1 太平記 巻第一



蒙窃採古今之変化、察安危之来由、覆而無外天之徳也。明君体之保国家。載而無棄地之道也。良臣則之守社稷。若夫其徳欠則雖有位不持。所謂夏桀走南巣、殷紂敗牧野。其道違則雖有威不久。曾聴趙高刑咸陽、禄山亡鳳翔。是以前聖慎而得垂法於将来也。後昆顧而不取誡於既往乎。


☆ 序

私は私なりに過去に起こった出来事、変革などを題材にとって、国家の重大事が何故起こったのかと考察してみました。この地上をあまねく見守っているのは、天の恩恵以外には無く、つまり名君と言われる君主の治世では、良く国家を保つことが出来ます。

また一般の世間においては道徳、道理を間違えることなく皆が持ち続けることです。つまり、良き臣下によってこそ、国家を守ることが出来るのです。もし人間に品位、品性が欠けていたならば、いかに地位を得たと言っても、それを維持することは出来ないでしょう。

たとえば、古代中国、夏王朝の暴君、桀(けつ)は南巣(なんそう)、または南方に逃げ込み、亡くなったと言います。また殷王朝の帝辛、紂(ちゅう)王は牧野(ぼくや)の戦いに敗れ、自殺に追い込まれました。人はその行動などにおいて、道理、道徳を間違えれば、

いかに権力、威力を持っていようが、それを長く保つことは出来ません。その他、古代中国の秦王朝の趙高(ちょうこう)は咸陽(かんよう)において処刑されたとか、また唐王朝の安祿山は鳳翔(ほうしょう)において滅びたと聞いています。

ここに書き綴る書物は過去に生きた聖人たちが、将来のために社会の規範などについて教えを残してくれたものです。そして後世に生きる我々は過去の教訓を生かしていくべきでしょう。


○後醍醐天皇御治世事付武家繁昌事
爰に本朝人皇の始、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当て、武臣相摸守平高時と云者あり。此時上乖君之徳、下失臣之礼。従之四海大に乱て、一日も未安。狼煙翳天、鯢波動地、至今四十余年。一人而不得富春秋。万民無所措手足。倩尋其濫觴者、匪啻禍一朝一夕之故。元暦年中に鎌倉の右大将頼朝卿、追討平家而有其功之時、後白河院叡感之余に、被補六十六箇国之総追補使。従是武家始て諸国に守護を立、庄園に地頭を置。彼頼朝の長男左衛門督頼家、次男右大臣実朝公、相続で皆征夷将軍の武将に備る。是を号三代将軍。然を頼家卿は為実朝討れ、実朝は頼家の子為悪禅師公暁討れて、父子三代僅に四十二年にして而尽ぬ。其後頼朝卿の舅、遠江守平時政子息、前陸奥守義時、自然に執天下権柄勢漸欲覆四海。

☆ 後醍醐天皇の治められた時代に武家が繁栄していたこと

さて、わが国初代の天皇である神武天皇より、九十五代にあたる帝、つまり後醍醐天皇の御代に、武官である相模守北条高時と言う人物がいました。この時代は天皇においてはその品性や人徳は忘れられ、臣下においては臣下としての礼儀も守られず、

そのため国家は乱れに乱れ、ただの一日とて、心の安らぎを得ることが出来ませんでした。軍のためあがる炎や煙は天を覆い、閧の声は地を揺るがす有様です。この四十有余年、一人として豊かな人生を送れた者もいず、

全ての人々はその手足を伸ばすことも、出来ませんでした。何故このようなことになったのか、その発端を考えてみると、何も一朝一夕にこのような事態になったわけではありません。元暦(1184〜1185年)の頃に鎌倉の右大将頼朝卿が平家を追討し、

その功績に対して、時の後白河法皇が感激の余り、六十六ヶ国の軍事、警察機能を持った総追捕使に任命しました。これによって武家が初めて諸国に守護(軍事、警察権を持ち、治安維持に当たる)を置き、各荘園には地頭(土地の管理、徴税事務)を置きました。

そしてその後、頼朝の長男、左衛門督源頼家、次男の右大臣源実朝公らが、世襲により征夷大将軍になりました。これを三代将軍と呼びます。しかしながら、頼家卿は実朝のために殺害され、また実朝は頼家の子供、悪禅師公暁に討たれてしまい、

父子は三代、わずか四十二年にして家系は途絶えました。その後、頼朝卿の舅である遠江守北条時政の子供、前陸奥守北条義時が当然の如く天下の権力を握り、やがてその勢力は日本国全体に及びました。


此時の大上天皇は、後鳥羽院也。武威振下、朝憲廃上事歎思召て、義時を亡さんとし給しに、承久の乱出来て、天下暫も静ならず。遂に旌旗日に掠て、宇治・勢多にして相戦ふ。其戦未終一日、官軍忽に敗北せしかば、後鳥羽院は隠岐国へ遷されさせ給て、義時弥八荒を掌に握る。其より後武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・相摸守時頼・左馬権頭時宗・相摸守貞時、相続で七代、政武家より出で、徳窮民を撫するに足り、威万人の上に被といへ共、位四品の際を不越、謙に居て仁恩を施し、己を責て礼義を正す。是を以て高しと云ども危からず、盈りと云ども溢れず。承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。同三年に、始て洛中に両人の一族を居て、両六波羅と号して、西国の沙汰を執行せ、京都の警衛に備らる。又永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司しめ、異賊襲来の守を堅す。されば一天下、普彼下知に不随と云処もなく、四海の外も、均く其権勢に服せずと云者は無りけり。

この当時は後鳥羽上皇の御代でした。上皇は前陸奥守北条義時の武力が国を抑え、反対に朝廷の権威が落ちていくことを嘆かれ、この際、北条義時を滅亡に導こうと考えて承久の乱を起こし、またもや天下が騒乱の渦に巻き込まれました。

とうとう戦いの幟は追い詰められ、宇治、瀬田川に布陣し、最後の戦いを挑みました。しかし、その戦いも一日は防衛したものの、やがて後鳥羽上皇軍は敗れてしまい、敗軍の将、後鳥羽上皇は隠岐国に流され、その結果、北条義時は日本国、全てを我が物としました。

これ以後は武蔵守北条泰時、修理亮北条時氏(泰時の長男であるが、父より先に亡くなったため執権にはなっていない)、武蔵守北条経時、相模守北条時頼、左馬権頭北条時宗、相模守北条貞時(途中、第六代執権長時、第七代執権政村は直系でない)に至るまで、世襲を七代続けて、

この国の政治は武家により行なわれてきました。しかし、それなりに貧困に苦しむ人達を援助する政策を取り、その権威、権力は国全体に及んだと言えども、その官位は四位を超えることは無く、常に謙虚な行動をとり、民衆には思いやりのある政治を行ない、

自己を律し他人に対しては礼節を守ってきました。この頃の政治姿勢については、どれほど高い理想を求めても、求めすぎと言うことは無く、またどれほど多くの実績を挙げても、挙げすぎと言うことは無いと、言われたものです。

承久(1219〜1222年)の時代以降、北条家は世継ぎの資格がある天皇家や、摂政家などから世の中を治め、また民衆を安心させる得る器量を持った人物を一人、鎌倉幕府に推薦して征夷大将軍に任命の上、武士全員が忠節を誓ってきました。

承久三年(1221年)に初めて、北条家より二人の人間が京都に駐在し、両六波羅探題(南北の六波羅探題)と名づけて、西国の経営と、京都の治安維持に当たらせました。また永仁元年(1293年)からは九州に探題(政治、治安維持などを扱う職名)を一名派遣し、

九州の政治、治安に当たらせると共に、異国からの襲撃に備えて防衛を固めました。このように、日本国において鎌倉幕府、北条家の命令に従わない国、人間は皆無となり、国外においてもその権威は行き渡り、全てを支配下に置いたのでした。


朝陽不犯ども、残星光を奪る、習なれば、必しも、武家より公家を蔑し奉としもは無れども、所には地頭強して、領家は弱、国には守護重して、国司は軽。此故に朝廷は年々に衰、武家は日々に盛也。因茲代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんが為、近くは朝議の陵廃を歎き思食て、東夷を亡さばやと、常に叡慮を回されしかども、或は勢微にして不叶、或は時未到して、黙止給ひける処に、時政九代の後胤、前相摸守平高時入道崇鑒が代に至て、天地命を革むべき危機云顕れたり。倩古を引て今を視に、行跡甚軽して人の嘲を不顧、政道不正して民の弊を不思、唯日夜に逸遊を事として、前烈を地下に羞しめ、朝暮に奇物を翫て、傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽早尽き、秦の李斯が犬を牽し恨今に来なんとす。見人眉を顰め、聴人唇を翻す。此時の帝後醍醐天王と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹にて御座せしを、相摸守が計として、御年三十一の時、御位に即奉る。御在位之間、内には三綱五常の儀を正して、周公孔子の道に順、外には万機百司の政不怠給、延喜天暦の跡を追れしかば、四海風を望で悦び、万民徳に帰して楽む。凡諸道の廃たるを興し、一事の善をも被賞しかば、寺社禅律の繁昌、爰に時を得、顕密儒道の碩才も、皆望を達せり。誠に天に受たる聖主、地に奉ぜる明君也と、其徳を称じ、其化に誇らぬ者は無りけり。

朝日が昇ると夜空の星が見えなくなるのは当然であり、何も武家が公家を軽んじた訳ではなくとも、地方においては地頭の力が強く、荘園の領主は力が弱くなりました。また国の政務においては、武家が勤める守護の権力が強くなり、

