4 太平記 巻第四 (その一)


○笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事
笠置城被攻落刻、被召捕給し人々の事、去年は歳末の計会に依て、暫く被閣ぬ。新玉の年立回れば、公家の朝拝武家の沙汰始りて後、東使工藤次郎左衛門尉・二階堂信濃入道行珍二人上洛して、可行死罪人々、可処流刑国々、関東評定の趣、六波羅にして被定。山門・南都の諸門跡、月卿・雲客・諸衛の司等に至迄、依罪軽重、禁獄流罪に処すれ共、足助次郎重範をば六条河原に引出し、首を可刎と被定。万里小路大納言宣房卿は、子息藤房・季房二人の罪科に依て、武家に被召捕、是も如召人にてぞ座しける。齢已に七旬に傾て、万乗の聖主は遠嶋に被遷させ給ふべしと聞ゆ。二人の賢息は、死罪にぞ行はれんずらんと覚へて、我身さへ又楚の囚人と成給へば、只今まで命存て、浩る憂事をのみ見聞事の悲しければと、一方ならぬ思ひに、一首の歌をぞ被詠ける。

長かれと何思ひけん世中の憂を見するは命なりけり
罪科有もあらざるも、先朝拝趨の月卿・雲客、或は被停出仕、尋桃源迹、或被解官職、懐首陽愁、運の通塞、時の否泰、為夢為幻、時遷り事去て哀楽互に相替る。憂を習の世の中に、楽んでも何かせん、歎ても由無るべし。

☆ 笠置の落城後、捕らえられた人々が死罪や流刑に処せられたことと、藤房卿のこと

笠置城が攻め落とされた時に捕われた人々の処置について、昨年は年末の慌しさに紛れて、しばらくそのままになっていました。新年(元弘二年::1332年)を迎えてから公家たちの朝廷への拝賀式や、鎌倉幕府の儀式なども始まりました。

その後、幕府の使者として、工藤次郎左衛門尉と二階堂信濃入道行珍の二人が上洛して来ると、死罪に処すべき人々の名前や、流刑に処する人達の配流先の国名など、鎌倉幕府にて決定した内容が六波羅に伝えられました。

延暦寺や南都諸寺院の諸門跡から、公卿、諸卿及び高級官僚に至るまで、罪の軽重に応じて禁獄また流罪に処されました。足助次郎重範は六条河原に引き出して、斬首刑に処することが決まりました。万里小路大納言宣房卿は子息の藤房、季房二人の罪に連座し、

幕府に召し捕られました。宣房も年齢はすでに七十を過ぎ、その上後醍醐天皇が遠島に処されるのではと、聞こえてきます。自慢の二人の息子達も、死罪になるかもしれないし、自分もまた辛い囚人の身の上となり、この年まで生きて来て、これほど辛いことを見たり聞いたりし、

あまりの悲しさに思いを込めて、一首の歌を詠みました。
      長かれと 何思ひけん 世中の 憂を見するは 命なりけり

謀反の罪を問われたか、問われなかったかにかかわらず、後醍醐天皇の下に伺候していた公卿や諸郷らは、ある者は新朝廷への出仕を止められて、俗世間から離れた境遇に身を置き、またある人は官職を解かれ、その日の食事にも困り、

周国の武王を諌めて伯夷、叔斉が餓死したと言われている、首陽山の苦しみが思われる始末です。運がついているのか、運に見放されたのか、それとも不運の後には、幸運がめぐってくるという、単に時間だけの問題なのか、どこまでが夢であり、どこまでが幻なのでしょうか。

時が移り事態も変わって行けば、苦楽は交互に入れ替わるものです。辛く悲しい事の多いのが当たり前の世の中で、一時の楽しみを得られたところで、それがどうしたと言うのでしょうか。嘆いてみても仕方の無い事です。


源中納言具行卿をば、佐々木佐渡判官入道道誉、路次を警固仕て鎌倉へ下し奉る。道にて可被失由、兼て告申人や有けん、会坂の関を越給ふとて、
帰るべき時しなければ是や此行を限りの会坂の関
勢多の橋を渡るとて、
けふのみと思我身の夢の世を渡る物かはせたの長橋
此卿をば道にて可奉失と、兼て定し事なれば、近江の柏原にて切奉るべき由、探使襲来していらでければ、道誉、中納言殿の御前に参り、「何なる先世の宿習によりてか、多の人の中に入道預進せて、今更加様に申候へば、且は情を不知に相似て候へ共、卦る身には無力次第にて候。今までは随分天下の赦を待て、日数を過し候つれ共、関東より可失進由、堅く被仰候へば、何事も先世のなす所と、思召慰ませ給候へ。」と申もあへず袖を顔に押当しかば、中納言殿も不覚の泪すゝみけるを、推拭はせ給ひて、「誠に其事に候。此間の儀をば後世までも難忘こそ候へ。命の際の事は、万乗の君既に外土遠嶋に御遷幸の由聞へ候上は、其以下の事どもは、中々不及力。殊更此程の情の色、誠存命すとも難謝こそ候へ。」と計にて、其後は言をも被仰ず、硯と紙とを取寄て、御文細々とあそばして、「便に付て相知れる方へ、遣て給はれ。」とぞ被仰ける。角て日已に暮ければ、御輿指寄て乗せ奉り、海道より西なる山際に、松の一村ある下に、御輿を舁居たれば、敷皮の上に居直せ給ひて、又硯を取寄せ、閑々と辞世の頌をぞ被書ける。
逍遥生死。四十二年。山河一革。天地洞然。
六月十九日某と書て、筆を抛て手を叉、座をなをし給ふとぞ見へし。田児六郎左衛門尉、後へ廻るかと思へば、御首は前にぞ落にける。哀と云も疎なり。入道泣々其遺骸を煙となし、様々の作善を致してぞ菩提を奉祈ける。糸惜哉、此卿は先帝帥宮と申奉りし比より近侍して、朝夕拝礼不怠、昼夜の勤厚異于他。されば次第に昇進も不滞、君の恩寵も深かりき。今かく失給ぬと叡聞に達せば、いかばかり哀にも思食れんずらんと覚へたり。

