2 太平記 巻第二 (その一)


○南都北嶺行幸事
元徳二年二月四日、行事の弁別当、万里小路中納言藤房卿を召れて、「来月八日東大寺興福寺行幸有べし、早供奉の輩に触仰すべし。」と仰出されければ、藤房古を尋、例を考て、供奉の行装、路次の行列を定らる。佐々木備中守廷尉に成て橋を渡し、四十八箇所篝、甲胄を帯し、辻々を堅む。三公九卿相従ひ、百司千官列を引、言語道断の厳儀也。東大寺と申は聖武天皇の御願、閻浮第一の盧舎那仏、興福寺と申は淡海公の御願、藤氏尊崇の大伽藍なれば、代々の聖主も、皆結縁の御志は御坐せども、一人出給事容易からざれば、多年臨幸の儀もなし。此御代に至て、絶たるを継、廃たるを興して、鳳輦を廻し給しかば、衆徒歓喜の掌を合せ、霊仏威徳の光をそふ。されば春日山の嵐の音も、今日よりは万歳を呼ふかと怪まれ、北の藤波千代かけて、花咲春の陰深し。

☆ 南都北嶺に天皇行幸のこと

元徳二年(1330年)二月四日、後醍醐天皇は弁別当(諸行事を担当する役所の長官)、万里小路中納言藤房卿をお呼びになり、「来三月八日に東大寺、興福寺に行こうと思う。早急にお供する人達に準備を命じてください」と、おっしゃられました。

藤房は過去の行幸の例を調べ、お供する人達の服装や、行幸途中の行列の配置などを決めていきました。また佐々木備中守廷尉に道中の橋の整備をさせるとともに、洛内四十八箇所の警備人に甲冑を着せて、辻々の警備を厳重にしました。

太政大臣以下朝廷の高位の公卿たちがお供し、多数の高級役人が列をなし、言葉では言い表すことも難しい位、おごそかなものでした。東大寺と言うのは、聖武天皇の発願で建立され、現世では最高の盧遮那仏が安置されています。

また興福寺と言うのは藤原不比等の発願で建立され、藤原氏の氏寺として信仰を集めてきた大寺なので、代々の天皇も訪れたいとは思われても、行幸ともなれば準備その他も大変であり、長年にわたって行幸されたことはありませんでした。

後醍醐天皇の御代になって、行なわれることの無くなった行事を継続したり、すでに絶えてしまった事も再開し、天皇があちこちに行幸されると、国民民衆は大いに喜び、手を合わせ、霊験あらたかな御仏のお力を感じたのでした。

だから春日山を吹き抜ける嵐の音も、今日からは万歳を叫んでいるように聞こえ、北の藤波千代かけて、花咲春の陰深し(藤原北家はこの先長く、花の咲く春がいつまでも続くでしょう)


又同月二十七日に、比叡山に行幸成て、大講堂供養あり。彼堂と申は、深草天皇の御願、大日遍照の尊像也。中比造営の後、未供養を遂ずして、星霜已積りければ、甍破ては霧不断の香を焼、扉落ては月常住の燈を挑ぐ。されば満山歎て年を経る処に、忽に修造の大功を遂られ、速に供養の儀式を調へ給しかば、一山眉を開き、九院首を傾けり。御導師は妙法院尊澄法親王、咒願は時の座主大塔尊雲法親王にてぞ御座しける。称揚讚仏の砌には、鷲峯の花薫を譲り、歌唄頌徳の所には、魚山の嵐響を添。伶倫遏雲の曲を奏し、舞童回雪の袖を翻せば、百獣も率舞、鳳鳥も来儀する計也。住吉の神主、津守の国夏大皷の役にて登山したりけるが、宿坊の柱に一首の歌をぞ書付たる。契あれば此山もみつ阿耨多羅三藐三菩提の種や植剣是は伝教大師当山草創の古、「我立杣に冥加あらせ給へ。」と、三藐三菩提の仏達に祈給し故事を思て、読る歌なるべし。抑元亨以後、主愁臣辱られて、天下更安時なし。折節こそ多かるに、今南都北嶺の行幸、叡願何事やらんと尋れば、近年相摸入道振舞、日来の不儀に超過せり。蛮夷の輩は、武命に順ふ者なれば、召とも勅に応ずべからず。只山門南都の大衆を語て、東夷を征罰せられん為の御謀叛とぞ聞へし。依之大塔の二品親王は、時の貫主にて御坐せしか共、今は行学共に捨はてさせ給て、朝暮只武勇の御嗜の外は他事なし。御好有故にや依けん、早業は江都が軽捷にも超たれば、七尺の屏風未必しも高しともせず。打物は子房が兵法を得玉へば、一巻の秘書尽されずと云事なし。天台座主始て、義真和尚より以来一百余代、未懸る不思議の門主は御坐さず。後に思合するにこそ、東夷征罰の為に、御身を習されける武芸の道とは知られたれ。

また三月二十七日には、比叡山延暦寺に行幸され、大講堂にて法要を営みました。この大講堂は仁明天皇(御陵の住所から深草帝の異称がある)の発願で、大日遍照の像が安置されています。その昔、この大講堂が建立されたものの、未だに完成供養も行なわれないまま、

