10 太平記 巻第十 (その二)


○鎌倉兵火事付長崎父子武勇事
去程に、浜面の在家並稲瀬河の東西に火を懸たれば、折節浜風烈吹布て、車輪の如くなる炎、黒煙の中に飛散て、十町二十町が外に燃付事、同時に二十余箇所也。猛火の下より源氏の兵乱入て、度方を失へる敵共を、此彼に射伏切臥、或引組差違、或生捕分捕様々也。煙に迷る女・童部共、被追立て火の中堀の底共不云、逃倒れたる有様は、是や此帝尺宮の闘に、修羅の眷属共天帝の為に被罰て、剣戟の上に倒伏阿鼻大城の罪人が獄卒の槍に被駆て、鉄湯の底に落入る覧も、角やと被思知て、語るに言も更になく、聞に哀を催して、皆泪にぞ咽ける。去程に余煙四方より吹懸て、相摸入道殿の屋形近く火懸りければ、相摸入道殿千余騎にて、葛西が谷に引篭り給ければ、諸大将の兵共は、東勝寺に充満たり。是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰にて兵共に防矢射させて、心閑に自害せん也。中にも長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基二人は、極楽寺の切通へ向て、責入敵を支て防けるが、敵の時の声已に小町口に聞へて、鎌倉殿へ御屋形に、火懸りぬと見へしかば、相随ふ兵七千余騎をば、猶本の責口に残置き、父子二人が手勢六百余騎を勝て、小町口へぞ向ける。義貞の兵是を見て、中に取篭て討んとす。長崎父子一所に打寄て魚鱗に連ては懸破り、虎韜に別ては追靡け、七八度が程ぞ揉だりける。義貞の兵共蜘手・十文字に被懸散て、若宮小路へ颯と引て、人馬に息をぞ継せける。懸る処に、天狗堂と扇が谷に軍有と覚て、馬煙夥敷みへければ、長崎父子左右へ別て、馳向はんとしけるが、子息勘解由左衛門、是を限と思ければ、名残惜げに立止て、遥に父の方を見遣て、両眼より泪を浮べて、行も過ざりけるを、父屹と是を見て、高らかに恥しめて、馬を扣て云けるは、「何か名残の可惜る、独死て独生残らんにこそ、再会其期も久しからんずれ。我も人も今日の日の中に討死して、明日は又冥途にて寄合んずる者が、一夜の程の別れ、何かさまでは悲かるべき。」と、高声に申ければ、為基泪を推拭ひ、「さ候はゞ疾して冥途の旅を御急候へ。死出の山路にては待進せ候はん。」と云捨て、大勢の中へ懸入ける心の中こそ哀なれ。

☆ 鎌倉中が兵火に包まれたことと、長崎父子の勇敢な戦闘のこと

やがて討幕軍は、海岸沿いの家屋などや、稲瀬川の東西周辺に火をかけると、その時ちょうど、浜風が激しく吹き荒れていたので、車輪の回るように渦巻く炎は、黒煙と一緒になって周辺に飛び火し、十町、二十町ほども離れた場所が、同時に燃え移ること、二十余ヶ所に上りました。

燃え盛る炎の中から、源氏の討幕軍の兵士らは鎌倉に乱入して、途方にくれている鎌倉守備軍の兵士らを、あちらこちらで射殺したり、斬り伏せたり、或いは引っ掴んで刺し違えたり、ある者は生け捕りにしたり、その他武器を分捕ったりとか、やりたい放題になってしまいました。

煙に追われて道も分からなくなった女や、子供たちも追い立てられ、火の中や堀の水底など逃げ回った挙句に、倒れこむ様子は、まさしく帝釈宮における戦闘で、阿修羅の一族が帝釈天に罰せられ、武器によって倒されたり、

あるいは無間地獄(八大地獄の最低で、大焦熱地獄の下にある。間断なく苦しみもがく状態)に落ちた罪人が、地獄の役人の持つ槍に追い回され、熱湯溢れる池の底に、落ち込む様子も、このような状況ではないかと思われ、語るにも言葉を失い、また聞けば聞くほど悲しみを覚え、

誰もが涙に咽ぶのでした。その内、鎌倉を燃やす煙は四方から流れ込み、相模入道高時殿の屋敷にも火が回りました。高時殿は千余騎を率いて、葛西が谷(鎌倉市)に逃げ込みましたので、諸大将の武者は東勝寺に集結しました。

この寺は高時にとって、父祖代々の墓地でもあり、ここで兵士らに防戦させながら、心静かに自害をするためです。その頃、長崎三郎左衛門入道思元と、子息の勘解由左衛門為基の二人は極楽寺の切通しで、攻め込んでくる敵を防いでいましたが、

敵の挙げる閧の声は、すでに小町口の辺りで聞こえ、鎌倉殿のお屋敷にも火がかかったように見えました。そこで、従っていた七千余騎の軍勢は、猶本の戦場に残して、父子二人は手勢の中より、六百余騎を選んで、小町口方面に向かいました。

これを見ていた義貞の軍勢は、彼らを取り篭め、討ち取ってしまおうとしました。長崎父子は一ヶ所に寄り添い、魚鱗の陣形(一ヶ所を突出させた陣形)になって駆け破ったり、中国古代の兵法書、六韜にある虎韜の陣形に開いて、敵を追い廻したり、七、八度ほど敵勢と揉みあいました。

この攻撃に義貞の軍勢らは、蜘蛛手のようにばらばらにされたり、十文字のように前後左右に追い散らされ、若宮小路にサッと引き上げ、人馬共々荒れた息を整えました。その時、天狗堂と扇ガ谷で合戦が始まったらしく、駆け回る馬の土ぼこりが、激しく舞い上がるのが見え、

長崎父子は左右に従っている郎党らと別れ、駆け付けようとしました。その時、子息の勘解由左衛門は、これが永の別れになるのかと、名残惜しげに立ち止まって、父の姿を遠く見つめながら、両の目に涙を浮かべ、歩みを止めていると、父が厳しい目で見咎め、

大声でしかりつけながら馬を寄せて、「何を名残惜しんでいるのだ。片方が死んで、他方が生き残るのなら、再び出会うことはないので、名残を惜しむのも良いが、今は私も汝も今日中に討ち死にし、明日は冥土で落ち合う者同士が、ただの一夜の別れに、

なぜそれほど悲しむのだ」と、声高に話されると、子息の勘解由左衛門為基は涙を力強く拭って、「だったら、どうぞ冥土の旅に向かってお急ぎください。私は冥土への山道にて、お待ちいたしています」と言い捨てるや、敵の大軍に向かって駆け込みましたが、彼の心中は本当に、悲しく哀れなものです。


相順兵僅に二十余騎に成しかば、敵三千余騎の真中に取篭て、短兵急に拉がんとす。為基が佩たる太刀は面影と名付て、来太郎国行が、百日精進して、百貫にて三尺三寸に打たる太刀なれば、此鋒に廻る者、或は甲の鉢を立破に被破、或胸板を袈裟懸に切て被落ける程に、敵皆是に被追立て、敢て近付者も無りけり。只陣を隔て矢衾を作て、遠矢に射殺さんとしける間、為基乗たる馬に矢の立事七筋也。角ては可然敵に近て、組んとする事叶はじと思ければ、由井の浜の大鳥居の前にて馬よりゆらりと飛で下、只一人太刀を倒に杖て、二王立にぞ立たりける。義貞の兵是を見て、猶も只十方より遠矢に射計にて、寄合んとする者ぞ無りける。敵を為謀手負たる真似をして、小膝を折てぞ臥たりける。爰に誰とは不知、輪子引両の笠符付たる武者、五十余騎ひし/\と打寄て、勘解由左衛門が頚を取んと、争ひ近付ける処に、為基かはと起て太刀を取直し、「何者ぞ、人の軍にしくたびれて、昼寝したるを驚すは。いで己等がほしがる頚取せん。」と云侭に、鐔本まで血に成たる太刀を打振て、鳴雷の落懸る様に、大手をはだけて追ける間、五十余騎の者共、逸足を出し逃ける間、勘解由左衛門大音を揚て、「何くまで逃るぞ。蓬し、返せ。と罵る声の、只耳本に聞へて、日来さしも早しと思し馬共、皆一所に躍る心地して、恐しなんど云許なし。為基只一人懸入て裏へぬけ、取て返しては懸乱し、今日を限と闘しが、二十一日の合戦に、由比浜の大勢を東西南北に懸散し、敵・御方の目を驚し、其後は生死を不知成にけり。

戦闘を続ける内、為基に従う兵士らは、僅か二十余騎にまでなり、敵の三千余騎の真ん中に取り篭められ、激しく攻撃してきます。為基が身に着けている太刀は、面影と言う銘が付けられており、来太郎国行と言う刀鍛冶が、百日間の精進を続け、

百貫の鋼から、三尺三寸に鍛錬された太刀ですから、この太刀にかかった者は、ある者は兜の鉢金を、真っ向から断ち割られ、またある者は胸板を、袈裟懸けに切り落とされますから、敵の兵士らも、この太刀に追い立てられ、あえて近づこうとはしません。

