13 太平記 巻第十三  (その三)

○兵部卿宮薨御事付干将莫耶事
左馬頭既に山の内を打過給ける時、淵辺伊賀守を近付て宣けるは、「御方依無勢、一旦鎌倉を雖引退、美濃・尾張・三河・遠江の勢を催して、頓て又鎌倉へ寄ん ずれば、相摸次郎時行を滅さん事は、不可回踵。猶も只当家の為に、始終可被成讎は、兵部卿親王也。此御事死刑に行ひ奉れと云勅許はなけれ共、此次に只失奉 らばやと思ふ也。御辺は急薬師堂の谷へ馳帰て、宮を刺殺し進らせよ。」と被下知ければ、淵辺畏て、「承候。」とて、山の内より主従七騎引返して宮の坐ける 篭の御所へ参たれば、宮はいつとなく闇の夜の如なる土篭の中に、朝に成ぬるをも知せ給はず、猶灯を挑て御経あそばして御坐有けるが、淵辺が御迎に参て候由 を申て、御輿を庭に舁居へたりけるを御覧じて、「汝は我を失んとの使にてぞ有らん。心得たり。」と被仰て、淵辺が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵 辺持たる太刀を取直し、御膝の辺をしたゝかに奉打。宮は半年許篭の中に居屈らせ給たりければ、御足も快立ざりけるにや、御心は八十梟に思召けれ共、覆に被 打倒、起挙らんとし給ひける処を、淵辺御胸の上に乗懸り、腰の刀を抜て御頚を掻んとしければ、宮御頚を縮て、刀のさきをしかと呀させ給ふ。淵辺したゝかな る者なりければ、刀を奪はれ進らせじと、引合ひける間、刀の鋒一寸余り折て失にけり。淵辺其刀を投捨、脇差の刀を抜て、先御心もとの辺を二刀刺す。被刺て 宮少し弱らせ給ふ体に見へける処を、御髪を掴で引挙げ、則御頚を掻落す。篭の前に走出て、明き所にて御頚を奉見、噬切らせ給ひたりつる刀の鋒、未だ御口の 中に留て、御眼猶生たる人の如し。淵辺是を見て、「さる事あり。加様の頚をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側なる薮の中へ投捨てぞ帰りける。去程に御かい しやくの為、御前に候はれける南の御方、此有様を見奉て、余の恐しさと悲しさに、御身もすくみ、手足もたゝで坐しけるが、暫肝を静めて、人心付ければ、薮 に捨たる御頚を取挙たるに、御膚へも猶不冷、御目も塞せ給はず、只元の気色に見へさせ給へば、こは若夢にてや有らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣 悲み給ひけり。遥に有て理致光院の長老、「斯る御事と承及候。」とて葬礼の御事取営み給へり。南の御方は、軈て御髪被落ろて泣々京へ上り給ひけり。

☆ 兵部卿護良親王が亡くなられたことと、干将、莫耶のこと

さて鎌倉を脱出し、落ちて行く左馬頭足利直義が、すでに山の内を通過しようとしていた時、淵辺伊賀守を近くに呼び、「味方は無勢のため、やむなく一旦鎌倉は引き上げると言っても、美濃、尾張、三河、遠江の軍勢を召集し、速やかに再度鎌倉に押し寄せ、

相模次郎時行を絶対滅亡に導かねばならない。その上我が家にとって、いつまでたっても邪魔になるのは、兵部卿護良親王である。このことについて、死刑を執行せよとの天皇の許しは無いけれど、今この機会にお命を頂戴しようと思う。

汝は大至急薬師堂の谷に駆け戻り、宮を刺殺するように」と命令すれば、淵辺は畏まって、「了解しました」と、返事しました。淵辺伊賀守は山の内より、主従七騎で引き返し、宮が軟禁されている篭の御所に向かいました。宮はいつものように闇夜のような牢獄の中で、

