11 太平記 巻第十一 (その二)


○長門探題降参事
長門の探題遠江守時直、京都の合戦難儀の由を聞て、六波羅に力を勠せんと、大船百余艘に取乗て、海上を上けるが、周防の鳴渡にて、京も鎌倉も早皆源氏の為に被滅て、天下悉王化に順ぬと聞へければ、鳴渡より舟を漕もどして、九州の探題と一所に成んと、心づくしへぞ赴きける。赤間が関に着て、九州の様を伺ひ聞給へば、「筑紫の探題英時も、昨日早小弐・大友が為に被亡て、九国二嶋悉公家のたすけと成ぬ。」と云ければ、一旦催促に依て、此まで属順たる兵共も、いつしか頓て心替して、己が様々に落行ける間、時直僅に五十余人に成て柳浦の浪に漂泊す。彼の浦に帆を下さんとすれば、敵鏃を支て待懸たり。此嶋に纜を結ばんとすれば、官軍楯を双べて討んとす。残留る人々にさへ、今は心を沖津波、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮舟の橈を絶、思はぬ風に漂へり。跡に留めし妻子共も、如何成ぬ〔ら〕んと、責て其行末を聞て後、心安く討死をもせばやと被思ければ、且の命を延ん為に、郎等を一人船よりあげて、小弐・嶋津が許へ、降人に可成由をぞ伝へける。小弐も嶋津も年来の好み浅からざりけるに、今の有様聞も哀にや思けん。急迎に来て、己が宿所に入奉る。其比峯の僧正俊雅と申しは、君の御外戚にてをはせしを、笠置の合戦の刻に筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開て、国人皆其左右に慎み随ふ。九州の成敗、勅許以前は暫此僧正の計ひに在しかば、小弐・嶋津、彼時直を同道して降参の由をぞ申入ける。僧正、「子細あらじ。」と被仰て、則御前へ被召けり。時直膝行頓首して、敢て不平視、遥の末座に畏て、誠に平伏したる体を見給て、僧正泪を流して被仰けるは、「去元弘の始、無罪して此所に被遠流時、遠州我を以て寇とせしかば、或は過分の言の下に面を低て泪を推拭ひ、或は無礼の驕の前に手を束て恥を忍き。然に今天道謙に祐して、不測世の変化を見に、吉凶相乱れ栄枯地を易たり。夢現昨日は身の上の哀み、今日は人の上の悲也。「怨を報ずるに恩を以てす」と云事あれば、如何にもして命許を可申助。」と被仰ければ、時直頭を地に付て、両眼に泪を浮めたり。不日に飛脚を以て、此由を奏聞ありければ、則勅免有て懸命の地をぞ安堵せられける。時直無甲斐命を扶て、嘲を万人の指頭に受といへども、時を一家の再興に被待けるが、幾程もあらざるに、病の霧に被侵て、夕の露と消にけり。

☆ 長門探題北条時直が降伏したこと

長門の探題、遠江守北条時直は京都での合戦が苦戦だと聞き、六波羅に加勢しようと、大船百余艘に乗り込み、海上を都に向け進んでいました。しかし周防の鳴渡(柳、井市)付近で、京都も鎌倉も、すでに源氏の軍勢に滅ぼされ、天下は全て宮方に従うことになったと聞き、

鳴渡から舟を返し、九州の探題、北条英時と一緒になろうと、色々と考え悩みながら、筑紫に向かって漕ぎ戻しました。赤間が関まで来て、九州の様子を探ってみると、「筑紫の探題英時も、昨日、早くも少弐と大伴のために滅ぼされ、

九国二嶋(大宰府管内全域:全九州)は全て、宮方の傘下に入ってしまった」と、報告がありました。一度はたっての頼みに、ここまでは付いてきた兵士らも、何時しか心変わりを早めて、各自がてんでばらばらに落ちて行き、今は時直に従う者、僅か五十余人になり、

柳浦(北九州市付近の海岸?)の波間に漂うこととなりました。あちらの浦に帆を下ろそうとすれば、敵は鏃をそろえて、待ち構えています。ではこちらの島に舟を泊めようとすると、官軍が盾を並べて、攻め込もうとする有様です。

ここまで居残っていた人々でさえ、今となっては、心中穏やかではありません。帰る場所もなければ、身を寄せる所さえなく、この世を生き抜くすべをも失い、思いも寄らぬ、世間の動きに翻弄されているばかりです。故郷に残してきた妻子らも、この先どうなるのかと思えば、

せめてその行く末だけでも聞いてから、心穏やかに討ち死にをしようと考え、少しでも延命を図ろうと、家来一人を上陸させ、少弐と島津の陣営に、降伏する旨を伝えさせました。少弐も島津も北条時直とは、長年の親しい付き合いもある上、

現在の状況を聞けば可哀相になり、急遽迎えに行かせて、自分らの宿所に呼び入れました。当時、そこには峯の僧正俊雅と言う僧が居ました。彼は後醍醐先帝の外戚だったので、笠置の合戦の時、罪を問われて、筑前国に流罪となっていました。

しかしこの政変のため、一度に運が開き、筑前国の人々は皆、彼の命令には謹んで従います。九州の政治一般は、朝廷からの命令が来るまでは、暫くこの僧正の裁断に任されていますから、少弐と島津は北条時直を同道して、降伏の旨を申し入れました。

僧正は、「問題なかろう」と仰せられ、早速御前に呼ばれました。時直は膝を床に付けて進むと、その場にぬかずき、僧正をまともに見ようともせず、遥か末座に畏まり、ただ恐れ入って平伏しました。僧正はその姿を見て、涙を流され、

