5 太平記 巻第五 (その二)


○大塔宮熊野落事
大塔二品親王は、笠置の城の安否を被聞食為に、暫く南都の般若寺に忍て御座有けるが、笠置の城已に落て、主上被囚させ給ぬと聞へしかば、虎の尾を履恐れ御身の上に迫て、天地雖広御身を可被蔵所なし。日月雖明長夜に迷へる心地して、昼は野原の草に隠れて、露に臥鶉の床に御涙を争ひ、夜は孤村の辻に彳て、人を尤むる里の犬に御心を被悩、何くとても御心安かるべき所無りければ、角ても暫はと被思食ける処に、一乗院の候人按察法眼好専、如何して聞たりけん、五百余騎を率して、未明に般若寺へぞ寄たりける。折節宮に奉付たる人独も無りければ一防ぎ防て落させ可給様も無りける上、透間もなく兵既に寺内に打入たれば、紛れて御出あるべき方もなし。さらばよし自害せんと思食て、既に推膚脱せ給たりけるが、事叶はざらん期に臨で、腹を切らん事は最可安。若やと隠れて見ばやと思食返して、仏殿の方を御覧ずるに、人の読懸て置たる大般若の唐櫃三あり。二の櫃は未開蓋を、一の櫃は御経を半ばすぎ取出して蓋をもせざりけり。此蓋を開たる櫃の中へ、御身を縮めて臥させ給ひ、其上に御経を引かづきて、隠形の呪を御心の中に唱てぞ坐しける。若捜し被出ば、頓て突立んと思召て氷の如くなる刀を抜て、御腹に指当て、兵、「此にこそ。」と云んずる一言を待せ給ける御心の中、推量るも尚可浅。

☆ 大塔宮が熊野に落ちて行かれたこと

後醍醐天皇の皇子である、大塔宮護良二品親王は笠置城の戦況を注視しながら、しばらく南都の般若時に身を潜めて居られましたが、笠置城がすでに落ちてしまい、天皇も捕らえられたと聞き、まるで虎の尾を踏むような危険が、わが身に迫ってきて、

天地いかに広しと言え、我が身を隠し通せる所もありません。太陽や月は光り輝いていますが、自分だけは長い闇夜を踏み迷っているかのような気がします。昼は野原の草むらに身を潜め、野宿の寝床に落ちる露なのか、また涙なのかもはっきりしません。

夜ともなれば、村の辻々に狐がたむろし、人を怪しんで吠え立てる里の犬に心を苦しまされ、一時も心を休ませることが出来ず、何とかしばらくでも休みたいと思っていたところ、一体どうして嗅ぎつけたのか、一乗院に仕える職員、按察法眼好専が五百余騎を率いて、

未明に般若時へ押し寄せてきました。ちょうどその時、宮に仕えている者が誰も居なかったので、一旦敵を防ぎ、その間に宮を落とすことも不可能であり、その上寺内には隙間も無いくらい、敵兵が討ち入っており、人にまぎれて逃れることも出来そうにありません。

やむを得ない、自害を図ろうと考え、すでにもろ肌脱ぎになっていましたが、事が成就出来ないからといって、腹を切るのはあまりにも安直な考えではないか。もしものこともあろうかと、ここは身を隠してはと考え直し、仏殿の方を見渡して見ると、

誰かが読みかけたまま置いてある、大般若経を収納する唐櫃が三つ見えました。そのうち二つの櫃は蓋は開いていませんが、一つは経典を半分ほど取り出して、そのまま蓋をしていません。宮はこの蓋の開いた唐櫃に、体を縮めて入ると寝転び、

体の上に経本をのせ、隠形の呪(姿を隠すまじない)を心中唱えていました。もし見つかれば、すぐ突き立てられるように氷のような刃を抜き放ち、腹の上に構えながら、敵兵の、「ここに居るぞ」と、言う言葉を待つ心中、察するに余りあります。


去程に兵仏殿に乱入て、仏壇の下天井の上迄も無残所捜しけるが、余りに求かねて、「是体の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開見よ。」とて、蓋したる櫃二を開て、御経を取出し、底を翻して見けれどもをはせず。蓋開たる櫃は見るまでも無とて、兵皆寺中を出去ぬ。宮は不思議の御命を続せ給ひ、夢に道行心地して、猶櫃の中に座しけるが、若兵又立帰り、委く捜す事もや有んずらんと御思案有て、頓て前に兵の捜し見たりつる櫃に、入替らせ給てぞ座しける。案の如く兵共又仏殿に立帰り、「前に蓋の開たるを見ざりつるが無覚束。」とて、御経を皆打移して見けるが、から/\と打笑て、「大般若の櫃の中を能々捜したれば、大塔宮はいらせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそ坐しけれ。」と戯れければ、兵皆一同に笑て門外へぞ出にける。是偏に摩利支天の冥応、又は十六善神の擁護に依る命也。と、信心肝に銘じ感涙御袖を湿せり。

やがて襲撃兵らが仏殿に乱入し、仏壇の下から天井の上まで、残すところ無いほど探しましたが何も見つからず、「この唐櫃こそ怪しいぞ、あの大般若経の櫃を開けてみろ」と、蓋をした櫃二つを開き、中から御経を取り出し、底をひっくり返して見ましたが、

宮は見つかりません。また蓋の開いた櫃は調べるまでもなかろうと、兵士らは全員寺から出て行きました。このように宮は奇跡的に助かり、夢見心地で櫃の中に潜んでいましたが、もしかすれば兵士らが引き返して、再度詳しく捜索をするかも知れぬと考え、

急いで先ほど兵らが探した櫃の方に、入れ替わって身を隠しました。そこに案の定、兵らが仏殿に引き返してくると、「さっき蓋の開いた櫃を調べなかったが、不審な点もあるので調べてみよう」と、御経を全部放り出して宮を捜しました。

しかし突然、ハハハと笑い出し、「大般若経の櫃を散々探して見たものの、大塔宮は居られず、大唐の玄奘三蔵法師が居られたぞ」と、冗談を言ったので、兵士らは皆笑いながら門外に出て行きました。このように信じられないことが起こったのも、