年月が過ぎ、屋根瓦は壊れ、流れ込む霧は、まるで絶え間なく炊き続けるお香のようです。建物の扉は壊れて差し込む月の光は、常夜灯がかかげられているように見えます。そのため比叡山の僧侶たちは、長年にわたって嘆き続けて来たのでしたが、

ここに修復工事が行なわれて、早速供養の法要が営まれましたから、僧侶全員が安堵し晴れやかな気持ちになり、比叡山にある九つの主要な堂塔も感謝しました。その時の法要には、導師として妙法院尊澄法親王(後醍醐天皇の皇子、宗良親王)が務め、

施主の願意を代読する僧として、その時の延暦寺座主、大塔尊雲法親王(後醍醐天皇の皇子、護良親王)が務めました。仏の功徳を褒め称える時には、霊鷲山(古代インドにある釈迦が説法した山)に咲く花もおとなしくなり、仏の徳をたたえる歌を歌う時には、

魚山(魏の曹植が声明を作ったと言う伝説の地)を吹き抜ける嵐も、その歌に唱和するかのようです。中国古代の伝説上の人である伶倫が、奏でるかのような素晴らしい音楽が流れ、また雪が舞うように、袖をひらひらと翻しながら童子が舞えば、

獣たちもそれに釣られるように舞い、想像上の霊鳥である鳳凰も、舞い降りて来るのではと思われました。古来より住吉神社の神主である津守家の国夏が、太鼓の役を演じるため、この比叡山に登っていましたが、彼が宿泊した房の柱に、一首の歌が書き付けられていました。

それは、「契あれば此山もみつ阿耨多羅三藐三菩提の種や植剣」です。この歌は伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開山した昔に、「この比叡山に神仏のご加護がありますように」と、三藐三菩提(真理を悟った)の仏たちに祈りを捧げたと言う故事を思って詠んだ歌です。

そもそも元亨(1321〜1323年)以後は天皇は心配事が絶えず憂いに沈み、また臣下は辱めを受けて、天下の安らぐ時もありませんでした。機会はいくらでもあったと思われるのに、今になって南都北嶺に行幸されるとは、天皇は一体何を祈願されようとしているのでしょうか。

天皇のお考えは、最近の相模入道北条高時の振る舞いは、今までよりひどく、人としての行いから外れている。その野蛮な連中は武士の棟梁からの命令だけに従い、朝廷よりの呼び出しや命令には従おうとしない。

ここは比叡山延暦寺や南都興福寺の大衆に語りかけて、東国の鎌倉幕府を討伐するための謀反を、計画しているのではと言われていました。そして大塔尊雲法親王つまり二品護良親王は当時の天台座主でしたが、今や仏教の修行や学問には一切関わらず、

終日武芸の鍛錬以外、何もしようとはしませんでした。好きこそ物の上手なれと言うのでしょうか、彼の身軽さは江都王にも引けをとらず、七尺の屏風でさえ必ずしも高いとは感じさせずに、飛び越えるくらいです。

武器の取り扱いについては、帳良子房の兵法を会得し、免許皆伝の腕前でした。天台座主の制度が始まった時の座主、義真和尚から今まで百余代になりますが、これほど不思議な一山の長は居ませんでした。

後になってから考えて見れば、これは東国鎌倉幕府を討伐するためわが身を鍛えようと、武芸に励んでいたと分かったのでした。


○僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事
事の漏安きは、禍を招く媒なれば、大塔宮の御行事、禁裡に調伏の法被行事共、一々に関東へ聞へてけり。相摸入道大に怒て、「いや/\此君御在位の程は天下静まるまじ。所詮君をば承久の例に任て、遠国へ移し奉せ、大塔宮を死罪に所し奉るべき也。先近日殊に竜顔に咫尺奉て、当家を調伏し給ふなる、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・南都の知教・教円・浄土寺の忠円僧正を召取て、子細を相尋べし。」と、已に武命を含で、二階堂下野判官・長井遠江守二人、関東より上洛す。両使已に京着せしかば、「又何なる荒き沙汰をか致さんずらん。」と、主上宸襟を悩されける所に、五月十一日の暁、雑賀隼人佐を使にて、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・浄土寺の忠円僧正、三人を六波羅へ召取奉る。此中に忠円僧正は、顕宗の碩徳也しかば、調伏の法行たりと云、其人数には入らざりしかども、是も此君に近付き奉て、山門の講堂供養以下の事、万直に申沙汰せられしかば、衆徒与力の事、此僧正よも存ぜられぬ事は非じとて、同召取れ給にけり。是のみならず、智教・教円二人も、南都より召出されて、同六波羅へ出給ふ。

☆ 僧侶たちが六波羅に召し取られ、為明が詠んだ歌のこと

事の秘密が漏れるのは、禍を招く元になるのは当然で、大塔宮の行状や、宮中で行なわれている幕府討伐の祈祷行事などは、一つ一つ全て関東鎌倉幕府の耳に入っていました。相模入道北条高時は怒り狂って、「とんでもないことだ。

後醍醐天皇が位にあっては、この世は決して安定しないだろう。ここは承久の例に倣って天皇を遠国にお遷しし、大塔宮は死罪に処するしか仕方ない。まず最初に、最近後醍醐天皇に拝謁しては、北条家を調伏せんと祈祷している、

法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、南都の知教、教円そして浄土寺忠円僧正を召し取って、詳しく事情を取り調べるように」と、すでに鎌倉幕府の命を受けて、二階堂下野判官と長井遠江守の二人が、関東より都に上ってきました。

