4 太平記 巻第四 (その三)


去程に范蠡越の国に在て此事を聞に、恨骨髄に徹て難忍。哀何なる事をもして越王の命を助け、本国に帰り給へかし。諸共に謀を廻らして、会稽山の恥を雪めんと、肺肝を砕て思ければ、疲身替形、簀に魚を入て自ら是を荷ひ、魚を売商人の真似をして、呉国へぞ行たりける。姑蘇城の辺にやすらひて、勾践のをはする処を問ければ、或人委く教へ知せけり。范蠡嬉しく思て、彼獄の辺に行たりけれ共、禁門警固隙無りければ、一行の書を魚の腹の中に収て、獄の中へぞ擲入ける。勾践奇く覚して、魚の腹を開て見給へば、西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵。とぞ書たりける。筆の勢文章の体、まがふべくもなき范蠡が業ざ也。と見給ひければ、彼れ未だ憂世に存へて、為我肺肝を尽しけりと、其志の程哀にも又憑もしくも覚へけるにこそ、一日片時も生けるを憂しとかこたれし我身ながらの命も、却て惜くは思はれけれ。斯りける処に、呉王夫差俄に石淋と云病を受て、身心鎮に悩乱し、巫覡祈れ共無験、医師治すれ共不痊、露命已に危く見へ給ける処に、侘国より名医来て申けるは、「御病実に雖重医師の術及まじきに非ず。石淋の味を甞て、五味の様を知する人あらば、輒く可奉療治。」とぞ申ける。「さらば誰か此石淋を甞て其味をしらすべき」と問に、左右の近臣相顧て、是を甞る人更になし。勾践是を伝聞て泪を押へて宣く、「我会稽の囲に逢し時已に被罰べかりしを、今に命助置れて天下の赦を待事、偏に君王慈慧の厚恩也。我今是を以て不報其恩何の日をか期せん。」とて潛に石淋を取て是を甞て其味を医師に被知。医師味を聞て加療治、呉王の病忽に平癒してげり。呉王大に悦で、「人有心助我死、我何ぞ是を謝する心無らんや。」とて、越王を自楼出し奉るのみに非ず。剰越の国を返し与へて、「本国へ返り去べし。」とぞ被宣下ける。

やがて越の国に残っていた范蠡は、勾踐が戦いに敗れ捕われの身と成ったことを聞き、地団駄を踏んで悔しがりました。ここは何としても越王を救い出し、本国に連れ戻そうと思いました。諸将らと共に会稽山の恥を雪がなければと、真剣に議論を続け作戦を練り上げたのでした。

その結果、范蠡はやつれた庶民に変装すると、植物で編んだかごに魚を入れ、それを背負って魚の行商人のふりをし、呉国に向かいました。姑蘇城の近くで休憩し、勾踐の捕われている場所を訊ねたら、ある人が詳しく教えてくれました。

喜んだ范蠡はその牢舎近くに行きましたが、周辺の警備は物々しく近寄ることも出来ません。そこで彼は手紙を一筆認め、魚の腹中に隠して獄舎の中に投げ入れました。勾踐は不思議に思って魚の腹を開いてみれば、

一書がありそれには、「西伯囚■里。重耳走■。皆以為王覇。莫死許敵」と、書かれていました。つまり、『西伯(周国の文王)はキョウリに捕らわれ、重耳(晋国の文公)は白狄(母の出身地)に逃げ込んだ。しかしその後二人とも覇者になりました。

決して敵に殺されることのないように』と、言う意味です。その筆勢や文章の構成などから、これは間違いなく范蠡のものだと分かり、と言うことは彼は未だこの辛い世に生存しており、私を救うため奔走しているのかと、その忠義心に感激し、また頼もしくも思われました。

そのため今まで一日一時も生きることが辛く、もう早く死にたいと思っていた自分の命を、惜しむようになられました。そのような時、呉王夫差は突然、石淋(膀胱結石、腎臓結石など)と言う病気になり、心身ともに苦痛がひどく、巫女らの祈祷も効果なく、

医師らも治療に励みましたが治りませんでした。はかなくも命はこれまでかと思われた時、侘国より来た名医が、「王のご病状は確かに重態ですが、医師として治療が不可能だと言うわけではありません。王の体内に出来た結石を舐めて、

