13 太平記 巻第十三 (その一)


○龍馬進奏事
鳳闕の西二条高倉に、馬場殿とて、俄に離宮を被立たり。天子常に幸成て、歌舞・蹴鞠の隙には、弓馬の達者を被召、競馬を番はせ、笠懸を射させ、御遊の興を ぞ被添ける。其比佐々木塩冶判官高貞が許より、竜馬也とて月毛なる馬の三寸計なるを引進す。其相形げにも尋常の馬に異也。骨挙り筋太くして脂肉短し。頚は 鶏の如にして、須弥の髪膝を過ぎ、背は竜の如にして、四十二の辻毛を巻て背筋に連れり。両の耳は竹を剥で直に天を指し、双の眼は鈴を懸て、地に向ふ如し。今朝の卯刻に出雲の富田を立て、酉剋の始に京著す。其道已に七十六里、鞍の上閑にして、徒に坐せるが如し。然共、旋風面を撲に不堪とぞ奏しける。則左馬寮 に被預、朝には禁池に水飼、夕には花廏に秣飼。其比天下一の馬乗と聞へし本間孫四郎を被召て被乗、半漢雕梁甚不尋常。四蹄を縮むれば双六盤の上にも立ち 、一鞭を当つれば十丈の堀をも越つべし。誠に天馬に非ずば斯る駿足は難有とて、叡慮更に類無りけり。

☆ 龍馬が献上されたこと

皇居の西方、西二条高倉に馬場殿という離宮が急遽、建造されました。ここに天皇は たびたび訪れられ、歌舞や蹴鞠を楽しまれ、その合間には弓術や馬術のをお呼びになり、競馬を催したり、乗馬して弓を射る競技、笠懸なども行い、楽しみに花 を添えられていました。

その頃、佐々木塩冶判官高貞より、竜馬と言う月毛で、丈も四尺を三寸ばかり超えた馬が、献上されてきました。その姿、顔つきは普通 の馬とは大いに異なっています。骨は盛り上がり、筋肉がたくましく発達し、贅肉など見当たりません。

首は鶏のように肩のあたりのたてがみが、膝の下あたりまで伸び、背中は竜のようであり、毛を飾りひも状に四十二本巻き、背中に連なっています。両方の耳は竹を割ったように、真っ直ぐ天に向かい、二つの眼の近くにかけられた飾りの鈴は、地面にまで届きそうです。

今朝卯の刻(午前六時頃)に出雲の富田を出発し、酉の刻(午後六時頃)はじめに京に到着しました。その道中たるや七十六里にもなりますが、馬に乗せられた鞍は落ち着いて、何事も無かったかのようです。しかしながら、顔を殴り付ける激しい風には、耐えられませんでしたと話されました。

早速その馬は左馬寮(官馬飼育の役所)に預けられ、翌朝には宮中内の池にて水を飲み、夕べには厩で飼葉を与えられました。当時天下一の馬術の名人だと言われていた、本間孫四郎をお呼びになり騎乗させました。半漢雕梁(??意味不明)はなはだ異常な様子です。

四本の足を縮めれば、双六の盤上に立つことも出来、一旦鞭を当てれば十丈の堀をも、跳び越えることが出来ます。なるほど天上界に住むという、天帝の乗る馬でなければ、これほどの駿馬など居ないであろうと思われ、後醍醐天皇の喜びようも並ではありません。


或時主上馬場殿に幸成て、又此馬を叡覧有けるに、諸卿皆 左右に候す。時に主上洞院の相国に向て被仰けるは、「古へ、屈産の乗、項羽が騅、一日に千里を翔る馬有といへども、我朝に天馬の来る事を未だ聞ず。然に朕 が代に当て此馬不求出来る。吉凶如何。」と御尋ありけるに、相国被申けるは、「是聖明の徳に不因ば、天豈此嘉瑞を降候はんや。虞舜の代には鳳凰来、孔子の 時は麒麟出といへり。就中天馬の聖代に来る事第一の嘉祥也。其故は昔周の穆王の時、驥・■・驪・■・■・■・■・駟とて八疋の天馬来れり。穆王是に乗て、 四荒八極不至云所無りけり。或時西天十万里の山川を一時に越て、中天竺の舎衛国に至り給ふ。時に釈尊霊鷲山にして法華を説給ふ。穆王馬より下て会座に臨 で、則仏を礼し奉て、退て一面に坐し給へり。如来問て宣く、「汝は何の国の人ぞ。」穆王答曰、「吾は是震旦国の王也。」仏重て宣く、「善哉今来此会場。我 有治国法、汝欲受持否。」穆王曰、「願は信受奉行して理民安国の施功徳。」爾時、仏以漢語、四要品の中の八句の偈を穆王に授給ふ。今の法華の中の経律の法 門有と云ふ深秘の文是也。穆王震旦に帰て後深心底に秘して世に不被伝。

ある時天皇が馬場殿に来られて、再びこの馬をご覧になりました。その時左右に控えている諸卿の中におられた、洞院の相国(藤原公賢)に向かって、「昔のことだが、中国、屈の産である項羽所有の騅という駿馬が、一日に千里を駆けたと言われているが、

