2 太平記 巻第二 (その三)


○天下怪異事
嘉暦二年の春の比南都大乗院禅師房と六方の大衆と、確執の事有て合戦に及ぶ。金堂、講堂、南円堂、西金堂、忽に兵火の余煙に焼失す。又元弘元年、山門東塔の北谷より兵火出来て、四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂、一時に灰燼と成ぬ。是等をこそ、天下の災難を兼て知する処の前相かと人皆魂を冷しけるに、同年の七月三日大地震有て、紀伊国千里浜の遠干潟、俄に陸地になる事二十余町也。又同七日の酉の刻に地震有て、富士の絶頂崩るゝ事数百丈也と。卜部の宿祢、大亀を焼て占ひ、陰陽の博士、占文を啓て見に、「国王位を易、大臣遭災。」とあり。「勘文の表不穏、尤御慎可有。」と密奏す。寺々の火災所々の地震只事に非ず。今や不思義出来と人々心を驚しける処に、果して其年の八月二十二日、東使両人三千余騎にて上洛すと聞へしかば、何事とは知ず京に又何なる事や有んずらんと、近国の軍勢我も我もと馳集る。京中何となく、以外に騒動す。両使已に京着して未文箱をも開ぬ先に、何とかして聞へけん。「今度東使の上洛は主上を遠国へ遷進せ、大塔宮を死罪に行奉ん為也。」と、山門に披露有ければ、八月二十四日の夜に入て、大塔宮より潛に御使を以て主上へ申させ玉ひけるは、「今度東使上洛の事内々承候へば、皇居を遠国へ遷奉り、尊雲を死罪に行ん為にて候なる。今夜急ぎ南都の方へ御忍び候べし。城郭未調、官軍馳参ぜざる先に、凶徒若皇居に寄来ば、御方防戦に利を失ひ候はんか。且は京都の敵を遮り止んが為、又は衆徒の心を見んが為に、近臣を一人、天子の号を許れて山門へ被上せ、臨幸の由を披露候はゞ、敵軍定て叡山に向て合戦を致し候はん歟。去程ならば衆徒吾山を思故に、防戦に身命を軽じ候べし。凶徒力疲れ合戦数日に及ばゞ、伊賀・伊勢・大和・河内の官軍を以て却て京都を被攻んに、凶徒の誅戮踵を回すべからず。国家の安危只此一挙に可有候也。」と被申たりける間、主上只あきれさせ玉へる計にて何の御沙汰にも及玉はず。尹大納言師賢・万里小路中納言藤房・同舎弟季房三四人上臥したるを御前に召れて、「此事如何可有。」と被仰出ければ、藤房卿進で被申けるは、「逆臣君を犯し奉らんとする時、暫其難を避て還て国家を保は、前蹤皆佳例にて候。所謂重耳は■に奔り、大王■に行く。共に王業をなして子孫無窮に光を栄し候き。兔角の御思案に及候はゞ、夜も深候なん。早御忍候へ。」とて、御車を差寄、三種の神器を乗奉り、下簾より出絹出して女房車の体に見せ、主上を扶乗進て、陽明門より成奉る。

☆ 天下に現れた怪異現象のこと

嘉暦二年(1327年)の春ごろ、南都興福寺の大乗院禅師房と興福寺の僧兵らの間に意見の対立があり、合戦となりました。金堂、講堂、南円堂、西金堂などがたちまち兵火にさらされ焼失しました。また元弘元年(1331年)

比叡山延暦寺東塔の北谷あたりの合戦によって火災が発生し、四王印、延命院、大講堂、法華堂そして常行堂などが一度に灰燼となってしまいました。これらの事態は天下の騒乱を暗示するものではないかと、人々が恐れていた矢先、

同年の元弘元年(1331年)七月三日、大地震が発生したのです。その地震によって、紀伊国の千里浜の干潟が突然隆起し、二十余町にわたって陸地となりました。また同じく七日の酉の刻(午後六時頃)に地震があり、富士山の頂上あたり数百丈ほどが崩落したのです。

そこで朝廷の神祇官(朝廷の祭祀を司る役所)の職員が大きな亀を焼いて占い、陰陽道の専門家である博士が、占いに出た文言を分析してみると、「国王が天皇の位を交代し、国家の重臣が災いに遭遇する」と、現れていたのでした。

陰陽博士は、「占いの結果は芳しい物ではありませんでした。今は何事も慎重に進めなければなりません」と、内々に天皇に申し上げたのです。各所の寺々が火災に見舞われたり、各国々に地震が発生するなど、とても正常な状態ではありません。

この異常な事態に、何かとんでもない事が起こるのではと、人々皆が恐れているさなか、恐れが的中したのか、その年(1331年)の八月二十二日、鎌倉幕府から朝廷に派遣される使者二人が、三千余騎の軍勢を率いて上洛するらしいと噂が流れると、

理由も分からないのに、京都で一体何事が起こったのかと、京都近辺の国々の武者が、我も我もと駆け集まってきました。そのため京都中は訳も分からないまま、騒ぎだけが大きくなりました。二人の使者が都に到着し、

持参した幕府からの文書箱を開く前になぜ漏れたのか、「今回、幕府からの使者上洛の理由は、天皇を遠国にお遷しし、そして大塔宮護良親王を死罪に処するためだ」と、比叡山延暦寺に連絡が入りました。そのため、八月二十四日の夜になって、