その五つの味(辛、酸、塩、苦、甘)について、私に知らせてくれるなら治療もうまくいくと思います」と、申し上げました。「だったら誰かこの結石を舐めて、医師にその味を報告するように」と、左右に控えている家臣に聞いてみましたが、

皆お互いに顔を見合わせるばかりで、誰も舐めようとはしません。勾踐はこの話を伝え聞くと涙を押さえながら、「私は会稽の戦において、呉の軍勢に包囲されて、当然討ち取られる命を今まで助けていただき、何時か赦免される日を待つ身となれたのも、

これ全て呉王夫差殿の情深いお心によるものであり、今こそ私はそのご恩に報わなければ、一体何時そのときがあるというのでしょうか」と、そっと結石を手に取り舐め、その味について医師に報告しました。医師はその味を聞いて治療を進めたところ、

呉王の病気はたちまち完治したのでした。呉王は大変喜んで、「心ある人によって、私の命は救われたのだ。私はその恩に対して報わなければならない」と、越王勾踐を牢屋から解放したのみならず、越国も元通り彼に返却し、「本国に帰り去るように」と、命じられたのです。


爰に呉王の臣伍子胥と申者、呉王を諌て申けるは、「「天与不取却て得其咎」云へり。此時越の地を不取勾践を返し被遣事、千里の野辺に虎を放つが如し。禍可在近。」申けれ共呉王是を不聞給、遂に勾践を本国へぞ被返ける。越王已に車の轅を廻して、越の国へ帰り給ふ処に、蛙其数を不知車前に飛来。勾践是を見給て、是は勇士を得て素懐を可達瑞相也。とて、車より下て是を拝し給ふ。角て越の国へ帰て住来故宮を見給へば、いつしか三年に荒はて、梟鳴松桂枝狐蔵蘭菊叢、無払人閑庭に落葉満て簫々たり。越王免死帰給ぬと聞へしかば、范蠡王子王■与を宮中へ入奉りぬ。越王の后に西施と云美人座けり。容色勝世嬋娟無類しかば、越王殊に寵愛甚しくして暫くも側を放れ給はざりき。越王捕呉給ひし程は為遁其難側身隠居し給たりしが、越王帰給ふ由を聞給ひて則後宮に帰り参り玉ふ。年の三年を待わびて堪ぬ思に沈玉ける歎の程も呈れて、鬢疎かに膚消たる御形最わりなくらうたけて、梨花一枝春雨に綻び、喩へん方も無りけり。公卿・大夫・文武百司、此彼より馳集りける間、軽軒馳紫陌塵冠珮鎗丹■月、堂上堂下如再開花。

その時、呉王の臣下で伍子胥と言う者が、呉王に対して、「『天与不取却て得其咎』(天が与えてくれるものを受け取らないと、かえって天罰を受ける、つまり好機を無にすればかえって災いを招く)と、言う言葉があります。この時にあたり越の地を没収せず、勾踐に返却するなど、

千里の草原に虎を放つようなものです。近いうちにきっと災いがやってくるでしょう」と、苦言を呈したのですが、呉王は聞こうとせず、とうとう勾踐を越の国に帰らせたのでした。すでに越王は車を越国に向けて進ませ、やがて越国に到着する頃、

数知れないほどの蛙が、車の前に飛び来たったのです。これを見た勾踐は、このように蛙が集まってくると言うのは、私が勇猛な武者を手に入れ、長年の願望が実現できると言う瑞兆に違いないと思い、車から降りてその蛙たちを拝んだのでした。

やがて都に着いて以前の宮殿に帰還してみれば、三年の月日に荒れ果てて、松や桂の枝には梟が鳴き、蘭や菊の咲く草むらには、狐が隠れていると言う有様です。庭の清掃をする人も無く、落ち葉が庭中にあふれ、まわりは静まり返っています。

越王勾踐が死罪を許されて帰ってきたと聞いて、范蠡は皇子のセキヨを宮中に呼び入れました。越王勾踐のお后に西施と言う美しい方がおられました。その美貌はこの世のものとは思えないほどで、勾踐も彼女を寵愛すること尋常でなく、一時も側から放そうとはしませんでした。

彼女は越王が呉国に捕われた時、難を逃れるため身を隠していましたが、勾踐が帰還されたと聞き、すぐに宮中の後宮に戻られたのでした。彼女は三年の間勾踐を待ちわび、悲しさに耐えていたことが分かるほど鬢は乱れ、肌のつやも消えていましたが、

