8 太平記 巻第八 (その二)


○山徒寄京都事
京都に合戦始りて、官軍動すれば利を失ふ由、其聞へ有しかば、大塔宮より牒使を被立て、山門の衆徒をぞ被語ける。依之三月二十六日一山の衆徒大講堂の庭に会合して、「夫吾山者為七社応化之霊地、作百王鎮護之藩籬。高祖大師占開基之始、止観窓前雖弄天真独朗之夜月、慈恵僧正為貫頂之後、忍辱衣上忽帯魔障降伏之秋霜。尓来妖■見天、則振法威而攘退之。逆暴乱国、則借神力而退之。肆神号山王。須有非三非一之深理矣。山言比叡。所以仏法王法之相比焉。而今四海方乱、一人不安。武臣積悪之余、果天将下誅。其先兆非無賢愚。共所世知也。王事毋■。釈門仮使雖為出塵之徒、此時奈何無尽報国之忠。早翻武家合体之前非宜専朝廷扶危之忠胆矣。」と僉議しければ、三千一同に尤々と同じて院々谷々へ帰り、則武家追討の企の外無他事。山門、已に来二十八日六波羅へ可寄と定ければ、末寺・末社の輩は不及申、所縁に随て近国の兵馳集る事雲霞の如く也。二十七日大宮の前にて着到を付けるに、十万六千余騎と注せり。大衆の習、大早無極所存なれば、此勢京へ寄たらんに、六波羅よも一たまりもたまらじ、聞落にぞせんずらんと思侮て、八幡・山崎の御方にも不牒合して、二十八日の卯刻に、法勝寺にて勢撰へ可有と触たりければ、物具をもせず、兵粮をも未だつかはで、或今路より向ひ、或は西坂よりぞをり下る。

☆ 比叡山延暦寺の僧兵らが京都に攻めてきたこと

京都で合戦が始まってから、官軍、六波羅勢は敗戦続きだと噂があり、大塔宮護良親王は使者に親書を持たせ、延暦寺の衆徒らに語りかけました。これによって元弘三年(1333年)三月二十六日、全山の衆徒らは大講堂の庭に集結し、

「我ら比叡山延暦寺は、日吉大社の七社をして、世の救済のため、仏や菩薩が姿を変えて現れる霊地であり、皇室をお護りするために、その危険からお救いするものである。伝教大師が比叡山を開かれた時、この地にあって、夜の月を愛でていたとは言いながらも、

無の境地に入られ、仏法を体得されたのである。また慈恵僧正が天台座主になられてから、宗教上の迫害や侮辱をものともせずに、仏道の修行を妨げる、あらゆる力を降伏させる刀剣を、手に入れられたのである。それ以来、世の中に禍が発生した時には、

即刻法力でもってこれを退け打ち凝らしてきた。また逆賊暴徒が国を乱そうとする時も、神の力でこれを退けたのである。我らが敬う神の名は山王であり、すなわち三にあらざるものは、同時に一にもあらざると言う、深遠なる理屈である。(意味不明)また山号は比叡であり、

その名のいわれは、仏法と王法(帝の定めた法)が同列に置かれる場所と言うことからである。そして今また、世は乱れに乱れ、天皇のお心は休む間もないではないか。幕府は過去から今までの悪行の数々ゆえに、天によって今まさに誅罰を下されようとしている。

そしてその兆しは、人の賢愚にかかわりなく、皆が知ることとなった。天皇家を磐石なものとするため、仏門としては出家して僧となった者が、この時に臨んで、国家に忠誠を誓い、その恩に報うことは当然ではないか。以前に幕府に味方した非を早急に改め、

朝廷の危機をお救いするため、忠義を尽くすことを宣言するべきだ」と、議決したところ、三千の衆徒らは一様に賛同し、それぞれの院や谷々に帰り、即刻幕府を追討するための準備にかかりました。比叡山としては来る三月二十八日に、六波羅へ攻め込むと決めたので、

延暦寺や日吉社の末寺、末社の連中はもちろん、所縁のある近国の兵士らが、雲霞のように駆け集まってきました。二十七日に、武士らの到着人数を調べてみたところ、十万六千余騎と記入されました。しかし、僧兵らの常として、深い戦略など考えない若さゆえ、

この軍勢で京都に攻め込めば、六波羅などひとたまりもないので、この話を聞いただけで、陥落するだろうと馬鹿にしていました。そのため八幡や山崎に展開している味方と、何ら連携を持つこともなく、二十八日の卯刻(午前六時頃)に法性寺に集結すべしと命令が回ったので、

甲冑で身を固めることもしないで、また兵糧米を使ったり、用意することもなく、ある者は今路越で京都に向かい、またある者は西坂経由で、京都に下って行きました。


両六波羅是を聞て、思に、山徒縦雖大勢、騎馬の兵一人も不可有。此方には馬上の射手を撰へて、三条河原に待受けさせて、懸開懸合せ、弓手・妻手に着て追物射に射たらんずるに、山徒心は雖武、歩立に力疲れ、重鎧に肩を被引、片時が間に疲るべし。是以小砕大、以弱拉剛行也。とて、七千余騎を七手に分て、三条河原の東西に陣を取てぞ待懸たる。大衆斯るべしとは思もよらず、我前に京へ入てよからんずる宿をも取、財宝をも管領せんと志て、宿札共を面々に二三十づゝ持せて、先法勝寺へぞ集りける。其勢を見渡せば、今路・西坂・古塔下・八瀬・薮里・下松・赤山口に支て、前陣已に法勝寺・真如堂に付ば後陣は未山上・坂本に充満たり。甲冑に映ぜる朝日は、電光の激するに不異。旌旗を靡かす山風は、竜蛇の動くに相似たり。山上と洛中との勢の多少を見合するに、武家の勢は十にして其一にも不及。「げにも此勢にては輒くこそ。」と、六波羅を直下ける山法師の心の程を思へば、大様ながらも理也。去程に前陣の大衆且く法勝寺に付て後陣の勢を待ける処へ、六波羅勢七千余騎三方より押寄て時をどつと作る。大衆時の声に驚て、物具太刀よ長刀よとひしめいて取物も不取敢、僅に千人許にて法勝寺の西門の前に出合、近付く敵に抜て懸る。武士は兼てより巧みたる事なれば、敵の懸る時は馬を引返てばつと引き、敵留れば開合せて後へ懸廻る。如此六七度が程懸悩ましける間、山徒は皆歩立の上、重鎧に肩を被推て、次第に疲たる体にぞ見へける。武士は是に利を得て、射手を撰て散々に射る。大衆是に射立られて、平場の合戦叶はじとや思けん、又法勝寺の中へ引篭らんとしける処を、丹波国の住人佐治孫五郎と云ける兵、西門の前に馬を横たへ、其比会てなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵三人不懸筒切て、太刀の少仰たるを門の扉に当て推直し、猶も敵を相待て、西頭に馬をぞ扣たる。山徒是を見て、其勢にや辟易しけん。又法勝寺にも敵有とや思けん。法勝寺へ不入得、西門の前を北へ向て、真如堂の前神楽岡の後を二に分れて、只山上へとのみ引返しける。

南北の六波羅探題はこの山門の動きを知りましたが、考えてみれば山門の大衆は、いかにその数が多いと言っても、騎馬の兵士は一人も居ないではないか。そこで我が方は弓の上手な騎馬の兵士を選んで、三条河原に待ち構えさせ、山門の大衆らが現れれば、

攻撃陣を広く展開したり、また突入したりして、左右の方向から、獲物を射殺すように弓を射れば、大衆らは気持ちだけいくら剛勇であっても、歩兵としての戦いに疲れ、その上重い鎧に肩を痛め、瞬く間に身動きが取れなくなるだろう。

これこそ小で大を砕き、弱をもって剛をくじくという事を実践するようなものだと、このように作戦を決め、七千余騎の軍勢を七手に分割し、三条河原の東西に陣を構え、大衆の現れるのを待ちました。延暦寺の僧兵らは、六波羅の作戦など考えることもなく、

ただ我先に京都へ突入し、良い宿泊所を確保した上、財物をも支配下に置こうと考え、それぞれに宿札(姓名を記して、その人の住居であることを知らせる札。表札)を二、三十づつ持たせ、まず法勝寺に集まりました。その軍勢をよく見れば、今路、西坂、古塔下、八瀬、藪里、下松、赤山口方向から進軍し、

