6 太平記 巻第六 (その二)


○正成天王寺未来記披見事
元弘二年八月三日、楠兵衛正成住吉に参詣し、神馬三疋献之。翌日天王寺に詣て白鞍置たる馬、白輻輪の太刀、鎧一両副て引進す。是は大般若経転読の御布施なり。啓白事終て、宿老の寺僧巻数を捧て来れり。楠則対面して申けるは、「正成、不肖の身として、此一大事を思立て候事、涯分を不計に似たりといへ共、勅命の不軽礼儀を存ずるに依て、身命の危きを忘たり。然に両度の合戦聊勝に乗て、諸国の兵不招馳加れり。是天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回歟と覚候。誠やらん伝承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘て、日本一州の未来記を書置せ給て候なる。拝見若不苦候はゞ、今の時に当り候はん巻許、一見仕候ばや。」と云ければ、宿老の寺僧答て云、「太子守屋の逆臣を討て、始て此寺を建て、仏法を被弘候し後、神代より始て、持統天皇の御宇に至までを被記たる書三十巻をば、前代旧事本記とて、卜部の宿祢是を相伝して有職の家を立候。其外に又一巻の秘書を被留て候。是は持統天皇以来末世代々の王業、天下の治乱を被記て候。是をば輒く人の披見する事は候はね共、以別儀密に見参に入候べし。」とて、即秘府の銀鑰を開て、金軸の書一巻を取出せり。正成悦て則是を披覧するに、不思議の記文一段あり。其文に云、当人王九十五代。天下一乱而主不安。此時東魚来呑四海。日没西天三百七十余箇日。西鳥来食東魚を。其後海内帰一三年。如■猴者掠天下三十余年。大凶変帰一元。云云。正成不思議に覚へて、能々思案して此文を考るに、先帝既に人王の始より九十五代に当り給へり。「天下一度乱て主不安」とあるは是此時なるべし。「東魚来て呑四海」とは逆臣相摸入道の一類なるべし。「西鳥食東魚を」とあるは関東を滅す人可有。「日没西天に」とは、先帝隠岐国へ被遷させ給ふ事なるべし。「三百七十余箇日」とは、明年の春の比此君隠岐国より還幸成て、再び帝位に即かせ可給事なるべしと、文の心を明に勘に、天下の反覆久しからじと憑敷覚ければ、金作の太刀一振此老僧に与へて、此書をば本の秘府に納させけり。後に思合するに、正成が勘へたる所、更に一事も不違。是誠に大権聖者の末代を鑒て記し置給し事なれ共、文質三統の礼変、少しも違はざりけるは、不思議なりし讖文也。

☆ 楠正成が天王寺で未来記を読まれたこと

元弘二年(1332年)八月三日、楠木兵衛正成は住吉神社に参詣し、神馬として馬三頭を献上しました。翌四日には天王寺に参り、前輪と後輪(しずわ)の表面を、銀で張った鞍を乗せた馬に、銀細工を施した太刀及び鎧一領を添えて奉納しました。

これは大般若経の転読に対するお布施です。神仏への祈願が終わってから、年老いた寺の僧が、読誦を済ませた諸項目を記した目録を持ってきました。楠木はその僧に面会して、「私、正成は未熟者でありながら、このような一大事業を思い立ったこと、

身分不相応だとは思いますが、後醍醐天皇の勅命に忠実であろうと考え、また礼儀を守るためには、わが身命の危険をも冒しての行動です。そして、二度の合戦に、ともかく勝利を収めた結果、召集していない軍兵らも、諸国より駆けつけて、我が陣営に加わっています。

これはすべて、天が私にとっての好機を与えてくれ、また神仏のご加護を、私に差し向けてくれたからだと思っています。はっきりとは知りませんが、この寺院には、聖徳太子が日本国の百代にわたる皇室の治世を占って、日本一国の将来を書き記した、

未来記なる書物が残っているらしいと、お聞きしています。もし、見せていただけるものなら、今の時代を書き記した一巻だけでも、見せていただきたいと思うのですが」と話したところ、寺の老僧は、「聖徳太子が仏教の件で争っていた、逆臣物部守屋を討ち取って、

初めてこの寺を造営し、仏教の布教に努められました。その後、神代の昔から、持統天皇の御代までを書き記した書物三十巻を、「前代(先代?)旧事本記」として、卜部宿祢がこれを相続し後世に伝えるため、一家を設けています。

その外に、もう一巻秘蔵の書物が残されています。これは持統天皇以後末世に至るまでの、代々の天皇家の行った治世や、天下の騒乱などが書き記されています。この書物は簡単に見ることは出来ないのですが、今回は特別に、こっそりとお見せいたしましょう」と、答えたのです。

そしてすぐ重要書類保管庫の銀製の鍵を開くと、金の軸に巻きつけられた書を一巻取り出しました。正成が喜んでこれをご覧になると、その中に不思議なことを記入した一章がありました。そこの文章には、「天皇九十五代にあたり、天下に騒乱が起こり、

天皇の安全を確保するのが難しくなる。その時東方より魚が来たって、日本国を呑み込みます。日が西に沈んで三百七十余日、西方より鳥が飛び来たって、東の魚を食べてしまいます。その後天下が安定すること三年、その後また猿のような人間が、

天下を横取りすること三十余年、大きな災難は起こりますが、やがてまた元通りの安定した世に戻りますとか、云々」と、書いてありました。正成は不思議に思い、この文章をよくよく考えてみれば、先帝後醍醐は天皇初代より九十五代(九十六代では?)にあたります。

「天下一度乱て主不安」と記してあるのは、今まさにこの時ではないか。「東魚来て呑四海」と書いてあるのは、逆臣相模入道北条高時の一族のことであろう。「西鳥食東魚を」とは、関東の北条一族を滅亡に追いやる人間が、出現することでしょう。

「日没西天に」とあるのは、先帝後醍醐が隠岐国に流刑となることに違いない。「三百七十余箇日」とあるのは、来年の春頃には、先帝後醍醐が隠岐国からお帰りになり、再び皇位に御就きになるということでしょうと、書かれた文章の意味を、このように推測すれば、

天下の大転換もそう遠い先のことではないと、自信を深めました。そして、この老僧に黄金作りの太刀を一振り与え、この書物をもとの書庫に納めさせました。後になって思い合わせてみれば、楠木正成がこの文章を解読した内容は、まさしく何一つとして違っていませんでした。