大塔宮から後醍醐天皇に密使が派遣され、「今回、鎌倉幕府から使者派遣の理由を内密に聞いたところ、それは天皇を遠国にお遷しし、尊雲護良親王を死罪に処すると言う事です。そこで今夜、天皇は大急ぎで南都興福寺の方へ、逃げ落ちられるように。

我らの防御施設もまだ完全ではありませんし、味方の軍勢が集結する前に、逆賊らが皇居に押し寄せてくれば、味方は防戦に苦しむことになるでしょう。そこで京都に攻め込んでくる敵軍を防御し、また延暦寺の衆徒らの帰趨を確認するためにも、

信頼の置ける臣下一人に、勅使の資格を与えて延暦寺に派遣し、天皇行幸の件を連絡させれば、敵軍は必ず比叡山を攻めるため、合戦を挑んでくるでしょう。そうなれば延暦寺の衆徒らは我が比叡山を守るため、身命を賭して戦うことになります。

そして逆賊らが攻撃に疲れ、合戦も数日に及ぶことになれば、伊賀、伊勢、大和、河内らの朝廷軍で、反対に京都の逆賊を攻めることになれば、彼奴らを討ち取り追い返すことが出来るでしょう。国家の安全が図れるのか、それとも危険にさらすのか、

すべてこの計画に掛かっていると言っても過言ではありません」と、言ってきました。連絡を受けた後醍醐天皇は、ただただあきれ返るばかりで、何の指図もありません。尹大納言藤原師賢、万里小路中納言藤原藤房、

同じく弟の藤原季房ら当夜の宿直三、四人を御前に呼び、「このような連絡があったのだが、どうすれば良いだろうか」と、質問されると藤房卿が進み出て、「逆臣が天皇を弑することがあれば、しばらくその難から逃れて、国家の安泰を図ることは過去にもその例があり、

良い結果となっています。たとえば晋の君主、重耳文公は狄国に逃げ込み、周王朝の古公亶父はヒンに身を隠しました。この二人はその後共に王として遺業をなし、子孫もまた永らく栄華を続ける事となります。ここで逡巡していると、夜も深くなるばかりです。

ここは大急ぎで脱出を図るべきでしょう」と、お車を寄せると、三種の神器をお車に乗せ、また牛車の簾の下から、絹布を垂らして女房車のように見せ、天皇を抱えるように乗せると陽明門から外へ出られたのでした。


御門守護の武士共御車を押へて、「誰にて御渡り候ぞ。」と問申ければ、藤房・季房二人御車に随て供奉したりけるが、「是は中宮の夜に紛て北山殿へ行啓ならせ給ふぞ。」と宣たりければ、「さては子細候はじ。」とて御車をぞ通しける。兼て用意やしたりけん、源中納言具行・按察大納言公敏・六条少将忠顕、三条河原にて追付奉る。此より御車をば被止、怪げなる張輿に召替させ進せたれども、俄の事にて駕輿丁も無りければ、大膳大夫重康・楽人豊原兼秋・随身秦久武なんどぞ御輿をば舁奉りける。供奉の諸卿皆衣冠を解で折烏帽子に直垂を着し、七大寺詣する京家の青侍なんどの、女性を具足したる体に見せて、御輿の前後にぞ供奉したりける。古津石地蔵を過させ玉ひける時、夜は早若々と明にけり。此にて朝餉の供御を進め申て、先づ南都の東南院へ入せ玉ふ。彼僧正元より弐ろなき忠義を存ぜしかば、先づ臨幸なりたるをば披露せで衆徒の心を伺聞に、西室顕実僧正は関東の一族にて、権勢の門主たる間、皆其威にや恐れたりけん、与力する衆徒も無りけり。かくては南都の皇居叶まじとて、翌日二十六日、和束の鷲峯山へ入せ玉ふ。此は又余りに山深く里遠して、何事の計畧も叶まじき処なれば、要害に御陣を召るべしとて、同二十七日潛幸の儀式を引つくろひ、南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる。

陽明門を警備している武士達が牛車を押さえて、「誰がお出掛けになられるのか」と、問われたのですが、牛車についてお供していた藤房、季房の二人が、「このお方は中宮殿であり、夜にまぎれて北山殿へお出かけになられるのだ」と、

おっしゃると警備の武士は、「ならば問題ございません」と答え、お車は門から出たのです。前もって準備していたのか、やがて源中納言具行、按察大納言公敏、六条少将忠顕らが三条河原のあたりで追いつきました。

このあたりで車より降りられ、粗末な張輿(屋形の周りを畳表で貼った略式の輿)に乗り換えられたのですが、何せ突然のことであり、駕籠をかつぐ人などを用意出来なかったので、大膳大夫(宮中の調理部長官)重康、楽人(宮中の雅楽部の職員)豊原兼秋、

随身(近衛府の職員)泰久武らが、輿を担いで行くこととなりました。お供をする諸公卿たちも全員、略礼服を脱ぎ、折れ烏帽子に直垂を身に着けて、京都の若侍が、奈良にある七大寺を詣でる女性に仕えているかのように振る舞い、御輿の前後をお供して行きました。

木津の石地蔵を過ぎる頃に、夜は白々と明けたので、この場所にて朝食を召し上がっていただき、とりあえず東大寺の東南院にお入りになられました。東南院の僧正は元々朝廷に対して、二心無き忠誠心を持っていましたが、

とりあえず天皇の行幸については秘して、衆徒らの本心の確認を図りました。しかし、東大寺西室の顕実僧正は関東北条家の一族であり、権力をも持った住職なので、皆、その人の権威に恐れをなして、天皇を助けようとする衆徒は居ませんでした。

