12 太平記 巻第十二 (その一)


○公家一統政道事
先帝重祚之後、正慶の年号は廃帝の改元なればとて被棄之、本の元弘に帰さる。其二年の夏比、天下一時に評定して、賞罰法令悉く公家一統の政に出しかば、群俗帰風若被霜而照春日、中華懼軌若履刃而戴雷霆。同年の六月三日、大塔宮志貴の毘沙門堂に御座有と聞へしかば、畿内・近国の勢は不及申、京中・遠国の兵までも、人より先にと馳参ける間、其勢頗尽天下大半をぬらんと夥し。同十三日に可有御入洛被定たりしが、無其事と、延引有て、被召諸国兵、作楯砥鏃、合戦の御用意ありと聞へしかば、誰が身の上とは知ね共、京中の武士の心中更に不穏。依之主上右大弁宰相清忠を勅使にて被仰けるは、「天下已に鎮て偃七徳之余威、成九功之大化処に、猶動干戈被集士卒之条、其要何事乎、次四海騒乱の程は、為遁敵難、一旦其容を雖被替俗体、世已に静謐の上は急帰剃髪染衣姿、門迹相承の業を事とし給べし。」とぞ被仰ける。

☆ 天皇、公卿が中心となって、政治を行うことにしたこと

先帝後醍醐が再度践祚されてから、正慶の年号は今回廃された光厳天皇が行った改元なので、これを破棄し、元の元弘に戻されました。その元弘二年(三年?)の夏ごろ、天下の騒乱が一時に沈静化し、賞罰や法令策定などあらゆる分野を、朝廷、公卿の政治事項としました。

そのため、新しい方針に従おうとする庶民は、たとえ霜が降りるようなことがあっても、春の日に解けていきますが、新しい方針に反発する者は、刃を踏んだだけで、雷が落ちたようになります。同年元弘三年(1333年)六月三日、大塔宮(護良親王)が都に入らず、

信貴山の毘沙門堂に陣を構えて居られることが知れ渡ると、畿内や近国を支配する豪族らの勢は、言うまでも無く、京都や遠国の軍勢まで我先に、駆けつけて来たので、その軍勢は、天下のほとんど全ての地域から、集まっている有様です。

元弘三年(1333年)六月十三日に、大塔宮が都に入ると決まりましたが、実際は入洛は無く延期となったので、諸国より参集している兵士らが、楯を作成したり、鏃を砥いで合戦の用意をしているらしいと言われ、誰が何のため、合戦をするのかはっきりと分かりませんが、

京都中の武士たちは、心中穏やかではありません。そこで後醍醐天皇は、右大弁宰相坊門清忠を勅使として、「天下は既に鎮静し、抗争、軍事に関する七つの徳の威力により、民の生活は安定し、民を養う九つの善政を、行っているのに関わらず、

今もなお武器を収集し、兵士を集めているとは、一体何用があってのことだ。また天下に騒動が起こり、敵から逃れんが為、一旦は還俗も止むを得なかったが、天下の騒乱も既に収まったからには、急いで髪を剃り、墨染めの衣に身を包み、門跡を受け継いで行くことに励むように」と、天皇の言葉を伝えさせました。


宮、清忠を御前近く被召、勅答申させ給けるは、「今四海一時に定て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而に足利治部大輔高氏僅に以一戦功、欲立其志於万人上。今若乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし。是故に挙兵備武、全非臣罪。次剃髪の事、兆前に不鑒機者定て舌を翻さん歟。今逆徒不測滅て天下雖属無事、与党猶隠身伺隙、不可有不待時。此時上無威厳、下必可有暴慢心。されば文武の二道同く立て可治今の世也。我若帰剃髪染衣体捨虎賁猛将威、於武全朝家人誰哉。夫諸仏菩薩垂利生方便日、有折伏・摂受二門。其摂受者、作柔和・忍辱之貌慈悲為先、折伏者、現大勢忿怒形刑罰為宗。況聖明君求賢佐・武備才時、或は出塵の輩を帰俗体或退体の主を奉即帝位、和漢其例多し。所謂賈嶋浪仙は、釈門より出て成朝廷臣。我朝天武・孝謙は、替法体登重祚位。抑我栖台嶺幽渓、纔守一門迹、居幕府上将、遠静一天下、国家の用何れをか為吉。此両篇速に被下勅許様に可経奏聞。」被仰、則清忠をぞ被返ける。清忠卿帰参して、此由を奏聞しければ、主上具に被聞召、「居大樹位、全武備守、げにも為朝家似忘人嘲。高氏誅罰の事、彼不忠何事ぞ乎。太平の後天下の士卒猶抱恐懼心。若無罪行罰、諸卒豈成安堵思哉。然ば於大樹任不可有子細。至高氏誅罰事堅可留其企。」有聖断、被成征夷将軍宣旨。依之宮の御憤も散じけるにや、六月十七日志貴を御立有て、八幡に七日御逗留有て、同二十三日御入洛あり。

それに対して、大塔宮護良親王は、清忠を近くに呼び寄せ、「今、天下の騒乱は一時に収まり、全ての民たちも無事であったことに満足している。これは天皇陛下の、この上ない素晴らしい徳によるものであり、私の如き微臣の作戦によるものではありません。

しかしながら、足利治部大輔高氏は、僅かに一度の合戦の戦功をもって、万人の上に支配を及ぼそうと考えている。今、彼の勢力が小さい内に、これを討ち取らなければ、北条高時相模入道に取って代わり、高氏がその勢力をもって、悪逆を働く者になるでしょう。

そこでこの私は、武器を用意し、兵士を集めているのであり、全く臣として、罪を問われるものではありません。次に剃髪についてですが、物事が起こる前に、かすかな変化を見極めることが出来ない者は、きっと驚く事かも知れませんが、今、北条家は思いがけなく滅び去り、

天下は無事に治まったとは言っても、北条家に同調するやからは、何処かに身を潜め、我々の油断を窺い、反撃の時期を待っているに違いありません。この時にあって、朝廷に確固たる威厳が無ければ、臣下において、必ずや謀反を企てる逆臣が現われるでしょう。

それだからこそ、文武の両道の両立をはかって、世を治めなければならないのが、今の時代であります。もし私が髪を切り、墨染めの衣を身にまとって、虎賁(こほん::前漢時代に設立された皇帝直属の部隊名)における武将の威厳を捨てたならば、

朝廷で一体誰が武将を務めると言うのですか。諸仏や菩薩が、我々衆生を救ってくださるには、折伏(悪人、悪法を打ち砕き迷いから救うこと)と摂受(しょうじゅ::衆生の善を受け入れ、収め取って導くこと)の二つの方法がある。その内摂受とは心を寛大に持ち、

相手の言葉に反発することなく、穏やかな慈悲ある表情で、仏法に導くことであり、折伏とは、どちらかと言えば怒りの表情で、相手の間違いに迎合することなく、対話を進めて仏法に導こうとし、応じなければ罰することもある。

まして賢明なる天皇が、補佐の勤まる優秀なる人物と、合戦に備えて、武力をも蓄えなければならない場合、ある時は出家した人物であっても、還俗をさせたり、またある時は退位した帝に、再び帝位に就いていただくことなど、我が国は勿論、中国にでもその例は多い。

たとえば、中国唐代の詩人、賈嶋浪仙は仏門に入っていたが、還俗して朝廷の臣下になった。また我が国では、天武や孝謙天皇は還俗して、天皇に即位している。(おかしい)そもそも私は比叡山の、幽玄なる谷々に住まいして、僅かに門跡寺院一つだけを守るべきなのか、

それとも政権の将軍として、天下の安定に力を注ぐべきなのか、国家として、一体どちらを選ぶのが良いのか。この二つの案件について、速やかにお許しいただけるよう、天皇に申し上げてください」と仰せられ、すぐに右大弁宰相清忠を帰されました。

清忠卿はひき返すと参内し、このことを天皇に話されますと、天皇は詳しくお聞きになり、「将軍の位を保ち、武力の備えに力を入れているのは、確かに朝廷のためであり、世間の口とは大いに違うようだ。高氏の誅罰に関しては、彼は何か不忠なことを、起こしたと言うのか。

天下が安定したといっても、まだまだ将士らに、恐怖心が残っている以上、もし罪の無い者を、罰することなどすれば、諸将らは心穏やかでは居れないだろう。そこで、征夷大将軍として、任命するのは問題ないが、高氏を誅罰する件については、計画すること堅く禁ずる」と断を下され、

早速、征夷大将軍の宣旨がなされました。このことによって、宮の怒りも収まったのか、六月十七日に、信貴山をご出発され、石清水八幡宮に七日間逗留された後、同じく六月二十三日に、都に入られました。