この書物は大権聖者(仏、菩薩が仮の姿となって、現世に現われた人)とも言うべき聖徳太子が、未来を予測して書き記したものですが、記された文章の内容その他が、現実と少しも違っていないのは、本当に不思議な予言書と言えるでしょう。


○赤松入道円心賜大塔宮令旨事
其比播磨国の住人、村上天皇第七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に、赤松次郎入道円心とて弓矢取て無双の勇士有り。元来其心闊如として、人の下風に立ん事を思はざりければ、此時絶たるを継廃たるを興して、名を顕し忠を抽ばやと思けるに、此二三年大塔宮に属纒奉て、吉野十津川の艱難を経ける円心が子息律師則祐、令旨を捧て来れり。披覧するに、「不日に揚義兵率軍勢、可令誅罰朝敵、於有其功者、恩賞宜依請」之由、被戴。委細事書十七箇条の恩裁被添たり。条々何れも家の面目、世の所望する事なれば、円心不斜悦で、先当国佐用庄苔縄の山に城を構て、与力の輩を相招く。其威漸近国に振ひければ、国中の兵共馳集て、無程其勢一千余騎に成にけり。只秦の世已に傾んとせし弊に乗て、楚の陳勝が異蒼頭にして大沢に起りしに異ならず。頓て杉坂・山の里二箇所に関を居、山陽・山陰の両道を差塞ぐ。是より西国の道止て、国々の勢上洛する事を得ざりけり。

☆ 赤松入道円心が大塔宮の令旨を授かったこと

当時播磨国の豪族に、村上天皇第七子である具平(ぐへい)親王、六代の末裔で従三位源季房の子孫に、赤松次郎入道円心と言う、弓矢を取っては天下無双の勇者がいました。元来この人物は性格的に鷹揚なところがありながら、他人の下風に立つことを好みませんでした。

この時代にあたり、彼は没落した我が家を再興し、世間にその名を知らしめ、忠義の心をも人に抜きん出ようと考えていました。そして、この二、三年の間、大塔宮護良殿の護衛として、吉野や十津川潜行の困難に耐えてきた、円心の息子、律師則祐が大塔宮護良の令旨を携えて、

円心のもとへやってきました。令旨を開いてみると、「そう遠くない将来に、忠義に篤い武者を募り、その軍勢を率いて朝敵を誅滅せんと思う。その合戦において、戦功のあった武者に対して、恩賞は望みどおりである」と言うことが、書き付けてありました。

またそれに対する詳しい説明が、十七ヶ条にわたり書き添えてありました。その一条一条について、何れも円心に取っては、我が家の名誉を満足させ、また自身にとっても望むところでした。円心は大喜びで、まず播磨国、佐用庄苔縄の山に城砦を構え、味方の軍勢を召集しました。

その勢いは次第に周辺に知れ渡り、国中の武士たちが次々と駆けつけ、やがてその軍勢は一千余騎にもなりました。その様子は、昔、秦国の世が没落しそうな時、それに乗じて楚国の陳勝が、雑兵の身分でありながら、誰でも王になれると高言を吐き、

大沢郷で蜂起したのと変わりません。そしてすぐ円心は、杉坂と山の里の二ヶ所に関所を設け、山陽、山陰両道の往来を閉鎖しました。このことによって西国への交通は遮断され、西国諸国の幕府軍は、上洛することが出来なくなりました。


○関東大勢上洛事
去程に畿内西国の凶徒、日を逐て蜂起する由、六波羅より早馬を立て関東へ被注進。相摸入道大に驚て、さらば討手を指遣せとて、相摸守の一族、其外東八箇国の中に、可然大名共を催し立て被差上。先一族には、阿曾弾正少弼・名越遠江入道・大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助、外様の人々には、千葉大介・宇都宮三河守・小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道・葦名判官・三浦若狭五郎・千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守・結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司・同大和入道・安藤藤内左衛門尉・宇佐美摂津前司・二階堂出羽入道・同下野判官・同常陸介・安保左衛門入道・南部次郎・山城四郎左衛門尉、此等を始として、宗との大名百三十二人、都合其勢三十万七千五百余騎、九月二十日鎌倉を立て、十月八日先陣既に京都に着けば後陣は未だ足柄・筥根に支へたり。是のみならず河野九郎四国の勢を率して、大船三百余艘にて尼崎より襄て下京に着。厚東入道・大内介・安芸熊谷、周防・長門の勢を引具して、兵船二百余艘にて、兵庫より襄て西の京に着。甲斐・信濃の源氏七千余騎、中山道を経て東山に着。江馬越前守・淡河右京亮、北陸道七箇国の勢を率して、三万余騎にて東坂本を経て上京に着。

☆ 関東幕府軍が大挙して上洛したこと

やがて畿内や西国の賊軍らが、日を追うに従って次々と蜂起していることが、早馬によって六波羅から関東の幕府に伝えられました。相模入道高時は大いに驚くと共に、すぐ討手を派遣するため、相模守北条一族をはじめとして、関東八ヶ国の中で、

有力な大名らを召集し、派遣することとしました。派遣される軍勢はまず一族として、阿曾弾正少弼、名越遠江入道、大仏前陸奥守貞直、同じく武蔵左近将監、伊具右近大夫将監そして陸奥右馬助らです。また外様の人々としては、千葉大介、宇都宮三河守、

小山判官、武田伊豆三郎、小笠原彦五郎、土岐伯耆入道、葦名判官、三浦若狭五郎、千田太郎、城太宰大弐入道、佐々木隠岐前司、同じく備中守、結城七郎左衛門尉、小田常陸前司、長崎四郎左衛門尉、同じく九郎左衛門尉、長江弥六左衛門尉、

長沼駿河守、渋谷遠江守、河越三河入道、工藤次郎左衛門高景、狩野七郎左衛門尉、伊東常陸前司、同じく大和入道、安藤藤内左衛門尉、宇佐美摂津前司、二階堂出羽入道、同じく下野判官、同じく常陸介、安保左衛門入道、南部次郎そして山城四郎左衛門尉らを始めに、

主たる大名百三十二人を加え、総勢三十万七千五百余騎が九月二十日に鎌倉を出発し、十月八日には先発軍がすでに京都に到着したに関わらず、後方の軍勢は未だ足柄、箱根あたりを行軍していました。この鎌倉軍とは別に、河野九郎通治が四国の軍勢を率いて、

