1 神皇正統記 巻第三

   「十六代天皇以降、皇位の代を表す数字は一代のずれがあります。」

○第二十一代、安康天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中姫、稚渟野毛二派の皇子〈 応神の御子 〉女也。甲午年即位。大和穴穂宮にまします。大草香皇子を〈 仁徳御子 〉ころして其妻をとりて皇后とす。彼皇子の子眉輪王をさなくて、母にしたがひて宮中に出入しけり。天皇高楼の上に酔臥給けるをうかゞひて、さしころして、大臣葛城の円が家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おまし<き。

☆第二十一代、安康(あんこう)天皇は允恭天皇第二番目の子供です。御母は忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)で、稚渟野毛二派の皇子(わかぬけふたまたのみこ)【応神天皇の子供】の娘です。甲午(きのえうま::454年)の年に御即位されました。大和の穴穂宮(あなほのみや)に皇居を遷されました。

大草香皇子(おおくさかのみこ::仁徳天皇の皇子)を殺害し、彼の妻をめとって皇后にしました。大草香皇子の子供である眉輪王(まよわのおおきみ)はまだ幼いので母(中蒂姫命::ナカシヒメノミコト)の連れ子として宮中に入りました。眉輪王は安康天皇が宮中の高殿で酒に酔って伏せている所をねらって刺し殺し、大臣葛城の円(かつらぎのつぶら::葛城氏の豪族)の家に逃げ込みました。

この天皇は三年間統治されました。五十六歳にて崩御されました。


○第二十二代、雄略天皇は允恭第五子、安康同母の弟也。大泊瀬尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王及円の大臣を誅せらる。あまさへ其の事にくみせられざりし市辺押羽皇子をさへにころして位に即給。ことし丁酉の年也。大和の泊瀬朝倉の宮にまします。天皇性猛まし<けれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳冬十月に、伊勢の皇太神大和姫の命にをしへて、丹波国与佐の魚井の原よりして豊受太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞し給しによりて、明年戊午の秋七月に勅使をさしてむかへたてまつる。九月に度会の郡山田の原の新宮にしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴の宮に遷らしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武の始よりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまで大倭姫の命存生し給しかば、内外宮のつくりも、日の小宮の図形・文形によりてなさせ給けりとぞ。抑此神の御事異説まします。外宮には天祖天御中主の神と申伝たり。されば皇太神の託宣にて、此宮の祭を先にせらる。神拝奉るも先づ此宮を先とす。天孫瓊々杵の尊此宮の相殿にまします。仍天児屋の命・天太玉の命も天孫につき申て相殿にます也。これより二所太神宮と申。丹波より遷らせ給ことは、昔豊鋤入姫の命、天照太神を頂戴して、丹波の吉佐の宮にうつり給ける比、此神あまくだりて一所におはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせ給。それより此神は丹波にとまらせ給しを、道主の命と云人いつき申けり。古は此宮にて御饌をとゝのへて、内宮へも毎日におくり奉しを、神亀年中より外宮に御饌殿をたてて、内宮のをも一所にて奉となん。かやうの事によりて、御饌の神と申説あれど、御食と御気との両義あり。陰陽元初の御気なれば、天の狭霧・国の狭霧と申御名もあれば、猶さきの説を正とすべしとぞ。天孫さへ相殿にましませば、御饌の神と云説は用がたき事にや。此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おまし<き。

☆第二十二代、雄略(ゆうりゃく)天皇は允恭天皇の第五番目の子供で、安康天皇と同じ母親の弟です。大泊瀬尊(おおはつせのみこと)と申します。安康天皇が殺害された時、眉輪の王(まよわのおおきみ)及び葛城の円(かつらぎのつぶら)大臣を誅罰されました。そればかりか眉輪の王の事件に関わっていない市辺押羽皇子(いちのへのおしはのみこ)まで殺害し、皇位につかれました。

丁酉(ひのととり::457年)の年のことです。都を大和の泊瀬朝倉の宮(はつせのあさくらのみや)に遷されました。この天皇は性格的には勇猛なのですが、神と意思の疎通が取れていたとか。雄略天皇二十一年丁巳(ひのとみ::477年)の冬十月に、伊勢の皇太神(こうたいじん::天照大神)が大和姫の命を指導して、

丹波国与佐の魚井(まない::真名井か?)の原(京都府与謝郡笶原神社か?)より豊受太神をお迎えすることになりました。大和姫の命が天皇にお伺いを立てられたので、明年、雄略天皇二十二年戊午(つちのえうま::478年)の年、秋七月に勅使を派遣しお迎えされました。九月に度会郡山田の原の新宮(外宮)に鎮座されました。

垂仁天皇(すいにんてんのう::第十一代天皇。BC29-70年)の御代に、皇太神が五十鈴の宮にお遷りになられてから、四百八十四年になっています。初代天皇の神武天皇から数えてすでに千百余年が経過しています。またこれまで大倭姫の命(オオヤマトヒメノミコト::垂仁天皇の皇女)が生存されていましたから、

内宮、外宮の建立方法も、日の小宮(わかみや)の図形(ずぎょう)、文形(もんぎょう)に従ってお造りになられたと言うことです。そもそもこの神については異説があります。外宮については天祖(あまつみおや::天皇の祖先)、天御中主(あめのみなかぬし::豊受大神?)の神と申し伝えられています。

そこで皇太神の託宣(たくせん::お告げ)によって、この宮の祭りを先にすることになっています。参詣する時もこの外宮を先にお参りします。天孫(てんそん::天照大神の孫)、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)はこの宮の相殿神(主祭神と共に祭られる神)として祭られています。また天児屋の命(アメノコヤネノミコト::瓊瓊杵尊と共に天下った)

天太玉の命(アメノフトダマノミコト::瓊瓊杵尊と共に天下った)も天孫ですので同じく相殿神として祭られています。こういう訳で伊勢神宮は二所太神宮(にしょたいじんぐう)と言います。丹波よりお遷りになられたことは、昔豊鋤入姫の命(トヨスキイリヒメノミコト::第10代崇神天皇の皇女)が天照大神を推戴して丹波の吉佐の宮(よさのみや::元伊勢)に鎮座されたころ、

この神(豊受大神?)が天下りになられて一緒になられました。その後四年が過ぎて、天照大神は再び大和にお帰りになられました。それ以降この神が丹波に留まっておられたのを、道主の命(ミチヌシノミコト)と言う人がこの神にお仕えしてきました。昔はこの宮でお食事の用意をして、内宮にも毎日お送りしていたのを、

神亀(じんき・しんき。724-729年)年中より外宮に御饌殿(みけでん・みけどの)を建造し、内宮のお食事も一緒にお作りになられたとか。このような理由から御饌の神だと言う説もありますが、御食(みけ)と御気と二つの意味があります。陰陽の気とは、もともと混沌の中から澄んだ気が天になり、重く濁った気が地になったことを考慮し、

天の狭霧(アメノサギリ::霧の神)、国の狭霧(クニノサギリ::霧の神。天の狭霧と同様境界線の守護神)と言う名前もあることを思えば、やはり先の説(丹波の神)が正しいとします。(?)天孫さえも相殿に鎮座されていることを思えば、御饌の神だということは考えにくいことです。この天皇は二十三年間天下を統治しました。八十歳にて崩御されました。(ここ二十二代天皇の段不明解)


○第二十三代、清寧天皇は雄略第三の子。御母韓姫、葛城の円の大臣の女也。庚申の年即位。大倭の磐余甕栗の宮にまします。誕生の始、白髪おはしければ、しらかの天皇とぞ申ける。御子なかりしかば、皇胤のたえぬべき事を歎給て、国々へ勅使をつかはして皇胤を求らる。市辺の押羽の皇子、雄略にころされ給しとき、皇女一人、皇子二人ましけるが、丹波国にかくれ給けるを求出て、御子にしてやしなひ給けり。天下を治給こと五年。三十九歳おまし<き。

☆第二十三代、清寧(せいねい)天皇は、雄略天皇第三番目の子供です。御母は韓姫(カラヒメ)で、葛城の円(かつらぎのつぶら)大臣の娘です。庚申(かのえさる::480年)の年に即位されました。大倭(おおやまと::大和の美称)の磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)に都を遷されました。誕生の時白髪頭でお生まれになったので、しらかの天皇とも言われています。

お子さんがいませんので、皇統の絶えることを嘆かれ、国々に勅使を派遣して、天皇の血統をひく人物を探し求められました。市辺押羽皇子(いちのへのおしはのみこ)が雄略天皇に殺害された時、皇女一人と皇子二人がおられ、丹波国にお隠れになっているのを探し出し、我が子としてお育てしました。天下を統治されたのは五年間です。三十九歳にて崩御されました。


○第二十四代、顕宗天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中天皇孫也。御母■媛、蟻の臣女也。白髪天皇養て子とし給ふ。御兄仁賢先位に即給べかりしを、相共に譲まし<しかば、同母の御姉飯豊の尊しばらく位に居給き。されどやがて顕宗定りまし<しによりて、飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。乙丑の年即位。大和の近明日香八釣の宮にまします。天下を治給こと三年。四十八歳おまし<き。

☆第二十四代、顕宗(けんそう)天皇は、市辺押羽の皇子(いちのへのおしはのみこ)第三番目の子供で、履中(りちゅう)天皇のお孫さんになります。御母は■媛(ハエヒメ::草冠に夷)で、蟻の臣(ありのおみ)の娘です。白髪天皇(清寧天皇)が養子にされました。本来なら御兄君の仁賢(にんけん)が先に即位されるべきですが、お互い皇位を譲り合いましたので、同じ母を持つ姉の飯豊の尊(イイトヨノミコト::飯豊天皇)がしばらく皇位につかれました。しかしやがて顕宗に決まりましたので、飯豊天皇は天皇としてはその数にお入りになっていません。乙丑(きのとうし::485年)の年に即位されました。都を大和の近明日香八釣の宮(ちかつあすかのやつりのみや)に遷されました。天下を三年間統治されました。四十八歳にて崩御されました。


○第二十五代、仁賢天皇は顕宗同母の御兄也。雄略の我父の皇子をころし給しことをうらみて、「御陵をほりて御屍をはづかしめん。」との給しを、顕宗いさめまし<しによりて、徳のおよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。戊申の年即位。大和の石上広高の宮にまします。天下を治給こと十一年。五十歳おまし<き。

☆第二十五代、仁賢(にんけん)天皇は顕宗(けんそう)天皇と同じ母を持つ御兄君です。雄略天皇が自分の父である皇子(市辺押磐余皇子)を殺害したことを恨んで仁賢が、「雄略天皇の御陵を掘り返して遺骸を辱めてやろう」と話されたのを、顕宗がそのようなことはするものではないと、

お諫めされると仁賢は自分の徳の至らなさを恥じて、顕宗を先に皇位につかせることとしました。(この段、一般には仁賢と顕宗の立場が逆になっているようだ)戊申(つちのえさる::戊辰(つちのえたつ)488年の間違いでは)の年に即位されました。大和の石上広高の宮(いそのかみのひろたかのみや)に皇居を遷されました。天下を治められたのは十一年間です。五十歳にて崩御されました。


