の神は、「昔、葦原中つ国で邪悪な神が暴れていた時、鎮圧した剣があります。その剣を降せば私が赴かなくとも、

自然に制圧できるでしょう」と話され、紀伊国、名草の村にいる高倉下(タカクラジ)の命に命じて、この剣を献上させると、天皇はお喜びになるとともに士卒らの病状も回復し、横になっていた者たちも皆起き上がりました。また神魂の命(カミムスビノミコト)の孫である武津之身命(タケツノミノミコト)が大きな烏に姿を変え、

軍勢の先頭に立って進軍しました。天皇はこの烏の行いを褒められ、八咫烏(やたがらす)と名付けられました。また金色の鴟(とんび)が舞い降りて来て、神武天皇が手にしている弓のはず(弓の両端で弦をかけるところ)にとまりました。その鳥は光り輝きました。この瑞兆があったためか皇軍は大勝しました。

宇麻志間見(ウマシマミ)の命は舅が不穏な考えを持っていることを知り、策を弄して殺害しました。その上舅の軍勢を率いて皇軍に従いました。天皇は大いに褒めたたえ、天より降って来た神剣を彼に授け、「多大なる戦功に対しての報酬である」と、仰せられました。この剣を豊布都(トヨフツ)の神と言います。

最初は大和の石上(いそのかみ)神宮に奉納されていました。後になって常陸の鹿嶋神宮に奉納されました。また宇麻志間見の命は饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)が天降る時に、外祖、高皇産霊(タカムスビ)の尊が授けた十種(とくさ)の瑞宝(みずたから)を継承し、保管していたものを天皇に奉納しました。

天皇はこれは鎮魂(みたましづめ)の宝物であるので、以後宮中において鎮魂祭を始められました。またこの瑞宝をすぐに宇麻志間見の命にお預けになって、大和石上に安置しました。またこの十種の瑞宝を布瑠(ふる)とも言います。これらの瑞宝の名前を一つづつ読み、呪文を唱えながら振り動かせば、呪力が発揮されることによります。

このようにして天下が安定したので、大和国の橿原に都を定め宮殿の造営を始めました。その様式や規格など天上の様式そのままです。天照大神より伝えられてきた三種の神器を、天皇の生活の場である御殿に安置しました。皇居と伊勢神宮は同じものなので、国々からの貢ぎ物などを斎蔵(いみくら::朝廷の祭祀用の神具など収蔵した蔵)に収めて、

官物(かんもつ::官府の所有物)や神物(じんもつ::神事に使う道具類や神に供える物)などの区別はありません。天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の孫である、天種子命(アメノタネノミコト)や、天太玉の命(アメノフトダマノミコト)の孫、天富の命(アメノトミノミコト)らが神事を司りました。これまでの神代の例と異なることはありませんでした。

また霊畤(れいじ::まつりのにわ)を鳥見山(とみのやま)の中に設置し、天神(てんじん::天の神)、地祇(ちぎ::国土の神)をお祀りさせました。この神武天皇による御代の始まりは、辛酉(しんゆう::かのととり)の年で、中国では周王朝の世で第十七代にあたる君主、恵王(けいおう)の十七年です。

五十七年丁巳(ひのとみ)は周の二十一代の君、定王(ていおう)の三年にあたります。そしてこの年老子が誕生します。この人は道教の祖です。天竺(てんじく::古代インド)において釈迦如来が入滅(にゅうめつ::死去)されてから、神武元年辛酉まで二百九十年になるのでしょうか(?)。この天皇が天下を統治されたのは七十六年間になります。百二十七歳まで生きられました。


○第二代、綏靖天皇〈 これより和語の尊号をばのせず 〉神武第二御子。御母鞴五十鈴姫、事代主の神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給。庚辰年也。大和葛城高岡の宮にまします。三十一年庚戌の年もろこしの周の二十三代君、霊王の二十一年也。ことし孔子誕生す。自是七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。此道は昔の賢王、唐■、虞舜、夏の初の禹、殷のはじめの湯、周のはじめの文王・武王・周公の国を治め、民をなで給し道なれば、心を正しくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすを宗とす。さればことなる道にはあらねども、末代となりて、人不正になりしゆゑに、其道ををさめて儒教をたてらるゝ也。天皇天下を治給こと三十三年。八十四歳おまし<き。

☆第二代は綏靖(すいぜい)天皇で、【これ以後は和語の尊号(スメラミコト)は記載しません】神武天皇の第二番目の御子さんです。御母は鞴五十鈴姫(媛蹈鞴五十鈴媛::ヒメタタライスズヒメ)で、事代主(コトシロヌシ)の神の娘です。父の神武天皇が崩御(BC585年)されてから、三年(四年?)の後御即位されました。

庚辰(かのえたつ::BC581年)の年です。大和葛城高岡(丘)の宮(たかおかのみや)に皇居を構えられました。綏靖天皇三十一年庚戌(かのえいぬ::BC551年)の年は中国では周の二十三代の君主、霊王(れいおう)の二十一年になります。またこの年に孔子(こうし::孔子の誕生はBC552年では?)が誕生します。

この後七十三歳まで生きられました。儒教を広げられました。この儒教の教えは昔の賢王である、唐■(とうぎょう)、虞舜(ぐしゅん)や夏朝の創始者である禹(う)、殷王朝初代の王である湯王(とうおう)、また周王朝の初期における文王(ぶんおう)、武王(ぶおう)、周公(しゅうこう)らが国家を治め、

民衆の生活を守りながら統治してきた方法でもあるので、心は常に清潔に保ち、自身の行動を慎み家を治めるとともに国を統治し、天下にその教えを広げることを重視しました。ところが異なる考えではありませんが、末代となって人々は不正を覚え出したので、孔子はこの教えを研究し儒教を確立されました。この綏靖天皇は天下を三十三年統治されました。八十四歳にて崩御されました。


○第三代、安寧天皇は綏靖第二の子。御母五十鈴依姫、事代主の神のおと女也。癸丑の年即位。大和の片塩の浮穴の宮にまします。天下を治給こと三十八年。五十七歳おまし<き。

☆第三代は安寧(あんねい)天皇で、綏靖天皇第二番目の子供です。御母は五十鈴依姫(イスズヨリヒメ)で、事代主の神の娘です。癸丑(みずのとうし::BC548年)の年に即位されました。大和の片塩の浮穴宮(かたしおのうきあなのみや)に居られました。天下を治められたのは三十八年間です。五十七歳にて崩御されました。


○第四代、懿徳天皇は安寧第二の子。御母渟名底中媛、事代主の神の孫也。辛卯年即位。大和の軽曲峡の宮にまします。天下を治給こと三十四年。七十七歳おはしましき。

☆第四代の懿徳(いとく)天皇は安寧天皇の第二番目の子供です。御母は渟名底中媛(ヌナソコナカツヒメ)で、彼女は事代主の神の孫になります。辛卯(かのとう::BC510年)の年に即位されました。大和の軽曲峡の宮(かるのまがりおのみや)に居られました。天下を治められたのは三十四年間です。七十七歳にて崩御されました。


○第五代、孝昭天皇は懿徳第一の子。御母天豊津姫、息石耳の命の女也。父の天皇かくれまして一年ありて、丙寅の年即位。大和の掖の上池の心の宮にまします。天下を治給こと八十三年。百十四歳おはしましき。

☆第五代は孝昭(こうしょう)天皇で懿徳天皇の第一の子供です。御母は天豊津姫(アマトヨツヒメ)で、息石耳の命(オキソミミノミコト)の娘です。父の懿徳天皇が崩御されてから一年経過した丙寅(ひのえとら::BC475年)の年に即位されました。大和の掖上の池心の宮(わきがみのいけごころのみや)を皇居にしました。天下の統治は八十三年間です。百十四(百十三?)歳にて崩御されました。


○第六代、孝安天皇は孝昭第二の子。御母世襲足の姫、尾張の連の上祖瀛津世襲の女也。乙丑の年即位。大倭秋津嶋の宮にまします。天下を治給こと一百二年。百二十歳おまし<き。

☆第六代は孝安(こうあん)天皇は孝昭天皇の第二番目の子供です。御母は世襲足の姫(ヨソタラシノヒメ)で、尾張の連(むらじ::古代最高の家柄)の先祖である瀛津世襲(オキツヨソ)の娘です。乙丑(きのとうし::BC392年)の年に即位されました。大倭秋津嶋の宮(やまとのあきづしまのみや)に居られました。天下を治められたのは百二年間です。百二十歳にて崩御されました。


