6 神皇正統記 巻第四


○第五十一代、平城天皇は桓武第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏、贈太政大臣良継の女也。丙戌年即位、改元。平安宮にまします〈 これより遷都なきによりて御在所をしるすべからず 〉。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇と申。平城の旧都にかへりてすませ給けり。尚侍藤原の薬子を寵ましけるに、其弟参議右兵衛督仲成等申すゝめて逆乱の事ありき。田村丸を大将軍として追討せられしに、平城の軍やぶれて、上皇出家せさせ給。御子東宮高岡の親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師の弟子になり、真如親王と申はこれなり。薬子・仲成等誅にふしぬ。上皇五十一歳までおまし<き。

☆第五十一代、平成(へいぜい)天皇は桓武(かんむ)天皇第一番目の子供です。御母は皇太后藤原の乙牟漏(おとむろ)で、贈太政大臣良継(よしつぐ::藤原宇合(うまかい)の次男)の娘です。丙戌(ひのえいぬ::806年。大同(だいどう)元年)の年に即位され、大同に改元されました。平安京にて統治されました【この後遷都は行われませんでしたので今後御在所は記述しません】。

天下を統治されたのは四年間です。皇太弟(こうたいてい::皇位を継ぐべき天皇の弟)の神野(かみの)親王(後の嵯峨天皇)に皇位をお譲りになり、太上天皇(だいじょうてんのう::譲位後の天皇の尊号)と称しました。以前の都である平城宮に帰られ、お住まいになりました。しかし太上天皇は尚侍(ないしのかみ::(内侍)天皇に近侍する女官)である藤原の薬子(くすこ)を寵愛するあまり、

薬子の弟(兄?)である参議右兵衛督藤原仲成(なかなり)等の扇動により、叛乱を起こしたことがあります。(薬子の変)これに対して嵯峨天皇側は坂上田村麻呂を大将軍に任命し追討させたところ、平城の太上天皇側の軍勢は敗れ、上皇は出家されました。お子さんである東宮(とうぐう::皇太子)高岡(たかおか::高岳)の親王も廃されると同様に出家されて弘法大師の弟子となりました。

真如親王と言われているのはこの方です。薬子と仲成らは誅罰を受け死去しました。(薬子は自害。仲成は射殺)上皇の平成天皇は五十一歳にて崩御されました。


○第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、平城同母の弟也。太弟に立給へりしが、己丑年即位、庚寅に改元。此天皇幼年より聰明にして読書を好、諸芸を習給。又謙譲の大度もましましけり。桓武帝鍾愛無双の御子になんおはしける。儲君にゐ給けるも父のみかど継体のために顧命しまし<けるにこそ。格式なども此御時よりえらびはじめられにき。又深仏法をあがめ給。先世に美濃国神野と云所にたふとき僧ありけり。橘太后の先世にねむごろに給仕しけるを感じて相共に再誕ありとぞ。御諱を神野と申けるも自然にかなへり。伝教〈 御名最澄 〉弘法〈 御名空海 〉両大師唐より伝へ給し天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。此両師直也人におはせず。伝教入唐以前より比叡山をひらきて練行せられけり。今の根本中堂の地をひかれけるに、八の舌ある鎰をもとめいでて唐までもたれたり。天台山にのぼりて智者大師〈 天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云 〉六代の正統道邃和尚に謁して、その宗をならはれしに、彼山に智者帰寂より以来鎰をうしなひてひらかざる一蔵ありき。心みに此鎰にてあけらるゝにとゞこほらず。一山こぞりて渇仰しけり。仍一宗の奥義のこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風いよ<さかりになりて天下に流布せり。みだれしより経教おほくうせぬ。道邃より四代にあたれる義寂と云人まで、たゞ観心を伝へて宗義をあきらむることたえにけるにや。呉越国の忠懿王〈 姓は銭、名は鏐、唐の末つかたより東南の呉越を領して偏覇の主たり 〉此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典をもとめしむ。こと<”くうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代の中、後唐の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて本となるなり。凡伝教彼宗の秘密を伝へられたることも〈 唐台州刺史陸淳が印記の文にあり 〉こと<”く一宗の論疏をうつし、国にかへれることも〈 釈志磐が仏祖統紀にのせたり 〉異朝の書にみえたり。弘法は母懐胎の始、夢に天竺の僧来りて宿をかり給けりとぞ。宝亀五年甲寅六月十五日誕生。この日唐の大暦九年六月十五日にあたれり。不空三蔵入滅す。仍かの後身と申也。かつは恵果和尚の告にも「我と汝と久契約あり。誓て密蔵を弘。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或は五筆の芸をほどこし、さま<”の神異ありしかば、唐の主、順宗皇帝ことに仰信じ給き。彼恵果〈 真言第六の祖、不空の弟子 〉和尚六人の附法あり。剣南の惟上・河北の義円〈 金剛一界を伝 〉、新羅の恵日・訶陵の弁弘〈 胎蔵一界を伝 〉、青龍の義明・日本の空海〈 両部を伝 〉。義明は唐朝におきて潅頂の師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶たり〈 恵果の俗弟子呉殷が纂の詞にあり 〉。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子順暁にあひて真言を伝へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。

☆第五十一代、第二十九世、嵯峨(さが)天皇は桓武(かんむ)天皇第二番目の子供で、平成(へいぜい)天皇と同じ母親の弟です。太弟(たいてい::皇太子)になっておられましたが、己丑(つちのとうし::809年。大同(だいどう)四年)の年に即位され、庚寅(かのえとら::810年)の年に弘仁(こうにん)と改元されました。

この嵯峨天皇は幼少の時より聡明で読書を好まれ、諸芸も習われていました。また何事にも控え目な態度で接する度量の大きさも持っておられました。桓武天皇にとって鍾愛(しょうあい::大切にして可愛がる)この上ない大事なお子さんでした。儲君(ちょくん。もうけのきみ::皇太子)としておられるのもこの嵯峨天皇が皇位を継ぐことの出来るように、

父の帝(桓武天皇)が恩情ある命令を下されたからでしょう。格式(きゃくしき::律令を補足、修正するための法令)などもこの天皇の御時より実情に合うよう検討が始まりました。(弘仁格式(こうにんきゃくしき)の制定)また仏教を深く信仰されました。前世において美濃国の神野と言う所に、尊い僧侶がいました。

橘太后(きったいこう::橘嘉智子(たちばなのかちこ::嵯峨天皇の皇后))がお生まれになる前、心を込めてお世話をされたことの報いとして、二人そろってこの世に生まれ変わったとか。御諱(いみな::死後にその人を尊んで贈る称号)を神野(かみの)と言うのも当然のことでしょう。伝教【お名前は最澄】と弘法【お名前は空海】の両大師が唐の国より伝えられた天台と真言の二つの宗教も、

この御時より世に広まりました。この二人の大師は直也人(ただなるひと::普通の人)ではございません。伝教大師は入唐される前から、比叡山に仏寺を建立し修行に励まれていました。現在の根本中堂の地を開拓された時、八つの舌のある鎰(かぎ::鍵)を求められて唐の国までお持ちになりました。

唐で天台山の上られ、智者(ちしゃ)大師(智(ちぎ)の尊称)【天台宗開山以来四代目の開祖。天台大師とも言われます】六代(?)の正しい教えを伝えている道邃(どうすい)和尚にお会いし、その宗教を学ばれましたが、天台山には智者大師が帰寂(きじゃく::僧侶が死ぬこと)されてから、鍵を紛失したため開くことの出来ない一つの蔵がありました。

試みに伝教大師が持っていた鍵で開くと簡単に開きました。一山の僧侶たちはこぞって渇仰(かつごう::心から憧れること)されました。そういうこともあって、天台宗の奥義(おうぎ::最も奥深く重要なる事柄)残るところなく最澄に伝えられたと言うことです。その後慈覚(じかく::円仁(えんにん))、智証(ちしょう::円珍(えんちん))の両大師もまた入唐して、天台宗、真言宗を完璧に学び終えると、

帰朝の後比叡山に広められたので、この天台、真言の両宗教はますます盛んになり、天下に広まりました。唐の国では世の中が乱れ、経教(きょうぎょう::経典や教え)の多くが紛失しました。道邃より四代に当たる義寂(ぎじゃく)と言う人まで、ただ観心(かんじん::自己の心の本性や真実)を伝えるだけで、宗義(しゅうぎ::その宗派の教義)を明らかにすることは絶えてしましました。

呉越国(ごえつこく)の忠懿王(ちゅういおう?::銭弘俶(せんこうしゅく))【姓は銭、名は鏐(りゅう)ですが、彼は唐の末期から東南の呉越を領有し、ある意味不正な国家の主です】はこの天台宗が衰えてしまったことを嘆き、使者十人を指名して我が国に送り込み、経典を求めさせました。それら経典を全て写し終わると帰国しました。

義寂はこれら写本を見ると気分が良くなり、更にこの宗教の再興に励みました。中国では五代の中期にして、後唐の末期の頃なので、我が国では朱雀天皇(すざくてんのう::第六十一代天皇。在位930-946年)の御代に当たるでしょう。日本より逆に伝えられた宗教なので、我が国の天台宗が反対に正統なものとなりました。

そもそも伝教大師が天台宗の奥深い教義を伝えられたことも【唐国台州(だいしゅう)の刺史(しし::官職名)陸淳(りくじゅん::唐の学者)の印がある文章に記載されています】、またこの宗教に関する経典全ての解釈を控えて自国に持ち帰ったことも【釈志盤(しばん::南宋代の天台宗の僧侶で仏教史家)の書いた仏祖統紀(ぶっそとうき::仏教史書)にも記載されています】かの中国の書物にも見られます。

弘法大師は母親が懐妊した当初、夢の中で天竺(てんじく::古代インド)の僧侶がやって来て、宿を借りられたことがあったそうです。弘法大師は宝亀(ほうき)五年甲寅(きのえとら::774年)六月十五日誕生されました。この日は唐朝の大暦(だいれき::中国の元号)九年六月十五日に当たります。不空三蔵(ふくうさんぞう::不空金剛(ふくうこんごう))が死去されたのもこの年です。

このことから弘法大師は不空金剛の生まれ変わりとか言われています。また一方では恵果(えか/けいか::空海の師)和尚の話された言葉にも、「私と汝は昔からの約束がある。何があっても密教の普及に務めよう」とあるのも、そういう理由からでしょうか。唐に渡られた時にも、例えば五筆の芸(ごひつのげい::口と両手両足に筆を持って同時に字を書くこと)を披露したり、

色々な神異(しんい::人間業ではない不思議なこと)が起こったので、唐の主である、順宗皇帝(じゅんそうこうてい::唐朝第十三代皇帝)は特に大師を信仰されました。あの恵果【真言宗第六(七?)の祖であり、不空の弟子】和尚は六人の弟子に特に釈迦の教えを伝えられました。それは剣南(けんなん)の惟上(ゆいしょう)

河北の義円(ぎえん)【金剛一界を伝授】、新羅(しらぎ::古代朝鮮半島にあった国家)の恵日(えにち)、訶陵(かりょう)の弁弘(べんこう)【胎蔵(たいぞう)一界を伝授】、青龍(せいりょう)の義明(ぎみょう)、日本の空海【両部(りょうぶ::金剛界と胎蔵界)を伝授】の六人です。義明(ぎみょう)は唐朝において灌頂(かんじょう::修行者が一定の地位に上る時行う儀式)の指導者たる人でしたが早世されました。

また弘法大師はこれら六人の中で瀉瓶(しゃびょう::師として弟子に仏教の奥義をもれなく伝授すること)の立場でした【恵果の俗弟子(在家の弟子)である呉殷(?)が書かれた纂(さん::讃では?仏や菩薩の徳をたたえる言葉)の言葉にあります】。となれば弘法大師の真言宗は正統なものであると言えるのでは。このことも中国の書物に書かれています。

伝教大師(最澄)も不空の弟子である順暁(じゅんぎょう::密教の僧)にお会いして真言を伝えられましたが、唐での滞在がそれ程長くなかったので、深く学ばれなかったからでしょうか。我が国に帰られてから弘法大師の真言密教に押さえられたのでした。(?)また最澄の伝えた真言宗は絶えてしまいました。


慈覚・智証は恵果の弟子義操・法潤ときこえしが弟子法全にあひて伝へらる。凡本朝流布の宗、今は七宗也。此中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧専鎮護国家のためと心ざされけるにや。比叡山には〈 比叡と云こと桓武・伝教心を一にして興隆せられしゆゑなづくと彼山の輩称也。しかれど旧事本紀に比叡の神の御ことみえたり 〉顕密ならびて紹隆す。殊に天子本命の道場をたてて御願を祈る地なり〈 これは密につくべし 〉。又根本中堂を止観院と云ふ。法華の経文につき、天台の宗義により、かた<”鎮護の深義ありとぞ。東寺は桓武遷都の初、皇城の鎮のためにこれをたてらる。弘仁の御時、弘法に給てながく真言の寺とす。諸宗の雑住をゆるさざる地也。此宗を神通乗と云ふ。如来果上の法門にして諸教にこえたる極秘密とおもへり。就中我国は神代よりの縁起、此宗の所説に符合せり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、則日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云もことわりにや。大唐の内道場に准じて宮中に真言院をたつ〈 もとは勘解由使の庁なり 〉。大師奏聞して毎年正月この所にて御修法あり。国土安穏の祈祷、稼穡豊饒の秘法也。又十八日の観音供、晦日の御念誦等も宗によりて深意あるべし。三流の真言いづれと云べきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。延喜の御宇に綱所の印鎰を東寺の一阿闍梨にあづけらる。仍法務のことを知行して諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をも天台座主と云めり。此天皇諸宗を並て興ぜさせ給けり。中にも伝教・弘法御帰依ふかゝりき。伝教始て円頓の戒壇をたつべきよし奏せられしを、南京の諸宗表を上てあらそひ申ししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさら師資の御約ありければ、おもくし給けるとぞ。此両宗の外、華厳・三論は東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の杜順和尚よりさかりになれりしを、日本の朗弁僧正伝へて東大寺に興隆す。此寺は則此宗によりて建立せられけるにや、大華厳寺と云名あり。三論は東晉の同時に後秦と云国に、羅什三蔵と云師来て、此宗をひらきて世に伝へたり。孝徳の御世に高麗の僧恵潅来朝して伝へ始ける。しからば最前流布の教にや。其後道慈律師請来して大安寺にひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。法相は興福寺にあり。唐玄弉三蔵天竺より伝へて国にひろめらる。日本の定恵和尚〈 大織冠の子なり 〉彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝の後世をはやくす。今の法相は玄■僧正と云人入唐して泗州の智周大師〈 玄弉二世の弟子 〉にあひてこれを伝へて流布しけるとぞ。春日の神もことさら此宗を擁護し給なるべし。此三宗に天台をくはへて四家の大乗と云ふ。倶舎・成実なむど云は小乗也。道慈律師おなじく伝て流布せられけれども、依学の宗にて、別に一宗を立ことなし。我国大乗純熟の地なればにや、小乗を習人なき也。又律宗は大小に通ずる也。鑒真和尚来朝してひろめられしより東大寺および下野の薬師寺・筑紫の観音寺に戒壇をたてて、此戒をうけぬものは僧籍につらならぬ事になりにき。中古より以来、其名ばかりにて戒体をまぼることたえにけるを、南都の思円上人等章疏を見あきらめて戒師となる。北京には我禅上人入宋して彼土の律法をうけ伝てこれをひろむ。南北の律再興して彼宗に入輩は威儀を具することふるきがごとし。

慈覚(じかく)と智証(ちしょう)は、恵果(えか/けいか)の弟子である義操(ぎそう)、法潤(ほうにん/ほうじゅん)の弟子だと言われている法全(はっせん::義操、法潤から金剛界、胎蔵界の大法を受ける)にお会いして、天台の教えを伝えられ学びました。大体今の我が国で流布している宗教は七つ(律宗、法相(ほっそう)、三論、華厳、天台、真言、禅宗)あります。

この中でも真言、天台の二宗は祖師(そし::宗派を開いた人。開祖)の念願はひたすら国家鎮護を求めることに努められたのでしょうか。比叡山においては【比叡と言うのは桓武天皇と伝教大師(最澄)の優れた二人が心を一つにして興隆されたから名付けられたと、彼の山の連中は称しています。

