4 太平記 巻第四 (その二)


○備後三郎高徳事付呉越軍事
其比備前国に、児嶋備後三郎高徳と云者あり。主上笠置に御座有し時、御方に参じて揚義兵しが、事未成先に、笠置も被落、楠も自害したりと聞へしかば、力を失て黙止けるが、主上隠岐国へ被遷させ給と聞て、無弐一族共を集めて評定しけるは、「志士仁人無求生以害仁、有殺身為仁。」といへり。されば昔衛の懿公が北狄の為に被殺て有しを見て、其臣に弘演と云し者、是を見るに不忍、自腹を掻切て、懿公が肝を己が胸の中に収め、先君の恩を死後に報て失たりき。「見義不為無勇。」いざや臨幸の路次に参り会、君を奪取奉て大軍を起し、縦ひ尸を戦場に曝す共、名を子孫に伝へん。」と申ければ、心ある一族共皆此義に同ず。「さらば路次の難所に相待て、其隙を可伺。」とて、備前と播磨との境なる、舟坂山の嶺に隠れ臥、今や/\とぞ待たりける。臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして是を見するに、警固の武士、山陽道を不経、播磨の今宿より山陰道にかゝり、遷幸を成奉りける間、高徳が支度相違してけり。さらば美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。此にて待奉んとて、三石の山より直違に、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ着たりければ、主上早や院庄へ入せ給ぬと申ける間、無力此より散々に成にけるが、せめても此所存を上聞に達せばやと思ける間、微服潛行して時分を伺ひけれ共、可然隙も無りければ、君の御坐ある御宿の庭に、大なる桜木有けるを押削て、大文字に一句の詩をぞ書付たりける。
天莫空勾践。時非無范蠡。
御警固の武士共、朝に是を見付て、「何事を何なる者が書たるやらん。」とて、読かねて、則上聞に達してけり。主上は軈て詩の心を御覚り有て、竜顔殊に御快く笑せ給へども、武士共は敢て其来歴を不知、思咎る事も無りけり。

☆ 備後三郎高徳のことと、呉越両国の軍との関連

当時備前国に児嶋備後三郎高徳と言う者がいました。後醍醐天皇が笠置に御所を構えておられた時、彼は天皇に味方しようと義勇軍を募り、笠置寺に向かいました。しかしその前に笠置は陥落してしまい、楠木正成も自害したとか言う噂が聞こえ、

どうすれば良いのか分からず、しばらくは鳴りを潜めていましたが、先帝後醍醐が隠岐国に流罪と決まったと聞き、彼にとって一番信頼できる一族らを集めて、会議を実施しました。その場で彼は論語にあるように、、

「『志士仁人無求生以害仁、有殺身為仁』つまり志士と言われる志を持った人や、仁人と言われる徳の高い人は、命を惜しんで仁徳を捨てることは無いし、それ以上にわが身を犠牲にしてでも仁徳を達成しようとするものだ、

また、昔中国において衛国の君主、懿公(いこう)が、北狄の蛮族に殺され遺骸が放置されているのを見て、忠臣である弘演と言う者はこれを見るに忍ばず、我が腹を掻ききると、懿公の肝臓を自分の胸の中に収め、主君に対する恩義を死後にも報おうとして死んだと言う。

『義を見てせざるは勇無きなり』と、言うではないか。今こそ、先帝の護送行列を途中で待ち受けて、帝の身柄を確保し、その上大軍を催し、たとえ屍を戦場にさらすことになろうとも、名を子孫に残そうではないか」と話すと、忠義心に燃える一族らは全員、この考えに賛同しました。

「良し、では途中通行の困難な場所で待ち受け、護送団の隙を突こうじゃないか」と決まり、備前と幡磨の国境にある舟坂山の嶺に潜んで、今か今かと待ちました。先帝の行列の通過があまりにも遅いので、偵察隊を派遣し調べさせたところ、

警固の武士団は山陽道を採らずに、幡磨の今宿から山陰道に入り、護送を続けていると分かりました。自分の計画の間違いに気づいた高徳は、それなら美作の杉坂こそ、この上ない深山だ。そこで待ち受けようではないかと、三石の山から斜め方向に向かい、

道なき道を山の雲をも踏み越えるようにして、杉坂に着いてみると、帝の行列はすでに院庄にお入りになっていました。このため全員が気落ちしてしまい、奪回軍はばらばらになりましたが、高徳はせめて自分の気持ちだけでも、先帝に伝えたく思い、

人目につかぬよう、こっそりと機会を窺っていましたが全く隙も無く、やむを得ず後醍醐先帝がおられる部屋近くの庭に生えている大きな桜の木に、一句の漢詩を大きな文字で幹を削って書き付けました。

