9 太平記 巻第九 (その一)


○足利殿御上洛事
先朝船上に御坐有て、討手を被差上、京都を被責由、六波羅の早馬頻に打て、事既に難儀に及由、関東に聞へければ、相摸入道大に驚て、さらば重て大勢を指上せて半は京都を警固し、宗徒は舟上を可責と評定有て、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人を被催。其中に足利治部大輔高氏は、所労の事有て、起居未快けるを、又上洛の其数に入て、催促度々に及べり。足利殿此事に依て、心中に被憤思けるは、「我父の喪に居て三月を過ざれば、非歎の涙未乾、又病気身を侵して負薪の憂未休処に、征罰の役に随へて、被相催事こそ遺恨なれ。時移り事変じて貴賎雖易位、彼は北条四郎時政が末孫也。人臣に下て年久し。我は源家累葉の族也。王氏を出て不遠。此理を知ならば、一度は君臣の儀をも可存に、是までの沙汰に及事、偏に身の不肖による故也。所詮重て尚上洛の催促を加る程ならば、一家を尽して上洛し、先帝の御方に参て六波羅を責落して、家の安否を可定者を。」と心中に被思立けるをば、人更に知事無りけり。相摸入道は、可斯事とは不思寄、工藤左衛門尉を使にて、「御上洛延引不被心得。」一日の中両度までこそ被責けれ。足利殿は反逆の企、已に心中に被思定てげれば、中々異儀に不及、「不日に上洛可仕。」とぞ被返答ける。則夜を日に継で被打立けるに、御一族・郎従は不及申、女性幼稚の君達迄も、不残皆可有上洛と聞へければ、長崎入道円喜怪み思て、急ぎ相摸入道の方に参て申けるは、「誠にて候哉覧。足利殿こそ、御台・君達まで皆引具し進せて、御上洛候なれ。事の体怪く存候。加様の時は、御一門の疎かならぬ人にだに、御心被置候べし。況乎源家の貴族として、天下の権柄を捨給へる事年久しければ、思召立事もや候覧。異国より吾朝に至まで、世の乱たる時は、覇王諸候を集て牲を殺し血を啜て弐ろ無らん事を盟ふ。今の世の起請文是也。或は又其子を質に出して、野心の疑を散ず。木曾殿の御子、清水冠者を大将殿の方へ被出き。加様の例を存候にも、如何様足利殿の御子息と御台とをば、鎌倉に被留申て、一紙の起請文を書せ可被進とこそ存候へ。」と申ければ、相摸入道げにもとや被思けん。

☆ 足利殿が都に上られたこと

先帝後醍醐が伯耆国、船上山に皇居を構えられ、幕府に対して追討軍を派遣し、京都に攻め寄せている旨、六波羅より早馬がしきりに鎌倉に向けて発せられ、事態はすでに急を要する状態であると、鎌倉幕府でも問題になりました。

報告を聞いた相模入道北条高時は大変驚き、ならば更に多数の軍勢を都に派遣し、その半数は京都の警備に当たり、その他の主だった軍勢は、船上山を攻撃するようにと会議で決定しました。その決定に従い、名越尾張守高家を大将にして、

外様の大名二十人に召集をかけました。その中の足利治部大輔高氏は病床にあって、未だに床上げも出来ずにいましたが、上洛軍として出兵を命じられ、催促を度々受けていました。足利殿はこの催促に対して、内心穏やかでなく、

「我が父(足利貞氏)が亡くなってまだ三月も経たず、悲しみの涙も乾いていない状態である。その上病気に体が侵され、体調の不安(負薪の憂::自分の病気を謙遜して言う言葉)が拭いきれないのに、征伐軍に従軍せよと、召集を受けるとは、恨めしいことではある。

時代が変わり、世の中の状況も変化し、今までは考えられなかった、貴賎の入れ替わりなどが、起こり得るとは言っても、相模入道高時は北条四郎時政の子孫である。北条家は平氏であり、桓武天皇(在位::781年-806年)から臣籍に降下して、かなりの年月が過ぎているが、

私も源家累代の一族であり、清和天皇(在位::858年-876年)から臣籍に降下して、平氏ほど時間は経っていない。この理屈に照らしてみると、一度は君と臣の関係で、召集されるのも仕方ないが、ここまでしつこく催促されるのは、我が身が不甲斐ないからであろう。

この上尚も上洛を催促する気なら、一家一族を挙げて上洛し、先帝後醍醐の味方に駆けつけ、六波羅を攻め落として、我が家の安泰を図ろう」と、心中深く覚悟を決めたのですが、他の人々は彼のこの決心を、知ることはありませんでした。

相模入道も彼のこの決心など知る由もなく、工藤左衛門尉を使者にして、「何故、上洛が遅れているのだ、理由が分からない」と、一日に二度も足利高氏を詰問しました。しかしすでに足利殿は、幕府に反逆する意思を、心中深く決めていますから、

かえって反抗する様子は見せず、「近日中に上洛します」と、返事しました。そして早速その夜遅くまで、上洛の準備にかかりましたが、一族や家来たちは言うまでもなく、女性や子供たちも残らず、上洛するらしいと噂があり、聞いた長崎入道円喜は不審に思って、

急いで相模入道に面会すると、「一体どういう事なのでしょうか。足利殿は、奥様やお子達まで全員を率いて、御上洛するそうです。これは少し怪しく思われます。足利殿が北条家と縁に繋がる人であっても、御用心されるべきでしょう。

いわんや源家の嫡流の家系が、天下において権力を失ってから、長い年月が経過した今、何か思い立つことがあるのかも知れません。外国でも我が国でも、世の中が乱れた時、支配者は諸侯を呼び集め、生贄を殺してその血をすすり、二心の無いことを誓わせたものです。

今の世に照らしてみれば、起請文がそれにあたるでしょう。或いは子供を人質として、差し出すことより、野心に対する疑いを晴らしました。たとえば木曾義仲殿も我が子、清水冠者を源頼朝殿に差し出されました。このような過去の例を考えてみても、

ここは何としても、足利殿の御子息と奥様は、鎌倉に留め置くことを命じ、一枚の起請文を、書かせることが肝要だと考えます」と、申し上げました。そして、相模入道も同意されました。


