12 太平記 巻第十二 (その二)


○安鎮国家法事付諸大将恩賞事
元弘三年春の比、筑紫には規矩掃部 助高政・糸田左近大夫将監貞義と云平氏の一族出来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招て国を乱らんとす。又河内国の賊徒等、佐々目憲法僧正と云ける者を 取立て、飯盛山に城郭をぞ構ける。是のみならず、伊与国には赤橋駿河守が子息、駿河太郎重時と云者有て、立烏帽子峯に城を拵、四辺の庄園を掠領す。此等の 凶徒、加法威於武力不退治者、早速に可難静謐とて、俄に紫宸殿の皇居に構壇、竹内慈厳僧正を被召て、天下安鎮の法をぞ被行ける。此法を行時、甲冑の武士四 門を堅て、内弁・外弁、近衛、階下に陣を張り、伶人楽を奏する始、武家の輩南庭の左右に立双で、抜剣四方を鎮る事あり。四門の警固には、結城七郎左衛門親 光・楠河内守正成・塩冶判官高貞・名和伯耆守長年也。南庭の陣には右は三浦介、左は千葉大介貞胤をぞ被召ける。此両人兼ては可随其役由を領状申たりける が、臨其期千葉は三浦が相手に成ん事を嫌ひ、三浦は千葉が右に立ん事を忿て、共に出仕を留ければ、天魔の障礙、法会の違乱とぞ成にける。後に思合するに天 下久無為なるまじき表示也けり。されども此法の効験にや、飯盛丸城は正成に被攻落、立烏帽子城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打負て、朝敵の 首京都に上しかば、共に被渡大路、軈て被懸獄門けり。東国・西国已静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦の者共、大船七百余艘にて参洛す。新田左馬 助・舎弟兵庫助七千余騎にて被上洛。此外国々の武士共、一人も不残上り集ける間、京白河に充満して、王城の富貴日来に百倍せり。諸軍勢の恩賞は暫く延引す とも、先大功の輩の抽賞を可被行とて、足利治部大輔高氏に、武蔵・常陸・下総三箇国、舎弟左馬頭直義に遠江国、新田左馬助義貞に上野・播磨両国、子息義顕 に越後国、舎弟兵部少輔義助に駿河国、楠判官正成に摂津国・河内、名和伯耆守長年に因幡・伯耆両国をぞ被行ける。其外公家・武家の輩、二箇国・三箇国を給 りけるに、さしもの軍忠有し赤松入道円心に、佐用庄一所許を被行。播磨国の守護職をば無程被召返けり。されば建武の乱に円心俄に心替して、朝敵と成しも、 此恨とぞ聞へし。其外五十余箇国の守護・国司・国々の闕所大庄をば悉公家被官の人々拝領しける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。

☆ 国家鎮護祈願の秘法を行ったことと、諸大名などに恩賞を行ったこと


元弘三年(1333年)の春頃、筑紫国において、規矩掃部助北条高政と、弟の糸田左近大夫将監貞義と言う、平氏一族の者が現れて、北条の残党らを集めると共に、各地に潜む不平武士らを招集し、この国に騒動を起こそうと企みました。

また河内国の叛乱武族らが、佐々目憲法僧正と言う男を取り立てて、紀伊国、飯盛山に城郭を構えました。これだけでなく、伊予国では赤橋駿河守の子息で駿河太郎赤橋重時と言う者が、立烏帽子峯に城を構え、周辺の荘園を掠め取りました。

このような逆賊どもが、武力を増強する前に、征伐しておかなければ、速やかに鎮圧することが難しくなるだろうと、急遽、皇居の紫宸殿に護摩壇を構え、竹内慈厳僧正を呼んで、天下安鎮の秘法を修しました。この秘法を行う時には、甲冑に身を固めた武士が、皇居の四門を警固し、

内弁と外弁(行事の際、承明門の内外で諸指揮をする公卿)、近衛(宮中警備の役人)が階段下に警備陣として控え、伶人が雅楽を奏し始める時には、武家の人たちが紫宸殿、南庭の左右に立ち並び、太刀を抜き払って四方を警戒します。御所の四門の警固に当たったのは、

結城七郎左衛門親光、楠木河内守正成と塩冶判官高貞、そして名和伯耆守長年らです。南庭の陣の設営は、右側を三浦介高継、左側は千葉大介貞胤に命じられました。この二人は前もって、この役を引き受けていましたが、当日になって、千葉は三浦を相手にすることを嫌がり、

三浦は三浦で、千葉が右側に立つことにより、自分が下位になることを嫌って、二人とも出仕しませんでした。このことによって、この秘法の実施は、欲界に住む悪魔の妨害に遭い、仏教行事の秩序を、乱す結果となりました。後になって思い合わせてみると、

これは天下が今後久しく、無事に収まることなど、ありえないと言うことの、表れだったのでしょうか。しかしながら、この秘法のおかげだったのか、飯盛丸城は楠木正成によって、攻撃されて落城し、また立烏帽子城は土居通増(土居::河野の傍流)、得能通言(とくのうみちとき::河野の傍流)の攻撃を受け、

落とされました。そして筑紫の叛乱も、大友、少弐の軍勢に破れ、朝敵の首が京都に届けられ、共に都大路を引き回された上、すぐ獄門に架けられたので した。こうして東国、西国の兵乱もすでに鎮圧されたので、筑紫から少弐、大友や菊池、また松浦の軍勢が、大船七百余艘にて上洛してきました。

これ以外にも、諸国の武士たちも、一人残らず上洛してきましたから、京白河はその人たちで溢れかえり、洛中には、地位や身分の高い富豪らが、普段の百倍にもなりました。さて諸国の軍勢に対する、今回の合戦における恩賞は、暫く延ばすことにしても、

とりあえず功績の大きかった、武士団だけ選び出し、論功行賞を実施すべきだとなりました。そこで、足利治部大輔高氏に武蔵、常陸、下総の三ヶ国を、その舎弟、左馬頭直義には遠江国を、新田左馬助義貞に上野、播磨の二国、その子息義顕に越後国、

その舎弟、兵部少輔義助には駿河国を、また楠木判官正成には攝津国、河内国の二国を、そして名和伯耆守長年に因幡、伯耆の二国を分け与えました。そのほか、公家や武家などに、二ヶ国、三ヶ国などと分け与えたのに関わらず、あれほど合戦に大功のあった、

赤松入道円心には、佐用庄一ヶ所だけに留まり、その上暫くして、播磨国の守護職を解任しました。このため建武の乱(1336年)に、円心が突然変心し、朝敵となったのも、この時の恨みがあったからだと、言われています。その他、五十余ヶ国の守護、国司らの職を没収した土地や、

諸国の没収した土地などを全て、公家に仕えている役人らが拝領したため、莫大な富を得たことを誇り、生活には困らなかったとか。


○千種殿並文観僧正奢侈事付解脱上人事
中にも千種頭中将忠顕朝臣は、故六 条内府有房公の孫にて御坐しかば文字の道をこそ、家業とも嗜まるべかりしに、弱冠の比より我道にもあらぬ笠懸・犬追物を好み、博奕・婬乱を事とせられける 間、父有忠卿離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。され共此朝臣、一時の栄花を可開過去の因縁にや有けん、主上隠岐国へ御遷幸の時供奉仕て、六波羅の討手に 上りたりし忠功に依て、大国三箇国、闕所数十箇所被拝領たりしかば、朝恩身に余り、其侈り目を驚せり。其重恩を与へたる家人共に、毎日の巡酒を振舞せける に、堂上に袖を連ぬる諸大夫・侍三百人に余れり。其酒肉珍膳の費へ、一度に万銭も尚不可足。又数十間の厩を作双べて、肉に余れる馬を五六十疋被立たり。宴 罷で和興に時は、数百騎を相随へて内野・北山辺に打出て追出犬、小鷹狩に日を暮し給ふ。其衣裳は豹・虎皮を行縢に裁ち、金襴纐纈を直垂に縫へり。賎服貴服 謂之僭上。々々無礼国凶賊也と、孔安国が誡を不恥ける社うたてけれ。是はせめて俗人なれば不足言。彼文観僧正の振舞を伝聞こそ不思議なれ。適一旦名利の境 界を離れ、既に三密瑜伽の道場に入給し無益、只利欲・名聞にのみ■て、更に観念定坐の勤を忘たるに似り。何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、傍に集武具 士卒を逞す。成媚結交輩には、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、 輿の前後に数百騎の兵打囲で、路次を横行しければ、法衣忽汚馬蹄塵、律儀空落人口譏。

☆ 千種殿と文観僧正が身分不相応に富を得て、豊かになったことと、解脱上人のこと


当時の公卿の中でも、千種頭中将忠顕朝臣は、故六条内府有房公の孫ですから、文学の道を歩まれるのが、本来の家業を継ぐこととなるのに、若い頃から本業でもない、馬に乗っての弓競技や、犬を追いかけ矢を射る競技などを好み、そのほか勝負事や色欲にふけってばかりで、

父の六条有忠卿より、義絶され不幸な時期を送りました。しかしこの忠顕卿には、たとえ一時ではあっても、栄華を極めると言う、過去からの因縁を持っていたようで、後醍醐天皇が隠岐国に流された時お供し、その後六波羅攻撃に上洛をし、その軍功によって、

大国を三ヶ国と、没収地所など数十ヶ所を拝領し、朝廷から受けた恩賞は身分不相応と思われ、その贅沢振りも、人の目を驚かすものでした。その恩賞のため働いた家来たちに、毎日のように酒を振舞っていましたが、宴会場に袖を並べるその数は、諸役所の高級職員や、