      「天莫空勾踐。時非無范蠡」  その意味するところは、天は古代中国の越王・勾踐の場合のように、帝を見捨てることは無く、その内范蠡のような忠臣が現れ、帝をお助けするでしょう。

朝になって後醍醐を警固していた武士らがこの書付を発見し、「これはいったい誰が書いたのだ」と、騒ぎましたがその意味が理解できず、すぐ後醍醐のもとに連絡しました。先帝はすぐにその詩の意味を理解され、そのお顔は特別喜びにあふれ、

笑みを浮かべられましたが、武士らは何故か分からないまま、特にその理由を質そうとはしませんでした。


抑此詩の心は、昔異朝に呉越とてならべる二の国あり。此両国の諸侯皆王道を不行、覇業を務としける間、呉は越を伐て取んとし、越は呉を亡して合せんとす。如此相争事及累年。呉越互に勝負を易へしかば、親の敵となり、子の讎と成て共に天を戴く事を恥。周の季の世に当て、呉国の主をば呉王夫差と云、越国の主をば越王勾践とぞ申ける。或時此越王范蠡と云大臣を召て宣ひけるは、「呉は是父祖の敵也。我是を不討、徒に送年事、嘲を天下の人に取のみに非ず。兼ては父祖の尸を九泉の苔の下に羞しむる恨あり。然れば我今国の兵を召集て、自ら呉国へ打超、呉王夫差を亡して父祖の恨を散ぜんと思也。汝は暫く留此国可守社稷。」と宣ひければ、范蠡諌め申けるは、「臣窃に事の子細を計るに、今越の力を以て呉を亡さん事は頗以可難る。其故は先両国の兵を数ふるに呉は二十万騎越は纔に十万騎也。誠に以小を、大に不敵、是呉を難亡其一也。次には以時計るに、春夏は陽の時にて忠賞を行ひ秋冬は陰の時にて刑罰を専にす。時今春の始也。是征伐を可致時に非ず。是呉を難滅其二也。次に賢人所帰則其国強、臣聞呉王夫差の臣下に伍子胥と云者あり。智深して人をなつけ、慮遠くして主を諌む。渠儂呉国に有ん程は呉を亡す事可難。是其三也。麒麟は角に肉有て猛き形を不顕、潛竜は三冬に蟄して一陽来復の天を待。君呉越を合られ、中国に臨で南面にして孤称せんとならば、且く伏兵隠武、待時給ふべし。」と申ければ、

そもそもこの漢詩の意味するところは、次のようなことです。古代、異朝中国において呉越と並び称される、二つの国がありました。この二つの国の支配階級の者たちは、仁義に基づいた政治を行おうとはせず、もっぱら武力をもって支配することに努めていました。

そのため呉国は越国を切り取って、我が領土にしようとし、越国は越国で呉国を滅ぼし、我が領土にしようと考えていました。このように長年にわたってこの二国は争って来ました。しかし、呉越ともに勝敗を決することが出来ず、そのため親の敵が子供にとっては仇になり、

この二国は共存することを恥と考えているようでした。やがて周王朝の末期になった頃、呉国の支配者は呉王夫差と言い、同じく越国の支配者は越王勾踐と言いました。ある時、この越王勾踐が范蠡と言う大臣を近くに呼び、

「呉国は私にとって父祖代々の敵である。なのに私はこの呉国を征伐しようとせず、いたずらに年月を送ってきたため、天下の人民の笑いものになったばかりでなく、草葉の陰でご先祖様もこの有様を嘆いておられるかも知れない。

そこで私は今回、我が国の兵士らを召集し、自ら軍を率いて呉国に攻め込み、呉王夫差を亡き者にして、先祖の恨みを晴したく思う。そこで汝はしばらくこの国に留まって、国家と土地、五穀の神々を護ってほしい」と、おっしゃられました。

その話を聞き范蠡は、「この私がひそかに調査した結果では、現在の越の武力で呉を征伐することは非常に難しく思えます。なぜなら、まず呉越両国の兵力数は、呉国は二十万騎であり、それに対して越国はわずか十万騎に過ぎません。

これではまさしく少数の軍でもって、大軍にあたることになり、敵うはずがありません。これが呉国を滅ぼすことの難しい理由の第一です。次に時期の問題があります。春や夏の季節は陽の時、つまり明るく活発なことを行うに良い時であり、忠に対しての賞を施すべきです。