朝廷から派遣される地方官の権威は落ちてきました。このため朝廷の権威も年々衰えるばかりで、反対に武家の権力は年々強くなる一方です。このような事情の中、代々の天皇は遠い昔に起こした承久の変の敗北を忘れ、

最近では、朝廷の議決などがないがしろにされることを嘆き、また憤慨し、こうなれば鎌倉の蛮族どもを征伐してしまおうかと、いつも考えていました。しかし、一つは朝廷側の兵力が少ないため関東に対抗できず、また一つは、今は時の利が得られないなどの理由から、

行動に移すことが出来ませんでした。しかし、北条時政から九代目(八代目?)の子孫、前相模守北条高時入道崇鑑の代になって、今は世を改めるため、革命を起こすべき時が来たのではないかと言われ出しました。

高時入道は過去の良き時代が今も続いていると思い、行為、行動があまりにも軽薄でありながら、他人の批判、忠告にも耳を貸さず、行なう政治は不正が多く、一般民衆の生活の苦しみや疲れを考えることもなく、毎日、毎夜ただ遊び呆けているばかりで、

功績ある先人の名を辱め、朝に暮れに理解を超えた言動を行い、国家破滅への道をただ歩んで行くようでした。衛国の懿公(いこう)が鶴を好み、車に乗せたり官位や俸給を与えたりと好き勝手なことをしていましたが、

やがて戦死したように、また秦国の李斯が刑場に行く途中、猟犬を連れて兎狩りに行くことは出来ないと嘆いたことなど、今の日本の行く末を思わせます。この様子を見る人は眉をひそめ、話を聞いた人は何かと批判しました。

この時の帝、後醍醐天皇は後宇多天皇の第二皇子で、母親は談天門院藤原忠子ですが、相模守北条高時の方針によって、三十一歳の時、即位されました。後醍醐天皇の在位期間は、自分自身の日常は、三綱五常(人として常に守るべき徳、また重んずべき道)の教えを守り、

周公旦を尊敬した孔子が説く道を守りました。また外部には多くの役所、役人らを統率して、政治に力を注ぎました。延喜天暦の治世の再来かと言われた理想の政治を行ったので、日本国中は安定し、民衆はその思いやりのある政治に、心も安らかに暮らしていました。

今や廃れてしまっていた物事を再興し、何らかの善行があれば褒賞などを行ったので、仏寺神社や禅宗律宗などは大いに繁栄し、この素晴らしい時期において、顕教、密教、儒教、道教などの秀才らは全員、その望みを遂げることが出来ました。

この後醍醐天皇は本当に天に捧げるべき君主、または地上に祭りおくべき名君だと、皆がその品性、人格を褒め称え、自分らの生きている時代の変化を自慢しない人はいませんでした。


○関所停止事
夫四境七道の関所は、国の大禁を知しめ、時の非常を誡んが為也。然に今壟断の利に依て、商売往来の弊、年貢運送の煩ありとて、大津・葛葉の外は、悉く所々の新関を止らる。又元亨元年の夏、大旱地を枯て、田服の外百里の間、空く赤土のみ有て、青苗無し。餓■野に満て、飢人地に倒る。此年銭三百を以て、粟一斗を買。君遥に天下の飢饉を聞召て、朕不徳あらば、天予一人を罪すべし。黎民何の咎有てか、此災に逢ると、自帝徳の天に背ける事を歎き思召て、朝餉の供御を止られて、飢人窮民の施行に引れけるこそ難有けれ。是も猶万民の飢を助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰て、当時富祐の輩が、利倍の為に畜積る米穀を点検して、二条町に仮屋を建られ、検使自断て、直を定て売せらる。されば商買共に利を得て、人皆九年の畜有が如し。訴訟の人出来の時、若下情上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成て、直に訴を聞召明め、理非を決断せられしかば、虞■の訴忽に停て、刑鞭も朽はて、諌鼓も撃人無りけり。誠に理世安民の政、若機巧に付て是を見ば、命世亜聖の才とも称じつべし。惟恨らくは斉桓覇を行、楚人弓を遺しに、叡慮少き似たる事を。是則所以草創雖合一天守文不越三載也。


☆ 関所を開放したこと

四ヶ所の国境(大枝:丹波国との国境・山崎:摂津国との国境・逢坂:近江国との国境・和邇:北陸道経由での近江国との国境)、また七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)に設置された関所は、国としての重要な禁止事項を民衆に知らせたり、

非常事態が発生した場合など、注意を喚起するために設置しているものです。ところが最近は利益や権益の独占を図るために利用され、商用目的の通行にとっては不便であり、また年貢などの搬送にも弊害があります。

そこで大津(逢坂関)、葛葉(山崎関)以外、新しく設置した全ての関が解放されました。また元亨元年(1321年)の夏、大旱魃が発生し、都の周辺、百里に及ぶ土地は、空しく赤土が見えるばかりで、青く茂った稲などありません。

飢えた人民は野にあふれ、餓死者が続出しました。この年の相場は銭三百に対して粟一斗が買えるだけでした。時の後醍醐天皇は、世間の民衆が飢饉に苦しんでいる実情をお聞きになり、もしその原因が自分の不徳にあるのなら、

天はわが身一人を罰すれば良いのに、何の罪もない庶民を、何故このような苦しみにあわせるのだと、後醍醐天皇は自分の帝としての徳が、天に受け入れられていないのではと嘆かれ、朝食を断じて、それを飢えた人民や、苦しんでいる民衆の救済に充てようとされたこと、

何ともあり難いことでした。しかし、これくらいのことで、窮民全てを救済することなど出来ないので、検非違使の長官に命じて、当時一部の裕福な人間が、利益を得ようと蓄えていた米穀を調査し、二条町に仮の建物を造り、

検非違使の判断でこれらの米穀に値段を付けて販売しました。こうすることによって、販売する方もまた購入する側、双方に都合がよく、民衆ら皆、九年間のたくわえが残っているような状況になりました。また何か訴えが起こったとき、

下々の事情が的確に役人に伝わらないかも知れないと、訴訟の受付所へ出向かれ、直接訴えをお聞きになり、事の善悪を判断されたので、古代中国で起こったような、虞ぜい(草かんむりに、内のような字)の訴え(虞国とぜい国の田地争いの故事)は直ちに終息し、

刑罰のための鞭も腐ってしまい、お上を諌めるため、合図の鼓を打つ人もいなくなりました。確かに後醍醐天皇の行った治世は、民衆の生活と平和を守ったのです。もしこの時の治世を、あらゆる方面から検討してみれば、彼はその時代において、

第一等の賢人の才能を持った人とも言えるでしょう。とは言っても、惜しいことに済国の桓公が強大な軍事力を持って、周辺の国々を攻めたり、また楚国の王が弓を失い、楚国の人がこれを拾うという例えのように、天皇の考えは武力を重視したり、

思考回路に浅はかな部分がありました。そのため、国を治めてみたものの、その政権は三年を超えて維持することが出来ませんでした。


○立后事付三位殿御局事
文保二年八月三日、後西園寺大政大臣実兼公の御女、后妃の位に備て、弘徽殿に入せ給ふ。此家に女御を立られたる事已に五代、是も承久以後、相摸守代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌恰天下の耳目を驚せり。君も関東の聞へ可然と思食て、取分立后の御沙汰も有けるにや。御齢已に二八にして、金鶏障の下に傅れて、玉楼殿の内に入給へば、夭桃の春を傷る粧ひ、垂柳の風を含る御形、毛■・西施も面を恥、絳樹・青琴も鏡を掩ふ程なれば、君の御覚も定て類あらじと覚へしに、君恩葉よりも薄かりしかば、一生空く玉顔に近かせ給はず。深宮の中に向て、春の日の暮難き事を歎き、秋の夜の長恨に沈ませ給ふ。金屋に人無して、皎々たる残燈の壁に背ける影、薫篭に香消て、蕭々たる暗雨の窓を打声、物毎に皆御泪を添る媒と成れり。「人生勿作婦人身、百年苦楽因他人。」と、白楽天が書たりしも、理也と覚たり。其比安野中将公廉の女に、三位殿の局と申ける女房、中宮の御方に候れけるを、君一度御覧ぜられて、他に異なる御覚あり。三千の寵愛一身に在しかば、六宮の粉黛は、顔色無が如也。都て三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御・曁後宮の美人・楽府の妓女と云へども、天子顧眄の御心を付られず。只殊艶尤態の独能是を致のみに非ず、蓋し善巧便佞叡旨に先て、奇を争しかば、花の下の春の遊、月の前の秋の宴、駕すれば輦を共にし、幸すれば席を専にし給ふ。是より君王朝政をし給はず。忽に准后の宣旨を下されしかば、人皆皇后元妃の思をなせり。驚見る、光彩の始て門戸に生ることを。此時天の人、男を生む事を軽じて、女を生む事を重ぜり。されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに云てげれば、上卿も忠なきに賞を与、奉行も理有を非とせり。関雎は楽而不淫、哀而不傷。詩人採て后妃の徳とす。奈何かせん、傾城傾国の乱今に有ぬと覚て、浅増かりし事共也。


☆ 三位西園寺実兼殿の娘が后に立てられたこと

文保二年(1318年)八月三日、後の西園寺太政大臣実兼公の御息女、禧子が、後醍醐天皇の后になられることとなり、その準備として弘徽殿(最も格の高い殿舎で、皇后、中宮、女御などが居住した)に入られました。西園寺家から女御(皇后の候補者)が推薦されるのも、

すでに五代となり、それも承久の乱(1221年)以後は鎌倉幕府の執権、相模守北条家が代々西園寺家を敬い崇めてきたので、西園寺家の繁栄は天下の人々を驚かせてきました。後醍醐天皇も関東すなわち鎌倉の機嫌も取らなければと考え、