我が国にそのような天馬がいたとは、いまだ聞いたことがない。ところが私の代になって、このような駿馬が思わず手に入ったことは、一体吉なのか凶なのか、どうであろう」と、お尋ねになりました。対して相国は、「これは天皇の人徳によって、天がこのような瑞兆を下されたものです。

古代中国、虞に都を置いた伝説上の聖王、舜の御代には鳳凰が現れ、孔子の時代には麒麟が出現したと言います。だからこそ、天馬が徳高い天皇の御代に現れることは、何と言っても第一等の吉瑞です。と言うのは、昔古代中国、周朝の穆王の御代に、

穆王八駿と言う特別な天馬、つまり土を踏まないと言う『絶地』、鳥を追い越す『翻羽』、一夜に五千キロ走る『奔霄』、自分の影を追い越す『越影』、光よりも早い『踰輝』と『超光』、雲に乗って走る『謄霧』、そして翼を持った『挟翼』の八頭の天馬が来たと言います。

穆王はこの馬に乗って、世界中隅々まで行かない所は無かったのです。ある時穆王は西方に向かって、十万里の山や川を一跳びに飛び越え、天竺(インド)中部の舎衛国まで行きました。ちょうどその時、釈迦が霊鷲山にて、法華経を説いていました。

穆王は馬から降りると、その法会の会場に行き、すぐ釈迦に拝礼して下がると、一座の中に席を占めました。釈迦如来の、『汝は何処の国の者であるか』との、問いに対して穆王は、『私は震旦国(中国の別称)の王です』と、答えました。

釈迦は重ねて、『今この会場に来られたことは、非常に幸運なことです。私は国家を治めるための、良い方法を知っていますが、あなたはその方法を必要としますか、それとも不要ですか』と、問われました。穆王は、『出来ることなら、仏教の教えを固く信じた上、

実践に務めて、国民が安心して生活できるよう、善行を積みたく思います』と、答えました。その時釈迦は漢語で、法華経二十八品の中でも、重要な四要品(方便品、安楽行品、壽量品、普門品)の中に書かれている八句の偈を、穆王にお授けになったのです。

現在法華経の中でも、経律の法門という秘密の経文が、すなわちこれです。穆王は震旦国に戻ってからは、このことを心の奥底にしまいこんで、世間に知られることはありませんでした。


此時慈童と云ける童子を、穆王寵愛し給ふに依て、恒に帝の傍に侍けり。或時彼慈童君 の空位を過けるが、誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して曰、「其例を考るに罪科非浅に。雖然事誤より出たれば、死罪一等を宥て遠流に可被処。」とぞ奏 しける。群議止事を不得して、慈童を■県と云深山へぞ被流ける。彼■県と云所は帝城を去事三百里、山深して鳥だにも不鳴、雲暝して虎狼充満せり。されば仮 にも此山へ入人の、生て帰ると云事なし。穆王猶慈童を哀み思召ければ、彼八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈を、潛に慈童に授させ給て、「毎朝に十 方を一礼して、此文を可唱。」と被仰ける。慈童遂に■県に被流、深山幽谷の底に被棄けり。爰に慈童君の恩命に任て、毎朝に一反此文を唱けるが、若忘もやせ んずらんと思ければ、側なる菊の下葉に此文を書付けり。其より此菊の葉にをける下露、僅に落て流るゝ谷の水に滴りけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に 臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、恰百味の珍に勝れり。加之天人花を捧て来り、鬼神手を束て奉仕しける間、敢て虎狼悪獣の恐無して、却て換骨羽化 の仙人と成る。是のみならず、此谷の流の末を汲で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。其後時代推移て、八百余年まで慈童猶少年の貌 有て、更に衰老の姿なし。魏の文帝の時、彭祖と名を替て、此術を文帝に授奉る。文帝是を受て菊花の盃を伝へて、万年の寿を被成。今の重陽の宴是也。其より後、皇太子位を天に受させ給ふ時、必先此文を受持し給ふ。依之普門品を当途王経とは申なるべし。此文我朝に伝はり、代々の聖主御即位の日必ず是を受持し給ふ。若幼主の君践祚ある時は、摂政先是を受て、御治世の始に必君に授奉る。此八句の偈の文、三国伝来して、理世安民の治略、除災与楽の要術と成る。是偏に 穆王天馬の徳也。されば此龍馬の来れる事、併仏法・王法の繁昌宝祚長久の奇瑞に候べし。」と被申たりければ、主上を始進せて、当座の諸卿悉心に服し旨を承 て、賀し申さぬ人は無りけり。

この頃、穆王は慈童と言う男児を可愛がっており、その慈童は常に王の傍に控えていました。ある時、その慈童が空いていた帝の席を通り過ぎる時、誤って帝の枕の上を、通り越してしまいました。多数の臣下は会議を開き、『過去の事例を考慮すると、今回の罪は決して軽いものではない。

しかしながら、過失に起因したことを考えれば、死罪だけは許して、遠流に処するが妥当であろう』と結論し、穆王に申し上げたのです。帝は臣下の決定を覆すことが出来ず、慈童は南陽郡にある、レキ(麓にオオザト)県山と言う深山に流されることとなりました。