その姿には気品があふれ、梨の花が春雨に濡れているような美しさは、喩えようもありませんでした。勾踐の帰還を聞きつけて、公卿、大夫や文官、武官の高級官僚らが、あちこちから駆けつけてくる車は、都の道路を走り回り、舞い上がる土ぼこりで冠や槍も白くなり、

宮中全体が再び花の開いたような賑やかさになりました。


斯りける処に自呉国使者来れり。越王驚て以范蠡事の子細を問給ふに、使者答曰、「我君呉王大王好婬重色尋美人玉ふ事天下に普し。而れ共未だ如西施不見顔色。越王出会稽山囲時有一言約。早く彼西施を呉の後宮へ奉傅入、備后妃位。」使也。越王聞之玉て、「我呉王夫差が陣に降て、忘恥甞石淋助命事、全保国身を栄やかさんとには非ず、只西施に為結偕老契なりき。生前に一度別て死して後期再会、保万乗国何かせん。されば縦ひ呉越の会盟破れて二度我為呉成擒共、西施を送他国事は不可有。」とぞ宣ひける。范蠡流涙申けるは、「誠に君展転の思を計るに、臣非不悲云へ共、若今西施を惜給はゞ、呉越の軍再び破て呉王又可発兵。去程ならば、越国を呉に被合のみに非ず、西施をも可奪、社稷をも可被傾。臣倩計るに、呉王好婬迷色事甚し。西施呉の後宮に入給ふ程ならば、呉王是に迷て失政事非所疑。国費へ民背ん時に及で、起兵被攻呉勝事を立処に可得つ。是子孫万歳に及で、夫人連理の御契可久道となるべし。」と、一度は泣一度は諌て尽理申ければ、越王折理西施を呉国へぞ被送ける。西施は小鹿の角のつかの間も、別れて可有物かはと、思ふ中をさけられて、未だ幼なき太子王■与をも不云知思置、ならはぬ旅に出玉へば、別を慕泪さへ暫しが程も止らで、袂の乾く隙もなし。越王は又是や限の別なる覧と堪ぬ思に臥沈て、其方の空を遥々と詠めやり玉へば、遅々たる暮山の雲いとゞ泪の雨となり、虚しき床に独ねて、夢にも責て逢見ばやと欹枕臥玉へば、無添甲斐化に、無為方歎玉ふもげに理りなり。

そうこうしている内に呉国から使者が来たのです。びっくりした越王が范蠡に用件を聞かせたところ、その使者は、「我が主君の呉王はこの上なく女性好きで、美女を広く天下からお求めになっています。しかしながら未だ西施ほどの美女を、ご覧になったことはありません。

越王は会稽山の囲いを出るとき、一つの約束をされました。その約束通り西施を呉国の後宮に差し出してください。后としてお迎えする予定です」と、答えたのです。越王はこの話を聞き、「私が呉王夫差の陣に降伏したのも、恥を忍んで呉王の結石を舐めたのも、

全て自分の身を守ろうと考えたからではない。ただ西施と共に夫婦として永く暮らしたいからだ。生きている内に彼女と別れ、死後の再会を期待しながら、この国を守ったとて一体何になろう。だから、たとえ呉越の和平条約が破れて、私が再び呉国に捕らわれることはあっても、

西施を他国に送ることなど、決してあろうはずがないのだ」と、仰せられたのです。范蠡が涙を流しながら、「主君が心から悩み困惑している時、悲しまない者は臣ではないと言いますが、今ここで西施を失うことを惜しむならば、呉越両国は再び軍事的緊張状態になり、

呉王夫差は軍隊を編成し、越国に向かって発向するでしょう。もしそうなれば、呉国は越国を併呑するばかりでなく、西施をも奪い取り、越国の存続も危うくなります。この私めがよくよく考えてみるところ、呉王は女性に目がなく、その好色ぶりはひどいものです。

もし西施が後宮に入るようなことになれば、呉王は彼女に狂って政治に身が入らず、失政続きになることは、火を見るより明らかです。そして、呉国の財政状況が悪くなり、民衆が国家に反発を覚えるようになれば、我が国は軍勢を召集し、

呉国の攻撃に移ると、勝利は間違いないでしょう。これによって、子々孫々まで繁栄を続け、西施殿と夫婦としての契りも久しいものとなるでしょう」と、ある時は涙ながらに、またある時は強い語調で苦言を呈し、理路整然と話されたので、さすがに越王は反論することができず、

