9 太平記 巻第九 (その二)


○六波羅攻事
去程に六波羅には、六万余騎を三手に分て、一手をば神祇官の前に引へさせて、足利殿を防がせらる。一手をば東寺へ差向て、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向て、千種殿の被寄竹田・伏見を被支。巳の刻の始より、大手搦手同時に軍始まて、馬煙南北に靡き時の声天地を響かす。内野へは陶山と河野とに宗徒の勇士二万余騎を副て被向たれば、官軍も無左右不懸入、敵も輒不懸出両陣互に支て、只矢軍に時をぞ移しける。爰に官軍の中より、櫨匂の鎧に、薄紫の母衣懸たる武者只一騎、敵の前に馬を懸居て、高声に名乗けるは、「其身人数ならねば、名を知人よもあらじ。是は足利殿の御内に、設楽五郎左衛門尉と申者也。六波羅殿の御内に、我と思はん人あらば、懸合て手柄の程をも御覧ぜよ。」と云侭に、三尺五寸の太刀を抜、甲の真向に差簪し、誠に矢所少く馬を立て引へたり。其勢ひ一騎当千とみへたれば、敵御方互に軍を止めて見物す。爰に六波羅の勢の中より年の程五十計なる老武者の、黒糸の鎧に、五枚甲の緒を縮て、白栗毛の馬に青総懸て乗たるが、馬をしづ/゛\と歩ませて、高声に名乗けるは、「其身雖愚蒙、多年奉行の数に加はて、末席を汚す家なれば、人は定て筆とりなんど侮て、あはぬ敵とぞ思ひ給ふ覧。雖然我等が先祖をいへば、利仁将軍の氏族として、武略累葉の家業也。今某十七代の末孫に、斎藤伊予房玄基と云者也。今日の合戦敵御方の安否なれば、命を何の為に可惜。死残る人あらば、我忠戦を語て子孫に留むべし。」と云捨て、互に馬を懸合せ、鎧の袖と々とを引違へて、むずと組でどうど落つ。設楽は力勝りなれば、上に成て斎藤が頚を掻く。斎藤は心早者なりければ、挙様に設楽を三刀刺す。何れも剛の者なりければ、死して後までも、互に引組たる手を不放、共に刀を突立て、同じ枕にこそ臥たりけれ。

☆ 六波羅攻撃のこと

さて、六波羅では六万余騎の軍勢を三手に分け、一手は神祇官前に展開させ、足利軍の防衛に当たりました。また一手は東寺に向かわせ、赤松軍に備えました。残る一手は伏見方面に向かわせ、千種忠顕殿が寄せている竹田、伏見の防衛に当たりました。

戦闘は元弘三年(1333年)五月七日、巳刻(午前十時頃)の初め頃より、大手、搦手同時に始まりました。馬のあげる土ぼこりは、南北に広がり、兵士の上げる閧の声は、天地を揺るがすばかりです。内野方面には、陶山と河野に主力の勇者、二万余騎を与えて向かわせましたので、

寄せ手の官軍も、むやみに駆け入ることも出来ず、また六波羅勢も攻め込もうとしませんでしたから、両軍はお互いにらみ合いを続け、ただ矢軍をするばかりで、時間が過ぎて行きました。この時官軍の中より、くすんだ黄茶色を下に行くほど、薄くぼかした鎧を着け、

薄紫の母衣(ほろ::流れ矢防ぎの布)を背にかけた武者がただ一騎で、敵の前まで馬を進めて来ると、大声を上げて、「名乗るほどたいした者でもないから、私の名を知ってる者は、きっと居ないと思うが、私は足利殿の身内、設楽五郎左衛門尉と言う者である。

六波羅勢の中に、我と思わん者がいるなら、懸かってきたらどうだ。腕前の一つでも、見せれば良かろう」と、名乗りながら三尺五寸の大太刀を抜き、兜の真ん前に構えて、馬にまたがった姿には、確かに一分の隙もありません。その勢いから一騎当千の武者に思え、

敵味方とも互いに軍をやめて、その成り行きを見ていました。そして今度は六波羅の軍勢の中から、年の頃、五十歳ばかりの老武者が、黒糸縅の鎧に、五枚兜(錣の板が五枚ある兜)の緒を締めて、青い房を飾り付けた、白栗毛の馬に乗って、静々と馬を歩ませ声高らかに、

「私は愚昧な人間かもしれないが、長年鎌倉で政務を担当し、幕府にて末席を汚す者である。それだけを聞けば文官だと馬鹿にして、相手になろうと思わぬかもしれない。しかし、私の先祖たるや、鎮守府将軍の藤原利仁の一族であり、武略を累代家業としてきた家である。

そして私は今十七代の子孫で、斎藤伊予房玄基と言う者である。今日の合戦は敵味方にとって、食うか食われるかの一戦であれば、何で今更命を惜しむのか。もし生き残る者がいれば、この私の忠義に殉じた戦闘を、子孫に語り伝えてくだされ」と名乗り捨てるや、

設楽共々馬を駆け合せ、鎧の袖を互いにつかみ、そのまま組み合ったまま、馬よりドウッと落ちました。設楽の方が力に勝っていたので上になり、斎藤の首を掻けば、斎藤は機敏な男ですから、下から設楽を三刀まで刺しました。二人とも勇猛な人間ですから、

死んでからでも、お互い引っ掴んだ手を放すことなく、共に刀を突き立てたまま、同じ場所に枕を並べて臥せっていました。


又源氏の陣より、紺の唐綾威の鎧に、鍬形打たる甲の緒を縮め、¥¥¥五尺余の太刀を抜て肩に懸、敵の前半町計に馬を駈寄て、高声に名乗けるは、「八幡殿より以来、源氏代々の侍として、流石に名は隠なけれ共、時に取て名を被知ねば、然べき敵に逢難し。是は足利殿の御内に大高二郎重成と云者也。先日度々の合戦に高名したりと聞ゆる陶山備中守・河野対馬守はおはせぬか、出合給へ。打物して人に見物せさせん。」と云侭に、手縄かいくり、馬に白沫嚼せて引へたり。陶山は東寺の軍強しとて、俄に八条へ向ひたりければ此陣にはなし。河野対馬守許一陣に進で有けるが、大高に詞を被懸て、元来たまらぬ懸武者なれば、なじかは少しもためらうべき、「通治是に有。」と云侭に、大高に組んと相近付く。是を見て河野対馬守が猶子に、七郎通遠とて今年十六に成ける若武者、父を討せじとや思けん、真前に馳塞て、大高に押双てむずと組。大高・河野七郎が総角を掴で中に提げ、「己れ程の小者と組で勝負はすまじきぞ。」とて、差のけて鎧の笠符をみるに、其文、傍折敷に三文字を書て着たりけり。さては是も河野が子か甥歟にてぞ有らんと打見て、片手打の下切に諸膝不懸切て落し、弓だけ三杖許投たりける。対馬守最愛の猶子を目の前に討せて、なじかは命を可惜、大高に組んと諸鐙を合て馳懸る処に、河野が郎等共是を見て、主を討せじと三百余騎にてをめゐて懸る。源氏又大高を討せじと、一千余騎にて喚て懸る。源平互に入乱て黒煙を立て責戦ふ。官軍多討れて内野へはつと引。源氏荒手を入替て戦ふに、六波羅勢若干討れて河原へさつと引ば、平氏荒手を入替て、此を先途と戦ふ。一条・二条を東西へ、追つ返つ七八度が程ぞ揉合ひたる。源平両陣諸共に、互に命を惜まねば、剛臆何れとは見へざりけれ共、源氏は大勢なれば、平氏遂に打負て、六波羅を指て引退く。

また源氏、足利軍の陣営から、紺の唐綾縅の鎧を着け、鍬形を付いた兜の緒を締めて、五尺余りもある抜き身の太刀を肩にかけて、敵前半町程まで馬を駆け寄せると声高に、「八幡殿以来、源氏に代々仕えてきた家の者で、さすがにその家名は知れ渡っているが、

今は私の名前を明らかにしなくては、それなりの敵に出会うことも難しいだろう。私は足利殿の譜代の家臣で、大高二郎重成と言う者である。先日来度々の合戦に手柄を立て、その名を上げられたと聞く、陶山備中守、河野対馬守は居られぬか、出て来てくだされ。

刀か槍で勝負し、皆に見せてやろうじゃないか」と名乗りながら、馬の手綱を手元に引き寄せ、口には白い泡を吹かせて、その場で待機しました。しかし陶山は東寺方面の敵が手強いと、急遽八条の戦線に向かったので、今はここの陣営にはいません。

河野対馬守だけがここの先鋒としていましたが、大高に言葉を投げかけられて、もともとが挑まれて我慢の出来る武者ではないので、全くひるむことなどなく、「河野通治はここにいるぞ」と言いながら、大高に組み付こうと近づいて行きました。

この様子を見て、河野対馬守の養子、七郎通遠と言う今年十六歳になる若武者が、父を討たせてなるものかと、真ん前に駆け寄り、さえぎるや大高につかみかかり、むんずと組み合いました。大高は河野七郎の、まだ総角(髪を左右に分け、両耳の上に巻いて輪を作った髪)に結った髪をつかんで、

宙に吊り下げ、「己ごときの小者と組んでの勝負などしないぞ」と払いのけ、鎧の笠標を見てみると、そこには折敷に角三文字紋と言う、河野家の紋を書いた物を付けていました。さてはこいつは河野の子供か、甥ではないのかと見るや、片手で太刀を振り下ろし、

七郎通遠の両膝を切り落とし、弓一張りの長さ(普通七尺五寸)の三倍ほど遠くに投げつけました。河野対馬守通治は最愛の養子が、目の前で討たれるのを見て、こうなって命を惜しむことなど出来ようかと、大高に組み合うため、両方の鐙を同時に打ち、