また源中納言具行卿は、佐々木佐渡判官入道道誉が途中の警固を命じられて、鎌倉に護送されました。途中にて斬首刑を執行するらしいと、具行卿に知らせた者がいたのか、逢坂の関を越える時に歌を一首、

      帰るべき 時しなければ 是や此 行を限りの 会坂の関
瀬田の橋を渡る時には、

      けふのみと 思我身の 夢の世を 渡る物かは せたの長橋

源中納言具行卿を途中にて殺害するようにと、前もって決まっている事ですが、近江の柏原において処刑を実施するよう、鎌倉より使者が告げて来ました。道誉は中納言殿の御前に行き、「前世にどのような因縁があったのか、多くの人がいる中で、

この私が貴殿を預かりながら、今更このような事を話せば、あるいは情け知らずのように、思われるかも知れませんが、今の私にはどうする事も出来ません。幕府からのお許しが無いかと待ち望み、今日まで日を過ごしてきましたが、

関東の幕府より、処刑を実行せよと強く命令を受けました。こうなれば何事も前世から決まっていたことだと、お考えになり、お覚悟のほどをお願いします」と、言い終わらぬ内に、袖を顔に押し当てました。また中納言殿も思わず涙があふれてくるのを拭われ、

「本当にその通りです。今までのご親切な扱い、死んでからも決して忘れるものではありません。処刑のことについては、先の後醍醐天皇もすでに遠島の処置になられたとお聞きし、ならば、我々臣下が処刑されることも止むを得ないでしょう。

今までのご厚情には、死後といえども感謝します」と、話すとその後は一言もおっしゃることなく、硯と紙を所望され、お手紙をこまごまとお書きになられ、「何かついでの時にでも、親しいあの人に届けてください」と、おっしゃられました。

やがて日も暮れた頃、御輿を用意し中納言をお乗せして、街道の西方にある山の麓で、松が群がり生えている所まで行き、御輿を降ろすと、敷き皮の上にお座りになって頂きました。彼は再び硯を持ってこさせ、静かに辞世の詩を書かれました。

      逍遥生死 四十二年 山河一革 天地洞然

日付、署名として、六月十九日、某と書き、筆を投げ捨てると手を交差させ、座り直されたように見えました。田児六郎左衛門尉が彼の後ろに回ったように見えた時、御首は前に落ちたのでした。哀れという言葉では言い尽くせないことです。

道誉入道は泣きながら遺骸を荼毘に付してから、色々と法要を営み菩提を弔いました。辛く悲しい事ですが、この中納言殿は、先帝後醍醐天皇がまだ帥宮(そちのみや)と呼ばれていた頃からお傍にお仕えし、朝夕のご機嫌伺いを休むこともなく、

また昼夜を問わず他人に劣ることなく、仕事に励みました。そのため昇進も順調に進み、天皇には可愛がられその恩恵も大きなものでした。今このように亡くなったことを、天皇がお聞きになれば、どれほど嘆かれ悲しまれる事かと思われます。


同二十一日殿法印良忠をば大炊御門油小路の篝、小串五郎兵衛秀信召捕て六波羅へ出したりしかば、越後守仲時、斉藤十郎兵衛を使にて被申けるは、「此比一天の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛を、御身なんど思立給はん事、且は無止、且は楚忽にこそ覚て候へ。先帝奪ひ進せん為に、当所の絵図なんどまで持廻られ候ける条、武敵の至り重科無双、隠謀の企罪責有余。計の次第一々に被述候へ。具に関東へ可注進。」とぞ宣ける。法印返事せられけるは、「普天の下無非王土、率土人無非王民。誰か先帝の宸襟を歎き奉らざらん。人たる者是を喜べきや。叡慮に代て玉体を奪奉らんと企事、なじかは可無止。為誅無道、隠謀を企事更に非楚忽儀。始より叡慮の趣を存知、笠置の皇居へ参内せし条無子細。而るを白地に出京の蹤に、城郭無固、官軍敗北の間、無力本意を失へり。其間に具行卿相談して、綸旨を申下、諸国の兵に賦し条勿論なり。有程の事は此等なり。」とぞ返答せられける。依之六波羅の評定様々なりけるを、二階堂信濃入道進で申けるは、「彼罪責勿論の上は、無是非可被誅けれども、与党の人なんど尚尋沙汰有て重て関東へ可被申かとこそ存候へ。」と申ければ、長井右馬助、「此義尤可然候。是程の大事をば関東へ被申てこそ。」と申ければ、面々の意見一同せしかば、法印をば五条京極の篝、加賀前司に預られて禁篭し、重て関東へぞ被注進ける。平宰相成輔をば、河越参河入道円重具足し奉て、是も鎌倉へと聞へしが、鎌倉迄も下し着奉らで相摸の早河尻にて奉失。侍従中納言公明卿・別当実世卿二人をば、赦免の由にて有しかども、猶も心ゆるしや無りけん、波多野上野介宣通・佐々木三郎左衛門尉に被預て、猶も本の宿所へは不帰給。

元弘二年(1332年)六月二十一日、殿法院良忠(とののほういんりょうちゅう)を大炊御門及び油小路周辺の警備担当、小串五郎兵衛秀信が身柄を拘束し、六波羅の役所に連行しました。六波羅探題北方の越後守北条仲時は斉藤十郎兵衛を通じて、

「今の時代、天皇でさえ実現出来ない幕府転覆を、貴殿のような者が思い立つとは、ある意味とんでもない事であり、また軽はずみなことと考えるがよい。その上先帝、後醍醐天皇を奪い返そうと、六波羅の敷地絵図などを持ち歩くなんて、

幕府に対する敵対行為としての罪は、例の無いほど重いものであり、陰謀を企てた罪と共に、その責めは厳罰に値する。計画の一部始終を自白するように。詳しく関東の幕府に報告しよう」と、話しました。殿法印はそれに対して、

