8 太平記 巻第八 (その一)


○摩耶合戦事付酒部瀬河合戦事
先帝已に船上に着御成て、隠岐判官清高合戦に打負し後、近国の武士共皆馳参る由、出雲・伯耆の早馬頻並に打て、六波羅へ告たりければ、事已に珍事に及びぬと聞人色を失へり。是に付ても、京近き所に敵の足をためさせては叶まじ。先摂津国摩耶の城へ押寄て、赤松を可退治とて、佐々木判官時信・常陸前司時知に四十八箇所の篝、在京人並三井寺法師三百余人を相副て、以上五千余騎を摩耶の城へぞ被向ける。其勢閏二月五日京都を立て、同十一日の卯刻に、摩耶の城の南の麓、求塚・八幡林よりぞ寄たりける。赤松入道是を見て、態敵を難所に帯き寄ん為に、足軽の射手一二百人を麓へ下して、遠矢少々射させて、城へ引上りけるを、寄手勝に乗て五千余騎、さしも嶮き南の坂を、人馬に息も継せず揉に々でぞ挙たりける。此山へ上るに、七曲とて岨く細き路あり。此所に至て、寄手少し上りかねて支へたりける所を、赤松律師則祐・飽間九郎左衛門尉光泰二人南の尾崎へ下降て、矢種を不惜散々に射ける間、寄手少し射しらまかされて、互に人を楯に成て其陰にかくれんと色めきける気色を見て、赤松入道子息信濃守範資・筑前守貞範・佐用・上月・小寺・頓宮の一党五百余人、鋒を双て大山の崩が如く、二の尾より打て出たりける間、寄手跡より引立て、「返せ。」と云けれ共、耳にも不聞入、我先にと引けり。其道或深田にして馬の蹄膝を過ぎ、或荊棘生繁て行く前き弥狭ければ、返さんとするも不叶、防がんとするも便りなし。されば城の麓より、武庫河の西の縁まで道三里が間、人馬上が上に重り死て行人路を去敢ず。

☆ 摩耶合戦のことと、瀬川合戦と坂部合戦のこと

先帝後醍醐はすでに船上山を御所にして、隠岐判官佐々木清高との合戦に勝利し、近国の武士らが我先に駆けつけていることが、出雲や伯耆の国から六波羅に、早馬によって報告がしきりに来ています。事態はすでに重大な局面になっているのではと、皆々は不安になりました。

そのような事態にかかわらず、京の近くに敵の軍勢を駐屯させておくのは、非常に不都合である。真っ先に摂津国、摩耶の城に攻め込み、赤松入道円心を征伐しなければと、佐々木判官時信と常陸前司時知に四十八ヶ所の篝の軍勢と、京都に滞在している兵士ら、

また三井寺園城寺の法師ら三百余人らも従軍させ、以上の総勢五千余騎で、摩耶の城に向かわせました。その軍勢は元弘三年(1333年)閏二月五日、京都を出発し、同月十一日、卯の刻(午前六時頃)に摩耶の城(天上寺)の南側の麓、求塚、八幡林から攻め寄せました。

赤松入道はこの攻撃軍を見て、敵を行動困難な場所におびき寄せようと、弓部隊の足軽一、二百人を麓に下ろし、遠矢を少しばかり射込んで、城に引き上げさせました。寄せ手は敵の策とは知らず、勝ちに乗じたかのように、五千余騎が大変険しい南の坂道を人馬とも息継ぐ暇も無く、

もみ合いもみ合い登ってきました。この山に登るには、途中七曲と言う険しく狭い場所があります。この場所に到達した寄せ手軍が、進軍にてこずり留まっているところを、赤松の三男、律師則祐と飽間九郎左衛門尉光泰の二人が、南斜面の麓近くまで下りてくると、

矢を惜しむことなく激しく射込みました。この攻撃に寄せ手軍は勢いをくじかれ、お互いに人を楯にして、その陰に隠れようと慌てている様子を見て、赤松入道の子息、信濃守範資と筑前守貞範、佐用、上月、小寺、頓宮らの一軍五百余人が、太刀などの切っ先を揃え、

大きな山が崩れるような勢いで、二の尾(神戸灘区の山の二つある尾根の一つ)から攻め込んだので、寄せ手軍は後方から崩れだし、大将の、「引き返せ、引き返せ」の命令も耳に入らず、我先に潰走を始めました。しかし逃げ延びる道も、ある所では深い田んぼで、

馬のひざを越すほどのめり込み、またある場所では、茨の生い茂る狭い道に入り込んで、引き返すにも引き返せず、敵の攻撃を防ごうとしても、出来る状態ではありません。そのため摩耶山城の麓あたりから、武庫川の西岸まで三里ほどの道には、

人や馬が重なり合って死んでいるので、道行く人も通行に支障をきたしました。


向ふ時七千余騎と聞へし六波羅の勢、僅に千騎にだにも足らで引返しければ、京中・六波羅の周章不斜。雖然、敵近国より起て、属順ひたる勢さまで多しとも聞へねば、縦ひ一度二度勝に乗る事有とも、何程の事か可有と、敵の分限を推量て、引ども機をば不失。斯る所に、備前国の地頭・御家人も大略敵に成ぬと聞へければ、摩耶城へ勢重ならぬ前に討手を下せとて、同二十八日、又一万余騎の勢を被差下。赤松入動是を聞て、「勝軍の利、謀不意に出で大敵の気を凌で、須臾に変化して先ずるには不如。」とて三千余騎を率し、摩耶の城を出て、久々智・酒部に陣を取て待かけたり。三月十日六波羅勢、既に瀬河に着ぬと聞へければ、合戦は明日にてぞ有んずらんとて、赤松すこし油断して、一村雨の過けるほど物具の露をほさんと、僅なる在家にこみ入て、雨の晴間を待ける所に、尼崎より船を留めてあがりける阿波の小笠原、三千余騎にて押寄たり。赤松纔に五十余騎にて大勢の中へかけ入り、面も不振戦ひけるが、大敵凌ぐに叶はねば、四十七騎は被討て、父子六騎にこそ成にけれ。六騎の兵皆揆をかなぐり捨て、大勢の中へ颯と交りて懸まわりける間、敵是を知らでや有けん、又天運の助けにや懸りけん、何れも無恙して、御方の勢の小屋野の宿の西に、三千余騎にて引へたる其中へ馳入て、虎口に死を遁れけり。六波羅勢は昨日の軍に敵の勇鋭を見るに、小勢也。といへども、欺き難しと思ければ、瀬河の宿に引へて進み得ず。赤松は又敗軍の士卒を集め、殿れたる勢を待調ん為に不懸、互に陣を阻て未雌雄を決せず。

都を出発した時は、七千余騎とも言われた六波羅の軍勢は、僅か千騎足らずになって、都に逃げ帰ってきたので、京中の人々や六波羅の狼狽も、普通ではありません。とは言うものの、敵の赤松が都近くで蜂起したと言っても、それに同調する軍勢は、

それほど多いとも聞かないので、たとえ一度や二度ぐらい、六波羅に勝ったとしても、たいしたことはないだろうし、その上敵軍の規模を考慮すれば、いったん退却はしても、それほど問題でもないと考えていました。その矢先、備前国の地頭や御家人らのほとんどが、

敵に寝返ったと聞き、彼らが摩耶の赤松軍と合流する前に、討手を派遣しなければと、同じく閏二月二十八日に、再び一万余騎の軍勢を向かわせました。赤松入道はこの情報を得ると、「軍に勝利するには、迅速さと、また思いがけない謀略を使って、

