2 太平記 巻第二 (その二)


○長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事
当今御謀反の事露顕の後御位は軈て持明院殿へぞ進らんずらんと、近習の人々青女房に至まで悦あへる処に、土岐が討れし後も曾て其沙汰もなし。今又俊基召下されぬれ共、御位の事に付ては何なる沙汰あり共聞ざりければ、持明院殿方の人々案に相違して五噫を謳者のみ多かりけり。さればとかく申進る人のありけるにや、持明院殿より内々関東へ御使を下され、「当今御謀反の企近日事已に急なり。武家速に糾明の沙汰なくば天下の乱近に有べし。」と仰られたりければ、相摸入道、「げにも。」と驚て、宗徒の一門・並頭人・評定衆を集て、「此事如何有べき。」と各所存を問る。然ども或は他に譲て口を閉、或は己を顧て言を出さゞる処に、執事長崎入道が子息新左衛門尉高資進出て申けるは、「先年土岐十郎が討れし時、当今の御位を改申さるべかりしを、朝憲に憚て御沙汰緩かりしに依て此事猶未休。乱を撥て治を致は武の一徳也。速に当今を遠国に遷し進せ、大塔宮を不返の遠流に所し奉り、俊基・資朝以下の乱臣を、一々に誅せらるゝより外は、別儀あるべしとも存候はず。」と、憚る処なく申けるを、

☆ 長崎新左衛門尉が阿新(くまわか)殿の事について意見を述べたこと

後醍醐天皇の謀反計画が露見した後は、天皇の位はすぐにでも持明院統に回ってくると、持明院の方では近習の者は勿論、若い女房に至るまで喜んでいましたが、土岐十郎頼貞が討ち取られてからも、何らそのような様子は見られません。

そればかりでなく、今回蔵人右少弁日野俊基が鎌倉に護送されたにもかかわらず、やはり天皇退位については、何もその話がないともっぱらの話なので、持明院統の人達は思惑通りに行かないので、嘆いたり残念がる人達ばかりでした。

そのような訳で、誰なのかはっきりしませんが持明院統の中の人が、密かに関東鎌倉幕府に使者を立て、「今上天皇が御謀反を企てたことは、近来まれに見る異常事であり、すでに事態は急を要しています。

武家らはこの件に関して、速やかに事態の収拾を図らなければ、近い内に天下の騒乱を招く事になるでしょう」と、申し上げました。話を聞いた相模入道北条高時は、「確かに言われる通りだ」と驚き、すぐに北条家の一門や幕府の各役所の責任者そして、

評定所の役人らを招集し、「この事態に対して、如何に対処すれば良いだろうか」と、皆の意見を求めました。しかしそれぞれ出席者は、他の出席者に意見を譲って黙ったり、またはわが身のことを考えて、誰も意見を言おうとしません。

そんな時、北条家執事の長崎円喜入道の子息、新左衛門尉長崎高資が進み出て、「去る元徳元年(1329年)に土岐十郎頼貞が討伐された時、後醍醐天皇に御退位をお願いしなければいけないのに、朝廷の都合を考慮しすぎたため、

処置がうやむやになりその結果、この問題が未だに解決出来ないのです。動乱が発生した時には、速やかに出動して乱の沈静化を図るのが、武家に与えられた使命であるはずです。ここは即刻後醍醐天皇を遠国にお遷しし、

大塔宮護良親王は帰ることの出来ない国へ遠流という処置を採り、右少弁日野俊基や日野中納言資朝以下の逆臣らを全員処刑する以外、特に考え得る名案があるとも思えません」と、遠慮することなく申し上げたのでした。


二階堂出羽入道道蘊暫思案して申けるは、「此儀尤然るべく聞へ候へ共、退て愚案を廻すに、武家権を執て已に百六十余年、威四海に及、運累葉を耀すこと更に他事なし。唯上一人を仰奉て、忠貞に私なく、下百姓を撫て仁政に施ある故也。然に今君の寵臣一両人召置れ、御帰衣の高僧両三人流罪に処せらるゝ事も、武臣悪行の専一と云つべし。此上に又主上を遠所へ遷し進せ、天台座主を流罪に行れん事、天道奢を悪むのみならず、山門争か憤を含まざるべき。神怒人背かば、武運の危に近るべし。「君雖不君、不可臣以不臣」と云へり。御謀反の事君縦思食立とも、武威盛ならん程は与し申者有べからず。是に付ても武家弥よ慎で勅命に応ぜば、君もなどか思食直す事無らん。かくてぞ国家の泰平、武運の長久にて候はんと存るは、面々如何思食候。」と申けるを、長崎新左衛門尉又自余の意見をも不待、以の外に気色を損じて、重て申けるは、「文武揆一也と云へ共、用捨時異るべし。静なる世には文を以て弥治め、乱たる時には武を以急に静む。故戦国の時には孔盂不足用、太平の世には干戈似無用。事已に急に当りたり。武を以て治むべき也。異朝には文王・武王、臣として、無道の君を討し例あり。吾朝には義時・泰時、下として不善の主を流す例あり。世みな是を以て当れりとす。されば古典にも、「君視臣如土芥則臣視君如冦讎。」と云へり。事停滞して武家追罰の宣旨を下されなば、後悔すとも益有べからず。只速に君を遠国に遷し進せ、大塔の宮を硫黄が嶋へ流奉り、隠謀の逆臣、資朝・俊基を誅せらるゝより外の事有べからず。武家の安泰万世に及べしとこそ存候へ。」と、居長高に成て申ける間、当座の頭人・評定衆、権勢にや阿けん、又愚案にや落けん、皆此義に同じければ、道蘊再往の忠言に及ばず眉を顰て退出す。