「この天下に天皇の支配が及ばない土地は無く、国土の続く限り、天皇が支配しない国民などいないのだ。先帝のお胸の内を考えて嘆かない人など、誰がいると言うのだ。人間としてこの状態を放置しておいて良いのか。

天皇のお考えに沿って、御身を奪い返そうと企てたことが、どうして無謀なことなのだ。人倫に外れた行いに対して、誅罰を加えようと密かに計画した事が、何故軽はずみと言えるのだ。当初から天皇の胸を内を知って、笠置の御所に参内し討幕軍に味方したのは、

当然の事であり特に意味などない。しかし、あわただしく京都を逃れ出てからは、城郭を防御陣地として構築する暇も無く、官軍は敗北を喫し、当初の目的を達成する事が出来なかったことも、止むを得ない。しかし、その間に具行卿とも相談し、

天皇より倒幕の綸旨(命令書)を発行してもらい、諸国の武将に当然の如く手渡した。申し述べるのはこれ位である」と、返答しました。この発言などがあって六波羅の会議は紛糾しましたが、二階堂信濃入道が進み出て、「彼の罪に対して死罪に処するのは当然だが、

彼に味方した人物などをもっと捜索し、尋問を加え取り調べてから、関東の幕府に報告するのが良いかと思うが」と、話しました。長井右馬助は、「そのご意見はご尤で、そうすべきかと思います。これほど重要な件は、関東の指図を待つべきでしょう」と、申し上げ、

その他の人々の意見も一致を見ました。そこで殿法印良忠を五条京極の警備担当、加賀前司に預けて屋内に閉じ込め、その後、関東に使者を送り報告をしました。平宰相成輔を河越三河入道円重が率いて、鎌倉に護送すると言われていましたが、

結局鎌倉までは行かず、相模国の早川(小田原市)の河口にて処刑されました。侍従中納言公明卿と別当実世卿の二人は無罪の方針となりましたが、やはり完全に許されたわけではないので、波多野上野介宣通と佐々木三郎左衛門尉に身柄が預けられ、まだ自宅へ戻ることは許されまていません。


尹大納言師賢卿をば下総国へ流して、千葉介に被預。此人志学の年の昔より、和漢の才を事として、栄辱の中に心を止め不給しかば、今遠流の刑に逢へる事、露計も心に懸て思はれず。盛唐詩人杜少陵、天宝の末の乱に逢て、「路経■■双蓬鬢、天落滄浪一釣舟」と天涯の恨を吟じ尽し、吾朝の歌仙小野篁は隠岐国へ被流て、「海原八十嶋かけて漕出ぬ」と釣する海士に言伝て、旅泊の思を詠ぜらる。是皆時の難易を知て可歎を不歎、運の窮達を見て有悲を不悲。況乎「主憂る則臣辱る。主辱るゝ則臣死」といへり。縦骨を醢にせられ、身を車ざきにせらる共、可傷道に非ずとて、少しも不悲給。只依時触興に、諷詠等閑に日を渡る。今は憂世の望絶ぬれば、有出家志由頻に被申けるを、相摸入道子細候はじと被許ければ、年未満強仕、翠の髪を剃落し、桑門人と成給しが、無幾程元弘の乱出来し始俄に病に被侵、円寂し給ひけるとかや。東宮大進季房をば常陸国へ流して、長沼駿河守に預けらる。中納言藤房をば同国に流して、小田民部大輔にぞ被預ける。左遷遠流の悲は何れも劣らぬ涙なれども、殊に此卿の心中推量るも猶哀也。

尹大納言藤原師賢卿は下総国に流刑となり、身柄は千葉介貞胤に預けられました。この人は志学の年齢と言われる十五歳の頃から、我が国と中国の学問を研究する事を志し、俗世間の立身出世などに心を動かす事もなかったので、

このたび、流刑に処されると決まっても、別に何事もないように振舞われていました。唐朝の最盛期の詩人、杜少陵(杜甫)が天宝末期の乱(安禄山の乱)に関連して処分を受け、「路経エンヨウ双蓬鬢 天落滄浪一釣舟」と、異郷に左遷された恨みや嘆きを詠み、

我が国一級の詩人、小野篁は朝廷批判の詩を詠んだため隠岐国に流され、「海原八十嶋かけて漕出ぬ」と、釣をしている漁師に言い残し、旅先での暮らしを思って詠みました。これらは皆、人生というのは順境の時もあれば、

また逆境の時もあることを知っているので、嘆きたい時も嘆くことなく、人の運命もまた、困窮と栄達を繰り返すのを知って、悲しい時も悲しむことはしませんでした。況や、「主君が憂いを持てば、臣下は辱めを受け、主君が辱めを受ければ、臣下は死ぬ」と、言う言葉もあります。

たとえわが身が塩漬けになったり、車裂きの刑にあおうとも、何も辛い事ではないと、少しも悲しみを表しませんでした。ただ何かの時、心を動かされる事があれば、詩歌を作ったりして、静かに日を過ごしていました。今となってはこの世に望みも絶え果てて、

出家したいと幾度も願い出たのですが、相模入道北条高時はその必要はなかろうと、許可されませんでした。しかし、年齢はまだ四十歳にならないというのに、美しい黒髪をそり落とし、仏門に入られましたが、幾程もなく元弘の乱が起こると急に病になり、

元弘二年(1332年)十月にお亡くなりになられたそうです。そのほか、東宮大進万里小路季房は常陸国へ流刑に処され、長沼駿河守に身柄が預けられました。兄の中納言万里小路藤房も同じく常陸国に流され、小田民部大輔に預けられました。