○第二十六代、武烈天皇は仁賢の太子。御母大娘の皇女、雄略の御女也。己卯の年即位。大和の泊瀬列城の宮にまします。性さがなくまして、悪としてなさずと云ことなし。仍天祚も久からず。仁徳さしも聖徳まし<しに、此皇胤こゝにたえにき。「聖徳は必百代にまつらる。」〈 春秋にみゆ 〉とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅すべき先蹤甚おほし。されば上古の聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器にあらざれば伝ことなし。■の子丹朱不肖なりしかば、舜にさづけ、舜の子商均又不肖にして夏禹に譲られしが如し。■舜よりこなたには猶天下を私にする故にや、必子孫に伝ことになりにしが、禹の後、桀暴虐にして国を失ひ、殷の湯聖徳ありしかど、紂が時無道にして永くほろびにき。天竺にも仏滅度百年の後、阿育と云王あり。姓は孔雀氏、王位につきし日、鉄輪飛降る。転輪の威徳をえて、閻浮提を統領す。あまさへ諸の鬼神をしたがへたり。正法を以て天下ををさめ、仏理に通じて三宝をあがむ。八万四千の塔を立て、舎利を安置し、九十六億千の金を棄て功徳に施する人なりき。其三世孫弗沙密多羅王の時、悪臣のすゝめによて、祖王の立たりし塔婆を破壊せんと云悪念をおこし、もろ<の寺をやぶり、比丘を殺害す。阿育王のあがめし■雀寺の仏牙歯の塔をこぼたんとせしに、護法神いかりをなし、大山を化して王及び四兵の衆をおしころす。これより孔雀の種永絶にき。かゝれば先祖大なる徳ありとも、不徳の子孫宗廟のまつりをたゝむことうたがひなし。此天皇天下を治給こと八年。五十八歳おまし<き。

☆第二十六代、武烈(ぶれつ)天皇は仁賢天皇の皇太子です。御母は春日大娘の皇女(カスガノオオイラツメノヒメミコ)で、雄略天皇の御娘です。己卯(つちのとう::499年)の年に即位されました。大和の泊瀬列城の宮(はつせのなみきのみや)に皇居を遷されました。性格的に良くない所があり、悪事と言う悪事は全て行ったようです。

そのためか皇位も永く続きませんでした。人に対する思いやりの心や、天子としての徳などもほとんど持ち合わせていなかったので、皇統はここに絶えることとなりました。「聖徳(せいとく::天子の素晴らしい徳)は必ず百代にまつらるる(百代にわたって尊重される)」【春秋(しゅんじゅう::中国の五経の一つ)に記載があります】とはよく言われることですが、

もし不徳の子孫がいれば、その趣旨たるものが失われること、過去にその例は非常に多くあります。そこで上古における聖賢(せいけん::知識、人格に優れた人物、天子)は、我が子であってもその愛に溺れることがないので、その器量(きりょう::品位、能力等)に問題があれば皇位を伝えることはありません。

(ぎょう::尭)の長男である丹朱(たんしゅ)が不肖(ふしょう::能力が劣っていること)であったので舜(しゅん::中国神話に登場する君主)に預け、舜の子供、商均(しょうきん)もまた不肖であったので、夏王朝の禹(う::夏王朝の創始者)に譲られたようなものです。■舜(尭舜?)より以降は天下を我がものとしようとするからか、帝位を必ず子孫に伝えていきましたが、

禹の後、桀(けつ::夏王朝最後の帝)が暴虐であったため国を滅ぼし、殷王朝の湯王(とうおう::殷王朝初代の王)は聖徳はお持ちでしたが、紂王(ちゅうおう::殷王朝最後の王)の治世時に暴虐な悪政を行ったため滅亡しました。天竺(てんじく::古代インド)においても、仏滅度(ぶつめつど::釈迦の死去)百年後に、阿育(あいく::アショーカ王)と言う王がいました。

姓は孔雀氏で、王位におつきになった日、鉄輪(てつりん::聖王が所持する七宝の一つ。他に金、銀、銅)が飛び降りてきました。そこで転輪王(てんりんおう::古代インドの理想的国王)としての威徳を得て、閻浮提(えんぶだい::人間世界)を統治することになりました。そればかりでなく諸々の鬼神(きしん::乱暴な神)を従えました。

正方(せいほう::正しい方法や行動)を基礎とした政治で天下を統治し、仏理(ぶつり::仏教に関する理論等)に詳しく三宝(さんぽう::仏、法、僧)を尊びました。また八万四千基の塔を建立し、舎利(しゃり::釈迦の遺骨)を安置し、九十六億千と言う大金を喜捨して功徳を施しました。その三世の孫、弗沙密多羅王(ほつしゃみつたらおう)の時代に悪臣の勧めによって、

祖王であるアショーカ王の立てられた塔婆(とうば::供養や報恩をするための建造物)を破壊しようと馬鹿な考えを持ち、多くの寺院を破壊するとともに比丘(びく::修行僧や僧)を殺害しました。また阿育王の信仰厚い鶏雀寺(けいじゃくじ)の仏牙歯(ぶつげし)の塔(釈迦の歯をまつってある塔のことか?)を破壊しようとした時に、

護法神(ごほうしん::仏法を守護する神々)が怒りをあらわにして、大山の姿を変えると王や四兵(?)の衆を押し殺しました。これによって孔雀の一族は絶えてしましました。と言うことは先祖がいかに大きな徳をお持ちであっても、不徳の子孫が宗廟(そうびょう::先祖をまつるところ)の祭儀を中断すること疑う余地はないようです。この武烈天皇は天下を八年間統治されました。五十八歳にて崩御されました。


○第二十七代、第二十世、継体天皇は応神五世の御孫也。応神第八御子隼総別の皇子、其子大迹の王、其子私斐の王、其子彦主人の王、其子男大迹の王と申は此天皇にまします。御母振姫、垂仁七世の御孫也。越前国にましける。武烈かくれ給て皇胤たえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤を求奉けるに、此天皇王者の大度まして、潜龍のいきほひ、世にきこえ給けるにや。群臣相議て迎奉る。三たびまで謙譲し給けれど、つひに位に即給ふ。ことし丁亥の年也〈 武烈かくれ給て後、二年位をむなしくす 〉。大和の磐余玉穂の宮にまします。仁賢の御女手白香の皇女を皇后とす。即位し給しより誠に賢王にまし<き。応神御子おほくきこえ給しに、仁徳賢王にてまし<しかど、御末たえにき。隼総別の御末、かく世をたもたせ給こと、いかなる故にかおぼつかなし。仁徳をば大鷦鷯の尊と申。第八の皇子をば隼総別と申。仁徳の御代に兄弟たはぶれて、鷦鷯は小鳥也、隼は大鳥也と争給ことありき。隼の名にかちて、末の世をうけつぎ給けるにや。もろこしにもかゝるためしあり〈 左伝にみゆ 〉。名をつくることもつゝしみおもくすべきことにや。それもおのづから天命なりといはば、凡慮の及べきにあらず。此天皇の立給しことぞ思外の御運とみえ侍る。但、皇胤たえぬべかりし時、群臣択求奉き。賢名によりて天位を伝給へり。天照太神の御本意にこそとみえたり。皇統に其人ましまさん時は、賢諸王おはすとも、争か望をなし給べき。皇胤たえ給はんにとりては、賢にて天日嗣にそなはり給はんこと、即又天のゆるす所也。此天皇をば我国中興の祖宗と仰ぎ奉るべきにや。天下を治給こと二十五年。八十歳おまし<き。

☆第二十七代、第二十世、継体(けいたい)天皇は応神(おうじん)天皇の五世の御孫です。応神天皇第八番目のお子さんである隼総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の子供が大迹の王(おおとのおおきみ)で、その子供が私斐の王(しいのおおきみ::私斐は弘斐または乎斐の間違いと言われている)であり、

またその子供が継体天皇の父と言われている彦主人の王(ひこあるじのおおきみ)で、その子供の男大迹の王(おおどのおおきみ)と言われているのがこの天皇でございます。御母は振姫(フリヒメ)で、垂仁(すいにん)天皇七世の御孫です。越前国に居られました。先代の武烈(ぶれつ)天皇が崩御されて皇統が絶えてしまったので、

群臣らは今後を嘆き心配され、国々に役人を派遣して、少しでも天皇の血統に近いと思える人を探し求めた結果、この天皇が王者としての度量も充分であり、帝位につく機会にはめぐりあっていませんが、世間での評判も非常に良い英雄と思われました。そこで群臣らは評議の結果、天皇としてお迎えすることになりました。

要請に三度まで辞退されたのですが、ついに皇位におつきになることを了承しました。丁亥(ひのとい::510年)の年(507年では?)のことです【武烈天皇が崩御されてから、二年間皇位は空位でした】。大和の磐余玉穂の宮(いわれのたまほのみや)に皇居を遷されました。(三度目の遷宮)仁賢(にんけん)天皇の皇女、手白香の皇女(タシラカノヒメミコ)を皇后にされました。

即位されてからは知と言い徳と言い、誠に申し分のない天皇でございました。仁徳(にんとく)天皇も申し分ない立派な天皇でございましたが、子供が居ませんでした。隼総別皇子(はやぶさわけのおうじ)の子孫が、このようにして天下を治めることになったのも一体どういう訳なのか、おかしな話ではあります。

仁徳天皇のことは大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と言います。そして第八の皇子のことは隼総別(はやぶさふさわけ)と言います。仁徳天皇の御代にこの兄弟二人がふざけて、鷦鷯(みそさざい)は小鳥ではないか、隼(はやぶさ)は大きな鳥であると言い争いをされたことがあります。

隼の名前に勝って次の時代を受け継がれたのでしょうか。古代中国にも似たような話があります【左伝(さでん::歴史書である春秋の注釈書、春秋左氏伝のこと)に記載があります】。名前をつけるにも慎重にするようにと言うことなのでしょうか。しかしそれも天命によるものだと言われると、我々のような凡人の考えでは、手におえるものではありません。

この天皇が御即位されたことは、考えられないほどの御運をお持ちだったようです。ただしこの天皇は、皇統が絶えそうになった時、群臣が選考を重ねて推戴させていただきました。申し分のないお方でしたので、皇位をお継になられたのです。天照大神の御本心にかなったものと思われます。

皇位を継ぐべきふさわしい人が居られない時は、たとえ立派な王族らが居られたとしても、どうしてその望みがかなえられると言うのでしょうか。皇統が絶えそうになった時には、運が良いだけで皇位を継ぐことも、これもまた天の許すところなのでしょう。この継体天皇こそ我が国を再び盛んな国に仕立て上げた君主と仰ぐべきでしょう。天下を統治されたのは二十五年間です。八十歳にて崩御されました。


○第二十八代、安閑天皇は継体の太子。御母は目子姫、尾張の草香の連の女也。甲寅年即位。大和の勾金橋の宮にまします。天下を治給こと二年。七十歳おまし<き。

☆第二十八代、安閑(あんかん)天皇は継体天皇の皇太子です。御母は目子姫(メノコヒメ)で、尾張の草香の連(おわりのくさかのむらじ::古代の地方豪族)の娘です。甲寅(きのえとら::534年)の年(531年では?)に即位されました。大和の勾金橋の宮(まがりのかなはしのみや)に皇居を遷されました。天下を治められたのは二年間です。七十歳にて崩御されました。


○第二十九代、宣化天皇は継体第二の子、安閑同母の弟也。丙辰の年即位。大和の檜隈廬入野の宮にまします。天下を治給こと四年。七十三歳おまし<き。

☆第二十九代、宣化(せんか)天皇は継体天皇の第二番目の子供です。安閑天皇と同じ母親の弟です。丙辰(ひのえたつ::536年)の年に即位されました。大和の檜隈廬入野の宮(ひのくまのいおりののみや)に皇居を遷されました。天下を治められたのは四年間です。七十三歳にて崩御されました。


