3 太平記 巻第三 (その二)


○主上御没落笠置事
去程に類火東西より被吹て、余煙皇居に懸りければ、主上を始進せて、宮々・卿相・雲客、皆歩跣なる体にて、何くを指ともなく足に任て落行給ふ。此人々、始一二町が程こそ、主上を扶進せて、前後に御伴をも被申たりけれ。雨風烈しく道闇して、敵の時の声此彼に聞へければ、次第〔に〕別々に成て、後には只藤房・季房二人より外は、主上の御手を引進する人もなし。悉も十善の天子、玉体を田夫野人の形に替させ給て、そことも不知迷ひ出させ玉ける、御有様こそ浅猿けれ。如何にもして、夜の内に赤坂城へと御心許を被尽けれども、仮にも未習はせ玉はぬ御歩行なれば、夢路をたどる御心地して、一足には休み、二足には立止り、昼は道の傍なる青塚の陰に御身を隠させ玉て、寒草の疎かなるを御座の茵とし、夜は人も通はぬ野原の露に分迷はせ玉て、羅穀の御袖をほしあへず。兎角して夜昼三日に、山城の多賀郡なる有王山の麓まで落させ玉てけり。藤房も季房も、三日まで口中の食を断ければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢とも逃ぬべき心地せざりければ、為ん方無て、幽谷の岩を枕にて、君臣兄弟諸共に、うつゝの夢に伏玉ふ。梢を払ふ松の風を、雨の降かと聞食て、木陰に立寄せ玉たれば、下露のはら/\と御袖に懸りけるを、主上被御覧て、さして行笠置の山を出しよりあめが下には隠家もなし藤房卿泪を押へて、いかにせん憑む陰とて立よれば猶袖ぬらす松の下露山城国の住人、深須入道・松井蔵人二人は、此辺の案内者なりければ、山々峯々無残所捜しける間、皇居隠なく被尋出させ給ふ。主上誠に怖しげなる御気色にて、「汝等心ある者ならば、天恩を戴て私の栄花を期せよ。」と被仰ければ、さしもの深須入道俄に心変じて、哀此君を隠奉て、義兵を揚ばやと思けれども、迹につゞける松井が所存難知かりける間、事の漏易くして、道の成難からん事を量て、黙止けるこそうたてけれ。俄の事にて網代輿だに無りければ、張輿の怪げなるに扶乗進せて、先南都の内山へ入奉る。其体只殷湯夏台に囚れ、越王会稽に降せし昔の夢に不異。是を聞是を見る人ごとに、袖をぬらさずと云事無りけり。

☆ 後醍醐天皇が笠置の城を逃れたこと

やがて東西より延焼の火は吹き上がり、消え残った煙など皇居に流れてきたため、天皇をはじめとして、各宮さま方や、公卿、高級官僚など全員が裸足になって、どこへ向かえば良いのか分かずに、ただ足の向くまま落ちて行きました。

これらの人々も初めの一、二町位までは、天皇をお助けしながら、前後にお供をしていました。しかし、風雨が激しい上、道は暗くて分かりずらく、敵の挙げる閧の声もあちこちから聞こえてくると、次第にバラバラになり、最後にはただ側近の万里小路藤房と弟の季房の二人以外、

天皇のお手を引く人もいませんでした。畏れ多くも十善の天子(天皇)たるお人が、そのお姿を無教養な庶民と間違える位に変えて、どこへ行くのか分からずに、迷い出られたことは嘆かわしく、あきれるばかりです。

何とかして今夜中には、楠木正成がいる赤坂城には着きたいと願ってはいるのですが、天皇にしてみれば慣れない徒歩でもあり、夢路を歩いてるような気がして、一足歩いては休憩し、二歩目には立ち止まる有様です。昼間は道の傍にある、

青く植物などが茂り、こんもりと高くなった場所の陰に隠れ、枯れ草を集めて敷物にして休み、夜になれば人も通らないような野原を、露に濡れながら歩き続け、薄絹の着物の袖も乾くことはありません。このようにご苦労はありましたが、

昼夜三日間歩き続けて、山城国の多賀郡にある有王山の麓まで、落ちて来たのでした。藤房も季房もこの三日間何も口にしていないので、足はくたびれ身体全体も疲れ果てて、今のこの状態では、どんな目に会おうが、もう逃げる元気もありません。

やむなく静かな谷で岩を枕にして、天皇と臣下兄弟が一緒になって、前後不覚の眠りについたのでした。松を吹き抜ける風が梢を揺らす音に、雨が降ってきたのかと思い、天皇に木陰への避難をお願いしたところ、滴り落ちる露が袖をはらはらと濡らすのを見て、一首お詠みになられました。

      さして行く 笠置の山を 出しより あめが下には 隠家もなし
藤房は流れる涙を押さえながら、返歌を詠まれました。

      いかにせん 憑む陰とて 立ちよれば 猶袖ぬらす 松の下露

さて、山城国の武将、深須入道と松井蔵人の二人は、この周辺の地理に詳しいので、山々峰々残すところ無く捜索をしたので、天皇一行は発見されてしまいました。天皇は恐怖に震えながらも、「もし、汝らが思いやりや思慮分別のある人間なら、

ここは天皇の恩恵を受けて、自分達の繁栄を期待せよ」と、おっしゃられ、さすがの深須入道もとたんに心変わりしました。この気の毒な天皇をお隠しし、出来れば兵を募ろうとも考えましたが、もう一人の松井蔵人の真意が分かりません。