しかしながら旧事本記(くじほんぎ::全十巻、天地開闢(てんちかいびゃく)から推古(すいこ)天皇までの歴史が記述されている)には比叡の神(大山咋(おおやまくい)の神と大己貴(おおなむち)の神)のことであると書かれています】顕密(けんみつ::密教と密教以外の仏教)ともに発展隆盛しています。特に天子本命(てんしほんみょう::天子が生まれた年の星)の道場(天子の本命星を祈念し、国家を鎮護するための道場)を建立して祈願する地でもあります【これは密教に属するのでしょう】。

また比叡山の根本中堂は止観院(一乗止観院:いちじょうしかんいん)とも言います。法華の経文と天台宗の教義には、国家鎮護の奥深い意味が込められていると言われています。また東寺は桓武(かんむ)天皇が京都に遷都された当初、皇城(こうじょう::皇居の置かれた土地)の平穏無事なことを祈ってこれを建てられました。

弘仁(こうにん)の御時、弘法大師に与えられ、その後永く真言宗の寺院となりました。またこの寺には諸宗教の信者を住まわすことを許可しませんでした。この宗教のことをまたの名として神通乗(じんつうじょう?)とも言います。如来果上(にょらいかしょう?)の法門(ほうもん::仏教)であり、諸宗教とは一線を画した特別な秘密を持った宗教と思えます。

とりわけ我が国は神代から物事の起こりや由来など、この宗教の説くところと符合します。このためか唐朝では世間に広まったのはしばらくの間であり、かえって日本に定着することとなりました。また相応の宗(因果を説いている宗教?)と言われているのも理由なのでしょうか。大唐(だいとう::中国の美称)に建立された内道場(ないどうじょう::仏教修行所)と同様、

宮中に真言院を建立しました【もとは勘解由使の庁(役所の建物)です】。弘法大師は朝廷に伺いを立て、毎年この場所で御修法(ずほう/しゅほう::密教で行う祈祷の法)を行われました。それは国土、国家が安全であることを願っての祈祷や、稼穡豊饒(かしょくほうじょう::種まきが順調に進み、作物が良く実ること)を願う秘法です。

また十八日の観音供(かんのんぐ::宮中で毎月十八日に行われる観音供養の法会)や、晦日の御念誦(みねんじゅ::経文を唱えること)なども宗教上深い意味があるのでしょう。三つの流れがある真言宗のどれと言う訳ではありませんが、真言宗をもって諸宗教の中で第一とするのも、東寺の影響があります。

延喜(えんぎ::901-923年)の時代に綱所(こうしょ::僧綱所。仏教界の統制にあたる中央の僧侶官吏の役所)の印鎰(いんやく::印鑑と鍵)を東寺の一阿闍梨(あじゃり::修行を終えた高僧)に預けられました。と言うことは仏教に関する諸事を管轄することで、諸宗教の最高位に置かれたのです。山門(比叡山延暦寺)や寺門(じもん::園城寺(三井寺))は天台宗を中心とするからか、

顕密の両方を兼ねてはいますが、宗教における最高位は天台座主と言います。この嵯峨(さが)天皇は諸宗教全てに興味を持たれていました。その中でも伝教大師、弘法大師に強く帰依(きえ::信じ頼ること)されました。伝教大師は初めて円頓(えんどん::円頓戒。仏教信者が守るべき戒律の一種)の戒壇(かいだん::戒律を授ける儀式用の檀)を建造するべきだと天皇に申し上げたことを、

南京(なんきょう::奈良平城京)の諸宗教は建造反対の文書を提出して争いましたが、ついに戒壇建造の許しが出て我が国に四ヶ所(これまでは東大寺(奈良)、観世音寺(筑紫)、薬師寺(下野)の三ヶ所)の戒場(戒律を授ける場所)が出来ました。また弘法大師は特に師となることを頼まれているので、重要視されていました。

この両宗教以外、華厳(けごん::華厳宗)、三論(さんろん::三論宗)は東大寺において広められました。その華厳宗は唐の杜順(とじゅん::中国華厳宗の初祖とされる)和尚によって盛んになったのを、日本の朗弁(ろうべん::日本華厳宗第二祖)僧正がこれを日本に伝え、東大寺で隆盛になりました。この寺はとりもなおさずこの宗教に基づいて建立されたからなのか、

大華厳寺(だいけごんじ)という異名があります。また三論宗は東晉(とうしん::317-420年)の時代に後秦(こうしん::384-417年)と言う国に羅什(鳩摩羅什(くまらじゅう))三蔵と言う高僧が来られてこの宗教を始められ、世の中に伝えられたのです。我が国では孝徳天皇(こうとくてんのう::第三十六代天皇。在位645-654年)の御代に、

高句麗(こうくり::BC37-668年)の僧侶、恵潅(えかん::日本の三論宗の祖)が我が国に来られて布教を始めました。と言うことは、この三論宗が最も早く日本で布教の始まった宗教なのです。その後道慈(どうじ)律師が唐に渡り、仏像や、経典などを請い受けて日本に持って帰り、大安寺で広められました。今は華厳宗と並んで東大寺で守られています。

法相宗(ほっそうしゅう)は興福寺で守られています。唐の玄奘(げんじょう::法相宗の開祖)三蔵法師が天竺(てんじく::古代インド)より持ち帰り、国内に広められました。日本の定恵(じょうえ)和尚【大織冠(だいしょくかん::藤原鎌足)の子供です】が唐に渡り、玄奘の弟子となって修行を積みますが、日本に帰ってからすぐに死去しました。

今の法相宗は玄ム(げんぼう)僧正と言う人が唐に入り、泗州(ししゅう::中国にかつて存在した州)の智周(ちしゅう::唐の法相宗の第三祖)大師【玄奘二世の弟子】にお会いし、これを日本に持ち帰って流布されたと言うことです。春日権現の神も特別この法相宗を擁護されたのです。

これら華厳宗、三論宗、法相宗の三宗教に天台宗を加えて、四家(しけ)の大乗(だいじょう::大乗仏教)と言います。倶舎(くしゃ::倶舎宗)や成実(じょうじつ::成実宗)などと言うのは小乗(しょうじょう)仏教です。道慈(どうじ)律師が同じように日本に持ち帰り流布されましたが、依学(えがく::信仰ではなく、学問研究の対象として教義を学ぶこと)を尊ぶ宗教のため、別途一宗派を立てることはありませんでした。

我が国が大乗仏教の方を純熟(じゅんじゅく::なれ親しむこと)する土地柄なのか、小乗仏教を学ぶ人がいないからでしょうか。また律宗は大乗仏教と小乗仏教をあわせ持つところがあります。鑒真(がんじん::鑑真。帰化僧)和尚が我が国に来られてから広められたことにより、東大寺及び下野の薬師寺と筑紫の観音寺に戒壇を建て、

この戒壇院で戒を受けない者は、僧籍に名を連ねることは出来なくなりました。少しばかり昔の頃から今に至るまで、名前だけ戒を受けるだけで、戒体(かいたい::戒を受けたことによって備わる悪を防ぎ、善を行う力)を守ろうとするのこと絶えてしまったのを、南都の思円(しえん::叡尊(えいそん))上人らが章疏(しょうそ::仏典の注釈書)の研究を重ねて戒師(かいし::出家を望む者に戒を授ける法師)となりました。

また北京(ほっきょう::平安京)においては、我禅(俊じょう(草かんむりに仍)::月輪(がちりん)大師)上人が宋国に渡り、彼の国の律法(戒律::修行者が守るべきあらゆる規範)を学んで帰国し広められました。平城京(南都)と平安京(北京)の律宗も再興され、この宗教に入信する人たちの規律にかなった起居動作は、その昔を彷彿させるものでした。


禅宗は仏心宗とも云ふ。仏の教外別伝の宗なりとぞ。梁の代に天竺の達磨大師来てひろめられしに、武帝に機かなはず。江を渡て北朝にいたる。嵩山と云所にとゞまり、面壁して年をおくられける。後に恵可これをつぐ。恵可より下、四世に弘忍禅師ときこえし、嗣法南北に相分る。北宗の流をば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。安然和尚〈 慈覚孫弟 〉教時諍論と云書に教理の浅深を判ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人なくてたえにき。近代となりて南宗のながれおほくつたはる。異朝には南宗の下に五家あり。その中臨済宗の下より又二流となる。これを五家七宗と云ふ。本朝には栄西僧正、黄龍の流をくみて伝来の後、聖一上人、石霜の下つかた虎丘のながれ無準にうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりて伝へしかば、諸家の禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前の顕・密・権・実等の不同には相似べからず。いづれも直指人心、見性成仏の門をばいでざる也。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることを聊しるし侍につきて、大方の宗々伝来のおもむきを載たり。極てあやまりおほく侍らん。但君としてはいづれの宗をも大概しろしめして捨られざらんことぞ国家攘災の御はかりことなるべき。菩薩・大士もつかさどる宗あり。我朝の神明もとりわき擁護し給ふ教あり。一宗に志ある人余宗をそしりいやしむ、大なるあやまり也。人の機根もしな<”なれば教法も無尽なり。況わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極たる罪業にや。われは此宗に帰すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分の益あるべし。是皆今生一世の値遇にあらず。国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益のひろからんことを思給べき也。且は仏教にかぎらず、儒・道の二教乃至もろ<の道、いやしき芸までもおこしもちゐるを聖代と云べき也。凡男夫は稼穡をつとめておのれも食し、人にもあたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎に似たれども人倫の大本也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此外商沽の利を通ずるもあり、工巧のわざを好もあり、仕官に心ざすもあり、是を四民と云ふ。仕官するにとりて文武の二の道あり。坐て以道を論ずるは文士の道也。此道に明ならば相とするにたへたり。征て功を立は武人のわざなり。此わざに誉れあらば将とするにたれり。されば文武の二はしばらくもすて給べからず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。国をさまれる時は文を右にし武を左にす。」といへり〈 古に右を上にす。仍しかいふ也 〉。

禅宗は仏心宗とも言います。仏教における教外別伝(きょうげべつでん::仏陀の教えを言葉では表せない真の精神を受け継いでいる)の宗教と言うことです。梁(りょう::502-557年)の時代に天竺(古代インド)の達磨(だるま)大師が来られて広められましたが、武帝(ぶてい::梁の初代皇帝)との面会は不調に終わりました。

達磨は河(長江)を渡って北朝(北魏::ほくぎ)に着きます。嵩山(すうざん)と言う場所(少林寺)に留まり、面壁(めんぺき::壁に向かうこと)して数年過ごしました。後になって慧可(えか:中国禅宗の二祖)がこれを引き継ぎました。慧可より下って四世に弘忍(ぐにん/こうにん::中国禅宗の五祖)禅師と言う僧侶が、師から受け継いだ禅の教えを、南宗禅と北宗禅に分けました。

北宋の流派を伝教大師と慈覚が学んで日本に帰りました。安然(あんねん)和尚【慈覚の孫弟子です】が編纂した教時諍論(きょうじじょうろん)と言う書物で、諸宗派の教えの優劣を判定し、第一位を真言宗、第二位を仏心宗(禅宗)、第三位を天台宗と位置づけました。しかしこの北宋禅は引き継ぐ者がいなく、絶えてしまいました。

最近になって南宋禅の流派が多く伝わってきました。異朝中国には南宋禅の宗派には五家(五つの宗派)あります。その中の臨済宗の下は又二つに分かれます。これを五家七宗(ごけしちしゅう)と言います。我が国には栄西(えいさい::日本臨済宗の開祖)僧正が黄龍(おうりゅう)派の禅を学び日本に伝えてから、

聖一(しょういち::円爾(えんに))上人が石霜(せきそう)の下つかた(?)虎丘(こきゅう)の流れ(臨済宗虎丘派のことか?)を無準(ぶじゅん::無準師範)に学びました。この宗教が広まったのはこの二人の禅僧以降のことです。その後も異朝中国より多くの僧侶が我が国に来ることとなり、また我が国からも中国に渡り伝えることにったので、日本では諸家の禅が多く広まりました。

五家七宗とは言っても、以前の顕教(けんきょう::釈迦如来が秘密にすることなく明らかに説いた教え)、密教(みっきょう::大日如来が説いた秘密の教え)、権教(ごんきょう::真実を仮の形にして受け入れやすくした教え)、実教(じっきょう::真実をそのまま語った教え)の違いとはまた異なっています。いずれも禅宗の特色である、

直指人心、見性成仏(じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ::教説や修行でなく、座禅によって悟りを開き仏となること)の教えから出るものではありません。弘仁(こうにん::810-824年)の御代より真言宗、天台宗が隆盛することについて少しばかり紹介することによって、ほとんどの宗教がいかに伝来したかを記載しました。

間違っていることもきっと多いと思われます。ただ、帝におかれましては、それぞれの宗教についておおむね理解されて、どの宗教に対しても圧迫などなさらないことこそ、国家の安定を保つ方法ともなることでしょう。菩薩(ぼさつ::日本の神につけた尊号)や大士(だいし::仏や菩薩の尊称)をも支配下に置こうとする宗教もあります。

また我が国の神々や天照大神を特に擁護される宗教もあります。一つの宗教を信仰する人が、他の宗教を批判し、軽蔑することは大きな間違いです。全ての人間に備わっている能力は、一つとして同じものでないように、諸宗教の教えも無限にあります。それどころか自分の信ずる宗教さえ完全に理解できていないのに、

未だ何も知らない宗教を批判することなど、あってはならない大きな過ちです。自分はこの宗教に帰依するけれども、他の人は別の宗教に心を寄せます。それでお互いに充分なる御利益(ごりやく::神仏より与えられる幸運)を得られるでしょう。これらのことは全て、この世一代限りの縁ではありません。

まして国の主となり、政治を補佐する立場になれば、諸宗教を排除することなく、また機会を失することなく御利益を得られることを、お考えになるべきでしょう。そればかりでなく、儒教(じゅきょう::孔子の唱えた道徳、教理を体系化したもの)や道教(どうきょう::中国古代の民間信仰を基盤に、自然発生的に生まれた宗教)の二つの宗教以外もろもろの宗教、

そのほか品位に欠けると思われる芸能や技能まで再興し、世の中に広められることこそ、優れた天子の治められる世と言うのでしょう。基本的に男たるものは穀物の種まきとその収穫に励み、自分の食料とすると共に、他の人にもそれを与えて飢えることのないよう努め、また女性は動植物の繊維を紡ぐことに努め、

我が身も着用し、人も暖かく過ごせるようにすることです。取るに足らない営みのように思えますが、これが人として守るべき道の最も基本となるものです。天の時に従い、地の理によれり(天が与えてくれる好機を利用し、土地の有利な条件を利用する)とはこのことです。これ以外、商売によって利益を得ることに堪能な人もいれば、また物を作成するため、

巧みな技を得ようとする人もいれば、官職を志す人もいます。これらをまとめて四民(しみん::士、農、工、商の四つの身分)と言います。仕官(しかん::官職に就くこと)する人にとっては、文武二つの方法があります。身体を動かさず道理を説くのは文章で身を立てる方法です。この能力に優れていれば、君主を補佐して政治を行うことに充分耐えられるでしょう。

反対に戦地に出陣して、勲功を立てるのは武人の仕事であります。この仕事の遂行に素晴らしい評判を得た人は、将軍として任命するに十分でしょう。と言うことで文武の両道は、一時も無視することは出来ません。「世の乱れた時は武を右にして文を左にする。国が治まった時は文を右にして武を左にする(乱れた時は武力を重視し、治まれば道理を優先する)」と言います【昔は右を上に変えて表記します。そして上述の通りです】。


かくのごとくさま<”なる道をもちゐて、民のうれへをやすめ、おの<あらそひなからしめん事を本とすべし。民の賦斂をあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国は王種のかはることはなけれども、政みだれぬれば、暦数ひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。抑民をみちびくにつきて諸道・諸芸みな要枢也。古には詩・書・礼・楽をもて国を治る四術とす。本朝は四術の学をたてらるゝことたしかならざれど、紀伝・明経・明法の三道に詩・書・礼を摂すべきにこそ。算道を加て四道と云ふ。代々にもちゐられ、其職を置るゝことなればくはしくするにあたはず。医・陰陽の両道又これ国の至要也。金石糸竹の楽は四学の一にて、もはら政をする本也。今は芸能の如くに思へる、無念のこと也。「風を移し俗をかふるには楽よりよきはなし。」といへり。一音より五声・十二律に転じて、治乱をわきまへ、興衰を知べき道とこそみえたれ。又詩賦哥詠の風もいまの人のこのむ所、詩学の本にはことなり。しかれど一心よりおこりて、よろづのことの葉となり、末の世なれど人を感ぜしむる道也。これをよくせば僻をやめ邪をふせぐをしへなるべし。かゝればいづれか心の源をあきらめ、正にかへる術なからむ。輪扁が輪をけづりて齊桓公ををしへ、弓工が弓をつくりて唐の太宗をさとらしむるたぐひもあり。乃至囲碁弾碁の戯までもおろかなる心ををさめ、かろ<”しきわざをとゞめんがためなり。たゞし其源にもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。孔子も「飽食て終日に心を用所なからんよりは博■をだにせよ。」と侍めり。まして一道をうけ、一芸にも携らん人、本をあきらめ、理をさとる志あらば、これより理世の要ともなり、出離のはかりことともなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行により相剋・相生をしり自もさとり他にもさとらしめん事、よろづの道其理一なるべし。此御門誠に顕密の両宗に帰給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、宮城の東面の額も御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、嵯峨山と云所に離宮をしめてぞまし<ける。一旦国をゆづり給しのみならず、行末までもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、恒世の親王を太子に立給しを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。上皇ふかく謙譲しましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代までの美談にや。昔仁徳兄弟相譲給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おまし<き。