武士などで三百人以上になりました。その宴会に使う酒や珍味などの費用に、一度の支払いも莫大なものとなりました。そのほか数十間にわたる厩を建造し、良く肥えた馬を五、六十頭も飼育したりしました。酒宴に疲れ興が乗ってくると、数百騎の部下を引き連れて、

洛内上京周辺や、北山などへ繰り出し、犬追物や鷹狩で日を過ごしました。その時の衣装も、豹や虎の毛皮を、両足を保護する行縢に縫い、金襴纐纈と言う、当時の派手な染色を施したり、織り上げた生地で縫った直垂を、着用していました。

貴人の着用する服を、身分の卑しい者が着用することを、僭上と言います。そして僭上であったり、無礼であることは、国家に害をなす賊徒だと言った、 孔安国の戒めを恥じることもしない人たちで、情けない話です。しかし、この人は世俗の人間ですから、特に問題にはならないでしょう。

けれども、文観僧正の言行について噂を聞けば、理解に苦しみます。一度は名誉や、富を求める俗世間から距離を置き、すでに出家して仏道にはいって、修行を重ねたけれども、特に何も変わらず、ただ富貴を求める欲と、世間での我が名声のみに囚われ、

座して真理を求めようともしませんでした。特に必要とする目的もないのに、財宝を蔵に積み上げ、貧しい人を助けようともせず、自分の周囲に武器を集 め、戦闘員として武将を鍛えました。媚へつらって付き合いを求めてくる連中には、特に忠孝がなくても、恩賞を与えたりしますので、

自分は文観僧正の身内の者であると言って、徒党を組み威張り散らす者が洛中にあふれて、その数五、六百人にもなりました。そのような訳で、それほど遠方でもないのに、文観僧正の参内にあたっては、輿の前後に数百騎の武士が取り囲み、

都の大通りを進みますから、まとっている法衣はすぐ、馬の蹄が上げる埃に汚れ、せっかくの威厳も何も地に落ちて、人の誹りを受けることになりました。


彼廬山慧遠法師は一度辞風塵境、寂寞の室に坐し給しより、仮にも此山を不出と誓 て、十八賢聖を結で、長日に六時礼讚を勤き。大梅常和尚は強不被世人知住処更に茅舎を移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆古〔も〕今 も韜光消跡、暮山の雲に伴一池の蓮を衣として、行道清心こそ生涯を尽す事なるに、此僧正は如此名利の絆に羈れけるも非直事、何様天魔外道の其心に依託し て、挙動せけるかと覚たり。以何云之ならば、文治の比洛陽に有一沙門。其名を解脱上人とぞ申ける。其母七歳の時、夢中に鈴を呑と見て設たりける子なりけれ ば、非直人とて、三に成ける時より、其身を入釈門、遂に貴き聖とは成しける也。されば慈悲深重にして、三衣の破たる事を不悲、行業不退にして、一鉢の空き 事を不愁。大隠は必しも市朝の内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月を渡り、利生山川を抖薮し給けるが、或時伊勢太神宮に参て、内外宮を巡 礼して、潛に自受法楽の法施をぞ被奉ける。大方自余の社には様替て、千木不曲形祖木不剃、是正直捨方便の形を顕せるかと見へ、古松垂枝老樹敷葉、皆下化衆 生の相を表すと覚たり。垂迹の方便をきけば、仮に雖似忌三宝名、内証深心を思へば、其も尚有化俗結縁理覚て、そゞろに感涙袖を濡しければ、日暮けれ共在家 なんどに可立宿心地もし給はず、外宮の御前に通夜念誦して、神路山の松風に眠をさまし、御裳濯川の月に心を清して御坐ける処に、俄に空掻曇雨風烈吹て、雲 の上に車を轟、馬を馳る音して東西より来れり。「あな恐しや、此何物やらん。」と上人消肝見給へば、忽然として虚空に瑩玉鏤金たる宮殿楼閣出来て、庭上に 引幔門前に張幕。


古代中国の東晋時代、盧山に住んだと言う、あの高僧慧遠法師は、一旦世俗の世間から身を退き、人里離れた庵に住まいを求めてからは、どのようなことがあっても、この山は降りないと誓いを立て、十八人の仏道を極めた聖人と親交を結び、一昼夜を六つの時刻に分け、

その時刻毎に、読経などの勤行を行いました。また大梅常和尚(大梅山法常禅師:752-839年?)は世間の人に、自分の住んである所を決して、教えようとせず、山奥にみすぼらしいあばら家を建て、そこに住みました。彼は山奥における起居の風情を、歌に詠みながら、

すでに悟りの境地に、達していたのでした。このように心ある人は皆、今も昔もその才能など人に知らせることなく、自分の姿まで隠して、暮れ行く山にかかる、雲の流れに従い、池の蓮の繊維を衣に仕上げ、ただ一途に修行し、心の汚れを落として、その生涯を終えました。

にも関わらず、この文観僧正は、このように世間での評判や、財宝にのみ目を向け、それを正そうとはしませんでした。その様子は全く、欲界に住む悪魔や、仏教の教えに反抗する人などに、心を支配されているための行動かと、考えられました。

このようなことをなぜ言うのかと言えば、文治(1185-1189年)の頃、都に一人の僧侶がいました。その名を解脱上人(藤原貞慶)と言いました。その母が七歳の時、鈴を飲んだのを夢の中で見て、授かった子供なので、この子はまともな人には育たないだろうと、

三歳になった時、仏門に入れると、やがて立派な聖人となりました。そのため人に対する思いやりも行き届き、自分の袈裟の破れを、悲しむことなく仏道 の修行を続け、托鉢の食料が得られなくても、嘆くこともありませんでした。また真の隠者ですから、人里離れた山中になど住むことせず、

市中に俗人と共に暮らしていました。我が身は世間の穢れにさらしてはいても、心は決して、煩悩に犯されることもなく、世間の流れのまま、年月を送ってきました。衆生を救済しようと、山や川を修行の場としてきましたが、ある時伊勢大神宮に参詣し、内宮、外宮と巡拝し、

密かに我が悟りに満足し、経を読誦しました。大体において内、外宮以外のお社は様子が違い、社殿の棟に伸びて交差した木も、削ったり、曲げたりと加 工することなく、そのままの木を用いているように思え、周辺の松の古木は枝を垂れ、敷き詰めたような落ち葉に、包まれています。

それら全ては、菩薩が悟りの境地を求めながら、衆生に対しては、救済を施そうとしているように、見えました。日本独自の神に、姿を変えたことについ て、お聞きすれば、仏法僧の名には、幾分か納得がいかないけれど、心の中では仏に帰依し、真理を真剣に求めようとしている姿が感じられ、

その姿もまた、世俗の人たちを、仏法に縁を結ばせようとする意味なのかと思われ、訳もなく感激して、涙が袖を濡らしました。そのような訳で、日もやがて暮れてきましたが、民家に頼んで泊めてもらう気も起こらず、外宮の門前で、一晩中経を読誦しました。

やがて内宮南方の、神路山から吹いてくる松風に、眠りを覚まされ、内宮神域を流れる、五十鈴川に映る月の光に、心を澄まされて居られたところ、突然空が掻き曇り、激しく風雨が吹き荒れる中、雲の上を、車が轟音を上げ、馬の駆け回る音が、東西より聞こえてきました。

「なんとも恐ろしい限りだ、一体何者の仕業なのか」と、上人が肝をつぶしているところに、磨き上げられた玉や、黄金を散りばめた宮殿楼閣が、上空に忽然と出現し、門前の庭などに、幟が立てられ、幕が張られました。


爰に十方より所来の車馬の客、二三千も有らんと覚たるが左右に居流て、上座に一人 の大人あり。其容甚非尋常、長二三十丈も有らんと見揚たるに、頭は如夜叉十二の面上に双べり。四十二の手有て左右に相連る。或は握日月、或は提剣戟八竜に ぞ乗たりける。相順処の眷属共、皆非常人、八臂六足にして鉄の楯を挟み、三面一体にして金の鎧着せり。座定て後、上坐に居たる大人左右に向て申けるは、 「此比帝釈の軍に打勝て手に握日月、身居須弥頂、一足に雖蹈大海、其眷属毎日数万人亡、故何事ぞと見れば、南胆部州扶桑国洛陽辺に解脱房と云一人の聖出来 て、化導利生する間、法威盛にして天帝得力、魔障弱して修羅失勢。所詮彼が角て有ん程は、我等向天帝合戦する事叶ふまじ。何にもして彼が醒道心、可着■慢 懈怠心。」申ければ、甲の真向に、第六天の魔王と金字に銘を打たる者座中に進出で、「彼醒道心候はん事は、可輒るにて候。先後鳥羽院に滅武家思召心を奉 着、被攻六波羅、左京権大夫義時定て向官軍可致合戦。其時加力義時ば官軍敗北して、後鳥羽院遠国へ被流給はゞ、義時司天下成敗治天を計申さんに、必広瀬院 第二の宮を可奉即位。さる程ならば、此解脱房彼宮の有御帰依聖なれば、被召官僧奉近竜顔、可刷出仕儀則。自是行業は日々に怠、■慢は時々に増て、破戒無慚 の比丘と成んずる条、不可有子細、角てぞ我等も若干の眷属を可設候。」と申ければ、二行に並居たる悪魔外道共、「此儀尤可然覚候。」と同じて各東西に飛去 にけり。


あちこちから集まってきた車馬の客は、二、三千人もいるかと思われ、彼らが左右に居流れている中、上座に一人の巨人がいました。その容姿たるや尋常でなく、身の丈からして二、三十丈も有るかと思え、見上げてみれば、頭は夜叉の如くであり、十二の顔が上に並んでいます。