秘密が簡単に漏れるかも知れないし、ことが成就するのも難しく思え、そのまま黙ってしまいました。情けない話です。急なことであり、竹や桧を編んだ物を張った輿も無いので、仕方なく粗末な略式の輿に、手を添えてお乗せし、まず南都の内山にお入りなられました。

その惨めなお姿は、古代中国の殷国の創始者、湯王が、夏国の桀に囚われた時や、越王が会稽の戦いで降伏した時など、昔の話にあるのと変わることもないでしょう。この天皇のご様子を見たり聞いたりした人々で、袖を濡らさない者は居ませんでした。天皇はその後捕われました。


此時此彼にて、被生捕給ける人々には、先一宮中務卿親王・第二宮妙法院尊澄法親王・峰僧正春雅・東南院僧正聖尋・万里小路大納言宣房・花山院大納言師賢・按察大納言公敏・源中納言具行・侍従中納言公明・別当左衛門督実世・中納言藤房・宰相季房・平宰相成輔・左衛門督為明・左中将行房・左少将忠顕・源少将能定・四条少将隆兼・妙法院執事澄俊法印、北面・諸家侍共には、左衛門大夫氏信・右兵衛大夫有清・対馬兵衛重定・大夫将監兼秋・左近将監宗秋・雅楽兵衛尉則秋・大学助長明・足助次郎重範・宮内丞能行・大河原源七左衛門尉有重、奈良法師に、俊増・教密・行海・志賀良木治部房円実・近藤三郎左衛門尉宗光・国村三郎入道定法・源左衛門入道慈願・奥入道如円・六郎兵衛入道浄円、山徒には勝行房定快・習禅房浄運・乗実房実尊、都合六十一人、其所従眷属共に至までは計るに不遑。或は篭輿に被召、或伝馬に被乗て、白昼に京都へ入給ひければ、其方様歟と覚たる男女街に立並て、人目をも不憚泣悲む、浅増かりし分野也。十月二日六波羅の北方、常葉駿河守範貞、三千余騎にて路を警固仕て、主上を宇治の平等院へ成し奉る。其日関東の両大将京へは不入して、すぐに宇治へ参向て、竜顔に謁奉り、先三種の神器を渡し給て、持明院新帝可進由を奏聞す。主上藤房を以て被仰出けるは、「三種神器は、自古継体君、位を天に受させ給ふ時、自ら是を授る者也。四海に威を振ふ逆臣有て、暫天下を掌に握る者ありと云共、未此三種の重器を、自専して新帝に渡し奉る例を不聞。其上内侍所をば、笠置の本堂に捨置奉りしかば、定て戦場の灰塵にこそ落させ給ひぬらめ。神璽は山中に迷し時木の枝に懸置しかば、遂にはよも吾国の守と成せ給はぬ事あらじ。宝剣は、武家の輩若天罰を顧ずして、玉体に近付奉る事あらば、自其刃の上に伏させ給はんずる為に、暫も御身を放たる事あるまじき也。」と被仰ければ、東使両人も、六波羅も言ば無して退出す。

この戦いが終ってから、あちこちにて生け捕りになった人々は、一宮中務卿尊良親王を始めとして、第二宮妙法院尊澄宗良法親王、峰僧正春雅、東南院僧正聖尋、万里小路大納言宣房、花山院大納言藤原師賢、按察大納言藤原公敏、源中納言具行、

侍従中納言藤原公明、別当左衛門督藤原実世、中納言万里小路藤房、宰相万里小路季房、平宰相成輔、左衛門督藤原為明、左中将藤原行房、左少将千種忠顕、源少将能定、四条少将藤原隆兼、妙法院執事澄俊法印などの人達です。

また北面の武士(御所の警備担当)や諸家の武士達では、左衛門大夫氏信、右兵衛大夫有清、対馬兵衛重定、大夫将監兼秋、左近将監宗秋、雅楽兵衛尉則秋、大学助長明、足助次郎重範、宮内丞能行、大河原源七左衛門尉有重らです。

奈良の僧侶で拘束されたのは、俊増、教密、行海、志賀良木治部房円実、近藤三郎左衛門尉宗光、国村三郎入道定法、源左衛門入道慈願、奥入道如円、六郎兵衛入道浄円などです。僧兵、山法師では、勝行房定快、習禅房浄運、乗実房実尊ら合わせて六十一人です。

またそれらの人達に従う家来や親族などは、あまりに多くてとても記載出来ません。それらの人達は竹製の粗末な駕籠に乗ったり、またある人は物資を運ぶ馬などに乗せられ、白日のもと京都に護送されて来ました。その人達の身内と思われる男女が街にあふれ、

人の目を気にすることもなく泣き悲しむ様子は、嘆かわしい限りです。そして十月二日、六波羅探題北方の常葉駿河守範貞が三千余騎で道路を警固しながら、後醍醐天皇を宇治、平等院にお遷ししました。その日、鎌倉より派遣された使者の大将、

大仏陸奥守貞直ともう一人の大将、金沢某は京には入らず、直接宇治に向かい、天皇に謁見し、まず三種の神器をお渡し頂き、持明院統の新帝、光厳天皇に引渡しをされるよう申し上げました。後醍醐天皇は万里小路藤房を通じて、「三種の神器は古来より、

天皇の位を継ぐ者に、前の天皇がこれを渡す事になっている。国の内外を武力で制圧した逆臣が現れ、その者がしばらく天下の主になったと言っても、この三種の神器を、勝手に新帝に渡すなんてことは聞いた事がない。その上内侍所は、

