11 太平記 巻第十一 (その一)


○五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事
義貞已に鎌倉を定て、其威遠近に振ひしかば、東八箇国の大名・高家、手を束ね膝を不屈と云者なし。多日属随て忠を憑む人だにも如此。況や只今まで平氏の恩顧に順て、敵陣に在つる者共、生甲斐なき命を続ん為に、所縁に属し降人に成て、肥馬の前に塵を望み、高門の外に地を掃ても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望を捨て、僧法師に成たる平氏の一族達をも、寺々より引出して、法衣の上に血を淋き、二度は人に契らじと、髪をゝろし貌を替んとする亡夫の後室共をも、所々より捜出して、貞女の心を令失。悲哉、義を専にせんとして、忽に死せる人は、永く修羅の奴と成て、苦を多劫の間に受けん事を。痛哉、恥を忍で苟も生る者は、立ろに衰窮の身と成て、笑を万人の前に得たる事を。中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相摸入道殿の重恩を与たる侍なる上、相摸入道の嫡子相摸太郎邦時は、此五大院右衛門が妹の腹に出来たる子なれば、甥也。主也。何に付ても弐ろは非じと深く被憑けるにや、「此邦時をば汝に預置ぞ、如何なる方便をも廻し、是を隠し置き、時到りぬと見へば、取立て亡魂の恨を可謝。」と相摸入道宣ければ、宗繁、「仔細候はじ。」と領掌して、鎌倉の合戦の最中に、降人にぞ成たりける。

☆ 五大院右衛門宗繁が相模太郎を言いくるめたこと

新田義貞はすでに鎌倉を平定し、その武力と権威が、近国、遠国を問わず知れ渡ってからは、関東八ヶ国の大名や名門、豪族などが、お世辞を述べたり、機嫌を取り結ぼうとしました。長年北条家に忠義を尽くしてきた人でも、この有様です。

まして、ついさっきまで平氏の恩顧に答えんため、敵陣に属していた者どもも、今更生き甲斐があるとも思えませんが、命を永らえようと縁を頼って、降伏を申し出てきます。新田軍の威勢に屈し、門内外の清掃に励んででも、今回の敵対の罪を、少しでも許してもらおうとの魂胆です。

新田の方でも、今はこの世の夢を全く捨てて、僧や法師になった、平氏の一族などでも、寺々から引っ張り出しては、僧衣を血で染めたりしました。また二夫には交えずと心に決め、髪を下ろし尼として生きようと決めた後家を、何処からか探し出してきては、貞女の心を冒涜しました。

悲しい限りですが、忠義であることを第一に考えて、幕府滅亡と共に自害した人達でも、長く修羅道にさまよい、苦しみの上に、また苦しみを、何時までも受けなければなりません。痛ましいことですが、恥を忍んで、何とか生きようとした者でも、忽ちに暮らしは貧窮し、

世間の万人から、嘲笑を受けることになります。中でも五大院右衛門尉宗繁は、今は亡き相模入道高時殿から、長年にわたり恩を受けてきた人です。また相模入道の嫡子、相模太郎邦時は、この五大院右衛門の妹が出産した子供ですから、甥にあたると共に、主君にもあたります。

いずれにしても、宗繁に二心など全く考えられないので、相模入道高時は、「この邦時を汝に預けておく。どのような手段を取ってでも、この子を匿い通し、時期が来たと思えば、主君として従い、我らのこの恨みを和らげて欲しいのだ」と仰せられ、宗繁は、「分かりました。

お任せください」と引き受け、鎌倉内が合戦の最中に、降伏したのです。


角て二三日を経て後、平氏悉滅びしかば、関東皆源氏の顧命に随て、此彼に隠居たる平氏の一族共、数た捜出されて、捕手は所領を預り、隠せる者は忽に被誅事多し。五大院右衛門是を見て、いや/\果報尽はてたる人を扶持せんとて適遁得たる命を失はんよりは、此人の在所を知たる由、源氏の兵に告て、弐ろなき所を顕し、所領の一所をも安堵せばやと思ければ、或夜彼相摸太郎に向て申けるは、「是に御坐の事は、如何なる人も知候はじとこそ存じて候に、如何して漏聞へ候けん、船田入道明日是へ押寄候て、捜し奉らんと用意候由、只今或方より告知せて候。何様御座の在所を、今夜替候はでは叶まじく候。夜に紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落させ給候へ。宗繁も御伴申度は存候へ共、一家を尽して落候なば、船田入道、さればこそと心付て、何くまでも尋求る事も候はんと存じ候間、態御伴をば申まじく候。」と、誠し顔に成て云ければ、相摸太郎げにもと身の置所なくて、五月二十七日の夜半計に、忍て鎌倉を落玉ふ。昨日までは天下の主たりし相摸入道の嫡子にて有しかば、仮初の物詣で・方違ひと云しにも、御内・外様の大名共、細馬に轡を噛せて、五百騎・三百騎前後に打囲で社往覆せしに、時移事替ぬる世の有様の浅猿さよ、怪しげなる中間一人に太刀持せて、伝馬にだにも乗らで、破たる草鞋に編笠着て、そこ共不知、泣々伊豆の御山を尋て、足に任て行給ひける、心の中こそ哀なれ。

やがて二、三日も過ぎた頃には、平氏は全滅してしまったので、関東の国々は全て、源氏の命令に従うこととなりました。ここかしこに潜んでいた平氏の一族らも、多数探し出され、彼らを捕らえた者には、所領が与えられ、隠した者は即刻処罰を受けるようなことが、数多く見られました。

五大院右衛門宗繁はこの状況を見て、よく考えてみれば、このような運の尽きた人を養育するために、せっかく助かった命をなくすよりも、この子の居場所を知っていると、源氏の兵士に知らせて、新田側に忠義を示し、所領の一つでも貰うほうが良いと考えました。

そこである夜、相模太郎邦時に向かって、「ここに貴殿が居られることは、絶対に誰も知るはずが無いと、思っていましたが、どうして漏れ知られたのか、船田入道が明日ここに押し寄せて、家捜しをするらしいと、今ある者から知らされました。