○第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母押姫、天足彦国押人命の女也。辛未年即位。大和の黒田廬戸の宮にまします。三十六年丙午にあたる年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年乙卯、秦の始皇即位。此の始皇仙方をこのみて長生不死の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書を彼国にもとめしに、始皇こと<”くこれをおくる。其後三十五年ありて、彼国、書を焼、儒をうづみにければ、孔子の全経日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より経史の学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に文字ありとはきかぬ事なれど、上古のことは慥に注とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣、入唐して伝へたりける本こそ流布したれば、この御代より伝けん事もあながちに疑まじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事を歎て、「九夷にをらん。」との給ける。日本は九夷の其一なるべし。異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃と云るがごとし。四海と云は東夷・南蛮・西羌・北狄也。南は蛇の種なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大・弓の字をしたがふと云へり。〔裏書云ふ。夷説文曰。東方之人也。从大从弓。徐氏曰。唯東夷从大从弓。仁而寿。有君子不死之国云ふ。仁而寿、未合弓字之義。弓者以近窮遠也云ふ。若取此義歟。〕孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に通じけんことあやしむに足ぬことにや。此天皇天下を治給事七十六年。百十歳おはしましき。

☆第七代の孝霊(こうれい)天皇は孝安天皇の皇太子です。御母は押姫(オシヒメ)、天足彦国押人命(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)の娘です。辛未(かのとひつじ::BC290年)の年に即位されました。大和の黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に皇居を遷しました。孝霊天皇三十六年(BC255年)丙午(ひのえうま)の年、

中国では周が滅亡し、秦に覇権が移りました。孝霊天皇四十五年(BC246年)乙卯(きのとう)の年に秦国では始皇帝が即位されました。この始皇帝は仙法(せんぽう::仙人の行う術、不老不死の術など)を好み、長生不死の薬を日本に求めました。日本から秦国に五帝三皇(中国古代の伝説上の聖天子八人の総称)の遺書を要求したところ、

始皇帝はこれらすべてを送ってきました。その後三十五年が過ぎて、かの国では書経や詩経などの書を焼き、儒者を生き埋めにしましたので、孔子の全ての経典は日本に残ったと言われています。この事実は異朝中国の書物に記載されています。我が国において神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓(さんかん::馬韓、弁韓、辰韓)を征伐したことによって異国との交流があり、

応神(おうじん::第十五代)天皇の御代より、経書と史書についての学問が伝わったと言われています。孝霊天皇の時代にこの国に文字があったとは聞いていませんが、上古のことが全て確実に記録されている訳ではないでしょう。応神の御代に伝わったと言われている経書、史書さえ今は存在さえ分かりません。

聖武(しょうむ::第四十五代)天皇の御時、吉備大臣(きびのまきび::吉備真備)が入唐して伝えたと言われる本が流布されているので、この時代に伝わったということも疑うことは出来ないでしょう。ところでこの日本国は君子不死の国(説文解字に記載)とも言われています。孔子は世の中が乱れてきたことを嘆き、

「九夷(きゅうい::東方の未開の地)に居ることにしよう」と、仰せられました。日本はその九夷の一つです。異国中国ではこの国のことを東夷(とうい::古代中国で東方の異民族の総称)だと言います。これはまた我が国がかの国中国を西蕃(せいばん::西方の野蛮な国)と言うのと同じです。四海と言うのは東夷、

南蛮(なんばん::南海に住む異民族)、西羌(せいきょう::中国西北部に住む民族)、北狄(ほくてき::北方の異民族)のことです。南蛮は蛇と同系統の民族なので虫を従え(蛮の字の下は虫)、西羌は羊だけを飼育しているので羊を従え、北狄は犬と同種なので(狄の字は犬、けもの偏)犬を従えています。ただ東夷の民族は仁(じん::儒教における最高徳目)があり命も長い。

そのため大、弓の字を従えていると言われます(夷の字を分解すると、大と弓に分かれる)。【裏書(注釈のことか?)に記載あり。夷について説文解字に記載があります。夷は東方の人です。大(人を表す)に従い弓(長弓のこと)を扱う。徐氏曰く、「ただ東夷の人は大に従い弓を従える」と。その質は仁であり長寿である。

君子が居り不死の国と言われる。仁而寿、未合弓字之義。(?)弓は近くにして遠くを極めると言う。これらの事理解していたのか。(この論語、説文解字の段、意味不明)】孔子の時代ですらこの日本のことを知っていたのなら、秦の時代に我が国のことを熟知していないとはとても考えられません。この孝霊天皇が天下を治められたのは七十六年間です。百十(百二十八?)歳にて崩御されました。


○第八代、孝元天皇は孝霊の太子。御母細媛、磯城県主の女也。丁亥年即位。大倭の軽境原の宮にまします。九年乙未の年、もろこしの秦滅て漢にうつりき。此天皇天下を治給こと五十七年。百十七歳おまし<き。

☆第八代の孝元(こうげん)天皇は孝霊天皇の皇太子です。御母は細姫(クワシヒメ/ホソヒメ)で磯城県主(シキノアガタヌシ::奈良磯城郡の豪族)の娘です。丁亥(ひのとい::BC214年)の年に即位されました。大倭(やまと)の軽境原宮(かるのさかいはらのみや)を皇居にされました。孝元天皇九年(BC206年)乙未(きのとひつじ)の年に中国では秦が滅亡し、漢に覇権が移りました。この孝元天皇は五十七年間天下を治められました。百十七(百十六?)歳にて崩御されました。


○第九代、開化天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎姫、穂積の臣上祖鬱色雄命妹也。甲申年即位。大和の春日率川の宮にまします。天下を治給こと六十年。百十五歳おまし<き。

☆第九代は開化(かいか)天皇で、孝元天皇第二番目のお子さんです。御母は鬱色謎姫(ウツシコメヒメ)で、穂積の臣(ホズミノオミ::大和の有力豪族)の遠祖である鬱色雄命(ウツシコヲノミコト)の妹です。甲申(きのえさる::BC157年)の年に即位されました。宮を大和の春日率川の宮(かすがのいさがわのみや)に遷しました。天下を治められたのは六十年間です。百十五歳にて崩御されました。


○第十代、崇神天皇は開化第二の子。御母伊香色謎姫〈 初は孝元の妃として彦太忍信の命をうむ 〉、太綜麻杵の命の女也。甲申の歳即位。大和の磯城の瑞籬の宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百余になりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年己丑年〈 神武元年辛酉より此己丑までは六百二十九年 〉神代の鏡造の石凝姥の神のはつこをめして鏡をうつし鋳せしめ、天目一箇の神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀の郡にして、此両種をうつしあらためられて、護身の璽として同殿に安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をば皇女豊鋤入姫の命につけて、大和の笠縫の邑と云所に神籬をたててあがめ奉らる。これより神宮・皇居各別になれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を頂戴て所々をめぐり給けり。十年の秋、大彦命を北陸に遣し、渟川別の命を東海に、吉備津彦命を西道に、丹波の道主の命を丹波に遣す。ともに印綬を給て将軍とす〈 将軍の名はじめてみゆ 〉。天皇の叔父武埴安彦の命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等を止て、まづ追討しつ。冬十月に将軍発路す。十一年の夏、四道の将軍戎夷を平ぬるよし復命す。六十五年秋任那の国、使をさして御つきをたてまつる〈 筑紫をさること二千余里と云 〉。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おまし<き。

☆第十代の崇神(すじん)天皇は開化天皇第二番目のお子さんです。御母は伊香色謎姫(イカガシコメヒメ)【最初孝元天皇の妃として彦太忍信の命(ヒコフトオシマコトノミコト)を産みます】で、太綜麻杵の命(オオヘソキノミコト)の娘です。甲申(きのえさる::BC97年)の年に即位されます。大和の磯城の瑞籬の宮(しきのみずかきのみや)に遷都されました。

崇神天皇の時代は神代の時代を去ってから、天皇の世としては十代を過ぎ、歳月としては六百余年になりました。この頃になってようやく神(天照大神と倭大国魂神)の御威光を恐れ出し、即位後六年過ぎた己丑(つちのとうし::BC92年)の年【神武元年の辛酉(BC660年)の年からこの己丑(BC92年)の年までは六百二十九年(?568年では)になります】に、