頓て使者を以て被申遣けるは、「東国は未だ世閑にて、御心安かるべきにて候。幼稚の御子息をば、皆鎌倉に留置進せられ候べし。次に両家の体を一にして、水魚の思を被成候上、赤橋相州御縁に成候、彼此何の不審か候べきなれ共、諸人の疑を散ぜん為にて候へば、乍恐一紙の誓言を被留置候はん事、公私に付て可然こそ存候へ。」と、被仰たりければ、足利殿、欝胸弥深かりけれ共、憤を押へて気色にも不被出、「是より御返事を可申。」とて、使者をば被返てげり。其後舎弟兵部大輔殿を被呼進て、「此事可有如何。」と意見を被訪に、且く案じて被申けるは、「今此一大事を思食立事、全く御身の為に非ず、只天に代て無道を誅し、君は御為に不義を退んと也。其上誓言は神も不受とこそ申習はして候へ。設ひ偽て起請の詞被載候共、仏神などか忠烈の志を守らせ給はで候べき。就中御子息と御台とは、鎌倉に留置進せられん事、大儀の前の少事にて候へば、強に御心を可被煩に非ず。公達未だ御幼稚に候へば、自然の事もあらん時は、其為に少々被残置郎従共、何方へも抱拘へて隠し奉り候なん。御台の御事は、又赤橋殿とても御坐候はん程は、何の御痛敷事か候べき。「大行は不顧細謹」とこそ申候へ。此等程の少事に可有猶予あらず。兎も角も相摸入道の申さん侭に随て其不審を令散、御上洛候て後、大儀の御計略を可被回とこそ存候へ。」と被申ければ、足利殿此道理に服して、御子息千寿王殿と、御台赤橋相州の御妹とをば、鎌倉に留置奉りて、一紙の起請文を書て相摸入道の方へ被遣。相摸入道是に不審を散じて喜悦の思を成し、高氏を招請有て、様々賞翫共有しに、「御先祖累代の白旌あり、是は八幡殿より代々の家督に伝て被執重宝にて候けるを、故頼朝卿の後室、二位の禅尼相伝して、当家に今まで所持候也。希代の重宝と申ながら、於他家に、無其詮候歟。是を今度の餞送に進じ候也。此旌をさゝせて、凶徒を急ぎ御退治候へ。」とて、錦の袋に入ながら、自ら是をまいらせらる。其外乗替の御為にとて、飼たる馬に白鞍置て十疋、白幅輪の鎧十領、金作の太刀一副て被引たりけり。足利殿御兄弟・吉良・上杉・仁木・細川・今河・荒河・以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合其勢三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立、大手の大将と被定、名越尾張守高家に三日先立て、四月十六日に京都に着給ふ。

そこで急遽、足利家に使者を立てて、「ここ東国はまだまだ治安は安定しており、何も心配することなどありません。小さいお子様などは皆、鎌倉に残し置くように。次に我が北条家と足利家は、運命共同体とも言うべき関係で、水と魚のように切り離すことの出来ない仲であります。

その上我らの一族、赤橋相模守守時殿のご親戚であれば、何ら不審を抱くことなど不要でありますが、他の人々が持たれている疑いを晴らす意味でも、恐縮ではございますが、一通の誓書を書き残していただくと、幕府に対する公と、親族に対する私的な処置として、

納得出来ると思いますが」と、伝えさせました。聞いていた足利殿は、腹が立って仕方ありませんが、怒りを抑え顔色も変えずに、「あとでご返事をします」と言って、使者を帰されました。その後、弟の兵部大輔足利直義殿を呼び、

「この命令、一体どうすれば良いだろうか」と、意見を求めました。直義はしばらく考えてから、「今、幕府討滅の一大事業を思い立たれたのは、全く我が身の利益を求めてではなく、ただ天に代わって、幕府の悪行を懲らしめ、後醍醐殿に対する、

不義不忠の人間を追い払うためでしょう。その上、誓言は神も受け付けないとか言います。たとえ偽りの起請文を書いたとしても、神仏がどうして、忠義心に燃えた我らの志を、お守りして下さらないことがありましょうか。また御子息と奥様を鎌倉に残すことは、

大事の前の小事とも思えますので、特別気にかけることなどないでしょう。御子息はまだまだ幼いので、もしもの時のために家来を少しばかり残され、いざとなれば、すぐ抱きかかえてどこかへ身を隠すように計らい、また奥様のことは、赤橋殿が鎌倉に居られる以上、

何もご心配することはないでしょう。『大事業を成就するには、些細なことにこだわるな』とも、言うではございませんか。これら些細なことに、ぐずぐずしている場合ではないと思います。とにかくここは相模入道の言うとおり、不審を解いてから京都の上られ、

その後大事な倒幕計画を、お進めになることが肝要かと考えます」と、お答えしました。足利高氏殿もこの説明に納得し、御子息の千寿王殿と、奥様の赤橋相模守の妹君を鎌倉に残した上、一枚の起請文を書き相模入道に届けました。

これによって相模入道は、不審を解いて大いに喜び、高氏を招待して色々もてなした上、「ここに先祖伝来の白旗がある。この旗は八幡太郎源義家殿より、代々源家の嫡男が相続し、家宝となっている物であるが、故源頼朝殿の奥様、二位の禅尼政子殿が相続し、

この北条家が今まで保管していたものである。源家にとっては貴重な宝物とは言っても、他家の者にとっては特に価値がある物でもない。そこでこの旗を、この度の出陣へのはなむけとして、源家の貴殿に進呈しよう。この旗を掲げて、

早急に逆賊を征伐してください」と、錦の袋に入った旗を、自ら手渡されました。またそれ以外にも、乗り換え用として、相模入道の屋敷にて飼育している馬に、前輪などを銀で包んだ白鞍を置いた馬十頭と、銀で装飾された鎧十領に黄金製の太刀一振りを添えて、

引き出物として贈られました。足利殿の御兄弟、吉良、上杉、仁木、細川、今川、荒川以下、御一族の者三十二人と、名越高家の一族四十三人を合わせ、総勢三千余騎が、元弘三年(1333年)三月二十七日に鎌倉を出発し、大手軍の大将に任命され、

名越尾張守高家より三日早い、四月十六日に京都に到着しました。


○山崎攻事付久我畷合戦事
両六波羅は、度々の合戦に打勝ければ、西国の敵恐るに不足と欺きながら、宗徒の勇士と被憑たりける結城九郎左衛門尉は、敵に成て山崎の勢に加りぬ。其外、国々の勢共五騎十騎、或は転漕に疲て国々に帰り、或は時の運を謀て敵に属しける間、宮方は負れ共勢弥重り、武家は勝共兵日々に減ぜり。角ては如何可有と、世を危む人多かりける処に、足利・名越の両勢叉雲霞の如く上洛したりければ、いつしか人の心替て今は何事か可有と、色を直して勇合へり。かゝる処に、足利殿は京着の翌日より、伯耆の船上へ潛に使を進せて、御方に可参由を被申たりければ、君殊に叡感有て、諸国の官軍を相催し朝敵を可御追罰由の綸旨をぞ被成下ける。両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかゝる企有とは思も可寄事ならねば、日々に参会して八幡・山崎を可被責内談評定、一々に心底を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也。人心好悪苦不常。」とは云ながら、足利殿は代々相州の恩を戴き徳を荷て、一家の繁昌恐くは天下の肩を可並も無りけり。其上赤橋前相摸守の縁に成て、公達数た出来給ぬれば、此人よも弐はおはせじと相摸入道混に被憑けるも理也。四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、兼てより被定ければ、名越尾張守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より被向。足利治部大輔高氏は、搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける。八幡・山崎の官軍是を聞て、さらば難所に出合て不慮に戦を決せしめよとて、千種頭中将忠顕朝臣は、五百余騎にて大渡の橋を打渡り、赤井河原に被扣。結城九郎左衛門尉親光は、三百余騎にて狐河の辺に向ふ。赤松入道円心は、三千余騎にて淀・古河・久我畷の南北三箇所に陣を張。是皆強敵を拉気、天を廻し地を傾と云共、機を解き勢を被呑とも、今上の東国勢一万余騎に対して可戦とはみへざりけり。足利殿は、兼て内通の子細有けれ共、若恃やし給ふ覧とて、坊門少将雅忠朝臣は、寺戸と西岡の野伏共五六百人駆催して、岩蔵辺に被向。