笠置寺の本堂に置いたままになっているので、きっとあの戦いの中、火災に会って灰燼になってしまっただろう。また神璽は逃亡の際、山中で道に迷った時、木の枝に掛けたままになっているので、そこで我が国を守り続けることだろう。

宝剣、草薙の剣については、幕府の武士どもが天罰も恐れず、もし我が身に近づこうと考えるなら、自らその剣に身を伏せるために、たとえひと時でも、わが身から離す気はない」と、仰せられ、関東からの使者二人も、六波羅探題の役人も言葉なく、引き下がりました。


翌日竜駕を廻して六波羅へ成進らせんとしけるを、前々臨幸の儀式ならでは還幸成まじき由を、強て被仰出ける間、無力鳳輦を用意し、袞衣を調進しける間、三日迄平等院に御逗留有てぞ、六波羅へは入給ける。日来の行幸に事替て、鳳輦は数万の武士に被打囲、月卿雲客は怪げなる篭・輿・伝馬に被扶乗て、七条を東へ河原を上りに、六波羅へと急がせ給へば、見る人涙を流し、聞人心を傷しむ。悲乎昨日は紫宸北極の高に坐して、百司礼儀の妝を刷ひしに、今は白屋東夷の卑きに下らせ給て、万卒守禦の密しきに御心を被悩。時移事去楽尽て悲来る。天上の五衰人間の一炊、唯夢かとのみぞ覚たる。遠からぬ雲の上の御住居、いつしか思食出す御事多き時節、時雨の音の一通、軒端の月に過けるを聞食て、住狎ぬ板屋の軒の村時雨音を聞にも袖はぬれけり四五日有て、中宮の御方より御琵琶を被進けるに、御文あり。御覧ずれば、思やれ塵のみつもる四の絃に払ひもあへずかゝる泪を引返して、御返事有けるに、涙ゆへ半の月は陰るとも共に見し夜の影は忘れじ同八日両検断、高橋刑部左衛門・糟谷三郎宗秋、六波羅に参て、今度被生虜給し人々を一人づゝ大名に被預。一宮中務卿親王をば佐々木判官時信、妙法院二品親王をば長井左近大夫将監高広、源中納言具行をば筑後前司貞知、東南院僧正をば常陸前司時朝、万里小路中納言藤房・六条少将忠顕二人をば、主上に近侍し奉るべしとて、放召人の如くにて六波羅にぞ留め置れける。同九日三種の神器を、持明院の新帝の御方へ被渡。堀河大納言具親・日野中納言資名、是を請取て長講堂へ送奉る。其御警固には長井弾正蔵人・水谷兵衛蔵人・但馬民部大夫・佐々木隠岐判官清高をぞ被置ける。同十三日に、新帝登極の由にて、長講堂より内裏へ入せ給ふ。供奉の諸卿、花を折て行妝を引刷ひ、随兵の武士、甲冑を帯して非常を誡む。いつしか前帝奉公の方様には、咎有も咎無も、如何なる憂目をか見んずらんと、事に触て身を危み心を砕けば、当今拝趨の人々は、有忠も無忠も、今に栄花を開きぬと、目を悦ばしめ耳をこやす。子結で陰を成し、花落て枝を辞す。窮達時を替栄辱道を分つ。今に始めぬ憂世なれども、殊更夢と幻とを分兼たりしは此時也。

翌三日、天皇用の駕籠を用意して、六波羅にお遷ししようとしましたが、前々から臨幸の儀式通りでなければ、都に戻る事はないと強く言われ、仕方なく、鳳輦という天皇の晴れの儀式用の輿や、天皇用の礼服などを用意していたので、三日まで平等院にご滞在され、

その後六波羅に行幸されました。いつもの行幸とは違い、鳳輦は数万の武士に取り囲まれ、公卿や高級官僚など百官は粗末な篭、輿や運搬用の馬などに乗せられて、七条を東に進んで鴨川の河原を北に、六波羅へ急ぎました。

この様子を見た人は涙を流し、また話に聞いた人は悲しい気持ちになりました。何と悲しいことでしょうか、先日まで皇居の奥深く玉座に座られ、百官には敬意をもった態度で接せられていたのに、今日は貧しいあばら家に住まいする東国の野蛮人のように、

その身を落とされた上、多数の兵士らに取り囲まれ、自由をも奪われ心を痛めておられました。時が過ぎ行き、事も終れば、楽しみも尽きてしまい、その後には悲しみがやってきます。天上界にすむ天人も、五つの衰えの相が現れて死に至るように、

人間の栄枯盛衰もはかない夢のように思えます。ここからは、それほど遠くもない御所での生活を、ついつい思い出すことの多いこの頃、軒端の月を横切っていく時雨の音を聞いて、一首詠まれました。

      住狎ぬ 板屋の軒の 村時雨 音を聞にも 袖はぬれけり
四、五日経った時、中宮から御琵琶が送られてきました。その中に歌が入っていました。読んでみると、

      思やれ 塵のみつもる 四の弦に 払ひもあへず かゝる泪を
天皇は返歌として

      涙ゆへ 半の月は陰るとも 共に見し夜の 影は忘れじ

十月八日、刑事事件担当の役人二人、高橋刑部左衛門と糟谷三郎宗秋が六波羅に来て、この度生け捕りにした人々を一人づつ、その身柄を大名に預けました。一宮中務卿尊良親王を佐々木判官時信に、妙法院二品尊澄親王は長井左近大夫将監高弘に、

源中納言具行は筑後前司貞知に、そして東南院僧正は常陸前司時朝に預けられました。また万里小路中納言藤原藤房と六条少将千種忠顕の二人は、天皇のお傍近くに仕えることの出来るよう、身柄は拘束しないで六波羅に留められました。