其行列・行装尽天下壮観。先一番赤松入道円心、千余騎にて前陣を仕る。二番に殿法印良忠、七百余騎にて打つ。三番には四条少将隆資、五百余騎。四番には中院中将定平、八百余騎にて打る。其次に花やかに鎧ふたる兵五百人勝て、帯刀にて二行に被歩。其次に、宮は赤地の錦の鎧直垂に、火威の鎧の裾金物に、牡丹の陰に獅子の戯て、前後左右に追合たるを、草摺長に被召、兵庫鎖の丸鞘の太刀に、虎の皮の尻鞘かけたるを、太刀懸の半に結てさげ、白篦に節陰許少塗て、鵠の羽を以て矧だる征矢の三十六指たるを筈高に負成、二所藤の弓の、銀のつく打たるを十文字に拳て、白瓦毛なる馬の、尾髪飽まで足て太逞に沃懸地の鞍置て、厚総の鞦の、只今染出たる如なるを、芝打長に懸成し、侍十二人に双口をさせ、千鳥足を蹈せて、小路を狭しと被歩。後乗には、千種頭中将忠顕朝臣千余騎にて被供奉。猶も御用心の最中なれば、御心安兵を以て非常を可被誡とて、国々の兵をば、混物具にて三千余騎、閑に小路を被打。其後陣には湯浅権大夫・山本四郎次郎忠行・伊東三郎行高・加藤太郎光直、畿内近国の勢打込に、二十万七千余騎、三日支てぞ打たりける。時移り事去て、万づ昔に替る世なれども、天台座主忽に蒙将軍宣旨、帯甲冑召具随兵、御入洛有し分野は、珍かりし壮観也。其後妙法院宮は四国の勢を被召具、讚岐国より御上洛あり。万里小路中納言藤房卿は、預人小田民部大輔相具して常陸国より被上洛。春宮大進季房は配所にて身罷にければ、父宣房卿悦の中の悲み、老後の泪満袖。法勝寺円観上人をば、預人結城上野入道奉具足上洛したりければ、君法体の無恙事を悦び思召て、軈て結城に本領安堵の被成下綸旨。文観上人は硫黄嶋より上洛し、忠円僧正は越後国より被帰洛。総じて此君笠置へ落させ給し刻、解官停任せられし人々、死罪流刑に逢し其子孫、此彼より被召出、一時に蟄懐を開けり。されば日来誇武威無本所を、権門高家の武士共、いつしか成諸庭奉公人、或は走軽軒香車後、或跪青侍恪勤前。世の盛衰時の転変、歎に叶はぬ習とは知ながら、今の如にて公家一統の天下ならば、諸国の地頭・御家人は皆奴婢・雑人の如にて有べし。哀何なる不思議も出来て、武家執四海権世中に又成かしと思ふ人のみ多かりけり。

その大塔宮護良親王の入洛の様子は、行列そのものは勿論、行列に使用する道具類や衣装など、天下を驚かすほど壮観なものでした。先頭は赤松入道円心が千余騎を従えて進み、二番手には殿法院良忠が七百余騎にて続き、三番手は四条少将隆資が五百余騎、

また四番手には中院中将源定平が、八百余騎にて続きました。その後ろは、華やかな鎧に身を包んだ兵士、五百人以上が太刀を腰に差し、二列となって進みます。その後ろを、大塔宮が赤地錦の鎧直垂に、緋縅の鎧を着け、

その鎧の裾金物には、牡丹の陰で獅子の戯れる様子を、前後左右に配置し、草摺りを長く垂らし、着て居られました。帯取りの紐に、銀の鎖を使用した、丸鞘の太刀に、虎の毛皮の保護用袋をつけた太刀を、射向の草摺りに下げています。

また素の篠竹の、節の周辺だけ僅かに漆を施し、白鳥の羽で作った征矢(実戦用の矢)三十六本を挿した箙を高く背負い、二ヶ所を籐で巻いた弓は、はずの金具に銀を用い、それを十文字に、握り締めていました。口から泡を吹いて入れ込み、

また頭から尻尾まで太って、たくましい馬に、蒔絵の施した鞍を置いて、馬の飾り紐の房は厚く垂らし、今まさに、染め上がったかの様な飾り紐を、地面に触れるほど垂らして、侍ら十二、三人に左右から口取りをさせ、足並みも千鳥の飛ぶ姿に似せて、

都の小路が狭く感じるほどに、行列は進みました。大塔宮の後尾に続く行列は、千種頭中将忠顕朝臣が、千余騎を率いてお供しました。しかしまだまだ油断の出来ない時期なので、安全を期するため、警備に対しても対策を立て、諸国の兵士を三千余騎、

甲冑で武装させて、静々と都の道路を行進させました。また後方の備えには、湯浅権大夫、山本四郎次郎忠行、伊東三郎行高、加藤太郎光直など畿内、近国の軍勢らが、思い思いに二十万七千余騎が、三日間にわたって行軍しました。

時は移り、事態も変化し、全てを昔に返そうとする、世ではありますが、延暦寺の天台座主が、突然征夷大将軍に任命され、甲冑を身に着け、兵士を従えて都に凱旋することなど、珍しくもあり、またその規模も大変なものでした。その後も、妙法院宮宗良親王が、

四国の軍勢を引き連れて、配流先の讃岐国から、都に帰ってこられました。万里小路中納言藤房卿は、身柄を預けられていた小田民部大輔を連れて、常陸国から入洛されました。春宮大進万里小路季房は、鎌倉幕府滅亡の直前に、配流先で殺害され、

父の万里小路宣房卿は、我が身の帰洛の喜びの中、子息の死の悲しみに、年老いた目に涙が溢れます。そのほか法勝寺円観上人は身柄を拘束されていた、結城上野入道を引き連れて、上洛されましたので、後醍醐天皇は円観上人の無事をお喜びになり、

すぐ結城入道に、本領安堵の綸旨を下されました。文観上人は硫黄島から、また忠円僧正は越後国から、都に帰ってきました。これらの方々は、後醍醐天皇が笠置に落ちて行かれた時(元弘元年、1333年)、官職を解任や停職された人や、

また死罪、流刑に処せられた人の子孫などを、あちこちから呼び寄せられた人たちであり、ここに長年の鬱憤を、晴らすことが出来ました。このことにより、所領を中央の有力者に寄進していながら、普段から武力を誇っていた、時の権力者や身分の高い公卿に仕える武士たちは、

いつの間にか、諸公卿の奉公人に成り下がり、ある武士は、公卿の乗車する牛車の後ろを走り回り、またある武士は、公卿や院に仕える若侍の前に、ひざまづく有様です。世の中の栄枯盛衰、時代の変化などは、嘆くに値しない当然のこととは分かっていますが、

最近のように公卿、朝廷が全てを支配する世の中ならば、諸国に配置されている地頭や御家人などの武士は、皆が皆、奴婢や奴隷状態に置かれたのと、変わりありません。こんなことなら何か事件でも起きて、再び武士が国家を支配する世になれば良いと、思う人が多くなってきたのです。


同八月三日より可有軍勢恩賞沙汰とて、洞院左衛門督実世卿を被定上卿。依之諸国の軍勢、立軍忠支証捧申状望恩賞輩、何千万人と云数を不知。実に有忠者は憑功不諛、無忠者媚奥求竈、掠上聞間、数月の内に僅に二十余人の恩賞を被沙汰たりけれ共、事非正路軈被召返けり。さらば改上卿とて、万里小路中納言藤房卿を被成上卿、申状を被付渡。藤房請取之糾忠否分浅深、各申与んとし給ひける処に、依内奏秘計、只今までは朝敵なりつる者も安堵を賜り、更に無忠輩も五箇所・十箇所の所領を給ける間、藤房諌言を納かねて称病被辞奉行。角て非可黙止とて、九条民部卿を上卿に定て御沙汰有ける間、光経卿、諸大将に其手の忠否を委細尋究て申与んとし給ける処に、相摸入道の一跡をば、内裏の供御料所に被置。舎弟四郎左近大夫入道の跡をば、兵部卿親王へ被進。大仏陸奥守の跡をば准后の御領になさる。此外相州の一族、関東家風(諸家?)の輩が所領をば、無指事郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者共、乃至衛府諸司・官女・官僧まで、一跡・二跡を合て、内奏より申給りければ、今は六十六箇国の内には、立錐の地も軍勢に可行闕所は無りけり。浩ければ光経卿も、心許は無偏の恩化を申沙汰せんと欲し給けれ共、叶はで年月をぞ被送ける。又雑訴の沙汰の為にとて、郁芳門の左右の脇に決断所を被造。其議定の人数には、才学優長の卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人を三番に分て、一月に六箇度の沙汰の日をぞ被定ける。凡事の体厳重に見へて堂々たり。去ども是尚理世安国の政に非りけり。或は自内奏訴人蒙勅許を、決断所にて論人に理を被付、又決断所にて本主給安堵、内奏より其地を別人の恩賞に被行。如此互に錯乱せし間、所領一所に四五人の給主付て、国々の動乱更に無休時。去七月の初より中宮御心煩はせ給けるが、八月二日隠させ給ふ。是のみならず十一月三日、春宮崩御成にけり。是非只事、亡卒の怨霊共の所為なるべしとて、止其怨害、為令趣善所、仰四箇大寺、大蔵経五千三百巻を一日中に被書写、法勝寺にて則供養を遂られけり。

また元弘三年(1333年)八月三日から、この度の合戦に対する恩賞の裁定が、行われることになり、その裁定責任者として、洞院左衛門督実世卿が任命されました。これによって、諸国の豪族の中で、合戦における忠節の裏づけとなる、証拠書類を提出して、

