9 太平記 巻第十 (その一)


○千寿王殿被落大蔵谷事
足利治部大輔高氏敵に成給ぬる事、道遠ければ飛脚未到来、鎌倉には曾て其沙汰も無りけり。斯し処に元弘三年五月二日の夜半に、足利殿の二男千寿王殿、大蔵谷を落て行方不知成給けり。依之鎌倉中の貴賎、すはや大事出来ぬるはとて騒動不斜。京都の事は道遠に依て未だ分明の説も無ければ、毎事無心元とて、長崎勘解由左衛門入道と諏方木工左衛門入道と、両使にて被上ける処に、六波羅の早馬、駿河の高橋にてぞ行合ける。「名越殿は被討給、足利殿は敵に成給ぬ。」と申ければ、「さては鎌倉の事も不審。」とて、両使は取て返し、関東へぞ下ける。爰に高氏の長男竹若殿は、伊豆の御山に御座けるが、伯父の宰相法印良遍、児・同宿十三人山伏の姿に成て、潛に上洛し給けるが、浮嶋が原にて、彼両使にぞ行合給ける。諏方・長崎生取奉んと思処に、宰相法印無是非馬上にて腹切て、道の傍にぞ臥給ける。長崎、「去ばこそ内に野心のある人は、外に遁るゝ無辞。」とて、若竹殿を潛に指殺し奉り、同宿十三人をば頭を刎て、浮嶋が原に懸てぞ通りける。

☆ 千寿王殿が大蔵谷を落ちていかれたこと

足利治部大輔高氏が寝返って敵になったことは、まだ遠い都から鎌倉には連絡が入っていませんし、鎌倉では足利殿が寝返る事など、考えてもいませんでした。しかし六波羅総攻撃の直前、元弘三年(1333年)五月二日の夜半に、足利殿の二男で北条家に人質となっている、

千寿王が大蔵谷を脱出して行方不明になりました。このため鎌倉中の人々は、身分に関係なく、これは大変なことが起こるのではと、大騒ぎになりました。遠い京都での出来事は、未だ鎌倉にははっきりとした情報も入ってきません。

しかし状況がわからないのは不安なので、長崎勘解由左衛門入道と、諏方木工左衛門入道の二人が、状況調査の使者として都に上る途中、六波羅からの早馬と駿河の高橋で出会いました。「名越尾張守北条高家殿は戦死され、

足利殿は寝返って敵方になりました」と、報告したので、「とすれば鎌倉の方も心配だ」と、使者の二人は上洛を中止して、鎌倉に戻りました。この時高氏の長男、竹若殿は伊豆山に居られましたが、伯父の宰相法印良遍と身の回りを世話する少年、

また同じ宿舎に住まいする、十三人の僧侶などが、山伏姿に変装して、密かに都に向かっていたところ、浮嶋ヶ原にて鎌倉の使者二人と出会ってしまいました。諏方木工左衛門と長崎勘解由左衛門の二人は、生け捕りにしようと考えていたところ、

宰相法印良遍は突然馬上で割腹して、路傍に伏し倒れました。長崎は、「やはり心中に謀反の考えがあるから、弁明することも出来ないのだな」と、竹若殿を隠密裏に刺殺し、十三人の僧侶も首を刎ねて、浮嶋ヶ原に晒した上、通り過ぎて行きました。


○新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事
懸ける処に、新田太郎義貞、去三月十一日先朝より綸旨を給たりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り、便宜の一族達を潛に集て、謀反の計略をぞ被回ける。懸る企有とは不思寄、相摸入道、舎弟の四郎左近大夫入道に十万余騎を差副て京都へ上せ、畿内・西国の乱を可静とて、武蔵・上野・安房・上総・常陸・下野六箇国の勢をぞ被催ける。其兵粮の為にとて、近国の庄園に、臨時の天役を被懸ける。中にも新田庄世良田には、有徳の者多しとて、出雲介親連、黒沼彦四郎入道を使にて、「六万貫を五日中可沙汰。」と、堅く下知せられければ、使先彼所に莅で、大勢を庄家に放入て、譴責する事法に過たり。新田義貞是を聞給て、「我館の辺を、雑人の馬蹄に懸させつる事こそ返々も無念なれ、争か乍見可怺。」とて数多の人勢を差向られて、両使を忽生取て、出雲介をば誡め置き、黒沼入道をば頚を切て、同日の暮程に世良田の里中にぞ被懸たる。相摸入道此事を聞て、大に忿て宣けるは、「当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし。然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也。剰藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。此時若緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成ぬべし。」とて、則武蔵・上野両国の勢に仰て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進す。」とぞ被下知ける。義貞是を聞て、宗徒の一族達を集て、「此事可有如何。」と評定有けるに、異儀区々にして不一定。或は、沼田圧を要害にして、利根河を前に当て敵を待ん。」と云義もあり。又、「越後国には大略当家の一族充満たれば、津張郡へ打超て、上田山を伐塞ぎ、勢を付てや可防。」と意見不定けるを、舎弟脇屋次郎義助暫思案して、進出て被申けるは、「弓矢の道、死を軽じて名を重ずるを以て義とせり。就中相摸守天下を執て百六十余年、于今至まで武威盛に振て、其命を重ぜずと云処なし。されば縦戸祢川をさかうて防共、運尽なば叶まじ。又越後国の一族を憑たり共、人の意不和ならば久き謀に非ず。指たる事も仕出さぬ物故に、此彼へ落行て、新田の某こそ、相摸守の使を切たりし咎に依て、他国へ逃て被討たりしかなんど、天下の人口に入らん事こそ口惜けれ。とても討死をせんずる命を謀反人と謂れて、朝家の為に捨たらんは、無らん跡までも、勇は子孫の面を令悦名は路径の尸を可清む。先立て綸旨を被下ぬるは何の用にか可当。各宣旨を額に当て、運命を天に任て、只一騎也共国中へ打出て、義兵を挙たらんに勢付ば軈て鎌倉を可責落。勢不付ば只鎌倉を枕にして、討死するより外の事やあるべき。と、義を先とし勇を宗として宣しかば、当座の一族三十余人、皆此義にぞ同じける。

☆ 新田義貞が謀反を起こしたことと、天狗が越後の軍勢を集めたこと

情勢が不安定なこの時期に、新田太郎義貞は去る元弘三年(1333年)三月十一日に、先帝後醍醐より倒幕の綸旨を受けたので、仮病を申し立てて、千早城の攻撃陣より本国に引き返し、腹心の一族を密かに集めて、謀反の計画を練りました。

このような企てなど思いもよらず、相模入道北条高時は高時の舎弟、四郎左近大夫入道に十万余騎を与えて京都に向かわせ、畿内、西国の騒動を鎮静させようと、武蔵、上野、安房、上総、常陸、下野の六ヶ国の軍勢に召集をかけました。

その軍勢の兵糧のため、近国の庄園に臨時増税を賦課しました。その中でも新田庄世良田には、裕福な人物が多数いるということで、出雲介親連、黒沼彦四郎入道を徴税使にして、「六万貫を五日以内に用意せよ」と、厳命しました。

二人の徴税使は新田庄に到着すると、多数の部下を庄園の役所に送り込み、厳しい無法な取立てを行いました。この事情を聞いた新田義貞は、「我が家の周辺を、訳の分からない人間の馬に汚されるとは、どう考えても納得のいかない話だ。

もう我慢ならない」と、大勢の武者を差し向けて、徴税使二人を即刻生け捕りにし、出雲介は縄にかけて留置し、黒沼入道は首を伐り、その日の夕方には、世良田の人里に架けてしまいました。相模入道高時はこのことを聞くと激怒し、「当北条家は執権として、

世を治めること既に九代を経て、日本国内において、我が家の命に背くという例は過去に一度もない。にもかかわらず最近、遠国の連中は我が家の命令に従おうとせず、近国は近国で命令を無視することが多いのは、一体どういうことだ。

そればかりでなく北条家のお膝元で、我らが派遣した使者を殺害するとは、その罪は決して許されるものではない。もしこれに関して生ぬるい処置をしたなら、大きな反逆のきっかけになりかねない」と、即刻、武蔵、上野両国の武士に対して、

