3 太平記 巻第三 (その一)


○主上御夢事付楠事
元弘元年八月二十七日、主上笠置へ臨幸成て本堂を皇居となさる。始一両日の程は武威に恐れて、参り任る人独も無りけるが、叡山東坂本の合戦に、六波羅勢打負ぬと聞へければ、当寺の衆徒を始て、近国の兵共此彼より馳参る。されども未名ある武士、手勢百騎とも二百騎とも、打せたる大名は一人も不参。此勢許にては、皇居の警固如何有べからんと、主上思食煩はせ給て、少し御まどろみ有ける御夢に、所は紫宸殿の庭前と覚へたる地に、大なる常盤木あり。緑の陰茂て、南へ指たる枝殊に栄へ蔓れり。其下に三公百官位に依て列坐す。南へ向たる上座に御坐の畳を高く敷、未坐したる人はなし。主上御夢心地に、「誰を設けん為の座席やらん。」と怪しく思食て、立せ給ひたる処に、鬟結たる童子二人忽然として来て、主上の御前に跪き、涙を袖に掛て、「一天下の間に、暫も御身を可被隠所なし。但しあの樹の陰に南へ向へる座席あり。是御為に設たる玉■にて候へば、暫く此に御座候へ。」と申て、童子は遥の天に上り去ぬと御覧じて、御夢はやがて覚にけり。主上是は天の朕に告る所の夢也と思食て、文字に付て御料簡あるに、木に南と書たるは楠と云字也。其陰に南に向ふて坐せよと、二人の童子の教へつるは、朕再び南面の徳を治て、天下の士を朝せしめんずる処を、日光月光の被示けるよと、自ら御夢を被合て、憑敷こそ被思食けれ。

☆ 後醍醐天皇が楠正成についての夢を見られたこと

元弘元年(1331年)八月二十七日、後醍醐天皇は笠置寺に行幸、実質は落ち延びられたのですが、本堂を皇居と定めました。当初の一、二日程は鎌倉幕府軍の武力に恐れをなして、皇居に参内する人は誰一人としていませんでした。

しかし比叡山東坂本の合戦で、六波羅の軍勢が負けを喫したとの情報が届くと、笠置寺の衆徒を先頭に、近国の豪族らが兵士を率いて駆け集まってきました。とは言っても、名ある豪族、武士や、百騎、二百騎を支配下に置いた大名などは一人も来ていません。

これ位の軍勢では、皇居の警備さえおぼつかないではと、天皇がご心配しながら少しお休みになられた時、夢を見られました。その夢とは、紫宸殿の庭かと思える場所に、大きな常盤木がありました。それは素晴らしい樹勢を持った木であり、

中でも南に向かった枝が特に伸び茂っていました。その木の下には、左右の大臣、内大臣や、また数多くの役人などが、位に応じて居並んでいました。そして南に向いた上座には、畳の敷物が一段高く置かれていますが、まだ誰も座ってはいません。

夢の中で天皇は、「誰を迎えるための席なのか」と、怪しみながら立ち上がった時、髪を鬟(みずら::髪を頭の中央から左右に分け、先を輪にした結い方)に結った子供二人が、突然現れ天皇の前にひざまずくと、袖を涙で濡らしながら、「この世の中で暫しの間さえ、

御身を人目から避ける場所もございません。しかし、あの木の陰に南向きの席がございます。その席こそ、天皇のために設けた玉座でございます。しばらくそこにてお休みください」と、申し上げると、童子ははるか天上に去って行ったと言うものです。

夢から覚めた天皇は、これは天が私に告げた夢ではないかと思われ、夢に見た中身を、文字について分析してみたところ、木に南と書けば楠となります。その木の陰に南向きに座れと、二人の童子が教えたことは、この私が再び天子としての品性、人格を得て、

天下の武士を朝廷に参集せよと、日光月光菩薩とも思える二人の童子が暗示したのではと、自らの夢を占って頼もしく思われたのでした。


夜明ければ当寺の衆徒、成就房律師を被召、「若此辺に楠と被云武士や有。」と、御尋有ければ、「近き傍りに、左様の名字付たる者ありとも、未承及候。河内国金剛山の西にこそ、楠多門兵衛正成とて、弓矢取て名を得たる者は候なれ。是は敏達天王四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりと云へども、民間に下て年久し。其母若かりし時、志貴の毘沙門に百日詣て、夢想を感じて設たる子にて候とて、稚名を多門とは申候也。」とぞ答へ申ける。主上、さては今夜の夢の告是也と思食て、「頓て是を召せ。」と被仰下ければ、藤房卿勅を奉て、急ぎ楠正成をぞ被召ける。勅使宣旨を帯して、楠が館へ行向て、事の子細を演られければ、正成弓矢取る身の面目、何事か是に過んと思ければ、是非の思案にも不及、先忍て笠置へぞ参ける。主上万里小路中納言藤房卿を以て被仰けるは、「東夷征罰の事、正成を被憑思食子細有て、勅使を被立処に、時刻を不移馳参る条、叡感不浅処也。抑天下草創の事、如何なる謀を廻してか、勝事を一時に決して太平を四海に可被致、所存を不残可申。」と勅定有ければ、正成畏て申けるは、「東夷近日の大逆、只天の譴を招候上は、衰乱の弊へに乗て天誅を被致に、何の子細か候べき。但天下草創の功は、武略と智謀とに二にて候。若勢を合て戦はゞ、六十余州の兵を集て武蔵相摸の両国に対すとも、勝事を得がたし。若謀を以て争はゞ、東夷の武力只利を摧き、堅を破る内を不出。是欺くに安して、怖るゝに足ぬ所也。合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば必しも不可被御覧。正成一人未だ生て有と被聞召候はゞ、聖運遂に可被開と被思食候へ。」と、頼しげに申て、正成は河内へ帰にけり。

