6 太平記 巻第六 (その一)


○民部卿三位局御夢想事
夫年光不停如奔箭下流水、哀楽互替似紅栄黄落樹。尓れば此世中の有様、只夢とやいはん幻とやいはん。憂喜共に感ずれば、袂の露を催す事雖不始今、去年九月に笠置城破れて、先帝隠岐国へ被遷させ給し後は、百司の旧臣悲を抱て所々に篭居し、三千の宮女涙を流して面々に臥沈給ふ有様、誠に憂世の中の習と云ながら、殊更哀に聞へしは、民部卿三位殿御局にて留たり。其を如何にと申に、先朝の御寵愛不浅上、大塔の宮御母堂にて渡せ給しかば、傍への女御・后は、花の側の深山木の色香も無が如く〔也〕。而るを世間静ならざりし後は、万づ引替たる九重の内の御住居も不定、荒のみ増る浪の上に、舟流したる海士の心地して、寄る方もなき御思の上に打添て、君は西海の帰らぬ波に浮沈み、泪無隙御袖の気色と承りしかば、空傾思於万里之暁月、宮は又南山の道なき雲に踏迷はせ給て、狂浮たる御住居と聞ゆれど、難託書於三春之暮雁。云彼云此一方ならぬ御歎に、青糸の髪疎にして、いつの間に老は来ぬらんと被怪、紅玉膚消て、今日を限の命共がなと思召ける御悲の遣方なさに、年来の御祈の師とて、御誦経・御撫物なんど奉りける、北野の社僧の坊に御坐して、一七日参篭の御志ある由を被仰ければ、此折節武家の聞も無憚には非ねども、日来の御恩も重く、今程の御有様も御痛しければ、無情は如何と思て、拝殿の傍に僅なる一間を拵て、尋常の青女房なんどの参篭したる由にて置奉りけり。哀古へならば、錦帳に妝を篭、紗窓に艶を閉て、左右の侍女其数を不知、当りを輝て仮傅奉べきに、いつしか引替たる御忍の物篭なれば、都近けれ共事問かわす人もなし。

☆ 護良親王の母、民部卿三位局が霊夢を見られたこと

そもそも歳月というものは、矢が飛ぶように、また水が下流に向かって流れるように、決して留まることはありません。同じように世の哀楽も赤く咲いた花が、やがて黄ばんで落ちるように、移り変わるものです。まさに、この世の有様は、夢か幻とも言うべきものでしょう。

辛く悲しいことや、嬉しく楽しいことなど、考えれば考えるほど、袂を涙で濡らすことなど、何も今に始まったことではありませんが、去年の元弘元年(1331年)九月に、先帝後醍醐が立て篭もる笠置城が落ちて、翌年元弘二年(1332年)に先帝は隠岐国に遠流になりました。

その後、先帝に仕えていた多くの旧臣は悲しみを抱えて、あちこちに身を隠して閉じこもり、また宮中に仕えていた三千人とも言う女性たちは、それぞれが涙を流し、悲しみに沈んでいる有様は、この世の習いとは言うものの、哀れな話です。

その中でも特に、民部卿三位局殿ほど悲しく哀れな話はありません。と言うのは、彼女は先帝に並々ならぬご寵愛を受け、大塔宮護良親王のご母堂でもあります。彼女の傍にお仕えする女御や后でも、彼女の美しさの側にあっては、奥山に咲く花のようなもので、

容姿や風情にとてもかないません。しかし世の中が乱れ出すと今までとは異なり、宮中の中においても、そのお住まいも安定せず、丁度、荒れ狂う波の上に、舟で漕ぎ出した漁師のような気がします。今は頼るべき人も無い心細さに加えて、

帝は西海へ帰ることもないかと思われる波路を、浮き沈みし、流れる涙が袖を濡らさぬ時もないとお聞きすれば、万里のはてに輝く暁の月に、思いを馳せているようなむなしさを覚え、また大塔宮は都のはるか南の山中に、道なき道をさまよい迷い歩かれて、

一ヶ所に落ち着いて住むことも出来ないと聞きます。かと言って、春の夕暮れを飛ぶ雁に、手紙を託すことも難しくて出来ません。あれやこれや嘆きの種は尽きず、みどりの黒髪も、いつの間にかまばらになり、老が近づいているのかと、怪しむばかりです。

美しかった玉のような肌も消え去り、もう今日限りの命かと思え、悲しみにやりきれなく、昔から何かと願をかける時、いつも読経の指導を受けたり、身代わりの人形(ひとがた)などを納めていた僧侶を頼って、北野神社の僧房に向かい、七日間の参篭をしたいと申し上げました。

しかし神社にとってはこの時期、鎌倉幕府への聞こえも心配だし、かと言って日頃のお引き立ても無視できず、今彼女の置かれた境遇の悲しさを思えば、無情な扱いも如何なものかと考え、拝殿のかたわらに小さな部屋を用意し、平凡な若女房がいつもの参篭に来たように、