そこで何としても、今夜中に居場所を変えなければならなくなりました。夜陰に紛れて、急いで伊豆山の方へ落ち延びてください。この宗繁もお供したいのですが、一家全員で落ちてしまえば、船田入道もこれはおかしいと気づき、何処までも捜索の手を伸ばすとも、考えられるので、

ここはわざとお供をいたしません」と、まことしやかに話され、相模太郎もなるほど、自分はここにいる訳にはいかないと、五月二十七日の夜半頃、鎌倉を密かに脱出しました。つい先日までは天下の主だった、相模入道高時の嫡子ですから、ちょっとした神社仏閣への参拝や、

方違え(陰陽道で、方角が悪い場合、前日一旦他の方角へ行くこと)の外出であっても、身内や外様の大名らが、駿馬の轡を取り、五百騎、三百騎を前後に控えさせて、神社仏閣参拝の往復をしたものです。しかし、時移り、事態の急変があった世の中、何とも情けない限りですが、

みすぼらしい雑用の召使一人に、太刀を持たせて、輸送用の宿場馬にも乗らず、破れた草鞋に編み笠と言う姿で、方角もはっきり分からないままに、泣く泣く伊豆山に向かって足を歩ませる、心の中たるや、哀しくも哀れなものです。


五大院右衛門は、加様にして此人をばすかし出しぬ。我と打て出さば、年来奉公の好を忘たる者よと、人に指を被差つべし。便宜好らんずる源氏の侍に討せて、勲功を分て知行せばやと思ければ、急船田入道が許に行て、「相摸の太郎殿の在所をこそ、委く聞出て候へ、他の勢を不交して、打て被出候はゞ、定て勲功異他候はんか。告申候忠には、一所懸命の地を安堵仕る様に、御吹挙に預り候はん。」と云ければ、船田入道、心中には悪き者の云様哉と乍思、「先子細非じ。」と約束して、五大院右衛門尉諸共に、相摸太郎の落行ける道を遮てぞ待せける。相摸太郎道に相待敵有とも不思寄、五月二十八日明ぼのに、浅猿げなる■れ姿にて、相摸河を渡らんと、渡し守を待て、岸の上に立たりけるを、五大院右衛門余所に立て、「あれこそ、すは件の人よ。」と教ければ、船田が郎等三騎、馬より飛で下り、透間もなく生捕奉る。俄の事にて張輿なんどもなければ、馬にのせ舟の縄にてしたゝかに是を誡め、中間二人に馬の口を引せて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり。此人未だ幼稚の身なれば、何程の事か有べけれ共、朝敵の長男にてをはすれば、非可閣とて、則翌日の暁、潛に首を刎奉る。昔程嬰が我子を殺して、幼稚の主の命にかへ、予譲が貌を変じて、旧君の恩を報ぜし、其までこそなからめ、年来の主を敵に打せて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有也。不道也と、見る人毎に爪弾をして悪みしかば、義貞げにもと聞給て、是をも可誅と、内々其儀定まりければ、宗繁是を伝聞て、此彼に隠れ行きけるが、梟悪の罪身を譴めけるにや、三界雖広一身を措に処なく故旧雖多一飯を与る無人して、遂に乞食の如に成果て、道路の街にして、飢死にけるとぞ聞へし。

五大院右衛門はこのように、相模太郎を言いくるめて追い出したのです。自分が討ち取って差し出すと、長年奉公をしておきながら、その恩を忘れた者だと、人に後ろ指を指されるのは、間違いありません。そこで適当な源氏の武者に、討ち取らせてから、

その手柄で得た所領を、山分けしようと考え、急いで船田入道の所へ行き、「相模太郎殿の居場所を、詳しく聞きだしてきました。他の人を交えずに、彼を討ち取って差し出せば、きっとその手柄は大きなものでしょう。私が情報を与えた謝礼としては、私の領地を安堵してもらえるように、

新田殿に頼み込んでください」と、話しました。船田入道は心中、なんて悪い奴が好きなことを、言うものだと思いながらも、「分かった、心配するな」と約束し、五大院右衛門尉と共に、相模太郎の落ちて行く道を、先回りして待ち受けました。

相模太郎はこの先、敵が待ち受けているとも思わず、五月二十八日の明け方、みすぼらしくも哀れな姿で、相模川を渡ろうと、岸の上に立って船頭を待っていました。それを五大院右衛門は離れた場所に立って、「あそこに立っている人が、例の相模太郎です」と教えると、

船田の家来、三騎が馬より飛び降り、すぐに生け捕りにしました。突然のことなので張り輿(畳表などを張った簡略な輿)もなく、馬に乗せて舟の縄できつく縛り、召使二人に馬の口を取らせて、白昼、鎌倉に連行しました。この様子を見た人は勿論、このことを聞いた人も、

涙で袖を濡らさない人はいませんでした。この相模太郎はまだまだ幼いので、命を奪うほどの事も無いのですが、朝敵高時の長男でもあれば、やはり無視出来ず、すぐ翌日の明け方、密かに首を刎ねたのです。昔、中国の春秋時代、大臣の趙盾が皇帝の怒りを買い、

一家全員死刑の罰を受けた時、部下の程嬰が我が子を、趙盾の子供の身代わりに差し出して、子孫を守ったことや、晋国の予譲が顔に漆を塗って、旧主から受けた恩に報おうとしたことなど、何もそこまでとは言わぬまでも、長年仕えてきた主人を敵に討たせて、

自分の欲望のために、忠義の心を失った、五大院右衛門のごとき心を持った人間など、そう居るものではありません。人の道に外れた、とんでもない奴だと、彼を見る人は皆、爪弾きして憎しんだのです。新田義貞もこの話を聞き、当然なことだろうと考え、

この男も処刑すべきだと、内々決定したのですが、五大院宗繁はこの話を何かで伝え聞き、あちこちに身を隠していましたが、人の道に背く質の悪い罪に、天が責め咎めるのか、この広い世間と言えども、我が身一つさえ置く所もありません。旧友も数多く持っているとは言え、