夜が明けると笠置寺の衆徒や、成就房律師を呼ばれて、「もしかしてこの辺りに楠と言う武士が居るのか」と、お尋ねになられると、「近くにそのような苗字を持った者がいるとは、聞いた事はありません。しかし、河内国金剛山の西方に楠木多門兵衛正成と言う、

弓矢を取ってはその名を馳せた者がおります。この者は敏達天皇四代の孫、井出左大臣橘諸兄公の子孫だと言われているそうですが、民間に降ってかなりの年月が経っています。その者の母が若かった頃、信貴山寺の毘沙門天に百日詣でをした時、

夢の中に神仏が現れて設けた子供だということで、幼名を多門と付けたそうです」と、答えられたのです。後醍醐天皇はその話を聞き、そうか今夜の夢のお告げはこのことかと思われ、「すぐ、その者を呼ぶように」と命じられ、万里小路藤房卿が勅命を受け、

急いで楠木正成を呼び寄せる事にしました。天皇の命令書を持参した勅使が楠木の舘に向かって事情を説明すると、正成も弓矢取る身であれば、これ程の名誉な事はなく、思案の余地すらないので人に気づかれないようにして、笠置寺へ即刻参内しました。

天皇は万里小路藤房卿を通じて、「関東の逆賊を征伐するに当たって、正成を頼りに思い、勅使を向かわせたところ、時をおかず即刻参内したこと、朕は大変感激し頼りに思っている。そこで天下を新しく造り直すに当たって、汝は如何なる計画を持ち、

勝負を一気につけて太平の世にしようとするのか、考えている事を残らず申し述べよ」と、天皇の命令を伝えました。楠木正成は畏まって、「関東の幕府が最近行なっている、人の道に背くような行為は、確実に天よりの責めを受け、その結果やがて落ち目になって来るでしょう。

その好機に乗じて天誅を加えれば、どうして征伐できない事などあるでしょうか。ただし、天下を造り直すのに必要なことは、武力を効果的に用いる思慮と、武力以外の策を練ることの二つがあります。もし勢いにまかせて合戦を行うならば、

たとえ六十余州の兵力を集めたとしても、武蔵、相模の両国に勝つ事は出来ないでしょう。もし何らかの策略を用いて戦いを起せば、関東軍は武力における優位を失うようなことはせず、堅い守りを守る事に徹するでしょう。

このようになれば、謀略をめぐらすことは簡単で、何も恐れる事はありません。とは言っても、合戦の常であれば、個々の勝負にこだわることのないように。正成ただ一人、まだ生存していると敵に知らせてさえおけば、天皇の御運も確実に開けると御思いください」と、

頼もしげに申し上げ、正成は河内に帰ったのでした。


○笠置軍事付陶山小見山夜討事
去程に主上笠置に御坐有て、近国の官軍付随奉る由、京都へ聞へければ、山門の大衆又力を得て、六波羅へ寄る事もや有んずらんとて、佐々木判官時信に、近江一国の勢を相副て大津へ被向。是も猶小勢にて叶ふまじき由を申ければ、重て丹波国の住人、久下・長沢の一族等を差副て八百余騎、大津東西の宿に陣を取る。九月一日六波羅の両■断、糟谷三郎宗秋・隅田次郎左衛門、五百余騎にて宇治の平等院へ打出で、軍勢の着到を着るに、催促をも不待、諸国の軍勢夜昼引も不切馳集て十万余騎に及べり。既に明日二日巳刻に押寄て、矢合可有と定めたりける其前の日、高橋又四郎抜懸して、独り高名に備へんとや思けん、纔に一族の勢三百余騎を率して、笠置の麓へぞ寄たりける。城に篭る所の官軍は、さまで大勢ならずと云へども、勇気未怠、天下の機を呑で、回天の力を出さんと思へる者共なれば、纔の小勢を見て、なじかは打て懸らざらん。其勢三千余騎、木津河の辺にをり合て、高橋が勢を取篭て、一人も余さじと責戦ふ。高橋始の勢ひにも似ず、敵の大勢を見て、一返も不返捨鞭を打て引ける間、木津河の逆巻水に被追浸、被討者其数若干也。僅に命許を扶る者も、馬物具を捨て赤裸になり、白昼に京都へ逃上る。見苦しかりし有様也。是を悪しと思ふ者やしたりけん。平等院の橋爪に、一首の歌を書てぞたてたりける。木津川の瀬々の岩浪早ければ懸て程なく落る高橋高橋が抜懸を聞て、引ば入替て高名せんと、跡に続きたる小早河も、一度に皆被追立一返も不返、宇治まで引たりと聞へければ、又札を立副て、懸も得ぬ高橋落て行水に憂名を流す小早河哉昨日の合戦に、官軍打勝ぬと聞へしかば、国々の勢馳参りて、難儀なる事もこそあれ、時日を不可移とて、両検断宇治にて四方の手分を定て、九月二日笠置の城へ発向す。南の手には五畿内五箇国の兵を被向。其勢七千六百余騎、光明山の後を廻て搦手に向。東の手には、東海道十五箇国の内、伊賀・伊勢・尾張・三河・遠江の兵を被向。其勢二万五千余騎、伊賀路を経て金剛山越に向ふ。北の手には、山陰道八箇国の兵共一万二千余騎、梨間の宿のはづれより、市野辺山の麓を回て、追手へ向ふ。西の手には、山陽道八箇国の兵を被向。其勢三万二千余騎、木津河を上りに、岸の上なる岨道を二手に分て推寄る。追手搦手、都合七万五千余騎、笠置の山の四方二三里が間は、尺地も不残充満したり。