入室していただきました。哀しいかな時が時であれば、錦の垂れ幕の中に美しい姿を隠し、薄絹をかけた窓が、かもし出す魅力を閉じ込め、左右を数知れぬ侍女にかしずかれ、辺りを光り輝かせて参篭されるのに、何時こうなったのか、今はお忍びの参篭となり、

都近くであるのにかかわらず、話を交わす人も居りません。


只一夜松の嵐に御夢を被覚、主忘れぬ梅が香に、昔の春を思召出すにも、昌泰の年の末に荒人神と成せ玉ひし、心づくしの御旅宿までも、今は君の御思に擬へ、又は御身の歎に被思召知たる、哀の色の数々に、御念誦を暫被止て、御涙の内にかくばかり、忘ずは神も哀れと思しれ心づくしの古への旅と遊て、少し御目睡有ける其夜の御夢に、衣冠正しくしたる老翁の、年八十有余なるが、左の手に梅の花を一枝持、右の手に鳩の杖をつき、最苦しげなる体にて、御局の臥給たる枕の辺に立給へり。御夢心地に思召けるは、篠の小篠の一節も、可問人も覚ぬ都の外の蓬生に、怪しや誰人の道蹈迷へるやすらひぞやと御尋有ければ、此老翁世に哀なる気色にて、云ひ出せる詞は無て、持たる梅花を御前に指置て立帰けり。不思議やと思召て御覧ずれば、一首の歌を短冊にかけり。廻りきて遂にすむべき月影のしばし陰を何歎くらん御夢覚て歌の心を案じ給に、君遂に還幸成て雲の上に住ませ可給瑞夢也。と、憑敷思召けり。誠に彼聖廟と申奉るは、大慈大悲の本地、天満天神の垂迹にて渡らせ給へば、一度歩を運ぶ人、二世の悉地を成就し、僅に御名を唱る輩、万事の所願を満足す。況乎千行万行の紅涙を滴尽て、七日七夜の丹誠を致させ給へば、懇誠暗に通じて感応忽に告あり。世既澆季に雖及、信心誠ある時は霊艦新なりと、弥憑敷ぞ思食ける。

参篭中のある日、一夜松(道真公のお告げによって、北野天満宮に一夜にして生えた松)を吹き抜ける風の音に、夢を覚まされました。主人を忘れることなく、季節になれば咲く梅の香りに、昔の春を思い出してみれば、昌泰(898〜901年)の末期ごろに現人神になられた菅原道真公が、

大宰府に流されて行く悩み多き旅の宿なども、今は後醍醐先帝の境遇に思い合わされ、また自身の悩みや辛さにも重なってきます。あまりの哀れ悲しさに御念仏の声もしばし止まり、流れる涙の中で、

      忘れずば 神も哀れと 思い知れ 心づくしの いにしえの旅

と、詠まれて少しお眠りになられ、その夜見られた夢に、衣冠正しく礼装の八十余歳の老翁が、左手に梅の花を一枝持ち、右手には鳩の杖(鳩は食物を摂る時むせないので、それにあやかって鳩の飾りがついた老人用の杖)をついて、苦しげな様子で三位局が臥せっている枕辺に、

お立ちになっておられました。夢見心地でご覧になりながら、誰も訪ねてこない、このような都の郊外にある荒れ果てた住まいに、一体誰が道に迷ってたたずんでいるのかと、不思議に思い尋ねてみれば、この老翁は大変哀しげな様子で言葉もなく、

持っていた梅の花一枝を三位殿の前に置くと、そのまま帰ったのでした。不思議な気がしてその枝をご覧になると、一首の歌を書き付けた短冊が掛かっていました。
      廻りきて 遂にすむべき 月影の しばし陰を 何歎くらん

夢から覚めて歌の心を考えてみると、後醍醐先帝は、しばらくすると都にお帰りになり、再び宮中にお住まいになると言う、喜ばしいお告げではないかと、頼もしく思われました。本当にこの北野天満宮と言うのは、衆生の苦を取り除いてくれる、大慈悲を持った菩薩や、

道真公が天満天神に姿を変えて居られるところですから、一度でも参詣すれば、現世来世の諸願は成就され、少しでも天神のお名前を唱えれば、あらゆる願望がかなえられるのです。その上、彼女のように幾筋もの涙を流し尽くし、七日七夜の祈りを捧げられたなら、

彼女の真心は神仏に届き、忽ちにしてお告げとなって現れないはずはありません。今や世も末だと言われていますが、信仰に忠実でさえあれば、神仏のご加護を受けられるのは間違いないと、心強く思われたのでした。


○楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事
元弘二年三月五日、左近将監時益、越後守仲時、両六波羅に被補て、関東より上洛す。此三四年は、常葉駿河守範貞一人として、両六波羅の成敗を司て在しが、堅く辞し申けるに依てとぞ聞へし。楠兵衛正成は、去年赤坂の城にて自害して、焼死たる真似をして落たりしを、実と心得て、武家より、其跡に湯浅孫六入道定仏を地頭に居置たりければ、今は河内国に於ては殊なる事あらじと、心安く思ける処に、同四月三日楠五百余騎を率して、俄に湯浅が城へ押寄て、息をも不継責戦ふ。城中に兵粮の用意乏しかりけるにや、湯浅が所領紀伊国の阿瀬河より、人夫五六百人に兵粮を持せて、夜中に城へ入んとする由を、楠風聞て、兵を道の切所へ差遣、悉是を奪取て其俵に物具を入替て、馬に負せ人夫に持せて、兵を二三百人兵士の様に出立せて、城中へ入んとす。楠が勢是を追散さんとする真似をして、追つ返つ同士軍をぞしたりける。湯浅入道是を見て、我兵粮入るゝ兵共が、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より打て出で、そゞろなる敵の兵共を城中へぞ引入ける。楠が勢共思の侭に城中に入すまして、俵の中より物具共取出し、ひし/\と堅めて、則時の声をぞ揚たりける。城の外の勢、同時に木戸を破り、屏を越て責入ける間、湯浅入道内外の敵に取篭られて、可戦様も無りければ、忽に頚を伸て降人に出づ。楠其勢を合せて、七百余騎にて和泉・河内の両国を靡けて、大勢に成ければ、五月十七日に先住吉・天王寺辺へ打て出で、渡部の橋より南に陣を取る。然間和泉・河内の早馬敷並を打、楠已に京都へ責上る由告ければ、洛中の騒動不斜。武士東西に馳散りて貴賎上下周章事窮りなし。斯りければ両六波羅には畿内近国の勢如雲霞の馳集て、楠今や責上ると待けれ共、敢て其義もなければ、聞にも不似、楠小勢にてぞ有覧、此方より押寄て打散せとて、隅田・高橋を両六波羅の軍奉行として、四十八箇所の篝、並に在京人、畿内近国の勢を合せて、天王寺へ被指向。其勢都合五千余騎、同二十日京都を立て、尼崎・神崎・柱松の辺に陣を取て、遠篝を焼て其夜を遅しと待明す。楠是を聞て、二千余騎を三手に分け、宗との勢をば住吉・天王寺に隠て、僅に三百騎許を渡部の橋の南に磬させ、大篝二三箇所に焼せて相向へり。是は態と敵に橋を渡させて、水の深みに追はめ、雌雄を一時に決せんが為と也。

☆ 楠木正成が天王寺に現れたので、隅田、高橋と宇都宮を派遣したこと

元弘二年(1332年)三月五日、左近将監北条時益と越後守北条仲時の二人が、六波羅探題の南北の長官として、関東より上洛してきました。六波羅はここ三、四年、常葉駿河守範貞、一人で南北の両方を兼務していましたが、強く辞意を漏らして居られるからだと言われています。

さて、楠木兵衛正成は昨年(1331年)赤坂の城で、自害して焼死したと見せかけ、城を落ちたのですが、幕府側は焼死したと信じて、楠木の領地に湯浅孫六入道定仏を、地頭として配置していましたが、今はもう河内国は特に問題が無いだろうと、安心しきっていたところ、

同年(1332年)四月三日、楠木正成が五百余騎を率いて、突然湯浅の城に押し寄せてくるや、一気に攻め込んできました。安心しきっていたため、城中には兵糧の蓄えが少ないので、湯浅入道の領地、紀伊国の阿瀬河から、人夫五、六百人ばかりに兵糧を持たせ、

夜中に紛れて、城内に運び込むらしいという噂を楠木が聞きつけ、兵士を運搬途中にある、通行困難な場所に派遣し、兵糧などことごとく奪い取ったあと、空になった俵に武器などを詰め込み、馬に乗せたり人夫に持たせたりし、また兵士を二、三百人ばかりを、

兵糧の警備兵のように見せかけ、城内に入って行こうとしました。楠木軍はこの一行を追い散らす振りをして、追ったり攻められたりの同士討ちを演じました。湯浅入道はこの戦闘を見て、我らの兵糧運搬隊の警備兵が、楠木軍と戦闘を始めたと思い、城内より打って出ると、

訳の分からないまま、敵兵を城内に引き入れてしまいました。このようにして楠木の軍勢は、思惑通り城内に入り込むと、俵の中から武器を取り出し、厳しくあたりを警戒しながら、すぐに閧の声を挙げたのでした。また城外に控えていた軍勢も、同時に城の木戸を破り、

塀を乗り越えて攻め込みました。湯浅入道は城の内外を敵軍に取り囲まれては、とても戦うことが出来ないと考え、すぐ無条件降伏したのです。楠木は自軍に湯浅勢を加え、七百余騎になって和泉、河内両国をも制圧し、一大軍勢に成長した後、

五月十七日に、まず住吉、天王寺周辺に進攻し、渡部橋より南側に陣を構えました。この状況に、和泉、河内からの矢継ぎ早の早馬は、楠木勢は今すぐにでも京都に攻め込むだろうと、急を告げてきたので、洛中の騒動は大変なものです。武士たちは対応のため東西に走り回り、