二人の使者はすでに都に到着しましたから、「今度はどんな手荒な処分をするつもりなのか」と、天皇が心配している中、五月十一日の明け方、雑賀隼人佐を使者として、法勝寺の円観上人、小野文観僧正、浄土寺の忠円僧正の三人が六波羅に連行されました。

この人達の中でも忠円僧正は顕宗(天台密教における、一乗に対して三乗の教え)に関しては徳の高い人なので、調伏の行を行なったとは言っても、身柄拘束の対象からは外れていましたが、実際は後醍醐天皇に近づき、比叡山の講堂の完成供養などに色々と指図をしていたので、

比叡山の衆徒らが、後醍醐天皇の味方をすることを知らなかったとは考えられないので、他の者と同様に逮捕されました。これだけでは終わらず、智教、教円の二人も南都から呼び出され、同じく六波羅に出頭しました。


又二条中将為明卿は、歌道の達者にて、月の夜雪の朝、褒貶の歌合の御会に召れて、宴に侍る事隙無りしかば、指たる嫌疑の人にては無りしかども、叡慮の趣を尋問ん為に召取れて、斉藤某に是を預らる。五人の僧達の事は、元来関東へ召下して、沙汰有べき事なれば、六波羅にて尋窮に及ばず。為明卿の事に於ては、先京都にて尋沙汰有て、白状あらば、関東へ註進すべしとて、検断に仰て、已嗷問の沙汰に及んとす。六波羅の北の坪に炭をゝこす事、■湯炉壇の如にして、其上に青竹を破りて敷双べ、少隙をあけゝれば、猛火炎を吐て、烈々たり。朝夕雑色左右に立双で、両方の手を引張て、其上を歩せ奉んと、支度したる有様は、只四重五逆の罪人の、焦熱大焦熱の炎に身を焦し、牛頭馬頭の呵責に逢らんも、角社有らめと覚へて、見にも肝は消ぬべし。為明卿是を見給て、「硯や有。」と尋られければ、白状の為かとて、硯に料紙を取添て奉りければ、白状にはあらで、一首の歌をぞ書れける。
思きや我敷嶋の道ならで浮世の事を問るべしとは常葉駿河守、此歌を見て感歎肝に銘じければ、泪を流して理に伏す。東使両人も是を読て、諸共に袖を浸しければ、為明は水火の責を遁れて、咎なき人に成にけり。詩歌は朝廷の翫処、弓馬は武家の嗜む道なれば、其慣未必しも、六義数奇の道に携らねども、物相感ずる事、皆自然なれば、此歌一首の感に依て、嗷問の責を止めける、東夷の心中こそやさしけれ。力をも入ずして、天地を動し、目にみへぬ鬼神をも哀と思はせ、男女の中をも和げ、猛き武士の心をも慰るは歌也と、紀貫之が古今の序に書たりしも、理なりと覚たり。

また二条中條為明卿は短歌の達人で、月のきれいな夜や、雪の朝など歌合せの競技会に呼ばれて、宴に参列しないことなどほとんどなく、それ程疑いがかかっていた訳ではないのですが、天皇のご本心を聞き出すため捕らえられ、斉藤某に身柄を預けられました。

そのほか五人の僧たちの処置については、本来関東に連行して尋問すべきなので、六波羅で徹底した取り調べの必要はありません。また為明卿のことに関しては、まず京都で取調べ、もし何か罪を申し述べるようなことがあれば、

関東の幕府に報告するように、検断職(刑事上の事件を扱う職)に命じてあり、すでに拷問にかけようとしていました。その拷問とは、六波羅の北の庭に炭をおこし、護摩壇のように燃え盛らせて、その上に青竹を割って敷き並べ、少し隙間を開けてあり、

そこより噴出す炎の勢いは激しいものです。雑役担当の下級職員が左右に立ち、両方の手を引っ張り、その青竹の上を歩かせようと準備をしている様子は、まるで四重五逆(四種の重罪と五種の最も重い罪)の罪を犯した罪人が、灼熱の炎に身を焦がされ、

頭が牛や馬で身体だけは人の形をした、地獄の獄卒に責められるのも、これほどひどいとも思われず、見ただけでも気を失いそうになります。為明卿はこれを見て、「硯はありませんか」と尋ねられ、職員は白状するのかと思って、

硯に用紙を添えて渡したところ白状するのではなく、一首の歌を書かれました。
思きや我敷嶋の道ならで浮世の事を問るべしとは(私の家業である和歌のことを問われるのではなく、世間のことを問われるとは心外だ)

常葉範貞駿河守はこの歌を見て心に深く感じ入り、涙を流しその道理に屈しました。鎌倉幕府から派遣されていた使者の二階堂下野判官と長井遠江守の二人も、この歌を読んでお互いに袖を濡らし、その結果為明は水責め、火責めの拷問から解かれ、

無罪放免となったのでした。詩歌は朝廷における風流の対象であり、また弓馬は武家の得意とするところであって、詩歌のたしなみは必ずしも十分ではなく、歌の表現法や理屈などは分かりませんが、物事に心を動かしたり感激したりするのは、

自然のことであれば、この歌一首に感動して、拷問を取りやめることになるとは、東国の蛮人と言われる人の心も、優しいものでした。武力、権力などの力を使うことも無く、天地を動かし、目に見えることも無い鬼や神をも感激させ、また男女の仲も和らげたり、