西施を呉国に引渡すことにしました。西施はたとえば鹿の角のように短い時間でも、越王と別れることなど出来ないと思っているのに、無理やり引き裂かれ、その上まだまだ幼い皇子セキヨには、この地に残していくと知らせることもなく、慣れない旅に出発しました。

しかし、あまりにもつらく悲しい別れに、涙は止まることもなく、袂の乾く間もありませんでした。越王は越王でこのまま永遠の別れになるのかと気持ちは沈み切り、西施が去って行ったかなたの空を、はるかに眺められました。ゆっくりと暮れていく山にかかった雲が、

雨を降らすかのように涙があふれ、今はむなしい寝床に一人で寝転び、せめて夢の中ででも会いたいと思いつめ、枕に顔をうずめてみてもどうにもならず、持って行くところのない悲しみに、嘆かれるのも無理はありません。


彼西施と申は天下第一の美人也。妝成て一度笑ば百の媚君が眼を迷して、漸池上に無花歟と疑ふ。艷閉て僅に見れば千態人の心を蕩して忽に雲間に失月歟と奇しまる。されば一度入宮中君王の傍に侍しより、呉王の御心浮れて、夜は終夜ら婬楽をのみ嗜で、世の政をも不聞、昼は尽日遊宴をのみ事として、国の危をも不顧。金殿挿雲、四辺三百里が間、山河を枕の下に直下ても、西施の宴せし夢の中に興を催さん為なりき。輦路に無花春日は、麝臍を埋て履を熏し、行宮に無月夏の夜は、蛍火を集て燭に易ふ。婬乱重日更無止時しかば、上荒下廃るれ共、佞臣は阿て諌せず。呉王万事酔如忘。伍子胥見之呉王を諌て申けるは、「君不見殷紂王妲妃に迷て世を乱り、周の幽王褒■を愛して国を傾事を。君今西施を婬し給へる事過之。国の傾敗非遠に。願は君止之給へ。」と侵言顔諌申けれ共、呉王敢て不聞給。

この西施と言う女性は、当時天下に二人と居ないと言われた、絶世の美女でした。丹念に化粧を施して一度笑みを漏らすと、百種もあるとも言う色気や性的魅力が殿方の目をくらませ、庭の池に咲く花々も、彼女の美しさの前では色あせて見えます。

また特に化粧に手をかけていない時でも、そっと垣間見ればその仕草の全てが、見た人の心をとろけさせ、輝いていた月も雲間に隠れてしまうのではと怪しまれます。そのような彼女ですから、呉国の後宮に入り呉王の側近くに仕えるようになってから、

呉王夫差の心は浮つき、夜はそれこそ朝まで、彼女との快楽を追い求め、世の政治にも力が入らず、昼は昼で夜になるまで遊興に耽って、国家の危機管理にも、全く無関心になってしまいました。雲をも凌ぐ高さから、周辺三百里を枕の下に見るような宮殿を造営したのも、

西施との遊宴を楽しんでいる夢に見たことを、実現させようとしたからです。天子が通る道に花の無い春には、地中にジャコウジカから取った香料を埋めて履物に香を移し、また仮御殿に月の出ない夏の夜は、大量の蛍を集め明かりとしました。

このように呉王が西施の魅力に狂いきった日を重ね、その止まるところも無いため、上流階級の人たちは荒みきり、また下層の民衆らの気力が衰えていくのにかかわらず、呉王周辺の取り巻き連中は誰一人、王を諌めようとはしませんでした。

また呉王も何事も酔いと共に忘れ去る毎日を送っていました。このような呉王を見て伍子胥は、「昔、殷王朝最後の紂王は姐己(だっき)に血迷って世を乱し、また周王朝の幽王は絶世の美女、褒ジ(女偏に似)を溺愛して、国家を傾けることになりました。

現今、帝のなされている西施に対する寵愛ぶりは、彼らの行状をはるかに超えているのではないでしょうか。このままでは我が国の滅びを見るのも、そう遠いことではないでしょう。どうか早々に今の行いを悔い改めてもらえませんか」と、忠告し、諌めましたが、呉王は聞く耳を持ちませんでした。