一椀の飯をくれる人も無く、とうとう乞食のように成り果て、路傍で飢え死にしたと言われています。


○諸将被進早馬於船上事
都には五月十二日千種頭中将忠顕朝臣・足利治部大輔高氏・赤松入道円心等、追々早馬を立て、六波羅已に令没落之由船上へ奏聞す。依之諸卿僉議あて、則還幸可成否の意見を被献ぜ。時に勘解由次官光守、諌言を以て被申けるは、「両六波羅已に雖没落、千葉屋発向の朝敵等猶畿内に満て、勢ひ京洛を呑めり。又賎き諺に、「東八箇国の勢を以て、日本国の勢に対し、鎌倉中の勢を以て、東八箇国の勢に対す」といへり。されば承久の合戦に、伊賀判官光季を被追落し事は輒かりしか共、坂東勢重て上洛せし時、官軍戦ひに負て、天下久武家の権威に落ぬ。今一戦の雌雄を測るに、御方は纔に十〔に〕して其一二を得たり。「君子不近刑人」と申事候へば、暫く只皇居を被移候はで、諸国へ綸旨を被成下、東国の変違を可被御覧ぜや候らん。」と被申ければ、当座の諸卿悉此議にぞ被同ける。而れども、主上猶時宜定め難く被思召ければ、自周易を披かせ給て、還幸の吉凶を蓍筮に就てぞ被御覧ける。御占師卦に出て云、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終也。大君之命不失功也。開国承家、以寧邦也。小人勿用、非其道也。」と注せり。御占已に如此。此上は何をか可疑とて、同二十三日伯耆の舟上を御立有て、腰輿を山陰の東にぞ被催ける。路次の行装例に替りて、頭大夫行房・勘解由次官光守二人許こそ、衣冠にて被供奉けれ。其外の月卿雲客・衛府諸司の助は、皆戎衣にて前騎後乗す。六軍悉甲冑を着し、弓箭を帯して、前後三十余里に支へたり。塩冶判官高貞は、千余騎にて、一日先立て前陣を仕る。又朝山太郎は、一日路引殿て、五百余騎にて後陣に打けり。金持大和守、錦の御旗を差て左に候し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副ふ。雨師道を清め、風伯塵を払ふ。紫微北辰の拱陣も、角やと覚て厳重也。されば去年の春隠岐国へ被移させ給ひし時、そゞろに宸襟を被悩て、御泪の故と成し山雲海月の色、今は竜顔を令悦端と成て、松吹風も自ら万歳を呼ぶかと被奇、塩焼浦の煙まで、にぎわう民の竈と成る。

☆ 諸将が船上山に向けて早馬を立てられたこと

都では五月十二日、千種頭中将忠顕朝臣や足利治部大輔高氏、また赤松入道円心らが、次々と早馬を立てて、六波羅がすでに陥落したことを、船上山の後醍醐帝に報告しました。このことによって船上山では、諸公卿らが会議を行い、すぐに都へ還御すべきか、皆の意見を求めました。

その時、勘解由次官光守が勝ち誇る人々に、注意をするように、「南北の六波羅がすでに陥落したとは言っても、千早城を攻撃していた朝敵らは、畿内に分散して満ち溢れ、その勢力は京都を脅かしています。また俗に、『東国八ヶ国の軍勢で、日本国の軍勢に匹敵し、

鎌倉中の軍勢で、東国八ヶ国の軍勢に匹敵する』と、言われています。だから承久の合戦において、伊賀判官光季を追い落とすのは、たやすい事でしたが、再度すぐに関東勢が上洛して来るや、官軍は合戦に負けを喫し、その後天下は永らく、鎌倉のものとなりました。

今回の合戦の勝敗について、検討してみれば、味方は僅か十の内、その一か二を得たに過ぎません。『君子たる者、受刑者に近づくべからず』とも言いますので、しばらくは皇居を移すことなく、諸国に幕府討滅の綸旨を下し、東国の動きをじっと見ていましょう」と、申し上げると、

その場に居た諸公卿らは、この案に賛成したのです。しかし、後醍醐天皇は都へ還御の時期を決めがたく、自ら周易(周代に生まれた易)によって占おうとし、還幸の吉凶を筮竹によって、判断しました。占い師は卦に現われたことについて、「師貞、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。

小人勿用。(筮竹の姿や記号の組み合わせによって、文言が決まっているらしい)王弼注云、処師之極、師之終也。大君之命不失功也。開国承家、以寧邦也。小人勿用、非其道也」と、占い師は判断しました。この度の占いの結果については、「合戦は器量のある者が指揮をすれば問題ない。

帝たる者が合戦に勝利して、国を再興し、人物を選んで責任ある立場に、就かせるべきである。王弼(三国時代の学者、政治家)が言っているように、軍隊は極限まで戦えば、その軍は破滅する。帝の命を守ることが一番の功績であって、国を再興し、国家を安泰に保つことが重要であり、

そのため器量の小さい者は、決して登用しないことである。それは道理に反するからである」と、説明しました。占いの結果がこうであれば、この上何を逡巡するのかと、五月二十三日に、伯耆、船上山をご出発され、腰輿に乗られて、山陰東部に向かわれました。

道中の行列の姿は、過去の行幸とは異なり、頭大夫行房と勘解由次官光守の二人だけが、衣冠を着けてお供しました。その他の公卿や殿上人、また諸官庁の高級役人たちは、みな軍服姿で帝の前後を騎乗してお供しました。従う軍勢は全員甲冑を身に着け、

弓矢を携えて帝の前後、三十余里を警護しました。塩冶判官高貞は千余騎を率いて、一日早く出発し、全軍の先鋒を務めました。また朝山太郎は出発を一日遅らせ、五百余騎でしんがりを受け持ちました。金持大和守は錦の御旗を捧げて、帝の左側を進み、

また伯耆守名和長年は剣を帯びて、帝を警備する任務にあたり、右側に控えました。雨を司る神は道中を清め、風の神が埃を払いました。天空の紫微星、北極星を数々の星が守る様子も、このようなものかと思われるほど、厳重なものでした。