四十二ある手は、左右に連なっています。その手の中、あるものは日月を握り、またある手は武器を提げて、八竜に乗っています。巨人に従う仲間らも、 異常な人たちであり、八っつの肱に六本の足を持って、鉄の盾を挟み持ち、頭部の三つの顔は一体化し、金の鎧を身に着けています。

やがて各自席も決まると、上座に居た巨人が、左右の者に向かって言うには、「最近のことだが、帝釈軍との戦争に勝ち、太陽と月を手に入れ、我が身は 須弥山の頂上に居ながら、大海を一足で、踏み越えることが出来る。と言っても、一族や配下の者たちが、毎日数万人の規模で亡くなっている。

一体何故なのかと、注意して見れば、南胆部州扶桑国(日本の別称)の京都周辺に、解脱房と名乗る一人の聖人が現れ、衆生を教え導き、利益を与えている。そのため仏法の力はますます強くなって、帝釈天が法力を得たから、仏道の修行を妨げる力が衰えて、

悪神である阿修羅の勢いは、弱るばかりである。いずれにしても、あの解脱房が居る限り、我らが帝釈天に刃向かって、合戦を行うことは出来ないだろ う。何とかして彼の仏道に対する真剣な気持ちを萎えさせ、驕り高ぶった慢心と、怠惰な気持ちを、植え付けなければならない」と、話されました。

その時、兜の前面に第六天の魔王(仏道修行の妨げをする悪魔)と金字で銘を打った者が、座中から進み出て来ると、「解脱房の信仰心を挫けさせるのは、いとも簡単な事ではあります。まず後鳥羽院に、鎌倉幕府を滅亡に追い込む気持ちを、お持ちいただき、

六波羅を攻撃されたなら、必ず左京権大夫北条義時は、官軍に抵抗して合戦となるでしょう。しかし、北条義時の軍勢は勢力を加えて、官軍、後鳥羽院の敗北となります。その結果、後鳥羽院は遠国に流刑となり、義時が天下の権限を握って、支配をしようとすれば、

必ずや高倉天皇の第二皇子、広瀬院守貞親王を即位させるでしょう。もしそうなれば、この解脱房は、守貞親王の御帰依篤い僧侶ですから、官僧として天皇間近に、召抱えられることとなります。その結果、定期的に出仕することとなり、仏道の修行は日々おろそかになると共に、

ますます驕慢さを増して、僧としての戒律を破っても、恥じることのない、愚かな僧侶に成り下がること、火を見るより明らかなことです。そうなれば、我らもしかるべき数の、一族や家来を支配下に置くことが出来るでしょう」と、申し上げたのです。

二列になって並んでいた、悪魔外道の者たちは、「確かに言う通りだ、間違いないだろう」と賛成して、めいめい東西に向かって、飛び去ったのでした。


上人聞此事給て、「是ぞ神明の我に道心を勧させ給ふ御利生よ。」と歓喜の泪を流 し、其より軈京へは帰給はで、山城国笠置と云深山に卜一巌屋、攅落葉為身上衣、拾菓為口食、長発厭離穢土心鎮専欣求浄土勤し給ひける。角て三四年を過給ひ ける処に承久の合戦出来て、義時執天下権しかば、後鳥羽院被流させ給て、広瀬宮即天子位給ける。其時解脱上人在笠置窟聞召て、為官僧度々被下勅使被召けれ 共、是こそ第六天の魔王共が云し事よと被思ければ、遂に不随勅定弥行澄してぞ御坐しける。智行徳開しかば、軈て成此寺開山、今に残仏法弘通紹隆給へり。以 彼思此、うたてかりける文観上人の行儀哉と、迷愚蒙眼。遂無幾程建武の乱出来しかば、無法流相続門弟一人成孤独衰窮身、吉野の辺に漂泊して、終給けるとぞ 聞へし。

解脱上人はこの話を聞き、「これはまさしく、天照大神が私に対して、ますます仏道修行に励めと、お勧めしていることにほかない」と喜びの涙を流し、それからは京都には帰ることなく、山城国、笠置と言う深山に入り、岩壁の洞窟を住処とし、落ち葉を集めて我が身の着物にし、

木の実を拾って食事としました。この穢れた現世を嫌う気持ちを強め、ただ一途に、浄土を追い求める気持ちで、修行に努めました。このように三、四年を過ごされている内、承久の合戦(承久三年:1221年)が勃発し、北条義時が天下の権を握り、後鳥羽院は隠岐島に流され、

広瀬宮守貞親王が、天子の座に就かれました。この時、守貞親王は、解脱上人が笠置山の洞窟に居ることを聞かれ、官僧として迎える旨の勅使を、幾度も向かわせましたが、解脱上人はこれこそ、仏道の修行を妨げる第六天の魔王が、言っていたことだと思われ、

とうとう勅定に従おうとせず、ますます修行に身を入れ、留まられたのです。仏道修行に裏打ちされた、知識や徳ある行動が花開き、やがて笠置山に寺を建立し、今に至るも仏法を普及させ、ますます発展を続けています。それに比して、あれやこれや考えると、

文観上人のあの馬鹿な行状は、愚かで道理も理解できないため、道に迷った結果なのでしょう。その後しばらくして建武の乱が勃発して、教えを伝えるべき弟子の一人も無く、孤独の中に身体は衰弱し、吉野の近辺をさまよい、ついに亡くなったと聞いています。


○広有射怪鳥事
元弘三年七月に改元有て建武に被移。是は後漢光武、治王莽 之乱再続漢世佳例也とて、漢朝の年号を被摸けるとかや。今年天下に疫癘有て、病死する者甚多し。是のみならず、其秋の比より紫宸殿の上に怪鳥出来て、「い つまで/\。」とぞ鳴ける。其声響雲驚眠。聞人皆無不忌恐。即諸卿相議して曰、「異国の昔、尭の代に九の日出たりしを、■と云ける者承て、八の日を射落せ り。我朝の古、堀川院の御在位時、有反化物、奉悩君しをば、前陸奥守義家承て、殿上の下口に候、三度弦音を鳴して鎮之。又近衛院の御在位の時、鵺と云鳥の 雲中に翔て鳴しをば、源三位頼政卿蒙勅、射落したりし例あれば、源氏の中に誰か可射候者有。」と被尋けれ共、射はづしたらば生涯の恥辱と思けるにや、我承 らんと申者無りけり。「さらば上北面・諸庭の侍共中に誰かさりぬべき者有。」と御尋有けるに、「二条関白左大臣殿の被召仕候、隠岐次郎左衛門広有と申者こ そ、其器に堪たる者にて候へ。」と被申ければ、軈召之とて広有をぞ被召ける。広有承勅定鈴間辺に候けるが、げにも此鳥蚊の睫に巣くうなる■螟の如く少て不 及矢も、虚空の外に翔飛ばゞ叶まじ。目に見ゆる程の鳥にて、矢懸りならんずるに、何事ありとも射はづすまじき物をと思ければ、一義も不申畏て領掌す。

☆ 広有が怪鳥を射たこと

元弘三年(1333年)七月に改元が行われ、建武(1334−1338年)となりました。これは古代中国、後漢の光武帝が使用した元号で、王莽の乱を鎮圧し、その後再び、漢の治世が続いたという吉例にちなんで、漢朝の元号を流用したとか、言われています。

今年(1333年)は国内に悪性の流行病が広がり、非常に多くの者が病死しました。それだけでなく、その年の秋ごろより、内裏、紫宸殿の屋根上に怪鳥が現れ、「いつまで(以津真天)、いつまで」と、鳴いたのです。その鳴き声は雲に響き渡り、人々の眠りを妨げました。

この鳴き声を聞いて、恐れ怖がらない者は居ませんでした。直ちに諸公卿らは相談し、「古代中国、堯の時代、一度に九個の太陽が地上を照らし、灼熱地獄になった。その時ゲイ(羽の下に廾)と言う弓の名人が引き受けて、八個の太陽を射落としたことがある。

また我が国においても、堀川天皇(在位:1087-1107年)の御代、妖怪が現れ、天皇がおびえられていたが、前陸奥守、八幡太郎源義家が引き受け、殿上の間の裏口あたりで、三回弓の弦を鳴らしたところ、この妖怪の出現は鎮まった。また近衛天皇(在位:1142-1155年)の御在位時、

鵺という怪鳥が、清涼殿の屋根上にかかった黒雲に飛んできて、その中で鳴いたことがあり、それを源三位頼政卿が、天皇の命を受けて、射落とした例もあることだ。今、源氏の中に誰か、あの怪鳥を射落とすことが出来る者は居ないのか」と、質問されましたが、

もし失敗すれば、武家にとって生涯の恥辱と思い、誰も引き受けようと、申し出ませんでした。「では北面の武士の中で、四位か五位の侍や、また諸官庁の侍の中に、誰か出来そうな者は居ないのか」と、お尋ねしたところ、「二条関白左大臣藤原道平殿に仕えている者で、

隠岐次郎左衛門広有という者こそ、適任ではないでしょうか」と、返事がありました。そこで即刻、彼を呼ぶことにし、広有は呼び出されました。広有は天皇の命令を受けて、鈴の間周辺に控えていました。命令を聞かされて、この怪鳥が、稲につく害虫の幼虫みたいに小さくては、

矢での退治はとても無理であり、空中に飛び出さなければだめだろう。しかし眼で見えるくらいの鳥で、矢の届く距離であれば、どんなことがあっても外すことはないだろうと思い、何を言うまでも無く、畏まって承服しました。