このレキ県山と言うのは、首都の城から三百里を隔て、山深く鳥も通わない上、雲が厚く覆って昼なお暗く、虎や狼が走り回っています。そのため一たびこの山に入った人が、生きて帰ってきたことなどありません。穆王は慈童がますますかわいそうになり、

以前釈迦より頂いた八句の偈の内、普門品にある二句の偈(具一切功徳 慈眼視衆生、福聚海無量 是故応頂禮)を、こっそりと慈童に授けた上、『毎朝、東西南北、北東南東南西北西及び上下の十方に一礼して、この経文を唱えるがよい』と、仰せられました。

やがて慈童はレキ県山に連行され、深山幽谷に捨て置かれました。そこで慈童は帝の命令を守って、毎朝この経文を唱えていましたが、もし経文を忘れるようなことがあってはいけないと、そばにあった菊の葉っぱに、この経文を書き付けました。

それからはこの菊の葉に宿った露が、僅かですが流れている谷川に滴り落ち、その谷の水は全て、第一級の霊薬となりました。慈童は喉が渇きこの水を飲んだところ、水の味もまた中国古来の伝説にある、天が降らす甘い露のようであり、この世の美味といわれる何よりも、

勝っているようです。それと天上界に住まわれる人が花を捧げて来られ、鬼神さえ手を尽くして、お世話をされますので、全く虎や狼など害獣の恐怖も感じないばかりでなく、平凡な人間、慈童に羽が生じて仙人となりました。またこれだけでなく、この谷川の流れる先で、

この水を飲んでいた民家、三百余の人々は皆、たちまちに病気が直り、不老不死と思えるほど、百歳とか百二十歳の長寿を保ったのでした。やがて時代が過ぎ、八百余年後になっても、慈童は少年の容貌を保ち、全く老衰を感じさせることはありませんでした。

古代中国、魏の皇帝、文帝(曹丕)の時に、彭祖(ほうそ)と名を変えて、この長寿の術を文帝に授けました。文帝はこの術を受けると、菊花の盃を受け継いで、万年の長寿を祝いました。現在の重陽の宴がこれです。これ以後、皇太子が皇位に就くときは、

必ず最初にこの経文を心に植えつけます。これによって普門品のことを、当途王経(息災延命によって、長寿を保てる大功徳を説いた章)と言われています。この経文は我が国に伝わり、歴代の天皇は御即位される日には必ず、この仏の教えを心に念じます。

もしも、幼い皇太子が践祚される時は、摂政がまず最初にこの経文を受けておき、新しい天皇が、践祚後初めて政治を執られる時、必ず天皇にお伝えしました。この八句の偈は、三国(インド、中国、日本)を伝来して、世の中を道理による裁定を行い、

国民が安心して生活が出来るように、国を治める方策となり、災害から国を守り、国民に生活の楽しみを与える、重要な方法論となりました。これも全て、穆王の天馬の恩恵によるものです。と言うことで、今回龍馬が来たということは、仏法の発展と王家の繁栄、

また皇位が長く続くことの、めでたい兆候と考えられます」と、洞院の相国は申し上げました。その時天皇を始めとして、その場に控えていた諸公卿らは、皆が皆、その話に感服、感激して、賛辞をおくらない人は居ませんでした。


暫有て万里小路の中納言藤房卿被参。座定まて後、主上又藤房卿に向て、「天馬の遠より来れる事、吉凶の間、諸臣の勘例、已に 皆先畢ぬ。藤房は如何思へるぞ。」と勅問有ければ、藤房卿被申けるは、「天馬の本朝に来れる事、古今未だ其例を承候はねば、善悪・吉凶勘へ申難しといへど も退て愚案を回すに、是不可有吉事に。其故は昔漢の文帝の時、一日に千里を行馬を献ずる者あり。公卿・大臣皆相見て是を賀す。文帝笑て曰、「吾吉に行日は 三十里凶に行日は十里、鸞輿在前、属車在後、吾独乗千里駿馬将安之乎。」とて乃償其道費而遂被返之。又後漢の光武時、千里の馬と宝剣とを献ずる者あり。光 武是を珍とせずして、馬をば鼓車に駕し、剣をば騎士に賜ふ。又周の代已に衰なんとせし時、房星降て八匹の馬と成れり。穆王是を愛して造父をして御たらしめ て、四荒八極の外瑶池に遊び碧台に宴し給ひしかば、七廟の祭年を逐て衰へ、明堂の礼日に随て廃れしかば、周の宝祚傾けり。

しばらくして、万里小路中納言藤房卿が参内されました。席に落ち着いてから、後醍醐天皇は藤房卿に向かい、「天馬が遠国から献上されたことについて、吉凶如何なものかと、先例など諸臣の意見を求め、既に意見は出尽くしている。

藤房はどう思うか」と、お尋ねしました。藤房卿は、「天馬が我が朝廷に来たことは、過去現在を通じ、その例を聞いたことがないので、果たしてその善悪、吉凶など申し上げにくいのですが、あえて私の拙い意見を申し上げると、これは決して吉事とは思えません。

