7 太平記 巻第七 (その二)


○新田義貞賜綸旨事
上野国住人新田小太郎義貞と申は、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家也。然共平氏世を執て四海皆其威に服する時節なれば、無力関東の催促に随て金剛山の搦手にぞ被向ける。爰に如何なる所存歟出来にけん、或時執事船田入道義昌を近づけて宣ひける、「古より源平両家朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源家是を鎮め、源氏上を侵す日は平家是を治む。義貞不肖也。と云へ共、当家の門■として、譜代弓矢の名を汚せり。而に今相摸入道の行迹を見に滅亡遠に非ず。我本国に帰て義兵を挙、先朝の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶まじ。如何して大塔宮の令旨を給て、此素懐を可達。」と問給ければ、舟田入道畏て、「大塔宮は此辺の山中に忍て御座候なれば、義昌方便を廻して、急で令旨を申出し候べし。」と、事安げに領掌申て、己が役所へぞ帰ける。其翌日舟田己が若党を三十余人、野伏の質に出立せて、夜中に葛城峯へ上せ、我身は落行勢の真似をして、朝まだきの霞隠に、追つ返つ半時計どし軍をぞしたりける、宇多・内郡の野伏共是を見て、御方の野伏ぞと心得、力を合せん為に余所の峯よりおり合て近付たりける処を、舟田が勢の中に取篭て、十一人まで生捕てげり。舟田此生捕どもを解脱して潛に申けるは、「今汝等をたばかり搦取たる事、全誅せん為に非ず。新田殿本国へ帰て、御旗を挙んとし給ふが、令旨なくては叶まじければ、汝等に大塔宮の御坐所を尋問ん為に召取つる也。命惜くば案内者して、此方の使をつれて、宮の御座あんなる所へ参れ。」と申ければ、野伏ども大に悦て、「其御意にて候はゞ、最安かるべき事にて候。此中に一人暫の暇を給候へ、令旨を申出て進せ候はん。」と申て、残り十人をば留置、一人宮の御方へとてぞ参ける。

☆ 新田義貞が綸旨を受けたこと

上野国の豪族である新田小太郎義貞と言う人物は、八幡太郎源義家十七代の子孫で、源家嫡流の名家です。しかし平家である北条氏が世の中を支配し、日本国中が皆、北条家鎌倉幕府の権威に、服従していた時代でもあったので、源家と言えども仕方なく、

幕府の命令に従って、金剛山攻撃の搦手として従軍していました。しかしそんな時、何を思ったのかある日、新田家の執事(事務責任者)の舟田入道義昌を近くに呼び、「古来、源平の両家は朝廷にお仕えし、平氏が世の中を乱すような行いをしたら、源家がこれを正し、

また源氏が朝廷をないがしろにすれば、平氏がこれを正してきた。この義貞それほどな人物と考えている訳でもないが、この新田家は源家の嫡流でありながら、代々弓矢を取る家としては、その名を汚して来た。この時期に当たって、幕府の相模入道北条高時の行状を見ていると、

鎌倉幕府の命脈も、そう長くないように思える。そこで私は本国に戻り、義兵を募り討幕軍を結成して、先帝、後醍醐のお心を安んじようと考えるのだが、勅命を頂かねば成功は難しいだろう。ここは何とかして、大塔宮護良親王の令旨を頂き、

この宿願を達成したいのだが」と、お尋ねになりました。舟田入道は重大な決意を聞かされ緊張し、「大塔宮はここ周辺の山中に、隠れ潜んで居られるらしいので、この義昌があらゆる方法を駆使し、出来るだけ早く、令旨を頂けるよう図りましょう」と、簡単に引き受け、

自分の詰め所に帰りました。そして翌日、舟田は支配下の若武者ら三十余人に、野武士の格好をさせ、夜中に葛城山に向かわせると、自分は幕府軍の落武者の振りをして、夜明け前の朝霞の中で、若武者らと一時間ばかり、追いつ追われつ戦闘の真似事をしました。

この戦闘を見ていた、宇多、内郡の野武士たちは、味方の野武士が戦っていると思い、加勢するためあちこちの峰から降りて、近づいたところを、舟田は軍勢の中に取り込め、十一人を生け捕りにしました。舟田はこの捕虜を解放して、「今、汝らをだまして生け捕ったのは、

何も討ち取ろうと言うのではない。我が殿、新田殿が本国に帰り、宮方として旗を挙げようと考えておられるが、令旨がなくては難しい面もある。そこで、汝らに大塔宮が居られる場所を尋ねたくて、捕らえたのだ。命が惜しければ、当方の使いを、

宮の居られる場所まで案内するのだ」と、そっと話しました。野武士たちは大喜びで、「そのような御用であれば、いとも簡単なことです。我らの中で一人だけ、しばらく時間をくだされば、令旨をお願いしてきますから、それをお渡し致しましょう」と話すと、十人をその場に残し、一人だけ宮のもとへ向かいました。


今や/\と相待処に、一日有て令旨を捧て来れり。開て是を見に、令旨にはあらで、綸旨の文章に書れたり。其詞云、被綸言称敷化理万国者明君徳也。撥乱鎮四海者武臣節也。頃年之際、高時法師一類、蔑如朝憲恣振逆威。積悪之至、天誅已顕焉。爰為休累年之宸襟、将起一挙之義兵。叡感尤深、抽賞何浅。早運関東征罰策、可致天下静謐之功。者、綸旨如此。仍執達如件。元弘三年二月十一日左少将新田小太郎殿綸旨の文章、家の眉目に備つべき綸言なれば、義貞不斜悦て、其翌日より虚病して、急ぎ本国へぞ被下ける。宗徒の軍をもしつべき勢共は兎に角に事を寄て国々へ帰ぬ。兵粮運送の道絶て、千剣破の寄手以外に気を失へる由聞へければ、又六波羅より宇都宮をぞ下されける。紀清両党千余騎寄手に加はて、未屈荒手なれば、軈て城の堀の際まで責上て、夜昼少しも不引退、十余日までぞ責たりける。此時にぞ、屏の際なる鹿垣・逆木皆被引破て、城も少し防兼たる体にぞ見へたりける。され共紀清両党の者とても、斑足王の身をもからざれば天をも翔り難し。竜伯公が力を不得ば山をも擘難し。余に為方や無りけん、面なる兵には軍をさせて後なる者は手々に鋤・鍬を以て、山を掘倒さんとぞ企ける。げにも大手の櫓をば、夜昼三日が間に、念なく掘り崩してけり。諸人是を見て、唯始より軍を止て掘べかりける物を、と後悔して、我も我もと掘けれ共、廻り一里に余れる大山なれば左右なく掘倒さるべしとは見へざりけり。