左遷や遠流などの悲しい別れには、皆同じように涙を流しますが、特にこの二人の公卿は、その心中を考えれば考えるほど、可愛そうでまた哀れな気がします。


近来中宮の御方に左衛門佐局とて容色世に勝れたる女房御座しけり。去元享の秋の比かとよ、主上北山殿に行幸成て、御賀の舞の有ける時、堂下の立部袖を翻し、梨園の弟子曲を奏せしむ。繁絃急管何れも金玉の声玲瓏たり。此女房琵琶の役に被召、青海波を弾ぜしに、間関たる鴬の語は花下に滑、幽咽せる泉の流は氷の底に難めり。適怨清和節に随て移る。四絃一声如裂帛。撥ては復挑、一曲の清音梁上に燕飛、水中に魚跳許也。中納言ほのかに是を見給しより、人不知思初ける心の色、日に副て深くのみ成行共、可云知便も無ければ、心に篭て歎明し思暮して、三年を過給けるこそ久しけれ。何なる人目の紛れにや、露のかごとを結ばれけん、一夜の夢の幻、さだかならぬ枕をかはし給にけり。其次の夜の事ぞかし、主上俄に笠置へ落させ給ひければ、藤房衣冠を脱ぎ、戎衣に成て供奉せんとし給ひけるが、此女房に廻り逢ん末の契も難知、一夜の夢の面影も名残有て、今一度見もし見へばやと被思ければ、彼女房の住給ける西の対へ行て見給ふに、時しもこそあれ、今朝中宮の召有て北山殿へ参り給ぬと申ければ、中納言鬢の髪を少し切て、歌を書副てぞ被置ける。
黒髪の乱ん世まで存へば是を今はの形見とも見よ
此女房立帰り、形見の髪と歌とを見て、読ては泣、々ては読み、千度百廻巻返せ共、心乱てせん方もなし。懸る涙に文字消て、いとゞ思に絶兼たり。せめて其人の在所をだに知たらば、虎伏野辺鯨の寄浦なり共、あこがれぬべき心地しけれ共、其行末何く共不聞定、又逢ん世の憑もいさや知らねば、余りの思に堪かねて、
書置し君が玉章身に副て後の世までの形みとやせん
先の歌に一首書副て、形見の髪を袖に入、大井河の深き淵に身を投けるこそ哀なれ。「為君一日恩、誤妾百年身」とも、加様の事をや申べき。按察大納言公敏卿は上総国、東南院僧正聖尋は下総国、峯僧正俊雅は対馬国と聞へしが、俄に其議を改て、長門国へ流され給ふ。第四の宮は但馬国へ流奉て、其国の守護大田判官に預らる。

最近中宮にお仕えする女官に左衛門佐局と言われる、まことに容姿端麗な女房がおられました。去る元亨(1321〜1324年)の秋の頃でしたか、後醍醐天皇が北山殿に行幸されて、祝賀の舞が演じられた時、昇殿の許されていない主演奏者が、袖を翻して器楽を演奏し、

その弟子もそれに合わせて曲を演奏しました。弦楽器の弦は激しく震え、また管楽器は急を告げるように音を発し、その二つの楽器が出す音色は、まるで黄金の玉が触れ合っているかのように、澄み渡っていきました。

この時、左衛門佐局は琵琶の演奏を受け持って、青海波(雅楽の曲名)を弾じられると、その音は鶯の優しく鳴く声が、花の下に滑り込むかのように、なだらかに響き、また、かすかに泉から流れ出る水が、氷の底に淀んでいるように静かに聞こえました。

恨めしく思えるほど清らかで、調和の取れた音律が流れていきます。四本の弦は裂帛の如く激しい音を発し、撥をはじいては、またはじきます。曲の音色に誘われて、梁の上には燕が飛び来たり、水中では魚が飛び跳ねています。(白居易::琵琶行より)

中納言万里小路藤房は何気なくこの様子を見てからと言うものは、人知れず彼女に思いを抱き、日に日に気持ちは募って行きましたが、思いを伝えるすべも無く、心の中に思いを抱いたまま嘆き暮らすうちに、三年という長い年月が過ぎました。

しかしどういう訳か、人目を避けてその機会を得、はかない望みがかなえられ、一夜の夢とも幻ともはっきりしませんが、とにかく契りを交わしたのでした。ところがその翌日の事だったでしょうか、後醍醐天皇が急遽笠置に向かって都を脱出されたので、

藤房も衣冠を脱ぎ捨て、軍服に着替え天皇のお供をしようとしましたが、この女房に再び会えるかどうかも分からず、昨夜からの夢のような時も忘れることが出来ないので、全ては今一度会ってからにしようと思いました。

そこで彼女が住まいしている西側の建物へ行ってみたのですが、折悪しく今朝中宮よりお呼びがあり、北山殿に行っていると言われました。そこで中納言殿は鬢の髪を少しばかり切り、それに歌を書き添え置いて帰りました。

      黒髪の 乱ん世まで 存へば 是を今はの 形見とも見よ

やがて女房が北山殿より帰り、形見の髪と歌を見て、読んでは泣き、また泣いては読むことを、千回、百回と繰り返しても、心は乱れに乱れて仕方がありません。流れ落ちる涙がかかり文字も消え、こみ上げてくる悲しさに耐えることも難しそうです。

せめて中納言殿の居場所でも分かれば、たとえ虎の住む野原でも、また鯨が泳いでいる浦でも、何とか探しに行きたいと思いますが、どこに行かれたのか行方もはっきりしません。再び会う事も期待できるとは思えず、思い焦がれる気持ちに耐えかねて、

      書置し 君が玉章 身に副て 後の世までの 形みとやせん

と、中納言殿の歌に一首書き添え、形見の髪を袖に入れて、嵐山を流れる大堰川の深い淵に、身を投げられたのですが、余りにも可哀そうな話です。「僅か一日の愛情のため、女の百年の運命を間違えることがある」(白居易::井底引銀瓶より)とは、このことを言うのでしょうか。

按察使大納言藤原公敏卿は上総国に、東南院僧正聖尋は下総国に、峯僧正俊雅は対馬国に遠流と決まっていましたが、急に変更となり長門国に流刑となりました。先帝後醍醐の第四宮、静尊法親王は但馬国へ流罪となり、但馬国の守護大田守延判官に身柄が預けられました。