○第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体第三の子。御母皇后手白香の皇女、仁賢天皇の女也。両兄まし<しかど、此天皇の御すゑ世をたもち給。御母方も仁徳のながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。庚申年即位。大倭磯城嶋の金刺の宮にまします。十三年壬申十月に百済の国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。釈迦如来滅後一千十六年にあたる年、もろこしの後漢の明帝永平十年に仏法はじめて彼国につたはる。それより此壬申の年まで四百八十八年。もろこしには北朝の齊文宣帝即位三年、南朝の梁簡文帝にも即位三年也。簡文帝の父をば武帝と申き。大に仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申けるによりてすてられにき。されど此国に三宝の名をきくことは此時にはじまる。又、私にあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳まし<て三宝を感ぜられけるにこそ。群臣の諌によりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや。昔、仏在世に、天竺の月蓋長者、鋳たてまつりし弥陀三尊の金像を伝へてわたし奉りける、難波の堀江にすてられたりしを、善光と云者とり奉て、信濃の国に安置し申き。今の善光寺これ也。此御時八幡大菩薩始て垂迹しまします。天皇天下を治給こと三十二年。八十一歳おまし<き。

☆第三十代、第二十一世、欽明(きんめい)天皇は継体(けいたい)天皇第三番目の子供です。御母は継体天皇の皇后である手白香皇女(タシラカノヒメミコ)で、仁賢(にんけん)天皇の娘です。二人の兄君が居られましたが、この継体天皇の末っ子が天下を統治されました。御母方も仁徳天皇の直系でございましたから、

今なお仁徳天皇の聖徳も尽きることがなかったので、このように定まったのでしょうか。庚申(かのえさる::540年)の年に即位されました。大倭(おおやまと::大和の古称)の磯城嶋の金刺の宮(しきしまのかなさしのみや)に皇居を遷されました。欽明天皇十三年、壬申(みずのえさる::552年)の年十月に百済の国から仏(仏像)、法(経文)、僧(僧侶)などが伝来しました。

我が国に初めて仏教が伝来したのです。釈迦如来が入滅(にゅうめつ::死去)されて以後、一千十六年にあたる年、中国では後漢の明帝(めいてい::後漢第二代皇帝)永平十年(えいへい::67年)に仏法(ぶっぽう::仏教)が初めて後漢に伝わりました。(伝来については現代は伝説的扱い)それ以来この壬申の年(552年)まで、四百八十八年(四百八十五年?)が経っています。

中国では北朝の齋(せい::北斉国)の初代皇帝、文宣帝(ぶんせんてい)の即位後三年であり、南朝では梁(りょう::梁王朝)の第二代皇帝、簡文帝(かんぶんてい)においても即位後三年(四年?)です。簡文帝の父は武帝(ぶてい::南朝梁の初代皇帝。在位502-549年)と言います。彼は深く仏教を信仰し尊崇されました。欽明天皇の初期頃は武帝の御代と同時代になります。

仏教が初めて我が国に伝来した時、他国の神を崇め奉ることは、我が国の神の思し召しに背くのではないかと、群臣らが強くお諫めしたので見過ごすことになりました。しかし、この国において三宝(仏法僧)の名(な::評判、組織など)を聞くことは、この時より始まりました。また私的に崇める人々もいました。

天皇は天子としての徳に違えないようにして、三宝に心をお寄せになっていたのでしょう。群臣の諫めによって仏教をお認めにならなかったとは言え、天皇の御本心でなかったのではないでしょうか。昔、釈迦仏が在世の時、天竺(てんじく::古代インド)の月蓋長者(がっかいちょうじゃ::古代インドの大富豪)が鋳造された弥陀三尊の金像が我が国に伝えられたのですが、

曾我氏と物部氏の仏教、反仏教の争いに中、難波の堀江(ほりえ::人工の川)に投げ捨てられたのを、善光と言う者が拾い上げ信濃の国に安置されました。今の善光寺がそうです。またこの天皇の御代に八幡大菩薩が初めて垂迹(すいじゃく::仏や菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿で現れること。八幡神が八幡大菩薩になる)されました。この天皇が天下を治められたのは三十二年間です。八十一歳にて崩御されました。


○第三十一代、第二十二世、敏達天皇は欽明第二の子。御母石媛の皇女、宣化天皇の女也。壬辰年即位。大倭磐余訳語田の宮にまします。二年癸巳年、天皇の御弟豊日皇子の妃、御子を誕生す。厩戸の皇子にまします。生給しよりさま<”の奇瑞あり。たゞ人にましまさず。御手をにぎり給しが、二歳にて東方にむきて、南无仏とてひらき給しかば、一の舎利ありき。仏法流布のために権化し給へること疑なし。此仏舎利は今に大倭の法隆寺にあがめ奉る。天皇天下を治給こと十四年。六十一歳おまし<き。

☆第三十一代、第二十二世、敏達(びだつ)天皇は欽明(きんめい)天皇第二番目の子供です。御母は石媛の皇女(イシヒメノヒメミコ)で、宣化(せんか)天皇の娘です。壬辰(みずのえたつ::572年)の年に即位されました。大倭(おおやまと::大和の古称)の磐余訳語田の宮(いわれおさだのみや)に皇居を遷されました。

敏達天皇二年、癸巳(みずのとみ::573年)の年に天皇の弟君である豊日皇子(とよひのおうじ::欽明天皇の第四皇子)の妃が、お子さんをご出産されました。厩戸皇子(うまやどのおうじ::後の聖徳太子)でございます。お生まれになられた時より、様々な奇瑞(きずい::めでたいことの前兆として起こる不思議な現象)がありました。とても普通の人とは思われませんでした。

お生まれになった時、お手を握り締めておられましたが、二歳になって東方を向き、南无仏(なもぶつ::南無物)と言いながら手をお開きになると、一粒の舎利(しゃり::仏の遺骨)がありました。仏法流布(ぶっぽうるふ::仏教の布教)のために権化(ごんげ::仏、菩薩が人々を救済するため、この世に仮の姿となって現れること)されたこと疑う余地はありません。この仏舎利は今も大倭の法隆寺で大切に祀られています。この天皇が天下を治められたのは十四年間です。六十一歳にて崩御されました。


○第三十二代、用明天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫、蘇我の稲目大臣の女也。豊日の尊と申。厩戸の皇子の父におはします。丙午年即位。大和の池辺列槻の宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布せむとし給けるを、弓削守屋の大連かたむけ申、つひに叛逆におよびぬ。厩戸の皇子、蘇我の大臣と心を一にして誅戮せられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治給こと二年。四十一歳おまし<き。

☆第三十二代、用明(ようめい)天皇は欽明(きんめい)天皇第四番目の子供です。御母は堅塩姫(キタシヒメ)で、蘇我の稲目(そがのいなめ::古墳時代の豪族)大臣(おおおみ::朝政の最高官)の娘です。豊日の尊(とよひのみこと)とも申します。また厩戸(うまやど)の皇子の父でございます。丙午(ひのえうま::586年)の年に即位されました。

大和の池辺列槻の宮(いけのへのなみつきのみや)に皇居を遷されました。天皇は仏教を深く信仰され、我が国に流布されようとしましたが、弓削守屋(ゆげのもりや::物部守屋)の大連(おおむらじ::有力豪族)が反対し、とうとう反逆にまで進みました。しかし厩戸皇子が蘇我の大臣(そがのおおおみ)と協力して守屋を誅罰され、早速仏教をお広めになられました。この天皇が天下を治められたのは二年間です。四十一歳にて崩御されました。


○第三十三代、崇峻天皇は欽明第十二の子。御母小姉君の娘。これも稲目の大臣の女也。戊申年即位。大和の倉橋の宮にまします。天皇横死の相みえ給。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子奏給けりとぞ。天下を治給こと五年。七十二歳おまし<き。或人の云ふ。外舅蘇我の馬子大臣と御中あしくして、彼大臣のためにころされ給きともいへり。

☆第三十三代、崇峻(すしゅん)天皇は欽明(きんめい)天皇第十二番目の子供です。御母は小姉君の娘(コアネノキミノイツラメ)で、これも蘇我稲目の大臣の娘です。戊申(つちのえさる::588年)の年に即位されました。大和の倉橋(梯)の宮(くらはしのみや)に皇居を遷されました。天皇には横死(おうし::不慮の死)の相(そう::運勢や吉凶)が感じられました。

慎重に行動されるよう、厩戸皇子が天皇に申し上げられたそうです。この天皇は五年間天下を統治されました。七十二歳にて崩御されました。世間の噂では、外舅(がいきゅう::妻の父)蘇我の馬子(うまこ)大臣との仲が悪かったので、彼の大臣のため、殺されたとか言われています。


○第三十四代、推古天皇は欽明の御女、用明同母の御妹也。御食炊屋姫の尊と申。敏達天皇皇后とし給〈 仁徳も異母の妹を妃とし給ことありき 〉。崇峻かくれ給しかば、癸丑年即位。大倭の小墾田の宮にまします。昔神功皇后六十余年天下を治給しかども、摂政と申て、天皇とは号したてまつらざるにや。此みかどは正位につき給にけるにこそ。即厩戸の皇子を皇太子として万機の政をまかせ給。摂政と申き。太子の監国と云こともあれど、それはしばらくの事也。これはひとへに天下を治給けり。太子聖徳まし<しかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子いまだ皇子にてまし<し時、逆臣守屋を誅し給しより、仏法始て流布しき。まして政をしらせ給へば、三宝を敬、正法をひろめ給こと、仏世にもことならず。又神通自在にまし<き。御身づから法服を着して、経を講じ給しかば、天より花をふらし、放光動地の瑞ありき。天皇・群臣、たふとびあがめ奉ること仏のごとし。伽藍をたてらるゝ事四十余け所におよべり。又此国には昔より人すなほにして法令なんどもさだまらず。十二年甲子にはじめて冠位と云ことをさだめ〈 冠のしなによりて、上下をさだむるに十八階あり 〉、十七年己巳に憲法十七け条をつくりて奏し給。内外典のふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇悦て天下に施行せしめ給き。此ころほひは、もろこしには隋の世也。南北朝相分しが、南は正統をうけ、北は戎狄よりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。隋は北朝の後周と云しがゆづりをうけたりき。後に南朝の陳をうちたひらげて、一統の世となれり。此天皇の元年癸丑は文帝一統の後四年也。十三年乙丑は煬帝の即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。隋帝の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子のの給けるは、「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」とて、返報をもかゝせ給、さま<”饗祿をたまひて使をかへしつかはさる。是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使となむなづけられしに、二十七年己卯の年、隋滅て唐の世にうつりぬ。二十九年辛巳の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に喪するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱を聖徳となづけ奉る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おまし<き。

☆第三十四代、推古(すいこ)天皇は、欽明(きんめい)天皇の皇女で、用明(ようめい)天皇と同じ母親(堅塩媛)の御妹です。御食炊屋姫の尊(ミケカシキヤヒメノミコト)と申します。敏達(びだつ)天皇が皇后(額田部皇女(推古天皇の諱)::ヌカタベノヒメミコ)にされたこともあります【仁徳(にんとく)天皇も異母の妹を妃にされたことがあります】。

崇峻(すしゅん)天皇が崩御されたので、癸丑(みずのとうし::593年)の年に即位されました。大倭(おおやまと)の小墾田の宮(おはりだのみや)に皇居を遷されました。昔、神功(じんぐう)皇后が六十余年間天下を統治されたことがありますが、摂政(せっしょう)であると言って、天皇とはお名乗りになられませんでした。

しかし、この推古天皇は正式に皇位におつきになられたのです。すぐに厩戸皇子(うまやどのおうじ::後の聖徳太子)を皇太子とされ、政治向きの事、全てをお任せになられました。摂政(せっしょう::天皇に代わって政治を行うこと)と言います。太子の監国(かんこく::天子が地方を巡幸する間、太子が国政を代行すること)と言うこともありますが、それは一時的なことです。

今回の場合は天下の統治に専念されました。この皇太子は智恵や人徳など全てに勝っておられましたので、天下の人々が太陽のように彼の後を追い、仰ぎ見ることは雲のようでした。太子がいまだ皇子としておられた時、逆臣である物部守屋(もののべのもりや)を誅罰したことによって、仏法(ぶっぽう::仏教)が初めてこの国に広がりました。