ただ遠巻きに弓を並べて、遠矢で射殺しようとしますから、為基の乗った馬には、七本も矢が突き刺さっています。この状況では良き敵を選んで、組討することも出来ないと思われ、止む無く由比ヶ浜にある、大鳥居の前で馬からゆっくりと飛び降り、ただ一人太刀を突き刺し、

仁王立ちになりました。義貞の兵士らはこの様子を見ても、まだ遠くより矢を射るばかりで、近づいて来る者はいません。そこで敵を欺くため、負傷しているように見せようと、膝を折ってその場に伏せました。その時、誰の手の者か分かりませんが、

輪鼓(りゅうご)引両の笠印を付けた武者、五十余騎ほどがじわじわと寄って来ると、勘解由左衛門の首を取ろうと、我先に近づいて来た時、為基はガバッと起き、太刀を取り直して、「何者だ、人が軍に疲れて、昼寝をしているのに驚かす奴は。

貴様らの欲しがる首を取らせやろう」と言いながら、鍔の近くまで血に染まった、太刀を振り回し、鳴り響く雷が落ちたみたいに、大手を広げて追いかけると、五十余騎の者どもは、全力で逃げ出しました。勘解由左衛門は大声を挙げて、「どこまで逃げる気だ。

醜いぞ、引き返せ」と、罵る声ばかりが耳もとで聞こえ、普段は結構早く駆けると思っていた馬も、今日は同じところを、飛び回っている気がして、恐ろしいなんてものではありません。為基はその後も、ただ一人で駆け入っては反対側まで突き抜け、

また引き返しては敵中に駆け込み、今日を限りと戦い続けました。しかし、二十一日の合戦において、由比ヶ浜の大敵を東西南北に蹴散らし、敵や味方の目を驚かしはしたものの、その後彼の生死を知る者はいません。


○大仏貞直並金沢貞将討死事
去程に、大仏陸奥守貞直は、昨日まで二万余騎にて、極楽寺の切通を支て防闘ひ給けるが、今朝の浜の合戦に、三百余騎に討成れ、剰敵に後を被遮て、前後に度を失て御座ける処に、鎌倉殿の御屋形にも火懸りぬと見へしかば、世間今はさてとや思けん、又主の自害をや勧めけん、宗徒の郎従三十余人、白州の上に物具脱棄て、一面に並居て腹をぞ切にける。貞直是を見給て、「日本一の不覚の者共の行跡哉。千騎が一騎に成までも、敵を亡名を後代に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いでさらば最後の一合戦快して、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎の兵を相随へ、先大嶋・里見・額田・桃井、六千余騎にて磬たる真中へ破て入、思程闘て、敵数た討取て、ばつと駈出見給へば、其勢僅に六十余騎に成にけり。貞直其兵を指招て、「今は末々の敵と懸合ても無益也。」とて、脇屋義助雲霞のごとくに扣たる真中へ駈入、一人も不残討死して尸を戦場の土にぞ残しける。金沢武蔵守貞将も、山内の合戦に相従ふ兵八百余人被打散我身も七箇所まで疵を蒙て、相摸入道の御坐す東勝寺へ打帰り給たりければ、入道不斜感謝して、軈て両探題職に可被居御教書を被成、相摸守にぞ被移ける。貞将は一家の滅亡日の中を不過と被思けれ共、「多年の所望、氏族の規摸とする職なれば、今は冥途の思出にもなれかし。」と、彼御教書を請取て、又戦場へ打出給けるが、其御教書の裏に、「棄我百年命報公一日恩。」と大文字に書て、是を鎧の引合に入て、大勢の中へ懸入、終に討死し玉ければ、当家も他家も推双て、感ぜぬ者も無りけり。

☆ 大仏貞直と金沢貞将が討ち死にされたこと

また大仏陸奥守貞直は昨日(五月二十一日)まで、二万余騎の軍勢を率いて、極楽寺の切通しを守備し戦っていましたが、今朝の浜における合戦で、三百余騎まで討ち取られ、その上敵に後方を遮断され、これからどうすれば良いか途方に暮れている時、

鎌倉殿のお屋敷にも火が回ったように見え、この世のことはここまでと思ったのか、或いはまた主人、貞直に自害を勧めようとしたのか、主だった家来ら三十余人が、白州の上で甲冑を脱ぎ捨て、全員が並んで腹を切ったのでした。

貞直はこの事態を見て、「一体何を考えてそんなことをするのだ。この馬鹿者め。たとえ千騎が一騎になるまで戦って敵を討ち取り、我が名を後世に残すことが、勇猛なる武者として、本来取るべき道ではないのか。やむを得ん、こうなればこの私が最後の一戦を華々しく戦って、

皆の武者としての一分を立ててやろう」と、二百余騎の武者を率いて、まず大嶋、里見、額田、桃井らが、六千余騎で声を上げているど真ん中に駈け入り、思う存分戦い敵を数多く討ち取ってから、敵中を脱出しましたが、その率いる兵士は僅か六十余騎になっていました。

大仏貞直は残った兵士らをそばに呼び、「今はもう、残っている敵の雑武者とは、いくら戦っても無駄だろう」と、雲霞のように展開している、脇屋義助の軍勢の真ん中に駈け入り、一人残らず討ち死にし、その屍を戦場の土に残したのでした。

また金沢武蔵守貞将も山内の合戦において、配下の兵士、八百余人で戦っていましたが負けを喫し、我が身も七ヶ所に傷を受け、相模入道高時が居られる東勝寺へ帰られました。相模入道は彼に大変感謝の気持ちを表され、すぐに南北の両探題職を命ずる旨の御教書を出され、

相模守に任じられました。貞将は、もはや北条家は今日にも滅亡すると思われるのに、「長年願望していた、北条家にとって最高の職務でもあり、今は冥土への思い出になるだろう」と、その御教書を受け取り、再び戦場に向かわれましたが、

その御教書の裏面に、「私は百年の命を捨てても、主人から受けたこの一日の恩賞に報おう」と、大きな文字で書き、鎧の引き合わせ(鎧の胴の右脇部分、鎧の前後を引き締めるところ)に挟んで大敵の中へ駈け入り、ついに討ち死にされましたが、

このことについて北条家は勿論のこと、他家の人々からも絶賛を受けられたのでした。


○信忍自害事
去程に普恩寺前相摸入道信忍も、粧粧坂へ被向たりしが、夜る昼る五日の合戦に、郎従悉く討死して、僅に二十余騎ぞ残ける。諸方の攻口皆破て、敵谷々に入乱ぬと申ければ、入道普恩寺討残されたる若党諸共に自害せられけるが、子息越後守仲時六波羅を落て、江州番馬にて腹切玉ぬと告たりければ、其最後の有様思出して、哀に不堪や被思けん、一首の歌を御堂の柱に血を以て書付玉けるとかや、待しばし死出の山辺の旅の道同く越て浮世語らん年来嗜弄給し事とて、最後の時も不忘、心中の愁緒を述て、天下の称嘆に残されける、数奇の程こそ優けれと、皆感涙をぞ流しける。

☆ 信忍が自害されたこと

また前相模守北条基時、出家してからの普恩寺入道信忍も、化粧坂の防衛戦に出陣していましたが、夜昼無く五日間戦った合戦に、家来のほとんどが討ち死にしてしまい、僅か二十余騎ばかりが残っただけです。諸方面の新田軍との攻防戦は、

全て鎌倉幕府軍の負けがはっきりし、敵軍は鎌倉を取り巻く山々の、谷に乱入してきたと言われ、相模入道信忍は普恩寺に、まだ生き残っている若武者らと一緒に自害されました。彼は自分の子息、越後守仲時が六波羅を落ち延びたものの、江州番場にて腹を切ったと聞き、

その最期の様子を思い出し、悲しみに耐えられず、一首の歌を詠み御堂の柱に、自分の血で書き付けられました。
      待てしばし 死出の山辺の 旅の道 同く越て 浮世語らん

長年嗜んできた歌の道ですから、この最期の時に臨んでもその心を失わず、今の気持ちを歌に込め、人々の賞賛を後世の天下に残されたのでした。風雅な心の奥ゆかしさに、皆は感激し涙を流されたのでした。


○塩田父子自害事
爰に不思議なりしは、塩田陸奥入道々祐が子息民部大輔俊時、親の自害を勧んと、腹掻切て目前に臥たりけるを見給て、幾程ならぬ今生の別に目くれ心迷て落る泪も不留、先立ぬる子息の菩提をも祈り、我逆修にも備へんとや被思けん、子息の尸骸に向て、年来誦給ける持経の紐を解、要文処々打上、心閑に読誦し給けり。被打漏たる郎等共、主と共に自害せんとて、二百余人並居たりけるを、三方へ差遣し、「此御経誦終る程防矢射よ。」と下地せられけり。其中に狩野五郎重光許は年来の者なる上、近々召仕れければ、「吾腹切て後、屋形に火懸て、敵に頚とらすな。」と云含め、一人被留置けるが、法花経已に五の巻の提婆品はてんとしける時、狩野五郎門前に走出て四方を見る真似をして、「防矢仕つる者共早皆討れて、敵攻近付候。早々御自害候へ。」と勧ければ、入道、「さらば。」とて、経をば左の手に握り、右の手に刀を抜て腹十文字に掻切て、父子同枕にぞ臥給ける。重光は年来と云、重恩と云、当時遺言旁難遁ければ、軈て腹をも切らんずらんと思たれば、さは無て、主二人の鎧・太刀・々剥、家中の財宝中間・下部に取持せて、円覚寺の蔵主寮にぞ隠居たりける。此重宝共にては、一期不足非じと覚しに、天罰にや懸りけん。舟田入道是を聞付て推寄せ、是非なく召捕て、遂に頚を刎て、由井の浜にぞ掛られける。尤角こそ有たけれとて、悪ぬ者も無りけり。