恩賞にありつこうとする者の数は、一体何千万人になるのか分かりません。しかし、忠義がはっきりとしている人は、功を申し立てて、へつらう事などしませんが、忠義に疑問がある者は、恩賞にありつこうと、宮中の奥向きに媚びへつらったり、

天皇にこっそりと、売り込んだりしましたから、数ヶ月の内に二十余人ほどは、恩賞を決定したものの、正確な判定を欠いていると言うことで、すぐにその決定は破棄されました。そこで改めて責任者を選ぶこととなり、万里小路中納言藤房卿が任命され、

恩賞申請書が渡されました。藤房は申請書を受け取ってから、実際に忠義ある行動があったのか、なかったのか、もしあれば、その程度はいかなるものかを、調べていったところ、各自の申し立ての中には、隠れて天皇に申し入れたり、策略を練ったりして、

つい最近まで朝敵であった者が、安堵の裁決を手に入れたり、ほかにも特に忠義のない者が、五ヵ所、十ヵ所という所領を、手に入れている場合もありました。この乱脈加減に、藤房も帝に忠告しかね、病気と称して監督職を辞任しました。

この事態をそのままにしておく訳にいかず、今度は九条民部光経卿を責任者に任命し、再度恩賞の調査を始めました。光経卿は各軍勢の大将に対して、その軍隊において、忠義あふれる戦闘が行われたか、否かを詳しく聞き取って、報告を申し上げようとしました。

しかし、相模入道高時の所領が、内裏の食料費に充てるため、皇室の管理地になったり、そのほか、相模入道の舎弟、四郎左近大夫入道から没収した所領は、兵部卿護良親王に与えらたりしました。また大仏陸奥守北条貞直の所領については、准后阿野廉子の所領としました。

これ以外にも、相模入道高時の一族や、関東諸豪族の所領をも、特に今回の政変に、何ら寄与していない音曲芸人や、遊女連中、また蹴鞠や歌舞に携わっている者たち、そのほか宮中直属の軍隊幹部、また宮中の女性役人や、朝廷お抱えの僧侶などにも、

本人やその次代の者にまで、奥向きから恩賞分配の働きかけがあり、その分配を行った結果、今や日本の六十六ヶ国には、錐を突き立てるほどの狭い土地も、諸国の軍勢に、分け与えるべき没収所領など残っていません。

このような状況の中、九条光経卿は公平な恩賞を、心掛けてはいるものの、思うようにいかず、空しく日々を送っていました。また朝廷は、その他種々雑多な訴訟のために、郁芳門の左右の脇に、決断所(裁判所)を設けました。

その裁判官としては、あらゆる学問に優れた、公卿や殿上人、その他、紀伝(史書、詩文等の専門家)、明法(法律の専門家)、外記(種々の文書作成の書記官)、官人(諸役人)らを、三つの班に分け、一ヶ月に六回の開廷と決まりました。それはそれなりに、威厳が感じられ、

堂々とした機関でした。とは言ってもこの組織が、国家を平穏に治めるための制度とは、思えませんでした。ある場合は、訴えた人が後宮からの働きかけによって、天皇から自分に有利な決定を貰っているのに、決断所では、反対に被告人に有利な裁定がされました。

また決断所では正式の所有者に、所領安堵を下しているのに、内奏によってその土地を、別人の恩賞に充てたりしました。このように朝廷と決断所の裁定が、統一されない結果、一つの所領に対して、四、五人の権利者が現れ、国々において、騒動が頻発することになりました。

ところで去る七月の初めより、体調を崩されていた中宮(西園寺禧子?)が、八月二日に崩御されました。それだけでなく、十一月三日には、皇太子も崩御されたのです。これはただ事ではないのでは、この合戦で討ち死にした兵士らの怨霊が、原因ではないかと、

怨霊の怒りを鎮め、成仏して浄土に逝くことが出来るよう、四ヵ所の大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)に命じて、大蔵経五千三百巻を一日で筆写させ、すぐに法勝寺において、法要を営まれました。


○大内裏造営事付聖廟御事
翌年正月十二日、諸卿議奏して曰、「帝王の業、万機事繁して、百司設位。今の鳳闕僅方四町の内なれば、分内狭して調礼儀無所。四方へ一町宛被広、建殿造宮。是猶古の皇居に及ばねばとて、大内裏可被造。」とて安芸・周防を料国に被寄、日本国の地頭・御家人の所領の得分二十分一を被懸召。抑大内裡と申は、秦の始皇帝の都、咸陽宮の一殿を摸して被作たれば、南北三十六町、東西二十町の外、竜尾の置石を居へて、四方に十二の門を被立たり。東には陽明・待賢・郁芳門、南には美福・朱雀・皇嘉門、西には談天・藻壁・殷富門、北には安嘉・偉鑒・達智門、此外上東・上西、二門に至迄、守交戟衛伍長時に誡非常たり。三十六の後宮には、三千の淑女飾妝、七十二の前殿には文武の百司待詔。紫宸殿の東西に、清涼殿・温明殿。当北常寧殿・貞観殿。々々々と申は、后町の北の御匣殿也。校書殿と号せしは、清涼殿の南の弓場殿也。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅坪、襲芳舎と申は雷鳴坪の事也。

☆ 大内裏の造営を行ったことと、聖廟(菅原道真をまつった廟)についてのこと

さて翌年、元弘四年(1334年)の正月十二日、諸公卿らが会議した結果、「天皇の業務が何かと多事煩雑で、諸役所を設置しなければならない。現在の内裏は僅か、四町四方に過ぎず、狭すぎてあらゆる秩序を遵守し、儀式などをとり行うには無理があります。

そこで敷地を四方に一町ほど広げて、殿舎を建設し宮殿を造営しましょう。それでもまだ過去の皇居に比べて狭いので、大内裏を造営してはいかが」と、安芸と周防の国に、造営費用の負担を命じ、また日本国の地頭、御家人の所領から、二十分の一を徴収し、

費用に充てました。そもそも大内裏と言うのは、秦の始皇帝が住んでいた、都にある宮殿、咸陽宮の中の一殿を模倣して、造営された建造物であり、南北三十六町、東西二十町の外側にある、大極殿に通ずる竜尾の道には、石を置き並べて、四方には十二の門を構えています。

つまり東面には陽明、待賢、郁芳門を構え、南側には美福、朱雀、皇嘉門、また西面には、談天、藻壁、殷富門を、そして北側には、安嘉、偉鑒門、達智門を構えています。これ以外にも、上東門、上西門の二門に至るまで、守衛が警備し、近衛兵が非常の事態に備えています。

三十六の後宮には、三千人の気品ある女性が飾り立てて、帝に奉仕をし、また七十二の政務を行う建物には、文官、武官ら百人に上る役人が、天皇からの命令を待っています。紫宸殿の東西には、清涼殿、温明殿が並び、紫宸殿の北には、常寧殿、貞観殿が並びます。

この貞観殿と言うのは、常寧殿(后町のこと)の北側にある、御匣殿(宮中で装束等を裁縫する所)のことです。また校書殿と名付けられた建物は、清涼殿の南側にある、別名、弓場殿のことです。昭陽舎は女官の詰め所であり、庭に梨が植わっていたので、梨壷といいます。

淑景舎は女御、更衣の住居で、庭に桐を植えていたので、桐壺と言います。また飛香舎は中宮や女御の住まいで、同じく庭に藤が植わっていたので、藤壺と言います。凝花舎は女御などが居住したほか、清涼殿に近いので、しばしば東宮御所や摂政、関白の詰め所にもなり、

庭に紅白の梅が植えてあったので、梅壺とも言われました。そして襲芳舎は梅壺の北側にあり、後宮の局ですが、右大将の宿所や、東宮御所として使われたりしました。庭に落雷した木があったことや、雷鳴の時天皇が避難して、滝口武者に鳴弦させたとも言われ、そこから雷鳴壺と呼ばれています。


萩戸・陣座・滝口戸・鳥曹司・縫殿。兵衛陣、左は宣陽門、右陰明門。日花・月花の両門は、対陣座左右。大極殿・小安殿・蒼龍楼・白虎楼。豊楽院・清署堂、五節の宴水・大嘗会は此所にて被行。中和院は中院、内教坊は雅楽所也。御修法は真言院、神今食は神嘉殿、真弓・競馬をば、武徳殿にして被御覧。朝堂院と申は八省の諸寮是也。右近の陣の橘は昔を忍ぶ香を留め、御階に滋る竹の台幾世の霜を重ぬらん。在原中将の弓・胡■を身に添て、雷鳴騒ぐ終夜あばらなる屋に居たりしは、官の庁の八神殿、光源氏大将の、如物もなしと詠じつゝ、朧月夜に軻しは弘徽殿の細殿、江相公の古へ越の国へ下しに、旅の別を悲て、「後会期遥也。濡纓於鴻臚之暁涙」と、長篇の序に書たりしは、羅城門の南なる鴻臚館の名残なり。鬼の間・直盧・鈴の縄。荒海の障子をば、清涼殿に被立、賢聖の障子をば、紫宸殿にぞ被立ける。東の一の間には、馬周・房玄齢・杜如晦・魏徴、二の間には、諸葛亮・遽伯玉・張子房・第伍倫、三の間には、管仲・■禹・子産・蕭何、四の間には、伊尹・傅説・太公望・仲山甫、西の一の間には、李勣・虞世南・杜預・張華、二の間には、羊■・揚雄・陳寔・班固、三の間には、桓栄・鄭玄・蘇武・倪寛、四の間には、董仲舒・文翁・賈誼・叔孫通也。画図は金岡が筆、賛詞は小野道風が書たりけるとぞ承る。鳳の甍翔天虹の梁聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏、天災消に無便、回禄度々に及で、今は昔の礎のみ残れり。