まして今は政治を行っておられますから、三宝(さんぽう::仏、法、僧)を敬い、正法(しょうぼう::仏教)を広められることは仏世(ぶっせ::仏の在世中)と異なりませんでした。また彼は神通自在(じんつうじざい::どんなことも計り知れない不思議な力によって、自由自在になし得ること)でございました。ご自身自ら法服(ほうふく::僧の着る法衣)を着して、

読経されると天より花を降らし、放光動地(ほうこうどうち::体から光を発したり、大地を動かすこと)の瑞(ずい::めでたいこと)がありました。天皇や群臣が彼を貴び尊敬すること釈迦仏に対するようでした。伽藍(がらん::仏道を修行する寺院)を建造されること四十余ヶ所にもなりました。また我が国では昔から人々が素直(すなお::従順で正直)でしたから、

法令(人を規制するおきて等)など定まっていませんでした。推古十二年甲子(きのえね::604年)に初めて冠位(かんい::朝廷における席次を示す階級制度)と言うものを定め【冠の種類によって上下を定めるのに十八(十二?)段階あります】、推古天皇十七年己巳(つちのとみ::609年)に憲法十七ヶ条を作成し、天皇に申し上げました。

内外典(ないげてん::仏教やそれ以外の書物)の奥深い意味を検討し、その真意を簡潔にして要領よくまとめてお作りになられました。天皇はお喜びになり、天下に対しこの憲法を施行(しこう::法令の効力を発生させること)されました。この時代、中国においては隋の治世でした。彼の国は南朝、北朝に分かれていました。

そして南朝は中国本来の系統を受け継ぎ、北朝は戎狄(じゅうてき::西方や北方の非文明人を卑しんでいう言葉)が起こした国々だったのですが、中国は北朝が支配していました。隋は北朝の北周(ほくしゅう)と言う国の帝、静帝(せいてい::北周の第五代皇帝)より禅譲を受けて建国しました。その後南朝の陳(ちん)国を征伐し、

中国を統一し支配する世となりました。この推古天皇の元年、癸丑(みずのとうし::593年)は文帝(ぶんてい::隋の建国者)が統一してから四年後にあたります。また推古天皇十三(十四?)年乙丑(きのとうし::605年)の年は煬帝(ようだい::隋朝第二代皇帝)の即位元(二?)年にあたります。隋国より我が国に初めて使者を派遣し、親しい関係を結ぼうとしました。

隋国皇帝からの文書に、「皇帝恭問倭皇。」(皇帝は謹んで倭国の皇に質問いたします)とあるのを、これは中国の皇帝が諸候王(しょこうおう::特定の領域を支配する諸領主など)に書を送る時の儀礼的言葉であると、群臣らが不審を抱いて話すのを皇太子は、「皇の字は容易に使用する言葉ではないから」と言って、

返事を書かせられ色々ともてなすと共に、様々な土産物を持たせて使者を帰されました。これ以降我が国からも常に使者を派遣されました。そしてその使者を、大胆にも遣隋大使と名付けられたのですが、推古天皇二十七(二十八?)年己卯(つちのとう::619年)の年、隋は滅亡し唐(とう::618-907年)の時代にうつりました。

推古天皇二十九(三十?)年辛巳(かのとみ::621年)の年に皇太子(厩戸皇子)は亡くなられました。御年四十九歳でございました。天皇のお嘆き悲しみをはじめとして、天下の人々が悲しみ惜しむ声は、父母の喪に対するようでした。本当なら皇位をもお継ぎするはずでしたが、この皇太子は人々を救済するため、

この世に現れた仏か菩薩のことなので、きっと何か訳があるのでしょうか。御諱(いみな::人の死後にその人を尊んで贈る称号)を聖徳と名付けました。この天皇が天下を統治されたのは三十六年間です。七十歳にて崩御されました。


○第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも敏達の御女也。推古天皇は聖徳太子の御子に伝へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫にまします。又太子御病にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひまししに、天下のことを太子の申付給へりけるとぞ。癸丑年即位。大倭の高市郡岡本の宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おまし<き。

☆第三十五代、第二十四世、舒明(じょめい)天皇は忍坂大兄の皇子(おしさかおおえのおうじ::敏達天皇の第一皇子)の子供で、敏達(びだつ)天皇の御孫です。御母は糠手姫の皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)で、この方も敏達天皇の御娘です。推古(すいこ)天皇は聖徳太子のお子さん(山背大兄王(やましろのおおえのおう)に皇位をお伝えしたいと思われたでしょう。

しかしながら舒明天皇はまさしく敏達天皇の御孫であり、欽明(きんめい)天皇の嫡曽孫(ちゃくそうそん::正統の曾孫)でございます。また聖徳太子が御病にお伏せになっている時、推古天皇がこの皇子(田村皇子=舒明天皇)をお見舞いの使者として訪問させたところ、聖徳太子が天下のことを頼むと言われたそうです。

(己?)(みずのと(つちのと?)うし::629年)の年に即位されました。大倭(おおやまと::大和の古称)の高市岡本の宮(たかいちおかもとのみや)に皇居を遷されました。この即位された年は、中国では唐の初期、貞観(じょうがん::元号名)三年(己丑::629年)に当たります。この天皇が天下を治められたのは十三年間です。四十九歳にて崩御されました。


○第三十六代、皇極天皇は茅渟王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曾孫也。御母吉備姫の女王と申き。舒明天皇皇后とし給。天智・天武の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしまししかば、壬寅の年即位。大倭明日香河原の宮にまします。此時に蘇我蝦夷の大臣〈 馬子の大臣の子 〉ならびにその子入鹿、朝権を専にして皇家をないがしろにする心あり。其家を宮門と云、諸子を王子となむ云ける。上古よりの国紀重宝みな私家にはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくまし<しをほろぼし奉る。こゝに皇子中の大兄と申は舒明の御子、やがて此天皇御所生也。中臣鎌足の連と云人と心を一にして入鹿をころしつ。父蝦夷も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼にけり。蘇我の一門久く権をとれりしかども、積悪のゆゑにやみな滅ぬ。山田石川丸と云人ぞ皇子と心をかよはし申ければ滅せざりける。此鎌足の大臣は天児屋根の命二十一世孫也。昔天孫あまくだり給し時、諸神の上首にて、此命、殊に天照太神の勅をうけて輔佐の神にまします。中臣と云ことも、二神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。其孫天種子の命、神武の御代に祭事をつかさどる。上古は神と皇と一にまし<しかば、祭をつかさどるは即政をとれる也〈 政の字の訓にても知べし 〉。其後天照太神、始て伊勢国にしづまりましし時、種子の命のすゑ大鹿嶋の命祭官になりて、鎌足大臣の父〈 小徳冠 〉御食子までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲をたて、世に寵せられしによりて、祖業をおこし先烈をさかやかされける、無止こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍れ。後に内臣に任じ大臣に転じ、大織冠となる〈 正一位の名なり 〉。又中臣をあらためて藤原の姓を給らる〈 内臣に任ぜらるゝ事は此御代にはあらず。事の次にしるす 〉。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽の王に譲給。御名を皇祖母の尊とぞ申ける。

☆第三十六代、皇極(こうぎょく)天皇は茅渟王(ちぬのおおきみ::忍坂大兄の皇子の子供)の娘で、忍坂大兄の皇子(おしさかのおおえのおうじ)の孫であり、敏達(びだつ)天皇の曾孫です。御母は吉備姫(キビヒメ)の女王と申されます。また舒明(じょめい)天皇は皇極天皇を皇后にされました。そしてお生まれになった天智(てんじ)天皇、天武(てんむ)天皇の御母親です。

舒明天皇が崩御された時、皇子はまだ幼かったので、壬寅(みずのえとら::642年)の年に即位されました。大倭明日香河原(やまとのあすかのかわら)の宮に皇居を遷されました。この当時、蘇我蝦夷の大臣(そがのえみしのおおおみ)【馬子(うまこ::蘇我馬子)の大臣の子供です】とその子供入鹿(いるか::蘇我入鹿)は、朝廷の権限を我が物にして、

天皇家を軽んじる気持ちが強くなっていました。そこで我が家のことを宮門(きゅうもん::宮上の門(みかど)と呼ばせた)と言い、子供らのことを王子と言う有様です。上古(じょうこ::大昔)より伝わってきている国紀(記?くにつふみ::国家の歴史書等)や、重宝(ちょうほう::貴重な品々)などを全て自分の屋敷に運び込みました。

中でも蘇我入鹿の悖逆(はいぎゃく::謀反を起こすこと)の意思が強かったのです。聖徳太子のお子さん達を何ら罪もないのに、滅亡に追いやりました。その頃皇子、中大兄(なかのおおえ)と言う舒明天皇の第二番目の子供、やがて天皇(天智天皇)になる方が御所で誕生しました。(?)

そして中臣鎌足(なかとみのかまたり=藤原鎌足)の連(むらじ::古代の姓(かばね::氏族の尊卑を表すための階級的称号)の一つ)と言う者と協力して入鹿を殺害しました。入鹿の父である蘇我蝦夷も、屋敷に火をかけて自害しました。国紀も重宝も全て焼けてしまいました。蘇我の一門は長く権力をほしいままにしていましたが、悪事の積み重ねが災いしたのか、皆滅び去りました。

この変事(乙巳の変::いっしのへん。大化の改新)の時、山田石川丸(蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)と言う人は、中大兄の皇子の計画に賛同し、殺害に協力したので滅亡は逃れました。この中臣鎌足の大臣と言う者は、天児屋根の命(アメノコヤネノミコト)から二十一世の孫です。

昔、天孫、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天下られた時、尊に随伴して天下った諸神々の長であり、特にこの命は天照大神の指示を受けて、瓊瓊杵尊の補佐をする神でございました。中臣(なかとみ)と言う名乗りも二神(瓊瓊杵尊と一緒に天下った他の二神(天太玉命、思金命))の中で、神の御心を和やかにするためだったそうです。(?)

天児屋根命の孫である天種子の命(アメノタネコノミコト)は神武天皇(じんむてんのう::初代天皇)の御代に、朝廷にて神事に携わっていました。上古(じょうこ::大昔)においては、神と天皇は一体でございましたから、祭を司ると言うことは、すなわち政治に携わると言うことです【政の字を訓読み(まつりごと)することによって分かります】。

その後、天照大神が初めて伊勢国に鎮座された時、種子の命の子孫である大鹿嶋の命(オオカシマノミコト)が祭官(さいかん::祭事を主宰する役人)になり、鎌足大臣の父【小徳冠(しょうとくかん::冠位十二階の一つ)】である中臣御食子(なかとみのみけこ)までもその官としてお仕えしました。やがて鎌足の時代になって大きな功績があり、

世の中に認められ重用されることになり、先祖から受け継いできた家系を再び勢いづかせ栄えること、並大抵なものではありませんでした。これも神代から今なお残っている風習みたいなものですから、当然のことと思わなければならないでしょう。後には内臣(うちつおみ::役職の一つ。天皇の最高顧問)に任じられその後大臣(おおおみ::最高行政機関の長)になり、

大織冠(だいしょっかん::冠位制で最高の冠位)となりました【後の正一位の別称みたいなものです】。また中臣の名前を改め、藤原の姓を賜りました【内臣に任じられたのは、この時代ではありません。何かの折に書くことにします】。この皇極天皇は天下を三年間統治され、その後同じ母親の弟御である軽の王(かるのみこ::後の孝徳天皇)に皇位を譲られました。

そしてその後は皇祖母の尊(スメミオヤノミコト::孝徳天皇より賜った称号)と称することになりました。


○第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。乙巳年即位。摂津国長柄豊崎の宮にまします。此御時はじめて大臣を左右にわかたる。大臣は成務の御時武内の宿禰はじめてこれに任ず。仲哀の御代に又大連の官をおかる。大臣・大連ならびて政をしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官をさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おまし<き。