このようにして色々な方法や手段を講じて民衆の不安をなくし、各自が争いごとを起こさせないことを重要視しなければなりません。民衆からの賦斂(ふれん::徴税)を重くして、自分の心のままに欲望を満たそうとすることは、世の乱れ、国の乱れに直結することになります。我が国は王の血統が変わることはありませんが、

政治が乱れると永く皇位を保つことは出来ません。継体天皇(けいたいてんのう::第二十六代天皇。在位507-531年)も過ちを犯されたことが、ここかしこに記録されています。まして臣下として、命じられた職務を遂行するにおいては当然のことです。そもそも民衆を正しい方向に向かうよう指導する場合、学芸やまた如何なる芸事など全て重要です。

古くは詩(詩経)、書(書経)、礼(儀礼)、楽(楽経(がっけい))《四書五経の一部》をもって国を治める人の学ぶべき四つの教義としていました。本朝我が国では前記の四つの学問を最重要視したことは確認できませんが、紀伝(きでん::中国の史書、詩文を学ぶ学科)、明経(みょうぎょう::論語などを学ぶ学科)、明法(みょうぼう::法律を学ぶ学科)の三道(さんどう::三つの学科)に加えて詩、書、礼を学ぶことが求められました。

そしてこれになおも算道(さんどう::算法を学ぶ学科)をも加え四道(しどう::四つの学科)と言います。過去今まで用いられ、その職が置かれていることを考えれば、詳しく説明する必要はないでしょう。医、陰陽(おんよう::中国伝来の陰陽五行説に基づき、吉凶などを占う学問)の二つの学科もまた国家にとって非常に大切なものです。

金石糸竹(きんせきしちく::各種楽器の総称)の楽(がく::楽器を用いた快い音曲)は詩、書、礼、楽の四つの学問の一つであり、主として政治を行う上での基本的な学問であります。それが今はただ単に芸能のようになってしまったことは無念なことです。「風を移し俗をかふるには楽よりよきはなし」(移風易俗、莫善於楽::世間の風俗を良い方向に変えるには、音楽より良いものはない)と言われています。

ただ一つの音が五声(ごせい/ごいん::中国音楽で使われる五つの音の高さ)や十二律(じゅうにりつ::中国や朝鮮、日本の伝統音楽で用いられる十二種類の標準的な高さの音)に変化することから、世の中が安定しているのか乱れているのかを判断し、栄枯盛衰を予知する術だとも思えます。また詩賦哥詠(しふかえい::詩や歌を声を長くひいて詠うこと)の風習も今の人達が好むところであって、

漢詩の本質や形式など研究する学問とは基本的に異なっています。とは言え精神を集中し色々な歌を詠めば、この末法の世であっても人を感激させる手段ともなります。この詩歌の道に熟達すると悪事を働くことなく、不正の防止にも一役買うと思われます。と言うことになれば、いつの間にか本能のままに行動を起こすことがなくなり、正常な精神を手に入れる方法とも言えます。

輪扁(りんへん::車大工。荘子に登場する人物)が車輪を削って斉(せい::かつて中国に存在した国)の桓公(かんこう::斉の第十六代君主)に言葉では伝授することの出来ないものがあることを教え、また弓を作る職人が弓を作って、唐の太宗皇帝(たいそうこうてい::唐朝第二代皇帝)に本当に良い弓の見分け方を悟らせたと言う例もあります。

あるいは囲碁や弾碁(だんぎ::石をはじいて石を取り合いする遊び)などの娯楽であっても、考えの足らない頭を鍛え、軽率な行動に走ることを制御させます。しかし、何もその本来の目的がどうあれ、一つの芸は学ぶ方が良いのでしょう。孔子も、「満腹になるまで食べて、一日中何も考えずに過ごすよりは、博奕(ばくえき::ばくち)でもする方がまだましだ」と、おっしゃっています。

まして一つの芸の道に携わる人が、その道の本質を明らかにし、理論的なことも学ぼうとする気持ちがあれば、それらのことは世を治めるための重要な事柄をも含み、また仏門に入る一助にもなることでしょう。この世は全て、五大(ごだい::宇宙を構成する五つ要素、地、水、火、風、空のこと)五行(ごぎょう::万物は五種類の元素、木、火、土、金、水からなると言う思想)によって相剋(そうこく::ある五行がある五行を弱める関係)

相生(そうせい::ある五行がある五行を強める関係)を繰り返していることを知って、自らも認識しまた他人にも理解してもらうよう努めることは、あらゆる学問全てに共通する理屈であります。この帝、嵯峨(さが)天皇は心から顕(けん::顕教。密教以外の仏教)(みつ::密教)両宗を信仰されているばかりでなく、

儒学にも通じられ、文章も良くされるだけでなく、書についても優れておられ、宮城(きゅうじょう::皇居)に掲げられている東面の額も、おん自らお書きになられました。嵯峨天皇が天下を治められたのは十四年間です。皇太弟(こうたいてい::皇位を継ぐことになっている天皇の弟。大伴(おおとも)親王、後の淳和(じゅんな)天皇)に皇位を譲られ、

太上天皇(だいじょうてんのう::天皇の譲位後の尊称)と称されました。京都の西方、嵯峨山と言われる所に離宮(りきゅう::皇居とは別に建造された宮殿)を造られお住まいになられました。一旦皇位を退いて国をお譲りになられただけでなく、将来における皇位の安定を望まれたのか、新帝、淳和天皇のお子さんである恒世親王(つねよしんのう::淳和天皇の第一皇子)を皇太子に立てられようとされましたが親王は固く辞退され、

その日のうちに嵯峨上皇の子である正良親王(まさらしんのう::後の仁明(にんみょう)天皇)が擁立されることとなり、自ら世の皇位継承の争いから逃れられたことはありがたいことです。上皇が辞を低くして依頼されたのを、親王もまたこのように辞退されましたこと、末代にも伝わる美談です。

昔、仁徳天皇(にんとくてんのう::第十六代天皇。在位313-399年)の御兄弟が皇位をお互いに譲り合われたこと以来、聞いたことがありません。嵯峨天皇は五十七歳にて崩御されました。


○第五十三代、淳和天皇、西院の帝とも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子、贈太政大臣百川の女也。癸卯年即位、甲辰に改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇まし<ければ、嵯峨をば前太上天皇、此御門をば後太上天皇と申き。嵯峨御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞親王立給しが、両上皇かくれましし後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おまし<き。

☆第五十三代、淳和(じゅんな)天皇は、また西院の帝とも言われます。桓武(かんむ)天皇第三番目のお子さんです。御母は贈(ぞう::死後に贈られた官位)皇太后藤原の旅子(たびこ)で、贈太政大臣藤原百川(ももかわ)の娘です。癸卯(みずのとう::823年)の年に即位され、翌、甲辰(きのえたつ::824年)の年に天長(てんちょう)と改元されました。

天下を治められたのは十年間です。皇太子(嵯峨天皇の第二皇子である正良(まさら)親王)に譲位され太上天皇と称されました。この時二人の上皇が存在することになり、嵯峨上皇を前太上天皇、この帝は後太上天皇と称されました。嵯峨の帝によって決められていたのか、皇太子には再び淳和天皇の第二皇子である恒貞(つねさだ)親王をお立てになりましたが、両上皇が崩御されてから訳があって廃されることになりました。(承和(じょうわ)の変)五十七歳にて崩御されました。


○第五十四代、第三十世、仁明天皇。諱は正良〈 これよりさき御諱たしかならず。おほくは乳母の姓などを諱にもちゐられき。これより二字たゞしくましませばのせたてまつる 〉、深草の帝とも申。嵯峨第二の子。御母皇太后橘の嘉智子、贈太政大臣清友女也。癸丑年即位、甲寅に改元。此天皇は西院の御門の猶子の儀まし<ければ、朝覲も両皇にせさせ給。或時は両皇同所にして覲礼もありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。遣唐使もつねにあり。帰朝の後、建礼門の前に、彼国のたから物の市をたてて、群臣にたまはすることも有き。律令は文武の御代よりさだめられしかど、此御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治給こと十七年。四十一歳おまし<き。

☆第五十四代、第三十世は仁明(にんみょう)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は正良(まさら)【この天皇以前は御諱は確かなものではありません。多くは乳母(うば::母親に代わって養育する女性)の姓などが諱に用いられています。今後の二字(にじ::実名)は正しいので記載します】で、深草の帝(ふかくさのみかど)とも申されます。

嵯峨(さが)天皇第二番目のお子さんです。御母は皇太后橘の嘉智子(たちばなのかちこ)で、贈太政大臣橘清友(たちばなのきよとも)の娘です。癸丑(みずのとうし::833年)の年に即位され、翌年、甲寅(きのえとら::834年)に承和(じょうわ)と改元されました。この天皇は西院の帝(さいいんのみかど::淳和(じゅんな)天皇の異称)とは叔父と甥の関係にありますので、

年頭の挨拶である朝覲(ちょうきん::年頭に天皇が上皇の御所に行幸すること)も両上皇(嵯峨上皇と淳和上皇)にされました。時には両上皇が同じ場所時間に、朝覲をお受けになられたこともあるそうです。我が国が発展を続けたのはこの頃だったのかも知れません。遣唐使も常に派遣されました。

遣唐使が帰国すると建礼門(けんれいもん::平安京内裏の外郭門の一つ)の前で唐朝の宝物の数々を展示売買し、また群臣らに下賜されることもありました。大宝律令は文武天皇(もんむてんのう::第四十二代天皇。在位697-707年)の御代に定められましたが、この天皇の時代に改めて編纂され直されました。天下を治められたのは十七年間です。四十一歳にて崩御されました。


○第五十五代、文徳天皇。諱は道康、田村の帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原順子〈 五条の后と申 〉、左大臣冬嗣の女也。庚午年即位、辛未に改元。天下を治給こと八年。三十三歳おまし<き。

☆第五十五代は文徳(もんとく)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は道康(みちやす)で、田村の帝(たむらのみかど::田邑(たむら)帝)とも申します。仁明(にんみょう)天皇の第一番目のお子さんです。御母は太皇太后藤原順子(ふじわらののぶこ)【五条の后と申します】で、左大臣藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の娘です。

庚午(かのえうま::850年)の年に即位され、翌辛未(かのとひつじ::851年)の年に仁寿(にんじゅ)と改元されました。天下を治められたのは八年間です。三十三歳にて崩御されました。


○第五十六代、清和天皇。諱は惟仁、水尾の帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子〈 染殿の后と申 〉、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅年也。己卯に改元。践祚ありしかば、外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろこしには唐■の時、虞舜を登用て政をまかせ給き。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣あり。湯及大甲を輔佐す。是は保衡と云〈 阿衡とも云ふ 〉。其心は摂政也。周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面して摂政す〈 成王を負て南面せられけりともみえたり 〉。漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸侯霍光と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申める。本朝には応神うまれ給て襁褓にまし<しかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子中の大兄の皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫の尊〈 元正天皇の御ことなり 〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。但此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛大将房前、其子大納言真楯、その子右大臣内麿、この三代は上二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣の大臣〈 閑院の左大臣と云ふ。後に贈太政大臣 〉藤氏の衰ぬることをなげきて、弘法大師に申あはせて興福寺に南円堂をたてて祈申されけり。此時明神役夫にまじはりて、補陀落の南の岸に堂たてて今ぞさかえん北の藤浪と詠給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の源の姓を給て高官高位にいたることは此後のことなれば、誰人かうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請にこたへたりとはみえたり。

☆第五十六代は清和(せいわ)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は惟人(これひと)で水尾(みずお)の帝とも申します。文徳(もんとく)天皇第四番目のお子さんです。御母は皇太后藤原の明子(あきらけいこ/めいし)【染殿の后(そめどののきさき)と申します】で、摂政太政大臣藤原良房(ふじわらのよしふさ)の娘です。

我が国では幼い天皇が皇位に就かれることはまれな事です。この天皇が九歳にして即位されたのは戊寅(つちのえとら::858年)の年です。翌己卯(つちのとう::859年)の年に貞観(じょうがん)と改元されました。践祚(せんそ::皇位を継承すること)されましたので、外祖(がいそ::母方の父)である良房の大臣が初めて摂政(せっしょう::天皇が幼少などの時に代わって政治を行うこと)されることになりました。

古代中国では唐尭(とうぎょう::尭のことか?)が帝位にあった時、虞舜(ぐしゅん)を登用して政治を任せられました。この制度を摂政と言います。このようにして三十年が過ぎた時、舜は王位の禅譲を受けられました。殷の時代には伊尹(いいん::夏末期から殷初期にかけての政治家)と言う智や徳に優れた臣下がいました。

湯王(とうおう::天乙(てんいつ))と太甲(たいこう::天乙の孫)を補佐しました。これは保衡(ほこう)と言います【阿衡(あこう::摂政関白の異称)とも言います】。その実態は摂政になります。また周の時代には周公旦(しゅうこうたん::中国周王朝の政治家)もまた非常に優れた君主でした。彼は文王(ぶんのう/ぶんおう::周朝の始祖)の四男で、武王(ぶおう::周朝の創始者)の弟にあたり、

成王(せいおう::周朝第二代の王。武王の子供)の叔父でもあります。武王の時代においては三公(さんこう::周における三つの官職。太師(たいし)、太傅(たいふ)、太保(たいほう))に名を連ね、成王が若くして帝位におつきになると、周公は臣下に対面する時、自ら南に面して座り帝の補佐をしました【成王を背負って南に面して座ったとも言われています】。

漢国において、昭帝(しょうてい::前漢第八代皇帝)もまた幼くして即位されました。父である武帝(ぶてい::前漢第七代皇帝)の遺言により、博陸(はくりく::関白の別名)候の霍光(かくこう)と言う人が、大司馬(だいしば::中国で主として軍事を仕切る官職)大将軍として摂政されました。この中でも周公、霍氏を摂政の先蹤(せんしょう::先例)として扱っています。

我が国では応神天皇(おうじんてんのう::第十五代(神皇正統記では十六代)天皇。在位270-310年)がお生まれになりましたが、赤子のため神功皇后が皇位に就かれました。けれども神功皇后の立場は摂政と伝えられています。しかし現在の摂政とは違っています。推古天皇(すいこてんのう::第三十三代(神皇正統記では三十四代)天皇。在位593-628年)の御代において、

厩戸(うまやど)皇太子(聖徳太子)が摂政されました。この時推古天皇は皇位にありながら、天下の政治については摂政のさせるがままになっていました。齊明天皇(さいめいてんのう::第三十七代(神皇正統記では三十八代)天皇。在位655-661年)の御代において、お子様の中大兄の皇太子(中大兄皇子::なかのおおえのおうじ。後の天智天皇)が摂政されました。

また元明天皇(げんめいてんのう::第四十三代天皇。在位707-715年)の御代も末期ごろに、皇女浄足姫(きよたらしひめ)の尊【元正天皇(げんしょうてんのう::第四十四代天皇。在位715-724年)のことです】がしばらくの間摂政されました。この清和天皇の時代に藤原良房(ふじわらのよしふさ)の大臣が摂政され、まさしく人臣(じんしん::臣下)でありながら、摂政を務めると言うことが始まりました。

ただしこの藤原の一門は、神代の時代から訳があって国王を補佐されてきたことは、これまでにも所々で記載してきました。淡海公(たんかいこう::藤原不比等(ふじわらのふひと))以降、参議中衛大将藤原房前(ふじわらのふささき)、その子大納言藤原真楯(ふじわらのまたて)、またその子供右大臣藤原内麿(ふじわらのうちまろ::内麻呂)の三代においては、