敵の大軍の戦闘意欲をそぎ、短時間に臨機応変なる作戦を採るに限る」と言って、三千余騎を率いて摩耶の城を出発し、久々知、坂部(共に尼崎市)に陣を構えて待ち受けました。三月十日になって、六波羅勢がすでに瀬川(箕面市)に到着したと聞き、

これでは合戦は明日になるだろうと、赤松は少し油断し、通り雨を避けて濡れた甲冑を乾かそうと、粗末な民家の一軒に入り込んで、雨の止むのを待っていました。ところが阿波の小笠原が、舟に乗って尼崎に上陸し、三千余騎で押し寄せてきました。

赤松は僅か五十余騎で大軍の中に駆け入り、わき目もふらずに戦いましたが、所詮大敵には勝ち目も無く、四十七騎まで討ち取られ、父子ら、六騎になってしまいました。残った六騎は全員、共通の笠印を投げ捨てて、大敵の中にサッと混じりこみ、

駆け回っていると、敵は気づかないのか、それとも天が味方をしたのか、昆陽野宿(伊丹市)の西方で味方の軍勢、三千余騎が控えている陣営に、全員が無傷で駈け入り、絶体絶命の危機を遁れることが出来たのです。六波羅軍は昨日の軍から、

敵は小勢だと言っても、勇敢な戦闘ぶりに侮りがたいと思い、瀬川の宿に留まって、そこから進軍出来ませんでした。また赤松入道も、敗戦を喫した将や兵士らを再度召集したり、遅れてやってくる軍勢を待ち、軍を再編しなおすため、その場に駐屯しました。

このようにお互い敵の陣をにらみ合うだけで、決戦は行われませんでした。


丁壮そゞろに軍旅につかれなば、敵に気を被奪べしとて、同十一日赤松三千余騎にて、敵の陣へ押寄て、先づ事の体を伺ひ見に、瀬河の宿の東西に、家々の旗二三百流、梢の風に翻して、其勢二三万騎も有んと見へたり。御方を是に合せば、百にして其一二をも可比とは見へねども、戦はで可勝道な〔け〕れば、偏に只討死と志て、筑前守貞範・佐用兵庫助範家・宇野能登守国頼・中山五郎左衛門尉光能・飽間九郎左〔衛〕門尉光泰、郎等共に七騎にて、竹の陰より南の山へ打襄て進み出たり。敵是を見て、楯の端少し動て、かゝるかと見ればさもあらず、色めきたる気色に見へける間、七騎の人々馬より飛下り、竹の一村滋りたるを木楯に取て、差攻引攻散々にぞ射たりける。瀬川の宿の南北三十余町に、沓の子を打たる様に引へたる敵なれば、何かはゝづるべき。矢比近き敵二十五騎、真逆に被打落ければ、矢面なる人を楯にして、馬を射させじと立てかねたり。平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若者共、「すはや敵は色めきたるは。」と、箙を叩き、勝時を作て、七百余騎轡を双べてぞ懸たりける。大軍の靡く僻なれば、六波羅勢前陣返せども後陣不続、行前は狭し、「閑に引け。」といへども耳にも不聞入、子は親を捨て郎等は主を知らで、我前にと落行ける程に、其勢大半討れて纔に京へぞ帰りける。赤松は手負・生捕の頚三百余、宿河原に切懸させて、又摩耶の城へ引返さんとしけるを、円心が子息帥律師則祐、進み出て申けるは、「軍の利は勝に乗て北るを追に不如。今度寄手の名字を聞に、京都の勢数を尽して向て候なる。此勢共今四五日は、長途の負軍にくたびれて、人馬ともに物の用に不可立。臆病神の覚ぬ前に続ひて責る物ならば、などか六波羅を一戦の中に責落さでは候べき。是太公が兵書に出て、子房が心底に秘せし所にて候はずや。」と云ければ、諸人皆此義に同じて、其夜軈て宿川原を立て、路次の在家に火をかけ、其光を手松にして、逃る敵に追すがうて責上りけり。

長い滞陣に兵士らも何となく疲労を感じているので、敵に油断をつかれる恐れもあろうかと、三月十一日に赤松は三千余騎で敵陣に押し寄せ、まず敵陣の様子を窺ってみると、瀬川宿の東西には、各家々の旗二、三百旒が、梢を吹き抜ける風に翻って、

その軍勢は二、三万騎かと思われます。味方の軍勢と比較してみると、敵の百に対して、我が方は一か二程度です。しかし戦わなければ、勝利への道もないので、ここは討ち死にを覚悟して、筑前守貞範、佐用兵庫助範家、宇野能登守国頼、中山五郎左衛門尉光能、

飽間九郎左衛門尉光泰ら家来共に七騎で、竹やぶの陰から南の山に向かって飛び出しました。敵はこれを見て楯が少し動いたので、向かってくるのかと思えばそうではなく、動揺しているようにも見えたので、七騎の武士らは馬から飛び降り、

竹やぶの一つを、楯の代わりとして身を隠し、立て続けに矢を番えて、激しく射込みました。瀬川宿の南北三十余町にわたり、隙間もなく陣取っている敵なので、射られた矢が敵を外すこともありません。ちょうど射程近くにいた二十五騎が、まっ逆さまに馬から落とされたので、

他の人々は矢の正面にいる人を楯として、馬を矢より守ろうとしました。平野伊勢前司、佐用、上月、田中、小寺、八木、衣笠などの若者たちは、「見てみろ、敵どもは大混乱しているぞ」と、箙を叩き勝鬨を上げ、七百余騎が一斉に駆け込みました。

大軍では良くあることですが、六波羅の軍勢でも、前方の兵士らが退却しようにも、後方の軍勢は前に行こうとするため、退却進路の混乱は激しく、「整然と退却せよ」と、いくら叫んでも耳に入りません。子は親を見捨てて、家来は主人を守ることもしないで、

我先に落ちて行こうとする内に、軍勢のほとんどが討ち取られ、僅かな兵士らだけが京に帰ったのでした。赤松円心入道は負傷者や生け捕りにした敵兵の首、三百余を宿河原(茨木市)でさらし首にしました。そして、再び摩耶の城に引き返そうとしましたが、

円心の三男、律師則祐が進み出て、「軍に勝ちを収めるには、勝ちに乗じて、逃げる敵を追いかけることに尽きます。今回の寄せ手軍の名前を調べてみると、京都駐屯の軍勢らのほとんどが含まれています。これらの軍勢は、

この四、五日は遠征した挙句の負け戦に疲れきって、人馬ともとても用をなさないでしょう。臆病神に取り付かれているうちに、立て続けに攻めていけば、どうして六波羅ごときを、一戦のもとに攻め落とすこと、出来ないことがありましょうか。

このことは、周国の太公望の兵書にも書かれていますし、子房(張良::秦末期から前漢初期の政治家、軍師)が心の奥底に秘めていた策ではありませんか」と、申し上げると、他の人々もこの意見に賛成で、その夜すぐに宿河原を出発し、途中の民家に火をかけ、