☆第三十七代、孝徳(こうとく)天皇は、皇極(こうぎょく)天皇と同じ母親の弟です。乙巳(きのとみ::645年)の年に即位されました。摂津国長柄豊崎の宮(ながらのとよさきのみや)に皇居を遷されました。この天皇の御時はじめて大臣が左右に分かれました。大臣は成務(せいむ::第十三代天皇。在位131-191年)天皇の御時、武内の宿禰(たけうちのすくね)が初めてこの地位に就きました。

そして仲哀(ちゅうあい::第十四代天皇。在位192-200年)天皇の御代に、また大連(おおむらじ)の官を置かれました。その結果、大臣と大連が並んで政治に携わることになりました。しかしこの孝徳天皇の御時に大連を廃止し、左右の大臣を新設しました。また八省百官(はっしょうひゃっかん::律令制の官制機構とその全体をさす言葉)をお定めになりました。

中臣の鎌足を内臣(うちつおみ)にされました。天下を統治されたのは十年間です。五十歳にて崩御されました。


○第三十八代、齊明天皇は皇極の重祚也。重祚と云ことは本朝にはこれに始れり。異朝には殷大甲不明なりしかば、伊尹是を桐宮にしりぞけて三年政をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちを悔て徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晉世に桓玄と云し者、安帝の位をうばひて、八十日ありて、義兵の為にころされしかば、安帝位にかへり給。唐の世となりて、則天皇后世をみだられし時、我所生の子なりしかども、中宗をすてて廬陵王とす。おなじ御子予王をたてられしも又すててみづから位にゐ給。後に中宗位にかへりて唐の祚たえず。予王も又重祚あり。是を睿宗と云ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極の重祚を齊明と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣をおもくするゆゑ歟。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯年即位。このたびは大和の岡本にまします。後の岡本の宮と申。此御世はもろこしの唐高宗の時にあたれり。高麗をせめしによりてすくひの兵を申うけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ給。されど三韓つひに唐に属ししかば、軍をかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子と申は中の大兄の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立給、此御時は摂政し給とみえたり。天皇天下を治給こと七年。六十八歳おまし<き。

☆第三十八代、齊明(さいめい)天皇は、皇極(こうぎょく)天皇の重祚(ちょうそ::一度退位した天子が再び位に就くこと)です。重祚と言うことは我が国にとってこれが最初です。異朝中国では殷王朝の大甲(たいこう::太甲。殷四代目の王)がもう一つ頭が切れないので、伊尹(いいん::夏王朝末期から殷初期にかけての政治家)がこの王を桐宮(とうきゅう::湯王(とうおう)の墓所がある地)に追放し、

代わって三年間政治を執りました。しかし帝位を捨てることまではしませんでした。その後太甲は自分の過ちを悔い、徳を積み勉学に励んだので、元のように天子に返り咲きました。また晉(しん::東晉)の時代に桓玄(かんげん)と言う者は安帝(あんてい::東晉の第十代皇帝)から帝位を奪いますが、八十日経った時、挙兵した義兵のために殺されてしまい、

安帝が再び帝位に戻りました。また唐の世となって、則天皇后(武則天=則天武后(そくてんぶこう::中国史唯一の女帝))が世の中を混乱に落とされた時、自分の産んだ子供である中宗(ちゅうそう::唐の第四代、第六代皇帝)を廃位し、蘆陵王(ろりょうおう=睿宗(えいそう::中宗の弟。唐の第五代、第八代皇帝))を皇帝にしました。

同じ我が子の予王(予王旦::よおうたん=睿宗)を皇帝に立てられたのですが、またもや廃位して自ら皇帝になりました。その後中宗が再び帝位につき、唐における天子の系統は絶えませんでした。そして予王もまた重祚されました。重祚後の予王は睿宗(えいそう)と言います。これこそ間違いなく重祚ですが、

二代にはたてず。(?)中宗、睿宗と続きました。我が国では皇極天皇の重祚後は齊明と称し、孝謙(こうけん)天皇の重祚後は称徳(しょうとく)と称しました。中国とは異なります。天日嗣(あまのひつぎ::皇位の継承)を重視するからでしょうか。当時賢人たちの討論もきっとあったことでしょう。

乙卯(きのとう::655年)の年に即位されました。今回は皇居を大和の岡本(おかもと)に遷されました。後の岡本の宮(後飛鳥岡本宮::のちのあすかのおかもとのみや)と言います。この時代、中国では唐の高宗(こうそう::唐の第三代皇帝)の時期にあたります。唐が高麗を攻撃してきたため、高麗より救援の兵を派遣するよう要請され、

天皇、皇太子とも筑紫(つくし::九州北部の古称)まで向かわれました。しかし三韓(さんかん::新羅、百済、高句麗)は最後には唐に屈服し従属することになったので、軍隊は引き返しました。その後においても三韓との交流を忘れることはありませんでした。ここで皇太子と言うのは中大兄の王子(なかのおおえのおうじ::後の天智天皇)の事です。

孝徳(こうとく)天皇の御代に皇太子に立たれました。この時は摂政として任務に当たられたようです。この天皇が天下を統治されたのは七年間です。六十八歳にて崩御されました。


○御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞給ければ、朝奨ならびなし。先後封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖にまします〈 光仁の御祖なり 〉。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おまし<き。

☆第三十九代、第二十五世、天智(てんじ)天皇は、舒明(じょめい)天皇のお子さんです。御母は皇極(こうぎょく)天皇です。壬戌(みずのえいぬ::662年。実即位は668年)の年に即位されました。(皇太子のまま即位せずに成務を執っていましたが、668年に即位)近江国大津の宮(おおつのみや)に皇居を遷されました。

即位天智四年(実際は天智八年、669年)八月に内臣鎌足を内大臣大織冠(最高の冠位)に任じました。また藤原朝臣の姓を賜りました。過去における大きな功績を考慮されたので、朝廷からの褒賞は過去に例がないほどのものでした。死後与えられた徴税対象の家屋は一万五千戸に上ります。

また鎌足の病気療養中にも、お見舞いに行幸されたそうです。この天智天皇は中興の祖(政権を担当して危機から脱し、安定化に多大な功績があったと評価された者)と称せられています【光仁(こうにん)天皇(第四十九代天皇::天智天皇の孫)の御祖なり】。国忌(こっき::皇祖、先帝などの命日)は時代と共に変わっていくものですが、この評価については永久に続くことになりました。

天下を統治されたのは十年間です。五十八歳にて崩御されました。「この段、即位が変則のため、年代に問題あり。天智天皇と天武天皇の間に弘文(こうぶん)天皇が即位されたかどうかは不明で、大友皇子と表記されることも多い。神皇正統記では即位していない扱いなので、この後の天皇の代は現在の代と同じ


○第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にまし<き。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子にゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をおそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を■拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給しを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申ししかば、不破の関の軍に打勝ぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或は誅にふし、或は遠流せらる。軍にしたがひ申輩しな<”によりて其賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おまし<き。

☆第四十代、天武(てんむ)天皇は、天智(てんじ)天皇と同じ母親の弟です。天智天皇が即位された時、皇太子に立ち大倭(やまと::大和の古称)の岡本宮に居られました。そのころ天智天皇は近江大津宮に居られました。天智天皇が病に伏せられた時、皇太子である(大海人皇子::おおあまのおうじ)後の天武天皇をお呼びになり、

お話になったこと(天武天皇に後事を託すことの依頼)を近江の宮に仕える朝廷の臣下に告げる人がいたので、天武天皇のお考えなのか皇太子の位を自ら退いて、天智天皇のお子さんである太政大臣大友皇子(おおとものおうじ::後の弘文天皇(こうぶんてんのう::第三十九代天皇。在位672-672年)即位の実態は不明)にお譲りになり、

出家して芳(吉)野宮(よしののみや::古代日本の離宮)にお入りになりました。天智天皇が崩御されると、大友皇子はなおも危険を感じたのか、軍を招集して吉野を襲撃しようと計画しました。危険を察知した天武天皇はひそかに吉野を脱出し、伊勢に入り飯高(いいたか::現松坂市)の郡(こおり)に着き、伊勢大神宮を遥拝(ようはい::遠くから拝むこと)すると、

美濃にお入りになって東国の軍勢を招集しました。高市皇子(たけちのおうじ::天武天皇の長男)が来られると大将軍に任命して、美濃、不破の関の防衛を命じ、天皇は尾張国に進出しました。周辺の国々が天皇の指揮下に入ると申し出たので、不破にて行われた合戦に勝利を収めました。すぐに瀬田川に向かい合戦が行われました。

ここでも大友皇子の軍勢は負けてしまい、皇子は殺害されました。大友皇子の軍に対して、大臣以下ある者は誅伐され、またある者は遠流の刑を受けました。天武天皇の軍勢に加勢した人々に対しては、勲功の程度によってその褒賞が行われました。(壬申(じんしん)の乱の経緯です)壬申(みずのえさる::672年)の年に即位されました。

大倭の飛鳥浄御原の宮(あすかのきよみはらのみや)に皇居を遷されました。天武天皇の治世下で、朝廷における法令など多数制定されました。役人は上下漆塗りの頭巾を着用することも、この時より始まりました。この天皇が天下を治められたのは十五年間です。七十三歳にて崩御されました。


○第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘、蘇我の山田石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にまし<しより妃とし給。後に皇后とす。皇子草壁わかくまし<しかば、皇后朝にのぞみ給。戊子年也。庚寅の春正月一日即位。大倭の藤原の宮にまします。草壁の皇子は太子に立給しが、世をはやくし給。よりて其御子軽の王を皇太子とす。文武にまします。前の太子は後に追号ありて長岡天皇と申。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申き。太上天皇と云ことは、異朝に、漢高祖の父を太公と云、尊号ありて太上皇と号す。其後後魏の顕祖・唐高祖・玄宗・睿宗等也。本朝には昔は其例なし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母の尊と申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おまし<き。

☆第四十一代、持統(じとう)天皇は、天智(てんじ)天皇の娘御です。また天武(てんむ)天皇の皇后でもあります。御母は越智娘(オチノイラツメ)で蘇我の山田石川麻呂(やまだのいしかわまろ::蘇我入鹿の従兄弟)の大臣の娘です。天武天皇がまだ皇太子であった時から持統天皇を后としていました。そして後に皇后となりました。

草壁皇子(くさかべのおうじ)がまだ幼かったので、皇后が朝廷の政治に関わりました。戊子(つちのえね::688年)の年のことです。そして庚寅(かのえとら::690年)の年、春正月一日に即位されました。大倭(おおやまと::大和の古称)の藤原の宮(ふじわらのみや)に皇居を遷されました。草壁の皇子は皇太子となりましたが、若くして世を去ることになりました。

そこで草壁の皇子の子供である軽皇子(かるのみこ)を皇太子に立てました。後の文武天皇(もんむてんのう::第四十二代天皇、在位697-707年)でございます。前の皇太子(草壁皇子)は後に追号されて長岡天皇(ながおかてんのう::追尊天皇。帝位に就かなかった親王に、死後贈られる天皇の称号。歴代には数えない)と申します。持統天皇が天下を治めたのは十年間です。

その後皇位を皇太子(軽皇子::かるのみこ)に譲位して、太上天皇(だいじょうてんのう::天皇の譲位後の尊称)となりました。太上天皇というものは、異朝中国で漢国の皇祖(前漢初代皇帝、劉邦::りゅうほう)の父を太公(劉太公::りゅうたいこう)と言う尊号が贈られ、太上皇(だいじょうこう::太上天皇と同じ)と称しました。