三百余艘の大きな軍船に乗せ尼崎に上陸し、京都の下京に到着しました。また厚東入道、大内介、安芸熊谷らが周防、長門の軍勢を引き連れて、兵船二百余艘にて兵庫に上陸し、西の京に到着しました。また甲斐、信濃の源氏七千余騎が中山道を経由して京都、東山に着き、

その他、江馬越前守、淡河右京亮の二人が、北陸道七ヶ国の軍勢、三万余騎を率いて東坂本から上京に到着しました。


総じて諸国七道の軍勢我も我もと馳上りける間、京白河の家々に居余り、醍醐・小栗栖・日野・勧修寺・嵯峨・仁和寺・太秦の辺・西山・北山・賀茂・北野・革堂・河崎・清水・六角堂の門の下、鐘楼の中迄も、軍勢の宿らぬ所は無りけり。日本雖小国是程に人の多かりけりと始て驚く許也。去程に元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分て、吉野・赤坂・金剛山、三の城へぞ被向ける。先吉野へは二階堂出羽入道々蘊を太将として、態と他の勢を交へず、二万七千余騎にて、上道・下道・中道より、三手に成て相向ふ。赤坂へは阿曾弾正少弼を大将として、其勢八万余騎、先天王寺・住吉に陣を張る。金剛山へは陸奥右馬助、搦手の大将として、其勢二十万騎、奈良路よりこそ被向けれ。中にも長崎悪四郎左衛門尉は、別して侍大将を承て、大手へ向ひけるが、態己が勢の程を人に被知とや思けん。一日引さがりてぞ向ひける。其行妝見物の目をぞ驚しける。先旗差、其次に逞しき馬に厚総懸て、一様の鎧着る兵八百余騎、二町計先き立てゝ、馬を静めて打せたり。我身は其次に纐纈の鎧直垂に、精好の大口を張せ、紫下濃の鎧に、白星の五枚甲に八竜を金にて打て付たるを猪頚に着成し、銀の瑩付の脛当に金作の太刀に振帯て、一部黒とて、五尺三寸有ける坂東一の名馬に塩干潟の捨小舟を金貝に磨たる鞍を置て、款冬色の厚総懸て、三十六差たる白磨の銀筈の大中黒の矢に、本滋藤の弓の真中握て、小路を狭しと歩ませたり。片小手に腹当して、諸具足したる中間五百余人、二行に列を引き、馬の前後に随て、閑に路次をぞ歩みける。其後四五町引さがりて、思々に鎧たる兵十万余騎、甲の星を輝かし、鎧の袖を重て、沓の子を打たるが如くに道五六里が程支たり。其勢ひ決然として天地を響かし山川を動す許也。此外々様の大名五千騎・三千騎、引分々々昼夜十三日迄、引も切らでぞ向ひける。我朝は不及申、唐土・天竺・太元・南蛮も、未是程の大軍を発す事難有かりし事也。と思はぬ人こそ無りけれ。

この鎌倉軍大召集の勢いなのか、その他諸国七道の豪族たちの軍勢も、我も我もと京都に駆け上ってきましたから、その軍隊の収容に、京都白河周辺の家々だけでは、宿所として不足し、醍醐、小来栖、日野、観修寺、嵯峨、仁和寺そして太秦などの周辺や、

西山、北山、賀茂、北野、革堂、河崎、清水、六角堂の門の下から、鐘楼の中にまで、軍勢が泊り込まざるを得なかったのです。日本が小国だと言っても、これほどの人間が居たのかと、初めて知り驚くばかりです。やがて元弘三年(1333年)正月末日、

諸国から集まった軍勢、八十万騎を三手に分けて、吉野、赤坂と金剛山の三ヶ所にある城に向かわせました。まず吉野へは二階堂出羽入道、道蘊を大将に命じ、あえて他の軍勢とは一緒にせず、二万七千余騎で上道、下道、中道を経由する三手に分けて向かいました。

また赤坂へは阿曾弾正少弼を大将にして、総勢八万余騎で進発し、まず天王寺、住吉に陣を構えました。そして金剛山には、陸奥右馬助が搦手の大将になって、総勢二十万騎が奈良路経由で向かいました。それら軍勢の中で、長崎悪四郎高貞左衛門尉は別途、

侍大将を命じられ、大手方面に向かうことになりましたが、自分の軍勢を人に誇示したく、わざと一日遅れで出発しました。その軍勢の華やかさは、見る人の目を驚かしました。先頭は大将の旗を持った武者が歩み、その後ろをたくましい馬に飾り糸の房を厚く垂らして、

揃いの鎧を着けた兵士八百余騎が、粛々と馬を進めました。それが二町ほど続いた後、長崎悪四郎が纐纈染(こうけつぞめ::織物を糸でくくって染め上げ、模様を出した織物)の鎧直垂に、精好(せいごう::密度濃く織った織物)の大口袴(裾の広がった袴)を着け、

紫下濃(むらさきすそご::赤紫色で下へ行くほど濃く染めたもの)の鎧に、銀製の星を五枚と、黄金で八匹の竜の飾りを取り付けた兜をあみだにかぶっていました。また銀の飾りを付けた脛当てと、黄金作りの太刀を帯び、「一部黒」という体高五尺三寸の関東一の名馬に、

潮の引いた干潟に捨て置かれた舟を、貝殻で表現し磨き上げた鞍を置き、馬は蕗色の房飾りで全体を飾っています。矢筈(弓の弦につがえるところ)を磨いた銀で巻き、大中黒(鷲の羽で中央部が黒い斑がある物)の矢羽を付けた、三十六本の矢が箙に挿してありました。

手には本滋籐(重籐弓の一種)の弓の真ん中を握り持ち、道路が狭いと言わんばかりに歩んで行きました。長崎悪四郎のお供には、片方の手に篭手をつけ、簡単な鎧を着て、その他色々な防具で身を守った中間五百余人が、二列になって馬の前後に付き、

静かに都大路を歩んでいきました。その後方、四、五町ばかりに、それぞれ思い思いの甲冑で身を固めた兵士、十万余騎が兜の星を輝かせ鎧の袖を並べて、まるでくつの底に打った金具のように整然と並んで、五、六里ばかり続きました。

その軍勢たるや、合戦に臨む覚悟が天地を鳴動させ、山や川をも揺れ動かすばかりです。この長崎悪四郎以外、外様大名の軍勢も、五千騎、三千騎と昼夜関係なく別々に出発し、それが十三日間も続きました。我が国では勿論、唐、インド、太元(古代中国中原の国?)