都の人たちは身分に関わらず、ただただ狼狽するばかりです。その内、南北の両六波羅には畿内や近国から、雲霞のように軍勢が集結し、楠木軍を今や遅しと待ち受けていましたが、特にそのような気配もありません。また聞いているよりも、楠木の軍勢は少ないらしいから、

こちらから押し寄せて蹴散らかそうと、隅田、高橋の両人を南北六波羅の軍奉行に任命し、洛内四十八箇所の篝の兵士や、京都在住の鎌倉武士たちと、畿内近国から駆けつけてきた軍勢らを集めて、天王寺に向かいました。その総勢五千余騎は五月二十日京都を出発し、

尼崎や神崎、また柱本の周辺に陣を構えて、陣から遠くにかがり火を焚き、その夜は楠木軍を待ち明かしたのでした。楠木は敵の動きを察知すると、二千余騎の軍勢を三手に分け、主力軍は住吉、天王寺付近に隠して、僅か三百騎ばかりを渡部橋の南側で騒ぎ立てさせ、

大きなかがり火を二、三ヵ所で燃やして、対陣しました。これは、わざと敵に橋を渡らせてから、流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決しようとの作戦です。


去程に明れば五月二十一日に、六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一所に合せ、渡部の橋まで打臨で、河向に引へたる敵の勢を見渡せば、僅に二三百騎には不過、剰痩たる馬に縄手綱懸たる体の武者共也。隅田・高橋是を見て、さればこそ和泉・河内の勢の分際、さこそ有らめと思ふに合せて、はか/゛\しき敵は一人も無りけり。此奴原一々に召捕て六条河原に切懸て、六波羅殿の御感に預らんと云侭に、隅田・高橋人交もせず橋より下を一文字にぞ渡ける。五千余騎の兵共是を見て、我先にと馬を進めて、或は橋の上を歩ませ或は河瀬を渡して、向の岸に懸驤る。楠勢是を見て、遠矢少々射捨て、一戦もせず天王寺の方へ引退く。六波羅の勢是を見て、勝に乗り、人馬の息をも不継せ、天王寺の北の在家まで、揉に揉でぞ追たりける。楠思程敵の人馬を疲らかして、二千騎を三手に分て、一手は天王寺の東より敵を弓手に請て懸出づ。一手は西門の石の鳥居より魚鱗懸に懸出づ。一手は住吉の松陰より懸出で、鶴翼に立て開合す。六波羅の勢を見合すれば、対揚すべき迄もなき大勢なりけれ共、陣の張様しどろにて、却て小勢に囲れぬべくぞ見へたりける。隅田・高橋是を見て、「敵後ろに大勢を陰してたばかりけるぞ。此辺は馬の足立悪して叶はじ。広みへ敵を帯き出し、勢の分際を見計ふて、懸合々々勝負を決せよ。」と、下知しければ、五千余騎の兵共、敵に後ろを被切ぬ先にと、渡部の橋を指て引退く。楠が勢是に利を得て、三方より勝時を作て追懸くる。橋近く成ければ、隅田・高橋是を見て、「敵は大勢にては無りけるぞ、此にて不返合大河後ろに在て悪かりぬべし。返せや兵共。」と、馬の足を立直し/\下知しけれども、大勢の引立たる事なれば、一返も不返、只我先にと橋の危をも不云、馳集りける間、人馬共に被推落て、水に溺るゝ者不知数、或淵瀬をも不知渡し懸て死ぬる者も有り、或は岸より馬を馳倒て其侭被討者も有。只馬・物具を脱捨て、逃延んとする者は有れ共、返合せて戦はんとする者は無りけり。而れば五千余騎の兵共、残少なに被打成て這々京へぞ上りける。其翌日に何者か仕たりけん、六条河原に高札を立て一首の歌をぞ書たりける。渡部の水いか許早ければ高橋落て隅田流るらん京童の僻なれば、此落書を歌に作て歌ひ、或は語伝て笑ひける間、隅田・高橋面目を失ひ、且は出仕を逗め、虚病してぞ居たりける。

やがて夜が明け、五月二十一日に六波羅の軍勢五千余騎は、あちこちに分散していた陣を一ヶ所に集め、渡部橋まで進出して、川向こうで陣を構えている敵の兵力を見渡したところ、わずかな軍勢であり、二、三百騎以上とも思えませんし、

その兵らも痩せた馬に乗り、縄で作った貧弱な手綱を持っているような武者ばかりです。隅田、高橋はこれを見て、和泉、河内の武者どもの分際では、この程度のものだろうと思うと、確かにそれなりの敵は一人も見当たりません。よし、こいつら一人残らず召し捕り、

六条河原で処刑し、六波羅殿からお褒めの恩賞を頂こうと、隅田、高橋は供の武者を引き連れることもなく、橋の下流をまっすぐに渡りました。五千余騎の兵士らはこれを見て、我先に馬を進め、ある者は橋の上を歩かせ、またある者は川を渡って向こう岸に駆け上がりました。

これを見ていた楠木軍は、矢を遠くより少しばかり射捨てて、一戦も戦うことなく天王寺方面に退却しました。そこで六波羅軍は勝ちに乗じて、人馬とも息をも継がせずに、天王寺の北方の集落まで、我先に追いかけて来ました。楠木は敵軍の人馬を思い切り疲れさせてから、