それを聞き、二階堂出羽入道道蘊がしばらく考えてから、「この件について今の意見は尤もなように聞こえますが、一歩下がって私のつたない考えを申し上げたく思います。武家が国家の権力を握ってから、すでに百六十余年が過ぎ、

その権威は国家の全てに行き渡り、武運、家運は一族、子孫に至るまで栄光に満ち満ちていること、他にその例を見ません。これは今までただ天皇お一人を尊崇し、その忠節に私心をはさむことなく、また下々の百姓らに対しては、思いやりのある仁政を採ってきたからです。

にもかかわらず、天皇が信頼し、寵愛する臣下二人を召し捕っただけでなく、天皇が帰依していた高僧を三人も流罪に処したことなど、武力を以って天皇にお仕えする臣下としては、悪逆無道のきわみとも言えるのではないでしょうか。

この上なおも、天皇を遠国に遷し参らせ、天台座主護良親王を流罪に処すようなことは、天が許すはずのないおごりであるばかりでなく、山門延暦寺の怒りを買うこととなるでしょう。神の怒りを買い、民衆の反感を買うようなことになれば、我らの武運に危険が増すばかりです。

『君主に君主の資格がなくても、臣下は臣下の務めを果たさねばならない』と、古くから言われています。たとえ後醍醐天皇が御謀反を計画されたとしても、我ら武家の威光が強力な限り、天皇の計画に加担する者がいるはずありません。こう考えてみると、

我ら武家が天皇の命令に忠実に従ってさえいれば、天皇もお考えを改めること間違いありません。それでこそ、国家の安泰と我らの武運長久が期待できると思いますが、皆様がたのお考えはいかがでしょうか」と、申し上げたのです。

対して先ほどの新左衛門尉長崎高資が他の人の意見を待つこともなく、気分を悪くし、「文と武は詰まるところ同じだと言いますが、その用いる時と場合は大いに違いがあります。世の中が静かに治まっている時は、文で対応し、

もし世の中が乱れてきた場合は、武でもって早急に沈静化をはからねばなりません。そこで戦国時代にあっては孔子や孟子は役に立たず、太平の世には武器、武力は必要ありません。ところが現在はすでに急を要しており、武力を以って治めるべき時です。

他国、中国においては文王(周王朝の始祖)、武王(周王朝の創始者)親子が臣下でありながら、暴君であった殷王朝の紂王(帝辛)を討ち取った例があります。また我が国では北条義時(第二代執権)、泰時(第三代執権)親子が臣下でありながら、承久の乱の首謀者である、

後鳥羽上皇を隠岐島にお遷しした例もあります。そしてその時、世の中の人達は皆、この処置を当然だと受け止めています。そこで古典においても、「君視臣如土芥即臣視君如寇讎」(君が臣下を土やごみのように見れば、それは即ち臣下が君を仇のように見ることになる)と、

言われています。今この事態に際して逡巡を続けた結果、反対に後醍醐天皇から武家を追討せよと宣旨が出されたなら、その時になって後悔しても始まりません。ここは即刻天皇を遠国にお遷しし、また大塔宮護良親王は硫黄が島に流し、

そして、この陰謀に協力した逆臣、日野資朝、日野俊基らを処刑する以外、名案などあるはずがありません。この決断によってこそ、武家の安泰が万世にわたって続くと考えられます」と、高圧的な態度で話されたので、その場にいた役所の長官や評定所の役人らは、

彼の語気に押されて自分の意見を曲げたのか、あるいは愚かな考えに引きずり込まれたのか、皆が皆、彼の意見に賛成し、二階堂道蘊入道の再度の忠告を待たず、眉をひそめて部屋を出て行きました。


さる程に、「君の御謀反を申勧けるは、源中納言具行・右少弁俊基・日野中納言資朝也、各死罪に行るべし。」と評定一途に定て、「先去年より佐渡国へ流されてをはする資朝卿を斬奉べし。」と、其国の守護本間山城入道に被下知。此事京都に聞へければ、此資朝の子息国光の中納言、其比は阿新殿とて歳十三にてをはしけ〔る〕が、父の卿召人に成玉しより、仁和寺辺に隠て居られけるが、父誅せられ給べき由を聞て、「今は何事にか命を惜むべき。父と共に斬れて冥途の旅の伴をもし、又最後の御有様をも見奉るべし。」とて母に御暇をぞ乞れける。母御頻に諌て、「佐渡とやらんは、人も通はぬ怖しき嶋とこそ聞れ。日数を経る道なればいかんとしてか下べき。其上汝にさへ離ては、一日片時も命存べしとも覚へず。」と、泣悲て止ければ、「よしや伴ひ行人なくば、何なる淵瀬にも身を投て死なん。」と申ける間、母痛止ば、又目の前に憂別も有ぬべしと思侘て、力なく今迄只一人付副たる中間を相そへられて、遥々と佐渡国へぞ下ける。路遠けれども乗べき馬もなければ、はきも習ぬ草鞋に、菅の小笠を傾て、露分わくる越路の旅、思やるこそ哀なれ。都を出て十三日と申に、越前の敦賀の津に着にけり。是より商人船に乗て、程なく佐渡国へぞ着にける。

やがて、「後醍醐天皇に対して御謀反を勧めたのは、源中納言具行(北畠具行)、右少弁日野俊基そして日野中納言資朝らであり、全員死罪に処するべきである」と、評議は一決し、「まず、昨年佐渡国に流した日野資朝卿を斬るように」と、