☆ 笠置の軍において陶山と小宮山が夜討を仕掛けたこと

やがて後醍醐天皇が笠置に皇居を設けられ、近国の武者が官軍として天皇に従っていると、京都に知られると、比叡山の大衆らが再び力強く思って、六波羅に攻めてくる事もあるのではと思われ、佐々木判官時信に近江一国の軍勢を与えて、大津に出兵させました。

しかし佐々木判官は、この程度の軍勢では守りきれないと申し上げたので、更に丹波国の豪族、久下と長沢の一族を追加し、総勢八百余騎が大津東西の宿場に陣を構えました。九月一日、六波羅の検断(刑事事件を審理し判決する)職である、

糟谷三郎宗秋と隅田次郎左衛門の二人が五百余騎を率いて宇治の平等院に進出し、軍勢の到着記録を調べてみると、当方からの催促を待つことなく、諸国の軍勢が昼夜、引きも切らずに駆け集まり、すでに十万余騎になっていました。

明日の九月二日巳の刻(午前十時頃)に押し寄せて矢合わせを行なうと、すでに決定していたのにかかわらず、その前日、高橋又四郎が抜け駆けし、一人で手柄を独占しようと思ったのか、わずか自分の一族、三百余騎を率いて、笠置山の麓へ押し寄せたのでした。

城に篭っていた官軍は、それ程大した軍勢でもないのですが、戦闘意欲は満々で天下の一大事に臨んで、時勢を一変させてやろうと考えている者ばかりなので、敵が小勢なのを見て、どうして応戦せずにおられるでしょうか。

その軍勢三千余騎で木津川の周辺にまで下山し、高橋の軍勢を取り囲み、一人残らず討ち取ろうと攻めました。高橋軍は最初の勢いはどうしたのか、敵の大軍を見て一度も反撃することなく、鞭を打ち続け退却に掛かりました。

ところが木津川の逆巻く水に足を取られて敵に追いつかれ、討たれる者が数人出ました。なんとか命からがら遁れることが出来た者も、馬や鎧兜など皆捨て去って、裸同然の姿で白昼、京都に逃げ帰ったのでした。なんともはや、見苦しい限りです。

この状況を情けなく思ったのか、誰かが平等院の橋近く、板に一首の歌を書き、立て掛けました。
木津川の瀬々の岩浪早ければ懸て程なく落る高橋

高橋又四郎の抜け駆けを聞いて、もし高橋が引くような事があれば、入れ替わって自分が手柄を横取りしようと、後に続いた小早河の軍勢も、いっぺんに追い立てられ、一度も反撃することなく、宇治まで退却したと聞き、また隣に歌を書いた札が立てられました。

懸も得ぬ高橋落て行く水に憂名を流す小早河哉

六波羅では昨日の合戦で、官軍側が勝利した情報が流れると、各国の軍勢が駆け集まって、ますます困った事態になるのではと思いました。そこで、ここは早急に手を打つべきだと、糟谷三郎宗秋と隅田次郎左衛門ら二人の検断職が宇治において、

各方面に配置する軍勢を決め、九月二日、笠置の城に向かって進軍を始めました。南方よりの攻撃には五畿内五ヶ国の兵力、その勢七千六百余騎を充て、光明山の後方を回り込み搦手軍としました。

東からの攻撃陣には、東海道十五ヵ国の内、伊賀、伊勢、尾張、三河そして遠江の兵力を向けました。その数、二万五千余騎になり、伊賀路を経て金剛山を越える道を進軍しました。また北からの軍勢には、山陰道八ヶ国の兵力、

一万二千余騎が梨間宿(京都府城陽市)のはずれから、市野辺山の麓を回り込み、追手軍としました。西からの攻撃軍は山陽道八ヶ国の兵を充て、その勢三万二千余騎が、木津川を遡って岸の上の険しい道を、二手に分けた軍勢が押し寄せました。

追手、搦手合わせ総勢七万五千余騎が押し寄せて、笠置山の四方、二、三里が程は残すことなく、軍勢で満ち溢れたのでした。


明れば九月三日の卯刻に、東西南北の寄手、相近て時を作る。其声百千の雷の鳴落が如にして天地も動く許也。時の声三度揚て、矢合の流鏑を射懸たれども、城の中静り還て時の声をも不合、当の矢をも射ざりけり。彼笠置の城と申は、山高して一片の白雲峯を埋み、谷深して万仞の青岩路を遮る。攀折なる道を廻て揚る事十八町、岩を切て堀とし石を畳で屏とせり。されば縦ひ防ぎ戦ふ者無とも、輒く登る事を得難し。されども城中鳴を静めて、人ありとも見へざりければ、敵はや落たりと心得て、四方の寄手七万五千余騎、堀がけとも不謂、葛のかづらに取付て、岩の上を伝て、一の木戸口の辺、二王堂の前までぞ寄たりける。此にて一息休めて城の中を屹と向上ければ、錦の御旗に日月を金銀にて打て着たるが、白日に耀て光り渡りたる其陰に、透間もなく鎧ふたる武者三千余人、甲の星を耀し、鎧の袖を連て、雲霞の如くに並居たり。其外櫓の上、さまの陰には、射手と覚しき者共、弓の弦くひしめし、矢束解て押甘、中差に鼻油引て待懸たり。其勢決然として、敢て可攻様ぞなき。

明けて九月三日、卯の刻(午前六時頃)に、東西南北からの寄せ手が近づき閧の声を挙げました。その声は百千の雷が一度に落ちたかのようで、天地も動くのではと思われました。三度閧の声を挙げて、矢合わせの鏑矢を射込んで見たものの、

城の中は静まり返って、閧の声を合わせようともしませんし、射込んだ鏑矢に対する応答の矢も、射てくる様子もありません。この笠置の城は、高い山に位置して白雲が峰を包み隠し、また谷は非常に深くて、青い岩が行く手を阻みます。