何故かと言えば、昔、漢国、文帝の御代、一日に千里を駆ける馬を、献上した者がいます。その時公卿や大臣らが全員、申し合わせたようにこのことを祝福しました。文帝は笑いながら、『私は平時の行幸では、一日に三十里を行き、非常時の行幸は、一日に十里である。

そして私の乗る輿を前にして、その後を従者の車が続いている。私一人が駿馬に乗って千里を駆けると、一体何か良いことがあると言うのか』と話され、馬を献上してきた者に対して、その道中の費用を支払った上、その馬をお返しになりました。

また後漢の光武帝の時代、千里を駆ける馬と、宝剣を献上しようとした者がいます。光武帝は特に、この馬や剣などを珍重することなく、馬には太鼓を乗せる車を曳かせ、剣は騎乗の戦士に与えました。また周国がもはや滅亡しようとしている時、

さそり座頭部の四つの星が地上に降ってきて、八匹の馬になりました。穆王はこの馬を愛して、優れた御者である造父に馬を扱わせ、世界の地の果てにある、伝説上の瑶池に遊びに行き、草原で西王母(せいおうぼ::女神)との宴を催し、国に戻ることを忘れ、

天子としてのまつりごとは、年を追って衰えだし、宮中の祭礼も日に日に廃れていき、周国の皇位は傾いていきました。


文帝・光武の代には是を棄て福祚 久く栄へ、周穆の時には是を愛して王業始て衰ふ。拾捨の間、一凶一吉的然として在耳。臣愚窃に是を案ずるに、「由来尤物是非天、只蕩君心則為害。」といへり。去ば今政道正からざるに依て、房星の精、化して此馬と成て、人の心を蕩かさんとする者也。其故は大乱の後民弊へ人苦で、天下未安れば、執政吐哺を、人 の愁を聞、諌臣上表を、主の誤を可正時なるに、百辟は楽に婬して世の治否を不見、群臣は旨に阿て国の安危を不申。依之記録所・決断所に群集せし訴人日々に 減じて訴陳徒に閣けり。諸卿是を見て、虞■の訴止て諌鼓撃人なし。無為の徳天下に及で、民皆堂々の化に誇れりと思へり。悲乎其迷へる事。元弘大乱の始、天 下の士卒挙て官軍に属せし事更に無他。只一戦の利を以て勲功の賞に預らんと思へる故也。されば世静謐の後、忠を立賞を望む輩、幾千万と云数を知ず。然共公 家被官の外は、未恩賞を給たる者あらざるに、申状を捨て訟を止たるは、忠功の不立を恨み、政道の不正を褊して、皆己が本国に帰る者也。諌臣是に驚て、雍歯 が功を先として、諸卒の恨を散ずべきに、先大内裏造営可有とて、諸国の地頭に二十分一の得分を割分て被召れば、兵革の弊の上に此功課を悲めり。又国々には 守護威を失ひ国司権を重くす。依之非職凡卑の目代等、貞応以後の新立の庄園を没倒して、在庁官人・検非違使・健児所等過分の勢ひを高せり。加之諸国の御家 人の称号は、頼朝卿の時より有て已に年久しき武名なるを、此御代に始て其号を被止ぬれば、大名・高家いつしか凡民の類に同じ。其憤幾千万とか知らん。

このように、文帝や光武帝の時には、このような献上品を捨てることによって、幸運をつかみ久しく栄えました。しかし、周国、穆王の時には、これを愛したため、初めて王室を衰亡させることになりました。このように一つの事柄でも、その取捨によって、

凶となるのか吉となるのかは、聞く人の耳にあるようです。私のつたない考えでは、『もともと特に優れたものというのは、天上にあるべきで、地上にあれば、ただ帝の心を惑わし、害をなすものである』と、言うことでしょう。だから現在、政治において問題が多いため、

さそり座の精とも言うべきものが、姿を変えてこの馬になり、人の心を惑わそうとしているものです。その訳は、大乱が収まってから、国民は疲弊し、苦しみの中にあり、天下もいまだ安定していない。そんな時、政治は何を差し置いても優先的に人の訴えを聞き、

また帝を諌めるべき臣下は、意見書を提出して、帝の過ちを正さなければならない時である。にかかわらず罪深いことに、ただ安楽な日々を過ごすだけで、世の政治向きに無関心となり、その他の諸臣下は上層部の意見に迎合し、

国の安全や危険性などについて、意見を具申することも無い。このため朝廷に関する訴訟を扱う記録所や、一般の訴訟を扱う決断所などに、訴え出ていた人々も日々減少し、原告の訴状や、被告の陳状なども、そのまま放置されました。

諸公卿らはこの状況を見ていながら、虞ゼイの訴え(互いに自己の利益を主張して訴えること)を止めて、天子を諌めるための鼓を、打ち鳴らす人もいません。何事に対しても、行動を起こさないという風潮が、世間に蔓延することで、民衆もそれに感化され、

立派な人間になったと錯覚します。悲しむべきはその誤りです。元弘の大乱(1331年)が起こった当初、天下の武士団ら、皆が皆官軍に従属したとは、改めて言うまでもありません。それはただ、この合戦において、武功の恩賞にありつこうと思うからです。