それに対して、秋や冬は陰の時であり、刑罰をもっぱら行うに適した季節です。今は春が始まったばかりであり、征伐軍を進める時ではありません。これが呉国征伐の難しい第二の理由です。さらに、優秀な人材を持てば、そこは強国になりますが、

私の聞いている限りでは、呉王夫差の臣下に、伍子胥(ごししょ)と言う者がいると聞いています。その知識、智恵などすばらしく優秀で、人に信頼され、またまたその思慮は深く、主君に対しても諫言を述べることがあります。

そのような人物が呉国に居る間は、かの国を滅ぼすことは非常に難しいと思われます。これが第三の理由です。麒麟は角に肉を付けてそのどう猛な形を隠し、また池や淵に潜む竜は初冬、仲冬、晩冬と身を隠して春の訪れを待ち、天に昇ると言います。

帝が呉、越国を合して皇帝となり、中国に覇を唱えんと望まれるならば、ここは兵をあちこちに潜ませ、武器、武力なども隠匿し、時の来るのを待たれるが良いでしょう」と、申し上げたのでした。


其時越王大に忿て宣けるは、「礼記に、父の讎には共に不戴天いへり、我已に及壮年まで呉を不亡、共に戴日月光事人の羞むる所に非や。是を以兵を集る処に、汝三の不可を挙て我を留る事、其義一も道に不協。先兵の多少を数へて可致戦ば、越は誠に呉に難対。而れ共軍の勝負必しも不依勢多少、只依時運。又は依将謀。されば呉と越と戦ふ事及度々雌雄互に易れり。是汝が皆知処也。今更に何ぞ越の小勢を以て戦呉大敵事不協我を可諌や。汝が武略の不足処の其一也。次に以時軍の勝負を計らば天下の人皆時を知れり。誰か軍に不勝。若春夏は陽の時にて罰を不行と云はゞ、殷の湯王の桀を討しも春也。周の武王の紂を討しも春也。されば、「天の時は不如地利に、地利は〔不〕如人和に」といへり。而るに汝今可行征罰時に非ずと我を諌むる、是汝が知慮の浅き処の二也。次に呉国に伍子胥が有ん程は、呉を亡す事不可叶と云はゞ、我遂に父祖の敵を討て恨を泉下に報ぜん事有べからず。只徒に伍子胥が死せん事を待たば死生有命又は老少前後す。伍子胥と我と何れをか先としる。此理を不弁我征罰を可止や。此汝が愚の三也。抑我多日に及で兵を召事呉国へも定て聞へぬらん。事遅怠して却て呉王に被寄なば悔とも不可有益。「先則制人後則被人制」といへり。事已に決せり且も不可止。」とて、越王十一年二月上旬に、勾践自ら十万余騎の兵を率して呉国へぞ被寄ける。呉王夫差是を聞て、「小敵をば不可欺。」とて、自ら二十万騎勢を率して、呉と越との境夫枡県と云所に馳向ひ、後に会稽山を当て、前に大河を隔て陣を取る。態と敵を計ん為に三万余騎を出して、十七万騎をば陣の後の山陰に深く隠してぞ置たりける。

話を聞き終わるった越王勾踐は怒り狂って、「礼記には、父の仇とは同じ空の下では存在出来ないと、書いてあるではないか。私はこの働き盛りの年齢になるまで、呉を滅ぼすこともなく、敵と同じ空の下、共に月や太陽の光を受けているとは、

人から軽蔑されることではないのか。そこで、兵を招集しようと考えたのに、汝は三つの理由を挙げて、私の行動を抑えようとするが、汝の挙げた理由は一つも理にかなってはいない。まず最初に、軍勢の多少で勝敗の行方が決まるのであれば、

確かにこの越国は呉にかなわないだろう。しかし、戦争の勝負とは必ずしも軍勢の多寡で決まるものではなく、時の運に左右されたり、また指揮をとる将軍の戦略にかかっている。だから今まで呉と越は何度も戦ったにもかかわらず、いまだに勝敗は五分五分であり、

このことは汝も良く知っていることだ。今改めて、越の少ない軍勢で、呉の大軍と戦うことには賛成出来ないと、なぜ私に忠告するのだ。これが汝の戦略に欠けているものの一つである。次に時期を選んで戦争を起こすのが有利と言うなら、

季節のことなど天下の人間は誰でも知っている。それならば一体誰が戦争に負けるのだ。もし汝が言うように、春夏は陽の時であって、征伐の戦はするべきでないと言うなら、古代中国の殷において、成湯王が夏王朝の最後の皇帝、桀を討伐し、

夏王朝を滅亡に導いたのは春だった。また周朝の創始者である武王が、殷王朝、最後の皇帝、紂王を征伐したのも春である。だから、「『天時不如地利、地利不如人和』つまり、天がもたらしてくれる幸運は、地勢の有利さにはかなわないし、