折れ曲がった道を、攀じ登るようにして十八町を行くと、岩を切り開いて堀を造り、石を立て並べて塀にした城に到着します。そのため、たとえ防御する兵士がいなくても、そう簡単に登ることは難しいのです。しかし城内はシーンと鳴りをひそめて、人がいるとも思えず、

敵はすでに落ちて行ったのかと思い、四方の寄せ手総勢七万五千余騎が、堀や崖にかかわらず、蔦や葛にすがりつき岩を伝って、一の木戸口あたり仁王堂の前まで攻め寄せたのでした。ここで一休みして、城内をキッと見上げれば、

日月を金糸銀糸にて刺繍がなされた、錦の御旗が白日のもと、光り輝きひるがえっています。そしてその旗の陰にすき間もなく、鎧を身に着けた三千余人の武者が、兜の星型を輝かし鎧の袖を並べて、まるで雲霞のように居並んでいました。

その他にも櫓の上や狭間の陰には、射手と思われる武士が弓の弦を引き絞り、矢束を解き拡げ、戦闘用の矢に鼻油を塗りつけて、待ち受けています。その軍勢はキリリと構えて隙も見られず、無理に攻めて来ようともしないようです。


寄手一万余騎是を見て、前まんとするも不叶、引んとするも不協して、心ならず支たり。良暫有て、木戸の上なる櫓より、矢間の板を排て名乗けるは、「参河国住人足助次郎重範、忝くも一天の君にたのまれ進らせて、此城の一の木戸を堅めたり。前陣に進んだる旗は、美濃・尾張の人々の旗と見るは僻目か。十善の君の御座す城なれば、六波羅殿や御向ひ有らんずらんと心得て、御儲の為に、大和鍛冶のきたうて打たる鏃を少々用意仕て候。一筋受て御覧じ候へ。」と云侭に、三人張の弓に十三束三伏篦かづきの上まで引かけ、暫堅めて丁と放つ。其矢遥なる谷を阻て、二町余が外に扣へたる荒尾九郎が鎧の千檀の板を、右の小脇まで篦深にぐさと射込む。一箭なりといへども究竟の矢坪なれば、荒尾馬より倒に落て起も直らで死けり。舎弟の弥五郎是を敵に見せじと、矢面に立隠して、楯のはづれより進出て云けるは、「足助殿の御弓勢、日来承候し程は無りけり。此を遊ばし候へ。御矢一筋受て物の具の実の程試候はん。」と欺て、弦走を敲てぞ立たりける。足助是を聞て、「此者の云様は、如何様鎧の下に、腹巻か鎖歟を重て着たれば社、前の矢を見ながら此を射よとは敲くらん。若鎧の上を射ば、篦摧け鏃折て通らぬ事もこそあれ。甲の真向を射たらんに、などか砕て通らざらん。」と思案して、「胡■より金磁頭を一つ抜出し、鼻油引て、「さらば一矢仕り候はん。受て御覧候へ。」と云侭に、且く鎧の高紐をはづして、十三束三伏、前よりも尚引しぼりて、手答へ高くはたと射る。思ふ矢坪を不違、荒尾弥五郎が甲の真向、金物の上二寸計射砕て、眉間の真中をくつまき責て、ぐさと射篭だりければ、二言とも不云、兄弟同枕に倒重て死にけり。

寄せ手の一万余騎はこの様子を見て、前に進むことも出来ず、退こうにも互いが邪魔になり、やむなくその場に立ちすくんでいました。しばらくすると木戸の上方にある櫓から、矢狭間の板をはずし出てきた武士が、「三河国に住まいする足助次郎重範、

恐れ多くも天皇よりのご依頼を受け、この城、一の木戸を警備している者である。今ここに先鋒として寄せてきた軍勢の旗を見るに、美濃、尾張の人々の旗と覚えるが、見間違いか。ここは十全の君(天皇)が居られる城なので、六波羅殿の軍勢が必ずや攻め寄せて来るだろうと考え、

準備のため大和の鍛冶師が鍛えに鍛えた鏃を少しばかり用意している。一つ受けてもらえぬか」と言うや、三人張り(三人がかりで弦を張るほどの弓)の強弓に十三束三伏(こぶし十三個の幅に指三本分を加えた長さ)の矢を鏃の根元まで引き絞り、やや置いてピュッと放ちました。

矢は遥かな谷を隔て、二町余りも離れて対陣していた荒尾九郎の鎧の右肩から胸を守る板を突き抜け、右の脇まで矢の柄深く、グサッと射込まれました。一本の矢に過ぎないのですが、狙い定めた急所に命中したため、荒尾はたまらず馬より逆さまに落ち、

立ち上がる事もなく死んでしまいました。弟の弥五郎はこの様子を敵には見せまいと、敵の正面から隠すと、楯の端から身を乗り出して、「足助殿の御弓勢は、日頃聞き及んでいる程でもないぞ。もう一度射てみるがよい。

その矢を受けてこの鎧の強度でも調べてみよう」と、小馬鹿にしたように言うと、鎧の胴の部分を叩きながら立ったのでした。足助はこの挑発を聞いて、「あいつのあの言い方は、きっと鎧の下に腹巻を重ねて着ているか、鎖帷子のような物を着込んでいるからこそ、

最前の矢を見ておきながら、ここを射てみよと叩くのだろう。もし鎧の上を射たら、鏃は砕け矢柄は折れて射抜く事が出来ないだろう。しかし兜の真正面を射たなら、どうして射抜けないことがあろうか」と、考えがまとまり、