今や遅しと待ち続けるうち、一日たって令旨を頂いて帰ってきました。これを開いてみると、令旨(宮の命令書)ではなく、綸旨(天皇の命令書)としての文章になっていました。その内容は、「綸言を受けてここに伝える。国々をしっかりと治めるのは、それ名君の徳である。

また乱れた世の中を治め、国の治安を守るのは、武で仕える朝臣の忠節である。最近、北条高時入道の一族は、朝廷の権威をないがしろにし、朝廷に逆らう振る舞いを、欲しいままにしている。これは悪行の至りであり、天はすでにこれを罰することを明らかにした。

ここに天皇の長年にわたる、お心を安らげんために、義兵を起こすことは、天皇のもっとも喜びとするところである。またその功績に対しては、充分なる恩賞があろう。速やかに、関東の幕府を征伐する策を立案して、天下の安定を実現せよ。綸言は以上である。

そこで通達すること前記の如し。元弘三年(1333年)二月十一日、左少将記する。新田小太郎殿」と、書かれていました。綸旨の文章は新田家にとって、名誉ある天皇からのお言葉であり、義貞は大いに喜んで、翌日から仮病を訴えて、急遽本国に戻りました。

従軍していた主だった軍勢も、何かと理由をつけて、それぞれの国へ帰りました。その頃、千早城攻撃軍は兵糧の道が途絶え、軍勢の士気は低下が激しい旨伝えられると、六波羅では再び宇都宮治部大輔公綱(天王寺の戦いに戦功があった)を派遣することにしました。

紀清両党の千余騎が寄せ手軍に合流し、元気一杯の新手軍でもあれば、早速、城の堀際まで攻め上り、昼夜兼行で少しも退くことなく、十日余の間攻め続けました。そして塀の際にある鹿垣(ししがき::竹や木で編んだ垣)や逆茂木など皆破壊したため、

さすがに城の防衛力も若干落ちたように見えました。とはいっても、紀清両党の兵士らでも、古代インドの伝説上の王である、班足王のように、自由に空を飛べる訳でもありません。また竜伯国に住む巨人のように、力がある訳でもないので、山を突き破って進むことも出来ません。

ここに手の打ちようもなくなり、主力の軍勢は戦闘態勢を続けるものの、それ以外の兵士らには、手に手に鋤、鍬を持たせ、山を掘り崩そうと計画しました。さすがに大手の櫓も、昼夜兼行三日間の掘削の結果、掘り崩されたのでした。

他の軍勢らもこれを見て、これなら最初から戦闘などせずに、掘ることに専念すれば良かったと後悔し、我も我もと掘り始めましたが、周囲一里を超える山ですから、そう簡単に掘り崩せそうには、思えません。


○赤松蜂起事
去程に楠が城強くして、京都は無勢也。と聞へしかば、赤松二郎入道円心、播磨国苔縄の城より打て出で、山陽・山陰の両道を差塞ぎ、山里・梨原の間に陣をとる。爰に備前・備中・備後・安芸・周防の勢共、六波羅の催促に依て上洛しけるが、三石の宿に打集て、山里の勢を追払て通んとしけるを、赤松筑前守舟坂山に支て、宗との敵二十余人を生捕てけり。然共赤松是を討せずして、情深く相交りける間、伊東大和二郎其恩を感じて、忽に武家与力の志を変じて、官軍合体の思をなしければ、先己が館の上なる三石山に城郭を構へ、軈て熊山へ取上りて、義兵を揚たるに、備前の守護加治源二郎左衛門一戦に利を失て、児嶋を指て落て行。是より西国の路弥塞て、中国の動乱不斜。西国より上洛する勢をば、伊東に支へさせて、後は思も無りければ、赤松軈て高田兵庫助が城を責落して、片時も足を不休、山陰道を指して責上る。路次の軍勢馳加て、無程七千余騎に成にけり。此勢にて六波羅を責落さん事は案の内なれ共、若戦ひ利を失事あらば、引退て、暫く人馬をも休ん為に、兵庫の北に当て、摩耶と云山寺の有けるに、先城郭を構て、敵を二十里が間に縮めたり。

☆ 赤松が蜂起したこと

やがて楠木の篭る城が堅固で、その攻撃のため、京都には軍勢が少ないと聞き、赤松二郎入道円心は播磨国、苔縄の城を出陣し、山陽、山陰両道を閉鎖して、山里、梨原の中間あたりに陣を構えました。当時、備前、備中、備後、安芸そして周防の軍勢らが、

六波羅の召集に応じて上洛中でしたが、三石の宿に集合して、山里の赤松の軍勢を追い払って、通過しようとしたところ、赤松筑前守が舟坂山で防戦し、主だった敵二十余人を生け捕りにしました。しかし、赤松は捕虜を討つことはせず、思いやりのある態度で接したので、

備前国の豪族、伊東大和二郎はその恩を感じて、即刻幕府を裏切り、官軍宮方に鞍替えしようと考え、まず最初に自分の舘の裏山、三石山に城郭を構えました。その後すぐ熊山まで進攻し、義兵を募って旗揚げをしました。