地勢の有利とて、人心の調和、協力には及ばないと、言うことである。しかしながら汝は、今は征伐軍を起こす時ではないと私に注意をする。これが汝に思慮が足らないところの二つ目である。次に呉国に伍子胥が健在である内は、

呉を滅ぼすことが出来ないと言うならば、私が父祖の仇を討ち、先祖の墓に恨みを晴らしたと報告することは、決して出来ないだろう。ただ空しく伍子胥の死去を待つのも、人の天命など分かるものではないし、老人が先に死ぬとも限らない。

なのに伍子胥と私がどちらが先に死ぬと分かるのだ。この理屈に対して説明もせずに、征伐を思いとどまらせようとする。これが汝の考えの第三の愚かな点である。しかも私が多年にわたって、兵士を召集していることは、きっと呉国の者も知っているはずだ。

今、いたずらに進軍が遅れたため、反対に呉王から攻め寄せられることになれば、悔いは残っても有利なことがあるはずもない。『先則制人後則被人制』つまり、先手を取れば人を支配することが出来るが、後手を引けば人の支配を受けることになると、言うではないか。

もうすでに事は決定しており、止めることは出来ないのだ」と話され、越王勾踐の治世十一年目(前486年?)二月上旬に、勾踐、自ら十万余騎の軍勢を率いて、呉の国に攻め込んだのでした。呉王夫差はこの情報を得ると、

「敵の軍勢が少ないと言って侮ってはならぬ」とばかり、自ら二十万余騎の軍勢を率いて、呉越の国境付近の夫枡県と言う所まで軍を進め、後方に会稽山を控え、前方には大河を堀として陣を構えました。敵を油断させるため、わざと三万余騎の軍勢を前方に進め、

残る十七万余騎は陣の後方、山中深く隠して控えさせました。


去程に越王夫枡県に打臨で、呉の兵を見給へば、其勢僅に二三万騎には過じと覚へて所々に磬へたり。越王是を見て、思に不似小勢なりけりと蔑て、十万騎の兵同時に馬を河水に打入させ、馬筏を組で打渡す。比は二月上旬の事なれば、余寒猶烈くして、河水氷に連れり。兵手凍て弓を控に不叶。馬は雪に泥で懸引も不自在。され共越王責鼓を打て進まれける間、越の兵我先にと双轡懸入る。呉国の兵は兼てより敵を難所にをびき入て、取篭て討んと議したる事なれば、態と一軍もせで夫椒県の陣を引退て会稽山へ引篭る。越の兵勝に乗て北るを追事三十余里、四隊の陣を一陣に合せて、左右を不顧、馬の息も切るゝ程、思々にぞ追たりける。日已に暮なんとする時に、呉兵二十万騎思ふ図に敵を難所へをびき入て、四方の山より打出て、越王勾践を中に取篭、一人も不漏と責戦ふ。越の兵は今朝の軍に遠懸をして人馬共に疲れたる上無勢なりければ、呉の大勢に被囲、一所に打寄て磬へたり。進で前なる敵に蒐らんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃を調へて待懸たり。引返て後なる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて越兵疲れたり。進退此に谷て敗亡已に極れり。され共越王勾践は破堅摧利事、項王が勢を呑、樊■勇にも過たりければ、大勢の中へ懸入、十文字に懸破、巴の字に追廻らす。一所に合て三処に別れ、四方を払て八面に当る。頃刻に変化して雖百度戦、越王遂に打負て、七万余騎討れにけり。勾践こらへ兼て会稽山に打上り、越の兵を数るに打残されたる兵僅に三万余騎也。其も半ば手を負て悉箭尽て鋒折たり。勝負を呉越に伺て、未だ何方へも不着つる隣国の諸侯、多く呉王の方に馳加はりければ、呉の兵弥重て三十万騎、会稽山の四面を囲事如稲麻竹葦也。

やがて越王勾踐が夫枡県にやって来て、呉の兵力を調べてみると、二、三万余騎以上あるとも思えないわずかな軍勢が、所々に馬を走らせている光景が見えました。越王勾踐はこの様子を見て、思いがけなく少ない敵勢だと馬鹿にし、

十万騎の兵と馬を同時に河に入れ、馬筏を組んで渡ろうとしました。しかし、時期は二月上旬であり、まだまだ寒さが厳しく、河の水も氷のごとく冷たくて、兵士らは手がかじかんで、弓を引くことも出来ませんし、馬は馬で雪にぬかるんで、自在に動くことも出来ません。