先頭はすでに法勝寺や真如堂に、到着しているのに、後方の軍勢は、未だに山上や坂本に充満している有様です。甲冑に反射する朝日は、激しく光る稲妻を思わせ、山風にたなびく旗や幟は、竜や蛇が動き回っているようです。

山上、比叡山軍と洛中、六波羅勢の軍勢を数字だけで比較すると、幕府軍は山門勢の十に対して、一にもなりません。「これほど優勢な軍勢であれば、勝負はついたようなものだ」と、山法師らが六波羅を見下げる気持ちも、それなりの理由はあります。

そのような状況の中、とりあえず先陣の軍勢は法勝寺で、後陣の到着を待っているところに、六波羅勢の七千余騎が、三方向から押し寄せてくると、閧の声をドッと作りました。大衆は閧の声に驚いて、甲冑はどこだ、太刀は、長刀はどこにあるのだと右往左往し、

大急ぎで僅か千人ほどが、法勝寺の西門の前に駆けつけ、近づいて来る敵に太刀を抜くと、かかっていきました。武士は戦闘には慣れていますから、敵がかかってきたら馬をサッと退き、敵の動きが止まると陣を展開し、一部は敵の後方に回り込みました。

このように六、七回も繰り返し繰り返し戦いが続くと、大衆は全員が歩兵である上、重い鎧が肩に食い込み、次第に疲れた様子が見えてきました。六波羅勢はこの機会を逃さず、弓の上手を選んで、激しく矢を射込みました。比叡山軍は矢をまともに受け、平地での合戦は不利だと思ったのか、

再び法勝寺の中に引き篭もろうとしたところ、丹波国の豪族、佐治孫五郎と言う名の武士が、西門の前に馬を横付けにし、その頃には見たこともない五尺三寸の大太刀で、山門勢の三人を無造作に筒切りにし、少しゆがんだ太刀を門の扉に押し当てて直すと、

また敵を待とうと馬を西に向けて待機しました。大衆らはこの状況に圧倒されたのか、それとも法勝寺内にも敵がいると思ったのか、法勝寺には入らず、西門の前を北に向かって真如堂の前、神楽岡の後ろを二手に分かれて、ただひたすら山上に向かって、敗走を続けました。


爰に東塔の南谷善智房の同宿に豪鑒・豪仙とて、三塔名誉の悪僧あり。御方の大勢に被引立て、不心北白河を指て引けるが、豪鑒豪仙を呼留て、「軍の習として、勝時もあり負時もあり、時の運による事なれば恥にて不恥。雖然今日の合戦の体、山門の恥辱天下の嘲哢たるべし。いざや御辺、相共に返し合て打死し、二人が命を捨て三塔の恥を雪めん。」と云ければ、豪仙、「云にや及ぶ、尤も庶幾する所也。」と云て、二人蹈留て法勝寺の北の門の前に立並び、大音声を揚て名乗けるは、「是程に引立たる大勢の中より、只二人返し合するを以て三塔一の剛の者とは可知。其名をば定めて聞及ぬらん、東塔の南谷善智坊の同宿に、豪鑒・豪仙とて一山に名を知られたる者共也。我と思はん武士共、よれや、打物して、自余の輩に見物せさせん。」と云侭に、四尺余の大長刀水車に廻して、跳懸々々火を散してぞ切たりける。是を打取らんと相近付ける武士共、多く馬の足を被薙、冑の鉢を被破て被討にけり。彼等二人、此に半時許支へて戦けれ共、続く大衆一人もなし。敵雨の降る如くに射ける矢に、二人ながら十余箇所疵を蒙りければ、「今は所存是までぞ。いざや冥途まで同道せん。」と契て、鎧脱捨押裸脱、腹十文字に掻切て、同じ枕にこそ伏たりけれ。是を見る武士共、「あはれ日本一の剛の者共哉。」と、惜まぬ人も無りけり。前陣の軍破れて引返しければ、後陣の大勢は軍場をだに不見して、道より山門へ引返す。只豪鑒・豪仙二人が振舞にこそ、山門の名をば揚たりけれ。

この比叡山大衆の中に、東塔の南谷にある善智房に一緒に住んでいる、豪鑒と豪仙と言う三塔(東塔、西塔、横川)でも高名な暴れ僧がいました。味方の大勢に流されて、心ならずも北白川を目指して、退却することになりましたが、豪鑒は豪仙を呼び止め、「合戦のことだから、

勝つ時もあれば負ける時もあり、時の運であれば、別に恥と感じなくても良いかもしれない。とは言っても、今日の合戦の状況を見れば、山門の恥辱は天下の物笑いになるだろう。どうだろう貴様、二人してここから引き返し、討ち死にすることによって、

三塔の恥を雪ごうやないか」と、言うと豪仙は、「言うまでもない。もっとも望むところだ」と、言って二人はその場に留まりました。そして法勝寺の北門の前に並んで立つと、大声を上げて、「これほど浮き足立った軍勢の中から、ただ二人で引き返し、

戦おうとするほどの者だ、三塔で一番の勇者だと分かるだろう。その名はきっと聞いたことがあるだろうが、東塔の南谷、善智房で一緒に住んでいる、豪鑒と豪仙と言う、比叡山ではそれなりに名の知られた者である。我と思わん武士どもはかかって来い、

戦いの一部始終を、ほかの者どもに見せてやろう」と名乗るや、四尺余りもある大長刀を水車のように振り回し、飛び掛ってはまた飛び掛り、火花を散らしながら斬りつけました。彼らを討ち取ろうと近づく武士らは、多くが馬の足を薙ぎ払われ、兜の鉢も破られて討たれました。

豪鑒、豪仙の二人は、小一時間もここで戦い続けましたが、後に続く大衆は一人も出て来ません。六波羅軍の雨が降るように射込んでくる矢に、二人とも十余ヶ所の傷を受け、「今はもう思い残すことはない。さあ、冥土まで共に行こうぞ」と言い合って、鎧を脱ぎ捨てると裸になり、

腹を十文字に掻き切り、枕を並べて死んだのです。これを見ていた六波羅の武士たちも、「本当に彼らこそ、日本一の勇者ではないのか」と、その死を惜しまない人はいませんでした。先陣の軍勢が軍に破れ、引き返して来たので、後陣の軍勢は戦場を見ることなく、

途中から山門に引き返しました。ただ豪鑒と豪仙二人の行動によって、山門の名を上げることが出来たのです。


○四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事
去月十二日赤松合戦無利して引退し後は、武家常に勝に乗て、敵を討事数千人也。といへども、四海未静、剰山門又武家に敵して、大岳に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅へ可寄と聞へければ、衆徒の心を取らん為に、武家より大庄十三箇所、山門へ寄進す。其外宗徒の衆徒に、便宜の地を一二箇所充祈祷の為とて恩賞を被行ける。さてこそ山門の衆議心心に成て武家に心を寄する衆徒も多く出来にければ、八幡・山崎の官軍は、先度京都の合戦に、或被討、或疵を蒙る者多かりければ、其勢太半減じて今は僅に、一万騎に足らざりけり。去ども武家の軍立、京都の形勢恐るゝに不足と見透してげれば、七千余騎を二手に分て、四月三日の卯刻に、又京都へ押寄せたり。其一方には、殿法印良忠・中院定平を両大将として、伊東・松田・頓宮・富田判官が一党、並真木・葛葉の溢れ者共を加へて其勢都合三千余騎、伏見・木幡に火を懸て、鳥羽・竹田より推寄する。又一方には、赤松入道円心を始として、宇野・柏原・佐用・真嶋・得平・衣笠、菅家の一党都合其勢三千五百余騎、河嶋・桂の里に火を懸て、西の七条よりぞ寄たりける。両六波羅は、度々の合戦に打勝て兵皆気を挙ける上、其勢を算ふるに、三万騎に余りける間、敵已に近付ぬと告けれ共、仰天の気色もなし。六条河原に勢汰して閑に手分をぞせられける。山門今は武家に志を通ずといへども、又如何なる野心をか存ずらん。非可油断とて、佐々木判官時信・常陸前司時朝・長井縫殿秀正に三千余騎を差副て、糾河原へ被向。去月十二日の合戦も、其方より勝たりしかば吉例也。とて、河野と陶山とに五千騎を相副て法性寺大路へ被差向。富樫・林が一族・島津・小早河が両勢に、国々の兵六千余騎を相副て、八条東寺辺へ被指向。厚東加賀守・加治源太左衛門尉・隅田・高橋・糟谷・土屋・小笠原に七千余騎を相副て、西七条口へ被向。自余の兵千余騎をば悪手の為に残して、未六波羅に並居たり。