荒々しい武士の心さえも、おとなしく出来るのは歌であると、紀貫之が古今和歌集の序に書かれたのも、道理と思われます。


○三人僧徒関東下向事
同年六月八日、東使三人の僧達を具足し奉て、関東に下向す。彼忠円僧正と申は、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学也。文観僧正と申は、元は播磨国法華寺の住侶たりしが、壮年の比より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。円観上人と申は、元は山徒にて御坐けるが、顕密両宗の才、一山に光有かと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に人無が如し。然ども久山門澆漓の風に随はゞ、情慢の幢高して、遂に天魔の掌握の中に落ぬべし。不如、公請論場の声誉を捨て、高祖大師の旧規に帰んにはと、一度名利の轡を返して、永く寂寞の苔の扉を閉給ふ。初の程は西塔の黒谷と云所に居を卜て、三衣を荷葉の秋の霜に重ね、一鉢を松華の朝の風に任給ひけるが、徳不孤必有隣、大明光を蔵ざりければ、遂に五代聖主の国師として、三聚浄戒の太祖たり。かゝる有智高行の尊宿たりと云へども、時の横災をば遁給はぬにや、又前世の宿業にや依けん。遠蛮の囚と成て、逆旅の月にさすらひ給、不思議なりし事ども也。円観上人計こそ、宗印・円照・道勝とて、如影随形の御弟子三人、随逐して輿の前後に供奉しけれ。其外文観僧正・忠円僧正には相随者一人も無て、怪なる店馬に乗せられて、見馴ぬ武士に打囲れ、まだ夜深きに鳥が鳴東の旅に出給ふ、心の中こそ哀なれ。鎌倉までも下し着けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞へしかば、彼の宿に着ても今や限り、此の山に休めば是や限りと、露の命のある程も、心は先に消つべし。昨日も過今日も暮ぬと行程に、我とは急がぬ道なれど、日数積れば、六月二十四日に鎌倉にこそ着にけれ。

☆ 三人の僧都が関東に下って行ったこと

元徳二年(1330年)六月八日、幕府の使者、二階堂下野判官と長井遠江守の二人は、三人の僧たちを連行して、関東に向かいました。その中の、忠円僧正と言う人は、浄土寺慈勝僧正の弟子で、頭脳明晰、判断的確にして、寺院の中で二人と居ない秀才です。

文観僧正と言う人は元々播磨国の法華時に住む僧でしたが、壮年の頃から醍醐寺に移った真言宗の大阿闍梨で、東寺の座主と醍醐寺の座主に任命された、真言密教における修行、法会などの最高指導者であって、また総合統括者でもあります。

また円観上人は元々は比叡山延暦寺の僧侶でしたが、顕教、密教双方に卓越した才能を持っており、比叡全山に光を放っているかと疑われるほど、知識と修行の両面において優れた人であり、他の寺々に彼に勝る人を望むことは出来ません。

しかしながら、長らく比叡山延暦寺において、道徳は衰え人情も薄れていく中で、独りよがりの慢心が支配し出して、ついに天の悪魔にその組織全体が侵されていきました。この時にあたって、自分は宗教界における名誉をなげうってでも、

高祖である伝教大師の教えに忠実であろうと思い、一旦現在の自分を捨て、しばらく静かな修行をすべく、閉じこもることにしました。最初は西塔の黒谷という所に居を構え、法衣も季節ごとに取り替えることもなく、食事もその日その日の風任せに過ごしたと言っても、

徳ある人は決して孤立したりせず、常に仲間が傍にあり、その徳は自ずから身体より滲み出し、ついに五代にわたる天皇に仏教を説く法師となって、大乗仏教における最初の功労者となりました。このように知識において優れた人であり、

厳しい修行を積んだ有徳の長老とは言え、その時代における、思いがけない災難から逃れることが出来なかったのか、それとも前世からの運命だったのでしょうか。都遠く、未開の地に流される囚人として、旅の月の下、さすらうことになられたのでした。

考えれば不思議な話ではあります。この円観上人だけは、宗印、円照、道勝と言う弟子三人がつかず離れず付き従って、上人の乗られた輿の前後をお供したのです。彼以外の文観僧正や忠円僧正は、供をする者は許されず、みすぼらしいそこらの馬に乗せられ、

回りを見慣れない武士どもに囲まれて、夜も明けぬうちに早起き鳥のように、東の空に旅立ったのでした。彼らの心中、思えば悲しい限りです。彼らを鎌倉まで護送するには及ばず、途中にて処刑するようにとも噂されているので、宿に着くたび今夜限りかと思い、

途中の山で休憩すれば此処で処刑されるのかと、はかない命はたとえ持ちこたえても、気持ちではすでに亡き者になっていました。そのような中、昨日も過ぎて、また今日も日暮れを迎えて旅を続けるうち、別に急いだ訳ではないけれど、日数は経って行き、