その光を松明がわりにして、逃げ行く敵を追いかけ、京に攻め上って行きました。


○三月十二日合戦事
六波羅には斯る事とは夢にも知ず。摩耶の城へは大勢下しつれば、敵を責落さん事、日を過さじと心安く思ける。其左右を今や/\と待ける所に、寄手打負て逃上る由披露有て、実説は未聞。何とある事やらん、不審端多き所に、三月十二日申刻計に、淀・赤井・山崎・西岡辺三十余箇所に火を懸たり。「こは何事ぞ。」と問に、「西国の勢已に三方より寄たり。」とて、京中上を下へ返して騒動す。両六波羅驚ひて、地蔵堂の鐘を鳴し洛中の勢を被集けれども、宗徒の勢は摩耶の城より被追立、右往左往に逃隠れぬ。其外は奉行・頭人なんど被云て、肥脹れたる者共が馬に被舁乗て、四五百騎馳集りたれ共、皆只あきれ迷へる計にて、差たる義勢も無りけり。六波羅の北方、左近将監仲時、「事の体を見るに、何様坐ながら敵を京都にて相待ん事は、武略の足ざるに似〔た〕り。洛外に馳向て可防。」とて両検断隅田・高橋に、在京の武士二万余騎を相副て、今在家・作道・西の朱雀・西八条辺へ被差向。是は此比南風に雪とけて河水岸に余る時なれば、桂河を阻て戦を致せとの謀也。去程に赤松入道円心、三千余騎を二に分て、久我縄手・西の七条より押寄たり。大手の勢桂川の西の岸に打莅で、川向なる六波羅勢を見渡せば、鳥羽の秋山風に、家家の旗翩翻として、城南の離宮の西門より、作道・四塚・羅城門の東西、々の七条口まで支へて、雲霞の如に充満したり。されども此勢は、桂川を前にして防げと被下知つる其趣を守て、川をば誰も越ざりけり。寄手は又、思の外敵大勢なるよと思惟して、無左右打て懸らんともせず。只両陣互に川を隔て、矢軍に時をぞ移しける。

☆ 三月十二日行われた合戦のこと

六波羅ではこんなことになっているとは夢にも思わず、摩耶の城を討伐するため大軍を派遣しているので、敵の城を攻め落とすにも、それほどの日数も必要でないだろうと、安心していました。そしてその吉報を今や遅しと待っているところに、

討手の軍勢が軍に負けて逃げ帰ってくるとの、連絡がありました。しかし、事実が確認された訳ではありません。一体何があったのか不審だらけの中、元弘三年(1333年)三月十二日、申刻(午後四時頃)頃に淀、赤井(京都市伏見区)、山崎、西岡(向日市)などの周辺、三十余ヶ所に火の手が上がりました。

「何が起こったのだ」との問いに、「西国の軍勢が、すでに三方向から都に攻め上ってきた」と、答える者があり、京都中は上を下への大騒ぎになりました。六波羅の南北両探題も驚いて、地蔵堂の鐘を鳴らし、京都中の軍勢を召集しましたが、主力の軍勢は、

摩耶の城攻めに行ったものの、軍に負けた上に追跡を受け、あちこちに逃げ隠れている有様です。その他の人数も、奉行(政務の担当や執行をする役人)や頭人(訴訟や庶務担当の役人)などと呼ばれている文官であり、太った体を馬に担ぎ上げられて、

四、五百騎が駆け集まりましたが、皆々、ただうろうろするばかりで、何をして良いかも分かず、軍隊としての意気込みや、士気さえありません。六波羅北方の左近将監仲時は、「現在のこの事態を冷静に見て、座して敵を京都に迎えることは、武略の武があるとも思えない。

ここは京を出て、敵を郊外で迎え撃つべきであろう」と、南北の両検断(刑事上の事件の審理、判決を行う役人)の隅田と高橋(第六巻前半に登場、敗軍の将)に、在京の武士ら二万余騎を配属し、今在家(伏見区)、作道(伏見区)、西朱雀(下京区)、西八条(南区)の周辺に派遣しました。

この軍勢派遣は、最近の南風によって雪解けが進み、川の水が多くなり岸を洗っている状況なので、桂川をはさんで軍を行おうと言う作戦からです。その頃、赤松入道円心は、三千余騎の軍勢を二つに分割して、久我縄手(伏見区)、西七条(伏見区)より押し寄せました。

やがて赤松軍の大手の軍勢が、桂川の西岸に到着して、対岸の六波羅勢を見渡して見ると、鳥羽周辺を吹き抜ける秋の風に、各武家の旗が翩翻と翻り、城南離宮の西門から、作道、四塚(南区)、羅生門(南区)の東西、西七条口あたりまで、軍勢を配置して、

雲霞のように兵士が満ち溢れています。しかし、この軍勢は桂川を前にして、専守防衛の合戦を行うよう、命令されているので、誰も川を渡ろうとはしません。寄せ手の赤松軍も同じように、敵が思いの外、多いので、むやみに攻撃を仕掛けようともしません。

ただお互い桂川を挟んで、矢戦にばかり時間を費やしていました。


中にも帥律師則祐、馬を踏放て歩立になり、矢たばね解て押くつろげ、一枚楯の陰より、引攻々々散々に射けるが、「矢軍許にては勝負を決すまじかり。」と独言して、脱置たる鎧を肩にかけ、胄の緒を縮、馬の腹帯を堅めて、只一騎岸より下に打下し、手縄かいくり渡さんとす。父の入道遥に見て馬を打寄せ、面に塞て制しけるは、「昔佐々木三郎が藤戸を渡し、足利又太郎が宇治川を渡たるは、兼てみほじるしを立て、案内を見置き、敵の無勢を目に懸て先をば懸し者也。河上の雪消水増りて、淵瀬も見へぬ大河を、曾て案内も知ずして渡さば可被渡歟。縦馬強くして渡る事を得たりとも、あの大勢の中へ只一騎懸入たらんは、不被討と云事可不有。天下の安危必しも此一戦に不可限。暫命を全して君の御代を待んと思ふ心のなきか。」と、再三強て止ければ、則祐馬を立直し、抜たる太刀を収て申けるは、「御方と敵と可対揚程の勢にてだに候はゞ、我と手を不砕とも、運を合戦の勝負に任て見候べきを、御方は僅に三千余騎、敵は是に百倍せり。急に戦を不決して、敵に無勢の程を被見透なば、雖戦不可有利。されば太公が兵道の詞に、「兵勝之術密察敵人之機、而速乗其利疾撃其不意」と云へり、是以吾困兵敗敵強陣謀にて候はぬや。」と云捨て、駿馬に鞭を進め、漲て流るゝ瀬枕に、逆波を立てぞ游がせける。見之飽間九郎左衛門尉・伊東大輔・川原林二郎・木寺相摸・宇野能登守国頼、五騎続ひて颯と打入たり。宇野と伊東は馬強して、一文字に流を截て渡る。木寺相摸は、逆巻水に馬を被放て、胄の手反許僅に浮で見へけるが、波の上をや游ぎけん、水底をや潛りけん、人より前に渡付て、川の向の流州に、鎧の水瀝てぞ立たりける。

その中でも寄せ手の指揮官、赤松律師則祐は馬から降りて徒歩立ちになり、矢束の包みを解きほどき、楯の影から次々と矢を番えては、射込みましたが、「矢戦などいくらしていても、勝負なんてつかない」と、独り言を言って、脱ぎ置いていた鎧を肩にかけ、

兜の緒を締めて、また馬の腹帯もしっかりと締め、ただ一人で岸から流れに向かって下って行き、手綱を手元に引き寄せ、川を渡ろうとしました。息子の行動を見ていた父の入道円心は、馬を傍に寄せ行く手をさえぎって、「昔源平合戦の頃、佐々木三郎盛綱が藤戸を渡ったことや、