すべて、護身等を司る摩利支天のご利益や、また十二神将と四天王の守護によって守られた命に違いないと、今後の一層の信心を誓えば、感激の涙が袖を濡らすのでした。


角ては南都辺の御隠家暫も難叶ければ、則般若寺を御出在て、熊野の方へぞ落させ給ける。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相摸・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、彼此以上九人也。宮を始奉て、御供の者迄も皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半に責め、其中に年長ぜるを先達に作立、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。此君元より龍楼鳳闕の内に長とならせ給て、華軒香車の外を出させ給はぬ御事なれば、御歩行の長途は定て叶はせ給はじと、御伴の人々兼ては心苦しく思けるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる単皮・脚巾・草鞋を召て、少しも草臥たる御気色もなく、社々の奉弊、宿々の御勤懈らせ給はざりければ、路次に行逢ひける道者も、勤修を積める先達も見尤る事も無りけり。由良湊を見渡せば、澳漕舟の梶をたへ、浦の浜ゆふ幾重とも、しらぬ浪路に鳴千鳥、紀伊の路の遠山眇々と、藤代の松に掛れる磯の浪、和歌・吹上を外に見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀を催す時しもあれ、切目の王子に着給ふ。

このような事があっては、南都周辺に身を潜めることは難しく思われ、すぐに般若時を出て、熊野の方へ落ちていただくことにしました。お供として従うのは、光林房玄尊、赤松律師則祐、木寺相模、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、矢田彦七、

平賀三郎ら以上九人です。宮を始めお供の人たち全員が、山伏用の柿色の衣に笈を背負い、眉が隠れるほど頭巾を深くかぶり、一行の内年長の者を先達になってもらい、田舎の山伏が熊野参詣に来たごとく見せました。

この大塔宮護良親王は宮中宮殿で成長され、華美な車以外で外出されたこともないので、熊野までの長い道のりは、きっとご無理なのではないかと、お供の人達はかねてから頭を痛めていました。ところが一体何時経験されたのか分かりませんが、

粗末な足袋や脚半に草鞋を履き、少しも疲れを感じさせずに、途中の社々で神前に布を供えたり、宿場宿場でのお勤めもきっちりとこなされ、道中に行き会う人達にも、修行を積んだ先達にも見咎められることもありませんでした。

由良の港を見渡していると、沖を漕ぎ行く舟が梶を失くしたため、浦の浜に咲く浜木綿が、一体どれほど重なっているのか分からないように、自分の行く先もはっきりとは知らず、まるで波に漂い、鳴いている千鳥のようなものです。

紀伊路の山々は遠く果てしなく思え、藤代あたりでは波が磯の松にかかり、また和歌、吹上を遠く眺めて行くうちに、月に照り映える玉津島の輝ける光も、今はただむなしく思われ、長く続く水際や曲がりくねった海岸線を行く旅は、それでなくても心を悩ませるものなのに、

人里離れた村の木々も雨に濡れ、今日の日暮れを知らせる遠くの寺の鐘が、侘しさと悲しさを思い起こされているうちに、切目の王子に到着されました。


其夜は叢祠の露に御袖を片敷て、通夜祈申させ給けるは、南無帰命頂礼三所権現・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子、垂迹和光の月明かに分段同居の闇を照さば、逆臣忽に亡びて朝廷再耀く事を令得給へ。伝承る、両所権現は是伊弉諾・伊弉冉の応作也。我君其苗裔として朝日忽に浮雲の為に被隠て冥闇たり。豈不傷哉。玄鑒今似空。神若神たらば、君盍為君と、五体を地に投て一心に誠を致てぞ祈申させ給ける。丹誠無二の御勤、感応などかあらざらんと、神慮も暗に被計たり。終夜の礼拝に御窮屈有ければ、御肱を曲て枕として暫御目睡在ける御夢に、鬟結たる童子一人来て、「熊野三山の間は尚も人の心不和にして大儀成難し。是より十津川の方へ御渡候て時の至んを御待候へかし。両所権現より案内者に被付進て候へば御道指南可仕候。」と申すと被御覧御夢は則覚にけり。是権現の御告也。けりと憑敷被思召ければ、未明に御悦の奉弊を捧げ、頓て十津河を尋てぞ分入らせ給ける。其道の程三十余里が間には絶て人里も無りければ、或は高峯の雲に枕を峙て苔の筵に袖を敷、或は岩漏水に渇を忍んで朽たる橋に肝を消す。山路本より雨無して、空翠常に衣を湿す。向上れば万仞の青壁刀に削り、直下ば千丈の碧潭藍に染めり。数日の間斯る嶮難を経させ給へば、御身も草臥はてゝ流るゝ汗如水。御足は欠損じて草鞋皆血に染れり。御伴の人々も皆其身鉄石にあらざれば、皆飢疲れてはか/゛\敷も歩得ざりけれ共、御腰を推御手を挽て、路の程十三日に十津河へぞ着せ給ひける。

その夜は草むらに建つ露の落ちた祠に、袖の片方を敷き一晩中、次のように祈願をされました。南無帰命頂礼(神に祈りを捧げる時の言葉)三所権現(熊野の三社)、満山護法(全山仏法を守ること)、十万の眷属(一族の皆様)、八万の金剛童子(神の使いの童子)などの皆様にお願いいたします。

垂迹和光(衆生救済のためこの世に現れたこと)した菩薩らの光り輝く月が、この世の闇を照らして下さって、逆臣を忽ちに滅ぼし去り、朝廷が再び繁栄を得られるようにしてください。熊野本宮と熊野速玉大社は、伊弉諾尊と伊弉冉尊が、世の人間を救済するため、

この世に姿を現されたと伝え聞いています。我が君、後醍醐天皇はそれらの神々の子孫として、世を治めていましたが、朝日がたちまちに起こる雲に隠され、この世は闇に包まれました。なんと痛ましいことではありませんか。

今や神様や仏様は、この世を照らし見守っては下さらないのですか。もし神が神として居られるならば、なぜ天皇が天皇で居られないのですかと、五体を地に投げ打って、一心不乱に祈り続けられました。このように誠意を持った祈願に対して、神仏にも気持ちが通じて、

神もそのお考えを新たにされました。一晩中ぶっ通しの祈願に、体もこわばってきましたので、肘を曲げて枕にし、しばらくうとうとされました。その時見た夢に、髪を左右に分けて結い現れた一人の童子が、「熊野三山においては、いまだなお、人の心は油断が出来ず、

大願成就ははなはだ難しく思われます。この地より、十津川方面に向かわれ、時節の到来をお待ちください。熊野、新宮の両権現より、道案内をするよう派遣されてきましたので、お教え致しましょう」と言うと、見ていた夢はすぐに覚めました。