このような状態では、南都に皇居を定める事はとても出来ないと、翌日、二十六日に和束(京都府相楽郡)の鷲峰山にお入りになられました。しかしここはあまりにも山深く、里から離れすぎて、どのような計画を立てることも出来る話ではありません。

もっと便利で堅固な場所に陣を構えるべきだと、同じく元弘元年(1331年)八月二十七日、お忍びの行幸という形をとり、南都の衆徒らも数人お連れして、笠置にある石室に行幸され、戦陣をそこに構えたのです。


○師賢登山事付唐崎浜合戦事
尹大納言師賢卿は、主上の内裏を御出有し夜、三条河原迄被供奉たりしを、大塔宮より様々被仰つる子細あれば、臨幸由にて山門へ登り、衆徒の心をも伺ひ、又勢をも付て合戦を致せと被仰ければ、師賢法勝寺の前より、袞竜の御衣を着て、腰輿に乗替て山門の西塔院へ登玉ふ。四条中納言隆資・二条中将為明・中院左中将貞平、皆衣冠正して、供奉の体に相順ふ。事の儀式誠敷ぞ見へたりける。西塔の釈迦堂を皇居と被成、主上山門を御憑有て臨幸成たる由披露有ければ、山上・坂本は申に及ばず、大津・松本・戸津・比叡辻・仰木・絹河・和仁・堅田の者迄も、我前にと馳参。其勢東西両塔に充満して、雲霞の如にぞ見へたりける。懸りけれども、六波羅には未曾是を知らず。夜明ければ東使両人内裏へ参て、先づ行幸を六波羅へ成奉んとて打立ける処に、浄林房阿闍梨豪誉が許より、六波羅へ使者を立て、「今夜の寅の刻に、主上山門を御憑有て臨幸成りたる間、三千の衆徒悉く馳参り候。近江・越前の御勢を待て、明日は六波羅へ被寄べき由評定あり。事の大に成り候はぬ先に、急ぎ東坂本へ御勢を被向候へ。豪誉後攻仕て、主上をば取奉るべし。」とぞ申たりける。両六波羅大に驚て先内裡へ参て見奉るに、主上は御坐無て、只局町女房達此彼にさしつどひて、鳴声のみぞしたりける。「さては山門へ落させ玉たる事子細なし。勢つかぬ前に山門を攻よ。」とて、四十八箇所の篝に畿内五箇国の勢を差添て、五千余騎追手の寄手として、赤山の麓、下松の辺へ指向らる。搦手へは佐々木三郎判官時信・海東左近将監・長井丹後守宗衡・筑後前司貞知・波多野上野前司宣道・常陸前司時朝に、美濃・尾張・丹波・但馬の勢をさしそへて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄懸たり。坂本には兼てより相図を指たる事なれば、妙法院・大塔宮両門主、宵より八王子へ御上あて、御旗を被揚たるに、御門徒の護正院の僧都祐全・妙光坊の阿闍梨玄尊を始として、三百騎五百騎此彼より馳参りける程に、一夜の間に御勢六千余騎に成にけり。天台座主を始て解脱同相の御衣を脱給て、堅甲利兵の御貌に替る。垂跡和光の砌り忽に変て、勇士守禦の場と成ぬれば、神慮も何が有らんと計り難ぞ覚たる。

☆ 藤原師賢が後醍醐天皇になりすまして、延暦寺に入ったことと、唐崎浜の合戦のこと

尹大納言藤原師賢卿は後醍醐天皇が内裏を脱出された八月二十四日の夜、三条河原までお供しました。天皇の皇居脱出に関しては、大塔宮護良親王より何かとお指図があったので、後醍醐天皇は藤原師賢に天皇行幸の態を取って比叡山に行かせ、

衆徒らの本心を確認すると共に、軍勢をそろえて合戦の準備をさせようと、師賢を法勝寺の前より中国風な天皇用の衣を身に着けさせ、また腰輿(前後二人で轅を腰の辺りで支えて運ぶ乗り物)に乗り換えて比叡山西塔院に登らせました。

また四条中納言藤原隆資、二条中将源為明、中院左中将源貞平らが、全員衣冠を正して、天皇のお供をしている様子にて従いました。その儀式の有様は行幸そのままに見えたのです。西塔の釈迦堂を皇居と定めてから、

このたび天皇は山門、比叡山を頼みとされて行幸なされたとお触れを出すと、比叡山、坂本は勿論、大津、松本、戸津、比叡辻、仰木、絹河、和仁、堅田の者までが我先に駆けつけて来ました。その軍勢は東塔、西塔に満ち溢れ、雲霞のように見えました。

にもかかわらず、鎌倉幕府の出先機関である六波羅では、まだこの事態を知りませんでした。そこで夜が明けると、幕府の使者二人は宮中に参内し、取り敢えず後醍醐天皇に、六波羅まで行幸されるよう強硬に要請している時に、

浄林房阿闍梨豪誉から派遣された使者が六波羅に到着し、「今夜、寅の刻(午前四時頃)に後醍醐天皇が山門を頼って行幸され、比叡山、延暦寺三千の衆徒全員が、天皇の下に駆けつけました。近江、越前の軍勢の集結を待って、

明日には六波羅へ攻め寄せるべきか、会議をしているようです。ここは事態が大きくなる前に、急いで東坂本へ軍勢を向かわせてください。この豪誉は背後に回って、天皇の身柄を確保したく思います」と、連絡してきたのです。