☆ 四月三日の合戦のことと、妻鹿孫三郎の豪腕のこと

先月、元弘三年(1333年)三月十二日の合戦で、赤松入道軍が不利になり、京都を引き上げてからは、六波羅の幕府軍は常に勝ち続け、敵を数千人も討ち取ったと言っています。しかし相変わらず国内の治安は安定せず、それどころか比叡山延暦寺の大衆らは、

幕府に敵対し、比叡の山頂には篝火を燃やし、坂本には軍勢を集め、六波羅に攻め込んで来るのではと、噂されています。そこで六波羅は衆徒を懐柔しようと考え、幕府から大荘園十三ヶ所を山門に寄進しました。それ以外にも主だった衆徒に、特別一、二ヶ所の土地を、

祈祷の布施として恩賞を行いました。そのため山門の総意はばらばらになり、幕府に味方する衆徒らも多くなりました。その頃、八幡、山崎に駐留する官軍、赤松の軍勢は、先日行われた京都での合戦に、ある者は討たれたり、また傷を受けた者が多く、

その勢力は大半がいなくなり、今は僅か一万騎を切ってしまいました。とは言っても幕府軍の陣形にしても、その他京都の情勢など、恐れるものではないと考え、七千余騎の軍勢を二手に分けて、元弘三年(1333年)四月三日卯の刻(午前六時頃)に、再度京都に押し寄せました。

その内の一手は殿法印良忠と中院定平を両大将として、伊東、松田、頓宮、富田判官の一党らに、真木(枚方市)や葛葉(枚方市)周辺の牢人らを加えて、総勢三千余騎が伏見や木幡(宇治市)に火をかけて、鳥羽(伏見区)、竹田(伏見区)方面から押し寄せました。

もう一手は赤松入道円心を始めとして、宇野、柏原、佐用、真嶋、得平、衣笠、菅家の一党ら総勢三千五百余騎が、河嶋(西京区)や桂(西京区)の里に火を放ち、七条の西部から市中に押し寄せました。南北の六波羅は度々の合戦に勝利して、兵士らの気勢も盛んであり、

その軍勢も三万騎を超えていますので、敵がすでに近づいていると聞いても、特に驚くような様子もなく、軍勢を六条河原に集め、粛々と軍の配置を進めていました。また山門は今はすでに、幕府に味方しているとは言っても、またぞろ気が変わって、何が起こるかも分からないから、

油断は禁物だと、佐々木判官時信、常陸前司時朝と長井縫殿秀正に三千余騎を与えて、糺河原(加茂川と高野川の合流地点付近)に向かわせました。先月十二日の合戦において、最初の勝利を収めたことから吉例と考えて、河野と陶山に五千騎の軍勢を与え、

法性寺大路に向かわせました。また富樫、林の一族と島津、小早川の軍勢に、諸国の兵士六千余騎を加えて、八条東寺周辺に向かわせました。その他、厚東加賀守、加治源太左衛門尉、隅田、高橋、糟谷、土屋と小笠原に七千余騎を授け、西七条口に派遣しました。

そのほか残った兵士、千余騎は予備軍として、六波羅に残留させました。


其日の巳刻より、三方ながら同時に軍始て、入替々々責戦ふ。寄手は騎馬の兵少して、歩立射手多ければ、小路々々を塞ぎ、鏃を調て散々に射る。六波羅勢は歩立は少して、騎馬の兵多ければ、懸違々々敵を中に篭めんとす。孫子が千反の謀、呉氏が八陣の法、互に知たる道なれば、共に不被破不被囲、只命を際の戦にて更に勝負も無りけり。終日戦て已に夕陽に及びける時、河野と陶山と一手に成て、三百余騎轡を双べて懸たりけるに、木幡の寄手足をもためず被懸立て、宇治路を指て引退く。陶山・河野、逃る敵をば打捨て、竹田河原を直違に、鳥羽殿の北の門を打廻り、作道へ懸出て、東寺の前なる寄手を取篭めんとす。作道十八町に充満したる寄手是を見て、叶はじとや思けん、羅城門の西を横切に、寺戸を指て引返す。小早河は島津安芸前司とは東寺の敵に向て、追つ返つ戦けるが、己が陣の敵を河野と陶山とに被払て、身方の負をしつる事よと無念に思ひければ、「西の七条へ寄せつる敵に逢て、花やかなる一軍せん。」と云て、西八条を上りに、西朱雀へぞ出たりける。此に赤松入道、究竟の兵を勝て、三千余騎にて引へたりければ、無左右可破様も無りなり。されども嶋津・小早河が横合に懸るを見て、戦ひ疲れたる六波羅勢力を得て三方より攻合せける間、赤松が勢、忽に開靡て三所に引へたり。爰に赤松が勢の中より兵四人進み出て、数千騎引へたる敵の中へ無是非打懸りけり。其勢決然として恰樊噌・項羽が忿れる形にも過たり。近付に随て是を見れば長七尺許なる男の、髭両方へ生ひ分て、眥逆に裂たるが、鎖の上に鎧を重て着、大立挙の臑当に膝鎧懸て、竜頭の冑猪頚に着成し、五尺余りの太刀を帯き、八尺余のかなさい棒の八角なるを、手本二尺許円めて、誠に軽げに提げたり。数千騎扣へたる六波羅勢、彼等四人が有様を見て、未戦先に三方へ分れて引退く。敵を招て彼等四人、大音声を揚て名乗けるは、「備中国の住人頓宮又次郎入道・子息孫三郎・田中藤九郎盛兼・同舎弟弥九郎盛泰と云者也。我等父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身と成りし間、山賊を業として一生を楽めり。然に今幸に此乱出来して、忝くも万乗の君の御方に参ず。然を先度の合戦、指たる軍もせで御方の負したりし事、我等が恥と存ずる間、今日に於ては縦御方負て引とも引まじ、敵強くとも其にもよるまじ、敵の中を破て通り六波羅殿に直に対面申さんと存ずるなり。」と、広言吐て二王立にぞ立たりける。

その日、三日の巳の刻(午前十時頃)より三方から同時に戦闘が始まり、入れ替わり立ち代り戦い続けました。寄せ手の赤松軍は騎馬の兵士が少なく、歩兵の射手が多いので、狭い通りなどを占めて、激しくまた整然と矢を射込みました。

反対に六波羅勢は歩兵が少なく、騎馬の兵士が多いので、馬を駆けまわして、敵を中に取り込めようとしました。孫子の千変万化の謀や呉氏の八陣の法など、お互いに知り尽くしている兵法なので、どちらも破られることもなければ、取り篭められることもありません。

ただ一命を賭けての戦いを続けるばかりで、全く勝負がつきそうにありません。終日戦い続けて、すでに日が沈みかけた時、河野と陶山の軍勢が一つになり、三百余騎が揃って駆け込んだので、木幡から寄せていた赤松軍は、持ちこたえられずに、宇治を目指して退却しました。

陶山と河野は逃げる敵には目をくれず、竹田河原を斜めに横断し、鳥羽殿の北側の門を回って、作通を駆け続けて、東寺の前に展開している寄せ手を、取り篭めようとしました。作道の周辺、十八町ほどに満ち溢れていた寄せ手軍は、この攻撃軍を見て勝ち目なしと思ったのか、

羅城門(南区)の西側を横切って、寺戸(向日市)に向かって退却しました。小早川と島津安芸前司は、それまで東寺の赤松軍と、追いつ追われつ戦っていたのですが、自分らが戦っていた敵を、河野と陶山に追い払われて、味方に手柄を奪われたと残念に思い、

「西七条に寄せて来た敵に向かい、一つ華やかな軍を演じてやろう」と言って、西八条を北に向かい、西朱雀(下京区)に進攻しました。ここは赤松入道が屈強の兵士、三千余騎で展開していますから、そう簡単に破ることは出来そうにありません。

しかし、島津と小早川が側面から攻め込むのを見て、戦い疲れていた六波羅勢も奮起して、三方から攻撃を仕掛けたところ、赤松勢はたちまち三つに分裂してしまいました。その時、赤松軍の中から兵士が四人進み出ると無謀にも、数千騎も控えている敵にかかってきました。