○八歳宮御歌事
第九宮は、未御幼稚に御坐ばとて、中御門中納言宣明卿に被預、都の内にぞ御坐有ける。此宮今年は八歳に成せ給けるが、常の人よりも御心様さか/\しく御座ければ、常は、「主上已に人も通はぬ隠岐国とやらんに被流させ給ふ上は、我独都の内に止りても何かせん。哀我をも君の御座あるなる国のあたりへ流し遣せかし。せめては外所ながらも、御行末を承はらん。」と書くどき打しほれて、御涙更にせきあへず。「さても君の被押篭御座ある白河は、京近き所と聞くに、宣明はなど我を具足して御所へは参らぬぞ。」と仰有ければ、宣明卿涙を押へて、「皇居程近き所にてだに候はゞ、御伴仕て参ぜん事子細有まじく候が、白河と申候は都より数百里を経て下る道にて候。されば能因法師が都をば霞と共に出しかど秋風ぞ吹白川の関と読て候し歌にて、道の遠き程、人を通さぬ関ありとは思召知せ給へ。」と被申ければ、宮御泪を押へさせ給て、暫は被仰出事もなし。良有て、「さては宣明我を具足して参らじと思へる故に、加様に申者也。白川関読とたりしは、全く洛陽渭水の白河には非ず、此関奥州の名所也。近来津守国夏が、是を本歌にて読たりし歌に、東路の関迄ゆかぬ白川も日数経ぬれば秋風ぞ吹又最勝寺の懸の桜枯たりしを、植かゆるとて、藤原雅経朝臣、馴々て見しは名残の春ぞともなど白川の花の下陰是皆名は同して、所は替れる証歌也。よしや今は心に篭て云出さじ。」と、宣明を被恨仰、其後よりは書絶恋しとだに不被仰、万づ物憂御気色にて、中門に立せ給へる折節、遠寺の晩鐘幽に聞へければ、

つく/゛\と思暮して入逢の鐘を聞にも君ぞ恋しき
情動于中言呈於外、御歌のをさ/\しさ哀れに聞へしかば、其比京中の僧俗男女、是を畳紙・扇に書付て、「是こそ八歳の宮の御歌よ。」とて、翫ばぬ人は無りけり。

☆ 八歳宮御歌のこと

先帝後醍醐天皇の第九宮(恒良親王)は、まだまだ幼いと言うことで、中御門中納言宣明卿に預けられ、都に留め置かれています。この宮は今年八歳になられますが、人並み以上に賢明な方であり、普段から、「天皇がすでに人も通わないと聞く、

隠岐国とかに流されてしまったのに、私一人が都に留まっていても仕方ありません。もし情けあるなら、私も天皇の居られる国の近くにでも遠流の処置をとってください。せめて他所ながら、天皇の今後を見守っていきたく思います」と、繰り返し嘆き話され、

悲しみに涙を押さえることも出来ません。「その件ですが、天皇が拘束されている白河は、京に近い所と聞いていますが、宣明は何故私をその御所に連れて行かないのですか」と、話されると宣明は涙を抑えて、「皇居がお近くにあれば、

お供して参内するのも問題ありませんが、白河と言うのは都から数百里も下った所でございます。そこで昔、能因法師が、『都をば 霞と共に 出しかど 秋風ぞ吹 白川の関』と詠まれた歌からも、その道のりの遠さや、

人の通行を簡単には許さない関所もあると、お考え下さい」と、申し上げました。それを聞き、宮は涙を押さえられ、しばらくお言葉も出ませんでした。しかし少ししてから、「もしかして、宣明は私を連れて参内するのが嫌さに、そのように言うのじゃないか。

白河関を詠んだと言っても、それは洛陽の渭水にたとえられる、都を流れる白川のことではないだろう。この歌の白河関は奥州における名所である。最近、津守国夏がこの歌を下地にして、『東路の 関迄ゆかぬ 白川も 日数経ぬれば 秋風ぞ吹』と詠み、

また最勝寺の蹴鞠場の桜が枯れたので植え替えることになり、藤原雅経朝臣が、『馴々て 見しは名残の 春ぞとも など白川の 花の下陰』とも、詠んでいる。このように名前は皆、白川と同じでも、場所はそれぞれ異なっていることを、これらの歌などが証明している。

もう良い、こうなったら心の奥底にしまって、父の事は言わなずにおこう」と、中御門中納言宣明を恨みながらも、それ以後は父を恋しいと言われませんでした。何事にも気持ちが入らず、沈んだ気分で中門にたたずんでいたところ、

遠くの寺が夕方にうつ鐘の音がかすかに聞こえ、一首詠みました。
      つくづくと 思暮して 入逢の鐘を 聞にも君ぞ 恋しき

父を恋しく思う激情が言葉になって表れたこの歌が、大変大人びて哀しげに聞こえたので、当時の都に住む僧侶、一般の男性、女性などに関係なく、この歌を懐紙や扇子に書き付け、「この歌が八歳の宮が詠まれた歌だ」と、褒め称えない人はいませんでした。


○一宮並妙法院二品親王御事
三月八日一宮中務卿親王をば、佐々木大夫判官時信を路次の御警固にて、土佐の畑へ流し奉る。今までは縦秋刑の下に死て、竜門原上の苔に埋る共、都のあたりにて、兎も角もせめて成らばやと、仰天伏地御祈念有けれ共、昨日既先帝をも流し奉りぬと、警固の武士共申合ひけるを聞召て、御祈念の御憑もなく、最心細く思召ける処に、武士共数多参りて、中門に御輿を差寄せたれば、押へかねたる御泪の中に、