思い返せば昨年(元弘二年、1332年)の春、三月七日に隠岐国に配流となった時、何かにつけ気持ちが落ち込み、涙のもととなった山を始め雲や海、また月の様子など全てが、今は帝のお顔を喜びにあふれさせ、松林を吹き抜ける風も、万歳を叫んでいるのかと、怪しまれます。

塩を焼く浜辺のかまどから、上がる煙さえも、これからの豊かな民衆が、煮炊きする竈から、上る煙のように見えます。


○書写山行幸事付新田注進事
五月二十七日には、播磨国書写山へ行幸成て、先年の御宿願を被果、諸堂御順礼の次に、開山性空上人の御影堂を被開に、年来秘しける物と覚て、重宝ども多かりけり。当寺の宿老を一人召て、「是は如何なる由緒の物共ぞ。」と、御尋有ければ、宿老畏て一々に是を演説す。先杉原一枚を折て、法華経一部八巻並開結二経を細字に書たるあり。是は上人寂寞の扉に御坐て妙典を読誦し給ける時、第八の冥官一人の化人と成て、片時の程に書たりし御経也。又歯禿て僅に残れる杉の屐あり。是は上人当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道三十五里の間を一時が内に歩ませ給し屐也。又布にて縫たる香の袈裟あり。是は上人御身を不放、長時に懸させ給けるが、香の煙にすゝけたるを御覧じて、「哀洗ばや。」と被仰ける時、常随給仕の乙護法「是を洗て参候はん。」と申て、遥に西天を指して飛去ぬ。且く在て、此袈裟をば虚空に懸乾、恰も一片の雲の夕日に映ずるが如し。上人護法を呼て、「此袈裟をば如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本の内には可然清冷水候はで、天竺の無熱池の水にて濯で候也。」と、被答申たりし御袈裟也。生木化仏の観世音、稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦満往生極楽願、百千倶■悉所念と、天人降下供養し奉る像なり。毘首羯磨が作りし五大尊、是のみならず、法華読誦の砌には、不動・毘沙門の二童子に、形を現じて仕給也。又延暦寺の中堂供養の日は、上人当山に坐しながら、風に如来唄を引給しかば、梵音遠く叡山の雲に響て一会の奇特を顕せし事共、委細に演説仕りたれば、主上不斜信心を傾させ給て、則当国の安室郷を御寄附有て、不断如法経の料所にぞ被擬ける。今に至まで、其妙行片時も懈る事無して、如法如説の勤行たり。誠に滅罪生善の御願難有かりし事共也。

☆ 書写山に行幸されたことと、新田義貞から鎌倉滅亡の報告があったこと

五月二十七日には、播磨国書写山円教寺に行幸され、以前からの宿願が、成就したことを感謝して、諸堂を参拝した後、書写山を開山された、性空上人の御影を祭った、御影堂の扉を開きました。中には長年秘蔵されてきた、宝物など多数ありました。

この寺の老僧を一人呼び寄せて、「これらの宝物はいかなる由緒があるのか」と質問され、老僧は一つ一つ、謹んでご説明しました。まず最初に、杉原紙一枚を折って、法華経一部八巻と開結二経(本経の前と後に読む経。法華三部経では開経が無量義経、結経が観普賢経)を、

細かい字で書かれた物があります。これは開祖の上人が、閑静なお堂にて、法華経を読誦されていた時、地獄閻魔庁第八の役人が、人間の姿で現れ、瞬時に書き上げたお経です。また歯が摩滅し僅かに残った、杉の下駄があります。

これは上人がこの山より、毎日比叡山に参詣される時、道中三十五里の街道を、二時間もかけずに歩かれた下駄です。またここに布製で、香りのする袈裟があります。この袈裟は上人が肌身離さず、長期にわたって使用されて、お香の煙にすすけてきたのをご覧になり、

「これはいかん、洗わなければ」と、おっしゃられた時、いつもお傍でお仕えし、仏法をお守りしている鬼神が、「では、私が洗って参りましょう」と申し上げ、遥か西の空に向かって、飛び去りました。暫くすると、この袈裟が天空に架けられ、乾かされていました。

それはまるで一片の雲が、夕日に輝くように見えました。上人は鬼神をお呼びになられ、「この袈裟はどのような水で洗ったのか」と質問されると、鬼神は、「日本には洗うのに適した、冷たく清らかな水がありませんので、天竺(インド)の無熱池(ヒマラヤの北にあるという想像上の池)の水で洗いました」と、

答えられたという袈裟です。また昔この地に桜の木があり、天人が舞い降りて、その桜の木に向かい、衆生が幸福で長寿を保てるように、また極楽往生がかなえられるように、十万億の衆生全てが願っていますと、礼拝していました。その姿を見て性空上人が、

その桜の木に彫らせた如意輪観世音菩薩像で、この寺の本尊となっています。上人が法華経を読誦される時は、帝釈天に仕える毘首羯磨が造った、五大尊明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉)だけでなく、不動明王と多聞天が、二人の童子に姿を変えて現れ、お世話をされました。

また比叡山延暦寺の根本中堂の、法要の日には、上人はこの山に控えて、風に向かって如来唄(如来を讃える言葉を歌う)を歌われると、その声は遠く比叡山にかかる雲に響き渡り、法会の席に、不可思議な状況を起こさせたことなど、詳しく説明されました。

後醍醐先帝はこれらの説明により、信仰のお気持ちが大変強くなり、すぐに、ここ播磨国の安室郷(姫路市)を寄進され、毎日絶え間なく、法華経を読む費用に充てられました。そしてそのお陰で現在に至るまで、ただの一度も途絶えることなく、

仏法(仏教の真理)と仏説(仏教の思想)にかなった勤行を続けています。それは現世の罪を消滅させると共に、来世に良い結果を生むための祈願であり、本当にありがたい後醍醐先帝の、お取り計らいでした。