佐渡国の守護職、本間山城入道に命令が下りました。この処置についての話が都にも聞こえ、資朝の子息である国光中納言、その頃は阿新(くまわか)殿と言って年齢は十三でしたが、父である資朝卿が犯罪人として捕らわれてから、仁和寺の周辺に身を隠していました。

しかし、父が処刑されることを聞き、「こうなれば、今更何で命を惜しむ事があろうか。父と共に斬られ、冥土の旅のお供をし、また父の御最期の様子も確認しようではないか」と、母に暇を願い出ました。驚いた母は阿新に向かって、「佐渡とか言う国は、

人も通わない恐ろしい島と聞いています。何日掛かるか分からないほど遠くに、一体どうして行こうとするのですか。その上あなたがいなくなっては、この母は一日はおろか、片時も命を保てるとも思えません」と泣き悲しみながら、考え直すようしつこく説得しました。

阿新は、「もし連れて行ってくれる人がいなければ、どこの淵や瀬にでも身を投げて死ぬ積もりです」と言い出したので、さすがの母もこれ以上引き止める事は、かえって辛い別れになるかも知れないと思い出し、やむを得ず今まで自分に付き添っていた、

ただ一人の中間を阿新に付き添わせ、遥々と佐渡国へと向かわせました。佐渡国ははるかかなたの遠方ですが、乗る事の出来る馬も無いので、慣れない草鞋を履いて、菅で作った小さな笠をかぶり、露を分けわけ進む越後路の旅、考えれば考えるほど悲しく可哀想に思われます。

都を出発して十三日目に、越前は敦賀の港に着きました。ここから阿新と中間は商人船に乗り、やがて佐渡国に到着しました。


人して右と云べき便もなければ、自本間が館に致て中門の前にぞ立たりける。境節僧の有けるが立出て、「此内への御用にて御立候か。又何なる用にて候ぞ。」と問ければ、阿新殿、「是は日野中納言の一子にて候が、近来切られさせ給べしと承て、其最後の様をも見候はんために都より遥々と尋下て候。」と云もあへず、泪をはら/\と流しければ、此僧心有ける人也ければ、急ぎ此由を本間に語るに、本間も岩木ならねば、さすが哀にや思けん、軈て此僧を以持仏堂へいざなひ入て、蹈皮行纒解せ足洗て、疎ならぬ体にてぞ置たりける。阿新殿是をうれしと思に付ても、同は父の卿を疾見奉ばやと云けれ共、今日明日斬らるべき人に是を見せては、中々よみ路の障とも成ぬべし。又関東の聞へもいかゞ有らんずらんとて、父子の対面を許さず、四五町隔たる処に置たれば、父の卿は是を聞て、行末も知ぬ都にいかゞ有らんと、思やるよりも尚悲し。子は其方を見遣て、浪路遥に隔たりし鄙のすまゐを想像て、心苦く思つる泪は更に数ならずと、袂の乾くひまもなし。是こそ中納言のをはします楼の中よとて見やれば、竹の一村茂りたる処に、堀ほり廻し屏塗て、行通ふ人も稀也。情なの本間が心や。父は禁篭せられ子は未稚なし。縦ひ一所に置たりとも、何程の怖畏か有べきに、対面をだに許さで、まだ同世の中ながら生を隔たる如にて、なからん後の苔の下、思寝に見ん夢ならでは、相看ん事も有がたしと、互に悲む恩愛の、父子の道こそ哀なれ。

取次ぎを頼める人も、手段も無いので、自分で本間山城入道の舘に向かい、中門の前で立ち止まりました。たまたまその辺に居た僧がやって来て、「何かこの建物に御用があるのですか。またどのような用事なのですか」と、

問われ阿新殿は、「私は日野中納言資朝の一人息子ですが、近々父が斬られることになると聞き、その最期の様子を見ておきたくて、都より遥々訪ねて来た者です」と言う間もなく、はらはらと涙が頬を流れました。この様子を見ていた僧は心の優しい人なのか、

急いでこの事情を本間入道に話したところ、本間も一人の人間なので、さすがに気の毒に思い、すぐにこの僧に言いつけて、阿新殿を持仏堂に誘い入れ、草鞋掛足袋や脚絆を脱がせ足を洗ったり、丁寧にもてなさせました。

阿新殿はこの扱いに嬉しいと思っても、出来れば早く父に会いたいと頼んだのですが、今日か明日、斬られる人に息子を見せたりしたら、かえって黄泉路(冥土への旅)の障害になるのではないか。また関東の幕府に聞こえても具合が悪いと、親子の対面は許されませんでした。

しかし、四、五町ほど離れた場所まで阿新殿を連れて行くと、父、資朝卿はこの話を聞いて、先のことも分からない都で一体どうしているのやらと思うより、もっとつらく悲しくなります。子供も父の方角を見て、都から波路はるかに遠い、佐渡の侘しい仮住まいを想像して、

嘆き悲しみ涙を流していたよりも、もっと悲しくて袂の乾くひまもありません。あれが中納言殿が居られる建物の中かと見てみると、竹がひとかたまりに茂った場所があり、そこに堀を切って塀をめぐらしてあり、行きかう人も稀かと思えます。

しかし、薄情なのは本間入道の心根です。父は捕われの身であり、子供はまだまだ幼く、たとえ二人を一ヶ所に置いてみたところで、どれほどの危険があるのかと思えます。それなのに、対面することすら許さず、まだこの世に居るにもかかわらず、

まるで死別したかのような扱いでは、亡くなってから、お墓の中でしか会えないのか、また会いたいと思いながら寝る夢でしか、会うことが出来ないのかと、お互い肉親の愛情に悲しむ、父子の縁こそ悲しいものはありません。