先の二代(藤原鎌足(ふじわらのかまたり)と藤原不比等)のようには繁栄しなかったようです。内麿の子供である藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の大臣【閑院(かんいん::藤原冬嗣の邸宅)の左大臣と言います。後に贈太政大臣】は藤原氏が衰退していくことを嘆かれ、弘法大師に相談した結果、興福寺に南円堂を建立し祈願されました。

この時、春日明神(春日大社の神)が建築作業員に混じり込み、
      補陀落(ふだらく::インド南端の海岸にあり、観音が住むと言う八角形の山)の 南の岸に 堂たてて 今ぞさかえん 北の藤波(藤原房前は藤原北家の祖)

と、詠まれたと言うことです。またこの時に源氏の人達が多く亡くなったと言う人がいますが、とんでもない間違いです。皇子(おうじ::天皇の子供)や皇孫(こうそん::天皇の孫)が源(みなもと)の姓を賜って高位高官(身分と階級のどちらも高い役人のこと)に昇るのはこの時代以降のことなので、一体誰が亡くなったと言うのでしょうか。

しかしこの後、藤原北家が大いに繁栄したことは、確かにこの祈願に神が応えられたとも思えます。


大方この大臣とほき慮おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司あり。菅・江の二家これをつかさどりて、人を教る所也。彼大学の南にこの院を立られしかば、南曹とぞ申める。氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。其比大納言伴善男と云人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき〈 太政大臣良房、左大臣信、右大臣良相 〉。信の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給て、糺明におよばず、右大臣に召仰て、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ驚遽られけるあまりに、烏帽子直衣をきながら、白昼に騎馬して、馳参じて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑に処せらる。此大臣の忠節まことに無止ことになん。天皇仏法に帰給て、つねに脱■の御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号を授奉らる。素真と申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねならぬにや。昔隋煬帝の晉王と云し時、天台の智者に受戒して惣持と云名をつかれたりし、よからぬ君の例なれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水にうつり給。天皇聞食て勅使をつかはし、その所を点じ、もろ<のたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に擬せらる〈 鎮坐の次第は上にみえたり 〉。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。丹波の水尾と云所にうつらせ給て、練行しまししが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おまし<き。

おそらくこの左大臣冬嗣が将来を見越してお考えになったのでしょう。子孫や親族が学問に励むことが出来るよう勧学院(かんがくいん)を建立されました。大学寮(だいがくりょう::官僚育成機関)には東西の曹司(そうし::大学寮内の部屋)があります。菅家(かんけ::菅原氏の家系)と江家(ごうけ::大江(おおえ::古代からの姓。学者の家系)氏の家系)の二家が管轄して、

人を教育する所です。そして勧学院はこの大学の南に建てられたので、南曹(なんそう::大学南曹)と言います。藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ::その氏の代表者)が中心になってこの院を管轄し、興福寺及び氏の社(うじのやしろ::氏神をまつる神社。春日大社)に関する諸事の処理を行いました。良房の大臣が摂政されてから、

摂政職は彼の家系に伝わり絶えることはありませんでした。天皇が幼少の時だけの制度かと思われますが、摂政関白もまた固定された職務になりました。自分から摂関と言う名の職を降りられた時でも、内覧(ないらん::天皇への文書や、天皇の裁可に関する文書などを事前に見ること)の臣と言う職を置かれましたので、実際の政治に関しては変わることはありませんでした。

やがて清和天皇が成人されたので、良房は摂政としての政治に関することを天皇にお返しになり、太政大臣として白河に閑居(かんきょ::世俗を逃れて心静かに暮らすこと)されました。清和天皇は外孫(がいそん::自分の娘が嫁に行って産んだ子供)になりますので、なお権力を自分のものにしようとも抵抗する人などいないでしょう。

しかし彼は一線から退こうとする気持ちが強く、静かに過ごすことを求めて、朝廷に常時参内することもされませんでした。その当時大納言伴善男(とものよしお::平安時代初期から前期にかけての貴族)と言う人物が天皇から信頼を受けていたため、大臣になることを望んでいました。しかしその時、

三公(さんこう::太政大臣、左大臣、右大臣のこと)に欠員はありませんでした【太政大臣藤原良房(よしふさ)、左大臣信(まこと::源信(みなもとのまこと)。平安時代前期の公卿)、右大臣藤原良相(ふじわらのよしみ/よしあう)】。そこで彼は左大臣である源信を失脚させ、その欠員に自分が任じようと計画し、まず応天門(おうてんもん::大内裏の内側にあった門)に火をかけました。

この事件に彼は左大臣が世を乱そうと企てたものですと、人を落とし入れるため天皇に事実を曲げて報告しました。報告を聞いた天皇は大いに驚かれ、詳しく原因の捜査をすることなく、右大臣を呼び寄せすぐにでも処罰することを命じようとされました。太政大臣良房はこの話を聞くと驚きの余り慌てふためき、

烏帽子直衣を身に着けながら白昼馬に乗って白河から皇居に駆けつけ、軽はずみなことはなさらぬよう申し上げ、落ち着くようなだめられました。その後になって、伴善男が陰謀を企てたことが発覚し、流刑に処されました。この良房大臣の主君に対して忠義を守ろうとする気持ちには、本当に特別なものがあるように思えます。

天皇は仏教に帰依され、常に脱し(だっし::天子の位を降りること。”し”は、尸(しかばねかんむり)に徙(うつる))のお気持ちを持っておられました。そして慈覚大師(じかくだいし::天台座主、円仁(えんにん)のこと)から仏教徒として守るべき戒(かい::仏教徒が守らなければならない禁制のこと)をお受けになり、法号(ほうごう::仏門に入った者に授けられる名)を授けられました。

法号は素真と言います。皇位にある帝が法号をお持ちになるのは、過去今までの常識に外れているのでは。昔、隋(ずい::中国の王朝の名)の煬帝(ようだい::隋朝第二代皇帝)が晉王(しんおう)として北方の守りについていた時、天台宗の高僧から戒を受けられ、惣持(そうじ)と言う法号をつけられました。

決して良君とは言えない煬帝の例ではありますが、高僧によって行われた先例でもあるので、清和天皇はそれに準じて用いられたのでしょうか。また清和天皇の御代に、宇佐(うさ)の八幡大菩薩が京都の南、男山(おとこやま)にある石清水(いわしみず::石清水山寺)に御遷座されました。天皇はこのことをお聞きになり勅使(ちょくし::天皇のお考えを伝える使者)を派遣して、

場所を定めると各方面の技術者に命じて新しい神殿を建造し、皇室の祖先を祭る神社(宗廟::伊勢神宮などのこと)に準じられました【鎮座に関する経過は上記の通り】。清和天皇が天下を治められたのは十八年間です。太子(貞明(さだあきら)親王。後の陽成(ようぜい)天皇)に位をお譲りになって退位されました。

その後三年ばかりして出家され、慈覚大師の弟子になって灌頂(かんじょう::仏教の修行をする者が、最上の位に達したことを認める儀式)をお受けになられました。その後丹後の水尾と言う地にお遷りになり、熱心に仏道の修行をされていましたが、やがてお亡くなりになられました。御年三十一歳にて崩御されました。


○第五十七代、陽成天皇。諱は貞明、清和第一の子。御母皇太后藤原高子〈 二条の后と申 〉、贈太政大臣長良の女也。丁酉年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず〈 此大臣は良房の養子なり。実は中納言長良の男。此天皇の外舅也 〉。忠仁公の故事のごとし。此天皇性悪にして人主の器にたらずみえ給ければ、摂政なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし伝へはべるめれ。此大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎ<大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔なり。積善の余慶なりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおまし<き。

☆第五十七代は陽成(ようぜい)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は貞明(さだあきら)で、清和(せいわ)天皇第一番目のお子さんです。御母は皇太后藤原高子(ふじわらのこうし/たかいこ)【二条の后と申します】、贈太政大臣藤原長良(ふじわらのながら/ながよし)の娘です。丁酉(ひのととり::877年)の年に即位され、元慶(がんぎょう/げんけい)に改元されました。

右大臣藤原基経(ふじわらのもとつね)が摂政され太政大臣に任じました【この基経大臣は良房(よしふさ::藤原良房)の養子です。実際は中納言藤原長良(ふじわらのながら/ながよし)の三男です。陽成天皇の外舅(がいきゅう::妻の伯父)になります】。忠仁公(ちゅうじんこう::藤原良房)が皇族以外の人臣として、摂政の座に就いたようなものです。

この陽成天皇は乱行や暴悪な面もあり、君主としてその器ではないと思われ、摂政もお嘆きになり臣下として君主を廃することを決断されました。昔、漢国の霍光(かくこう)が昭帝(しょうてい::前漢の第八代皇帝)を補佐のため摂政していましたが、昭帝が若くして世を去ったので、昌邑王(しょうゆうおう::劉賀(りゅうが::前漢第九代皇帝))を擁立して天子としました。

しかし昌邑は人として行動や考えに問題が多く、天子としてその器ではありませんでした。すぐ昌邑を廃するとともに、宣帝(せんてい::前漢第九代皇帝。中国の歴史家は昌邑王劉賀の即位を認めていない)を皇帝に即位して頂きました。霍光の大きな功績として記録され、後に伝わることとなりました。間違いなくこの基経大臣は外戚の臣下として政治に大きく関わっていましたが、

天下にとっては重要な意義があると確信され廃帝を決行されました。非常に喜ばしいことでした。と言うことで、藤原一族にも多くの人材がいると言われていますが、摂政関白に関してはこの基経大臣の子孫が独占することになりました。次々と大臣や大将に就かれる藤原の人々も、全てこの基経大臣の苗裔(びょうえい::遠い子孫)です。

これはひとえに積善(せきぜん::善行を積み重ねて来たこと)の余慶(よけい::祖先の善行のおかげで、子孫が受ける幸福)であると、心に留めなければなりません。陽成天皇は八年間天下を治められましたが、基経から迫られて退位され、八十一歳にて崩御されました。


○第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康、小松御門とも申。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子、贈太政大臣総継の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣公もろ<の皇子を相申されけり。此天皇一品式部卿兼常陸太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にまし<けるに、俄にまうでて見給ければ、人主の器量余の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛をとゝのへてむかへ申されけり。本位の服を着しながら鸞輿に駕して大内にいらせ給にき。ことし甲辰年なり。乙巳に改元。践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが、宣帝の時政をかへして退けるを、「万機の政猶霍光に関白しめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて立給しかば御志もふかゝりしにや、其子を殿上にめして元服せしめ、御みづから位記をあそばして正五位下になし給けりとぞ。久絶にける芹川の御幸などありて、ふるきあとをおこさるゝことどもきこえき。天下を治給こと三年。五十七歳おまし<き。大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今に至まで家々にあまたあり。かくしるし侍もさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬ一はしを申さんがためなり。我国は神国なれば、天照太神の御計にまかせられたるにや。されど其中に御あやまりあれば、暦数も久からず。又つひには正路にかへれど、一旦もしづませ給ためしもあり。これはみなみづからなさせ給御とがなり。冥助のむなしきにはあらず。仏も衆生をみちびきつくし、神も万姓をすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報しな<”に、うくる所の性おなじからず。十善の戒力にて天子とはなり給へども、代々の御行迹、善悪又まち<也。かゝれば本を本として正にかへり、元をはじめとして邪をすてられんことぞ祖神の御意にはかなはせ給べき。神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。日本武の尊世をはやくしまししによりて、御弟成務へだたり給しかど、日本武の御子にて仲哀伝へまし<ぬ。仲哀・応神の御後に仁徳つたへ給へりし、武烈悪王にて日嗣たえましし時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ立給。これなむめづらしきためしに侍る。されど二をならべてあらそふ時にこそ傍正の疑もあれ、群臣皇胤なきことをうれへて求出奉りしうへに、その御身賢にして天の命をうけ、人の望にかなひまし<ければ、とかくの疑あるべからず。其後相続て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の乱によりて、天武の御ながれ久伝へられしに、称徳女帝にて御嗣もなし。又政もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御譲なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてまし<き。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基のみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、正理にかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて立給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれまし<ければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより出給こと是まで三代なり。人のなせることとは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者哉。光孝より上つかたは一向上古也。よろづの例を勘も仁和より下つかたをぞ申める。古すら猶かゝる理にて天位を嗣給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、たもたせ給まじきことと心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂■の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞたゞしくつたへられにける。上は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二神の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。

☆第五十八代、第三十一世は光孝(こうこう)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は時康(ときやす)で、小松御門(こまつのみかど::小松帝)とも申されます。仁明(にんみょう)天皇第二(三?)番目のお子さんです。御母は贈皇太后藤原の沢子(ふじわらのたくし/さわこ)で、贈太政大臣藤原総継(ふじわらのふさつぐ)の娘です。

陽成天皇が退位された時、摂政の昭宣公(しょうせんこう::藤原基経の諡号(死後におくられる名))は多数の皇子を後継者として推挙されました。この光孝天皇は一品(いっぽん::親王の位階の第一位)に叙せられ、式部卿(しきぶきょう::式部省の長官)と常陸太守(常陸国の国司)を兼務されていたと聞いていますが、年齢も高く小松の宮にお住まいになっておられました。

突然ですがお住まいに参上してみると、君主としての器量は他の皇子たちより優れておられたので、すぐに護衛の人数を揃えてお迎えしました。本位の衣服(ほんい::位階相当の衣服)を着され、鸞輿(らんよ::天子の乗られる輿(こし::乗り物の一種))にお乗りになって、皇居にお入りになられました。この年、甲辰(きのえたつ::884年)でした。

そして翌乙巳(きのとみ::885年)の年に仁和(にんな)と改元されました。践祚された当初摂政を改め関白としました。これが我が国における関白の初めです。(諸説あり)漢国の霍光(かくこう)が摂政しておられましたが、宣帝(せんてい::前漢第九代皇帝。中国の歴史家は昌邑王劉賀の即位を認めていない)の時に政治から退き、

摂政の職を辞されたのですが、「政治上の重要な事案については、なおも霍光に関白(かんぱく::関(あずかり)白(申す))させよ」とあることにより、その名をとって授けられたのです。この光孝天皇は昭宣公の意向を受けて即位されたので、そのことに関してお気持ちがお強いのか、基経のお子さん藤原時平(ふじわらのときひら)を殿上に迎えて元服の式を行い、

おん自ら位記(いき::位階を授かる者に、その旨を書き記して与える文書)をお書きになって、正五位下に任じられたそうです。また長らく行われなかった芹川(せりかわ)の御幸などもされ、今は絶えてしまった宮中行事なども再興されたと聞いています。天下を治められたのは三年間です。五十七歳にて崩御されました。多分、天皇の皇位継承や事跡を記録した文書などは、

過去から現在に至るまで各家々に多数存在しているでしょう。今このように記録しようとしていることも別に珍しいことではありませんが、神代より継体天皇(けいたいてんのう::第二十六(本書では二十七代)代天皇。在位507-531(534?)年)までは正しく皇位の系統が守られてきたことの一端を申し上げようとするためです。

我が国は神国(かみのくに/しんこく::神が作り守護している国)であるので、全て天照大神の御計らいに任せてきました。しかしながら天照大神も間違えられることもあるので、年数など決して間違いがないとは言えません。最後には正しい姿に戻りますが、一時的には良くない状態に陥る例もあります。これらは全て自らなされた過ちであります。

神仏のお助けがなかったと言うことではありません。釈迦も衆生を導き尽くし、神も万民を従順善良な人間になるようされますが、衆生に与えられる本質は各自色々で同じものとは限りません。十善の戒力(じゅうぜんのかいりき::不殺生や不偸盗(ふちゅうとう)などの十悪を犯さないことによって得られる不思議な力)によって天子にはなられますが、

代々の天子においてその御行跡や行動の善悪などもまたまちまちです。そこで模範とすべきものを手本にして正しい姿に戻り、間違ったことをもとから正していくことが、天照大神の御意にかなうのではないでしょうか。(?)神武天皇(じんむてんのう::初代天皇。在位BC660-BC582年(?))から景行天皇(けいこうてんのう::第十二代天皇。在位71-130年)までの十二代については、

お子様がそのまま皇位を継承されました。疑う余地はありません。景行天皇のお子さんである日本武尊(やまとたけるのみこと)が若くして亡くなられたので、弟である成務天皇(せいむてんのう::第十三代天皇。在位131-190年)に皇位の継承が行われましたが、その後日本武尊のお子さんである仲哀天皇(ちゅうあいてんのう::第十四代天皇::在位192-200年)に皇位が継がれました。