その後も、後魏国の顕祖(けんそ::献文帝。北魏第五代皇帝)、唐の高祖(りえん::李淵。唐の初代皇帝)、玄宗(げんそう::唐の第九代皇帝)、睿宗(えいそう::唐の第五、第八代皇帝)等が居ます。しかし我が国では過去にその例はありませんでした。皇極(こうぎょく)天皇が軽皇子(かるのみこ::後の孝徳(こうとく)天皇)に皇位を譲られましたが、

皇祖母の尊(すめみおやのみこと)と称していました。この持統天皇より太上天皇の称号が始まったのです。五十八歳にて崩御されました。


○第四十二代、文武天皇は草壁の太子第二の子、天武の嫡孫也。御母阿閇の皇女、天智御女也〈 後に元明天皇と申 〉。丁酉年即位。猶藤原の宮にまします。此御時唐国の礼をうつして、宮室のつくり、文武官の衣服の色までもさだめられき。又即位五年辛丑より始て年号あり。大宝と云ふ。これよりさきに、孝徳の御代に大化・白雉、天智の御時白鳳、天武の御代に朱雀・朱鳥なんど云ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始とする也。又皇子を親王と云こと此御時にはじまる。又藤原の内大臣鎌足の子、不比等の大臣、執政の臣にて律令なんどをもえらびさだめられき。藤原の氏、此大臣よりいよ<さかりになれり。四人の子おはしき。是を四門と云ふ。一門は武智麿の大臣の流、南家と云ふ。二門は参議中衛大将房前の流、北家と云ふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門は式部卿宇合の流、式家と云ふ。四門は左京大夫麿の流、京家といひしがはやくたえにけり。南家・式家も儒胤にていまに相続すと云ども、たゞ北家のみ繁昌す。房前の大将人にことなる陰徳こそおはしけめ。〔裏書云ふ。正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨。天平宝字四年八月贈太政大臣。参議正三位中衛大将房前。天平九年四月薨。十月贈左大臣正一位。宝字四年八月贈太政大臣。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。勅処分、依請南卿藤原武智丸贈太政大臣、北卿〈 贈左大臣房前 〉転贈太政大臣云々。〕又不比等の大臣は後に淡海公と申也。興福寺を建立す。此寺は大織冠の建立にて山背の山階にありしを、このおとゞ平城にうつさる。仍山階寺とも申也。後に玄■と云ふ僧、唐へわたりて法相宗を伝へて、此寺にひろめられしより、氏神春日の明神も殊に此宗を擁護し給とぞ〈 春日神は天児屋の神を本とす。本社は河内の平岡にます。春日にうつり給ことは神護景雲年中のこと也。しからば、此大臣以後のこと也。又春日第一の御殿、常陸鹿嶋神、第二は下総の香取神、三は平岡、四は姫御神と申。しかれば藤氏の氏神は三御殿にまします 〉。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おまし<き。

☆第四十二代、文武(もんむ)天皇は、草壁(くさかべ)太子の第二番目の子供で、天武(てんむ)天皇の嫡孫(ちゃくそん::嫡子とその正妻の間に生まれた男子)です。御母は阿閇の皇女(アヘノヒメミコ)で、天智(てんじ)天皇の御娘です【後に元明天皇(げんめいてんのう::第四十三代天皇。在位707-715年)と言われます】。丁酉(ひのととり::697年)の年に即位されました。

持統(じとう)天皇と同じ藤原の宮に居られます。文武天皇の御時に唐国の制度や礼式などを取り入れ、宮室(きゅうしつ::宮殿)の建築方法や、文武官(役人全般)の衣服の色まで制定されました。(大宝律令(たいほうりつりょう)の制定)また即位後五年の辛丑(かのとうし::701年。大宝元年)の年より初めて年号が使用されました。

最初の年号を大宝(たいほう)と言います。これより以前の孝徳(こうとく)天皇の御代には大化(たいか)、白雉(はくち)、また天智(てんじ)天皇の御時に白鳳(はくほう)、そして天武(てんむ)天皇の御代には朱雀(すざく)、朱鳥(しゅちょう)などの年号がありましたが、当時の天皇が崩御されてからは使用されることなく、大宝より後に絶えてしまいました。

よって大宝が年号の始まりとするのです。また皇子のことを親王と称するのも、この御時に始まりました。また藤原の内大臣鎌足(かまたり)の子供、藤原不比等(ふじわらのふひと)の大臣は執政の臣として、律令(律::刑罰の規定。令::一般行政に関する規定)なども選定し制定されました。藤原の氏族はこの不比等大臣より、

ますますその勢力が強大になっていきました。藤原不比等には四人の子供がいました。この子供らの家々を四門と言います。一門(いちもん)は武智磨(むちまろ::長男)の大臣の流れ(血筋)で、南家(なんけ)と言いました。二門(にもん)は参議中衛大将房前(ふささき::次男)の流れで、北家(ほっけ)と言います。

今の執政大臣及びそれなりの藤原家の人々は、皆この血筋の子孫です。三門(さんもん)は式部卿宇合(うまかい::三男)の流れで、式家(しきけ)と言います。四門(しもん)は左京大夫麿(まろ::四男)の流れで、京家(きょうけ)と言いますが、早くして絶えました。南家も北家も儒学の家系であり、今までその業を継いできたと言えども、

実際はただ北家ばかりが繁栄しています。北家の房前(ふささき)大将には他の人とは違い、人知れずに行った善行があったのです。《裏書に記載されています。正一位左大臣武智丸(麻呂)。天平(てんぴょう)九年(737年)七月死去。天平宝字(てんぴょうほうじ::日本の元号。757-765年)四年(760年)八月贈太政大臣。

参議正三位中衛大将房前。天平九年(737年)四月死去。十月贈左大臣正一位。宝字四年(760年)八月贈太政大臣。天平宝字四年(760年)八月大師(太政大臣)藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ::藤原仲麻呂。武智麻呂の次男)奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。(?)勅処分、依請南卿(南家)藤原武智丸贈太政大臣、

北卿(北家)【贈左大臣房前】転贈太政大臣云々。》また不比等の大臣は後になって淡海公(たんかいこう)と称しました。興福寺を建立されました。このお寺は大織冠(藤原鎌足)の建立で山背(やましろ::山城)の国、山階(やましな::山科)にあったのを、このおとど(尊敬語::藤原不比等)が平城(大和国)に移されました。

そのため山階寺とも言います。後になって玄ボウ(日偏に方)と言う僧侶が唐の国に渡り、法相宗(ほっそうしゅう::大乗仏教の一宗派)をこの国に持ち帰り、この寺に広められたので、藤原氏の氏神である春日の明神も、特にこの宗派を擁護されました【春日神は天児屋(アメノコヤ)の神を主祭神としています。

本社は河内の平岡(枚岡::ひらおか)神社に鎮座されていた天児屋根命(アメノコヤネノミコト)をお招きました。春日にお遷りになったのは神護景雲(じんごけいうん::日本の元号。767-770年)の年のことです。と言うことはこの大臣(藤原不比等)以後のことになります。また春日大社の第一の御殿は常陸鹿嶋神(武甕槌命::タケミカヅチノミコト)で、

第二は下総の香取神(軽津主命::フツヌシノミコト)、また第三は平岡(天児屋根命::アメノコヤネノミコト)で第四は姫御神(比売神::ヒメカミ。天児屋根命の妻)と言います。と言うことで藤原氏の氏神は第三の御殿に鎮座されています。】文武天皇が天下を治められたのは十一年間です。二十五歳にて崩御されました。


○第四十三代、元明天皇は天智第四の女、持統異母の妹。御母蘇我嬪。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未年即位。戊申に改元。三年庚戌始て大倭の平城宮に都をさだめらる。古には代ごとに都を改、すなはちそのみかどの御名によび奉りき。持統天皇藤原宮にまししを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりまし<しより、又七代の都になれりき。天下を治給こと七年。禅位ありて太上天皇と申しが、六十一歳おまし<き。

☆第四十三代、元明(げんめい)天皇は、天智(てんじ)天皇第四番目の娘です。持統(じとう)天皇とは異なる母親の妹です。御母は蘇我嬪(ソガノヒメ)です。この方も山田石川丸(やまだのいしかわまろ::蘇我入鹿の従兄弟)の大臣の娘です。また草壁の太子の正妃であり、文武(もんむ)天皇の御母でもあります。

丁未(ひのとひつじ::707年。慶雲(けいうん)四年)の年に即位されました。戊申(つちのえさる::708年)の年に改元(和銅(わどう))されました。和銅三年の庚戌(かのえいぬ::710年)の年に初めて大倭(おおやまと::大和の古称)の平城宮(へいせいのみや)に都を定められました。それまでは天皇の一代ごとに都を遷され、そのため当時の帝のお名前で称していました。

持統(じとう)天皇が藤原宮に居られたのですが、文武(もんむ)天皇が初めて皇居を遷されませんでした。そしてこの元明天皇が都を平城に遷されてからは、また七代にわたって都となりました。天下を統治されたのは七年間です。元正天皇(げんしょうてんのう::第四十四代天皇。在位715-724年)に譲位されて太上天皇(だいじょうてんのう::天皇の譲位後の尊称)と称していましたが、六十一歳にて崩御されました。


○第四十四代、元正天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉也。乙卯年正月に摂政、九月に受禅、即日即位、十一月に改元。平城宮にまします。此御時百官に笏をもたしむ〈 五位以上牙笏、六位は木笏 〉。天下を治給こと九年。禅位の後二十年。六十五歳おまし<き。

☆第四十四代、元正(げんしょう)天皇は、草壁の太子の御娘です。御母は元明(げんめい)天皇です。文武(もんむ)天皇と同じ母親の姉君です。乙卯(きのとう::715年。霊亀(れいき)元年)の年、正月に摂政となり、九月に譲位を受けて即日、即位され、十一月霊亀に改元されました。都はそのまま平城宮です。

この天皇の御代から百官(役人一般)に笏(しゃく::公式行事などの際、右手に持つ細長い板)を持たせました【五位以上は牙笏(げしゃく::象牙等)、六位は木笏】。天下を治められたのは九年間、聖武天皇(しょうむてんのう::第四十五代天皇。在位724-749年)に譲位の後、聖武天皇の補佐として二十年間です。六十五歳にて崩御されました。


○第四十五代、聖武天皇は文武の太子。御母皇太夫人藤原の宮子、淡海公不比等の大臣の女也。豊桜彦の尊と申。をさなくまししによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。甲子年即位、改元。平城宮にまします。此御代大に仏法をあがめ給こと先代にこえたり。東大寺を建立し、金銅十六丈の仏をつくらる。又諸国に国分寺及国分尼寺を立て、国土安穏のために法華・最勝両部の経を講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝す。南天竺の波羅門僧正〈 菩提と云ふ 〉、林邑の仏哲、唐の鑒真和尚等是也。真言の祖師、中天竺の善無畏三蔵も来給へりしが、密機いまだ熟せずとてかへり給にけりともいへり。此国にも行基菩薩・朗弁僧正など権化人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖とぞ申伝へたる。此御時太宰少弐藤原広継と云人〈 式部卿宇合の子なり 〉謀叛のきこえあり、追討せらる〈 玄■僧正の讒によれりともいへり。仍霊となる。今の松浦の明神也云々 〉。祈祷のために天平十二年十月伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣長屋王〈 太政大臣高市王の子、天武の御孫なり 〉つみありて誅せらる。又陸奥国より始て黄金をたてまつる。此朝に金ある始なり。国の司の王、賞ありて三位に叙す。仏法繁昌の感応なりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女高野姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家の始也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子もおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おまし<き。

☆第四十五代、聖武(しょうむ)天皇は、文武(もんむ)天皇の皇太子です。御母は皇太夫人(こうたいぶにん::天皇の生母で、前天皇の夫人であった人に贈る称号)藤原の宮子(ミヤコ)で、淡海公(たんかいこう::藤原不比等に死後贈られた名前)不比等の大臣の娘です。この天皇の尊称は天璽国押開豊桜彦の尊(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのみこと)と申します。