五月二十九日の暮程に、資朝卿を篭より出し奉て、「遥に御湯も召れ候はぬに、御行水候へ。」と申せば、早斬らるべき時に成けりと思給て、「嗚呼うたてしき事かな、我最後の様を見ん為に、遥々と尋下たる少者を一目も見ずして、終ぬる事よ。」と計り宣て、其後は曾て諸事に付て言をも出給はず。今朝迄は気色しほれて、常には泪を押拭ひ給けるが、人間の事に於ては頭燃を払ふ如に成ぬと覚て、只綿密の工夫の外は、余念有りとも見へ給はず。夜に入れば輿さし寄て乗せ奉り、爰より十町許ある河原へ出し奉り、輿舁居たれば、少も臆したる気色もなく、敷皮の上に居直て、辞世の頌を書給ふ。五蘊仮成形。四大今帰空。将首当白刃。截断一陣風。年号月日の下に名字を書付て、筆を閣き給へば、切手後へ回るとぞ見へし、御首は敷皮の上に落て質は尚坐せるが如し。此程常に法談なんどし給ひける僧来て、葬礼如形取営み、空き骨を拾て阿新に奉りければ、阿新是を一目見て、取手も撓倒伏、「今生の対面遂に叶ずして、替れる白骨を見る事よ。」と泣悲も理也。阿新未幼稚なれ共、けなげなる所存有ければ、父の遺骨をば只一人召仕ける中間に持せて、「先我よりさきに高野山に参て奥の院とかやに収よ。」とて都へ帰し上せ、我身は労る事有る由にて尚本間が館にぞ留りける。是は本間が情なく、父を今生にて我に見せざりつる鬱憤を散ぜんと思ふ故也。角て四五日経ける程に、阿新昼は病由にて終日に臥し、夜は忍やかにぬけ出て、本間が寝処なんど細々に伺て、隙あらば彼入道父子が間に一人さし殺して、腹切らんずる物をと思定てぞねらいける。

五月二十九日の夕方、日野資朝卿を獄舎から引き出して、「長らくお風呂にも入っておられないので、行水などしてください」と、申し上げれば、資朝はいよいよ斬られるのかと思われ、「あぁ、何とも情けないことだ。私の最期の様子を見ようと、

遥々都より下って来た幼い者を、一目たりとも見ずに世を終るとは」とだけ話し、その後は何事に関しても、一言たりとしゃべりませんでした。今朝までは打ちひしがれて元気なく、流れる涙をぬぐい続けて居られたのですが、人間世界での事はバタバタしても始まらないと考えて、

今はただ極楽往生を遂げる事を願う以外、何か考えて居られる様子はありません。夜になり迎えの輿に乗られると、ここより十町ばかりの河原に出ると、その場に輿がおろされました。資朝は少しもひるんだ様子は無く、敷き皮の上に座ると、辞世の句を書かれました。

「五蘊仮成形、四大今帰空、将首当白刃、截断一陣風」(存在を構成する五つの要素など、もともと仮の物であり、万物を構成する四つの元素も今やその姿を消そうとしている。今まさに白刃が首に当たろうとしている、一瞬の風が吹く如く斬られよう)そして、年号、月日を書いた下に自分の名前を書き付け、筆を置きました。

その時、刑罰執行人が後ろに回るように見えた時、御首は敷き皮の上に落ちたのです。しかし、身体は尚も座っているように見えました。最近説法などのため、いつもやって来る僧が来ると、形ばかりの葬礼を営み、その後、御骨を拾って阿新にお渡ししました。

阿新はそれを一目見るや崩れ落ち、「この世での対面はついに叶わず、替わりにこのような白骨を見る事になるとは」と、泣き悲しまれるのも当然な事です。阿新殿はまだまだ幼いけれど、しっかりした少年ですから、

彼のお供をして来た、ただ一人の中間に父の遺骨を持たせると、「まず、私より先に高野山に参り、奥の院とか言うところに納めてくるように」と、命じて都に上らせ、自分は体調が良くないからと、なおも本間入道の舘に逗留しました。

これは本間入道には思いやりが無く、父とこの世で会わせることもしてくれなかった恨みを晴らそうと、考えたからです。阿新はこのように四、五日間、昼間は病気を理由に部屋で寝て、夜になるとそっと部屋を脱け出し、本間の寝所など隅々まで調べ、