「去る元弘(1331-1333年)の始め頃、私が罪も無いのに、ここに流されて来た時、汝、遠江守時直は私のことを敵視したため、もしかするとその時の、身分不相応な言辞を思って、顔を伏せて涙を拭っているのか、それとも勝者のおごりを持って、

無礼な振る舞いをしたことに、手をついて恥を忍んでいるのか。しかし今や天の神より、何かと助けを頂き、思いもかけず世の変転を見たためか、何が吉で何が凶なのかも分からないし、また栄枯盛衰が地上を支配していることをも知った。

夢なのかそれとも現実なのか、昨日は我が身にあった哀しみが、今日になれば他の人に、その悲しみが移っているようだ。『自分をひどい目に遭わせた人に対して、報復を考えず、博愛の心をもって恩恵を与えよ』と、言う言葉もある。

ここはどのような手段をとっても、汝の命を助けてやろう」と、仰せられたのです。聞いていた時直は、頭を地面に着けて、両の目には涙を浮かべていました。すぐにこの件を飛脚にて都に伝え、帝の判断を仰いだところ、すぐにお許しが出て、所領をも安堵されることになりました。

その後、時直は大して意味も無い命を永らえ、多くの人から軽蔑を受けながらも、一家の再興のため日を過ごしていましたが、しばらくして死の病におかされ、夕べの露のように、その命は終わったのでした。


○越前牛原地頭自害事
淡河右京亮時治は、京都の合戦の最中、北国の蜂起を鎮めん為に越前の国に下て、大野郡牛原と云所にぞをはしける。幾程無して、六波羅没落の由聞へしかば、相順たる国の勢共、片時の程に落失て、妻子従類の外は事問人も無りけり。去程に平泉寺の衆徒、折を得て、彼跡を恩賞に申賜らん為に、自国・他国の軍勢を相語ひ、七千余騎を率して、五月十二日の白昼に牛原へ押寄る。時治敵の勢の雲霞の如なるを見て、戦共幾程が可怺と思ければ、二十余人有ける郎等に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧の坐しけるを請じて、女房少き人までも、皆髪に剃刀をあて、戒を受させて、偏に後生菩提の経営を、泪の中にぞ被致ける。戒の師帰て後、時治女房に向て宣ひけるは、「二人の子共は男子なれば、稚しとも敵よも命を助じと覚る間、冥途の旅に可伴。御事は女性にてをわすれば、縦ひ敵角と知とも命を失ひ奉るまでの事は非じ。さても此世に在存へ給はゞ、如何なる人にも相馴て、憂を慰む便に付可給。無跡までも心安てをはせんをこそ、草の陰・苔の下までもうれしくは思ふべけれ。」と、泪の中に掻口説て聞へければ、女房最と恨て、「水に住鴛、梁に巣燕も翼をかわす契を不忘。況や相馴進て不覚過ぬる十年余の袖の下に、二人の子共をそだてて、千代もと祈し無甲斐も、御身は今秋の霜の下に伏し、少き者共は朝の露に先立て、消はてなん後の悲を堪へ忍ては、時の間もながらふべき我身かや。とても思に堪かねば、生て可有命ならず。同は思ふ人と共にはかなく成て、埋れん苔の下までも、同穴の契を忘じ。」と、泪の床に臥沈む。去程に防矢射つる郎等共已に皆被討て、衆徒箱の渡を打越、後の山へ廻ると聞へければ、五と六とに成ける少き人を鎧唐櫃に入て、乳母二人に前後を舁せ、鎌倉河の淵に沈めよとて、遥に見送て立たれば、母儀の女房も、同其淵に身を沈めんと、唐櫃の緒に取付て歩行、心の中こそ悲しけれ。唐櫃を岸の上に舁居て、蓋を開たれば、二人の少き人顔を差挙て、「是はなう母御何くへ行給ふぞ。母御の歩にて歩ませ給ふが御痛敷候。是に乗らせ給へ。」と何心もなげに戯ければ、母上流るゝ泪を押へて、「此河は是極楽浄土の八功徳池とて、少き者の生れて遊び戯るゝ所也。我如く念仏申て此河の中へ被沈よ。」と教へければ、二人の少き人々母と共に手を合せ、念仏高らかに唱へて西に向て坐したるを、二人の乳母一人づゝ掻抱て、碧潭の底へ飛入ければ、母上も続て身を投て、同じ淵にぞ被沈ける。其後時治も自害して一堆の灰と成にけり。隔生則忘とは申ながら又一念五百生、繋念無量劫の業なれば、奈利八万の底までも、同じ思の炎と成て焦給ふらんと、哀也ける事共也。

☆ 越前牛原地頭が自害したこと

淡河右京亮時治は、京都で合戦が行われている最中に、北国で起こった蜂起を鎮圧するために、越前国に下って、大野郡牛原(福井県大野市)と言う所に来ていました。しかし間もなく六波羅が陥落してしまったと聞こえてくるや、それまで従っていた自国の兵士らが、

瞬く間に落ちて行き、妻子と親族以外、言葉をかける相手もいなくなりました。やがて平泉寺(白山神社・勝山市)の衆徒らが、この機会を逃すなとばかり、北条の領国を恩賞として得ようと、自国や他国の軍勢らと相談し、七千余騎を率いて、

五月十二日の昼頃、牛原に押し寄せました。時治は敵の雲霞のような大軍を見て、たとえ戦っても、どれほど支えられるのかと思い、二十余人ほど残っていた家来らに、向かってくる敵を防がせながら、近くの寺院から僧を呼び寄せ、