☆ 山崎攻撃と久我畷合戦のこと

南北の六波羅軍は度々の合戦に、勝利を収めていますから、西国の敵など恐れるものではないと、馬鹿にしていました。しかし、その六波羅では主力と考えて頼りにしていた勇者、結城九郎左衛門尉親光が宮方に寝返り、山崎の赤松勢に加わりました。

そのほかにも、諸国の軍勢などで、五騎、十騎といった兵士らが、ある者は兵糧運搬に疲れて、国元に帰ったり、またある者は時勢を考えて、宮方に寝返ったりしましたから、宮方は戦争には負け続けていますが、軍勢は増えていくという結果になり、

反対に幕府軍は、勝利を収めても軍勢は日々減少していきました。これでは一体どうなるのかと、先行きを不安に思う人々が、多くなってきた時に、足利、名越の両軍勢が、雲霞のごとく大勢、上洛してきましたから、やがて人々は安心し、

これで何も心配することなどないと、お互い士気を高め合っていました。しかし皆が考えているのとは別に、足利殿は京都に到着した翌日から、伯耆国、船上山の御所に、密かに使者を派遣し、味方として参陣したい旨、申し上げましたから、

先帝後醍醐殿の喜びは一通りでなく、諸国の官軍に対して追討軍を編成し、朝敵を追討すべきとの綸旨を下されました。南北両六波羅の陣営も、名越尾張守高家にしても、足利殿がこのような計画を持っているとは思いもよらず、日々参会しては、

八幡、山崎への攻撃作戦について密談を重ね、何もかも包み隠さず話し合っていたのですから、これほど愚かな話はありません。「太行山(中国北部の山地)の険しい道は、よく車を砕くと言うが、人の心と比べれば、そんなに険しい道でもないだろう。

また巫峡(中国長江三峡の二番目の峡谷)の急流は、よく航行する舟を転覆させると言うが、人の心と比較すれば、それほどの急流ではなく、穏やかなものである。人の心の中でも、人に対する愛憎の気持ちほど、不安定で変わりやすいものはない」とは言いますが、

足利殿は先祖代々、相模守北条殿の恩顧を受け、その恩恵も大きなものであり、一家の繁栄にしても、おそらくこの世間で、肩を並べることの出来る家もないでしょう。その上、前相模守赤橋守時殿の妹君を奥方にして、子供たちも数多く生まれていますから、

この足利殿が、二心を持つことなど決して無いと信じきって、頼りにされてきたのも当然のことです。元弘三年(1333年)四月二十七日には、八幡、山崎の敵軍と、合戦を行うことに決まっていましたから、名越尾張守を大手軍の大将として、

七千六百余騎を率いて鳥羽の作道(伏見区)より、八幡に向かって南下しました。足利治部大輔高氏は搦手軍の大将として、五千余騎で西岡(向日市)より八幡、山崎方面に向かいました。それに対して八幡、山崎に展開している官軍の赤松、千種軍は敵のこの進軍を聞いて、

それでは敵を進退不自由な場所に待ち構えて、一気に勝敗を決してやろうと考え、千種頭中将忠顕朝臣は五百騎を率いて、大渡の橋を渡って、赤井河原(伏見区)に布陣しました。また宮方に寝返った、結城九郎左衛門尉親光は三百余騎にて、

狐河の周辺に進軍しました。そして赤松入道円心は三千余騎を率いて淀、古河(伏見区)、久我畷(伏見区)方面の南北三ヶ所に布陣しました。赤松軍の兵士らは強敵を迎え、六波羅勢など何するものぞと、士気だけは天を回し、地をも傾けんばかりですが、

詳しく両軍の戦闘能力や、軍勢の状況を分析してみると、現在展開している東国勢の一万騎に向かって、まともな戦闘など出来るとは思えません。足利殿は以前より、官軍に内通しているのではと思われていますが、あまりに期待してもと考え、

坊門少将雅忠朝臣は寺戸と西岡の野武士ら五、六百人を集めて岩倉(向日市)方面に向かいました。


去程に搦手の大将足利殿は、未明に京都を立給ぬと披露有ければ、大手の大将名越尾張守、「さては早人に先を被懸ぬ。」と、不安思ひて、さしも深き久我畷の、馬の足もたゝぬ泥土の中へ馬を打入れ、我先にとぞ進みける。尾張守は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。花段子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく着下して、白星の五枚甲の吹返に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透して打たるを猪頚に着成し、当家累代重宝に、鬼丸と云ける金作の円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を帯き添、たかうすべ尾の矢三十六指たるを、筈高に負成、黄瓦毛の馬の太く逞きに、三本唐笠を金具に磨たる鞍を置き、厚総の鞦の燃立許なるを懸け、朝日の陰に耀して、光渡てみへたるが、動ば軍勢より先に進出て、当りを払て被懸ければ、馬物具の体、軍立の様、今日の大手の大将は是なめりと、知ぬ敵は無りけり。されば敵も自余の葉武者共には目を不懸、此に開き合せ彼に攻合て、是一人を打んとしけれども、鎧よければ裏かゝする矢もなし。打物達者なれば、近付敵を切て落す。其勢ひ参然たるに辟易して、官軍数万の士卒、已に開き靡きぬとぞ見へたりける。

そうこうしている内に、搦手の大将足利殿が、未明に京都を出発されたと連絡が入ると、大手を受け持っている大将、名越尾張守高家は、「これはいかん、先を越されるかもしれない」と、不安を感じ、あの久我畷の馬の足も立たないと言う、深い泥土の中に馬を駆け入れると、

我先に進みました。尾張守は元々血気にはやった若者ですから、今回の合戦には皆の度肝を抜くほどの功を上げ、名を上げてやろうと以前から考えていました。そこでその日の出で立ちからして、馬の鞍や装飾、また笠印までを、あたりを輝かすばりに飾りつけていました。

その様子は、花模様を織り出した緞子地を、濃い紅に染め上げた鎧直垂に、紫の糸で嚇し多数の金具をつけた鎧を、一分の隙も見せずに着用していました。また五枚の銀製の星を兜の吹き返し(兜の下部、生地が後ろに反った所)に付け、

日天子、月天子(太陽、月を神格化した神話の神)のお二人を、金と銀で透かし彫りにした兜を、あみだにかぶり、名越家に代々伝わる家宝、鬼丸と名付けられた黄金製で、断面が楕円形に近い鞘に入った太刀と、三尺六寸の太刀をもう一振り、佩用していました。