清涼殿には萩戸と言う部屋や、公卿が座を占める陣座、滝口戸(禁裏護衛の武士が控える部屋?)、そのほか紫宸殿正面の、承明門外の東角には、宮中で飼育している鷹を、つないでおく鳥曹司があります。また天皇や恩賞として臣に与える衣服を縫う、縫殿寮などもあります。

武官の詰め所である兵衛陣の近くには、左(東)側に宣陽門が、右(西)側に陰明門の二門があります。また紫宸殿の前の庭に、東側の日華門と、西側の月華門が、左右の陣座のそば近くにあります。正殿としての大極殿、天皇が政務を執る小安殿、

大極殿を取り囲む建物の南東側には、蒼龍楼、南西側には白虎楼があります。饗宴施設の豊楽院、清署堂では五節に合わせて行われる、酒宴や大嘗祭などが、行われました。中和院は中院とも言い、内教坊は舞踊、音楽の教習所です。

宮中で加持祈祷を行うのは、真言院であり、神今食(じんこんじき::神嘉殿に天照大神を祭り、天皇が飯を炊いて供え、自らも食する神事)は中和院の正殿である、神嘉殿で行います。馬に乗っての弓競技や競馬が行われる時は、武徳殿にて天皇がご覧になられました。

朝堂院と言うのは、八省(中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省)の諸役所です。紫宸殿の前庭の、右近の陣にある橘は、昔を偲ぶ香りを今も残し、清涼殿東庭の河竹、呉竹の台はどれほど長い年月を、経てきたのでしょうか。

在原業平中将が、弓と矢を納める胡ぐいを手にして、雷の鳴り響く夜を、隙間だらけな建物の中で、一晩を過ごしたのは、天皇を守護する八神を祀る、官庁の八神殿であり、光源氏大将が、朧月の君との密会が露見し、こうなれば仕方ないと嘆きながら、

朧月の夜に困り果てたのは、弘徽殿の細殿です。また江相公、大江音人が昔、北陸道を越国に下る時、旅路に出る別れを悲しんで、「また会えるのは何時のことか、遥か先になると思います。鴻臚館(迎賓館)で開いた別れの宴も、明け方まで続き、

悲しみの涙で、冠の紐も濡れてしまいました」と、自分の長編作の、序の言葉として書いたのは、羅城門の南にあった鴻臚館のことでしょう。清涼殿には鬼の間と言う、鬼を斬る絵が描いてある部屋、直盧と言う、非常時に備えた宿直用の部屋、また鈴の縄があります。

荒海に手の長い人物と、足の長い人物が描かれた、荒海の障子と言う襖が、清涼殿にあります。そして紫宸殿には、古代中国の、賢聖三十二人の人物画像が描かれた、賢聖の障子と言う襖が、立てかけられています。その人物画像とは、東の一の間の図には、

馬周、房玄齢、杜如晦、魏徴が描かれ、二の間の図は、諸葛亮、遽伯玉、張子房、第五倫が描かれています。三の間には、管仲、ケ禹、子産、蕭何が、また四の間には、伊尹、傅説、太公望、仲山甫が描かれています。そして西の一の間には、

李勣、虞世南、杜預、張華が、二の間には、羊?(ネ偏に古)、揚雄、陳寔、班固が描かれ、また三の間には、桓栄、鄭玄、蘇武、倪寛が、四の間には、董仲舒、文翁、賈誼、叔孫通が描かれています。これらの絵画は巨勢金岡が描き、添えられている賛詞は、

小野道風が書いたと言われています。鳳の姿を焼いた甍は、天を翔るようであり、虹のように反りを持った梁は、雲に向かって聳え立つように見え、これほどまで手を掛け、技術の粋を集めて、建造された大内裏も、天災から逃れることも出来ず、また火災も度々受けて、今は昔の礎石だけが、残っている有様です。


尋回禄由、彼唐尭・虞舜の君は支那四百州の主として、其徳天地に応ぜしか共、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそ申伝たれ。矧や粟散国の主として、此大内を被造たる事、其徳不可相応。後王若無徳にして欲令居安給はゞ、国財力も依之可尽と、高野大師鑒之、門々の額を書せ給けるに、大極殿の大の字の中を引切て、火と云字に成し、朱雀門の朱の字を米と云字にぞ遊しける。小野道風見之、大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門とぞ難じたりける。大権の聖者鑒未来書給へる事を、凡俗として難じ申たりける罰にや、其後より道風執筆、手戦て文字正しからざれども、草書に得妙人なれば、戦て書けるも、軈て筆勢にぞ成にける。遂に大極殿より火出て、諸司八省悉焼にけり。無程又造営有しを、北野天神の御眷属火雷気毒神、清涼殿の坤柱に落掛給し時焼けるとぞ承る。抑彼天満大神と申は、風月の本主、文道の大祖たり。天に御坐ては日月に顕光照国土、地に降下ては塩梅の臣と成て群生を利し玉ふ。其始を申せば、菅原宰相是善卿の南庭に、五六歳許なる小児の容顔美麗なるが、詠前栽花只一人立給へり。菅相公怪しと見給て、「君は何の処の人、誰が家の男にて御坐ぞ。」と問玉に、「我は無父無母、願は相公を親とせんと思侍る也。」と被仰ければ、相公嬉く思召て、手から奉舁懐、鴛鴦の衾の下に、恩愛の養育を為事生育奉り、御名をば菅少将とぞ申ける。未習悟道、御才学世に又類も非じと見給しかば、十一歳に成せ給し時父菅相公御髪を掻撫て、「若詩や作り給ふべき。」と問進せ給ければ、少しも案じたる御気色も無て、月耀如晴雪。梅花似照星。可憐金鏡転。庭上玉芳馨。と寒夜の即事を、言ば明に五言の絶句にぞ作せ玉ける。其より後、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書玉しかば、貞観十二年三月二十三日対策及第して自詞場に折桂玉ふ。其年の春都良香の家に人集て弓を射ける所へ菅少将をはしたり。都良香、此公は無何と、学窓に聚蛍、稽古に無隙人なれば、弓の本末をも知玉はじ、的を射させ奉り咲ばやと思して、的矢に弓を取副て閣菅少将御前に、「春の始にて候に、一度遊ばし候へ。」とぞ被請ける。菅少将さしも辞退し給はず、番の逢手に立合て、如雪膚を押袒、打上て引下すより、暫しをりて堅めたる体、切て放たる矢色・弦音・弓倒し、五善何れも逞く勢有て、矢所一寸ものかず、五度の十をし給ければ、都良香感に堪兼て、自下て御手を引、酒宴及数刻、様々の引出物をぞ被進ける。

では火災の原因を調べて見ましょう。古代中国の唐尭、虞舜の帝は、中国四百州の支配者として、その人徳は、天地に知れ渡っていましたが、帝の住む宮殿は、「萱や茨を切ることもせず、建材も削り整えることもしなかった」と、伝えられています。

言うまでもなく我が国は、粟粒のような小さな国であり、その国の支配者として、これほどの内裏を建造することは、支配者としての徳に比して、不相応なことです。後世になってのことですが、もし帝の徳が充分でないのに関わらず、立派な宮殿を、要求することがあれば、

国家の財力は、これによって尽きてしまうことになるだろうと考え、高野の弘法大師は各門の額を書く時に、大極殿の大の字の中央を引き裂き、火と言う字にしてしまい、また朱雀門の朱の字を、米と言う字になされたのです。

小野道風はこの字を見て大極殿は火極殿になり、朱雀門は米雀門になっていると、非難しました。衆生を救済するために現世に現れたとも考えられるお方が、将来のことを考えてお書きになったものを、凡人である道風が非難した罰なのか、

その後道風が筆を手にすると手が震えて、文字を正しく書けませんでした。しかし草書の書法に絶妙の技法を得た人ですから、震えて書いても、やがてそれは筆の勢いだと言われました。さて、とうとう大極殿より出火し、諸役所や八省の役所など、全てが焼け尽くしました。

しばらくして再び造営を行いましたが、北野天神菅原道真の御一族である火雷神が、清涼殿の西南の柱に落ちた時、火災になったと聞いています。そもそも、その天満大神と言うのは、自然の風物の支配者であり、文学の分野においての絶対神です。

天上においては、太陽、月の光となって、国土をくまなく照らし、地上にあっては臣下として、主君を助けて政治を行い、多数の衆生に幸せをもたらしました。ことの起こりを話せば、平安時代の貴族、菅原宰相是善卿家の南庭に、五、六歳くらいの美しい顔をした子供が、