その様子はきりりとして、まるで古代中国の英雄、樊カイ(カイ::口偏に會)や項羽が、怒りに燃えた姿以上と思われます。近づくに従ってこの兵士らを見ると、身長七尺ばかりもある男で、髭は左右に分かれて生えており、まなじりは逆さに裂けています。

そして鎖帷子の上に鎧を重ねて着て、鉄製の脛当てと、太ももには同じく鉄製の膝鎧を着けています。また竜頭の飾りがついた兜を首にかけ、五尺あまりもある大刀を差し、八尺以上もあるかと思える、突起のついた八角の鉄棒を、手に持つ所だけ二尺ほど丸く加工して、

いかにも軽々と手に提げています。数千騎もいるかと思える六波羅勢は、彼ら四人の様子を見て、戦う前に三方に分かれて、引き退きました。彼ら四人は敵を手招きし大声で、「備中国の住人、頓宮又次郎入道、その子息孫三郎、田中藤九郎盛兼、同じく舎弟の弥九郎盛泰という者である。

我ら父子兄弟は少年の昔に、国の咎めを受けた身となり、山賊を生業として楽しく生きてきた。しかしながら、このたび幸いにも、このような騒乱が発生し、ありがたくも万乗の君、天皇の味方として陣に加えてもらったのである。ところが先に行われた合戦において、大した戦闘をすることもなく、

味方が負けてしまったこと、我らは恥と思っている。そこで今日はたとえ味方が負けて、退却することになっても我らは従う気がない。敵がいくら強いと言っても、程度があるだろう、敵の中央を突破して、六波羅殿に直接対面しようと考えているのだ」と、名乗った上、大きな口をたたいて、仁王立ちになったのでした。


島津安芸前司是を聞て、子息二人手の者共に向て云けるは、「日比聞及し西国一の大力とは是なり。彼等を討たん事大勢にては叶まじ。御辺達は且く外に引へて自余の敵に可戦。我等父子三人相近付て、進づ退つ且く悩したらんに、などか是を討たざらん。縦力こそ強くとも、身に矢の立ぬ事不可有。縦走る事早くとも、馬にはよも追つかじ。多年稽古の犬笠懸、今の用に不立ばいつをか可期。いで/\不思議の一軍して人に見せん。」と云侭に、唯三騎打ぬけて四人の敵に相近付く。田中藤九郎是を見て、「其名はいまだ知らねども、猛くも思へる志かな、同は御辺を生虜て、御方に成て軍せさせん。」とあざ笑て、件の金棒を打振て、閑に歩み近付く。島津も馬を静々と歩ませ寄て、矢比に成ければ、先安芸前司、三人張に十二束三伏、且し堅めて丁と放つ。其矢あやまたず、田中が石の頬前を冑の菱縫の板へ懸て、篦中許射通したりける間、急所の痛手に弱りて、さしもの大力なれども、目くれて更に進み不得。舎弟弥九郎走寄り、其矢を抜て打捨、「君の御敵は六波羅也。兄の敵は御辺也。余すまじ。」と云侭に、兄が金棒をゝつ取振て懸れば、頓宮父子各五尺二寸の太刀を引側めて、小躍して続ひたり。嶋津元より物馴たる馬上の達者矢継早の手きゝなれば、少も不騒、田中進で懸れば、あいの鞭を打て、押もぢりにはたと射。田中妻手へ廻ば、弓手を越て丁と射る。西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也。去程に嶋津が矢種も尽て、打物に成らんとしけるを見て、角ては叶はじとや思けん、朱雀の地蔵堂より北に引へたる小早河、二百騎にてをめいて懸りけるに、田中が後なる勢、ばつと引退ければ、田中兄弟、頓宮父子、彼此四人の鎧の透間内冑に、各矢二三十筋被射立て、太刀を逆につきて、皆立ずくみにぞ死たりける。見る人聞く人、後までも惜まぬ者は無りけり。

島津安芸前司はこの様子を見て、子息の二人と家来の者どもに向かって、「日頃聞いている西国一の大力持ちとは、この男どもだろう。彼らを討とうと思えば、大勢でかかっても駄目だろう。お前たちはここはかまわずに、ほかの敵と戦うが良い。

ここは我ら父子三人が彼らに近づき、押したり退いたりして相手になっている内に、討ち取る機会も生まれるだろう。たとえどんなに力が強かろうとも、体に矢が立たないはずはないし、どんなに走るのが速いと言っても、馬には間違いなく負けるだろう。

長年訓練してきた、犬を相手の笠懸(馬に乗って走りながら弓を射る競技)の腕を、今こそ発揮しなくていつ出来ると言うのだ。さぁ、さぁ一つ面白い戦いを演じて、皆に見せてやろう」と言うや、三騎だけが抜け出し、四人の敵に近づいて行きました。

この様子を見ていた田中藤九郎盛兼は、「貴様の名前はまだ知らないが、なかなか勇気のある人だな。同じなら貴様を生け捕りにした上、我らの味方として、戦わせてやりたいものだ」と、小馬鹿にしたように笑い、例の金棒を振り回しながら、静かに歩み寄ってきました。

島津も馬を静々と歩ませて近づき、射程距離に入った時、まず安芸前司が三人張りの弓に、十二束三伏(こぶし十二握りの幅に指三本の幅を加えた長さ)の矢を、しばらく矯めてピシッと放ちました。その矢は間違うことなく、兜の菱縫の板をつき抜け、田中盛兼の右の頬に、

矢の半分ほどまで射通したのです。急所に矢を受けたため、あれほどの大力の男でも、目がかすんで前に進むことが出来ません。そこへ弟の弥九郎が走り寄って、その矢を抜き捨て、「後醍醐殿の敵は六波羅で、兄の敵は貴様だ。生かしてはおけない」と言いながら、

兄の金棒を持つと、振り回しながらかかってきました。頓宮又次郎入道と子息の孫三郎の父子は、それぞれが五尺二寸の太刀を握り締め、踊りこむように後に続きました。島津安芸前司は、騎馬の戦闘には慣れた武者で、馬上での弓術も素晴らしので、少しも慌てることなく、

田中弥九郎盛泰が飛び掛ってくると、馬に鞭を入れ振り返りざまに矢を射ました。また田中が右手に回ったと見るや、左方向に回り込みチョッと射たのです。西国では名のある武術の達人と、北国においては二人と居ない、馬上の武術に優れた騎馬武者が、追いつ追われつの戦闘を、

他人を交えることなく戦い続けました。これは過去に例を見ない、素晴らしい一騎打ちでした。しばらくして、島津は矢が尽きてしまい、太刀に持ち替えようとしたのを見て、これでは島津は不利な戦いになると思ったのか、朱雀の地蔵堂の北側で待機していた小早川の軍勢、

二百騎が喚きながら駆け込んできました。この勢いに負けて、後方で田中を支えていた軍勢は、バッと引き退いてしまい、田中兄弟と頓宮の父子ら四人は、鎧の隙間や兜の内側などに、皆が皆、矢を二、三十本も射込まれて、太刀を杖代わりに突き刺し、立ったまま死んだのです。