そしてまだら部分の多い矢羽が付いた矢を、三十六本差した箙を、矢の後方部分が良く見えるように背負って、黄瓦毛(黄白色でたてがみ、下肢、ひずめが黒いもの)の色で、大きく逞しそうな馬に、三本の唐傘を図案化したものを、金具に磨きだした鞍を乗せていました。

また馬には大きな房で飾った、燃えるような締緒を各所に使い、それらが朝日に光り輝き、まるで光が動いているように見えます。しかし、動くと他の軍勢より前に進み出ようとし、周りを払いのけるように駆けますから、馬や馬具の造りや、

全体の陣立ての様子などから、今日の大手軍の大将であることを、敵が気づかないことはありません。だから敵もその他の端武者どもには目もかけず、こちらでは展開して戦おうとし、向こうの方でも兵士らが攻撃し、彼一人を討ち取ろうとしましたが、

立派な鎧ですので、裏まで届く矢もありません。また武術にも優れていますから、近づく敵を次々と斬り伏せていきました。その鮮やかな戦いぶりに手を上げ、数万の官軍は将士ともども、すでに戦闘力が衰えてきたように見えました。


爰に赤松の一族に佐用佐衛門三郎範家とて、強弓の矢継早、野伏戦に心きゝて、卓宣公が秘せし所を、我物に得たる兵あり。態物具を解で、歩立の射手に成、畔を伝ひ、薮を潛て、とある畔の陰にぬはれ臥、大将に近付て、一矢ねらはんとぞ待たりける。尾張守は、三方の敵を追まくり、鬼丸に着たる血を笠符にて推拭ひ、扇開仕ふて、思ふ事もなげに扣へたる処を、範家近々とねらひ寄て引つめて丁と射る。其矢思ふ矢坪を不違、尾張守が冑の真甲のはづれ、眉間の真中に当て、脳を砕骨を破て、頚の骨のはづれへ、矢さき白く射出たりける間、さしもの猛将なれ共、此矢一隻に弱て、馬より真倒にどうど落、範家箙を叩て矢呼を成し、「寄手の大将名越尾張守をば、範家が只一矢に射殺したるぞ、続けや人々。」と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。尾張守の郎従七千余騎、しどろに成て引けるが、或は大将を打せて何くへか可帰とて、引返て討死するもあり。或は深田に馬を馳こうで、叶はで自害するもあり。されば狐河の端より鳥羽の今在家まで、其道五十余町が間には、死人尺地もなく伏にけり。

その時赤松入道の一族に、佐用左衛門三郎範家と言う、強弓を操っては次々と矢を繰り出し、野武士相手の戦闘に巧みで、また卓宣公の秘術をも、体得したと言う兵士がいました。彼はわざと鎧兜を脱ぎ捨て、徒立ちの弓兵に姿を変えると、

畦を伝い藪に身を潜めて進み、とある畦の陰にかくれながら、身を低くして前進し、大将名越尾張守に近づき、矢で狙いうちにしようと、待ち受けました。尾張守は三方の敵どもを、追いまくった後、太刀の鬼丸に付いた血を、笠印で力を入れて拭い、

手にした扇を開いてあおぎながら、所在なげにたたずんでいました。そこを範家は近々と這い寄り、一杯に引き絞リチョウッと射ました。矢は狙い通り、尾張守の兜の真正面を少し下、眉間の真ん中に命中し、脳を砕き頭蓋骨を突き抜け、首の骨をかすめ、

矢の先を白く見せて、反対側に突き出ていました。さすがの猛将も、一本のこの矢傷には耐えられず、馬よりまっ逆さまに、ドウッと落ちました。範家は箙を叩きながら大声を出し、「寄せ手の大将、名越尾張守を、この範家がただの一矢で射殺したぞ、

皆の者、続けや」と、呼ばわりましたから、すでに退却気分だった官軍も、これに刺激され、三方より勝鬨を上げ、再び攻めかかりました。対して尾張守の家来ら、七千余騎は秩序を失って、退却にかかり始めましたが、ある者は大将を討ち取られては、

何処に帰ればよいのかと、引き返し討ち死にする者や、またある者は、深田に馬を駆け入れてしまい、観念して自害をする者もいました。という訳で、狐河のはずれから、鳥羽の今在家まで、五十余町の道筋は、地面も見えないほど、死者であふれました。


○足利殿打越大江山事
追手の合戦は、今朝辰刻より始まて、馬煙東西に靡き、時の声天地を響かして攻合けれ共、搦手の大将足利殿は、桂河の西の端に下り居て、酒盛してぞおはしける。角て数刻を経て後、大手の合戦に寄手打負て、大将已に被討ぬと告たりければ、足利殿、「さらばいざや山を越ん。」とて、各馬に打乗て、山崎の方を遥の余所に見捨て、丹波路を西へ、篠村を指て馬を早められけり。爰に備前国の住人中吉十郎と、摂津国の住人に奴可四郎とは、両陣の手合に依て搦手の勢の中に在けるが、中吉十郎大江山の麓にて、道より上手に馬を打挙て、奴可四郎を呼のけて云けるは、「心得ぬ様哉、大手の合戦は火を散て、今朝の辰刻より始りたれば、搦手は芝居の長酒盛にてさて休ぬ。結句名越殿被討給ぬと聞へぬれば、丹波路を指して馬を早め給ふは、此人如何様野心を挿給歟と覚るぞ。さらんに於ては、我等何くまでか可相従。いざや是より引返て、六波羅殿に此由を申ん。」と云ければ、奴可四郎、「いしくも宣ひたり。我も事の体怪しくは存じながら、是も又如何なる配立かある覧と、兎角案じける間に、早今日の合戦には迦れぬる事こそ安からね。但此人敵に成給ぬと見ながら、只引返したらんは、余に云甲斐なく覚ゆれば、いざ一矢射て帰らん。」と云侭に、中差取て打番、轟懸てかさへ打て廻さんとしけるを、中吉、「如何なる事ぞ。御辺は物に狂ふか。我等僅に二三十騎にて、あの大勢に懸合て、犬死したらんは本意歟。嗚呼の高名はせぬに不如、唯無事故引返て、後の合戦の為に命を全したらんこそ、忠義を存たる者也けりと、後までの名も留まらんずれ。」と、再往制止ければ、げにもとや思けん、奴可四郎も中吉も、大江山より馬を引返して、六波羅へこそ打帰りけれ。彼等二人馳参て事の由を申ければ、両六波羅は、楯鉾とも被憑たりける名越尾張守は被討ぬ。是ぞ骨肉の如くなれば、さりとも弐はおはせじと、水魚の思を被成つる足利殿さへ、敵に成給ぬれば、憑む木下に雨のたまらぬ心地して、心細きに就ても、今まで着纒ひたる兵共も、又さこそはあらめと、心の被置ぬ人もなし。