足利又太郎忠綱が宇治川を渡ったことなどは、前もって渡河地点の見当をつけ、水の流れとか色々調査を重ねて、敵が手薄な時を確認して、先駆けを果たしたものだ。今この川は上流の雪が解け、水かさが増えて川の深い場所や、浅い場所も分からない大河を、

前もって何の調査もせず、渡河をするとは無謀の極みである。たとえ馬の力が強くて、運良く渡ることが出来たとしても、あの大軍の中へただ一騎で突入などすれば、討ち取られないことなど考えられない。世の中の騒動が続くのか、それとも沈静化するのか、

それを決するのは何もこの一戦が全てではない。ここはしばらく命を永らえ、先帝後醍醐殿の世を待とうと、思う気持ちはないのか」と、強い口調で繰り返し、思いとどまるよう話したので、則祐は馬の手綱を緩め、抜いていた太刀も鞘に収め、「味方と敵の軍勢が釣り合っているなら、

何も私が色々策を練らなくても、運を天に任せて合戦し、勝敗を決すれば良いでしょうが、味方は僅かに三千余騎であり、対して敵はこの百倍にもなろうとします。短期決戦をせずに合戦が長引き、敵に我が方の軍勢を見透かされれば、有利な戦いは出来ないでしょう。

だから太公望の言葉にも、『軍に勝利を収める方法は、密かに敵兵の機微を察して、その上、速やかにその利に乗じて、すばやく敵の不意をつくことである』と、あるではないですか。これすなわち、我ら苦戦の兵士が、敵の堅陣を破る策ではないのか」と、

言い捨て駿馬に鞭を当てると、あふれかえる水で盛り上がった川の早瀬に、逆波を立てながら馬を泳がせました。この様子を見ていた飽間九郎左衛門尉、伊東大輔、川原林三郎、木寺相模、宇野能登守国頼ら五騎が続いて川にザッと入りました。

宇野と伊東が乗った馬は力強く、一文字に横切って川を渡りました。木寺相模は逆巻く川の流れに馬を流され、兜の鉢のいただきだけを僅かに見せて、浮かんでいましたが、波間を泳いだのか、水底に潜ったりしたのか、他の人より先に川を渡り、対岸の砂州に鎧から水を滴らせながらも、突っ立ったのです。


彼等五人が振舞を見て尋常の者ならずとや思けん、六波羅の二万余騎、人馬東西に僻易して敢て懸合せんとする者なし。剰楯の端しどろに成て色めき渡る所を見て、「前懸の御方打すな。続けや。」とて、信濃守範資・筑前守貞範真前に進めば、佐用・上月の兵三千余騎、一度に颯と打入て、馬筏に流をせきあげたれば、逆水岸に余り、流れ十方に分て元の淵瀬は、中々に陸地を行がご〔と〕く也。三千余騎の兵共、向の岸に打上り、死を一挙の中に軽せんと、進み勇める勢を見て、六波羅勢叶はじとや思けん、未戦前に、楯を捨て旗を引て、作道を北へ東寺を指て引も有、竹田川原を上りに、法性寺大路へ落もあり。其道二三十町が間には、捨たる物具地に満て、馬蹄の塵に埋没す。去程に西七条の手、高倉少将の子息左衛門佐、小寺・衣笠の兵共、早京中へ責入たりと見へて、大宮・猪熊・堀川・油小路の辺、五十余箇所に火をかけたり。又八条、九条の間にも、戦有と覚へて、汗馬東西に馳違、時の声天地を響せり。唯大三災一時に起て、世界悉却火の為に焼失るかと疑はる。京中の合戦は、夜半許の事なれば、目ざすとも知らぬ暗き夜に、時声此彼に聞へて、勢の多少も軍立の様も見分ざれば、何くへ何と向て軍を可為とも不覚。京中の勢は、先只六条川原に馳集て、あきれたる体にて扣へたり。

彼ら五人の行動を見て、彼奴らはただ者ではないと思ったのか、六波羅勢の二万余騎は、人馬共に圧倒されたのか尻込みをしてしまい、向かっていく者もいません。それだけでなく、六波羅勢の楯の列が秩序を失い、動揺が走るのを見て、「先駆けていった者を見殺しにするな、

皆の者続けや、続け」と、信濃守範資、筑前守貞範の二人が先頭を駆けると、佐用、上月の兵、三千余騎が一度にサッと川に入って、馬筏を組み流れをせき止めました。そのため水は岸に押し寄せたり、流れが分散されたので、元々の深場や浅瀬は、

反対に陸地のように進むことが出来ました。対岸にたどり着いた三千余騎の兵士らが、死をこの一戦に賭けて戦おうと、押し寄せて行きました。これを見て六波羅の軍勢は、これはかなわないと思ったのか、戦う前に楯を捨てて旗も巻き、

作道を北へ東寺に向かって退却する者や、また竹田川原を上流に向かい、法性寺大路に落ちていく者もいました。それぞれ途中の道、二、三十町の間は、捨てられた武具で道路は溢れかえり、馬の蹄が巻き上げる塵芥に、埋まってしまいそうです。

やがて西七条方面へ向かっていた、高倉少将の子息、左衛門佐、小寺、衣笠の軍勢が、早くも京の中心部に攻め入ったのか、大宮、猪熊、堀川、油小路の周辺、五十余ヶ所に火をかけました。また八条、九条のあたりも合戦が始まったのか、馬が東西に駆け回り、

閧の声は天地に響き渡っています。その状況はまるで大三災(三種の災厄::火災、水災、風災)が一度に起きて、世界中ことごとく業火の中に、燃え尽きてしまうかと疑うほどです。京都内での合戦は夜半に行われたので、暗闇の中に、閧の声はあちこちから聞こえてきますが、

軍勢の多少も合戦の様子も分かりませんから、どこへどれ位の軍勢を向かわせたら良いのか、何も分かりません。六波羅の軍勢は、とりあえず六条川原に集まってきたものの、どうすればよいのか、ただ呆然として立ちつくすだけです。


○持明院殿行幸六波羅事
日野中納言資名・同左大弁宰相資明二人同車して、内裏へ参り給たれば、四門徒に開、警固の武士は一人もなし。主上南殿に出御成て、「誰か候。」と御尋あれども、衛府諸司の官、蘭台金馬の司も何地へか行たりけん、勾当の内侍・上童二人より外は御前に候する者無りけり。資名・資明二人御前に参じて、「官軍戦ひ弱くして、逆徒不期洛中に襲来候。加様にて御坐候はゞ、賊徒差違て御所中へも乱入仕候ぬと覚へ候。急ぎ三種の神器を先立て六波羅へ行幸成候へ。」と被申ければ、主上軈て腰輿に被召、二条川原より六波羅へ臨幸成る。其後堀河大納言・三条源大納言・鷲尾中納言・坊城宰相以下、月卿雲客二十余人、路次に参着して供奉し奉りけり。是を聞食及で、院・法皇・東宮・皇后・梶井の二品親王まで皆六波羅へと御幸成る間、供奉の卿相雲客軍勢の中に交て警蹕の声頻也ければ、是さへ六波羅の仰天一方ならず。俄に六波羅の北方をあけて、仙院・皇居となす。事の体騒しかりし有様也。軈て両六波羅は七条河原に打立て、近付く敵を相待つ。此大勢を見て敵もさすがにあぐんでや思ひけん、只此彼に走散て、火を懸時の声を作る計にて、同じ陣に扣へたり。両六波羅是を見て、「如何様敵は小勢也。と覚るぞ、向て追散せ。」とて、隅田・高橋に三千余騎を相副て八条口へ被差向。河野九郎左衛門尉・陶山次郎に二千余騎をさし副て、蓮華王院へ被向けり。陶山川野に向て云けるは、「何ともなき取集め勢に交て軍をせば、憖に足纏に成て懸引も自在なるまじ。いざや六波羅殿より被差副たる勢をば、八条河原に引へさせて時の声を挙げさせ、我等は手勢を引勝て、蓮華王院の東より敵の中へ駈入り、蜘手十文字に懸破り、弓手妻手にて相付て、追物射に射てくれ候はん。」と云ければ、河野、「尤可然。」と同じて、外様の勢二千余騎をば、塩小路の道場の前へ差遣し、川野が勢三百余騎、陶山が勢百五十余騎は引分て、蓮華王院の東へぞ廻りける。