神代の時代に鏡を鋳造した石凝姥(イシコリドメ)の神のはつこ(子孫?)を呼び寄せ、当時の鏡をまねて鋳造させ、天目一箇の神(アメノマヒトツノカミ::製鉄、鍛冶の神)のはつこに剣を作らせました。大和の宇陀郡にこの二種の神器(鏡と剣)つまり、二柱の神(天照大神と倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)をお遷しになり、

危険から国家を守るための守護神として、殿舎に安置しました。神代の時代より伝わる宝鏡と霊剣を、皇女である豊鋤入姫の命(トヨスキイリヒメノミコト)に託して、大和の笠縫の邑(かさぬいのむら)と言う所に神籬(ひもろぎ::神の宿る所として榊など常緑樹のこと)を立てて丁重に祀り上げ尊崇しました。

この時より神宮(伊勢神宮)と皇居とはそれぞれ別の神々を祀ることになりました。またその後、天照大神のお考えを受けて、豊鋤入姫の命はその御神体を御守りしながら諸国を巡られました。崇神天皇十年(BC88年)の秋、大彦命(オオヒコノミコト)を北陸に派遣し、渟川別の命(ヌナカワワケノミコト)を東海に、

吉備津彦命(キビツヒコノミコト)を西道(吉備、山陽道)に、また丹波の道主の命(タンバ(タニハ)ノミチノヌシノミコト)を丹波に派遣しました。全員に印綬(いんじゅ::官職証明用の印章とつり下げようの紐)を授けて将軍に任命しました【将軍の名が初出】。天皇の叔父である武埴安彦の命(タケハニヤスヒコノミコト::第八代孝元天皇の皇子)が、

朝廷の転覆を謀ろうとしたので、各地派遣予定の将軍らを引き止め、まず先に追討しました。その後冬の十月になって将軍らは発向しました。翌十一年の夏、四道に派遣されていた将軍らは、戎夷(じゅうい::未開地の蛮族)らを征伐し終わったと報告しました。崇神天皇六十五年(BC33年)の秋、

任那(みまな::古代に存在した朝鮮半島南部の地域)の国が使者を派遣し、朝貢をしてきました【その国は筑紫(つくし::九州北部)を去ること二千余里だと言います】。この崇神天皇は天下を六十八年間統治されました。百二十歳にて崩御されました。


○第十一代、垂仁天皇は崇神第三の子。御母御間城姫、大彦の命〈 孝元の御子 〉女也。壬辰の年即位。大和の巻向の珠城の宮にまします。此御時皇女大和姫の命、豊鋤入姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳冬十月甲子に伊勢国度会郡五十鈴川上に宮所をしめ、高天の原に千木高知下都磐根に大宮柱広敷立てしづまりまし<ぬ。此所は昔天孫あまくだり給し時、猿田彦の神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田の五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。大倭姫の命、宮所を尋給しに、大田の命と云人〈 又興玉とも云 〉まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の■田彦の神の苗裔なりとぞ。彼川上に五十鈴・天上の図形などあり〈 天の逆戈もこの所にありきと云一説あり 〉。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて中臣の祖大鹿嶋の命を祭主とす。又大幡主と云人を太神主になし給。これより皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おまし<き。

☆第十一代の垂仁(すいにん)天皇は崇神天皇の第三番目の子供です。御母は御間城姫(ミマキヒメ)で、大彦の命(オオヒコノミコト)【孝元天皇のお子さんです】の娘です。壬辰(みずのえたつ::BC29年)の年に即位されました。大和の巻向(まきむく)の珠城(たまき)に都を造りました。

この時、垂仁天皇の第四皇女である大和姫の命(ヤマトヒメノミコト)が、豊鋤入姫(トヨスキイリヒメ)と替わって、心身を清め天照大神にお仕えしました。天照大神の教えに従ってなおも国々を巡られ、垂仁天皇二十六年丁巳(ひのとみ::BC4年)の冬十月、甲子(きのえね)の日に伊勢国度会郡(わたらいのこうり)五十鈴の川上に神の鎮座される場所と決め、

高天の原(たかあまのはら::天空)に向かって千木(ちぎ::木材を左右から交差し、天空に高く突き出したもん。鰹木)を高くそびえさせ、地中深い岩盤に宮の太い柱をどっしりと立て、荘厳な雰囲気をもって宮は神の鎮座を待ちました。この場所は昔、天孫(てんそん::ニニギノミコト:瓊瓊杵尊)が天降られた時、

猿田彦(サルタヒコ)の神が来られ、「私は伊勢国の狭長田(さながた(さなだ)にある五十鈴の川上に行かねばならない」と、話された所です。大倭姫(オオヤマトヒメ)の命が宮の造営場所を探し求めている時、大田の命(オオタノミコト)と言う人が【また興玉神(オキタマノカミ::伊勢神宮の守護神)だとも言います】現れ、この場所を教えました。

この命は昔の猿田彦の神の子孫だそうです。その川上には五十鈴(?)や天上の図形などがあり【天の逆戈もこの場所にあると言う一説があります】。そして、「八万年間にわたって守り通し尊崇してきました」と、話されました。このようにして中臣氏(なかとみし)の祖である、大鹿嶋の命(オオカシマノミコト)を祭主(さいしゅ::伊勢神宮の神職の長)にしました。

また大幡主の命(オオハタヌシノミコト::大若子命(オオワクゴノミコト)と言う人を大神主にしました。この時以来、皇太神(コウタイジン::日本の最高の神の称号。一般に天照大神)として崇め、天下第一の宗廟(そうびょう::皇室の祖先を祭る神社)でございます。この垂仁天皇は九十五年間天下を治められました。百四十歳にて崩御されました。


○第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。辛未年即位。大和の纏向の日代の宮にまします。十二年秋、熊襲〈 日向にあり 〉そむきてみつき奉らず。八月に天皇筑紫に幸して是を征し給。十三年夏こと<”く平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、容貎魁偉。身の長一丈、力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀をもて、梟帥取石鹿父と云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武となづけ申けり。悉余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道して伊勢の神宮にまうでて、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」とをしへ給ける。駿河に〈 駿河日本紀説、或相模古語拾遺説 〉いたるに、賊徒野に火をつけて害したてまつらんことをはかりけり。火のいきほひまぬかれがたかりけるに、はかせる叢雲の剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためて草薙の剣と云ふ。又火うちをもて火を出て、むかひ火を付て、賊徒を焼ころされにき。これより船に乗給て上総にいたり、転じて陸奥国にいり、日高見の国〈 その所異説あり 〉にいたり、悉蝦夷を平げ給。かへりて常陸をへ甲斐にこえ、又武蔵・上野をへて、碓日坂にいたり、弟橘媛と云し妾をしのび給〈 上総へ渡給し時、風波あらかりしに、尊の御命をあがはんとて海に入し人なり 〉。東南の方をのぞみて、「吾嬬者耶。」との給しより、山東の諸国をあづまと云也。これより道をわけ、吉備の武彦をば越後国に遣して不順者を平しめ給。尊は信濃より尾張にいで給。かの国に宮簀媛と云女あり。尾張の稲種宿禰の妹也。此女をめして淹留給あひだ、五十葺の山に荒神ありときこえければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。山神化して小蛇になりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神毒気を吐けるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給。能褒野と云所にて御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしをして、つひにかくれ給ぬ。御年三十也。天皇きこしめして、悲給事限なし。群卿百寮に仰て、伊勢国能褒野にをさめたてまつる。白鳥と成て、大和国をさして琴弾原にとゞまれり。其所に又陵をつくらしめられければ、又飛て河内古市にとゞまる。その所に陵を定られしかば、白鳥又飛て天にのぼりぬ。仍三の陵あり。彼草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今の熱田神にまします。五十一年秋八月、武内の宿禰を棟梁の臣とす。五十三年秋、小碓の命の平し国をめぐりみざらんやとて、東国に幸し給。十二月あづまよりかへりて、伊勢の綺の宮にまします。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、纏向の宮にかへり給。天下を治給こと六十年。百四十歳おまし<き。

☆第十二代の景行(けいこう)天皇は垂仁天皇の第三番目の子供です。御母は日葉州媛(ヒハスヒメ)で、丹波道主(タンバノミチヌシ::古代日本の皇族)の王の娘です。辛未(かのとひつじ::71年)の年に即位されました。大和の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)に皇居を遷されました。