十月九日、三種の神器を持明院統の新帝、光厳天皇側にお渡ししました。堀河大納言具親と日野中納言資名の二人が神器を受け取り、六条殿の長講堂に運び込みました。その警備にあたったのは長井弾正蔵人、水谷兵衛蔵人と但馬民部大夫、

そして佐々木隠岐判官清高が勤めました。十月十三日、新帝、光厳天皇が即位され、長講堂より内裏にお入りになられました。お供の諸公卿は、花を折って行列を飾り立て、従う武士達は甲冑に身を固めて、非常事態に備えました。

今まで先帝、後醍醐に奉公していた人達は、罪の有る人、無い人共に、今後どんなつらい目に会うのだろうかと思い、何かあればわが身の無事を願って、気分も落ち込みます。反対に今上、光厳天皇にお仕えする人達は、忠義を尽してきた人や、

そうでない人共に、今後は繁栄を望めるだろうと、喜びに目を細め、耳にすることに喜びを感じていました。植物は陰を作るほど実をつける事もあれば、花の内に落ちて枝から別れたりします。人間でも困窮な時代も、やがて栄華に替わり、栄誉もまた恥辱の道に入ります。

今に始まった憂き世ではありませんが、この時ほど夢か幻なのか、訳の分からない時代はありませんでした。


○赤坂城軍事
遥々と東国より上りたる大勢共、未近江国へも入ざる前に、笠置の城已に落ければ、無念の事に思て、一人も京都へは不入。或は伊賀・伊勢の山を経、或は宇治・醍醐の道を要て、楠兵衛正成が楯篭たる赤坂の城へぞ向ひける。石河々原を打過、城の有様を見遣れば、俄に誘へたりと覚てはか/゛\しく堀をもほらず、僅に屏一重塗て、方一二町には過じと覚たる其内に、櫓二三十が程掻双べたり。是を見る人毎に、あな哀の敵の有様や、此城我等が片手に載て、投るとも投つべし。あはれせめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし、分捕高名して恩賞に預らんと、思はぬ者こそ無りけれ。されば寄手三十万騎の勢共、打寄ると均く、馬を蹈放々々、堀の中に飛入、櫓の下に立双で、我前に打入んとぞ諍ひける。正成は元来策を帷幄の中に運し、勝事を千里の外に決せんと、陳平・張良が肺肝の間より流出せるが如の者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭て、舎弟の七郎と、和田五郎正遠とに、三百余騎を差副て、よその山にぞ置たりける。寄手は是を思もよらず、心を一片に取て、只一揉に揉落さんと、同時に皆四方の切岸の下に着たりける処を、櫓の上、さまの陰より、指つめ引つめ、鏃を支て射ける間、時の程に死人手負千余人に及べり。東国の勢共案に相違して、「いや/\此城の為体、一日二日には落まじかりけるぞ、暫陣々を取て役所を構へ、手分をして合戦を致せ。」とて攻口を少し引退き、馬の鞍を下し、物の具を脱で、皆帷幕の中にぞ休居たりける。楠七郎・和田五郎、遥の山より直下して、時刻よしと思ければ、三百余騎を二手に分け、東西の山の木陰より、菊水の旗二流松の嵐に吹靡かせ、閑に馬を歩ませ、煙嵐を捲て押寄たり。東国の勢是を見て、敵か御方かとためらひ怪む処に、三百余騎の勢共、両方より時を咄と作て、雲霞の如くに靉ひたる三十万騎が中へ、魚鱗懸に懸入、東西南北へ破て通り、四方八面を切て廻るに、寄手の大勢あきれて陣を成かねたり。城中より三の木戸を同時に颯と排て、二百余騎鋒を双て打て出、手崎をまわして散々に射る。

☆ 赤坂城における軍のこと

遥々と東国から下ってきた討伐の大軍は、近江国に入る前に笠置の城が落ちたことを残念に思い、誰も京都には入りませんでした。そこで、ある軍勢は伊賀、伊勢の山を経由し、また他の軍勢は宇治、醍醐の道を通って、楠木兵衛正成が立て篭もっている、赤阪城に向かいました。

石川の河原を過ぎる頃、城の様子を見てみると、急遽、朝廷軍に味方する事となった為か、堀もそれ程深く掘ってなく、わずかに一重の塀が造られているだけで、二町四方ほどに過ぎない敷地に、櫓が二、三十棟ほど並んでいるだけでした。

この様子を見て人々は、敵の城とは言え、あまりにも貧弱な防御施設ではないか。これぐらいの城なら、我が軍は片手で放り投げる事も出来そうだ。かわいそうだが、どんなに頑張っても、楠木は一日も保ち得ないだろう。ここは思う存分攻め込んで戦利品を奪い、

手柄を挙げて恩賞を貰おうじゃないかと、考えない者はいませんでした。そこで、攻城軍の三十万余騎は一斉に攻めかかると、馬から降りて堀に飛び込んで、櫓の下まで進むと、我先に討ち入ろうと争う始末でした。楠木正成は元来が作戦は陣中で練り上げて、

勝負は陣外で決しようと考える武将であり、その意味、古代中国の漢王朝における軍師、陳平と張良の肺臓と肝臓の間から生まれたような男です。そこで人並み以上に技量を極めたと思える射手、二百余人を城内に待機させ、

また弟の楠木七郎正季と和田五郎正遠に三百余騎を授けて、近くの他の山に配置しておきました。寄せ手軍はこのことを全く知らず、ただ一気に目の前の城を攻め落としてやろうと考え、同時に四方から切り立った城壁に取り付いたところを、