南蛮(東南アジア諸国)にもこれ程の軍勢を、派遣した例は無いだろうと、皆が思いました。


○赤坂合戦事付人見本間抜懸事
去程に赤坂の城へ向ひける大将、阿曾弾正少弼、後陣の勢を待調へんが為に、天王寺に両日逗留有て、同二月二日午刻に、可有矢合、於抜懸之輩者、可為罪科之由をぞ被触ける。爰に武蔵国の住人に人見四郎入道恩阿と云者あり。此恩阿、本間九郎資貞に向て語りけるは、「御方の軍勢雲霞の如くなれば、敵陣を責落さん事疑なし。但事の様を案ずるに、関東天下を治て権を執る事已に七代に余れり。天道欠盈理遁るゝ処なし。其上臣として君を流し奉る積悪、豈果して其身を滅さゞらんや。某不肖の身なりと云へ共、武恩を蒙て齢已に七旬に余れり。今日より後差たる思出もなき身の、そゞろに長生して武運の傾かんを見んも、老後の恨臨終の障共成ぬべければ、明日の合戦に先懸して、一番に討死して、其名を末代に遺さんと存ずる也。」と語りければ、本間九郎心中にはげにもと思ながら、「枝葉の事を宣者哉。是程なる打囲の軍に、そゞろなる先懸して討死したりとも、差て高名とも云れまじ。されば只某は人なみに可振舞也。」と云ければ、人見よにも無興気にて、本堂の方へ行けるを、本間怪み思て、人を付て見せければ、矢立を取出して、石の鳥居に何事とは不知一筆書付て、己が宿へぞ帰りける。本間九郎、さればこそ此者に一定明日先懸せられぬと、心ゆるし無りければ、まだ宵より打立て、唯一騎東条を指て向けり。石川々原にて夜を明すに、朝霞の晴間より、南の方を見ければ、紺唐綾威の鎧に白母衣懸て、鹿毛なる馬に乗たる武者一騎、赤坂の城へぞ向ひける。何者やらんと馬打寄せて是を見れば、人見四郎入道なりけり。人見本間を見付て云けるは、「夜部宣し事を実と思なば、孫程の人に被出抜まし。」と打笑てぞ、頻に馬を早めける。本間跡に付て、「今は互に先を争ひ申に及ず、一所にて尸を曝し、冥途までも同道申さんずるぞよ。」と云ければ、人見、「申にや及ばん。」と返事して、跡になり先になり物語して打けるが、赤坂城の近く成ければ、二人の者共馬の鼻を双て懸驤り、堀の際まで打寄て、鐙踏張弓杖突て、大音声を揚て名乗けるは、「武蔵国の住人に、人見四郎入道恩阿、年積て七十三、相摸国の住人本間九郎資貞、生年三十七、鎌倉を出しより軍の先陣を懸て、尸を戦場に曝さん事を存じて相向へり。我と思はん人々は、出合て手なみの程を御覧ぜよ。」と声々に呼て城を睨で引へたり。

☆ 赤坂の合戦にて、人見と本間が抜け駆けをしたこと

その頃赤坂城に向かっていた大将、阿曾弾正少弼は後方に備えている軍勢を待ち、再編しなおそうと天王寺に二日間滞在しました。そして元弘三年(1333年)二月二日、午刻(正午頃)に矢合わせが始まり、もし抜け駆けをする者がいれば、罪を問うことになると申し渡しました。

この軍勢の中に武蔵国の豪族で、人見四郎入道恩阿と名乗る者がいました。この恩阿は本間九郎資貞に向かい、「味方の軍勢はまるで雲霞のような大軍なので、敵陣を攻め落とすことは間違いないだろう。しかし昨今の世間の様子を見れば、

関東の鎌倉幕府が政権を握ってから、すでに七代を超えている。しかし満つれば欠けるという理屈から、誰も逃れることは出来ないし、その上、朝廷の臣下でありながら、帝を遠流の刑に処すると言うことを、繰り返している。こんなことをしているようでは、自滅しないはずが無い。

私はたいした人間でもないのに、幕府の恩恵を受けてすでに七十歳を越えている。この先それほど望みがあるわけでもないのに、やたら長生きして、幕府の命運が衰えて行くのを見るのも、年取った私には辛い話ではあるし、成仏の妨げにもなるだろう。

そう考えて、明日の合戦では真っ先に駆け込み、一番初めに討ち死にを果たし、その名を後世に残そうと考えている」と、語りかけました。聞いていた本間九郎も、心の中ではそうとも思いましたが、「つまらないことを言う人だな。これだけの包囲陣の中で、

むやみに先駆けして、討ち死にしたところで、それほど名誉なことだと、誰も言わないでしょう。だから明日、私は皆と同じように振舞いますよ」と、話しました。聞いた人見が詰まらなさそうに、本堂に向かって歩んでいくのを、本間は不審に思い、人に後を付けさせてみたところ、

人見は矢立を取り出し、石の鳥居に何か一筆書き付けてから、自分の宿所へ帰って行きました。本間九郎は明日あの男は先駆けをするに間違いない。そんなこと許してなるかと、夕方よりただ一騎で出発し、東条に向かいました。石川の河原で夜を明かし、

朝霞の晴れ間から、南の方角を見ると、紺唐綾縅の鎧(紺色の中国伝来の綾織物で威した鎧)を身に着け、白い流れ矢防止の防具を背に懸けて、鹿毛の馬にまたがった武者が一騎、赤坂の城に向かって行きます。一体誰だろうと馬を寄せて見ると、人見四郎入道でした。

人見は本間を見つけて、「昨夜、貴殿が言われたことを信じていたら、孫ほど年の違う人に、出し抜かれるところだった」と、笑いながら言うと、馬をますます早めました。本間はその後に付き、「今はお互い先陣を争うことなく、同じ所に屍をさらして、

冥土まで一緒に行きましょうよ」と、話せば人見は、「言うまでもないことだ」と、返事しました。それから二人は、後になったり先になったりし、お互い話をしながら、赤坂城に向かって行きました。やがて赤坂城近くなると、二人は馬を並べて駆け上って行き、