☆ 足利殿が大江山を越えられたこと

大手方面の合戦は、今朝の辰刻(午前八時頃)から始まり、走り回る馬の立てる土ぼこりは、東西になびき、閧の声を天地に響き渡らせて、死力を尽くして戦いましたが、搦手軍の大将足利殿は、桂川西岸の河原で、酒盛りをしていました。

やがて数時間が経った頃、大手方面の合戦では、寄手の名越尾張守軍が負け、大将もすでに討たれたと報告があり、足利殿は、「では、そろそろ山を越えようではないか」と、めいめいが馬に乗り、山崎方向を遥かかなたに見捨てて、

丹波路を西に向かい篠村(亀岡市)をめざして、馬を急がせました。この搦手軍の戦列に加わっていた備前国の豪族、中吉十郎と攝津国の豪族、奴可四郎の二人は、寄手軍の編成の関係上、搦手軍に配属されていましたが、中吉十郎が大江山の麓で道を外れ、

高台に馬を進めると奴可四郎を呼び、「少し訳が分からない。大手方面では火花を散らす激しい合戦が、今朝の辰刻(午前八時頃)より始まっているのに、搦手軍は河原の芝生で長時間酒盛りして、休憩していた。その挙句、名越殿が討たれたと聞くや、

丹波路をめざして馬を早められるとは、この人は間違いなく、何らかの野心を持っていると思える。そうならば、我らはいつまでも従ってはおれない、ここから引き返して六波羅殿に、この事情を報告しよう」と、話されました。また奴可四郎も、「よく言ってくださった。

私もこの事態に不審は感じていながら、これもまた何か戦略があってのことかと、色々考えていたのだ。しかし、もはや今日の合戦には、加わることが出来ず、残念に思っている。だけどこの人が寝返って、敵となったのを知りながら、ただ引き返すだけでは、

あまりにも情けなく思える。一矢など射込んでから、引き返そうか」と言いながら、箙から矢を抜くと弓に番えて、馬をまわして駆け出そうとするのを、中吉は、「何をしようとするのだ、貴殿は気が狂ったのか。我ら僅か二、三十騎の人数で、足利の大軍に掛かっていって、

犬死するのを望んでいるのか。つまらない功名など考えないことだ。今はただ、無事にここから引き返し、今後の合戦に備えて命を保つ方が、忠義を持った人間だと、後々までその名を残すことになるだろう」と、繰り返し引き止めたので、

奴可四郎も確かにそうかもしれないと考え直し、中吉との二人は大江山から馬を引き返し、六波羅に戻りました。彼ら二人はすぐに六波羅の陣営に参り、引き返してきた事情を報告しました。この報告に、南北の両六波羅陣営は、

最も頼りとしていた名越尾張守は討たれてしまい、また肉親であればまさか二心など持つはずもないと水と魚の切れない関係を信じていた足利殿までが、敵に寝返ったとなれば、雨宿りに頼った木が、水をも止めてくれないような気持ちになり、

心細さが募って、今まで従って来た兵士らも、まさかそのようなことは無いだろうとは思うものの、心の落ち着きを持てる人もいません。


○足利殿着御篠村則国人馳参事
去程に、足利殿篠村に陣を取て、近国の勢を被催けるに、当国の住人に久下弥三郎時重と云者、二百五十騎にて最前に馳参る。其旗の文、笠符に皆一番と云文字を書たりける。足利殿是を御覧じて、怪しく覚しければ、高右衛門尉師直を被召て、「久下の者共が、笠璽に一番と云を書たるは、元来の家の文歟、又是へ一番に参りたりと云符歟。」と尋給ければ、師直畏て、「由緒ある文にて候。彼が先祖、武蔵国の住人久下二郎重光、頼朝大将殿、土肥の杉山にて御旗を被揚て候ける時、一番に馳参じて候けるを、大将殿御感候て、「若我天下を持たば、一番に恩賞を可行。」と被仰て、自一番と云文字を書てたび候けるを、頓其家の文と成て候。」と答申ければ、「さては是が最初に参りたるこそ、当家の吉例なれ。」とて、御賞翫殊に甚しかりけり。元来高山寺に楯篭りたる足立・荻野・小島・和田・位田・本庄・平庄の者共許こそ、今更人の下風に可立に非ずとて、丹波より若狭へ打越て、北陸道より責上らんとは企けれ。其外久下・長沢・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部、其外近国の者共、一人も不残馳参りける。篠村の勢無程集て、其数既に二万三千余騎に成にけり。

☆ 足利殿が篠村にお着きになるとすぐに、領国の人々が駆けつけたこと

さて、足利殿は篠村に陣を構えてから、近隣の国々に、軍勢の召集をかけたところ、丹波国の豪族で久下弥三郎時重と言う者が、二百五十騎を率いて一番に駆けつけました。彼の軍勢が掲げている旗や、笠標に皆、一番という文字が書かれていました。

足利殿はこれをご覧になって不思議に思ったのか、高右門衛尉師直をお呼びになり、「あの久下の者たちが笠標に一番と言う文字を書き付けているのは、元来の家紋なのか、それともここへ一番最初に、駆けつけたという意味なのか」と、お尋ねになりました。

師直は謹んで、「あれは由緒正しい文字でございます。彼の先祖である武蔵国の豪族、久下二郎重光は、源頼朝大将が土肥(湯河原町)の杉山にて、平家討伐の旗揚げをなされた時、一番に駆けつけられたことを、頼朝大将は非常に感激され、

『もし私が天下を支配することが出来たなら、貴殿には一番最初に恩賞を与えよう』と仰せられ、自ら筆を取って、一番と言う文字をお書きになって、彼にお渡しになられました。そこで早速その文字を家紋にされたのです」と、お答えになりました。

足利殿は、「では今回、彼が一番に駆けつけたと言うことは、当家にとっても吉例ではないか」と、大変な喜ばれようでした。以前から丹波の高山寺に立て篭もっていた、足立、荻野、児嶋、和田、位田、本庄、平庄の者たちは篠村に駆けつけ、

今更、人の支配下に入ることもないだろうと、丹波から若狭を越えて、北陸道から都に攻め込む作戦を立てました。そのほかでは、久下、長沢、志宇知、山内、葦田、余田、酒井、波賀野、小山、波々伯部や、その他近国の武士たちは、一人残さず駆けつけました。