ただ一人で前栽の花を眺めて、立っていました。是善卿が不思議に思い、「君は何処の子だ、誰の家の子供だ」と尋ねたところ、「私には父も母もいません。出来ることなら、菅原宰相殿が親になって頂きたいと考えています」と、返事されました。

聞いた宰相は嬉しく思って、自ら抱き上げ、夫婦の愛情あふれる環境の中で、彼は養育され成長されました。お名前は菅少将と言われています。学んだこともないのに仏道の真理を悟られ、その学問の才能は、広い世間と言えど、他に例があるとは、考えられません。

彼が十一歳になられた時、父である菅相公が髪を撫でながら、「もしかして、詩など作ることがあるのですか」と問われると、少しも考える様子を見せず、
      月耀如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉芳馨

(月は晴れた日の雪のように輝き、梅の花は星を照らすように見える。鏡のような美しい月が動くに連れて、庭に梅花の香りが漂うようだ)
と、寒い夜、目の前の様子を、このような五言絶句にまとめて、作られたのです。

このことがあってから、詩に関しては盛唐の時代に、七歩の才と言われた曹植の技量をしのぎ、文章に関しては、古代中国の漢、魏の書籍の文章を味わい学び、万巻の書を暗記されました。そして貞観十二年(870年)三月二十三日、律令制度における、官吏登用試験に合格し、

文壇にその才を現されたのです。またその年(870年)の春、文章博士、都良香の家で、人々が集まって、弓を射ることがありました。その席には菅少将も居られたのです。都良香はこの方は、ほかの事は置いても、学びの部屋に蛍を集めて、勉学にいそしむ人なので、

とても弓の稽古など、している暇などないでしょう。だから弓の何たるかも、ご存知のはずもなし、的を射させて、笑いものにしてやろうと考え、矢と弓一式そろえて、菅少将の前に置くと、「新春のことでもあり、一つお遊びになられては如何ですか」と、勧められました。

菅少将は特に辞退することもなく、弓矢を受け取り、雪の様な白い肌を肩肌脱ぎになり、弓を持ち上げ正面に引き下げて、しばし弓を固め置いて放ちました。矢の美しい飛び方と言い、弦のはじける音も、また弓倒しの動作など、

五善(矢を射るときの五つの良い形。体が和すること、容儀のあること、的に当たること、雅頌にかなうこと、武を興すこと)に至るまで全てが逞しく力がみなぎって、狙いを一寸たりと違えず、五回とも的をはずすことなく、的中させました。都良香は大いに感心し、

弓場に向かうと自ら菅少将の手を取り、その後数刻の酒宴となり、さまざまな引き出物を、菅少将に贈られたのでした。


同年の三月二十六日に、延喜帝未だ東宮にて御坐ありけるが、菅少将を被召て、「漢朝の李■は一夜に百首の詩を作けると見たり。汝盍如其才。一時に作十首詩可備天覧。」被仰下ければ、則十題を賜て、半時許に十首の詩をぞ作せ玉ける。送春不用動舟車。唯別残鴬与落花。若使韶光知我意。今宵旅宿在詩家。と云暮春の詩も其十首の絶句の内なるべし。才賢の誉・仁義の道、一として無所欠、君帰三皇五帝徳、世均周公・孔子治只在此人、君無限賞じ思召ければ、寛平九年六月に中納言より大納言に上、軈て大将に成玉ふ。同年十月に、延喜帝即御位給し後は、万機の政然自幕府上相出しかば、摂禄の臣も清花の家も無可比肩人。昌泰二年の二月に、大臣大将に成せ給ふ。此時本院大臣と申は、大織冠九代の孫、昭宣公第一の男、皇后御兄、村上天皇の御伯父也。摂家と云高貴と云、旁我に等き人非じと思ひ給けるに、官位・禄賞共に菅丞相に被越給ければ、御憤更無休時。光卿・定国卿・菅根朝臣などに内々相計て、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀し給けれども、天道私なければ、御身に災難不来。さらば構讒沈罪科思て、本院大臣時々菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由被申ければ、帝さては乱世害民逆臣、諌非禁邪忠臣に非ずと被思召けるこそ浅猿けれ。「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼。」さしも可眤夫婦・父子の中をだに遠くるは讒者の偽也。況於君臣間乎。遂昌泰四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫へ被流給べきに定りにければ、不堪左遷御悲、一首の歌に千般の恨を述て亭子院へ奉り給ふ。流行我はみくづとなりぬとも君しがらみと成てとゞめよ法皇此歌を御覧じて御泪御衣を濡しければ、左遷の罪を申宥させ給はんとて、御参内有けれ共、帝遂に出御無りければ、法皇御憤を含で空く還御成にけり。

同年(870年)三月二十六日、延喜帝はまだ皇太子でしたが、菅少将をお呼びになり、「漢国の李?(山偏に喬)は、一夜に百首の詩を作られたと聞いている。汝の持っている才能ならば、出来るであろうが、一度に十首の詩を作って、天皇にご覧になってもらえれば、

いかがだろうか」と仰せられ、彼はすぐに十のお題を頂くと、一時間ばかりの内に、十首の詩を作られたのでした。
      送春不用動舟車 唯別残鶯與落花 若使韶光知我意 今宵旅宿在詩家

(行く春を見送るのに、舟や車を動かす必要はありません。ただ居残っている鶯と、散る花に、別れを告げるだけです。もし春の光に、私の思いを伝えるなら、今宵は詩人である私の家に、宿を取ってください。)
と言う晩春を詠んだ詩も、その十首の詩の中にある絶句の一つです。

才能豊かが故に名誉を得た上、道徳上においても、人間として何一つ欠けるものもないので、帝は古代中国の伝説上の三天子、五聖君の持っていた人徳と並び賞し、世の中の統治については、周公旦や孔子が治めたように、この菅少将に任せれば良いと、

帝は全面的に信頼されました。そこで寛平九年(897年)六月に中納言より大納言に昇進して、その後すぐ大将になられました。同年(897年)十月に延喜帝(醍醐天皇)がご即位されてからは、政治上の案件についても、丞相自ら処理をしましたので、

摂政関白も清華(摂政、関白家に次ぐ家)の家も、彼に肩を並べることなど、出来ませんでした。昌泰二年(899年)に右大臣に昇進すると共に、右大将も兼任されました。この時代本院大臣と呼ばれていた、藤原時平というお方は、

大織冠、藤原鎌足の九代の孫である、昭宣公、藤原基経の長男であり、時の皇后(藤原穏子)の御兄で、村上天皇に対しては御伯父に当たります。摂政、関白に任じられる家系であって、その高貴な家柄といい、どう考えても自分に対抗できる人間など、

この世に居るはずがないと思っていたのに、官位、俸禄も、また功績等の褒賞なども皆、菅丞相、菅原道真に追い越されてしまい、その憤慨の度合いは更に増すばかりでした。そこで藤原時平は大納言源光卿や中納言藤原定国卿、また藤原菅根朝臣などと密計をめぐらして、

陰陽寮の長官を呼びつけ、皇居のあちこちに人形を埋めさせ、また冥界に住む鬼神などを祭って、菅丞相を呪詛しましたが、天の神は公平無私ですから、菅丞相の身には、何ら災難など起こりませんでした。こうなれば陥れるために、

あることないこと告げ口をして、罪をかぶせようと考えました。本院大臣、藤原時平は菅丞相のことについて、彼は時として、天下の政治に私心を起こすため、民が不安を感じたり、困っていることに気づいていません。これでは国のためにならないと、申し上げたので、

帝はそれでは菅丞相は、世を騒がし、民を困らせる逆臣が忠告を無視し、不正を行っているわけであり、これではとても忠臣とは言えないと、お考えになられたのは、何とも残念なことでした。「誰もが知っていますが、言葉巧みに話しかけるのは、二枚舌を使っているのであり、

人を陥れようと勧める者がいても、帝は決して、受け入れてはなりません。(古代中国、魏の時代に、女性に鼻を隠せば美しく見えると勧め、その後、王の体臭がいやだから、鼻を隠していると讒言し、王に鼻を切らせた故事)もし帝が受け入れれば、仲の良い夫婦も、出会うことのない、

三ツ星のようになってしまいます。帝は蜂(峰?)を捕らえてくれと頼まれても、決して捕らえてはならない。帝が捕らえることによって、父子(母子?)は残酷な目に会うことになります」(この段は白居易の漢詩より、引用らしいが、訳不明解)これほど仲の良い夫婦や、父子の仲をも引き裂くのは、

告げ口をする者の虚言に拠るのです。まして帝と朝臣の仲であれば、もっとひどくなると思われます。そしてとうとう、昌泰四年(901年)正月二十日、菅丞相は太宰権帥に左遷され、筑紫に流されることと、決まりました。左遷される悲しみに耐えかね、

一首の歌に、もろもろの恨みを込めて、宇多天皇に送られました。
      流れ行く 我はみくずと なりぬとも 君しがらみと 成てとどめよ

(私は水屑のように、流されて行く身になりましたが、帝は柵となって、流れていく私を、引き止めてください)
宇多法皇はこの歌をご覧になり、涙でお着物を濡らされ、左遷の罪を許してもらおうと、