そのため、世間が安定して後、忠義を言い立てて、恩賞を望む者どもは幾千万か、その数も分からないぐらいです。ところが、公家や朝廷の臣下以外は、いまだに恩賞にありついていません。しかし恩賞の申請書を捨てて、訴訟を中断した者は、

忠義心からの勲功に対し、恩賞の沙汰のないのを恨み、新しい政治の不正にあきれて、皆自分の本国に帰ってしまった者たちです。天皇を諌めるべき臣下であれば、この実情に驚いて、偏らずに恩賞を与えることを先にして、諸武士団らの恨みを抑えるべきであるのに、

まず大内裏の造営が先だと、諸国の地頭に対して、二十分の一の増税を行うとは、合戦の諸費用で疲弊している上、この増税に苦しむこととなります。また諸国において守護職の権威を失墜させ、朝廷の派遣する国司の権限を大きくしている。

これによって国司の代理人の中でも、現職でなく身分の低い人らは、貞応(1222-1223年)以後に手に入れた庄園を没収、横領され、反対に地方に常駐する朝廷の役人や検非違使、その他下っ端の役人などが、異常な勢力を持ち出している。

こればかりでなく、諸国の御家人という称号は、源頼朝卿の時より存在し、すでに長年月が経ている武名であるのに、この御代になって、その称号を名乗ることを禁止したので、大名や由緒正しい家柄の人たちも、知らず知らずの内に、ただの凡人となってしまった。この憤りを持っている者も、幾千万人か分かりません。


次に は天運図に膺て朝敵自亡ぬといへども、今度天下を定て、君の宸襟を休め奉たる者は、高氏・義貞・正成・円心・長年なり。彼等が忠を取て漢の功臣に比せば、 韓信・彭越・張良・蕭何・曹参也。又唐の賢佐に譬ば、魏徴・玄齢・世南・如晦・李勣なるべし。其志節に当り義に向て忠を立所、何れをか前とし何れをか後と せん。其賞皆均其爵是同かるべき処に、円心一人僅に本領一所の安堵を全して、守護恩補の国を被召返事、其咎そも何事ぞや。「賞中其功則有忠之者進、罰当其 罪則有咎之者退。」と云へり。痛哉今の政道、只抽賞の功に不当譏のみに非ず。兼ては綸言の掌を翻す憚あり。今若武家の棟梁と成ぬべき器用の仁出来て、朝家 を褊し申事あらば、恨を含み政道を猜む天下の士、糧を荷て招ざるに集らん事不可有疑。抑天馬の用所を案ずるに、徳の流行する事は郵を置て命を伝るよりも早 ければ、此馬必しも不足用。只大逆不慮に出来る日、急を遠国に告る時、聊用に得あらんか。是静謐の朝に出で、兼て大乱の備を設く。豈不吉の表事に候はず や。只奇物の翫を止て、仁政の化を致れんには不如。」と、誠を至し言を不残被申しに、竜顔少し逆鱗の気色有て、諸臣皆色を変じければ、旨酒高会も無興し て、其日の御遊はさて止にけりとぞ聞へし。

そして次には、朝敵北条家は自然のなりゆきとして、自ら滅びたとは言っても、今回天下の騒乱を鎮めて、天皇のお心を安んじ奉ったのは、足利高氏、新田義貞、楠木正成、赤松円心そして名和長年らです。彼らの天皇に対する忠誠心を考えてみると、

漢国では 韓信(かんしん::秦末から前漢初期にかけての武将)、彭越(ほうえつ::秦末から楚漢戦争期の武将)、張良(ちょうりょう::秦末から前漢初期の政治家、軍師)、蕭何(しょうか::秦末から前漢にかけての政治家)、曹参(そうしん::秦末から前漢にかけての武将、政治家)らに匹敵します。

また唐の国における賢明な家臣に例えれば、魏徴(ぎちょう)、玄齢(げんれい)、世南(せいなん::虞世南)、如晦(じょかい::杜如晦)そして李勣(りせき)とも、言えるでしょう。彼らの一途な考え、つまり正義を守り、天皇に忠義を尽くす気持ちにおいて、

誰が勝っているのか、誰が劣っているのか、比較など不可能であります。その恩賞において全員公平であり、また官位についても同じであるべきなのに、赤松円心ただ一人が、僅かに以前からの本領一ヶ所のみを安堵し、守護として任じられていた国も没収するとは、

その理由は一体何なのでしょうか。『恩賞を与えるについては、忠義心のある者に行い、罪を罰するには、罰せられるような行為を行った者に、なされるべきである』とも、言います。悲しいことですが、現在行われている政治に対する不満は、

ただ恩賞を受けるのに、選ばれなかった者たちだけのものではありません。その上綸言でさえ信用できず、朝夕に簡単に変更の恐れさえあります。今、もし武士団の棟梁とも仰がれる、器量のある者が出現し、朝廷を軽視するような発言をすれば、

朝廷に恨みを持ち、現在の政治を憎んでいる天下の武士らが、兵糧を担いで集結することは、疑いの余地もありません。そこでこの馬の利用価値を考えてみると、神仏の加護など、人間にとって良いことが世間に広まるのは、宿場を設けて、命令を伝達するより早いので、