櫓の上や狭間の陰から続けさまに、狙い違わず矢を射込んできたため、瞬く間に死者、負傷者が千余人にもなりました。東国の軍勢もこの思いがけない展開に、「ちょっと問題が多い。今この城を攻めてみて、あの惨憺たる結果を見れば、

一日、二日ではとても落とす事は出来ない。ここは各々陣を構え、作戦本部も設置し、各武将らが作戦を分担して攻撃をしよう」と、決定しました。そして攻撃軍の前線も少し下げ、馬から鞍もおろし鎧兜も脱いで、皆陣営の幕内に入り休憩しました。

楠木七郎正季と和田五郎正遠は遥か遠くの山から下ってくると、よし、時は今だと思い、三百余騎を二手に分けると、東西の山の木陰から現れました。菊水の紋入りの旗を二旒、松林を吹き抜ける風になびかせ、歩む馬に山の靄を巻き上げさせて、

静かに押し寄せて来ました。東国の軍勢らはこれを見て、果たして敵なのかそれとも味方なのか、分かりかねていると、二手になった三百余騎の武者たちは、両側から閧の声をドッと挙げるや、雲霞のように群がっている三十万余騎の中に、

中央部を進出させた魚鱗の隊形を組んで駈け入り、東西南北縦横に駆け抜け、また四方八方に斬り回ったため、寄せ手の東国勢は唖然とし、軍として機能する事も出来ませんでした。その時、城内で待機していた二百余騎が、三つの木戸を同時にサッと開き、

切っ先を揃えてなだれ出て来ると、速射に速射を続けて射込んできました。


寄手さしもの大勢なれども僅の敵に驚騒で、或は維げる馬に乗てあをれども進まず。或は弛せる弓に矢をはげて射んとすれども不被射。物具一領に二三人取付、「我がよ人のよ。」と引遇ける其間に、主被打ども従者は不知、親被打共子も不助、蜘の子を散すが如く、石川々原へ引退く。其道五十町が間、馬・物具を捨たる事足の踏所もなかりければ、東条一郡の者共は、俄に徳付てぞ見たりける。指もの東国勢思の外にし損じて、初度の合戦に負ければ、楠が武畧侮りにくしとや思けん。吐田・楢原辺に各打寄たれども、軈て又推寄んとは不擬。此に暫引へて、畿内の案内者を先に立て、後攻のなき様に山を苅廻、家を焼払て、心易く城を責べきなんど評定ありけるを、本間・渋谷の者共の中に、親被打子被討たる者多かりければ、「命生ては何かせん、よしや我等が勢許なりとも、馳向て打死せん。」と、憤りける間、諸人皆是に被励て、我も我もと馳向けり。

寄せ手の攻撃軍はこれほどの大軍であるのに、僅かな敵の攻撃に驚き騒ぎ、ある者は繋いだ馬に飛び乗ったため、鞭を入れても動かず、またある者は弦を外した弓で、矢を射ようとしたりする有様です。また一領の鎧兜を二、三人が取り合って、

「俺のだ、いやワシのだ」と、引っ張り合っている内に、主人が討たれても家来は気が付かず、親が討たれても子供は助けようともせず、蜘蛛の子を散らすように、石川の河原に退却しました。その途中、五十町ばかりの道路には、

馬や鎧兜などが捨てられて、足の踏み場も無く、周辺の東条郡の住人たちは突然、思いがけない褒美にありついたのです。あれほどの東国勢でありながら、思いがけない失敗を犯し、初戦にこの敗北を喫した以上、楠木の戦術、戦略について十分研究しなければと思いました。

関東の軍勢は吐田、楢原のあたりに陣を構えましたが、やがてまた押し寄せるのは間違いありません。しばらくここに滞陣し、地理に明るい畿内の者の意見を参考に、後方からの攻撃を受けないように山の樹木などを切り取ったり、また家屋なども焼き払い、

安心して城攻め出来るようにしては、との話もありました。しかし、本間や渋谷の軍勢らの中には、親や子供らが討ち取られた者も多く、「ここで命ばかり永らえても、仕方ない。こうなりゃ我らの勢だけでも駆け向かって、討ち死にしようじゃないか」と、憤慨したため、

他の者たちもこの意見に刺激され、我も我もと攻撃に移りました。


彼赤坂の城と申は、東一方こそ山田の畔重々に高して、少し難所の様なれ、三方は皆平地に続きたるを、堀一重に屏一重塗たれば、如何なる鬼神が篭りたり共、何程の事か可有と寄手皆是を侮り、又寄ると均く、堀の中、切岸の下まで攻付て、逆木を引のけて打て入んとしけれども、城中には音もせず、是は如何様昨日の如く、手負を多く射出て漂ふ処へ、後攻の勢を出して、揉合せんずるよと心得て、寄手十万余騎を分て、後の山へ指向て、残る二十万騎稲麻竹葦の如く城を取巻てぞ責たりける。卦けれども城の中よりは、矢の一筋をも不射出更人有とも見へざりければ、寄手弥気に乗て、四方の屏に手を懸、同時に上越んとしける処を、本より屏を二重に塗て、外の屏をば切て落す様に拵たりければ、城の中より、四方の屏の鈎縄を一度に切て落したりける間、屏に取付たる寄手千余人、厭に被打たる様にて、目許はたらく処を、大木・大石を抛懸々々打ける間、寄手又今日の軍にも七百余人被討けり。東国の勢共、両日の合戦に手ごりをして、今は城を攻んとする者一人もなし。只其近辺に陣々を取て、遠攻にこそしたりけれ。四五日が程は加様にて有けるが、余に暗然として守り居たるも云甲斐なし。方四町にだに足ぬ平城に、敵四五百人篭たるを、東八箇国の勢共が責かねて、遠責したる事の浅猿さよなんど、後までも人に被笑事こそ口惜けれ。