やがて六月二十四日、鎌倉に到着したのでした。


円観上人をば佐介越前守、文観僧正をば佐介遠江守、忠円僧正をば足利讚岐守にぞ預らる。両使帰参して、彼僧達の本尊の形、炉壇の様、画図に写て註進す。俗人の見知るべき事ならねば、佐々目の頼禅僧正を請じ奉て、是を被見せに、「子細なき調伏の法也。」と申されければ、「去ば此僧達を嗷問せよ。」とて、侍所に渡して、水火の責をぞ致しける。文観房暫が程はいかに問れけれ共、落玉はざりけるが、水問重りければ、身も疲心も弱なりけるにや、「勅定に依て、調伏の法行たりし条子細なし。」と、白状せられけり。其後忠円房を嗷問せんとす。此僧正天性臆病の人にて、未責先に、主上山門を御語ひありし事、大塔の宮の御振舞、俊基の隠謀なんど、有もあらぬ事までも、残所なく白状一巻に載られたり。此上は何の疑か有べきなれ共、同罪の人なれば、閣べきに非ず。円観上人をも明日問奉るべき評定ありける。其夜相摸入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿共二三千群来て、此上人を守護し奉る体にて、並居たりと見給ふ。夢の告只事ならずと思はれければ、未明に預人の許へ使者を遣し、「上人嗷問の事暫く閣べし。」と被下知処に、預人遮て相摸入道の方に来て申けるは、「上人嗷問の事、此暁既其沙汰を致候はん為に、上人の御方へ参て候へば、燭を挑て観法定坐せられて候。其御影後の障子に移て、不動明王の貌に見させ給候つる間、驚き存て、先事の子細を申入ん為に、参て候也。」とぞ申ける。夢想と云、示現と云、只人にあらずとて、嗷問の沙汰を止られけり。

円観上人は佐介越前守に、文観上人を佐介遠江守に、また忠円僧正は足利讃岐守貞氏(足利尊氏の父)にそれぞれ身柄を預けられました。幕府の使者、二階堂下野判官と長井遠江守の二人は鎌倉に出頭し、彼ら僧達がまつっている本尊の姿形や、

護摩を焚く炉の姿などを絵図にして報告しました。普通の人間にとっては、とても分かる事でもないので、佐々目頼禅僧正を招いて鑑定を依頼したところ、「間違いなく、これらは調伏の修法である」と、申されたので、「よし、それならばこの僧たちに拷問をかけ、

自白させるように」と、侍所に身柄を移し、水責め、火責めの拷問にかけたのでした。文観はいかに拷問をかけられても、しばらくは口を割らなかったのですが、たび重なる水責めに心身とも疲れ果て、「帝の命によって、調伏の修法を行なったこと間違いありません」と、白状したのでした。

その後、忠円にも拷問をかけようとしましたが、この僧正は生まれつき臆病な人間なので、まだ拷問もかけられていないのに、天皇が比叡山延暦寺に相談を持ちかけられたことや、大塔宮護良親王の日常の振る舞い、また日野俊基が計画していた陰謀など、

あることないこと、余すことなく白状し、それは一巻の書状として書き付けられたのでした。ここまで自白をとったので、今更とは思われましたが同罪である以上、円観に対しても明日拷問にかけて尋問することに決まりました。その夜相模入道北条高時は、

比叡山の東坂本から、猿たち二、三千匹が群がり来て、この円観上人を護衛するかのように居並ぶ夢を見たのでした。高時はこの夢のお告げはただ事ではないと思い、まだ夜明け前にかかわらず、上人の身柄を預かっている佐介越前守に使者を送り、

「円観上人の拷問はしばらく延期するように」と、命令を伝えたところ、反対に佐介越前守が相模入道高時のところに来て、「円観上人の拷問の件ですが、今日の明け方に拷問を実施しようと、上人のもとに来てみると、彼は燭を手に持ち、仏法の真理を求めようと座していました。

ところが彼の陰が後ろの障子にうつっているのを見れば、不動明王の顔かたちに見えて、大変驚き、とりあえずこのことを報告しようと参った次第です」と、申し上げたのです。高時の見た夢と言い、越前守が見た神仏のお告げらしいものと言い、

やはり彼は只者ではないと考えられて、拷問の実施は中止となったのでした。


同七月十三日に、三人の僧達遠流の在所定て、文観僧正をば硫黄が嶋、忠円僧正をば越後国へ流さる。円観上人計をば遠流一等を宥て、結城上野入道に預られければ、奥州へ具足し奉、長途の旅にさすらひ給。左遷遠流と云ぬ計也。遠蛮の外に遷されさせ給へば、是も只同じ旅程の思にて、肇法師が刑戮の中に苦み、一行阿闍梨の火羅国に流されし、水宿山行の悲もかくやと思知れたり。名取川を過させ給とて上人一首の歌を読給ふ。陸奥のうき名取川流来て沈やはてん瀬々の埋木時の天災をば、大権の聖者も遁れ給はざるにや。昔天竺の波羅奈国に、戒定慧の三学を兼備し給へる独の沙門をはしけり。一朝の国師として四海の倚頼たりしかば、天下の人帰依偈仰せる事、恰大聖世尊の出世成道の如也。或時其国の大王法会を行ふべき事有て説戒の導師に此沙門をぞ請ぜられける。沙門則勅命に随て鳳闕に参ぜらる。帝折節碁を被遊ける砌へ、伝奏参て、沙門参内の由を奏し申けるを、遊しける碁に御心を入られて、是を聞食れず、碁の手に付て、「截れ。」と仰られけるを、伝奏聞誤りて、此沙門を刎との勅定ぞと心得て、禁門の外に出し、則沙門の首を刎てけり。帝碁をあそばしはてゝ、沙門を御前へ召ければ、典獄の官、「勅定に随て首を刎たり。」と申す。帝大に逆鱗ありて、「「行死定て後三奏す」と云へり。而を一言の下に誤を行て、朕が不徳をかさぬ。罪大逆に同じ。」とて、則伝奏を召出して三族の罪に行れけり。さて此沙門罪なくして死刑に逢ひ給ぬる事只事にあらず、前生の宿業にてをはすらんと思食れければ、帝其故を阿羅漢に問給ふ。阿羅漢七日が間、定に入て宿命通を得て過現を見給ふに、沙門の前生は耕作を業とする田夫也。帝の前生は水にすむ蛙にてぞ有ける。此田夫鋤を取て春の山田をかへしける時、誤て鋤のさきにて、蛙の頚をぞ切たりける。此因果に依て、田夫は沙門と生れ、蛙は波羅奈国の大王と生れ、誤て又死罪を行れけるこそ哀なれ。されば此上人も、何なる修因感果の理に依か、卦る不慮の罪に沈給ぬらんと、不思議也し事共也。