塀のすぐそばまで寄せ、鐙を踏ん張り、弓を杖にして大音声で、「武蔵国に住まいする、人見四郎入道恩阿、年を重ねて七十三歳、もう一人は、相模国の住人、本間九郎資貞、当年三十七歳である。鎌倉を出陣してからは、軍で真っ先を駆け、

屍を戦場にさらすことのみ考えてきたのだ。我と思わん人々は出て来い。私の手並みの程をご覧なれ」と、二人は名乗りを上げ、城をグッと睨みつけ、立ち止まりました。


城中の者共是を見て、是ぞとよ、坂東武者の風情とは。只是熊谷・平山が一谷の先懸を伝聞て、羨敷思へる者共也。跡を見るに続く武者もなし。又さまで大名とも見へず。溢れ者の不敵武者に跳り合て、命失て何かせん。只置て事の様を見よ、とて、東西鳴を静めて返事もせず。人見腹を立て、「早旦より向て名乗れ共、城より矢の一をも射出さぬは、臆病の至り歟、敵を侮る歟、いで其義ならば手柄の程を見せん。」とて、馬より飛下て、堀の上なる細橋さら/\と走渡り、二人の者共出し屏の脇に引傍て、木戸を切落さんとしける間、城中是に騒で、土小間・櫓の上より、雨の降が如くに射ける矢、二人の者共が鎧に、蓑毛の如くにぞ立たりける。本間も人見も、元より討死せんと思立たる事なれば、何かは一足も可引。命を限に二人共に一所にて被討けり。是まで付従ふて最後の十念勧めつる聖、二人が首を乞得て、天王寺に持て帰り、本間が子息源内兵衛資忠に始よりの有様を語る。資忠父が首を一目見て、一言をも不出、只涙に咽で居たりけるが、如何思けん、鐙を肩に投懸、馬に鞍置て只一人打出んとす。聖怪み思て、鎧の袖を引留め、「是はそも如何なる事にて候ぞ。御親父も此合戦に先懸して、只名を天下の人に被知と許思召さば、父子共に打連てこそ向はせ給ふべけれ共、命をば相摸殿に献り、恩賞をば子孫の栄花に貽さんと思召ける故にこそ、人より先に討死をばし給らめ。而るに思ひ篭給へる所もなく、又敵陣に懸入て、父子共に打死し給ひなば、誰か其跡を継ぎ誰か其恩賞を可蒙。子孫無窮に栄るを以て、父祖の孝行を呈す道とは申也。御悲歎の余りに無是非死を共にせんと思召は理なれ共、暫止らせ給へ。」と堅く制しければ、資忠涙を押へて無力着たる鎧を脱置たり。聖さては制止に拘りぬと喜しく思て、本間が首を小袖に裹み、葬礼の為に、側なる野辺へ越ける其間に、資忠今は可止人なければ、則打出て、先上宮太子の御前に参り、今生の栄耀は、今日を限りの命なれば、祈る所に非ず、唯大悲の弘誓の誠有らば、父にて候者の討死仕候し戦場の同じ苔の下に埋れて、九品安養の同台に生るゝ身と成させ給へと、泣々祈念を凝して泪と共に立出けり。

城内の兵士らは二人の様子を見て、これが坂東武者の美学なのか。ただこの場合は、昔の源平争乱の頃、熊谷直実と平山季重の二人が、一の谷の先陣争いをしたことを伝え知った二人が、それを羨ましく思って、あやかろうとしているだけだ。

見れば後に続く武者もいないし、彼らとてさほどの大名とも見えない。はねかえっりの命知らずの武者にかかわって、命を失うなんて馬鹿な真似はするな。ここは無視して様子を見ようと、東西どの方向も鳴りを潜めて、返事一つありません。

無視された人見は腹を立てて、「早朝からここにやって来て名乗りを上げたのに、城から矢の一本も射て来ないとは、臆病のきわまりだ。それとも我々を侮辱する気か。それならこちらから挨拶して、我らの腕の程見せてやろうじゃないか」と、馬から飛び降りると、

堀にかかった細い橋を軽快に走って渡り、二人は城から突き出すように築いた塀のそばに寄り付き、木戸を切り落とそうとしました。これにはさすが城内の兵どもも騒ぎ出し、城のあちこちや、櫓の上から雨のように矢が射掛けられ、二人の鎧に鷺の羽毛のように突き刺さりました。

しかし本間も人見も、最初から討ち死にせんと思い立ってやっていることなので、一歩も後へ引こうとはしません。命の続く限り戦って、二人とも一緒に討たれたのでした。この時まで彼らに付き従って、最期の念仏を十度唱えていた僧が、二人の首を貰い受け、

天王寺に持ち帰り、本間の子息である源内兵衛資忠に、ことの始めからのいきさつを話しました。父の首を一目見た資忠は言葉もなく、ただ涙に咽ぶばかりです。ところが何を思ったのか、鎧を肩に担ぐと馬に鞍を置き、ただ一人で飛び出して行こうとしました。

この行動に僧は不審を抱き、鎧の袖をつかんで引き止めると、「一体あなたは何をなされようとしているのですか。お父上がこの合戦において一番乗りを果たし、その名を天下に知らしめようとだけお考えならば、父子共に連れ立って、この合戦に臨むはずです。

しかしお父上は我が一命は相模守入道殿に奉げるとも、その恩賞は子孫が受け、家の栄えることを願っていればこそ、他の人に先立って討ち死にを遂げられたのです。それなのにお父上のお考えを、良く理解しようともせず、あなたまでが敵陣に駆け入って、

父子共々討ち死になどしてしまえば、一体誰が家を相続し、誰がその恩賞を受けることが出来るのですか。子孫が永遠に栄えることが、すなわち先祖に対して孝行を果たしているとは、このことを言うのです。あまりの悲嘆のため無鉄砲になり、父上共々討ち死にしたくなるのは、

当然かもしれませんが、ここは落ち着いて、思いとどまってください」と、強く制止されると資忠も涙をこらえ、やむなく着けていた鎧を脱ぎ、その場に置きました。僧侶は何とか思いとどまってくれたと喜び、本間の首を小袖に包み、葬儀を行おうと近くの埋葬地へ行きました。

ところがその時、資忠は今や止める人もいないので、すぐ飛び出すと最初に聖徳太子廟に向かい、この世の栄華は今日限りの命ですから、何も望むものはありません。ただ聖徳太子殿の大きなお心で、私をお救い下さるならば、父が討ち死にした戦場で、