景行天皇十二年(82年)の秋、熊襲(くまそ::九州南部に本拠を構えている人々)【日向(ひむか)に住んでいます】が反抗して貢納を拒否しました。そこで八月に天皇自ら筑紫に行幸し、これら賊徒の征伐に向かわれました。そして十三年の夏に熊襲らをことごとく平定しました。その後日向高屋宮(ひむかのたかやのみや)を行宮(あんぐう::一時的な皇居)としました。

景行天皇十九年(89年)の秋に筑紫より纏向日代の宮に帰られました。その後景行天皇二十七年(97年)の秋に再び熊襲が反抗し、周辺地域の侵略を始めました。この時皇子である小碓の尊(オウスノミコト::日本武尊)、年齢は十六歳ですが、幼い頃より勇ましく力も強い上、その容貌たるや顔や身体の大きさも人並み以上です。

身の丈は一丈(じょう::約3メートル)もあり、その腕力はかなへ(鼎::青銅製の大釜か?)を持ち上げる程なので、熊襲の征伐に向かわせました。その年の冬、十月に熊襲の国に到着すると奇抜な計略を敢行し、梟帥(タケル::古代地方の勇猛な族長のこと)である取石鹿父(トリイシカヤ)と言う者を殺害しました。

梟帥は尊を褒められ、日本武(ヤマトタケ)と名付けられました。その後残党らを全て討ち取って、お帰りになられました。帰還途上においても、各所で多数の反抗的な地方豪族を討ち取りました。そして景行天皇二十八年(98年)の春、都に帰還し戦果の報告をしました。天皇はその功績を褒められ、

その恩賞は他の人達とは大きく異なりました。景行天皇四十年(110年)の夏には、東国の未開地で多数の人間が叛乱を起こし、周辺に騒乱が激しくなってきたので、再び日本武の皇子を派遣しました。吉備の武彦(きびのたけひこ)、大伴の武日(おおとものたけひ)を左右の将軍としての任務に就かせました。

景行天皇四十年十月に途中寄り道をして伊勢の神宮に詣で、大和姫命(ヤマトヒメノミコト)に暇乞いをしました。彼女は神剣を彼に授け、「慎重に事を進め、油断しないように」と、諭しました。やがて彼らが駿河【駿河は日本書紀の説、もう一つは相模でこれは古語拾遺の説】に到着した時、賊徒が野原に火を付けて、

殺害しようとはかりました。火の勢いが強くとても逃れることが出来そうにないと思えましたが、彼が腰にした叢雲(むらくも)の剣を自ら抜き払い、周辺の草を薙ぎ払いました。このことからこの剣の名前を改め、草薙(くさなぎ)の剣と言うようになりました。また火打石で火を起こし、敵の火勢を弱めるためこちら側から火を付け、

賊徒を焼き殺しました。ここから舟に乗って上総国に上陸し、その後陸奥国に入り日高見の国(ひたかみのくに)【日本の古代において、大和や蝦夷(えぞ::古代において北陸、関東北部、北海道にかけて居住した人々)の地を美化して用いた言葉】に到着すると蝦夷の地を平定しました。帰りは常陸国経由で甲斐国に入り、

また武蔵、上野(かみつけ)の両国を経て、碓日坂(うすひのさか::碓氷峠)に到着すると、弟橘媛(オトタチバナヒメ)と言う女性のことを思い出されました【弟橘媛とは日本武が上総の国に向かって舟に乗っている時、激しい風波に見舞われたので、尊の命を救うため身代わりとなって海に入った人です】。

東南の方角を眺めながら、「吾嬬者耶(あずまはや::あゝ我が妻よ)」と仰せられたことから、山東(さんとう::碓氷峠から見て山深い東方の事か?)の諸国をあずまと言うようになりました。ここから進路を分かって吉備の武彦を越後国に派遣し、反抗する人々を鎮圧させました。また尊(ヤマトタケルノミコト::日本武尊)は信濃から尾張に進出しました。

尾張の国には宮簀媛(ミヤズヒメ::尾張氏の娘)と言う女性がいました。尾張の豪族、稲種宿禰(いなだねのすくね)の妹です。この女性を妻としてしばらく滞在していると、五十葺の山(いぶきのやま::伊吹山)に乱暴を働く神がいると聞こえてきたので、草薙(くさなぎ)の剣を宮簀媛の家に残し、徒歩で出かけられました。

伊吹山の神が小蛇に姿を変えて、途中の道に横たわっていました。尊が無視してまたいで過ぎて行こうとしたら、その神が毒気を吐きかけたので、尊は意識が朦朧となったまま下山しました。その後尊は伊勢に移動しました。そして能褒野(のぼの::亀山市)と言う所に着いた頃、病状が悪化しだしたので、

吉備の武彦の命に事の次第を天皇に伝えるよう託すと、とうとうお亡くなりになりました。御年三十歳のことです。報告を聞いた天皇の悲しみは大変なものでした。群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう::天皇にお仕えする役人ら)に命じて伊勢の国能褒野に埋葬しました。しかし遺体は白鳥になって大和国に向かって飛び立ち、

琴弾原(ことひきのはら::御所市)に留まりました。そこでその場所にもまた御陵を造営したところ、再び飛び立ち河内古市(ふるいち)に留まりました。そこにも御陵を造られましたが、白鳥はまた飛び上がり、天に上っていきました。このため日本武尊(ヤマトタケルノミコト)には三ヶ所に御陵があります。

あの草薙の剣は宮簀媛が大切にするとともに敬意をはらい、そのまま尾張で保存しました。今の熱田神宮に保管されています。景行天皇五十一年(121年)の秋、八月に武内の宿禰(たけうちのすくね::宿禰は尊称)を臣下の中でも最重要な臣下としました。景行天皇五十三年(123年)の秋、

小碓の命(オウスノミコト::日本武尊)が平定した国々を視察して回ろうと、東国に行幸されました。同年十二月に東国より還御され、伊勢の綺(かむはた)の宮(伊勢神宮?)におられました。そして景行天皇五十四年(124年)の秋、伊勢より大和に遷られ、纏向(まきむく)の宮にお帰りになられました。この天皇が天下を治められたのは六十年間となります。百四十歳にて崩御されました。


○第十三代、成務天皇は景行第三子。御母八坂入姫、八坂入彦の皇子〈 崇神の御子 〉女也。日本武尊日嗣をうけ給ふべかりしに、世をはやくしまし<しかば、此御門立給。辛未歳即位。近江の志賀高穴穂の宮にまします。神武より十二代、大和国にまし<き〈 景行天皇のすゑつかた、此高穴穂にまし<しかども定る皇都にはあらず 〉。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿禰を大臣とす〈 大臣の号これにはじまる 〉。四十八年の春、姪仲足彦の尊〈 日本武の尊の御子 〉をたてて皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おまし<き。

☆第十三代の成務(せいむ)天皇は景行天皇第三番目の子供です。御母の八坂入姫(ヤサカイリヒメ)は八坂入彦(ヤサカノイリヒコ)の皇子【崇神(すじん)天皇の御子さんです】の娘です。本来なら日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が皇位を継ぐべきですが、彼が若くしてお亡くなりになられたので、この方が皇位をお継ぎになられました。

辛未(かのとひつじ)の年(131年)に即位されました。近江の志賀高穴穂の宮(しがのたかあなほのみや::大津市)に皇居を遷されました。神武天皇より十二代にわたって大和の国に都を定めてきましたが【景行天皇の晩年に、この高穴穂宮に三年にわたって滞在されたことがありますが、首都とした訳ではありません】。

この時初めて皇居が大和以外の国に遷ったことになります。成務天皇三年(133年)の春、武内の宿禰を大臣に任命しました【大臣の称号がこの時より使用されました】。成務天皇四十八年(178年)の春、姪仲足彦の尊(オヒナカタラシヒコノミコト)【日本武尊の第二子です】を皇太子に立てました。成務天皇は天下を統治すること六十一年間です。百七歳にて崩御されました。


○第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行御孫也。御母両道入姫、垂仁天皇女也。大祖神武より第十二代景行までは代のまゝに継体し給。日本武尊世をはやくし給しによりて、成務是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりまし<しより、代と世とかはれる初也。これよりは世を本としるし奉べき也〈 代と世とは常の義差別なし。然ど凡の承運とまことの継体とを分別せん為に書分たり。但字書にもそのいはれなきにあらず。代は更の義也。世は周礼の註に、父死て子立を世と云とあり 〉。此天皇御かたちいときら<しく、御たけ一丈まし<ける。壬申の年即位。此御時熊襲又反乱して朝貢せず。天皇軍をめしてみづから征伐をいたし、筑紫にむかひ給。皇后息長足姫尊は越前の国笥飯の神にまうでて、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西に宝の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして橿日の行宮にしてかくれ給。長門にをさめ奉る。是を穴戸豊浦の宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おまし<き。