これはきっと熊野権現のお告げに違いないと、心強く思われ、まだ夜の明けない内に、感謝のお供えを捧げると、すぐ十津川に向かって山を分け入ったのでした。その道中、三十余里には人家も一切ありませんので、ある時は高い峰にかかる雲を枕になぞらえて、

苔の筵に袖を敷いて休み、またある時は喉の渇きを、岩より漏れ出る水で癒したり、朽ちかけた橋を渡るのも、不安な気持ちになります。進み行く山道は雨も降らないのですが、深山の樹木が含む湿気が、常に着物を濡らし続けます。

見上げれば青々とした高い岸壁が前にそびえ、見下ろせば底なしとも思える深い谷が、青々としています。数日の間はこのような難儀な道を進み続けていますので、体は疲れ果て洪水のように汗が流れます。足も怪我をして草鞋も血に染まっています。

お供をする人たちも皆、普通の人間ですから同じように疲れ切って、歩みもはかどらないのですが、皇子の腰を押したり、手を引いたりしながら歩き続け、やっと十三日目に十津川に到着しました。


宮をばとある辻堂の内に奉置て、御供の人々は在家に行て、熊野参詣の山伏共道に迷て来れる由を云ければ、在家の者共哀を垂て、粟の飯橡の粥など取出して其飢を相助く。宮にも此等を進せて二三日は過けり。角ては始終如何可在とも覚へざりければ、光林房玄尊、とある在家の是ぞさもある人の家なるらんと覚しき所に行て、童部の出たるに家主の名を問へば、「是は竹原八郎入道殿の甥に、戸野兵衛殿と申人の許にて候。」と云ければ、さては是こそ、弓矢取てさる者と聞及ぶ者なれ、如何にもして是を憑まばやと思ければ、門の内へ入て事の様を見聞処に、内に病者有と覚て、「哀れ貴からん山伏の出来れかし、祈らせ進らせん。」と云声しけり。玄尊すはや究竟の事こそあれと思ければ、声を高らかに揚て、「是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭て三十三所の巡礼の為に、罷出たる山伏共、路蹈迷て此里に出て候。一夜の宿を借一日〔の〕飢をも休め給へ。」と云たりければ、内より怪しげなる下女一人出合ひ、「是こそ可然仏神の御計ひと覚て候へ。是の主の女房物怪を病せ給ひ候。祈てたばせ給てんや。」と申せば、玄尊、「我等は夫山伏にて候間叶ひ候まじ。あれに見へ候辻堂に、足を休て被居て候先達こそ、効験第一の人にて候へ。此様を申さんに子細候はじ。」と云ければ、女大に悦で、「さらば其先達の御房、是へ入進せさせ給へ。」と云て、喜あへる事無限。玄尊走帰て此由を申ければ、宮を始奉て、御供の人皆彼が館へ入せ給ふ。宮病者の伏たる所へ御入在て御加持あり。千手陀羅尼を二三反高らかに被遊て、御念珠を押揉ませ給ければ、病者自口走て、様々の事を云ける、誠に明王の縛に被掛たる体にて、足手を縮て戦き、五体に汗を流して、物怪則立去ぬれば、病者忽に平瘉す。主の夫不斜喜で、「我畜たる物候はねば、別の御引出物迄は叶候まじ。枉て十余日是に御逗留候て、御足を休めさせ給へ。例の山伏楚忽に忍で御逃候ぬと存候へば、恐ながら是を御質に玉らん。」とて、面々の笈共を取合て皆内にぞ置たりける。御供の人々、上には其気色を不顕といへ共、下には皆悦思へる事無限。

十津川に到着すると、大塔宮護良親王には、とりあえず近くの辻に建っている仏堂に入っていただき、供の人たちだけで近くの民家に行き、熊野参詣の山伏たちであるが、道に迷ってここに来た者だと説明すると、町の人らは気の毒がって、

粟の飯や栃の粥などを用意してくれて、とりあえず飢えを凌ぐことが出来ました。宮様にもこれらの食事をしていただき、二、三日はここで過ごしました。しかしながら、何時までもここに滞在するわけにもいかず、光林房玄尊は民家の中でも、

それなりの由緒がありそうな家を訪ねて行き、応対に出てきた子供に、この家の主人の名前を聞いてみると、「この屋敷の主人は竹原八郎入道殿の甥御さんで、戸野兵衛殿と申す人でございます」と、答えました。何と、ここのご主人こそ弓矢を取っては、

並びなき人だと聞いている方の屋敷だったのか。これはどうあっても、協力をお願いしなければと思い、門内に入り屋敷内の様子を窺ってみると、どうも屋敷内に病人が居るような気配がして、「あぁ、何方か霊験あらたかな山伏でも来てくれないものでしょうか、

祈祷をお願いしたいのに」と、言う話し声が聞こえてきます。玄尊はそれを聞き、これはまことに都合の良いことだと思い、声を高らかに上げて、「私どもは熊野那智の三重の滝に七日間打たれ、その後那智に千日篭った後、三十三ヶ所の巡礼の為出て来た山伏でありますが、

道に迷ってこの里に来た者です。なにとぞ一夜の宿と、この一日の飢えをなだめてください」と、言ったところ、中からみすぼらしい下女が一人出てきて、「これこそまさしく神仏のご加護に違いないでしょう。この家の御主人の奥様が物の怪に取りつかれ、寝込んでいます。

どうぞご祈祷のほど、お願いいたします」と、話します。玄尊は、「我らは単に山伏に過ぎない者ですから、とてもそのようなご祈祷など出来ません。しかし、あそこに見えている辻堂にて、足を休めている先達こそ、霊験確かな素晴らしい人でございます。

あなたの話されることをお願いするのに、何も問題はありません」と、話すと女は大喜びで、「ではどうぞその先達殿を、ここに案内してくだされ」と、喜ばれることこの上ありません。玄尊は走り戻り事情を話し、宮を始めとして、お供の人たち全員が、

その屋敷の中にお入りになりました。大塔宮は病人が寝ている部屋に入られ、祈祷を始められました。千手陀羅尼経(千手観音の功徳を説いた経)を二、三回繰り返し読誦され、数珠を押し揉み続けたところ、病人は自分から何かさまざまなことを口走り始めました。