篠村の軍勢は着々と集まり、すでにその数、二万三千余騎になりました。


六波羅には是を聞て、「さては今度の合戦天下の安否たるべし。若自然に打負る事あらば、主上・々皇を取奉て、関東へ下向し、鎌倉に都を立て、重て大軍を揚、凶徒を可追討。」と評定有て、去る三月より北方の館を御所にしつらひ、院内を行幸成奉らる。梶井二品親王は天台座主にて坐ば、縦転反すとも、御身に於ては何の御怖畏か可有なれ共、当今の御連枝にて坐ば、且は玉体に近付進せて、宝祚の長久をも祈申さんとにや、是も同く六波羅へ入せ給ふ。加之国母・皇后・女院・北政所・三台・九卿・槐棘・三家の臣・文武百司の官・並竹園門徒の大衆・北面以下諸家の侍・児、女房達に至まで我も々もと参集ける間、京中は忽にさびかへり、嵐の後の木葉の如く、己が様々散行ば、白河はいつしか昌て、花一時の盛を成せり。是も幾程の夢ならん、移り変る世の在様、今更被驚も理也。「夫天子は四海を以て為家」といへり。其上六波羅とても都近き所なれば、東洛渭川の行宮、さまで御心を可被令傷には非ざれども、此君御治天の後天下遂に不穏、剰百寮忽に外都の塵に交りぬれば、是偏に帝徳の天に背きぬる故也。と、罪一人に帰して主上殊に歎被思召ければ、常は五更の天に至まで、夜のをとゞにも入せ給はず、元老智化の賢臣共を被召て、只■舜湯武の旧き迹をのみ御尋有て、会て怪力乱神の徒なる事をば不被聞食。

篠村で起こっている、この状況を聞いた六波羅では、会議を開き、「こうなると、この度は天下の沈静化か、それとも騒乱の継続か、分け目の合戦となるだろう。もし万が一にでも負けることがあれば、光厳天皇、後伏見上皇をお連れし、

関東に下って鎌倉に新しく都を立て、その上再び武士に召集をかけ、大軍を編成して兇徒どもを追討しよう」との、結論になりました。天皇、上皇は、去る元弘三年(1333年)三月より、六波羅北方の舘を御所として整え、御遷りになっていただいています。

梶井の二品親王(尊胤法親王)は、比叡山延暦寺の天台座主であられるので、たとえ世の中がひっくり返っても、身の安全には、何も心配することはありませんが、光厳天皇の縁に繋がるお方ですから、何かと天皇のお傍にお仕えし、皇位が幾久しく、

安泰であることを祈っていただきたく、同じく六波羅にお入りになられました。またこの、お三方以外にも、皇太后、皇后、女院(内親王?)、北政所(摂政関白の奥方)、三台(太政大臣と左、右の大臣)、九卿(諸公卿)、槐棘(宮廷に関係のある人?)

三家(太政大臣まで上りうる三つの家柄)の家来、文武の諸役所の役人、その他皇族らが信仰している寺院の衆徒、また院を警備する武士たち以下、それぞれの家に仕えている武士や子供達、女性らまでが、我も我もと六波羅に集まってきましたから、

京都の市中は急に寂れてしまいました。また住民たちも、嵐の後の木の葉のように、各自が勝手気ままに散って行きました。しかし、六波羅のある白河周辺は、いつの間にか花が一時に咲いたような、賑やかさになりました。このような有様は、

何か夢でも見ているのか、移り変わる世の中を、今更ながら目にして、驚くのも当然でしょう。「天皇たる者は、天下をもって我が家とする」と、言います。まして六波羅と言っても御所の近くであり、中国であれば渭川とも言うべき、都の東部を流れる鴨川近くの行宮ですから、

それほどまでお心を痛めることもないのです。しかし、この光厳天皇が即位されてからは、天下に騒動が続き、一向に治まる気配がありません。まして宮中に仕えたり、政務の中枢を司る人々が、宮中以外の地で生きざるを得ないのも、天皇にすれば全て自分自身に、

天子としての徳や行いが、天の意向にそっていないからだと、一人で罪をかぶって苦しんでおられました。そのためいつも明け方近くまで、寝室に入られることもなく、優秀な老臣や賢臣などを呼ばれて、ただただ古代中国における、過去の政治について質問され、

理性で説明のつかない、不可思議な現象や騒乱などのことは、決してお聞きにはなりませんでした。


卯月十六日は、中の申なりしか共、日吉の祭礼もなければ、国津御神も浦さびて、御贄の錦鱗徒に湖水の浪に撥辣たり。十七日は中の酉なれども、賀茂の御生所もなければ、一条大路人すみて、車を争ふ所もなし。銀面空しく塵積て、雲珠光を失へり。「祭は豊年にも不勝、凶年にも不減」とこそいへるに、開闢以来無闕如両社の祭礼も、此時に始て絶ぬれば、神慮も如何と測難く、恐有べき事共也。さて官軍は五月七日京中に寄て、合戦可有と被定ければ、篠村・八幡・山崎の先陣の勢、宵より陣を取寄て、西は梅津・桂里、南は竹田・伏見に篝を焼、山陽・山陰の両道は已に如此。又若狭路を経て、高山寺の勢共鞍馬路・高雄より寄るとも聞也。今は僅に東山道許こそ開たれども、山門猶野心を含める最中なれば、勢多をも指塞ぎぬらん。篭の中の鳥、網代の魚の如くにて、可漏方もなければ、六波羅の兵共、上には勇める気色なれ共、心は下に仰天せり。彼雲南万里の軍、「戸に有三丁抽一丁」といへり。況や又千葉屋程の小城一を責んとて、諸国の勢数を尽して被向たれ共、其城未落先に禍既に蕭牆の中より出て、義旗忽に長安の西に近付ぬ。防がんとするに勢少なく救はんとするに道塞れり。哀れ兼てよりかゝるべしとだに知たらば、京中の勢をばさのみすかすまじかりし物をと、両六波羅を始として後悔すれ共甲斐ぞなき。兼々六波羅に議しけるは、「今度諸方の敵牒合て、大勢にて寄るなれば、平場の合戦許にては叶まじ。要害を構て時々馬の足を休め、兵の機を扶て、敵近付ば、懸出々々可戦。」とて、六波羅の館を中に篭て、河原面七八町に堀を深く掘て鴨川を懸入たれば、昆明池の春の水西日を沈て、■淪たるに不異。残三方には芝築地を高く築て、櫓をかき双べ、逆木を重く引たれば、城塩州受降城も角やと覚へてをびたゝし。誠に城の構は、謀あるに似たれ共智は長ぜるに非ず。「剣閣雖高憑之者蹶。非所以深根固蔕也。洞庭雖浚負之者北。非所以愛人治国也。」とかや。今已に天下二つに分れて、安危此一挙に懸たる合戦なれば、粮を捨て舟を沈る謀をこそ致さるべきに、今日より軈て後足を蹈で纔の小城に楯篭らんと、兼て心をつかはれける、武略の程こそ悲しけれ。

卯月(四月)十六日は二番目の申の日ですが、日吉神社の祭礼も行われず、そのため国津御神(地に現われた神々の総称)も物悲しく見え、神々に生贄として供えるはずだった、錦のような鱗をした魚たちが、琵琶湖の波打つ水に飛び跳ねています。

また四月十七日は二番目の酉の日ですが、賀茂別雷神社のお祭り(賀茂の祭りの三日前の夜行われる祭典)もありませんし、そのため一条大路も人は少なく、通る車も少なければ、道を争うこともありません。賀茂神社の使者が使用する唐鞍用の、銀めっきを施した馬具も、