馬を駆け寄せて行こうとした時、見ていた河野の家来らが、主人を討たせてなるものかと、三百余騎がわめきながら駆け寄りました。源氏の足利軍もまた、大高を討たせるものかと、一千余騎が同じく喚き散らしながら、駆け寄ってきました。

ここに源平が互いに入り乱れて、黒煙も上がるほど攻め合いました。官軍の足利勢は数多く討たれ、内野にサッと引き上げると、再び新手を投入して戦ったので、今度は六波羅勢が少しばかり討たれ、河原にサッと引き上げました。

そこで平氏も新手を投入し、ここが勝敗の分かれ目と、戦いを続けました。一条から二条周辺を東西に、追いつ追われつの戦いを七、八度ほど揉みに揉み合ったのです。しかし源平両軍、互いに命を惜しむことなく戦ったので、いずれが優勢なのかはっきりしませんが、

源氏の軍勢は多く、やがて平氏は敗色濃厚になり、六波羅に向かって退却しました。


東寺へは、赤松入道円心、三千余騎にて寄懸たり。楼門近く成ければ、信濃守範資、鐙踏張左右を顧て、「誰かある、あの木戸、逆木、引破て捨よ。」と下知しければ、宇野・柏原・佐用・真島の早り雄の若者共三百余騎、馬を乗捨て走り寄り、城の構を見渡せば、西は羅城門の礎より、東は八条河原辺まで、五六八九寸の琵琶の甲、安郡なんどを鐫貫て、したゝかに屏を塗、前には乱杭・逆木を引懸て、広さ三丈余に堀をほり、流水をせき入たり。飛漬らんとすれば、水の深さの程を不知。渡らんとすれば橋を引たり。如何せんと案煩ひたる処に、播磨の国の住人妻鹿孫三郎長宗馬より飛で下、弓を差をろして、水の深さを探るに、末弭僅に残りたり。さては我長は立んずる物を、と思ひければ、五尺三寸の太刀を抜て肩に掛、貫脱で抛すて、かつはと飛漬りたれば、水は胸板の上へも不揚、跡に続ひたる武部七郎是を見て、「堀は浅かりけるぞ。」とて、長五尺許なる小男が、無是非飛入たれば、水は甲をぞ越たりける。長宗きつと見返て、「我総角に取着てあがれ。」と云ければ、武部七郎、妻鹿が鎧の上帯を蹈で肩に乗揚り、一刎刎て向の岸にぞ着ける。妻鹿から/\と笑て、「御辺は我を橋にして渡たるや。いで其屏引破て捨ん。」と云侭に、岸より上へづんど刎揚り、屏柱の四五寸余て見へたるに手を懸、ゑいや/\と引に一二丈掘挙げて、山の如くなる揚土、壁と共に崩れて、堀は平地に成にけり。是を見て、築垣の上に三百余箇所掻双べたる櫓より、指攻引攻射ける矢、雨の降よりも猶滋し。長宗が鎧の菱縫、甲の吹返に立所の矢、少々折懸て、高櫓の下へつ走入り、両金剛の前に太刀を倒につき、上咀して立たるは、何れを二王、何れを孫三郎とも分兼たり。東寺・西八条・針・唐橋に引へたる、六波羅の兵一万余騎、木戸口の合戦強しと騒で、皆一手に成、東寺の東門の脇より、湿雲の雨を帯て、暮山を出たるが如、ましくらに打て出たり。妻鹿も武部もすはや被討ぬと見へければ、佐用兵庫助・得平源太・別所六郎左衛門・同五郎左衛門相懸りに懸て面も不振戦ふたり。「あれ討すな殿原。」とて、赤松入道円心、嫡子信濃守範資・次男筑前守貞範・三男律師則祐・真島・上月・菅家・衣笠の兵三千余騎抜連てぞ懸りける。

東寺方面には赤松入道円心が、三千余騎で寄せて行きました。東寺の楼門近くになったので、信濃守赤松範資は、鐙を踏ん張って左右を見回し、「誰かあそこの木戸や逆茂木など、取り払って捨ててしまえ」と命じると、宇野、柏原、佐用、真島らの血気にはやる若者ら、

三百余騎が馬を乗り捨てて走り寄り、城の構えを見てみると、西は羅城門の真下から、東は八条河原のあたりまで、五寸から九寸位の良質の木材を選りすぐって、頑丈な塀を立て並べ、その前には杭を不規則に打ったり、逆茂木を設置し、

その上、幅三丈程に堀を穿ち、川より流水を引き入れています。飛び込んで渡ろうにも、水の深さが分かりませんし、渡るべき橋は取り外されています。どうすれば良いかと思案していると、播磨国の豪族である、妻鹿孫三郎長宗が馬より飛び降り、

弓を水面に差し込んで深さを測ってみると、弓の先端部分が僅かに見えています。これ位だったら、自分は立つことが出来るだろうと思い、五尺三寸の太刀を抜いて肩にかけて、身に着けたものを放り投げるや、エイヤッと飛び込んでみれば、水は胸板の上にも届きません。

後に続いていた武部七郎はこれを見て、「堀は浅いようだ」と言い、身長五尺ほどの小男が、無鉄砲にも飛び込んだところ、水は兜を超えたのでした。長宗はキッと振り返り、「私の総角(鎧の背についた飾り紐)につかまって、早く岸に上がれ」と言ったので、

武部七郎は妻鹿長宗の鎧の上帯を踏みつけ、肩に乗りピョンと飛び上がって、向こう岸に着きました。妻鹿はカラカラと笑って、「貴殿はこの私を橋にして渡ったのか。よし、その塀を引き裂いて捨ててしまおう」と言いながら、岸から上の方に跳ね上がり、

塀を支えている柱が四、五寸出ている所に手をかけて、エイヤッ、エイヤッと力任せに引きました。そのため堀を築くために掘って一、二丈ほど、山のように積み上げられていた土が、壁と一緒になって崩れ、堀は埋まってしまい、平地のようになりました。

これを見ていた六波羅軍が、築地の上に築いた、三百余ヶ所もある櫓から、次々と休む間もなく射掛けてくる矢は、雨の降るより激しいものでした。長宗の鎧の菱縫(袖や草摺の飾り縫い板)や兜の吹返し(兜の左右にある防御布)などに刺さった矢を、少しばかり折ると、

そのまま高櫓の下に走り込み、金剛力士像の前で、太刀を逆さに突き立て、歯を食いしばって立つ姿は、どちらが仁王なのか、孫三郎か見分けも付きかねるようです。東寺、西八条、針小路(南区)、唐橋(南区)方面に駐屯していた、一万余騎の六波羅勢は、

東寺の木戸口の戦闘が、激しくなっていると騒ぎ、皆一丸となって、東寺の東門の脇から、湿気を含んだ雨雲が、夕方、山から湧き出るように、寄手軍に向かってきました。妻鹿も武部も、さすがに討ち取られるのではないかと思われた時、

佐用兵庫助、得平源太、別所六郎左衛門、同じく五郎左衛門らが正面から切りかかり、ここを死処と懸命に戦いました。「皆の者、彼らを討たせるな」と、赤松入道円心、その嫡子信濃守範資、次男筑前守貞範、三男律師則祐、真島、上月、菅家、

衣笠などの兵士ら三千余騎が一斉に刀を抜き、攻めかかりました。


六波羅の勢一万余騎、七縦八横に被破て、七条河原へ被追出。一陣破て残党全からざれば、六波羅の勢竹田の合戦にも打負、木幡・伏見の軍にも負て、落行勢散々に、六波羅の城へ逃篭る。勝に乗て逃を追ふ四方の寄手五万余騎、皆一所に寄て、五条の橋爪より七条河原まで、六波羅を囲ぬる事幾千万と云数を不知。されども東一方をば態被開たり。是は敵の心を一になさで、輒く責落さん為の謀也。千種頭中将忠顕朝臣、士卒に向て被下知けるは、「此城尋常の思を成て延々に責ば、千葉屋の寄手彼を捨て、此後攻を仕つと覚るぞ。諸卒心を一にして一時が間に可責落。」と被下知ければ、出雲・伯耆の兵共、雑車二三百両取集て、轅と々とを結合せ、其上に家を壊て山の如くに積挙て、櫓の下へ指寄、一方の木戸を焼破けり。爰に梶井宮の御門徒、上林房・勝行房の同宿共、混甲にて三百余人、地蔵堂の北の門より、五条の橋爪へ打て出たりける間、坊門少将、殿法印の兵共三千余騎、僅の勢にまくり立られて、河原三町を追越る。されども山徒さすがに小勢なれば、長追しては悪かりなんとて、又城の中へ引篭る。六波羅に楯篭る所の軍勢雖少と、其数五万騎に余れり。此時若志を一にして、同時に懸出たらましかば、引立たる寄手共、足をためじとみへしか共、武家可亡運の極めにや有けん、日来名を顕せし剛の者といへ共不勇、無双強弓精兵と被云者も弓を不引して、只あきれたる許にて、此彼に村立て、落支度の外は儀勢もなし。名を惜み家を重ずる武士共だにも如此。何況主上・々皇を始進らせて、女院・皇后・北政所・月卿・雲客・児・女童・女房達に至るまで、軍と云事は未だ目にも見玉はぬ事なれば、時の声矢叫の音に懼をのゝかせ給ひて、「こは如何すべき。」と、消入計の御気色なれば、げにも理也。と御痛敷様を見進らするに就ても、両六波羅弥気を失て、惘然の体也。今まで無弐者とみへつる兵なれども、加様に城中の色めきたる様を見て、叶はじとや思ひけん、夜に入ければ、木戸を開逆木を越て、我れ先にと落行けり。義を知命を軽じて残留る兵、僅に千騎にも不足見へにけり。