胡ぐい(やなぐい::矢を入れて携帯する道具)より金神頭(鏃の一種)の鏃が付いた矢を取り出し、鼻油を塗ると、「よし、それでは一矢進呈しよう。受けてご覧なさい」と言うや、まず鎧の高紐をはずして十三束三伏の矢を、さっきよりも引き絞り、手応えを感じながら高くヒョッと射たのでした。

矢は狙いを外さず荒尾弥五郎の兜の真正面、金物の二寸ばかり上を射砕くと、眉間の真ん中を鏃の端までグサッと突き刺さったので、二言目の言葉を発する事もなく、兄弟揃って枕を並べ折り重なって死んだのでした。


是を軍の始として、追手搦手城の内、をめき叫で責戦ふ。箭叫の音時の声且も休時なければ、大山も崩て海に入り、坤軸も折て忽地に沈む歟とぞ覚へし。晩景に成ければ、寄手弥重て持楯をつきよせつきよせ、木戸口の辺まで攻たりける処に、爰に南都の般若寺より巻数持て参りたりける使、本性房と云大力の律僧の有けるが、褊衫の袖を結で引違へ、尋常の人の百人しても動し難き大磐石を、軽々と脇に挟み、鞠の勢に引欠々々、二三十つゞけ打にぞ投たりける。数万の寄手、楯の板を微塵に打砕かるゝのみに非ず、少も此石に当る者、尻居に被打居ければ、東西の坂に人頽を築て、馬人弥が上に落重る。さしも深き谷二、死人にてこそうめたりけれ。されば軍散じて後までも木津河の流血に成て、紅葉の陰を行水の紅深きに不異。是より後は、寄手雲霞の如しといへども、城を攻んと云者一人もなし。只城の四方を囲めて遠攻にこそしたりけれ。かくて日数を経ける処に、同月十一日、河内の国より早馬を立て、「楠兵衛正成と云者、御所方に成て旗を挙る間、近辺の者共、志あるは同心し、志なきは東西に逃隠る。則国中の民屋を追捕して、兵粮の為に運取、己が館の上なる赤坂山に城郭を構へ、其勢五百騎にて楯篭り候。御退治延引せば、事御難儀に及候なん。急ぎ御勢を可被向。」とぞ告申ける。是をこそ珍事なりと騒ぐ処に、又同十三日の晩景に、備後の国より早馬到来して、「桜山四郎入道、同一族等御所方に参て旗を揚、当国の一宮を城郭として楯篭る間、近国の逆徒等少々馳加て、其勢既七百余騎、国中を打靡、剰他国へ打越んと企て候。夜を日に継で討手を不被下候はゞ、御大事出来ぬと覚候。御油断不可有。」とぞ告たりける。前には笠置の城強して、国々の大勢日夜責れども未落、後には又楠・桜山の逆徒大に起て、使者日々に急を告。南蛮西戎は已に乱ぬ。東夷北狄も又如何あらんずらんと、六波羅の北方駿河守、安き心も無りければ、日々に早馬を打せて東国勢をぞ被乞ける。相摸入道大に驚て、「さらばやがて討手を差上せよ。」とて、一門他家宗徒の人々六十三人迄ぞ被催ける。

このやり取りを戦闘の始めとして、追手、搦手の軍勢は、城内を喚き叫びながら攻め込み、また籠城軍は防戦に努めました。矢叫びや閧の声など一時も休むこともなく、大山が崩れて海に落ち込むか、また想像上の地軸が折れて、大地も沈んでしまうのではと思えるほどです。

夕方近くになると、寄せ手の軍勢は手に持った楯で防禦しつつ、次第に攻め寄せたので、やがて木戸口の周辺まで侵攻してきました。その時、戦勝祈祷の依頼を受け、祈祷のため読誦した目録を持参して、南都の般若寺から来ていた僧、

本性房と名乗る大力を持った律宗の僧がいました。両袖の付いた僧衣の袖を交差するように結んで、普通の人間なら百人がかかっても動かないと思えるほどの、巨岩を脇に軽々と挟み、鞠を扱うかのように二、三十個を立て続けに投げました。

この攻撃に数万の寄せ手は、手にした楯を木っ端微塵に砕かれただけでなく、一寸でもこの岩に当たった者は尻餅をつきその結果、東西の坂は軍勢がなだれを打って崩れ落ち、その上に馬や人が重なり落ちたのでした。あれほど深かった谷も死者で埋められました。

そのため軍が終ってからも、木津川の流れは血に染まり、紅葉の紅が流れる水に映ったのと、変わりませんでした。その後、寄せ手は雲霞のような大軍でありながら、城を攻めようと言う者は一人もなく、ただ城の四方を遠巻きに取り囲んでいるだけでした。

このような状況のまま日が過ぎていく内、九月十一日、河内国から六波羅の役所に早馬が到着し、「楠木兵衛正成という者が朝廷に味方するため蜂起し、近辺の軍兵どもで朝廷側につく者は楠木正成に味方し、そうでない者はあちこちに逃げ、その姿を隠しました。

楠木軍はすぐ国中の民家に押し込み、兵糧のための徴発をした上、自分の屋敷裏にある赤坂山に城郭を築いて、総勢五百騎で立て篭もりました。この籠城軍を即刻撃退しないと、後々難儀なことになりそうです。急いで軍勢を派遣していただきたい」と、連絡してきました。

なんとも前代未聞の事件が起こったものだと騒いでいる最中、九月十三日の晩になって今度は、備後国から早馬が到着し、「桜山四郎入道や、同じ一門の者どもが、朝廷に味方すると言って挙兵し、この国備後の一宮、吉備津神社を城郭として立て篭もり、

近国の逆賊らも応援に駆けつけ、今やその勢は七百余騎に上っています。国中の者を従えただけでなく、他国にまで進攻しようと計画しています。ここは夜を日に継いで、追討軍を差し向けてもらわなければ、重大な結果になると恐れます。