この戦いの状況を見た人や、話を聞いた人で、後々まで、その死を惜しまない人はいませんでした。


美作国の住人菅家の一族は、三百余騎にて四条猪熊まで責入、武田兵庫助・糟谷・高橋が一千余騎の勢と懸合て、時移るまで戦けるが、跡なる御方の引退きぬる体を見て、元来引かじとや思けん。又向ふ敵に後を見せじとや恥たりけん。有元菅四郎佐弘・同五郎佐光・同又三郎佐吉兄弟三騎、近付く敵に馳双べ引組で臥したり。佐弘は今朝の軍に膝口を被切て、力弱りたりけるにや、武田七郎に押へられて頚を被掻、佐光は武田二郎が頚を取る。佐吉は武田が郎等と差違て共に死にけり。敵二人も共に兄弟、御方二人も兄弟なれば、死残ては何かせん。いざや共に勝負せんとて、佐光と武田七郎と、持たる頚を両方へ投捨て、又引組で指違ふ。是を見て福光彦二郎佐長・殖月彦五郎重佐・原田彦三郎佐秀・鷹取彦二郎種佐同時に馬を引退し、むずと組ではどうど落、引組では指違へ、二十七人の者共一所にて皆討れければ、其陣の軍は破にけり。播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗と申すは、薩摩氏長が末にて、力人に勝れ器量世に超たり。生年十二の春の比より好で相撲を取けるに、日本六十余州の中には、遂に片手にも懸る者無りけり。人は類を以て聚る習ひなれば、相伴ふ一族十七人、皆是尋常の人には越たり。されば他人の手を不交して一陣に進み、六条坊門大宮まで責入たりけるが、東寺・竹田より勝軍して帰りける六波羅勢三千余騎に被取巻、十七人は被打て、孫三郎一人ぞ残たりける。「生て無甲斐命なれども、君の御大事是に限るまじ。一人なりとも生残て、後の御用にこそ立め。」と独りごとして、只一騎西朱雀を指て引けるを、印具駿河守の勢五十余騎にて追懸たり。其中に、年の程二十許なる若武者、只一騎馳寄せて、引て帰りける妻鹿孫三郎に組んと近付て、鎧の袖に取着ける処を、孫三郎是を物ともせず、長肘を指延て、鎧総角を掴で中に提げ、馬の上三町許ぞ行たりける。此武者可然者のにてや有けん、「あれ討すな。」とて、五十余騎の兵迹に付て追けるを、孫三郎尻目にはつたと睨で、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて我に近付てあやまちすな。ほしがらばすは是取らせん。請取れ。」と云て、左の手に提げたる鎧武者を、右の手〔に〕取渡して、ゑいと抛たりければ、跡なる馬武者六騎が上を投越して、深田の泥の中へ見へぬ程こそ打こうだれ。是を見て、五十余騎の者共、同時に馬を引返し、逸足を出してぞ逃たりける。赤松入道は、殊更今日の軍に、憑切たる一族の兵共も、所々にて八百余騎被打ければ、気疲力落はてゝ、八幡・山崎へ又引返しけり。

美作国の豪族、菅家の一族は、三百余騎の軍勢で、四条猪熊まで攻め込み、武田兵庫助、糟谷、高橋らの千余騎の軍勢と合戦になり、数時間を戦いました。やがて後に続くべき味方が退却するのを見ましたが、菅家の軍勢は退却は元より考えてもいないし、

また向かってくる敵に背を見せることなど、恥と思っていました。有元菅四郎佐弘、同じく五郎佐光、同じく又三郎佐吉の兄弟三騎が、近づく敵に馬を駆け合わせ、引き落とし組み伏せました。佐弘は今朝の戦闘で膝を負傷して、体力が弱っていたのか、武田七郎に押さえつけられ、

首を切られてしまいました。また佐光は武田二郎の首を取りました。そして、佐吉は武田の家来と刺し違えて、共に死んでしまいました。敵の二人も共に兄弟であり、味方の二人も同じく兄弟ですから、ここで生き残っても仕方ないと、こうなればお互いここで勝負をしようと、

有元菅五郎佐光と武田七郎は、持っていた敵の首を、相手に向かって投げ捨て、組み合うや刺し違えました。これを見ていた、福光彦二郎佐長、殖月彦五郎重佐、原田彦三郎佐秀、鷹取彦二郎種佐らが、一緒になって六波羅軍に向かい馬を引き返し、

敵にむんずとつかみかかるとドウッと落ち、組み合っては刺し違え、二十七人の武士たちは皆ここで討たれてしまい、菅家の陣営はここの戦闘に負けたのです。播磨国の豪族、妻鹿孫三郎長宗という男は、薩摩氏長の子孫でその力は人に負けたこともなく、

また世間の評価も素晴らしいものでした。十二歳の頃より、好きな相撲が取っていましたが、日本六十余州の中では、ついに相手を勤まる者はいませんでした。人は類を持って集まるという言葉通り、彼に従う一族ら十七人全員、普通の人より体力に勝っていました。

という訳で、彼の軍勢は他の陣営とは別に、先駆けをして、六条坊門大宮まで攻め入ったのです。しかし、東寺や竹田での軍に勝ち、引き上げてくる六波羅勢、三千余騎に取り囲まれ、十七人が討ち取られ、孫三郎一人だけが生き残りました。

孫三郎は、「生きていても仕方のない命かもしれないが、君、後醍醐殿の倒幕の大事業は、この軍が全てではないはずだ。一人でも生き残って、後々のお役に立とうじゃないか」と、独り言をもらし、ただ一騎で西朱雀を目指して、引き上げようとした時、

印具駿河守の軍勢、五十余騎が追いかけてきました。その追撃軍の中で、二十歳ほどの若武者が、ただ一騎で駆け寄って来ると、退却中の妻鹿孫三郎に組もうと近寄り、鎧の袖を掴まえました。しかし孫三郎は問題にせず、肘を伸ばして、鎧の飾り紐を掴むと宙吊りにし、

そのまま馬を三町ばかり走らせました。この若武者はそれなりの身分ある者らしく、「彼を討たせるな」と、五十余騎の兵が、後を追いかけてくるのを、孫三郎は目だけ後ろに向けて睨みつけ、「敵にも色々いるぞ。一騎でもこの俺に近づいて後悔するな。

この男が欲しければやろう、受け取るが良い」と、言って左手に提げていた鎧武者を右手に持ち替え、エイッと放り投げました。鎧武者は後を追いかけていた、騎馬武者六騎の上を通り越して、深田の泥に姿が見えなくなるほど、めり込みました。

これを見た五十余騎の武者らは、一度に馬を返すと全速で逃げました。赤松入道は今日戦った軍で、疲れきった一族の兵士らを、あちこちで八百余騎も討たれてしまい、気力体力とも使い果たし、再び八幡、山崎まで引き上げたのです。


○主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事
京都数箇度の合戦に、官軍毎度打負て、八幡・山崎の陣も既に小勢に成りぬと聞へければ、主上天下の安危如何有らんと宸襟を被悩、船上の皇居に壇を被立、天子自金輪の法を行はせ給ふ。其七箇日に当りける夜、三光天子光を並て壇上に現じ給ければ、御願忽に成就しぬと、憑敷被思召ける。さらばやがて大将を差上せて赤松入道に力を合せ、六波羅を可攻とて、六条少将忠顕朝臣を頭中将に成し、山陽・山陰両道の兵の大将として、京都へ被指向。其勢伯耆国を立しまで、僅に千余騎と聞へしが、因幡・伯耆・出雲・美作・但馬・丹後・丹波・若狭の勢共馳加はて、程なく二十万七千余騎に成にけり。又第六の若宮は、元弘の乱の始、武家に被囚させ給て、但馬国へ被流させ給ひたりしを、其国の守護大田三郎左衛門尉取立奉て、近国の勢を相催し、則丹波の篠村へ参会す。大将頭中将不斜悦で、即錦の御旗を立て、此宮を上将軍と仰ぎ奉て、軍勢催促の令旨を被成下けり。四月二日、宮、篠村を御立有て、西山の峯堂を御陣に被召、相従ふ軍勢二十万騎、谷堂・葉室・衣笠・万石大路・松尾・桂里に居余て、半は野宿に充満たり。殿法印良忠は、八幡に陣を取。赤松入道円心は山崎に屯を張れり。彼陣と千種殿の陣と相去事僅に五十余町が程なれば、方々牒じ合せてこそ京都へは可被寄かりしを、千種頭中将我勢の多をや被憑けん。又独高名にせんとや被思けん、潛に日を定て四月八日の卯刻に六波羅へぞ被寄ける。

☆ 天皇自ら金輪法を修められたことと、千種殿が京都で合戦をされたこと

京都で行われた数回の合戦に、後醍醐の討幕軍は毎回敗戦を喫し、八幡、山崎の軍勢も多くを失い、今や僅かに残っているに過ぎないと聞き、後醍醐天皇は、このままでは天下の行方はどうなるのかと不安を持たれ、船上山の皇居に壇を設けて、天皇自ら金輪の法を行われました。

そして行の七日目の夜、三光天子(太陽、月、星)が、その光を輝かせながら、壇上に並んで現れましたので、祈願はすぐにでも成就されるのではと、頼もしく思われました。そこですぐに大将を派遣し、赤松入道と協力して、六波羅を攻めるのが良いだろうと、

六条少将千種忠顕朝臣を頭中将に任命し、山陽、山陰両道の軍勢の大将として、京都へ向かわせました。その軍勢は伯耆国を出発する時、僅か千余騎だと言われていましたが、因幡、伯耆、出雲、美作、但馬、丹後、丹波、若狭の軍勢らが駆けつけ、やがて二十万七千余騎になりました。