隙があれば本間親子の内一人でも刺し殺し、自分も腹を切って自害しようと思い決め、隙をうかがっていました。


或夜雨風烈しく吹て、番する郎等共も皆遠侍に臥たりければ、今こそ待処の幸よと思て、本間が寝処の方を忍て伺に、本間が運やつよかりけん、今夜は常の寝処を替て、何くに有とも見へず。又二間なる処に燈の影の見へけるを、是は若本間入道が子息にてや有らん。其なりとも討て恨を散ぜんと、ぬけ入て是を見るに、其さへ爰には無して、中納言殿を斬奉し本間三郎と云者ぞ只一人臥たりける。よしや是も時に取ては親の敵也。山城入道に劣るまじと思て走りかゝらんとするに、我は元来太刀も刀も持ず、只人の太刀を我物と憑たるに、燈殊に明なれば、立寄ば軈て驚合ふ事もや有んずらんと危で、左右なく寄ゑず。何がせんと案じ煩て立たるに、折節夏なれば灯の影を見て、蛾と云虫のあまた明障子に取付たるを、すはや究竟の事こそ有れと思て障子を少引あけたれば、此虫あまた内へ入て軈て灯を打けしぬ。今は右とうれしくて、本間三郎が枕に立寄て探るに、太刀も刀も枕に有て、主はいたく寝入たり。先刀を取て腰にさし、太刀を抜て心もとに指当て、寝たる者を殺は死人に同じければ、驚さんと思て、先足にて枕をはたとぞ蹴たりける。けられて驚く処を、一の太刀に臍の上を畳までつとつきとをし、返す太刀に喉ぶゑ指切て、心閑に後の竹原の中へぞかくれける。本間三郎が一の太刀に胸を通されてあつと云声に、番衆ども驚騒で、火を燃して是を見るに、血の付たるちいさき足跡あり。「さては阿新殿のしわざ也。堀の水深ければ、木戸より外へはよも出じ。さがし出て打殺せ。」とて、手々松明をとぼし、木の下、草の陰まで残処無ぞさがしける。阿新は竹原の中に隠れながら、今は何くへか遁るべき。人手に懸らんよりは、自害をせばやと思はれけるが、悪しと思親の敵をば討つ、今は何もして命を全して、君の御用にも立、父の素意をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ、若やと一まど落て見ばやと思返して、堀を飛越んとしけるが、口二丈深さ一丈に余りたる堀なれば、越べき様も無りけり。さらば是を橋にして渡んよと思て、堀の上に末なびきたる呉竹の梢へさら/\と登たれば、竹の末堀の向へなびき伏て、やす/\と堀をば越てげり。

風雨が激しく吹き荒れるある夜、不寝番を勤める家来たちも皆、遠く離れた詰め所で眠りについているので、今こそ待ちに待った機会だと考え、本間入道の寝所に忍び込んでみると、彼も悪運が強く、今夜はいつもの寝所を変えたらしく、どこを探しても見当たりません。

また他方に灯火の影が見えるのを、もしかしてそこには本間入道の子息が居るのかも知れない。ならば、たとえ息子でも討ち取って、恨みを晴らそうと思い、忍び込んで見たのですが息子は居ず、中納言資朝卿の刑を執行した、本間三郎と言う者がただ一人で寝ていました。

そうだ彼も親の仇には違いないし、考えようによっては本間山城入道にも匹敵するのではと考え、飛びかかろうとしました。しかし、自分は元々太刀や脇差などに心得がなく、単に他人の太刀を我が物として身に着けているだけなのに、

明かりのあるところで下手にかかって行くと、すぐに気づかれ危ないのではと逡巡し、簡単に近寄る事も出来ません。何か良い方法が無いものかと思案しながら立ち竦んでいましたが、丁度夏の頃であり部屋の明かりを見つけて、

蛾などの虫たちが障子にいっぱい引っ付いていたのを、よしうまくいくかも知れぬと思い、障子を少し引き開けてみたら、虫達が部屋に入り込み、その羽ばたきですぐに灯が消えました。うまくいったと喜んで、本間三郎の枕辺に立ち寄り様子を見ると、

太刀も脇差も枕近くにあり、本人は深い眠りについていました。阿新はまず先に脇差を手にすると腰に差し、その後太刀を抜くと心臓あたりに切っ先を当てましたが、寝ている人間を刺殺するのは、死人に対するのと同じようなものであり、

恨みを晴らす事にはならないと思い、起こすためまず足で枕を蹴ったのです。枕を蹴られて驚いた本間三郎を、最初の一太刀で臍の上辺りを畳まで突き通し、返す刀で喉笛を切り裂くと、落ち着いて裏の竹やぶに隠れました。

本間三郎が、一の太刀にて胸を突き刺された時に発したアッと言う声に、不寝番の侍どもが騒ぎ出し、明かりをつけて調べてみたところ、血の付いた小さな足跡がありました。「さては阿新殿の仕業に違いない。堀の水は深いので、まさか舘から外へは出ていないだろう。

探し出して殺してしまえ」と、手に手に松明を持ち、木の下から草の陰まで残す所無く、徹底的に探しました。阿新は竹やぶの中に隠れていましたが、こうなっては逃げ延びる事は出来ないだろう。人の手に掛かって殺されるよりは、自害をしようとも考えましたが、

やはりそれは良くないと思い返し、親の仇を討った今は何としても命を全うして、帝のお役にも立ち、父が果たせなかった遺志を継いでこそ、君には忠臣であり、親には孝子と言えるのではないだろうか。ここはひとまず逃げ落ちれば、もしかするのではと思い直し、

堀を跳び越えようとしましたが、幅は二丈もあり、また深さも一丈以上と言われる堀ですから、跳び越えるにも越えようがありません。ならば堀に橋を架ければと、堀の上に竹の先が掛かっている呉竹に、するすると登ったところ、竹がしなって堀の向こう側に倒れ、簡単に堀を越える事が出来ました。