或時又呉王西施に為宴、召群臣南殿の花に酔を勧め給ける処に、伍子胥威儀を正しくして参たりけるが、さしも敷玉鏤金瑶階を登るとて、其裾を高くかゝげたる事恰如渉水時。其怪き故を問に、伍子胥答申けるは、「此姑蘇台越王の為に被亡、草深く露滋き地とならん事非遠。臣若其迄命あらば、住こし昔の迹とて尋見ん時、さこそは袖より余る荊棘の露も、■々として深からんずらめと、行末の秋を思ふ故に身を習はして裙をば揚る也。」とぞ申ける。忠臣諌を納れ共、呉王曾て不用給しかば、余に諌かねて、よしや身を殺して危きを助けんとや思けん、伍子胥又或時、只今新に砥より出たる青蛇の剣を持て参りたり。抜て呉王の御前に拉で申けるは、「臣此剣を磨事、退邪払敵為也。倩国の傾んとする其基を尋ぬれば、皆西施より出たり。是に過たる敵不可有。願は刎西施首、社稷の危を助けん。」と云て、牙を噛て立たりければ、忠言逆耳時君不犯非云事なければ、呉王大に忿て伍子胥を誅せんとす。伍子胥敢て是を不悲。「争い諌めて死節是臣下の則也。我正に越の兵の手に死なんよりは、寧君王の手に死事恨の中の悦也。但し君王臣が忠諌を忿て吾に賜死事、是天已に棄君也。君越王の為に滅れて、刑戮の罪に伏ん事、三年を不可過。願は臣が穿両眼呉の東門に掛られて、其後首を刎給へ。一双の眼未枯前に、君勾践に被亡て死刑に赴き給はんを見て、一笑を快くせん。」と申ければ、呉王弥忿て即伍子胥を被誅、穿其両眼呉の東門幢上にぞ被掛ける。

そんなことがあってから、呉王がまた西施のため遊宴を催し、多数の臣下を呼び集め、南殿の花を愛でながら酔いを楽しんでいるところに、伍子胥が威儀を正してその場にやって来ました。そして、玉を敷き詰め、黄金で飾った美しい階段を登ろうとして、

裾を高く捲り上げた様子は、まるで水溜りを越えるような格好でした。その不自然な姿に呉王が質問すると、伍子胥は、「この豪華な五層の宮殿である姑蘇台も、越王勾踐のために滅ぼされ、草が生い茂り、落ちる露のなすままに、荒れきった土地となるのも、

そう遠いことではないでしょう。もし、その時まで臣下である私が命を保ち得て、以前住まいしていたこの土地を尋ねてみれば、荒れ果てた土地には棘が茂り、涙なのか棘の露なのか袖よりあふれ、きっと水溜りのようになっているのではと思われます。

そこでこの先のことを考えて、今から体を慣らしておこうと、裾を捲り上げたのです」と、答えられました。忠臣である伍子胥がいくら諌めても、呉王は聞こうとはしません。ほとほと手を焼いた伍子胥は、こうなれば我が身を犠牲にしても、国家の危急を救わなければと考えました。

そこである時伍子胥は、今まさに研ぎ上がったばかりの青蛇の剣を携えて参内しました。その剣を抜き放ち呉王の御前に平伏して、「私がこの剣を研ぎ澄ますのは邪悪を退け、敵を追い払うためです。いま国運が傾かんとしていますが、その原因をよくよく考えてみるに、

全て西施から出ていると思われます。そしてこれ以上の敵もまた考えられません。ここは一つ西施の首を刎ね、国家の危機を助けたく思います」と言って、歯を食いしばって立ち上がりました。しかし、忠告の言葉はとかく相手の感情を害して、

君主といえども間違いを犯さないことなど考えられないので、さすが呉王も激怒し、伍子胥を征伐しようとしました。伍子胥は別段悲しむこともなく、「主君を諌めようと戦って、その結果死を与えられようとも、臣下として忠節を通せたことに本望です。

私としては、越国の兵士の手にかかって殺されるよりは、むしろ主君である呉王の手で殺される方が、恨みや悲しみの中にも何か喜びもあります。しかし主君が臣下の忠義心より出た諫言に激怒し、死を与えたと言うことは、天がすでに君を見捨てたことに他ならないでしょう。

そして呉国が越王に滅ぼされ、帝が死罪に処せられるのに、三年とはかからないでしょう。願わくば私の両眼を穿って呉国の東門に架け、その後私の首を刎ねてください。その二つの目の形が崩れる前に、帝が越王勾踐に滅ぼされ、