そのような状況であるにかかわらず、越王は攻め太鼓を打ち鳴らして進軍させたので、越軍の兵士は我先に攻め込みました。呉国の兵士らは、最初から敵を危険な場所におびき寄せ、取り囲んで全滅させる作戦だったので、わざと戦うことをせずに、

夫枡県の陣営をたたんで会稽山に引き篭もりました。そうとは知らず越軍の兵士らは、勝ちに乗じて背を向けて逃げる敵軍を、三十余里も追い続けました。その内、四つの部隊に分かれていた軍も一つになり、左右の状況を顧みることもなく、

馬の息も切れよとばかりに、各自ばらばらに追跡しました。やがて日も暮れようとした時、呉国の軍勢二十万騎は、敵の越軍を作戦通り、難所におびき寄せた上、四方の山々より跳び出し、越王勾踐を中に閉じ込めると、一人残さず全滅を狙って攻めかかってきました。

それに対して、越の軍勢は今朝からの追撃に人馬とも疲れ果てている上、軍勢としても少なく、呉の大軍に取り囲まれた上、一ヶ所に追い詰められてしまいました。前方の敵軍に当たろうとすれば、敵は険しい地形を利用して防戦し、

矢を揃えて越軍を待ち受けている有様です。それならばと後方の敵を追い払おうとしても、敵軍は多勢のため、越軍の兵は疲労がたまるばかりです。ここに、とうとう進退窮まって、戦いの勝負は決まったも同然です。しかし、越王勾踐は堅陣を落としたり、

敵の有利な状況を破壊することなど、項羽の戦略、戦術に劣ることも無く、その勇猛さにかけては樊かい(かい::口偏に會。前漢の武将名)にも負けないと自負しているので、敵の大軍に駈け入り、敵を十文字に駆け散らし、巴の字を描くように追い廻しました。

一ヶ所に集まったかと思えば三つに別れ、四方の敵に向かって行くと、今度は八方の敵を相手にしました。臨機応変に変化をしながら、百度の戦闘をしてきましたが、ついに越軍は敗れ、七万余騎が討ち取られてしまいました。

勾踐も持ちこたえることが出来ず、会稽山に逃げ込み、残余の兵を数えてみれば、わずか三万余騎に過ぎません。その兵士らもほとんどが負傷しており、矢は射尽くして、太刀などの武具は折れてしまっています。呉越両国の勝敗の行方を伺って、

それまでどちらにも味方をしなかった近隣の諸豪族らも、ここにきて多数の者が呉王軍に味方せんと、駆け付けたのでした。そのため呉軍の軍勢は三十万騎に膨れ上がり、会稽山の周辺に展開している様は、まるで草原に生い茂っている植物の群落のようでした。


越王帷幕の内に入り、兵を集めて宣ひけるは、「我運命已に尽て今此囲に逢へり。是全く非戦咎、天亡我。然れば我明日士と共に敵の囲を出て呉王の陣に懸入り、尸を軍門に曝し、恨を再生に可報。」とて越の重器を積で、悉焼捨んとし給ふ。又王■与とて、今年八歳に成給ふ最愛の太子、越王に随て、同く此陣に座けるを呼出し奉て、「汝未幼稚なれば、吾死に殿れて、敵に捕れ、憂目を見ん事も可心憂。若又我為敵虜れて、我汝より先立ば、生前の思難忍。不如汝を先立て心安く思切り、明日の軍に討死して、九泉の苔の下、三途の露の底迄も、父子の恩愛を不捨と思ふ也。」とて、左の袖に拭涙、右の手に提剣太子の自害を勧め給ふ時に、越王の左将軍に、大夫種と云臣あり。越王の御前に進出て申けるは、「生を全くして命を待事は遠くして難く、死を軽くして節に随ふ事は近くして安し。君暫く越の重器を焼捨、太子を殺す事を止め給へ。臣雖不敏、欺呉王君王の死を救ひ、本国に帰て再び大軍を起し、此恥を濯んと思ふ。今此山を囲んで一陣を張しむる呉の上将軍太宰■は臣が古の朋友也。久く相馴て彼が心を察せしに、是誠に血気の勇者なりと云へ共、飽まで其心に欲有て、後の禍を不顧。又彼呉王夫差の行迹を語るを聞しかば、智浅して謀短く、色に婬して道に暗し。君臣共に何れも欺くに安き所也。抑今越の戦無利、為呉被囲ぬる事も、君范蠡が諌めを用ひ不給故に非ずや。願は君王臣が尺寸の謀を被許、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と諌申ければ、越王理に折て、「「敗軍の将は再び不謀」と云へり。自今後の事は然大夫種に可任。」と宣て、重器を被焼事を止、太子の自害をも被止けり。大夫種則君の命を請て、冑を脱ぎ旗を巻て、会稽山より馳下り、「越王勢ひ尽て、呉の軍門に降る。」と呼りければ、呉の兵三十万騎、勝時を作て皆万歳を唱ふ。大夫種は則呉の轅門に入て、「君王の倍臣、越勾践の従者、小臣種慎で呉の上将軍の下執事に属す。」と云て、膝行頓首して、太宰■が前に平伏す。