六波羅の軍勢一万余騎は、赤松軍に思いのまま破られ、七条河原まで追いやられてしまいました。先陣が負けてしまっては、残った兵士らも無事ではあり得ず、六波羅の軍勢は竹田の合戦に負けたのを皮切りに、木幡、伏見の戦闘にも敗れ、敗残の兵士らは散りじりになって、

六波羅の城塞に逃げ込みました。勝ちに乗じて、逃れる敵を追い詰める寄せ手の五万余騎の軍勢は、全軍隊が一丸となって、五条の橋のふもとから七条河原まで、一体どれほどのの軍勢が、六波羅を包囲したのでしょうか。しかし六波羅の東の一方面だけは、

開いておきました。と言うのは敵が絶望から、心が一つになって抵抗することを防ぎ、うまく六波羅を陥落するための謀略です。千種頭中将忠顕朝臣は、寄せ手軍の将官、兵士らに向かって、「この城を通常の城攻めと考えて、気長に攻めてはいけない。

そんなことをすれば、千早を攻撃している敵の軍勢が、千早攻めを中断しこちらに向かって、後方から攻めかかると考えられる。ここは将士とも心を合わせて、二時間程度で攻め落とさねばならない」と、命じました。そこで出雲、伯耆の兵士らは、

種々の車両など二、三百輌ほどを寄せ集め、これら車の轅を結びつけて、その上に破壊した家などを山のように積み上げると、櫓の下に寄せて火を放ち、一方の木戸を燃やしました。その時、梶井宮尊胤法親王と信仰を同じくする、

延暦寺の上林房、勝行房に一緒に寄宿している者たち三百余人が、武装も色々なまま、地蔵堂の北門より、五条の橋たもとまで攻めてきたため、寄せ手軍の坊門少将藤原雅忠、殿法印良忠らが率いていた、三千余騎の兵士らは、この僅かな軍勢に攻め立てられ、

河原を三町ほど追われました。しかし、山門の軍勢も小勢なので、さすがに深追いは危険と考え、再び六波羅城の中に引き揚げました。六波羅の城塞にこもる軍勢は、少ないとは言っても、その数五万騎以上にもなります。この時もしも全員が心を一つにして、

一時に打って出たら、勢いに勝る寄せ手軍も、攻撃を続けることは難しかったと思えますが、幕府軍も今や滅亡の流れに、逆らうことが出来なかったのか、普段その名を馳せている、勇猛な武者と言えども、臆病になり、強弓を引いては二人といないと言われていた兵士でも、

弓を引くこともせず、ただ呆然とここかしこに立ち止まり、逃げ落ちることの準備に夢中で、見せ掛けの勢いさえありません。名を惜しみ、家の名誉を第一に考える武士どもであっても、この有様なので、天皇、上皇をはじめとして、女院、皇后、北政所、公卿、

高級官僚、子供、女児、その他女性らは、軍など現実に見たこともない人々なので、閧の声や、矢を射る叫び声に、恐れおののくばかりで、「一体どうすればよいのか」と、恐怖にまともな心も持ち得ないのも、当然なことでしょう。この痛ましい様子を見ていると、

南北の両六波羅の幹部も、ますます気が滅入り、ただ呆然とするばかりです。今まであれほど幕府に忠実だった兵士らも、この六波羅の浮き足立った状態を見ていると、もうこの軍に勝つことなど、とても出来そうにないと思ったのか、夜になると木戸を開き、

逆茂木を越えて我先にと落ちて行きました。忠義を通すため、我が命を顧みずに居残った兵士らは、僅か千騎にも満たないようでした。


○主上・々皇御沈落事
爰に糟谷三郎宗秋、六波羅殿の前に参て申けるは、「御方の御勢次第に落て、今は千騎にたらぬ程に成て候。此御勢にて大敵を防がん事は叶はじとこそ覚へ候へ。東一方をば敵未だ取まはし候はねば、主上・々皇を奉取て、関東へ御下候て後、重て大勢を以て、京都を被責候へかし。佐々木判官時信、勢多の橋を警固して候を被召具ば、御勢も不足候まじ。時信御伴仕る程ならば、近江国に於ては手差者は候まじ。美濃・尾張・三河・遠江には御敵有とも承らねば、路次は定て無為にぞ候はんずらん。鎌倉に御着候なば、逆徒の退治踵を不可回、先思召立候へかし。是程にあさまなる平城に、主上・々皇を篭進らせて、名将匹夫の鋒に名を失はせ給はん事、口惜かるべき事に候はずや。」と、再三強て申ければ、両六波羅げにもとや被思けん、「さらば先、女院・皇后・北政所を始進せて、面々の女性少き人々を、忍びやかに落して後、心閑に一方を打破て落べし。」と評定有て、小串五郎兵衛尉を以て、此由院・内へ被申たりければ、国母・皇后・女院・北政所・内侍・上童・上臈女房達に至まで、城中に篭りたるが恐さに、思はぬ別の悲しさも、後何に成行んずる様をも不知。歩跣にて我先にと迷出給ふ。只金谷園裡の春の花、一朝の嵐に被誘て、四方の霞に散行し、昔の夢に不異。

☆ 天皇、上皇が落ちて行かれたこと

そんな時、糟谷三郎宗秋は南北の六波羅殿、北条仲時、時益殿の前に参り、「味方の軍勢は次第に落ちて行き、今は千騎にも足らない状態です。この軍勢で寄せ手の大軍を防ぐことは、とても出来ないと考えられます。幸い東側一方だけは、敵はまだ包囲していないので、

天皇、上皇をお連れして、一旦関東に下り、その後再び大軍を催して、京都の奪還をはかりましょう。佐々木判官時信が瀬田の橋を警固していますから、その兵士らをお連れすれば、軍勢に不足はないと思います。その上、時信がお供いたしますから、

近江国においては、手出しをする者はいないと思いますし、その先、美濃、尾張、三河、遠江には、敵がいると聞いていませんから、鎌倉までの道中は、きっと無事に行くことが出来ましょう。そして鎌倉に到着したら、即刻、逆賊追討の計画に、取り掛かってください。

この六波羅のように粗末な平城に、天皇、上皇殿に立て篭もっていただいた上、我が軍の名将らが、敵の雑武者の太刀にかかって、その名を汚すことなど、口惜しいことこの上ありません」と、幾度も強い語調で申し上げれば、両の六波羅殿も納得され、

「ならば、まず最初に女院、皇后、北政所をはじめに、皆々方の奥方など女性達を、気付かれないよう落とした後、我々も粛々と一方を破って、落ちようではないか」と、決定しました。そこで小串五郎兵衛尉を使いにして、事情を上皇、天皇に説明しました。

皇太后、皇后、女院、摂政関白夫人、内侍、上童、上臈(上級女官)、女房に至るまで、城内に立て篭もっている恐怖から逃れたいばっかりに、思いがけない別れの悲しさを思うことなく、またこの先自分らの行く末なども、何も分からないまま、はだしのまま我先に六波羅を迷い出たのでした。

その様は昔、高貴な身分にある人が開催する、豪華な酒宴で、春の花が一陣の風に吹かれて、四方の霞に散じりになったのと、何も変わることがありません。


越後守仲時北の方に向て宣ひけるは、「日来の間は、縦思の外に都を去事有共、何くまでも伴ひ申さんとこそ思ひつれ共、敵東西に満て、道を塞ぎぬと聞ゆれば、心安く関東まで落延ぬとも不覚。御事は女性の身なれば苦しかるまじ。松寿は未幼稚なれば、敵設見付たりとも誰が子共よもしらじ。只今の程に、夜に紛れて何方へも忍出給て、片辺土の方にも身を隠し、暫く世の静まらん程を待給ふべし。道の程事故なく関東に着なば、頓て御迎に人を可進す。若又我等道にて被討ぬと聞給はゞ、如何なる人にも相馴て、松寿を人と成し、心付なば僧に成して、我後世を問せ給へ。」と心細げに云置て、泪を流て立給ふ。北の方、越後守の鎧の袖を引へて、「などや角うたてしき言葉に聞へ侍るぞや。此折節少き者なんど引具して、しらぬ傍にやすらはゞ、誰か落人の其方様と思はざらん。又日比より知たる人の傍に立宿らば、敵に捜し被出て、我身の恥を見のみにあらず、少き者の命をさへ失はん事こそ悲しけれ。道にて思の外の事あらば、そこにてこそ共に兎も角も成はてめ。憑む陰なき木の下に、世を秋風の露の間も、被棄置進らせては、ながらうべき心地もせず。」と、泣悲み給ければ、越後守も心は猛しといへども、流石に岩木の身ならねば、慕ふ別を捨兼て、遥に時をぞ移されける。

六波羅探題北方の越後守北条仲時は、奥方に向かって、「日頃は、思いがけなく都を去るようなことがあっても、何処までも貴女と一緒に行こうと考えていたが、今は敵が四方に満ち溢れ、道を塞いでいると聞けば、安全に関東、鎌倉まで落ち延びることが出来るとも思えない。

貴女は女性の身であるから、めったなことはないと思える。また松寿(仲時の子、後の北条友時)はまだ幼いので、たとえ敵に見つかっても、誰の子か分からないだろう。出来るだけ早く夜に紛れて、何処かに逃げ落ちて、その上片田舎にでも身を潜めて、世の中が静まるのを待ちなさい。

私が道中無事に、鎌倉に到着したなら、すぐに迎えの者をよこすから。もし我らが途中で討ち死にしたと聞いたなら、誰か良い人と再婚し、松寿を成人させ、分別が付けば僧侶にして、私の後世を弔ってほしい」と、何かと不安げに話し、涙を流しながら立ちあがりました。

奥方は越後守の鎧の袖を引っ張り、「どうしてそんな薄情なことをおっしゃるのですか。こんな時期に幼い子供を引き連れて、知らない土地に留まったりすれば、落人の家族ではないかと、気付かれないはずがありません。また日頃から親しくしている人の所に、