処刑台に向かうのを見て、思い切り笑ってやりましょう」と、話したので、呉王はますます激怒し、即刻伍子胥の首を刎ねると、その両眼を穿ち取って、呉国の東門の旗に架けたのでした。


斯りし後は君悪を積ども臣敢て不献諌、只群臣口を噤み万人目を以てす。范蠡聞之、「時已に到りぬ。」と悦で、自二十万騎の兵を率して、呉国へぞ押寄ける。呉王夫差は折節晋国呉を叛と聞て、晋国へ被向たる隙なりければ、防ぐ兵一人もなし。范蠡先西施を取返して越王の宮へ帰し入奉り、姑蘇台を焼掃ふ。斉・楚の両国も越王に志を通ぜしかば、三十万騎を出して范蠡に戮力。呉王聞之先晋国の戦を閣て、呉国へ引返し、越に戦を挑とすれば、前には呉・越・斉・楚の兵如雲霞の、待懸たり。後には又晋国の強敵乗勝追懸たり。呉王大敵に前後を裹れて可遁方も無りければ、軽死戦ふ事三日三夜、范蠡荒手を入替て不継息攻ける間、呉の兵三万余人討れて僅に百騎に成にけり。呉王自相当る事三十二箇度、夜半に解囲六十七騎を随へ、姑蘇山に取上り、越王に使者を立て曰、「君王昔会稽山に苦し時臣夫差是を助たり。願は吾今より後越の下臣と成て、君王の玉趾を戴ん。君若会稽の恩を不忘、臣が今日の死を救ひ給へ。」と言を卑し厚礼降せん事をぞ被請ける。越王聞之古の我が思ひに、今人の悲みさこそと哀に思知給ければ、呉王を殺に不忍、救其死思給へり。范蠡聞之、越王の御前に参て犯面申けるは、「伐柯其則不遠。会稽の古は天越を呉に与へたり。而を呉王取事無して忽に此害に逢り。今却て天越に呉を与へたり。無取事越又如此の害に逢べし。君臣共に肺肝を砕て呉を謀る事二十一年、一朝にして棄ん事豈不悲乎。君行非時不顧臣の忠也。」と云て、呉王の使者未帰前に、范蠡自攻鼓を打て兵を勧め、遂に呉王を生捕て軍門の前に引出す。呉王已に被面縛、呉の東門を過給ふに、忠臣伍子胥が諌に依て、被刎首時、幢の上に掛たりし一双の眼、三年まで未枯して有けるが、其眸明に開け、相見て笑へる気色なりければ、呉王是に面を見事さすが恥かしくや被思けん、袖を顔に押当て低首過給ふ。数万の兵見之涙を流さぬは無りけり。即呉王を典獄の官に下され、会稽山の麓にて遂に首を刎奉る。古来より俗の諺曰、「会稽の恥を雪むる。」とは此事を云なるべし。自是越王呉を合するのみに非ず、晉・楚・斉・秦を平げ、覇者の盟主と成しかば、其功を賞して范蠡を万戸侯に封ぜんとし給ひしか共、范蠡曾て不受其禄、「大名の下には久く不可居る、功成名遂而身退は天の道也。」とて、遂に姓名を替へ陶朱公と呼れて、五湖と云所に身を隠し、世を遁てぞ居たりける。釣して芦花の岸に宿すれば、半蓑に雪を止め、歌て楓葉の陰を過れば、孤舟に秋を戴たり。一蓬の月万頃の天、紅塵の外に遊で、白頭の翁と成にけり。高徳此事を思准らへて、一句の詩に千般の思を述べ、窃に叡聞にぞ達ける。

この後、呉王は何かと悪行を続けても、臣下は誰一人として諌めることも無く、居並ぶ家臣は何事にも口をつぐみ、万人はただ、目で非難を表すだけでした。范蠡はこの状況を聞き、「時期はもはや来たかも」と喜び、自ら二十万騎の軍勢を率いて、呉国に攻め寄せました。

丁度その頃、呉王夫差は晋国が呉国に謀反を起こしたと聞き、晋国に出兵していた隙だったので、防禦にあたる兵士は誰一人居ませんでした。攻め入った范蠡は、まず最初に西施の身柄を確保し、越王の宮中に送り返した後、姑蘇台を焼き払いました。