越王勾踐は陣内の作戦室に入り、兵士らを集めて、「私の運命はもはや尽きたようで、今このように包囲されることとなった。しかしこれは何も戦いに失敗したからではなく、天が私を滅ぼそうとしているのだ。

そこで、明日私は、将士らと共に敵の包囲を破って跳び出し、呉王夫差軍の陣内に駈け入り、たとえ屍を軍門に曝そうとも、この恨みは生まれかわってでも晴らそうと思う」と、話され、越国の貴重な物品を積み上げ、ことごとく焼却しようとしました。

また越王に従って軍陣内にいる、今年八歳になる最愛の皇子(セキヨ)を呼び出し、「お前はまだまだ幼いので、私に死に遅れて敵に捕らわれ、辛い目に逢うのではと思えば、それもまた不憫なことである。かと言って、もし私が敵に捕らわれ、

お前より先に死ぬことになれば、生き残ったお前の苦労を考えると、それも忍びがたいものがある。ここはお前を先に殺すことによって、私としても安心して明日の戦闘に臨むことが出来、そこで討ち死にを遂げて、二人一緒に墓の中、

三途の流れの底までも、私ら父子の恩愛の情を、まっとうしたく思うばかりである」と、話しました。そして左の袖で流れる涙を拭い、右手に持った剣で皇子に自害を勧めようとした時、越王の左将軍を勤める大夫種(たいふしょう)という臣下が、越王勾踐の御前に進み、

「しばらくお待ちください。生き続けて寿命を全うすることは、非常に難しいことであり、死を軽んじて、自分の考えに殉ずる方が、はるかに簡単なことであります。帝殿、しばらく越国の宝物などを燃やしたり、皇子を殺害することなどお止めください。

この私、臣として優秀な人間でも御座いませんが、呉国の王を欺いてでも、越王殿の死地をお救いしましょう。そして帝は本国にお帰りになられ、再び大軍を召集し、今回のこの戦の恥を雪いでください。現在この山を取り囲んで陣を構えているのは、

呉国の高級将校、太宰ヒ(タイサイヒ)と言う者であり、彼は私の古い親友です。彼と長く付き合ってきた私が、彼の性質や思考方法を想像してみるに、彼は血気盛んな勇者であること、間違いありませんが、あくまでもその本心には欲が支配しており、

後々起こる災禍など、あまり考える人間ではありません。また彼が、呉王夫差の普段の行動について話していることを、良く思い起こしてみると、夫差は知恵、智識などに乏しく、先々を深く考えることをせず、女性にはうつつを抜かし、

人間としての守るべき道徳等には、疎い人間だと言っていました。つまり、君臣共に欺きやすい人間だと言うことです。そもそも現在、越軍が戦闘を有利に戦うことが出来ず、呉の軍勢に取り囲まれてしまったのも、帝が范蠡の忠告に耳を貸さなかったのが、

原因ではないでしょうか。ここは一つ、私の取るに足らない考えかも知れませんが、帝に採用していただき、我が軍数万の兵士を死から救ってください」と、諫言を申し上げました。聞いていた越王は、「『敗軍の将は再び策を立てない』と、言う。

今後のことは全て、大夫種に任せよう」と、仰せられ、国宝や貴重な物品などの焼却をやめるとともに、皇子の自害も取りやめたのです。大夫種は帝から命令を出していただき、兜を脱ぐと軍旗も巻き上げ、会稽山から駆け下ると敵軍に向かい、

「越王勾踐の軍勢は力尽きてしまったので、これから呉の軍門に降伏する」と、呼びかけました。呉の兵士ら三十万騎は勝鬨を挙げ、全員で万歳をしたのでした。大夫種は即刻、呉軍の陣営の門を入り、「君王夫差殿の陪臣である、