仲哀天皇、応神天皇(おうじんてんのう::第十五代(本書では十六代)天皇。在位270-312年)の後には仁徳天皇(にんとくてんのう::第十六代(本書では十七代)天皇。在位313-399年)が継承されましたが、後になって武烈天皇(ぶれつてんのう::第二十五代(本書では二十六代)天皇。在位499-506年)が皇位を継がれましたが、この天皇は性格的に良くない所が多く、

皇位を継ぐべきお子さんが絶えてしまった時、応神天皇の五世の孫である継体天皇(けいたいてんのう::第二十六代(本書では二十七代)天皇。在位507-534年)が選ばれて皇位にお就きになられました。この皇位継承は非常に珍しい例です。しかし二人(仲哀天皇の五世の孫と応神天皇の五世の孫)を並べて皇位継承を争う時、どちらが正統であるのか疑えばきりがありませんが、

群臣らが天皇の血統を引く人のいないことを憂い、探し求めて来られた上に、その人物が知能に優れている上、天地万物の支配者から命を受け、人々の期待にも十分答えられたので、何かと疑いなど挟むものではありません。その後も途切れることなく皇位が継承され、天智(てんじ/てんぢ::第三十八代(本書では三十九代)天皇。在位668-672年)天皇、天武(てんむ::第四十代天皇。在位673-686年)天皇のご兄弟が皇位に就かれましたが、

大友皇子の乱(壬申(じんしん)の乱::大友皇子(おおとものおうじ::天智天皇の長男で皇太子)と大海人皇子(おおあまのおうじ::後の天武天皇)との内乱)の結果、天武天皇の系統が長らく続きましたが、称徳(しょうとく::第四十八代天皇。在位764-770年)女帝の時、皇位を継ぐべき皇太子がいませんでした。また道鏡(どうきょう)の出現によって政治が大きく乱れているらしいと聞こえ、

確実な皇位継承がないままに皇統は絶えてしましました。光仁天皇(こうにんてんのう::第四十九代天皇。在位770-781年)が直系ではないものの、天武天皇系の血を引く嫡流であることによって選ばれ即位されました。これもまた昔の継体天皇の例と良く似ています。とは言っても天智天皇こそが正統な皇位継承者であります。

第一番目のお子さんである大友皇子は間違いを起こしたため、天下を得ることが出来ませんでしたが、第二(七?)番目の皇子である施基(しき::志貴)の皇子は罪に問われませんでした。そしてそのお子さんである白壁王(しらかべおう)が、光仁天皇として皇位にお就きになられたことは、また正しい皇統(こうとう::天皇の血筋)の理に合うことになったと申し上げても良いでしょう。

第五十八代光孝天皇に関しては、昭宣公(藤原基経)の推薦によって皇位に就かれたと言えども、第五十四代仁明天皇の次代天皇は太子(道康(みちやす)親王)つまり文徳天皇(もんとくてんのう::第五十五代天皇。在位850-858年)への皇位継承となりました。しかしその後陽成天皇(ようぜいてんのう::第五十七代天皇。在位876-884年)が天皇として問題が多いため退位された時、

仁明天皇の第三皇子(時廉(ときやす)親王::光孝天皇)で、しかも優れた資質をお持ちで他の親王に勝っており、彼が皇位を継がれるのは疑いなく天の命ずるところと思えます。このように直系でない天皇が皇位に就かれたのはここまで三代になります。(?)(第54-55-56-57代は直系。58代以降61代までは55代の傍系。58-59-60-61代は直系)この事態が人によって引き起こされたのが原因と考えてはならないでしょう。

先に記載した理由を良く理解することです。光孝天皇より以前は全く大昔の話です。過去の色々な例を調べるにしても、仁和(にんな::元号。885-889年)以降のことを主とすべきでしょう。過去においてもこのような理由から皇位が継承されてきました。まして道義や仏教が廃れた末世においては理にかなった譲位でなければ、

皇位の継承そのものも長く維持することは出来ないと思わなければなりません。この光孝天皇の御代から、藤原氏(藤原北家)が摂ろく(せつろく::”ろく”は竹冠に録。摂政関白のこと)の職を継ぐことになり、他の家系に移ることもなく、昭宣公(藤原基経::ふじわらのもとつね)の末裔だけに間違うことなく伝えられました。天皇家においては、

光孝天皇の御子孫が天照大神の正しい血統と定まり、臣下においては、昭宣公の子孫が天児屋の命(あめのこやねのみこと::藤原氏の氏神)の嫡流(ちゃくりゅう::正統の血筋)となられました。この二柱の神々(天照大神と天児屋命)による結束は破られることなく、天皇家は三十九代(九十六代後醍醐天皇)続き、臣下においては摂関四十余人、年数にして四百七十余年にもなったでしょう。


○第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野親王〈 桓武御子 〉の女也。元慶の比、孫王にて源氏の姓を給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給けるに、ある時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚の後、彼社の臨時の祭をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和三年丁未の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをおきて譲をうけ給。先親王とし、皇太子にたち、即受禅。同年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初より太政大臣基経又関白せらる。此関白薨て後はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志ありきとぞ仰給ける。弘法大師四代の弟子益信僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給。又智証大師の弟子増命僧正にも〈 于時法橋也。後謚云靜観 〉比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺に伝侍は是なり。およそ弘法の流に広沢〈 仁和寺 〉・小野〈 醍醐寺・勧修寺 〉の二あり。広沢は法皇の御弟子寛空僧正、寛空の弟子寛朝僧正〈 敦実親王子、法皇御孫也 〉。寛朝広沢にすまれしかば、かの流と云ふ。そののち代々の御室相伝へてたゞ人はあひまじはらず〈 法流をあづけられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり 〉。小野の流は益信の相弟子に聖宝僧正とて知法無双の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆につらなりて歎徳と云ことをつとめられたりき。延喜の護持僧にて、ことに崇重給き。其弟子観賢僧正もあひついで護持申。おなじく崇重ありき。綱中の法務を東寺の一阿闍梨につけられしもこの時より始る〈 正の法務はいつも東寺の一の長者なり。諸寺になるはみな権法務なり。又仁和寺の御室、惣の法務にて、綱所を召仕るゝことは後白河以来の事歟 〉。此僧正は高野にまうでて、大師入定の窟を開て御髪を剃、法服をきせかへ申し人なり。其弟子淳祐〈 石山の内供と云 〉相伴はれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲僧都に〈 延命院と云 〉許可ばかりにて授職をゆるさず。勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海僧正又知法の人なりき。小野と云所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にまします也。王位をさりて釈門に入ことは其例おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為の御政なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給しも此御時也。又譲国の時さま<”をしへ申されし、寛平の御誡とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜より始る。」とみえたり。唐■のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿も長て朱雀の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おまし<き。

☆第五十九代、第三十二世は宇多(うだ)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は定省(さだみ::源定省)で光孝天皇(こうこうてんのう::第五十八代天皇。在位884-887年)の第三番目の子供(第七皇子?)です。御母は皇太后班子(はんし/なかこ)の女王(じょおう)で、仲野(なかの)親王【桓武天皇(かんむてんのう::第五十代天皇。在位781-806年)の子供】の娘です。

元慶(がんぎょう/げんけい::元号。877-885年)の頃、宇多天皇の父光孝天皇は孫王(そんのう::天皇の孫)の多くを臣籍降下(しんせきこうか::皇族がその身分を離れ、姓を与えられて臣下の籍に降りること)させ、源氏の姓を与えられました。その昔宇多天皇がまだ皇位にお就きになっていない頃、鷹狩を好まれ良く行われていましたが、

ある時賀茂大明神が現れ、皇位に就くことになるであろうと告げられました。彼が践祚(せんそ::皇位の継承)後、彼の賀茂神社の臨時の祭(賀茂臨時祭)を始められたのは、この時の賀茂大明神の申し入れを引き受けられたためだと言うことです。仁和(にんな)三年丁未(ひのとひつじ::887年)の年の秋、光孝天皇が御病気になられた時、

兄君の皇子らを差し置いて譲位を受けられました。まず臣籍に降りていた宇多天皇は皇族として親王(しんのう::皇子)に復帰すると皇太子に立たれ、即刻受禅(じゅぜん::先帝から帝位を譲られて即位すること)することになりました。そして同年の冬、御即位されました。中一年おいて、己酉(つちのととり::889年)の年に寛平(かんぴょう)に改元されました。

践祚された当初から太政大臣藤原基経(ふじわらのもとつね)が再び関白されました。この関白基経が死去されてからしばらく関白は置かれませんでした。宇多天皇が天下を治められたのは十年間です。皇位を皇太子(敦仁(あつぎみ/あつひと)親王::醍醐天皇)に譲って太上天皇と称されました。その後一年ほど経って御出家されました。

その時御年齢は三十三歳だったとか。若いころから出家の意思があったと仰せられていました。弘法大師四代の弟子である益信(やくしん)僧正を師匠と決め、東寺において灌頂(かんじょう::各種灌頂の内、弟子としての資格を得る灌頂)をお受けになられました。また智証大師(ちしょうだいし::円珍(えんちん))の弟子、増命(ぞうみょう::第十代天台座主)僧正にも【当時は法橋(ほっきょう::層位の第三位)です。

後に贈り名を受けて静観(じょうかん)と言います】比叡山において灌頂をお受けになられました。弘法大師の流派を重視され、その教えを伝える系譜は今も絶えることはなく、仁和寺に伝えられているのはこの流派です。そもそも弘法の流派には広沢(ひろさわ)【仁和寺】、小野【醍醐寺(だいごじ)、観修寺(かんじゅじ)】の二つがあります。

広沢の流派は宇多法皇の御弟子寛空(かんくう)僧正と寛空の弟子寛朝(かんちょう/かんじょう)僧正【この方は宇多法皇の皇子である敦実(あつみ)親王の子供であり、宇多法皇の孫になります】がいます。寛朝が広沢(京都市嵯峨。寛朝が作ったと言われる広沢の池があります)にお住まいになられたので、名前を取って広沢の流れと言います。

その後代々の御室(おむろ)御所(仁和寺)が伝えて来て、普通の人間とは一線を画していました【広沢の流れを預けられて師範になることは両度(二度?)ありました。しかし御室(仁和寺)の住職を務めるのは代々親王です】。また小野の流派には益信(やくしん)の兄弟弟子で聖宝(しょうぼう)僧正と言う智恵、知識、仏法などにかけて群を抜く人がおられました。

弘法大師の嫡流であると称することもあったとか。しかし受戒して僧侶になってからの年数が短かったからか、宇多法皇が灌頂をお受けになる時は、仏の功徳を唱えたり、花を供えて供養するなどの職務を務める僧侶などに混じって、歎徳(たんどく::灌頂修法の時、新しい阿闍梨(ここでは宇多法皇)の徳を称賛すること)の役を務められました。

聖宝僧正は延喜(えんぎ::元号。901-923年)時代には護持僧(ごじそう::天皇の身体護持のため祈祷を行う僧)として特に崇重(すうちょう::尊敬)を受けていました。またその弟子である観賢(かんげん)僧正も相次いで護持を務められ、同じく尊敬されていました。綱中(仏教界全般のことか?)の法務(ほうむ::仏教界、諸大寺の管轄と僧尼を統率する役職)を東寺の一阿闍梨(あじゃり::高僧の敬称)に任命することは、

この時より始まりました【正の法務(本来の法務)は常に東寺の座主が努めます。諸寺に置かれるのは全て権(ごん::仮の地位)法務です。また仁和寺の御所は惣(総)の法務として、僧尼を管轄し諸寺を管理する役所となったのは、後白河天皇(ごしらかわてんのう::第七十七代天皇。在位1155-1158年)以来のことです】。

この観賢(かんげん)僧正は高野山にお参りし、弘法大師が入定(にゅうじょう::高僧の死去のこと)された時の住居である横穴の扉を開き、伸びきっていた弘法大師の髪の毛を剃り、法服も着せ替えられたと言われている人です。その時観賢は弟子である淳祐(じゅんゆう)【通称石山の内供(ないぐ::天皇に奉仕する僧で、諸国より選抜された高僧)と言います】をお連れになっていましたが、

彼はその時弘法大師のお姿を見ることは出来ませんでした。師匠である観賢僧正は彼の手を取って、弘法大師のお身体に触れさせたと言うことです。淳祐は自分の罪障(ざいしょう::往生、成仏の妨げとなる悪い行為)の為に、お姿を見ることが出来ないことを情けなく思い、弟子の元杲(げんごう)僧都に【延命院僧都とも言われます】許可だけはしましたが、

授職(じゅしき::修行を積んだ行者に阿闍梨の職位を授けること)は許しませんでした。勅諚(ちょくじょう::天子の命令)によって、宇多法皇の御弟子である寛空(かんくう)にお会いし授織灌頂(じゅしきかんじょう::阿闍梨の職位を受けること)を果たしました。また元杲の弟子である仁海(にんがい)僧正もまた智恵や知識、仏法に卓越した人でした。

京都市山科区小野(現在の随心院(ずいしんいん))にお住まいになられたので小野流と言います。このような事情であれば、宇多法皇は真言宗の両流(広沢派、小野派)の法主(ほっす/ほっしゅ::一宗派の長)となられたことになります。皇位を降りて釈門(しゃくもん::釈迦の門流、仏門)に入られることはその例として多くあります。

しかしこのように弘法大師の学説、思想を正しく受け継いでいく嫡流となり、しかも御子孫が継承されています、まことにありがたい例だと思われます。今の世までで一番優れていた時代は延喜(えんぎ::元号。901-923年)、天暦(てんりゃく::元号。947-957年)だと決まったように言われるのですが、この宇多天皇の御代こそ、古代にさかのぼって考えても、

平穏無事な政治が行われていたのではないかと推察されます。その外宇多天皇は菅氏(かんし::菅原道真(すがわらのみちざね))の才名(さいめい::才能が豊かであると言う評判)によって、大納言大将にまで登用されたのもこの時代のことです。また醍醐天皇(だいごてんのう::第六十代天皇。在位897-930年)に譲位される時、

色々教訓として書き残したものが、寛平(かんぴょう::元号。889-898年)の御誡(ごかい::寛平の御遺誡(ごゆいかい)のこと)として、君臣らに尊重されると言うこともありました。昔中国においても、「天下の明徳(めいとく::私心や不正のない公明正大なこと)は虞舜(ぐしゅん::中国古代の伝説上の聖王、舜のこと)より始まる。」と、記載があります。

唐堯(とうぎょう::陶唐氏)に重用されることによって虞舜氏の品性や能力が表に出ることとなり、天下における正しい道徳、倫理観が確立したと言うことです。堯と舜の二代にわたって善政が行われた事実を参考にして、宇多天皇の治世をも推察されるのが良いでしょう。この天皇は御長寿で朱雀天皇(すざくてんのう::第六十一代天皇。在位930-946年)の御代(931年)に崩御されました。七十六歳にての崩御でした。


○第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は敦仁、宇多第一の子。御母贈皇太后藤原の胤子、内大臣高藤の女也。丁巳年即位、戊午に改元。大納言左大将藤原時平、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅をうけて輔佐し申されき。後に左右の大臣に任てともに万機を内覧せられけりとぞ。御門御年十四にて位につき給。をさなくまし<しかど、聰明叡哲にきこえ給き。両大臣天下の政をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下ののぞむ所なり。左相は譜第の器也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さま<”の讒をまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失と申伝はべり。但菅氏権化の御事なれば、末世のためにやありけん、はかりがたし。善相公清行朝臣はこの事いまだきざさざりしに、かねてさとりて菅氏に災をのがれ給べきよしを申けれど、さたなくて此事出来にき。さきにも申はべりし、我国には幼主の立給こと昔はなかりしこと也。貞観・元慶の二代始て幼にて立玉ひしかば、忠仁公・昭宣公摂政にて天下を治らる。此君ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから政をしらせまし<ける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給けん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。其趣経書にみえたり。されば曾子は、「吾日三省吾躬。」と云、季文子は「三思。」とも云ふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよ<つゝしみましますべきこと也。昔応神天皇も讒をきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで霊験無双なり。末世の益をほどこさんためにや。讒を入し大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰をかうぶりにき。此君久く世をたもたせ給て、徳政をこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域■舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜七年丁卯年、もろこしの唐滅て梁と云国にうつりにけり。うちつゞき後唐・晉・漢・周となん云五代ありき。此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おまし<き。

☆第六十代、第三十三世は醍醐(だいご)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は敦仁(あつひと)で宇多(うだ)天皇の第一皇子です。御母は贈皇太后藤原の胤子(たねこ)で、内大臣藤原高藤(ふじわらのたかふじ)の娘です。丁巳(ひのとみ::897年)の年に即位され、翌戊午(つちのえうま::898年)の年に昌泰(しょうたい)に改元されました。