☆ 塩田父子が自害されたこと

鎌倉陥落時に起こった、このようにおかしな事ですが、塩田陸奥入道道祐は自分の子息である民部大輔俊時が、親に自害を勧めようと、腹を掻き切って、自分の目の前で倒れ込むのを目撃しました。突然にやってきた子息との今生の別れに、目の前が真っ暗になり、

気持ちも落ち着きを失い、落ちる涙も止まりません。先立った我が子の冥福を祈り、年老いた親であるが、若くして死んだ子供の成仏を願おうと、我が子の遺体に向かって、常々読経のため、身に着けている経文の紐を解き、要所要所を選んで、心静かに読経されました。

まだ生き残っている家来らは、主人と一緒に自害しようと、二百余人が並んでいましたが、彼らを三方向に向かわせ、「これから始める読経が終わるまで、敵に矢を射掛けて進入を防いでくれ」と、命令されました。その家来の中で狩野五郎重光は、長年仕えてきた家の者であり、

彼も最近塩田入道に仕えた者であるので、「私が腹を切ってから、屋敷に火をかけ、敵に私の首を取らせないように」と良く言い聞かせ、その場に一人だけ残しました。やがて法華経もすでに第五巻の提婆達多品も終わろうとした時、狩野五郎が門の前に走り出ると、

四方を見回すようにして、「防ぎ矢を射ていた者たちは、早くも皆討たれてしまい、敵が近づいて来ました。早く御自害をお願いします」と、勧めました。入道は、「さらば」と言葉を残し、経本を左の手に握り、右の手には刀を抜いて、腹を十文字に掻き切り、

父子共々同じ場所に伏せられたのです。狩野重光は長年の家臣であることや、恩顧を受けてきたことと言い、主人の遺言を忠実に果たして、すぐに自分も腹を切るだろうと思っていましたが、そうではなく、主人父子の鎧、太刀、脇差などを遺体より奪い、

屋敷中の財宝を、中間や下男に命じて持ってこさせ、それを持って円覚寺の経蔵を管理する僧侶の部屋に隠れました。彼はこれだけの財宝らがあれば、今後何も困ることも無いだろうと、思っていましたが、天罰を受けたのか、舟田入道がこのことを聞きつけて、

押し寄せてくると有無を言わさず召し取り、とうとう首を刎ね、由比ヶ浜に晒しました。勿論このような処置に対して、悪く言うものは誰もいませんでした。


○塩飽入道自害事
塩飽新左近入道聖遠は、嫡子三郎左衛門忠頼を呼、「諸方の攻口悉破、御一門達大略腹切せ給と聞へければ、入道も守殿に先立進て、其忠義を知られ奉らんと思也。されば御辺は未だ私の眷養にて、公方の御恩をも蒙らねば、縦ひ一所にて今命を不棄共、人強義を知ぬ者とはよも思はじ。然者何くにも暫く身を隠し、出家遁世の身ともなり、我後生をも訪ひ、心安く一身の生涯をもくらせかし。」と、泪の中に宣ひければ、三郎左衛門忠頼も、両眼に泪を浮め、しば/\物も不被申けるが、良有て、「是こそ仰共覚候はね。忠頼直に公方の御恩を蒙りたる事は候はね共、一家の続命悉く是武恩に非と云事なし。其上忠頼自幼少釈門に至る身ならば、恩を棄て無為に入る道も然なるべし。苟も弓矢の家に生れ、名を此門棄に懸ながら、武運の傾を見て、時の難を遁れんが為に、出塵の身と成て、天下の人に指を差れん事、是に過たる恥辱や候べき。御腹被召候はゞ、冥途の御道しるべ仕候はん。」と云も終ず、袖の下より刀を抜て、偸に腹に突立て、畏たる体にて死ける。其弟塩飽四郎是を見て、続て腹を切らんとしけるを、父の入道大に諌て、「暫く吾を先立、順次の孝を専にし、其後自害せよ。」と申ければ、塩飽四郎抜たる刀を収て、父の入道が前に畏てぞ侯ける。入道是を見て快げに打笑、閑々と中門に曲■をかざらせて、其上に結跏趺座し、硯取寄て自ら筆を染め、辞世の頌をぞ書たりける。提持吹毛。截断虚空。大火聚裡。一道清風。と書て、叉手して頭を伸て、子息四郎に、「其討。」と下地しければ、大膚脱に成て、父の頚をうち落て、其太刀を取直て、鐔本まで己れが腹に突貫て、うつぶしざまにぞ臥たりける。郎等三人是を見て走寄り、同太刀に被貫て、串に指たる魚肉の如く頭を連て伏たりける。

☆ 塩飽入道が自害をされたこと

塩飽新左近入道聖遠は嫡子の塩飽三郎左衛門忠頼を呼び寄せて、「鎌倉の防御戦線はことごとく負けを喫してしまい、北条御一門の皆様方は、ほとんど腹を切られたと聞き、この入道も相模守高時殿に先立って腹を切り、私の忠義の心を示したいと思う。

しかし、汝はまだ私の庇護下にあり、北条家のご恩を受けた訳ではないので、たとえここで私と一緒に、命を捨てなくても、誰も忠義の心が無い人間だと、思わないだろう。そこで、どこかにしばらく身を隠し、その後出家して、世間との関わりを捨て、私の後生を弔いながら、

何も心配することなく、自分の一生を全うするように」と、涙ながらに話されますと、三郎左衛門忠頼も両の目に涙を浮かべ、しばらく言葉もありませんでした。ややあって、「これはとても父上のお言葉とも思えません。この忠頼は確かに、鎌倉殿の恩を直接受けてはいませんが、

我が家が代々続いていることは、これすべて北条家のご恩を、受けているからです。ましてこの忠頼が幼少の頃から、仏門に入る予定の人間であれば、今までのご恩を捨てて、真実の道を求めて仏門に入ることも、また自然かも知れません。

しかし、いやしくも弓矢を取る家に生まれて、我が名を家系の端であっても連ねながら、我が家の武運の衰退を見て、一時逃れのために出家などして、天下の人々に指を指されることなど、これ以上の屈辱は無いでしょう。

父上が御腹を召されたならば、その時は、私が冥土への道案内を引き受けましょう」と言う間もなく、袖の下より刀を抜くと、父に気づかれないように腹に突き立て、申し訳なさそうに死んだのでした。彼の弟、塩飽四郎がこれを見て、続けて腹を切ろうとしたのを、

父の入道は大慌てで引き止め、「ちょっと待て、私が先に自害する。老若の順序を守って、私の後から自害をするように」と注意されると、塩飽四郎は抜いた刀を再び鞘に収め、父の入道の前に大人しく控えました。入道はこの様子を見て、気持ち良さそうに笑い、

静かに中門に曲録(仏事用の椅子)を設けて、その上に結跏趺坐(片方の足を他方の腿の上に組んで座ること)して、硯を取り寄せると自ら筆に墨をつけ、辞世の詩句を書かれました。

      提持吹毛 截断虚空 大火聚裡 一道清風 (研ぎ澄まされた剣を持って、虚空を切り裂けば、大火の炎が集まる場所にも、一陣の風が吹き渡るだろう)

その後、握った手を他方の手で覆い胸に当てると、頭を差し伸べ、子息の四郎に、「さあ、討て」と、命じられました。四郎は両肌脱ぎになって、父の首を打ち落とし、その太刀を持ち直すと、鍔元まで我が腹に突き貫き、うつ伏せになってその場に倒れ込みました。

家来ら三人はこれを見て走り寄り、同じ太刀に我が身を刺し貫き、串に刺した魚肉のようになって、頭を並べて伏したのでした。


○安東入道自害事付漢王陵事
安東左衛門入道聖秀と申しは、新田義貞の北台の伯父成しかば、彼女房義貞の状に我文を書副て、偸に聖秀が方へぞ被遣ける。安東、始は三千余騎にて、稲瀬河へ向たりけるが、世良田太郎が稲村崎より後へ回りける勢に、陣を被破て引けるが、由良・長浜が勢に被取篭て百余騎に被討成、我身も薄手あまた所負て、己が館へ帰たりけるが、今朝巳刻に、宿所は早焼て其跡もなし。妻子遣属は何ちへか落行けん、行末も不知成て、可尋問人もなし。是のみならず、鎌倉殿の御屋形も焼て、入道殿東勝寺へ落させ給ぬと申者有ければ、「さて御屋形の焼跡には、傍輩何様腹切討死してみゆるか。」と尋ければ、「一人も不見候。」とぞ答ける。是を聞て安東、「口惜事哉。日本国の主、鎌倉殿程の年来住給し処を敵の馬の蹄に懸させながら、そこにて千人も二千人も討死する人の無りし事よと、後の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命を、御屋形の焼跡にて心閑に自害して、鎌倉殿の御恥を洗がん。」とて、被討残たる郎等百余騎を相順へて、小町口へ打莅む。先々出仕の如く、塔辻にて馬より下り、空き迹を見廻せば、今朝までは、奇麗なる大廈高牆の構、忽に灰燼と成て、須臾転変の煙を残し、昨日まで遊戯せし親類朋友も、多く戦場に死して、盛者必衰の尸を余せり。