二千騎を三手に分け、一手は天王寺の東方より左方向に誘い込んで攻撃を仕掛けました。もう一手は西門にある石の鳥居から、魚鱗(魚の鱗のように中央部を突出させた陣形)の態勢を組んで攻撃しました。残る一手は住吉の松林の陰から攻撃を仕掛け、

鶴翼の陣形(鶴が翼を広げたように兵を配置し、敵の包囲をねらう陣形)を展開しました。対して六波羅の軍勢を見てみると、とても対等に戦えるとは思えないほどの大軍ですが、敵の組んでいる陣形はばらばらで秩序もなく、かえって少ない楠木軍に、包囲されているような感があります。

軍奉行の隅田、高橋両名はこの状況を見て、「敵は後方に大軍を隠して油断させ、我々をだましたぞ。この辺は足場が悪く、馬をとても自在に動かせない。どこか広い所へ敵をおびき出し、敵の軍勢の多寡を考え、正面から戦いを挑んで、一気に勝負を決めてしまえ」と、命じました。

そこで六波羅軍の五千余騎の兵士らは、敵に後方を遮断されない先にと、渡部橋に向かって退却を始めました。楠木の軍勢はこの有利な展開に、三方から勝鬨を挙げながら追撃しました。橋近くまで退却してきた隅田、高橋は、追いかけてきた楠木の軍勢を見て、

「敵勢はたいした数でもないぞ、ここにて一旦退却をやめろ。大きな川を背にしては不利である。ここにて全軍止まれ」と、その場で馬を乗り回しながら、命令をかけ続けたのですが、大軍が退却している中、とても止まることは出来ず、ただ我先に危険を考えることなく、

橋に向かって駆け集まってきました。その結果、人馬共に押し合いへし合い、橋に殺到することとなり、押されて橋から落ちて溺れる者、その数分からない位です。ある者は浅瀬や深い場所も分からずに渡ろうとして死んだり、またある者は岸より馬ごと倒され、

そのまま討たれてしまう者もいました。馬や武具をかなぐり捨てて、逃げ延びようとする者はいますが、留まって戦おうとする者は一人もいない有様です。そのような訳で、五千余騎の軍勢は、多くが討たれてしまい、ほうほうの体で京に逃げてきたのです。

その翌日、何者の仕業なのか六条河原に高札を立て、一首の歌が書き付けてありました。
      渡部の 水いか許 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん

京童の習性として、この落書を歌にして歌ったり、また人から人へ語り伝えて、笑い話の種にしたので、隅田、高橋の両名は世間での評価、名誉を失い、六波羅への出仕を休み、仮病を言い立てて引きこもりました。


両六波羅是を聞て、安からぬ事に被思ければ、重て寄せんと被議けり。其比京都余に無勢なりとて関東より被上たる宇都宮治部大輔を呼寄評定有けるは、「合戦の習ひ運に依て雌雄替る事古へより無に非ず。然共今度南方の軍負ぬる事、偏に将の計の拙に由れり。又士卒の臆病なるが故也。天下嘲哢口を塞ぐに所なし。就中に仲時罷上し後、重て御上洛の事は、凶徒若蜂起せば、御向ひ有て静謐候との為なり。今の如んば、敗軍の兵を駈集て何度むけて候とも、はか/゛\しき合戦しつ共不覚候。且は天下の一大事、此時にて候へば、御向候て御退治候へかし。」と宣ひければ、宇都宮辞退の気色無して被申けるは、「大軍已に利を失て後、小勢にて罷向候はん事、如何と存候へども、関東を罷出し始より、加様の御大事に逢て命を軽くせん事を存候き。今の時分、必しも合戦の勝負を見所にては候はねば、一人にて候共、先罷向て一合戦仕り、及難儀候はゞ、重御勢をこそ申候はめ。」と、誠に思定たる体に見へてぞ帰りける。宇都宮一人武命を含で大敵に向はん事、命を可惜に非ざりければ、態と宿所へも不帰、六波羅より直に、七月十九日午刻に都を出で、天王寺へぞ下りける。東寺辺までは主従僅に十四五騎が程とみへしが、洛中にあらゆる所の手者共馳加りける間、四塚・作道にては、五百余騎にぞ成にける。路次に行逢者をば、権門勢家を不云、乗馬を奪ひ人夫を駈立て通りける間、行旅の往反路を曲げ、閭里の民屋戸を閉づ。

南北、両六波羅の首脳はこの報告を聞くと、非常事態の発生と考え、再度攻撃を行うべく協議に入りました。その頃、京都警備の軍勢が余りにも少ないため、関東から上洛していた、宇都宮治部大輔公綱を呼び寄せて会議を開き、「合戦というものは、

時の運が雌雄を決すること、これは古来よりその例はよくあります。しかしながら、今回天王寺での戦闘に負けたのは、これはなんと言っても、指揮官の作戦に落ち度があったことと、将校、兵士らが臆病だったからです。このため天下の嘲笑を、押さえることも出来ません。