南北二つの六波羅ではこの事態に大変驚き、取り敢えず内裏に行き、確認してみれば、天皇は居られず、ただ局々にいる女房達が、ここかしこに集まって、泣き声を上げているばかりです。「これは、山門に落ち延びられたこと、間違いないようだ。

勢力が増さない内に山門を攻めねばならない」と、洛内の治安維持を担当する、四十八ヶ所の篝の武者に、畿内五ヶ国の軍勢を付けた五千余騎を、追手の攻撃軍として、赤山の麓や下松の周辺に向かわせました。

また搦手軍としては、佐々木三郎判官時信、海東左近将監、長井丹後守宗衡、筑後前司貞知、波多野上野前司宣道、常陸前司時朝らに美濃、尾張、丹波、但馬の軍勢を配下につけ、その数七千余騎が大津、松本から唐崎の松のあたりまで進出し、警戒に当たりました。

坂本延暦寺の軍勢とは以前に打ち合わせた通り、妙法院宗良親王と大塔宮護良親王、両門跡の住職が夕方には比叡山中腹の八王子社に上り、そこに軍旗を掲げました。それを合図に門徒である護正院の僧都祐全や妙光坊の阿闍梨玄尊を始めとして、

三百騎、五百騎とあちこちから駆け集まって来たので、一晩の内にその数六千余騎にまで膨れ上がりました。そして天台座主護良親王を先頭に袈裟を脱ぎ捨て、堅固な鎧と鋭利な武器を身につけたのでした。本来は神仏が現世に現れ、

衆生を救済することが目的のこの地が、甲冑で身を固めた武士によって守られる場所になってしまいました。これでは神の御心など、一体どこへ行ってしまったのか分かりません。


去程に、六波羅勢已に戸津の宿辺まで寄たりと坂本の内騒動しければ、南岸円宗院・中坊勝行房・早雄の同宿共、取物も取あへず唐崎の浜へ出合げる。其勢皆かち立にて而も三百人には過ざりけり。海東是を見て、「敵は小勢也けるぞ、後陣の勢の重ならぬ前に懸散さでは叶まじ。つゞけや者共。」と云侭に、三尺四寸の太刀を抜て、鎧の射向の袖をさしかざし、敵のうず巻て扣へたる真中へ懸入、敵三人切ふせ、波打際に扣へて続く御方をぞ待たりける。岡本房の幡磨竪者快実遥に是を見て、前につき双たる持楯一帖岸破と蹈倒し、に尺八寸の小長刀水車に回して躍り懸る。海東是を弓手にうけ、胄の鉢を真二に打破んと、隻手打に打けるが、打外して、袖の冠板より菱縫の板まで、片筋かいに懸ず切て落す。二の太刀を余りに強く切んとて弓手の鐙を踏をり、已に馬より落んとしけるが、乗直りける処を、快実長刀の柄を取延、内甲へ鋒き上に、二つ三つすき間もなく入たりけるに、海東あやまたず喉ぶゑを突れて馬より真倒に落にけり。快実軈て海東が上巻に乗懸り、鬢の髪を掴で引懸て、頚かき切て長刀に貫き、武家の太将一人討取りたり、物始よし、と悦で、あざ笑てぞ立たりける。

やがて、六波羅の軍勢がすでに戸津宿(坂本の東部)の周辺まで攻め寄せてきていると、坂本の陣内で大騒ぎになり、南岸円宗院、中坊勝行房、早雄などで居住していた者たちが、とる物もとりあえず唐崎の浜に向かって出動しました。

しかし、その軍勢たるや皆徒歩立ちであり、その数も三百人にも満たないものでした。幕府搦手軍の海東左近将監はこの軍勢を見て、「敵は少勢である、後詰の軍勢がやってくる前に、駆け散らかさなければ駄目だ。者ども俺について来い」と言うや、

三尺四寸の太刀を抜き、鎧の左側射向けの袖で防禦しながら、敵の渦巻く中に飛び込むや、敵の三人を切り伏せると波打ち際に下がって、味方が続くのを待ちました。岡本房の幡磨竪者快実は遠くからこの様子を見て、前に突き出て並んでいる盾をガバっと踏み倒すと、

二尺八寸の小薙刀を水車のように振り回し、躍りかかったのでした。海東将監はこの攻撃を左手で受けると、快実の兜の鉢を真っ二つに割ろうと、片手で打ち込んだのですが鉢を打ち損ね、袖から草摺りの保護板辺りまで、斜めに切り落としただけでした。

余りにも強く二の太刀を打ち込もうとし過ぎたのか、左足の鐙を踏み外して落馬しそうになり、何とか態勢は立て直しました。しかしその時、快実は薙刀の柄を低く構えると、海東の内兜に切っ先を真上にして、二、三回隙間無く刺し込んだため、

海東は喉笛を突き刺され、馬より落ちたのでした。快実はすぐ、海東に馬乗りになって鬢の髪を掴んで引っ張り、首を掻き切ると薙刀に突き刺して、六波羅軍の武家の大将一人を討ち取ったぞ、幸先が良いわと喜び、大声で笑いながら立ち去りました。