☆ 持明院殿光厳天皇が六波羅へ行幸されたこと

日野中納言資名、同じく左大弁宰相資明の二人が同じ車に乗って、宮中に参内してみると、四門(東西南北の門::建春門、宜秋門、建礼門、朔平門)は開きっぱなしになって、警固する武士は一人も見当たりません。光厳天皇は紫宸殿にお出ましになり、「誰か居ないか」と、

お尋ねになりましたが、内裏を警固する役人や、宮中に勤務する役人らも、どこに行ったのか誰一人としていません。勾当の内侍(天皇への奏請の取次ぎや勅使の伝達などを行う役人)と上童(公卿の子で作法見習いのため、殿上に昇ることを許された少年)の二人以外、

天皇の御前に仕える者はいません。資名と資明の二人は御前に参り、「我が官軍は戦闘能力に劣り、反乱軍は思いがけなくも、洛中に襲いかかってきました。このまま、ここに居られると、反乱軍は間違いなく、御所にも乱入して来ると考えられます。

ここは急いでまず三種の神器を護持して、六波羅へ行幸されるよう願います」と、申し上げました。そこで帝はすぐに腰輿に乗られて、二条川原より六波羅に入られました。その後、堀河大納言、三条源大納言、鷲尾中納言、坊城宰相らをはじめに、

公卿や高級官僚ら二十余人が、途中で合流しお供しました。この事態をお聞きになり、院(後伏見上皇)、法皇(花園法皇)、東宮(康人皇太子)、皇后(花園天皇の皇女、寿子内親王?)、梶井の二品親王(尊胤法親王)までが皆、六波羅に避難しましたが、その途中で六波羅の軍勢に混じり込み、

天皇がお通りになるための、先払いの声もしきりにします。その声を聞き六波羅はびっくり仰天し、急遽六波羅の北方を開放して、院と法皇のための仙洞院、また光厳天皇とその皇族のための皇居としました。あれやこれやと、六波羅の騒ぎは大変なものです。

すぐに南北の両六波羅の軍勢は、七条河原に進出し、近づいてくる敵軍を待ち構えました。この大軍をみて、反乱軍、赤松勢はさすがにひるんだのか、ただあちこち走り回って火をかけたり、閧の声を上げるだけで、一ヶ所に留まって、軍勢を動かそうとはしません。

両六波羅軍はこれを見て、「何だ、敵の軍勢はたいした数ではないじゃないか。すぐ攻撃に移り、敵を追い散らしてしまえ」と、隅田、高橋両名に三千余騎の軍勢を与え、八条口に向かわせました。また河野九郎左衛門尉と陶山次郎に二千余騎を配下に入れ、

蓮華王院三十三間堂に向かわせました。その時、陶山が河野に向かって、「何ら意味のない寄せ集めの軍勢で、合戦などすれば、かえって足手まといになり、駆け引きも自由にならないだろう。そこでだ、六波羅殿よりつけて頂いた軍勢は、八条河原に駐留させて、

閧の声を上げるにとどめ、我らは自分らの手勢を率いて、蓮華王院三十三間堂の東より敵中に駆け入り、四方八方十文字に走り回り、敵を左右に引きつけて、獲物を追うように射ってやろう」と、話しかけました。河野は、「確かにそうだ」と賛成し、

外様の軍勢二千余騎を塩小路の七条道場の前に派遣し、河野の手勢三百余騎と、陶山の勢百五十騎は別途蓮華王院の東に回り込みました。


合図の程にも成ければ、八条川原の勢、鬨声を揚たるに、敵是に立合せんと馬を西頭に立て相待処に、陶山・川野四百余騎、思も寄らぬ後より、時を咄と作て、大勢の中へ懸入、東西南北に懸破て、敵を一所に不打寄、追立々々責戦。川野と陶山と、一所に合ては両所に分れ、両所に分ては又一所に合、七八度が程ぞ揉だりける。長途に疲たる歩立の武者、駿馬の兵に被懸悩て、討るゝ者其数を不知。手負を捨て道を要て、散々に成て引返す。陶山・川野逃る敵には目をも不懸、「西七条辺の合戦何と有らん、無心元。」とて、又七条川原を直違に西へ打て七条大宮に扣へ、朱雀の方を見遣ければ、隅田・高橋が三千余騎、高倉左衛門佐・小寺・衣笠が二千余騎に被懸立て、馬の足をぞ立兼たる。川野是を見て、「角ては御方被打ぬと覚るぞ。いざや打て懸らん。」と云けるを、陶山、「暫。」と制しけり。「其故は此陣の軍未雌雄決前に、力を合て御方を助たりとも、隅田・高橋が口の悪さは、我高名にぞ云はんずらん。暫く置て事の様を御覧ぜよ。敵縦ひ勝に乗とも何程の事か可有。」とて、見物してぞ居たりける。去程に隅田・高橋が大勢、小寺・衣笠が小勢に被追立、返さんとすれ共不叶、朱雀を上りに内野を指て引もあり、七条を東へ向て逃るもあり、馬に離たる者は心ならず返合て死もあり。陶山是を見て、「余にながめ居て、御方の弱り為出したらんも由なし、いざや今は懸合せん。」といへば、河野、「子細にや及ぶ。」と云侭に、両勢を一手に成て大勢の中へ懸入り、時移るまでぞ戦ひたる。四武の衝陣堅を砕て、百戦の勇力変に応ぜしかば、寄手又此陣の軍にも打負て、寺戸を西へ引返しけり。

打ち合わせた時間になり、八条河原の六波羅勢が閧の声を上げたので、反乱軍はこれに立ち向かうため、馬の頭を西に向け駆け出そうとしたところに、陶山、河野の軍勢四百余騎が思いがけなく背後から、閧の声をドッと上げ、反乱軍の中に駆け込んできました。

六波羅軍は東西南北縦横無尽に駆け回り、敵が一ヶ所に集結しないように、追い立て追っ立て攻めました。河野と陶山は一ヶ所に集まっては、二ヶ所に分かれ、二ヶ所に分かれたかと思えば、また一ヶ所に集結すると言った風に、七、八度も繰り返し責め続けました。

対して遠征に疲れている赤松軍の歩兵は、駿馬にまたがった河野、陶山の兵士に攻められ、討たれる者その数も分からない位です。赤松軍は負傷者を捨て置き、逃げ道を求めながら、散じりになって敗走しました。陶山、河野の二人は、