「新田太郎義貞、その舎弟脇屋次郎義助を討ち取るべし」と、命じました。これを聞いた義貞は一族の主だった者を集めて、「幕府のこの処置に、どう対処すれば良いだろうか」と、皆に諮ったところ意見が続出しました。ある者は、「沼田庄(群馬県沼田市)を要塞化して、

利根川を前にして敵を待ち受けよう」と言えば、またある者は、「越後国は、我が家一族の者で大半を占めているので、山越えして津張郡(新潟県南魚沼郡)に向かい、上田山(新潟県南魚沼郡)を城塞化し、軍勢を召集して防禦に努めよう」などと、意見が出てまとまりません。

その時義貞の舎弟、脇屋次郎義助が暫く考えてから、進み出ると、「我ら弓矢取る武門であれば、命を惜しむことなく、名をのみ重視することが、最重要な生き方であると考えている。特に相模守北条家が天下を治めてから、百六十余年経過し、

今に至るもその武力に衰えを見せず、幕府の命令に従わない者などいません。だからたとえ利根川を境に防禦しようと考えても、我らの運が尽きたらそれまでです。また越後国の我らの一族を頼ったとしても、人の考えなど当てに出来ないので、

長期にわたって作戦を継続することなど無理でしょう。結局これといって何も出来ないまま、あちこちに落ち延びるしかなく、新田の何某は相模守の使者を殺害した罪により、他国を逃げ回った挙句、討ち取られたなどと天下の人の口に乗るのは、悔しいかぎりです。

所詮討ち死にを逃れられない命なら、謀反人と言われようが朝廷のために捨ててこそ、死んでからでもその勇敢な様は、子孫に伝えられて名誉に感じ、その名は新田の家系に輝くことになるでしょう。先日我が家に綸旨を下さったのは、一体どういう意味なのでしょうか。

各自がその宣旨を額に当て、運を天に任せて、たとえただの一騎であっても、国中に打って出て義兵を挙げ、もし軍勢が集まれば、鎌倉を攻め落とすことも出来るだろう。もし軍勢が集まらなければ、その時は鎌倉を枕に、討ち死にするより仕方ないでしょう」と、

あくまで武士としての義を優先し、勇猛であることを貫こうと話されたので、その場に居た一族三十余人は、全員この意見に賛同しました。


さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。此勢にては如何と思ふ処に、其日の晩景に利根河の方より、馬・物具爽に見へたりける兵二千騎許、馬煙を立て馳来る。すはや敵よと目に懸て見れば、敵には非ずして、越後国の一族に、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々にてぞ坐しける。義貞大に悦て、馬を扣て宣けるは、「此事兼てより其企はありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思立事の候ひつる間、告申までなかりしに、何として存ぜられける。」と問給ひければ、大井田遠江守鞍壷に畏て被申けるは、「依勅定大儀を思召立るゝ由承候はずば、何にとして加様に可馳参候。去五日御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に、触廻て通候し間、夜を日に継で馳参て候。境を隔たる者は、皆明日の程にぞ参着候はんずらん。他国へ御出候はゞ、且く彼勢を御待候へかし。」と被申て、馬より下て各対面色代して、人馬の息を継せ給ける処に、後陣の越後勢並甲斐・信濃の源氏共、家々の旗を指連て、其勢五千余騎夥敷く見へて馳来。義貞・義助不斜悦て、「是偏八幡大菩薩の擁護による者也。且も不可逗留。」とて、同九日武蔵国へ打越給ふに、紀五左衛門、足利殿の御子息千寿王殿を奉具足、二百余騎にて馳着たり。是より上野・下野・上総・常陸・武蔵の兵共不期に集り、不催に馳来て、其日の暮程に、二十万七千余騎甲を並べ扣たり。去ば四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充満て、身を峙るに処なく、打囲だる勢なれば、天に飛鳥も翔る事を不得、地を走る獣も隠んとするに処なし。草の原より出る月は、馬鞍の上にほのめきて冑の袖に傾けり。尾花が末を分る風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静る事ぞなき。懸しかば国々の早馬、鎌倉へ打重て、急を告る事櫛の歯を引が如し。是を聞て時の変化をも計らぬ者は、「穴こと/゛\し、何程の事か可有。唐土・天竺より寄来といはゞ、げにも真しかるべし。我朝秋津嶋の内より出て、鎌倉殿を亡さんとせん事蟷螂遮車、精衛填海とするに不異。」と欺合り。物の心をも弁たる人は、「すはや大事出来ぬるは。西国・畿内の合戦未静ざるに大敵又藩籬の中より起れり。是伍子胥が呉王夫差を諌しに、晋は瘡■にして越は腹心の病也。と云しに不異。」と恐合へり。

そうと決まれば情報の漏れないうちに、行動を起こさなければと、同じく五月八日の卯刻(午前六時頃)に生品明神(群馬県新田郡)の神前にて、決起の旗を挙げ、綸旨を皆に披露し、この綸旨に三度礼拝してから、笠懸野(群馬県新田郡)へ進出しました。

新田軍に従う一族としては、大舘次郎宗氏、子息孫次郎幸氏、二男弥次郎氏明、三男彦二郎氏兼、堀口三郎貞満、舎弟四郎行義、岩松三郎経家、里見五郎義胤、脇屋次郎義助、江田三郎光義、桃井次郎尚義などの軍勢を中心にして、百五十騎足らずです。

この程度の軍勢では、如何なものかと不安視していたところ、その日の夕方、利根川方面から馬や甲冑など、颯爽と身に着けた兵士二千余騎、馬の土ぼこりを立てながら、駆け来たったのです。さては敵が早くも来たかと見ていると、

敵ではなく越後国の一族である、里見、鳥山、田中、大井田、羽川の人々だったのです。義貞は大いに喜び、馬をそばに寄せ、「今回の出陣については、以前より計画はしていたが、昨日、今日とは考えてはいず、急遽思い立ったことであり、

越後へも何ら連絡していないのに、どうして今日のことが分かったのか」と、質問されました。それに対して、大井田遠江守が鞍の上で畏まって、「勅定に従って大事業を決行することを知らされずに、どうして駆けつけることなどありましょうか。

実は去る、五日にお使いだと称して、天狗の格好をした一人の山伏が、越後の国中をたった一日の間に、倒幕の決行を触れ回ったのです。そこで夜を日に継いで、駆け付けて来ました。越後の中で遠方の者でも、明日中には皆到着するでしょう。

他国へ進軍されるのならば、後から来る軍勢を暫くお待ちになればいかがですか」と申し上げると、馬から降りた他の武将らも順次挨拶をして、人馬共々荒れた息を整えました。そこへ後陣の越後勢と甲斐や信濃国から源氏の軍勢が、各家々の旗を連ねて、

その数五千余騎にもなるほどの、夥しい軍勢が駆けつけて来ました。新田義貞、脇屋義助も大変喜んで、「これは偏に八幡大菩薩のご加護の賜物である。一時もここに留まるべきではない」と、同月九日には武蔵国に進攻したところ、

紀五左衛門が足利殿の御子息、千寿王殿に甲冑を着せて、二百余騎の軍勢とともに駆けつけて来ました。このことがあってから、上野、下野、上総、常陸、武蔵の兵士らが逐次集まって来るし、召集をかけていないのに駆け付けて来るので、

その日の暮れ近くには、二十万七千余騎が兜を並べることになりました。そのような訳で、四方八百里以上と言われる武蔵野に、人馬共に満ち溢れ、身の置き場もないほど、集まって来た軍勢なので、鳥でさえ空高く飛び上がることも出来ず、

地を走るけだものも、身を隠すところさえありません。普段なら、草原の遥か向こうに出る月は、馬の鞍から上り兜の袖にかかっています。尾花の先を、二つに分かれて通り過ぎる風は、旗をひらめかし、母衣を直す手は休む間もありません。

各地、国元からの早馬は鎌倉にひっきりなしに到着し、事態の急を知らせることは、まるで櫛の歯を引いているように、人が入れ替わり立ち替わりしています。このような状況を聞いても、時勢の変化を感じていない人は、「一体何を騒ぎ立てているのだ、大したことなど起こるはずがないのに。

唐土(中国)や天竺(インド)から攻めて来たというのなら、分からないでもないが、この我が国の者が、鎌倉殿を滅ぼそうと考えるのは、蟷螂(かまきり)が車に逆らうようなものであり、また精衛填海(精衛鳥が木や岩で海を埋めようとすること::出来もしないことを計画し、無駄な骨折りをすること)と変わることがない」と、