越王勾踐に仕える家臣、大夫種が謹んで呉国将軍殿の軍門に降伏します」と申し上げ、膝をついて進むと、太宰ヒの前に頭をこすりつけるようにして、平伏したのでした。


太宰■床の上に坐し、帷幕を揚させて大夫種に謁す。大夫種敢て平視せず。低面流涙申けるは、「寡君勾践運極まり、勢尽て呉の兵に囲れぬ。仍今小臣種をして、越王長く呉王の臣と成、一畝の民と成ん事を請しむ。願は先日の罪を被赦今日の死を助け給へ。将軍若勾践の死を救ひ給はゞ、越の国を献呉王成湯沐地、其重器を将軍に奉り、美人西施を洒掃の妾たらしめ、一日の歓娯に可備。若夫請、所望不叶遂に勾践を罪せんとならば、越の重器を焼棄、士卒の心を一にして、呉王の堅陣に懸入、軍門に尸を可止。臣平生将軍と交を結ぶ事膠漆よりも堅し。生前の芳恩只此事にあり。将軍早く此事を呉王に奏して、臣が胸中の安否を存命の裏に知しめ給へ。」と一度は忿り一度は歎き、言を尽して申ければ、太宰■顔色誠に解て、「事以不難、我必越王の罪をば可申宥。」とて軈て呉王の陣へぞ参りける。太宰■即呉王の玉座に近付き、事の子細を奏しければ、呉王大に忿て、「抑呉と越と国を争ひ、兵を挙る事今日のみに非ず。然るに勾践運窮て呉の擒となれり。是天の予に与へたるに非や。汝是を乍知勾践が命を助けんと請ふ。敢て非忠烈之臣。」宣ひければ、太宰■重て申けるは、「臣雖不肖、苛も将軍の号を被許、越の兵と戦を致す日、廻謀大敵を破り、軽命勝事を快くせり。是偏に臣が丹心の功と云つべし。為君王の、天下の太平を謀らんに、豈一日も尽忠不傾心や。倩計事是非、越王戦に負て勢尽ぬといへ共、残処の兵猶三万余騎、皆逞兵鉄騎の勇士也。呉の兵雖多昨日の軍に功有て、自今後は身を全して賞を貪ん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへ共志を一にして、而も遁れぬ所を知れり。「窮鼠却噛猫、闘雀不恐人」といへり。呉越重て戦はゞ、呉は必危に可近る。不如先越王の命を助け、一畝の地を与て呉の下臣と成さんには。然らば君王呉越両国を合するのみに非ず。斉・楚・秦・趙も悉く不朝云事有べからず。是根を深くし蔕を固する道也。」と、理を尽て申ければ、呉王即欲に耽る心を逞して、「さらば早会稽山の囲を解て勾践を可助。」宣ひける。太宰■帰て大夫種に此由を語りければ、大夫種大に悦で、会稽山に馳帰り、越王に此旨を申せば、士卒皆色を直して、「出万死逢一生、偏に大夫種が智謀に懸れり。」と、喜ばぬ人も無りけり。

その時、太宰ヒは床の上に座って陣幕を巻き上げさせ、大夫種と対面しました。大夫種は顔を上げて直視することなく、面を下げ涙を流しながら、「我が主君、勾踐はこの度の戦にてその運命は果ててしまい、また軍勢も全て尽くし切って、

呉軍の兵士に取り囲まれてしまいました。そのため臣下である私、大夫種に命じて、越王勾踐は今後呉王の臣下となり、一介の農民となることの許可を得るよう命じられました。お願いでございます、先日来の罪をお許しくださって、今日以後の命を助けてください。

もし呉王将軍が勾踐の命をお助けくださったならば、越国の領土を、呉国の領地として呉王に献上いたします。また国宝類なども呉王に献上し、そのほか我が国第一級の美女、西施を単なる下女として贈りますので、宴席などで接待を命じられるもよろしいでしょう。

もしこの度の嘆願をお許しなく、勾踐の罪を問うことになれば、その時は越国の国宝などは全て焼却処分し、将士全軍が一致団結して呉国の堅陣になだれ込み、軍門に我らの屍をさらすだけだ。この私と貴将軍との普段からの親交は、

膠や漆で固めた以上に、強いものであるはずです。今までの親交を考えて下さるならば、ここは一つよろしくお願いします。太宰ヒ将軍殿、一時も早くこの件を呉王に申し上げていただき、一番の問題である勾踐の安否について、

私の命があるうちに教えてください」と、ある時は怒りに震えながら、また涙に嘆きを含ませ、言葉を尽くして話したので、やがて太宰ヒも穏やかな顔になり、「よく分かった。そんなに難しい相談でもないので、私が必ず越王の罪を許してもらえるようにしましょう」と、

早速呉王の陣営に行きました。太宰ヒは呉王夫差の玉座に近づき、今までのいきさつを説明したところ、呉王は激怒し、「そもそも呉と越は領土紛争のため、互いに兵を招集したことは何も今回が初めてではない。今回結果として勾踐軍の運が尽きて、