せき留る柵ぞなき泪河いかに流るゝ浮身なるらん
同日、妙法院二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて讚岐国へ流し奉る。昨日は主上御遷幸の由を承り、今日は一宮被流させ給ぬと聞召、御心を傷ましめ給けり。憂名も替らぬ同じ道に、而も別て赴き給、御心の中こそ悲けれ。初の程こそ別々にて御下有けるが、十一日の暮程には、一宮も妙法院も諸共に兵庫に着せ給たりければ、一宮は是より御舟にめして、土佐の畑へ可有御下由聞へければ、御文を参せ玉けるに、
今までは同じ宿りを尋来て跡無き波と聞ぞ悲き
一宮御返事、
明日よりは迹無き波に迷共通ふ心よしるべ共なれ
配所は共に四国と聞ゆれば、せめては同国にてもあれかし。事問風の便にも、憂を慰む一節とも念じ思召けるも叶はで、一宮はたゆたふ波に漕れ行、身を浮舟に任せつゝ、土佐の畑へ赴かせ給へば、有井三郎左衛門尉が館の傍に、一室を構て置奉る。彼畑と申は、南は山の傍にて高く、北は海辺にて下れり、松の下露扉に懸りて、いとゞ御袖の泪を添、磯打波の音御枕の下に聞へて、是のみ通ふ故郷の、夢路も遠く成にけり。妙法院は是より引別れて、備前国迄は陸地を経て、児嶋の吹上より船に召て、讚岐の詫間に着せ給ふ。是も海辺近き処なれば、毒霧御身を侵して瘴海の気冷じく、漁歌牧笛の夕べの声、嶺雲海月の秋の色、総て触耳遮眼事の、哀を催し、御涙を添る媒とならずと云事なし。先皇をば任承久例に、隠岐国へ流し可進に定まりけり。臣として君を無奉る事、関東もさすが恐有とや思けん、此為に後伏見院の第一の御子を御位に即奉りて、先帝御遷幸の宣旨を可被成とぞ計ひ申ける。於天下事に、今は重祚の御望可有にも非ざれば、遷幸以前に先帝をば法皇に可奉成とて、香染の御衣を武家より調進したりけれ共、御法体の御事は、暫く有まじき由を被仰て、袞竜の御衣をも脱せ給はず。毎朝の御行水をめされ、仮の皇居を浄めて、石灰の壇に準へて、太神宮の御拝有ければ、天に二の日無れども、国に二の王御座心地して、武家も持あつかひてぞ覚へける。是も叡慮に憑思食事有ける故也。

☆ 一宮並びに妙法院二品親王

元弘二年(1332年)三月八日、後醍醐天皇の子供たちの中、一宮中務卿尊良親王は佐々木大夫判官時信が護送の警備を担当して、土佐国に遠流となりました。今まではたとえ罪を受け死罪に処せられ、その遺体が埋められることになっても、

その場所は都の周辺になるようにと、天を仰ぎ、地に伏して神々に祈ってきました。しかし、先帝後醍醐天皇が昨日すでに遠流となったと、警固の武士たちが話しているのを聞き、願いはかなわないのかと、ますます心細く不安になっていました。

そこへ大勢の武士たちがやってきて、中門に御輿を用意しているのを見て、涙を抑えることが出来ず、
      せき留る 柵ぞなき 泪河 いかに流るゝ 浮身なるらん

と、詠まれました。また同日、妙法院二品尊澄親王も、長井左近大夫将監高広を護送の責任者として、讃岐国に流されました。昨日は天皇が配流になったと聞き、今日はまた一宮が流されたと聞き、悲しく心細い気持ちが募るばかりです。

二人とも同じ四国に流されるのに、別々に護送されるそのお気持ちは、本当に悲しいことでしょう。配流の旅も出発してしばらく二人は別々に下っていきましたが、十一日の暮れには一宮と妙法院二人は兵庫に到着し、ここより一宮は舟に乗り換えて、

土佐国に向かうと聞いた妙法院尊澄親王は、兄の一宮尊良親王に手紙を送りました。
      今までは 同じ宿りを 尋来て 跡無き波と 聞ぞ悲き

それに対して一宮のご返事、
      明日よりは 迹無き波に 迷共 通ふ心よ しるべ共なれ

一宮は二人の配所は四国とお聞きしているので、それならせめて同じ国にしてくれればと思いました。それなら風の便りにても何かいろいろと聞くこともあり、つらい気持ちも慰められるかと願っていましたが、それもかないませんでした。

一宮はつらい気持ちばかりを乗せた舟に、ただゆらゆらとゆれるままに身をまかせ、土佐国にある配所へ流されて行きました。配所は有井三郎左衛門尉の屋敷の傍らに、一部屋が用意されており、そこに入られました。

この配所とは、南側には高い山が迫っており、反対の北側は海辺に向かって落ち込んでいます。松の木から落ちる露が配所の扉に流れ落ち、袖をぬらす我が涙と一緒になり、磯に寄せては返す波の音が、枕もとまで聞こえてくれば、

ただ一つの慰みである故郷を思う気持ちも、ますます遠ざかっていきます。また妙法院尊澄親王は一宮と兵庫で別れ、備前国までは陸路を進み、そして児島の吹上の地より舟に乗って、讃岐国の詫間に到着しました。ここの配所も海辺に近く、

体に良くないと思われる霧が体を包み、何か風土病でも発症しそうな海の様子が冷たく感じられ、夕方になると聞こえてくる漁師の歌声や、牧場で吹く笛の音、また山々の峰にかかる雲や、海に映る月の光に秋の気配が感じられ、見るもの聞くものすべてに哀しみが沸き起こり、

涙を催さないものとてありません。前の後醍醐天皇を承久三年(1221年::承久の乱)の例に倣って、隠岐国へ流刑に処すと決定はしました。しかし、朝廷に仕える臣下でありながら、主人である帝をないがしろにすることは、さすが関東の幕府にとっても、

あまりにも畏れ多く感じ、そこで後伏見院の第一の宮、量仁親王(光厳天皇)を天皇の位に就いていただき、新しい天皇より先帝、後醍醐天皇を配流に処すべく、命令書を発行してもらおうと計画しました。この国家の状態において、

醍醐天皇が再び天皇位に復帰を望まれるとも考えられないので、遠流に処する前に先帝を法皇になっていただきたく、法皇用の薄茶色の衣を幕府で用意し、お贈りしました。しかし後醍醐天皇は当面出家する気など、さらさらないと仰せられ、