立ち寄ったりすれば敵に探し出されて、自分自身、辱めを受けるだけでなく、幼い我が子の命も失うことになり、これほど悲しいことはありません。道中にてもしものことがあれば、その時はそこで一緒に死にましょう。頼りに出来る何物も無いだけでなく、

秋風のふきすさぶ世間に捨てられ、この命を永らえることなど出来るとは思えません」と、泣き悲しまれては、越後守とていくら勇猛な武将であっても、さすがに人の子であれば、離れがたき別れに時を過ごしました。


昔漢の高祖と楚の項羽と戦ふ事七十余度也。しに、項羽遂に高祖に被囲て、夜明ば討死せんとせし時に、漢の兵四面にして皆楚歌するを聞て、項羽則帳中に入り、其婦人虞氏に向て、別を慕ひ悲みを含んで、自歌作て云、力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。々々々可奈何。虞氏兮々々々奈若何。と悲歌慷慨して、項羽泪を流し給しかば、虞氏悲みに堪兼て、則自剣の上に伏し、項羽に先立て死にけり。項羽明る日の戦に、二十八騎を伴て、漢の軍四十万騎を懸破り、自漢の将軍三人が首を取て、被討残たる兵に向て、「我遂に漢の高祖が為に被亡ぬる事戦の罪に非ず、天我を亡せり。」と、自運を計て遂に烏江の辺にして自害したりしも、角やと被思知て泪を落さぬ武士はなし。

昔、漢国の高祖と楚国の項羽が戦うこと、七十余回に及びました。そして項羽はとうとう高祖の軍勢に取り囲まれて、夜が明ければ討ち死にしようと、覚悟を決めた時、四方から漢の兵士らが歌う楚国の歌を聞き、漢国がすでに楚国を占領したため、

漢国の軍勢に、楚国の兵士が混じっているのだと思って戦意喪失し、すぐに陣幕の中に入ると、愛妾の虞美人に向かい、別れを惜しむと共に、悲しみの気持ちを込めて、歌を作りました。「私の力は山を引き抜くほど強く、気力は世界を蓋い尽くすほどだった。

しかし時は私に利あらず、愛馬の騅も歩もうとしない。騅や騅、歩もうともしないのをどうすれば良いのだ。虞氏や虞氏、貴女のことは一体どうすれば良いのだ」と、歌い悲しみ嘆き憤り、項羽が涙を流されれば、虞氏も悲しみに耐え切れず、すぐに自分の剣の上に身を伏せ、

項羽に先立って自害をしました。項羽は翌日の戦いに、二十八騎を従えて、漢の軍勢四十万騎を駆け破ると共に、自ら漢軍の将軍、三人の首を取り、未だ生き残っている兵士らに向かって、「私はついに漢の高祖の為、滅ぼされることになったが、これは戦争に負けたからではなく、

天が私を滅ぼしたのである」と、自らの運命を悟り、ついに烏江のほとりで自害したことも、今の越後守仲時の心情も、同じであろうと思い、涙を流さない武士はいませんでした。


南方左近将監時益は、行幸の御前を仕て打けるが、馬に乍乗北方越後守の中門際まで打寄せて、「主上早寮の御馬に被召て候に、などや長々敷打立せ給はぬぞ。」と云捨て打出ければ、仲時無力鎧の袖に取着たる北の方少き人を引放して、縁より馬に打乗り、北の門を東へ打出給へば、被捨置人々、泣々左右へ別て、東の門より迷出給ふ。行々泣悲む声遥に耳に留て、離れもやらぬ悲さに、落行前の路暮て、馬に任て歩せ行。是を限の別とは互に知ぬぞ哀なる。十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。敵何くに有とも知ねば、馳合て敵を可討様もなし。又忍て落る道なれば、傍輩に知せて可返合にてもなし。只同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重ずるより外の事はあらじと思ければ、糟谷泣々主の頚を取て錦の直垂の袖に裹み、道の傍の田の中に深く隠して則腹掻切て主の死骸の上に重て、抱着てぞ伏たりける。竜駕遥に四宮河原を過させ給ふ処に、「落人の通るぞ、打留て物具剥。」と呼声前後に聞へて、矢を射る事雨の降が如し。角ては行末とても如何有べきとて、東宮を始進らせて供奉の卿相雲客、方々へ落散給ける程に、今は僅に日野大納言資名・勧修寺中納言経顕・綾小路中納言重資・禅林寺宰相有光許ぞ竜駕の前後には被供奉ける。

南方六波羅探題の左近将監北条益時は、光厳天皇に付き添っていましたが、馬に乗ったまま北方六波羅探題、越後守仲時の屋敷の中門近くまで行き、「天皇はもはや馬寮のお馬に乗られていると言うのに、ぐずぐずして、なぜ出発しないのだ」と、言い捨て出発しました。

仲時は仕方なく、鎧の袖に取りすがっている奥方と、幼い子供も引き離し、縁側から馬に乗ると、北の門から東に向かって出て行きました。六波羅に捨て置かれた人たちは、泣く泣く左右に別れ別れになって、東の門から行く当ても無く、外へ迷い出たのでした。

馬を進めながらも、泣き悲しむ家族の声がいつまでも耳に残り、辛い別れの悲しさと、落ちて行く道も暮れてしまえば、今はただ馬に任せて歩むばかりです。これが今生の別れになるとは、お互い知らないのも哀れな話です。十四、五町ほど進んで、後ろを振り返って見れば、

早くも南北両六波羅の屋敷には火がかけられ、一筋の煙になって燃えあがっています。頃は五月の闇夜ですから、前後も分からない暗さであり、東山から山科に抜ける渋谷越(苦集滅道(くずめぢ))の付近には、野伏(のぶせり)が溢れ返り、四方八方から射掛けてくる矢に、

左近将監北条時益は首の骨を射られて、馬から逆さになって落ちました。糟谷七郎が馬から飛び降りて、その矢を抜いたところ、たちまち息を引き取ったのでした。敵はどこにいるのか分からないので、向かって行き討ち取ることも出来ません。

また敵からひそかに落ちて行く途中なので、仲間に知らせて仕返しをすることも出来ません。こうなればただ同じ場所で自害をし、後世にまで主従の義を、大事にするよりほかはないと考え、糟谷は泣く泣く主人の首を取ると、錦の直垂の袖に包んで、

道の傍らの田んぼを深く掘って隠しました。その後すぐに腹を掻き切って、主人の遺骸の上に重なり、抱き付くようにして伏せて死んだのでした。天皇の乗り物がやっとのことで、四宮河原(山科区)を通過していると、「落人が通るぞ、通すな、甲冑など皆、取ってしまえ」と、

呼び合う声が前後に聞こえ、矢も雨が降るかのごとくに、降り注いできます。これではこの先一体どうなるのかと、皇太子をはじめとして、ここまでお供してきた、公卿や高級官僚などは、四方八方に散りじりになって逃げ落ちてしまい、

今は僅か、日野大納言資名、観修寺中納言経顕、綾小路中納言重資、禅林寺宰相有光だけが、光厳天皇の乗り物の前後にお供しているだけです。


都を一片の暁の雲に阻て、思を万里の東の道に傾させ給へば、剣閣の遠き昔も被思召合、寿水の乱れたりし世も、角こそと叡襟を悩し玉ひ、主上・々皇も御涙更にせきあへず。五月の短夜明やらで、関の此方も闇ければ、杉の木陰に駒を駐て、暫やすらはせ給ふ処に、何くより射る共知らぬ流矢、主上の左の御肱に立にけり。陶山備中守急ぎ馬より飛下て、矢を抜て御疵を吸に、流るゝ血雪の御膚を染て、見進らするに目もあてられず。忝も万乗の主、卑匹夫の矢前に被傷て、神竜忽に釣者の網にかゝれる事、浅猿かりし世中也。去程に篠目漸明初て、朝霧僅に残れるに、北なる山を見渡せば、野伏共と覚て、五六百人が程、楯をつき鏃を支て待懸たり。是を見て面々度を失てあきれたり。爰に備前国の住人中吉弥八、行幸の御前に候けるが、敵近く馬を懸寄て、「忝も一天の君、関東へ臨幸成処に、何者なれば加様の狼籍をば仕るぞ。心ある者ならば、弓を伏せ甲を脱で、可奉通。礼儀を知ぬ奴原ならば、一々に召捕て、頚切懸て可通。」と云ければ、野伏共から/\と笑て、「如何なる一天の君にても渡らせ給へ、御運已に尽て、落させ給はんずるを、通し進らせんとは申まじ。輒く通り度思食さば、御伴の武士の馬物具を皆捨させて、御心安く落させ給へ。」と云もはてず、同音に時をどつど作る。

都はすでに暁のかすかな雲にさえぎられ見えず、思いを万里の先、東国に馳せていると、三国志にある、剣閣における遠い昔の合戦のことも思い出され、寿永(1182-1183年)の世の乱れも、このようなものであったのかと、胸を痛めつけられ、

光厳天皇、後伏見上皇も、お涙がとまる事もありません。五月の短夜もまだ明けず、逢坂の関方向もまだ闇の中なので、杉の木陰に馬を停め、しばらくお休みになっていると、何処から放たれたのか分からない流れ矢が、天皇の左の肘に突き刺さったのです。

陶山二郎備中守が急いで馬から降り、矢を引き抜き傷口を吸えば、流れる血潮は雪のような白い肌を染め、見るに耐えられません。もったいなくも天皇が、賤しき身分の者が射た矢に、傷を受けられとは、神の使いと思われる竜が、釣り人の網にかかるようなものであり、