また後醍醐の第六の若宮、恒良親王は元弘の乱(1331年)の勃発当初、幕府に捕らえられて、但馬国に流罪となっていましたが、但馬国の守護、太田三郎左衛門尉守延が親王として敬意を表した上、近国の武士らに話しかけ軍勢を召集して、丹波篠村(亀岡市)で千種忠顕の軍勢と合流しました。

大将頭中将忠顕は大変お喜びになり、すぐに錦の御旗を立てると共に、この宮を総大将としてお迎えし、軍勢の更なる増強のため、令旨を下されました。元弘三年(1333年)四月二日、恒良親王は篠村をご出発になり、京都西方の西山にある峯堂を本陣としました。

宮に従う軍勢は二十万騎にのぼり、谷堂、葉室、衣笠(西京区)、万石大路(西京区)、松尾そして桂里まで軍勢で一杯になり、半数ほどは宿泊場所もなく、野宿の軍勢で溢れかえったのでした。殿法院良忠は八幡に陣を構え、赤松入道円心は、山崎を駐屯地としました。

彼らの陣営と千種殿の陣営とは、離れること僅か五十余町程度ですので、お互い連絡を取り合って、京都に攻め寄せなければいけないのに、千種頭中将は自分の率いる軍勢が多いことに、自信を持ちすぎたのか、あるいは手柄を、独り占めにしようと思われたのか、

相談もせずに日を定め、四月八日の卯の刻(午前六時頃)六波羅に向かって、攻め寄せたのでした。


あら不思議、今日は仏生日とて心あるも心なきも潅仏の水に心を澄し、供花焼香に経を翻して捨悪修善を事とする習ひなるに、時日こそ多かるに、斎日にして合戦を始て、天魔波旬の道を学ばる条難心得と人々舌を翻せり。さて敵御方の士卒源平互に交れり。無笠符ては同士打も有ぬべしとて、白絹を一尺づゝ切て風と云文字を書て、鎧の袖にぞ付させられける。是は孔子の言に、「君子の徳は風也。小人の徳は草也。草に風を加ふる時は不偃と云事なし。」と云心なるべし。六波羅には敵を西に待ける故に、三条より九条まで大宮面に屏を塗り、櫓を掻て射手を上て、小路々々に兵を千騎二千騎扣へさせて、魚鱗に進み、鶴翼に囲まん様をぞ謀りける。「寄手の大将は誰そ。」と問に、「前帝第六の若宮、副将軍は千種頭中将忠顕の朝臣。」と聞へければ、「さては軍の成敗心にくからず。源は同流也。といへども、「江南の橘、江北に被移て枳と成」習也。弓馬の道を守る武家の輩と、風月の才を事とする朝廷の臣と闘を決せんに、武家不勝と云事不可有。」と、各勇み進で、七千余騎大宮面に打寄て、寄手遅しとぞ待懸たる。去程に忠顕朝臣、神祇官の前に扣へて勢を分て、上は大舎人より下は七条まで、小路ごとに千余騎づゝ指向て責させらる。武士は要害を拵て射打を面に立て、馬武者を後に置たれば、敵の疼む所を見て懸出々々追立けり。官軍は二重三重に荒手を立たれば、一陣引けば二陣入替り、二陣打負れば三陣入替て、人馬に息を継せ、煙塵天を掠て責戦ふ。官軍も武士も諸共に、義に依て命を軽じ、名を惜で死を争ひしかば、御方を助て進むは有れども、敵に遇て退くは無りけり。

また何と非常識なことではありませんか。今日はお釈迦様の誕生日であり、思慮分別のある人は勿論、ない人でも仏像に香水(こうずい)を注ぎかけ、その香水に心を清めて、花を手向け焼香を行い、経を読誦することによって、古来より悪い行いを捨て、善行を修めることを願う日です。

日は多くあるのにかかわらず、本来なら慎むべき日に合戦を始めるとは、千種殿は天魔波旬(欲界最上位の天魔の名)から、教えを受けているのではないかと、人々は驚いたのです。ところで敵と味方の兵士には、源氏や平家が入り混じっているので、目印の笠標がなくては、

同士討ちの恐れもあると言うことで、白絹を一尺づつ切り、それに風と言う文字を書き付け、鎧の袖に縫い付けました。孔子の言葉に、「君子の徳は風であり、小人の徳は草である。草に風が当たるとき、なびかないことはない」とありますから、風の字を書き付けたのはその意味でしょう。

六波羅勢は、西方からの敵を待つことになりますから、三条大宮(中京区)から九条大宮(南区)まで、大宮通りに面して防禦塀を築き、櫓を設け射手をその上で待機させ、小路小路には、兵士を千騎から二千騎配置して、中央部を突出させて敵を分断したり、

両翼を広げて取り囲む戦法などを、作戦として採用していました。「寄せ手の大将は誰なのか」との質問に、「総大将は先帝後醍醐の第六の若宮で、副将軍は千種頭中将忠顕の朝臣です」と、返事があり、「となれば、合戦の結末は分かりきっている。千種の家系は村上天皇であり、

我ら鎌倉の北条家は桓武天皇である。元々は天皇家になるが世間には、『江南の橘を江北に移植して、カラタチとなった』と言う話もある。弓馬の技術を受け継ぎ、発展させてきた幕府の連中と、風月の才能にのみ、うつつを抜かす朝廷の朝臣とが戦えば、

幕府軍が負けることなどあるはずがない」と、全員が勇んで進攻を始め、七千余騎が大宮通りに展開して、寄せ手を今や遅しと待ち受けました。やがて忠顕朝臣は神祇官(諸国の官社を管理する。中央最高官庁)の前まで来ると進軍を一旦止めて、軍勢の配置決めを行いました。

北は大舎人(宮中で雑事にたずさわった下級役人用の建物)から南は七条まで、小路ごとに千余騎づつを向かわせ、攻撃に当たらせました。幕府の六波羅軍は要害を構築して、弓での攻撃を主にし、騎馬武者を後方に配置して、敵がひるんだ場所を狙って駆け込み、

また駆け込んで追い詰めました。それに対して、官軍の千種軍は二重三重に新手を用意し、一陣が引くとすぐに二陣が攻撃に移り、二陣が負けると、三陣に入れ替わるという具合に、人馬共に休憩する時間を与えて攻め続けたので、戦塵は舞い上がり、天を掠めるほどです。

官軍も六波羅軍も両者とも、人としての道義を重んじて、反対に命は軽んじ、名を惜しんでその死の華やかさを争って、戦いましたから、味方を助けんがために、進攻することはあっても、敵に遭遇して退く者などいませんでした。


角ては何可有勝負とも見へざりける処に、但馬・丹波の勢共の中より、兼て京中に忍て人を入置たりける間、此彼に火を懸たり。時節辻風烈く吹て、猛煙後に立覆ひければ、一陣に支へたる武士共、大宮面を引退て尚京中に扣へたり。六波羅是を聞て、弱からん方へ向けんとて用意を残し留たる、佐々木判官時信・隅田・高橋・南部・下山・河野・陶山・富樫・小早河等、五千余騎を差副て、一条・二条の口へ被向。此荒手に懸合て、但馬の守護大田三郎左衛門被打にけり。丹波国の住人荻野彦六と足立三郎は、五百余騎にて四条油小路まで責入たりけるを、備前国の住人、薬師寺八郎・中吉十郎・丹・児玉が勢共、七百余騎相支て戦けるが、二条の手被破ぬと見へければ、荻野・足立も諸共に御方の負して引返す。金持三郎は七百余騎にて、七条東洞院まで責入たりけるが、深手を負て引かねけるを、播磨国の住人肥塚が一族、三百余騎が中に取篭て、出抜て虜てげり。丹波国神池の衆徒は、八十余騎にて、五条西洞院まで責入、御方の引をも知らで戦けるを、備中国の住人、庄三郎・真壁四郎、三百余騎にて取篭、一人も不余打てげり。方々の寄手、或は被打或は被破て、皆桂河の辺まで引たれども、名和小次郎と小嶋備後三郎とが向ひたりける一条の寄手は、未引、懸つ返つ時移るまで戦たり。防は陶山と河野にて、責は名和と小嶋と也。小島と河野とは一族にて、名和と陶山とは知人也。日比の詞をや恥たりけん、後日の難をや思けん、死ては尸を曝すとも、逃て名をば失じと、互に命を不惜、をめき叫でぞ戦ひける。大将頭中将は、内野まで被引たりけるが、一条の手尚相支て戦半也。と聞へしかば、又神祇官の前へ引返して、使を立て小島と名和とを被喚返けり。彼等二人、陶山と河野とに向て、「今日已に日暮候ぬ。後日にこそ又見参に入らめ。」と色代して、両軍ともに引分、各東西へ去にけり。