馬鹿にし合ったのです。反対に時勢の変化に敏感な人は、「えらいことになってきた。西国や畿内の合戦が、まだまだ治まりそうにないのに、今度は幕府内から、大敵が反旗を翻したぞ。これはかの中国で、伍子胥が呉王の夫差を諌める時、

晋国は皮膚の病だが、越国は命にかかわる内臓の病気だと、例えたのと変わらないじゃないか」と、内部崩壊を恐れて、話し合ったのでした。


去程に京都へ討手を可被上事をば閣て、新田殿退治の沙汰計也。同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総・下総の勢を付て、敵の後攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上路より入間河へ被向。是は水沢を前に当て敵の渡さん処を討と也。承久より以来東風閑にして、人皆弓箭をも忘たるが如なるに、今始て干戈動す珍しさに、兵共こと/゛\敷此を晴と出立たりしかば、馬・物具・太刀・刀、皆照耀許なれば、由々敷見物にてぞ有ける。路次に両日逗留有て、同十一日の辰刻に、武蔵国小手差原に打臨給ふ。爰にて遥に源氏の陣を見渡せば、其勢雲霞の如くにて、幾千万騎共可云数を不知。桜田・長崎是を見て、案に相違やしたりけん、馬を扣て不進得。義貞忽に入間河を打渡て、先時の声を揚、陣を勧め、早矢合の鏑をぞ射させける。平家も鯨波を合せて、旗を進めて懸りけり。初は射手を汰て散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立也。何れも東国そだちの武士共なれば、争でか少しもたまるべき、太刀・長刀の鋒をそろへ馬の轡を並て切て入。二百騎・三百騎・千騎・二千騎兵を添て、相戦事三十余度に成しかば、義貞の兵三百余騎被討、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮ければ、人馬共に疲たり。軍は明日と約諾して、義貞三里引退て、入間河に陣をとる。鎌倉勢も三里引退て、久米河に陣をぞ取たりける。両陣相去る其間を見渡せば三十余町に足ざりけり。何れも今日の合戦の物語して、人馬の息を継せ、両陣互に篝を焼て、明るを遅と待居たり。

幕府では畿内、西国の騒動を鎮圧のため、討手軍を派遣の予定でしたが、今はそれどころではなく、新田殿の征伐に掛かりっきりになりました。同月九日に作戦会議が開かれ、翌十日の巳刻(午前十時頃)に金沢武蔵守貞将に五万余騎の軍勢を付け、

下河辺に向かって進発させました。この作戦はまず上総、下総の軍勢で敵の背後に回り、攻めさせようというものです。また一方には、桜田治部大輔貞国を大将にして、長崎二郎高重、同じく孫四郎左衛門、加治二郎左衛門入道らに、武蔵、上野両国の軍勢六万余騎を与えて、

上路より入間川に向かわせました。これは水沢を前にして、敵が渡河するのを討とうという作戦です。承久の乱(1221年)よりこの方、関東地方は平和が続き、人々は皆、弓矢のことなど忘れていた位で、今になって再び武士団を動員することも、もの珍しく感じ、

兵士らもここ一番、晴れやかに出立しようと考え、馬は勿論、甲冑、太刀や脇差にいたるまで、光り輝くばかり美しく装い、これはまたこれで一見の価値はあるようでした。進軍途中で二日間進軍を中断し、五月十一日、辰刻(午前八時頃)に武蔵国、小手差原(所沢市)に軍を展開しました。

ここから遥か遠方に構えている、源氏の陣を見てみると、その勢力は雲霞のような大軍であり、幾千万騎の兵力なのか、その数も分かりません。桜田貞国と長崎高重はこの大軍を見て、想定外のことだったのか、馬を留め進軍を中止せざるを得ませんでした。

新田義貞は即刻入間川を渡り、まず閧の声を挙げさせると、陣営を前に進め、すぐに矢合わせの鏑矢を射込みました。幕府軍の平家も同じく閧の声を作り、旗を進め討幕軍に懸かってきました。戦闘開始当初は射手を揃えて、互いに矢戦を続けましたが、

前方は馬を駆けさせるには格好の戦場であり、両軍とも東国育ちの武士たちですから、辛抱たまらず太刀、長刀を手にして、馬の轡を並べて斬り込みました。二百騎、三百騎、千騎また二千騎と兵を率いて戦うこと、三十余度になれば、義貞軍の兵三百余騎が討ち取られ、

鎌倉の軍勢も五百余騎が討ち死にし、日もすでに暮れてきた上、人馬共々疲れ果ててしまいました。戦の続きは明日行うと互いに決めて、義貞は三里引き下がり、入間川に陣を構えました。また鎌倉勢も三里退き、久米川(武蔵村山市)に陣を取りました。

よく見れば、両陣営は隔てること、三十余町もありません。互いの陣営では、今日の合戦の話をしながら、人馬とも休息を取り、互いに篝火を燃やして、夜の明けるのを待っていました。


夜既に明ぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進て久米河の陣へ押寄る。平家も夜明けば、源氏定て寄んずらん、待て戦はゞ利あるべしとて、馬の腹帯を固め甲の緒を縮め、相待とぞみへし。両陣互に寄合せて、六万余騎の兵を一手に合て、陽に開て中にとり篭んと勇けり。義貞の兵是を見て、陰に閉て中を破れじとす。是ぞ此黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼を拉ぐ術、何れも皆存知の道なれば、両陣共に入乱て、不被破不被囲して、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば千騎が一騎に成までも、互に引じと戦けれ共、時の運にやよりけん、源氏は纔に討れて平家は多く亡にければ、加治・長崎二度の合戦に打負たる心地して、分陪を差して引退く。源氏猶続て寄んとしけるが、連日数度の戦に、人馬あまた疲たりしかば、一夜馬の足を休めて、久米河に陣を取寄て、明る日をこそ待たりけれ。去程に桜田治部大輔貞国・加治・長崎等十二日の軍に打負て引退由鎌倉へ聞へければ、相摸入道・舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道・安保左衛門入道・城越後守・長崎駿河守時光・左藤左衛門入道・安東左衛門尉高貞・横溝五郎入道・南部孫二郎・新開左衛門入道・三浦若狭五郎氏明を差副て、重て十万余騎を被下、其勢十五日の夜半許に、分陪に着ければ、当陣の敗軍又力を得て勇進まんとす。義貞は敵に荒手の大勢加りたりとは不思寄。十五日の夜未明に、分陪へ押寄て時を作る。鎌倉勢先究竟の射手三千人を勝て面に進め、雨の降如散々に射させける間、源氏射たてられて駈ゑず。平家是に利を得て、義貞の勢を取篭不余とこそ責たりけれ。新田義貞逞兵を引勝て、敵の大勢を懸破ては裏へ通り、取て返ては喚て懸入、電光の如激、蜘手・輪違に、七八度が程ぞ当りける。されども大敵而も荒手にて、先度の恥を雪めんと、義を専にして闘ひける間、義貞遂に打負て堀金を指て引退く。其勢若干被討て痛手を負者数を不知。其日軈て追てばし寄たらば、義貞爰にて被討給ふべかりしを、今は敵何程の事か可有、新田をば定て武蔵・上野の者共が、討て出さんずらんと、大様に憑で時を移す。是ぞ平家の運命の尽ぬる処のしるし也。

やがて夜も明け、討幕軍の源氏は平家に先を越されてはならないと、馬の足を速めて、久米川の陣に押し寄せました。幕府軍の平家側でも夜が明ければ、必ず源氏が寄せて来るに違いない。敵を待ち受けて戦えば有利だろうと、馬の腹帯を固く締め、兜の緒もきつく結び、

今や遅しと待ち受けました。やがて両軍互いに近づくと、幕府側は、六万余騎の兵士らを一部隊にまとめて、自軍を大きく展開し、討幕軍を取り囲み、中に取り込めようと奮戦しました。対して倒幕軍の義貞の兵士らは、この作戦を見破り、中央に固まり中を破られまいとしました。

これらの作戦は、黄石公(秦末の兵法士)が虎を縛り上げた手段であり、張子房(張良::中国三大軍師の一人)が鬼を押しつぶした方法なので、皆が熟知しているため、両軍が入り乱れて戦ったけれど、破られもせず、また取り囲まれることもなく、