二十八日に法華山へ行幸成て、御巡礼あり。是より龍駕を被早て、晦日は兵庫の福厳寺と云寺に、儲餉の在所を点じて、且く御坐有ける処に、其日赤松入道父子四人、五百余騎を率して参向す。竜顔殊に麗くして、「天下草創の功偏に汝等贔屓の忠戦によれり。恩賞は各望に可任。」と叡感有て、禁門の警固に奉侍せられけり。此寺に一日御逗留有て、供奉の行列還幸の儀式を被調ける処に、其日の午刻に、羽書を頚に懸たる早馬三騎、門前まで乗打にして、庭上に羽書を捧たり。諸卿驚て急披て是を見給へば、新田小太郎義貞の許より、相摸入道以下の一族従類等、不日に追討して、東国已に静謐の由を注進せり。西国・洛中の戦に、官軍勝に乗て両六波羅を雖責落、関東を被責事は、ゆゝしき大事成べしと、叡慮を被回ける処に、此注進到来しければ、主上を始進せて、諸卿一同に猶預の宸襟を休め、欣悦称嘆を被尽、則、「恩賞は宜依請。」と被宣下て、先使者三人に各勲功の賞をぞ被行ける。

二十八日には法華山一乗寺(加西市)に行幸され、諸堂を参拝されました。これらの行事が終わってからは、お籠を早められ、三十一日には兵庫の福巌寺と言う寺を、食糧の備蓄場所として検討するため、暫く滞在されていました。

そしてその日、赤松入道父子四人が、五百余騎を率いて参上してきました。後醍醐先帝は大変お喜びになり、「国家再建が出来た一番の功績は、もっぱら汝らが忠義の心に燃えて、戦ってくれたことにある。それに対する恩賞は、望みのままに任せよう」と感激され、

御座所の警護役に任じられました。後醍醐はこの寺に一日滞在され、お供する行列や、都への還幸の儀式など準備をしていましたが、その日の昼頃に、火急の用件を記した手紙を首にかけ、早馬三騎が門前まで馬を乗り入れてくると、庭でその手紙を差し出しました。

諸公卿たちは驚き慌てて、その手紙を開いて見ると、新田小太郎義貞より、相模入道高時以下、北条一族、その家系につながる諸家の人々など、即刻討ち果たして、関東の国々の乱は、すでに沈静化したことを、報告してきたものでした。西国や洛中の合戦に官軍が勝利し、

それに乗じて、南北の六波羅を攻め落としたと言っても、関東の鎌倉幕府を滅亡に導くまでは、この容易ならぬ大事が、成就したとは言えないと、一抹の不安を感じていたところに、この連絡が入り、後醍醐先帝を始めとして、諸公卿一同は不安も一掃し、戦勝を喜び官軍を褒め称えました。

早速後醍醐は、「恩賞を思うがままに取らせよ」と命じられ、まず使者三人に、それぞれ勲功の恩賞を与えられました。


○正成参兵庫事付還幸事
兵庫に一日御逗留有て、六月二日被回腰輿処に、楠多門兵衛正成七千余騎にて参向す。其勢殊に勇々敷ぞ見へたりける。主上御簾を高く捲せて、正成を近く被召、「大儀早速の功、偏に汝が忠戦にあり。」と感じ被仰ければ、正成畏て、「是君の聖文神武の徳に不依ば、微臣争か尺寸の謀を以て、強敵の囲を可出候乎。」と功を辞して謙下す。兵庫を御立有ける日より、正成前陣を奉て、畿内の勢を相順へ、七千余騎にて前騎す。其道十八里が間、干戈戚揚相挟、左輔右弼列を引、六軍次でを守り、五雲閑に幸すれば、六月五日の暮程に、東寺まで臨幸成ければ、武士たる者は不及申、摂政・関白・太政大臣・左右の大将・大中納言・八座・七弁・五位・六位・内外の諸司・医陰両道に至まで、我劣じと参集りしかば、車馬門前に群集して、地府に布雲、青紫堂上に陰映して、天極に列星。翌日六月六日、東寺より二条の内裏へ還幸成て、其日先臨時の宣下有て、足利治部大輔高氏治部卿に任ず。舎弟兵部大輔直義左馬頭に任ず。去程に千種頭中将忠顕朝臣、帯剣の役にて、鳳輦の前に被供奉けるが、尚非常を慎む最中なればとて、帯刀の兵五百人二行に被歩。高氏・直義二人は後乗に順て、百官の後に被打。衛府の官なればとて、騎馬の兵五千余騎、甲冑を帯して被打。其次に宇都宮五百余騎、佐々木判官七百余騎、土居・得能二千余騎、此外正成・長年・円心・結城・長沼・塩冶已下諸国の大名は、五百騎・三百騎、其旗の次に一勢々々引分て、輦輅を中にして、閑に小路打たり。凡路次の行装、行列の儀式、前々の臨幸に事替て、百司の守衛厳重也。見物の貴賎岐に満て、只帝徳を頌し奉声、洋々として耳に盈り。

☆ 楠木正成が兵庫に参上したことと、後醍醐先帝が都へ還幸されたこと

兵庫に一日ご滞在の後六月二日、腰輿に乗り、都に向け出発しようとしていた時、楠木多聞兵衛正成が、七千余騎を率いて参上してきました。彼の軍勢は特に勇ましく見えました。後醍醐先帝は御簾を高く巻き上げさせて、正成を近くに呼び寄せられ、「ご苦労であった。

このように早く事が成ったのは、まさしく汝の忠義に燃えた、働きによるものである」と、感動を込めて仰せられました。正成は敬意を表して、「いえいえ、この度の合戦は、帝の知恵や聖徳のお力が無ければ、私の如き微臣が考える策謀で、強敵の包囲を破ることなど、

とても出来ませんでした」と、勲功を誇ることなく、謙虚に話されました。兵庫をご出発された日から、正成は行列の先陣を務め、近畿圏内の軍勢を従えて、七千余騎にて先頭を進みました。その途中の十八里の間は、武士は武器を携え、帝に仕える役人らが行列を率いました。

軍勢の隊列は整然と歩み、帝の乗られた車は粛々と進みました。やがて六月五日の夕方に、東寺にご到着し、武士は言うに及ばず、摂政、関白、太政大臣、左右の大将、大納言、中納言、八座(参議の異称)、七弁(太政官の七人の弁官)、五位や六位の役人、