この馬は特に必要とはしないでしょう。ただ朝廷に対して、突然反乱が起こった日に、遠国に急を告げる時など、いささか役に立つかと思われます。つまりこの馬は、安泰な時期にその姿を現して、大乱の備えとはなるでしょう。その意味では、決して不吉なことではありません。

ただ珍らしいからとめでることなどせず、恵み深い政治を目指すことが、一番重要なことでしょう」と誠心誠意、言葉を尽くして申し上げました。その時、天皇は顔色を変え、激怒の様相を呈したので、居並ぶ諸臣下らも皆が皆、顔色をなくし、

せっかくの盛大な酒宴も興味を失い、その日予定されていた御遊も、取りやめになったとか聞いています。


○藤房卿遁世事
其後藤房卿連続して諌言を上り けれども、君遂に御許容無りしかば、大内裏造営の事をも不被止、蘭籍桂筵の御遊猶頻なりければ、藤房是を諌兼て、「臣たる道我に於て至せり。よしや今は身 を退には不如。」と、思定てぞ坐しける。三月十一日は、八幡の行幸にて、諸卿皆路次の行装を事とし給けり。藤房も時の大理にて坐する上、今は是を限の供奉 と被思ければ、御供の官人、悉目を驚す程に出立れたり。看督長十六人、冠の老懸に、袖単白くしたる薄紅の袍に白袴を著し、いちひはばきに乱れ緒をはいて列 をひく。次に走り下部八人、細烏帽子に上下、一色の家の紋の水干著て、二行に歩つゞきたり。其後大理は、巻纓の老懸に、赤裏の表の袴、靴の沓はいて、蒔絵 の平鞘太刀を佩、あまの面の羽付たる平胡■の箙を負、甲斐の大黒とて、五尺三寸有ける名馬の太く逞に、いかけ地の鞍置て、水色の厚総の鞦に、唐糸の手縄ゆ るらかに結でかけ、鞍の上閑に乗うけて、町に三処手縄入させ小路に余て歩せ出たれば、馬副四人、か千冠に猪の皮の尻鞘の太刀佩て、左右にそひ、かい副の侍 二人をば、烏帽子に花田のうち絹を重て、袖単を出したる水干著たる舎人の雑色四人、次に白張に香の衣重たる童一人、次に細烏帽子に袖単白して、海松色の水 干著たる調度懸六人、次に細烏帽子に香の水干著たる舎人八人、其次に直垂著の雑人等百余人、警蹕の声高らかに、傍を払て被供奉たり。伏拝に馬を留て、男山 を登給ふにも、栄行時も有こし物也と、明日は被謂ぬべき身の程も哀に、石清水を見給にも、可澄末の久しさを、君が御影に寄て祝し、其言葉の引替て、今より は心の垢を雪、憂世の耳を可洗便りに成ぬと思給ひ、大菩薩の御前にして、潛に自受法楽の法施を献ても、道心堅固速証菩提と祈給へば、和光同塵の月明かに心 の闇をや照すらんと、神慮も暗に被量たり。

☆ 万里小路藤房卿が世を捨てたこと

その後も藤房卿は、幾度も諫言申し上げたのですが、後醍醐天皇はついに受け入れようとせず、大内裏造営の件も中止とはなりませんでした。それだけでなく、酒宴などの宴会も頻繁に行われ、藤房卿も諫言することを諦め、もはやこれまでと、「臣たる者の責務は、

私において途切れるのか。こうなれば今は、身を退くしか仕方ないだろう」と決心した上、その後は普段通りにしていました。建武元年(1334年)三月十一日に、後醍醐天皇は石清水八幡宮へ行幸されました。諸公卿らは道中の服装や、旅装に神経を使いました。

万里小路藤房も現職の検非違使庁の長官として席にある以上、今回を最後のお供だと考え、お供することにしました。そして他のお供の諸役人らが皆、目を驚かすほどに飾って出発しました。検非違使庁の下級職員十六人が、冠に顔の左右を覆う飾りをつけ、

袖だけ白くした、薄紅の一重の上衣に、白袴を着け、イチビの皮で編んだ脚絆に、つま先に編み余ったわらを残したままのわらじを履いて、行列を先導します。その後ろに、下級召使ら八人が細烏帽子をかぶり、上下とも一色の家紋の付いた水干(下級官人、武家の用いた衣服)を着て、

二列になり歩いて続きました。その後ろを藤房卿が、冠の止め紐を内巻きにして飾り、紅色の裏地が付いた白い袴を着けて、盛装用の革製で、黒漆塗りの靴を履いていました。身には蒔絵を施した平鞘の太刀を佩き、多くの面を羽で飾った平胡ぐいの箙を背負い、

大黒と名の付いた、五尺三寸もある、甲斐産で肥って逞しい名馬に、沃懸地(いかけじ::蒔絵の一種)の鞍を置きました。馬具の各所に付けた水色の総を、特別厚く垂らして、中国渡来の糸で編んだ手縄(馬の口取りがひく縄)を緩やかに結び、鞍の上に静かに乗り、

町中に乗り入れ、小路も狭しと歩みました。その行列は、馬に従う従者四人が、褐衣(かちえ::束帯系の衣服)を着て冠をかぶり、猪の革で鞘尻を飾りつけた太刀を佩いて、馬の左右を歩みます。介添えとして従う侍二人は烏帽子に、