今回、正式に皇后を決めようとされたのでしょう。この女性はすでに十六歳になっておられましたが、金鶏(天上に住むという想像上の鶏)を描いた障子に守られて、玉で飾った御殿の中にお入りになれば、美しく咲き誇る桃の花を思わせる容姿、

しだれ柳が風を含んでたわむかのような肢体など、それはかの絶世の美女と言われた西施さえ恥ずかしがり、美女と言われた絳樹や青琴も、彼女の美しさに鏡を覆うと思われる程でした。そこで彼女はきっと後醍醐天皇に気に入られると、思われていましたが、

意外にも君の寵愛は木の葉のように薄いもので、終生、後醍醐天皇と睦み合うこともありませんでした。宮中の奥深いところで、春の日がなかなか暮れないと嘆き、また秋ともなれば、夜の長いことが恨めしく思われ、悲しみに沈む毎日でした。

きらびやかな御殿に我が思う人は居ず、消え残った光りが照らす壁に背を向ける人影は、君のために着物に香をたきしめることも無く、闇夜にもの寂しく降る雨が窓を打つ音や、何事にもお側に仕える人達の涙を誘う人となってしまわれました。

白楽天が「人生勿作婦人身 百年苦楽因他人」(人生生まれて婦人の身となってはいけない、百年の苦楽が他人まかせになるから)と読んだのも納得がいくようでした。その頃、安野中将公廉の息女で三位殿の局(廉子)と呼ばれる女房が中宮、禧子のお付として仕えていましたが、

後醍醐天皇が彼女をご覧になられたとたん、いっぺんに舞い上がられてしまいました。宮中にいる多数の女性の中で、ただ一人君の寵愛を独占し、後宮にいる化粧を施した美女たちの顔色も、色あせて見えるほどでした。

都にて三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一女御、その他後宮に控える美女たち、あるいは宮中で音楽担当の部署にいる女性と言えども、君が心を動かすことはありませんでした。しかし、それは何も彼女が美しい容姿をしているからだけではなく、

それは言葉巧みに天皇のお考えを察して物事を行うので、春には花の下での遊興に、秋には月のもとでの酒宴を楽しみ、また天皇がお車に乗れば一緒に乗り、天皇が外出されればその留守を独占しました。このようなことが続き、

とうとう後醍醐天皇は政治を行うこともなくなりました。その上彼女を皇后に準ずる立場にすると、宣旨まで出されましたから、周りの人々は天子の皇后になれば、その結果一族の輝かしい栄光が訪れることを、驚きの目でみていました。

この時代、世間の人々は男児を出産するよりも、女児の誕生を喜ぶようになりました。そのため御前での会議にしても、色々な訴訟事にしても、准后(廉子)の思し召しであるとさえ言うと、高級官吏も特に功績など無くても、褒賞を与えたり、

裁判においても有利な事が覆されたりしました。夫婦仲の良いミサゴは楽しい時も落ち着き、悲しい時にあっても心を痛めることがないと、昔の詩人が採りあげて、皇后の徳はこうあるべきだと歌いました。ところがどうでしょう。

城郭を傾け、また国を傾けることになる乱が、今まさに起ころうとしている心地がして、嘆かわしいことこの上ありません。


○儲王御事
螽斯の化行れて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚多かりければ、宮々次第に御誕生有て、十六人までぞ御座しける。中にも第一宮尊良親王は、御子左大納言為世卿女、贈従三位為子の御腹にて御坐しを、吉田内大臣定房公養君にし奉しかば、志学の歳の始より、六義の道に長じさせ給へり。されば富緒河の清き流を汲、浅香山の故き跡を蹈で、嘯風弄月に御心を傷め給ふ。第二宮も同御腹にてぞ御坐しける。総角の御時より妙法院の門跡に御入室有て、釈氏の教を受させ給ふ。是も瑜伽三密の間には、歌道数奇の御翫有しかば、高祖大師の旧業にも不恥、慈鎮和尚の風雅にも越たり。第三宮は民部卿三位殿の御腹也。御幼稚の時より、利根聡明に御坐せしかば、君御位をば此宮に社と思食したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代々持せ給べしと、後嵯峨院の御時より被定しかば、今度の春宮をば持明院殿御方に立進せらる。天下の事小大となく、関東の計として、叡慮にも任られざりしかば、御元服の義を改られ、梨本の門跡に御入室有て、承鎮親王の御門弟と成せ給ひて、一を聞て十を悟る御器量、世に又類も無りしかば、一実円頓の花匂を、荊渓の風に薫じ、三諦即是の月の光を、玉泉の流に浸せり。されば消なんとする法燈を挑げ、絶なんとする恵命を継んこと、只此門主の御時なるべしと、一山掌を合せて悦、九院首を傾て仰奉る。第四の宮も同御腹にてぞをはしける。是は聖護院二品親王の御附弟にてをはせしかば、法水を三井の流に汲、記■を慈尊の暁に期し給ふ。此外儲君儲王の選、竹苑椒庭の備、誠に王業再興の運、福祚長久基、時を得たりとぞ見へたりける。


☆ 皇太子のこと

あたかもイナゴが孵化するかように、皇后である正妻以外に、後醍醐天皇の寵愛を受けた事を誇りに思っている官女らが、余りにも多いので、次々と宮様がお誕生になり、今や十六人を数えることになりました。

その中でも、第一宮、尊良親王は母親が左大納言二条為世卿の娘で、死後贈られた従三位為子ですが、吉田内大臣定房公が養子にし、十五歳の初め頃より和歌の道にその才能があらわれてきました。

だから富雄川(生駒山地に源を発し、大和川に合流する川。歌枕)の清らかな流れに心を動かし、浅香山に古くからある事跡を求めて風に吹かれたり、月を愛でたりして、自然の風景、現象に感激されました。また第二の宮も同じ母親から生まれました。

総角(あげまき::少年の髪型の一つ)を結っている少年の頃より、妙法院の門跡寺院に入り、釈迦の教えを学ばれました。この方も瑜伽三密(密教の修行)の合間には、和歌の道に風流、風雅を求め楽しまれましたから、伝教大師(最澄)の業績に劣ることもなく、

慈鎮和尚が持っている風雅、風流にも、勝るとも劣るとは思えませんでした。第三の宮は民部卿三位殿(北畠親子?)が母親です。幼少の頃より、頭が良くとても利発な子供でしたから、後醍醐天皇もこの子に位を譲ろうと思われていました。

しかし天下の統治については、大覚寺統の家系と持明院統の家系が交互に天子の位に就くことが、後嵯峨上皇の御時より決められていましたので、今回の皇太子には持明院統の家系から選ばれました。国家の行政一般に関しては、

大事小事に関係なく関東の意向が大きく、天皇のお考えはあまり取り上げられることも無いので、この宮の元服の儀式は変更になり、梨本の門跡寺院(大原の三千院の前身)にお入りになられ、承鎮法親王の弟子となられました。

彼は元々、一を聞いて十を知ると言うほどの器量をお持ちの方で、世間に類を見ないほどであれば、ただ一つの真理を見極めることも、悟りを開くことにも、今や比叡の谷々にその成果を表わし、天台宗で考えられている空・仮・中の三つの真理も、

結局は一体のものであることを、湧き出る泉の如くに見極められたのでした。そういう訳で延暦寺において、今や消えかかっている仏教の光を再び灯し、途絶えかかっている道理を正しく理解すると言う考えも、再びよみがえらせることも、

この門跡住職のもとでこそ可能ではないかと、全山の人々が手を合わせて喜ばれ、比叡山にある九つの主要な堂塔も皆、心から崇められたのです。そして第四の宮も第三の宮と母親は同じでした。このお方(静尊法親王?)は聖護院の二品親王の弟子となられ、

煩悩から解脱するために三井寺の教えに従い、弥勒菩薩の出現に合わせて、わが身も解脱を遂げようと考えておられました。これらの宮様以外に皇太子を選ぶことも可能で、天皇、上皇や皇后などを含めてその備えは万全であり、

今や政権を武家より奪って王政を再興し、天子の親政も永劫に可能ではないかと思われ、今こそ実行に移すべきではないかと考えられました。


○中宮御産御祈之事付俊基偽篭居事
元亨二年の春の比より、中宮懐姙の御祈とて、諸寺・諸山の貴僧・高僧に仰て様々の大法・秘法を行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野文観僧正二人は、別勅を承て、金闕に壇を構、玉体に近き奉て、肝胆を砕てぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法・一宿五反孔雀経・七仏薬師熾盛光・烏蒭沙摩、変成男子の法・五大虚空蔵・六観音・六字訶臨、訶利帝母・八字文殊、普賢延命、金剛童子の法、護摩煙は内苑に満、振鈴の声は掖殿に響て、何なる悪魔怨霊なりとも、障碍を難成とぞ見へたりける。加様に功を積、日を重て、御祈の精誠を尽されけれども、三年まで曾て御産の御事は無りけり。後に子細を尋れば、関東調伏の為に、事を中宮の御産に寄て、加様に秘法を修せられけると也。是程の重事を思食立事なれば、諸臣の異見をも窺ひ度思召けれども、事多聞に及ばゝ、武家に漏れ聞る事や有んと、憚り思召れける間、深慮智化の老臣、近侍の人々にも仰合らるゝ事もなし。只日野中納言資朝・蔵人右少弁俊基・四条中納言隆資・尹大納言師賢・平宰相成輔計に、潛に仰合られて、さりぬべき兵を召けるに、錦織の判官代、足助次郎重成、南都北嶺の衆徒、少々勅定に応じてげり。彼俊基は累葉の儒業を継で、才学優長成しかば、顕職に召仕れて、官蘭台に至り、職々事を司れり。然る間出仕事繁して、籌策に隙無りければ、何にもして暫篭居して、謀叛の計畧を回さんと思ける処に、山門横川の衆徒、款状を捧て、禁庭に訴る事あり。俊基彼奏状を披て読申れけるが、読誤りたる体にて、楞厳院を慢厳院とぞ読たりける。座中の諸卿是を聞て目を合て、「相の字をば、篇に付ても作に付ても、もくとこそ読べかりける。」と、掌を拍てぞ笑はれける。俊基大に恥たる気色にて、面を赤て退出す。夫より恥辱に逢て、篭居すと披露して、半年計出仕を止、山臥の形に身を易て、大和・河内に行て、城郭に成ぬべき処々を見置、東国・西国に下て、国の風俗、人の分限をぞ窺見られける。