その他諸官庁の役人、また医術や陰陽道にたずさわる人など、我先に参集しましたから、車馬が東寺の門前にひしめく有様は、たなびく雲が地上を覆い、建物の中では諸公卿が、光り輝いているように見え、まるで北極星に連なる星のようでした。

翌日の六月六日には、東寺より二条の内裏に還幸することとなり、それに先立って臨時の除目が行われ、足利治部大輔高氏を治部卿(治部省の長官)に任命しました。また弟の兵部大輔直義を左馬頭に任じました。やがて帝の行列は千種頭中将忠顕朝臣が、

剣を帯して帝の警護をする役目を務め、帝の乗り物の前方を、お供していましたが、まだまだ非常事態を、警戒しなければならないので、太刀を持った兵士五百人が、二列になって歩みました。足利高氏、直義の兄弟二人は、百官の後方、行列の最後尾を騎馬で従いました。

彼ら二人は行幸の警備官として、騎馬の兵士ら五千余騎が、甲冑を着けて従いました。その次には宇都宮の五百余騎、佐々木判官道誉の七百余騎、また土居、得能の二千余騎、そのほか楠木正成、名和長年、赤松円心、結城、長沼、塩冶以下諸国の大名らが、

五百騎、三百騎を率いています。大名らは各家の旗をなびかせ、軍勢をそれぞれにまとめて、後醍醐の車を中央に取り囲み、粛々と都の道を進みました。全体として今回の行列は、人々の衣装や乗り物、また行列の儀式など、以前の行幸とは様変わりして、役人らによる警戒が厳重でした。

行列を見物する人々は、身分に関係なく路上に満ちて、ただただ後醍醐の帝徳を称える声が沸き起こり、何処までもその歓声が耳にあふれたのです。


○筑紫合戦事
京都・鎌倉は、已に高氏・義貞の武功に依て静謐しぬ。今は筑紫へ討手を被下て、九国の探題英時を可被責とて、二条大納言師基卿を太宰帥に被成て、既に下し奉らんとせられける処に、六月七日、菊池・小弐・大伴が許より、早馬同時に京着して、九州の朝敵無所残、退治候ぬと奏聞す。其合戦の次第を、後に委く尋ぬれば、主上未だ舟上に御座有し時、小弐入道妙慧・大伴入道具簡・菊池入道寂阿、三人同心して、御方に可参由を申入ける間、則綸旨に錦の御旗を副てぞ被下ける。其企彼等三人が心中に秘して、未色に雖不出、さすがに隠れ無りければ、此事頓て探題英時が方へ聞へければ、英時、彼等が野心の実否を能々伺ひ見ん為に、先菊池入道寂阿を博多へぞ呼ける。菊池此使に肝付て、是は如何様彼隠謀露顕して、我等を討ん為にぞ呼給ふ覧。さらんに於は、人に先をせられては叶ふまじ、此方より遮て博多へ寄て、覿面に勝負を決せんと思ければ、兼ての約諾に任て、小弐・大伴が方へ触遺しける処に、大伴、天下の落居未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明の返事に不及。小弐は又其比京都の合戦に、六波羅毎度勝に乗由聞へければ、己が咎を補はんとや思けん、日来の約を変じて、菊池が使八幡弥四郎宗安を討て、其頚を探題の方へぞ出したりける。菊池入道大に怒て、「日本一の不当人共を憑で、此一大事を思立けるこそ越度なれ。よし/\其人々の与せぬ軍はせられぬか。」とて元弘三年三月十三日の卯刻に、僅に百五十騎にて探題の館へぞ押寄ける。菊池入道櫛田の宮の前を打過ける時、軍の凶をや被示けん。又乗打に仕たりけるをや御尤め有けん。菊池が乗たる馬、俄にすくみて一足も前へ不進得。入道大に腹を立て、「如何なる神にてもをはせよ、寂阿が戦場へ向はんずる道にて、乗打を尤め可給様やある。其義ならば矢一つ進せん。受て御覧ぜよ。」とて、上差の鏑を抜き出し、神殿の扉を二矢までぞ射たりける。矢を放つと均く、馬のすくみ直りにければ、「さぞとよ。」とあざ笑て、則打通りける。其後社壇を見ければ、二丈許なる大蛇、菊池が鏑に当て死たりけるこそ不思議なれ。

☆ 筑紫における合戦のこと

京都と鎌倉は、足利高氏と新田義貞の武力の行使によって、すでに鎮圧されました。そこで今後は筑紫に追討軍を送り、九州の探題、北条英時を征伐すべきだと、二条大納言師基卿を太宰帥に任命して、今まさに派遣しようとしていた、

六月七日に菊池や少弐また大伴らから、早馬が京都に同時に到着し、九州の朝敵は、残らず征伐し終わったと、連絡が入りました。その合戦の状況を、後になって詳しく聞いたところ、後醍醐先帝が未だ船上山に居られた時、少弐入道妙慧、大伴入道具簡と菊池入道寂阿ら三人が、

話し合いの上、宮方に味方する旨を申し入れ、すぐに綸旨と一緒に、錦の御旗を添えて下賜されたのです。その宮方転向の件については、彼ら三人は心中深く秘密にして、決して表に出さないよう、努めていましたが、さすがに隠しおおせず、

やがてこのことは探題北条英時に、知られることとなりました。英時は彼らの野心の真否について、詳しく聞き取ろうと、まず最初に菊池入道寂阿を、博多に呼びつけました。菊池はこの呼び出しに不審を持ち、これはきっと宮方転向の計画が漏れて、

我らを討ち取るため、呼び出すのに違いない。もしそうならば、英時に先を越されては、勝ち目がないだろう。ここは当方から密かに博多へ押し寄せ、一気に勝負を決してやろうと考え、以前から約束していた少弐と大伴のもとに、この旨連絡を取ったのですが、