なんとも情けない世の中になったものです。やがて東の空も明るくなってきて、朝霧も僅かに残っている中で、北方の山を見渡してみると、野伏どもと思える人間ら五、六百人位が楯を構え、鏃を揃えて待ち受けているようです。これを見たとたん、皆はびっくりし、

ただ呆然とするばかりです。その時、天皇の行幸にお供していた、備前国の住人、中吉弥八が、敵近くに馬を駆け寄せて、「畏れ多くも我が国の天皇が、関東へ行幸の途中において、一体何者がこのような狼藉を働くのだ。まともな神経を持った者であれば、

弓を下に置き、兜も脱いで我々を通すように。もし礼儀をわきまえない者どもならば、一人づつ召し取って首を切り、通るまでだ」と、言いました。聞いた野伏どもはカラカラと笑い、「いかなる国の天皇であっても、ご運がすでに尽きてしまい、落ちて行こうとされているのを、

お通ししないとは言っていない。ここを無事に通りたいとお思いなら、お供の武士たちの馬や甲冑など、全てここに捨て置いてから、安心して落ちて行ってください」と、言い終わらぬ内に、皆一斉に閧の声をドッと作ったのでした。


中吉弥八是を聞て、「悪ひ奴原が振舞哉。いでほしがる物具とらせん。」と云侭に、若党六騎馬の鼻を双べて懸たりけるに、慾心熾盛の野伏共、六騎の兵に被懸立て、蛛の子を散す如く、四角八方へぞ逃散ける。六騎の兵、六方へ分て、逃るを追事各数十町也。弥八余に長追したりける程に、野伏二十余人返合て、是を中に取篭る。然共弥八少もひるまず、其中の棟梁と見へたる敵に、馳並べてむずと組、馬二疋が間へどうど落て、四五丈許高き片岸の上より、上に成下に成ころびけるが、共に組も放れずして深田の中へころび落にけり。中吉下に成てければ、挙様に一刀さゝんとて、腰刀を捜りけるにころぶ時抜てや失たりけん、鞘許有て刀はなし。上なる敵、中吉が胸板の上に乗懸て、鬢の髪を掴で、頚を掻んとしける処に、中吉刀加へに、敵の小腕を丁と掬りすくめて、「暫く聞給へ、可申事あり。御辺今は我をな恐給ふそ、刀があらばこそ、刎返して勝負をもせめ。又続く御方なければ、落重て我を助る人もあらじ。されば御辺の手に懸て、頚を取て被出さたりとも、曾実検にも及まじ、高名にも成まじ。我は六波羅殿の御雑色に、六郎太郎と云者にて候へば、見知ぬ人は候まじ。無用の下部の頚取て罪を作り給はんよりは、我命を助てたび候へ、其悦には六波羅殿の銭を隠くして、六千貫被埋たる所を知て候へば、手引申て御辺に所得せさせ奉ん。」と云ければ、誠とや思けん、抜たる刀を鞘にさし、下なる中吉を引起して、命を助るのみならず様々の引出物をし、酒なんどを勧て、京へ連て上りたれば、弥八六波羅の焼跡へ行、「正しく此に被埋たりし物を、早人が掘て取たりけるぞや。徳着け奉んと思たれば、耳のびくが薄く坐しけり。」と欺て、空笑してこそ返しけれ。中吉が謀に道開けて、主上其日は篠原の宿に着せ給ふ。此にて怪しげなる網代輿を尋出て、歩立なる武者共俄に駕輿丁の如くに成て、御輿の前後をぞ仕りける。

中吉弥八はこれを聞くと、「悪い奴のやりたい放題だな。よし、そんなに欲しいのなら、この甲冑をやろうじゃないか」と言いながら、若い家来ら六騎が、馬の鼻を並べて駈け入ったところ、欲ボケだけの野武士どもは、これら六騎に駆け散らかされ、蜘蛛の子を散らすように、

四方八方に逃げました。六騎の武者らは六つに分かれて、逃げる野武士らを、それぞれが数十町ほど追いかけました。弥八は余りにも深追いしすぎたため、野伏の二十余人が引き返してきて、弥八を中に取り込めたのです。しかし、弥八は少しも恐れることなく、

野武士の中で親分らしき敵に馬を駆け寄せるや、むんずと組み合い、馬二匹の間にドッと落ちると、四、五丈程もある高い崖の上から、下になり、また上になって転び落ちました。しかし、お互い組み合ったまま、深田の中に転がり込んだのです。

中吉は下になっていたので、上向きに一太刀刺そうと、腰の刀を手で探ったのですが、転がり落ちる時に抜けたのか、鞘が残っているだけです。上になっている敵は、中吉の胸板に馬乗りになって、鬢の髪をつかんで首を掻こうとした時、

中吉は敵の手首を刀と一緒に握り締め、「チョッと私の言うことを聞け。今、貴殿は何も私を恐れることはないはずだ。刀があれば、貴殿を跳ね飛ばして勝負も出来るが。また、私に続いてくる味方もいないので、ここまで来て、私を助けに来る者もいないだろう。

そこでだ、貴殿が私の首を取って差し出したとしても、首実検にはそなえられないから、貴殿の手柄にもならないだろう。私は六波羅殿に仕える、下級役人の六郎太郎という者で、見知っている者など居ないはずだ。たいして役にも立たない人間の首を切って、

罪を作るより私の命を助けてくれ。その代わり六波羅殿が、銭を六千貫も隠す為に埋めた場所を知っているので、そこへ案内し貴殿に差し上げよう」と話したところ、敵は信用したのか抜いていた刀を鞘に収め、下になった中吉を引き起こし、

命を助けただけでなく色々と接待し、酒まで勧めて京に連れ上りました。弥八は六波羅の焼け跡に連れて行き、「確かにここに埋めたのだが、早くも誰かが掘り出して盗んでしまったようだ。せっかく儲けさせてやろうと思ったが、よく見れば貴殿の耳たぶは薄いみたいだ」と、うそぶいき、

作り笑いをしながら元の一行に戻りました。中吉の謀略によって危機を脱し、天皇はその日、篠原の宿(野洲市)にお着きになりました。この宿で質素な網代輿を捜し求め、徒立ちの武者らが急遽籠を担ぎ、御輿の前後にお供しました。


天台座主梶井二品親王は、是まで御供申させ給ひたりけるが、行末とても道の程心安く可過共覚させ給はねば、何くにも暫し立忍ばゞやと思召て、「御門徒に誰か候。」と御尋有けれ共、「去ぬる夜の路次の合戦に、或は疵を蒙て留り、或は心替して落けるにや。中納言僧都経超、二位寺主浄勝二人より外は供奉仕りたる出世・坊官一人も候はず。」と申ければ、さては殊更長途の逆旅叶ふまじとて、是より引別て、伊勢の方へぞ赴かせ給ける。さらでだに山立多き鈴鹿山を、飼たる馬に白鞍置て被召たらんは、中々道の可為讎とて、御馬を皆宿の主じに賜て、門主は長々と蹴垂たる長絹の御衣に、檳榔の裏無を被召、経超僧都は、袙重ねたる黒衣に、水精の念珠手に持て、歩兼たる有様、如何なる人も是を見て、すはや是こそ落人よと、思はぬ者は不可有。され共山王大師の御加護にや依けん、道に行逢奉る山路の樵、野径の蘇、御手を引御腰を推て、鈴鹿山を越奉る。さて伊勢の神官なる人を、平に御憑有て御坐しけるに、神官心有て身の難に可遇をも不顧、兎角隠置進せければ、是に三十余日御忍有て、京都少し静りしかば還御成て、三四年が間は、白毫院と云処に、御遁世の体にてぞ御坐有ける。

延暦寺天台座主の梶井宮尊胤法親王はここまで、光厳天皇にお供して来ましたが、この先とても道中安全に、通行できるとも思えず、どこかにしばらく身を隠そうと考えられ、「誰か我が寺の信者はおらぬか」と、お尋ねになられると、「この間の夜、起こった道中での合戦で、

ある者は傷を受けて、そのままその場に居残ったり、或いは心変わりをして、落ちて行ったりしたのか、現在は中納言僧都経超、二位寺主浄勝のお二人以外、お供している、出世(比叡山で公卿の子弟が出家した者)、坊官(事務を勤める在家の僧)などは一人も居られません」と、返事がありました。

これでは到底この先、長旅を続けることなど出来ないだろうと、ここで皆と別れ、伊勢方面に向かわれました。それでなくても山深い鈴鹿山を越えるのに、飼い馬に銀造りの鞍等置いていたのでは、決して道中の安全のためには、良くないだろうと馬は皆、宿の主人に与えました。

梶井法親王は、上質の絹織物で作った衣を、長く垂らして着た上、裏の付いていない檳榔で作った草履をはかれ、また経超僧都は袙(あこめ::中着)を重ねた黒い着物を身に着け、水晶の数珠を手に持って、疲れきった表情で、とぼとぼと歩んで行きました。

このような様子ですから誰が見ても、この人たちは落人だと、気づかない人はいないでしょう。しかし、延暦寺の守護神、山王大権現のご加護が得られたのか、道中行き会った山の樵や、路傍で作業をしている農民たちに、宮は手を引いてもらったり、腰を押したりしてもらいながらも、

鈴鹿の山を越えられたのでした。やがて、伊勢に入ると尊胤法親王は神宮の神官に、全面的に援助をお願いされました。神官は心優しい人だったのか、我が身に難が、降りかかるかも知れないのにかかわらず、とにかく宮を人目につかぬよう、匿ったのでした。

そして、ここで三十余日間、身を隠しておられましたが、京都が幾分落ち着いたので、お帰りになって、それから三、四年ほど、白毫院と言うところで、世捨て人同様に過ごされたのでした。