そのため備前の守護職、加治源二郎左衛門が阻止しようと一戦したものの敗れ、児島に向かい落ちて行きました。このことにより、西国の街道は閉鎖されたため、中国地方の騒動は逼迫しました。そして西国から都に上ろうとする軍勢に関しては、

伊東大和二郎が阻止を受け持ちました。赤松円心は、後方に何の憂いも無くなったので、すぐに高田兵庫助の城を攻め落とし、その後休む間もなく、山陰道を目指して進攻を続けました。侵攻途中の土地土地で、軍勢が駆けつけたので、やがて七千余騎になりました。

この勢いをもって、六波羅を攻め落とすことも考えましたが、もし合戦の進行が不利な場合は退却して、暫く人馬を休める必要もあり、兵庫湊の北方、摩耶山にある天上寺を、とりあえず城郭として構築し、敵を二十里の距離まで縮めました。


○河野謀叛事
六波羅には、一方の打手にはと被憑ける宇都宮は千剣破の城へ向ひつ、西国の勢は伊東に被支て不上得、今は四国勢を摩耶の城へは向べしと被評定ける処に、後の二月四日、伊予国より早馬を立て、「土居二郎・得能弥三郎、宮方に成て旗をあげ、当国の勢を相付て土佐国へ打越る処に、去月十二日長門の探題上野介時直、兵船三百余艘にて当国へ推渡り、星岡にして合戦を致す処に、長門・周防の勢一戦に打負て、死人・手負其数を不知。剰時直父子行方を不知云云。其より後四国の勢悉土居・得能に属する間、其勢已に六千余騎、宇多津・今張の湊に舟をそろへ、只今責上んと企候也。御用心有べし。」とぞ告たりける。

☆ 河野が謀反を起こしたこと

その頃六波羅では、討手として頼みにしていた宇都宮公綱が、千剣破(千早)城へ向かっており、また西国からの加勢も、伊東大和に上洛を阻止され、こうなれば四国の軍勢を、摩耶の城に当たらせようと相談していたところ、二月四日になって伊予国より早馬が到着し、

「土居二郎、得能弥三郎両名が後醍醐に味方すべく、宮方として旗を揚げ、両国の軍勢が土佐国に侵攻しました。そこで先月の三月十二日に、長門国の探題(幕府の官職名、地方の長官)、北条上野介時直が鎮圧のため、兵船三百余艘で伊予国に渡って来ました。

しかし、星岡で合戦となったものの、長門、周防軍は一戦しただけで完敗し、死者、負傷者は数知れない有様です。その上時直父子は行方不明になったとか、云々。その後四国の軍勢は、全て土居、得能に従い、すでにその総勢は六千余騎となり、

宇多津、今治の湊に軍船を集結し、すぐにでも都に向かって攻め上ろうと、計画を進めています。どうぞご用心されますよう」と、連絡してきました。


○先帝船上臨幸事
畿内の軍未だ静ならざるに、又四国・西国日を追て乱ければ、人の心皆薄氷を履で国の危き事深淵に臨が如し。抑今如斯天下の乱るゝ事は偏に先帝の宸襟より事興れり。若逆徒差ちがふて奪取奉んとする事もこそあれ、相構て能々警固仕べしと、隠岐判官が方へ被下知ければ、判官近国の地頭・御家人を催して日番・夜廻隙もなく、宮門を閉て警固し奉る。閏二月下旬は、佐々木富士名判官が番にて、中門の警固に候けるが、如何が思けん、哀此君を取奉て、謀叛を起さばやと思心ぞ付にける。され共可申入便も無て、案じ煩ひける処に、或夜御前より官女を以て御盃を被下たり。判官是を給て、よき便也。と思ければ、潛に彼官女を以て申入けるは、「上様には未だ知し召れ候はずや、楠兵衛正成金剛山に城を構て楯篭候し処に、東国勢百万余騎にて上洛し、去二月の初より責戦候といへ共、城は剛して寄手已に引色に成て候。又備前には伊東大和二郎、三石と申所に城を構て、山陽道を差塞ぎ候。播磨には赤松入道円心、宮の令旨を給て、摂津国まで責上り、兵庫の摩耶と申処に陣を取て候。其勢已に三千余騎、京を縮め地を略して勢近国に振ひ候也。四国には河野の一族に、土居二郎・得能弥三郎、御方に参て旗を挙候処に、長門の探題上野介時直、彼に打負て、行方を不知落行候し後、四国の勢悉く土居・得能に属し候間、既に大船をそろへて、是へ御迎に参るべし共聞へ候。又先京都を責べし共披露す。御聖運開べき時已に至ぬとこそ覚て候へ。義綱が当番の間に忍やかに御出候て、千波の湊より御舟に被召、出雲・伯耆の間、何れの浦へも風に任て御舟を被寄、さりぬべからんずる武士を御憑候て、暫く御待候へ。義綱乍恐責進せん為に罷向体にて、軈て御方に参候べし。」とぞ奏し申ける。官女此由を申入ければ、主上猶も彼偽てや申覧と思食れける間、義綱が志の程を能々伺御覧ぜられん為に、彼官女を義綱にぞ被下ける。判官は面目身に余りて覚ける上、最愛又甚しかりければ、弥忠烈の志を顕しける。「さらば汝先出雲国へ越て、同心すべき一族を語て御迎に参れ。」と被仰下ける程に、義綱則出雲へ渡て塩冶判官を語ふに、塩冶如何思けん、義綱をゐこめて置て、隠岐国へ不帰。主上且くは義綱を御待有けるが、余に事滞りければ、唯運に任て御出有んと思食て、或夜の宵の紛に、三位殿の御局の御産の事近付たりとて、御所を御出ある由にて、主上其御輿にめされ、六条少将忠顕朝臣計を召具して、潛に御所をぞ御出有ける。此体にては人の怪め申べき上、駕輿丁も無りければ、御輿をば被停て、悉も十善の天子、自ら玉趾を草鞋の塵に汚して、自ら泥土の地を踏せ給けるこそ浅猿けれ。