ゆめゆめご油断なきように」と、連絡してきたのでした。以前には笠置の城を攻めてみたものの、激しい抵抗にあい、各国の軍勢で日夜攻めてみたものの、落とすことが出来ず、その後、楠木正成や桜山四郎入道などの逆徒が蜂起し、使者が日々緊急事態を報告してきています。

古代中国風に言えば、東西南北の逆賊はすでに蜂起したか、もしくは蜂起しようとしているのか、いずれにしても六波羅探題北方の駿河守常葉範貞は、安心出来ず毎日のように早馬を立て、東国幕府の軍勢を派遣してもらえるよう頼みました。

相模入道北条高時もこれには大変驚き、「よし、すぐに討手を向かわせよ」と、一門や主だった家臣ら六十三人を選んで、軍団を編成しました。


大将軍には大仏陸奥守貞直・同遠江守・普恩寺相摸守・塩田越前守・桜田参河守・赤橋尾張守・江馬越前守・糸田左馬頭・印具兵庫助・佐介上総介・名越右馬助・金沢右馬助・遠江左近大夫将監治時・足利治部大輔高氏、侍大将には、長崎四郎左衛門尉、相従ふ侍には、三浦介入道・武田甲斐次郎左衛門尉・椎名孫八入道・結城上野入道・小山出羽入道・氏家美作守・佐竹上総入道・長沼四郎左衛門入道・土屋安芸権守・那須加賀権守・梶原上野太郎左衛門尉・岩城次郎入道・佐野安房弥太郎・木村次郎左衛門尉・相馬右衛門次郎・南部三郎次郎・毛利丹後前司、那波左近太夫将監・一宮善民部太夫・土肥佐渡前司・宇都宮安芸前司・同肥後権守・葛西三郎兵衛尉・寒河弥四郎・上野七郎三郎・大内山城前司・長井治部少輔・同備前太郎・同因幡民部大輔入道・筑後前司・下総入道・山城左衛門大夫・宇都宮美濃入道・岩崎弾正左衛門尉・高久同孫三郎・同彦三郎・伊達入道・田村形部大輔入道・入江蒲原の一族・横山猪俣の両党、此外、武蔵・相摸・伊豆・駿河・上野、五箇国の軍勢、都合二十万七千六百余騎、九月二十日鎌倉を立て、同晦日、前陣已に美濃・尾張両国に着ば、後陣は猶未高志・二村の峠に支へたり。

大将軍として、大仏陸奥守貞直、同じく遠江守、普恩寺相模守、塩田越前守、桜田三河守、赤橋尾張守、江間越前守、糸田左馬守、印具兵庫助、佐介上総介、名越右馬助、金沢右馬助、遠江左近大夫将監治時、足利治部大輔高氏らが選ばれ、

侍大将には長崎四郎左衛門尉があたり、従う侍として、三浦介入道、武田甲斐次郎左衛門尉、椎名孫八入道、結城上野入道、小山出羽入道、氏家美作守、佐竹上総入道、長沼四郎左衛門入道、土屋安芸権守、那須加賀権守、梶原上野太郎左衛門尉、

岩城次郎入道、佐野安房弥太郎、木村次郎左衛門尉、相馬右衛門次郎、南部三郎次郎、毛利丹後前司、那波左近太夫将監、一宮善民部太夫、土肥佐渡前司、宇都宮安芸前司、同じく肥後権守、葛西三郎兵衛尉、寒河弥四郎、上野七郎三郎、

大内山城前司、長井治部少輔、同じく備前太郎、同じく因幡民部大輔入道、筑後前司、下総入道、山城左衛門大夫、宇都宮美濃入道、岩崎弾正左衛門尉、高久孫三郎、同じく彦三郎、伊達入道、田村刑部大輔入道、入江蒲原の一族、その他横山、猪俣の両党、

これ以外に武蔵、相模、伊豆、駿河、上野の五ヶ国の軍勢など、総勢二十万七千六百余騎が九月二十日に鎌倉を出発し、九月三十日先陣はすでに美濃、尾張両国に到着しましたが、後尾の軍勢はまだ高志(豊橋市)、二村(愛知県額田郡)の峠辺りを進んでいました。


爰に備中国の住人陶山藤三義高・小見山次郎某、六波羅の催促に随て、笠置の城の寄手に加て、河向に陣を取て居たりけるが、東国の大勢既に近江に着ぬと聞へければ、一族若党共を集て申けるは、「御辺達如何が思ぞや、此間数日の合戦に、石に被打、遠矢に当て死ぬる者、幾千万と云数を不知。是皆差て為出したる事も無て死ぬれば、骸骨未だ乾かざるに、名は先立て消去ぬ。同く死ぬる命を、人目に余る程の軍一度して死たらば、名誉は千載に留て、恩賞は子孫の家に栄ん。倩平家の乱より以来、大剛の者とて名を古今に揚たる者共を案ずるに、何れも其程の高名とは不覚。先熊谷・平山が一谷の先懸は、後陣の大勢を憑し故也。梶原平三が二度の懸は、源太を助ん為なり。佐々木三郎が藤戸を渡しゝは、案内者のわざ、同四郎高綱が宇治川の先陣は、いけずき故也。此等をだに今の世迄語伝て、名を天下の人口に残すぞかし。何に況や日本国の武士共が集て、数日攻れども落し得ぬ此城を、我等が勢許にて攻落したらんは、名は古今の間に双なく、忠は万人の上に可立。いざや殿原、今夜の雨風の紛れに、城中へ忍入て、一夜討して天下の人に目を覚させん。」と云ければ、五十余人の一族若党、「最可然。」とぞ同じける。是皆千に一も生て帰る者あらじと思切たる事なれば、兼ての死に出立に、皆曼陀羅を書てぞ付たりける。差縄の十丈許長きを二筋、一尺計置ては結合々々して、其端に熊手を結着て持せたり。是は岩石などの被登ざらん所をば、木の枝岩の廉に打懸て、登らん為の支度也。