その様子はまるで不動明王の呪縛にかかったかのように、体を縮めて振るえ続け、五体には汗が噴出して、やがて物の怪は、彼女の体より抜け出て病人は快復したのです。主人、戸野兵衛はこの上なく喜び、「我々には特に貯えもありませんから、

格別なるお礼は出来ません。せめて十日ほどはここに御逗留されて、お体をお休めになって下さい。先ほどの山伏たちが軽率にも、こっそり逃げ出さぬとも限りませんから、恐れながらこれらの持ち物を、質として預からしていただきます」と、

みんなの笈などの荷物を取り集め、屋敷内に保管しました。お供の人々は顔にこそ表しませんが、その実、心中皆大喜びでした。


角て十余日を過させ給けるに、或夜家主の兵衛尉、客殿に出て薪などせさせ、四方山の物語共しける次に申けるは、「旁は定て聞及ばせ給たる事も候覧。誠やらん、大塔宮、京都を落させ給て、熊野の方へ趣せ給候けんなる。三山の別当定遍僧都は無二武家方にて候へば、熊野辺に御忍あらん事は難成覚候。哀此里へ御入候へかし。所こそ分内は狭く候へ共、四方皆嶮岨にて十里二十里が中へは鳥も翔り難き所にて候。其上人の心不偽、弓矢を取事世に超たり。されば平家の嫡孫惟盛と申ける人も、我等が先祖を憑て此所に隠れ、遂に源氏の世に無恙候けるとこそ承候へ。」と語ければ、宮誠に嬉しげに思食たる御気色顕れて、「若大塔宮なんどの、此所へ御憑あて入せ給ひたらば、被憑させ給はんずるか。」と問せ給へば、戸野兵衛、「申にや及び候。身不肖に候へ共、某一人だに斯る事ぞと申さば、鹿瀬・蕪坂・湯浅・阿瀬川・小原・芋瀬・中津川・吉野十八郷の者迄も、手刺者候まじきにて候。」とぞ申ける。其時宮、木寺相摸にきと御目合有ければ、相摸此兵衛が側に居寄て、「今は何をか隠し可申、あの先達の御房こそ、大塔宮にて御坐あれ。」と云ければ、此兵衛尚も不審気にて、彼此の顔をつく/゛\と守りけるに、片岡八郎・矢田彦七、「あら熱や。」とて、頭巾を脱で側に指置く。実の山伏ならねば、さかやきの迹隠なし。兵衛是を見て、「げにも山伏にては御座せざりけり。賢ぞ此事申出たりける。あな浅猿、此程の振舞さこそ尾篭に思召候つらん。」と以外に驚て、首を地に着手を束ね、畳より下に蹲踞せり。俄に黒木の御所を作て宮を守護し奉り、四方の山々に関を居、路を切塞で、用心密しくぞ見へたりける。是も猶大儀の計畧難叶とて、叔父竹原八郎入道に此由を語ければ、入道頓て戸野が語に随て、我館へ宮を入進らせ、無二の気色に見へければ、御心安く思召て、此に半年許御座有ける程に、人に被見知じと被思食ける御支度に、御還俗の体に成せ給ければ、竹原八郎入道が息女を、夜るのをとゞへ被召て御覚異他なり。さてこそ家主の入道も弥志を傾け、近辺の郷民共も次第に帰伏申たる由にて、却て武家をば褊しけり。

このようにして十日余りが過ぎたある夜、主人戸野兵衛尉が客室に来て、囲炉裏に薪などくべさせて、何かと世間話をしていた時、「あなた方はきっとご存知だと思いますが、果たして本当なのか、大塔宮が京都を落ちられて、熊野の方へ向かわれたそうです。

しかし、熊野三山の別当(長官)定遍僧都は、カチカチの幕府方ですから、熊野周辺に身を隠すことは、非常に難しいと思えます。何もそんな危険な所など行かずに、この里に来られたら良いのに。ここは土地こそ確かに狭いけれど、四方は険しい山に囲まれているし、

十里、二十里も中に入れば、鳥でさえ飛んでくるのが難しいくらいです。その上里人たちは正直者で、弓矢を取らせても世間並み以上です。それで昔、平家の嫡孫、平惟盛と言う人が、我らの先祖を頼ってここに身を隠し、やがて源氏の世になってからも、

無事に世を終えられたと聞き及んでいます」と、話されたのでした。話を聞いていた宮様は、本当に嬉しそうな表情で、「もし、大塔宮護良親王がこの里を頼って来られたら、本当に援助を惜しまないのか」と、質問されると戸野兵衛は、

「当然でございます。私自身はそんなにたいした人間ではありませんが、私がこう言う事情だと話せば、鹿瀬、蕪坂、湯浅、阿瀬川、小原、芋瀬、中津川や吉野十八郷の者まで宮をお守し、何者にも手出しはさせません」と、話したのです。

その時、宮は木寺相模と咄嗟に目を合わせると、相模は兵衛のそばに来て、「今となっては隠すこともないでしょう。あの先達の僧侶こそ、大塔宮護良親王様でございます」と話せば、兵衛はすぐには信じられなく、皆の顔をつくづくと眺めまわしていました。

その時、片岡八郎、矢田彦七の二人が、「あぁ、暑いなあ」と、頭巾を脱いで傍らに置きました。本当の山伏ではないので、月代の痕もくっきりと残っています。兵衛はこれを見て、「なるほど、貴殿たちは山伏ではないようです。どうも畏れ多いことを話したようです。

知らぬこととは言え、先程までの無礼な振る舞い、礼儀をわきまえぬ奴だと思われたことでしょう」と、大いに驚くと首を地に付け、手を揃えて畳を降り、うずくまりました。そして急遽、丸木造りの御所を建てて、宮の身辺を警備しました。

また四方の山々には関所を設け、道路を塞いで通行を制限し、用心に用心を重ねました。これでもまだまだ不十分だと考え、叔父の竹原八郎入道に事情を話したところ、入道はすぐ戸野の話に従って、自分の屋敷に大塔宮を迎え入れ、

二心無き忠誠をお誓いしましたので、宮も安心され、ここに半年ばかり逗留されました。また人に何か感づかれないように、還俗されたかのような容姿になられ、また竹原入道の娘を夜の寝室に招きいれ、寵愛されたことも当然のようです。