爰に何者とは知ず見物衆の中より、年十五六計なる小児の髪唐輪に上たるが、麹塵の筒丸に、大口のそば高く取り、金作の小太刀を抜て快実に走懸り、甲の鉢をしたゝかに三打四打ぞ打たりける。快実屹と振帰て是を見るに、齢二八計なる小児の、大眉に鉄漿黒也。是程の小児を討留たらんは、法師の身に取ては情無し。打たじとすれば、走懸々々手繁く切回りける間、よし/\さらば長刀の柄にて太刀を打落て、組止めんとしける処を、比叡辻の者共が田の畔に立渡て射ける横矢に、此児胸板をつと被射抜て、矢庭に伏て死にけり。後に誰ぞと尋れば、海東が嫡子幸若丸と云ける小児、父が留置けるに依て軍の伴をばせざりけるが、猶も覚束なくや思けん、見物衆に紛て跡に付て来ける也。幸若稚しと云へ共武士の家に生たる故にや、父が討れけるを見て、同く戦場に打死して名を残けるこそ哀なれ。海東が郎等是を見て、「二人の主を目の前に討せ、剰へ頚を敵に取せて、生て帰る者や可有。」とて、三十六騎の者共轡を双て懸入、主の死骸を枕にして討死せんと相争ふ。快実是を見てから/\と打笑て、「心得ぬ物哉。御辺達は敵の首をこそ取らんずるに、御方の首をほしがるは武家自滅の瑞相顕れたり。ほしからば、すは取らせん。」と云侭に、持たる海東が首を敵の中へがはと投懸、坂本様の拝み切、八方を払て火を散す。三十六騎の者共、快実一人に被切立て、馬の足をぞ立かねたる。佐々木三郎判官時信後に引へて、「御方討すな、つゞけや。」と下知しければ、伊庭・目賀多・木村・馬淵、三百余騎呼て懸る。快実既に討れぬと見へける処に、桂林房の悪讚岐・中房の小相摸・勝行房の侍従竪者定快・金蓮房の伯耆直源、四人左右より渡合て、鋒を指合て切て回る。讚岐と直源と同じ処にて打れにければ、後陣の衆徒五十余人連て又討て懸る。

この騒ぎの最中、どこの誰だか分かりませんが、見物人の中から十五、六歳位で、髪を頭の上で二つの輪に結った子供が、黄緑色の胴丸鎧に大口袴の裾を高く引き上げて、黄金製の小太刀を抜いたまま幡磨竪者快実に走りよると、兜の鉢を思い切り三、四回打ち付けました。

驚いた快実が振り返って見ると、年、十六ばかりの子供であり、太く描いた眉で、歯は黒く染めています。このような子供を討ち取ったりすることは、法師としては余りにも人情の乏しい仕打ちです。しかし放っておくと、走り来ては打ちつけ、また走ってきては打ちつけます。

こうなれば仕方が無い。薙刀の柄で太刀を打ち落として、組み止めてやろうとした時、比叡辻に住まう者どもが、田の畦に立って射た矢が、この子供の胸板をピッと射抜き、突然その場に伏せると、そのまま死んでしまいました。

あとで誰なのか調べてみると、海東左近将監の嫡子、幸若丸と言う子供でした。父の海東はこの子を軍には連れて行かなかったのですが、彼にしてみれば気がかりで仕方なく、見物人に紛れて後をつけて来たのです。

幸若丸はまだまだ幼いとは言えども、武士の家系に生まれたために、父が討たれるのを見て父と同じ戦場にて討ち死にし、名を残す事になったとは可哀想な話です。海東将監の家来たちはこの様子を見て、「二人の主人を我らの目の前で討たせた上、

首を敵に渡してはとても生きては帰れない」と、三十六騎の武者達が馬を揃えて敵中に駆け入り、主人の遺骸を枕にして討ち死にせんと、競うように戦いました。快実はこれを見て、かんらからと笑い、「訳の分からない奴だな、貴様達は。

敵の首をとることが大事なのに、味方の首を欲しがるなんて、武家としては自滅への象徴みたいなものだ。欲しければ、やろうじゃないか」と言いながら、手に持っていた海東の首を敵中にガバッと投げ入れ、坂本様(坂本の地から比叡山を拝むように、太刀を両手で振り下ろす様)に拝み切りをし、

四方八方を打ち払っては火を散らすようでした。三十六騎の武者達は快実一人に斬りたてられ、馬の足さえ思うように運べません。佐々木三郎判官時信は後ろに控えていましたが、「味方を討たせるな皆の者、攻撃を続けろ」と、命令を下したので、

伊庭、目賀多、木村、馬淵ら三百余騎がそれに答えて討ちかかりました。さすがに快実は討ち取られるのではと思われた時、桂林房悪讃岐、中房の小相模、勝行房の侍従竪者定快、金蓮房の伯耆直源ら四人が左右から快実に加勢し、太刀を合わせて敵を斬り回りました。

しばらくして、讃岐と直源の二人が同じところで討たれると、延暦寺の後詰の衆徒五十余人が、そろって攻撃にかかりました。


唐崎の浜と申は東は湖にて、其汀崩たり。西は深田にて馬の足も立ず、平沙渺々として道せばし。後へ取まはさんとするも叶ず、中に取篭んとするも叶ず。されば衆徒も寄手も互に面に立たる者計戦て、後陣の勢はいたづらに見物してぞ磬へたる。已に唐崎に軍始りたりと聞へければ、御門徒の勢三千余騎、白井の前を今路へ向ふ。本院の衆徒七千余人、三宮林を下降る。和仁・堅田の者共は、小舟三百余艘に取乗て、敵の後を遮んと、大津をさして漕回す。六波羅勢是を見て、叶はじとや思けん、志賀の炎魔堂の前を横切に、今路に懸て引帰す。衆徒は案内者なれば、此彼の逼々に落合て散々に射る。武士は皆無案内なれば、堀峪とも云ず馬を馳倒して引かねける間、後陣に引ける海東が若党八騎・波多野が郎等十三騎・真野入道父子二人・平井九郎主従二騎谷底にして討れにけり。佐々木判官も馬を射させて乗がへを待程に、大敵左右より取巻て既に討れぬとみへけるを、名を惜み命を軽んずる若党共、帰合々々所々にて討死しける其間に、万死を出て一生に合ひ、白昼に京へ引帰す。此比迄は天下久静にして、軍と云事は敢て耳にも触ざりしに、俄なる不思議出来ぬれば、人皆あはて騒で、天地も只今打返す様に、沙汰せぬ処も無りけり。