特にこの北条時益、仲時の両名が京都に赴任しているのに、重ねて宇都宮公綱殿が御上洛されたのは、もし逆賊らが蜂起した場合、即刻、賊軍に向かい鎮圧するためでしょう。ところが現在の状態を考えれば、先日の戦闘での敗軍の兵士らをかき集めて、

いくら賊に当たらせても、まともな合戦など出来ないと思います。またそうなっては天下の一大事ともなります。そこで、ここは貴殿の出陣によって、逆賊を征伐してください」と、話されました。宇都宮は辞退する気配もなく、「すでに六波羅の大軍が負けを喫し、

不利な状況の中で、我らが僅かな軍勢で向かっても、如何ともしがたいと思われますが、関東を出発した時より、このような大事に当たっては、命を捨てて戦う覚悟は出来ています。現時点において、勝敗の行方は決して予断出来ませんが、たとえ私一人でも敵と一戦し、

その上苦戦が続くようでしたら、加勢のほどお願いします」と話し、覚悟を固めた様子で帰っていきました。宇都宮一人で幕府の命令に従って、大敵に立ち向かう以上、すでに一命は無いものと考えているので、宿所へ帰ることもなく六波羅より直接、

七月十九日午刻(午後0時頃)に都を出発し、天王寺へ下って行きました。東寺付近までは主従僅かに十四、五騎ほどでしたが、洛内の各所から家来たちが駆け集まって来たので、四塚、作道(共に京都市南区)を過ぎる頃には、五百余騎の軍勢になりました。

進軍の途中で行き会った者は、権勢を持った家柄であろうがなかろうが関係なく、乗っている馬を没収し、人間は人夫として徴用しながら進軍を続けましたから、旅行く人たちは道を変更し、村々の民家は戸を閉め切ったのです。


其夜は柱松に陣を取て明るを待つ。其志一人も生て帰らんと思者は無りけり。去程に河内国の住人和田孫三郎此由を聞て、楠が前に来て云けるは、「先日の合戦に負腹を立て京より宇都宮を向候なる。今夜既に柱松に着て候が其勢僅に六七百騎には過じと聞へ候。先に隅田・高橋が五千余騎にて向て候しをだに、我等僅の小勢にて追散して候しぞかし。其上今度は御方勝に乗て大勢也。敵は機を失て小勢也。宇都宮縦ひ武勇の達人なりとも、何程の事か候べき。今夜逆寄にして打散して捨候ばや。」と云けるを、楠暫思案して云けるは、「合戦の勝負必しも大勢小勢に不依、只士卒の志を一にするとせざると也。されば「大敵を見ては欺き、小勢を見ては畏れよ」と申す事是なり。先思案するに、先度の軍に大勢打負て引退く跡へ、宇都宮一人小勢にて相向ふ志、一人も生て帰らんと思者よも候はじ。其上宇都宮は坂東一の弓矢取也。紀清両党の兵、元来戦場に臨で命を棄る事塵芥よりも尚軽くす。其兵七百余騎志を一つにして戦を決せば、当手の兵縦退く心なく共、大半は必可被討。天下の事全今般の戦に不可依。行末遥の合戦に、多からぬ御方初度の軍に被討なば、後日の戦に誰か力を可合。「良将は不戦して勝」と申事候へば、正成に於ては、明日態と此陣を去て引退き、敵に一面目在る様に思はせ、四五日を経て後、方々の峯に篝を焼て、一蒸蒸程ならば、坂東武者の習、無程機疲て、「いや/\長居しては悪かりなん。一面目有時去来や引返さん。」と云ぬ者は候はじ。されば「懸るも引も折による」とは、加様の事を申也。夜已に暁天に及べり。敵定て今は近付らん。去来させ給へ。」とて、楠天王寺を立ければ、和田・湯浅も諸共に打連てぞ引たりける。

その夜は柱本に陣を構えて、夜の明けるのを待ちました。生きて帰ろうなんて思っている者は一人もいません。その頃、河内国の豪族、和田孫三郎が宇都宮軍の情報を得て、楠木正成の御前に行き、「先日の戦闘に負け、六波羅勢は腹を立てて、

都より宇都宮をこちらへ向かわせているようです。今夜すでに、柱本に到着したようですが、その軍勢は僅か六、七百騎を超えないと報告が来ています。先日の戦闘では、隅田、高橋ら五千余騎で攻めてきましたが、我らは僅かな軍勢で追い散らしました。

その上現在、我らの味方は勝ちを得たため、大軍となっていますし、反対に敵は折り悪く小勢に過ぎません。率いる宇都宮公綱が、たとえ武勇に長じていると言っても、たいしたことはないでしょう。今夜、逆襲して追い散らしてくれよう」と、申し上げました。

聞いていた楠木はしばらく考えて、「合戦の勝敗は、必ずしもその軍勢の多少で決まるものではない。それは将校、兵士らが一致団結して、敵に向かっていくかどうかにかかっている。そこで、『敵の勢力が強大であれば、気持ちを引き締めて注意をし、