そうなると屋敷の主人、竹原入道もますます忠誠心を強め、近隣の村人たちも次第に宮に従属を誓い、すっかり幕府を軽んずることになりました。


去程に熊野の別当定遍此事を聞て、十津河へ寄せんずる事は、縦十万騎の勢ありとも不可叶。只其辺の郷民共の欲心を勧て、宮を他所へ帯き出し奉らんと相計て、道路の辻に札を書て立けるは、「大塔宮を奉討たらん者には、非職凡下を不云、伊勢の車間庄を恩賞に可被充行由を、関東の御教書有之。其上に定遍先三日が中に六万貫を可与。御内伺候の人・御手の人を討たらん者には五百貫、降人に出たらん輩には三百貫、何れも其日の中に必沙汰し与べし。」と定て、奥に起請文の詞を載て、厳密の法をぞ出しける。夫移木の信は為堅約、献芹の賂は為奪志なれば、欲心強盛の八庄司共此札を見てければ、いつしか心変じ色替て、奇しき振舞共にぞ聞へける。宮「角ては此所の御止住、始終悪かりなん。吉野の方へも御出あらばや。」と被仰けるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と強て留申ければ、彼が心を破られん事も、さすがに叶はせ給はで、恐懼の中に月日を送らせ給ける。結句竹原入道が子共さへ、父が命を背て、宮を討奉らんとする企在と聞しかば、宮潛に十津河も出させ給て、高野の方へぞ趣かせ給ひける。其路、小原・芋瀬・中津河と云敵陣の難所を経て通る路なれば、中々敵を打憑て見ばやと被思召、先芋瀬の庄司が許へ入せ給ひけり。芋瀬、宮をば我館へ入進らせずして、側なる御堂に置奉り、使者を以て申けるは、「三山別当定遍武命を含で、隠謀与党の輩をば、関東へ注進仕る事にて候へば、此道より無左右通し進らせん事、後の罪科陳謝するに不可有拠候、乍去宮を留進らせん事は其恐候へば、御伴の人々の中に名字さりぬべからんずる人を一両人賜て、武家へ召渡候歟、不然ば御紋の旗を給て、合戦仕て候つる支証是にて候と、武家へ可申にて候。此二つの間、何れも叶まじきとの御意にて候はゞ、無力一矢仕らんずるにて候。」と、誠に又予儀もなげにぞ申入たりける。宮は此事何れも難議也。と思召て、敢御返事も無りけるを、赤松律師則祐進み出て申けるは、「危きを見て命を致すは士卒の守る所に候。されば紀信は詐て敵に降り、魏豹は留て城を守る。是皆主の命に代りて、名を留めし者にて候はずや。兎ても角ても彼が所存解て、御所を通し可進にてだに候はゞ、則祐御大事に代て罷出候はん事は、子細有まじきにて候。」と申せば、平賀三郎是を聞て、「末坐の意見卒尓の議にて候へ共、此艱苦の中に付纏奉りたる人は、雖一人上の御為には、股肱耳目よりも難捨被思召候べし。就中芋瀬庄司が申所、げにも難被黙止候へば、其安きに就て御旗許を被下候はんに、何の煩か候べき。戦場に馬・物具を捨、太刀・刀を落して敵に被取事、さまでの恥ならず。只彼が申請る旨に任て、御旗を被下候へかし。」と申ければ、宮げにもと思召て、月日を金銀にて打て着たる錦の御旗を、芋瀬庄司にぞ被下ける。角て宮は遥に行過させ給ぬ。

やがて、熊野の別当定遍はこの情報を得ましたが、十津川を襲撃するには、たとえ十万騎の軍勢で、攻め寄せても不可能だろう。ただその周辺の里人どもを欲で釣り、宮を他の場所におびき出そうと計画し、道路の辻に高札を立て、「大塔宮護良親王を討ち奉った者には、

官位官職に関係なく、伊勢の車間庄を恩賞として与えるべしと、関東の幕府から指示書が来ている。なおその上に、私、定遍から三日の内に六万貫を与えよう。宮の側近や従者などを討ち取った者には五百貫を、また宮方の者で幕府側に降ってきた者には三百貫を、

即日手続きをして必ず与えるだろう」と、決定した事項を書き付け、終わりのほうには間違いの無い旨、神仏に誓う言葉を書き付けて、信憑性を強調しました。いわゆる移木の信と言う故事は、約束を守らせるためであり、わずかな金品を贈ることは、

気持ちを萎えさせるためであるからして、欲の皮の突っ張った十津川八郷の役人たちは、この高札を見てからは、いつの間にか心変わりをし、その態度もおかしくなって来たと、噂が流れ出しました。大塔宮はこの様子に、「こうなってはここに住み留まることは、

良くない結果になるだろう。吉野の方へ落ちて行こうか」と、仰せられましたが、竹原入道は、「一体どうされたのですか。何もご心配は必要ありません」と、強く引き止められ、彼を説得するのも難しく、恐怖にびくびくしながら、月日を過ごされました。

しかし、挙句の果てに竹原入道の子供たちでさえ、父の命令に背き、宮を討ち奉る計画を立てていると聞けば、さすがに宮もこっそりと十津川を脱出し、高野山を目指しました。その途中、小原、芋瀬、中津河などの敵陣内の難所を通過しなければならず、

ならばいっそのこと敵を頼って行こうかと考えられ、まず芋瀬の役人の所に入られました。芋瀬の役人は自分の屋敷に宮を案内することなく、傍の寺院に案内すると、使者を通じて、「熊野三山の別当定遍は、鎌倉幕府の命令に従って、

このたびの陰謀に協力した連中は、関東の幕府に連絡するつもりなので、ここを簡単にお通しすれば、後で申し開きがとても出来ません。かと言って、宮をここに留め参らすことも、畏れ多くて出来ませんし、ここは一つ、お供の人々の中から、

世間で名の通ったお方を二人ばかり引き渡して頂き、幕府に引き渡すか、でなければ、宮様の御紋の入った旗を頂き、これが合戦に及んだ証拠でございますと、幕府に申し上げます。この二つの条件について、どちらも飲むことが出来ないとおっしゃられるならば、

やむを得ません、一戦交えなければならないでしょう」と、本当に手の打ちようもないことを、申し入れてきたのでした。宮はこれら二つの条件とも、出来ない相談だと考え、あえて返事をされずにいると、赤松律師則祐が進み出て、「主君の危難に際して、

命を投げ出すのは臣下として当然のことです。たとえば、秦末の武将、紀信が偽って敵に降り、魏豹は留まって城を守りました。この二人は主君の命の代わりになって、歴史に名を残した者ではございませんか。とにかく芋瀬の庄司が考えを変えて、