内裏に参上されましたが、醍醐天皇は面会されず、宇多法皇は憤りに震えながら、空しく御所を出られ、お帰りになられたのでした。


其後流刑定て、菅丞相忽に太宰府へ被流させ玉ふ。御子二十三人の中に、四人は男子にてをわせしかば、皆引分て四方の国々へ奉流。第一の姫君一人をば都に留め進せ、残君達十八人は、泣々都を立離れ、心つくしに赴せ玉ふ御有様こそ悲しけれ。年久く住馴給し、紅梅殿を立出させ玉へば、明方の月幽なるに、をり忘たる梅が香の御袖に余りたるも、今は是や古郷の春の形見と思食に、御涙さへ留らねば、東風吹ば匂をこせよ梅の花主なしとて春な忘れそと打詠給て、今夜淀の渡までと、追立の官人共に道を被急、御車にぞ被召ける。心なき草木までも馴し別を悲けるにや、東風吹風の便を得て、此梅飛去て配所の庭にぞ生たりける。されば夢の告有て、折人つらしと惜まれし、宰府の飛梅是也。去仁和の比、讚州の任に下給しには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶、敲舷於南海月、昌泰の今配所の道へ赴せ玉ふには、恩賜の御衣の袖を片敷て、浪の上篷の底、傷思於西府雲、都に留置進せし北御方・姫君の御事も、今は昨日を限の別と悲く、知ぬ国々へ被流遣十八人の君達も、さこそ思はぬ旅に趣て、苦身悩心らめと、一方ならず思食遣に、御泪更に乾間も無れば、旅泊の思を述させ給ける詩にも、自従勅使駈将去。父子一時五処離。口不能言眼中血。俯仰天神与地祇。北御方より被副ける御使の道より帰けるに御文あり。君が住宿の梢を行々も隠るゝまでにかへり見しはや心筑紫に生の松、待とはなしに明暮て、配所の西府に着せ玉へば、埴生の小屋のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼の瓦の色、観音寺の鐘の声、聞に随ひ見に付ての御悲、此秋は独我身秋となれり。起臥露のとことはに、古郷を忍ぶ御涙、毎言葉繁ければ、さらでも重濡衣の、袖乾く間も無りけり、さても無実の讒によりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思召ければ、七日、間御身を清め一巻の告文を遊して高山に登り、竿の前に着て差挙、七日御足を翹させ給たるに、梵天・帝釈も其無実をや憐給けん。黒雲一群天より下さがりて、此告文を把て遥の天にぞ揚りける。其後延喜三年二月二十五日遂に沈左遷恨薨逝し給ぬ。今の安楽寺を御墓所と定て奉送置。惜哉北闕春花、随流不帰水、奈何西府夜月、入不晴虚命雲、されば貴賎滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。

その後流刑が決定し、菅丞相は即刻大宰府に流されました。お子さんは二十三人居られ、その内四人が男子でしたが、全員別々に四方の国々へ、流されたのでした。長女の姫君一人だけ都に残して、残る姫たち、十八人は泣く泣く都を離れられ、

心ばかりが筑紫に向かうご様子は、悲しい限りでした。菅原道真は長年住み慣れた住居、紅梅殿をご出発になる時、明け方の月が弱々しく輝き、梅の香りがまだ我が袖に残っているのも、今となればこれも京都における、春の形見と思われ、涙さえ止まることもありませんでした。

      東風吹かば 匂起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
と一首詠まれました。しかし今夜は、淀の渡しまで行く予定だと、護送の役人に道を急がされ、車に乗られたのでした。

感情など持つはずのない草木でも、今まで慣れ親しんできた人との別れを悲しむのか、東から吹く風に乗って、この梅が大宰府まで飛び去り、道真の配所の庭に生えたのでした。そのような梅ですから、その後大宰府の参詣者が、その梅の枝を折り、持ち帰ったところ、

その夜夢に、主を忘れぬ梅を折ったと、天満宮のお告げがあったと言うのも、この梅のことです。去る仁和二年(886年)、道真は讃岐守に任じられ、讃岐国に勤務のため都より下って、赴任しましたがその時は、甘寧のように錦で作った纜を解き、蘭の樹や、

月にあるという桂の木で作った舵が、海に浮かぶ月の中、船べりを打ちながら南に進みました。そして、昌泰四年(901年)の今、配所に向かう道真は、天皇より頂いた着物の袖を、片方だけ敷き、波の上を筵の敷いた舟底で、遥か西方、赴任先に浮かぶ雲を思えば、

心も痛みます。都に残してきた北の方や、姫君ことなど、今となれば、昨日が最後の別れと思え、悲しい限りです。また知らない国々に、流されていく十八人の姫たちにしても、思いがけない旅を強いられ、身の苦しみ、心の悩みも一方ないだろうと考えられ、

涙が溢れて、乾く間もありません。旅の宿を重ねて行く悲しみの中に、心を詠まれた歌としては、
      自従勅使駆将去 父子一時五処離 口不能言眼中血 俯仰天神与地祇

(勅使が駆け去るやいな、父子は一時にして、五ヵ所に離れ離れとなってしまった。弁明の一つも口にすることも出来ず、ただ血の涙を流すだけです。俯き仰いで、お願いするのは天の神と地の神ばかりです)北の方に付き添わせていたお使いの者が、お手紙を持って帰ってきました。

      君が住む 宿の梢を 行々も 隠るるまでに かへり見しはや
(あなたがお住まいの、家の木々の先が、遠ざかるに連れて見えなくなるまで、振り返っては見ていました)

毎日毎日、配所でのことなど気をもみながら、ただ旅の空を重ねていくうちに、やがて配所の大宰府にお着きになりました。すぐに粗末でむさくるしい建物に案内され、護送に付いて来た、都の役人も、帰ってしまいました。大宰府の各庁舎の瓦の色や、

観音寺から聞こえてくる鐘の音、見るもの聞くもの全て、悲しみのもとであり、この秋は、ただ一人で過ごすこととなりました。日々変わることのない寝起きに、ただ都のことだけを思っては涙を流し、出る言葉も恨みを含み、それでなくても重い無実の罪を着せられた上、

濡れ衣の袖の涙も、乾く間もありません。このようにして無実の罪を、言われなき讒言によって負わされて、結果流刑に処せられ、その恨みは骨髄にしみ込み、とても耐えられないと、お考えになられました。そこで七日間身を清め、神に我が無実を誓うため、

一巻の文書を認めると高い山に登って、文書を竿の先につけてさしあげ、七日の間、足を爪先立たせて、祈願し続けました。この様子に、梵天(仏教の守護神)も帝釈天(密教の守護神)も、道真の無実の罪を、気の毒に思われたのか、やがて黒雲の一団が、天より下ってくると、

この文書を掴むようにして、遥か天に上って行ったのでした。その後、延喜三年(903年)二月二十五日、道真は大宰府への、流罪の処罰に恨みを残して、亡くなられました。今の安楽時を墓所に決め、ご遺体を送りました。惜しいかな皇居に咲いた春の花、

世の流れに流されるまま水は帰らず。いかにせん、大宰府に上る夜の月、疑いの晴れることもなく、空しく命は雲に入り込みました。この事態を悲しみ、身分に関係なく涙を流し、飾り気のない、素朴さを誇れる世を望み、人情の薄れた世間を、嘆き悲しむ気持ちが、あちこちに声なき声となって溢れました。


同年夏の末に、延暦寺第十三の座主、法性坊尊意贈僧正、四明山の上、十乗の床前に照観月、清心水御坐けるに、持仏堂の妻戸を、ほと/\と敲音しければ、押開て見玉ふに、過ぬる春筑紫にて正しく薨逝し給ぬと聞へし菅丞相にてぞ御坐ける。僧正奇思して、「先此方へ御入候へ。」と奉誘引、「さても御事は過にし二月二十五日に、筑紫にて御隠候ぬと、慥に承しかば、悲歎の涙を袖にかけて、後生菩提の御追善をのみ申居候に、少も不替元の御形にて入御候へば、夢幻の間難弁こそ覚て候へ。」と被申ければ、菅丞相御顔にはら/\とこぼれ懸りける御泪を押拭はせ給て、「我成朝廷臣、為令安天下、暫下生人間処に、君時平公が讒を御許容有て、終に無実の罪に被沈ぬる事、瞋恚の焔従劫火盛也。依之五蘊の形は雖壊、一霊の神は明にして在天。今得大小神祇・梵天・帝釈・四王許、為報其恨九重の帝闕に近づき、我につらかりし佞臣・讒者を一々に蹴殺さんと存ずる也。其時定て仰山門可被致総持法験。縦雖有勅定、相構不可有参内。」と被仰ければ、僧正曰、「貴方与愚僧師資之儀雖不浅、君与臣上下之礼尚深。勅請の旨一往雖辞申、及度々争か参内仕らで候べき。」と被申けるに、菅丞相御気色俄に損じて御肴に有ける柘榴を取てかみ摧き、持仏堂の妻戸に颯と吹懸させ給ければ、柘榴の核猛火と成て妻戸に燃付けるを、僧正少も不騒、向燃火灑水の印を結ばれければ、猛火忽に消て妻戸は半焦たる許也。此妻戸今に伝て在山門とぞ承る。