女房やまだ幼い子供までも、皆、髪に剃刀をあて、戒を受けさせて、ひたすら後生の弔いを、涙ながらに行いました。戒を授けてくれた僧が帰ってから、時治は女房に向かって、「二人の子供は男の子なので、たとえ幼いとは言っても、

敵はめったに命を助けるとも思えないので、冥土の旅に連れて行こうと思う。貴女は女性であるから、たとえ敵が、私の妻であると知ったとしても、命を奪うようなことはしないだろう。そこで、この世に命のある限り、どのような人でも良いから、再婚し幸せになってください。

私が死んでからでも、貴女が幸せに暮らしてくれることが、草葉の陰や苔の下にあっても、嬉しく思います」と涙ながらに、説得するように話されました。聞いていた女房は恨めしげに、「水に住む鴛鴦や、梁に巣を作る燕でも、将来を誓ったことを忘れるものではありません。

まして私はお互い愛し合って、知らぬ間に過ごした、十年あまりを暮らすうちに、二人の子供を育ててきました。私はこれからも末永く、今のこの暮らしをが続くことを、祈ってきたのに関わらず、貴方はこの秋、霜の降る中に命をなくされ、

また幼い子供たちには、朝の露と先立たれようとしています。私は消えてしまいたいほどの悲しみに、耐え忍んでまで、生きるほどの命でしょうか。とても耐えられるとも思えず、生き残る気持ちなどありません。ただ望むことは、愛する人と共に生を終え、

埋められた苔の下までも、一緒に居たい気持ちで一杯です」と話され、涙に濡れた床に、伏せてしまわれました。そうこうしている内に、敵の侵入を防ぐため、矢を射ていた家来たちは、皆、討ち取られてしまいました。平泉寺の衆徒らは箱の渡(場所不明)を通り過ぎて、

後方の山に回るらしいと聞くと、五歳と六歳になる幼い子供を、鎧用の唐櫃に入れ、乳母二人に前後を担がせて、鎌倉川(九頭竜川の支流)の淵に沈めるようにと、指示がありました。遠くから見送るため立たれた母親は、同じ川の淵に身を沈めようと思い、

唐櫃についている紐を持って、一緒に歩かれました。歩む母の心中、まことに悲しい限りです。やがて唐櫃を川の岸辺に担ぎ下ろし、蓋を開けてみると、二人の幼い子供たちは、顔を持ち上げ、「お母さん、何処へ行くのですか。

お母さんの歩みに合わせていますが、辛そうに見えます。これに乗られてはいかがですか」と、無邪気にふざけると、母上は流れる涙を抑えて、「この河は極楽浄土にあると言う、八功徳池で、幼い子供が生まれてから、遊んだりふざけたりする所です。

私のするように念仏を唱え、この川の中に沈みなさい」と教えると、二人の幼い子供たちは、母と一緒に手を合わせ、念仏を声高らかに唱えて、西に向かって座りました。その子供らを二人の乳母が、一人づつ抱き上げ、深く青々とした淵に飛び込むと、

母上も続いて身を投げ、同じ淵に沈まれたのです。その後、父の淡河時治も自害し、一塊の灰となりました。人は生まれてきた時、前世のことは忘れ去ると言いますが、また反面、一度でも妄想を抱いただけで、五百回も輪廻の報いを受けるとも言われ、

地獄の果ての地獄まで、これらの人々が焦熱に責められ、苦しまれることは、あまりにも可哀相なことです。


○越中守護自害事付怨霊事
越中の守護名越遠江守時有・舎弟修理亮有公・甥の兵庫助貞持三人は、出羽・越後の宮方北陸道を経て京都へ責上べしと聞へしかば、道にて是を支んとて、越中の二塚と云所に陣を取て、近国の勢共をぞ相催しける。斯る処に、六波羅已に被責落て後、東国にも軍起て、已に鎌倉へ寄けるなんど、様々に聞へければ、催促に順て、只今まで馳集つる能登・越中の兵共、放生津に引退て却て守護の陣へ押寄んとぞ企ける。是を見て、今まで身に代命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従も、時の間に落失て、剰敵軍に加り、朝に来り暮に往て、交を結び情を深せし朋友も、忽に心変じて、却て害心を挿む。今は残留たる者とては、三族に不遁一家の輩、重恩を蒙し譜代の侍、僅に七十九人也。五月十七日の午刻に敵既に一万余騎にて寄ると聞へしかば、「我等此小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出すべき、憖なる軍して、無云甲斐敵の手に懸り、縲紲の恥に及ばん事、後代迄の嘲たるべし。」とて、敵の近付ぬ前に女性・少き人々をば舟に乗て澳に沈め、我身は城の内にて自害をせんとぞ出立ける。遠江守の女房は、偕老の契を結て今年二十一年になれば、恩愛の懐の内に二人の男子をそだてたり。兄は九弟は七にぞ成ける。修理亮有公が女房は、相馴て已に三年に余けるが、只ならぬ身に成て、早月比過にけり。兵庫助貞持が女房は、此四五日前に、京より迎へたりける上臈女房にてぞ有ける。其昔紅顔翠黛の世に無類有様、風に見初し珠簾の隙もあらばと心に懸て、三年余恋慕しが、兎角方便を廻して、偸出してぞ迎へたりける。語ひ得て纔に昨日今日の程なれば、逢に替んと歎来し命も今は被惜ける。恋悲みし月日は、天の羽衣撫尽すらん程よりも長く、相見て後のたゞちは、春の夜の夢よりも尚短し。忽に此悲に逢ける契の程こそ哀なれ。末の露本の雫、後れ先立つ道をこそ、悲き物と聞つるに、浪の上、煙の底に、沈み焦れん別れの憂さ、こはそもいかゞすべきと、互に名残を惜つゝ、伏まろびてぞ被泣ける。