斉国、楚国の両国も越王に味方すると決めていましたから、三十万騎を出動させ、范蠡に協力しました。呉王はこの状況を耳にすると、とりあえず晋国との戦争を中断し、呉国に引き返して、越国に戦いを仕掛けようとしましたが、

行く手には呉、越、斉、楚の国々の兵士らが、雲霞の如く待ち構えており、後方からは晋国の強敵が、勝ちに乗じて追いかけてきました。ここに呉王は前後を敵の大軍に包囲され、もはや逃げ落ちる手立ても無く、ただ闇雲に三日三晩を戦いましたが、

范蠡は次々と新手を投入し、息継ぐ間もなく攻め続けました。やがて呉国の軍勢は、三万余人の戦死者を出し、残るはわずか百騎ばかりになってしまいました。呉王夫差は自ら敵に向かって戦うこと三十二回、夜半になって包囲を破り、六十七騎を率いて姑蘇山に逃げ込み、

そこから越国の陣営に使者を立て、「昔、越王勾踐殿が会稽山に逃げ込み苦しんでおられた時、この私め呉国の夫差がお助けしました。今後、私は越国の下級臣下として、越王のおみ足の下にひれ伏しましょう。もし越王殿が会稽での恩をお忘れでなければ、

今度はこの私の命を助けてください」と、言葉に気を使いながら、礼を尽くして頼み込みました。この訴えを聞いていた越王勾踐は、かつての自分のことを思い出し、今この人の悲しみを考えると哀れになり、とても呉王を殺害することなど出来ず、助けようと思われました。

范蠡はこの話を聞くと、越王の御前に進み面と向かうと、「『伐柯其則不遠(斧の柄を作るため木を伐るときは、木を伐ろうとしている斧の柄を、手本にすると良い)』と言います。つまり手本となるものは、身近にあるではないですか。その昔、会稽での出来事は、天が越国を呉国に与えたのです。

それなのに、呉王はそれを受け取ろうとしなかったため、たちまちこのような災難に会っているのです。ところが今、天は越国に呉国を与えようとしているのです。それなのに、越国がそれを受け取らなければ、また呉国のような厄災に会うこととなるでしょう。

帝を始めとして臣下全員が身を砕いて、呉を欺き策略を練ること、二十一年になります。それを今、たちまちに捨て去るなんて、これほどの悲しみがありましょうか。君主が正しいことを行わない時は、臣下は君主の命を無視することが、忠義の表し方となります」と、申し上げました。

そして、呉王の使者が帰る前に、范蠡自ら攻め太鼓を打ち鳴らして兵を進め、ついに呉王夫差を生け捕ると、軍門の前に引きずり出しました。呉王は両手を後ろ手に縛られ、呉の東門を通り過ぎようとしました。その時、かつて呉国の忠臣、伍子胥が呉王夫差を諌めた罪により、

斬首の刑を受け、東門の旗近くに架けられていた伍子胥の両眼が、三年を経ても朽ちずにあり、その両眼がキッと見開き笑ったように思われ、呉王夫差は顔を見られるのがさすがに恥ずかしく、袖を顔に押し当てると首を低くして通り過ぎました。

この様子に見ていた数万の兵士らも、涙を流さない者はいませんでした。すぐ呉王の身柄は獄舎の役人に引き渡され、会稽山の麓であえなく斬首刑に処せられました。昔より世間に言い伝えられている諺の、「会稽の恥を雪ぐ」とは、このことを言います。

このことがあってから、越王勾踐は呉国を併呑しただけでなく、晋、楚、斉、秦の各国を征伐し、支配者としての地位を築くこととなり、功績のあった范蠡に、それを賞して広大なる領地を与えようと考えましたが、范蠡はその恩賞を受けようとせず、

「大領主の臣下として長く仕えるべきではないでしょう。『功成名遂身退、天之道』(老子::成功したらいつまでもその地位に留まらず、さっさと引退するのが天の道にかなった生き方である)と言います。ここは私が引退するのが当然でしょう」と、姓名まで替えて陶朱公と呼ばれるようになり、

五湖と呼ばれる地にその身を潜め、世間から逃れて気ままに暮らしました。釣に興じてそのまま葦の花が咲く宿に泊まる内、知らぬ間に雪のように花が蓑を覆い、紅葉した楓の葉陰を歌いながら過ぎ行けば、ぽつんと浮かんだ一そうの舟にも秋を感じます。