ただ百戦を生き抜いてきた命を、ここぞとばかりに死を争って戦いました。それこそ千騎が一騎になるまで、互いにひるむことなく戦いました。しかし勝敗は時の運であれば、源氏は討たれるものわずかであり、平家は多数の武者が討たれ、

加治次郎左衛門、長崎二郎高重入道は、二度とも合戦に敗れた気分になり、分陪河原(府中市)に向かって退却しました。源氏は勝に乗じて追撃しようとしましたが、連日の度重なる合戦で、人馬とも疲労の極にあり、一晩は馬を進めるのをやめ、

久米川に陣を構えて、夜の明けるのを待つことにしました。やがて桜田治部大輔貞国、加治、長崎らが十二日の合戦に破れて退却したことが、鎌倉に伝えられたので、相模入道高時は舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍に任命し、

塩田陸奥入道、安保左衛門入道、城越後守、長崎駿河守時光、左藤左衛門入道、安東左衛門尉高貞、横溝五郎入道、南部孫二郎、新開左衛門入道、三浦若狭五郎氏明らの武将を従えさせて、十万余騎の軍勢を編成し、再び戦場に送り込みました。

その軍勢は十五日(十四日?)の夜半、分陪に到着しました。援軍を得た退却軍は再び力を付け、進軍を始めようとしました。新田義貞は敵、幕府軍に新手の大軍が到着したとは夢にも思わず、十五日の未明、分陪河原に押し寄せ、閧の声を挙げました。

鎌倉勢はまず腕の確かな射手三千人を選ぶと前面に進出させて、雨の降るが如く激しく新田軍に射込みました。この攻撃に新田軍は駆け入ることも出来ません。平家はこの有利な展開に力を得て、義貞の軍勢を余すことなく、取り篭めようと攻め続けました。

新田義貞は精兵を率いて、敵の大軍に駈け入っては敵の背後に回り、引き返しては大声を上げながら再び駈け入り、電光石火の如く激しく、蜘蛛の足のように、一ヶ所から四方に駆け込んだり、また味方同士が交差しながら七、八度は攻め込みました。

しかし敵は新手の大軍である上、先の敗戦の恥を雪がんと、武士の意地を前面に出して戦いを挑んでくるので、義貞はとうとう支えきれずに、堀金(狭山市)を目指して退却しました。義貞軍は相当数の兵士を討ち取られ、負傷を負った兵士の数は、分からないほど多数に上りました。

幕府軍がその日そのまま、新田勢に押し寄せていれば、義貞も手の打ちようもなく、ここで討ち死にしていたのでしょうが、敵は新田勢何するものと驕ったのか、きっと武蔵や上野の武者が、義貞を討ち取り首を持ってくるだろうと、のんきに構えて時間を過ごしました。

これもある意味平家、幕府の命運が尽きることの、表れかも知れません。


○三浦大多和合戦意見事
懸し程に、義貞も無為方思召ける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝は、兼てより義貞に志有しかば、相摸国の勢松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷を具足して、以上其勢六千余騎、十五日の晩景に、義貞の陣へ馳参る。義貞大に悦て、急ぎ対面有て、礼を厚くし、席を近付て、合戦の意見をぞ被訪ける。平六左衛門畏て申けるは、「今天下二つに分れて、互の安否を合戦の勝負に懸たる事にて候へば、其雌雄十度も二十も、などか無ては候べき。但始終の落居は天命の帰する処にて候へば、遂に太平を被致事、何の疑か候べき。御勢に義勝が勢を合て戦はんに、十万余騎、是も猶敵の勢に不及候と云ども、今度の合戦に一勝負せでは候べき。」と申ければ、義貞も、「いさとよ、当手の疲たる兵を以て、大敵の勇誇たるに懸らん事は、如何。」と宣ひけるを、義勝重て申けるは、「今日の軍には治定可勝謂れ候。其故は、昔秦と楚と国を争ひける時、楚の将軍武信君、纔に八万余騎の勢を以て、秦の将軍李由が八十万騎の勢に打勝、首を切事四十余万也。是より武信君心驕り軍懈て秦の兵を恐るゝに不足と思へり。楚の副将軍に宋義と云ける兵是を見て、「戦に勝て将驕り卒惰る時は必破と云へり。武信君今如此。不亡何をか待ん。」と申けるが、果して後の軍に、武信君秦の左将軍章邯が為に被討て忽に一戦に亡にけり。義勝昨日潛に人を遣して敵の陣を見するに、其将驕れる事武信君に不異。是則宋義が謂し所に不違。所詮明日の御合戦には、義勝荒手にて候へば一方の前を承て、敵を一当々て見候はん。」と申ければ、義貞誠に心に服し、宜に随ひ、則今度の軍の成敗をば三浦平六左衛門にぞ被許ける。明れば五月十六日の寅刻に、三浦四万余騎が真前に進んで、分陪河原へ押寄る。敵の陣近く成まで態と旗の手をも不下、時の声をも不挙けり。是は敵を出抜て、手攻の勝負を為決也。如案敵は前日数箇度の戦に人馬皆疲たり。其上今敵可寄共不思懸ければ、馬に鞍をも不置、物具をも不取調、或は遊君に枕を双て帯紐を解て臥たる者あり、或は酒宴に酔を被催て、前後を不知寝たる者もあり。只一業所感の者共が招自滅不異。爰に寄手相近づくを見て、河原面に陣を取たる者、「只今面より旗を巻て、大勢の閑に馬を打て来れば、若敵にてや有らん。御要心候へ。」と告たりければ、大将を始て、「さる事あり、三浦大多和が相摸国勢を催て、御方へ馳参ずると聞へしかば、一定参たりと覚るぞ。懸る目出度事こそなけれ。」とて、驚者一人もなし。只兎にも角にも、運命の尽ぬる程こそ浅猿けれ。

☆ 三浦大多和が合戦について意見を述べたこと

退却してきた義貞は、今後どう手を打てば良いのか悩んでいる時、三浦大多和平六左衛門義勝は、以前から義貞に心を寄せていましたから、相模国の豪族である松田、河村、土肥、土屋、本間、渋谷らを引き連れ、その数六千余騎の軍勢と共に、

十五日の夕方義貞の陣営に駆けつけて来ました。義貞はおおいに喜び、急いで面会し礼も厚く、席を義貞近くに設けて、今後の合戦について意見を求めました。平六左衛門は慎んで、「今や天下は真っ二つに別れ、お互いの存亡を全て、この合戦に賭けている状態であります。

それほどの合戦であれば、勝敗が十回、二十回入れ替わるのも当然であります。しかし最終的に勝敗は天命によると思えば、新田殿が勝利を収め、天下を掌握すること、何ら疑う余地はありません。新田殿の軍勢に、我ら義勝の軍勢を合わすと十万余騎になります。

これでも敵の軍勢には及びませんが、次の合戦には思い切って、一勝負を賭けるべきでしょう」と、申し上げました。義貞も、「確かにそうだが、我が方の疲れきった兵士らが、勝ち誇った大敵に、戦いを挑むのは如何なものだろか」と、不安視するのを義勝は重ねて、

「今日の合戦は勝つことに決まっています。間違いありません。その訳は、昔中国で秦国と楚国が国境を争っていた時、楚の将軍、武信君(項梁)は僅かに八万余騎の軍勢で、秦の将軍、李由が率いる八十万騎の軍勢に勝ち、首を四十万も切ったと言うことがあります。

このことがあってから、武信君は慢心し、楚国の軍隊も士気が緩み、秦軍の兵士など恐れるに足らずと、思い出したのです。その時、楚国の副将軍、宋義がこの状況を見て、『戦に勝って将士が驕り、卒が怠けるようなことがあれば、必ず最終的に負けを喫す、と言うではないか。

武信君、今まさにそのような時である。このままでは必ず滅びることになる』と、申し上げたのですが、案の定、次の合戦に武信君は秦国の左将軍、章邯に討ち取られ、たちまちこの一戦により滅ぼされたのです。この義勝は昨日ひそかに人を敵陣に潜入させ、