☆ 越中の守護が自害したことと、怨霊のこと

越中の守護、名越遠江守時有とその舎弟修理亮有公、そして甥の兵庫助貞持の三人は、出羽、越後方面の宮方の軍勢が、北陸道経由で、京都に攻め上るらしいと聞き、途中でこれを阻止するため、越中の二塚(高岡市)と言う所に陣を構えて、近国の軍勢を召集しました。

そんな時、都では六波羅がすでに陥落し、東国でも反乱軍が蜂起して、既に鎌倉に攻め込んでいるらしいとか、色々取り沙汰されると、それまで命令に従って、駆け集まっていた、能登や越中の兵士らは、放生津(射水市)まで退却して、

反対に守護の陣営を、攻撃しようと計画しました。このような状況を見て、今までは我が身に代えても、主人の命を守ろうと、忠義に燃えていた家来たちも、瞬く間に逃げ落ちたり、中には敵軍に加わったりする有様です。また朝にはこちらに来て、

夕方には先方に出向き、互いに交際を深め、友情を育んできた親友なども、たちまちに心変わりをして、敵意を持ち始める始末です。今はもう居残っているのは、父方、母方一族と妻の一族らなど、逃げることの出来ない人たちや、

代々恩を受けてきた、譜代の侍たちなど、僅かに七十九人です。五月十七日、午刻(午後零時頃)には、早くも一万余騎の敵軍が、攻め寄せてくると言われ、「我らのこの少ない軍勢で、たとえ合戦をしても、何の効果も無いだろう。

中途半端な軍をした挙句、情けなくも敵の手にかかり、捕虜として恥を受けることになれば、末代まで皆から馬鹿にされることになる」と覚悟を決め、敵の近づく前に、女性や幼い人々を舟に乗せて沖に沈め、自分らは城の中で自害をしようと、出かけました。

遠江守時有の奥方は、共に老い、死んだ後は同じ墓に入ろうと、固い約束を交わしてから、今年二十一年になります。肉親としての愛情あふれる中に、二人の男の子を育ててきました。兄は九歳、弟は七歳になります。

また時有の弟、修理亮有公の奥方は、結婚してから、すでに三年少しになりますが、身ごもっていて、早くも臨月近くになっています。甥の兵庫助貞持の女房は、この四、五日前に結婚のため、京都よりお迎えした、それなりの家柄を誇る女官です。

その昔、彼女が類まれなほど、美しいと言われていた当時、彼は何時しか気づかぬままに心を惹かれ、彼女の姿を隠している御簾に、何か隙があればと、虎視眈々と窺いながら、三年余りを恋焦がれていました。しかし、その後何とか手づるを求め、

盗むようにして嫁に迎えたのです。一緒になってまだまだ日は浅く、昨日今日とも思われる程ですから、会う事が出来るなら、惜しくはないと思っていた命も、今は惜しまれます。恋に苦しんでいた月日は、天の羽衣を撫で尽くす時間以上に長かったのに、

一緒になってからの時は、春の夜の夢より、もっと短いのでした。このように、将来を誓った夫婦の約束が、突然の悲しみに見舞われるなんて、本当に気の毒で、可哀相なことです。草葉の先に降りた露も、根元に垂れる雫も、後先はあっても、

いずれ消えると言う悲しさは知っていますが、片や波の上、片や猛煙の下に分かれて、一方は水の底に沈み、もう一方は身を焦がすと言う、別離の辛さ、一体どうすれば良いのかと、お互い名残を惜しみながら、ただただ泣き伏せるばかりです。


去程に、敵の早寄来るやらん、馬煙の東西に揚て見へ候と騒げば、女房・少き人々は、泣々皆舟に取乗て、遥の澳に漕出す。うらめしの追風や、しばしもやまで、行人を波路遥に吹送る。情なの引塩や、立も帰らで、漕舟を浦より外に誘らん。彼松浦佐用嬪が、玉嶋山にひれふりて、澳行舟を招しも、今の哀に被知たり。水手櫓をかいて、船を浪間に差留めたれば、一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組で、同身をぞ投たりける。紅の衣絳袴の暫浪に漂しは、吉野・立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如に見へけるが、寄来る浪に紛れて、次第に沈むを見はてゝ後、城に残留たる人々上下七十九人、同時に腹を掻切て、兵火の底にぞ焼死ける。其幽魂亡霊、尚も此地に留て夫婦執着の妄念を遺しけるにや、近比越後より上る舟人、此浦を過けるに、俄に風向ひ波荒かりける間、碇を下して澳に舟を留めたるに、夜更浪静て、松涛の風、芦花の月、旅泊の体、万づ心すごき折節、遥の澳に女の声して泣悲む音しけり。是を怪しと聞居たる処に、又汀の方に男の声して、「其舟こゝへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼りける。舟人止む事を不得して、舟を渚に寄たれば、最清げなる男三人、「あの澳まで便船申さん。」とて、屋形にぞ乗たりける。舟人是を乗て澳津塩合に舟を差留めたれば、此三人の男舟より下て、漫々たる浪の上にぞ立たりける。暫あれば、年十六七二十許なる女房の、色々の衣に赤き袴踏くゝみたるが、三人浪の底より浮び出て、其事となく泣しほれたる様也。男よに眤しげなる気色にて、相互に寄近付んとする処に、猛火俄に燃出て、炎男女の中を隔ければ、三人の女房は、いもせの山の中々に、思焦れたる体にて、波の底に沈ぬ。男は又泣々浪の上を游帰て、二塚の方へぞ歩み行ける。余の不思議さに舟人此男の袖を引へて、「去にても誰人にて御渡候やらん。」と問たりければ、男答云、「我等は名越遠江守・同修理亮・並兵庫助。」と各名乗て、かき消様に失にけり。天竺の術婆伽は后を恋て、思の炎に身を焦し、我朝の宇治の橋姫は、夫を慕ひてかたしく袖を波に浸す。是皆上古の不思議、旧記に載る所也。親り斯る事の、うつゝに見へたりける亡念の程こそ罪深けれ。