☆ 中宮ご出産の祈祷に関して、俊基の偽篭居のこと

元亨二年(1322年)の春頃より、中宮、禧子の御懐妊を願って祈祷が行われ、諸寺、諸山の貴僧や高僧に命じて、様々な大法、秘法と言われる修法が実施されました。その中でも、法勝寺の円観上人と小野文観僧正の二人は特別に天皇より命を受け、

皇居内に修法を行う壇を設け、中宮のそば近くで懸命に祈りを続けられました。それらの修法は、仏眼、金輪、五壇の法、一宿五反孔雀経、七仏薬師熾盛光、烏蒭沙摩、変性男子の法、五大虚空蔵、六観音、六字訶臨、訶利帝母、八字文殊、

普賢延命、金剛童子の法などであり、焚かれる護摩木の煙は室内に充満し、打ち振る金剛鈴の音は、周りの御殿に響き渡り、これではいかなる悪魔、怨霊と言えども、邪魔をすることなど出来ないと思われました。このように修法を続け、

日を重ねて祈祷に力を注いで来ましたが、三年が過ぎても懐妊の兆しは見られませんでした。後になって、事情を聞いてみると、あれは関東鎌倉政権を倒すのが目的であり、中宮の出産祈祷に名を借りて秘法、修法を行ったと言う事でした。

これほどの重大事を企画したからには、諸臣に意見を聞こうとしましたが、あまり多くの者に事情を知られては、かえって武家に気づかれる危険もあろうかと、ためらっていたので、物事を深く考え、また知恵も持ち合わせた老臣や、そば近く仕えている人達にも、

相談される事はありませんでした。ただ日野中納言資朝、蔵人右少弁日野俊基、四条中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔らだけにはひそかに相談され、それ相応の兵を集めようとしました。それに対し、錦織の判官代、

足助次郎重成それと南都(主に興福寺)、北嶺(延暦寺)の僧兵らの一部が朝廷の命に応じました。相談を受けた、蔵人右少弁俊基は、代々朝廷における儒学担当の家系を継ぎ、その学業も優秀であるから、官職もそれなりの地位を勤めて太政官まで上り、

職務に励んでいました。そのため仕事が忙しくて、とても相談を受けた策略を考える時間などありませんから、ここは何としてもしばらくは家にこもり、謀反の計画を立てようと思っていました。その頃、延暦寺横川の衆徒らが、

訴訟の趣旨を書いた書状を持って、皇居に訴え出ると言う事件がありました。俊基はその書状を開いて読みましたが、間違えて読んだ振りをして楞厳院(りょうごんいん)を慢厳院(まんごんいん)と読みました。その場に居た諸卿らはこれを聞き、

目を合わせ、「それだったら、相の字は偏に使っても、旁に使っても”もく”と読まなければ」と、手を叩いて笑われたのでした。俊基は大いに恥を掻いた様子で、顔を赤らめて部屋を出て行きました。それ以来、あのような恥辱に逢い、篭居したいと皆に申し出ると、

半年ばかり出勤せず、山伏の姿に身を変えて、大和、河内などに行き、城郭に適した場所を調査した上、その後東国、西国にまで足を伸ばし、それぞれの国の風俗、習慣と、支配する人や住む人の財力、知力などの程度を調べあげました。


○無礼講事付玄恵文談事
爰に美濃国住人、土岐伯耆十郎頼貞・多治見四郎次郎国長と云者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞へありければ、資朝卿様々の縁を尋て、眤び近かれ、朋友の交已に浅からざりけれども、是程の一大事を無左右知せん事、如何か有べからんと思はれければ、猶も能々其心を窺見ん為に、無礼講と云事をぞ始られける。其人数には、尹大納言師賢・四条中納言隆資・洞院左衛門督実世・蔵人右少弁俊基・伊達三位房游雅・聖護院庁の法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎次郎国長等也。其交会遊宴の体、見聞耳目を驚せり。献盃の次第、上下を云はず、男は烏帽子を脱で髻を放ち、法師は衣を不着して白衣になり、年十七八なる女の、盻形優に、膚殊に清らかなるをに十余人、褊の単へ計を着せて、酌を取せければ、雪の膚すき通て、大液の芙蓉新に水を出たるに異ならず。山海の珍物を尽し、旨酒泉の如くに湛て、遊戯舞歌ふ。其間には只東夷を可亡企の外は他事なし。其事と無く、常に会交せば、人の思咎むる事もや有んとて、事を文談に寄んが為に、其比才覚無双の聞へありける玄恵法印と云文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行せける。彼法印謀叛の企とは夢にも不知、会合の日毎に、其席に臨で玄を談じ理を折。彼文集の中に、「昌黎赴潮州」と云長篇有り。此処に至て、談義を聞人々、「是皆不吉の書なりけり。呉子・孫子・六韜・三略なんど社、可然当用の文なれ。」とて、昌黎文集の談義を止てげり。

☆ 無礼講の席に玄恵法印の講義を設けたこと

この頃美濃国の豪族で、土岐伯耆十郎頼貞、多治見四郎次郎国長と言う人がいました。二人とも清和源氏の子孫として、武勇に優れていると言われていました。倒幕の相談を受けた日野中納言資朝卿は色々な手がかりを求めて彼に親しく近づき、

その親交の度合いもすでに浅くはないのですが、これほどの重大事をそう簡単に話す事も出来ず、いかにすればと思案していました。そこで彼の間違いの無い本心を確実に知ろうと、無礼講というものを始められました。

その時のメンバーは尹大納言師賢、四条中納言隆資、洞院左衛門督実世、蔵人右少弁日野俊基、伊達三位房游雅、聖護院庁の法眼玄基、足助次郎重成そして多治見四郎次郎国長らです。その時の宴会の様子は、今だかつて経験のない驚くものでした。

最初の献盃も身分の上下など関係なく行い、男性は烏帽子を脱いで髻を解き、また法師は僧衣を着ずに白衣姿になりました。十七、八歳の女性で容姿が優れ、その上肌が特に白い人ばかり十余人を集め、彼女らに小さめの単だけを身に着けて、

勺をさせれば雪のような白い膚は、透き通るばかりになり、その美しい容貌は、まるで宮殿にある池に咲く蓮の花が現れたかと思うばかりでした。出される料理は山海の珍味が並び、美味なる酒は湧き出るかのように提供されて、遊び戯れ舞い歌いました。

そして、その宴会の間、ただ東国の征伐計画ばかり話し合いました。それとは別に、いつもこのように集まり遊んでいれば、他人に何をやっているのかと、怪しまれるかもしれないので、この会合は学問や道理について話し合う場と見せるため、

当時世間でその才覚が頭抜けていると言われていた、玄恵法印と言う僧侶を招き、昌黎文集の講義をしてもらいました。玄恵法印は、この会合が謀反を企てている人の集まりだとは夢にも思わず、講義の日には天地の森羅万象について話し、

宇宙の根本原理などを論じました。玄恵法院の文集の中に、「昌黎赴潮州」と言う長編があります。この箇所の講義になった時、聞いていた人達が、「これらは皆、縁起の悪い書物じゃないか。呉子、孫子、六韜、三略など古代中国の兵法書こそ、

我々の教科書に選ぶべきではないのか」と言い出し、昌黎文集の講義は中止になりました。


此韓昌黎と申は、晩唐の季に出て、文才優長の人なりけり。詩は杜子美・李太白に肩を双べ、文章は漢・魏・晋・宋の間に傑出せり。昌黎が猶子韓湘と云者あり。是は文字をも嗜ず、詩篇にも携らず、只道士の術を学で、無為を業とし、無事を事とす。或時昌黎韓湘に向て申けるは、「汝天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。是君子の恥処、小人の専とする処也。我常に汝が為に是を悲むこと切也。と教訓しければ、韓湘大にあざ笑て、「仁義は大道の廃たる処に出、学教は大偽の起時に盛也。吾無為の境に優遊して、是非の外に自得す。されば真宰の臂を掣て、壷中に天地を蔵し、造化の工を奪て、橘裡に山川を峙つ。却て悲らくは、公の只古人の糟粕を甘て、空く一生を区々の中に誤る事を。」と答ければ、昌黎重曰、「汝が所言我未信、今則造化の工を奪事を得てんや。」と問に、韓湘答事無して、前に置たる瑠璃の盆を打覆て、軈て又引仰向けたるを見れば、忽に碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎驚て是を見に、花中に金字に書る一聯の句有り。「雲横秦嶺家何在、雪擁藍関馬不前。云云。」昌黎不思儀の思を成して、是を読で一唱三嘆するに、句の優美遠長なる体製のみ有て、其趣向落着の所を難知。手に採て是を見んとすれば、忽然として消失ぬ。是よりしてこそ、韓湘仙術の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。其後昌黎仏法を破て、儒教を貴べき由、奏状を奉ける咎に依て、潮州へ流さる。日暮馬泥で前途程遠し。遥に故郷の方を顧ば、秦嶺に雲横て、来つらん方も不覚。悼で万仞の嶮に登らんとすれば、藍関に雪満て行べき末の路も無し。進退歩を失て、頭を回す処に、何より来れるともなく、韓湘悖然として傍にあり。昌黎悦で馬より下、韓湘が袖を引て、泪の中に申けるは、「先年碧玉の花の中に見へたりし一聯の句は、汝我に予左遷の愁を告知せるなり。今又汝爰に来れり。料り知ぬ、我遂に謫居に愁死して、帰事を得じと。再会期無して、遠別今にあり。豈悲に堪んや。」とて、前の一聯に句を続で、八句一首と成して、韓湘に与ふ。一封朝奏九重天。夕貶潮陽路八千。欲為聖明除弊事。豈将衰朽惜残年。雲横秦嶺家何在。雪擁藍関馬不前。知汝遠来須有意。好収吾骨瘴江辺。韓湘此詩を袖に入て、泣々東西に別にけり。誠哉、「痴人面前に不説夢」云事を。此談義を聞ける人々の忌思けるこそ愚なれ。