則下人に持せたる弓与矢を執寄て、孫廂の陰に立隠て、此鳥の有様を伺見るに、八月 十七夜の月殊に晴渡て、虚空清明たるに、大内山の上に黒雲一群懸て、鳥啼こと荐也。鳴時口より火炎を吐歟と覚て、声の内より電して、其光御簾の内へ散徹 す。広有此鳥の在所を能々見課て、弓押張り弦くひしめして、流鏑矢を差番て立向へば、主上は南殿に出御成て叡覧あり。関白殿下・左右の大将・大中納言・八 座・七弁・八省輔・諸家の侍、堂上堂下に連袖、文武百官見之、如何が有んずらんとかたづを呑で拳手。広有已に立向て、欲引弓けるが、聊思案する様有げに て、流鏑にすげたる狩俣を抜て打捨、二人張に十二束二伏、きり/\と引しぼりて無左右不放之、待鳥啼声たりける。此鳥例より飛下、紫宸殿の上に二十丈許が 程に鳴ける処を聞清して、弦音高く兵と放つ。鏑紫宸殿の上を鳴り響し、雲の間に手答して、何とは不知、大盤石の如落懸聞へて、仁寿殿の軒の上より、ふたへ に竹台の前へぞ落たりける。堂上堂下一同に、「あ射たり/\。」と感ずる声、半時許のゝめいて、且は不云休けり。衛士の司に松明を高く捕せて是を御覧ずる に、頭は如人して、身は蛇の形也。嘴の前曲て歯如鋸生違。両の足に長距有て、利如剣。羽崎を延て見之、長一丈六尺也。「さても広有射ける時、俄に雁俣を抜 て捨つるは何ぞ。」と御尋有ければ、広有畏て、「此鳥当御殿上鳴候つる間、仕て候はんずる矢の落候はん時、宮殿の上に立候はんずるが禁忌しさに、雁俣をば 抜て捨つるにて候。」と申ければ、主上弥叡感有て、其夜軈て広有を被成五位、次の日因幡国に大庄二箇所賜てけり。弓矢取の面目、後代までの名誉也。

早速下人に持たせていた弓矢を取り寄せ、母屋から出ているひさしの外側にある、孫廂の陰に隠れて、この怪鳥の様子を伺っていると、八月の十七夜の月が特に晴れ渡り、空も明るく見渡せる夜、御所の上空に、ひとかたまりの黒雲がかかり、しきりに鳥が鳴いています。

鳴く時に口から火炎を噴くようで、鳴き声と共に雷が発生するのか、稲光が御所の御簾の中まで届きます。広有はこの鳥の居場所を、しっかりと確認の上、弓に弦をきつめに張って、鏑矢を取り替えて、怪鳥に立ち向かいました。その時天皇は、南殿にお出ましになり、

その様子をご覧になりました。その他、関白殿下、左右の大将、大中納言、八座(参議の異称)、七弁(太政官の七人の弁官)、八つの中央行政官庁の役人、その他諸家の侍などが、清涼殿の床上や、庭に袖を連ね、文、武官の多数の役人が、この様子を見て、

一体どうなるのかと、手を握り締め、固唾を呑んでいました。すでに広有は怪鳥に向かって、弓を引き絞り射ようとしましたが、少し考えるところがあり、今番えたばかりの、二股に別れた鏃の付いた矢を抜き捨て、二人張り(二人で弦を張った弓:それほど強弓ではない)の弓に、

十二束二伏(矢の長さ)の鏑矢を番え、キリキリと引き絞ったものの、むやみに矢を放たず、鳥の鳴き声を待っていました。この鳥が飛び降りてきて、紫宸殿の上空、二十丈ほどで鳴いているのを聞き済まし、弦音高くヒョウと放ちました。鏑矢は紫宸殿の上空を、鳴り響かせながら飛び、

雲の中で何か手応えを感じました。何か分かりませんが、巨岩が落ちてきたような音が聞こえ、仁寿殿(内裏十七殿の一つ:紫宸殿の北側)の軒の上から、二つに分かれて竹の台(清涼殿東庭にある竹を植えた台)の前に落ちました。清涼殿の床上や、庭に居た人々の、

「あぁ、射落としたぞ、射落とした」と一様に感激する声々は、一時間ほど、鳴り止みませんでした。宮廷護衛の兵士に、松明を高くかざさせて、この怪 鳥を見てみると、頭部は人間で、体は蛇の形をしています。また嘴の前面は曲がっており、鋸のような歯が、噛み合わさっています。

両方の脚には、まるで剣のように長い蹴爪が生えており、両の翼を広げてみると、一丈六尺もありました。天皇より、「しかし先ほど、広有は矢を放つ時、急に雁俣の矢(二股の鏃のついた矢)を捨てたのは、何故なのだ」とお尋ねがあり、広有は謹んで、

「この鳥が、紫宸殿の上空で鳴いているので、矢を放ち、その矢が宮殿の屋根に突き刺さるのは、不吉なことだと考え、雁俣の矢は抜き捨てたのです」と、お答えしました。これを聞いた後醍醐天皇はいたく感激され、その夜には早速広有を五位に上げ、

翌日には因幡国の、大きな荘園二ヶ所を与えました。これぞ弓矢取る武家にとって、後代まで語り継がれる名誉なことです。


○神泉苑事
兵革の後、妖気猶示禍。銷其殃無如真言秘密効験とて、俄に神泉 苑をぞ被修造ける。彼神泉園と申は、大内始て成し時、准周文王霊囿、方八町に被築たりし園囿也。其後桓武の御世に、始て朱雀門の東西に被建二寺。左をば名 東寺右をば号西寺。東寺には高野大師安胎蔵界七百余尊守金輪宝祚。西寺には南都の周敏僧都金剛界五百余尊を顕して、被祈玉体長久。斯りし処に、桓武御宇延 暦二十三年春比、弘法大師為求法御渡唐有けり。其間周敏僧都一人奉近竜顔被致朝夕加持ける。或時御門御手水を被召けるが、水氷て余につめたかりける程に、 暫とて閣き給ひたりけるを、周敏向御手水結火印を給ける間、氷水忽に解て如沸湯也。御門被御覧て、余に不思議に被思召ければ、態火鉢に炭を多くをこさせ て、障子を立廻し、火気を内に被篭たれば、臘裏風光宛如春三月也。帝御顔の汗を押拭はせ給て、「此火滅ばや。」と被仰ければ、守敏又向火水の印をぞ結び給 ひける。依之炉火忽に消て空く冷灰に成にければ、寒気侵膚五体に如灑水。自此後、守敏加様の顕奇特不思議事如得神変。斯しかば帝是を帰依渇仰し給へる事不 尋常。

☆ 神泉苑のこと

戦乱の後も、なお世間の不安な空気は一掃されず、なお妖しい雰囲気が漂っていました。そのように不安な気分を消し去るには、真言密教による効果を期待するに限ると、急遽神泉苑を修復することとなりました。この神泉苑と言うのは、初めて内裏が造られた時、

古代中国、周王朝の文王の墓所になぞらえて、八町四方に渡って造営された、草木を植え鳥獣を飼育するための庭園です。その後桓武天皇の御代になって、初めて朱雀門の東西に、二つの寺を建造しました。左の寺は東寺と名づけ、右の寺は西寺と号しました。

東寺は高野山、弘法大師に与えられ、胎蔵界(金剛界に対して、大日如来の理性の面を表す)の、七百余の仏像が、天皇の地位の安泰を願って、お守りしています。西寺は奈良の僧侶、守敏僧都に与えられ、金剛界(胎蔵界に対して、大日如来の知徳の面を表す)の五百余の仏像が、

天皇の身体の、幾久しい健康を祈っています。このような時、桓武天皇の御代、延暦二十三年(804年)の春頃、弘法大師が仏法修行のため、唐の国に渡られました。その間、守敏僧都がお一人で、天皇のお顔近くに控えて、朝夕無事安泰の祈りを捧げました。

そんなある時、天皇が御手水を、お使いになられたのですが、水が凍って余りにも冷たく、思わず手を引かれました。その時、守敏僧都が御手水に向かって、火印(左右の指を三角の形に結び、火の相をかたどる)を結んだところ、氷水は忽ちに解けて、湯のようになりました。

帝はこの様子をご覧になり、余りの不思議さに驚かれ、それではと火鉢に炭を大量におこさせて、障子を立て籠め、火鉢をその中に置いたところ、陰暦の 十二月にも関わらず、まるで春三月の陽気を思わせました。帝はお顔の汗を拭わせながら、「この火を消してみよ」と、仰せられました。

守敏は再び火に向かって、水の印(水元神印)を結びました。すると忽ち火鉢の火は消え、冷たい灰となりました。寒気は五体を震わせ、煩悩を清める香水が、注がれたようです。この後も、守敏はこのように、人間業では考えられないような、珍しく不思議なことを起こしたのです。

そのため天皇は守敏に対して、ますます信仰の度合いが、普通では考えられないほど強まったのでした。


懸りける処に弘法大師有御帰朝。即参内し給ふ。帝異朝の事共有御尋後、守敏僧都の 此間様々なりつる奇特共をぞ御物語有ける。大師聞召之、「馬鳴■帷、鬼神去閉口、栴檀礼塔支提破顕尸と申事候へば、空海が有んずる処にて、守敏よもさやう の奇特をば現し候はじ。」とぞ被欺ける。帝さらば両人の効験を施させて威徳の勝劣を被御覧思召て、或時大師御参内有けるを、傍に奉隠置、守敏応勅御前に候 す。時に帝湯薬を進りけるが、建盞を閣せ給て、「余に此水つめたく覚る。例の様に加持して被暖候へかし。」とぞ被仰ける。守敏仔細候はじとて、向建盞結火 印被加持けれども、水敢て不成湯。帝「こは何なる不思議ぞや。」と被仰、左右に目くわし有ければ、内侍の典主なる者、態熱く沸返たる湯をついで参たり。帝 又湯を立させて進らんとし給ひけるが、又建盞を閣せ給ふ。「是は余に熱て、手にも不被捕。」と被仰ければ、守敏先にもこりず、又向建盞結水印たりけれ共、 湯敢不醒、尚建盞の内にて沸返る。守敏前後の不覚に失色、損気給へる処に、大師傍なる障子の内より御出有て、「何に守敏、空海是に有とは被存知候はざりけ る歟。星光は消朝日蛍火は隠暁月。」とぞ咲れける。守敏大に恥之挿欝陶於心中、隠嗔恚於気上被退出けり。