さて、早くも敵が寄せてきたらしく、馬の上げる土ぼこりが、東西に見えていると騒ぎ出し、女房や幼い子供たちは皆、泣く泣く舟に乗り込み、遥か沖に向かって、漕ぎ出しました。こんな時なのに、恨めしくも追い風は止むことなく、人々を波路遥か沖まで、吹き流したのです。

本当に思いやりもないのでしょうか、沖に向かって引く潮のため、引き返そうとしても、舟を浦から外へ連れて行きます。あの松浦佐用姫が鏡山(玉嶋山)の上で、領布(ひれ)を振って、沖行く舟に、別れを惜しんだ悲しみも、このようなものだったのかと、知らされました。

船乗りたちが、艪を操作して舟を波間に停泊させると、一人の女房が二人の子供を、左右の脇に抱きかかえ、また二人の女房は手に手を取り合って、同じように、身を投げられたのでした。紅色の衣や、赤色の袴などが暫く波間に漂う様子は、

吉野や龍田の川水に、桜の花が散り落ちたり、紅葉が乱れるようにも見えていました。やがて寄せては返す波に紛れて、次第に沈んで見えなくなるのを見届けてから、城に残っていた人々全員、合わせて七十九人が、同時に腹を掻き切り、

燃え盛る戦火の底に、焼け死んだのでした。この地で命を落された人々の霊魂が、今でもここに留まっており、そのため夫婦の別れ難い気持ちが、成仏を妨げているのでしょうか。最近、越後から上ってくる舟人たちが、この浦周辺を、漕ぎ過ぎようとすると、

急に風向きが変わり、波が荒くなったりするので、碇を下ろして、沖合いに舟を止めると、夜更けになって波が静まりました。あたりは松林を吹き抜ける風の音や、空には秋の月、心細い旅先の宿、何かにつけ気味の悪さを感じさせる時、

遥か沖合いから、女の泣き悲しんでいるような、声が聞こえてきました。気味の悪いことだなと、聞いていると今度は、波打ち際から、男の声が聞こえ、「その舟、こちらに寄せてください」と、声々に呼んでいるようです。船頭は仕方なく、

舟を渚に漕ぎ寄せると、姿、卑しからぬ男が三人、「あの沖合いまで乗せてもらいたい」と言って、屋形に乗り込んできました。船乗りはこの男たちを乗せて、沖の潮目に舟を止めたところ、この三人の男は舟より下りて、広々とした波の上に立ったのです。

そして暫くすると、年齢、十六、七から二十位の女性で、色々な衣に、赤い袴を身に着けた三人が、波の底から浮かび出て、何となく泣きしおれている様子です。男たちは親しげな感じで、お互いに近づこうとしたところ、突然激しく炎が燃え上がり、

男女を引き離しました。三人の女房らは、夫婦の仲を引き裂かれ、恋する気持ちを抑えかねながら、波の底に沈んでいったのでした。男は男で、泣く泣く波の上を泳ぎ帰ると、二塚に向かって、波の上を歩いて行きました。

余りにも不思議な出来事に、舟人はこの男の袖をつかまえ、「一体、どなたがここに来られたのでしょうか」と、質問しました。すると男は、「我らは名越遠江守、同じく修理亮、並びに兵庫助」と各自が名乗ると、かき消すように、姿が見えなくなりました。

古代天竺(インド)の人間、術婆伽は后に恋をして、自分の燃え上がる気持ちに、わが身を焦がし、また我が国では、宇治の橋姫が、愛しい夫を待ちながら、敷いている着物の袖を、川の流れに浸しています。これらの話は皆、古い昔にあった、

理解不能の出来事であり、古文書に記録として、残っているだけです。しかしこのような不思議な現象を、現実に目の当たりに見るなんて、彼らの妄執も罪深いものです。


○金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事
京洛已に静まりぬといへ共、金剛山より引返したる平氏共、猶南都に留て、帝都を責んとする由聞へ有ければ、中院中将定平を大将として、五万余騎、大和路へ被差向。楠兵衛正成に畿内勢二万余騎を副て、河内国より搦手にぞ被向ける。南都に引篭る平氏の軍兵已に十方に雖退散、残留る兵尚五万騎に余たれば、今一度手痛き合戦あらんと覚るに、日来の儀勢尽はてゝ、いつしか小水の魚の沫に吻く体に成て、徒に日を送ける間、先一番に南都の一の木戸口般若寺を堅て居たりける宇都宮・紀清両党七百余騎、綸旨を給て上洛す。是を始として、百騎二百騎、五騎十騎、我先にと降参しける間、今平氏の一族の輩、譜代重恩の族の外は、一人も残留る者も無りけり。是に付ても、今は何に憑を懸てか命を可惜なれば、各打死して名を後代にこそ残すべかりけるに、攻ての業の程の浅猿さは、阿曾弾正少弼時治・大仏右馬助貞直・江馬遠江守・佐介安芸守を始として、宗との平氏十三人、並長崎四郎左衛門尉・二階堂出羽入道々蘊已下・関東権勢の侍五十余人、般若寺にして各入道出家して、律僧の形に成り、三衣を肩に懸、一鉢を手に提て、降人に成てぞ出たりける。定平朝臣是を請取て、高手小手に誡め、伝馬の鞍坪に縛屈めて、数万の官軍の前々を追立させ、白昼に京へぞ被帰ける。平治には悪源太義平、々家に被生捕て首被刎、元暦には内大臣宗盛公、源氏に被囚て大路を被渡。是は皆戦に臨む日、或は敵に被議、或は自害に無隙して、心ならず敵の手に懸りしをだに、今に至まで人口の嘲と成て、両家の末流是聞時、面を一百余年の後に令辱。況乎是は敵に被議たるにも非ず、又自害に隙なきにも非ず、勢ひ未尽先に自黒衣の身と成て、遁ぬ命を捨かねて、縲紲面縛の有様、前代未聞の恥辱也。