☆ 安東入道が自害をされたことと、漢国の王陵のこと

安東左衛門入道聖秀と言うお方は、新田義貞の奥方の伯父にあたりますが、義貞の奥方は夫が伯父へ送った手紙に、自分の言葉を書き添え、こっそりと聖秀のもとに届けてもらいました。その安東は最初三千余騎にて、稲瀬川(鎌倉市)に向かいましたが、

稲村崎から後方に回った、世良田太郎の軍勢に敗れ、退却を始めました。しかし、由良、長浜の軍勢に取り囲まれ、百余騎にまで討ち取られた上、自分も大したことは無いものの、多くの傷を受け、自分の屋敷に帰ろうとしましたが、今朝、巳刻(午前十時頃)に屋敷はすでに燃え尽きて、

跡形もありません。妻子や親族らは一体何処へ落ちて行ったのか、行く先も分かりませんし、尋ねる人もいません。それだけでなく、鎌倉殿の御屋敷も火災になり、相模入道高時殿は東勝寺に落ち延びられたと言う者もおり、「それだったら御屋敷の焼け跡では、

仲間の人たち一体何人が腹を切ったのか」と、尋ねられました。しかし、「一人も居りません」と返事があり、聞いた安東は、「何とも悔しい限りではないか。日本国の主たる北条高時殿が、長年お住まいになった屋敷を、敵の馬蹄に汚されていながら、

そこで千人か二千人すら討ち死にしなかったと、後世の人々に非難され馬鹿にされることほど、屈辱的なことはない。そこでだ、みなの者、どうせ死ぬことになる命ならば、鎌倉殿の御舘の焼け跡で、心静かに自害をして、鎌倉殿高時様が受けられた恥を、雪ごうではないか」と話し、

まだ生き残っている家来ら百余騎を率いて、小町口へ向かいました。安東入道聖秀はいつもの出仕のように、塔辻にて馬を降り、屋敷の跡地を見渡してみれば、今朝まで美しくそびえていた、大きく豪壮なる建物は、すべて瞬く間に灰燼に帰し、はかない無常の煙だけが、

立ち上っています。昨日まで共に遊興を楽しんだ、親族や同僚たちも、多くが戦場に死に絶え、まさしく盛者必衰の屍を、野末にさらしたのです。


悲の中の悲に、安東泪を押へて惘然たる処に、新田殿の北の台の御使とて、薄様に書たる文を捧たり。何事ぞとて披見れば、「鎌倉の有様今はさてとこそ承候へ。何にもして此方へ御出候へ。此程の式をば身に替ても可申宥候。」なんど、様々に書れたり。是を見て安東大に色を損じて申けるは、「栴檀の林に入者は、不染衣自ら香しといへり。武士の女房たる者は、けなげなる心を一つ持てこそ、其家をも継子孫の名をも露す事なれ。されば昔漢の高祖と楚項羽と闘ける時、王陵と云者城を構て篭たりしを、楚是を攻るに更に不落。此時楚の兵相謀て云、「王陵は母の為に忠孝を存ずる事不浅。所詮王陵が母を捕へて楯の面に当て城を攻る程ならば、王陵矢を射る事を不得して降人に出る事可有。」とて潛に彼母を捕てけり。彼母心の中に思けるは、王陵我に仕る事大舜・曾参が高孝にも過たり。我若楯の面に被縛城に向ふ程ならば、王陵悲に不堪して、城を被落事可有。不如無幾程命を為子孫捨んにはと思定て、自剣の上に死てこそ、遂に王陵が名をば揚たりしか。我只今まで武恩に浴して、人に被知身となれり。今事の急なるに臨で、降人に出たらば、人豈恥を知たる者と思はんや。されば女性心にて縦加様の事を被云共、義貞勇士の義を知給ば、さる事やあるべき、可被制。又義貞縱敵の志を計らん為に宣ふ共、北方は我方様の名を失はじと思はれば、堅可被辞、只似るを友とする方見さ、子孫の為に不被憑。」と、一度は恨一度は怒て、彼使の見る前にて、其文を刀に拳り加へて、腹掻切てぞ失給ける。

悲しみこの上ない悲嘆の中、安東は涙を抑えて、呆然と立ちすくんでいるところに、新田殿の奥方からのお使いが、薄い和紙に書かれた手紙を持って来ました。一体何事かと開いて見れば、「鎌倉の状況については、今はもうご存知のことと思います。

何はさておいても、こちらの方へお越しください。この度の事情については、私の身に替えても、許しを請いたく思います」など、こまごまと書かれていました。これを読み、安東は大いに機嫌を損ない、「栴檀(白檀)の林に入った者は、香を焚き染めなくても、自然と芳しくなると言う。

武士の女房たる者は、勇ましく気丈に振舞う気持ちだけを持ってこそ、その家系を守り通し、また子孫の名を、世にあらわすことができるのだ。このような話もある。昔中国で漢国の高祖と、楚国の項羽が戦っていた時、王陵と言う者が、城を楯に立て篭もった。

楚国はこれを攻撃したが、とても攻略出来なかった。この時、楚国の兵士らが相談して、ある謀略を考え、『王陵は母に対して、非常に孝行の心が強い。そこで王陵の母を捕らえて、彼女を楯の前面に置いて、城を攻めれば王陵は矢を射ることも出来ず、

降参することになるだろう』と、密かに彼の母親を捕らたのだ。彼女は心の底では、王陵の私に対する孝行の心は、舜帝や曾参(共に中国において孝行の人と言われている)の母に対する孝行に、負けるものではない。もし私が楯の前面に縛り付けられて、城に向かうことがあれば、

王陵は悲しみに耐えられず、城を開くことになるだろう。ここは老い先短い私の命は、子供のために捨てようと思い、自ら剣の上に倒れこんで死んだのだ。そのおかげで王陵の名前は揚がり、世に知れることになったのだ。私は今まで鎌倉殿の恩を受けて、人に知られる身とはなった。

しかし、今この事態に当たって降参などすれば、一体人は私のことを、恥を知った人間だと誰が思うのか。だから彼女が女性としての気持ちから、たとえこのようなことを言おうとしても、新田義貞が武士としての信義を知っているなら、このような手紙を寄越すことなど、させてはならないのだ。

また義貞が、たとえば敵の考えていることを知らんがため、このようなことを言わそうとしても、奥方が我らの名を失うことなどしたくなければ、絶対に断るべきなのだ。ただ似たもの同士が夫婦になったのなら、これは子孫にとっては頼りなく、

余り良いことではないだろう」と、一旦は悲しんで見たものの、やはり怒りを覚え、使者の目の前で、手紙と共に刀を握り締め、腹を掻き切って死んだのでした。


○亀寿殿令落信濃事付左近大夫偽落奥州事
爰に相摸入道殿の舎弟四郎左近大夫入道の方に候ける諏方左馬助入道が子息、諏訪三郎盛高は、数度の戦に郎等皆討れぬ。只主従二騎に成て、左近大夫入道の宿所に来て申けるは、「鎌倉中の合戦、今は是までと覚て候間、最後の御伴仕候はん為に参て候。早思召切せ給へ。」と進め申ければ、入道当りの人をのけさせて、潛に盛高が耳に宣ひけるは、「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相摸入道殿の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや。昔斉の襄公無道なりしかば、斉の国可亡を見て、其臣に鮑叔牙と云ける者、襄公の子小伯を取て他国へ落てげり。其間に襄公果して公孫無智に被亡、斉の国を失へり。其時に鮑叔牙小伯を取立て、斉の国へ推寄、公孫無智を討事を得て遂に再び斉の国を保たせける。斉の桓公は是也。されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂。兄の万寿をば五大院の右衛門に申付たれば、心安く覚る也。」と宣へば、盛高泪を押へて申けるは、「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、「死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し」と申事候へば、兎も角も仰に可随候。」とて、盛高は御前を罷立て、相摸殿の妾、二位殿の御局の扇の谷に御坐ける処へ参たりければ、御局を始進せて、女房達まで誠に嬉し気にて、「さても此世の中は、何と成行べきぞや。我等は女なれば立隠るゝ方も有ぬべし。此亀寿をば如何すべき。兄の万寿をば五大院右衛門可蔵方有とて、今朝何方へやらん具足しつれば心安く思也。只此亀寿が事思煩て、露の如なる我身さへ、消侘ぬるぞ。」と泣口説給ふ。