そんな折、大同元年(806年)十月に弘法大師が、唐より帰国され、すぐに参内されました。天皇(平城天皇か?)は異国の様子を、色々とお尋ねになってから、守敏僧都が起こした、さまざまな不思議な現象について、お話されました。

弘法大師はお聞きになって、「馬鳴は鬼神(鬼弁婆羅門)が帷に身を隠しているのを見破ったため、鬼神は何も言わず逃げ去りました。栴檀で作った卒塔婆は不正を見破り、正義を明らかにするとも言いますから、この空海が居るところで、守敏はまさかそのような不思議な現象を、

起こすことなど出来ないでしょう」と、言葉を尽くして説明しました。帝はそれならば二人に仏道の力を競わせて、その効力の優劣をはっきりさせようと、お考えになりました。そこである時、弘法大師が参内した際、帝の傍に身を隠して控えさせ、守敏に御前に来るよう命じました。

帝はその時、煎じ薬を飲もうとしていましたが、天目茶碗を置いて、「この水は私には冷たすぎるようだ。先日のように祈祷して、温かくしてくれない か」と、仰せられました。守敏はお安い御用だと、茶碗に向かって火印を結び、祈祷を始めたものの、水は全く温かくなりませんでした。

天皇は、「どうしたのだ、不思議ではないか」と仰せられ、左右の者に目配せされると、お傍に仕える女官の長が、あえて熱く煮えくり返った湯を、茶碗に注いで持ってきました。帝は再び薬湯を作らせて、飲もうとしましたが、また茶碗を置きました。「この湯は余りに熱くて、

手で持つのも大変だ」と仰せられると、守敏は前回の失敗に懲りることなく、また茶碗に向かって、水の印を結びましたが、熱湯は冷めないばかりか、茶碗の中で沸きかえったのです。守敏は再度の失敗に顔色も失い、気持ちも落ち着きを失っているところへ、

弘法大師が傍の障子の陰から現れ、「如何なされたのか守敏、空海がここに居ることは、ご存じないはずだ。星の輝きは朝日に会うと消え去り、蛍の光は暁の月によって、見えなくなるのだ」と、笑われました。守敏僧都はこの恥辱には、心中大いに気分を害し、

怒りに逆上するのを必死に抑えて、その場から退出したのでした。


自其守敏君を恨申す憤入骨髄深かりければ、天下に大旱魃をやりて、四海の民を無一 人飢渇に合せんと思て、一大三千界の中にある所の竜神共を捕へて、僅なる水瓶の内に押篭てぞ置たりける。依之孟夏三月の間、雨降事無して、農民不勤耕作。 天下の愁一人の罪にぞ帰しける。君遥に天災の民に害ある事を愁へ思召て、弘法大師を召請じて、雨の祈をぞ被仰付ける。大師承勅、先一七日の間入定、明に三 千界の中を御覧ずるに、内海・外海の竜神共、悉守敏の以呪力、水瓶の中に駆篭て可降雨竜神無りけり。但北天竺の境大雪山の北に無熱池と云池の善女竜王、独 守敏より上位の薩■にて御坐ける。大師定より出て、此由を奏聞有ければ、俄に大内の前に池を掘せ、清涼の水を湛て竜王をぞ勧請し給ける。于時彼善女龍王金 色の八寸の竜に現じて、長九尺許の蛇の頂に乗て此池に来給ふ。則此由を奏す。公家殊に敬嘆せさせ給て、和気真綱を勅使として、以御幣種々物供龍王を祭せら る。其後湿雲油然として降雨事国土に普し。三日の間をやみ無して、災旱の憂永消ぬ。真言の道を被崇事自是弥盛也。守敏尚腹を立て、さらば弘法大師を奉調伏 思て、西寺に引篭り、三角の壇を構へ本尊を北向に立て、軍荼利夜叉の法をぞ被行ける。大師此由を聞給て、則東寺に炉壇を構へ大威徳明王の法を修し給ふ。両 人何れも徳行薫修の尊宿也しかば、二尊の射給ける流鏑矢空中に合て中に落る事、鳴休隙も無りけり。爰に大師、守敏を油断させんと思召て、俄に御入滅の由を 被披露ければ、緇素流悲歎泪、貴賎呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就しぬ。」と成悦則被破壇けり。此時守敏俄に目くれ鼻血垂て、心身被悩乱けるが、仏壇の前 に倒伏て遂に無墓成にけり。「呪咀諸毒薬還着於本人」と説給ふ金言、誠に験有て、不思議なりし効験也。

これ以来、守敏僧都が天皇を恨むこと甚だしく、この際天下に大旱魃を起こして、この国の民衆、一人残らず飢餓に遭わせてやろうと考え、この世界に居る竜神(雨や水を支配する竜)を残すことなく捕らえて、小さな水瓶に押し込めておきました。

このため夏の初めから三月の間、雨は一滴も降らず、農民は耕作することが、出来ませんでした。日本国中、民衆の怒り苦しみは、全て天皇の罪だと皆が言ったのです。天長元年(824年)、淳和天皇は心を痛めると共に、天災を蒙った民衆が、不穏な行動に出ることを心配され、

弘法大師を呼び寄せ、雨乞いの祈祷を、行うよう命じられました。大師は謹んで命を受け、まず十七日間、精神を集中し、真理を求めようと修行に励んだ上、現在の世界を詳しくご覧になられると、日本を取り囲む内海、外海に住む竜神たちが、全て守敏の呪力によって、

水瓶の中に閉じ込められているため、雨を降らせる竜神は居なかったのです。しかし、天竺(インド)北方の国境近く、大雪山にある、無熱池と言う池に住む、善女龍王(仏教などの守護神)だけは、守敏僧都より位の高い薩った(さった:土偏に垂)です。

大師は修行の場を出てくると、この旨を天皇に話されました。そしてすぐ内裏の前に池を掘らせ、澄んだ美しい水を湛え、龍王をお迎えすることにしました。するとその善女龍王は、金色をした八寸の龍の姿をして、長さ九尺ほどの蛇の頭部に乗って、この池に来られたのでした。

直ちにこのことを天皇に報告しました。公卿連中は非常に驚くと共に、大師を尊敬し、和気真綱を勅使として、御幣やその他色々な供物を用意して、龍王を祭り上げました。それからは、湿っぽい雲が湧き起こり、国土にあまねく雨を降らせたのでした。

雨は三日間、やむことなく降り続き、旱魃の恐れは今後とも無くなりました。このことから真言宗を信心することが、ますます盛んになりました。守敏はいっそう腹を立て、この際弘法大師を、祈祷によって降伏させようと考え、西寺に引きこもり、

三角の祭壇を設け、本尊を北向けに安置し、軍荼利夜叉(真言密教で調伏を行う際の修法)を実施しました。弘法大師はこの件を聞くと、即刻東寺に炉壇(護摩を焚くための炉を作る壇)を設け、大威徳明王(五大明王の一つ:人を害する怨敵などを征服する)の修法を行いました。

この二人はどちらも、徳や修行を積み重ねた、立派な僧侶ですから、二人の放った鏑矢が、空中において衝突し落下する音が、鳴り止むこともありませんでした。その時弘法大師は守敏を油断させようと考え、突然入滅(高僧などの死亡)したことを皆に知らせたので、

僧侶や俗人などが悲しみの涙を流し、身分に関係なく悲しみに打ちひしがれ、泣き声を立てたのでした。守敏はこれを聞くと、「私の仏法の力が叶ったのだ」と喜び、早速護摩壇を壊しました。その時突然守敏は、目の前が真っ暗になるとともに、鼻血が出て、

五体が苦しみもがき、仏壇の前に倒れ込むと、とうとう死んでしまったのです。「呪詛諸毒薬 還着於本人(呪詛や毒薬によって、身体が犯されそうになっても、観音様に救いを念じれば、その呪いは呪った本人に戻る)」と、観音経に説かれている言葉は、まことに霊験ゆたかであり、不思議な力を発揮します。


自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。大師茅と云草を結で、竜の形に作て壇上に立て行 はせ給ける。法成就の後、聖衆を奉送給けるに、真の善女龍王をば、軈神泉園に留奉て、「竜華下生三会の暁まで、守此国治我法給へ。」と、御契約有ければ、 今まで迹を留て彼池に住給ふ。彼茅の竜王は大龍に成て、無熱池へ飛帰玉ふとも云、或云聖衆と共に空に昇て、指東を、飛去、尾張国熱田の宮に留り玉ふ共云説 あり。仏法東漸の先兆、東海鎮護の奇瑞なるにや。大師言、「若此竜王他界に移らば池浅く水少して国荒れ世乏らん。其時は我門徒加祈請、竜王を奉請留可助 国。」宣へり。今は水浅く池あせたり。恐は竜王移他界玉へる歟。然共請雨経の法被行ごとに掲焉の霊験猶不絶、未国捨玉似たり、風雨叶時感応奇特の霊池也。 代々の御門崇之家々の賢臣敬之。若旱魃起る時は先池を浄む。然を後鳥羽法皇をり居させ玉ひて後、建保の比より此所廃れ、荊棘路を閉るのみならず、猪鹿の害 蛇放たれ、流鏑の音驚護法聴、飛蹄の響騒冥衆心。有心人不恐歎云事なし。承久の乱の後、故武州禅門潛に悲此事、高築垣堅門被止雑穢。其後涼燠数改て門牆漸 不全。不浄汚穢之男女出入無制止、牛馬水草を求る往来無憚。定知竜神不快歟。早加修理可崇重給。崇此所国土可治也。