☆ 先帝後醍醐が脱出の舟にお乗りになったこと

畿内の騒乱が未だに治まる気配がないのに、また四国や西国にて次々と反幕府の乱が起こり、国家の危機を恐れる人々の気持ちは、ちょうど薄氷の上に乗って、深みに向かうような気分です。もともとこのように国家が乱れたのは、

とりもなおさず先の天皇、後醍醐のお考えが原因です。そのため、もしかすれば、宮方の武者らが無謀にも、先帝を奪取し奉ることも、無きにしも非ずと考えられるので、ここは充分すぎるほどの警戒をするようにと、隠岐判官佐々木清高のもとに命令がありました。

そこで佐々木判官は近国の地頭や、幕府の御家人らを集めて、夜昼にかかわらず、油断なく警戒をしました。閏二月下旬の警固は、佐々木富士名義綱判官が担当していましたが、その時何を思ったのか、先帝をこの地より逃して、謀反を起こそうと決心しました。

とは言っても、この計画を先帝に伝える方法もなく、思い悩んでいたところ、ある夜、先帝から帝にお仕えする女官を通じて盃を賜りました。判官はこの盃を受け取ると、この機会にと考えて女官に、「上様にはまだご存じないかも知れませんが、

楠木兵衛正成が金剛山に城郭を築いて立て篭もったので、東国幕府より百万余騎の軍勢が上洛し、去る二月の初めから攻撃していますが、楠木の城は非常に堅固であり、寄せ手軍はすでに退却する者も、現れているそうです。また備前では伊東大和二郎が、

三石と言う所に城を構え、山陽道の往来を閉鎖しました。そして播磨では赤松入道円心が、大塔宮護良親王の令旨を受けて、摂津国まで攻め上り、兵庫湊の摩耶山に陣を構え、その軍勢はすでに三千余騎になり、京までの攻撃距離を縮めると共に、

周辺の土地を抑えて、その勢力は近国にまで及んでいます。その他四国では、河野一族に土居二郎や得能弥三郎が味方として加勢し、反幕府の旗を揚げました。そこで長門の探題、北条上野介時直が、鎮圧を図ったものの敗戦を喫し、何処に落ちたのか、

行方不明の状態です。そこで四国の軍勢は全て、土居や得能の支配下に入り、すでに大船を集め終わり、ここまで帝をお迎えに来るとか聞いています。また先に京都を攻めるのではとか、色々噂されています。いよいよ帝の運が開く時が来たようです。

そこで、この義綱が警固の役目に当たっている時ここを脱出し、千波の湊から御舟に乗られ、風任せで出雲か伯耆あたりの浦にお着きになれば、土地の有力な武士を頼られ、しばらくお待ちになってください。この義綱は恐れながら、帝を追跡する態を装って後を追い、

出来るだけ早く味方に駆けつけましょう」と、声を潜めて話しました。女官はこの旨を帝に話されましたが、帝はとても信用出来ないと考え、義綱の本心をしっかりと試すため、この女官を義綱に与えました。判官は身に余る名誉なことに喜ぶとともに、彼女への愛情も強くなり、

ますます帝への忠義の心を明らかにしました。帝は、「それならば、汝が先に出雲国に行き、味方になってくれる一族に働きかけ、迎えに来い」と、仰せられました。すぐ義綱は出雲に渡り、塩冶判官に相談を持ちかけましたが、塩冶はどう思ったのか義綱を監禁し、

隠岐国には帰しませんでした。帝はしばらく義綱をお待ちになっておられましたが、余りにも帰りが遅いので、こうなれば運を天に任せて脱出しようと考え、ある夜、暗闇に紛れて三位局阿野廉子のご出産が近いからと、代わりに帝がその輿に乗られ、

六条少将千種忠顕朝臣を連れて、密かに御所を出られたのでした。しかし、これでは怪しまれると思えるし、また輿を担ぐ人もいないので輿を降ろし、畏れ多くも十善(十悪を犯さないこと、天皇に対する修飾語)の天子御自らのおみ足を、草鞋の汚れに任せて、泥土を踏んで歩かれました。何とも嘆かわしいことではあります。


比は三月二十三日の事なれば、月待程の暗き夜に、そこ共不知遠き野の道を、たどりて歩せ給へば、今は遥に来ぬ覧と被思食たれば、迹なる山は未滝の響の風に聞ゆる程なり。若追懸進する事もやある覧と、恐しく思食ければ、一足も前へと御心許は進め共、いつ習はせ給べき道ならねば、夢路をたどる心地して、唯一所にのみやすらはせ給へば、こは如何せんと思煩ひて、忠顕朝臣、御手を引御腰を推て、今夜いかにもして、湊辺までと心遣給へ共、心身共に疲れ終て、野径の露に徘徊す。夜いたく深にければ、里遠からぬ鐘の声の、月に和して聞へけるを、道しるべに尋寄て、忠顕朝臣或家の門を扣き、「千波湊へは何方へ行ぞ。」と問ければ、内より怪げなる男一人出向て、主上の御有様を見進せけるが、心なき田夫野人なれ共、何となく痛敷や思進せけん、「千波湊へは是より纔五十町許候へ共、道南北へ分れて如何様御迷候ぬと存候へば、御道しるべ仕候はん。」と申て、主上を軽々と負進せ、程なく千波湊へぞ着にける。爰にて時打鼓の声を聞けば、夜は未だ五更の初也。此道の案内者仕たる男、甲斐々々敷湊中を走廻、伯耆の国へ漕もどる商人舟の有けるを、兎角語ひて、主上を屋形の内に乗せ進せ、其後暇申てぞ止りける。此男誠に唯人に非ざりけるにや、君御一統の御時に、尤忠賞有べしと国中を被尋けるに、我こそ其にて候へと申者遂に無りけり。夜も已に明ければ、舟人纜を解て順風に帆を揚、湊の外に漕出す。船頭主上の御有様を見奉て、唯人にては渡らせ給はじとや思ひけん、屋形の前に畏て申けるは、「加様の時御船を仕て候こそ、我等が生涯の面目にて候へ、何くの浦へ寄よと御定に随て、御舟の梶をば仕候べし。」と申て、実に他事もなげなる気色也。忠顕朝臣是を聞き給て、隠しては中々悪かりぬと思はれければ、此船頭を近く呼寄て、「是程に推し当られぬる上は何をか隠すべき、屋形の中に御座あるこそ、日本国の主、悉も十善の君にていらせ給へ。汝等も定て聞及ぬらん、去年より隠岐判官が館に被押篭て御座ありつるを、忠顕盜出し進せたる也。出雲・伯耆の間に、何くにてもさりぬべからんずる泊へ、急ぎ御舟を着てをろし進せよ。御運開ば、必汝を侍に申成て、所領一所の主に成べし。」と被仰ければ、船頭実に嬉しげなる気色にて、取梶・面梶取合せて、片帆にかけてぞ馳たりける。