夜は未深し、湊の方へ行て、舟に乗てこそ陸へは着めと思て、たどるたどる浦の方へ行程に、夜もはや次第に明離て忍べき道もなければ、身を隠さんとて日を暮し、麻や蓬の生茂たる中に隠れ居たれば、追手共と覚しき者共百四五十騎馳散て、「若十二三計なる児や通りつる。」と、道に行合人毎に問音してぞ過行ける。阿新其日は麻の中にて日を暮し、夜になれば湊へと心ざして、そことも知ず行程に、孝行の志を感じて、仏神擁護の眸をや回らされけん、年老たる山臥一人行合たり。此児の有様を見て痛しくや思けん、「是は何くより何をさして御渡り候ぞ。」と問ければ、阿新事の様をありの侭にぞ語りける。山臥是を聞て、我此人を助けずば、只今の程にかはゆき目を見るべしと思ければ、「御心安く思食れ候へ。湊に商人舟共多候へば、乗せ奉て越後・越中の方まで送付まいらすべし。」と云て、足たゆめば、此児を肩に乗せ背に負て、程なく湊にぞ行着ける。夜明て便船やあると尋けるに、折節湊の内に舟一艘も無りけり。如何せんと求る処に、遥の澳に乗うかべたる大船、順風に成ぬと見て檣を立篷をまく。山臥手を上て、「其船是へ寄てたび給へ、便船申さん。」と呼りけれ共、曾て耳にも聞入ず、舟人声を帆に上て湊の外に漕出す。山臥大に腹を立て柿の衣の露を結で肩にかけ、澳行舟に立向て、いらたか誦珠をさら/\と押揉て、「一持秘密咒、生々而加護、奉仕修行者、猶如薄伽梵と云へり。況多年の勤行に於てをや。明王の本誓あやまらずば、権現金剛童子・天竜夜叉・八大龍王、其船此方へ漕返てたばせ給へ。」と、跳上々々肝胆を砕てぞ祈りける。行者の祈り神に通じて、明王擁護やしたまひけん、澳の方より俄に悪風吹来て、此舟忽覆らんとしける間、舟人共あはてゝ、「山臥の御房、先我等を御助け候へ。」と手を合膝をかゞめ、手々に舟を漕もどす。汀近く成ければ、船頭舟より飛下て、児を肩にのせ、山臥の手を引て、屋形の内に入たれば、風は又元の如に直りて、舟は湊を出にけり。其後追手共百四五十騎馳来り、遠浅に馬を叩て、「あの舟止れ。」と招共、舟人是を見ぬ由にて、順風に帆を揚たれば、舟は其日の暮程に、越後の府にぞ着にける。阿新山臥に助られて、鰐口の死を遁しも、明王加護の御誓掲焉なりける験也。

舘を見事に脱け出た阿新は港から、舟に乗って本州に行こうと考え、迷いながらも港の方へ進んで行く内に、夜も明けて次第に明るくなり、人目を避けて歩むことの出来る道も無く、身を隠そうと日中は麻や蓬などが生い茂った草むらに隠れていたところ、

追っ手と思われる者、百四、五十騎がばらばらと駆けつけて来ると、「もしや、十二、三歳ばかりの子供が通らなかったか」と、道を歩く人々に問いかけながら過ぎて行きました。阿新は日中は麻の中で過ごし、夜になれば港を目指して、

道もはっきり分からないまま歩んで行きました。阿新の親に対する孝心に、神仏が何とか助けてやろうと思われたのか、年老いた山伏の一行に出会いました。阿新の様子を見て、可哀想に思われたのか、「これこれ、お前はどこから来て、どこに行こうとしているのか」と、

問いかけてきたので、阿新は事情をありのままに話しました。訳を聞いた山伏はこの子を助けてやらなければ、その内きっとひどい目に会うのではと思い、「もう安心しなさい。港には商人の舟もたくさん停まっているので、

僕を乗せて越後か越中の方まで送ってあげよう」と言って、足がくたびれると、この子供を肩に乗せたり背に負ったりして行くうち、やがて港に到着しました。夜が明けて、都合のよい舟があるかと尋ねてみたのですが、折悪しく港には一艘の舟もありませんでした。

困ったなどうしようかと舟を探していたら、はるか沖の方に浮かんでいる大船が、風の向きが良くなったのか帆柱を立て、雨露をしのぐためのむしろを片付けはじめました。山伏は舟に向かって手を挙げ、「そこの舟、こちらに戻ってきて下さい。

乗せてほしいのだ」と、呼びかけたのですが、全く耳を貸そうとせず、船乗りたちは声を高く上げて、港の外に向かって漕ぎ出しました。山伏は大変憤慨し、柿色の衣を肩に巻き上げ、沖行く舟に向かって仁王立ちになって、

いらたか数珠(そろばんの玉のように平たくて角の高い玉を連ねた数珠。もむと高い音がする)をさらさらと、すり合わせ、「『一持秘密咒、生々而加護、奉仕修行者、猶如薄伽梵』(真言陀羅尼を一たび持すれば、神仏の御加護はその威力を発し、修行する者は薄伽梵の如き仏になる)と、言うではないか、

況や長年修行を続けてきた者に対し、加護の無かろうはずは無い。不動明王の本願もし誤ることなければ、権現金剛童子、天竜夜叉そして八大龍王、願わくばその舟を、こちらに漕ぎ戻してださい」と、跳び上がり跳ね上がり懸命に祈り続けたのです。

やがて行者の祈りが神に届いたのか、不動明王が救いの手を差し伸べてくれ、急に沖の方から逆風となり、たちまちこの舟を転覆させるほど吹き出したので、船乗りたちは慌てて、「そこの山伏殿、まず私らを助けてください」と、手を合わせ膝を屈め、

必死になって舟を漕ぎ戻して来ました。岸近くになると船頭は舟から飛び下り、阿新を肩に乗せて山伏の手を引いて、舟の屋形の中に引き入れたところ、不思議な事に風は再び順風に変わり、舟は港を出て行きました。

直後に、追っ手ども百四、五十騎が駆けつけて来ると、遠浅の海に馬を入れ大声で、「その舟止まれ、止まれ」と、呼び戻したのですが、船乗りたちは見て見ぬふりをして、順風に帆を膨らませ、舟はその日の夕方には、越後の国府に到着したのでした。