大納言左大将藤原時平(ふじわらのときひら)と大納言右大将菅原道真(すがわらのみちざね/みちまさ/どうしん)の両人を、宇多上皇の御命令(寛平御遺誡::前述)に従って、天皇の補佐を命じられました。その後、左右の大臣に任命され、天皇に奏上する文書全般を事前に確認し、処置されたと言うことです。醍醐天皇は御年十四歳にて皇位にお就きになられました。

幼い天皇ではございましたが、聰明叡哲(そうめいえいてつ::頭が良く判断力に優れ、先を見通す力があること)だと言われていました。天下の政治は左右の両大臣が担当されていましたが、右大臣菅原道真は年齢的にも充実しており、また才能豊かな人なので、国家にとっても重要な人でした。また左大臣藤原時平は代々天皇家に仕えて来られた家系の人物なので、

そう簡単に解任など出来ません。ある時、醍醐天皇が宇多上皇の御所である朱雀院(すざくいん)に行幸され、上皇が今後とも右大臣に任せるのが良いであろうと方針を仰せられ、すでに道真公に伝えられていましたが、道真公は政治家をやめ学業に専念したいため固く断り続けられました。このことが世間に知れ渡ると左大臣時平は憤慨し、

色々といわれの無い不都合な点を天皇に申し述べ、聞いた天皇がとうとう道真公を没落に追い込まれたのは、見苦しく嘆かわしいことでありました。この醍醐天皇にとって失敗の一つだと言い伝えられています。但し菅原道真が神となって衆生の救済に現れたと言うことなので、末世のためには良かったのか知れませんが難しいところです。

善相公清行(三善清行(みよしのきよゆき/きよつら))朝臣はこの道真公左遷の兆候が現れる前に気付き、道真公に災いを避けるよう辞任を勧告しましたが、道真公は特に対策を取らなかったので、この事件が起こってしまいました。以前にも記述していますが、我が国において昔は幼くして皇位に就かれることはありませんでした。

貞観(じょうがん::元号。859-877年)と元慶(がんぎょう/げんけい::元号。877-885年)の時、清和天皇(せいわてんのう::第五十六代天皇。在位858-876年。九歳で即位)と陽成天皇(ようぜいてんのう::第五十七代天皇。在位876-884年。九歳で即位)の二代が初めて幼くして皇位にお就きになられたので、忠仁公(ちゅうじんこう::藤原良房(ふじわらのよしふさ))

昭宣公(しょうせんこう::藤原基経(ふじわらのもとつね))が摂政して天下を統治されました。しかしこの醍醐天皇は十四歳にして皇位をお継ぎになりましたが、摂政をおくことなく、おん自ら政治を執られました。もっとも幼い君主のためか、左大臣藤原時平の讒言にも迷われたのでしょうか。如何に賢く清潔にして徳のある人間でも、一つぐらいの失敗は犯すものです。

このような趣旨は経書(けいしょ::儒教で重視される文献の総称。四書五経など)に記載があります。すなわち曾子(そうし::中国春秋時代の思想家。孔子の弟子)は、「吾日三省吾躬」(私は一日に何度も自分の行為を反省している)と、言っていますし、季文子(きぶんし::魯国の家老)は、「三思(三思而後行)(行動を起こす前に三度検討する)とも言っています。

天子としてその品性が優れているとの評判がますます高くなっていく中においても、ますます慎重な態度を持ち続けると言うことでしょう。昔、応神天皇(おうじんてんのう::第十五代(本書では十六代)天皇。在位270-312年)も讒言(ざんげん::悪意を持って事実でないことを言い立てること)をお聞きになられ、武内(武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね/たけのうちのすくね))の大臣を誅罰されようとしました。

しかし彼はうまく危機を逃れ、讒言について事情や理由を述べ、無実であることを明らかにしました。今回の事件(道真追放のこと)は凡人の考えなど及ぶものではないでしょう。しばらくして道真は神となって現われ、今現在に至るまでその不可思議な力は他に群を抜いています。仏教も道義も廃れたこの世で、何か役に立とうとされているのでしょうか。

また讒言をした大臣藤原時平はその後若くして(三十九歳)亡くなりました。時平に同調した人達も皆神罰を蒙りました。この醍醐天皇は永く世を統治され、徳ある政治を心掛けられ、その実績は上代に例を見ない程でした。天下は平和が続き、民衆は日々平穏無事に暮らし、我が国における仁徳天皇(にんとくてんのう::第十六代(本書では十七代)天皇。在位313-399年)の古い統治時代にも肩を並べ、

それは異国の虞舜(ぐしゅん::中国古代の伝説上の聖王、舜のこと)の立派な治世にも匹敵されるほどでした。(後になって「延喜の治」と評されます)延喜七年丁卯(ひのとう::907年)の年に中国では唐が滅亡し、梁(後梁(こうりょう)::朱全忠(しゅぜんちゅう)が建国)と言う国に天下が移りました。この後も中国では政変が続き、

後唐(こうとう)、後晉(こうしん)、後漢(こうかん)、後周(こうしゅう)など後梁を含めて五代(ごだい::中国で唐の滅亡から北宋の成立まで華北を統治した五つの王朝のこと)の王朝がありました。この醍醐天皇は天下を三十三年間統治され、四十四歳にて崩御されました。


○第六十一代、朱雀天皇。諱は寛明、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子、関白太政大臣基経の女也。御兄保明の太子〈 謚を文彦と申 〉早世、その御子慶頼の太子もうちつゞきかくれまししかば、保明一腹の御弟にて立給。庚寅年即位、辛卯に改元。外舅左大臣忠平〈 昭宣公の三男、後貞信公と云 〉摂政せらる。寛平に昭宣公薨てのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にて立給によりて、故事にまかせて万機を摂行せられけるにこそ。此御時、平の将門と云物あり。上総介高望が孫也〈 高望は葛原の親王孫、平姓を給る。桓武四代の御苗裔なりとぞ 〉。執政の家につかうまつりけるが、使の宣旨を望申けり。不許なるによりいきどほりをなし、東国に下向して叛逆をおこしけり。まづ伯父常陸の大掾国香をせめしかば、国香自殺しぬ。これより坂東をおしなびかし、下総国相馬郡に居所をしめ、都となづけ、みづから平親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。参議民部卿兼右衛門督藤原忠文朝臣を征東大将軍とし、源経基〈 清和の御すゑ六孫王と云ふ。頼義・義家先祖也 〉・藤原仲舒〈 忠文の弟也 〉を副将軍としてさしつかはさる。平貞盛〈 国香が子 〉・藤原秀郷等心を一にして、将門をほろぼして其首を奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき〈 将門、承平五年二月に事をおこし、天慶三年二月に滅ぬ。其間六年へたり 〉。藤原純友と云物、かの将門に同意して西国にて叛乱せしかば、少将小野好古を遣て追討せらる〈 天慶四年に純友はころさるとぞ 〉。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも安寧なりしに、いつしか此乱出来る。天皇もおだやかにまし<けり。又貞信公の執政なりしかば、政たがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。一腹の御弟太宰帥の親王を太弟にたてて、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。天下を治給こと十六年。三十歳おまし<き。

☆第六十一代は朱雀(すざく)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は寛明(ゆたあきら)で、醍醐(だいご)天皇の第十一の子供です。御母は皇太后藤原穏子(ふじわらのおんし/やすこ)で、関白太政大臣藤原基経(ふじわらのもとつね)の娘です。兄君の保明(やすあきら)の太子【諡号(しごう::死者に贈る名)を文彦(ぶんげん::文献彦)と言います】が若くして世を去り、

そのお子さんである慶頼(よしより/やすより)の太子も続けてお亡くなりになったので、保明と同じ母の弟であることから、皇太子になられました。庚寅(かのえとら::930年)の年に即位され、翌辛卯(かのとう::931年)の年に承平(じょうへい)と改元されました。外舅(がいきゅう::妻の兄)である左大臣藤原忠平(ふじわらのただひら)【昭宣公(しょうせんこう::藤原基経)の三男で、

後に貞信公(ていしんこう)と贈り名されました】が摂政されました。寛平(かんぴょう/かんびょう/かんぺい/かんべい::元号。889-898年)の時代に昭宣公が死去されてからは、延喜(えんぎ::元号。901-923年)の御一代には摂関は置かれませんでした。しかしこの朱雀天皇は幼くして皇位に就かれたので、昔の例に従い政治上の重要な事柄全般に渡って、職務を代行されたと言うことです。

この時代に平の将門(たいらのまさかど::関東の豪族)と言う者がいました。上総介高望(かずさのすけたかもち)の孫です【高望は葛原(かずわら)の親王(桓武天皇(かんむてんのう::第五十代天皇。在位781-806年)の第三皇子)の孫で、平(たいら)の姓を賜りました。桓武天皇四代の後裔だと言うことです】。執政(しっせい::国政を執り行うこと)の家(関白藤原忠平(ふじわらのただひら))に仕えていましたが、

使の宣旨(しのせんじ::検非違使(けびいし::治安等に携わる職)や奉幣使(ほうへいし::天皇の使者として神社等に参向する使者)などに任命する時の宣旨)を賜ることを望み話されました。しかし許しが得られず憤慨して東国に下向し、反逆を起こしました。まず最初に伯父である常陸の大掾(だいじょう::国司の第三等官)平国香(たいらのくにか)を襲撃したところ、国香は自害しました。

これ以後坂東を制圧し服従させると、下総国相馬郡に本拠を置き、都と名付けると共に自分は平親王(新皇)と称して官爵(かんしゃく::官職と爵位)を任命したり与えたりしました。この事態に天下は大騒動になりました。朝廷は参議民部卿兼右衛門督藤原忠文(ふじわらのただぶみ)朝臣を征東大将軍に任命し、

源経基(みなもとのつねもと)【清和天皇(せいわてんのう::第五十六代天皇。在位858-876年)の末裔六孫王(ろくそんおう)と言います。源頼義(みなもとのよりよし)や義家(よしいえ)の先祖です】と藤原仲舒(ふじわらのなかのぶ)【藤原忠文の弟です】を副将軍にして派遣しました。平貞盛(たいらのさだもり)【国香の子供です】と藤原秀郷(ふじわらのひでさと)等が協力して将門を滅ぼし、

その首は都に運び込まれたので、諸将らは出征地より都に帰還しました【将門は承平(じょうへい/しょうへい::元号。931-938年)五年(935年)二月に事件を起こし、天慶(てんぎょう/てんけい/てんきょう::元号。938-947年)三年(940年)二月に滅びました。その間六年が経っていました】。また藤原純友(ふじわらのすみとも)と言う者が将門に同調して西国で叛乱を企てたので、

少将小野好古(おののよしふる)を派遣し追討させました【天慶四年(941年)に純友は殺されたと言うことです】。(この二つの事件を承平天慶の乱と言います)このようにして天下は再び鎮まったのです。延喜の御代はあれほど穏やかで無事な時代でしたが、それでもこのような騒乱が勃発しました。しかし天皇は慌てることなく心静かにされていました。

また貞信公(藤原忠平)が政治を見られていましたが、国政に何らの影響もありませんでした。一時的に起こった不幸な出来事と思われます。朱雀天皇には男のお子さんが居られませんでした。そこで同じ母親の弟、太宰の帥(だざいのそち/だざいのそつ)の親王(成明(なりあきら)親王)を太弟(たいてい::皇位を継ぐべき天皇の弟。皇太子)に立てられ、皇位をお譲りになって尊号を称されました。その後出家されました。天下を統治されたのは十六年間です。三十歳にて崩御されました。


○第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午年即位、丁未に改元。兄弟相譲せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇のあとを継申させ給ければ、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好給こともかはりまさざりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康〈 文王は正位につかず 〉、漢には文・景なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主の伝り給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて内侍所も焼にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規損ずることなくして分明にあらはれ出給。見奉る人、驚感せずと云ことなし。」とぞ御記にみえ侍る。此時に神鏡南殿の桜にかゝらせ給けるを、小野宮の実頼のおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなん云伝侍也。応和元年辛酉年もろこしの後周滅て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国大に乱て五姓うつりかはりて国の主たり。五季とぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おまし<き。

☆第六十二代、第三十四世は村上(むらかみ)天皇です。諱(いみな::生前の実名)は成明(なりあきら)で醍醐(だいご)天皇第十四の子供で、朱雀天皇と同じ母親の弟です。丙午(ひのえうま::946年)の年に即位され、翌丁未(ひのとひつじ::947年)の年に天暦(てんりゃく)と改元されました。兄の朱雀天皇(すざくてんのう::第六十一代天皇。在位930-946年)から弟の村上天皇への譲位が行われたので、

心のこもった禅譲の儀式がありました。この村上天皇は賢明だと評判の先代朱雀天皇の後をお継ぎになられ、天下が平穏無事な事は延喜(えんぎ::元号。901-923年)、延長(えんちょう::元号。923-931年)の昔と変わることありませんでした。文筆(ぶんぴつ::詩歌や文章など)や諸芸(しょげい::色々な技能や技術など)を好まれることも先代と変わることがありませんでした。

多くの手本や模範などはこの延喜、天暦(てんりゃく::元号。947-957年)の二代に形成されたと言われています。古代中国の明王朝においては二代三代と優秀な王が続くことはまれでした。しかし周王朝にこそ文王(ぶんのう/ぶんおう::周朝の始祖)、武王(ぶおう::周朝の創始者)、成王(せいおう周朝の第二代の王)、康王(こうおう::周朝第三代の王)【文王は正式な帝位には就いていません】らが居られ、

漢には、文帝(ぶんてい::前漢の第五代或いは第三代皇帝)や景帝(けいてい::前漢の第六代皇帝)などの素晴らしい皇帝が居られました。光孝天皇(こうこうてんのう::第五十八代天皇。在位884-887年)はそれまでの天皇の直系ではなく、仁明天皇(にんみょうてんのう::第五十四代天皇。在位833-850年)の皇子の中から選ばれて皇位に就かれましたが、これまで通りの賢明な君主ととして継いでいかれ、

我が国が再び活発な国になった理由とも言われています。また継体天皇(けいたいてんのう::第二十六代(本書では二十七代)天皇。在位507-531年)も、以降はただこの血統の流れに落ち着きました。後になって天徳(てんとく::元号。957-961年)年間だったか、初めて内裏が炎上し内侍所(ないしどころ::三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ::神鏡)を安置した所)も焼けましたが、

神鏡は灰の中から探し出されました。「円規(えんき::丸い形)は全く損ずることなく、灰の中にはっきりと現れてきたのです。それをご覧になっていた人たちに、驚くとともに感激しない人はいませんでした」と、御記(ごき::貴人の書いた記録や日記類)に記載されています。この時、神鏡が南殿の桜の木に引っ掛かったのを、

小野宮(おのみや)殿、藤原実頼(ふじわらのさねより)の大臣が袖で受け止められたとか言われていますが、間違いでそのようなことはなかったと言う伝えもあります。応和(おうわ::元号。961-964年)元年辛酉(かのととり::961年)の年、中国においては後周(こうしゅう::五代最後の王朝)が滅びて、宋の時代になりました。

唐が滅びてから五代(ごだい)の五十五年間、中国では大いに乱れ、五姓(ごせい::五つの名前。後梁、後唐、後晉、後漢、後周)が次から次へと国の主を占めて来ました。五季(ごき::五代のこと)とも言います。宋の時代になると、代々賢明な君主が続き三百二十余年を保ちました。この村上天皇は天下を二十一年間統治され、四十二歳にて崩御されました。


御子おほくまし<し中に冷泉・円融は天位につき給しかば申におよばず。親王の中に具平親王〈 六条の宮と申。中務卿に任給き。前に兼明親王名誉おはしき。仍これをば後中書王と申 〉賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人を用まし<ければ、この親王昇殿し給し日、清涼殿にて作文ありしに〈 中殿の作文と云ことこれよりはじまる 〉「所貴是賢才」と云題にて韻をさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。凡諸道にあきらかに、仏法の方までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまに至まで大臣以上に至て相継侍る。源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に姓を給て人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を給る。桓武の御子葛原親王の男、高棟平の姓を給る。平城の御子阿保親王の男、行平・業平等在原の姓を給ることも此後のことなれど、これはたま<の儀也。弘仁以後代々の御後はみな源姓を給しなり。親王の宣旨を蒙る人は才不才によらず、国々に封戸など立られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね宦学して朝要にかなひ、器にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は直に四位に叙す〈 皇子皇孫にとりての事也 〉。当君のは三位なるべしと云〈 かゝれど其例まれなり。嵯峨の御子大納言定卿三位に叙せしかども、当代にはあらず 〉。かくて代々のあひだ姓を給し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を給人二十一人。この中、大臣にのぼる人、常の左大臣兼大将、信の左大臣、融の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多の右大臣、光の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、能有の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝の右大臣兼大将〈 これは貞純親王の苗裔なり 〉。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣〈 ともに敦実親王の男なり 〉。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣〈 後には親王とす。中務卿に任ず。前中書王これなり 〉。この後は皇子の姓を給ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本としるすによりてこと<”くはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣兼大将〈 輔仁親王の男、白川院御猶子にて直に三位せし人なり 〉二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたま<大臣に至てもいづれか二代と相継る。ほと<納言以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。