このような戦況が続き、いつ勝負がつくのかと思われた時、但馬、丹波の軍勢の中から、前もって京中に潜ませていた忍びの者が、あちこちに火をかけ回りました。季節柄当時は巻くような風が激しく吹き荒れ、猛煙が後方から湧き上がるように覆ってきたので、

この場で防禦陣を張っていた幕府の軍勢も、大宮通りに向かって退却し、京都市内に陣を移しました。六波羅の幕営はこの状況を聞き、当初から脆弱な方面に加勢出来るよう、残しておいた佐々木判官時信、隅田、高橋、南部、下山、河野、陶山、富樫、小早川らに五千余騎を配属し、

一条、二条方面に向かわせました。この新手軍と戦った、但馬の守護太田三郎左衛門は、討たれてしましました。また丹波国の豪族、荻野彦六と足立三郎は五百余騎の軍勢で、四条油小路(中京区)まで攻め込みましたが、

備前国の豪族、薬師寺八郎、中吉十郎、丹、児玉らの軍勢ら七百余騎と、激しい戦闘になりました。しかし、二条方面に向かっていた千種軍の敗退を知り、荻野、足立も共に、ここは勝ち目なしと退却しました。そのほか金持三郎は七百余騎で七条東洞院(下京区)まで攻め込みましたが、

この戦場で重傷を負って、立ち往生しているところを、播磨国の豪族、肥塚の一族三百余騎に取り囲まれ、捕らわれてしまいました。そしてまた丹波国神池寺(春日町)の衆徒らは、八十余騎で五条西洞院(下京区)まで攻め込み、味方が退却したことも知らずに戦っていましたが、

備中国の豪族、庄三郎と真壁四郎の三百余騎に取り囲まれ、一人残さず討たれてしまいました。このように方々に向かっていた寄せ手軍は、ある者は討たれ、またある者は撃退されて、皆、桂川周辺まで引き上げました。しかしその中で、名和小次郎長生と小嶋備後三郎高徳が率いて、

一条通り方面に向かった寄せ手軍は、未だ引き上げもせずに、激しく数時間も戦っていました。防禦するのは陶山と河野であり、対して攻め込み側は名和と小嶋です。小嶋と河野は一族であり、名和と陶山は知人同士です。それだけに普段話している言葉に恥じないようにと、

また後日の災難を恐れたのか、死んで屍を晒すことがあっても、逃げて名を汚すことはしたくないと、お互い命を惜しむことなく、喚き散らして戦いました。大将頭中将千種忠顕は内野まで引き上げましたが、一条方面の名和、小嶋軍が未だ戦闘中であると聞き、再び神祇官の前まで引き返し、

使者を送って小嶋と名和を呼び戻しました。その時二人は陶山と河野に向かって、「今日はもはや日が暮れてしまった。しかし後日再びお目にかかろう」と、挨拶して戦闘を中止し、それぞれ東西に分かれて引き上げました。


夕陽に及で軍散じければ、千種殿は本陣峯の堂に帰て、御方の手負打死を被註に、七千人に余れり。其内に、宗と憑たる大田・金持の一族以下、数百人被打畢。仍一方の侍大将とも可成者とや被思けん、小嶋備後三郎高徳を呼寄て、「敗軍の士力疲て再び難戦。都近き陣は悪かりぬと覚れば、少し堺を阻て陣を取り、重て近国の勢を集て、又京都を責ばやと思ふは、如何に計ふぞ。」と宣へば、小嶋三郎不聞敢、「軍の勝負は時の運による事にて候へば、負るも必しも不恥、只引まじき処を引かせ、可懸所を不懸を、大将の不覚とは申也。如何なれば赤松入道は、僅に千余騎の勢を以て、三箇度まで京都へ責入、叶はねば引退て、遂に八幡・山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢縦ひ過半被打て候共、残所の兵尚六波羅の勢よりは多かるべし。此御陣後は深山にて前は大河也。敵若寄来らば、好む所の取手なるべし。穴賢、此御陣を引かんと思食す事不可然候。但御方の疲れたる弊に乗て、敵夜討に寄する事もや候はんずらんと存候へば、高徳は七条の橋爪に陣を取て相待候べし。御心安からんずる兵共を、四五百騎が程、梅津・法輪の渡へ差向て、警固をさせられ候へ。」と申置て、則小嶋三郎高徳は、三百余騎にて、七条の橋より西にぞ陣を堅めたる。千種殿は小嶋に云恥しめられて、暫は峯の堂におはしけるが、「敵若夜討にや寄せんずらん。」と云つる言に被驚て、弥臆病心や付給ひけん、夜半過る程に、宮を御馬に乗せ奉て、葉室の前を直違に、八幡を指てぞ被落ける。

やがて夕方になって戦闘も中断になったので、千種殿は本陣としている峯堂に帰り、味方勢の負傷者や、討ち死にした者たちを記録してみると、七千人以上にもなっていました。その中に一番頼りとしていた太田、金持の一族以下、数百人も戦死してしまっていました。

こうなれば児嶋備後三郎高徳を、一方の侍大将にさせようと考え、呼び寄せると、「軍に負けて兵士らも疲労が激しく、再び合戦を行うことは難しい。都近くに陣を構えているのは、戦略上よろしくないと考えるので、少し距離を置いて陣を構え、再度近国の軍勢を呼び集め、

それから京都に攻め込もうと考えるが、この案どう思うか」と、仰せられましたが児嶋三郎は聞こうともせず、「軍における勝敗は時の運であり、負けたからといって、何も恥じることはありません。しかし、退いてはいけないところを退いたり、攻めるべき時に攻めないことこそ、

大将としての才覚が無いと言うことです。赤松入道は、僅か千余騎の軍勢で、三度も京都に攻め込み、戦闘が不利になり退却はしましたが、どうしていまだに八幡、山崎の陣を去っていないのでしょうか。味方の軍勢が、たとえ半数以上を討たれたと言っても、

残った兵士はまだ六波羅の軍勢に勝っています。それにここの陣営は、後ろは山深く、前は大河です。敵がもし寄せて来るなら、それは望むところであり、返り討ちにしましょう。ここは決して、陣を引き上げることなど、お考えになってはなりません。ただし、

わが軍の兵士らが疲れていることに乗じて、敵が夜討ちを仕掛けてくることも考えられるので、この高徳は七条の橋詰に陣を構え、待ち構えましょう。そこで千種殿の方でも、信頼出来る兵士ら四、五百騎ほどを、梅津(右京区)、法輪寺(右京区)の渡し周辺に向かわせ、

警戒をされるように」と言い残し、児嶋三郎高徳はすぐ三百余騎を率いて、七条の橋より西方に陣を構えました。千種殿は児嶋に侮辱的な苦言を言われ、しばらくは峯堂に留まっていましたが、「もしかすると敵は夜討ちを仕掛けてくるかも知れない」と言った言葉に驚いて、

ますます臆病風に吹かれたのか、夜半を過ぎる頃、恒良親王を御馬に乗せて、葉室の前を斜めに横切って、八幡を目指して落ちて行きました。


備後三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜深方に峯の堂を見遣ば、星の如に耀き見へつる篝火次第に数消て、所々に焼すさめり。是はあはれ大将の落給ひぬるやらんと怪て、事の様を見ん為に、葉室大路より峯の堂へ上る処に、荻野彦六朝忠浄住寺の前に行合て、「大将已に夜部子刻に落させ給て候間、無力我等も丹後の方へと志て、罷下候也。いざゝせ給へ、打連れ申さん。」と云ければ備後三郎大に怒て、「かゝる臆病の人を大将と憑みけるこそ越度なれ。さりながらも、直に事の様を見ざらんは後難も有ぬべし。早御通り候へ。高徳は何様峯の堂へ上て、宮の御跡を奉見て追付可申。」と云て、手の者兵をば麓に留て只一人、落行勢の中を押分々々、峯の堂へぞ上りける。大将のおはしつる本堂へ入て見れば、能遽て被落けりと覚へて、錦の御旗、鎧直垂まで被捨たり。備後三郎腹を立てゝ、「あはれ此大将、如何なる堀がけへも落入て死に給へかし。」と独り言して、しばらくは尚堂の縁に歯嚼をして立たりけるが、「今はさこそ手の者共も待かねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗許を巻て、下人に持せ、急ぎ浄住寺の前へ走り下り、手の者打連て馬を早めければ、追分の宿の辺にて、荻野彦六にぞ追付ける。荻野は、丹波・丹後・出雲・伯耆へ落ける勢の、篠村・稗田辺に打集まて、三千余騎有けるを相伴、路次の野伏を追払て、丹波国高山寺の城にぞ楯篭りける。