宮様を無事通してくれるならば、この赤松則祐が身代わりとして出頭することは、何ら問題ありません」と、申し上げました。平賀三郎はこれを聞き、「私のような末席の者の考えですが、この厳しい状況にありながら、宮様に付き従っている人たちは、

ただ一人と言えども宮様にとって、目や耳、手足となってお助けする人たちであり、とてもじゃないが失うことなど出来ないとお考えでしょう。と言っても、芋瀬庄司が申し述べてきたことに対して、無視することが出来ないならば、その要求の内、御旗を下げ渡すことが、

一番問題が無いのでは無いでしょうか。戦場において、馬や武器などを捨てたり、太刀や脇差を落として敵に取られても、それほどの恥とも思えません。ここは彼の求めるままに、御旗を下げ渡すのがよろしいかと」と、申し上げますと、宮様もなるほどと考えられ、

月日を金や銀で刺繍した錦の御旗を、芋瀬庄司に下げ渡しました。その結果、宮は先に進んで行くことが出来ました。


暫有て村上彦四郎義光、遥の迹にさがり、宮に追着進せんと急けるに、芋瀬庄司無端道にて行合ぬ。芋瀬が下人に持せたる旗を見れば、宮の御旗也。村上怪て事の様を問に、尓々の由を語る。村上、「こはそも何事ぞや。忝も四海の主にて御坐す天子の御子の、朝敵御追罰の為に、御門出ある路次に参り合て、汝等程の大凡下の奴原が、左様の事可仕様やある。」と云て、則御旗を引奪て取、剰旗持たる芋瀬が下人の大の男を掴で、四五丈許ぞ抛たりける。其怪力無比類にや怖たりけん。芋瀬庄司一言の返事もせざりければ、村上自御旗を肩に懸て、無程宮に〔奉〕追着。義光御前に跪て此様を申ければ、宮誠に嬉しげに打笑はせ給て、「則祐が忠は孟施舎が義を守り、平賀が智は陳丞相が謀を得、義光が勇は北宮黝が勢を凌げり。此三傑を以て、我盍治天下哉。」と被仰けるぞ忝き。其夜は椎柴垣の隙あらはなる山がつの庵に、御枕を傾けさせ給て、明れば小原へと志て、薪負たる山人の行逢たるに、道の様を御尋有けるに、心なき樵夫迄も、さすが見知進せてや在けん、薪を下し地に跪て、「是より小原へ御通り候はん道には、玉木庄司殿とて、無弐の武家方の人をはしまし候。此人を御語ひ候はでは、いくらの大勢にても其前をば御通り候ぬと不覚候。恐ある申事にて候へ共、先づ人を一二人御使に被遣候て、彼人の所存をも被聞召候へかし。」とぞ申ける。宮つく/゛\と聞召て、「芻蕘の詞迄も不捨」と云は是也。げにも樵夫が申処さもと覚るぞ。」とて、片岡八郎・矢田彦七二人を、玉置庄司が許へ被遣て、「此道を御通り有べし、道の警固に、木戸を開き、逆茂木を引のけさせよ。」とぞ被仰ける。玉置庄司御使に出合て、事の由を聞て、無返事にて内へ入けるが、軈て若党・中間共に物具させ、馬に鞍置、事の体躁しげに見へければ、二人の御使、「いや/\此事叶ふまじかりけり。さらば急ぎ走帰て、此由を申さん。」とて、足早に帰れば、玉置が若党共五六十人、取太刀許にて追懸たり。二人の者立留り、小松の二三本ありける陰より跳出で、真前に進だる武者の馬の諸膝薙で刎落させ、返す太刀にて頚打落して、仰たる太刀を押直してぞ立たりける。迹に続て追ける者共も、是を見て敢て近付者一人もなし、只遠矢に射すくめけれ、片岡八郎矢二筋被射付て、今は助り難と思ければ、「や殿、矢田殿、我はとても手負たれば、此にて打死せんずるぞ。御辺は急ぎ宮の御方へ走参て、此由を申て、一まども落し進せよ。」と、再往強て云ければ、矢田も一所にて打死せんと思けれども、げにも宮に告申さゞらんは、却て不忠なるべければ、無力只今打死する傍輩を見捨て帰りける心の中、被推量て哀也。矢田遥に行延て跡を顧れば、片岡八郎はや被討ぬと見へて、頚を太刀の鋒に貫て持たる人あり。矢田急ぎ走帰て此由を宮に申ければ、「さては遁れぬ道に行迫りぬ。運の窮達歎くに無詞。」とて、御伴の人々に至まで中々騒ぐ気色ぞ無りける。

その後、宮様一行に遅れていた村上彦四郎義光は、一行に追い付こうと道を急いでいましたが、途中で思いがけなく芋瀬庄司と出会いました。芋瀬が家来に持たせていた旗を見ると、何と宮様の御旗です。村上は不審に思い、理由を問いただすと、

しかじかであると説明しました。村上は、「なんだと、そのようなことがあるものか。畏れ多くもこの国の主人、天皇のお子様である親王様が、朝敵討伐のため出征されているのに、その途中で貴様らのような凡下の者どもと、そんなことがあるはずがない」と言うや、

すぐに御旗を奪い取り、それだけでなく旗を持っていた、芋瀬の家来である大男を掴み上げるや、四、五丈ほど放り投げました。あまりの怪力に恐れをなし、芋瀬庄司は一言も言葉を返すことが出来ませんでした。そして村上義光は自分の肩に御旗をかけて道を急ぎ、

やがて宮様一行に追い付きました。村上義光は宮様の御前にひざまずき、これらの事情を申し上げると、宮様は嬉しそうに笑われ、「赤松則祐の忠義心は、孟施舎のような義に添ったものであり、平賀三郎の知恵は陳平(秦末から前漢初期の軍師、政治家)のように謀略に長け、

村上義光の勇敢さは北宮黝 (ほくきゅうゆう::斉国の勇士)の勇猛さにも引けを取らない。私はこのように三人の優れた臣下を持っている以上、どうして天下を治めることが出来ないことがあろうか」と仰せられ、皆は感激したのでした。

その夜は隙間だらけの椎の木造りの垣に囲まれた、木こりの家に宿泊され、翌日は小原を目指して出発しました。途中で薪を背負った山に住んでいる人に出会い、この先の道のこと色々聞いてみると、この身分の低い樵でも、一行の素性を知っているのか、