その日は元弘三年(1333年)三月二十三日(閏二月二十四日では?)で、月待(陰暦の十七、十九、二十三日などの夜、月の出を待って酒宴を開き、月を祭ること)の月が出る前の暗い夜、地理不案内の遠い道を、迷い迷い歩いて行きました。もう大分遠くまで来ただろうと思いましたが、

後ろに見える山からは、先程の滝の響きが、風に乗って聞こえるくらいの距離です。もしかして追跡されるのではと思えば恐ろしく、一歩でも前に進もうと、心ばかりは焦りますが、帝には慣れない徒歩での逃走でもあり、夢の中を歩いている気分になって、

ともすれば一人だけ歩くのをやめられたりしました。こんなことではいけないと、千種忠顕朝臣が帝のお手を引いたり、お腰を押したりして、何とか今夜中には、湊近くまでとは考えているものの、心身ともに疲れ果てて、夜露の降りた野の道を、さまようばかりです。

すでに深夜となり、遠くとも思えない里の鐘の音が、月の光に乗って聞こえてきました。そこで忠顕は道案内を乞うため、ある民家の門をたたき、「千波湊に行くには、どの方向を行けばよいのでしょうか」と、お聞きになると、中から身分の低そうな男が一人出てきました。

帝のご様子をご覧になり、無教養な一般の人ではありますが、何となく悲惨な感じを受けたのか、「千波湊へ行くには、ここよりざっと五十町ほどあります。しかし、途中で道が南北に分かれていますので、もしかして御迷いになられるかも知れませんから、

ご案内をいたしましょう」と、返事がありました。その男は帝を軽々と背負って歩き出し、やがて千波湊に着きました。その時、時刻を知らせる太鼓の音を聞くと、夜はまだ午前四時頃です。ここまで案内してきた男は、忙しそうに湊中を走り回って、伯耆国に戻る商人舟を見つけ出し、

どのように話をつけたのか、帝を舟の屋形内に案内した後、暇を申し出て皆と別れました。この男は確かにただ者とも思えず、その後帝が天下を平定した時に、充分なる恩賞を与えるべく、隠岐の国中を探させたのですが、結局、誰一人として申し出る者は居ませんでした。

さて夜もすでに明けたので、舟人は纜を解くと順風に帆を広げて、湊の外に漕ぎ出ました。船頭は帝のご様子から、普通のお方が乗られたのではないと思い、屋形の前に畏まって、「かような時に、私どもの舟をご利用いただいたこと、我らの一生の名誉でございます。

どこの浦でも言われた場所にお着けいたしますから、どうぞおっしゃってください」と、申し上げ、特に不審な様子は感じられません。忠顕朝臣はこの申し出に、今更隠し立てしても良いことはないと思い、船頭を近くに呼び、「かように推し量られては、もう何も隠すことはあるまい。

屋形の中に居られるお方こそ、日本国の十善の君、天子であらせられる。汝らもきっと聞き及んで居ろうが、去年より隠岐判官佐々木清高の舘に、軟禁されて居られた先帝後醍醐殿を、この私、忠顕がお救いしたものである。そこで、出雲、伯耆の間であれば、

どこかそれなりの湊に、急いで舟を着けていただきたい。もし帝の運が開けた暁には、必ず汝を武士の身分にして、所領の一つを与えその領主に推挙しよう」と、仰せられました。船頭は嬉しさを隠すことも出来ない様子で、舟を左に右に進ませながら、横風を一杯に受けて、全速で舟を進めました。