呉軍に捕らわれの身となったが、これは天が私に与えてくれたものではないのか。汝はこれらの事情を良く知っていながら、勾踐の助命を願い出るとは、とても忠義心あふれる臣下とは思えない」と、仰せられました。

太宰ヒは尚も、「私は臣下としては優秀でないかも知れませんが、少なくとも将軍の称号を与えられ、我が命の危険も顧みず越国の軍勢と戦闘を続け、策をめぐらせ戦った結果、大敵を負かし勝利を収めることとなったのです。

これは帝に対する私の忠義心の表れとも言えます。帝のため、また天下の平和を実現せんがため、一日とて心を砕かない日はありません。現在の状況についてよく考えてみると、越王は戦闘に破れその軍勢も数少なくなったとはいえども、

その兵力たるやまだ三万余騎を残しており、その軍勢も勇猛なる兵士の集まりと思えます。反対に呉軍の兵士は数において勝っているとは言え、昨日までの戦において戦功をたてて、今は命を大切にし恩賞を受ける事だけを考えています。

越軍の兵士は数少ないといっても、戦意にあふれ心を一つにし、自分らにはもはや逃げるところはないと覚悟を決めています。『窮鼠猫を咬み、闘雀人を恐れず』という言葉があります。この上呉国と越国が戦うようなことがあれば、呉国は必ずや危機に陥るでしょう。

とりあえずここは越王の命を助け、いくばくかの土地を与え、呉国の臣下に取り立てることになれば、呉国の夫差王は、呉越の両国を合併し支配するだけでなく、斉、楚、秦、趙の国々も全て我が国に朝貢することになるでしょう。

これがすなわち物事の基礎、根本をしっかりと固め、揺るがぬようにする一番の方法でしょう」と、理路整然と申し上げれば、呉王夫差はたちまち欲に釣られ、「よし、それでは早速会稽山の包囲網を解き、越王勾踐を助けてとらせ」と、命令しました。

太宰ヒは引き返し、大夫種にこれらの事情を説明すると、大夫種は大いに喜びを表すと、会稽山に駆け戻り、越王にこの旨報告しました。この結果に将士全員は心から安堵し、「ほとんど助かる見込みのない、危険な状況を救ったのは、

これ全て大夫種の知恵と策略のおかげだ」と、喜ばない人はいませんでした。


越王已に降旗を被建ければ、会稽の囲を解て、呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰る。勾践即太子王■与をば、大夫種に付て本国へ帰し遣し、我身は白馬素車に乗て越の璽綬を頚に懸、自ら呉の下臣と称して呉の軍門に降り給ふ。斯りけれ共、呉王猶心ゆるしや無りけん、「君子は不近刑人」とて、勾践に面を不見給、剰勾践を典獄の官に被下、日に行事一駅駆して、呉の姑蘇城へ入給ふ。其有様を見る人、涙の懸らぬ袖はなし。経日姑蘇城に着給へば、即手械足械を入て、土の楼にぞ入奉りける。夜明日暮れ共、月日の光をも見給はねば、一生溟暗の中に向て、歳月の遷易をも知給はねば、泪の浮ぶ床の上、さこそは露も深かりけめ。

越王勾踐はすでに降伏表示の旗を掲げているので、呉の軍勢は会稽山の囲いを解き、呉の兵士らは呉国に帰り、また越国の兵士らも母国に引上げました。勾踐はすぐに皇子(セキヨ)を大夫種に預けて越国に送り届けさせると、

自分は白馬に曳かせた罪人護送用の白木造りの車に乗って、越王の印璽を下げた組み紐を首に掛け、自分から私は呉国の下級役人だと名乗って、呉国の軍門に投降しました。このような状況であるにかかわらず、呉王夫差は未だに心から安心できず、

「君子たる者、罪人に近づくことはならぬ」と、勾踐に顔を合わせようとはしませんでした。その上勾踐を獄舎の役人に引渡すと、一日一駅のゆっくりした速度で護送し、呉国の姑蘇城に向かわせました。その様子を見ていた人々で、涙を流さない者は居ませんでした。

日も過ぎ行き、やがて姑蘇城に到着するとすぐに、手かせ足かせをつけられ、土の牢舎に放り込まれたのでした。太陽も月も見ることがないため、夜の明けるのも、日が暮れたのも分からず、ただ暗闇の中で日を過ごしていれば、

月日の経つのも分からず、ただ流れる涙ばかりが床を濡らし、露でもこれほど濡らすことはないでしょう。      (終)

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