薪を下に下ろし地にひざまずいて、「ここから小原に向かう道には、途中玉木庄司殿と言う、筋金入りの幕府方の者がいます。この人を味方に引き入れなくては、どれほど大勢の人でも、その前を無事に通り過ぎるのは難しいと思います。

畏れながら私の考えでは、まず使者として、一、二人を差し向けて、玉木庄司殿の考えていることを、お聞きになっては如何でしょうか」と、申し上げたのです。宮はその話を真剣に聞き、「 『芻蕘(木こり)の話すことでも耳を傾けよ』と言うのは、このことである。

確かに木こりの言うことは一理あるぞ」と、早速片岡八郎、矢田彦七の二人を使者として、玉木庄司のもとに遣わし、「この道を護良親王が通過するので、道を警固するための木戸を開くと共に、逆茂木をも取り払うように」と、申し入れるよう指示しました。

玉木庄司は使者に面会し、一応事情を聞くことはしましたが、何も返事することなく屋敷内に入り、しばらくすると玉木の若い家来や中間ら、五、六十人ほどが武具に身を固め、馬には鞍を置き、何か物々しく騒いで居る様子が見えました。

この事態に二人は、「どうもおかしいぞ、この交渉は失敗かもしれない。ここは急いで戻り、事情を報告しなければ」と、慌てて引き返そうとしましたが、玉木庄司の家来ら五、六十人が甲冑を着けることなく、太刀を手にして追いかけてきました。

二人の使者、片岡八郎、矢田彦七は立ち止まり、小さな松が二、三本生えている場所に身を隠していましたが、そこから跳び出し、直前まで迫っていた、武者が乗った馬の両膝を薙いで落馬させ、返す刀で武者の首を落とすと、曲がった太刀を真っ直ぐに直して、

その場に立ちはだかりました。後に続いて追いかけてきた家来らも、この様子を見ては、さすが近づこうとする者は一人も無く、ただ遠くより矢を射掛けてくるばかりです。やがて、片岡八郎は矢を二本受けてしまい、もう助かることも難しく思い、

「もし、矢田殿、私は矢を受け傷も深いので、この場所で討ち死にする覚悟を決めました。貴殿は大急ぎで宮様のもとに走り帰り、この状況を説明し、何としてもここは落ち延びられるよう図ってくだされ」と、再三の強硬な申し入れに、共に討ち死にと思っていましたが、

宮にこの危急を連絡しない方が、かえって忠義に反すると思えば仕方なく、討ち死にするであろう仲間を見捨てて帰る心中、考えればあまりにも辛く悲しくなります。矢田ははるかに逃げ延びて、後ろを振り返って見ると、片岡八郎はすでに討たれてしまったようで、

彼の首らしきものを太刀に突き刺して、持っている者がいます。矢田は急いで走り帰り、宮にこの状況を申し上げると宮は、「もはや逃れることは出来ないようだ。我々の運命について、幸、不幸を今更嘆いてみても仕方ない」と話され、宮をはじめとしてお供の人たちも、騒ぎ立てる様子も見えません。


さればとて此に可留に非ず、行れんずる所まで行やとて、上下三十余人の兵共、宮を前に立進せて問々山路をぞ越行ける。既に中津河の峠を越んとし給ける所に、向の山の両の峯に玉置が勢と覚て、五六百人が程混冑に鎧て、楯を前に進め射手を左右へ分て、時の声をぞ揚たりける。宮是を御覧じて、玉顔殊に儼に打笑ませ給て、御手の者共に向て、「矢種の在んずる程は防矢を射よ、心静に自害して名を万代に可貽。但各相構て、吾より先に腹切事不可有。吾已に自害せば、面の皮を剥耳鼻を切て、誰が首とも見へぬ様にし成て捨べし。其故は我首を若獄門に懸て被曝なば、天下に御方の志を存ぜん者は力を失ひ、武家は弥所恐なかるべし。「死せる孔明生る仲達を走らしむ」と云事あり。されば死して後までも、威を天下に残すを以て良将とせり。今はとても遁れぬ所ぞ、相構て人々きたなびれて、敵に笑はるな。」と被仰ければ、御供の兵共、「何故か、きたなびれ候べき。」と申て、御前に立て、敵の大勢にて責上りける坂中の辺まで下向ふ。其勢僅三十二人、是皆一騎当千の兵とはいへ共、敵五百余騎に打合て、可戦様は無りけり。寄手は楯を雌羽につきしとうてかづき襄り、防ぐ兵は打物の鞘をはづして相懸りに近付所に、北の峯より赤旗三流、松の嵐に翻して、其勢六七百騎が程懸出たり。其勢次第に近付侭、三手に分て時の声を揚て、玉置庄司に相向ふ。真前に進だる武者大音声を揚て、「紀伊国の住人野長瀬六郎・同七郎、其勢三千余騎にて大塔宮の御迎に参る所に、忝も此君に対ひ進せて、弓を控楯を列ぬる人は誰ぞや。玉置庄司殿と見るは僻目か、只今可滅武家の逆命に随て、即時に運を開かせ可給親王に敵対申ては、一天下の間何の処にか身を置んと思ふ。天罰不遠から、是を鎮ん事我等が一戦の内にあり。余すな漏すな。」と、をめき叫でぞ懸りける。

そうは言うものの、いつまでもここに留まっている訳にもいかず、とりあえず行ける所までは行こうと、大塔宮護良親王以下の兵士ら三十余人が、宮を先頭に山道を尋ね尋ね越して行きました。中津河の峠ををまさに越えようとしていた時、

向こうに並んで見える山の頂上付近に、玉木の軍勢とおぼしき、五、六百人ほどが甲冑に身を固め、楯を前面に押し出し、左右には射手を控えさせて、閧の声を上げたのです。宮様はこの様子をご覧になり、厳しい表情の中にも笑みをたたえたお顔で、

お供の人たちに向かい、「矢の続く限り防戦するように、その後、心静かに自害し、我らの名を後世に残そうではないか。しかし、皆に言っておくが、私より先に切腹することは絶対に相成らぬ。私が自害を果たしてから、顔の皮を引き剥ぎ、

耳や鼻も削ぎ落として、誰の首かも分からないようにして捨て置くように。何故かと言えば、自分の首がもし獄門に架けられ、さらされるようなことになれば、天下に潜んでいる我々と考えを一つにする同志たちは、気力が萎えるであろうし、