☆第十四代、第十四世、仲哀(ちゅうあい)天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)第二番目の子供で、景行天皇の御孫さんです。御母は両道入姫(フタジイリヒメ)で、垂仁(すいにん)天皇の皇女です。皇室の大先祖である神武(じんむ)天皇より第十二代の景行(けいこう)天皇までは、親より子供へ皇位が継がれてきました。

しかし日本武尊が早世されたことによって、成務(せいむ)天皇が皇位を継がれました。成務天皇がこの仲哀天皇を皇太子に立て、皇位を譲ることにされたので、今までの代(だい)から世(せい)と変ることになった最初です。今後は世を基準にして記載することになります【代と世とは普通の場合はその意味に大差はありません。

しかしながら単なる皇位の継承と、親子間での皇位の継承とを分けるため書き分けることにしました。但し字書(じしょ::辞書、辞典)によれば、そのいわれ(理由や由緒)などの説明が無いわけではありません。代は更(こう::入れ替わる)の意味です。世は周礼(しゅうらい::中国の儒教経典の一つ)の注意書きに、

父が死去して子供が父の地位につくことを世と言うと、記載されています】。この仲哀天皇は容貌が堂々とし端正であり、身長も一丈(約3メートル)ほどあります。壬申の年(192年)に即位されました。この年に熊襲が再び反乱を起こし、朝廷に貢納しませんでした。そのため天皇は軍事行動を起こし、自ら征伐のため筑紫国に向かいました。

皇后である息長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト::神功皇后)は越前の国、笥飯(けい::気比)の神宮に参詣し、その後北海(北陸道のことかな?)を廻り歩いた後、仲哀天皇とお会いしました。その時ある神が現れ皇后に対して、「ここから西の方角に宝の国(新羅)がある。討ち取って支配下に置くが良い。

熊襲など小さな国である。また熊襲は伊弉諾(イザナギ)、伊弉冉(イザナミ)がお産みになった国であるから、何も討ち取らなくても最終的には天皇に従うことになるでしょう。」と語られたのですが、天皇は聞き入れませんでした。その後熊襲征伐は敗北し、橿日(かしい::香椎)の行宮にて崩御されました。遺体は関門海峡を渡って長門に埋葬されました。

この地を穴戸(あなと::関門海峡また長門国の古名)豊浦の宮と申し上げます。仲哀天皇が治められたのは九年間です。五十二歳にて崩御されました。


○第十五代、神功皇后は息長の宿禰の女、開化天皇四世の御孫也。息長足姫の尊と申す。仲哀たてて皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給しかば、皇后いきどほりまして、七日あて別殿を作り、いもほりこもらせ給。此時応神天皇はらまれまし<けり。神がかりてさま<”道ををしへ給ふ。此神は「表筒男・中筒男・底筒男なり。」となんなのり給けり。是は伊弉諾尊日向の小戸の川檍が原にてみそぎし給し時、化生しましける神也。後には摂津国住吉にいつかれ給神これなり。かくて新羅・百済・高麗を〈 此三け国を三韓と云ふ。正は新羅にかぎるべきか。辰韓・馬韓・弁韓をすべて新羅と云也。しかれどふるくより百済・高麗をくはへて三韓と云ならはせり 〉うちしたがへ給き。海神かたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、思の如く彼国を平げ給。神代より年序久くつもれりしに、かく神威をあらはし給ける、不測御ことなるべし。海中にして如意の珠を得給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の申給しによりて、是を胎中の天皇とも申。皇后摂政して辛巳年より天下をしらせ給。皇后いまだ筑紫にまし<し時、皇子の異母の兄忍熊の王謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内大臣もはら朝政を輔佐し申けり。大和の磐余稚桜の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国の女王遣使て来朝す。」と後漢書にみえたり。元年辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云臣位をうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅して此御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。是より天下三にわかれて、魏・蜀・呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。又魏国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉と云し年、魏又滅て晉の代にうつりにき〈 蜀の国は三十年癸未に魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年辛丑晉のためにほろぼさる 〉。此皇后天下を治給こと六十九年。一百歳おまし<き。

☆第十五代の神功皇后は息長の宿禰(おきながのすくね::二世紀頃の皇族)の娘で、開化天皇(かいかてんのう::第九代天皇)四世のお孫です。息長足姫の尊(オキナガタラシヒメノミコト)と申します。仲哀(ちゅうあい)天皇を表面に立て皇后として控えていました。仲哀天皇は神の宣託に従わず、早世してしまわれたので皇后は気分がすぐれず、

七日過ぎてから別途社殿を建造し、供養のため(?)お篭りになられました。この時応神(おうじん)天皇(第十六代天皇)が皇后のお腹に宿っておられました。そして神功皇后には神が乗り移って色々な方法を伝授しました。この乗り移った神は、「表筒男(ウワツツノオ)、中筒男(ナカツツノオ)、底筒男(ソコツツノオ)である」と、名乗りました。

これらの神々は伊弉諾尊が日向(ひむか)の小戸の川檍が原(あわぎがはら)において、禊(みそぎ::穢れを祓う事)をされた時この世に姿を現された神です。後になって摂津国住吉大社に落ち着かれた神々です。このようにして新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高麗(こうらい)を【この三ヶ国のことを三韓と言います。

正しくは新羅に限るべきかもしれません。辰韓(しんかん)、馬韓(ばかん)、弁韓(べんかん)を全て新羅と言います。しかしながら古くより百済、高麗を加えて三韓と言い慣わしています】支配下に置きました。海神(わたつみ・かいじん::海を司る神。神武天皇の母君の父)が姿を現し、神功皇后の乗船を左右からお守りしたので、

計画通りそれらの国々を征伐しました。神代の頃から長い年月が過ぎているのに、このように神の威光を発揮し援護してくれるとは、全く思いがけないことでした。海において思い通りにさせてくれる宝珠を手にしたからです。その後筑紫にお帰りになり、皇子をご出産されました。その皇子が後の応神(おうじん)天皇です。

神が仰せられたこともあって、この天皇の別称を胎中(たいちゅう)の天皇とも申し上げます。以後神功皇后が応神天皇の摂政として、辛巳(かのとみ)の年(201年)より天下を統治されました。皇后がまだ筑紫に居られる時、皇子にとっては異母の兄(仲哀天皇の皇子で、母は大中姫)である忍熊(おしくま)の王が謀反を起こしたため、

これを鎮圧しようとして、皇子を武内宿禰大臣に預け、乗船を紀伊の水門(みなと::和歌浦河口の港)着けるとすぐ皇后は難波に向かい、やがて反乱を平定されました。やがて皇子は成長されたので皇太子に立てました。武内大臣は朝政の補佐に専念されました。大和の磐余稚桜(いわれわかさくら)の宮にお住みになりました。

この後、三韓の国々が年毎に朝貢してきたので、我が国もそれらの国々に鎮守の役所を置いたから、西蕃(せいばん::中国でチベット地方の民族に対する蔑称)諸国も容認して、国家として認めました。(?)また我が国から中国にも使者を派遣しました。「倭国(わこく::古代の中国やその周辺国の日本に対する呼称)の女王が使者を派遣し、

我が国に来朝してきた」と、後漢書に記載されています。神功皇后元年の辛巳(かのとみ::201年)の年は漢の孝献帝(こうけんてい)二十三年(?)にあたります。漢(前漢)の治世が始まってから十四代(十五代劉嬰?)と言う時に、王莽と言う臣下が帝位を奪って十四年が経過しています。その後帝位は漢に戻りますが、

また十三代の孝献の時に漢は滅亡し、この御代十九年己亥(つちのとい::219年)の年に献帝は帝位を去って、魏国の文帝(曹丕::そうひ)に帝位を譲りました。これ以後天下は三つに分かれて、魏、蜀、呉となりました。その中でも呉国は東方に位置した国なので、日本も早速使者を派遣しました。

また呉国からもそれぞれの分野における技能なども伝えられました。また魏国に対しても通交があったように思えます。四十九年乙酉(きのととり::265年)の年に魏国もまた滅亡し、晉(司馬炎が西晉を建国)の時代となりました【蜀の国は三十年癸未(みずのとひつじ::263年)の年に魏のために滅ぼされ、呉国は魏国より後まで存在しましたが、