逃げ落ちる敵には目もくれず、「西八条周辺の合戦はどうなったのか、心配だ」と、再び七条河原を斜めに横切り、西に向かい七条大宮で一旦止まり、朱雀の方向を見渡して見ると、隅田、高橋の三千余騎の軍勢は、高倉左衛門佐、小寺、衣笠の二千余騎の軍勢に攻め込まれ、

馬の足さえまともに運べていません。河野はこれを見て、「あれでは味方は全滅するぞ、加勢に行こう」と、言うのを陶山は、「ちょっと待て」と、止めました。「何故なら、あの戦いが決着の付く前に、我らが加勢して味方を救い合戦に勝ったとしても、隅田や高橋のことだから、

自分らの手柄だと言うのに決まっている。ここは暫くほっといて、様子を見ていようじゃないか。敵がたとえ勝って気負いこんでも、たいしたことはないでしょう」と、見物していました。暫くすると、隅田、高橋の大軍は小寺、衣笠の僅かな軍勢に追い立てられ、

退却しようにも退却出来ず、朱雀を北に向かって内野(上京区)を目指して逃げる者や、また七条を東に向かって逃げる者もあり、中には馬に逃げられたため、止む無くその場に留まって、討たれる者もいました。陶山はこの状況を見て、「いつまでも見物していて、

味方の形勢が悪くなりすぎるのも具合が悪い。もうここらで加勢しようか」と、言うと河野も、「言うまでもないことだ」と言いながら、陶山、河野の軍勢を一つにまとめて、大軍の中に駆け込み、暫く戦い続けました。陶山と河野の連合軍は、

赤松軍の四武の衝陣(中軍を囲んで四方に各一隊を配した陣形)に組んだ陣を破り、百戦を経験した勇猛な武力で、そのときの変化に応じて戦いましたので、赤松軍はまたもや負けを喫し、寺戸(向日市)から西方に退却しました。


筑前守貞範・律師則祐兄弟は、最初に桂河を渡しつる時の合戦に、逃る敵を追立て、跡に続く御方の無をも不知、只主従六騎にて、竹田を上りに、法性寺大路へ懸通、六条河原へ打出て、六波羅の館へ懸入んとぞ待たりける。東寺より寄つる御方、早打負て引返しけりと覚て、東西南北に敵より外はなし。さらば且く敵に紛てや御方を待つと、六騎の人々皆笠符をかなぐり捨て、一所に扣へたる処に、隅田・高橋打廻て、「如何様赤松が勢共、尚御方に紛て此中に在と覚るぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具のぬれぬは不可有。其を験しにして組討に打て。」と呼りける間、貞範も則祐も中々敵に紛れんとせば悪かりぬべしとて、兄弟・郎等僅六騎轡を双べわつと呼て敵二千騎が中へ懸入り、此に名乗彼に紛て相戦けり。敵是程に小勢なるべしとは可思寄事ならねば、東西南北に入乱て、同士打をする事数刻也。大敵を謀るに勢ひ久からざれば、郎等四騎皆所々にて被討ぬ。筑前守は被押隔ぬ。則祐は只一騎に成て、七条を西へ大宮を下りに落行ける所に、印具尾張守が郎従八騎追懸て、「敵ながらも優く覚へ候者哉。誰人にてをはするぞ。御名乗候へ。」と云ければ、則祐馬を閑に打て、「身不肖に候へば、名乗申とも不可有御存知候。只頚を取て人に被見候へ。」と云侭に、敵近付ば返合、敵引ば馬を歩せ、二十余町が間、敵八騎と打連て心閑にぞ落行ける。西八条の寺の前を南へ打出ければ、信濃守貞範三百余騎、羅城門の前なる水の潺きに、馬の足を冷して、敗軍の兵を集んと、旗打立て引へたり。則祐是を見付て、諸鐙を合て馳入ければ、追懸つる八騎の敵共、「善き敵と見つる物を、遂に打漏しぬる事の不安さよ。」と云声聞へて、馬の鼻を引返しける。

筑前守貞範と律師則祐兄弟は、最初に桂川を渡った時の合戦で、逃げる敵を追いかけ、後に続く味方がいないのに気付くことなく、ただ主従六騎だけで竹田街道を北に向かい、法性寺大路も駆け抜け、六条河原に出て、六波羅の役所に駆け入ろうと機を窺っていました。

しかし東寺方面より寄せて来るはずの味方が、すでに負けを喫し、退却したらしく思え、それならば東西南北どこにも敵軍以外はいません。それならばとりあえずここは敵に紛れて、味方が来るのを待とうと、六騎の面々は皆、笠標(かさじるし::敵味方を区別するためのしるし)をかなぐり捨てて、

一ヶ所に集まっていたところ、隅田と高橋がやってきて、「どうも赤松の兵士らが、我らの味方に紛れ込んでいるようだ。川の中を渡ってきた敵なので、馬や甲冑が濡れていないはずがない。それを目当てに組み合って討ち取ってしまえ」と、叫んでいます。

貞範も則祐も敵に紛れ込むのは、返って具合が悪そうだと思い、貞範兄弟と家来ら僅か六騎が、馬を並べて敵の二千騎の中に駆け込み、こちらで名乗りを上げたと思えば、あちらでは敵中に紛れて戦いました。隅田、高橋の軍勢は、敵がまさか六騎とは思いも寄らないので、

東西南北に入り乱れ、同士討ちをしながら数時間経ちました。大敵を相手にしては、いつまでも気力、体力が持つ訳でなく、家来の四騎は全員、あちこちで討ち取られてしまいました。筑前守貞範とは別れ別れとなった律師則祐は、ただ一騎になって七条を西へ行き、

大宮から南に下って落ちて行く途中で、印具尾張守の家来ら八騎が追いかけて来て、「敵ながら立派なお方と思える。どなたでしょうか、お名前を名乗ってください」と、言いました。則祐は馬を静かに運び、「私はそれほどの者でもございませんから、

たとえ名乗ってもご存知あるとも思えません。ただ首を取って人に見せればよいでしょう」と言いながら、敵が近づいてくれば相手になり、敵が下がれば馬を進ませて、二十町ほどを敵の八騎と連れ立って、心静かに落ちて行きました。西八条、東寺の前、南付近まで来ると、

信濃守貞範(範資では?、貞範ならば筑前守)の軍勢、三百余騎が羅城門前の小川の流れで、馬の足を冷やしながら、負けを喫した兵士らを再集結するため、赤松の旗を立てて待機していました。則祐はこれを見つけると、馬に左右の鐙を入れ、その軍勢の中に駈け入りました。