この件以来、東寺は隆盛を続け、西寺は滅亡しました。弘法大師は茅と言う草を編んで竜の形にし、壇の上に安置して修行をしました。修法が無事成就してから、極楽浄土から来られていた、諸菩薩をお送りしましたが、その時善女龍王だけは、

神泉苑に留めて置き、「竜華下生三会(弥勒菩薩が釈迦の滅後、五十六億七千万年の未来に行う法会)の明け方まで、この国を守護し、我らの仏法を見守ってください」と約束を交わされ、現在までここに留まり、神泉苑の池に、お住まいになっておられます。

そして弘法大師が作ったと言う、茅で編んだ竜王は、大龍に姿を変えて飛び去り、天竺の無熱池にお帰りになったとか、また諸菩薩と一緒に空に昇ると、東の方向に向かって飛び去り、尾張国、熱田神宮に留まられたとか、言われています。我が国の仏法が東国に広がる前兆なのか、

東海の諸国鎮護の目的なのか、いずれにしてもありがたい出来事でした。大師は、「もし、ここの竜王が他所の世界にお移りになれば、池は浅くなるとともに、水も少なくなって国家は荒れ、この世は滅亡に向かうことになる。もしそのような時には、我らの宗派の者たちは、

神仏に加護をお願いし、竜王にここに留まっていただけるようお頼みし、この国を助けるように」と、おっしゃられたのです。現在は水も少なく、池にも以前の勢いは感じられません。おそらく、これは竜王が他所の世界に、お移りになられたからでしょう。

しかしながら、請雨経の修法を行えば、必ずそれに答えて、雨をもたらすという有難い霊験は、今も絶えることなく、いまだこの国をお見捨てにならず、風雨が必要な時には、必ず雨をもたらしてくれる有難い池です。そこで、東寺の代々の高僧はこの池を敬い、

もし旱魃が起これば、まず最初にこの池を清掃します。しかし、後鳥羽法皇が退位されて後、建保(1213−1218年)の頃より、この神泉苑は荒廃が進み、イバラが生い茂って、道を閉ざしてしまっただけでなく、猪や鹿が徘徊し、毒蛇が這い回り、流鏑馬の騒音は、

仏法を守護する人を驚かせ、走り回る馬の蹄の響きは、人の気持ちを暗くします。少しでも心ある人は、このことを嘆き怒ったのです。承久の乱(1221年)の後、故武州禅門(北条泰時)は密かにこのことを嘆かれ、高垣と共に堅牢な門を築き、これ以上穢れることの無いようにしました。

しかしながらその後、歳月を重ねるに従い、門や生垣も朽ちてきました。そのため不浄な男女たちの出入りを、制止することも出来ず、牛や馬が水草を求 めて、自由に出入りをしたりして、きっと竜神も、不快な思いをされているでしょう。早急に修繕を行い、昔のように尊崇すべきであり、

この地を尊重することによって、我が国の安泰が得られることになります。


○兵部卿親王流刑事付驪姫事
兵部卿親王天下の乱に向ふ程は、無力為遁其身 難雖被替御法体、四海已に静謐せば、如元復三千貫長位、致仏法・王法紹隆給んこそ、仏意にも叶ひ叡慮にも違はせ給ふまじかりしを、備征夷将軍位可守天下武 道とて、則勅許を被申しかば、聖慮不隠しか共、任御望遂に被下征夷将軍宣旨。斯りしかば、四海の倚頼として慎身可被重位御事なるに、御心の侭に極侈、世の 譏を忘て婬楽をのみ事とし給しかば、天下の人皆再び世の危からん事を思へり。大乱の後は弓矢を裹て干戈袋にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓射る 者、大太刀仕ふ者とだに申せば、無忠被下厚恩、左右前後に仕承す。剰加様のそらがらくる者共、毎夜京白河を廻て、辻切をしける程に、路次に行合ふ児法師・ 女童部、此彼に被切倒、逢横死者無休時。是も只足利治部卿を討んと被思召ける故に、集兵被習武ける御挙動也。抑高氏卿今までは随分有忠仁にて、有過僻不 聞、依何事兵部卿親王は、是程に御憤は深かりけるぞと、根元を尋ぬれば、去年の五月に官軍六波羅を責落したりし刻、殿法印の手の者共、京中の土蔵共を打破 て、財宝共を運び取ける間、為鎮狼籍、足利殿の方より是を召捕て、二十余人六-条河原に切ぞ被懸ける。其高札に、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者共、 於在々所々、昼強盜を致す間、所誅也。」とぞ被書たりける。殿法印此事を聞て不安事に被思ければ、様々の讒を構へ方便を廻して、兵部卿親王にぞ被訴申け る。加様の事共重畳して達上聞ければ、宮も憤り思召して、志貴に御座有し時より、高氏卿を討ばやと、連々に思召立けれ共、勅許無りしかば無力黙止給ける が、尚讒口不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、兵をぞ被召ける。

☆ 兵部卿親王が流刑に処せられたことと、驪姫のこと

兵部卿大塔宮護良親王は、この天下の大乱に際しては、仕方なくその身を難から遁れんため、還俗されたのです。ところが天下も既に安定したからには、三千の衆徒を率いる、延暦寺天台座主の地位に戻ることこそ、仏法に叶い、後醍醐天皇のお考えにも沿うのです。

しかし自分が征夷大将軍の地位にあることが、天下の安泰を守るべき自分の役目だと、天皇にお許しを願っていましたが、天皇のお考えも穏やかではなく、なかなかお許しは得られませんでしたが、とうとう望み通り、征夷大将軍の宣旨がおりました。その職に就いたからには、

天下国民の期待を裏切ることなく、自身の行動に注意を払い、その職務をまっとうすべきであるにかかわらず、心の思い付くまま贅を尽くし、世間の非難に耳を貸すことなく、淫らな快楽のみ求めていましたので、天下の人たちは皆、再びこの世に騒乱の起こることを恐れていました。

天下の大乱が収まったからには、弓矢は格納し、武器はしまいこむべきだと、言われているのに、格別な用もないのに、強弓を扱う弓術に優れた者や、剣術に覚えのある者だと言えば、何ら忠義が無くても恩賞を与えて、自分の前後左右に控えさせました。それだけでなく、

そのようにただ集まってきた者どもが、毎晩のように、京都の白河周辺に行っては、辻斬りを行ったので、路上で行き会った年若い僧侶や、女児らがあちこちで斬りつけられ、死亡する者が絶えませんでした。これもただ足利治部卿高氏を討たんと、考えているからであり、

兵士を集め武術の訓練をしている訳です。そもそもその高氏卿は、今までずいぶん忠義を尽くしており、何か不都合があったとは聞いていません。にも関わらず兵部卿親王が、何故これほど高氏に対して、腹立たしく思っているのかその原因は、

昨年元弘三年(1333年)五月に官軍が六波羅を攻撃し、陥落させた頃、殿法印の家中の者どもが、京都中の土蔵を破壊し、財宝などを盗み出すと言う狼藉を働いたため、これの取り締まりとして、足利殿がこれらの犯罪者を召し取り、二十余人を六条河原にて処刑し、首を架けたのです。

その時高札に、「大塔宮に仕える、殿法印良忠の家中の者どもが、都のあちこちの民家に押し入り、昼間にも関わらず、強盗を働いたため、ここに処刑を行ったところである」と、書き付けられたのです。殿法印はこの事情を耳にして心穏やかでなく、色々な讒言を考えるとともに、

策を練って兵部卿護良親王に訴えました。このように万全を尽くして宮に申し入れを行ったので、宮も足利に対して立腹され、まだ信貴山に立て篭もっていた時から、高氏卿を討つべしと常々考えておられましたが、天皇よりのお許しが得られず、仕方なくそのままになっていました。

しかし相変わらず高氏の悪口が収まることなく、密かに隠密を諸国に派遣し、高氏追討の令旨を回すとともに、兵士を招集したのです。


高氏卿此事を聞て、内々奉属継母准后被奏聞けるは、「兵部卿親王為奉奪帝位、諸国 の兵を召候也。其証拠分明に候。」とて、国々へ被成下処の令旨を取て、被備上覧けり。君大に逆鱗有て、「此宮を可処流罪。」とて、中殿の御会に寄事兵部卿 親王をぞ被召ける。宮懸る事とは更に不思召寄、前駈二人・侍十余人召具して、忍やかに御参内有けるを、結城判官・伯耆守二人、兼てより承勅用意したりけれ ば、鈴の間の辺に待受て奉捕之、則馬場殿に奉押篭。宮は一間なる所の蜘手結たる中に、参通ふ人独も無して、泪の床に起伏せ給ふにも、こは何なる我身なれ ば、弘元の始は武家のために隠身、木の下岩のはざまに露敷袖をほしかね、帰洛の今は一生の楽未一日終、為讒臣被罪、刑戮の中には苦むらんと、知ぬ前世の報 までも思召残す方もなし。「虚名不久立」云事あれば、さり共君も可被聞召直思召ける処に、公儀已に遠流に定りぬと聞へければ、不堪御悲、内々御心よせの女 房して、委細の御書を遊し、付伝奏急可経奏聞由を被仰遣。