空しくほこりにまみれ、同じく唐鞍の装飾に用いる、金銅の火炎形の内に納められた宝珠も、その光を失っています。「祭礼と言うものは豊年であっても、例年よりも派手になってはならぬし、反対に凶作だからと言って、例年に比べ質素になってはいけない」と、

言われているのに、始まって以来、いまだかつて中止になったことのない、日吉神社と賀茂神社の祭礼も、この時初めて中止となり、一体神様のお気持ちは、如何なものだろうと、推し量ることも出来ず、ただ恐れ多いことです。

ところで、元弘三年(1333年)五月七日、官軍は京都市中に攻め寄せ、もはや合戦は免れないことが確実になり、篠村、八幡、山崎の先鋒部隊は、夕方から陣を構え始め、西は梅津、桂里、南は竹田、伏見に篝火を燃やし、山陽道と山陰道は、すでに閉鎖されました。

また若狭路経由の高山寺の軍勢も、鞍馬(左京区)、高雄(右京区)を経由して、攻め寄せて来ると、言われています。こうなれば今はただ東山道(東海道と北陸道に挟まれた地帯)だけが、僅かに開放されているのですが、比叡山延暦寺の大衆も、野心のあるやなしや、

はっきりしませんから、瀬田(大津市)の橋も閉鎖されるかもしれません。まるで六波羅勢は篭の中の鳥か、網にかかった魚のようなもので、逃れる方法も考え付かず、兵士らは表面上士気は盛んですが、その実内心はびくびくしていました。

かの国、中国の雲南省遠くの軍隊では、「一家に男子が三人いれば、その内の一人を兵士として召集する」と、言われています。幕府にしても、千早のちっぽけな城を攻めるのに、諸国から軍勢をかき集めて、向かわせたのにもかかわらず、

未だにその城も落とすことが出来ずにいる内に、一族の中から思いがけなく問題が発生し、官軍の旗はもうすでに都の西に近づいています。防御に努めようにも軍勢が乏しく、救援に向かおうとしても、街道を閉鎖されている有様です。

情けない話ですが、このようなことを予想出来ていたならば、京都の軍勢をこれほど割くのではなかったと、南北の六波羅をはじめ皆が後悔しましたが、今更仕方ありません。以前から六波羅の戦術として、「今度、諸方面の敵どもが、しめし合わせ大勢で寄せて来たならば、

障害物のない平地での合戦では、勝ち目はない。要害を構築して、馬を時々休ませながら、軍の機微をうかがい、敵が近づいてきたなら、駆け出し駆け出して戦闘を行う」と、申し合わせていました。そこで六波羅の建物の中にこもり、

鴨川の河原に面した七、八町ほどの長さに、堀を深く掘って、そこへ鴨川の水を流し込みました。それは、昆明池(雲南省昆明南方の湖)の春、湖水に西日が沈み、さざなみ立つ、と言う風景に変わりありません。残る三つの方面には、芝を植えた土塁を高く築き、

その上に櫓を建て並べ、逆茂木を何重にも設けましました。この城の様子は、中国の塩州(西魏により設置された西安州が前身、後改名)にある受降城(突厥の攻撃を防ぐため構築した城)と同じように、士気高々なものでした。(城塩州は解明不能)確かに城の構えに関して、

戦術は感じられますが、戦略と言う面では、劣っているようです。「剣閣(漢中から成都への途中にある要衝の地)はいかに険しい所と言えども、それに頼る者は失敗する。我が身の根元を、固めようとしないからだ。洞庭湖(湖南省北東部にある淡水湖)は人を思うように行動させないが、

これに頼った者は敗北する。それは人民を愛し、国を治めようとしないからだ」とか、言います。今や天下はすでに二分し、幕府の興廃はこの一戦にありと、考えられる合戦であれば、兵糧米など捨て、我が乗る舟をも沈める位な覚悟と、戦略を持つべきなのに、

今日早くも尻込みをして、小さな城程でもない建物に、立て篭もろうとなどと、すでに決めていたとは、本当に武略も何もあったものでなく、情けない限りです。


○高氏被篭願書於篠村八幡宮事
去程に、明れば五月七日の寅刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して、篠村の宿を立給ふ。夜未だ深かりければ、閑に馬を打て、東西を見給ふ処に、篠村の宿の南に当て、陰森たる故柳疎槐の下に社壇有と覚て、焼荒たる燎の影の風なるに、宜祢が袖振鈴の音幽に聞へて神さびたり。何なる社とは知ねども、戦場に赴く門出なればとて、馬より下て甲を脱て、叢祠の前に跪き、「今日の合戦無事故、朝敵を退治する擁護の力を加へ給へ。」と祈誓を凝してぞ坐ける。時に賽しける巫に、「此社如何なる神を崇奉りたるぞ。」と問ひ給ければ、「是は中比八幡を遷し進らせてより以来、篠村の新八幡と申候也。」とぞ答申ける。足利殿、「さては当家尊崇の霊神にて御坐しけり。機感最も相応せり。宜きに随て一紙の願書を献ばや。」と宣ひければ、疋壇妙玄、鎧の引合より矢立の硯を取出して、筆を引へて是を書。

☆ 足利高氏が篠村八幡宮に願書を持って篭られたこと

さて元弘三年(1333年)五月七日の寅刻(午前四時頃)に、足利治部大輔高氏朝臣は二万五千余騎を率いて、篠村の宿営を出発されました。まだ夜も深いので、静かに馬を進めながら、左右を眺め回していたところ、篠村の宿営南方で樹木が生い茂り、

薄暗い場所に何か社殿があるらしく、燃え残ったかがり火のようなものも見え、禰宜の振る鈴の音がかすかに聞こえ、神秘的な雰囲気のするところがありました。神社の名前は知りませんが、今から戦場に向かう門出でもあり、馬を下りて兜を脱ぐと、

草深い祠の前にひざまずき、「今日の合戦を無事に果たし、朝敵を追討出来るように、我が軍援護のお力を、頂きたくお願いします」と、座って祈願に集中されました。その時礼拝に訪れた神官に、「このお社は何の神様を祭られているのですか」と、質問されると、

「このお社は、河内の誉田八幡宮の神霊を勧請してから、篠村の新八幡と呼ばれています」と、答えられました。足利殿は、「では、足利家が崇める神が鎮座されているわけだ。神は私の心の動きを感じ取られ、導こうとされているのだろう。