天皇用の礼服を脱ごうとはされませんでした。その上、毎朝行水をつかって身を清められるとともに、現在とじ込められている仮の御所を掃き清められ、清涼殿に石灰で造られていた壇がそこにもあるように考え、伊勢神宮を礼拝されました。

その様子に幕府も、天に太陽は二つ無いけれど、この国には二人の天皇がおられるような気がして、その対応に苦慮されました。これらすべてのことは、後醍醐天皇が今後について、何かお考えをお持ちだからでしょう。


○俊明極参内事
去元享元年の春の比、元朝より俊明極とて、得智の禅師来朝せり。天子直に異朝の僧に御相看の事は、前々更に無りしか共、此君禅の宗旨に傾かせ給て、諸方参得の御志をはせしかば、御法談の為に此禅師を禁中へぞ被召ける。事の儀式余に微々ならんは、吾朝の可恥とて、三公公卿も出仕の妝ひを刷ひ、蘭台金馬も守禦の備を厳くせり。夜半に蝋燭を伝て禅師被参内。主上紫宸殿に出御成て、玉坐に席を薦め給ふ。禅師三拝礼訖て、香を拈じて万歳を祝す。時に勅問有て曰、「桟山航海得々来。和尚以何度生せん。」禅師答云、「以仏法緊要処度生ん。」重て、曰、「正当恁麼時奈何。」答曰、「天上に有星、皆拱北。人間無水不朝東。」御法談畢て、禅師拝揖して被退出。翌日別当実世卿を勅使にて禅師号を被下る。時に禅師向勅使、「此君雖有亢竜悔、二度帝位を践せ給べき御相有。」とぞ被申ける。今君為武臣囚て亢竜の悔に合せ給ひけれ共、彼禅師の相し申たりし事なれば、二度九五の帝位を践せ給はん事、無疑思食に依て、法体の御事は暫く有まじき由を、強て被仰出けり。

☆ 俊明極が参内したこと

去る元亨元年(1321年)の春の頃ですが、中国の元朝から俊明極(しゅんみんき)という、仏教の教義に卓越した禅師が我が国にやってきました。時の天皇後醍醐は、すぐに異国の僧と面会しましたが、このような例は過去においても無かったのです。

しかし天皇は禅の宗旨にご興味を持っておられ、普段から高僧らを呼ばれ、色々と禅宗の話をされていましたから、この度も仏法について話をしたく思われ、宮中にその僧をお呼びになられました。異朝の高僧を招聘するにあたって、

その歓迎儀式があまり質素では、我が国の恥にもなると考え、左右の大臣や内大臣、またその他の公卿らも衣裳を改めて参内し、宮城の警備官も厳しく警固をしました。夜半になって、蝋燭の光を頼りに禅師が参内してきました。

天皇は紫宸殿にお出ましになり、玉座を彼にすすめられました。禅師は三度の礼拝をし終わると、香を薫じて朝家の変わらぬ繁栄のお祝いを申し上げました。やがて天皇は、「険しい山には橋をかけ、荒れる海を航海してこの日本にやって来られたが、

貴僧はいったい何をもって民衆を救済されるのですか」と、質問されました。その質問に対して禅師は、「仏の説かれた真理でもって、今最も必要とすることを、救済しようと思います」と、答えられました。天皇は尚も、「それは一体どういうことですか」と質問され、

禅師は、「天上には星があり、人は皆北に向かって、手を合わせます。またこの世には東に注がない水はありません」と、答えられたのです。(このやりとり、意味不明)やがて仏教談義が終わり、禅師は拝礼をしてその場を退出されました。

翌日、後醍醐天皇は別当洞院実世卿を勅使に立てて、かの高僧に「禅師」の称号を与えられました。その時禅師は勅使に向かって、「亢竜悔いありと言って、栄達を極めた者は必ず衰えると言われていますが、この後醍醐天皇というお方は、

二度の帝位につくと言う運勢をお持ちです」と、申し上げたのです。現在、後醍醐天皇は幕府軍に囚われの身となって、亢竜の悔いの中にいますが、かの禅師が申し上げた通り、二度天子の位につくことは、疑う余地が無いと思われ、出家することなど現在全く考えていないと、強く仰せられたのでした。


○中宮御歎事
三月七日、已に先帝隠岐国へ被遷させ給ふと聞へければ、中宮夜に紛れて、六波羅の御所へ行啓成せ給、中門に御車を差寄たれば、主上出御有て、御車の簾を被掲。君は中宮を都に止置奉りて、旅泊の波長汀の月に彷徨給はんずる行末の事を思召し連ね、中宮は又主上を遥々と遠外に想像奉りて、何の憑の有世共なく、明ぬ長夜の心迷ひの心地し、長襟にならんと、共に語り尽させ給はゞ、秋の夜の千夜を一夜に準共、猶詞残て明ぬべければ、御心の中の憂き程は其言の葉も及ばねば、中々云出させ給ふ一節もなし。只御泪にのみかきくれて、強顔見へし晨明も、傾く迄に成にけり。夜已に明なんとしければ、中宮御車を廻らして還御成けるが、御泪の中に、
此上の思はあらじつれなさの命よさればいつを限りぞ
と許聞へて、臥沈ませ給ながら、帰車の別路に、廻り逢世の憑なき、御心の中こそ悲しけれ。

☆ 中宮がお歎きになったこと

元弘二年(1332年)三月七日、もうすぐ先帝後醍醐が隠岐国に配流になられるとお聞きになり、中宮は夜陰に紛れて、六波羅の仮御所に向かわれました。御所の中門に御車を寄せると、後醍醐天皇が出てこられ、車の簾を巻き上げられました。

天皇は中宮を都に残したまま、この先旅の夜を重ね、どこまでも続く波打ち際を、月に照らされてさまよい歩く、旅路の行方を思い続けられ、また中宮は中宮で、天皇が都遠く流されていくお姿を想像すると、何を頼りに生きていけばよいのか分かりません。

長い夜をただ途方に暮れているばかりで、お互い秋の夜長の千夜分の話を、一夜にして語っても尽きることもなく、思いを語り残すうちに夜も明け初め、心に潜む辛い気持ちは、とても言葉では言い表すことが出来ませんでした。