☆ 金剛山の攻撃軍らが征伐されたことと、佐介左京亮貞俊のこと

京都の騒乱は、すでに鎮静したと言われていますが、金剛山から引き上げた平氏らが、今なお南都に駐留して、都に攻め上るらしいとの情報もあり、都では中院中将源定平を大将に任命し、五万余騎の軍勢で、大和路へ向かわせました。

また楠木兵衛正成に、畿内の軍勢二万余騎を率いさせ、河内国より搦手軍として、派兵しました。南都に逃げ込んだ、平氏の軍勢どもは、もうすでに四方八方に、逃げ落ちたと言われていますが、それでもまだ居残っている兵士らは、五万騎以上だと思われました。

そこで今一度は激しい合戦もと、考えられていましたが、敵の平氏らも、今までの強がりは何時しか無くなり、知らぬ間に僅かな水に頼って、生き残っている魚のようになりました。空しく日を過ごしている時、まず最初に南都の一の木戸である、

般若寺を警固していた宇都宮、紀清の二つの党、七百余騎が綸旨を奉じて、都にやってきました。これを最初にして、百騎、二百騎、また五騎、十騎と我先に降伏する者が続き、今となっては、平氏北条家の一族の者たちと、代々恩恵を受けてきた一族の者以外、

一人として留まる者はいませんでした。それにしてもこの状況下で、一体何に頼って命を惜しむのか、本来なら各自それぞれ討ち死にして、その名を後世に残すべきであるのに、情けない話ですが、どうあっても生きたいと言う本能なのでしょうか。

阿曾弾正少弼時治、大仏右馬助貞直、江馬遠江守そして佐介安芸守らを始めに、主だった平氏十三人、その他長崎四郎左衛門尉、二階堂出羽入道道蘊以下、関東ではそれなりの権勢を誇っていた侍ら、五十余人が般若寺において、

それぞれ入道や出家などして、律宗の僧形に姿を変え、三衣(僧の着る三種の袈裟)を肩にかけ、手には一鉢を提げ、般若寺を後にして、降伏したのでした。源定平朝臣がこの捕虜を受け取り、腕から手首まで厳重に縛り上げて、荷物運搬用の馬の鞍壷にくくり付け、

数万の官軍の先頭に立たせ、追い立て追い立てて、白昼京都に凱旋したのです。平治の乱の時には、悪源太義平が平家に生け捕りになり、首を刎ねられ、また元暦二年(1185年)には内大臣平宗盛公が、源氏に生け捕られて、都の大路を引きまわされました。

しかし、これらの人たちは皆、合戦の行われた日に、ある人は敵と取引したり、またある人は自害する間がなく、不本意ながら敵の手に落ちたのですが、今に至るも人々の嘲りを受け、源氏、平家の末裔もこの話を聞く時、一百余年経た今も、顔は屈辱にゆがめます。

いわんやこの度のことは、敵との交渉もなく、自害をする間が、無かったわけでもありません。軍隊として、壊滅的な損害を受ける前に、自ら僧の着る墨染めの衣をまとい、逃げ切れることなど考えられない、我が命を惜しんで、罪人として捕らわれた挙句、

後ろ手に縛られると言う、醜態を演じることになったのです。これほどの恥辱など、前代未聞のことです。


囚人京都に着ければ、皆黒衣を脱せ、法名を元の名に改て、一人づゝ大名に預らる。其秋刑を待程に、禁錮の裏に起伏て、思ひ連ぬる浮世の中、涙の落ぬ隙もなし。さだかならぬ便に付て、鎌倉の事共を聞ば、偕老の枕の上に契を成し貞女も、むくつけゞなる田舎人どもに被奪て、王昭君が恨を貽し、富貴の薹の中に傅立し賢息も、傍へだにも寄ざりし凡下共の奴と成て、黄頭郎が夢をなせり。是等はせめて乍憂、未だ生たりときけば、猶も思の数ならず。昨日岐を過ぎ、今日は門にやすらふ行客の、穴哀や、道路に袖をひろげ、食を乞し女房の、倒て死しは誰が母也。短褐に貌を窶て縁を尋し旅人の、被捕て死せしは誰が親也と、風に語るを聞時は、今まで生ける我身の命を、憂しとぞ更に誣たれける。七月九日、阿曾弾正少弼・大仏右馬助・江馬遠江守・佐介安芸守・並長崎四郎左衛門、彼此十五人阿弥陀峯にて被誅けり。此君重祚の後、諸事の政未被行前に、刑罰を専にせられん事は、非仁政とて、潛に是を被切しかば、首を被渡までの事に及ばず、面々の尸骸便宜の寺々に被送、後世菩提をぞ被訪ける。二階堂出羽入道々蘊は、朝敵の最一、武家の輔佐たりしか共、賢才の誉、兼てより叡聞に達せしかば、召仕るべしとて、死罪一等を許され、懸命の地に安堵して居たりけるが、又陰謀の企有とて、同年の秋の季に、終に死刑に被行てげり。佐介左京亮貞俊は、平氏の門葉たる上武略才能共に兼たりしかば、定て一方の大将をもと身を高く思ける処に、相摸入道さまでの賞翫も無りければ、恨を含み憤を抱きながら、金剛山の寄手の中にぞ有ける。斯る処に千種頭中将綸旨を申与へて、御方に可参由を被仰ければ、去五月の初に千葉屋より降参して、京都にぞ歴回ける。去程に、平氏の一族皆出家して、召人に成し後は、武家被官の者共、悉所領を被召上、宿所を被追出て、僅なる身一をだに措かねて、貞俊も阿波の国へ被流て有しかば、今は召仕ふ若党・中間も身に不傍、昨日の楽今日の悲と成て、ます/\身を責る体に成行ければ、盛者必衰の理の中に在ながら、今更世中無情覚て、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。