この唐崎の浜という所は、東側は琵琶湖であり、その波打ち際は湖面に崩れ落ちています。また西側は深い田んぼが続き馬の足も立たず、一面の砂原に狭い道があるだけです。だから後ろに回り込んで包囲することは不可能であり、内側に取り囲む事も出来ません。

だから防御しようとする延暦寺軍の衆徒も、寄せてきた六波羅の攻撃軍も、お互い正面に向かい合った者だけが戦って、後方の軍勢はただ見ているだけで、攻め太鼓にも力が入りません。もうすでに唐崎にて戦闘が開始されたと聞き、

延暦寺の僧兵、三千余騎が白井の前を通って今路越(近江坂本に至る山道)に向かい、また東塔の根本止観院の衆徒七千余人は、三宮林を坂本に向かって下って行きました。和仁や堅田の軍勢は小舟三百余艘に乗ると、敵の後方を遮断するため大津に向かって漕ぎ、

回り込もうとしました。六波羅勢はこれを見て回り込まれては一大事だと、志賀の炎魔堂の前を横切って、今路越を経由して都に引き返そうとしました。延暦寺の衆徒らは周辺の道路事情に詳しいので、要所要所に兵を配置し、敵兵に激しく矢を射かけました。

その反対に六波羅軍は地理不案内なので、山のくぼ地や谷などに馬を駆け入れたりして、思うように退却出来ずもたもたしているうちに、しんがり軍として退却していた海東将監に仕える若武者ら八騎と、波多野の家来たち十三騎、真野入道父子の二人、

そして平井九郎主従の二騎らが、谷底に追い込まれ討ち取られてしまいました。また佐々木三郎判官時信も馬を射られて、乗り換え馬を待っているところを、大勢の敵兵に左右から取り囲まれ、あわや討ち取られそうになったのですが、

命知らずで名を惜しむ若武者らが、引き返してきて次々と討たれながらも彼を護り、万死に一生を得て白昼、京に引き返すことが出来ました。この頃までは天下は安定し、平和だったので軍のことなど、耳にすることもなかったのですが、突然に大事件が引き起こされ、

人々は皆慌て騒ぎ、天地もひっくり返るような騒ぎになったのでした。


○持明院殿御幸六波羅事
世上乱たる時節なれば、野心の者共の取進する事もやとて、昨日二十七日の巳刻に、持明院本院・春宮両御所、六条殿より、六波羅の北方へ御幸なる。供奉の人人には、今出川前右大臣兼季公・三条大納言通顕・西園寺大納言公宗・日野前中納言資名・防城宰相経顕・日野宰相資明、皆衣冠にて御車の前後に相順ふ。其外の北面・諸司・格勤は、大略狩衣の下に腹巻を着映したるもあり。洛中須臾に反化して、六軍翠花を警固し奉る。見聞耳目を驚かせり。

☆ 持明院殿が六波羅に御幸されたこと

このように世の中が乱れてくると、世間には野心を持った人間が、どのような凶行に及ぶかも知れないので、昨日、元弘元年(1331年)八月二十七日、巳の刻(午前十時頃)に持明院統の後伏見天皇と量仁(かずひと::後の光厳天皇)皇太子の二人は六条殿から六波羅探題北方に、

難を逃れるための御幸をされました。お供をしたのは、今出川前右大臣兼季公、三条大納言通顕、西園寺大納言公宗、日野前中納言資名、防城宰相経顕そして日野宰相資明らが全員、衣冠を身に着けた正装で牛車の前後に従いました。

公卿以外の北面の武士や、諸役人、格勤(公卿に仕える武士)達はおおむね狩衣の下に腹巻鎧を着けたりしていました。京都の町はこの短期間に様変わりし、朝廷の軍勢が天皇の旗を警護することとなったのです。洛内の人々はこの様子を見たり、また聞いたりして驚く事しきりでした。


○主上臨幸依非実事山門変儀事付紀信事
山門の大衆唐崎の合戦に打勝て、事始よしと喜合る事斜ならず。爰に西塔を皇居に被定る条、本院面目無に似り。寿永の古へ、後白川院山門を御憑有し時も、先横川へ御登山有しか共、軈て東塔の南谷、円融坊へこそ御移有しか。且は先蹤也、且は吉例也。早く臨幸を本院へ可成奉と、西塔院へ触送る。西塔の衆徒理にをれて、仙蹕を促ん為に皇居に参列す。折節深山をろし烈して、御簾を吹上たるより、竜顔を拝し奉たれば、主上にてはをわしまさず、尹大納言師賢の、天子の袞衣を着し給へるにてぞ有ける。大衆是を見て、「こは何なる天狗の所行ぞや。」と興をさます。其後よりは、参る大衆一人もなし。角ては山門何なる野心をか存ぜんずらんと学へければ、其夜の夜半計に、尹大納言師賢・四条中納言隆資・二条中将為明、忍で山門を落て笠置の石室へ被参る。