今は海上二三十里も過ぬらんと思ふ処に、同じ追風に帆懸たる舟十艘計、出雲・伯耆を指て馳来れり。筑紫舟か商人舟かと見れば、さもあらで、隠岐判官清高、主上を追奉る舟にてぞ有ける。船頭是を見て、「角ては叶候まじ、是に御隠れ候へ。」と申て、主上と忠顕朝臣とを、舟底にやどし進せて、其上に、あひ物とて乾たる魚の入たる俵を取積で、水手・梶取其上に立双で、櫓をぞ押たりける。去程に追手の舟一艘、御座舟に追付て、屋形の中に乗移り、こゝかしこ捜しけれ共、見出し奉らず。「さては此舟には召ざりけり。若あやしき舟や通りつる。」と問ければ、船頭、「今夜の子の刻計に、千波湊を出候つる舟にこそ、京上臈かと覚しくて、冠とやらん着たる人と、立烏帽子着たる人と、二人乗せ給て候つる。其舟は今は五六里も先立候ぬらん。」と申ければ、「さては疑もなき事也。早、舟をおせ。」とて、帆を引梶を直せば、此舟は軈て隔ぬ。今はかうと心安く覚て迹の浪路を顧れば、又一里許さがりて、追手の舟百余艘、御坐船を目に懸て、鳥の飛が如くに追懸たり。船頭是を見て帆の下に櫓を立て、万里を一時に渡らんと声を帆に挙て推けれ共、時節風たゆみ、塩向て御舟更に不進。水手・梶取如何せんと、あはて騒ぎける間、主上船底より御出有て、膚の御護より、仏舎利を一粒取出させ給て、御畳紙に乗せて、波の上にぞ浮られける。竜神是に納受やした〔り〕けん、海上俄に風替りて、御坐船をば東へ吹送り、追手の船をば西へ吹もどす。さてこそ主上は虎口の難の御遁有て、御船は時間に、伯耆の国名和湊に着にけり。六条少将忠顕朝臣一人先舟よりおり給て、「此辺には何なる者か、弓矢取て人に被知たる。」と問れければ、道行人立やすらひて、「此辺には名和又太郎長年と申者こそ、其身指て名有武士にては候はね共、家富一族広して、心がさある者にて候へ。」とぞ語りける。忠顕朝臣能々其子細を尋聞て、軈て勅使を立て被仰けるは、「主上隠岐判官が館を御逃有て、今此湊に御坐有。長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由を被仰出也。憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可申。」とぞ被仰たりける。

もう海上二、三十里ほどは過ぎたかと思われた時、同じく追い風を帆に受けた舟が十艘ばかり、出雲、伯耆を目指して漕ぎ進んできました。筑紫舟かもしくは商人舟かと思って見れば、そうではなく、隠岐判官佐々木清高が帝を追跡してきた舟でした。

船頭はとっさにこれらの舟を見て、「とても逃げきることは出来ません。ここにお隠れになってください」と申し上げ、帝と忠顕朝臣二人を舟底に隠れるよう勧め、二人の上に、魚の干物などが入った俵を積み上げ、水夫や操舵手らがその上に並んで、舟を漕ぎ進めました。

しばらくすると追手の舟一艘が、帝の乗られた舟に追いついて来て、屋形の中に乗り移り、あちこち捜索しましたが、見つけることは出来ませんでした。「と言うことは、この舟にはお乗りになっていないようだ。もしかして怪しい舟が通るのを見なかったか」と問い質し、

船頭は、「今夜、子の刻(午前零時頃)ごろに千波湊を出た舟には、都あたりの身分の高い人かと思われますが、冠のようなものを着けた人と、立烏帽子をかぶった人二人が乗っていました。その舟はもう今頃五、六里ほど先に行っていると思います」と、申し上げると、

「その舟に間違いないだろう。全速で追跡だ、舟を進めろ」と、帆を張り直し舵の向きを変えると、追ってきた舟は、瞬く間に遠ざかって行きました。危機が去り、ほっと一安心して、後ろの海上を眺めてみると、また一里ほど後方に、追手の舟百余艘が、こちらの舟に向かって、

鳥が飛ぶような速さで、追いかけてきました。船頭はこの船団を見ると、帆の下に立って、万里をも一時に渡ろうかと、声まで帆に向けて、漕ぎに漕いだのですが、生憎と風が凪ぐとともに、潮も舟に逆らって流れ出し、舟の速度はますます落ちてきました。

水夫、操舵手たちはどうすれば良いのか分からず、ただ慌て騒いでいましたが、その時、帝が船底から出てこられ、いつも身に着けておられるお守りの中から、仏舎利を一粒取り出され、懐紙にお乗せになって、波の上に浮かべられました。

雨や水を支配すると考えられている竜神が、仏舎利によって帝の願いを聞き入れたのか、海上を吹く風は、とたんに向きを変え、帝の乗られた舟は、東に向かう風に乗って進み、追手の舟は西に向かって行きました。これによって帝は危機一髪の難を逃れることが出来、

やがて舟は時の流れとともに、伯耆国、名和湊に到着しました。早速、六条少将千種忠顕朝臣が一人で先に舟を降り、「この近くには、弓矢取っては人に知られた者、誰か居らぬか」と、お聞きになれば、道行く人が立ち止まって、「この辺では名和又太郎長年という者が一番でしょう。

彼はそれほど有名な武士では御座いませんが、家は裕福であり、一族も多く、皆からも信頼されている者で御座います」と、答えられました。忠顕朝臣は名和長年について詳しく聞き取った上、すぐに勅使を立てると、「先帝後醍醐殿は隠岐判官佐々木清高の舘を脱出され、

今この湊にお着きになられた。名和長年の武勇については、予てから陛下のお耳に入っており、頼りにされている旨仰せられている。頼みとして良いのか否か、速やかに返事をされたい」と、申し渡しました。


名和又太郎は、折節一族共呼集て酒飲で居たりけるが、此由を聞て案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざりけるを、舎弟小太郎左衛門尉長重進出て申けるは、「古より今に至迄、人の望所は名と利との二也。我等悉も十善の君に被憑進て、尸を軍門に曝す共名を後代に残ん事、生前の思出、死後の名誉たるべし。唯一筋に思定させ給ふより外の儀有べしとも存候はず。」と申ければ、又太郎を始として当座に候ける一族共二十余人、皆此儀に同じてけり。「されば頓て合戦の用意候べし。定て追手も迹より懸り候らん。長重は主上の御迎に参て、直に船上山へ入進せん。旁は頓て打立て、船上へ御参候べし。」と云捨て、鎧一縮して走り出ければ、一族五人腹巻取て投懸々々、皆高紐しめて、共に御迎にぞ参じける。俄の事にて御輿なんども無りければ、長重着たる鎧の上に荒薦を巻て、主上を負進せ、鳥の飛が如くして舟上へ入奉る。長年近辺の在家に人を廻し、「思立事有て舟上に兵粮を上る事あり。我倉の内にある所の米穀を、一荷持て運びたらん者には、銭を五百づゝ取らすべし。」と触たりける間、十方より人夫五六千人出来して、我劣らじと持送る。一日が中に兵粮五千余石運びけり。其後家中の財宝悉人民百姓に与て、己が館に火をかけ、其勢百五十騎にて、船上に馳参り、皇居を警固仕る。長年が一族名和七郎と云ける者、武勇の謀有ければ、白布五百端有けるを旗にこしらへ、松の葉を焼て煙にふすべ、近国の武士共の家々の文を書て、此の木の本、彼の峯にぞ立置ける。此旗共峯の嵐に吹れて、陣々に翻りたる様、山中に大勢充満したりと見へてをびたゝし。