同じ苔の下に埋もれ、極楽浄土で同じ蓮のうてなに、生まれ変わらせてくださいと、泣きながら祈りを奉げ、涙と共に陣を出て行きました。


石の鳥居を過るとて見れば我父と共に討死しける人見四郎入道が書付たる歌あり。是ぞ誠に後世までの物語に可留事よと思ければ、右の小指を喰切て、其血を以て一首を側に書添て、赤坂の城へぞ向ひける。城近く成ぬる所にて馬より下り、弓を脇に挟で城戸を叩き、「城中の人々に可申事あり。」と呼りけり。良暫く在て、兵二人櫓の小間より顔を指出して、「誰人にて御渡候哉。」と問ければ、「是は今朝此城に向て打死して候つる、本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠と申者にて候也。人の親の子を憶ふ哀み、心の闇に迷ふ習にて候間、共に打死せん事を悲て、我に不知して、只一人打死しけるにて候。相伴ふ者無て、中有の途に迷ふ覧。さこそと被思遣候へば、同く打死仕て、無迹まで父に孝道を尽し候ばやと存じて、只一騎相向て候也。城の大将に此由を被申候て、木戸を被開候へ。父が打死の所にて、同く命を止めて、其望を達し候はん。」と、慇懃に事を請ひ泪に咽でぞ立たりける。一の木戸を堅めたる兵五十余人、其志孝行にして、相向ふ処やさしく哀なるを感じて、則木戸を開き、逆茂木を引のけしかば、資忠馬に打乗り、城中へ懸入て、五十余人の敵と火を散てぞ切合ける。遂に父が被討し其迹にて、太刀を口に呀て覆しに倒て、貫かれてこそ失にけれ。惜哉、父の資貞は、無双の弓矢取にて国の為に要須たり。又子息資忠は、ためしなき忠孝の勇士にて家の為に栄名あり。人見は年老齢傾きぬれ共、義を知て命を思ふ事、時と共に消息す。此三人同時に討死しぬと聞へければ、知も知ぬもをしなべて、歎かぬ人は無りけり。既に先懸の兵共、ぬけ/\に赤坂の城へ向て、討死する由披露有ければ、大将則天王寺を打立て馳向ひけるが、上宮太子の御前にて馬より下り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、花さかぬ老木の桜朽ぬとも其名は苔の下に隠れじと一首の歌を書て、其次に、「武蔵国の住人人見四郎恩阿、生年七十三、正慶二年二月二日、赤坂の城へ向て、武恩を報ぜん為に討死仕畢ぬ。」とぞ書たりける。又右の柱を見れば、まてしばし子を思ふ闇に迷らん六の街の道しるべせんと書て、「相摸国の住人本間九郎資貞嫡子、源内兵衛資忠生年十八歳、正慶二年仲春二日、父が死骸を枕にして、同戦場に命を止め畢ぬ。」とぞ書たりける。父子の恩義君臣の忠貞、此二首の歌に顕れて、骨は化して黄壌一堆の下に朽ぬれど、名は留て青雲九天の上に高し。されば今に至るまで、石碑の上に消残れる三十一字を見る人、感涙を流さぬは無りけり。

石の鳥居を通り過ぎる時、我が父と共に討ち死にした、人見四郎入道の書き付けた歌を見つけました。これこそ確実に後世まで残すべきものだと考え、右手の小指を噛み切り、その血でそばに一首書き添えて、赤坂の城に向かいました。

城近くなって馬から降りると、弓をわき腹に挟んで城門の扉を叩き、「城中の方々に申し上げたいことがあります」と、呼びかけました。暫くすると兵士が櫓の中から顔を出し、「どなたが来られたのですか」と、問われ、「私は今朝、この城で討ち死にした、

本間九郎資貞の子息、源内兵衛資忠と申す者でございます。世の親が子供のことを、考えれば考えるほど悩みが尽きず、闇の中を迷うのが常であれば、父子共に討ち死にすることを悲しみ、私には知らせず、ただ一人で討ち死にしたのです。

誰一人としてお供をする者もなく、冥土への道に迷っていることでしょう。そう考えれば、同じように討ち死にを遂げて、死後も永遠に父に孝行を尽くしたいと思い、ただ一騎でここにやってきたのです。どうかこの城の大将に、よろしく説明していただき、木戸を開いてください。

父が討ち死にした場所にて、私も同じように命を捨て、その望みを達したく思います」と、真心を込め礼儀正しく要求を伝え、涙に咽びながら、その場にたたずみました。一の木戸を警固していた兵士ら五十余人は、彼の父に対する一途な孝行心と、

その気持ちのままここへ向かってきたことは、立派であるが、また哀れさも感じ、すぐ木戸を開き逆茂木も取り払いました。そこで資忠は馬に飛び乗ると城中に駆け込み、五十余人の敵と火花を散らして斬り合いました。そしてとうとう父が討ち取られた場所で、

太刀を口にくわえてそのまま倒れ込み、太刀に体を突き抜かれて自害しました。全く惜しいことをしたものです。父の資貞は弓矢を取っては、二人といないほどの腕であり、この国にとっては無くてはならない人物でした。また子息の資忠も、過去にその例を見ないほど、

君に忠義また親に孝行の精神を持った、勇敢なる武士で、家のために輝かしい名誉をもたらしています。人見四郎入道恩阿は今や年老いてはいますが、過去、人としての行いを間違えずに、我が命を時代の動静に合わせて奉げてきました。

このような三人が、一度に討ち死にしたと聞いた人々は、彼らのことを知っている人、また知らない人でも、嘆かない人はいませんでした。抜け駆けは禁じていたのにかかわらず、赤坂城に先駆けした兵どもが、すでに討ち死にしたことを聞いた大将、阿曾弾正少弼はすぐに天王寺を出発し、

赤坂に向けて駆けて行きました。途中聖徳太子廟の前で馬から降りて、石の鳥居を見ると、左の柱に、

      花さかぬ 老木の桜 朽ちぬとも その名は苔の 下に隠れじ

と、一首の歌が書かれてあり、その傍らには、「武蔵国の住人、人見四郎恩阿、生年七十三、正慶二年(1333年)二月二日、赤坂の城へ向かい、鎌倉幕府から受けた恩に報いるため、討ち死にして果てん」と、書かれてありました。また右側の柱を見ると、