☆ 亀寿殿を信濃に落とされたことと、左近大夫北条泰家が自害したように見せて、奥州に落ちたとこと

この時相模入道高時殿の舎弟、四郎左近左近大夫入道泰家に預けられていた、諏訪左馬助入道の子息、諏訪三郎盛高は数回の戦闘で、家来たちは皆討たれてしまいました。そして主従二騎にまでなって、左近大夫入道の屋敷に来ると、「鎌倉中で戦われている合戦も、

もはやこれまでかと思い、最期のお供をしようと思い、ここにやってきました。どうぞお早く御自害お願いします」と、申し上げました。相模入道泰家殿は周りの人を遠ざけると、そっと盛高の耳に口を近づけ、「今回のこの合戦は突然に起こり、

この北条家はもはや滅亡すること、間違いなかろう。それは、相模入道高時殿の言動が人望を得られず、また神の御意向にも逆らったからだろう。しかし、天がたとえ驕る者を憎み、満ちすぎる者は除くとは言っても、我が北条家が、数代に渡って積んできた善根の芽が、

少しでもこの家に残っている限り、我らの子孫の中から、絶えた家を引き継いで、この廃れた家系を再興する者が、居ないとも限らない。昔、斉国の君主、襄公に余りにも人の道に外れた言動があり、これでは斉国の滅亡疑いなしと思い、

鮑叔牙と言う家臣が襄公の子供(弟では?)、小伯をさらって他国に落とした。その後、襄公は案の定、公孫無智のため滅ぼされ、斉国を失うこととなった。その時、鮑叔牙は小伯を主人に立て、斉国に攻め寄せて、ついに公孫無智を討ち取り、再び斉国を維持することが出来たのだ。

斉国の第十六代君主、桓公とはこの方である。そこで、この私にも深く期する所があるので、やみくもに自害することは止めようと思う。もし逃げ延びることが出来れば、再び軍を起こして、会稽の恥を雪ごうと思う。汝もこの辺のことよくよく考えて、いかなる場所にでもその身を隠すか、

降伏でもして命を永らえ、甥の亀寿(後の北条時行)を隠しおおせ、時が来たと思えば再び大軍を催し、かねてからの願望を成就することだ。兄の万寿(後の北条邦時)は五大院の右衛門宗繁に良く頼んであるので、こちらは安心出来る」と、話されました。

聞いていた盛高は涙をこらえて、「今まで我が一身の始末については、全て御一門の存亡に任せようと考えており、命を惜しむ気など全くありません。ただ主君の前で自害を遂げて、私の忠義あふれる心を知って頂きたく、ここまでやって来ました。

しかし、『死を一瞬にして、実行することは簡単なことであり、謀略を今後永遠に謀り続けることは、非常に難しいことである』と、言われていますから、この場においては、とりあえず仰せに従うことといたしましょう」と、申し上げました。その後、盛高は主人の側を離れて、

相模入道高時殿の愛妾、二位殿のお局が居られる扇ヶ谷(鎌倉市)に参ると、お局をはじめとして女房たち皆、この上なくお喜びになり、「ところで、一体この世の中、今後どうなって行くのでしょう。私たちは女のことですから、どこかに身を隠すことも出来るかも知れません。

しかし、この亀寿はどうすれば良いのでしょうか。兄の万寿の方は、五大院右門衛宗繁が何か方策があると言って、今朝どこかに連れて行ったので、安心しています。ただこの亀寿のことが気がかりで、露のように儚いわが身でさえ、悲しみに消え入りそうになります」と泣きながら、くどくどと話されたのでした。


盛高此事有の侭に申て、御心をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性はゝかなき者なれば、後にも若人に洩し給ふ事もやと思返して、泪の中に申けるは、「此世中今はさてとこそ覚候へ。御一門太略御自害候なり。大殿計こそ未葛西谷に御座候へ。公達を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候。」と申ければ、御局うれし気に御座つる御気色、しほ/\と成せ給て、「万寿をば宗繁に預けつれば心安し、構て此子をも能々隠してくれよ。」と仰せも敢ず、御泪に咽ばせ給しかば、盛高も岩木ならねば、心計は悲しけれ共、心を強く持て申けるは、「万寿御料をも五大院右衛門宗繁が具足し進せ候つるを、敵見付て追懸進せ候しかば、小町口の在家に走入て、若子をば指殺し進せ、我身も腹切て焼死候つる也。あの若御も今日此世の御名残、是を限と思召候へ。とても隠れあるまじき物故に、狩場の雉の草隠たる有様にて、敵にさがし出されて、幼き御尸に、一家の御名を失れん事口惜候。其よりは大殿の御手に懸られ給て冥途までも御伴申させ給たらんこそ、生々世々の忠孝にて御座候はん。疾々入進せ給へ。」と進めければ、御局を始進せて、御乳母の女房達に至るまで、「方見の事を申者哉。せめて敵の手に懸らば如何せん。二人の公達を懐存進つる人々の手に懸て失ひ奉らんを見聞ては、如何許とか思遣る。只我を先殺して後、何とも計へ。」とて、少人の前後に取付て、声も不惜泣悲給へば、盛高も目くれ、心消々と成しか共、思切らでは叶まじと思て、声いらゝげ色を損て、御局を奉睨、「武士の家に生れん人、襁の中より懸る事可有と思召れぬこそうたてけれ。大殿のさこそ待思召候覧。早御渡候て、守殿の御伴申させ給へ。」と云侭に走懸り、亀寿殿を抱取て、鎧の上に舁負て、門より外へ走出れば、同音にわつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰をそだて、誰を憑で可惜命ぞや。」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ。其後盛高此若公を具足して、信濃へ落下り、諏訪の祝を憑で有しが、建武元年の春の比、暫関東を劫略して、天下の大軍を起し、中前代の大将に、相摸二郎と云は是なり。

盛高は事情をありのままにお話して、お気持ちを慰めたく思いましたが、女性は思慮分別に欠ける者なので、もしかすると後になって、誰かに洩らすこともあるかと考え直し、涙を流しながら、「この世の中は、もはやこれまでとお考えください。

御一門の方々は、ほとんど御自害されました。しかし、大殿の高時殿は、まだ葛西谷(鎌倉市)にご健在です。お子様を一目だけでもご覧になってから、御腹を切ろうと考えられ、そこで私がお子様をお迎えに来たのです」と、申し上げました。

御局はそれまでのお顔を、急にしょんぼりとされ、「万寿は宗繁にお預けしたので、安心していますが、どうかこの子も、何とか隠し通してください」と話される間もなく、涙に咽ばれました。聞いていた盛高も、岩や木でない人間であれば、心苦しく悲しみに辛くはあっても、

何とか心は強く持って、「万寿御料は五大院右門衛宗繁が、お連れしていたところを敵に見つかり、追いかけられた上、小町口(鎌倉市)の民家に走り込み、万寿様を刺し殺して自分も腹を切り、焼死されました。この亀寿殿も今日をこの世の名残に、これまでとお考えください。

とても隠れ通すことなど出来ませんので、狩場の雉のように草むらに隠れていても、敵に探し出されて幼い御遺体と共に、一家の名前を失うことは悔しい限りです。それよりは大殿のお手によって、冥土までお供をさせてあげる方が、未来永劫その忠孝を果たすことになります。

どうぞお子様を私に預けて、お早く奥にお入りになってください」と、お勧めしました。お局をはじめとして御乳母の女房たちも口々に、「何とも理不尽な事をおっしゃる人ですね。せめて敵の手に懸かったのであれば、仕方もないでしょう。二人の子供たちを育ててきた人の手によって、

命を取られるとなどと聞いては、どうすれば良いのか何も分かりません。こうなれば、まず私を先に殺してください、その後、どうでも好きなようにしたら良いでしょう」と、女房たちは子供の前後に立ち塞がり、声を限りに泣き悲しまれました。

聞いていた盛高も、さすがに目の前が暗くなり、心も落ち込んでしまいましたが、今ここで、はっきりと言わなければと覚悟を決め、声を荒げ顔色も変わるばかりに、お局を睨みつけ、「武士の家庭に生まれた人であれば、襁褓の頃より、このようなことが起こること、

考えていないのは情けない話だ。高時殿が今か今かと、お待ちになっているはずです。早くお側に行って、高時殿のお供をされるように」と言うや、女房たちに走り寄って、亀寿殿を抱き取ると鎧の上に背負い、門から外に走り出ました。

女房たちが一斉に出したワッと言う大声と、泣き崩れる声が、遥かに離れても聞こえて耳に残り、盛高も涙を流しながら、後ろを振り返って見ると、亀寿の乳母ははだしになり、人目も憚らず走り出て、四、五町ばかり泣いては倒れ、倒れてはまた起きて後を追いかけてきます。

盛高は辛い気持ちを捨て、心を鬼にして、行方を知られないよう馬を早めて行ったので、やがて盛高の後ろ姿も見えなくなりました。乳母は、「これからは誰を育てて行けば良いのでしょうか。また誰のために惜しむべき命なのでしょうか」と思い、