敵陣の様子を探ってみると、将官たちが勝ちに驕っている様子は、武信君と変わりなく、これはまさしく宋義の言うことと、違いありません。とにかく明日の合戦では、義勝軍は新手の軍勢なので、敵の一方の先陣を受け持ち、ひとつ華々しく戦って見せましょう」と、申し上げました。

新田義貞はこの進言に感服し、次回の合戦についての作戦立案は、三浦平六左衛門義勝に任されました。明けて五月十六日の寅刻(午前四時頃)に、三浦の率いる軍勢四万余騎が先陣になって、分陪河原に押し寄せました。敵陣近くになるまで故意に旗を見せないようにして、

また閧の声も挙げませんでした。これは敵に気づかれないように近づき、一気に勝負をつけようとの考えからです。案の定、幕府軍は前日の数回にわたる戦いに、人馬とも疲れている上、今頃討幕軍が攻撃を仕掛けてくるなど、全く考えていませんので、

馬に鞍も置かず、甲冑の点検も怠っています。ある者は遊女と枕を並べ共寝している者や、またある者は酒を飲みすぎて、前後不覚に酔いつぶれている者もいます。ただ同じ罪業を持った者同士が、一緒に滅亡を待っているのと同じです。

この時寄せ手の軍勢が近づいて来るのを見て、河原の前面に陣を構えていた者が、「たった今前方より旗を巻き、多くの軍勢が静かに馬を進めて来たが、もしや敵ではないのだろうか、皆々用心するように」と、報告しましたが、大将を始めとして、

「そうだそうだ、三浦大多和が相模国の軍勢を召集して、味方に駆けつけてくると聞いている。きっと今駆けつけて来たのだろう、これほどめでたい話はない」と、誰一人驚く者もいません。このように、運命が尽きようとする時は、ただただあきれることばかりです。


去程に義貞、三浦が先懸に追すがふて、十万余騎を三手に分け、三方より推寄て、同く時を作りける。恵性時の声に驚て、「馬よ物具よ。」と周章騒処へ、義貞・義助の兵縦横無尽に懸け立る。三浦平六是に力を得て、江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手・輪違・十文字に、不余とぞ攻たりける。四郎左近大夫入道、大勢也。といへ共、三浦が一時の計に被破て、落行勢は散々に、鎌倉を指して引退く。討るゝ者は数を不知。大将左近大夫入道も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。其外譜代奉公の郎従、一言芳恩の軍勢共、三百余人引返し、討死しける間に、大将四郎左近大夫入道は、其身に無恙してぞ山内まで被引ける。長崎二郎高重、久米河の合戦に、組で討たりし敵の首二、切て落したりし敵の首十三、中間・下部に取持せて、鎧に立処の箭をも未抜、疵のろより流るゝ血に、白糸の鎧忽に火威に染成て、閑々と鎌倉殿の御屋形へ参り中門に畏りたりければ、祖父の入道世にも嬉しげに打見て出迎、自疵を吸血を含で、泪を流て申けるは、「古き諺に「見子不如父」いへども、我先汝を以て、上の御用に難立者也。と思て、常に不孝を加し事、大なる誤也。汝今万死を出て一生に遇、堅を摧きける振舞、陳平・張良が為難処を究め得たり。相構て今より後も、我が一大事と合戦して父祖の名をも呈し、守殿の御恩をも報じ申候へ。」と、日来の庭訓を翻して只今の武勇を感じければ、高重頭を地に付て、両眼に泪をぞ浮べける。かゝる処に、六波羅没落して、近江の番馬にて、悉く自害のよし告来ければ、只今大敵と戦中に、此事をきいて、大火を打消て、あきれ果たる事限なし。其所従・眷属共是を聞て、泣歎き憂悲むこと、喩をとるに物なし。何にたけく勇める人々も、足手もなゆる心地して東西をもさらに弁へず。然といへども、此大敵を退てこそ、京都へも討手を上さんずれとて、先鎌倉の軍評定をぞせられける。此事敵にしらせじとせしかども、隠あるべき事ならねばやがて聞へて、哀潤色やと、悦び勇まぬ者はなし。

続いて義貞は三浦の先陣に追いつき、十万余騎の軍勢を三手に分け、三方より押し寄せると、同時に閧の声を挙げました。高時の舎弟で幕府軍の大将軍、四郎左近入道恵性はこの閧の声にびっくりし、「馬を用意しろ、甲冑もだ」と、大慌てで騒いでいるところに、

義貞、義助の兵士らが思いのまま攻め込みました。三浦大多和平六はこの援軍に力を得て、江戸、豊嶋、葛西、河越、坂東八平氏(坂東に土着して、武家になった桓武平氏を祖とする諸氏)、や武蔵の七党の武士団らを七手に分けて、中央突破や駆け違ったり、

はたまた交差攻撃等、徹底的な殲滅を目指して攻め立てました。四郎左近入道の軍勢がいくら多いと言っても、三浦軍の集中攻撃に太刀打ちできずに破れてしまい、敗残の兵士らは散りじりになって、鎌倉を目指して退却しました。幕府軍の討たれた者の数は、余りにも多くとても分かりません。

大将の四郎左近入道も、関戸(東京都南多摩郡)のあたりで、もはや討たれたように見えましたが、横溝八郎が踏みとどまって、近づいてきた敵、二十三騎を瞬く間に射落としますが、横溝の主従三騎はここで討ち死にします。また安保入道道堪父子の三人、

そして彼らに従う兵士ら百余人らも、この場所で討ち死にを果たします。そのほか代々奉公を続けてきた家来や、一言報恩(一声を賜った恩を感じて、その人を主人と仰いでいる人)程度の軍勢、三百余人も其処へ引き返し、討ち死にする間に大将の四郎左近大夫入道恵性は、

無事怪我も無く鎌倉、山内(鎌倉市)まで引き上げました。幕府軍の大将、長崎二郎高重は久米川の合戦で、組み合って討ち取った敵の首を二つと、組討以外で切り落とした敵の首十三を、雑用担当の中間や下部に持たせて、鎧に立った矢を抜くことも無く、

傷口から流れ出る血のため、白糸で縅した鎧も、たちまちに火の如く真っ赤に染まった、緋縅になりながら、静々と鎌倉殿の屋敷に参り、中門に畏まって控えました。この様子を祖父の入道長崎円喜は、喜びを溢れさせて出迎え、孫の傷口から我が口で血を吸出しながら、

涙を流して、「古い諺に、『子の質を見ることにかけて、父親を超える者はいない』と言うが、私は今まで汝をみるに、とても上様の御用に立ちそうにないと思い、義絶同様な扱いをしてきたことは、私の大きな間違いだったようだ。汝は今必死の状況から脱出し、

その命を保つため、敵、新田軍の堅陣を破ったその行動は、陳平、張良(共に前漢皇帝劉邦の名参謀)の策に勝るとも劣らない局面打開を、果たしたと言えよう。今後ともその行動に充分注意を払い、合戦において我が名と、父祖の名を辱めることなく、その名を世にあらわし、

また執権高時殿に対して、そのご恩に報じることだ」と、日頃の苦言を翻して、今のこの武勇を褒め上げました。聞いていた長崎二郎高重は頭を地に付けて、両目には涙を浮かべていました。そのような時、都では六波羅が陥落し、近江の番場において、

六波羅の人間は全員自害したと、速報が入りました。今まさに鎌倉攻撃軍と、必死の戦いをしている最中に、この連絡を聞きそんな馬鹿なことがあるものかと、打ち消しながらも、どうすればよいのか呆然とするばかりです。やがて、この知らせが北条家の家来や親族に知れ渡り、

泣き叫び、嘆き悲しむこと、例えようもありません。何時どんな場合にも、その勇敢な姿勢を保ってきた人々も、この報には手足の力も抜けて、何をどうすべきか、まともな思考も出来ません。とは言っても、今は鎌倉に向かってくる大敵を追い返さなければ、

京都に討手を派遣することも出来ないので、とりあえず鎌倉防衛について、作戦会議を開きました。六波羅陥落の報は、敵に知られたくないと思っても、とても隠せることでなければ、やがてその知らせに誇張も混ざって知れ渡り、攻撃側の人々は喜び勇みました。