      まてしばし 子を思う闇に 迷うらん 六の街(六種類の迷いの世界)の 道しるべせん

と、書かれてあり、「相模国の住人、本間九郎資貞嫡子、源内兵衛資忠、生年十八歳、正慶二年(1333年)仲春(二月)二日、父の死骸を枕にして、同じ戦場にて生を終えるべし」と、書かれてありました。父と子としての恩義、また主君に対する忠義と貞節が、

この二首の歌に表現され、骨は死後の世界で朽ち果てようとも、その名はこの世界、宇宙の果てまで大空高く残ることでしょう。だから現在も、石碑に消え残った三十一文字を見る人、皆感激して涙を流されるのです。


去程に阿曾弾正少弼、八万余騎の勢を率して、赤坂へ押寄せ、城の四方二十余町、雲霞の如くに取巻て、先時の声をぞ揚たりける。其音山を動し地を震ふに、蒼涯も忽に可裂。此城三方は岸高して、屏風を立たるが如し。南の方許こそ平地に継ひて、堀を広く深く掘切て、岸の額に屏を塗り、其上に櫓を掻双べたれば、如何なる大力早態なりとも、輒く可責様ぞなき。され共寄手大勢なれば、思侮て楯にはづれ矢面に進で、堀の中へ走り下て、切岸を襄らんとしける処を、屏の中より究竟の射手共、鏃を支て思様に射ける間、軍の度毎に、手負死人五百人六百人、不被射出時はなかりけり。是をも不痛荒手を入替々々、十三日までぞ責たりける。され共城中少も不弱見へけり。爰に播磨国の住人、吉河八郎と云者、大将の前に来て申けるは、「此城の為体、力責にし候はゞ無左右不可落候。楠此一両年が間、和泉・河内を管領して、若干の兵粮を取入て候なれば、兵粮も無左右尽候まじ。倩思案を廻し候に、此城三方は谷深して地に不継、一方は平地にて而も山遠く隔れり。されば何くに水可有とも見へぬに、火矢を射れば水弾にて打消候。近来は雨の降る事も候はぬに、是程まで水の卓散に候は、如何様南の山の奥より、地の底に樋を伏て、城中へ水を懸入るゝ歟と覚候。哀人夫を集めて、山の腰を掘きらせて、御覧候へかし。」と申ければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ継きたる山の尾を、一文字に掘切て見れば、案の如く、土の底に二丈余りの下に樋を伏せて、側に石を畳み、上に真木の瓦を覆て、水を十町余の外よりぞ懸たりける。此揚水を被止て後、城中に水乏して、軍勢口中の渇難忍ければ、四五日が程は、草葉に置ける朝の露を嘗め、夜気に潤へる地に身を当て、雨を待けれ共雨不降。寄手是に利を得、隙なく火矢を射ける間、大手の櫓二つをば焼落しぬ。城中の兵水を飲まで十二日に成ければ、今は精力尽はてゝ、可防方便も無りけり。死たる者は再び帰る事なし。去来や、とても死なんずる命を、各力の未だ墜ぬ先に打出で、敵に指違へ、思様に打死せんと、城の木戸を開て、同時に打出んとしけるを、城の本人平野将監入道、高櫓より走下り、袖をひかへて云けるは、「暫く楚忽の事な仕給ふそ。今は是程に力尽き喉乾て疲れぬれば、思ふ敵に相逢ん事有難し。名もなき人の中間・下部共に被虜て、恥を曝さん事可心憂。倩事の様を案ずるに、吉野・金剛山の城、未相支て勝負を不決。西国の乱未だ静まらざるに、今降人に成て出たらん者をば、人に見こらせじとて、討事不可有と存ずる也。とても叶はぬ我等なれば、暫事を謀て降人に成、命を全して時至らん事を可待。」といへば、諸卒皆此義に同じて、其日の討死をば止めてけり。

やがて阿曾弾正少弼は、八万余騎の軍勢を率いて赤坂に押し寄せ、城の四方二十余町を雲霞のように取り巻き、まず閧の声を上げさせました。その響きは山を動かし、大地も振動し、天空でさえ、忽ちに裂けるのではと思えるほどです。

この赤坂城は三方が絶壁になっており、屏風を立てかけたようです。ただ南の方だけ平地になっていますが、そこには堀を幅広く、また深く掘り下げて、掻き上げた土塁に塀を築き、その上に櫓を並べて築いた様子は、どんなに強大な軍勢であっても、

また疾風迅雷の兵力をもってしても、とても攻めきれるようには見えません。しかし寄せ手側は大軍なので軽く考え、楯に隠れることなく矢に身をさらし、堀の中へ走り降りて、険しい崖をよじ登ろうとしたところ、塀の中から弓には腕の覚えがある武者が、

鏃を揃えて思うが侭に射掛けてくるので、戦うたびに負傷者や死者が、五百人、六百人と出る有様です。このような損害もかえりみず、次々と新手を投入して、十三日まで攻撃を続けました。しかし篭城軍は特に弱った様子も見えません。

そのような時、幡磨国の豪族、吉川八郎と言う男が、大将である阿曾の前に来て、「この城の状況を考えると、力攻めに攻めても、そう簡単に落とすことは出来ないでしょう。敵将、楠木はここ二年ほど和泉、河内を支配していましたから、若干の兵糧は、

運び込んでいると思いますから、簡単に兵糧が尽きるとも考えられません。けれどもこの城について色々考えてみると、この城は三方が深い谷に面しており、平地には連絡していません。また他の一方は平地であり、しかも山は遠く離れています。

だったら何処に水があるのかと思いますが、火矢を射込んでも竜吐水みたいなもので、すぐに消してしまいます。最近は雨もほとんど降っていないのに、これほど水が豊富にあるということは、きっと南側の山奥から地中に樋を埋設し、城内に水を引き込んでいるからだと思われます。

ここは是非とも土木作業員を集め、山の麓あたりを掘らせて見ればどうですか」と、意見具申しました。聞いていた大将は、「確かにそうかも知れぬ」と、すぐに作業員を集め、城につながっている山裾を、横一文字に掘ってみれば、予想通り地中二丈ほどの深さに樋を埋設し、

周囲に石を並べ、上には槙の木で瓦のように覆って、水を十町ほど遠くより、引き入れていました。この水利施設を破壊されてからは、城内では水が不足しだし、城兵らは口の渇きに苦しみ、四、五日は草葉に降りる朝露を舐めて凌ぎ、