☆ 天皇の臨幸が事実でなかったため、山門が態度を変えたことと、それに関して漢国の紀信のこと

比叡山延暦寺の大衆らは唐崎の合戦に勝利を収め、幸先が良いと大変喜び合いました。ところが西塔が皇居に定められて、延暦寺本院東塔としては面目丸つぶれです。寿永二年(1183年)の昔、後白河院が延暦寺を頼られ行幸された時も、まず横川にお入りになられましたが、

すぐに東塔の南谷、円融防にお遷りになられました。これが先例でもあり、また吉例でもあります。出来るだけ早く東塔にお遷りされるよう、西塔院に申し送りました。西塔の衆徒らもこの申し入れ理由には説得され、東塔へ行幸をお願いするため皇居に参内しました。

丁度その時、比叡山の山風が激しく吹き荒れ、乗り物の御簾が風に吹き上げられたため、天皇のお顔が見えたのです。ところがそれは天皇のお顔ではなく、尹大納言師賢が天子の礼服を身に着けていたのでした。

大衆はこれを見て、「これは一体どこの天狗の仕業なのか」と、一度にしらけ切ったのです。それ以後は皇居に参内する大衆は、一人もいなくなりました。このような状態では、山門の連中がどんなことをし出すかも分からないと思い、

その晩、夜半頃に尹大納言師賢、四条中納言隆資、二条中将為明らはこっそりと山門から逃げ落ちると、笠置の石室に向かい、内裏から逃れ出た後醍醐天皇と合流しました。


去程に上林房阿闍梨豪誉は、元来武家へ心を寄しかば、大塔宮の執事、安居院の中納言法印澄俊を生捕て六波羅へ是を出す。護正院僧都猷全は、御門徒の中の大名にて八王子の一の木戸を堅たりしかば、角ては叶じとや思けん、同宿手の者引つれて、六波羅へ降参す。是を始として、独り落二人落、々行ける間、今は光林房律師源存・妙光房の小相摸・中坊の悪律師、三四人より外は落止る衆徒も無りけり。妙法院と大塔宮とは、其夜迄尚八王子に御坐ありけるが、角ては悪りぬべしと、一まども落延て、君の御行末をも承らばやと思召れければ、二十九日の夜半計に、八王子に篝火をあまた所に焼て、未大勢篭たる由を見せ、戸津浜より小舟に召れ、落止る所の衆徒三百人計を被召具て、先石山へ落させ給ふ。此にて両門主一所へ落させ給はん事は、計略遠からぬに似たる上、妙法院は御行歩もかひ/゛\しからねば、只暫此辺に御座有べしとて、石山より二人引別させ給て、妙法院は笠置へ超させ給へば、大塔宮は十津河の奥へと志て、先南都の方へぞ落させ給ける。さしもやごとなき一山の貫首の位を捨て、未習せ給はぬ万里漂泊の旅に浮れさせ給へば、医王山王の結縁も是や限りと名残惜く、竹園連枝の再会も今は何をか可期と、御心細被思召ければ、互に隔たる御影の隠るゝまでに顧て、泣々東西へ別させ給ふ、御心の中こそ悲けれ。抑今度主上、誠に山門へ臨幸不成に依て、衆徒の意忽に変ずること、一旦事ならずと云へ共、倩事の様を案るに、是叡智の不浅る処に出たり。

その頃、元々幕府に味方していた淨林房阿闍梨豪誉は、大塔宮護良親王の執事、安居院の中納言法印澄俊を生け捕りにして、六波羅に突き出しました。比叡山の護正院僧都猷全は、延暦寺の衆徒の中でも実力者であり、八王子社にある一の木戸を警備していましたが、

この状況にとても抵抗は出来ないと考え、同居している部下たちを引き連れて、六波羅に降伏しました。これが発端となって、一人また二人と降伏するものが続出し、とうとう光林房律師源存や妙光房の小相模そして中坊の悪律師ら三、四人以外、降伏しない者はいませんでした。

妙法院宗良親王と大塔宮護良親王の二人は、まだその夜は八王子社に留まって居られたのですが、この状況では事態はますます悪化するのではないか、ここは一旦落ち延びて、帝と合流し行動を共にしようと思いました。

そこで二十九日の夜半頃、八王子社の境内にたくさんの篝火をたきつけ、まだまだ大勢の衆徒らが篭っていると見せかけて、戸津浜から小舟に乗って、六波羅に降伏しなかった衆徒ら三百人程を引き連れて、とりあえず石山に落ちて行きました。

しかし親王二人が一緒に落ちていくのも上策とは思えず、その上、妙法院宗良親王は足元がおぼつかないので、しばらくこの石山あたりで留まってもらい、ここから二人は別行動を取ることにしました。そして、妙法院殿は笠置に向かっていただき、

大塔宮護良親王は十津川の奥を最終の目的地にして、まず南都に落ちて行くことにしました。このように延暦寺の座主をつとめた高貴な方がその立場を捨て、慣れない上、果てしない流浪の旅に出て行くこととなったのです。

延暦寺根本中堂の薬師如来と日吉神社の日吉山王権現の縁で結ばれた二人も、これが限りかと思えば名残惜しく、皇族の兄弟として、再び会うことが出来るのかと思えば心細く、お互いの姿が見えなくなるまで振り返り振り返り、