応神十七年(十二年?)辛丑(かのとうし::281年)の年に西晉によって滅ぼされました】。この神功皇后が天下を治められたのは六十九年間です。百歳にて崩御されました。『中国歴史の記載に問題あり』 「神功皇后は歴代天皇に加えないので、以後天皇の代は一代ずつずれが発生」

 


○第十六代、第十五世、応神天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中の天皇とも、又は誉田天皇ともなづけたてまつる。庚寅年即位。大和の軽嶋豊明の宮にまします。此時百済より博士をめし、経史をつたへられ、太子以下これをまなびならひき。此国に経史及文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開て後、すさのをの尊韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。天地神の御すゑなれば、なにしにか代くだれる呉太伯が後にあるべき。三韓・震旦に通じてより以来、異国の人おほく此国に帰化しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せしによりて、姓氏録と云文をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まち<なれば、異学の輩の云出せる事歟。後漢書よりぞ此国のことをばあら<しるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比、おとゝの讒によりて、すでに追討せられしを、大臣の僕、真根子と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅せらる。大臣は忍て都にまうでて、とがなきよしを明められにき。上古神霊の主猶かゝるあやまちまし<しかば、末代争かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おまし<き。

☆第十六代、第十五世の応神(おうじん)天皇は、仲哀天皇第四番目の子供です。御母は神功(じんぐう)皇后です。胎中(たいちゅう::はらのうちにまします)の天皇とも申します。また誉田(ほむたの)天皇とも名付けられています。庚寅(かのえとら::270年)の年に即位されました。大和の軽嶋豊明の宮(かるしまのとよあきらのみや)に都を遷されました。

この時代に百済より博士を招聘して経史(けいし::経典や歴史書)を我が国に伝えさせ、皇太子以下これらを学びました。我が国が経史や文字を使用することが始まったのは、この時以来とされています。異朝中国の一書には、「日本は呉国(ごこく::古代中国春秋時代の国)の太伯(たいはく::呉の始祖)の後(子孫)であると言われています」と、記載されています。

どう考えても納得がいきません。昔日本は三韓の人間と同じ人種であると記載した書があったのですが、その書籍が桓武天皇(かんむてんのう::第五十代天皇。781-806年)の御代に焼き捨てられました。天地が開闢(かいびゃく::世界の始まり)してから後に、素盞烏尊(スサノオノミコト)が韓の地に行かれていたと言うならば、

彼らの国々もまた神の末裔であること、断定するのに無理はないようです。このようなことは昔から通用などしていません。我が国の人間が、天地神(アメツチノカミ::高天が原の神と地上にいる神)の末裔であるからには、どうして時代が下った呉太伯の後裔であるわけがありません。

三韓や震旦(しんたん::古代中国)と通交して以来、異国の人達の多くが我が国に帰化しています。秦国や漢国の血を引く末裔の人達や、高麗、百済の人々、またそれらの国々とは違い蕃人(ばんじん::未開の地にすむ人)の子孫も来て、神や皇(すめらぎ::天皇)の後裔だと無秩序に主張したため、

姓氏録(しょうじろく::新撰姓氏録。古代氏族名鑑)と言う書物を作りました。それも皇室以外の国民に対するものです。異朝の人々も考えはまちまちなので、異なる考えを持った人の言い出したことです。後漢書以後この日本国のことが、詳細さには欠けますが記載されています。その記載には正確な所もあれば、

不都合なこともあります。唐書(とうじょ::唐代の正史)には日本の皇代記(こうだいき::天皇一代ごとの主要事項を記載した年代記)を、神代から光孝天皇(こうこうてんのう::第五十八代天皇。884-887年)の御代まで明解に記載されています。さてこの頃、武内宿禰大臣が筑紫を統治するため、その国に派遣された時、

弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が天皇に讒言し、追討されることが決定的になったのですが、その時武内の家臣に真根子(壱岐真根子::いきのまねこ)と言う人がいました。顔かたちが大臣によく似ているので、武内の身代わりとなって誅罰されました。大臣はひそかに都に戻り、罰せられる理由などないことを証明されました。

上古において神霊の主(神々の中でも中心となる神)でさえ、このような過ちを犯されるなら、末代である今、どうして軽はずみな行いに注意を払わないことなどあるはずがありません。この応神天皇は四十一年間天下を治められ、百十一歳にて崩御されました。


欽明天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後国菱形の池と云所にあらはれ給、「われは人皇十六代誉田の八幡丸なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹の号也。後に豊前の国宇佐の宮にしづまり給しかば、聖武天皇東大寺建立の後、巡礼し給べきよし託宣ありき。仍威儀をとゝのへてむかへ申さる。又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請し奉らる。されど勅使などは宇佐にまゐりき。清和の御時、大安寺の僧、行教宇佐にまうでたりしに、霊告ありて、今の男山石清水にうつりまします。爾来行幸も奉幣も石清水にあり。一代一度宇佐へも勅使をたてまつらる。昔天孫天降給し時、御供の神八百万ありき。大物主の神したがへて天へのぼりしも、八十万の神と云り。今までも幣帛を奉まつらるゝ神、三千余坐也。しかるに天照太神の宮にならびて、二所の宗廟とて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御託宣に「得道来不動法性。示八正道垂権迹。皆得解脱苦衆生。故号八幡大菩薩。」とあり。八正とは、内典に、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正定・正恵、是を八正道と云ふ。凡心正なれば身口はおのづからきよまる。三業に邪なくして、内外真正なるを諸仏出世の本懐とす。神明の垂迹も又これがためなるべし。又八方に八色の幡を立ることあり。密教の習、西方阿弥陀の三昧耶形也。其故にや行教和尚には弥陀三尊の形にてみえさせ給けり。光明袈裟の上にうつらせまし<けるを頂戴して、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地を云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、大菩薩の応迹は昔よりあきらかなる証拠おはしますにや。或は又、「昔於霊鷲山説妙法華経。」とも、或は弥勒なりとも、大自在王菩薩なりとも託宣し給。中にも八正の幡をたてて、八方の衆生を済度し給本誓を、能々思入てつかうまつるべきにや。天照太神もたゞ正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝へまし<しことの起は、さきにもしるし侍ぬ。

欽明天皇(きんめいてんのう::第二十九代天皇。539-571年)の御代に応神天皇が、はじめて神として筑紫の肥後国にある菱形(ひしがた)の池(神功皇后が応神天皇を出産された時、産湯に使われたと記録あり)と言う所に現れ、「私は人皇(にんのう::神代と区別して神武天皇以後の天皇)十六代誉田(ほんだ)の八幡丸(応神天皇)である」と、仰せられました。

誉田(応神天皇::ほんだのすめらみこと)は本来のお名前であり、八幡は仏がこの世に姿を現す時の名前です。後になって豊前の国、宇佐(うさ)の宮(宇佐神宮)に鎮座され、聖武天皇(しょうむてんのう::第四十五代天皇。724-749年)が東大寺を建立されて後、この八幡神が巡礼に参ると宣託(せんたく::神のお告げ)がありました。

そこで聖武天皇は威儀を正してお迎えされました。また神託(しんたく::神のお告げ)があり、御出家(神が仏になること)すると話されました。そこですぐに東大寺に勧請(かんじょう::神仏の分身、分霊を他の地に移し祭ること)されました。しかしその後も勅使は宇佐神宮にお参りしています。

清和天皇(せいわてんのう::第五十六代天皇。858-876年)の時代に、大安寺の僧侶である行教(ぎょうきょう)が宇佐神宮に詣でられた時、霊告(れいこく::神のお告げ)があり、今の男山石清水八幡宮にお遷りにまられました。それ以降は行幸(ぎょうこう::天皇の外出)も奉幣(ほうへい::神社に奉納する供物)も石清水になりました。

また天皇一代に一度は宇佐八幡にも勅使を参上させています。昔天孫(てんそん::瓊瓊杵尊)が天下れた時、お供をした神は八百万柱でございました。大物主(おおものぬし::大和の三輪の神)が神を従えて天に上られた時も、八十万柱だったと言われています。今まで幣帛(へいはく::神前に奉納するものの総称)を奉納された神は三千余坐(ざ::柱)です。

しかし天照大神の宮(伊勢神宮)と並んで二所の宗廟(そうびょう::皇室が先祖に対して祭祀を行う建物)として石清水八幡(または宇佐神宮)を敬っていることは、大変尊いことでございます。八幡と言うお名前は、御宣託に、「得道来不動法性。示八正道垂権迹。皆得解脱苦衆生。故号八幡大菩薩。」と、ありました。