大伴は天下の情勢が、未だ明確には分からないからと、はっきりとした返事はしませんでした。また少弐は少弐で、その頃京都の合戦で、六波羅の幕府軍が、連戦連勝だと聞いていたので、我が身の保身を図るため、今までの約束を破り、

菊池からの使者、八幡弥四郎宗安を討ち取り、その首を探題に差し出したのです。菊池入道はこの事態に激怒し、「日本一の不義理な人間を頼んで、このような大事を思い立ったことが、私の決定的な落ち度だった。よしこうなれば彼らの協力なしで、

合戦をしてやろうじゃないか」と、元弘三年(1333年)三月十三日の卯刻(午前六時頃)に、僅か百五十騎で、探題の屋敷に押し寄せたのです。菊池入道は途中、櫛田宮(佐賀県神崎市)の前を通過する時、神が合戦の不吉を示そうとしたのか、それとも馬に乗ったまま、

通過するのを咎められたのか、菊池の乗った馬が突然すくんで、一歩も前に進もうとしませんでした。入道は大いに腹を立て、「いかなる神であろうと、この寂阿が戦場に向かわんとする道で、馬に乗ったまま通過することを、咎めることなどあってたまるか。

それならば矢の一本でも進呈してやろう、見事受けてみよ」と、箙にさした矢以外の、鏑矢を抜き出して、神殿の扉に向かって、二本の矢を射込みました。矢を放つやすぐに馬のこわばりが直り、「どうだ」とばかりに笑い捨て、すぐそこを通り過ぎました。

その後、神社の神殿を見てみると、二丈ばかりの大蛇が、菊池の放った鏑矢に射られて、死んでいたのも不思議な話です。


探題は、兼てより用意したる事なれば、大勢を城の木戸より外へ出して戦はしむるに、菊池小勢なりといへども、皆命を塵芥に比し、義を金石に類して、責戦ければ、防ぐ兵若干被打て、攻の城へ引篭る。菊池勝に乗て、屏を越関を切破て、透間もなく責入ける間、英時こらへかねて、既に自害をせんとしける処に、小弐・大友六千余騎にて、後攻をぞしたりける。菊池入道是を見て、嫡子に肥後守武重を喚て云けるは、「我今小弐・大友に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共、義の当る所を思ふ故に、命を堕ん事を不悔。然れば寂阿に於ては、英時が城を枕にして可討死。汝は急我館へ帰て、城を堅し兵を起して、我が生前の恨を死後に報ぜよ。」と云含め、若党五十余騎を引分て武重に相副、肥後の国へぞ返しける。故郷に留置し妻子共は、出しを終の別れとも知らで、帰るを今やとこそ待らめと、哀に覚ければ、一首の歌を袖の笠符に書て故郷へぞ送ける。故郷に今夜許の命ともしらでや人の我を待らん肥後守武重は、「四十有余の独の親の、只今討死せんとて大敵に向ふ戦なれば、一所にてこそ兎も角も成候はめ。」と、再三申けれども、「汝をば天下の為に留るぞ。」と父が庭訓堅ければ、武重無力是を最後の別と見捨て、泣々肥後へ帰ける心の中こそ哀なれ。其後菊池入道は二男肥後三郎と相共に、百余騎を前後に立て、後攻の勢には目を不懸して探題の屋形へ責入、終に一足も引ず、敵に指違々々一人も不残打死す。専諸・荊卿が心は恩の為に仕はれ、侯生・予子が命は義に依て軽しとも、是等をや可申。さても小弐・大伴が今度の振舞人に非ずと天下の人に被譏ながら、暗知ずして世間の様を聞居たりける処に、五月七日両六波羅已に被責落て、千葉屋の寄手も悉南都へ引退ぬと聞へければ、小弐入道、こは可如何と仰天す。去ば我れ探題を奉討身の咎を遁ばやと思ければ、先菊池肥後守と大友入道とが許へ内々使者を遣して相語ふに、菊池は先に懲て耳にも不聞入。大友は我も咎ある身なれば、角てや助かると堅領掌してげり。

探題の北条英時は、前もって警戒していたことなので、大勢の兵士を城の木戸から外に出して、戦わせていました。しかし菊池軍は人数こそ少ないとは言っても、全員が命を塵埃の如く軽く考え、捨てる覚悟を決めていますし、忠義の心だけは金石の如く硬く持ち、

攻め続けたので、探題の兵士らも多数討ち取られ、城に逃げ込み立て篭もったのでした。菊池軍は勝ちに乗じて、塀を乗り越え関を破って、間断なく攻め込んだので、さすがの英時もこらえることが出来ず、すでに自害をも覚悟した時、少弐と大伴の軍勢が六千余騎で、

菊池の後方を攻撃し始めました。菊池入道はこれを見て、嫡子の肥後守菊池武重を大声で呼び寄せ、「私は今、少弐と大伴の裏切りに会い、ここで討ち死にするけれども、義を重んじたため、命を落すことに悔いはない。そこで寂阿はここ、北条英時の城を枕に討ち死にする。

しかし汝は急いで菊池の舘に引き返し、城を固めると共に兵士を集め、私のこの恨みを死後に晴らせよ」と良く言い含め、若武者ら五十余騎を選抜して武重に与え、肥後国に帰したのです。故郷に残してきた妻子たちは、出発を見送ったのが、この世の別れになろうとも知らず、

帰るのを今や遅しと待っているかと思うと、可哀相になり一首の歌を、鎧の袖に付けた笠印に書き付け、故郷へ送りました。
      故郷(ふるさと)に 今夜ばかりの 命とも 知らでや人の 我を待つらん

肥後守武重は、「四十余歳のたった一人の親が、今まさに討ち死にを覚悟で、大敵に向かおうとする合戦であれば、どうなろうとも同じ所に一緒で居りたい」と、何度も申し入れましたが、「汝を天下のために残すのだ」と、父の考えも固くては、武重も仕方なく、

ここを最期の別れとして、父を見捨てるような格好で、泣く泣く肥後国に帰る心中、如何ばかりの悲しさでしょう。その後、菊池入道は二男の肥後三郎と一緒に、百余騎を前後に従え、後方から攻めてくる少弐、大伴の軍勢には目もくれず、探題の屋敷に攻め入り、