この韓昌黎と言う人は唐時代の終わり頃、世に出てこられ、文才、学問一般に大変優れた人でした。彼の作る詩は杜子美(杜甫)や李太白(李白)と同等以上だと言われ、書く文章は漢、魏、晋、宋などの国々を通しても抜きん出たものでした。

また昌黎の養子に韓湘と言う人物がいました。この人は好んで文章を書こうともせず、詩歌を詠むこともなく、ただ道教を学び、何もせずに自然のままにまかせ、平穏無事であることのみに徹していました。ある時、昌黎が韓湘に向かって、

「あなたはこの世に生を受けて、儒教の教える道徳などを守ろうともしないでいる。これは君子として恥ずかしいことであり、その生き方は小人が得意とするところである。私は常にあなたのそのような生き方をみて、あなたのためを思って悲しんでいます」と、教え諭しました。

それを聞くと韓湘は鼻で笑って、「儒教の根本理念である仁義というものは、人として行うべき正しい道を誰も守らなくなると必要になり、また学問が必要となるのは、世の中にひどい嘘や偽りが横行した時であります。私は自然体のままにのんびりと過ごし、

物事の善し悪しなど気にすることも無く、自然に悟りを開きました。だから私は仏法を護る諸仏、諸神の意に逆らって、例え壷の中にでも天地を閉じ込めたり、創造神に命じて橘の実の中に、山や川を造り出すことだって出来ます。かえって悲しむべきは、

ただあなたが昔の人達の学び取った残りを学ぶことに満足し、空しく一生を些細な事にこだわって過ごすと言う、過ちを犯すことではないでしょうか」と、答えました。昌黎はなおも、「あなたの言うことを私はとても信じることが出来ません。

だったらすぐここで、創造神に命じて今あなたの言ったことを行って御覧なさい」と質問すれば、韓湘は特に返事をすることもなく、前に置いてある瑠璃の盆を裏向けにし、しばらくしてまた表向きにしてみれば、たちまちに碧玉の牡丹一枝が、

美しい花を咲かせてそこにありました。昌黎は驚き、それをよく見れば、花の中に金色の字で書かれた、一聯の句がありました。それは、「雲は秦嶺(中国にある山脈名)に横たわり、家は何処にありや。雪は藍関(地名)を擁して、馬は前に進まず。云々」(王維)と、ありました。

昌黎は不思議に思いながら、これを読み、優れた出来に感激し、句の優雅にして永遠の姿のよさを感じたものの、その歌の持つ意味、趣旨がもう一つ理解出来ませんでした。そこで手にとってよくこれを見ようとしたところ、突然に消えて無くなってしまいました。

このことがあってから、韓湘が仙術の奥義を極めたと、天下の人々が知ったのでした。その後、昌黎は仏教の修行を捨てて、儒教を重視することが肝要であると、天子に申し上げた罪により、潮州に流されたのでした。旅の日は暮れ、馬は泥に足を取られて、

配流地の到着はまだまだ先の長いことです。はるか彼方、故郷の空を振り返って見ると、秦嶺に雲が横たわっていて、どこをどう歩いて来たのかも分かりません。悲しくなりながらも、険しく切り立った山に登ろうとしましたが、藍関には雪が積もって、

進むべき道も分かりません。とうとう進むことも引くことも出来なくなり、周りを見渡したところ、どこから来たのか韓湘が突然そこに現れたのでした。昌黎は喜んで馬から降り、韓湘の袖を取ると、涙ながらに、「以前、私が碧玉の花の中に見た一聯の句は、

私が左遷の憂き目に会うと、あなたが予言してくれたものでした。今また、あなたがここに来られたのは、私が流刑地から出ることも無く、失意の内に世を終え、故郷に再び帰ることは無いだろうと、予言するためだと思います。もはや再び会うことも出来ず、

このまま永遠の別れとなるのでしょう。何と悲しいことであろうか」と話し、以前の一聯の句に続けて、八句から成る一首の詩にして韓湘に与えました。その詩とは、「一封朝奏九重天 夕貶潮陽路八千 欲為聖明除弊事 豈将衰朽惜残年 雲横秦嶺家何在 

雪擁藍関馬不前 知汝遠来須有意 好収吾骨瘴江辺」と、言うものです。韓湘はこの詩を袖に入れると、泣く泣く東西に別れたのでした。「愚かな人の前で夢の話をするべからず」と言うことは、確かに言えるのかも知れない。

このような話を真剣に聞いている人々も、また愚かな人であろう。

(七言律詩の大意::ある朝、天子に私見を文章にして上奏したところ、夕べには八千里離れた地に流罪となった。徳のある賢帝のためを思って、悪弊を除こうとしたことであり、この衰え弱った身体で、どうして余生を惜しむことがあるのか。雲は秦嶺山脈に横たわり、我が家はどこかも分からず、

藍関の地は雪に覆われ、馬は前に進むことも出来ない。私はあなたが遠くよりやってきてくれた理由は分かっています。良かったら私の骨を、衛生状態の悪い水辺で拾ってください。)


○頼員回忠事
謀反人の与党、土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斉藤太郎左衛門尉利行が女と嫁して、最愛したりけるが、世中已に乱て、合戦出来りなば、千に一も討死せずと云事有まじと思ける間、兼て余波や惜かりけん、或夜の寝覚の物語に、「一樹の陰に宿り、同流を汲も、皆是多生の縁不浅、況や相馴奉て已三年に余れり。等閑ならぬ志の程をば、気色に付け、折に触ても思知り給ふらん。去ても定なきは人間の習、相逢中の契なれば、今若我身はかなく成ぬと聞給ふ事有ば、無らん跡までも貞女の心を失はで、我後世を問給へ。人間に帰らば、再び夫婦の契を結び、浄土に生れば、同蓮の台に半座を分て待べし。」と、其事と無くかきくどき、泪を流てぞ申ける。女つく/゛\と聞て、「怪や何事の侍ぞや。明日までの契の程も知らぬ世に、後世までの荒増は、忘んとての情にてこそ侍らめ。さらでは、かゝるべしとも覚ず。」と、泣恨て問ければ、男は心浅して、「さればよ、我不慮の勅命を蒙て、君に憑れ奉る間、辞するに道無して、御謀反に与しぬる間、千に一も命の生んずる事難し。無端存る程に、近づく別の悲さに、兼加様に申也。此事穴賢人に知させ給ふな。」と、能々口をぞ堅めける。

☆ 頼員の裏切りのこと

謀反を計画中の一員である土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行である斉藤太郎左衛門尉利行の娘と結婚し、愛し合っていましたが、すでに世の中は乱れ切っており、もし合戦が起これば、千に一つも討ち死にせずに済むことなど、無いだろうと思っていました。

それを考えると名残惜しくて、ある夜、妻との寝物語に、「私たち二人は一樹の陰に住まいし、同じ川の流れる水を汲んできた。これらのこと全ては、前世からの縁が深かったからと思う。その上、二人が結ばれてすでに三年を超えている。

私が決していい加減な気持ちで、過ごして来た訳でないことは、普段の態度や何かに付けて分かっているとは思います。しかし、先のことなど分からないのが、人間の常ですが、二人が愛し合った仲であれば、もし私が討ち死にを遂げたとか聞くようなことがあれば、

あなたは私の亡き後も貞節を守って、私の後生を弔ってください。もし後世で人間に生まれ変わるようなことがあれば、その時は再びあなたと夫婦になりたいと思いますし、もし浄土に生まれたなら、同じ蓮の花の台座を、二人で分け合って座ろうと思います」とそれとなく、

思っていることを涙ながらに話しました。妻は注意深くその話を聞いていましたが、「おかしいことをおっしゃいますが、何かあるのですか。二人の運命など、明日のことも分からないこの世の中にあって、後世のことまであれこれおっしゃるのは、

私のことなど忘れたくなったからではないですか。でなければ、こんなことおっしゃるはずが無いと思います」と、恨み泣きながら問い詰めたので、頼員は軽はずみなことに、「そのことだが、私は思いがけなく朝廷から命令を受け、

また帝からも頼りにされて断ることも出来ずに、帝の御謀反に協力することになった以上、千に一つも命を保つことは難しいだろう。思いがけなく降りかかったことではあるが、あなたとの別れも近いかと思うと悲しくて、今、前もってこのような話をしたのだ。