元徳二年(1330年)七月十三日、三人の僧侶の配流先が決まりました。文観僧正は硫黄島、忠円僧正は越後国に流されることになりました。そして円観上人だけ遠流の罪は許されて、結城上野入道に身柄を預けられたので、奥州に引き連れて行くため、

長い旅に出ることとなりました。左遷、遠流の罪は許されたと言っても、都遠く未開の地に遷されると言う意味では全く変わることとも思えず、古代中国において、肇法師が刑罰に苦しんだり、また一行阿闍梨が火羅国に流されていく時、途中の宿での心細さや、

山越えの悲しみもこのようであったのかと思われました。名取川を渡るとき、上人は一首の歌を詠まれました。
陸奥のうき名取川流来て沈やはてん瀬々の埋木

圧倒的な修行者、権力者であっても、その時代における災難から遁れることは出来ないのでしょう。昔インドの波羅奈国に戒定慧(悪を止める戒、心の平静を得る定、真実を悟る慧)の三つの修行を積んだ一人の僧侶がいました。彼は国家における仏教の指導者として、

国の内外から信頼を集め、国民こぞって彼に帰依したく願うさまは、まるで大聖釈尊(釈迦)が仏の道に入り、仏教の道を極めた時における、人達の釈迦に対する状況と変わりません。あるとき、この波羅奈国で帝主催の法要を実施することになり、

説戒(自己反省し、懺悔する行事)の儀を執り行う僧として、この僧侶を呼びました。僧侶は帝の命に従って宮城に参上しました。その時、帝は偶然囲碁を楽しんで居られたのですが、臣下が僧侶の参上を伝えに御前に現れた時、帝は囲碁に夢中になり、

臣下の報告をお聞きにならず、盤面の碁の打ち手について、「切れ」と話されたのを、臣下はこの僧侶の首を刎ねるように命じられたと聞き違え、宮城の外に連れ出し、すぐに首を刎ねてしまったのです。碁を打ち終わった帝が、

件の僧侶を御前に連れて来るよう話されると、刑務の役人が、「ご命令に従い首を刎ねました」と、答えました。帝は激しく怒りをあらわにし、「『死罪と決定になっても、その後三度は国王に死罪の確認をする』と、言うではないか。

それなのにただ一言の聞き違いをすることによって、朕が不徳を重ねる結果となった。この罪は、国家、帝に対する最悪の罪科に匹敵する」と、この臣下を呼び出して、身近な三つの親族を罰する罪に処したのでした。ところで、この僧侶が一片の罪もなく死刑になるとは、

とても尋常のことではありません。帝はこのようなことになるのは、前世からの宿命によるのではと考えられ、阿羅漢(小乗仏教の最高の悟りに達した聖者)にその原因を尋ねました。阿羅漢は七日間、精神を集中し、人の前世などを透視する能力を得て、

前世、現世を透視してみたところ、この僧侶の前世は農業に従事する百姓でした。また帝の前世は水に生息する蛙でした。春の頃、この百姓が鋤を手にして、山中の田を耕していた時、誤って鋤の刃先にて蛙の額を切ってしまいました。この因果が巡って、

百姓は仏門に生まれ、蛙は波羅奈国の帝王として生まれてきたのですが、誤って今度は帝王、つまり蛙が僧侶、同じく百姓を死罪に処したことこそ、悲しい話ではあります。この円観上人も修行によって悟りを得たにもかかわらず、