○越後守仲時已下自害事
去程に、両六波羅京都の合戦に打負て、関東へ被落由披露有ければ、安宅・篠原・日夏・老曾・愛智川・小野・四十九院・摺針・番場・醒井・柏原、其外伊吹山の麓、鈴鹿河の辺の山立・強盜・溢者共二三千人、一夜の程に馳集て、先帝第五の宮御遁世の体にて、伊吹の麓に忍で御坐有けるを、大将に取奉て、錦の御旗を差挙げ、東山道第一の難所、番馬の宿の東なる、小山の峯に取上り、岸の下なる細道を中に夾みて待懸たり。夜明ければ越後守仲時、篠原の宿を立て、仙蹕を重山の深きに促し奉る。都を出し昨日までは、供奉の兵二千騎に余りしかども、次第に落散けるにや、今は僅に七百騎にも足ざりけり。「若跡より追懸奉る事もあらば、防矢仕れ。」とて、佐々木判官時信をば後陣に打せられ、「賊徒道を塞ぐ事あらば、打散して道を開よ。」とて、糟谷三郎に先陣を被打せ、鸞輿迹に連て、番馬の峠を越んとする処に、数千の敵道を中に夾み、楯を一面に双て、矢前をそろへて待懸たり。糟谷遥に是を見て、「思ふに当国・他国の悪党共が、落人の物具剥がんとてぞ集りたるらん。手痛く当て捨る程ならば、命を惜まで戦ふ程の事はよも非じ。只一懸に駈散して捨よ。」と云侭に、三十六騎の兵共馬の鼻を並てぞ掛たりける。一陣を堅めたる野伏五百余人、遥の峯へまくり揚られて、二陣の勢に逃加る。糟谷は一陣の軍には打勝つ、今はよも手に碍る者非じと、心安く思て、朝霧の晴行侭に、可越末の山路を遥に見渡したれば、錦の旗一流、峯の嵐に翻して、兵五六千人が程要害を前に当て待掛たり。糟谷二陣の敵大勢を見て、退屈してぞ引へたる。重て懸破んとすれば、人馬共に疲れて、敵嶮岨に支へたり。相近付て矢軍をせんとすれば、矢種皆射尽して、敵若干の大勢也。兎にも角にも可叶とも覚へざりければ、麓に辻堂の有けるに、皆下居て、後陣の勢をぞ相待ける。

☆ 越後守北条仲時を始めとして皆が自害をされたこと

このように南北の両六波羅軍は、京都での合戦に負けて、関東鎌倉を目指して逃げ落ちたことが、知れ渡ったので、安宅、篠原、日夏、老曾、愛知川、小野、四十九院、摺針、番場、醒ヶ井、柏原やその他伊吹山の麓や、鈴鹿川周辺を根城にしている、山賊や強盗、

そのほか、あぶれ者ら二、三千人が一晩のうちに駆け集まって来ました。彼らは先帝後醍醐の第五の宮が、世間から身を隠すようにして、伊吹山の麓に、隠棲されて居られたのを大将に戴き、錦の御旗をかざし、東山道第一の難所と言われる、番場の宿、東方の小山に陣を構えて、

両側から崖下の細道を挟むようにして、六波羅勢がやって来るのを、待ち構えました。夜も明けたので、越後守北条仲時は篠原の宿を出発し、天皇の車列を警護しながら、山深く入って行きました。都を脱出してから昨日までは、供に従う兵士らは二千騎以上いましたが、

次第に散り散りに落ちて行ったのか、今は僅か七百騎にも足らない有様です。仲時は、「もしかすると、後ろから敵が追いかけてくることも考えられるので、後方の警戒と防戦をするように」と、佐々木判官時信を殿軍として配置し、「賊軍が道を塞ぐようなことをすれば、

蹴散らかして道を確保するように」と、糟谷三郎宗秋に先陣を命じて、光厳天皇の輿は、その後方を進ませました。その隊形で、番場の峠を越えようとしましたが、数千人の敵が道を両側から中に挟み、楯を一面に並べ立て、矢を揃えて待ち受けました。

糟谷はその様子を遠くから見て、「どうもあの様子では、ここ近江国やその外の国から、悪党どもが落人の甲冑など、身ぐるみ剥ぎ取ろうと集まって来ているようだ。こちらが手厳しく応戦すれば、彼奴らが命がけで戦うとは、まず考えられない。

ここは一つ、一戦のもとに駆け散らしてしまおう」と言いながら、三十六騎の兵士らが馬を揃えて駈け入りました。そのため、先陣を受け持っていた、野伏の五百余人が、遥か遠方の峯まで追い込まれ、続いていた第二陣の軍勢と合流しました。

糟谷は先陣の軍勢に勝ったので、もう妨害をしようとする者など居ないだろうと安心して、朝霧が晴れて行くのに従って、これから越えようとする山道を、遠くに見渡してみれば、錦の御旗が一旒、山風に翻り、その周辺に五、六千人の兵士らが、防禦陣地を前にして待ち構えています。

糟谷は控えの敵勢の数を知ると、さすがに尻込みし、その場に留まりました。この上敵を駆け破ろうとすれば、ますます人馬共に疲れるだろうし、それに引き換え、敵は険しい地形を利しているので、簡単に破ることは出来ないだろう。かと言って、近づいて矢戦をしようとしても、

こちらは矢は射尽くしてしまっているし、反対に敵は余りにも大勢過ぎる。どう考えてもこの不利な情勢から、逃れることなど出来ないと思い、麓に道路に面して、辻堂があったのを幸いに馬より降りて、そこで後続の味方勢を待つことにしました。


越後守は前陣に軍有と聞て、馬を早めて馳来給ふ。糟谷三郎、越後守に向て申けるは、「弓矢取の可死処にて死せざれば恥を見と申し習はしたるは理にて候けり。我等都にて可打死候し者が、一日の命を惜て是まで落もて来て、今云甲斐なき田夫野人の手に懸て、尸を路径の露に曝さん事こそ口惜候へ。敵此一所許にて候はゞ身命を捨て、打払ても可通候が、推量仕るに、先土岐が一族、最初より謀叛の張本にて候しかば、折を得て、美濃国をば通さじとぞ仕候はんずらん。吉良の一族も度々の召に不応して、遠江国に城郭を構て候と、風聞候しかば、出合ぬ事は候はじ。此等を敵に受ては、退治せん事、恐くは万騎の勢にても難叶。況我等落人の身と成て、人馬共に疲れ、矢の一双をも、はか/゛\しく射候べき力もなく成て候へば、何く迄か落延候べき。只後陣の佐々木を御待候て、近江国へ引返し、暫さりぬべからんずる城に楯篭て、関東勢の上洛し候はんずるを御待候へかし。」と申ければ、越後守仲時も、「此義を存ずれ共、佐々木とても今は如何なる野心か存ずらんと、憑少く覚れば、進退谷て、面々の意見を訪申さんと存ずる也。さらば何様此堂に暫く彳て、時信を待てこそ評定あらめ。」とて、五百余騎の兵共、皆辻堂の庭にぞ下居たる。佐々木判官時信は一里許引さがりて、三百余騎にて打けるが、如何なる天魔波旬の所為にてか有けん、「六波羅殿は番馬の当下にて、野伏共に被取篭て一人も不残被討給たり。」とぞ告たりける。時信、「今は可為様無りけり。」と愛智河より引返し、降人に成て京都へ上りにけり。越後守仲時、暫は時信を遅しと待給けるが、待期過て時移ければ、さては時信も早敵に成にけり。今は何くへか引返し、何くまでか可落なれば、爽に腹を切らんずる物をと、中々一途に心を取定て、気色涼くぞ見へける。其時軍勢共に向て宣ひけるは、「武運漸傾て、当家の滅亡近きに可在と見給ひながら、弓矢の名を重じ、日来の好みを不忘して、是まで着纏ひ給へる志、中々申に言は可無る。其報謝の思雖深と、一家の運已に尽ぬれば、何を以てか是を可報。今は我旁の為に自害をして、生前の芳恩を死後に報ぜんと存ずる也。仲時雖不肖也。平氏一類の名を揚る身なれば、敵共定て我首を以て、千戸侯にも募りぬらん。早く仲時が首を取て源氏の手に渡し、咎を補て忠に備へ給へ。」と、云はてざる言の下に、鐙脱で押膚脱、腹掻切て伏給ふ。

越後守北条仲時は前方で戦闘が起こったと聞き、馬を早めてやって来ました。糟谷三郎宗秋は越後守に向かって、「弓矢を取る者にとって、死処を得ずに死ぬことは、古来より恥であると言われています。我らは都において、討ち死にを遂げるべきところを、

一日の命を永らえんため、ここまで落ちてきたが、今や訳の分からない雑武者の手にかかって、屍を路傍の露に晒すことになるとは、誠に悔しい限りです。敵がここ一ヶ所だけなら、命がけで戦って敵を追い散らし、ここを通過することも可能ですが、想像してみるに、

まず土岐一族は当初より謀反を企てた張本人であれば、ここぞとばかりに、美濃国の通過を許すことはないでしょう。また吉良の一族にしても、我らの度々の召集に応じようとせず、遠江国に城郭を構えているらしいと噂があり、一戦を避けることは出来ないだろう。

これらの敵勢の攻撃を受けては、おそらく万を超える軍勢で戦っても、殲滅することは難しいでしょう。まして我々のように、落人の身になって人馬共に疲れ果て、矢の数本もまともに射ることも出来ない状態であれば、この先一体どこまで落ちることが、出来るのでしょうか。

こうなっては、後から来るはずの佐々木判官時信の到着を待って、近江国まで引き返し、しばらく適当な城に立て篭もって、関東から味方の軍勢が、上って来るのを待とうではありませんか」と、申し上げました。すると越後守北条仲時は、「それは作戦として考えても良いが、