このこと決して他人に覚られることの無いように」と秘密をばらし、口止めを堅く言いつけました。


彼女性心の賢き者也ければ、夙にをきて、つく/゛\と此事を思ふに、君の御謀叛事ならずば、憑たる男忽に誅せらるべし。若又武家亡なば、我親類誰かは一人も残るべき。さらば是を父利行に語て、左近蔵人を回忠の者に成し、是をも助け、親類をも扶けばやと思て、急ぎ父が許に行、忍やかに此事を有の侭にぞ語りける。斉藤大に驚き、軈て左近蔵人を呼寄せ、「卦る不思議を承る、誠にて候やらん。今の世に加様の事、思企給はんは、偏に石を抱て淵に入る者にて候べし。若他人の口より漏なば、我等に至まで皆誅せらるべきにて候へば、利行急御辺の告知せたる由を、六波羅殿に申て、共に其咎を遁んと思ふは、何か計給ふぞ。」と、問ければ、是程の一大事を、女性に知らする程の心にて、なじかは仰天せざるべき、「此事は同名頼貞・多治見四郎二郎が勧に依て、同意仕て候。只兎も角も、身の咎を助る様に御計候へ。」とぞ申ける。夜未明に、斉藤急ぎ六波羅へ参て、事の子細を委く告げ申ければ、則時をかへず鎌倉へ早馬を立て、京中・洛外の武士どもを六波羅へ召集て、先着到をぞ付られける。其比摂津国葛葉と云処に、地下人代官を背て合戦に及事あり。彼本所の雑掌を、六波羅の沙汰として、庄家にしすへん為に、四十八箇所の篝、並在京人を催さるゝ由を被披露。是は謀叛の輩を落さじが為の謀也。土岐も多治見も、吾身の上とは思も寄らず、明日は葛葉へ向ふべき用意して、皆己が宿所にぞ居たりける。

妻は賢い女性であるので、翌朝早く起きて、じっくりと昨夜の話について考えてみると、もし帝の御謀反の計画が失敗すれば、帝が頼りにした夫はすぐに処刑されるだろう。また反対に幕府側が負けるようなことがあっても、

武家である私の親族は誰か一人でも生き残れるのだろうか。それだったらこのことを父である、斉藤太郎左衛門尉利行に話して、左近蔵人頼員をこの計画から外すことが出来れば、夫も助けられ、また親族一同も助けることが出来ると思い、

急いで父のもとに行き、ありのままの事情をひそかに話したのでした。話を聞いた斉藤太郎は大変驚き、すぐに左近蔵人尉頼員を呼び寄せ、「変な話を聞いたのだが、本当のことなのか。今の世の中においてそのようなことを計画するのは、

身に石を抱いて深い淵に飛び込むようなものだ。もし他人からこのことが漏れたなら、我らまで全員処刑されることになるだろう。そこで、この斉藤利行が、貴殿の知らせてくれた事情を六波羅殿に申し出て、二人共この罪から逃れようと思うがどうだろうか」と、訊ねました。

頼員はこれほど重大なことを、簡単に女性に漏らすくらいの人間だから、特に驚くわけでもなく、「このことは一族である土岐伯耆十郎頼貞や多治見四郎次郎国長の勧めによって、計画に加わったわけです。ここは何とか、

わが身が罪から逃れられるよう取り計らってください」と、返事しました。まだ夜も未明であるが、斉藤利行は六波羅に急行し、事の仔細を詳しく報告したところ、即刻鎌倉の北条家に向けて早馬を立てるとともに、京都内や京都周辺の武士たちを六波羅に招集し、

出陣命令を受けて集まった諸将の名を、名簿に書き付けました。その頃、摂津国(河内国?)の葛葉と言う場所で、地下人が土地の代官に反抗して合戦になりました。そこで、その荘園で年貢の徴収などの仕事をしていた役人を、

六波羅の指示にて荘園の事務所に連行するため、京都内の四十八箇所に配置された警備人、並びに京に滞在している武士らを招集すると、触れを出しました。この措置は謀反を計画している賊徒を、拘束するのが目的の謀略でした。

しかし土岐頼貞も多治見国長も、自分らを捕らえるためだとは思わずに、明日、葛葉に行く用意をして、それぞれ各自の自邸で過ごしていました。


去程に、明れば元徳元年九月十九日の卯刻に、軍勢雲霞の如に六波羅へ馳参る。小串三郎左衛門尉範行・山本九郎時綱、御紋の旗を給て、打手の大将を承て、六条河原へ打出、三千余騎を二手に分て、多治見が宿所錦小路高倉、土岐十郎が宿所、三条堀河へ寄けるが、時綱かくては如何様大事の敵を打漏ぬと思けるにや、大勢をば態と三条河原に留て、時綱只一騎、中間二人に長刀持せて、忍やかに土岐が宿所へ馳て行き、門前に馬をば乗捨て、小門より内へつと入て、中門の方を見れば、宿直しける者よと覚て、物具・太刀・々、枕に取散し、高鼾かきて寝入たり。廐の後を回て、何にか匿地の有と見れば、後は皆築地にて、門より外は路も無し。さては心安しと思て、客殿の奥なる二間を颯と引あけたれば、土岐十郎只今起あがりたりと覚て、鬢髪を撫揚て結けるが、山本九郎を屹と見て、「心得たり。」と云侭に、立たる大刀を取、傍なる障子を一間蹈破り、六間の客殿へ跳出、天井に大刀を打付じと、払切にぞ切たりける。時綱は態敵を広庭へ帯出し、透間も有らば生虜んと志て、打払ては退、打流しては飛のき、人交もせず戦て、後を屹と見たれば、後陣の大勢二千余騎、二の関よりこみ入て、同音に時を作る。土岐十郎久く戦ては、中々生捕れんとや思けん、本の寝所へ走帰て、腹十文字にかき切て、北枕にこそ臥たりけれ。中間に寝たりける若党どもゝ、思々に討死して、遁るゝ者一人も無りけり。首を取て鋒に貫て、山本九郎は是より六波羅へ馳参る。

やがて夜も明け、元徳元年(1329年)九月十九日の卯刻(午前六時頃)に、召集を受けた軍勢が、まるで雲霞のように六波羅に駆けつけて来ました。小串三郎左衛門尉範行と山本九郎時綱は、北条家の紋が入った旗を賜って、討手軍の大将に任命されると、

六条河原まで進出し軍勢三千余騎を二手に分け、多治見国長の住居がある錦小路高倉と、土岐十郎頼貞の屋敷がある三条堀川に攻め寄せました。山本九郎時綱はこんなに大勢で押し寄せると敵に気づかれて、肝心の土岐十郎頼貞を討ち漏らすのではないかと考え、

多数の軍勢をわざと三条河原に留め置き、時綱ただ一騎が雑務担当の小者二人に長刀を持たせて、目立たないように土岐の屋敷に駆けつけました。そして屋敷に着くと門前に馬を乗り捨て、脇の小さい門から建物内部にすばやく入って、

途中にある中門の方を見ると、不寝番らしい者が甲冑や太刀、刀などを枕の周りに取り散らかして、高いびきで寝込んでいました。厩の後ろを通り抜け、どこかに隠れ場所や抜け道などあるのかと注意して見ましたが、回りは全て築地塀で、

門の他には外部への連絡道はありません。よしこれだと大丈夫と思い、客殿の奥にある二間の戸をサッと引き開けると、土岐十郎頼貞はたった今起きたかのように、髪の毛を撫で上げて結っていました。

そして山本九郎をキッと睨みつけると、「よし、そう言うことだったのか」と言うや、立てかけてあった太刀を取り、傍の障子を蹴破って、六間四方の客殿に躍り出ました。そして天井に太刀が当たらないように、横方向に太刀を払って斬り付けました。

時綱はわざと敵を広庭に誘い出し、隙があれば生け捕ろうと考え、斬りつけては下がったり、適当に斬りこんでは飛びのいたりしながら、他の人を寄せ付けずに戦っていましたが、とっさに後ろを見たところ、後詰の軍勢二千余騎が中門からなだれ込み、

声を合わせて閧の声を上げました。土岐十郎は長く戦っていては、しまいに生け捕られるかも知れぬと思い、寝ていた客殿に走り帰り、腹を十文字に掻き切ると、北を枕にして伏せました。中門に寝ていた若い家来たちも、それぞれ戦った結果討ち死にを遂げ、

逃げ去った者は誰一人もいませんでした。山本九郎時綱は土岐十郎の首を掻き切ると太刀の先に突き刺し、六波羅に向かって駆けて行きました。


多治見が宿所へは、小串三郎左衛門範行を先として、三千余騎にて推寄たり。多治見は終夜の酒に飲酔て、前後も不知臥たりけるが、時の声に驚て、是は何事ぞと周障騒ぐ。傍に臥たる遊君、物馴たる女也ければ、枕なる鎧取て打着せ、上帯強く縮させて、猶寝入たる者どもをぞ起しける。小笠原孫六、傾城に驚されて、太刀計を取て、中門に走出で、目を磨々四方を岐と見ければ、車の輪の旗一流、築地の上より見へたり。孫六内へ入て、「六波羅より打手の向て候ける。此間の御謀反早顕たりと覚候。早面々太刀の目貫の堪ゑん程は切合て、腹を切れ。」と呼て、腹巻取て肩になげかけ、廾四差たる胡■と、繁藤の弓とを提て、門の上なる櫓へ走上り、中差取て打番ひ、狭間の板八文字に排て、「あらこと/゛\しの大勢や。我等が手柄のほどこそ顕たれ。抑討手の大将は誰と申人の向れて候やらん。近付て箭一請て御覧候へ。」と云侭に、十二束三伏、忘るゝ計引しぼりて、切て放つ。真前に進だる狩野下野前司が若党に、衣摺助房が胄のまつかう、鉢付の板まで、矢先白く射通して、馬より倒に射落す。是を始として、鎧の袖・草摺・胄鉢とも不言、指詰て思様に射けるに、面に立たる兵廾四人、矢の下に射て落す。今一筋胡■に残たる矢を抜て、胡■をば櫓の下へからりと投落し、「此矢一をば冥途の旅の用心に持べし。」と云て腰にさし、「日本一の剛者、謀叛に与し自害する有様見置て人に語れ。」と高声に呼て、太刀の鋒を口に呀て、櫓より倒に飛落て、貫てこそ死にけれ。此間に多治見を始として、一族若党廾余人物具ひし/\と堅め、大庭に跳出で、門の関の木差て待懸たり。