反対に幕府の者どもはますます、傍若無人な振る舞いをするだろう。『死せる孔明(蜀の諸葛孔明)、生ける仲達(魏の将軍司馬仲達)を走らむ』と、言うこともある。だから死んでからでも、なおその威力を天下に及ぼすことが出来る者を、優れた武将と呼ぶのだ。

この状況になっては、とても逃れることは出来ないだろう、ここは一つ卑怯な振る舞いをして、敵の物笑いにならぬよう、各々努めねばならぬ」と、仰せられました。話を聞いていたお供の兵士らは、「どうして卑怯な真似など出来ようか」と、申し上げると、

宮様の御前に立って防御陣を形成し、敵が大勢で攻め上げてくる坂の途中まで、迎え討とうとしました。兵士ら全員は、一騎当千のつわものとは言えども、僅か三十二人の軍勢で、敵の五百余騎に向かっては、とても戦いになりません。寄せ来る敵は、

楯をまるで鳥の羽かのように並べ立てて、坂を登ってきます。対して大塔宮の防御側の兵士は、太刀を鞘から抜き出し、まさに白兵戦になろうとした時、北の峰より赤旗三旒を、松を吹き抜ける風に翻しながら、六、七百騎程の軍勢が現れました。

やがてその軍勢は次第に近づいてくると、三手に別れて閧の声を挙げ、玉木庄司の軍勢と向かい合いました。玉木軍の真ん前に進んできた武者が、大音声を上げて、「紀伊国の豪族である野長瀬六郎、同じく七郎が、三千余騎の軍勢を引き連れて、

大塔宮護良親王をお迎えに参ったが、畏れ多くもこの宮様に向かって弓を引き、楯を並べて手向かっているのは、一体どこの誰だ。もしかして、玉木庄司殿ではないかと思うが、間違いか。今この時に、滅亡近いと思われる鎌倉幕府の命令を守って、

まさに運気が開こうとされている親王に、敵対しているようでは、一体、今後日本のどこで生きていこうと思うのだ。まさに天罰が落ちようとしているぞ。ここは一戦のもとに片付けて見せよう。皆の者、全員残らず討ち取ってしまえ」と、喚き叫んで攻め掛りました。


是を見て玉置が勢五百余騎、叶はじとや思けん、楯を捨旗を巻て、忽に四角八方へ逃散ず。其後野長瀬兄弟、甲を脱ぎ弓を脇に挟て遥に畏る。宮の御前近く被召て、「山中の為体、大儀の計略難叶かるべき間、大和・河内の方へ打出て勢を付ん為、令進発之処に、玉置庄司只今の挙動、当手の兵万死の内に一生をも得難しと覚つるに、不慮の扶に逢事天運尚憑あるに似たり。抑此事何として存知たりければ、此戦場に馳合て、逆徒の大軍をば靡ぬるぞ。」と御尋有ければ、野長瀬畏て申けるは、「昨日の昼程に、年十四五許に候し童の、名をば老松といへり〔と〕名乗て、「大塔宮明日十津河を御出有て、小原へ御通りあらんずるが、一定道にて難に逢はせ給ぬと覚るぞ、志を存ぜん人は急ぎ御迎に参れ」と触廻り候つる間、御使ぞと心得て参て候。」とぞ申ける。宮此事を御思案あるに、直事に非ずと思食合せて、年来御身を放されざりし膚の御守を御覧ずるに、其口少し開たりける間、弥怪しく思食て、則開被御覧ければ、北野天神の御神体を金銅にて被鋳進たる其御眷属、老松の明神の御神体、遍身より汗かいて、御足に土の付たるぞ不思議なる。「さては佳運神慮に叶へり、逆徒の退治何の疑か可有。」とて、其より宮は、槙野上野房聖賢が拵たる、槙野の城へ御入ありけるが、此も尚分内狭くて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆を語はせ給て、安善宝塔を城郭に構へ、岩切通す吉野河を前に当て、三千余騎を随へて楯篭らせ給けるとぞ聞へし。

この様子にさすが玉木の軍勢、五百余騎はとても戦える相手ではないと思い、楯を捨て、旗を巻くとたちまちに、四方八方へ逃げ散りました。その後、野長瀬兄弟は兜を脱ぎ、弓を脇に挟んで、宮様から遥か離れて謹んで控えました。

宮様は近くに呼ばれ、「十津川の山中に潜んでいるようでは、倒幕の目的はとても達成出来ないとい考え、大和、河内方面に進出して、味方を増やそうと進軍を開始したところ、玉木庄司のため、あのような妨害を受け、わが方の兵士らは、

全く助かる見込みもないと思われる状況にあって、まさかの救援に出会うとは、天の神々はまだまだ我らを見捨ててはおられぬようだ。しかし、このようなことを一体何故知り得て、この戦場に駆けつけ、逆徒の大軍を追い払ったのだ」と、尋ねられ、

野長瀬が謹んでお答えするには、「昨日の昼頃、十四、五歳位の童子が、自分は老松だがと名乗ってから、『大塔宮様が明日、十津川を出発し、小原に向かわれるそうですが、間違いなく途中にて危険な目に会われる思います。

宮を援護しようと思われる人々は、大急ぎでお迎えに行くように』と、触れ回っていたので、てっきり宮様のお使いだと思い、やってきたのです」と、申し上げました。宮様はこの話を聞き、これはただ事ではないと思い、いつも肌身離さず、

身につけておられるお守りをご覧になると、お守りの口が少し開いたようになっており、ちょっとおかしいなと思って、すぐ開いて中を調べてみると、北野天神の金銅にて鋳造されたご神体に付属する、老松明神のご神体が全身汗まみれになり、

その上不思議なことに、おみ足には土が付いていました。「これはきっと、我々の幸運を、神々がお守りしてくれているに違いない。逆賊討伐は必ず成就すること、間違いないだろう」と仰せられ、それ以後宮様は、槙野上野房聖賢が建造した槙野城にお入りになられましたが、

この城も手狭なため、何かと都合が悪く思われました。そこで吉野の衆徒らに声をお掛けになり、味方に引き入れ、また安善(愛染明王?)を祭る宝塔を城内に勧請し、岩をきり通して流れる吉野川を、前面の防衛に当て、三千余騎の軍勢を従えて、立て篭もられたとか噂されています。     (終)

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