この赤坂城というのは、東側の一方だけは山田が重なり合ってその畔が高く、少しばかり難所には見えますが、他の三方は皆平地であり、堀や塀をただ一重だけで守っていますから、どんな鬼神が篭っていると言えども、問題なかろうと皆が軽く考えていました。

だから攻撃を再開して、城に近づくと全員が堀の中や、切り立った城壁の下まで攻め込み、埋めてある逆茂木を引き抜いて討ち入ろうとしましたが、城内からは物音一つしません。これはきっと昨日のように、矢を射込んで負傷者が多く出れば、

後方より軍勢を向けて乱戦に持ち込む気だなと思いました。そこで寄せ手軍の内、十万余騎を後方の山に向かわせ、残る二十万余騎が群生する植物みたいに城を取り巻いて、攻めました。ところが相変わらず城からは、矢の一筋さえ射てくることもなく、

また人がいるようにも見えないので、寄せ手軍の者たちは、だんだんと気がはやりだし、四方の塀に手を掛け、皆で乗り越えようとしました。しかしこの塀は二重に造ってあり、外側の塀は切り落とせるようになっていました。そこで城の中より、

塀を支えていた鉤付きの縄を、一度に切り落としたので、塀に取り付いていた寄せ手軍の千余人、いやと言うほど地面にうちつけられ、目だけが動かせる状態の時、上から大木、大石を投げつけ、投げかけられて、寄せ手の軍勢は今日の戦闘においても、

七百余人が討ち取られたのでした。東国の軍勢らはこの二日の戦闘にこりごりし、今は誰も城を攻めようとはしません。ただ城の周辺に陣を構えて、遠巻きにしているだけです。四、五日はこのような状態で過ぎていきましたが、なすすべも無く守っているのも情けない話です。

四町四方にも満たぬ平城に、四、五百人の敵が篭っているのを、東国八カ国の軍勢が攻めることも出来ずに、ただ遠巻きに囲んでいるなんて、見苦しく情けない話だと、後々まで人に笑われるのも悔しい限りです。


前々は早りのまゝ楯をも不衝、責具足をも支度せで責ればこそ、そゞろに人をば損じつれ。今度は質てを替て可責とて、面々に持楯をはがせ、其面にいため皮を当て、輒く被打破ぬ様に拵て、かづきつれてぞ責たりける。切岸の高さ堀の深さ幾程もなければ、走懸て屏に着ん事は、最安く覚けれ共、是も又釣屏にてやあらんと危みて無左右屏には不着、皆堀の中にをり漬て、熊手を懸て屏を引ける間、既に被引破ぬべう見へける処に、城の内より柄の一二丈長き杓に、熱湯の湧翻りたるを酌で懸たりける間、甲の天返綿噛のはづれより、熱湯身に徹て焼爛ければ、寄手こらへかねて、楯も熊手も打捨て、ばつと引ける見苦しさ、矢庭に死るまでこそ無れども、或は手足を被焼て立も不揚、或は五体を損じて病み臥す者、二三百人に及べり。寄手質を替て責れば、城の中工を替て防ぎける間、今は兔も角も可為様なくして、只食責にすべしとぞ被議ける。かゝりし後は混ら軍をやめて、己が陣々に櫓をかき、逆木を引て遠攻にこそしたりけれ。是にこそ中々城中の兵は、慰方もなく機も疲れぬる心地しけれ。

以前は功を急ぐあまり、楯を持つ事もせず、また攻城用の武具なども用意せずに攻撃を行なったため、無駄に人を失うことになった。今度は攻撃方法を変え、それぞれ兵士が持っている楯の表面をはがし、新しくその面にいため皮、

つまり膠に浸してから叩き固めた皮を貼り付け、そう簡単には破れぬように作り、それを頭上にかざして攻めました。城壁の高さも、堀の深さも、それほどではないので、走り込んで塀に取り付くことが最も簡単には思えますが、またもや釣塀では無いかと怪しみ、

ここは塀には取り付かず、皆で堀の中から熊手でもって塀を引っ張りました。もう少しで引き倒せると思った時、城の中から柄の長さが一、二丈もあるかと思える柄杓で、沸騰した熱湯をかけられたのです。熱湯は兜のてっぺんの穴や、鎧の両肩の隙間から中に入り、

肌を焼け爛れさせました。これには寄せ手も辛抱できず、楯も熊手もほっぱり捨てて逃げる有様も、見苦しい限りです。すぐ死ぬ程の負傷ではありませんが、ある者は手足に火傷を負って立つことも出来なくなり、また全身に火傷を負って、

病の床に伏したりする者が、二、三百人ほどになりました。寄せ手が戦術を変えて攻めれば、籠城軍も防御方法を変えて守るということが続き、今はどうする事も出来ず、今後は兵糧攻めをすることに決まりました。このように決まってからは無駄な戦闘はせず、