聖武天皇がまだ幼かったため、元明(げんめい)と元正(げんしょう)の両天皇がまず先に皇位に就きました。その後聖武天皇が甲子(きのえね::724年。神亀(じんき)元年)の年に即位され、神亀に改元されました。都は平城宮です。この天皇の御代は先代以上に仏教を深く信仰されました。東大寺を建立し、

金銅製(こんどうせい::銅や青銅に金メッキをしたり、金箔を押したもの)の十六丈(約48m)もある仏像をおつくりになられました。また諸国に国分寺及び国分尼寺(こくぶんにじ)を建立し、国土安穏のために法華、最勝(金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)の略)両部の経を読誦されました。また多くの高僧らが他国から日本にやってきました。

南天竺(てんじく::古代インド)の波(婆)羅門(ばらもん)僧正【菩提(菩提僊那::ぼだいせんな)と言います】、林邑(りんゆう::チャム人の王国、チャンパーのこと)の仏哲(ぶってつ::チャンパー国よりの渡来僧)、唐の鑒真和尚(鑑真和尚::がんじんわじょう)らがそうです。真言宗の祖師(そし::開祖)である中天竺の善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう::高僧の名)も来られましたが、

布教するにはまだまだ未熟だと、お帰りになったとも言われています。我が国にも行基(ぎょうき)菩薩、朗弁(ろうべん)僧正などの権化人(ごんげにん::仏や菩薩が民衆を救済するため、仮の姿で現れたと思われる人)がいました。天皇、婆羅門僧正、行基、朗弁の人達を四聖(ししょう::東大寺建立の発起人)と称して言い伝えられました。

聖武天皇の御代に太宰少弐(だざいのしょうに::大宰府の次官)藤原広継(ひろつぐ::広嗣?)と言う人【式部卿宇合(うまかい::藤原不比等の三男)の子供です】が、謀反を企んでいるらしいと聞こえてきたため、討手を派遣し征伐しました【玄ボウ(日偏に方)と言う僧の讒言のためとも言われています。そのため藤原広継(広嗣?)は怨霊(おんりょう::恨みを抱いて祟りをする死霊や生霊)になりました。

今に伝わる松浦の明神(鏡神社の二の宮の祭神)がそうです云々】。聖武天皇は悪霊を鎮魂する祈祷のため、天平十二年(740年)十月伊勢の神宮に行幸されました。また左大臣長屋王(ながやおう)【太政大臣高市王(たけちのみこ)の子供で、天武(てんむ)天皇の御孫です】に対して、何かの罪を着せて誅罰されました(長屋王の変)

また陸奥国より初めて黄金が朝廷に献上されました。この日本に金が初めて産出されたのです。陸奥国の司の王(陸奥国長官::百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく))には褒賞があり三位に叙されました。仏教の隆盛が神仏に通じたのでしょうか。この天皇は天下を二十五年間治められました。

皇位を御娘の高野姫(タカノヒメ::阿部内親王。第四十六代、孝謙(こうけん)天皇)の皇女にお譲になり、太上天皇(だいじょうてんのう::天皇の譲位後の尊称)と称しました。その後、出家されました。天皇御出家の最初になります。昔、天武(てんむ)天皇が東宮(とうぐう::皇太子)の位を退き、髪を下ろされたことがありますが、それはしばらくの間だけです。聖武天皇の皇后である光明子(こうみょうし::光明皇后(こうみょうこうごう))も同じように出家されました。聖武天皇は五十六歳にて崩御されました。


○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積親王世をはやくして後、男子ましまさず。仍この皇女立給き。己丑年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。大炊の王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮の西宮になむまし<ける。

☆第四十六代、孝謙(こうけん)天皇は、聖武(しょうむ)天皇の御娘です。御母は聖武天皇の皇后である光明子(こうみょうし)で、淡海公(たんかいこう::藤原不比等に死後贈られた名前)不比等の大臣の娘です。聖武天皇の第二皇子、安積親王(あさかしんのう)が早世されてから男子の出産がありませんでした。

そのためこの皇女が皇位に就きました。己丑(つちのとうし::749年)の年に即位され、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)に改元されました。平城宮に居られました。天下を治められたのは十年間です。大炊(おおい)の王(天武天皇の皇子、舎人(とねり)親王の七男)を養子にされ、皇太子としました。その後、皇位を皇太子(後の淳仁(じゅんにん)天皇。第四十七代天皇。在位758-764年)にお譲りになり、

太上天皇(だいじょうてんのう::天皇の譲位後の尊称)と称しました。出家されてから平城宮の西宮(さいぐう:にしみや::宮殿施設らしい)に居られました。


○第四十七代、淡路廃帝は一品舎人親王の子、天武の御孫也。御母上総介当麻の老が女也。舎人親王は皇子の中に御身の才もましけるにや、知太政官事と云職をさづけられ、朝務を輔給けり。日本紀もこの親王勅をうけ玉はてえらび給。後に追号ありて尽敬天皇と申。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌年即位。天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おまし<き。

☆第四十七代、淡路廃帝(あわじのはいたい::淳仁(じゅんにん)天皇の異称)は一品(いっぽん::最も高い品位)舎人親王(とねりしんのう)の子供で、天武(てんむ)天皇の御孫です。御母は上総介(かずさのすけ::上総国々府の実質的長官)当麻の老(たいまのおゆ::奈良時代の貴族)の娘です。舎人親王は皇子の中でも才能豊かな人なのか、

知太政官事(ちだじょうかんじ::太政官を統括する令外官(りょうげのかん::役職の一つ))に任命され、朝廷の政治的職務を補佐されていました。日本紀(にほんぎ::日本書紀)もこの親王が天皇の命によって編纂されました。この舎人親王は後になって我が子(淳仁天皇)が即位することになったので、

尽敬天皇(崇道尽敬皇帝::すどうじんきょうこうてい)と追号(ついごう::死後贈られる称号)されました。孝謙天皇には御子さんが居られませんし、またご兄弟もいませんでしたから、淡路廃帝を御子にして皇位をお譲りになりました。ただし年号など変えられることもありませんでした。また全てにおいて女帝(孝謙天皇)の思い通りになりました。

戊戌(つちのえいぬ::758年。天平宝字(てんぴょうほうじ)2年)の年に即位されました。天下を治められたのは六年間です。その後事情があって淡路国に遷されることになりました。三十三歳にて崩御されました。


○第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚也。庚戌年正月一日更に即位、同七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸し給き。大師〈 其時太政大臣を改て大師と云 〉正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字をそへて藤原恵美の姓を給き。天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云法師〈 弓削の氏人也 〉又寵幸ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極なりけんかし。唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業と云寺におはしける、高宗み給て長髪せしめて皇后とす。諌申人おほかりしかども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗を立られしを、又しりぞけて、自帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名をうしなはんと思給けるにや。中宗・睿宗もわが生給しかども、すてて諸王とし、みづからの族武氏のともがらをもちて、国を伝へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめは大臣に准じて〈 日本の准大臣のはじめにや 〉大臣禅師と云しを太政大臣になし給。それによりてつぎ<納言・参議にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりしにや。大臣吉備の真備の公、左中弁藤原の百川などありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしより始て、僧正・僧統など云事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき〈 但これは官に任とはみえず 〉。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安祿山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる〈 司空は大臣の官なり 〉。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おまし<き。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふ心ざしありけり。女帝さすが思わづらひ給けるにや、和気清丸と云ふ人を勅使にさして、宇佐の八幡宮に申されける。大菩薩さま<”託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参してありのまゝに奏聞す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申ければ、小蛇出来てそのきずをいやしけり。光仁位につき給しかば、即めしかへさる。神威をたうとび申て、河内国に寺を立て、神願寺と云ふ。後に高雄の山にうつし立。今の神護寺これなり。件のころまでは神威もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷をやすくすること、八幡の冥慮たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣の功なりとぞ。

☆第四十八代、称徳(しょうとく)天皇は、孝謙(こうけん)天皇の重祚(ちょうそ::一度退位した天皇が再び位に就くこと)です。『庚戌(かのえいぬ::770年)正月一日に再び即位されました。』(即位について誤りでは?)甲辰(きのえたつ::764年。天平宝字(てんぴょうほうじ)8年)十月に再び即位され、天平宝字九年(765年)正月七日に天平神護(てんぴょうじんご)に改元されました。

太上天皇(だいじょうてんのう::天皇の譲位後の尊称。淳仁天皇)はひそかに藤原武智麿(むちまろ::藤原不比等の長男)大臣の二番目の子供である押勝(おしかつ::藤原仲麻呂)を重用されました。押勝は大師(だいし)【この時から太政大臣を改めて大師と称しました】正一位になられました。またほほえましく思えるかと、

藤原の姓に二字を添え藤原恵美(ふじわらえみ)の姓を与えられました。また天下の政治向きも仲麻呂に任せられました。その後、孝謙前天皇が道鏡(どうきょう)と言う僧侶【弓削(ゆげ)一族の長です】を寵愛されたことに、押勝(藤原仲麻呂)は不満を抱き、太上天皇(だいじょうてんのう::天皇の譲位後の尊称。孝謙前天皇)の位を降りるようお勧めし、

上皇擁立派を弱体化しようとしましたが、計画は未然に発覚したため誅罰されました。また道鏡に不満を持っていた淳仁(じゅんにん)天皇も淡路に遷されることになりました。『藤原仲麻呂の乱』このようにして孝謙太上天皇が重祚されたのです。孝謙太上天皇は以前退位され出家されていましたので、尼僧として皇位に就かれるとは、

非常事態の極致と言えるのでは。唐の則天(そくてん::武則天)皇后は太宗(たいそう::唐朝の第二代皇帝)の女御(にょうご::後宮(天皇の私的宮殿)における身分の一つ)で、才人(さいじん::昔、中国で文芸や歌舞をもって後宮に仕えた女官)と言う職務で仕えていましたが、太宗が崩御されてから尼になり、感業と言う寺に居られましたが、

高宗(こうそう::唐朝の第三代皇帝)がご覧になって再び髪を伸ばして皇后にされました。この件に反対し諫める臣下は多かったのですが、聞き入れられませんでした。高宗が崩御されて、中宗(ちゅうそう::唐朝の第四代、第六代皇帝)が皇位に就いておられましたが、武則天(則天武后)が廃位させて睿宗(えいそう::唐朝の第五代、第八代皇帝)を皇位につかせたのですが、

またもや退位させ自ら帝位に就かれると共に、国号を周(しゅう::武周)に改めました。唐と言う国名を抹殺しようと思われたのでしょうか。中宗も睿宗も自分がお産みになられたのですが、帝位を奪って諸王の立場に追いやり、自分の出身氏族である武氏(ぶし)の人材を登用して、国を継承しようとさえしました。

その時点において僧侶も宦者(かんじゃ::宦官(かんがん)のこと。宮廷などの後宮に仕えた去勢(きょせい::生殖機能を失墜すること)された男子)も多くが優遇してもらい、世間から非難されることが多かったのです。我が国では、この道鏡が最初は大臣に準じて【日本の准大臣の始まりです】大臣禅師(だいじんぜんし::道鏡のために新設された官職名)と呼ばれていたのを太政大臣にされました。

このため以後は次々と納言や参議などの官職にも僧侶を登用しました。道鏡は思うように世の中を動かしましたが、彼と争おうとする人はいなかったのでしょうか。大臣である吉備真備(きびのまきび::奈良時代の学者、公卿)公や左中弁藤原百川(ふじわらのももかわ::藤原宇合の八男。奈良時代の公卿)などが居られました。

しかし道鏡に対抗するには力不足でした。僧侶が官職に就くのは中国において初めて僧正(そうじょう::仏教の僧と尼を統括するため僧侶が任命された官職)や僧統(そうとう::僧の官名で僧や尼を統制する役)などがありましたが、それも僧侶になるために出家した本来の目的ではありません。まして俗世間の官職に任ずるのはあってはならないことです。