ただただお互いに涙、また涙にくれるばかりで、無情にも明け方の月が傾く時刻になってしまいました。夜もやがて明けると思われる頃、中宮はお車に乗られて、御所にお帰りになられました。涙の中で、

      此上の 思はあらじ つれなさの 命よされば いつを限りぞ
と、詠まれ、哀しみに気持ちも沈みきって、このまま再び会うことも望めないのかと、帰るお車の中、中宮のお気持ちはあまりにも悲しいことです。


○先帝遷幸事
明れば三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道々誉五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、七条を西へ、東洞院を下へ御車を輾れば、京中貴賎男女小路に立双て、「正しき一天の主を、下として流し奉る事の浅猿さよ。武家の運命今に尽なん。」と所憚なく云声巷に満て、只赤子の母を慕如く泣悲みければ、聞に哀を催して、警固の武士も諸共に、皆鎧の袖をぞぬらしける。桜井の宿を過させ給ける時、八幡を伏拝御輿を舁居させて、二度帝都還幸の事をぞ御祈念有ける。八幡大菩薩と申は、応神天皇の応化百王鎮護の御誓ひ新なれば、天子行在の外までも、定て擁護の御眸をぞ廻さる覧と、憑敷こそ思召けれ。湊川を過させ給時、福原の京を被御覧ても、平相国清盛が四海を掌に握て、平安城を此卑湿の地に遷したりしかば、無幾程亡しも、偏に上を犯さんとせし侈の末、果して天の為に被罰ぞかしと、思食慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過させ給へば、昔源氏大将の、朧月夜に名を立て此浦に流され、三年の秋を送りしに、波只此もとに立し心地して、涙落共覚ぬに、枕は浮許に成にけりと、旅寝の秋を悲みしも、理なりと被思召。明石の浦の朝霧に遠く成行淡路嶋、寄来る浪も高砂の、尾上の松に吹嵐、迹に幾重の山川を、杉坂越て美作や、久米の佐羅山さら/\に、今は有べき時ならぬに、雲間の山に雪見へて、遥に遠き峯あり。御警固の武士を召て、山の名を御尋あるに、「是は伯耆の大山と申山にて候。」と申ければ、暫く御輿を被止、内証甚深の法施を奉らせ給ふ。或時は鶏唱抹過茅店月、或時は馬蹄踏破板橋霜、行路に日を窮めければ、都を御出有て、十三日と申に、出雲の見尾の湊に着せ給ふ。爰にて御船を艤して、渡海の順風をぞ待れける。

☆ 先帝が遠流になったこと

元弘二年(1332年)三月七日の夜も明け、千葉介貞胤と小山五郎左衛門、そして佐々木佐渡判官入道道誉ら五百余騎が、道中の警固を命じられ、先帝後醍醐を隠岐国に護送しました。お供として従うのは、一条頭大夫行房、

六条少将千種忠顕と後醍醐の寵妃、三位局阿野廉子だけです。その他の者と言えば、全員甲冑に身を固め、弓箭を持った武士ばかりです。彼らが列の前後左右を取り囲むようにして、七条通りを西に向かい、その後東洞院を南に向かって車を進めると、

身分を問わず都中の男女が道路に立ち並び、「まさしくこの国における天下の主たるお人を、臣下の者が流刑に処することなど、あってよいことではないはずだ。こんなことをしていると、幕府の命運も今に尽きてしまうだろう」と、批判の声があちこちより、所かまわず起こり、

それはただ、赤子が母親を求めて泣くように聞こえ、警固する武士たちにもその声が届き、皆鎧の袖を濡らしたのでした。桜井の宿(大阪府島本町桜井)を通り過ぎる時、八幡大菩薩を拝礼しようと御輿をおろさせ、再び都に戻って来れるよう祈願されました。

この八幡大菩薩というのは、応神天皇が衆生を救済するためこの世に現れた神であり、代々の天皇をも守ろうとする願いをお持ちであり、たとえ天子が都を離れた一時の御所にまで、その救い護ろうとするお気持ちは届くはずだと、頼もしく思われました。

湊川を通り過ぎる時に、福原の京をご覧になると、過去に平相国清盛がこの国の実権を握って、平安京をこのじめじめとした低地に移そうとして、その後幾程も無く死去したことも、天皇を恐れることもせず、臣下が天子をないがしろにした奢りのせいであり、

結果として天下のために罰が当たったのだと思われました。印南野を遠くに見て須磨の海岸を通る時には、その昔、光源氏が朧月夜と浮名を流したためこの須磨に流され、三年の年月を送ったことを、思い出されました。その当時光源氏は、

波が枕元まで寄せてくるように思われ、涙を流している訳でもないのに、枕が浮いているように感じられ、配流先での秋の夜を、悲しい気持ちの中で寝られたことなど、なるほどそう言う気持にもなると思われました。明石の浜辺に浮かぶ朝霧の、遠く向こうに淡路島を見つつ、

やがて波も高砂の浜に寄せ、尾上の松に吹く嵐を背中に感じながら、幾重とも知れぬ山や川を過ぎ行き、杉坂を越えれば美作の里です。久米(岡山県津山市)の里はるかな佐羅山には、この時期にあるとも思えないが、雲の間から雪が見え、そのはるか向こうに大きな嶺も見えます。

後醍醐は警固の武士をお呼びになり、その山の名をお尋ねになると、武士は、「あの山は伯耆の大山と言う山でございます」と、答えられました。しばらくそこに遠輿を止められ、ひそかに心のうちで祈りを捧げられ、経を唱えられました。

都を出発してからは、ある時は鶏の声とともに起き、月明かりの中、茅葺の家を通り過ぎ、また馬のひずめで板橋に降りた霜を踏みつけながらと、行程を急いできましたから、都を出てから十三日目にして、出雲国の見尾(美保)の湊に到着しました。

ここで隠岐に渡る舟を準備し、海が順風になるのをお待ちになられました。      (終)

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