八正(はっしょう::八正道)とは内典(ないてん::仏教の経典)に、正見(しょうけん::仏道修行によって得られる物の智恵)、正思惟(しょうしゆい::正しく考え判断すること)、正語(しょうご::嘘や悪口などから離れること)、正業(しょうごう::殺生や盗みなどから離れること)、正命(しょうみょう::殺生や反道徳的な仕事をしないこと)、正精進(しょうしょうじん::正しい努力に努めること)

正定(しょうじょう::迷いのない清浄な境地に入ること)、正恵(正念?しょうねん::常に真理を求める心を忘れないこと)とあり、これを八正道(はっしょうどう)と言います。そもそも心に邪念がなければ、身口(しんく::身を清くし言葉を慎むこと。もう一つ、意を含んで三業)はおのずと清まるものです。三業(さんごう)に関してよこしまな考えを持たず、

内外真正(ないげしんしょう::何に対しても常に正しく正当なこと)であることが、諸仏が出世(しゅっせ::衆生を救済するため仏がこの世に現れること)する本来の願望であります。また神明(神々)が垂迹(すいじゃく::仏、菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿で現れること)によって現れるのもまた同じ目的です。また八方に八色の幡を立てることがあります。

これは密教の習慣であり、西方阿弥陀(西方浄土の教主である阿弥陀如来)における三昧耶形(さんまやぎょう::密教において仏を表す象徴物のこと)です。そう言う訳なのか行教和尚は弥陀三尊のお姿に見えます。光明(こうみょう::仏や菩薩から発する光。後光)が袈裟の上にお映りになったのを頂いて男山に安置されたと言うことです。

神明に関してその本地(ほんじ::今は神の姿となっているが、もともとの菩薩や仏)についての説明は確かなことは少ないのですが、大菩薩(だいぼさつ::八幡大菩薩)の応迹(おうじゃく::仏や菩薩が仮に現した姿)に関しては昔よりはっきりとした証拠がございます。或いはまた、

「昔於霊鷲山説妙法華経」(昔、釈迦が霊鷲山(りょうじゅせん)において法華経を説かれた)の霊鷲山になぞらえたとも、また弥勒(みろく::弥勒菩薩)であるとも、大自在王菩薩(だいじざいおうぼさつ::非凡な能力と何事も出来る力で衆生を救う菩薩)であるとも宣託(神のお告げ)されました。中でも八正の幡を立てて、

八方の衆生を済度(さいど::迷い苦しんでいる人を、悟りの境地に導くこと)されようとする本誓(ほんぜい::仏、菩薩が立てた衆生救済の誓願)をよくよく考えて、お祀りされることが肝心です。天照大神もただ一筋に正直であることを心にお誓いされています。天照大神が神鏡を瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)にお渡しになる時のいきさつについては、先(巻一の3)に記載しています。


又雄略天皇二十二年の冬十一月に、伊勢の神宮の新嘗のまつり、夜ふけてかたへの人々罷出て後、神主物忌等ばかり留たりしに、皇太神・豊受の太神、倭姫命にかゝりて託宣し給しに、「人はすなはち天下の神物なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷を以て先とし、冥はくはふるに正直を以て本とす。」とあり。同二十三年二月、かさねて託宣し給しに、「日月は四州をめぐり、六合を照すと云ども正直の頂を照すべし。」とあり。されば二所宗廟の御心をしらんと思はゞ、只正直を先とすべき也。大方天地の間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「黒心なくして丹心をもて、清潔斎慎。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも万事たがふことなくして、太神につかうまつれ。元々本々故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえ侍。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。周易に、「霜を履堅氷に至。」と云ことを、孔子釈しての給はく、「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり。君を弑し父を弑すること一朝一夕の故にあらず。」と云り。毫釐も君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕も親をおろそかにするかたちあるものは、果して賊子となる。此故に古の聖人、「道は須臾もはなるべからず。はなるべきは道にあらず。」と云けり。但其の末を学びて源を明めざれば、ことにのぞみて覚えざる過あり。其源と云は、心に一物をたくはへざるを云ふ。しかも虚無の中に留るべからず。天地あり、君臣あり。善悪の報影響の如し。己が欲をすて、人を利するを先として、境々に対すること、鏡の物を照すが如く、明々として迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとて自ら苟むべからず。天地の始は今日を始とする理なり。加之、君も臣も神をさること遠からず。常に冥の知見をかへりみ、神の本誓をさとりて、正に居せんことを心ざし、邪なからんことを思給べし。

また雄略天皇(ゆうりゃくてんのう::第二十一代天皇。457-479年?)二十二年(478年)の冬十一月に行われた伊勢神宮の新嘗祭(しんじょうさい::天皇が新穀を天神地祇にお供えし、自らもそれを食する祭儀)において、夜も更けてきたため周りの人たちも退出されて、神主や物忌(ものいみ::大社にお仕えする童男、童女)たちだけが残っていたところ、

皇太神(内宮の天照大神)、豊受の太神(トヨウケノオオミカミ::外宮の祭神)が倭姫命(ヤマトヒメノミコト::伊勢神宮の内宮を創建された人)に乗り移って宣託があり、「人はすなはち天下(あめのした)の神物(じんもつ)なり(人は皆、神の子孫である)。心神(こころ)をやぶることなかれ(精神と肉体を傷つけてはいけない)

神はたるゝに祈祷をもって先とし(神の恵みを受けるためには、祈祷することが第一である)、冥はくはふる(冥加::神の恵みを受けること)に正直を以て本とす(正直であることが肝要である)」と、ありました。同じく二十三年二月に、再び宣託されたのは、「日月は四州をめぐり、六合を照らすと言えども正直の頂を照らすべし(日月は私たちを分け隔てなく照らしますが、清らかな心で神に祈る者をより照らします)」と、言うことです。

そう言う訳なので、二所宗廟の御心を知りたく思うならば、ただ一途に正直であることを第一にしなければならない。おそらくこの天地の間に存在する人々は、互いに対立や依存し合い、万物を形成している陰と陽二種の気の影響を受けているでしょう。不正な行いをしていれば、世の中で認められることなどないでしょう。

その上この国は神国(しんこく::神がつくり守護している国)なので、神道(しんとう::日本民族古来の神観念に基づく宗教的態度)に逆らうことは、一日として日月の恩恵に浴することが出来ない理由になります。倭姫の命が人に対して教え導かれるのは、「黒心なくして丹心をもて、清潔斎慎(汚いこころではなく、あかき心を持って、清く潔く謙虚にしなさい)

左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも万事たがふことなくして、太神(オオミカミ)につかうまつれ(神に仕える時には左に置くものは右に置かず、左に置くものは左に置き、不自然なことはしない)。元々本々故なり(常にはじめを意識して、初めに戻りなさい)。」と、言うことでした。

確かに君に仕え、神に仕え、国を治めて、また人をも教え導くことは、このような態度でなければと思われます。些細な事でも厳しく処理する心がなければ、大きな過ちを犯す原因になります。周易(しゅうえき::周代に生まれた易)にある、「霜を履堅氷に至(霜が降る時期が過ぎれば、氷が固く張る季節が来る。小さな兆候を見逃すと大きな災難に見舞われる)」と言うことを、

孔子が解釈して、「積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)あり、積不善の家に余殃(よおう)あり(祖先の善行のおかげで子孫は幸福を得、悪事の報いは子孫の災いとなる)。君を弑(しい)し父を弑すること一朝一夕の故にあらず(臣下が君主を殺したり、子供が親を殺すようなことは、ある日突然起こるものではない)。」と、仰せられました。

毫釐(ごうり::ほんの少し)も君主をおろそかにする心を持つ者は、必ず乱臣となります。芥蔕(かいたい::きわめてわずかなこと)も親をおろそかにする態度のある者は、間違いなく賊子(ぞくし::親不孝な子供)になります。このため、昔の聖人と言われる人は、「道(どう::人として踏み行うべきみち。仏の教え)は須臾(しゅゆ::少しの間)もはなるべからず。

はなるべきは道にあらず(道と言うものはしばらくの間でも離れてはいけない。離れられる道であれば、それは道でない)。」と、話されています。但し、その理論の本質でない部分を学んだだけで、根本を理解していなければ、ある事態に直面した時思いがけない過失を犯すこととなります。