はなだ色(浅葱と藍の中間位の色)の光沢のある絹地で縫った上着をきています。その後には、一重の水干を着た、牛を引く下級職の者が四人続き、またその後ろには、糊をきつく利かして、光沢のある衣を着た子供が一人、その次に、細烏帽子をかぶり、

白い一重の袖を出して、海松色(みるいろ::黒みかかった萌葱色)の水干を着て、弓矢を持った六人が従っています。また細烏帽子をかぶって、光沢のある水干を着た下級役人が八人、またその後には、直垂を身に着けた下職の者ら、百余人が続いて、

警蹕(けいひつ::貴人など通行の時、声を立てて人々を畏まらすこと)の声も高らかに、あたりを払いながら付き従いました。石清水八幡の麓に到着し、遥拝所に馬を留め、男山に上り始めました。我が身も栄光に包まれた時もあったけれど、明日になれば、思いがけない境遇に、

我が身を置くことになると思えば、悲しくなりますが、石清水八幡を見れば、幾末久しく帝が安泰でありますよう、帝のお姿に祝辞を述べました。そしてその言葉の裏に、今より我が心の穢れを雪ぎ、憂き世のつまらないことから、身を引くことが出来るよう、

八幡大菩薩の御前にて、ひそかに自分の悟りに達することを願って、経を読み、気持ちはすでに固まっているので、速やかに悟りの境地に導いてくださいと祈りました。その祈りに答えて、神仏も仮の姿を現され、藤房卿の心の苦しさを和らげようと、そっとお助けをしました。


御神拝一日有て還幸事散じければ、藤房致仕の為に被参内、竜顔に近付進せん事、今ならでは何事にかと被思けれ ば、其事となく御前に祗候して、竜逢・比干が諌に死せし恨、伯夷・叔斉が潔きを蹈にし跡、終夜申出て、未明に退出し給へば、大内山の月影も涙に陰りて幽な り。陣頭より車をば宿所へ返し遣し、侍一人召具して、北山の岩蔵と云所へ趣かれける。此にて不二房と云僧を戒師に請じて、遂に多年拝趨の儒冠を解で、十戒 持律の法体に成給けり。家貧く年老ぬる人だにも、難離難捨恩愛の旧き栖也。況乎官禄共に卑からで、齢未四十に不足人の、妻子を離れ父母を捨て、山川抖薮(藪?)の 身と成りしは、ためしすくなき発心也。此事叡聞に達しければ、君無限驚き思召て、「其在所を急ぎ尋出し、再び政道輔佐の臣と可成。」と、父宣房卿に被仰下 ければ、宣房卿泣々車を飛して、岩蔵へ尋行給けるに、中納言入道は、其朝まで岩蔵の坊にをはしけるが、是も尚都近き傍りなれば、浮世の人の事問ひかはす事 もこそあれと厭はしくて、何地と云方もなく足に信て出給ひけり。宣房卿彼坊に行給て、「左様の人やある。」と被尋ければ、主の僧、「さる人は今朝まで是に 御坐候つるが、行脚の御志候とて、何地へやらん御出候つる也。」とぞ答へける。宣房卿悲歎の泪を掩て其住捨たる菴室を見給へば、誰れ見よとてか書置ける、 破たる障子の上に、一首の歌を被残たり。住捨る山を浮世の人とはゞ嵐や庭の松にこたへん棄恩入無為、真実報恩者と云文の下に、白頭望断万重山。曠劫恩波尽 底乾。不是胸中蔵五逆。出家端的報親難。と、黄蘗の大義渡を題せし古き頌を被書たり。さてこそ此人設ひ何くの山にありとも、命の中の再会は叶ふまじかりけ るよと、宣房卿恋慕の泪に咽んで、空く帰り給ひけり。

後醍醐天皇は、一日の石清水八幡参拝を終えられ、都に戻られましたので、藤房卿は官職を退くため参内しました。しかし、天皇に親しくお会いすることは、最近の諸事情により、何か具合の悪いこともあろうかと思われましたが、特に何事も無く御前近く控えました。

そして帝に、竜逢(夏王朝の暴君桀に仕えた関竜逢)、比干(殷の暴君紂に仕えた比干)が王に対する諫言によって、殺害された恨みや、伯夷や叔斉(長男の伯夷が三男の叔斉に、父の遺言に従って位を譲ろうとしたところ、叔斉が兄を差し置いて位にはつけないと、両名とも他国に逃れた)の潔さを例に挙げながら、

一晩中話をされて、明け方に退出されました。皇居にかかる月の姿も、涙に曇ってはっきりわかりません。宮中の門を警備している衛士の詰所の前で、牛車を館に帰し、侍を一人だけ連れて、北山の岩倉と言う所へ向かいました。

ここで不二房と言う僧侶を戒師(出家を望む者に戒を授ける法師)として招き、長年の儒学者として、頭に着けていた冠を脱ぎ捨て、十の戒律を正しく守り、精進を続ける殊勝な僧になられました。貧しい家に住み年老いた人でさえ、離れ難く、また捨て難いといわれる、