どう言う訳でこのような思いがけない罪を着せられ、死罪の目に逢ったのでしょうか、考えれば不思議なことです。


○俊基朝臣再関東下向事
俊基朝臣は、先年土岐十郎頼貞が討れし後、召取れて、鎌倉まで下給しかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せられたりけるが、又今度の白状共に、専隠謀の企、彼朝臣にありと載たりければ、七月十一日に又六波羅へ召取れて関東へ送られ給ふ。再犯不赦法令の定る所なれば、何と陳る共許されじ、路次にて失るゝか鎌倉にて斬るゝか、二の間をば離れじと、思儲てぞ出られける。落花の雪に蹈迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰、嵐の山の秋の暮、一夜を明す程だにも、旅宿となれば懶に、恩愛の契り浅からぬ、我故郷の妻子をば、行末も知ず思置、年久も住馴し、九重の帝都をば、今を限と顧て、思はぬ旅に出玉ふ、心の中ぞ哀なる。憂をば留ぬ相坂の、関の清水に袖濡て、末は山路を打出の浜、沖を遥見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行、身を浮舟の浮沈み、駒も轟と踏鳴す、勢多の長橋打渡り、行向人に近江路や、世のうねの野に鳴鶴も、子を思かと哀也。時雨もいたく森山の、木下露に袖ぬれて、風に露散る篠原や、篠分る道を過行ば、鏡の山は有とても、泪に曇て見へ分ず。物を思へば夜間にも、老蘇森の下草に、駒を止て顧る、古郷を雲や隔つらん。番馬、醒井、柏原、不破の関屋は荒果て、猶もる物は秋の雨の、いつか我身の尾張なる、熱田の八剣伏拝み、塩干に今や鳴海潟、傾く月に道見へて、明ぬ暮ぬと行道の、末はいづくと遠江、浜名の橋の夕塩に、引人も無き捨小船、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀と夕暮の、入逢鳴ば今はとて、池田の宿に着給ふ。

☆俊基朝臣が再び関東に下ったこと 

蔵人右少弁日野俊基朝臣は元徳元年(1329年)に土岐十郎頼貞が討たれた後、幕府に生け捕られて鎌倉に護送されたのですが、色々と弁明に努めた結果、何とか言い逃れが出来て許されたのでした。しかし今回、僧侶達の白状書に、

陰謀の計画は日野俊基朝臣が中心だったと記載されていたので、元徳二年(1330年)七月十一日に再び六波羅に捕われて、関東鎌倉へ護送されました。再犯は許されないという法令があるため、今度は如何に弁明しようとも、決して許されることはなく、

鎌倉への途中にて処刑されるか、それとも鎌倉に着いてから斬られるのか、二つに一つであろうと覚悟を決めて都を後にしました。花びらが雪のように舞い落ちる片野(交野が原::桜の名所)の花見の宴や、紅葉の錦を身にまとうような秋、嵐山での紅葉狩りの夕べなど、

以前はただ一夜を過ごすだけの宿でしたが、この度は鎌倉への無情な旅の宿となります。強い絆で結ばれた故郷の妻や子供達に、我が行方を知らせることも無く、長年住み慣れた都を、今日を限りに思いがけない旅に出るその心の内は、どれほど悲しく寂しいことでしょうか。

別れのつらさなどには無関心な、逢坂の関近くに湧き出る清水に袖を濡らし、山道を過ぎ行くとやがて琵琶湖ほとりの打出の浜に出てきます。沖をはるかに望み、琵琶湖に向かって歩を進めて行けば、わが身の行方は波に浮かぶ舟のようにはかなく、

勢多の大橋を馬のひづめ音高く渡って行けば、行きかう人に近江路となります。世間の憂きことを嘆くように鳴く鶴の声も、子供を思ってのことかと悲しくなります。時雨も激しくなった森山(守山)の木の下で、露に袖を濡らし、吹く風に篠原の地にある篠の露も飛ばされて、

なおも歩み進めば鏡の山も、右手にあると言われても、涙に曇る目には分かりません。夜に入っても思うことがあり、老蘇(奥石神社の森)森に生える草のそばに馬をとめ、故郷を振り返っても、雲にさえぎられて見ることも出来ません。

番場、醒ヶ井、柏原も過ぎ、不破の関では荒れた建物に秋の雨が漏るのを見れば、またわが身の終りとも思われます。熱田神社の八剣宮を拝めば、海も引き潮に鳴海潟、傾き行く月に道を探しながら、今日も明けたとか今日も暮れたとか行く道は、

いずれにしても遠江、浜名の橋に満ち来る潮に、打ち捨てられた小舟が、沈んでしまうのと変わらないわが身に、誰が可哀想だとか言ってくれるのでしょうか。やがて入相の鐘が鳴る頃に、池田の宿に到着しました。


元暦元年の比かとよ、重衡中将の、東夷の為に囚れて、此宿に付給しに、「東路の丹生の小屋のいぶせきに、古郷いかに恋しかるらん。」と、長者の女が読たりし、其古の哀迄も、思残さぬ泪也。旅館の燈幽にして、鶏鳴暁を催せば、疋馬風に嘶へて、天竜河を打渡り、小夜の中山越行ば、白雲路を埋来て、そことも知ぬ夕暮に、家郷の天を望ても、昔西行法師が、「命也けり。」と詠つゝ、二度越し跡までも、浦山敷ぞ思はれける。隙行駒の足はやみ、日已亭午に昇れば、餉進る程とて、輿を庭前に舁止む。轅を叩て警固の武士を近付け、宿の名を問給ふに、「菊川と申也。」と答へければ、承久の合戦の時、院宣書たりし咎に依て、光親卿関東へ召下されしが、此宿にて誅せられし時、昔南陽懸菊水。汲下流而延齢。今東海道菊河。宿西岸而終命。と書たりし、遠き昔の筆の跡、今は我身の上になり。哀やいとゞ増りけん、一首の歌を詠て、宿の柱にぞ書れける。古もかゝるためしを菊川の同じ流に身をや沈めん大井河を過給へば、都にありし名を聞て、亀山殿の行幸の、嵐の山の花盛り、竜頭鷁首の舟に乗り、詩歌管絃の宴に侍し事も、今は二度見ぬ夜の夢と成ぬと思つゞけ給ふ。嶋田、藤枝に懸りて、岡辺の真葛裡枯て、物かなしき夕暮に、宇都の山辺を越行ば、蔦楓いと茂りて道もなし。昔業平の中将の住所を求とて、東の方に下とて、「夢にも人に逢ぬなりけり。」と読たりしも、かくやと思知れたり。清見潟を過給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ波の関守に、いとゞ涙を催され、向はいづこ三穂が崎・奥津・神原打過て、富士の高峯を見給へば、雪の中より立煙、上なき思に比べつゝ、明る霞に松見へて、浮嶋が原を過行ば、塩干や浅き船浮て、をり立田子の自も、浮世を遶る車返し、竹の下道行なやむ、足柄山の巓より、大磯小磯直下て、袖にも波はこゆるぎの、急としもはなけれども、日数つもれば、七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ着玉けれ。其日軈て、南条左衛門高直請取奉て、諏防左衛門に預らる。一間なる処に蜘手きびしく結て、押篭奉る有様、只地獄の罪人の十王の庁に渡されて、頚械手械を入られ、罪の軽重を糺すらんも、右やと思知れたり。