高氏卿はこの話を聞くと、内々に大塔宮の義母である、三位の准后阿野廉子に、「兵部卿護良親王は、帝の位を簒奪せんと諸国の兵を集めている。このことに対して明白な証拠も揃っている」と申し上げ、国々にさし下した宮の令旨を手にすると、廉子にお見せしました。

話を聞いた後醍醐天皇は激怒し、「この宮を流罪に処すように」と指示し、宮中の中殿で開催された催しに、兵部卿大塔宮をお呼びになられました。宮はこのような計画があるとは夢にも思わず、先陣の警護として二人、その他武士ら十余人を連れて、静かに参内されました。

そこを結城判官親光、伯耆守名和長年の二人が、前もって天皇の命を受けて、捕縛の用意をしていました。そして内裏の鈴の間近くで待ち受け、宮を捕らえると、即刻馬場殿(宮中にある武徳殿)に押し込めました。宮は出入り口を蜘蛛の巣のように閉ざした一間で、訪れる人もなく、

涙に濡れながら起き伏していました。しかし何の因果か、自分は元弘の始め頃には、幕府から逃れんため身を隠し、木の下や岩の隙間に身を潜め、露に濡れた袖も干すことも控えて、過ごしてきたのに、やっと都に戻った現在、生涯を通じての楽しみも、まだ一日を終えたばかりで、

帝に讒言する臣下のため罪をかぶされ、死罪の恐怖に苦しむとは、自分の知らない前世の報いなのかと、未練ばかりの日々です。「事実でないことが、長 く信じられることはない」とも言われるので、まさか帝も事実をお聞きになれば、お考えも改められるのではと、思っていたところ、

既に朝廷では遠流の処置と決定したことを聞き、悲しみに耐え切れません。普段より好意を寄せていた女性に、詳しく事情を説明した書状を渡し、急いで帝に取りいでくれる役人に話し、事の次第を帝に申し上げてくれるよう頼まれました。


其消息云先以勅勘之身欲奏無罪之由、涙落心暗、愁結言短。唯以一令察万、加詞被恤 悲者、臣愚生前之望云足而已。夫承久以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。 雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海下法、 万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万矣。遂運策於帷幄之中、亡敵 於斧鉞之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。風聞其科条、一事非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴 天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速 為桑門之客。君不見乎、申生死而晋国乱、扶蘇刑而秦世傾。浸潤之譖、膚受之愬、事起于小、禍皆逮大。乾臨何延古不鑒今。不堪懇歎之至、伏仰奏達。誠惶、誠 恐謹言。三月五日護良前左大臣殿とぞ被遊ける。此御文、若達叡聞、宥免の御沙汰も有べかりしを、伝奏諸の憤を恐て、終に不奏聞ければ、上天隔听中心の訴へ 不啓。此二三年宮に奉付副、致忠待賞御内の候人三十余人、潛に被誅之上は不及兎角申、遂に五月三日、宮を直義朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎軍勢路次を警 固し、鎌倉へ下し奉て、二階堂の谷に土篭を塗てぞ置進せける。南の御方と申ける上臈女房一人より外は、着副進する人もなく、月日の光も見へぬ闇室の内に向 て、よこぎる雨に御袖濡し、岩の滴に御枕を干わびて、年の半を過し給ける御心の内こそ悲しけれ。

その書状にまず最初に書かれていたのは、私は勅勘を蒙った身ではありますが、無罪であることを申し述べたく思いますと、ありました。今や気分は落ち 込み、涙も止まりませんが、短く私の思いを訴えたく願い出る次第です。願わくはこの一事の申し出でをもって、万事ご賢察願います。

哀れむべき境遇に置かれた私は、愚かにも以前からの希望を、ここに申し述べるに過ぎません。確か承久(1219-1222年)の時以来、鎌倉幕府が朝廷の権限を握り、朝廷はその権威を失って久しいのです。私は無謀にも、この状態を見逃してはおられず、慈悲の気持ちを持って、

あらゆる困苦に耐えられる者だけが着る法衣を脱ぎ捨てるや、怨敵降伏を目指して、甲冑に身を固めたものの、内心仏法を破壊する罪を恐れ、外部の者からは、戒律を破ったとの誹りを受けてきました。とは言っても、帝のためだけを思い、わが身のことは忘れて敵に向かい、

死をも恐れませんでした。当時の状況において、朝廷には忠義に順ずる者や、帝に忠実な者など多く居たとはいえ、ある者は決して忠義だけで従ったわけ ではなく、またある者はただ運を見極めるため、時間稼ぎをしたのに過ぎません。しかし私は一人僅かな武器を頼りに、義兵を動かし、

険しい山中に身を潜ませて、敵軍の動きを探ってきました。しかし逆徒はほしいままに我らの足元を脅かし、天下を支配下に置き、民衆のすべてを管理しました。まことに運命は天に任せるべきだとは言っても、いかんともしがたく、身の置き所さえありませんでした。

昼間は一日中深山幽谷の、岩石に生える苔の上に身を伏せ、夜ともなれば、一晩中荒れ果てた村の遠くの里までも、霜を踏み裸足で出かけました。伸び放題の髭を撫でれば、気分は落ち込み、虎の尾を踏んで、肝を冷やしたこと、一体幾千万回あったことでしょう。

しかしついに陣中で立てた策が功を奏し、敵を征伐し滅ぼすことができました。天皇を乗せた駕籠は都に帰られ、天皇の治世は、天に見守られ永く続くことになりますが、それはおそらく、私の如き臣下の忠孝ではなく、一体何者の為せる技なのでしょうか。

そのような時、戦功に対して未だ処遇も決まらない先に、突然罪を犯したと、責任を問われることになりました。世間で言われているその罪は、私の犯したものではなく、全くの言いがかりであり、それをよくお調べになって下さらないことだけが悲しい限りです。

天を仰いで訴えてみたところで、月や太陽は、親に不孝な者には照らしてくれず、地に伏して泣き訴えたとしても、山や川は忠義を忘れた臣下を、取り上 げてはくれません。ここにおいて私と父上は義絶関係となり、天地ともに失うことになりました。一体どうすれば良いのでしょうか。

今後はいかに策を練って、帝に忠義を働いたとしても、今更世に出ることなどおぼつかなく、もし帝の命令として、死罪を言い渡されたならば、皇族の名簿からは抹殺され、速やかに僧侶にならざるを得ません。古代中国、晋国の皇帝献公の子息、申生(しんせい)は国の内乱時に、

父の毒殺を図ったと罠にかけられて、自殺に追いやられ、また秦国、始皇帝の長男扶蘇も、秦国の治世を脅かしたと冤罪をかけられて、また彼も自殺に追いやられました。讒言を重ねて人を落としいれ、傷を負わせることは、当初においては小さな事件ですが、

それによって引き起こされる災禍は、皆大きなものとなります。天皇の決定される採決は、古においては良く検討されたのですが、現在は充分な検討が、なされていないようです。今はただただ、事情を説明しお願いをする以外、何もありません。伏し仰いでお願いいたします。

ここに畏まって、恐れながら申し上げる次第です。三月五日 護良前左大臣殿、と書かれていました。この書状の内容が、もし天皇のお耳に入っていたなら、何らかお許しの沙汰もあったかも知れませんが、天皇に諸案件を伝える役人が、何か不都合なことが起こるのを恐れて、

とうとう天皇にお伝えすることはなく、護良親王の心中は、天皇に届かなかったのです。ここ二、三年の間、護良親王に付き従い、忠義を尽くして、恩賞を心待ちにしていた家来たち三十余人が、密かに処刑されてしまったからには、今更とやかく言うことも出来ず、

ついに五月三日、大塔宮は足利直義朝臣に引渡され、数百騎の軍勢が途上を警備する中、鎌倉に下り、二階堂の谷に土を塗りこめた部屋を設え、そこに監禁されたのです。南の方と言われる高級女官、一人だけが付き添いましたが、その他の人は許されず、

日や月の光も届かない暗闇の中で、降り込む雨に袖を濡らし、岩を伝ってくるしずくか、涙なのか枕の乾く間もなく、半年を過ごされた宮の心の内、悲しい限りです。(訴状の解釈自信なし)


君一旦の逆鱗に鎌倉へ下し進せられしかども是までの沙汰あれとは叡慮も不赴ける を、直義朝臣日来の宿意を以て、奉禁篭けるこ浅猿けれ。孝子其父に雖有誠、継母其子を讒する時は傾国失家事古より其類多し。昔異国に晋の献公と云人坐しけ り。其后斉姜三人の子を生給ふ。嫡子を申生と云、次男を重耳、三男を夷吾とぞ申ける。三人の子已に長成て後、母の斉姜病に侵されて、忽に無墓成にけり。献 公歎之不浅しかども、別の日数漸遠く成しかば、移れば替る心の花に、昔の契を忘て、驪姫と云ける美人をぞ被迎ける。此驪姫只紅顔翠黛迷眼のみに非ず、又巧 言令色君の心を令悦しかば、献公寵愛甚して、別し人の化は夢にも不見成にけり。角て経年月程に、驪姫又子を生り。是を奚齊とぞ名付る。奚齊未幼といへ共、 母の寵愛に依て、父のをぼへ三人の太子に超たりしかば、献公常に前の后斉姜の子三人を捨て、今の驪姫が腹の子奚齊に、晋の国を譲んと思へり。驪姫心には嬉 く乍思、上に偽て申けるは、「奚齊未だ幼くして不弁善悪を、賢愚更に不見前に、太子三人を超て、継此国事、是天下の人の可悪処。」と、時々に諌め申けれ ば、献公弥驪姫が心に無私、世の譏を恥、国の安からん事を思へる処を感じて、只万事を被任之しかば、其威倍々重く成て天下皆是に帰伏せり。或時嫡子の申 生、母の追孝の為に、三牲の備を調へて、斉姜の死して埋れし曲沃の墳墓をぞ被祭ける。其胙の余を、父の献公の方へ奉給ふ。献公折節狩場に出給ひければ、此 ひもろぎを裹で置たるに、驪姫潛に鴆と云恐毒を被入たり。献公狩場より帰て、軈此ひもろぎを食んとし給ひけるを、驪姫申されけるは、「外より贈れる物を ば、先づ人に食せて後に、大人には進らする事ぞ。」とて御前なりける人に食られたるに、其人忽に血を吐て死にけり。こは何かなる事ぞとて、庭前なる鶏・犬 に食せて見給へば、鶏・犬共に斃て死ぬ。献公大に驚て其余を土に捨給へば、捨たる処の土穿て、あたりの草木皆枯萎む。