小勢だと言って、油断することなく注意を怠るな』と言うのは、このことである。考えてみれば、先日の戦闘で大軍であるに関わらず、負けを喫して退却し、その後宇都宮がただ一人、少数の兵力で向かってくるからには、生きて帰ろうと考えている者は一人も居ないだろう。

またその上、宇都宮は関東でも弓矢を取っては第一級の武士である。それと宇都宮の率いる紀清両党の兵士らは、元来戦場において、命をまるで塵あくた以上に軽んずる傾向がある。そのような兵士ら七百余騎が一つになって戦えば、我が軍の兵士らがいかに立ち向かって行こうとも、

ほとんどの者が討ち取られること必定だろう。国家回転の事業に当たって、今回の戦が全てではない。この先幾度あるとも知れない合戦に備えるべきであり、それほど多いとも思えぬ味方の軍勢を、最初の戦で失うような事があれば、

今後の合戦に協力してくれる者がいるだろうか。『優れた将は、戦わずして勝利を収める』と言うこともある。そこで正成としては、明日、策を秘めて、ここの軍陣をたたんで退却し、敵にそれなりの体面を保ったように思わせて、四、五日も経ってから、

あちこちの山々に篝火を燃やし、火の気を軍勢に注いでやれば、坂東武者の習性としてやがて戦意を失い、『おいおい、ここに長居していては、ろくなことが無いだろう。一応面目も立ったことだし、一旦引き上げようではないか』と、言い出さない者は居ないだろう。

つまり、『進退は常に時と場合に応じて行うべきである』とは、このことを言うのである。夜も明けかけて来た。敵軍もそろそろ攻めてくる来るに違いない。速やかに退却しよう」と、楠木正成が天王寺を引き揚げると、和田、湯浅の二人も、一緒に退却しました。


夜明ければ、宇都宮七百余騎の勢にて天王寺へ押寄せ、古宇都の在家に火を懸け、時の声を揚たれ共、敵なければ不出合。「たばかりぞすらん。此辺は馬の足立悪して、道狭き間、懸入敵に中を被破な、後ろを被裹な。」と下知して、紀清両党馬の足をそろへて、天王寺の東西の口より懸入て、二三度まで懸入々々しけれ共、敵一人も無して、焼捨たる篝に燈残て、夜はほの/゛\と明にけり。宇都宮不戦先に一勝したる心地して、本堂の前にて馬より下り、上宮太子を伏拝み奉り、是偏に武力の非所致、只然神明仏陀の擁護に懸れりと、信心を傾け歓喜の思を成せり。頓て京都へ早馬を立て、「天王寺の敵をば即時に追落し候ぬ。」と申たりければ、両六波羅を始として、御内外様の諸軍勢に至まで、宇都宮が今度の振舞抜群也。と、誉ぬ人も無りけり。宇都宮、天王寺の敵を輒く追散したる心地にて、一面目は有体なれ共、軈て続て敵の陣へ責入らん事も、無勢なれば不叶、又誠の軍一度も不為して引返さん事もさすがなれば、進退谷たる処に、四五日を経て後、和田・楠、和泉・河内の野伏共を四五千人駈集て、可然兵二三百騎差副、天王寺辺に遠篝火をぞ焼せける。すはや敵こそ打出たれと騒動して、深行侭に是を見れば、秋篠や外山の里、生駒の岳に見ゆる火は、晴たる夜の星よりも数く、藻塩草志城津の浦、住吉・難波の里に焼篝は、漁舟に燃す居去火の、波を焼かと怪しまる。総て大和・河内・紀伊国にありとある所の山々浦々に、篝を焼ぬ所は無りけり。其勢幾万騎あらんと推量してをびたゝし。

やがて夜が明け、宇都宮公綱は七百余騎の軍勢で天王寺に押し寄せ、古宇都(高津)周辺の民家に火をかけ、閧の声を挙げたものの、敵は引き揚げた後です。「これは敵の作戦かも知れない。このあたりは馬にとって足場が悪いし道も狭く、敵に中央を突破された上、

後方を遮断されて袋の鼠にならぬよう」と、命令してから、紀清両党の武者たちが、天王寺の東西方向から、馬にまたがり整然と攻め込みました。二、三度駈け入ったのですが、敵は一人も見えず、燃えたまま置き捨てられた篝には、ただ木が燃え残っているだけで、

やがて夜もほんのりと明けてきました。宇都宮は戦わずして勝利を収めた気がして、本堂の前で馬より降り、聖徳太子をひれ伏して拝みました。この勝利は我らの武力で達成出来たものではなく、これはただ神仏のご加護のお陰が全てですと、

信仰の気持ち強くし、喜びの思いを伝えました。その後すぐ京都に早馬を立て、「天王寺の敵、楠木軍を即刻追い落としました」と報告すると、南北の六波羅の長官をはじめとして、北条一門や譜代、外様の軍勢に至るまで、今回の宇都宮の行動、合戦のことなど、