ちょうどその時、名和又太郎長年は一族らを呼び集めて、酒宴の最中でしたが、勅使の申し入れを聞いたものの、思案がまとまらず黙っていました。その時、弟の小太郎左衛門尉長重が進み出て、「昔から今に至るも、人が望んでやまないのは、名誉と利得の二つです。

我らありがたくも十善の君、後醍醐殿のご信頼を受けた以上、もし屍を敵の軍門に晒すこととなっても、生前には誇り高き行動であり、また死後には名誉ある行為となります。ここは何も逡巡することなく、お受けする以外選択の余地は無いと考えます」と申し上げれば、

又太郎を始めとして、その席に居る一族ら二十余人全員が、この案に賛成しました。「よし、では早速合戦の用意をしよう。きっと佐々木の追手勢も近くまで来ているだろう。長重は陛下をお迎えに行き、すぐ船上山に御遷しするように」と言い捨てるや、

鎧に身を固めて走り出ました。同じく一族の五人も腹巻を取って、身に着けながら、高紐を締めて共に帝をお迎えに行きました。突然の出来事でもあり、御輿などの用意はありませんが、長重が身に着けている鎧の上に、薦で編んだ筵を巻きつけ、

帝を背負って鳥の飛ぶような速さで、船上山に御遷ししました。また名和長年は近隣の民家に人を行かせ、「考えるところがあって、船上山に兵糧を運ばねばならなくなった。名和屋敷の倉にある米穀を、天秤棒で一度運んだ者には、銭を五百あて支払うぞ」と、触れて回らせたので、

あちこちから人夫が五、六千人も集まってきて、皆がここで人に負けてなるかと運び上げました。その結果一日で、兵糧米を五千余石も運び上げました。そのあと、屋敷中の財宝など全てを、村民や百姓らに与え、名和の屋敷に火をかけた後、百五十騎の軍勢を従えて、

船上山に駆け上り、皇居を警固したのでした。長年の一族で名和七郎という者は、軍などにおける謀略に長けていましたから、運び上げた荷物の中にあった白い布、五百反で旗を作り、松の葉を燃やしていぶったあと、近国の武士らの家紋を書き、こちらの木の根元や、

あちらの峰などに配置しました。これらの旗があちこちの陣と思われる場所で、峰を吹く風に翻っている様子は、山中に大軍がひしめいているように見えたのでした。


○船上合戦事
去程に同二十九日、隠岐判官、佐々木弾正左衛門、其勢三千余騎にて南北より押寄たり。此舟上と申は、北は大山に継き峙ち、三方は地僻に、峯に懸れる白雲腰を廻れり。俄に拵へたる城なれば、未堀の一所をも不掘、屏の一重をも不塗、唯所々に大木少々切倒して、逆木にひき、坊舎の甍を破て、かひ楯にかける計也。寄手三千余騎、坂中まで責上て、城中をきつと向上たれば、松柏生茂ていと深き木陰に、勢の多少は知ね共、家々の旗四五百流、雲に翻り、日に映じて見へたり。さては早、近国の勢共の悉馳参りたりけり。此勢許にては責難しとや思けん、寄手皆心に危て不進得。城中の勢共は、敵に勢の分際を見へじと、木陰にぬはれ伏て、時々射手を出し、遠矢を射させて日を暮す。卦る所に一方の寄手なりける佐々木弾正左衛門尉、遥の麓にひかへて居たりけるが、何方より射る共しらぬ流矢に、右の眼を射ぬかれて、矢庭に伏て死にけり。依之其手の兵五百余騎色を失て軍をもせず。佐渡前司は八百余騎にて搦手へ向たりけるが、俄に旗を巻、甲を脱で降参す。隠岐判官は猶加様の事をも不知、搦手の勢は、定て今は責近きぬらんと心得て、一の木戸口に支て、悪手を入替々々、時移るまでぞ責たりける。日已に西山に隠れなんとしける時、俄に天かき曇り、風吹き雨降事車軸の如く、雷の鳴事山を崩すが如し。寄手是におぢわなゝひて、斯彼の木陰に立寄てむらがり居たる所に、名和又太郎長年舎弟太郎左衛門長重、小次郎長生が、射手を左右に進めて散々に射させ、敵の楯の端のゆるぐ所を、得たりや賢しと、ぬきつれて打てかゝる。大手の寄手千余騎、谷底へ皆まくり落されて、己が太刀・長刀に貫れて命を墜す者其数を不知。

☆ 船上山合戦のこと

やがて元弘三年(1333年)三月二十九日(立て篭もったのは閏二月二十八日では?)、隠岐判官、佐々木弾正左衛門清高が総勢三千余騎で、船上山の南北から押し寄せてきました。この船上山と言うのは、北側は大山と峰続きの崖になっており、他の三方は絶壁になっていて、

峰にかかる白雲は、山の中腹にたなびいています。急遽建造した城ですから、まだ堀の一つも掘れていず、一重の塀さえ出来ていません。ただ所々わずかばかりの大木を切り倒して逆茂木にしたり、寺の屋根瓦などを壊して、楯の代わりにしているばかりです。

寄せ手の三千余騎は、坂の途中まで攻め上って、城を見上げると、松やその他常緑樹が生い茂った木の陰に、数の多少ははっきりしませんが、家々の旗が四、五百旒も流れる雲に翻り、日に照らされて見えました。これは早くも近国の軍勢らが全て、駆けつけたのではないか。