追いかけていた八騎の敵たちは、「せっかくの良い敵を、ついに討ち漏らすとは、不覚を取ってしまった」と、言いながら馬を返し、引き返して行きました。


暫く有れば、七条河原・西朱雀にて被懸散たる兵共、此彼より馳集て、又千余騎に成にけり。赤松其兵を東西の小路より進ませ、七条辺にて、又時の声を揚げたりければ、六波羅勢七千余騎、六条院を後に当て、追つ返つ二時許ぞ責合たる。角ては軍の勝負いつ有べしとも覚へざりける処に、河野と陶山とが勢五百余騎、大宮を下りに打て出、後を裹んと廻りける勢に、後陣を被破て、寄手若干討れにければ、赤松わづかの勢に成て、山崎を指て引返しけり。河野・陶山勝に乗て、作道の辺まで追駈けるが、赤松動すれば、取て返さんとする勢を見て、「軍は是までぞ、さのみ長追なせそ。」とて、鳥羽殿の前より引返し、虜二十余人、首七十三取て、鋒に貫て、朱に成て六波羅へ馳参る。主上は御簾を捲せて叡覧あり。両六波羅は敷皮に坐して、是を検知す。「両人の振舞いつもの事なれ共、殊更今夜の合戦に、旁手を下し命を捨給はずば、叶まじとこそ見へて候つれ。」と、再三感じて被賞翫。其夜軈て臨時の宣下有て、河野九郎をば対馬守に被成て御剣を被下、陶山二郎をば備中守に被成て、寮の御馬を被下ければ、是を見聞武士、「あはれ弓矢の面目や。」と、或は羨み或は猜で、其名天下に被知たり。軍散じて翌日に、隅田・高橋京中を馳廻て、此彼の堀・溝に倒れ居たる手負死人の頚共を取集て、六条川原に懸並たるに、其数八百七十三あり。敵是まで多く被討ざれども、軍もせぬ六波羅勢ども、「我れ高名したり。」と云んとて、洛中・辺土の在家人なんどの頚仮首にして、様々の名を書付て出したりける頚共也。其中に赤松入道円心と、札を付たる首五あり。何れも見知たる人無れば、同じやうにぞ懸たりける。京童部是を見て、「頚を借たる人、利子を付て可返。赤松入道分身して、敵の尽ぬ相なるべし。」と、口々にこそ笑ひけれ。

時の過ぎ行く内に、七条河原や西朱雀周辺で、駆け散らされた兵士らが、あちこちより駆け集まって、再び千余騎になりました。赤松貞範はその兵士らを、東西の小路を進ませて、七条あたりに着くと、再び閧の声を上げさせました。六波羅勢の七千余騎は六条内裏を後ろにして、

追いつ追われつの戦闘を、四時間ばかり続けました。これでは何時戦いの決着がつくのか、分かりかねている時、河野と陶山の軍勢、五百余騎が大宮大路を下って来ると、赤松軍の後方に回り込みました。この軍勢に赤松軍は後方の陣を破られ、

討ち取られる者も出てくると、赤松軍は僅かな軍勢になってしまい、山崎(大山崎町)を目指して退却しました。河野、陶山は勝ちに乗じて、作道の辺まで追いかけましたが、赤松軍も何かあれば引き返して、一戦に及ぶような動きも見えるので、「よし、全軍停止だ。

これ以上深追いするな」と、鳥羽殿の前から引き返し、捕虜二十余人と、取った首七十三を、長刀や太刀の刃先に貫き、血まみれになって、六波羅に駆けつけ参上しました。光厳天皇は御簾を巻き上げて、それらをご覧になりました。南北の両六波羅の長官は、

皮の敷物に座って、これを実検しました。「両人の素晴らしい働きは、いつものことであるが、特に今夜の合戦においては、自ら手を下し、命を惜しむことなく戦わなければ、とても達成出来ることではないと思われる」と、幾度も感激され、褒め称えました。

そしてすぐその夜に臨時の宣下があり、河野九郎を対馬守に任じ、御剣を下賜されました。また陶山二郎は備中守に任じ、朝廷で飼育している馬を、下賜されたのでした。この恩賞を見たり聞いたりした武士たちは、「あぁ何とも、武士にとって最高の名誉である」と、

ある者は羨み、またある者は嫉妬しましたが、その名は天下に知れ渡りました。軍を解散した翌日、隅田と高橋二人は京都中を駆け回り、あちこちの堀や溝に倒れている、負傷者や死人の首を掻き集め、六条河原に架け並べたのですが、その数八百七十三もありました。

敵の赤松軍はこれほど多く討たれていませんが、合戦に参加していない六波羅の兵士らが、「自分はこのように手柄を立てた」と、言うがために洛中、洛外の民間人を殺害し、その首に様々な名前を書き付け、提出されたものです。

その中でも、赤松入道円心と札の付いた首が五つありました。誰も赤松円心を知っている訳ではないので、みな同じように架けられていました。京童らはこれを見て、「赤松の首を借りた人は、利子を付けて返さなければいけない。すると赤松は分身して数が増え、

敵の尽きることがないと言うことだ」と、みな口々に言って笑っていました。


○禁裡仙洞御修法事付山崎合戦事
此比四海大に乱て、兵火天を掠めり。聖主■を負て、春秋無安時、武臣矛を建て、旌旗無閑日。是以法威逆臣を不鎮ば、静謐其期不可有とて、諸寺諸社に課て、大法秘法をぞ被修ける。梶井宮は、聖主の連枝、山門の座主にて御坐しければ、禁裏に壇を立て、仏眼の法を行せ給ふ。裏辻の慈什僧正は、仙洞にて薬師の法を行はる。武家又山門・南都・園城寺の衆徒の心を取、霊鑑の加護を仰がん為に、所々の庄園を寄進し、種々の神宝を献て、祈祷を被致しか共、公家の政道不正、武家の積悪禍を招きしかば、祈共神不享非礼、語へども人不耽利欲にや、只日を逐て、国々より急を告る事隙無りけり。去三月十二日の合戦に赤松打負て、山崎を指て落行しを、頓て追懸て討手をだに下したらば、敵足をたむまじかりしを、今は何事か可有とて被油断しに依て、敗軍の兵此彼より馳集て、無程大勢に成ければ、赤松、中院の中将貞能を取立て聖護院の宮と号し、山崎・八幡に陣を取、河尻を差塞ぎ西国往反の道を打止む。依之洛中の商買止て士卒皆転漕の助に苦めり。両六波羅聞之、「赤松一人に洛中を被悩て、今士卒を苦る事こそ安からね。去十二日の合戦の体を見るに、敵さまで大勢にても無りける物を、無云甲斐聞懼して敵を辺境の間に閣こそ、武家後代の恥辱なれ、所詮於今度は官軍遮て敵陣に押寄、八幡・山崎の両陣を責落し、賊徒を河に追はめ、其首を取て六条河原に可曝。」と被下知ければ、四十八箇所の篝、並在京人、其勢五千余騎、五条河原に勢揃して、三月十五日の卯刻に、山崎へとぞ向ひける。此勢始は二手に分けたりけるを、久我縄手は、路細く深田なれば馬の懸引も自在なるまじとて、八条より一手に成、桂河を渡り、河嶋の南を経て、物集女・大原野の前よりぞ寄たりける。

☆ 宮中仙洞御所で修法が行われていたことと、山崎合戦のこと

最近日本全国の治安が大変悪く、そのため騒乱の勃発が激しく、兵火は天にまで到達するほどです。徳を持った君主でも、日々心の安寧を得ることが出来ず、聖主に仕える武臣も、鉾を手放すことが出来ませんし、軍旗が翻えらない日もありません。

朝敵の調伏には、仏法の力を借りて、逆臣を鎮圧しなければ、とても秩序の安定を得ることは出来ないだろうと、諸寺、諸社に命じて、大法(大がかりな修法)や秘法(秘密の修法)を行いました。梶井宮尊胤法親王(後伏見天皇の第四皇子)は、光厳天皇(後伏見天皇の第三皇子)とご兄弟で、

また比叡山延暦寺の座主でもありますから、宮中に修法を行うための壇を造り、仏眼の法(密教で仏眼尊を本尊として息災を祈る修法)を行われました。裏辻家の慈什僧正は仙洞御所にて、薬師如来の法を行われました。そして幕府は幕府で、比叡山延暦寺や南都興福寺、