しかし中国においても、南朝において宋の時代、恵琳(えりん)と言う人が政治に関与され、黒衣宰相(こくいさいしょう::法体にありながら俗世間で政治に参与した権力者)と言われました【但しこの人物は官職に就いたとは思えません】。梁(りょう::中国南朝の一つ)の時代に恵超(えちょう)と言う僧が学士(がくし)の官吏になりました。

また北朝の魏(ぎ)国では明元帝(めいげんてい::北魏の第二代皇帝)の代に法菓(ほうか)と言う僧侶が、安城公(あんじょうこう)の爵位(しゃくい::国から与えられる特権や栄典の制度)を賜りました。唐の時代になってからは多くの例があります。粛宗(しゅくそう::唐朝の第十代皇帝)の時代に道平(どうへい)と言う人物が、帝に協力して安禄山の乱を鎮圧したため、

金吾(きんご)将軍に任命されました。代宗(だいそう::唐朝の第十一代皇帝)の時代には、天竺(古代インド)の不空三蔵(不空金剛:ふくうこんごう::唐の高僧)を尊敬するあまりなのか、特進試鴻臚卿(とうしんしこうろけい::外務省の長官のようなもの)の官職を授けられました。後になって開府儀同三司粛国公(かいふぎどうさんししゅくこくこう::准大臣の別称)となりました。

帰寂(きじゃく::僧侶の死)されてから司空(しくう)の官職が贈られました【司空は大臣の職です】。則天(そくてん::武則天)が統治された国の時代から、この女帝(称徳天皇)の時代まで六十年ほどでしょうか。両国における諸事情はよく似てると言えます。この天皇が天下を統治されたのは五年間です。五十七歳にて崩御されました。

天武(てんむ)、聖武(しょうむ)の両天皇はこの国に大きな功績を残し、仏教をお広めになりましたが、天皇の血統を受け継ぐ子孫が居られませんでした。この女帝にて皇統は絶えてしまいました。女帝が崩御されたので、道鏡は下野(下野薬師寺)の講師(こうし::寺で説教に携わる職)に任命して、実質的な流刑に処しました。

そもそもこの道鏡は法王としての官位を授けられていたのに、それに飽き足らず皇位に就こうとする考えを持っていました。女帝もさすがに悩まれたのか、和気清丸(わけのきよまろ::和気清麻呂)と言う人を勅使にして、宇佐八幡宮に派遣し神意を伺いました。八幡大菩薩はさまざまなお告げを下され、決して道鏡をお許しにはなりませんでした。

清麻呂は朝廷に戻ると参内し、ありのまま天皇に報告されました。道鏡は激怒し、清麻呂のよほろすじ(膝の裏側、くぼんだ部分の筋肉)を切断した上、土佐の国(大隅国では?)へ流刑にしました。清麻呂は嘆き悲しみ八幡大菩薩を恨み愚痴をこぼしていると、小蛇が現れ膝の傷を直しました。

その後、光仁天皇(こうにんてんのう::第四十九代天皇。在位770-781年)が即位されるとすぐに呼び戻されました。彼は神の持つ威力を尊敬し河内国に寺を建立し、神願寺と名付けました。後になって高雄の山に移築されました。現在の神護寺(じんごじ)です。この頃までは神の持つ力というのは、このように大きくはっきりしたものでした。

こうして道鏡はついに望みを遂げることは出来ませんでした。また称徳女帝もしばらくして崩御されました。宗廟社稷(そうびょうしゃしょく::国家朝廷)を安定的に発展させることは、八幡大菩薩の冥慮(みょうりょ::神仏の目に見えない心)である上に、皇統(こうとう::天皇の血筋)をはっきりと安定させたのは藤原百川(ふじわらのももかわ::藤原宇合(ふじわらうまかい)の八男)朝臣の功績だと言うことです。


○第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、天智天皇の御孫也〈 皇子は第三の御子なり。追号ありて田原の天皇と申 〉。御母贈皇太后紀旅子、贈太政大臣旅人の女也。白壁の王と申き。天平年中に御年二十九にて従四位下に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給き。称徳かくれましまししかば、大臣以下皇胤の中をえらび申けるに、おの<異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ申人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給。そのかみ逆臣を誅し、国家をも安し給へり。この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立、すなはち受禅〈 御年六十二 〉。ことし庚戌年なり。十月に即位、十一月改元。平城宮にまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おまし<き。

☆第四十九代、第二十七世、光仁(こうにん)天皇は、施基皇子(しきのみこ::天智天皇の第七皇子)の子供で、天智(てんじ)天皇の御孫です【皇子は第三(六?)のお子さんです。後になって追号(ついごう::死後贈られる称号)され田原(たはら)の天皇とも言います】。御母は贈皇太后紀旅子(きのもろこ::紀橡姫(きのとちひめ))で、

贈太政大臣旅人(紀諸人(きのもろひと))の娘です。(母の記述誤りでは?)即位前は白壁(しらかべ)の王と言います。天平(てんぴょう)の年内(天平九年(737年))に御年二十九歳にして、従四位下に叙(じょ::官位を授ける)されてから、次第に昇進され正三位勲二等大納言にまで昇り詰めました。称徳(しょうとく::孝謙(こうけん)天皇の重祚)天皇が崩御されたので、

大臣以下の人達によって次期天皇を皇統の中から選出することになりましたが、各自色々と意見がある中、参議藤原百川(ふじわらのももかわ::藤原宇合の八男)と言う人がこの天皇(光仁)を推薦しようと決意し、策を弄して決定に持ち込みました。天武(てんむ)天皇がこの国を支配してからは、争いごとを起こす人はいなくなりました。

天武天皇は天智(てんち)天皇(中大兄皇子)の治世にまず皇太子になられました。当時逆臣らを誅罰して、国家を安泰に導かれました。このようにして天武天皇は皇位を継承することになり、まさしく本来の皇位継承の状態に戻ったのです。光仁天皇はまず先に皇太子に就き、そのあと皇位を譲られ即位となります【この時御年六十二歳でした】。

庚戌(かのえいぬ::770年。宝亀(ほうき)元年)の年のことです。十月に即位され、十一月に宝亀(ほうき)に改元されました。平城宮で天下を統治しました。天下を治められたのは十二年間です。七十三歳にて崩御されました。(この段後半不明解)


○第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁第一の子。御母皇太后高野の新笠、贈太政大臣乙継の女也。光仁即位のはじめ井上の内親王〈 聖武御女 〉をもて皇后とす。彼所生の皇子沢良の親王、太子に立給き。しかるを百川朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてて、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく不許なりければ、四十日まで殿の前に立て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・前太子せめられてうせ給にき。怨霊をやすめられんためにや、太子はのちに追号ありて崇道天皇と申。辛酉の年即位、壬戌に改元。はじめは平城にまします。山背の長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城にうつさる。山背の国をもあらためて山城と云ふ。永代にかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子蜂岡にのぼり給て〈 太秦これなり 〉いまの城をみめぐらして、「四神相応の地也。百七十余年ありて都をうつされて、かはるまじき所なり。」との給けりとぞ申伝たる。その年紀もたがはず、又数十代不易の都となりぬる、誠に王気相応の福地たるにや。この天皇大に仏法をあがめ給。延暦二十三年伝教・弘法勅をうけて唐へわたり給。其時すなはち唐朝へ使をつかはさる。大使は参議左大弁兼越前守藤原葛野麿朝臣也。伝教は天台の道邃和尚にあひ、その宗をきはめて同二十四年に大使と共に帰朝せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて大同年中に帰給。この御時東夷叛乱しければ、坂上の田村丸を征東大将軍になしてつかはされしに、こと<”くたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は武勇人にすぐれたりき。初は近衛の将監になり、少将にうつり、中将に転じ、弘仁の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。文をもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士にてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おまし<き。

☆第五十代、第二十八世、桓武(かんむ)天皇は光仁(こうにん)天皇の第一番目の子供です。御母は皇太后高野の新笠(たかののにいがさ::光仁天皇の側室)で、贈太政大臣乙継(おとつぐ::和乙継(やまとのおとつぐ::渡来人系))の娘です。光仁(こうにん)天皇は即位当初、井上の内親王【聖武(しょうむ)天皇の娘】を皇后にされました。

そして彼の子供である皇子、沢良(さわら::早良)の親王を皇太子に立てられました。しかし、藤原百川(ふじわらのももかわ)朝臣が桓武天皇に皇位を継がせようと心に決め、またもや策をめぐらし、皇后井上内親王と共に沢良皇太子を廃し、とうとう山部親王(やまべのしんのう::後の桓武天皇)を皇太子に就かせました。

その時しばらく許可が下りなかったと言うことで、四十日間殿舎の前に立っていたと言われているそうです。例を見ない忠義あふれる臣下だからでしょうか。その後廃された皇后(井上内親王)と前太子(早良親王)は誅罰を受けて殺害されました。怨霊による祟りを収めるためなのか、前太子は追号(ついごう::死後贈られる称号)を賜り、

崇道(すどう)天皇と申し上げます。(皇位継承はなかったので歴代天皇には含まれず)辛酉(かのととり::781年。天応(てんおう)元年)の年に即位され、壬戌(みずのえいぬ::782年)の年に延暦(えんりゃく)に改元されました。最初は平城宮に居られました。その後山背(やましろ::山城)の長岡のお遷りになって、十年ばかりは都でしたが、再び現在の平安京にお遷りになりました。

山背の国も呼称を改め山城となりました。長い年月にも変わることのないように取り計らわれたのです。昔、聖徳太子が蜂岡(はちおか::蜂岡寺)にお登りになって【今の太秦(うずまさ)の地がそうです】今の城(平安京)の置かれた地を見まわされ、「四神相応(しじんそうおう::大地の四方を司る神にとってふさわしい地形等)の地である。

百七十余年後には都がここに移り、その後変わることもない場所である」と、仰せられたことが言い伝えられています。その予言の年月も変わることなく、またその後、数十代にわたって変わることのない都となりました。誠に王気相応(おうきそうおう::帝王の気品にふさわしい)の福地(ふくち::幸いを生ずる土地)でございます。

この桓武天皇は仏教を大変崇められ深く信仰されました。延暦二十三年(804年)伝教大師(でんきょうだいし::最澄(さいちょう))と弘法大師(こうぼうだいし::空海(くうかい))が天皇の命を受けて唐の国に行かれました。その時、同時に唐朝に使者を派遣されました。大使として赴かれたのは参議左大弁兼越前守藤原葛野麿(かどのまろ)朝臣です。

伝教大師は天台宗の道邃(どうすい)和尚にお会いすると、その宗教を完璧に会得され、同じく延暦二十四年(805年)に大使らと共に帰国されました。弘法大師はその後も唐国に留まり、大同(だいどう::806-810年)年中にお帰りになられました。(帰国は大同元年(806年)です)桓武天皇が治世されている時、東夷(とうい::武骨で粗野な東国武士)が叛乱を起こしたため、

坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を征東(せいとう)大将軍に任命して派遣されたところ、反乱軍を壊滅的に征伐され、帰京し参内されました。この田村麻呂と言う人物は、武勇に関して人並み以上に優れていました。最初近衛(このえ::宮中の警護や行幸の供奉などを担当)の将監(しょうげん::役職の一つ)になり、少将に昇進し、

その後中将に昇り、弘仁(こうにん::810-824年)の御時でしょうか大将に昇格し、大納言を兼務しました。学問にも通じておられたのでしょうか、納言(なごん::文官)の官職においても昇進されました。彼の子孫は今なお文章を職業として伝わっています。桓武天皇は天下を二十四年間治められました。七十歳にて崩御されました。

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