その根本とは心に一物(いちもつ::心中に秘めた企みや、わだかまり)を持たないことを言います。それでもこの世に存在するものを否定してはいけません。天と地があり、君と臣もあります。善や悪の行為による報いは影のように必ず起こります。自分は欲望を捨てて、人を豊かにすることを第一に考え、

あらゆる判断を行う眼、耳、鼻や身などを鏡が物を照らすようにして、明解で迷いのないことが、真実の正道(しょうどう::道義的に正しい道)と言うのです。神代から時代が下っているからと自らをさげすんだりしてはいけません。天地が始まるのは、今日がその開始なので諦めてはならないと言う訳です。

これら以外にも君も臣も神から生まれたことは、それほど昔のことではありません。常に神仏の正しい見解を心に留め、神本来の願望を察知して、正しい行いを心掛け、決して邪心、邪念を持たないことに徹することである。


○第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫(なかつひめ)の命、五百城入彦皇子女(いおきいりひこのみこのむすめ)なり。大鷦鷯(おおさざき=仁徳天皇)の尊と申す。応神の御時、菟道稚皇子(うじのわかのみこ)と申すは最末の御子にてましまししを愛(うつくし=応神が)み給ひて、太子に立てむと思し召しけり。兄(このかみ)の御子達うけがひ給はざりしを、この天皇(=後の仁徳天皇)ひとりうけがひ給ひしによりて、応神悦びまして、菟道稚を太子とし、この尊を輔佐(ふさ)になん定め給ける。応神隠れましまししかば、御兄(このかみ)たち太子を失なはんとせられしを、この尊悟りて太子と心を一つにして彼(=兄たち)を誅(ちゅう)せられき。爰(ここ)に太子天位を尊に譲り給ふ。尊、堅くいなみ給、三歳になるまで互ひに譲りて位を空(むなし)くす。太子は山城の宇治にます。尊は摂津(つ)の難波にましけり。国々の御つぎ物もあなたかなたに受け取らずして、民の愁へとなりしかば、太子自ら失せ給ぬ。尊、驚き歎き給ふこと限りなし。されど逃れますべき道ならねば、癸酉(みづのととり)の年即位。摂津の国、難波高津の宮にまします。日嗣を受け給ひしより国を鎮め民を憐れみ給ふこと、例もまれなりし御事にや。民間の貧しきことを思して、三年の御調(みつぎ)を止められき。高殿に昇りて見給へば、賑(にぎわ)はしく見えけるによりて、「高き屋に昇りてみれば煙り立つ民のかまどはにぎはひにけり」とぞ詠ませ給ける。さて猶三年を許されければ、宮の中破れて雨露もたまらず。宮人の衣壊れてその装(よそお)ひ全(また)からず。御門(みかど)はこれを楽しみとなむ思しける。かくて六年と云ふに、国々の民、各々まゐり集りて大宮造りし、色々の御調を備へけるとぞ。ありがたかりし御政なるべし。天下を治め給ふこと八十七年。百十歳おましましき。

☆第十七代、仁徳(にんとく)天皇は応神天皇第一番目の子供です。御母は仲姫の命(ナカツヒメノミコト)で、五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこと::景行天皇の子供)の娘です。大鷦鷯(おおさざき)の尊(仁徳天皇)とも申します。応神天皇の御時、菟道稚皇子(うじのわかのみこ)と申し上げる皇子が居られましたが、

彼は父の応神天皇にとって末っ子でございましたので特に可愛がられ、皇太子に立てようと思われました。しかし年長の兄弟たちは承諾しなかったのですが、後の仁徳天皇一人が了承されたので、応神天皇は喜ばれ菟道稚を皇太子に立て、天皇の補佐をするよう定められました。応神天皇が崩御されると、

年長の兄弟たちは皇太子をなき者にしようと計画されたのを、この尊(後の仁徳天皇)が察知し皇太子と協力して兄たちを誅罰されました。そして皇太子は皇位を尊に譲られました。しかし尊は固く辞退し、三年にわたってお互い譲り合い、皇位は空位のまま過ぎました。その時皇太子は山城国の宇治に居られました。

そして尊(後の仁徳天皇)は摂津国の難波に居られました。各国からの貢納品も、お互いに譲り合って受け取られないので、民衆も困惑されてきたため皇太子は自ら命を縮められました。尊の驚きや嘆き悲しまれること並外れたものでした。とは言え、逃れることの出来ない状況に置かれているので、

癸酉(みずのととり::313年)の年に御即位されました。そして摂津国、難波高津の宮(なにわのたかつのみや)に皇居を遷されました。天皇の位をお継ぎになってから、国を安定させ民衆を思いやるお気持ちが過去に例のないほどお持ちでした。民間の生活の貧しさをお考えになって、三年にわたって徴税を中止されました。

皇居の高殿(たかどの::高い建物)に上られ見渡したところ、賑やかな情景に、
      「高き屋に昇りてみれば煙り立つ民のかまどはにぎはいにけり」

と、詠まれました。さてその後も三年にわたり徴税を停止しましたので、宮中の屋根も損傷が激しく、雨露も凌ぐことが出来ませんでした。宮中にお仕えする役人たちの衣服も損なわれ、儀式においてもまともな装いが出来なくなりました。天皇はこれも楽しいことだと思われました。このように六年が経過したころ、

国々の民が集まると、宮中の宮殿や殿舎を建造し、各種の貢納品も納められました。例の無いありがたい政治でございました。この天皇が天下を治められたのは八十七年間です。百十歳にて崩御されました。


○第十八代、履中(りちゅう)天皇は仁徳の太子。御母磐之姫(いわのひめ)の命、葛城の襲津彦(そつひこ)の女なり。庚子(かのえね)の年即位。また大和の磐余稚桜(いわれのわかさくら)の宮にまします。後の稚桜の宮と申す。天下を治め給ふこと六年。六十七歳おましましき。

☆第十八代、履中(りちゅう)天皇は仁徳天皇の皇太子です。御母は磐之姫の命(イワノヒメノミコト)で、葛城の襲津彦(そつひこ::武内宿禰の子供と言う説もあり)の娘です。庚子(かのえね::400年)の年に御即位されました。また都を磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)に遷されました。天下を治められたのは六年間です。六十七歳にて崩御されました。


○第十九代、反正(はんぜい)天皇は仁徳第三の子、履中同母の弟なり。丙午の年即位。河内の丹比(たじひ)の柴籬(しばがき)の宮にまします。天下を治め給ふこと六年。六十歳おましましき。

☆第十九代、反正(はんぜい)天皇は仁徳天皇の第三番目の子供で、履中天皇(りちゅうてんのう::第十七代天皇。400-405年)と同じ母親(磐之姫の命)の弟です。丙午(ひのえうま::406年)の年に御即位されました。都は河内の丹比(たじひ)の柴籬(しばがき)の宮に遷されました。天下を統治されたのは六年間です。六十歳にて崩御されました。


○第二十代、允恭(いんぎょう)天皇は仁徳第四の子、履中反正同母の弟なり。壬子(みづのえね)の年即位。大和の遠明日香(とおつあすか)の宮にまします。この御時までは三韓の御調年々に変はらざりしに、これより後はつねに怠りけりとなん。八年己未(つちのとひつじ)に当たりて、唐土の晉ほろびて南北朝となる。宋・齊・梁・陳あひつぎて起こる。これを南朝と云ふ。後魏・北齊・後周つぎつぎに起これりしを北朝と云ふ。百七十余年はならびて立ちたりき。この天皇天下を治め給ふこと四十二年。八十歳おましましき。

☆第二十代、允恭(いんぎょう)天皇は仁徳天皇第四番目の子供で、履中、反正天皇と同じ母親(磐之姫の命)の弟です。壬子(みずのえね::412年)の年に御即位されました。大和の遠明日香の宮(とおつあすかのみや)に皇居を定めました。この天皇の御時までは三韓からの朝貢は毎年変わらなかったのですが、

これ以降は不安定な状況になったようです。允恭天皇八年己未(つちのとひつじ::419年)の年に、中国では晉が滅亡し南北朝(晉と隋との中間の時代)となりました。宋(そう)、齊(せい)、梁(りょう)、陳(ちん)などの国が相次いで起こりました。これらの国々を南朝と言います。また後魏(こうぎ)、北齊(ほくせい)、後周(こうしゅう)の国が次々と起こり、

これらの国を北朝と言います。百七十余年にわたって並び立ちました。この允恭天皇は四十二年間天下を治められました。八十歳にて崩御されました。

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