村上天皇には多くのお子さんがいましたが、その中で冷泉天皇(れいぜいてんのう::第六十三代天皇。在位967-969年)、円融天皇(えんゆうてんのう::第六十四代天皇。在位969-984年)は皇位にお就きになられたので、ここで記載しなくて良いでしょう。多くの親王の中でも具平親王(ともひらしんのう)【六条の宮と申します。中務卿にお就きになられました。

前任に兼明(かねあきら)親王と言う誉れ高き人がおり、前中書王(さきのちゅうしょおう)と呼ばれていました。そこで具平親王のことを後中書王(のちのちゅうしょおう)と申します】は、才能豊かで詩歌、書道などの文学に精通され、代々伝えられてきた知識や研究成果を良くお継ぎになられました。一条天皇(いちじょうてんのう::第六十六代天皇。在位986-1011年)の御代、

古いことなど何事も掘り起こし、人を積極的に登用されたので、この具平親王が昇殿(しょうでん::宮中の清涼殿にある殿上の間に昇ること)された日に、清涼殿(せいりょうでん::平安京内裏十七殿の一つ。天皇が日常住んでおられた所)で作文(さくもん::漢詩を作ること)がありましたが【中殿の作文と言うものがこれより始まりました】、

その時「所貴是賢才」と言う題にて韻を探(韻(いん)を探る::多人数で詩を作る時、意図なく選んだ韻字本や韻字の札によって自分の漢詩の韻にすること)られたことがありました。この親王にとっては都合が良かったことでしょう。もともとあらゆる道に造詣が深く、仏教に関しても詳しい知識をお持ちだったと言うことです。

昔より源氏を名乗る人は多いのですが、この具平親王の子孫(嫡男(源師房(みなもとのもろふさ))が村上源氏の祖)だけが今に至るまで大臣以上に昇進し続けています。源氏と言うものは、嵯峨天皇(さがてんのう::第五十二代天皇。在位809-823年)が数多い皇族の生活費に危機を感じられ、皇子、皇孫に姓を賜って人臣(じんしん::臣下)とされました。

そのため多くのお子さんが源氏の姓を賜りました。また桓武天皇(かんむてんのう::第五十代天皇。在位781-806年)のお子さんである葛原親王(かずらわらしんのう)の長男、高棟(たかむね)が平の姓を賜りました。そのほか平城天皇(へいぜいてんのう::第五十一代天皇。在位806-809年)のお子さんである阿保親王(あぼしんのう)の子供たち、

行平(ゆきひら)、業平(なりひら)らが在原(ありわら)の姓を賜ることもこの後にありましたが、これは特別な場合です。弘仁(こうにん::元号。810-824年)以降、天皇のお子さんは代々全員源姓を賜りました。親王としての宣旨(親王の称号を許すこと)を賜った人は才能のあるなしに関わらず、国々に封戸(ふこ::生活の資として給与される徴税対象の家)などを与えられ、

国にとっては無駄な出費になるので、臣下として採用し勉学に励ませることによって、朝廷として必要な人材ともなれば、その能力に応じて昇進させるきまりとなっていました。姓を賜った人は即刻四位に叙されました【皇子皇孫の場合のことです】。この源師房は三位だと言われています【しかしこのような例はまれなことです。

嵯峨天皇のお子さんである大納言源定(みなもとのさだむ)卿が三位に叙されましたが、最近の例ではありません】。このようにして長年の間に姓を賜った人は百十余人にもなったでしょうか。しかしこの村上天皇系列以外の源氏では、大臣以上に昇進し二代にわたってその位を継いだ人がいるとは、今まで聞いたことがないのは一体どういう理由なのでしょうか、不審だと言えば不審な事です。

嵯峨天皇のお子さんで姓を賜った人は二十一人です。この中で大臣に昇ったのは、源常(みなもとのときわ)の左大臣兼大将と源信(みなもとのまこと::初代源氏長者)の左大臣そして源融(みなもとのとおる::嵯峨源氏融流初代)の左大臣です。仁明天皇のお子さんで姓を賜ったのは十三人です。大臣に昇られた人は、源多(みなもとのまさる)の右大臣と源光(みなもとのひかる)の右大臣兼大将の二人です。

文徳天皇のお子さんでは姓を賜ったのは十二人です。その中で大臣に昇ったのは、源能有(みなもとのよしあり)右大臣兼大将です。清和天皇のお子さんで姓を賜ったのは十四人です。大臣に昇られたのは、十世(十一世?)の末裔にあたる源実朝(みなもとのさねとも)の右大臣兼大将【この人は貞純親王(さだずみしんのう::清和天皇の第六皇子)の末裔です】。

陽成天皇(ようぜいてんのう::第五十七代天皇。在位876-884年)のお子さんで姓を賜ったのは三人です。光孝天皇(こうこうてんのう::第五十八代天皇。在位884-887年)のお子さんで姓を賜ったのは十五人です。宇多天皇(うだてんのう::第五十九代天皇。在位887-897年)のお孫で姓を賜って大臣に昇られたのは、

源雅信(みなもとのまさざね::宇多源氏の祖)の左大臣と源重信(みなもとのしげのぶ)の左大臣です【お二人は共に敦実親王(あつみしんのう::宇多天皇の第八皇子)の子供です】。醍醐天皇(だいごてんのう::第六十代天皇。在位897-930年)のお子さんで姓を賜ったのは二十人です。その中で大臣に昇られた人は、

源高明(みなもとのたかあきら)の左大臣兼大将と源兼明(みなもとのかねあきら)の左大臣【この方は後に皇籍に復帰し親王となり、中務卿に任じられます。前中書王はこの方です】です。この後は皇子が姓を賜ることは絶えました。しかし皇孫には多数おられます。大臣に任じられた方を基本にしていますので、全ては記載しません。

最近では後三条天皇(ごさんじょうてんのう::第七十一代天皇。在位1068-1073年)の御孫で源有仁(みなもとのありひと)の左大臣兼大将【後三条天皇の皇子、輔仁親王(すけひとしんのう)の子供で、白河院(しらかわいん::白河天皇。第七十二代天皇。在位1073-1087年)の養子となりますが、その後、源姓を賜り臣籍降下し、直ちに三位になられた人です】が二世の源氏として大臣に昇られました。

このようにたまたま大臣に昇られることがあっても、一体誰が二代にわたって継いだのでしょうか。そればかりか納言以上にまで継ぐことが出来たのもまれなことです。源雅信の大臣の子孫だけは、たまたま納言にまで昇進し残りました。源高明の大臣の子孫四代は大納言に任じられていましたが、家系は早く絶えることになりました。どう考えても何か訳があるのではと思われます。


皇胤の貴種より出ぬる人、蔭をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なか<上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人の将軍を任じて四道へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁の臣を置て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣とす〈 我朝大臣これに始る 〉。六代の朝につかへて執政たり。此大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏をさかやかし、忠仁公政を摂せられしより、もはら輔佐の器として、立かへり、神代の幽契のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房姓を給て人臣に列せらしれ、才芸古にはぢず、名望世に聞あり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷の故実に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車の齢までつかうまつらる。親王の女祇子の女王は宇治関白の室なり。仍此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子にかはらず、春日社にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁せられしかば、子孫もみな彼外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰てあとなきもあり。向後と云ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源の流も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一とほりにて十七代に成しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶あるかとこそあふぎ申はべれ。

天皇の血統を引いた人は、他人の援助に頼り切り、たいした才能など持っていないのにかかわらず、人を見下したり何かにつけて思い上がった気持ちがあるのでしょうか。そのため臣下としての礼儀に反することも多々あるのでしょう。寛平の御記(かんぴょうのぎょき::宇多天皇の日記)にその一端が記載されています。

子孫のこともよくよく考えて行動すべきなのでしょう。天皇の子孫であると言うことは確かに特別なものでありますが、我が国は神代からの約束で、天皇は天照大神の御子孫として、国を統治し守護に努めるものであり、臣下は天児屋命(アメノコヤネノミコト::中臣氏の祖神)の流れを汲む血統として、天皇の補佐に努める家系となりました。

しかし源氏と言うのは新しく生まれた臣下です。人として徳もなければ特に功績もなく高官に昇った挙句、他の人達に対して思い上がった振る舞いなどすれば、二神(にしん::二柱の神。伊弉諾(イザナギ)、伊弉冉(イザナミ)のこと)から非難されないことなどありません。大昔は意外にも皇子や皇孫が多くおられたので、諸国に領地を与えたり、

将相(しょうそう::将軍や政府高官)などにも任命されました。崇神天皇(すじんてんのう::第十代天皇。在位BC97-BC30年)十年(BC88年)に初めて四人を将軍に任命し、四道(しどう::東海、北陸、西道、丹波)に派遣したことがありますが、この人たちは皆皇族でした。景行天皇(けいこうてんのう::第十二代天皇。在位71-130年)五十一年(121年)に初めて棟梁臣(むねまちぎみ::国家の重任にあたる大臣)の職務を設け、

武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね/たけのうちのすくね)を任命しました。その後、成務天皇(せいむてんのう::第十三代天皇。在位131-190年)三年(133年)に大臣に任命しました【我が国の大臣はこの時より始まりました】。六代(景行、成務、仲哀、応神、仁徳だと五代になるが?)の朝廷に仕えて政治を執りました。

この大臣も孝元天皇(こうげんてんのう::第八代天皇::在位BC214-BC158年)の曾孫になります。しかしながら大織冠(だいしょくかん/だいしきかん::冠位として最上位。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)のこと)は藤原家を繁栄させ、忠仁公(ちゅうじんこう::藤原良房(ふじわらのよしふさ))が天皇に代わって政治を執られることにより、藤原家は天皇の補佐を行う家系として続くことになり、

これは神代において神仏と隠れて交わした約束通りになったのでしょうか。閑院(かんいん)の大臣藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)は藤原家が衰退気味なのを嘆かれ、善行を積まれ勤務に励んで成果を上げ、神に祈願し仏に帰依されましたが、それらの相乗効果もあったのでしょうか。この具平(ともひら)親王は本当に才能豊かで、

人としての徳も十分に持ち合わされていたのでしょうか。子供である師房(もろふさ)は姓(源)を賜って臣下に列されましたが、その才能や智恵また芸能の技など今まで通りであり、その名声や人望は世間に知れ渡っていました。十七歳で納言に任じられ、その後数十年にわたって朝廷における各種の儀式や作法などに深く通じ、

大臣大将に昇進し懸車の齢(けんしゃのよわい::七十歳のこと)になるまで天皇にお仕えされました。また具平親王の娘である藤原祇子(ふじわらのぎし)の女王は宇治関白(うじのかんぱく::藤原頼道(ふじわらのよりみち))の妻です。そこでこの大臣(源師房)を彼の関白(藤原頼道)の養子にして、藤原一族と同じ扱いを受け春日大社にも参り、お仕えされたと言うことです。

またやがて御堂(みどう::藤原道長(ふじわらのみちなが))の娘であり、頼道の異母妹の藤原尊子(ふじわらのそんし/たかこ)を相嫁(あいよめ::夫が兄弟の関係にある妻どうし)にされたので、子孫は皆彼にとって外孫ということになりました。このため彼は御堂(藤原道長)や宇治(藤原頼道)のことを、血こそ通っていないが実の親のように思っていました。

日本や中国の思想とか詩文などを研究することに没頭し、国への貢献と忠誠を第一に考える姿勢が認められたのか、彼の一族は絶えることなく十代余に及びました。その中でも行動に疑問が感じられたり、忠誠心に乏しい連中は自然に没落し、絶えてしまったのもあります。今後とも慎重な行動を取られることに気をつかわれることが重要です。

天皇のことを述べたほとんどの書物には、藤原氏の始まりについては所々に記載されています。また源氏の家系も永らく継続してきたことなので、今後とも正しい行動を第一に心がけることを心に留めて記述するものです。君(後村上天皇)も村上天皇の嫡流として十七代になられます。(?)臣下である私、北畠親房も村上天皇の子孫である源氏を受け継いできた者であるので、ただただこの君(村上天皇)がすぐれた徳をお持ちでしたから、この私にも幸せが受けられるのかと御尊敬する次第です。(この段不明解)


○第六十三代、冷泉院。諱は憲平、村上第二の子。御母中宮藤原安子、右大臣師輔の女也。丁卯年即位、戊辰に改元。この天皇邪気おはしければ、即位の時大極殿に出給こともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿にて其礼ありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。此御門より天皇の号を申さず。又宇多より後、謚をたてまつらず。遺詔ありて国忌・山陵をおかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。

☆第六十三代は冷泉院(れいぜいいん::冷泉天皇)です。諱(いみな::生前の実名)は憲平(のりひら)で、村上(むらかみ)天皇の第二の子供です。御母は中宮藤原安子(ふじわらのあんし/やすこ)で右大臣藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の娘です。丁卯(ひのとう::967年)の年に即位され、翌戊辰(つちのえたつ::968年)の年に安和(あんな)と改元されました。

この天皇は精神的な病がおありだったので、即位の儀式のため大極殿(だいごくでん::大内裏にある朝廷の正殿。即位の大礼や国家的儀式が行われた)にお出ましになることが難しかったのか、紫宸殿(ししんでん/ししいでん::各種儀式が行われる正殿)にてその儀式が行われました。二年ばかりして譲位されました。六十三歳にて崩御されました。

この冷泉天皇以後は天皇と言う号、つまり何々天皇と言う呼び方はしません。また宇多天皇(うだてんのう::第五十九代天皇。在位887-897年)以降は謚(し::死後生前の行いを尊んで贈る名)をお贈りすることはなくなりました。(諸説あり)遺詔(いしょう::天皇の遺言)によって国忌(こっき::先帝などの命日で政務を休んで仏事をなどを行う事)や山陵(さんりょう::天皇皇后などの墓)の建造を止めることなど帝のありがたいお考えではありますが、

尊号(そんごう::天皇などを尊んでいう称号)を贈ることをやめるのは、臣下として取るべき道ではありません。神武天皇(じんむてんのう::初代天皇。在位BC660-BC582年(?))以来、贈られた尊号も全て後世に定められたものです。持統天皇(じとうてんのう::第四十一代天皇。在位690-697年)、元明天皇(げんめいてんのう::第四十三代天皇。在位707-715年)以降は退位や出家された帝に対しても諡号をお贈りしています。

今後は天皇とだけ申し上げるのでしょうか。優秀な先人達がお決めになったことですが、納得のいかないことではあります。


○第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳年即位、庚午に改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。翌年の程にや御出家。永延の比、寛平の例をおふて、東寺にて潅頂せさせ給。御師はすなはち寛平の御孫弟子寛朝僧正なり。三十三歳おまし<き。

☆第六十四代、第三十五世は円融院(えんゆういん::円融天皇)です。諱(いみな::生前の実名)は守平(もりひら)で、村上(むらかみ)天皇第五の子供であり、冷泉(れいぜい)天皇と同じ母親の弟です。己巳(つちのとみ::969年)の年に即位され、翌庚午(かのえうま::970年)の年に天禄(てんろく)に改元されました。天下を治められたのは十五年間です。

禅譲(ぜんじょう::譲位。皇位を譲ること)や尊号については特に変わったことはありません。譲位されて翌年のことでしょうか御出家されました。永延(えいえん::元号。987-989年)の頃や、寛平(かんぴょう/かんびょう/かんぺい/かんべい::889-898年)の例に従って、東寺において灌頂(かんじょう::密教において修行者が一定の地位に上る時に行う儀式)されました。

戒和尚として授戒(じゅかい::仏門に入ろうとする者に戒律を授けること)された僧侶は寛平(宇多天皇)の御孫弟子である寛朝(かんちょう/かんじょう)僧正です。三十三歳にて崩御されました。