多治見国長の屋敷には小串三郎左衛門範行を先陣として、三千余騎が押し寄せました。多治見国長は昨夜から飲み続けた酒に酔いつぶれ、前後不覚になって寝込んでいましたが、突然の閧の声に驚き、一体何事が起こったのかと慌てうろたえ騒ぎました。

彼の傍に寝ていた遊女は慣れたもので、枕のあたりにあった鎧を取り寄せると彼に着せかけ、鎧の帯をきつく縛り、その後未だに寝込んでいる者どもを起こしました。小笠原孫六は遊女に起こされると、太刀を持ち中門の向かって走り出て、

油断無く目を四方に回すと、車の輪を紋所にした旗が一旒、築地の上に見えました。小笠原孫六は屋内に入ると、「六波羅より討手が攻めてきたようだ。計画中の御謀反が、はや発覚したものと思われる。各々方、太刀の折れるまで戦い、

その後は腹を切ってしまおう」と叫び、腹巻を身に着け、二十四本の矢を挿したやなぐい(矢の携帯道具。箙)を腰につけ、滋籐の弓を持ち、門の上にある櫓に走り上り、征矢(そや::戦闘用の矢)を引き抜くと弓につがえ、狭間の板を取り払って見れば、

「ウワー、すごい軍勢ではないか。我らの手並みに恐れて、これほどの討手を差し向けたのか。大体討手の総大将は誰なのだ。近くに寄って来て矢の一本でも受けてみよ」と言いながら、十二束三伏(こぶし十二と指三本の幅を加えた長さ)の矢をきりりと目一杯に引き絞り放ちました。

矢は目の前まで進んできていた、狩野下野前司に従う若武者の衣摺助房の兜のまん前、鉢付の板まで矢が突き抜け、馬よりまっ逆さまに射落としたのでした。この戦いを初めとして、敵の鎧の袖、草摺、兜の鉢部分などを問わず、休み無く射続け、

向かってきた兵士ら二十四人を、矢で射落としたのでした。やなぐいに残った最後の一本の矢を抜くと、やなぐいは櫓の下へからりと投げ落とし、「この矢一本だけは、冥土への旅の用心に持って行こう」と、言って腰に挿し、「日本一の勇猛なる武士が、

謀反に同調して敗れ、自害する様子を良く見ておき、皆に語れ」と、大声で叫ぶや、太刀の先を口にくわえて、櫓からまっ逆さまに飛び落ちれば、刀は体を突き抜けて死んだのです。この間、多治見国長を初めとして、一族や若武者ら二十余人は甲冑にて武装し、

大庭に飛び出ると、門にかんぬきをして、討手を待ち構えました。


寄手雲霞の如しと云へども、思切たる者どもが、死狂をせんと引篭たるがこはさに、内へ切て入んとする者も無りける処に、伊藤彦次郎父子兄弟四人、門の扉の少し破たる処より、這て内へぞ入たりける。志の程は武けれども、待請たる敵の中へ、這て入たる事なれば、敵に打違るまでも無て、皆門の脇にて討れにけり。寄手是を見て、弥近く者も無りける間、内より門の扉を推開て、「討手を承るほどの人達の、きたなうも見へられ候者哉。早是へ御入候へ。我等が頭共引出物に進せん。」と、恥しめてこそ立たりけれ。寄手共敵にあくまで欺れて、先陣五百余人馬を乗放して、歩立に成、喚て庭へこみ入。楯篭る所の兵ども、とても遁じと思切たる事なれば、何へか一足も引べき。二十余人の者ども、大勢の中へ乱入て、面もふらず切て廻る。先駈の寄手五百余人、散々に切立られて、門より外へ颯と引く。されども寄手は大勢なれば、先陣引けば二陣喚て懸入。々々ば追出、々々せば懸入り、辰刻の始より午刻の終まで、火出る程こそ戦けれ。加様に大手の軍強ければ、佐々木判官が手者千余人、後へ廻て錦小路より、在家を打破て乱入る。多治見今は是までとや思けん、中門に並居て、二十二人の者ども、互に差違々々、算を散せる如く臥たりける。追手の寄手共が、門を破りける其間に、搦手の勢共乱入り、首を取て六波羅へ馳帰る。二時計の合戦に、手負死人を数るに、二百七十三人也。

討手側は雲霞のような大軍であるとは言え、ここを最期と思い込んだ人間が、死に物狂いで立て篭もっていると思えばやはり恐ろしくて、中に斬り込んで行こうとする者も居なかったのです。しかし伊藤彦次郎父子兄弟ら四人が、

門の扉の少しばかり破れた所から中へ這入り込みました。その攻撃精神は勇猛なのですが、待ち受けている敵の中に這入って行ったので、敵と戦うまでも無く、全員が門のそばにて討ち取られてしまいました。寄手軍はこの様子を見てますます尻込みし、

誰も近づこうとしません。その時、中から門の扉を押し開き、「討手を命じられる位の人達であるくせ、何とも意気地なしに見えるじゃないか。早く中に攻め込んで来い。我等の首を引き出物として進呈しよう」と、辱めて引っ込みました。

寄手軍も敵にこれほど愚弄されてはたまらず、五百余人が馬を乗り捨て、徒歩立ちになって喚きながら庭になだれ込みました。立て篭もっている兵士らは、とても逃れることなど出来ないと覚悟を決めているから、誰一人として一歩も退こうとしません。

立て篭もっていた二十余人は、寄せ手の大軍の中に乱れ入り、脇目も振らずに斬り回りました。最初なだれ込んできた寄せ手も散々に斬りたてられ、門からサッと逃げ出しました。しかしながら、寄せ手は大勢であり、先陣が引くと、

第二陣が喚きながら攻め込み、攻め込んでは追い出され、追い出されては攻め込むと言う戦いが、辰の刻(午前八時頃)から始まって、午の刻(午後零時頃)に終るまで激しく戦いました。このように正面の敵がなかなか強いので、

佐々木判官は自軍の千余人を率いて後ろに回りこみ、錦小路から民家を打ち壊して乱入しました。多治見国長は、もはやこれまでと思って中門付近に居並び、二十二人の者どもがお互いに刺し違えて、算木(易や和算で使用する棒)をばら撒いたように、倒れ込みました。

大手から攻めていた兵士らが、門を破ろうとしている間に、裏手から軍勢が乱入し、首を取って六波羅に駆け帰りました。四時間ばかりの合戦でしたが、死者、負傷者の数は二百七十三人を数えました。


○資朝俊基関東下向事付御告文事
土岐・多治見討れて後、君の御謀叛次第に隠れ無りければ、東使長崎四郎左衛門泰光、南条次郎左衛門宗直二人上洛して、五月十日資朝・俊基両人を召取奉る。土岐が討れし時、生虜の者一人も無りしかば、白状はよも有らじ、さりとも我等が事は顕れじと、無墓憑に油断して、曾て其用意も無りければ、妻子東西に逃迷ひて、身を隠さんとするに処なく、財宝は大路に引散されて、馬蹄の塵と成にけり。彼資朝卿は日野の一門にて、職大理を経、官中納言に至りしかば、君の御覚へも他に異して、家の繁昌時を得たりき。俊基朝臣は身儒雅の下より出で、望勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み、長者も残盃の冷に随ふ。宜哉「不義而富且貴、於我如浮雲。」と云へる事。是孔子の善言、魯論に記する処なれば、なじかは違べき。夢の中に楽尽て、眼前の悲云に来れり。彼を見是を聞ける人毎に、盛者必衰の理を知らでも、袖をしぼりゑず。同二十七日、東使両人、資朝・俊基を具足し奉て、鎌倉へ下着す。此人々は殊更謀叛の張本なれば、軈て誅せられぬと覚しかども、倶に朝廷の近臣として、才覚優長の人たりしかば、世の譏り君の御憤を憚て、嗷問の沙汰にも不及、只尋常の放召人の如にて、侍所にぞ預置れける。

☆ 資朝、俊基が関東に護送されたことと、後醍醐天皇が誓紙を関東に渡したこと

土岐伯耆十郎頼貞と多治見四郎次郎国長が討ち取られてから、後醍醐天皇の御謀反のことが次第に知れ渡り、関東鎌倉幕府から六波羅探題への使者として、長崎四郎左衛門泰光と南条次郎左衛門宗直の二人が京に入り、

五月十日、蔵人日野中納言資朝と蔵人右少弁日野俊基の二人の身柄を拘束しました。土岐伯耆頼貞が討ち取られた時、生け捕りになった人間が誰一人としていなかったから、白状する者も居ないはずである。だから自分達のことが、

ばれることも無かろうと全く油断しきって、何の用意もしていなかったので、妻子はあちこちに逃げまどい、身を隠す場所も無く、家具や財産などは大路にまき散らかされて、馬の蹄に踏みつけられたり、蹴られたりしました。