その辺にあった古井戸に身を投げ、とうとうお亡くなりになられたのです。その後盛高はこの若君を連れて、信濃に落ちて行き、諏訪大社の神官職である、祝氏を頼って行きました。建武元年(1334年)の春頃に、暫く関東を攻略して、天下の大軍に呼びかけ、中先代軍の大将となった、相模二郎北条時行とはこの方です。


角して四郎左近太夫入道は、二心なき侍共を呼寄て「我は思様有て、奥州の方へ落て、再び天下を覆す計を可回也。南部太郎・伊達六郎二人は、案内者なれば可召具。其外の人々は自害して屋形に火をかけ、我は腹を切て焼死たる体を敵に可見。」と宣ければ、二十余人の侍共、一義にも不及、「皆御定に可随。」とぞ申ける。伊達・南部二人は、貌をやつし夫になり、中間二人に物具きせて馬にのせ、中黒の笠符を付させ、四郎入道を■に乗て、血の付たる帷を上に引覆ひ、源氏の兵の手負て本国へ帰る真以をして、武蔵までぞ落たりける。其後残置たる侍共、中門に走出、「殿は早御自害有ぞ。志の人は皆御伴申せ。」と呼て、屋形に火を懸、忽に煙の中に並居て、二十余人の者共は、一度に腹をぞ切たりける。是を見て、庭上・門外に袖を連ねたる兵共三百余人、面々に劣じ々じと腹切て、猛火の中へ飛で入、尸を不残焼死けり。さてこそ四郎左近太夫入道の落給ぬる事をば不知して、自害し給ぬと思けれ。其後西園寺の家に仕へて、建武の比京都の大将にて、時興と被云しは、此入道の事也けり。

また四郎左近大夫入道北条泰家は、忠義の心に篤い家来らを呼び寄せて、「私は思うことがあって、奥州の方へ落ち延び、再び天下を奪い返す計画を練るつもりだ。南部太郎と伊達六郎の二人は、奥州への地理に詳しいので連れて行く。しかし、そのほかの人々は自害をし、

屋敷に火をかけて、私が腹を切って、焼死したように敵を欺くことだ」と話されると、二十余人の武士たちは反対する者もなく、「全員命令に従います」と、申し上げたのです。伊達と南部の二人は、顔かたちを目立たないような男に変え、

雑用の使用人、二人に甲冑をつけて馬に乗せた上、新田氏の家紋である中黒(一つ引両)の笠印を付けさせました。そして四郎入道泰家を輿に乗せ、血の付いた垂幕を上から覆いかぶせ、源氏の兵士が負傷を負って、本国に帰るように偽装して、武蔵国まで落ちて行ったのです。

その後屋敷に残して置いた侍たちは、中門に走り出て、「殿は早くも御自害されたぞ。心ある者は皆お供するのだ」と呼びかけ、屋敷に火を付け、たちまちに上る煙の中に並ぶと、二十余人の家来らが、同時に腹を切ったのでした。

これを見て、庭や門の外に、袖を並べていた兵士ら三百余人が、皆に遅れをとらじとばかりに腹を切り、燃え盛る炎の中に飛び込んで、屍を残すことなく焼け死んだのです。このような訳で、四郎左近入道が落ちて行ったことは、誰にも知られることなく、

自害を遂げたものと、信じられていたのです。その後、左近入道泰家は西園寺公宗の家に仕え、建武時代(1334-1338年)の頃、京都で大将と言われ、時興と名乗っていたのは、この入道のことです。


○長崎高重最期合戦事
去程に長崎次郎高重は、始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦に、毎度先を懸、囲を破て自相当る事、其数を不知然ば、手者・若党共次第に討亡されて、今は僅に百五十騎に成にけり。五月二十二日に、源氏早谷々へ乱入て、当家の諸大将、太略皆討れ給ぬと聞へければ、誰が堅めたる陣とも不云、只敵の近づく処へ、馳合々々、八方の敵を払て、四隊の堅めを破ける間、馬疲れぬれば乗替、太刀打折れば帯替て、自敵を切て落す事三十二人、陣を破る事八箇度なり。角て相摸入道の御坐葛西谷へ帰り参て、中門に畏り泪を流し申けるは、「高重数代奉公の義を忝して、朝夕恩顔を拝し奉りつる御名残、今生に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所の敵を打散て、数度の闘に毎度打勝候といへ共、方々の口々皆責破られて、敵の兵鎌倉中に充満して候ぬる上は、今は矢長に思共不可叶候。只一筋に敵の手に懸らせ給はぬ様に、思召定させ給候へ。但し高重帰参て勧申さん程は、無左右御自害候な。上の御存命の間に、今一度快く敵の中へ懸入、思程の合戦して冥途の御伴申さん時の物語に仕候はん。」とて、又東勝寺を打出づ。其後影を相摸入道遥に目送玉て、是や限なる覧と名残惜げなる体にて、泪ぐみてぞ被立たる。長崎次郎甲をば脱捨、筋の帷の月日推たるに、精好の大口の上に赤糸の腹巻着て小手をば不差、兎鶏と云ける坂東一の名馬に、金具の鞍に小総の鞦懸てぞ乗たりける。是を最後と思定ければ、先崇寿寺の長老南山和尚に参じて、案内申ければ、長老威儀を具足して出合給へり。方々の軍急にして甲冑を帯したりければ、高重は庭に立ながら、左右に揖して問て曰、「如何是勇士恁麼の事。」和尚答曰、「吹毛急用不如前。」高重此一句を聞て、問訊して、門前より馬引寄打乗て、百五十騎の兵を前後に相随へ、笠符かなぐり棄、閑に馬を歩て、敵陣に紛入。其志偏に義貞に相近付ば、撲て勝負を決せん為也。高重旗をも不指、打物の室をはづしたる者無ければ、源氏の兵、敵とも不知けるにや、をめ/\と中を開て通しければ、高重、義貞に近く事僅に半町計也。

☆ 長崎高重が最期の合戦を行ったこと

また長崎次郎高重は、武蔵野での合戦から始まって今日まで、夜昼となく八十余ヶ度の戦闘で、毎回先を駆け、敵の包囲を破り自ら突撃すること、その回数も分かりません。そのため家来や若武者らは次々と討ち取られ、今は僅か、百五十騎になってしまいました。

五月二十二日には、早くも源氏の新田軍は、鎌倉の谷々に乱入し、北条家の諸大将らは、ほとんど討たれてしまったと言われていました。長崎高重は今や、誰が守っているのか分からない戦場であっても、ただ敵が近づいて来たと聞けば、そこへ駈け入り駆け合せて、

八方から攻めてくる敵を追い払い、四隊で守っている陣も、打ち破って戦いました。馬が疲れたとなれば乗り換え、太刀が折れれば取替えながら、自ら敵を切り倒すこと三十二人に上り、敵陣を破ること八回を数えます。その後、彼は相模入道高時が居られる、

葛西ヶ谷にある東勝寺に帰り着くと、中門に控えて涙を流しながら、「高重は先祖より数代に亘るご奉公に、感謝の気持ちを持ってまいりました。そして朝に夕に、ご尊顔にお会い出来ることも、今生においては今日が最後かと思われます。

高重は一人で数ヶ所の敵を撃破し、数度の戦闘において、毎回勝利を収めたと言っても、諸方の切通しに構えた防御陣地が、皆攻略され、敵兵が鎌倉内に充満するようになっては、いくら頑張ってみても今となっては、とても支え切れるものではありません。

ここはただ一つ、殿は敵の手に懸かって命を落とすことの無いよう、お覚悟のほど、よろしくお願いします。とは言っても、この高重が帰ってきて、殿にお勧めするまでは、むやみに御自害などなさらぬように。殿の御存命の間に、今一度気分良く敵中に駈け入り、

思う限りの戦闘をして、冥土の旅にお供をする時の、話の種にでもしたく思います」と言って、東勝寺を飛び出しました。その後姿を相模入道は遠くなるまで見送り、これが今生の別れになるのかと、名残惜しげな様子で、涙ぐみながら立ちすくんで居られました。

長崎次郎高重は兜を脱ぎ捨て、縞模様の上に月と太陽を描いた帷子を着て、精好織り(絹織物の一種、固く緻密に織った平絹)の大口袴(裾の大きな袴)を着けた上から、赤糸縅の腹巻をつけ、篭手は付けずに兎鶏と言う関東一の名馬に、黄金造りの鞍を置き、

馬の緒に小さな房飾りを付けて乗っていました。これが今生の最期かと、覚悟していましたから、まず崇寿寺(鎌倉市)の長老、南山和尚のもとに行き、案内を乞うたところ、長老は袈裟に威儀(袈裟についた紐)を肩にかけて出てこられました。

方々で行われている合戦の最中のため、甲冑を着けたままですので、高重は庭に立ったまま左右の人に礼をして、「勇者とは一体いかなる行いをするのでしょうか」と、問われました。和尚はその問いに対して、「剣を持ってただ前に進むことだ(自分の思った道を突き進むこと)」と、答えられました。