同年、延喜三年(903年)夏の末に、延暦寺十三世の座主、法性坊尊意贈僧正が四明山の頂上で、十乗の観法(天台宗で行われる、悟りにいたるための十種の修行)が行われる床を前にして、明月に照らされて、心を水のごとく澄まし、お座りになっていると、

持仏堂の開き戸をトントンと敲く音がしました。何だろうと押し開いて見ると、この春、筑紫において間違いなく、亡くなったと言われている菅丞相が居られました。僧正は不思議なこともあるものだと、「とりあえず、こちらにお越しください」と、お誘いし、

「ところで貴殿は、去る二月二十五日に筑紫において、確かにお亡くなりになったと、聞いています。そこで嘆き悲しみの涙で袖を濡らしながら、貴殿の後生を弔い、冥福を祈っておりますのに、少しも変わらない以前のお姿で、お越しになるとは、浄土への道に、

何かお困りになっているではと思います」と、申し上げました。すると菅丞相は、お顔をはらはらと流れる涙を押し拭い、「私は朝廷の臣下になって、天下の安泰のため、暫く人間世界に生まれてきたのですが、醍醐天皇が左大臣藤原時平公の、

私に対する中傷を受け入れられて、ついに無実の罪に陥れられました。その怒りの炎は、劫火のごとく、この世を燃え尽くすほど激しいものです。このため私は人間としての形態は、失ったと言えども、霊魂は明らかに天上に繋がっています。

今、私は大小の神々、梵天(仏教の守護神)、帝釈天(密教の守護神)、四天王(仏法の守護神)などのお力を得て、今までの恨みを晴らすため、都の宮中に近づき、私を陥れた良からぬ臣下や、中傷をし続けた人たちを、一人づつ順番に皆、蹴殺してやろうと考えています。

その時、きっと山門、延暦寺に対して、加持祈祷を行うよう命令があるでしょう。その時は、たとえ天皇よりの命令であっても、決して宮中には、参内しないでください」と、申し上げました。しかし僧正は、「貴殿とこの愚僧とは、縁浅からずとは言っても、

醍醐天皇と私の上下関係は、それ以上に深いと思います。帝からの申し入れに、一旦は辞退しますが、度々の要請があれば、参内することになるでしょう」と、申し上げたところ、菅丞相は突然顔色を変え、本尊に供えてあった柘榴を取って噛み砕き、

持仏堂の開き戸に、サッと吹きかけると、柘榴の中心部が火になって、激しく燃え上がり、妻戸を焼こうとしました。しかし、僧正は少しも慌てることなく、燃え盛る火に向かって、真言密教による、灑水の印を結び念じたところ、激しい火は瞬く間に消えて、

開き戸は半分ほどが焦げたぐらいです。この半焦げの妻戸は今も残っており、延暦寺に保管されていると聞いています。


其後菅丞相座席を立て天に昇らせ玉ふと見へければ、軈雷内裡の上に鳴落鳴騰、高天も落地大地も如裂。一人・百官縮身消魂給ふ。七日七夜が間雨暴風烈して世界如闇、洪水家々を漂はしければ、京白河の貴賎男女、喚き叫ぶ声叫喚・大叫喚の苦の如し。遂に雷電大内の清涼殿に落て、大納言清貫卿の表の衣に火燃付て伏転べども不消。右大弁希世朝臣は、心剛なる人なりければ、「縦何なる天雷也とも、王威に不威哉。」とて、弓に矢を取副て向給へば、五体すくみて覆倒にけり。近衛忠包鬢髪に火付焼死ぬ。紀蔭連は煙に咽で絶入にけり。本院大臣あはや我身に懸る神罰よと被思ければ、玉体に立副進せ太刀を抜懸て、「朝に仕へ給し時も我に礼を乱玉はず、縦ひ神と成玉ふとも、君臣上下の義を失玉はんや。金輪位高して擁護の神未捨玉、暫く静りて穏かに其徳を施し玉へ。」と理に当て宣ひければ、理にやしづまり玉けん、時平大臣も蹴殺され給はず、玉体も無恙、雷神天に上り玉ぬ。去ども雨風の降続事は尚不休。角ては世界国土皆流失ぬと見へければ、以法威神忿を宥申さるべしとて、法性坊の贈僧正を被召。一両度までは辞退申されけるが、勅宣及三度ければ、無力下洛し給けるに、鴨川をびたゝしく水増て、船ならでは道有まじかりけるを、僧正、「只其車水の中を遣れ。」と下知し給ふ。牛飼随命、漲たる河の中へ車を颯と遣懸たれば、洪水左右へ分、却て車は陸地を通りけり。僧正参内し給ふより、雨止風静て、神忿も忽に宥り給ぬと見へければ、僧正預叡感登山し玉ふ。山門の効験天下の称讚在之とぞ聞へし。

その後、菅丞相は席を立って、天に昇られたように見えましたが、すぐに内裏の上空で雷鳴が轟き渡り、その有様は、天も落ちれば、地も裂けるかと思われるほどでした。天皇を始めとして、高級官僚たちも身体が縮み上がり、気も動転し、

とても正気でいることも出来ませんでした。その後、七日七夜にわたり暴風雨が続き、世界は真っ暗闇になり、洪水も発生し民家も流され、京都白河周辺の男女は、身分に関係なく泣き叫び、その声は叫喚地獄や、もっと苦しい大叫喚地獄の苦痛に上げる、

叫び声とも思えます。その後、延長八年(930年)六月二十六日、とうとう雷は内裏の清涼殿に落ち、大納言藤原清貫卿が、衣冠束帯で正装している上着に、火が燃え移り、転び回っても消えず死亡しました。また右大弁平希世朝臣は勇猛な人物ですから、

「たとえどのような雷神であろうと、天皇の威光に適うわけがない」と、弓矢を持って向かいましたが、五体がこわばって動きが取れなくなり、倒れ込みました。近衛佐美努忠包は、髪の毛に火が燃え移り、焼死しました。その外、紀蔭連も煙に巻かれて死亡しました。

本院大臣、藤原時平はこれはもしかして、自分にかかった神罰なのかと思い、天皇に付き添って、太刀を抜き払い、「朝廷に仕えていた時も、この私に決して、礼を失することはなかったではないか、たとえ神になられたとしても、帝と臣下、上下のわきまえを、

失うことのないよう。金輪王としてその位が高くなったと言って、仏法を擁護する神を捨てることなく、ここはしばらく落ち着かれ、穏やかにその徳を衆生に施してください」と、理に従ってお話されると、その理に納得したのか、おとなしくなり、時平大臣は蹴殺されることもなく、

天皇もご無事で、雷神は天上に上って行かれました。とは言っても、風雨は止むことなく、降り続きました。このようなことが続けば、世界も国土も皆、流れ去ってしまうのではと考えられ、仏法の力を借りて、雷神の怒りを収めなければと、延暦寺の法性坊尊意贈僧正を呼ばれました。

僧正は菅丞相との話もあり、二度までは辞退されましたが、天皇よりの命令が三度に及ぶと、仕方なく山を降りられたのですが、行く手の鴨川は、おびただしく増水して、舟でなければ、とても洛内に入れそうにありません。しかし僧正は、「かまわぬ、

このまま車を水の中へ進ませ」と、命令されました。命じられた牛飼いは、その命令に従って、満々たる川に、車をザッと進ませたところ、流れる水が左右に分かれ、すっかり陸地となり、車はそこを進みました。そして僧正が参内されると、あれほどの暴風雨はすっかり静まり、

神の怒りもたちまちに収まったので、僧正は天皇から、お褒めの気持ちを頂いて、比叡山に登られました。山門の霊験あらたかなるところが、天下に知れ渡ったのは、このことによると聞いています。


其後本院大臣受病身心鎮に苦み給ふ。浄蔵貴所を奉請被加持けるに、大臣の左右の耳より、小青蛇頭を差出して、「良浄蔵貴所、我無実の讒に沈し恨を為散、此大臣を取殺んと思也。されば祈療共に以て不可有験。加様に云者をば誰とかしる。是こそ菅丞相の変化の神、天満大自在天神よ。」とぞ示給ける。浄蔵貴所示現の不思議に驚て、暫く罷加持出玉ければ、本院大臣忽に薨じ給ぬ。御息女の女御、御孫の東宮も軈て隠れさせ玉ぬ。二男八条大将保忠同重病に沈給けるが、験者薬師経を読む時、宮毘羅大将と打挙て読けるを、我が頚切らんと云声に聞成て、則絶入給けり。三男敦忠中納言も早世しぬ。其人こそあらめ、子孫まで一時に亡玉ける神罰の程こそをそろしけれ。其比延喜帝の御従兄弟に右大弁公忠と申人、悩事も無て頓死しけり。経三日蘇生給けるが、大息突出て、「可奏聞事あり、我を扶起て内裏へ参れ。」と宣ければ、子息信明・信孝二人左右の手を扶て参内し玉ふ。「事の故何ぞ。」と御尋有ければ、公忠わな/\と振て、「臣冥官の庁とてをそろしき所に至り候つるが、長一丈余なる人の衣冠正しきが、金軸の申文を捧て、「粟散辺地の主、延喜帝王、時平大臣が信讒無罪臣を被流候き。其誤尤重し、早被記庁御札、阿鼻地獄へ可被落。」と申しかば、三十余人並居玉へる冥官大に忿て、「不移時刻可及其責。」と同じ給しを、座中第二の冥官、「若年号を改て過を謝する道あらば、如何し候べき。」と宣しに、座中皆案じ煩たる体に見へて、其後、公忠蘇生仕候。」とぞ被奏ける。