阿新殿が山伏に助けられ、絶体絶命の危地から遁れ出られたのも、不動明王の素晴らしい御加護のお陰でしょう。


○俊基被誅事並助光事
俊基朝臣は殊更謀叛の張本なれば、遠国に流すまでも有べからず、近日に鎌倉中にて斬奉るべしとぞ被定たる。此人多年の所願有て、法華経を六百部自ら読誦し奉るが、今二百部残りけるを、六百部に満る程の命を被相待候て、其後兎も角も被成候へと、頻に所望有ければ、げにも其程の大願を果させ奉らざらんも罪也とて、今二百部の終る程僅の日数を待暮す、命の程こそ哀なれ。此朝臣の多年召仕ける青侍に後藤左衛門尉助光と云者あり。主の俊基召取られ給し後、北方に付進せ嵯峨の奥に忍て候けるが、俊基関東へ被召下給ふ由を聞給て、北方は堪ぬ思に伏沈て歎悲給けるを見奉に、不堪悲して、北の方の御文を給て、助光忍て鎌倉へぞ下ける。今日明日の程と聞へしかば、今は早斬れもやし給ひつらんと、行逢人に事の由を問々、程なく鎌倉にこそ着にけれ。右少弁俊基のをはする傍に宿を借て、何なる便もがな、事の子細を申入んと伺けれども、不叶して日を過しける処に、今日こそ京都よりの召人は斬れ給べきなれ、あな哀れや、なんど沙汰しければ、助光こは如何がせんと肝を消し、此彼に立て見聞しければ、俊基已に張輿に乗せられて粧坂へ出給ふ。

☆ 俊基が処刑されたことと、助光のこと

右少弁日野俊基朝臣は今回の謀反に関して、特に重要な役割を演じた人なので、遠国に流す事などせずに、近日中に鎌倉内で死刑を執行する事と決まりました。この人は長年神仏に願う事があって、法華経六百部の読経という願を立てており、

今現在あと二百回を残すところまできています。せめて六百回に達するまで、命を永らえてもらえれば、その後はいかになろうと思い残す事はありませんと、事あるごとにに懇願されました。それだけの願を持ち続けている人に、

それも果たさずに刑を執行するのも、また罪なことかも知れないと、あと二百回の読経を済ますに要する日数だけの命というのも、悲しく哀れなものです。この俊基朝臣に長年仕えてきた若侍に、後藤左衛門尉助光と言う人がいました。

主人の日野俊基が捕らえられてからは、奥方のお供をして嵯峨の奥地に身を潜めていましたが、俊基が関東鎌倉に護送されると聞いて、北の方のあまりな悲しさに、打ち沈んでいる姿を見ると、彼も悲しさに耐えられず、北の方に手紙を認めていただくと、

助光はそれを持って密かに鎌倉へと下って行きました。処刑は今日明日かも知れぬと噂されているので、もしかして、すでに斬られたのではないかと、道行く人たちに聞きながらも、やがて鎌倉に到着しました。鎌倉では右少弁日野俊基の拘束されている、

建物近くに宿舎を借りたものの、連絡を取り事情を説明したいと思っても、どうする事も出来ず日だけが過ぎていくうちに、今日こそ京都より護送されてきた囚人が斬られるそうだ、可哀想になぁなどとの話を聞き、助光はどうすれば良いのかも分からずに、

うろたえるばかりです。ここかしこで噂を聞き集めてみると、俊基はすでに莚張りの輿に乗せられ、鎌倉七口の一つである化粧坂に向かっているとのことでした。


爰にて工藤二郎左衛門尉請取て、葛原岡に大幕引て、敷皮の上に坐し給へり。是を見ける助光が心中譬て云ん方もなし。目くれ足もなへて、絶入る計に有けれども、泣々工藤殿が前に進出て、「是は右少弁殿の伺候の者にて候が、最後の様見奉候はん為に遥々と参候。可然は御免を蒙て御前に参り、北方の御文をも見参に入候はん。」と申もあへず、泪をはら/\と流ければ、工藤も見るに哀を催されて、不覚の泪せきあへず。「子細候まじ、早幕の内へ御参候へ。」とぞ許しける。助光幕の内に入て御前に跪く。俊基は助光を打見て、「いかにや。」と計宣て、軈て泪に咽び給ふ。助光も、「北方の御文にて候。」とて、御前に差置たる計にて、是も涙にくれて、顔をも持あげず泣居たり。良暫く有て、俊基涙を押拭ひ、文を見給へば、「消懸る露の身の置所なきに付ても、何なる暮にか、無世の別と承り候はんずらんと、心を摧く涙の程、御推量りも尚浅くなん。」と、詞に余て思の色深く、黒み過るまで書れたり。俊基いとゞ涙にくれて、読かね給へる気色、見人袖をぬらさぬは無りけり。「硯やある。」と宣へば、矢立を御前に指置ば、硯の中なる小刀にて鬢の髪を少し押切て、北方の文に巻そへ、引返し一筆書て助光が手に渡し給へば、助光懐に入て泣沈たる有様、理りにも過て哀也。

ここで工藤二郎左衛門尉が俊基の身柄を受け取りました。化粧坂近くの葛原岡に大幕を引きめぐらし、そこに俊基が敷き皮の上に座っていました。この様子を見た助光の心中は如何ばかりなのか、例えようもありません。

目もはっきりと見る事が出来ず、また足には力が入らずに、気も失いそうになりましたが、泣く泣く工藤殿の前に進み出て、「私は右少弁殿に仕える者でございますが、殿の御最期の様子を確認せんがため、遥々都から参った者でございます。