泣きながら西と東に別れて行くお気持ちは、どれほど悲しかったことでしょうか。今回は初めから天皇が難を逃れるため、本当に延暦寺に入られたのではない上、計画が破綻してから衆徒らの意向が豹変したりして、失敗に終ったけれど、天皇のそれなりに深いお考えから計画されたものです。


昔強秦亡て後、楚の項羽と漢高祖と国を争事八箇年、軍を挑事七十余箇度也。其戦の度毎に、項羽常に勝に乗て、高祖甚苦める事多し。或時高祖■陽城に篭る。項羽兵を以て城を囲事数百重也。日を経て城中に粮尽て兵疲れければ、高祖戦んとするに力なく、遁んとするに道なし。此に高祖の臣に紀信と云ける兵、高祖に向て申けるは、「項羽今城を囲ぬる事数百重、漢已に食尽て士卒又疲たり。若兵を出して戦はゞ、漢必楚の為に擒とならん。只敵を欺て潛に城を逃出んにはしかじ。願くは臣今漢王の諱を犯して楚の陣に降せん。楚此に囲を解て臣を得ば、漢王速に城を出て重て大軍を起し、却て楚を亡し給へ。」と申ければ、紀信が忽に楚に降て殺れん事悲しけれ共、高祖社稷の為に身を軽くすべきに非ざれば、力無く涙ををさへ、別を慕ながら紀信が謀に随給ふ。紀信大に悦で、自漢王の御衣を着し、黄屋の車に乗り、左纛をつけて、「高祖罪を謝して、楚の大王に降す。」と呼て、城の東門より出たりけり。楚の兵是を聞て、四面の囲を解て一所に集る。軍勢皆万歳を唱。此間に高祖三十余騎を従へて、城の西門より出て成皐へぞ落給ける。夜明て後楚に降る漢王を見れば、高祖には非ず。其臣に紀信と云者なりけり。項羽大に忿て、遂に紀信を指殺す。高祖頓て成皐の兵を率して、却て項羽を攻む。項羽が勢尽て後遂に烏江にして討れしかば、高祖長く漢の王業を起して天下の主と成にけり。今主上も懸し佳例を思召、師賢も加様の忠節を被存けるにや。彼は敵の囲を解せん為に偽り、是は敵の兵を遮らん為に謀れり。和漢時異れども、君臣体を合たる、誠に千載一遇の忠貞、頃刻変化の智謀也。

古代中国で強国だった秦が滅亡してから、楚国の項羽と漢国の高祖(劉邦)が天下を奪い合う事八ヵ年に及び、軍を起すこと七十余回にもなりました。項羽はその戦争の度に勝ち続け、高祖はいつも追い詰められ苦しんでいました。ある戦いの時高祖はケイ陽城に篭城しました。

項羽は城を軍勢で幾重にも取り囲みました。やがて日が経つにつれ、城中の食料が尽き始め、兵士らの疲労はだんだんと激しくなり、そのため高祖は戦う事も出来なければ、遁れようにもその手段さえありません。

その時高祖の家臣で紀信と言う兵士が、高祖の向かって、「項羽は現在この城を数百重にも取り囲んでおり、結果我ら漢の国はすでに食料は尽き果て、軍兵の疲労も極限に達しています。もしこのような状態で、兵を外に出して戦うなんてことをすれば、

漢国は必ず楚の国の属国と成らざるを得ないでしょう。ここはただ敵を欺き、気づかれないにして、こっそり城を脱け出す以外ないでしょう。もし許されるならば、この私が漢国の王の名を語って、楚国の陣営に降伏を申し出ましょう。

すれば、楚国はこの囲いを解き、私を捕らえることになります。その時王はすぐにこの城を脱け出し、新たに大軍を催して攻め、反対に楚国を亡ぼしてください」と、申し上げました。このようなことをすれば、楚国に降った紀信はすぐに殺害されると思われ、

悲しいかぎりです。しかし、高祖たる者は国家のためを考えれば、軽々しく命を捨てるものではないので仕方なく、涙を抑えて別れを惜しみながらも、紀信の謀略に従う事にしました。紀信は大いに喜び、自ら漢王の衣服を着用して、天子の車に乗り、

天子が乗った車に付ける旗を取り付け、「高祖ここに反抗の罪を謝罪し、楚国の大王に降伏いたします」と叫びながら、城の東門から出て行きました。楚国の兵士らはこの叫び声を聞くと、四方の囲いを解いて、一ヶ所に集まってきました。軍勢は喜び皆、万歳を叫びました。

この間に高祖は三十余騎の兵士を従え、城の西門から逃げ出し、成皐(せいこう)城に逃げ込みました。夜が明けてから、項羽が楚に降ってきた漢王を謁見してみれば、高祖ではなく彼の臣下である紀信と言う者でした。項羽は大いに怒り、紀信を殺害しました。

高祖はすぐ成皐城の軍勢を率いて、項羽の攻撃にかかりました。やがて項羽の軍勢も力を失い、とうとう烏江の地で項羽は討たれました。その後高祖は漢王朝を興し、永らく天下の主となったのです。この度の後醍醐天皇も過去のこのような吉例を考えられ、

また師賢も同じように君に忠義をつくそうとしたのです。かの紀信は敵の包囲を解こうとして偽計を用い、また師賢は敵の進軍を妨害するために敵を欺いたのです。日本と中国、またそれぞれの時代も違いますが、帝とそれに仕える臣下が一体となったことは、

本当に千年に一度あるかないかの忠義の現れであり、時と場合に応じた、適切なるはかりごとでもあったのです。      (終)

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