各自が陣営に櫓を築き、逆茂木を造って遠巻きに攻めることにしました。このため籠城中の兵士達は、心を休めるすべも無いので、だんだんと精神的に疲れて来ました。


楠此城を構へたる事暫時の事なりければ、はか/゛\しく兵粮なんど用意もせざれば、合戦始て城を被囲たる事、僅に二十日余りに、城中兵粮尽て、今四五日の食を残せり。懸ければ、正成諸卒に向て云けるは、「此間数箇度の合戦に打勝て、敵を亡す事数を不知といへども、敵大勢なれば敢て物の数ともせず、城中既食尽て助の兵なし。元来天下の士卒に先立て、草創の功を志とする上は、節に当り義に臨では、命を可惜に非ず。雖然事に臨で恐れ、謀を好で成すは勇士のする所也。されば暫此城を落て、正成自害したる体を敵に知せんと思ふ也。其故は正成自害したりと見及ばゞ、東国勢定て悦を成て可下向。下らば正成打て出、又上らば深山に引入、四五度が程東国勢を悩したらんに、などか退屈せざらん。是身を全して敵を亡す計畧也。面々如何計ひ給。」と云ければ、諸人皆、「可然。」とぞ同じける。「さらば。」とて城中に大なる穴を二丈許掘て、此間堀の中に多く討れて臥たる死人を二三十人穴の中に取入て、其上に炭・薪を積で雨風の吹洒ぐ夜をぞ待たりける。正成が運や天命に叶けん、吹風俄に沙を挙て降雨更に篠を衝が如し。夜色窈溟として氈城皆帷幕を低る。是ぞ待所の夜なりければ、城中に人を一人残し留て、「我等落延ん事四五町にも成ぬらんと思はんずる時、城に火を懸よ。」と云置て、皆物の具を脱ぎ、寄手に紛て五人三人別々になり、敵の役所の前軍勢の枕の上を越て閑々と落けり。正成長崎が厩の前を通りける時、敵是を見つけて、「何者なれば御役所の前を、案内も申さで忍やかに通るぞ。」と咎めれけば、正成、「是は大将の御内の者にて候が、道を踏違へて候ひける。」と云捨て、足早にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪き者なれ、如何様馬盜人と覚るぞ。只射殺せ。」とて、近々と走寄て真直中をぞ射たりける。其矢正成が臂の懸りに答て、したゝかに立ぬと覚へけるが、す膚なる身に少も不立して、筈を返して飛翻る。後に其矢の痕を見れば、正成が年来信じて奉読観音経を入たりける膚の守に矢当て、一心称名の二句の偈に、矢崎留りけるこそ不思議なれ。正成必死の鏃に死を遁れ、二十余町落延て跡を顧ければ、約束に不違、早城の役所共に火を懸たり。寄手の軍勢火に驚て、「すはや城は落けるぞ。」とて勝時を作て、「あますな漏すな。」と騒動す。焼静まりて後城中をみれば、大なる穴の中に炭を積で、焼死たる死骸多し。皆是を見て、「あな哀や、正成はや自害をしてけり。敵ながらも弓矢取て尋常に死たる者哉。」と誉ぬ人こそ無りけれ。

楠木正成はこの城を短時間で構築したため、それほど大量の兵糧なども用意出来ていなくて、合戦が始まり城を取り囲まれて僅か二十日ほどで、城内の兵糧が尽きてしまい、現在は残すところ四、五日分になってしまいました。

こうゆう訳で楠木正成は諸将に向かって、「今まで数度の合戦に勝利し、敵を殺害すること、その数も分からないほどであるが、敵は大軍であり、それくらいのことでは大した損害とも感じていないようだ。しかし今すでに、我ら城内の兵糧は尽きようとしており、

その上援軍も望めないのが事実である。もともと天下の武将らに先立って、後醍醐天皇をお助けすると決め、その功績を得ようとするならば、時勢が望んだり、また忠義に殉じるべき時は、命を惜しむものではない。とは言っても、事態によっては恐れを感じて、

解決を図るべく策略を練るのもまた、勇者のすることでもある。そこでしばらくはこの城を逃げ落ち、正成は自害したと、敵に知らせてやろうと思う。と言うのは、もし正成が自害したと確認出来れば、東国の軍勢はきっと喜んで、関東に下って行くだろう。

関東に下って行くならば、この正成は攻撃に移り、都に上る気なら、もっと山深く誘い込み、四、五回は東国軍と戦って困らせてやろうじゃないか。だったら退屈しているひまなど無いだろう。これは我らの命は全うしながら、敵を滅ぼすための謀略でもある。

皆の者、どう思うか」と、話しかけました。聞いていた諸将全員が、「そうだ、そうしよう」と、同意しました。「では始めよう」と、城内大きな穴を二丈ばかりの深さに掘り、これまでの合戦で戦死したままになっている遺体を、堀の中に二、三十人ほどを埋めて、

その上から炭や薪を積み上げ、雨まじりの風が吹き付ける夜を待ちました。楠木正成の持つ運の強さ故か、それとも天の神に思いが通じたのか、それまで吹いていた風が、急に砂を巻き上げ激しい雨になりました。小雨が降って暗く静かな城内では、陣幕を引き下ろしました。

これこそ待ち望んだ夜であり、城内には一人だけを残して、「我々はこれからこの城を落ち延びて行くが、もう四、五町ほどは逃げたと思われる頃を見計らって、城に火をかける様に」と、言い残して、全員武具を脱ぐと、寄せ手の兵士に紛れ五人また三人と別々になって、

敵軍の詰所の前で眠っている軍勢の枕をまたぐようにして、静かに落ちて行きました。楠木正成が幕府軍の侍大将、長崎四郎左衛門尉高貞の厩の前を通過する時、敵の兵士に見つかり、「何者だ、詰所の前を了解も得ずにそっと通っていくとは」と、咎められ正成は、