ちょうど良い機会なので、一枚の願書を納めて、祈願をすることにしよう」と、仰せられ、疋田妙玄が鎧の隙間から携帯用硯と筆を取り出し、願文を書きました。


其詞に曰敬白祈願事夫以八幡大菩薩者、聖代前列之宗廟、源家中興之霊神也。本地内証之月、高懸于十万億土之天、垂迹外融之光、明冠於七千余座之上。触縁雖分化、聿未享非礼之奠、垂慈雖利生、偏期宿正直之頭。偉哉為其徳矣。挙世所以尽誠也。爰承久以来、当棘累祖之家臣、平氏末裔之辺鄙、恣執四海之権柄、横振九代之猛威。剰今遷聖主於西海之浪、困貫頂於南山之雲。悪逆之甚前代未聞。是為朝敵之最。為臣之道不致命乎。又為神敵之先。為天之理不下誅乎。高氏苟見彼積悪、未遑顧匪躬、将以魚肉菲、偏当刀俎之利、義卒勠力、張旅於西南之日、上将軍鳩嶺、下臣軍篠村。共在于瑞籬之影、同出乎擁護之懐。函蓋相応。誅戮何疑。所仰百王鎮護之神約也。懸勇於石馬之汗。所憑累代帰依之家運也。寄奇於金鼠之咀。神将与義戦耀霊威。徳風加草而靡敵於千里之外、神光代剣而得勝於一戦之中。丹精有誠、玄鑒莫誤矣。敬白元弘三年五月七日源朝臣高氏敬白とぞ読上たりける。

その祈願書には、

敬って祈願したいことを申し上げます。考えて見ますに八幡大菩薩は、累代皇室の先祖をお祭りする、霊廟であります。また源家においては、その中興にお力を下さった、霊験あらたかな神でもあります。仏や菩薩が衆生に、悟りを説かんと願うお気持ちは、

月となって極楽浄土(十万億土)の天に高くかかり、衆生救済のため、お姿を現された八幡神のお心は、わが国七千余の悟りの座に、光となって降り注いでいます。神は縁に触れて、何かとご利益を与えて下さいますが、礼を失した者からの、

寄進やお供物は、未だお受けになったことはありません。仏や菩薩が衆生に慈悲の心をもって、ご利益をもたらすといっても、それは真っ正直な人の上にこそ、与えられるものであり、その徳は何と素晴らしいものでしょうか。世の人々がこぞって、

誠の心をもって尽くす所以です。ここに承久(1219-1221年)の年以来、まさに我が源家代々の家臣であった平家、その子孫である野蛮人が政権を握るや、日本国中の実権をほしいままに私物化し、九代にわたりその猛威を振るってきました。

それだけでなく、今上天皇、後醍醐を西海の波の果て、隠岐の島に遷し奉り、また天台座主、護良親王を高野山の雲のかなたに、苦しめられています。その悪逆無道の行いは、まさに前代未聞の極みであります。これらの行為は朝敵としても、最悪のものであり、

我ら朝臣として今取るべき道は、命を惜しむことなく戦うことであります。また神に対する敵対行為の極みでもあり、天の真理にのっとって、誅罰を下さずにおけるものではありません。この高氏は彼らの悪行を見るにつけ、我が身を顧みることなく、

主君のために忠節を尽くさんがため、ここに魚肉の如く非才な私が、まな板に乗り、鋭利な刃物に立ち向かう意気込みを持って、義軍はその力を合わせて、都の西南に陣を構えました。総大将である宮様は、男山八幡宮に陣を構え、臣である私は、

篠村に義兵を集結しました。共に八幡宮の霊験ある境内に抱かれて、共に神のご加護を頂いて出陣し、互いに呼応して戦端を開けば、朝敵の誅伐が出来ぬことなどあるはずがありません。ここに謹んで願い奉ることは、百代の帝をお守りして下さると言う、

神様のお約束でございます。勇猛なる馬の奮闘と、我ら先祖代々崇めてきた、八幡神に守られた、源家の運を頼みとしています。黄金の鼠が、敵を撃破したという奇瑞を期待し、神が我らの義戦に、光り輝く神の威徳を与えて下さって、

神の徳が風となって草をなびかせるように、千里のかなたの敵までを、我らに従うようにしてください。神の威光が剣に乗り移り、この一戦に勝利を得させたまえ。心からの誠実な気持ちを捧げて祈願致します。我らのこの行いを、見間違うことのないようにお願い致します。

以上謹んで申し上げます。元弘三年(1333年)五月七日源朝臣高氏敬白と、書かれていました。


文章玉を綴て、詞明かに理濃なれば、神も定て納受し御坐す覧と、聞人皆信を凝し、士卒悉憑を懸奉けり。足利殿自筆を執て判を居給ひ、上差の鏑一筋副て、宝殿に被納ければ、舎弟直義朝臣を始として、吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉、以下相順ふ人々、我も々もと上矢一づゝ献りける間、其箭社壇に充満て、塚の如くに積挙たり。夜既に明ければ前陣進で後陣を待。大将大江山の峠を打越給ける時、山鳩一番飛来て白旗の上に翩翻す。「是八幡大菩薩の立翔て護らせ給ふ験也。此鳩の飛行んずるに任て可向。」と、被下知ければ、旗差馬を早めて、鳩の迹に付て行程に、此鳩閑に飛で、大内の旧迹、神祇官の前なる樗木にぞ留りける。官軍此奇瑞に勇で、内野を指て馳向ける道すがら、敵五騎十騎旗を巻き甲を脱で降参す。足利殿篠村を出給し時は、僅に二万余騎有しが、右近馬場を過給へば、其勢五万余騎に及べり。

文章は珠玉のように美しく、言葉もはっきりと、また理論にも非の打ち所がありませんから、神もきっと祈願を受け入れてくださったと、聞いていた人々は皆、この八幡神を信じ、将士、兵士ら全員が祈願をこめたのでした。足利殿は自ら筆を取って願書に花押を認め、

箙から上差し(実戦用以外の矢)の鏑矢を一本取り出し、宝殿に奉納されました。同様に弟の足利直義朝臣をはじめとして、吉良、石塔、仁木、細川、今川、荒川、高、上杉らの武将に従う人々が、我も我もと、鏑矢をそれぞれ一本づつ奉納しましたから、

社殿は納められた矢で満ち溢れ、塚のように積み上げられたのでした。さて、夜もすでに明けましたので、先陣は進発し、後陣の出発を待ちました。高氏が大江山(京都市と亀岡市の市境にある山)に差し掛かった時、山鳩の一つがいが飛んできて、

源氏の白旗の上を、ひらひらと飛び回りました。高氏は、「この鳩は八幡大菩薩のお使いとして、八幡神が我らを守護すると、知らせに来た証拠である。この鳩が飛んで行く方向へ、我らも進もう」と、命令され高氏の旗持ちを最初に、騎馬武者らは足を速め、

鳩の後をついていきました。やがて静かに飛んでいた鳩は、かつての内裏跡地にある、神祇官(朝廷の祭祀や、諸国の官社を管理する官庁)の前に植わった、樗(栴檀、ニワウルシ、ゴンズイなど?)の木にとまりました。官軍足利の軍勢は、このめでたい現象に大いに勇み立ち、

内野に向かって駆けて行く途中、敵六波羅軍の五騎、十騎らが自分の旗を巻き、兜を脱いで、足利軍に降伏してきました。足利殿が篠村を出発した時は、僅か二万余騎だったのですが、右近馬場(北野神社辺)を通過する頃には、その数五万余騎に膨らんでいました。      (終)    

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