備後三郎はこんなことになっているとは思いもせず、深夜になって峯堂の方角を見ると、星のように多数輝いて見えた篝火は、徐々に消えて行き、所々燃え尽きてしまったようです。これはもしかすると、大将が落ちて行ったのかと疑い、事実を確認するために、

葉室大路から峯堂に上ろうとしたところ、荻野彦六朝忠と浄住寺の前で出会い、「千種大将は、すでに夜中の十二時頃落ちて行かれました。仕方なく我らも丹後の方にでも、行こうかとしているところです。どうですかご一緒に、お連れ致しましょうか」と、話しました。

聞いた備後三郎は激怒し、「こんな臆病な者を大将と頼んだのが、大失敗だった。とは言っても、直接自分の目で事実を確かめないうちは、間違いもあるかも知れない。貴殿はどうかかまわず撤退してください。この高徳はとにかく峯堂に上って、

恒良親王の落ちられた後を確認してから、追いかけましょう」と言って、部下の兵士らを麓に残し、ただ一人で落ちていく軍勢を、押し分け掻き分け、峯堂に上って行きました。大将が居られた本堂に入って見ると、よほど慌てて落ちられたらしく、錦の御旗や鎧直垂までも捨てられていました。

備後三郎は腹を立てて、「あの馬鹿大将め、何処でも良いから、堀でも崖からでも落ちて死んでしまえ」と、独り言を言いながら、なおしばらくは堂の縁側で、歯ぎしりをしながら立っていました。しかし、「そろそろ下では、皆の者たちも待ちくたびれているだろう」と思い、

錦の御旗だけを巻くと下人に持たせて、急いで浄住寺の前に走って下りると、家来たちを引き連れ、馬を急がせたところ、追分宿(亀岡市)の辺で荻野彦六に追いつきました。荻野は丹波、丹後、出雲、伯耆などに落ちていく武士らを、

篠村(亀岡市)、稗田(亀岡市)あたりで集めた三千余騎を引き連れて、途中、野武士などを追い払いながら、丹波国の高山寺(氷上町)の城に、立て篭もりました。


○谷堂炎上事
千種頭中将は西山の陣を落給ひぬと聞へしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て、仏閣神殿を打破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運取て後、在家に火を懸たれば、時節魔風烈く吹て、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て、仏像・神体・経論・聖教、忽に寂滅の煙と立上る。彼谷堂と申は八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人造立の霊地也。此上人幼稚の昔より、武略累代の家を離れ、偏に寂寞無人の室をと給し後、戒定慧の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神坐列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法手を束て奉仕し給ふ。かゝる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流清く、法燈光明也。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。奇樹怪石の池上には、都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引く。恰も極楽浄土の七宝荘厳の有様も、角やと覚る許也。又浄住寺と申は、戒法流布の地、律宗作業の砌也。釈尊御入滅の刻、金棺未閉時、捷疾鬼と云鬼神、潛に双林の下に近付て、御牙を一引■て是を取る。四衆の仏弟子驚見て、是を留めんとし給ひけるに、片時が間に四万由旬を飛越て、須弥の半四天王へ逃上る。韋駄天追攻奪取、是を得て其後漢土の道宣律師に被与。自尓以来相承して我朝に渡しを、嵯峨天皇御宇に始て此寺に被奉安置。偉哉大聖世尊滅後二千三百余年の已後、仏肉猶留て広く天下に流布する事普し。かゝる異瑞奇特の大加藍を無咎して被滅けるは、偏に武運の可尽前表哉と、人皆唇を翻けるが、果して幾程も非ざるに、六波羅皆番馬にて亡び、一類悉く鎌倉にて失せける事こそ不思議なれ。「積悪の家には必有余殃」とは、加様の事をぞ可申と、思はぬ人も無りけり。

☆ 谷堂が炎上したこと

千種頭中将忠顕は西山に構えていた陣から、落ちて行かれたと情報が流れ、翌日の元弘三年(1333年)四月九日に、京中の六波羅勢は谷堂、峯堂をはじめ、浄住寺、松尾、万石大路、葉室、衣笠など一帯に乱入して、仏閣や神殿などを破壊し、

また僧坊から民家まで没収した上、財宝など全て運び去ってから、民家に放火しました。放たれた火は、この時節にありがちな強風にあおられ、浄住寺、最福寺、葉室、衣笠、二尊院など、全部で社寺の建物三百余ヶ所、民家五千棟が一時に灰燼となり、

寺社に保存されていた、仏像、神体、経論、聖教などが瞬く間に、煙となって消滅してしまいました。その中でも谷堂と呼ばれるものは、八幡太郎義家殿の嫡男である、対馬守源義親の嫡孫、延朗上人が造営した霊地と言われています。

この延朗上人は幼い昔の頃に、代々続いている武家を離れ去り、徹底して俗世間とも縁を切り、戒定慧(仏道修行に必要な三つの大切な事柄。悪を止める戒と、心の平静を得る定と、真実を悟る慧)の三文字の教えを実践して、六根清浄(六根::眼耳鼻舌身意::から生じる迷いを断って、清らかな身になること)を求めて、

善行を積んできましたから、彼が法華経を読誦する時、その窓の前には、松尾の明神が居並んで耳を傾けましたし、また真言密教の秘密の法門の扉の中では、髪を左右に分けた護法童子(仏法を守護するため働く童子姿の鬼神)が、一心不乱に奉仕していました。

これほど知識を積み、高い徳を実践される上人が、創建された場所ですから、五百余年の年月を経て、道徳、人情が衰えた末世だと言われる今でも、煩悩を洗い流す知恵の水は清く流れ、仏法を守る法灯の光は輝き続けています。

三間四面(奈良時代から鎌倉時代頃まで使用されていた、建築概略の表現方法)の一切経用の回転書架のある経蔵には、釈迦が今まさに、仏法を説いておられるかのように、七千余巻の経典が収められています。珍しい木々や、珍奇な石が配置された池には、

兜率天(六欲天の第四天)の中でも、弥勒菩薩が住まわれると言う内院を移し、四十九の楼閣が並んでいます。十二の欄干には海や山から産出された美しい玉を、天の神々に捧げています。また五重の塔は、月の光を受けて、金銀のように輝いています。

その有様は極楽浄土が七宝(七種の宝::金、銀、瑠璃、玻璃、しゃこ、珊瑚、瑪瑙)で飾り付けられているのも、このようなものではないかと思われるほどです。また浄住寺というお寺は、仏が制定した戒律としての法を、広げるための地であり、その戒律を忠実に守り、実行する場所でもあります。

釈尊が亡くなられる時、黄金製の棺がまだ閉じられていないうちに、捷疾鬼と言う鬼がこっそりと沙羅双樹の下に近づき、釈尊の犬歯を一本引き抜きました。比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四部衆がこれを見て驚き、止めようとしましたが、

捷疾鬼は一瞬に四万由旬(古代インドの距離単位::一由旬は牛車一日の行程)を飛び越え、須弥山の中腹にある、四天王のおられる場所まで逃げました。しかし韋駄天が追いかけて、これを奪い返し、後に漢国の律宗の僧侶、道宣律師に与えられました。

それ以来代々受け継がれて、やがて我が国に伝来し、嵯峨天皇の御代に始めて、この浄住寺に安置されることとなりました。なんと素晴らしいことでしょうか、偉大なる聖者釈尊がお亡くなりになって、二千三百年がすでに過ぎているのにかかわらず、

釈尊の肉体の一部が、今なおこの世に留まって、天下の隅々まで広がり続けています。このように未来を予言するかのような不思議なしるしや、超人間的な霊力を持っている大伽藍を、何らの過ちもないのに滅ぼし去るとは、これはとりもなおさず、

幕府の運命が尽きようとしていることの表れだと、人々は話していましたが、なるほどそれから間もなく、六波羅の連中は皆が皆、滋賀県の番場で滅び去り、一族は揃って鎌倉で命を失うことになるとは、不思議なめぐり合わせです。      (終)

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