○鎌倉合戦事
去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の武士共、順付事如雲霞。関戸に一日逗留有て、軍勢の着到を着られけるに、六十万七千余騎とぞ注せる。こゝにて此勢を三手に分て、各二人の大将を差副へ、三軍の帥を令司ら、其一方には大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とす。其勢総て十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける。一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。其一方には、新田義貞・義助、諸将の命を司て、堀口・山名・岩松・大井田・桃井・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達を前後左右に囲せて、其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。鎌倉中の人々は昨日・一昨日までも、分陪・関戸に合戦有て、御方打負ぬと聞へけれ共、猶物の数共不思、敵の分際さこそ有らめと慢て、強に周章たる気色も無りけるに、大手の大将にて向れたる四郎左近大夫入道僅に被討成て、昨日の晩景に山内へ引返されぬ。搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、思の外なる珍事哉と、人皆周章しける処に、結句五月十八日の卯刻に、村岡・藤沢・片瀬・腰越・十間坂・五十余箇所に火を懸て、敵三方より寄懸たりしかば、武士東西に馳替、貴賎山野に逃迷ふ。是ぞ此霓裳一曲の声の中に、漁陽の■鼓動地来り、烽火万里の詐の後に、戎狄の旌旗天を掠て到けん、周の幽王の滅亡せし有様、唐の玄宗傾廃せし為体も、角こそは有つらんと、被思知許にて涙も更に不止、浅猿かりし事共也。去程に義貞の兵三方より寄と聞へければ、鎌倉にも相摸左馬助高成・城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将として、三手に分てぞ防ける。其一方には金沢越後左近太夫将監を差副て、安房・上総・下野の勢三万余騎にて粧坂を堅めたり。一方には大仏陸奥守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相随へて、五万余騎、極楽寺の切通を堅めたり。一方には赤橋前相摸守盛時を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万余騎にて、州崎の敵に被向。此外末々の平氏八十余人、国々の兵十万騎をば、弱からん方へ可向とて、鎌倉中に被残たり。去程に同日の巳刻より合戦始て、終日終夜責戦ふ。寄手は大勢にて、悪手を入替々々責入ければ、鎌倉方には防場殺所なりければ、打出々々相支て戦ける。されば三方に作る時の声両陣に呼箭叫は、天を響し地を動す。魚鱗に懸り鶴翼に開て、前後に当り左右を支へ、義を重じ命を軽じて、安否を一時に定め、剛臆を累代に可残合戦なれば、子被討共不扶、親は乗越て前なる敵に懸り、主被射落共不引起、郎等は其馬に乗て懸出、或は引組で勝負をするもあり、或は打替て共に死するもありけり。其猛卒の機を見に、万人死して一人残り、百陣破て一陣に成共、いつ可終軍とは見へざりけり。

☆ 鎌倉攻防戦のこと

やがて新田義貞が数度にわたる合戦に、勝利を収めたと情報が流れると、関東八ヶ国の武士たちが、雲霞のように集まり、新田軍に付き従い出したのです。関戸宿(多摩市)に一日滞在して、軍勢の着到状(出陣命令を受けた諸将が、はせ参じた旨を記した文書)を受け付けたところ、

六十万七千余騎と記入されたのでした。この宿にて、大軍勢を三手に分け、それぞれに二人づつ大将を選任し、軍の指揮を執ってもらうことになりました。まず一つ目の軍は、大舘二郎宗氏を左将軍とし、また江田三郎行善を右将軍に任命し、

総数十万余騎で、極楽寺の切通しに向かいました。もう一方は堀口三郎貞満を総大将、大嶋讃岐守守之を副将軍に任命し、総勢十万余騎を配して、子袋坂(鎌倉七口の一つ)の切通しに進軍しました。残る一方は新田義貞、脇屋義助の二人が総軍の司令官として、

堀口、山名、岩松、大井田、桃井、里見、鳥山、額田、一井、羽川以下の一族らに前後左右を囲わせて、総勢五十万七千余騎が、化粧坂から押し寄せました。鎌倉中の人々は、昨日、一昨日にも分陪や関戸にて合戦があり、味方の鎌倉勢が、負けたと聞いてはいましたが、

たいしたことは無いだろうと思うだけでなく、敵の軍勢などについても、自信たっぷりで警戒することもしませんでした。ところが新田追討軍の、大手の大将として向かった、四郎左近大夫入道(北条泰家)が新田軍に負かされ、昨日の夕方山内に引き返してきたとか、

また大将として搦手軍を任され、下河辺に向かった金沢武蔵守貞将が、小山判官秀朝、千葉介貞胤に負け、下道から鎌倉に引き返してきたことが分かると、意外な展開に驚くと同時に、皆が慌て出した時、こともあろうに、五月十八日の卯刻(午前六時頃)に、

村岡(藤沢市)、藤沢(藤沢市)、片瀬(藤沢市)、腰越(鎌倉市)、十間坂(茅ヶ崎市)など五十余ヶ所に火を掛けながら、敵が三方から攻め寄せてきました。これに武士たちは対応に追われて、東西に馬を駆け回らせ、鎌倉市中の人たちは身分に変わりなく、山野に向かって逃げ惑いました。

これはあの霓裳羽衣の曲(唐の玄宗が夢に見た、天上の月宮殿で舞う天人の、舞楽にまねて作った曲)の流れる中、突然漁陽の陣太鼓が大地を揺るがしたことや、敵が烽火を上げたと偽っている内に、本当に戎荻(辺境の異民族)の軍旗が、天をも覆うが如く攻め進んで来て滅ぼされた、

周国の幽王のように、また唐の玄宗皇帝が落ちぶれていく様子も、このようなことだったのだろうと、今さら思い知らされ涙も止まらず、情けないことこの上ありません。やがて新田義貞の軍兵らが、三方より寄せてくると連絡がはいり、

鎌倉側も相模左馬助高成、城式部大輔景氏そして丹波左近太夫将監時守らを大将に任命し、三手に分けて防衛に努めました。その一方は金沢越後左近太夫将監に補佐をさせ、安房、上総、下野の軍勢、三万余騎で軍を編成し、化粧坂を堅めました。

またもう一方は大仏陸奥守貞道を大将として、甲斐、信濃、伊豆、駿河の軍勢を従え、その数五万余騎で極楽寺の切通しを防衛しました。また残る一方は赤橋前相模守盛時を大将として、武蔵、相模、出羽、奥州の軍勢六万余騎で、州崎の敵軍に備えさせました。

これ以外にも平氏の遠縁にあたる八十余人、諸国の兵士ら十万騎を機動部隊として、脆弱な方面を補佐させる為、鎌倉内に残しました。やがて同日、五月十八日の巳刻(午前十時頃)より合戦が始まり、昼夜関係なく戦闘は続きました。攻撃軍の軍勢は多数であり、

疲弊した兵士らは次々と入れ替え、補給を続けながら戦いますが、鎌倉方にとっては、ここが残された最後の戦闘場所であり、次々と向かって行き、鎌倉防衛戦を全力で戦いました。戦闘の続いている三方向で起こる閧の声は、両陣営に轟き渡り、

射手の上げる矢叫びは天に響き、地をも震わします。魚鱗に陣形を構えて、中央より敵に向かって駆け入ったり、鶴の翼のように陣形を開いて、敵の包囲を計ったりと、前後に攻撃を加えては、また左右から攻めて来る敵を、迎え撃ったりしました。

ただただ武士として忠義を第一に考え、我が命を投げ打って、ここで勝敗の決着を付けようと戦いました。また各自が勇猛だったか、それとも臆病だったかが後世に残る合戦でもあれば、我が子が討たれようとも、親は助けることもせず、子の屍を乗り越えて前面の敵に向かい、

たとえ主人が射落とされても、引き起こすこともせず、家来は主人の馬に乗り攻め込みました。ある者は組み打って勝負をつけようとし、またある者は相討ちになり、共倒れになったりしました。互いに勇猛な武者たちの戦闘意欲を思うと、万を超える死者を出しても一人が残り、