捕虜たちは京都に到着すると、皆墨染めの衣を脱がされ、付けていた法名も元の名前に戻されて、一人づつ大名に身柄を預けられました。そして刑の執行を待ちながら、謹慎の毎日を過ごしていると、今までの浮世での出来事など、次から次へと思い出され、

涙の落ちない日とてありません。あまり正確とも思えませんが、鎌倉の情勢について収集して見ると、共に年齢を重ねて、お互い添い遂げようと、約束を交わした貞淑な女房も、野蛮な地方武者に、その身を拘束されてしまい、

それは古代中国で、蛮族に嫁がされた、王昭君のような恨みを持つことなり、また裕福な家庭で育ち、傍には養育係が付き添うような、優秀なる子息に対しても、本来なら傍に寄ることが出来ない、卑しい者どもの奴隷的使用人となり、

黄頭郎(漢の文帝の寵臣)が受けた夢のようなことを、野蛮な地方武者に与えることとなりました。これらのことだけでも、辛い心配事なのに、未だ命を保っていると聞けば、ますます不安が募るばかりです。昨日は町中を歩き回り、

今日は建物に安らぎを求めていた旅人、なんとも哀しい話ですが、道端に袖を広げ、食糧を乞うていた女性が、倒れ込み死んでしまいました。彼女は一体誰の母親なのでしょうか。粗末な衣服に容姿をやつし、血縁を頼って旅する人が、

生け捕りになり命を落としたのは、誰の親なのでしょうか。このような噂話を聞くたびに、今まで永らえてきた自分の命が、尚一層辛く心を責め続けます。正慶二年(1334年)七月九日、阿曾弾正少弼、大仏右馬助、江馬遠江守、佐介安芸守そして長崎四郎左衛門ら、

合わせて十五人が、阿弥陀峯にて処刑されました。後醍醐先帝が天皇として復帰してからは、色々と行政等、やるべきことがあるのに、刑罰を主に行っているのは、人民に対して、思いやりのある政治とは考えられず、この処刑も密かに執行されました。

そのため首を洛中に運ぶことをせず、それぞれの遺骸は、適当な寺々に運び入れ、後生の菩提を頼みました。二階堂出羽入道道蘊は、朝敵の中でも第一等の人間であり、また北条家の補佐を務めてきましたが、才能豊かな人として、

その名声は以前より、天皇の耳にも入っていましたから、召し使うほうが良いであろうと、死罪にすべきところを許して、元の領地を安堵しました。しかしその後、陰謀の計画をしている疑いをかけられ、同年(1334年)の秋の終り頃、ついに死刑が執行されました。

また佐介左京亮貞俊は平氏、北条家の末裔である上、軍事やその他の能力にも、優れていましたから、自分は一方の大将を命じられる自信もありました。しかし、相模入道高時には全く目にもかけてもらえず、恨みを抱き、憤りを覚えながら、

金剛山の攻撃軍に属していました。その頃、千種頭中将忠顕から後醍醐先帝の綸旨を受け取り、宮方に加わるように言われ、去る五月の始め頃、千早攻撃を中断し、降伏して京都に入っていました。やがて、平氏の一族ら全員が出家し、

朝廷の使用人になってから、鎌倉幕府の役人としての所領は、全て没収され、宿所をも追い出され、今や我が身一つを置くところも無い有様です。佐介左京亮貞俊も阿波国に流罪となり、今や召し使う若武者や、中間を傍に置くことも出来ず、

昨日までの平和な幸せは、今日には全て悲しみとなり、自分を責め続けるばかりです。盛者必衰という真理から、誰も逃れることなど出来ないのに、今更世の中の無常を知らされ、こうなれば何処なりと、山奥にでも身を隠そうかと、心中思い巡らしていました。