佐々木も今となっては、何を考えているのか分からないので、あまり頼りにすることは出来ない。我々はここに進退窮まったようだ。私は皆の意見を聞きたく思うので、しばらくこの辻堂に留まり、時信が来るのを待って、作戦会議を開こうではないか」と、

五百余騎の兵士らが、皆辻堂の庭に集まりました。しかしその佐々木判官時信は、本隊から一里ほど後方を、三百余騎で進軍していましたが、いかなる天魔の囁きなのか、「六波羅殿は番場の峠を通過する時、野伏らに取り囲まれ、

一人残らず討ち取られました」などの話を耳にしたのです。時信は、「もはや手の打ちようもない」と、愛知川周辺から都に引き返し、宮方に降伏して京都に上ったのでした。その頃、越後守仲時はしばらく、時信の来るのを遅いとは思いながらも、待っていましたが、

いくら待っても戻ってきません。とうとう時信も寝返って、敵方になったのかと思われました。今となっては、どこへ引き返し、どこまで落ちて行けば良いのだ。こうなればきれいさっぱり腹を切ろうと、覚悟を決められたようで、気分も落ち着かれたように見えました。

そしてまだ彼に付き従っている軍勢らに向かって、「ここに我らの武運は尽きてしまい、北条家も滅亡間近になった。それにもかかわらず、弓矢取る身の名誉を重視し、日頃の縁を考えて、ここまで我々に従ってくれた皆の気持ちに対して、

何と言って感謝の気持ちを表わせば良いのだろうか。皆の心がけに何か報いなければと思いながらも、北条家の家運もすでに尽きてしまった以上、何を以って報えば良いのだろうか。今ここに至って私に出来ることは、諸君のために自害をして、生前に受けた恩を、

死んで後、諸君に報いることだと考える。この仲時は、特に立派な人間でもありませんが、平氏一族の中では、それなりの立場を得た人間なので、敵どもは多分、私の首に懸賞をかけていると思う。そこで仲時の首を取り、すぐ源氏の者に手渡せば、

今まで抵抗した罪も許され、また恩賞も得られるだろう」と言うや、鎧を脱ぎ肌をあらわにし、腹を掻き切って、その場に伏せられたのでした。


糟谷三郎宗秋是を見て、泪の鎧の袖に懸りけるを押へて、「宗秋こそ先自害して、冥途の御先をも仕らんと存候つるに、先立せ給ぬる事こそ口惜けれ。今生にては命を際の御先途を見終進らせつ。冥途なればとて見放可奉に非ず。暫御待候へ。死出の山の御伴申候はん。」とて、越後守の、鞆口まで腹に突立て被置たる刀を取て、己が腹に突立、仲時の膝に抱き付、覆にこそ伏たりけれ。是を始て、佐々木隠岐前司・子息次郎右衛門・同三郎兵衛・同永寿丸・高橋九郎左衛門・同孫四郎・同又四郎・同弥四郎左衛門・同五郎・隅田源七左衛門尉・同孫五郎・同藤内左衛門尉・同与一・同四郎・同五郎・同孫八・同新左衛門尉・同又五郎・同藤六・同三郎・安藤太郎左衛門入道・同孫三郎入道・同左衛門太郎・同左衛門三郎・同十郎・同三郎・同又次郎・同新左衛門・同七郎三郎・同藤次郎・中布利五郎左衛門・石見彦三郎・武田下条十郎・関屋八郎・同十郎・黒田新左衛門・同次郎左衛門・竹井太郎・同掃部左衛門尉・寄藤十郎兵衛・皆吉左京亮・同勘解由七郎兵衛・小屋木七郎・塩屋右馬充・同八郎・岩切三郎左衛門・子息新左衛門・同四郎・浦上八郎・岡田平六兵衛・木工介入道・子息介三郎・吉井彦三郎・同四郎・壱岐孫四郎・窪二郎・糟谷弥次郎入道・同孫三郎入道・同六郎・同次郎・同伊賀三郎・同彦三郎入道・同大炊次郎・同次郎入道・同六郎・櫛橋次郎左衛門尉・南和五郎・同又五郎・原宗左近将監入道・子息彦七・同七郎・同七郎次郎・同平右馬三郎・御器所七郎・怒借屋彦三郎・西郡十郎・秋月二郎兵衛・半田彦三郎・平塚孫四郎・毎田三郎・花房六郎入道・宮崎三郎・同太郎次郎・山本八郎入道・同七郎入道・子息彦三郎・同小五郎・子息彦五郎・同孫四郎・足立源五・三河孫六・広田五郎左衛門・伊佐治部丞・同孫八・同三郎・息男孫四郎・片山十郎入道・木村四郎・佐々木隠岐判官・二階堂伊予入道・石井中務丞・子息弥三郎・同四郎・海老名四郎・同与一・弘田八郎・覚井三郎・石川九郎・子息又次郎・進藤六郎・同彦四郎・備後民部大夫・同三郎入道・加賀彦太郎・同弥太郎・三嶋新三郎・同新太郎・武田与三・満王野藤左衛門・池守藤内兵衛・同左衛門五郎・同左衛門七郎・同左衛門太郎・同新左衛門・斎藤宮内丞・子息竹丸・同宮内左衛門・子息七郎・同三郎・筑前民部大夫・同七郎左衛門・田村中務入道・同彦五郎・同兵衛次郎・信濃小外記・真上彦三郎・子息三郎・陶山次郎・同小五郎・小見山孫太郎・同五郎・同六郎次郎・高境孫三郎・塩谷弥次郎・庄左衛門四郎・藤田六郎・同七郎・金子十郎左衛門・真壁三郎・江馬彦次郎・近部七郎・能登彦次郎・新野四郎・佐海八郎三郎・藤里八郎・愛多義中務丞・子息弥次郎、是等を宗徒の者として、都合四百三十二人、同時に腹をぞ切たりける。血は其身を浸して恰黄河の流の如く也。死骸は庭に充満して、屠所の肉に不異。彼己亥の年、五千の貂錦胡塵に亡び、潼関の戦に、百万の士卒河水に溺れなんも、是にはよも過じと哀なりし事共、目もあてられず、言に詞も無りけり。主上・々皇は、此死人共の有様を御覧ずるに、肝心も御身に不傍、只あきれてぞ坐しましける。

糟谷三郎宗秋はこの様子を見て、鎧の袖に涙が流れるのを抑えながら、「この宗秋がまず先に自害し、冥土への案内をせんと考えていたのに、先に自害されたとは悔しい限りです。この世では殿の御最期を見届けましたから、あの世では私もご一緒させていただきます。

しばらくお待ちになってください。冥土への山越えをご案内いたしましょう」と言って、越後守の腹に刺さっている刀を抜き、自分の腹に突き立て、仲時の膝に抱きつくようにして伏せられたのです。糟谷三郎の自害を始めに、佐々木隠岐前司、その子息次郎右衛門、

同じく三郎兵衛、同じく永寿丸、高橋九郎左衛門、同じく孫四郎、同じく又四郎、同じく弥四郎左衛門、同じく五郎、隅田源七左衛門尉、同じく孫五郎、同じく藤内左衛門尉、同じく与一、同じく四郎、同じく五郎、同じく孫八、同じく新左衛門尉、同じく又五郎、同じく藤六、

同じく三郎、安藤太郎左衛門入道、同じく孫三郎入道、同じく左衛門太郎、同じく左衛門三郎、同じく十郎、同じく三郎、同じく又次郎、同じく新左衛門、同じく七郎三郎、同じく藤次郎、中布利五郎左衛門、石見彦三郎、武田下条十郎、関屋八郎、同じく十郎、

黒田新左衛門、同じく次郎左衛門、竹井太郎、同じく掃部左衛門尉、寄藤十郎兵衛、皆吉左京亮、同じく勘解由七郎兵衛、小屋木七郎、塩屋右馬允、同じく八郎、岩切三郎左衛門、子息新左衛門、同じく四郎、浦上八郎、岡田平六兵衛、木工介入道、子息介三郎、

吉井彦三郎、同じく四郎、壱岐孫四郎、窪二郎、糟谷弥次郎入道、同じく孫三郎入道、同じく六郎、同じく次郎、同じく伊賀三郎、同じく彦三郎入道、同じく大炊次郎、同じく次郎入道、同じく六郎、櫛橋次郎左衛門尉、南和五郎、同じく又五郎、原宗左近将監入道、

子息彦七、同じく七郎、同じく七郎次郎、同じく平右馬三郎、御器所七郎、怒借家彦三郎、西郡十郎、秋月二郎兵衛、半田彦三郎、平塚孫四郎、毎田三郎、花房六郎入道、宮崎三郎、同じく太郎次郎、山本八郎入道、同じく七郎入道、子息彦三郎、同じく小五郎、

子息彦五郎、同じく孫四郎、足立源五、三河孫六、広田五郎左衛門、伊佐治部丞、同じく孫八、同じく三郎、息男孫四郎、片山十郎入道、木村四郎、佐々木隠岐判官、二階堂伊予入道、石井中務丞、子息弥三郎、同じく四郎、海老名四郎、同じく与一、弘田八郎、

覚井三郎、石川九郎、子息又次郎、進藤六郎、同じく彦四郎、備後民部大夫、同じく三郎入道、加賀彦太郎、同じく弥太郎、三嶋新三郎、同じく新太郎、武田与三、満王野藤左衛門、池守藤内兵衛、同じく左衛門五郎、同じく左衛門七郎、同じく左衛門太郎、同じく新左衛門、

斎藤宮内丞、子息竹丸、同じく宮内左衛門、子息七郎、同じく三郎、筑前民部大夫、同じく七郎左衛門、田村中務入道、同じく彦五郎、同じく兵衛次郎、信濃小外記、真上彦三郎、子息三郎、陶山次郎、同じく小五郎、小見山孫太郎、同じく五郎、同じく六郎次郎、