最後まで一歩も引かずに敵と戦い、また刺し違えて、一人残らず討ち死にしたのでした。専諸(闔閭::中国春秋時代の呉国王)や荊卿(荊軻::中国戦国時代末期の刺客)は、ただ主君に対する恩に報いようとし、候生(後漢末期の武将)や予子(宰我::孔子の門人)の二人は、

我が命は義のためには、捨てる覚悟を持っていたのは、このことを言うのでしょうか。しかし、少弐や大伴のこの度の行動は、とても人間のすることではないと、世間の人々から非難されながらも、密かに世の中の動きを探っていたところ、五月七日になって、

南北両六波羅がすでに陥落し、千早城の攻撃軍も、全員が南都に引き上げたと聞き、少弐入道妙慧は一体これはどうなったのかと、びっくり仰天しました。こうなれば自分は探題北条英時を討って、反幕府として生き残ろうと考え、まず菊池肥後守武重と大伴入道具簡のもとに、

使者を密かに派遣して、相談しようとしました。菊池は前回のことに懲りて、耳を貸そうともしませんでしたが、大伴は自分も過去のことを考えれば、この話に乗って非難から逃れようと、同調することを固く約束しました。


今日や明日やと吉日を撰ける処に、英時、小弐が隠謀の企を聞て、事の実否を伺見よとて、長岡六郎を小弐が許へぞ遣しける。長岡則行向て、小弐に可見参由を云ければ、時節相労事有とて、対面に不及。長岡無力、小弐入道が子息筑後新小弐が許に行向、云入て、さりげなき様にて彼方此方を見るに、只今打立んずる形勢にて、楯を矯せ鏃を砺最中也。又遠侍を見るに、蝉本白くしたる青竹の旗竿あり。さればこそ、船上より錦の御旗を賜たりと聞へしが、実也けりと思て、対面せば頓て指違へんずる者をと思ける処に、新小弐何心もなげにて出合たり。長岡座席に着と均しく、「まさなき人々の謀反の企哉。」と云侭に、腰の刀を抜て、新小弐に飛で懸ける。新小弐飽まで心早き者なりければ、側なる将碁の盤をゝつ取て突刀を受留め、長岡にむずと引組で、上を下へぞ返しける。頓て小弐が郎従共あまた走寄て、上なる敵を三刀指て、下なる主を助けゝれば、長岡六郎本意を不達して、忽に命を失てげり。小弐筑後入道、さては我謀反の企、早探題に被知てげり。今は休事を得ぬ所也とて、大伴入道相共に七千余騎の軍兵を率して、同五月二十五日の午刻に、探題英時の館へ押寄ける。世の末の風俗、義を重ずる者は少く、利に趨る人は多ければ、只今まで付順つる筑紫九箇国の兵共も、恩を忘て落失せ、名をも惜まで翻りける間、一朝の間の戦に、英時遂に打負て、忽に自害しければ、一族郎従三百四十人、続て腹をぞ切たりける。哀哉、昨日は小弐・大友、英時に順て菊池を討、今日は又小弐・大友、官軍に属して、英時を討。「行路難、不在山兮、不在水、唯在人情反覆之間」と、白居易が書たりし筆の跡、今こそ被思知たれ。

少弐入道は探題襲撃を今日か明日かと、縁起の良い日を選んで入る内に、英時は少弐入道の陰謀を聞きつけ、事実の確認のため、長岡六郎を少弐のもとに派遣しました。長岡は即刻少弐のもとに向かい、面会したくて参ったと申し入れましたが、

あいにく体調不調だと、対面することが出来ませんでした。長岡は仕方なく、少弐入道の子息、筑後新少弐のもとに行き、面会を申し込み、何気ない振りをして、屋敷のあちこちを見回すと、今すぐにでも出発する感じで、楯を修繕したり、鏃を研いでる最中です。

また警護武士の詰め所を見ると、上部を白くした青竹で作った、旗竿もあります。なるほど、船上山の後醍醐先帝より、錦の御旗を賜ったと聞いていたが、本当だったのかと思い、もし対面が叶えば、すぐにでも刺し違えてやろうと、思っているところに、

新少弐が何ら疑いも持たずに、出てきました。長岡は席に着くやいなや、「悪党どもめ、謀反を企てやがったな」と言うや、腰の刀を抜き、新少弐に飛びかかりました。しかし新少弐も、とても勘の働く者なので、そばにあった将棋盤か碁盤を取り、突いてくる刀を受け止め、

長岡にむんずと組み付き、そのまま取っ組み合いとなりました。すぐに少弐の家来ら大勢走り寄って、上になっていた敵に刀を三度刺して、下になっていた主人、新少弐を助け出しました。長岡六郎は目的を達することが出来ず、間もなく死亡してしまいました。

少弐筑後入道妙慧は、きっと自分の謀反計画が、早くも探題に感づかれたに違いない、こうなれば一時も猶予ならないと、大伴入道と一緒になって、七千余騎の軍勢を率いて、元弘三年(1333年)五月二十五日の午刻(午後零時頃)に、探題北条英時の屋敷に押し寄せました。

この時代は世も末なのか、人々の考えや習慣も、義理を重んずる人は少なく、ただ自分にとっての利害にのみ、頭を働かせる人が多く、ついさっきまで従っていた、筑紫九ヶ国の兵士らも、今までの恩も忘れて、どこかに落ちて行ったり、また名を惜しむことなく、裏切ったりしました。

そのため戦いもそこそこに、とうとう英時は負けて、すぐ自害してしまい、一族や家来たち三百四十人が、続いて腹を切ったのでした。何とも情けない話ですが、昨日は少弐と大伴は英時に従って、菊池を討ち取り、今日になると少弐、大伴は官軍に従属して、今度は英時を討ち取る始末です。

「行く道の厳しさは、山の険しさや、流れる川の水に、原因があるのではなく、ただそれは人の心が移ろい、豹変することにあるのです」と、白居易の書き残した言葉が、今こそ思い知らされることとなりました。      (終)    

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