後醍醐天皇の逆鱗に一度は確かに触れたため、鎌倉に下ることにはなりましたが、天皇もこれほどな処置まで、お考えになっていませんでした。しかし、 足利直義朝臣が日頃から持っていた宮に対する気持ちが、このような処遇をさせた訳であり、あまり気持ちの良いものではありません。

親孝行な子供は、父に対して誠意を待っていますが、義母がその義理の子の悪口を言ったりすれば、国家を滅亡に導いたり、家庭を破滅させることなど、古来よりその例は多いのです。たとえば、古代中国の晋国に、献公という皇帝が居られました。

献公の妻、斉姜(せいきょう)は三人の子供をもうけました。その長男を申生(しんせい)、次男を重耳(ちょうじ)、また三男を夷吾(いご)と言います。三人の子供らがそれぞれ長じてから母、斉姜が病に冒され、突然亡くなってしまいました。夫である献公の嘆き悲しみは非常なものでしたが、

やがて日が経つに従い、人の心も花の散るが如くに変わり、昔二人が誓ったことも忘れて、驪姫(りき)と言う美しい女性を迎えました。この驪姫と言う女性は、ただ単に人を惑わすほど美しいだけではなく、口先ばかりお上手を言い、愛想よく振舞ったので、

献公は完全に彼女の虜になってしまい、死に別れた昔の妻のことなど、夢に見ることさえなくなりました。このようにして年月が過ぎて行くうち、驪姫は子供を出産し、その子は奚齊(けいせい)と名付けられました。奚齊はまだまだ幼いとは言っても、母、驪姫が受ける帝からの愛情により、

帝の可愛がり方も、前妻がもうけた三人の子供を超え、普段から前の后、斉姜の生んだ子供三人を無視し、現在の妻である驪姫が産んだ奚齊に、晋の国を譲ろうと考えるようになりました。驪姫は内心嬉しく思いながらも、帝に対しては心にもなく、「奚齊はまだ幼いので、

善悪を良くわきまえることが出来ませんし、後々人材として果たして優秀なのやらどうかも、はっきりしない前に、現在の王子三人を差し置いて、この国 の跡継ぎに決めることなど、国民の反感を買うことになるでしょう」と事あるごとに、お諌めしてきました。その話を聞くと献公は、

ますます驪姫には私利私欲がないと感じ、世間の人から、非難を受けていたことを恥ずかしく思いました。そして驪姫はただ一筋に、国家の安泰を願っているのだと思い、以後何かにつけて、驪姫に任せるようになったので、その権限もますます大きくなり、

天下の人々は皆が皆、驪姫に心服するようになったのです。そのようなある時、長男の申生は、亡き母の追善法要を営もうと、三種の生贄(例えば、牛、羊、豚)を用意し、母、斉姜の埋葬されている曲沃県の墓所にて、法要を行いました。法事が終わってから、お供えの種々の食べ物を、

父、献公にお届けしました。その時献公は、たまたま狩猟に出掛けていましたので、これらの食品を網のような袋に入れて、保管していましたが、その食品に驪姫は中国に棲む毒を持つという鳥、鴆(ちん)の恐ろしい毒薬をこっそり入れたのです。

やがて献公が猟場よりお帰りになり、早速この祭事のお下がりを、食べようとしましたが、驪姫はその時、「外部から贈られてきた物は、まず最初に他の人に毒見してもらい、その後、帝が食するものです」と言って、帝の御前に控えていた人に、毒見をしてもらったところ、

その人は突然、血を吐き死んでしまいました。一体これはどうしたのだと、庭にいた鶏や犬に食べさせてみると、鶏も犬も倒れて死んでしまいました。献 公は非常に驚き、残っていた食品を庭の地面に向かって捨てたところ、その地面を貫くと周辺の草木など、すべて枯れたりしぼんだりしました。


驪姫偽て泪を流し申けるは、「吾太子申生を思ふ事奚齊に不劣。されば奚齊を太子に 立んとし給しをも、我こそ諌申て止つるに、さればよ此毒を以て、我と父とを殺して、早晋の国を捕んと被巧けるこそうたてけれ。是を以て思ふに、献公何にも 成給なん後は、申生よも我と奚齊とをば、一日片時も生て置給はじ。願は君我を捨、奚齊を失て、申生の御心を休給へ。」と泣々献公にぞ申されける。献公元来 智浅して讒を信ずる人なりければ、大に忿て太子申生を可討由、典獄の官に被仰付。諸群臣皆、申生の無罪して死に赴んずる事を悲て、「急他国へ落させ給ふべ し。」とぞ告たりける。申生是を聞給て、「我少年の昔は母を失て、長年の今継母に逢へり。是不幸の上に妖命備れり。抑天地間何の所にか父子のなき国あら ん、今為遁其死他国へ行て、是こそ父を殺んとて鴆毒を与へたりし大逆不幸の者よと、見る人ごとに悪れて、生ては何の顔かあらん。我不誤処をば天知之。只虚 名の下に死を賜て、父の忿を休んには不如。」とて、討手の未来前に自剣に貫て、遂に空成にけり。其弟重耳・夷吾此事を聞て、驪姫が讒の又我身の上に成ん事 を恐て、二人共に他国へぞ逃給ける。角て奚齊に晋国を譲得たりけるが、天命に背しかば、無幾程献公・奚齊父子共に、其臣里剋と云ける者に討れて、晋の国忽 に滅びけり。抑今兵革一時に定て、廃帝重祚を践せ給ふ御事、偏に此宮の依武功に事なれば、縦雖有小過誡而可被宥かりしを、無是非被渡敵人手、被処遠流事 は、朝廷再傾て武家又可蔓延瑞相にやと、人々申合けるが、果して大塔宮被失させ給し後、忽に天下皆将軍の代と成てけり。牝鶏晨するは家の尽る相なりと、古 賢の云し言の末、げにもと被思知たり。

驪姫は偽りの涙を流しながら、「私が皇太子、申生を大事に扱う気持ちは、わが子奚齊に対するものに、劣るものではありません。だからこそ、奚齊を皇太子に立てようとされたことに対しても、私が帝をお諌めして、中止していただいたのに、なんと言うことか、

毒をもって私と、自分の父を殺害し、今すぐ晋の国を奪おうと策を計るとは、情けない限りです。このようなことがあっては、もし献公に何かあった後申生は、決して私と奚齊を一日一時と言えども、生かして置くことはないと思います。お願いですから、帝は私を離縁した上、

奚齊を亡き者にして、申生の希望にかなうようにしてあげて下さい」と、泣き泣き献公に話されました。献公はもともと思慮深くない上、人の讒言を単純に信じる方なので、非常に怒りを覚え、皇太子申生を討ち取るよう、監獄事務官に命じました。

諸官庁の役人ら皆、申生が無罪であるに関わらず、死なねばならないことを悲しみ、「ここは急いで他国に落ちてください」と、話されました。これを聞いた申生は、「私は昔少年であった頃に母を失い、成人してから今の継母に会いました。これもまた不幸な境遇に、

むなしく命をつなぐ結果になりました。そもそもこの天地の何処に、父子の関係のない場所があると言うのですか。今、死から逃れんため他国に行き、こ の男こそわが父を殺害しようとして、鴆毒を盛った大逆不孝の人でなしだと、見る人ごとに悪口を言われながら、命を永らえたとして、

一体それが何だと言うのだ。私が無実であることは天が知っている。ただ事実に反していると言えども、死を賜った以上、ここは父の怒りを収めるべき だ」と、討手が到着する前に、自分の剣で体を貫き死んだのです。申生の弟ら、重耳、夷吾はこの事実を耳にして、驪姫の讒言によって、

今度はわが身が危険にさらされることを恐れ、二人とも他国に逃亡しました。このようにして、奚齊に晋国を譲ることは出来たのですが、天命に背くようなことをしたので、しばらくしてから献公も奚齊も、臣下の里剋(りこく)と言う男に討たれ、晋国も直ちに滅亡しました。

今わが国のことを考えてみると、戦乱が一時に収まり、一度は廃帝にされていた後醍醐天皇が、再び帝位に就かれたことは、この大塔宮護良親王の武功に、負うところが大きいのです。たとえ小さな過ちや、注意すべきことがあったとしても、許されるはずなのに、

有無を言わさず身柄を敵の手に渡し、遠流の刑に処したことは、再び朝廷がおかしくなり、武家の権威が復活する兆しではないのかと、世間の人々は噂しあったのです。そしてその通りに、大塔宮が亡くなってから、天下は急激に、幕府の将軍が支配する時代になりました。

雌鳥が鳴いて朝を知らせるようなことがあれば、その家が滅びる兆しだと、昔の賢者が話されたのも、成る程と思い知らされます。


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