「私は大将の身内の者だが、道を間違えたのだ」と、言い捨てると、足早にその場を去ろうとしました。咎めた兵士は、「ますます怪しい奴だ。こやつ、馬泥棒じゃないのか。射殺してしまえ」と、近くに走り寄ってくると真正面から射たのです。

その矢は正成の腕に命中し、思い切り突き刺さると思えましたが、素肌にもかかわらず突き刺さることもなく、その矢ははね返ったのでした。あとでその矢の痕跡を調べてみると、正成が長年信仰し、読誦を続けてきた観音経が入ったお守り、

肌身離さず持っていたものですが、そのお守りに矢があたって、観音経の一心称名と書かれた二句の偈に、矢の先が刺さったままに残っているという、奇跡があったのです。正成は命を落としても止むを得ない矢を受けながらも助かり、

二十余町を逃げ延びて後ろを振り返って見れば、約束どおり城の各所にある建物に火がかけられ、燃え盛っていました。寄せ手の幕府軍はこの火の手に驚き、「もはや、城は落ちたのか」と、勝鬨を挙げ、「一人残さず討ち取ってしまえ」と、大騒ぎになりました。

やがて火災がおさまってから、城内を点検してみたところ、大きな穴には炭が積み上げられ、焼け死んだ遺体が数多く発見されました。皆はこの状況を見て、「あぁ、可哀想に、正成はすでに自害を果たしたのか。敵ながら弓矢取る者としては、

天晴れな死に方ではある」と、褒め称えない人はいませんでした。


○桜山自害事
去程に桜山四郎入道は、備後国半国許打順へて、備中へや越まし、安芸をや退治せましと案じける処に、笠置城も落させ給ひ、楠も自害したりと聞へければ、一旦の付勢は皆落失ぬ。今は身を離ぬ一族、年来の若党二十余人ぞ残りける。此比こそあれ、其昔は武家権を執て、四海九州の内尺地も不残ければ、親き者も隠し得ず、疎はまして不被憑、人手に懸りて尸を曝さんよりはとて、当国の一宮へ参り、八歳に成ける最愛の子と、二十七に成ける年来の女房とを刺殺て、社壇に火をかけ、己が身も腹掻切て、一族若党二十三人皆灰燼と成て失にけり。抑所こそ多かるに、態社壇に火を懸焼死ける桜山が所存を如何にと尋るに、此入道当社に首を傾て、年久かりけるが、社頭の余りに破損したる事を歎て、造営し奉らんと云大願を発しけるが、事大営なれば、志のみ有て力なし。今度の謀叛に与力しけるも、専此大願を遂んが為なりけり。されども神非礼を享給はざりけるにや、所願空して打死せんとしけるが、我等此社を焼払たらば、公家武家共に止む事を不得して如何様造営の沙汰可有。其身は縦ひ奈落の底に堕在すとも、此願をだに成就しなば悲むべきに非ずと、勇猛の心を発て、社頭にては焼死にける也。倩垂迹和光の悲願を思へば、順逆の二縁、何れも済度利生の方便なれば、今生の逆罪を翻して当来の値遇とや成らんと、是もたのみは不浅ぞ覚へける。

☆ 桜山が自害したこと

またその頃、備後国で幕府に叛旗を翻した桜山四郎入道は、備後国半国ほどを支配下に入れ、備中に進軍し安芸国も傘下に入れようと考えていたところ、笠置城も落ちてしまい、楠木正成も自害したと聞こえてきたので、彼に一度は従った軍勢は皆、どこかに逃げてしまいました。

今現在、桜山には、ここ数年仕えてきた若者ら、二十余人が残っているだけです。この頃ではさほどではありませんが、その昔鎌倉幕府は絶大なる権力を持ち、日本国中九州に至るまで、幕府の支配が及ばないところは寸土も無く、今のこの状態では、

親しい人でも我らを匿うことは出来ないし、まして疎遠な人を頼ることなど、とても出来ない。他人の手に掛かって死骸をさらす位ならと、備後国の一宮、吉備津神社に行き、八歳になる最愛の我が子と、長年連れ添った二十七歳になる女房を刺殺し、

社殿に火を掛けたあと腹掻き切り、一族若武者ら二十三人全員一緒になって、焼死したのでした。それにしても自害をする場所はいくらでもあるのに、わざわざ社殿に火を掛け焼死することを、桜山四郎入道は何故選んだのでしょうか。その訳は、

この桜山入道は長年にわたり、吉備津神社への信仰が厚いのですが、社殿などの破損がひどい事を嘆き、何とか再建しようと大きな願望を抱いたものの、余りにも大それた願望であり、気持ちだけはあっても、それだけの資力などありませんでした。

今回、後醍醐天皇の謀反に味方したのも、ひとえにこの大願を実現させようと思ったからです。しかし、神は不法な要求は受け付けないからか、桜山の願望はかなえられず、討ち死にしてしまいましたが、彼にしてみれば、ここで社殿を焼き尽くしてしまうと、

公家や幕府もやむを得ず何とか再建出来るよう、取り計らうでしょう。こう考えれば、たとえ我が身は地獄の底に沈んだとしても、この大願が成就出来れば、悲しむことではなかろうと、勇気を出して社前にて焼死を遂げたのでしょう。仏や菩薩がこの世に姿を現し、

衆生を救済しようとする願いを良く考えると、仏の教えに従順であろうが、なかろうが、それは単に衆生を救済するための手段に過ぎないので、この世において重い罪を犯しても、来世には仏縁を結べるであろうと、思い願っての行為だと思われます。     (終)

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