恩愛の詰まった、我が古き住み家と言われているものを、官位や俸禄も人より優れ、年齢もまだ四十歳に届かぬ人が、妻子と離れ、父母を捨てて仏道修行のため、行脚をする身になられるとは、あまり例がない仏道修行への入り方です。

この事情が後醍醐天皇のお耳に入ると、天皇の驚きは大変で、「すぐ藤房の居る場所を尋ねだし、再び私の行う政治の補佐をするように」と藤房の父、宣房卿に仰せられ、宣房は泣く泣く車を走らせ、岩倉に向かいました。しかし、中納言藤房入道は、

その日の朝まで岩倉の坊舎に居られたのですが、この場所もまだまだ都に近く、浮世に住む人のことを聞いたり、聞かされたりするのも、何かと煩わしく思われ、何処へとも告げずに、足の向くまま、お出掛けになられていました。

宣房卿は藤房入道の居られた坊舎に行き、「このような人は居ませんか」と尋ねられましたが、そこの住職は、「そのお方は今朝まで、ここに居られましたが、行脚の志をお持ちになったとかで、何処かへお出掛けになられました」と、お答えされました。

宣房卿は悲しみの涙をこらえて、藤房が住み、今は捨て去った粗末な部屋をご覧になると、誰かに見てほしいと思ってか、破れ障子の上に、一首の歌が書き残されていました。

      住み捨てた 山を浮世の人が 問われたなら 嵐や庭の松に 答えさせよう
      この迷いの世界を捨て、恩愛の情を断ち切って、仏門に入ることによって、本当の仏道修行者になれる

この文章の下には、「白頭望断万重山 曠劫恩波尽底乾 不是胸中蔵五逆 出家端的報親難」と、黄檗の大義渡を題材にした古い頌(個人の功績などを称える詩歌)が書かれていました。これを読んで宣房は、藤房は例え何処の山に行こうとも、

この世で再会することなど不可能だろうと思い、異性を恋焦れるような涙に咽び、むなしくお帰りになられたのです。


抑彼宣房卿と申は、吉田大弐資経の孫、藤三位資通の子也。此人閑官の昔、五部の大乗経を一字三礼に書 供養して、子孫の繁昌を祈らん為に、春日の社にぞ被奉納ける。其夜の夢想に、黄衣著たる神人、榊の枝に立文を著て、宣房卿の前に差置たり。何なる文やらん と怪て、急是を披て見給へば、上書に万里小路一位殿へと書て、中には、速証無上大菩提と、金字にぞ書たりける。夢覚て後静に是を案ずるに、我朝廷に仕へ て、位一品に至らんずる条無疑。中に見へつる金字の文は、我則此作善を以て、後生善処の望を可達者也と、二世の悉地共に成就したる心地して、憑もしく思給 けるが、果して元弘の末に、父祖代々絶て久き従一位に成給けり。中に見へし金字の文は、子息藤房卿出家得道し給べき、其善縁有と被示ける明神の御告なるべ し。誠に百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の灯也。一子出家すれば、七世の父母皆仏道を成すと、如来の所説明なれば、此人一人の発心に依て、七世の 父母諸共に、成仏得道せん事、歎の中の悦なるべければ、是を誠に第一の利生預りたる人よと、智ある人は聞て感歎せり。

そもそもこの宣房卿と言われるお方は、吉田大弐資経の孫で、藤三位資通の子息です。この人は昔まだ閑職にあった頃、五部の大乗経を、一字書く毎に三度の礼拝をしながら写経し、子孫繁栄を願って、春日大社に奉納されました。

そして、その夜見た夢に、黄色い装束を身に着けた、神に仕える人が現れ、榊の枝に立文(書状の一形式)にした書状を付けて、宣房卿の前に差し出しました。一体何が書いてあるのか不審に思い、急いで開いて見ると、上書きには万里小路一位殿へと書いてあり、

中には、速証無上大菩提(速やかに完全な悟りの境地に達する)と金字にて、書かれていました。夢から覚めてこのことについて、心静かに考えてみると、自分は朝廷に仕えて、官位が一位に上ることは、疑いの余地が無いことと、また中に金字で書かれていた文字は、

私の行った、仏縁を結ぶための供養によって、後生は間違いなく望み通り、浄土に生まれることが出来ることであり、現世、後世の両方とも、願いがかなえられた気分になって、期待と共に心強く思われました。そして、元弘(1331−1333年)の末に、

父祖代々絶えて久しかった、従一位になられました。また中に書かれていた金字の文字は、子息の藤房卿が出家し、修行の上悟りの境地に到達できるように、仏道と良い縁を結ばれることを暗示した、春日明神のお告げだったのでしょう。

確かに百年の栄華も、風前の塵であり、一心に悟りを求めようとする心は、命を越えて未来永劫を照らす灯火なのです。子供が一人出家すれば、七世にわたり父母は皆、悟りを得られると、如来が話されますから、一人藤房卿の仏道発心によって、

七世の父母もろともに成仏し、悟りの境地に入ることは、悲しい出来事の中でも、喜ばしいことだと思われました。このことは確かに第一等のご利益をもらった人だと、知識のある人は、この話を聞いて感心すること頻りでした。      (終り)

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