高重はこの一句を聞き、なおも良くその意味を問いただしてから、門前より馬を引き寄せてまたがり、百五十騎の兵士を前後に従え、笠印をかなぐり捨て、静かに馬を進めて敵陣に紛れ込みました。彼の目的はただ一つ、義貞に近づき、殴り込みをかけて、一気に勝負をつけることです。

高重らは旗もさしていませんし、刀剣も鞘にさしたままですから、源氏の兵士らもまさか敵とは思わず、何も考えず中を開き、彼らを通しましたので、高重は義貞にあと僅か半町ほどまで、近づいたのです。


すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真前に扣たりける由良新左衛門是を見知て、「只今旗をも不指相近勢は長崎次郎と見ぞ。さる勇士なれば定て思処有てぞ是までは来らん。あますな漏すな。」と、大音挙て呼りければ、先陣に磬たる武蔵の七党三千余騎、東西より引裹で真中に是を取込、我も々もと討んとす。高重は支度相違しぬと思ければ、百五十騎の兵を、ひし/\と一所へ寄て、同音に時をどつと揚、三千余騎の者共を懸抜懸入交合、彼に露れ此に隠れ、火を散してぞ闘ける。聚散離合の有様は須臾に反化して前に有歟とすれば忽焉として後へにある。御方かと思へば屹として敵也。十方に分身して、万卒に同く相当りければ、義貞の兵高重が在所を見定ず、多くは同士打をぞしたりける。長浜六郎是を見て「無云甲斐人々の同士打哉、敵は皆笠符を不付とみへつるぞ、中に紛れば、其を符にして組で討。」と下地しければ、甲斐・信濃・武蔵・相摸の兵共、押双てはむずと組、々で落ては首を取もあり、被捕もあり、芥塵掠天、汗血地を糢糊す。其在様項王が漢の三将を靡し魯陽が日を三舎に返し闘しも、是には不過とぞ見へたりける。され共長崎次郎は未被討、主従只八騎に成て戦けるが、猶も義貞に組んと伺て近付敵を打払、動れば差違て、義貞兄弟を目に懸て回りけるを、武蔵国の住人横山太郎重真、押隔て是に組んと、馬を進めて相近づく。長崎もよき敵ならば、組んと懸合て是を見るに、横山太郎重真也。さてはあはぬ敵ぞと思ければ、重真を弓手に相受、甲の鉢を菱縫の板まで破着たりければ、重真二つに成て失にけり。馬もしりゐに被打居て、小膝を折てどうど伏す。

これまでかと思われた時、源氏の運が強いのか、義貞の真ん前に控えていた、由良新左衛門が高重一行を見つけ、「今ここに旗をも持たず近づいてきた軍勢は、長崎次郎と思われる。彼ほどの勇者であれば、きっと何か思うところがあって、ここまで来たのだろう。

ものども、皆殺しにしてしまえ」と、大音声で呼びかけました。先陣を務めていた武蔵七党の三千余騎が、東西より包み込むようにして、高重軍を真ん中に取り込み、我も我もと討ち取ろうとかかって来ます。高重は作戦の失敗を認めて、

百五十騎の兵士らを一ヶ所に密集させ、全員が一度に閧の声をドッと挙げ、三千余騎の敵を相手に、駆け抜けたかと思えば、また駈け入って戦い、あちらに姿を現わしたかと思えば、こちらに隠れ、火花を散らして戦いました。集まっては散りじりになり、

ばらばらになっては、また集まるその有様は、瞬時に変化して、前かと思えばまた忽然と後ろに移る有様です。味方かと思えば、さにあらず敵であったりします。あらゆる方向に向かって行き、多くの兵士に対して、皆が同じように戦いますから、義貞軍の兵士らは、

高重が今、何処にいるのかさえ分からず、多くの兵士らが、同士討ちをする始末です。長浜六郎はこの様子を見て、「同士討ちなどして、情けないことこの上ない。敵は皆笠印をつけていないようだ。味方に紛れていれば、それを目印に組み合って討ち取れ」と、命令しました。

そこで甲斐、信濃、武蔵、相模の兵士らは、一列に並んでむんずと組み合ったので、高重軍の兵士らから、組まれた挙句に落ちて首を取られる者や、生け捕りになる者などが出ました。舞い上がる土ぼこりは天にまで届き、流れる血や汗は地上を濡らしました。

その有様は楚王の項羽が、漢国の三将軍を意のままにしたり、魯陽が沈みかけた太陽を、三舎(約六十キロ)ほど戻して戦ったことも、これほどのことは無かったかと思えます。この乱戦の中、長崎次郎高重は、未だに討たれること無く、健在であり、

主従はただの八騎になっても、戦いを続け、隙があればなおも義貞に組打ちを挑むため、近づく敵を払いのけたり、場合によっては知らぬ顔をして、ただ義貞兄弟だけを狙って、駆け回っていました。そこに武蔵国の豪族である、横山太郎重真が割って入り、

高重に組み打とうと、馬を進めて近づいてきました。長崎高重も良き敵であれば、組み打つつもりで駆け合せて見てみれば、横山太郎重真です。この者では相手として不足だと思いながらも、重真が左側からかかってくるのを、

兜の鉢から菱縫の板(鎧の最下部の板)まで斬り下したので、重真は真っ二つに斬られて死にました。乗っていた馬も尻餅をつき、膝を折ってドサッと倒れ込んだのでした。


同国の住人庄三郎為久是を見て、よき敵也。と思ければ、続て是に組んとす。大手をはだけて馳懸る。長崎遥に見て、から/\と打笑て、「党の者共に可組ば、横山をも何かは可嫌。逢ぬ敵を失ふ様、いで/\己に知せん。」とて、為久が鎧の上巻掴で中に提げ、弓杖五杖計安々と投渡す。其人飛礫に当りける武者二人、馬より倒に被打落て、血を吐て空く成にけり。高重今はとても敵に被見知ぬる上はと思ければ、馬を懸居大音揚て名乗けるは、「桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」と云侭に、鎧の袖引ちぎり、草摺あまた切落し、太刀をも鞘に納つゝ、左右の大手を播ては、此に馳合彼に馳替、大童に成て駈散しける。懸る処に、郎等共馬の前に馳塞て、「何なる事にて候ぞ。御一所こそ加様に馳廻坐せ。敵は大勢にて早谷々に乱入、火を懸物を乱妨し候。急御帰候て、守殿の御自害をも勤申させ給へ。」と云ければ、高重郎等に向て宣けるは、「余りに人の逃るが面白さに、大殿に約束しつる事をも忘ぬるぞや。いざゝらば帰参ん。」とて、主従八騎の者共、山内より引帰しければ、逃て行とや思ひけん、児玉党五百余騎、「きたなし返せ。」と罵て、馬を争て追懸たり。高重、「こと/゛\しの奴原や、何程の事をか仕出すべき。」とて、聞ぬ由にて打けるを、手茂く追て懸りしかば、主従八騎屹と見帰て馬の轡を引回すとぞみへし。山内より葛西の谷口まで十七度まで返し合せて、五百余騎を追退け、又閑々とぞ打て行ける。高重が鎧に立処の矢二十三筋、蓑毛の如く折かけて、葛西谷へ参りければ、祖父の入道待請て、「何とて今まで遅りつるぞ。今は是までか。」と問れければ、高重畏り、「若大将義貞に寄せ合せば、組で勝負をせばやと存候て、二十余度まで懸入候へ共、遂に不近付得。其人と覚しき敵にも見合候はで、そゞろなる党の奴つ原四五百人切落てぞ捨候つらん。哀罪の事だに思ひ候はずは、猶も奴原を浜面へ追出して、弓手・馬手に相付、車切・胴切・立破に仕棄度存候つれ共、上の御事何がと御心元なくて帰参て候。」と、聞も涼く語るにぞ、最期に近き人々も、少し心を慰めける。

同じく武蔵国の人間、庄三郎為久はこの様子を見て、良き敵に出会ったと思い、続けて高重に組み打ちを挑もうと、大きく手を広げて駆け寄りました。長崎高重は遠くからこれを見て、からからと大声で笑い、「武蔵七党の者どもと組み合う位なら、横山との戦いを嫌う必要などないのだ。

相手をしたくない敵のやっつけ方を、貴様に教えてやるから、さぁ、かかって来い」と言って、為久の鎧に、揚巻結びで飾っている紐をつかんで、宙に下げ、弓の長さの五倍ほどを、軽々と放り投げました。人をまるでつぶてのように投げつけ、それに当たった武者二人は、

馬から逆さに落ちて、血を吐き死んだのでした。高重はもはや敵に知られた以上、止むを得ないと思い、馬を止め大音声を出して、「桓武天皇第五の皇子、葛原親王の三代の子孫、平将軍貞盛より十三代、前相模守北条高時の管領を務める、長崎入道円喜の嫡孫、次郎高重である。

今までの恩顧に報いるため、ここに討ち死にをする。手柄の欲しい者は寄って来い。組み合おうではないか」と名乗るや、鎧の袖をぶっ千切った上、草摺もほとんど切り取って、太刀さえ鞘に収めてしまい、左右の手を大きく広げて、こちらに駆け合せたかと思えば、