○第六十五代、花山院。諱は師貞、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子、摂政太政大臣伊尹の女也。甲申年即位、乙酉に改元。天下を治給こと二年ありて、俄に発心して花山寺にて出家し給。弘徽殿の女御〈 太政大臣為光の女也 〉かくれて悲歎ましけるをりをえて、粟田関白道兼のおとゞのいまだ蔵人弁ときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せさせまししが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おまし<き。

☆第六十五代は花山院(かざんいん/かさんいん::花山天皇)です。諱(いみな::生前の実名)は師貞(もろさだ)で、冷泉天皇第一の子供です。御母は皇后藤原懐子(ふじわらのかいし/ちかこ)で摂政太政大臣藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ)の娘です。甲申(きのえさる::984年)の年に即位され、翌乙酉(きのととり::985)の年に寛和(かんな)に改元されました。

天下を治められたのは二年間で、突然発心(ほっしん::悟りを得ようとする心を起こすこと)されて花山寺にて出家されました。東寺妊娠中だった弘徽殿の女御(こきでんのにょうご::弘徽殿(平安御所の後宮の一つ)を賜った后妃の称)【太政大臣藤原為光(ふじわらのためみつ)の娘です】が死去したため、ひそかに嘆き悲しんでいるのを利用して、

粟田関白藤原道兼(ふじわらのみちかね)の大臣、その頃はまだ蔵人弁(くろうどのべん::宮中全般を管理する役所の官吏)と呼ばれていた頃でしょうか、天皇をそそのかして出家させたとか。地方の山々を巡って修行されましたが、後には都にお帰りになりお住まいになられました。この天皇も少し気の病があったとか言われています。四十一歳にて崩御されました。


○第六十六代、第三十六世、一条院。諱は懐仁、円融第一の子。御母皇后藤原詮子〈 後には東三条院と申。后宮院号の始也 〉、摂政太政大臣兼家の女なり。花山の御門神器をすてて宮を出給しかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、内にまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくまし<しかば、摂政の儀ふるきがごとし。丙戌年即位、丁亥に改元。そののち摂政病により嫡子内大臣道隆に譲て出家、猶准三宮の宣を蒙〈 執政の人出家の始也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となん申。仍源の満仲出家したりしをはゞかりて新発とぞ云ける 〉。此道隆始て大臣を辞て前官にて関白せられき〈 前官の摂政もこれを始とす 〉。病ありて其子内大臣伊周しばらく相かはりて内覧せられしが、相続して関白たるべきよしを存ぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。其弟にて道長、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、此大臣のながれ一に摂政関白はし給ぞかし。昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、貞信公の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にて〈 道綱大将は一男歟。されど三弟にこされたり。仍道長を三男としるす 〉このおとゞ、みな父の立たる嫡子ならで、自然に家をつがれたり。祖神のはからはせ給へる道にこそ侍りけめ〈 いづれも兄にこえて家をつたへらるべきゆゑありと申ことのあれど、ことしげければしるさず 〉。此御代にはさるべき上達部・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。されば御門も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」とぞ自歎ぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病の程に譲位ありて出家せさせ給。三十三歳おまし<き。

☆第六十六代、第三十六世は一条院(いちじょういん::一条天皇)です。諱(いみな::生前の実名)は懐仁(やすひと)で円融(えんゆう)天皇の第一の子供です。御母は皇后藤原詮子(ふじわらのせんし/あきこ)【後には東三条院と申されました。皇后の院号(いんごう::皇族の女性で上皇に準じた待遇を受ける人への尊称)の始まりです】で、摂政太政大臣藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の娘です。

花山(かざん)天皇が神器を捨てて皇居を出られたので、皇太子の外祖(がいそ::母の父)である藤原兼家(ふじわらのかねいえ)右大臣が内裏に参り、諸門を固めて譲位の儀式を行われました。新しい天皇も幼いので摂政を置くことも昔通りでした。丙戌(ひのえいぬ::986年)の年に即位され、翌丁亥(ひのとい::987年)の年に永延(えいえん)と改元されました。

その後摂政(藤原兼家)は病気になったので、嫡子(ちゃくし::長男)である内大臣藤原道隆(ふじわらのみちたか)にその地位を譲って出家され、その上、准三宮(じゅんさんぐう::太皇太后、皇太后、皇后の三宮に准じた処遇)を与えるとの宣旨をもらいました【執政(しっせい::国政を執り行うこと)の人が出家することの最初の例です。

その頃は出家した人はいなかったので入道殿とか呼んでいました。そのような訳で、源満仲(みなもとのみつなか)が出家された時、周囲に遠慮して新発(しんぼち::多田新発意)と称していました】。この藤原道隆が初めて大臣を辞し前職の大臣の身分で、すなわち大臣と兼官することなく、関白(かんぱく::天皇の政務を補佐し意見を言上すること)されました【前官による摂政の例もこれが最初です】。

やがて道隆は病になり、自分の嫡子である内大臣、藤原伊周(ふじわらのこれちか)がしばらく代理として内覧(ないらん::天皇に奏上する文書を前もって読んで処置すること)をされました。道隆は関白職を藤原伊周に相続させようと考えていましたけれど許されないままに、道隆は死去しすぐに自分の弟である右大臣藤原道兼(ふじわらのみちかね)が関白となられました。

しかし七日間という短い間だけの関白で、あっけなく死去されました。道兼の弟である藤原道長(ふじわらのみちなが)、その時は大納言でしたが内覧を命じるとの宣旨を受け、左大臣まで昇られましたが延喜(えんぎ::元号。901-923年)、天暦(てんりゃく::元号。947-957年)の昔(延喜、天暦の治::天皇親政による理想の政治)を考えてのことか、関白に就任することはされませんでした。

道長は三条天皇(さんじょうてんのう::第六十七代天皇。在位1011-1016年)の時だったでしょうか天皇の眼病を理由に退位をせまり、後一条天皇(ごいちじょうてんのう::第六十八代天皇。在位1016-1036年)の即位を実現し、即位当初は幼帝でしたから外祖(がいそ::母親の父)として摂政されました。兄弟が大勢おられましたが、この道長大臣の子孫のみが摂政関白職を歴任することになったのです。

過去においても如何なる理由があったのか、昭宣公(しょうせんこう::藤原基経(ふじわらのもとつね)の贈り名)の三男、貞信公(ていしんこう::藤原忠平(ふじわらのただひら)の贈り名)に関白は継承され、そして貞信公の二男である藤原師輔(ふじわらのもろすけ)大臣の血筋に移り、師輔の三男である東三条の大臣(藤原兼家(ふじわらのかねいえ))が関白に就任し、

東三条の三男である【藤原道綱(ふじわらのみちつな)大将は長男のはずですが。しかし三男に冠位は越されました。そこで道長を三男と記載します】藤原道綱大臣など皆、父が認めた嫡子なので当然のように家を継がれました。(この系図関係不可解)祖神(そしん::天照大神?)の采配によって決められた事なのでしょう【いずれも兄を凌いで家を継ぐ理由があったと言われていますが、

煩わしいのでここでは記載致しません】。この一条院の御代においてはしかるべき上達部(かんだちめ::公卿)や諸道(しょどう::色々な学芸や芸道)の家々、顕密(けんみつ::顕教と密教。密教以外の仏教と密教)の僧侶などに優れた人が多く輩出しました。そこで帝も「私が優れた人に恵まれていることは、延喜、天暦の時代を凌いでいる」と、

心から感心されました。(この時代、清少納言、紫式部、和泉式部らが活躍されます)この天皇が天下を治められたのは二十五年間です。御病気になったので譲位し出家されました。三十三歳にて崩御されました。


○第六十七代、三条院。諱は居貞、冷泉第二の子。御母皇太后藤原超子、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、をり<御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥年即位、壬子に改元。天下を治給こと五年。尊号ありき。四十二歳おまし<き。

☆第六十七代は三条院(さんじょういん::三条天皇)です。諱(いみな::生前の実名)は居貞(おきさだ/いやさだ)で、冷泉天皇(れいぜいてんのう::第六十三代天皇。在位967-969年)の第二皇子です。御母は皇太后藤原超子(ふじわらのちょうし/とおこ)で、この方も摂政藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の娘です。花山院(花山天皇(かざんてんのう::第六十五代天皇。在位984-986年))が御出家されたので皇太子になられましたが、

お身体の具合が悪いのか、時々目の見えなくなることがあったとか。辛亥(かのとい::1011年)の年に即位され、翌壬子(みずのえね::1012年)の年に長和(ちょうわ)に改元されました。天下を治められたのは五年間です。尊号(そんごう::尊んでいう称号。譲位後の居所の名称によって三条院と追号されました?)はありました。四十二歳にて崩御されました。


○第六十八代、後一条院。諱は敦成(あつひら)、一条第二の子。御母皇后藤原彰子〈 後に上東門院と申 〉、摂政道長の大臣の女也。丙辰年即位、丁巳に改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通の内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠・理髪父子ならびて勤仕せられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはる<”しらせ給ひしに、三条院かくれ給てのち、御子敦明の御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申き。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦御時元方の民部卿のむすめ御息所、一のみこ広平親王をうみたてまつる。九条殿の女御まゐり給て、第二の皇子〈 冷泉にまします 〉いでき玉ひし比より、悪霊になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院の俄に世をのがれ、三条院の御目のくらく、此東宮のかくみづからしりぞき給ぬるも怨霊のゆゑなりとぞ。円融も一腹の御弟におはしませど、これまではなやまし申ささざりけるもしかるべき継体の御運まし<けるにこそ。東宮しりぞき給しかば、此天皇同母の御弟敦良親王立給き。天皇も御子なくて、彼東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治給こと二十年。二十九歳おまし<き。

☆第六十八代は後一条院(ごいちじょういん::後一条天皇)です。諱(いみな::生前の実名)は敦成(あつひら)で一条天皇(いちじょうてんのう::第六十六代天皇。在位986-1011年)の第二皇子です。御母は皇后藤原彰子(ふじわらのしょうし/あきこ)【後に上東門院(じょうとうもんいん)と申されました】で、摂政藤原道長(ふじわらのみちなが)大臣の娘です。

丙辰(ひのえたつ::1016年)の年に即位され、翌丁巳(ひのとみ::1017年)の年に寛仁(かんにん)に改元されました。外祖(がいそ::母の父)である藤原道長のおとど(大臣)が摂政されましたが、後になって摂政を長男である藤原頼通(ふじわらのよりみち)内大臣にお譲りになり、そのまま太政大臣として天皇の御元服(げんぷく::成人を示すものとして行われた儀式)の日に、

加冠(かかん::元服する人に冠をかぶせる役)、理髪(りはつ::元服の時頭髪の末を切ったりする役)の儀に父子が揃ってお勤めになられたことは珍しいことでしょうか。冷泉天皇(れいぜいてんのう::第六十三代天皇。在位967-969年)と円融天皇(えんゆうてんのう::第六十四代天皇。在位969-984年)両統の天皇が日本を交代に支配しておられましたが、

三条院(さんじょういん::三条天皇。第六十七代天皇。在位1011-1016年)が崩御されてから、三条院第一皇子の敦明(あつあきら)親王が皇太子となられましたが、道長の圧力に屈して不本意ながら皇太子を降り、院号(いんごう::上皇に対する尊称)を与えられ小一条院(こいちじょういん)と称されました。これ以降、冷泉天皇の血筋からの天皇即位は絶えました。

冷泉天皇は村上天皇の長男(実際の長男は夭逝(ようせい::若くして死去))であり、その子孫は正統なものでなければなりませんが、昔、天暦(てんりゃく::元号。947-957年。村上天皇の治世)の時代、藤原元方(ふじわらのもとかた)の娘(祐姫(すけひめ))、当時村上天皇の御息所(みやすどころ::天皇の寝所に仕える宮女)でしたが、第一皇子の広平(ひろひら)親王をご出産されました。

しかしその後、九条院(藤原師輔(ふじわらのもろすけ))の娘(藤原安子)である中宮(ちゅうぐう::天皇の妻たちの呼称の一つ)が第二の皇子【冷泉天皇です】をご出産されたころから、広平親王は悪霊になり、この皇子(冷泉天皇)も祟りを受けたのか、体調不良に悩まされました。花山院(かざんいん/かさんいん::花山天皇。第六十五代天皇。在位984-986年)が突如として出家されたり、

三条院が眼病を患ったことや、またこの東宮(とうぐう::皇太子。敦明親王)が自ら皇太子を降りられたことも、みなこの怨霊が原因だと言われています。円融天皇も冷泉天皇と同じ母親の弟ではありますが、彼まで怨霊が祟ることなく悩まれずに済んだのも、天皇を継承するそれなりの運命をお持ちになっていたからでしょう。

東宮が空位になったので、この天皇(後一条天皇)と同じ母親の弟、敦良(あつなが)親王が皇太子の地位におつきになられました。後一条天皇には皇子がいませんでしたから、この敦良親王の御子孫が皇位を継承されることになりました。後一条天皇が天下を治められたのは二十年間です。二十九歳にて崩御されました。


○第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良、後一条同母の弟也。丙子年即位、丁丑に改元。天皇賢明にまし<けるとぞ。されど其比執柄権をほしきまゝにせられしかば、御政のあときこえず。無念なることにや。長久の比内裏に火ありて、神鏡焼給。猶霊光を現じ給ければその灰をあつめて安置せられき。天下を治給こと九年。三十七歳おまし<き。

☆第六十九代、第三十七世は後朱雀院(ごすざくいん::後朱雀院天皇)です。諱(いみな::生前の実名)は敦良(あつなが)で、後一条天皇(ごいちじょうてんのう::第六十八代天皇。在位1016-1036年)と同じ母親の弟です。丙子(ひのえね::1036年)の年に即位され、翌丁丑(ひのとうし::1037年)の年に長暦(ちょうりゃく)に改元されました。この天皇は賢く物事の判断も適切だと評判だったそうです。

しかしその頃は関白藤原頼通(ふじわらのよりみち)が権力をほしいままにされていましたので、これと言った政治向きの話は残っていません。残念なことです。長久(ちょうきゅう::元号。1040-1043年)の頃、内裏に火災が発生し神鏡(しんきょう::八咫鏡)が激しく焼けてしまいました。それでもまだ神秘的な光を発していましたので、燃え残った灰を集めて安置されました。後朱雀天皇が天下を治められたのは九年間です。三十七歳にて崩御されました。


○第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子〈 本は尚侍 〉、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉年即位、丙戌改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。陸奥にも貞任・宗任など云し者、国をみだりければ、源頼義に仰て追討せらる〈 頼義陸奥守に任じ、鎮守府の将軍を兼す。彼家鎮守将軍に任ずる始也。曾祖父経基は征東副将軍たりき 〉。十二年ありてなむしづめ侍ける。此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔にて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治給こと二十三年。四十四歳おまし<き。

☆第七十は後冷泉院(ごれいぜいいん::後冷泉天皇)です。諱(いみな::生前の実名)は親仁(ちかひと)で後朱雀天皇(ごすざくてんのう::第六十九代天皇。在位1036-1045年)の第一の皇子です。御母は贈皇太后藤原嬉子(ふじわらのきし/よしこ)【元は尚侍(ないしのかみ/しょうじ::女官の官名)です】で摂政藤原道長(ふじわらのみちなが)大臣の第三の娘(六女?)です。

乙酉(きのととり::1045年)の年に即位され、翌丙戌(ひのえいぬ::1046年)の年に永承(えいしょう)に改元されました。後冷泉天皇治世の後期は世間が不安だと言われていました。陸奥において貞任(さだとう::安倍貞任)、宗任(むねとう::安倍宗任)などと言う者が、陸奥の国で騒乱を起こしているので、

源頼義(みなもとのよりよし::河内源氏の二代目棟梁)に命じて追討させました【頼義を陸奥守に任命し、鎮守府(ちんじゅふ::陸奥、出羽、蝦夷鎮圧のための軍政官庁)の将軍を兼務させました。源家において初めて鎮守将軍に任命されました。曾祖父の経基(つねもと::源経基。清和源氏の初代)は征東(せいとう::東国を鎮定すること)副将軍でした】。

その後十二年間にわたる戦闘の末、鎮圧に成功しました。この天皇にはお子さんがいない上、後朱雀天皇の遺言によって、後三条(ごさんじょう::後三条天皇)が東宮(とうぐう::皇太子。ここでは皇太弟(こうたいてい::皇位を継ぐことになっている現天皇の弟))として居られると言うことは、皇位の継承は前もって決まっていたのでしょう。天下を治められたのは二十三年間です。四十四歳にて崩御されました。

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