百の陣営が壊滅しようが、一つの陣営は生き残り、一体何時になったらこの戦闘が終わるのか、予測も付きません。


○赤橋相摸守自害事付本間自害事
懸ける処、赤橋相摸守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは、「漢・楚八箇年の闘に、高祖度ごとに討負給たまひしか共、一度烏江の軍に利を得て却て項羽を被亡き。斉・晋七十度の闘に、重耳更に勝事無りしか共、遂に斉境の闘に打勝て、文公国を保てり。されば万死を出て一生を得、百回負て一戦に利あるは、合戦の習也。今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚。雖然盛時に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相摸殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。是勇士の所恥也。彼田広先生は、燕丹に被語はし時、「此事漏すな」と云れて、為散其疑、命を失て燕丹が前に死たりしぞかし。此陣闘急にして兵皆疲たり。我何の面目か有て、堅めたる陣を引て而も嫌疑の中に且く命を可惜。」とて、闘未半ざる最中に、帷幕の中に物具脱捨て腹十文字に切給て北枕にぞ臥給ふ。南条是を見て、「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。

☆ 赤橋相模守が自害をしたことと、本間が自害をしたこと

今朝より赤橋前相模守盛時は、州崎に向かい敵軍と戦っていましたが、この方面の戦闘は非常に激烈なものであり、一昼夜の戦闘において、六十五回も白兵戦が行われました。そのため、数万騎は擁していた家来たちも、次々と討たれたり、脱走したりして、

今や僅か三百騎ほどが残っているだけです。赤橋盛時は侍大将としてこの陣を指揮している、南条左衛門高直に向かって、「昔中国で、漢国と楚国が八年に渡る合戦に、漢の高祖は合戦のたびに負けを喫したものの、ただ一度烏江の戦闘に勝利して、楚の項羽を滅ぼした。

また古代中国の春秋時代において、斉国と晋国は七十回の合戦で、晋の重耳は勝つことが出来なかったが、最後に斉国との国境の戦闘に勝ちを収め、重耳は晋国を安泰なものにした。そのような例も過去にあるので、逃れ得ぬくらいの危地から逃れ出て、命を保ったり、

合戦に百度の敗戦を喫しても、一戦に利を得て、最終的な勝利を収めることなど、合戦の常識である。現在戦っている合戦にしても、敵が幾分優勢なように見えても、だからといって我が北条家の運が今日、尽きるとも思えない。

しかし、この盛時は北条家一門の行く末を見届けることをせずに、今この陣営において、腹を切ろうと思う。その訳は、この盛時は足利殿の奥方との縁が繋がっているので、相模守高時殿を始めとして、北条家の人々は私のことを、心から信用していないだろう。

これは武士にとって、恥辱の極まりである。古代中国の戦国時代末期において、燕国の王族、燕太子丹は秦国への対応策を、田光先生に相談した。しかし、その後田光先生は、『この件については他言無用である』と言われ、ことを漏らす疑いを晴らすため、

燕太子丹の前で自害をしたそうだ。今やこの陣営での戦闘は、激戦続きで兵士は疲労の極にある。このような状況の中、だからと言って、守りを固めてきたこの陣営から撤退し、一族の嫌疑の中に身を晒してまで、生き延びてそれが一体何になると言うのだ」と話し、

戦闘はいまだ半ばであるにかかわらず、陣幕の中で甲冑を脱ぎ捨て、腹を十文字に切り、北を向いて伏せられたのです。


さてこそ十八日の晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。懸処に本間山城左衛門は、多年大仏奥州貞直の恩顧の者にて、殊更近習しけるが、聊勘気せられたる事有て、不被免出仕、未だ己が宿所にぞ候ける。已五月十九日の早旦に、極楽寺の切通の軍破れて敵攻入なんど聞へしかば、本間山城左衛門・若党中間百余人、是を最後と出立て極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館二郎宗氏が、三万余騎にて扣たる真中へ懸入て、勇誇たる大勢を八方へ追散し、大将宗氏に組んと透間もなくぞ懸りける。三万余騎の兵共須臾の程に分れ靡き、腰越までぞ引たりける。余りに手繁く進で懸りしかば、大将宗氏は取て返し思ふ程闘て、本間が郎等と引組で、差違へてぞ伏給ひける。本間大に悦で馬より飛で下り、其頚を取て鋒に貫き、貞直の陣に馳参じ、幕の前に畏て、「多年の奉公多日の御恩此一戦を以て奉報候。又御不審の身にて空く罷成候はゞ、後世までの妄念共成ぬべう候へば、今は御免を蒙て、心安冥途の御先仕候はん。」と申もはてず、流るゝ泪を押へつゝ、腹掻切てぞ失にける。「「三軍をば可奪帥」とは彼をぞ云べき。「以徳報怨」とは是をぞ申べき。はづかしの本間が心中や。」とて、落る泪を袖にかけながら、「いざや本間が志を感ぜん。」とて、自打出られしかば、相順兵も泪を流さぬは無りけり。

そのような状況の中、十八日の晩になって、州崎の守備隊が一番に破れ、新田義貞の率いる官軍は、山内まで侵攻しました。その時、本間山城左衛門という者、彼は長年大仏奥州貞直の恩顧を受け、最近なお今まで以上に、忠義を尽くしていたのですが、

少しばかり主人の機嫌を損なうことが起こり、出仕を差し止められ、未だに自分の宿所で謹慎していました。しかし、早くも五月十九日の早朝に、幕府軍は極楽寺坂の切通しでの攻防戦に破れ、敵軍が攻め込んで来たと聞き、本間山城左衛門は若武者や中間(雑務に仕える者)など百余人を率いて、

これが最後のご奉公だと出陣し、極楽寺坂に向かいました。戦場に着くと、敵の大将大舘二郎宗氏が、三万余騎で展開している、敵陣の真ん中を狙って駈け入り、我が勇猛な戦闘を誇っている、敵の大軍を八方に追い散らし、敵の大将宗氏との組討を狙って、間断なく駆け込みました。

この激しい突撃に、三万余騎の敵兵らは、瞬く間に分断され、腰越(鎌倉市)まで退却を始めました。しかし、あまりにも激しい追撃をくらうので、大将の宗氏は引き返し、思う存分戦った後、本間の家来と組み合い、刺し違えて、双方共命を落としました。

本間は大喜びし、馬から飛び降りるや宗氏の首を掻き切り、太刀に突き刺して、大仏定直の陣営に急いで参上しました。本間は陣幕の前に謹んで控え、「長年ご奉公させていただき、その間のご恩に対して、今日この一戦において、ご恩に報うことが出来ました。

また私としては、疑念を持たれたまま、死ぬようなことになれば、後世まで妄執に苦しみ、成仏など出来ないでしょう。今はお許しをいただき、心安らかに、冥土の旅への先達を務めましょう」と、話し終える間もなく、流れる涙を抑え、腹を掻き切り、命を絶ったのでした。

大仏貞直は、「『三軍可奪帥也(論語の言葉で、大軍を率いる武将は、相手の地位や権力は奪えても、その志までは奪えない)』とは、彼のことを言うのだろう。『以徳報怨(徳を以って怨みに報う)』とは、このことを言うのだろう。今は汝に対して我ながら、心中恥ずかしく思うぞ」と、

こぼれる涙で袖を濡らしながら、「よし、では本間の気持ちを、ありがたく受け取ってやろう」と、自ら先頭を切って出陣をすると、あい従う兵士らも、涙を流さない者はいませんでした。


○稲村崎成干潟事
去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。不思議と云も無類。義貞是を見給て、「伝聞、後漢の弐師将軍は、城中に水尽渇に被責ける時、刀を抜て岩石を刺しかば、飛泉俄に湧出き。我朝の神宮皇后は、新羅を責給し時自ら干珠を取、海上に抛給しかば、潮水遠退て終戦に勝事を令得玉ふと。是皆和漢の佳例にして古今の奇瑞に相似り。進めや兵共。」と被下知ければ、江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井の人々を始として、越後・上野・武蔵・相摸の軍勢共、六万余騎を一手に成て、稲村が崎の遠干潟を真一文字に懸通て、鎌倉中へ乱入る。

☆ 稲村崎が干潟になったこと

さて、極楽寺坂の切通しに向かっていた大舘二郎宗氏が、本間山城左衛門に討ち取られて、兵士らは片瀬(藤沢市)や腰越(鎌倉市)まで退却したらしいと聞いた、新田義貞は精兵、一万余騎を率いて、二十一日の夜半に、片瀬、腰越を迂回して、極楽寺坂の切通しに兵を進めました。

明け行く空、月の明りに敵の陣を見ると、北は切通しまで、高い山が続き、険しい道に木戸を構え、垣のように楯を並べて、数万の兵士が陣を構えています。また南側の海は稲村崎で、海岸の砂浜は狭い上、波打ち際まで逆茂木をびっしりと埋め、