その日野中納言資朝卿は日野一門であり、官職としては検非違使別当を担当し、官位としては中納言まで上り詰め、帝の信任の度合いも他の人とは異なり、その家は時流に乗って繁栄しました。また蔵人右少弁日野俊基朝臣は儒学を業とする家に生まれ、

君主などへの功績以上に官位官職を得ると、同僚もその権勢に媚びへつらい、身分の高い人や、富貴な人でも彼の意のままになったのでした。確かに世間では、「不義而富且貴、於我如浮雲」(不正に得た地位財産は、自分にとっては浮雲のようにはかないものである)と、言うではないでしょうか。

この言葉は孔子が言われ、魯論(魯国に伝わっていた論語)に記載されていた言葉であり、決して的はずれなことではありません。夢の中にいるような楽しみは尽きてしまい、現実の悲しみがここに来たのです。彼を見たり、

この現実を聞いた人達は皆、盛者必衰の理という言葉は知らなくても、袖を絞らずにはおられません。五月二十七日に、長崎四郎左衛門泰光と南条次郎左衛門宗直の二人は日野中納言資朝と蔵人右少弁日野俊基を引き連れて、鎌倉に到着しました。

この二人は特に謀反計画の張本人ですから、すぐにでも処刑されると思われましたが、両人とも朝廷の近臣であり、また学識、才覚に富んだ人ですので、下手に処刑などすれば世間から批判を浴びたり、帝の御怒りも恐れ、彼らに拷問を加えることも無く、

ただ普通の犯罪者として、侍所(鎌倉幕府において、御家人一般の管理をする役所)に身柄を預けられたのでした。


七月七日、今夜は牽牛・織女の二星、烏鵲橋を渡して、一年の懐抱を解夜なれば、宮人の風俗、竹竿に願糸を懸け、庭前に嘉菓を列て、乞巧奠を修る夜なれ共、世上騒しき時節なれば、詩歌を奉る騒人も無く、絃管を調る伶倫もなし。適上臥したる月卿雲客も、何と無く世中の乱、又誰身上にか来んずらんと、魂を消し肝を冷す時分なれば、皆眉を顰め面を低てぞ候ける。夜痛深て、「誰か候。」と召れければ、「吉田中納言冬房候。」とて御前に候す。主上席を近て仰有けるは、「資朝・俊基が囚れし後、東風猶未静、中夏常に危を蹈む。此上に又何なる沙汰をか致んずらんと、叡慮更に不穏。如何して先東夷を定べき謀有ん。」と、勅問有ければ、冬房謹で申けるは、「資朝・俊基が白状有りとも承候はねば、武臣此上の沙汰には及ばじと存候へども、近日東夷の行事、楚忽の義多候へば、御油断有まじきにて候。先告文一紙を下されて、相摸入道が忿を静め候ばや。」と申されければ、主上げにもとや思食れけん、「さらば軈て冬房書。」と仰有ければ、則御前にして草案をして、是を奏覧す。君且叡覧有て、御泪の告文にはら/\とかゝりけるを、御袖にて押拭はせ給へば、御前に候ける老臣、皆悲啼を含まぬは無りけり。頓て万里小路大納言宣房卿を勅使として、此告文を関東へ下さる。

七月七日、今夜は牽牛、織女の二つの星が、カササギの翼を並べた橋で天の川を渡り、一年間思い続けて来た気持ちから開放される夜です。また宮中の人達の風俗として、願いを込めて、五色の糸を竹竿の先に懸けて織女星に手向けたり、

庭に縁起の良い菓子などを並べ、手芸や裁縫などの上達を願う夜ですが、最近は世の中が何かと騒がしいので、詩歌を楽しむ風流な人もいなければ、管弦を演奏する楽人も居ません。たまたま今夜、宮中に宿直している公卿、殿上人も、

何となく世の中の騒動が、また誰かの身の上に振りかかるのではないかと思えば恐ろしくて、気持ちも消え入りそうになり、皆、眉をしかめてうつむいていたのです。夜遅くなって後醍醐天皇が、「誰かいないか」と、声を掛ければ、「吉田中納言冬房がここに居ります」と、

御前に控えました。天皇が近くに寄られ、「日野中納言資朝と蔵人右少弁日野俊基の二人が身柄を拘束されても、鎌倉の動きはまだまだ落ち着いてはいないようだ。都は常に危険な状況にある。この上まだ何かの動きがあるのではと、考えれば考えるほど気持ちが落ち着かない。

鎌倉の動きを落ち着かせるには、どうすれば良いか策はないだろうか」と、ご質問されました。対して吉田中納言冬房は、「資朝、俊基らが倒幕計画について、自白したとは聞いていないので、幕府側よりこれ以上の命令や申し入れは無いかと思われますが、

最近の鎌倉の行なう事に軽率なことも多いので、御油断はなさらない方がよろしいでしょう。とりあえずここは、朝廷の言動には虚偽の無いことを誓紙にして渡して、相模入道(北条高時の異称)の怒りを抑えるのが良いでしょう」と答え、

天皇もそれが良いと思われたのか、「ならば、すぐ冬房がその文を書くように」と、おっしゃられ、冬房は即刻、御前にて草案を書き上げ、天皇にお見せしました。後醍醐天皇はすぐご覧になると、思わず草案に涙がはらはらとこぼれかかり、お袖にて拭かれたのでした。

御前に控えていた年老いた臣下たちは、その様子を見て全員悲しみの涙を流したのでした。直ちに万里小路大納言宣房卿を朝廷からの使者に命じ、この誓紙を関東、鎌倉幕府に手渡すため出発しました。


相摸入道、秋田城介を以て告文を請取て、則披見せんとしけるを、二階堂出羽入道々蘊、堅く諌めて申けるは、「天子武臣に対して直に告文を被下たる事、異国にも我朝にも未其例を承ず。然を等閑に披見せられん事、冥見に付て其恐あり。只文箱を啓ずして、勅使に返進せらるべきか。」と、再往申けるを、相摸入道、「何か苦しかるべき。」とて、斉藤太郎左衛門利行に読進せさせられけるに、「叡心不偽処任天照覧。」被遊たる処を読ける時に、利行俄に眩衄たりければ、読はてずして退出す。其日より喉下に悪瘡出て、七日が中に血を吐て死にけり。時澆季に及で、道塗炭に落ぬと云ども、君臣上下の礼違則は、さすが仏神の罰も有けりと、是を聞ける人毎に、懼恐ぬは無りけり。「何様資朝・俊基の隠謀、叡慮より出し事なれば、縦告文を下されたりと云ども、其に依るべからず。主上をば遠国へ遷し奉べし。」と、初は評定一決してけれども、勅使宣房卿の被申趣げにもと覚る上、告文読たりし利行、俄に血を吐て死たりけるに、諸人皆舌を巻き、口を閉づ。相摸入道も、さすが天慮其憚有りけるにや、「御治世の御事は朝議に任せ奉る上は、武家綺ひ申べきに非ず。」と、勅答を申て、告文を返進せらる。宣房卿則帰洛して、此由を奏し申れけるにこそ、宸襟始て解て、群臣色をば直されけれ。去程に俊基朝臣は罪の疑しきを軽じて赦免せられ、資朝卿は死罪一等を宥められて、佐渡国へぞ流されける。

相模入道は秋田城介を介してこの誓紙を受け取り、すぐに見ようとしましたが、二階堂出羽入道道蘊がきつく注意をして、「天子が朝臣である武臣に対して、直接誓紙をお渡しになるなんてことは、異国は勿論、我が国にもその例があったとは聞いたこともありません。

それなのに簡単に考えてそれを見るのは、神仏に対して恐れ多いと思われます。ここは文箱を開くことなく、使者にお返しするのが良いでしょう」と、再三お止めしたのですが、相模入道は、「別に問題は無かろう」と、

後醍醐天皇の謀反計画を裏切った土岐左近蔵人頼員の義父である斉藤太郎左衛門利行に、先を読み進ませました。しかし、「叡心不偽処任天照覧」(天皇の心に偽りの無いこと、天もご覧あれ)と、書かれたところまで読み進んだ時に、利行は急に目がくらみ鼻血を出し、

最後まで読むことが出来ず、その場を下がったのでした。その日より彼の喉の下に悪性の腫瘍が出来て、七日を経たぬ内に喀血して死んだのでした。時代は末世と言われ、人の行なうべき正しい道などが、今や泥にまみれたとは言っても、天皇とその臣下においては、

その道を踏み外せば、さすがに神仏の罰も当たるのかと、この話を聞いた人は皆、恐れ驚いたのでした。「理由はどうあろうとも、この度の資朝や俊基の幕府転覆の陰謀は、帝のお心に起因していることは確かなので、たとえ誓紙をお出しになっても許されるべきではなく、

この際天皇を遠国に遷し奉るのが妥当だろう」と、当初、皆の意見は一致していたのですが、勅使の大納言宣房卿が申し上げることも理解できる上、誓紙を読んだ利行が、急に血を吐いて死亡したことには、皆一様に驚き、口を閉ざしたのでした。

相模入道もさすがに天の思し召しも気になり、「天皇の治世下における諸議事は、朝廷の決定に任せた以上、武家があれやこれやと口出しをすることはしない」と、勅使にその旨の返答を添えて、誓紙をお返ししました。

宣房卿は直ちに京に戻り、この結果を後醍醐天皇に報告しました。それを聞いた天皇も、初めて心に落ち着きを取り戻し、居並ぶ朝臣らも不安が解消され、気が休まったのでした。そして、蔵人右少弁日野俊基朝臣は、疑わしいけれども罪を許され釈放されました。

また日野中納言資朝卿は死罪になるところ罪一等を許され、佐渡国へ配流と決まったのでした。      (終)

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