さても関東の様何とか成ぬらんと尋聞に、相摸入道殿を始として、一族以下一人も不残、皆被討給て、妻子従類も共に行方を不知成ぬと聞へければ、今は誰を憑み、何を可待世とも不覚、見に付聞に随て、いとゞ心を摧き、魂を消ける処に、関東奉公の者共は、一旦命を扶からん為に、降人に雖出と、遂には如何にも野心有ぬべければ、悉可被誅とて、貞俊又被召捕てげり。挺も心の留る浮世ならねば、命を惜とは思はねども、故郷に捨置し妻子共の行末、何ともきかで死なんずる事の、余に心に懸りければ、最期の十念勧ける聖に付て、年来身を放たざりける腰の刀を、預人の許より乞出して、故郷の妻子の許へぞ送ける。聖是を請取て、其行末を可尋申と領状しければ、貞俊無限喜て、敷皮の上に居直て、一首の歌を詠じ、十念高らかに唱て、閑に首をぞ打せける。皆人の世に有時は数ならで憂にはもれぬ我身也けり聖形見の刀と、貞俊が最期の時着たりける小袖とを持て、急鎌倉へ下、彼女房を尋出し、是を与へければ、妻室聞もあへず、只涙の床に臥沈て、悲に堪兼たる気色に見へけるが、側なる硯を引寄て、形見の小袖の妻に、誰見よと信を人の留めけん堪て有べき命ならぬにと書付て、記念の小袖を引かづき、其刀を胸につき立て、忽にはかなく成にけり。此外或は偕老の契空くして、夫に別たる妻室は、苟も二夫に嫁せん事を悲で、深き淵瀬に身を投、或は口養の資無して子に後れたる老母は、僅に一日の餐を求兼て自溝壑に倒れ伏す。承久より以来、平氏世を執て九代、暦数已に百六十余年に及ぬれば、一類天下にはびこりて、威を振ひ勢ひを専にせる所々の探題、国々の守護、其名を挙て天下に有者已に八百人に余りぬ。況其家々の郎従たる者幾万億と云数を不知。去ば縦六波羅こそ輒被責落共、筑紫と鎌倉をば十年・二十年にも被退治事難とこそ覚へしに、六十余州悉符を合たる如く、同時に軍起て、纔に四十三日の中に皆滅びぬる業報の程こそ不思議なれ。愚哉関東の勇士、久天下を保ち、威を遍海内に覆しかども、国を治る心無りしかば、堅甲利兵、徒に梃楚の為に被摧て、滅亡を瞬目の中に得たる事、驕れる者は失し倹なる者は存す。古へより今に至まで是あり。此裏に向て頭を回す人、天道は盈てるを欠事を不知して、猶人の欲心の厭ことなきに溺る。豈不迷乎。

ところで関東の情勢について調べてみれば、相模入道高時殿を始めとして、北条一族以下一人残らず討ち取られ、妻子や家来など皆、行方不明になっていると言われていました。今となれば、誰を頼っても、また何にすがっても、生きていける世とも思えず、

目に入ったり、耳に聞くたび、ひどく心が落ち込み、気分も滅入るばかりです。その頃、鎌倉幕府に奉公していた者どもは、とりあえず命を永らえようと、降伏を申し出ましたが、最後には、未だに野心を持ち続けているのではないかと思われ、

全員処刑すべきだと決まり、貞俊も再び召捕られました。とても心の安らぎを感じられる世でもないので、特に命が惜しいとも思いませんが、故郷に捨てるように残してきた妻子らの将来について、何も知らずに死ぬことは、やはり心が落ち着きません。

そこで死ぬ間際に念仏を十度唱えることを、勧めに来ている僧に頼んで、長年肌身離さず、腰に差してきた太刀を、わが身を預かっている大名から、引き渡してもらい、故郷の妻子のもとに送ることにしました。僧侶はこの太刀を受け取り、妻子に届けた上、

将来のことも聞き取ってくることを、引き受けましたので、貞俊は非常に喜び、敷き皮の上に座り直し、一首の歌を詠んだ後、念仏を十度高らかに唱えて、静かに首を討たれたのでした。

      皆人の 世に有時は 数ならで 憂にはもれぬ 我身也けり

依頼を受けた僧は、形見の刀と、貞俊が最期の時、着ていた小袖を持って、大急ぎで鎌倉に下り、貞俊の女房を探し出し、これらの品々を渡すと、奥方は話を最後まで聞くことも無く、ただただ涙に咽び、床に伏せてしまいました。

あまりの悲しみに耐えかねている様子でしたが、やがて傍らにあった硯を引き寄せ、形見の小袖のつまの部分に、
      誰見よと 信を人の 留めけん 堪て有べき 命ならぬに

と書き付けると、形見の小袖を頭からかぶり、刀を胸に突き立て、アッと言う間に、お亡くなりになったのでした。この悲劇以外にも、ある女房は添い遂げる約束も反古になり、夫と死別することになった奥方は、どうあろうとも、二人目の夫に嫁することを悲しんで、

深い川の淵に身を投げました。また生計の道が立たないのに、子供に先立たれてしまった年老いた母親は、僅か一日の食事にもありつけず、自らのたれ死を迎えざるを得ません。承久(1219-1221年)の頃より、平氏は政権を握って九代、

年数にしてすでに百六十余年を経ていますから、一族は全国にその人脈を広め、権力を握って、勢力を振るう各地の探題や、国々の守護など、その名を世間に知られることとなった者、すでに八百人を超えています。

そればかりでなく、北条一族の、各家に仕えている家来などを含めば、幾億万の数になるのか、とても分かりません。だからたとえ六波羅を、何とか攻め滅ぼしたとしても、筑紫と鎌倉を十年や二十年で、討伐など出来るものではないと、考えられていました。

ところが日本国の六十余州全てが、まるで申し合わせたように同時に蜂起し、僅かに四十三日の合戦で、皆滅び去るとは、いかに悪行の報いとは言えども、やはり不思議なことです。関東における幕府の重鎮らは、天下の権力を長期にわたって握り、

その勢力を日本国中に広げながら、国を治めようとする心が無かったために、堅牢なる甲冑や、研ぎ澄まされた鋭利な武器も、なすすべも無く人民の厳しい責めにあい、瞬く間に滅亡に導かれたことは、つまり驕れる者は破滅し、

自身を戒める者は、生き残ると言うことです。昔から今に至るまで、その例は数多くあります。このことを逆手に取って、知恵を働かせる者は、天の真理が満ち足りた者を、滅亡に追い込むということを知らずに、人間の限りない欲望の海に、溺れてしまうのでしょう。

決して間違えてはならないのです。      (終)

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