元暦元年(1184年)の頃でしょうか、平家の平重衡中将が東国の荒武者らに捕らえられ、この池田宿に着いたとき、「東路の丹生の小屋のいぶせきに、古郷いかに恋しかるらん」と、土地の長者の娘が詠んだいう昔のことも、しみじみと思い出され涙があふれます。

旅の宿の灯もかすかにゆれ、鳴く鳥が暁を知らせれば、曳かれ行く馬は風に向かっていななき、やがて天竜川も越えました。小夜の中山(旧東海道の難所)を過ぎ行く時には、白雲とも思われる霧が行く道を埋め、一体どこをどう歩んでいるのか分からないような夕暮れに、

故郷の空をはるかに望んでみると、昔、西行法師が二度と越えることはないだろうと思い、「・・・命なりけり、小夜の中山」と、詠んだことが思い出され、確かに自分もそうかも知れないと思われました。時間は瞬く間に過ぎ、

すでに正午近くなって昼食を摂るため輿を庭に降ろしました。蔵人右少弁日野俊基朝臣は輿の前に突き出ている棒を叩いて警備の武士を呼び、ここは如何なる宿かと名を聞いたところ、武士は、「菊川と言う宿です」と、答えました。

その返答を聞いて俊基は、承久の合戦の際、院宣を書いた罪を問われ、藤原光親卿が関東に護送される途中、この宿場で処刑され、その時、「昔南陽懸菊水、汲下流而延齢、今東海道菊河、宿西岸而終命」(昔は南陽県の菊水の下流で水を汲み、命を永らえたものだが、今は東海道菊川の西岸に宿して命を失う)と、

詠んだそうだが、それも遠い昔のことであり、今はわが身のこととなった。さすが、悲しさがつのり、一首の歌を詠んで、宿の柱に書き残されました。「古もかゝるためしを菊川の同じ流れに身をや沈めん」(昔にもあったと聞くこの菊川で、私も命を失うことになるのだ)

大井川を渡る時には、都にもあった大堰川(おおいがわ)と同じ名を聞いて、嵯峨野の亀山殿に天皇が行幸された時、嵐山は花盛りで、竜頭鷁首(竜の彫り物や鷁の頭を船首・船側につけた舟)の舟に乗り、詩歌管弦の宴を催したことも、

今となっては二度と見ることの出来ない夢になったと、思い続けられたのでした。嶋田(島田)、藤枝の地を過ぎて、岡辺(岡部)では葛も枯れ、物悲しい夕暮れの中、宇都(宇津)の山道にかかると、蔦や楓が茂って道も分からないほどです。

その昔、在原業平中将が安住の地を求めようと、東国に下って来た時、その寂しさに、「夢にも人に逢ぬなりけり」と詠んだのも、なるほどと思われました。清見潟(清水市袖師から興津にかけての海岸線)を過ぎると、都に帰る夢さえ許されないと思うほどの波に、

涙が思わず流れ出てきます。三穂が崎(三保が崎)、奥津(興津)、神原(蒲原)も過ぎて、富士の高嶺を見上げると雪の中に噴煙が立ち昇り、やはり富士は最高の山だという思いを新たにしつつ、晴れていく霞の向こうの松を見ながら、

浮嶋が原(当時は広大な沼地。後世の東海道五十三次の十三番の宿場)を過ぎて行きました。潮の引いた海に浅い舟が浮かび、降り立った農民も繰り返し受けるこの世の苦しみのような、箱根竹の下の険しい坂道に難渋しながらも、

やがて足柄山の嶺からまっすぐ大磯、小磯に降り下って行くと、袖には波が打ち寄せて(小余綾の磯::こゆるぎ:海岸名)、特に道中を急(磯)いだ訳でもないのですが、日数が過ぎていき、七月二十六日の夕方、鎌倉に到着したのでした。

その日のうちに、何条左衛門高直が彼の身柄を受け取って、諏防左衛門に預けられました。日野俊基は材木を四方八方に組んだ一間に押し込められ、その様子は地獄に送られた罪人が、冥土で亡者を裁く十人の王がいる役所に引き渡され、手枷首枷をはめて、

その人の罪の軽重を取り調べるのも、このような状況なのだろうと思われます。

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