それゆえお許しを頂いて殿の御前に参り、北の方よりのお手紙をお届けしたく思います」と、申し上げる間もなく、涙がはらはらと流れ落ち、それを見た工藤もあまりの哀れさに思わず涙を流し、「事情は了解しました。

お早く幕の中にお入りください」と、許されたのでした。助光はすぐ幕の中に入り、殿の御前にひざまずきました。俊基は助光を見て、「どうしたのだ」とだけおっしゃって、すぐ涙にむせられたのでした。助光も、「北の方からのお手紙でございます」と、

御前に差し出すのが精一杯で、あとは涙になり、顔も上げられず泣いていました。しばらくして、俊基は涙を拭いお手紙に目を通せば、それには、「今にも消え入りそうで、はかない命を保つ事さえ難しい私ですのに、何時の暮れかあなたの御最期を聞くのかと思い、

心もくじけて涙をあふれさせる私の姿は、きっとご想像以上のものでしょう」と、書かれていました。言葉では言い尽くせない気持ちが、墨の色に表れたように黒々と書かれていたのです。俊基は流れる涙があふれて読み辛そうに見えると、

周りの人も袖を濡らさない人はいませんでした。やがて俊基は、「硯がありますか」と言われ、助光は矢立を御前に差し出しました。俊基は硯の中にあった小刀で、頭の側面の髪を少し切り取り、北の方の手紙に巻き込むと、なお一筆書き添えて助光に手渡しました。

助光がそれを懐にしまいこみ、泣き崩れる様子は、当然とは言えあまりにも悲しく哀れなものです。


工藤左衛門幕の内に入て、「余りに時の移り候。」と勧れば、俊基畳紙を取出し、頚の回り押拭ひ、其紙を推開て、辞世の頌を書給ふ。古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。筆を閣て、鬢の髪を摩給ふ程こそあれ、太刀かげ後に光れば、頚は前に落けるを、自ら抱て伏給ふ。是を見奉る助光が心の中、謦て云ん方もなし。さて泣々死骸を葬し奉り、空き遺骨を頚に懸、形見の御文身に副て、泣々京へぞ上りける。北方は助光を待付て、弁殿の行末を聞ん事の喜しさに、人目も憚ず、簾より外に出迎ひ、「いかにや弁殿は、何比に御上可有との御返事ぞ。」と問給へば、助光はら/\と泪をこぼして、「はや斬れさせ給て候。是こそ今はのきはの御返事にて候へ。」とて、鬢の髪と消息とを差あげて声も惜まず泣ければ、北方は形見の文と白骨を見給て、内へも入給ず、縁に倒伏し、消入給ぬと驚く程に見へ給ふ。理なる哉、一樹の陰に宿り一河の流を汲む程も、知れず知らぬ人にだに、別れとなれば名残を惜習なるに、況や連理の契不浅して、十年余りに成ぬるに夢より外は又も相見ぬ、此世の外の別と聞て、絶入り悲み玉ふぞ理りなる。四十九日と申に形の如の仏事営て、北の方様をかへ、こき墨染に身をやつし、柴の扉の明くれは、亡夫の菩提をぞ訪ひ玉ける。助光も髻切て、永く高野山に閉篭て、偏に亡君の後生菩提をぞ訪奉ける。夫婦の契、君臣の儀、無跡迄も留て哀なりし事共也。

やがて工藤左衛門が幕の中に入ってきて、「少し時間がかかり過ぎたようです」と促したので、俊基は懐より懐紙を取り出すと首の周りを拭い、その紙を開き辞世の句を書きました。「古来一句、無死無生、万里雲尽、長江水清」

(古人いわく、死も無ければ生も無し、はるか万里雲の尽きるまで、長江の水が清いように)。筆を置くと鬢の髪をそろえるようにして撫で付け、その一瞬太刀がきらりと光ると首が前に落ち、その首を自ら抱くようにして体が伏せたのでした。この様子を見ていた助光の心中、

言葉に尽くせるものではありません。助光は泣きながらも遺体を荼毘に付し、空しくなった遺骨を首に掛け、形見のお手紙を持って泣く泣く京都へ上ったのでした。助光の帰りを待ち焦がれていた北の方は、右少弁俊基殿の消息が聞けると思うと嬉しくて、

人目も気にせずに簾の中より出迎えに外へ出られ、「どうだった、右少弁殿は。都に上って来られるのは何時ごろとの返事だったのか」と、問われました。それを聞いた助光は、はらはらと涙を流し、「すでに死刑は行なわれました。

このお手紙は最期の際に書かれたご返事でございます」と、鬢の髪とお手紙を差し上げると、声を出して泣かれました。北の方は形見の手紙と白骨を見られ、簾の中にも入られず縁側に泣き伏し、このまま命も絶えてしまうかと驚くほどの様子でした。

考えてみれば当然のことです。共に一樹の陰に身を寄せ合って、一つの川の水を汲んだ仲では、見ず知らずの人であっても、別れるとなれば名残惜しいのに、夫婦として十年間、仲睦まじく過ごしてきた二人は、あの世とこの世に別れてしまい、

これからは夢の中でしか会えなくなってしまいました。この別れに悲しみ嘆かれるのも当然です。やがて四十九日、形ばかりの忌明けの仏事を営み、北の方は出家され、濃い墨染めの着物に身を包み普段の生活は、亡き夫の菩提を弔う事に終始しました。

また助光も髷を切り落とし、長年高野山に閉じ篭って、ただひたすら亡き主君の冥福を祈り続けました。夫婦の強い契りや君と臣の結びつきなど、俊基卿の亡き後まで守られたことには感服されます。

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