その頃笠置の城では、備中国の豪族、陶山藤三義高、小宮山次郎の何某らは六波羅の命令に従い、笠置の攻城軍に加わって川向こうに陣を構えていましたが、鎌倉幕府の大軍がすでに近江に到着したと聞き、一族や若武者らを集め、「皆はどう思うか。

ここ数日の合戦で石に追い落とされたり、また遠矢にあたって死んだりする者が、果たして幾千万人になるのか、その数もわからないほどだ。この者たちは全員これといった手柄を立てることなく死んでしまい、遺骸はそのままになっているのに、

名前だけはこの世から先に消えてしまった。同じ死ぬにしても、人の驚嘆に値するほどの戦いを、一度でもして死んだなら、その名誉はこの先一千年にわたり語り継がれ、その恩賞によって子孫は繁栄する事も出来る。考えてみれば、

源平の乱以来、武勇に優れた武士として、その名を今に残している者どもを考えてみれば、誰もそれ程の手柄を立てたとは思えない。まず第一に熊谷次郎直実や平山季重らが一の谷の合戦で先陣争いをしたのは、後に続く味方の軍勢を頼みとしたからであるし、

梶原平三景時の二度の懸と言うのも、息子の源太景季を助けんがためである。佐々木三郎盛綱が藤戸の瀬を渡ったのも、それを案内した漁師のおかげではないか。また佐々木四郎高綱が宇治川で演じた先陣も、「いけずき」と言う駿馬のおかげである。

これ位のことでも今の世まで語り継がれて、その名を天下の人々に残している。言うまでもないが、この笠置の戦いは、日本国中の武士が集まって、数日間攻め続けても落とす事が出来ないでいる。その城を我らの軍勢だけで落とせば、

過去から現在に至るまで二つとない手柄であり、またその忠義心においても、誰にも負けるものではない。どうだろう皆の者、今夜の風雨に紛れて城に忍び入り、夜討ちを一つやってみて、天下の人達の目を覚まし、驚かしてやろうじゃないか」と話せば、

五十余人の一族や家来たちは、「確かにそうだ、そうだ」と、全員賛成しました。しかしこの作戦では千に一つも生きて帰れるとは思えず、覚悟を決めての出陣ですから、全員が曼荼羅を書いて身に付けました。また十丈位の長さの馬用の縄二本を、

一尺程の間隔で結び合わせ、その端に熊手を結わいつけて兵士に持たせました。この縄は岩石などがあって登る事が出来ない所で、木の枝や岩の角などに、引っ掛けて登るための用意です。


其夜は九月晦日の事なれば、目指とも不知暗き夜に、雨風烈く吹て面を可向様も無りけるに、五十余人の者ども、太刀を背に負、刀を後に差て、城の北に当たる石壁の数百丈聳て、鳥も翔り難き所よりぞ登りける。二町許は兎角して登りつ、其上に一段高き所あり。屏風を立たる如くなる岩石重て、古松枝を垂、蒼苔路滑なり。此に至て人皆如何んともすべき様なくして、遥に向上て立たりける処に、陶山藤三、岩の上をさら/\と走上て、件の差縄を上なる木の枝に打懸て、岩の上よりをろしたるに、跡なる兵共各是に取付て、第一の難所をば安々と皆上りてげり。其より上にはさまでの嶮岨無りければ、或は葛の根に取付、或は苔の上を爪立て、二時計に辛苦して、屏際まで着てけり。此にて一息休て、各屏を上り超、夜廻りの通りける迹に付て、先城の中の案内をぞ見たりける。追手の木戸・西の坂口をば、伊賀・伊勢の兵千余騎にて堅めたり。搦手に対する東の出屏の口をば、大和・河内の勢五百余騎にて堅たり。南の坂、二王堂の前をば、和泉・紀伊国の勢七百余騎にて堅たり。北の口一方は嶮きを被憑けるにや、警固の兵をば一人も不被置、只云甲斐なげなる下部共二三人、櫓の下に薦を張、篝を焼て眠居たり。陶山・小見山城を廻、四方の陣をば早見澄しつ。

時は九月三十日、新月の夜ですから、目標とするべき物も見えないくらいの真っ暗闇である上、風雨が激しく吹きつけ、顔を上げることも出来ないのですが、五十余人の武士どもは太刀を背に負い、脇差は腰の後に差して出発しました。

城の北側の石垣が数百丈も聳え立って、鳥でさえ飛び越えるのが難しい場所から登り始めました。二町程は何とか登ったものの、その上に一段と高い所があります。そこは屏風を立てたように岩が重なり合って、古い松が枝を垂らし、苔が一面に青々と生えて滑りそうです。

ここまでは進んで来たものの、この先どうすれば良いのか分からなく、皆がただ上を見上げてたたずんでいると、陶山藤三義高が岩の上をサッサと走り登り、先ほどの熊手付きの縄を、上の木の枝に引っ掛けると、縄を下におろしました。

続いて兵士たちは皆この縄に取り付き、この城一番の難所を簡単に登ったのでした。そこから先はそれ程険しい場所もないので、ある所では葛の根につかまったり、あるいは苔に爪を立てたりして、二刻(約四時間)程は苦労しながらも、やっと塀際までやってきました。

ここで一旦休憩し、その後各自塀を登り越え、夜警の兵士の後を着けて行き、まず城内の様子を調べました。追手の木戸と西側の坂口は伊賀と伊勢の兵、千余騎が警備し、また搦手になる東側の出張った塀は、大和と河内の軍勢、五百余騎が厳しく守っています。