あちらに駆け寄り、ざんばら髪となって駆け回っていました。その時、家来たちが高重の馬の前に駆け寄ると、進路を遮り、「何をされているのですか。相模入道殿と共にあれば、そのように駆け回るのも良いでしょう。敵はすでに、大軍で鎌倉の谷々に乱入し、

建物に火を掛け、掠奪を始めています。急いで東勝寺にお帰りになり、相模殿に御自害を、お勧めになってください」と、言いました。高重は家来に向かって、「あまりに敵どもが逃げ回るので、つい面白くなって、相模入道殿と約束したことを忘れていた。

分かった、すぐに戻ろう」と話し、主従八騎が山内から引揚げようとしたところ、逃げて行くと思ったのか、児玉党の五百余騎が、「逃げるな汚いぞ、引き返せや」と罵り、争うように馬を走らせて、追いかけてきました。高重は、「しつこい奴だな。

どうせ何も出来やしないのに」と、聞こえぬ振りをして馬を進めました。しかしなおもしつこく、追いかけてくるので、主従の八騎は、厳しい目で後ろを振り返ると、追いかけて来る敵に向かって、馬を返しました。山内から葛西ヶ谷の口まで、十七回も引き返しては相手をし、

五百余騎の敵を追い払って、再び静かに馬を進めました。高重の鎧に突き刺さっている二十三本の矢は、蓑の萱のように折れ曲がったままで、葛西ヶ谷の東勝寺に入って行きました。祖父の長崎円喜入道が、待ち構えていたように、「どうして今まで遅れたのだ。

合戦の様子はどうだった、もうこれまでか」と、質問されました。高重はその場に慎んで、「敵の若大将、新田義貞を探し出し、組み合って勝負をつけてやろうと考え、二十余回も敵中に駆け入ったのですが、とうとう彼に近づくことは出来ませんでした。

それなりの良き敵にも巡り会えず、不本意ながら武蔵七党の者ども、四、五百人ほど斬り捨てただけです。無益な殺人に、罪の意識さえ持たなければ、奴らを浜辺に追い込んで、もっと右や左に近寄せては、輪切りや胴体を横に払ったり、縦に真っ二つにと、

切り捨ててやろうとも思いましたが、相模入道殿のことが、何かと気にかかり帰ってきた次第です」と、聞く方にもさわやかな語り口に、最期も近いと思える人々も、少しばかり心を慰められたのでした。


○高時並一門以下於東勝寺自害事
去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。道準盃を取て、「あはれ肴や、何なる下戸なり共此をのまぬ者非じ。」と戯て、其盃を半分計呑残て、諏訪入道が前に指置、同く腹切て死にけり。諏訪入道直性、其盃を以て心閑に三度傾て、相摸入道殿の前に指置て、「若者共随分芸を尽して被振舞候に年老なればとて争か候べき、今より後は皆是を送肴に仕べし。」とて、腹十文字に掻切て、其刀を抜て入道殿の前に指置たり。長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。此小冠者に義を進められて、相摸入道も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実・常葉駿河守範貞・名越土佐前司時元・摂津形部大輔入道・伊具越前々司宗有・城加賀前司師顕・秋田城介師時・城越前守有時・南部右馬頭茂時・陸奥右馬助家時・相摸右馬助高基・武蔵左近大夫将監時名・陸奥左近将監時英・桜田治部太輔貞国・江馬遠江守公篤・阿曾弾正少弼治時・苅田式部大夫篤時・遠江兵庫助顕勝・備前左近大夫将監政雄・坂上遠江守貞朝・陸奥式部太輔高朝・城介高量・同式部大夫顕高・同美濃守高茂・秋田城介入道延明・明石長門介入道忍阿・長崎三郎左衛門入道思元・隅田次郎左衛門・摂津宮内大輔高親・同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田・赤橋・常葉・佐介の人々四十六人、総じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。庭上・門前に並居たりける兵共是を見て、或は自腹掻切て炎の中へ飛入もあり、或は父子兄弟差違へ重り臥もあり。血は流て大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、尸は行路に横て累々たる郊原の如し。死骸は焼て見へね共、後に名字を尋ぬれば、此一所にて死する者、総て八百七十余人也。此外門葉・恩顧の者、僧俗・男女を不云、聞伝々々泉下に恩を報る人、世上に促悲を者、遠国の事はいざ不知、鎌倉中を考るに、総て六千余人也。嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

☆ 北条高時並びに一門の者が、東勝寺にて自害をしたこと

さて長崎高重は東勝寺の中を走り回り、「さあ皆さん、お早く御自害をお願いします。この高重が最初に手本をお見せいたしましょう」と言うや、胴の部分だけ残った鎧を脱ぐと放り捨てて、北条高時殿の前に置かれた盃を手にして、舎弟の長崎新右衛門に酌をさせ、

三杯を傾けたあと、盃を摂津刑部太夫入道道準の前に置くと、酒を注ぎ、「この酒、ぜひとも貴殿が受けてください。そしてこれを肴にどうぞ」と言って、左の小脇に刀を突き立て、右の脇腹まで切り目長く掻き切り、中のはらわたを手繰りだして、道準の前に倒れ込んだのでした。

道準は盃を手にし、「何と言うすごい肴かな。これではいかなる下戸でも、この酒を飲まない者など居ないだろう」とふざけて、その盃の酒を半分ばかり飲み残し、諏訪入道直性の前に置くと、同じく腹を切って死んだのです。諏訪入道直性は落ち着いて、その盃を三度傾けると、

相模入道殿の前に置き、「若者ども、随分と芸達者なことをするではないか。では年寄だったら何をしようかの。今より後は、皆の人たち、これを葬送の余興とするが良いでしょう」と言って、腹を十文字に掻き切り、その刀を抜いて、相模入道殿の前に置きました。

また長崎入道円喜は今まで、相模入道のことが何かと気にかかり、未だに腹を切らずにいましたが、今年十五歳になった、孫の長崎新右衛門が、祖父の前にかしこまって、「先祖の名前を世に高らしめてこそ、子孫は孝行に値すると言いますから、

神も仏も必ずや、許して下さるに違いありません」と、未だ自害をせずに生き残っている、年老いた祖父、円喜の肱の根元あたりを、太刀で二回刺し、その刀で自分の腹を掻き切り、祖父の体を引き寄せ、その上に乗りかかるようにして倒れました。

この若者の行為に、人の守るべき行いを教えられたのか、相模入道高時も腹を切り、城入道が続いて腹を切ったのでした。床の上に席を並べて、この様子を見ていた、北条一門や他の家の人々が、雪のように白い肌の上半身を、次々と露わにし、腹を切る人や、

自分で自分の首を切り落とす人など、それぞれが思い思いの方法で、自分の最期を遂げる様は、まことに立派に見えました。その他自害をされた人々としては、金沢太夫入道崇顕、佐介近江前司宗直、甘名宇駿河守宗顕、その子息駿河左近太夫将監時顕、

小町中務太輔朝実、常葉駿河守範貞、名越土佐前司時元、摂津刑部大輔入道、伊具越前前司宗有、城加賀前司師顕、秋田城介師時、城越前守有時、南部右馬頭茂時、陸奥右馬助家時、相模右馬助高基、武蔵左近大夫将監時名、陸奥左近将監時英、

桜田治部太輔貞国、江馬遠江守公篤、阿曾弾正少弼治時、苅田式部大夫篤時、遠江兵庫助顕勝、備前左近大夫将監政雄、坂上遠江守貞朝、陸奥式部太輔高朝、城介高量、同じく式部大夫顕高、同じく美濃守高茂、秋田城介入道延明、明石長門介入道忍阿、

長崎三郎左衛門入道思元、隅田次郎左衛門、摂津宮内大輔高親、同じく左近大夫将監親貞、その他、名越の一族三十四人、塩田、赤橋、常葉、佐介など各家の人々ら四十六人、また各家に繋がる有縁の人たち、二百八十三人が我先にと腹を切り、

また屋敷には火をかけたので、激しい炎は吹き上がり、黒煙は天を覆いました。また庭や門前に並んでいた兵士らも、この様子を見て、ある者は自ら腹を切って、燃え盛る炎の中に飛び込んだり、またある者は父子、兄弟で刺し違え、重なって倒れ込む者もいました。

流れる血は大地に溢れ、洪河(淮河?中国の大河の一つ)の水のように果てしなく、屍は路上に横たわり、何処までも続く、郊外の原野のようです。死骸は火災により焼失して、確認不可能のため、後日死者の名を調べてみると、ここ一ヶ所で死んだ者は、総数八百七十余人でした。

このほか北条家に連なる遠縁の者や、北条家に恩を受けてきた人々たち、僧俗、男女を問わず北条家の滅亡を聞きつけて、殉死によって恩に報おうとする人々など、この世に悲哀を生んだ人たちは、遠くの国は分かりませんが、鎌倉内だけを取り上げても、総数六千余人になります。

あぁ、一体このような日が、あって良いのでしょうか。この元弘三年(1333年)五月二十二日は、平家九代続いた繁栄が、一挙に滅亡し去り、源氏が長年感じていた、もろもろの不満など、一時に解決を見たのでした。      (終)    

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