夜になれば湿気を含んだ大地に身を伏せて、雨の降るのを待ったのですが、雨は降りませんでした。攻城軍はこの水攻めの効果に乗じて、次から次へと休みなく火矢を射込んできましたから、大手の櫓二棟が焼け落ちてしまいました。

城内の兵士らは水をろくに飲むことも出来ずに、十二日間も経てば、今や気力、精力とも尽き果てて、防御する手段も何もかも無くなってしまいました。死んでしまえばもう二度とこの世に戻ることはありません。もうこうなりゃとても助かるとも思えない命なら、

少しでも体力のある内に打って出て、敵と刺し違え、思い残すことなく、討ち死にしようじゃないかと、城の木戸を開き、一斉に打って出ようとしたその時、城の総大将、平野将監入道が、高櫓から走り降りて来ました。出て行こうとする兵士の袖をつかまえて、

「チョッと待った。軽率なことをするものではない。力尽き喉の渇きにも耐えられないほど、疲れきった今の状況では、思うような敵に出会えることなど期待出来ない。その上、名もない武将の中間や家来に生け捕りになり、恥をさらすなんて余りにも情けないことだ。

現在の宮方、幕府方の状況を良く考えてみれば、吉野や金剛山の城もまだ持ちこたえており、勝負はいまだについていない。一方、西国の騒乱も、未だに収まってもいないこの時であれば、降伏して来た者を、他の宮方の連中に見せて、思い知らせようと考えるから、

降伏してきた者を処刑するとはとても思えない。現在の勝負に、とても勝ち目のない我々なので、ここは暫く降参したと見せかけて命を保ち、時の来るのを待つことが大事だ」と、言えば皆も確かにそうだと思い、その日は打って出ることを思いとどまりました。


去程に次日軍の最中に、平野入道高櫓に上て、「大将の御方へ可申子細候。暫く合戦を止て、聞食候へ。」と云ければ、大将渋谷十郎を以て、事の様を尋るに、平野木戸口に出合て、「楠和泉・河内の両国を平げて威を振ひ候し刻に、一旦の難を遁れん為に、不心御敵に属して候き。此子細京都に参じ候て、申入候はんと仕候処に、已に大勢を以て被押懸申候間、弓矢取身の習ひにて候へば、一矢仕りたるにて候。其罪科をだに可有御免にて候はゞ、頚を伸て降人に可参候。若叶ふまじきとの御定にて候はゞ、無力一矢仕て、尸を陣中に曝すべきにて候。此様を具に被申候へ。」と云ければ、大将大に喜て、本領安堵の御教書を成し、殊に功あらん者には、則恩賞を可申沙汰由返答して、合戦をぞ止めける。城中に篭る所の兵二百八十二人、明日死なんずる命をも不知、水に渇せる難堪さに、皆降人に成てぞ出たりける。長崎九郎左衛門尉是を請取て、先降人の法なればとて、物具・太刀・刀を奪取り、高手小手に禁て六波羅へぞ渡しける。降人の輩、如此ならば只討死すべかりける者をと、後悔すれ共無甲斐。日を経て京都に着しかば、六波羅に誡置て、合戦の事始なれば、軍神に祭て人に見懲させよとて、六条河原に引出し、一人も不残首を刎て被懸けり。是を聞てぞ、吉野・金剛山に篭りたる兵共も、弥獅子の歯嚼をして、降人に出んと思ふ者は無りけり。「罪を緩ふするは将の謀也。」と云事を知らざりける六波羅の成敗を、皆人毎押なべて、悪かりけりと申しが、幾程も無して悉亡びけるこそ不思議なれ。情は人の為ならず。余に驕を極めつゝ、雅意に任て振舞へば、武運も早く尽にけり。因果の道理を知るならば、可有心事共也。

そして、翌日戦闘の最中に篭城軍の大将、平野入道は高櫓に登り幕府軍に向かって、「敵軍の大将に申し上げたいことがある。暫く休戦して聞いてください」と、話しかけました。大将の阿曾弾正が渋谷十郎に事情を確認させたところ、

平野将監入道が木戸口まで出て来て、「楠木正成が和泉と河内国を支配してから、周辺にその勢力範囲を広げようとしていた時、我々は楠木と事を構えることを好まず、心にもなく敵である楠木の支配下に入ったものです。この事情を京都六波羅に参り、

説明しようと思っていた矢先に、大軍に押しかけられれば、武家の習いで黙っていることが出来ず、手向かったまでです。その罪だけでも許していただけるなら、首を洗って降伏しようと思っています。しかし、もしこの申し入れがお聞き入れられなければ、止むを得ません、

合戦を継続し、我らの屍を陣中にさらすだけです。我らのこの申し入れを、大将に良く説明してください」と、申し入れました。この申し入れに阿曾大将は大変喜び、今までの領地など安堵を保証する書類を作成し、その上特に戦功のあった者に対しては、

早速恩賞授与の手続きを取ろうと返事して、合戦を中止しました。篭城していた兵士ら二百八十二人は、明日死ぬかも知れない命とも知らず、喉の渇きに耐え切れなくて、全員降伏し城を出て行きました。長崎九郎左衛門尉はこの兵士らを受け取り、

捕虜の扱いだからと、まず甲冑、太刀や脇差など奪い取り、縄で腕から手首まで厳重に縛り上げ、六波羅に引き渡しました。降伏した兵士らは、こんな目に会うのなら、討ち死にした方がましだったと後悔しても、後の祭りです。

数日して京都に着いた彼らは、六波羅に拘留されました。しかし、合戦の手始めとして、軍神に奴らを祭り上げ、手向かう者どもに見せて、懲らしめてやろうじゃないかと、六条河原に引き出し、一人残らず首を刎ね獄門に架けたのです。

この噂を聞き付けた、吉野や金剛山の城に篭っている兵士らは、獅子(想像上の動物)が怒り狂うような気分で、絶対に降参などするものかと思いました。「時と場合によって、処罰の軽重を変えるのも、将たる者の謀略である」と言うことを知らずに行った、

六波羅の処置に対して、人は皆良くないことをしたと言い合いましたが、この後、程なく鎌倉幕府が全滅したのも不思議な話です。情けは人のためならずと言うように、他人に対して温情のある処置が、我が身にとって、救いになることもあるのです。

幕府は余りにも思い上がりが強く、勝手気ままな政治を行ったため、その武運まで早く尽きてしまいました。因果応報の理屈を少しでも知っているなら、あらゆることに対して注意を払うべきでしょう。      (終)

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