その後、本院大臣、藤原時平は病気になり、身も心も永く苦しむこととなりました。そこで天台宗の僧侶、浄蔵貴所に頼んで、祈祷してもらったところ、大臣の左右の耳から、小さな青い蛇が頭を出し、「良いか、浄蔵貴所、私は無実の罪を負わされ、

その恨みを晴らすがため、この大臣を呪い殺そうと考えている。だから祈祷をしようが、治療を施そうが、そのようなものは全く効果は無いのだ。このようなことを申し上げる者は、一体誰だか分かっているのか。これこそ菅丞相が姿を変えて出現した神、天満大自在天神であるぞ」と、

明かしたのです。浄蔵貴所は、神仏出現の不思議さに驚き、暫く加治祈祷を中断されたところ、本院大臣、藤原時平は忽ち、命を落としたのでした。三十九歳の若さで、延喜九年(909年)のことです。また御息女の女御も御孫の皇太子、保明親王も二十歳の若さで、

延喜二十三年(923年)死去しました。また時平の二男(長男では?)八条大将藤原保忠も同じく重病になり、修験者に薬師如来経の読経をしてもらっていましたが、途中で宮毘羅大将と、声高に読み上げるのを聞いた時、自分の首を切るぞと聞き違え、

恐怖に耐えられず、死亡してしまいました。承平六年(936年)のことです。保忠四十七歳の時です。時平の三男、藤原敦忠中納言も、天慶六年(943年)に三十七歳の若さで死去しました。本人ばかりでなく、子孫まで一時に命を失う程の神罰とは、本当に恐ろしい話です。

当時、延喜帝の御従兄弟に、光孝帝の孫、右大弁源公忠と言う方が居られましたが、特に何か問題があった訳でも無いのに、急死するということもありました。しかしその後三日が過ぎてから生き返り、大きなため息を漏らすと、「天皇に申し上げたいことがある。

私を助け起こして、内裏に連れて行くように」と仰せられ、子息の源信明、源信孝の二人が左右の手を引いて、参内しました。「一体、どうしたのだ」と、お尋ねがあり、体をわなわなと震わせた公忠は、「この私は、地獄の閻魔庁という、恐ろしい所に行ってきましたが、

背丈一丈もあろうかと思われる人が、衣冠で正装し、黄金の軸に巻いた文書を手に持ち、『粟散辺地(辺鄙な地にある、粟粒を散らしたように小さな土地)ともいうべき日本の、延喜の帝王、醍醐天皇と時平大臣が、取りとめも無い讒言を信じて、罪無き臣下を流罪に処した。

その誤りに対する罪科は、非常に重いものである。早速地獄庁の札にその旨を記して、阿鼻地獄(大悪を犯した者が落ちる地獄)に、落とすことにしよう』と申されました。すると、三十余人ほど居並んでいた地獄庁の役人が、大いに怒りをあらわにし、

『即刻その責め苦に取り掛かろう』と同調したのを、その場に居た役人の中で、第二位ともいうべき者が、『もし、年号を変更し、犯した誤りを謝罪することがあれば、その時はどうすればよいのか』と仰せられ、その場に居た人たちが、良い案を思いつかず困っているように見え、その後この私は生き返ったのです」と、申し上げました。


君大に驚思召て、軈て延喜の年号を延長に改て、菅丞相流罪の宣旨を焼捨て、官位を元の大臣に帰し、正二位の一階を被贈けり。其後天慶九年近江国比良の社の袮宜、神の良種に託して、大内の北野に千本の松一夜に生たりしかば、此に建社壇、奉崇天満大自在天神けり。御眷属十六万八千之神尚も静り玉ざりけるにや、天徳二年より天元五年に至迄二十五年の間に、諸司八省三度迄焼にけり。角て有べきにあらねば、内裏造営あるべしとて、運魯般斧新に造立たりける柱に一首の蝕の歌あり。造とも又も焼なん菅原や棟の板間の合ん限りは此歌に神慮尚も御納受なかりけりと驚思食て、一条院より正一位太政大臣の官位を賜らせ玉ふ。勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也。偉矣、尋本地、大慈大悲の観世音、弘誓の海深して、群生済度の船無不到彼岸。垂跡を申せば天満大自在天神の応化の身、利物日新にして、一来結縁の人所願任心成就す。是を以て上自一人、下至万民、渇仰の首を不傾云人はなし。誠奇特無双の霊社也。去程に、治暦四年八月十四日、内裏造営の事始有て、後三条院の御宇、延久四年四月十五日遷幸あり。文人献詩伶倫奏楽。目出かりしに、無幾程、又安元二年に日吉山王の依御祟、大内の諸寮一宇も不残焼にし後は、国の力衰て代々の聖主も今に至まで造営の御沙汰も無りつるに、今兵革の後、世未安、国費へ民苦て、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我朝には未用作紙銭、諸国の地頭・御家人の所領に被懸課役条、神慮にも違ひ驕誇の端とも成ぬと、顰眉智臣も多かりけり。  

醍醐天皇はこの話に大変驚き、すぐに年号を延喜から延長に変更し、菅丞相を流罪に処する旨の宣旨も焼き捨てると、官位も元の大臣に戻した上、正二位の官位を追贈しました。その後、天慶九年(946年)近江国、比良宮の禰宜、神良種にあった神のお告げ通り、

内裏の北野に、一千本の松が一夜に生えたので、ここに社殿を建造して、天満大自在天神として祀りました。ところが天満大自在天神の眷属ら、十六万八千に上る神々が、未だに怒りが収まらないのか、天徳二年(958年)から天元五年(982年)に至るまでの二十五年間に、

中央の行政組織の諸役所が、三度も火災に見舞われました。火災に遭ったままでは如何か、内裏を造営すべきではないかと、魯般(中国春秋時代の工匠、神とされる)の神を運び入れ、新しく材木を手斧で仕上げ、立ち上げた柱に、虫食いによる一首の歌が現れました。

      造とも 又も焼けなん 菅原や 棟の板間の 合ん限りは
(造っても造っても、又焼けてしまうだろう。菅原の胸の痛みが、おさまらない限りは)

この歌の出現によって、神は先の官職の復帰や、官位の追贈などでは、まだまだお聞き入れになられていないと、驚きを新たにし、一条院より、正一位太政大臣の官位を贈ることにしました。伝達の勅使が安楽寺に向かい、詔書を読み上げている時、

天から声があり、一首の詩として聞こえました。
      昨為北闕蒙悲士。今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。今須望足護天皇基。

(昨日は皇居において、悲しみに沈んだ人間にされ、今日は大宰府において、屍をさらす恥を雪ぐことになる。生きて恨み、死して喜ぶ我をいかにせん。今は天皇が国家を統治することを、守護することを望むべきだろう)(不明解)

このことがあってからは、神の怒りも鎮まり、国土も安定しました。なんともすばらしいことではないでしょうか、仏や菩薩を尋ねてみれば、大慈大悲(広大にして、深遠なる慈悲)の観世音菩薩がお持ちの、衆生救済の願いは、深く大きなもので、

救済するため衆生を乗せた舟が、浄土に到達しないことなどありません。今、天満大自在天神が世の人を救済するため、相手の性質や力量に応じて姿を変え、菩薩としてこの現世に現われたのであり、衆生の救済は日々新たで、一度でもお社に参って、

仏縁を結んだ人の願いは、思い通りに、成就することが出来ます。このことによって、上は天皇から下は万民に至るまで、深く信心の心を起こして、頭を垂れない人は居ません。まことに不思議で霊験豊かな神社です。その後、治暦四年(1068年)八月十四日、

内裏造営の着工があり、後三条院の御代、延久四年(1072年)四月十五日、院は新しい内裏へお遷りになられました。その時は、文章博士らがめでたい詩歌を献上し、伶人らによって音楽が奏でられ、めでたきことこの上なかったのですが、

しばらくしてまたもや、安元(1176年)二年に、日吉山王の怒りを受けたのか、内裏のあらゆる庁舎全て、一つも残さず燃えてしまい、その後は国力の衰えもあって、代々の天皇による内裏造営の命令は、今に至るもありません。また現在も戦乱は終わったと言っても、

世間は未だ不安定であり、国の財政も逼迫し、民衆は苦しみの中にあり、馬は花咲く、南の山から帰らず、牛は桃の実のなる、林野には放ちません。我が国では、大内裏を造営するからと言って、過去から現在に至るまで、紙幣を作ったり、用いたりしたことはありません。

それらの費用は、諸国の地頭や御家人らの所領に対して、別途課役を分担させましたが、この処置は神の意向に反し、朝廷は驕り高ぶっているのではないかと、眉をひそめる、賢明な臣下も多かったのでした。      (終)

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