賞賛しない人は居ませんでした。しかし宇都宮としては、天王寺の敵をたちまちに追い散らした気分で、それはそれで一応の面目は立ったのですが、この後引き続いて敵軍に攻撃を加えることは、自軍にはあまりにも軍勢が少なくて出来ず、

かと言って、まともな合戦は一度も行っていないので、このまま京都に引き返すことも気が引け、進退窮まった感じがしていました。ところが四、五日ぐらい経った頃、和田、楠木の二人が、和泉、河内の野武士たちを四、五千人ほどかき集め、その集団を二、三百騎の正規兵で統率させ、

天王寺あたりで宇都宮軍を、取り巻くように篝火を燃やしました。宇都宮勢は、いよいよ敵が寄せてくるのではと大騒ぎになりました。そして夜の更けていくに従って、それら篝火は、たとえば秋篠や外山の里方面、また生駒の山に見える火は、晴れた夜の星よりも数多く見え、

藻塩草(アマモの別名)の育つ志城津浦(敷津浦のことか?)や、住吉、難波の里々方面に燃える篝火は、まるで漁師が乗る舟の漁り火が、波を焼くかのように見えます。見渡せば大和や河内また紀伊国々の、あらゆる山々や浦々に、篝火の見えないところはありません。

それだけ見れば敵の軍勢は、果たして幾万騎いるのかと思えるほどです。


如此する事両三夜に及び、次第に相近付けば、弥東西南北四維上下に充満して、闇夜に昼を易たり。宇都宮是を見て、敵寄来らば一軍して、雌雄を一時に決せんと志して、馬の鞍をも不息、鎧の上帯をも不解待懸たれ共、軍は無して敵の取廻す勢ひに、勇気疲れ武力怠で、哀れ引退かばやと思ふ心着けり。斯る処に紀清両党の輩も、「我等が僅の小勢にて此大敵に当らん事は、始終如何と覚候。先日当所の敵を無事故追落して候つるを、一面目にして御上洛候へかし。」と申せば、諸人皆此義に同じ、七月二十七日夜半許に宇都宮天王寺を引上洛すれば、翌日早旦に楠頓て入替りたり。誠に宇都宮と楠と相戦て勝負を決せば、両虎二龍の闘として、何れも死を共にすべし。されば互に是を思ひけるにや、一度は楠引て謀を千里の外に運し、一度は宇都宮退て名を一戦の後に不失。是皆智謀深く、慮り遠き良将なりし故也。と、誉ぬ人も無りけり。去程に楠兵衛正成は、天王寺に打出て、威猛を雖逞、民屋に煩ひをも不為して、士卒に礼を厚くしける間、近国は不及申、遐壌遠境の人牧までも、是を聞伝へて、我も我もと馳加りける程に、其勢ひ漸強大にして、今は京都よりも、討手を無左右被下事は難叶とぞ見へたりける。

このような状況が三日三晩に及び、次第に近づいて来るに従い、その様は東西南北だけでなく、北西、南西、南東、北東、また上下にも充満し尽くしたみたいで、まるで闇夜を昼間の如くにしたのです。宇都宮公綱はこの状況を見て、もし敵が寄せて来たら、

一戦して勝敗を一気に付けてやろうじゃないかと方針を決め、馬から鞍をはずすこともせず、また鎧の上帯を解かずに待ち続けたのですが、戦闘は一向に起こりそうもありません。ただ敵に取り囲まれたまま、時間が過ぎていくと、やがて宇都宮は緊張の糸も切れ、

戦闘意欲も薄れるばかりで、もう退却しようかと思い出しました。そのような気持ちでいる時、紀清両党の武士たちも、「我らの僅かな軍勢で、このような大敵に戦闘を挑んでも、良い結果が得られるとも思えません。先日の戦闘で我々は損害も無く、

敵軍を追い落としたことを、この際一つの軍功と考え、都に戻りましょう」と言い出すと、他の武者たちも皆この意見に賛成しました。そこで、七月二十七日の夜半頃、宇都宮が天王寺を引き上げて上洛すると、翌日早朝、楠木軍が早速入れ替わりにやってきました。

確かに宇都宮と楠木がまともに渡り合えば、両虎二龍の戦いの言葉どおり、双方とも命を失うことになったでしょう。つまり二人ともこの危険を感じて、一度は楠木が引き上げて、謀略を千里の遠くからめぐらし、また今度は宇都宮が引き上げたので、

戦を行ってその名を失うこともありませんでした。つまりこの二人は知識と謀略に優れている上、先見の明をも持った優れた将軍だからと、賞賛しない人は居ませんでした。やがて、楠木兵衛正成が天王寺に進出してから、軍の勢いは、ますます盛んになってきましたが、

一般庶民に迷惑をかけてはならないと命じ、また楠木正成は全ての将士や兵士にも、礼を持って接しました。そのため近国だけでなく、遥か遠国、辺境の豪族らまでこの話を聞き、我も我もと駆けつけ加勢しましたから、楠木軍はその勢いがますます強大になってきました。

こうなっては、京都から簡単に征討軍を派遣することは、難しく思われました。      (終)

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