また園城寺三井寺などの、衆徒らの歓心を得た上、神仏のご加護もまた頂きたいと、あちらこちらの荘園を寄進し、そのほか種々の宝物なども献上して、祈祷をお願いしました。しかしながら、朝廷、公卿の行う政治は不正が多く、幕府の年来の悪業によって災いが続く以上、

いくら祈祷しても、神はその非をとがめ、願いを受け入れようとはしません。また人を味方に引き入れようとしても、利によって誘い込むことも出来ません。そんな中、日を追って、諸国から急を告げる報告は、休む間もありません。去る元弘三年(1333年)三月十二日の合戦に、

赤松入道は負けてしまい、山崎方面に向かって落ちて行くのを、すぐに追っ手を向かわせたなら、赤松軍も足を止めることなく、逃げ落ちたに違いありません。しかし、六波羅の軍勢はここまで追い込んだのだから、もうこの辺で良いだろうと油断し、引き返したので、

敗軍の兵士らはあちこちから集まりだし、やがて大軍となりました。そこで赤松入道は中院の中将貞能を抜擢して、聖護院宮と名乗っていただき、山崎から八幡(八幡市)にかけて陣を構築し、桂川、宇治川、木津川の合流地点を封鎖して、西国との通行を遮断しました。

このため洛中の商売が成り立たなくなり、将士とも皆兵糧の手当てや運送に、苦しむこととなりました。南北の両六波羅はこの事情を聞き、「赤松ただ一人のために、洛中が困窮しその上、士卒らが共に苦しめられるのは、穏やかなことではない。

去る十二日の合戦の様子を、良く検討してみると、敵はそれほどの大軍でもないのに、不甲斐なくも恐れをなして、敵に国境周辺での展開を許したことは、幕府としては後々までの恥辱に他ならない。こうなった以上、今度の合戦においては、我ら官軍は遮二無二敵陣に押し寄せ、

八幡と山崎の二つの陣営を攻め落とし、賊徒らを川に追い詰めその首を取って、六条河原に晒すこと」と、命令を下し、洛中四十八ヶ所の篝の兵や、京都滞在中の兵士など総勢五千余騎が、五条河原に勢ぞろいして、三月十五日の卯の刻(午前六時頃)、山崎に向かって進軍を始めました。

この軍勢は最初二手に分かれていましたが、久我縄手付近は道路が細い上、田んぼも深いので、馬の進退が不自由ではと考え、八条から一つに統合して、桂川を渡り川島(西京区)の南側を通過して、物集女(向日市)、大原野(西京区)の前から、赤松の陣営に向かって寄せて行きました。


赤松是を聞て、三千余騎を三手に分つ。一手には足軽の射手を勝て五百余人小塩山へ廻す。一手をば野伏に騎馬の兵を少々交て千余人、狐河の辺に引へさす。一手をば混すら打物の衆八百余騎を汰て、向日明神の後なる松原の陰に隠置く。六波羅勢、敵此まで可出合とは不思寄、そゞろに深入して、寺戸の在家に火を懸て、先懸既に向日明神の前を打過ける処に、善峯・岩蔵の上より、足軽の射手一枚楯手々に提て麓にをり下て散々に射る。寄手の兵共是を見て、馬の鼻を双て懸散さんとすれば、山嶮して不上得、広みに帯き出して打んとすれば、敵是を心得て不懸。「よしや人々、はか/゛\しからぬ野伏共に目を懸て、骨を折ては何かせん。此をば打捨て山崎へ打通れ。」と議して、西岡を南へ打過る処に、坊城左衛門五十余騎にて、思もよらぬ向日明神の小松原より懸出て、大勢の中へ切て入。敵を小勢と侮て、真中に取篭て、余さじと戦ふ処に、田中・小寺・八木・神沢此彼より百騎二百騎、思々に懸出て、魚鱗に進み鶴翼に囲んとす。是を見て狐河に引へたる勢五百余騎、六波羅勢の跡を切らんと、縄手を伝ひ道を要て打廻るを見て、京勢叶はじとや思けん、捨鞭を打て引返す。片時の戦也ければ、京勢多く被打たる事は無けれ共、堀・溝・深田に落入て、馬物具皆取所もなく膩たれば、白昼に京中を打通るに、見物しける人毎に、「哀れ、さりとも陶山・河野を被向たらば、是程にきたなき負はせじ物を。」と、笑はぬ人もなかりけり。去ば京勢此度打負て、向はで京に被残たる河野と陶山が手柄の程、いとゞ名高く成にけり。

赤松入道はこの情報を得ると、三千余騎の軍勢を三手に分けました。一手は足軽の中から、弓の上手を五百余人選抜し、小塩山に差し向けました。また一手は野武士に騎馬の兵士を少しばかり配属し、その軍勢千余人は、狐河のあたりに控えさせました。

残る一手としては、槍や太刀などで武装した八百余騎の精鋭を、向日明神の後方にある松原に、隠しておきました。六波羅の陣営は、敵がここまで寄せてきているとは思いもよらず、やたらに深入りして、寺戸(向日市)周辺の民家に火を放ち、

先鋒の一軍はすでに向日明神の前を、通り過ぎようとしていました。そこを、吉峯山や岩蔵の山から、足軽の弓部隊が、各自一枚楯を手にして、麓に向かって下りて来ると、六波羅勢に向かって、激しく矢を射ました。六波羅の兵士らはこれを見て、一斉に攻め込み、

赤松軍を駆け散らそうとしましたが、山が険しくて登ることが出来ず、ならば広い場所におびき出して、討ち取ろうとしましたが、赤松軍も心得たもので、その手には乗りませんでした。「皆の者、こんなつまらない野武士どもを相手にして、戦っても仕方がない。

ここはほっといて山崎に向かうべきだ」と、話し合って、西岡の南側を通り過ぎようとした時、赤松軍の坊城左衛門が五十余騎を率いて、思いもよらず向日明神の小松原から、六波羅軍に切り込んで来ました。六波羅軍は敵を小勢だと馬鹿にして、

中に取り込め全滅を狙い戦おうとしたところ、赤松勢より、田中、小寺、八木、神沢の軍勢があちこちから、百騎、二百騎と次々に集まってくると、六波羅勢を魚鱗(うろこのように中央部を突出した陣形)の陣形に狙ったり、鶴翼(鶴が翼を広げたように、敵の包囲を狙った陣形)の陣形に囲もうとしました。

この戦況を見て、狐河に控えていた五百余騎の軍勢が、六波羅勢の後方を絶とうと考え、あぜ道伝いや、動きやすい道を選びながら、後方に展開するのを見て、京都六波羅勢はこれは駄目だと考え、馬に鞭を入れ、一目散に退却を始めました。

短時間の合戦でしたから、六波羅軍はそれほど大勢が、討たれた訳ではありませんが、退却の途中で堀や溝、また田んぼの深みにはまったりして、馬は勿論甲冑なども皆、泥まみれとなりました。そんな格好で、白昼京都に逃げ込んで来たのを見て、

見物していた人は皆、「なんとも情けない話だ。もし陶山や河野を派遣していたら、これほどみっともない負け方はしないだろうに」と、笑いました。そんな訳で、六波羅勢はこの合戦に負けてしまい、合戦に向かわず、京都に居残っていた、河野と陶山の戦功が称えられることとなりました。      (終)

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