高境孫三郎、塩谷弥次郎、庄左衛門四郎、藤田六郎、同じく七郎、金子十郎左衛門、真壁三郎、江馬彦次郎、近部七郎、能登彦次郎、新野四郎、佐海八郎三郎、藤里八郎、愛多義中務丞、子息弥次郎らを、主だった者として、総数四百三十二人が同時に腹を切ったのでした。

流れ出る血液は倒れた遺骸を浸し、あたかも黄河を流れる水のようでした。死骸は庭に溢れ返り、表現は良くないですが、屠殺場の肉と何ら異なるものでもありません。あの中国の唐時代に起こった黄巣の乱において、己亥の年(879年)に五千人の勇敢な兵士らが、

胡の兵士と戦って命を失ったことや、同じく後漢末期(211年)に起こった潼関の戦いにおいて、将士、兵士が河に溺れて百万人の死者を数えたことなども、今ここに起こった事態とそう変わらないと思え、なんとも悲惨なことであり、目も当てられければ言葉に表すことも出来ません。

光厳天皇も後伏見上皇も、この悲惨な事態をご覧になって気も動転し、ただただ呆然とその場に座られたままでした。


○主上・々皇為五宮被囚給事付資名卿出家事
去程に五宮の官軍共、主上・々皇を取進らせて其日先長光寺へ入奉り、三種神器並玄象・下濃・二間の御本尊に至まで、自五宮の御方へぞ被渡ける。秦の子嬰漢祖の為に被亡て天子の璽符を頚に懸、白馬素車に乗て、■道の傍に至り給ひし亡秦の時に不異。日野大納言資名卿は、殊更当今奉公の寵臣也。しかば、如何なる憂目をか見んずらんとて、身を危ぶんで被思ければ、其辺の辻堂に遊行の聖の有ける処へおはして、可出家由を宣ひければ、聖軈て戒師と成て、無是非髪を剃落さんとしけるを、資名卿聖に向て、「出家の時は、何とやらん四句の偈を唱る事の有げに候者を。」と被仰ければ、此聖其文をや知ざりけん、「汝是畜生発菩提心。」とぞ唱たりける。三河守友俊も同く此にて出家せんとて、既に髪を洗けるが、是を聞て、「命の惜さに出家すればとて、汝は是畜生也。と唱給ふ事の悲しさよ。」と、ゑつぼに入てぞ笑ける。如此今まで付纏ひ進らせたる卿相雲客も、此彼に落留て、出家遁世して退散しける間、今は主上・春宮・両上皇の御方様とては、経顕・有光卿二人より外は供奉仕る人もなし。其外は皆見狎ぬ敵軍に前後を被打囲て、怪げなる網代輿に被召て、都へ帰上らせ給へば、見物の貴賎岐に立て、「あら不思議や、去年先帝を笠置にて生捕進らせて、隠岐の国へ流し奉りし其報、三年の中に来りぬる事の浅猿さよ。昨日は他州の憂と聞しかど、今日は我上の責に当れりとは、加様の事をや申すべき。此君も又如何なる配所へか被遷させ給て宸襟を被悩ずらんと、心あるも心なきも、見る人毎に因果歴然の理を感思して、袖をぬらさぬは無りけり。

☆ 光厳天皇、後伏見上皇が五の宮に囚われたことと、日野資名卿が出家されたこと

やがて守良親王(亀山天皇の皇子、五辻宮か?)が率いる軍隊が、光厳天皇と後伏見上皇の身柄を拘束し、その日とりあえず長光寺に御遷り願い、三種の神器と玄象及び下濃(すそご)の琵琶、そして清涼殿の部屋である二間に祭ってある御本尊まで、

自ら五辻宮(守良親王)にお渡しになられました。古代中国の秦の皇帝、子嬰が漢国の高祖、劉邦に滅ぼされた時、子嬰は皇帝の玉璽を首に掛け、白馬に牽かせた白木造りの馬車に乗って、シ道(地名?)の周辺まで行き、秦の滅亡が決まった時と、何も変わるものではありません。

日野大納言資名卿は特に光厳天皇に目をかけられた寵臣でしたから、このたびはどのような処置をされるのか不安に駆られ、我が身の保身を図る為、そのあたりにあった辻堂に、諸国遍歴している僧侶を訪ねて行き、出家をしたい旨申し上げたところ、

僧侶は早速戒師の役を務め、当然のように髪を剃り落とそうとしましたが、資名卿はその時僧に向かい、「出家する時、なぜか詳しくは知らないが、四句の偈(仏や菩薩を賞賛する言葉)を唱えると聞いているが」と、話されたのですが、この遊行僧はその偈を知らなかったのか、

「汝是畜生発菩提心」(あなたは畜生とかわりがないが、仏門に入ろうという気を起こした)と、唱えました。三河守友俊もここで一緒に出家しようと、既に髪を洗い終わっていましたが、この偈を聞き、「命惜しさに出家をしようとすれば、汝は畜生と同じじゃないかと、

唱えられるとは悲しい限りだ」と、思わず笑い転げました。このように今まで天皇の供として付き従ってきた、公卿や高級官僚たちも、あちらこちらへと逃亡したり、また出家遁世を図って退散してしまいました。そのため今は光厳天皇、康仁皇太子、後伏見上皇、

花園上皇に付き従う者としては、中納言経顕、宰相の有光卿の二人だけになってしまいました。その外は皆見慣れない敵の兵士だけであり、その彼らに前後を囲まれ、粗末な網代輿に乗せられて、都に上っていかれました。途中の道では、

見物に現われた人々が身分に関係なく、「なんともはや、不思議なことがあるものだ。以前、先帝後醍醐を笠置にて生け捕りにし、隠岐国へ流罪に処したその報いを、三年もしない内に受けるとは、情けないことではないか。昨日はよそ事のように聞いていても、

今日は我が身のこととなる、とはこのことを言うのだろう。今このように囚われた帝も、またどこかの配所に遷され、辛いお気持ちでお暮らしになるのだろうと、見る人は皆、因果応報の道理に感じ入り、袖を濡らさない人はいませんでした。


○千葉屋城寄手敗北事
去程に昨日の夜、六波羅已に被責落て、主上・々皇皆関東へ落させ給ぬと、翌日の午刻に、千葉屋へ聞へたりければ、城中には悦び勇で、唯篭の中の鳥の、出て林に遊ぶ悦をなし、寄手は牲に赴く羊の、被駆て廟に近づく思を成す。何様一日も遅く引かば、野伏弥勢重りて、山中の路可難儀とて、十日の早旦に、千葉屋の寄手十万余騎、南都の方へと引て行く。前には兼て野臥充満たり。跡よりは又敵急に追懸る。都て大勢の引立たる時の癖なれば、弓矢を取捨て、親子兄弟を離て、我先にと逃ふためきける程に、或は道もなき岩石の際に行つまりて腹を切り、或は数千丈深き谷の底へ落入て、骨を微塵に打摧く者、幾千万と云数を不知。始御方の勢を帰さじとて、寄手の方より警固を居、谷合の関・逆木も引除て通る人無ければ、被関落ては馬に離れ、倒れては人に被蹈殺。二三里が間の山路を、数万の敵に被追立て一軍もせで引しかば、今朝まで十万余騎と見へつる寄手の勢、残少なに被討成、僅に生たる軍勢も、馬物具を捨ぬは無りけり。されば今に至るまで、金剛山の麓、東条谷の路の辺には、矢の孔の刀の疵ある白骨、収る人もなければ、苔に纏れて塁々たり。されども宗徒の大将達は、一人も道にては不被討して生たる甲斐はなけれ共、其日の夜半許に、南都にこそ被落着けれ。

☆ 千早城を攻撃していた寄せ手が敗北したこと

その頃千早城でのことです。宮方の六波羅総攻撃(五月七日)の夜、六波羅が陥落し光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇ら皆が、関東に向かって落ち行かれたと、翌日の午後、午の刻(午後十二時頃)に千早城にも聞こえてきました。籠城中の将士らはその報に喜び勇んで、

籠の鳥が籠から出て、林で飛び遊ぶようであり、反対に寄せ手軍は、生贄に供せられる羊が神社に向かうような落ち込み方です。ここは一日でも退却が遅れれば、野伏などが大勢集まってきて、山中の道は危険この上ないと、十日の早朝に千早城を取り囲んでいた寄せ手軍、

十万余騎は奈良方面に向かって退却を始めました。過去に例があるように、大勢の軍隊が退却をしようとすれば、弓矢は捨ててしまい、親子兄弟でもばらばらになって、我先に逃げようとうろたえてしまいます。ある者は道も無いような岩場に突き当たって、止む無く腹を切ったり、

またある者は、数千丈もあるような深い谷底に落ちて、骨を微塵に打ち砕いたりし、その数一体幾千万なのかその数さえ分かりません。当初は寄せ手の軍勢が、逃亡するのを阻止するため設置していた、谷間の関門や逆茂木なども、取り除いて通ろうとする者もなく、

がむしゃらに逃げるので、破壊された関門にさえぎられ、馬から落ちてしまう者や、その場に倒れ込んで、他の人に踏み殺される者など続出です。二、三里ほどの山道を、数万の敵に追い立てられ、ただ一度の戦闘もしないで退却をしました。

今朝まで十万余騎もいると見えた寄せ手の幕府軍も、残り少なくなるまで討ち取られ、僅かに生き残った軍勢も、馬や武器を持った者などいません。そのような訳で、現在でも金剛山の麓や東条谷周辺の路傍には、矢の穴があいたり、刀傷のある白骨などが、

納め葬る人も居ないため、苔にまみれて数多く見られます。とは言っても、寄せ手の幕府軍の中でも、主だった大将たちは、退却途中で一人も討たれることなく、生き残ってもたいして意味もありませんが、その日の夜半に奈良に落ち着かれたのでした。      (終)    

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