南の坂、仁王堂の前は、和泉と紀伊国の兵士七百余騎で警固しています。しかし、北側の一ヶ所だけは険しい崖に頼ったのか、警備兵は一人も配置されていません。ただ頼りなさそうな兵が二、三人櫓の下にマコモで編んだ筵を敷いて、篝火を燃やして居眠りしていました。

陶山義高と小宮山次郎は城を見て回り、四方の陣構えを確認し終わったのでした。


皇居は何くやらんと伺て、本堂の方へ行処に、或役所の者是を聞付て、「夜中に大勢の足音して、潛に通は怪き物哉、誰人ぞ。」と問ければ、陶山吉次取も敢ず、「是は大和勢にて候が、今夜余に雨風烈しくして、物騒が〔し〕く候間、夜討や忍入候はんずらんと存候て、夜廻仕候也。」と答ければ、「げに。」と云音して、又問事も無りけり。是より後は中々忍たる体も無して、「面々の御陣に、御用心候へ。」と高らかに呼はて、閑々と本堂へ上て見れば、是ぞ皇居と覚て、蝋燭数多所に被燃て、振鈴の声幽也。衣冠正くしたる人、三四人大床に伺候して、警固の武士に、「誰か候。」と被尋ければ、「其国の某々。」と名乗て廻廊にしかと並居たり。陶山皇居の様まで見澄して、今はかうと思ければ、鎮守の前にて一礼を致し、本堂の上なる峯へ上て、人もなき坊の有けるに火を懸て同音に時の声を挙ぐ。四方の寄手是を聞、「すはや城中に返忠の者出来て、火を懸たるは。時の声を合せよや。」とて追手搦手七万余騎、声々に時を合て喚き叫ぶ。其声天地を響かして、如何なる須弥の八万由旬なりとも崩ぬべくぞ聞へける。陶山が五十余人の兵共、城の案内は只今委く見置たり。此役所に火を懸ては彼こに時の声をあげ、彼こに時を作ては此櫓に火を懸、四角八方に走り廻て、其勢城中に充満たる様に聞へければ、陣々堅めたる官軍共、城内に敵の大勢攻入たりと心得て、物の具を脱捨弓矢をかなぐり棄て、がけ堀とも不謂、倒れ転びてぞ落行ける。錦織判官代是を見て、「膩き人々の振舞哉。十善の君に被憑進せて、武家を敵に受る程の者共が、敵大勢なればとて、戦はで逃る様やある、いつの為に可惜命ぞ。」とて、向ふ敵に走懸々々、大はだぬぎに成て戦ひけるが、矢種を射尽し、太刀を打折ければ、父子二人並郎等十三人、各腹かき切て同枕に伏て死にけり。

皇居は一体どこにあるのか調べようと、本堂に向かって進んでいる途中、ある詰所の者が物音に気づき、「夜中に大勢の足音をさせて、こっそりと通って行くとは怪しい限りだ。一体誰なのか」と、声を掛けられ、そこで陶山吉次はとっさに、「我々は大和の軍勢ですが、

今夜、あまりにも風雨が激しく物騒がしいので、もしかして夜討をかけられたり、敵が忍び込むのではないかと思い、夜回りに出たところです」と、返答すると、「確かにそうだ」と声がした後、何も問われる事はありませんでした。

その後は、特に隠密行動をするでもなく、「各々陣営の皆様、ご用心怠りなく」と、高らかに声を掛けながら、静々と本堂に上がってみると、ここが皇居らしく沢山の蝋燭が灯され、鈴を振る音が小さく聞こえます。衣冠を身に着けた正装の人、三、四人が大床に控えて、

警固している武士らに向かって、「そこに居るのは誰なのか」と尋ね、問われた武士が、「どこかの国の何某です」と名乗り、その武士らが回廊にびっしりと居並んでいます。陶山は皇居の様子も確認できたので、今は攻撃に移る時だと思い、

笠置寺の神々に一礼した後、本堂上方の峰に登り、無人の建物があるのを見つけて、火を懸けるのと同時に、閧の声を挙げました。四方に詰めている寄せ手軍はこの声を聞き、「さては城内に裏切り者が出て、火を懸けたのか。

皆で閧の声を挙げよ」と、追手、搦手の七万余騎が声を合わせ閧を挙げ、喚き騒ぎました。その声は天地に響き渡り、世界の中心にあるという山の高さが、たとえ八千由旬(由旬::古代インドの距離の単位)あったとしても、崩れるのではと思えるほどでした。

陶山の率いる五十余人の武士らは、城の内部については、詳しく調べ終わっているので、ここの詰所に火を懸けては、あちらの場所で閧の声を挙げ、あちらで閧の声を挙げては、こちらの櫓に火を懸けるというように、四方八方走り回ったので、

その軍勢は城内に充満しているかのように見えたため、それぞれ持ち場を固めていた官軍らは、城内に敵軍が大挙して攻め込んできたと思い、鎧兜を脱ぎ捨て、また弓矢もかなぐり捨てるようにして、崖であろうが堀であろうが構わず、ただがむしゃらに逃げ落ちたのです。

錦織判官代はこの有様を見て、「なんともあきれ返ったことをする奴らだ。天皇の信頼を受けて、鎌倉を敵として戦おうと言うほどの者どもでありながら、敵が大勢だと言って、戦う事もせず逃げる奴がどこにいる。今を除いて命の捨て所があると言うのか」と、

向かって来る敵に走り懸かり、また走りこみ、大肌脱ぎになって戦いましたが、やがて矢も射尽き太刀も折れてしまい、父子二人と家来ら十三人は、皆腹掻き切り、枕を並べて死んだのでした。      (終)

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