広々とした天空に朧な月を見ながら、俗世から離れて遊び暮らす内に年齢を重ね、頭に白いものを置く老人となりました。児嶋高徳はこれらのことを考え合わせて、一句の詩にいろいろな思いを込めて、人知れず気持ちを前天皇後醍醐に伝えたのでした。


去程に先帝は、出雲の三尾の湊に十余日御逗留有て、順風に成にければ、舟人纜を解て御艤して、兵船三百余艘、前後左右に漕並べて、万里の雲に沿。時に滄海沈々として日没西北浪、雲山迢々として月出東南天、漁舟の帰る程見へて、一灯柳岸に幽也。暮れば芦岸の煙に繋船、明れば松江の風に揚帆、浪路に日数を重ぬれば、都を御出有て後二十六日と申に、御舟隠岐の国に着にけり。佐々木隠岐判官貞清、府の嶋と云所に、黒木の御所を作て皇居とす。玉■に咫尺して被召仕ける人とては、六条少将忠顕、頭大夫行房、女房には三位殿の御局許也。昔の玉楼金殿に引替て、憂節茂き竹椽、涙隙なき松の墻、一夜を隔る程も可堪忍御心地ならず。■人暁を唱し声、警固の武士の番を催す声許り、御枕の上に近ければ、夜のをとゞに入せ給ても、露まどろませ給はず。萩戸の明るを待し朝政なけれ共、巫山の雲雨御夢に入時も、誠に暁ごとの御勤、北辰の御拝も懈らず、今年何なる年なれば、百官無罪愁の涙を滴配所月、一人易位宸襟を悩他郷風給らん。天地開闢より以来斯る不思議を不聞。されば掛天日月も、為誰明なる事を不恥。無心草木も悲之花開事を忘つべし。

やがて先帝が出雲三尾の港で十余日を送る内、風の向きも良くなり、水夫たちはとも綱を解くと先帝に乗船をお願いし、兵船三百余艘が前後左右を警備しながら、万里の果の雲に沿うように漕ぎ進みました。青く続く海は静まり返り、太陽が西北方の波のかなたに沈むと、

はるかかなたの雲を抱いた山から、東南の天に向かって月が出てきました。漁師の乗った舟が港に帰る様子も見え、柳の植わった岸にはかすかに一穂の灯りが見えます。日が暮れると葦が生い茂り、もやったような岸に舟をつなぎ、

夜が明けると松林を吹き抜ける風に帆を揚げ、海上に日数を重ねながら漕ぎ進み、都を出発してから二十六日目に、先帝の乗られた舟は、隠岐の国に到着したのでした。島では佐々木隠岐判官貞清が、島内の府の嶋と言う所に、

皮のついたままの木で御所としての建物を建造し、そこを皇居としました。先帝のお側近くに仕える人としては、六条少将千草忠顕と、頭大夫藤原行房の二人と、女房としては三位局阿野廉子だけです。以前、都でお住まいになっていた金殿玉楼に比べ、

悲しみを感じさせる節だらけの竹が屋根を支え、涙さえ通すことのなさそうな松の垣がめぐらされて、ただの一夜を過ごすだけでさえ、とても我慢が出来そうにもありません。夜明けになって時刻を告げる役人の声や、

警固にあたる武士の勤務を告げる声などが、枕辺まで聞こえてきます。このような状況では、夜が更けて寝室にお入りになっても、ほとんど眠りにつくことが出来ません。夜が明けると都の御所で、萩の戸の部屋で行われていた、天皇による政務である朝政(あさまつりごと)は、

ここでは行われませんでしたが、巫山の雲雨(男女の情愛)を期待しつつ眠られようとも、朝になるときちっと仏に対してお勤めをされ、妙見宮への礼拝も、怠ることはありませんでした。今年は一体どうした年なのか、多数の官僚たちが罪も無いのに流されて、

配所に月を見ながら涙を流すことになり、また前天皇が異郷の地に心を悩ませようとは。この日本が始まって以来、このような理解に苦しむことが、果たしてあったでしょうか。そのような訳で天にかかる太陽や月も、一体誰のために光り輝けば良いのかと、思われているでしょうし、

また意思や感情などあるはずも無い草木にしても、この有様を悲しんで、花を咲かせることを忘れるのでは。      (終)

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