今の我が軍勢だけで、攻め切るのは難しいと思ったのか、寄せ手は慎重になり進攻を止めました。城内では敵に我が軍勢の内幕を知られてはならぬと思い、木陰に隠れるように伏せて、時々弓の上手が遠矢を発して、日を過ごしました。

そんな時、寄せ手軍の一方の将、佐々木弾正左衛門尉は、遥か後方の麓に控えていましたが、どこから射たのか分かりませんが、彼は流れ矢に右目を射抜かれ、いきなりその場に伏せて死んでしまいました。そのため彼の手兵ら五百余騎は、意外な事態に気が動転し、

戦闘を継続することが出来ませんでした。佐渡前司佐々木定宗は、八百余騎の軍勢で搦手より攻め込んでいましたが、急に旗を巻くと兜も脱いで降伏しました。しかし隠岐判官、佐々木清高はそのようなことが起こっているとはつゆ知らず、

佐渡前司の率いる搦手方面の軍勢は、今頃きっと敵陣に肉薄しているだろうと考え、一の木戸口を前線にして、次々と新手を投入して、長時間戦い続けました。すでに日が暮れて、太陽も西山に沈もうとしている時、突然天が掻き曇って、風が吹き出すと共に、

大粒の雨が激しく降り出しました。また雷鳴は山を崩すのではと思えるほどです。寄せ手の軍勢は、この天候の急変に怖気づき、身も震わせて、あちこちの木陰に寄り集まりました。名和又太郎長年とその弟、小太郎左衛門尉長重と小次郎長生がそこを狙って、

弓の上手を左右から進めて激しく射かけ、敵の楯が端から崩れを見せた時、この好機を逃すでないぞと一斉に攻撃を加えました。そのため大手方面の寄せ手軍、千余騎は谷底に追い落とされて、自分の太刀や長刀に、我が身を突きぬかれて死亡する者、誰にもその数さえ分かりません。


隠岐判官計辛き命を助りて、小舟一艘に取乗、本国へ逃帰りけるを、国人いつしか心替して、津々浦々を堅めふせぎける間、波に任せ風に随て、越前の敦賀へ漂ひ寄たりけるが、幾程も無して、六波羅没落の時、江州番馬の辻堂にて、腹掻切て失にけり。世澆季に成ぬといへ共、天理未だ有けるにや、余に君を悩し奉りける隠岐判官が、三十余日が間に滅びはてゝ、首を軍門の幢に懸られけるこそ不思儀なれ。主上隠岐国より還幸成て、船上に御座有と聞へしかば、国々の兵共の馳参る事引も不切。先一番に出雲の守護塩谷判官高貞、富士名判官と打連、千余騎にて馳参る。其後浅山二郎八百余騎、金持の一党三百余騎、大山衆徒七百余騎、都て出雲・伯耆・因幡、三箇国の間に、弓矢に携る程の武士共の参らぬ者は無りけり。是のみならず、石見国には沢・三角の一族、安芸国に熊谷・小早河、美作国には菅家の一族・江見・方賀・渋谷・南三郷、備後国に江田・広沢・宮・三吉、備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前に今木・大富太郎幸範・和田備後二郎範長・知間二郎親経・藤井・射越五郎左衛門範貞・小嶋・中吉・美濃権介・和気弥次郎季経・石生彦三郎、此外四国九州の兵までも聞伝々々、我前にと馳参りける間、其勢舟上山に居余りて、四方の麓二三里は、木の下・草の陰までも、人ならずと云所は無りけり。

その乱戦中隠岐判官佐々木弾正清高だけは、命からがら戦場を逃げ延びて、小舟一艘に飛び乗り、隠岐国に逃げ帰りましたが、隠岐国の人々はいつの間にか心変わりをして、湊々や海岸を警戒し、防衛に努めていましたから、舟を着けることは出来ませんでした。

そのまま波任せ、風のまにまに、越前敦賀に漂着しましたが、程なく六波羅が滅亡した時、近江国、番場の街道付近の仏堂にて、腹を掻き切って自害しました。世の中末世だとは言っても、まだまだ自然の道理は廃れていないのか、先帝後醍醐殿をあまりにも悩ませ、

辛い目に会わせた隠岐判官が、三十余日ばかりで滅び去り、その首が軍門の小旗を付けた鉾に架けられることも、考えてみれば不思議なものです。先帝後醍醐殿が隠岐国よりお帰りになられ、現在は船上山に居られると報じられると、諸国の武士らが次々と途絶えることなく、

駆けつけてきました。まず一番には、出雲国の守護塩冶判官高貞が佐々木富士名判官義綱と一緒に、千余騎を率いて駆けつけてきました。その後、浅山二郎が八百余騎、金持党が三百余騎、また大山の衆徒ら七百余騎という具合に、出雲、伯耆、因幡の三ヶ国において、

弓矢の道を歩む武士らの中で、味方に加わるため、駆けつけない者はいませんでした。またそれだけではなく、石見国からは沢、三角の一族、安芸国からは熊谷、小早河が、また美作国からは菅家の一族、江見、方賀、渋谷、南三郷が、備後国では江田、広沢、宮、三吉らが、

備中からは新見、成合、那須、三村、小坂、河村、庄、真壁らが、そして備前では今木、大富太郎幸範、和田備後二郎範長、知間二郎親経、藤井、射越五郎左衛門範貞、小嶋、中吉、美濃権介、和気弥次郎季経、石生彦三郎らが駆けつけてきました。

そのほか四国、九州の兵らも噂を聞きつけて、先帝後醍醐の軍に我先にと駆けつけてくるので、その軍勢を船上山だけでは収容出来ず、四方の山麓二、三里は木の下や草の陰までも人、人、人で溢れかえりました。      (終)

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