海岸から沖、四、五町には大船を並べて浮かべ、櫓を造り敵に側面から矢を射込むようにしています。これでは攻撃陣が手こずって引き上げたのも、無理も無いことだと思いました。そこで義貞は、馬から降りて兜を脱ぎ、海上に向かって遥か遠くを伏し拝み、

竜神に誓願しました。「伝え聞いて居ります。日本国開闢の主、伊勢天照大神は、佛として大日如来にその身を潜め、時にそのお姿を大海原に住む竜神として現われ、我らを助けて下さることを。我が君、後醍醐殿は天照大神の末裔でありながら、

逆臣のために西海の波に、さまようておられます。今ここに新田義貞は、朝臣としての道を尽くそうと、武器を手にし敵陣に臨もうとしております。その望むところは、ただ帝の御政治を補佐し、多くの民々の暮らしを、安心出来るようにすることであります。

願わくば、日本国の内海、外海の竜神八部衆(天、竜をはじめとする仏法守護の八神)殿、この義貞の忠義溢れる志をお汲みになって、海水を万里の沖に退け、通行可能な道を、我ら軍勢のために開いてください」と、真心を込めて祈願を行った上、

我が腰に帯びている、黄金作りの太刀を抜き、海中に投げ入れました。本当に竜神が、義貞の祈願をお受けになったのでしょうか、その夜月が沈む頃、かつて干上がることなど無かった稲村崎の海が、にわかに二十余町も干上がり、砂浜が遥か遠くまで、出現したのでした。

それまで側面から矢を射ようとして、数千もいた敵の兵船も、引いていく潮に引きずられ、遥か沖に漂っています。とても普通では、考えられることではありません。義貞はこれを見て、「過去の事例として聞いているのは、古代中国の後漢国において、

弐師将軍、李広利は城中の水が枯渇し、兵士が喉の渇きに苦しんでいる時、刀を抜いて岩石を突き刺したところ、突然清水が湧き出したこと。また我が国においても、神宮皇后が新羅国を攻撃している時、自ら干珠(かんじゅ::潮を引かせる霊力があるという玉)を取り出し、

海上に投げ込んだところ、潮水が遠くまで引いて行き、その合戦に、勝利を得ることが出来たことなどがある。これらの事例は全て、我が国や中国のめでたい事象であり、過去から今までに見られた幸運の前兆と、良く似ているではないか。

我らの勝利は間違いないのだ、それ、者ども突き進めや、進め」と命令されると、江田、大舘、里見、鳥山、田中、羽河、山名、桃井らの人々をはじめとして、越後、上野、武蔵、相模の軍勢ら、六万余騎が一団にまとまって、稲村崎の干上がったばかりの砂浜を、真一文字に駆け抜けて、鎌倉内に乱入しました。


数多の兵是を見て、後なる敵に懸らんとすれば、前なる寄手迹に付て攻入んとす。前なる敵を欲防と、後の大勢道を塞で欲討と。進退失度、東西に心迷て、墓々敷敵に向て、軍を至す事は無りけり。爰に嶋津四郎と申しは、大力の聞へ有て、誠に器量事がら人に勝れたりければ、御大事に逢ぬべき者也。とて、執事長崎入道烏帽子々にして一人当千と被憑たりければ、詮度の合戦に向んとて未だろ々の防場へは不被向、態相摸入道の屋形の辺にぞ被置ける。懸る処に浜の手破て、源氏已に若宮小路まで攻入たりと騒ぎければ、相摸入道、嶋津を呼寄て、自ら酌を取て酒を進め三度傾ける時、三間の馬屋に被立たりける関東無双の名馬白浪と云けるに、白鞍置てぞ被引ける。見る人是を不浦山と云事なし。嶋津、門前より此馬にひたと打乗て、由井浜の浦風に、濃紅の大笠注を吹そらさせ、三物四物取付て、あたりを払て馳向ければ、数多の軍勢是を見て、誠に一騎当千の兵也。此間執事の重恩を与へて、傍若無人の振舞せられたるも理り哉、と思はぬ人はなかりけり。義貞の兵是を見て、「あはれ敵や。」と罵りければ、栗生・篠塚・畑・矢部・堀口・由良・長浜を始として、大力の覚へ取たる悪者共、我先に彼武者と組で勝負を決せんと、馬を進めて相近づく。両方名誉の大力共が、人交もせず軍する、あれ見よとのゝめきて、敵御方諸共に、難唾を呑で汗を流し、是を見物してぞ扣へたる。懸る処に島津馬より飛で下り、甲を脱で閑々と身繕をする程に、何とするぞと見居たれば、をめ/\と降参して、義貞の勢にぞ加りける。貴賎上下是を見て、誉つる言を翻して、悪まぬ者も無りけり。是を降人の始として、或は年来重恩の郎従、或は累代奉公の家人とも、主を棄て降人になり、親を捨て敵に付、目も不被当有様なり。凡源平威を振ひ、互に天下を争はん事も、今日を限りとぞ見へたりける。

乱入してきた敵軍を見た鎌倉の防衛陣は、この背後から攻めて来る軍勢を、攻撃しようとすれば、前方から攻めてくる敵が、背後に回り、前方の敵を防ごうとすれば、背後の敵軍が退路を封鎖して、討ち取ろうとします。ここに鎌倉防衛軍は完全に進退を失い、

東西さえも分からず、とてもまともな合戦など望みようもありません。その時この陣内に嶋津四郎と言う、大力持ちと言われ、また能力、体格とも紛れも無く、人に優れている武士がいました。そのため彼は重大な場面で働くのが良いであろうと、考えられていました。

その上執事の長崎入道が、烏帽子親になった武士でもあり、一騎当千の武者として、北条一族の皆から信頼されていましたので、勝敗の分かれ目とも考えられる、重要な局面でこそ出陣をさせようと、それまでのあちこちでの戦場には派遣せず、

意図的に相模入道高時の陣中に、待機させていました。そのような時、海岸線の防禦陣が突破され、源氏の倒幕軍は、すでに若宮小路まで攻め込んできたと、大騒ぎになり、相模入道は嶋津を呼び寄せ、自ら酌をして嶋津に酒を勧めました。

そして盃が三杯まで進んだ時、間口三間の厩で飼育されている、関東でも並ぶ馬も無いと言われる、白浪と言う名馬が、銀造りの鞍を置いて、曳かれてきました。見ていた人々も、これには羨ましい限りでした。嶋津は門前より、この馬にひらりと飛び乗って、

由比ヶ浜から吹いてくる浦風に、深紅の大きな笠印をひらめかせながら、武器を三つも四つも身につけ、あたりを払うようにして、敵陣に駆け向かって行きました。この様子を見ていた、多数の軍勢らは、確かに彼は一騎当千の武者に違いない。

今まで執事の長崎入道殿に、並以上の恩恵を受け、ある意味傍若無人な行動があったのも、無理の無いことだなと、思わない人はいませんでした。新田義貞の軍勢はこの武者を見て、「何だ、何だ敵が出て来たぞ」と、馬鹿にしていると、

粟生、篠塚、畑、矢部、堀口、由良、長浜らをはじめとして、力自慢の荒くれどもが、我先に嶋津と組み合って勝負をつけようと、馬を進め互いに近づいてきました。両軍の力自慢の武者同士が、他人を入れずに一騎打ちをするらしく、これは見ものだと騒ぎ立て、

敵味方ともども固唾を呑んで、手に汗してことの成り行きをじっと見詰めていました。そんな中、嶋津は馬から飛び降り、兜を脱ぐと静々と身づくろいを始め、一体何をする気なのかと見ていると、恥ずかしくもなく降参を申し入れ、義貞の軍勢に加わったのでした。

この事態にはさすが身分に関係なく、嶋津に対する今までの賞賛の言葉を引っ込めて、軽蔑しない者は一人もいませんでした。しかし、この嶋津の降伏を手始めに、ある者は長年の恩顧を忘れた家来たちや、あるいは代々仕えてきた奉公人らが、主人を裏切って降伏し、

親を見捨てて敵軍に加わり、目も当てられない程、情け無い状況を作り出したのです。もはや源氏、平家が互いに武力の全てをかけて、天下を争うことは、今日を最後に終結するのではと思われました。      (終)    

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