朝になったのもご存じなく、なお灯火をともして、お経を読んでおられました。淵辺がお迎えに参りましたと申し上げ、御輿を庭に据えたのをご覧になり、「汝はこの私を殺害するための使に違いない。よしわかった」と仰せられ、淵辺の太刀を奪おうと、走り寄って来るのを、

淵辺は手に持った太刀を握り直し、宮のお膝あたりを強打しました。宮は半年ばかり、牢獄に監禁されていたため、足も萎え気味ですが、気持ちだけは八十梟帥のように、勇猛な人間だと思ってはいても、仰向けに倒され、起き上がろうとされたところを、

淵辺は宮の胸のあたりに馬乗りになりました。そして腰の刀を抜き、お首を掻き切ろうとした時、宮は首をすくめて、刀の先をしっかりとくわえました。淵辺もしぶとい者なので、刀を奪われてはならないと、引き合っているうちに、刀の切っ先一寸ばかりが、折れてしまいました。

淵辺はその刀を投げ捨て、脇差を抜くや心臓の辺りを、二刀突き刺しました。そのため宮が少したじろいだところを、髪の毛を掴んで引き上げ、すぐにお首を掻き落しました。牢の前に走り出て、明るい所でお首を見てみると、噛み切った刀の切っ先が、

まだ御口の中に残っており、眼光もまだ生きている人のようです。淵辺はこれを見て、「言うまでも無いが、こんな首は主人に見せるものではない」と、傍の藪の中に投げ捨てて、帰りました。やがて宮のお世話のため、仕えている南の方は、この有様を見て、

あまりの恐ろしさと、悲しさに身もすくみ、手足も立たず、しゃがみ込んでしまいました。しばらくして落ち着きを取り戻すと、藪に捨て置かれたお首を、取り上げられました。まだ肌も冷め切っていず、お目も塞いではおられず、何事も無かったかのように見え、これはもしや夢ではないか、

夢ならば早く覚めて、現実に戻してくださいと泣き悲しまれました。長い時間が経って、理致光院の長老が、「事情はお聞きしました」と、葬儀を営まれました。南のお方はすぐに髪を下ろされ、泣く泣く京に上って行かれました。


抑淵辺 が宮の御頚を取ながら左馬頭殿に見せ奉らで、薮の傍に捨ける事聊思へる所あり。昔周の末の代に、楚王と云ける王、武を以て天下を取らん為に、戦を習はし剣 を好む事年久し。或時楚王の夫人、鉄の柱に倚傍てすゞみ給けるが、心地只ならず覚て忽懐姙し玉けり。十月を過て後、生産の席に苦で一の鉄丸を産給ふ。楚王 是を怪しとし玉はず、「如何様是金鉄の精霊なるべし。」とて、干将と云ける鍛冶を被召、此鉄にて宝剣を作て進すべき由を被仰。干将此鉄を賜て、其妻の莫耶 と共に呉山の中に行て、竜泉の水に淬て、三年が内に雌雄の二剣を打出せり。剣成て未奏前に、莫耶、干将に向て云けるは、「此二の剣精霊暗に通じて坐ながら 怨敵を可滅剣也。我今懐姙せり。産子は必猛く勇める男なるべし。然れば一の剣をば楚王に献るとも今一の剣をば隠して我子に可与玉。」云ければ、干将、莫耶 が申に付て、其雄剣一を楚王に献じて、一の雌剣をば、未だ胎内にある子の為に深く隠してぞ置ける。楚王雄剣を開て見給ふに、誠に精霊有と見へければ、箱の 中に収て被置たるに、此剣箱の中にして常に悲泣の声あり。楚王怪て群臣に其泣故を問給ふに、臣皆申さく、「此剣必雄と雌と二つ可有。其雌雄一所に不在間、 是を悲で泣者也。」とぞ奏しける。楚王大に忿て、則干将を被召出、典獄の官に仰て首を被刎けり。其後莫耶子を生り。面貌尋常の人に替て長の高事一丈五尺、 力は五百人が力を合せたり。面三尺有て眉間一尺有ければ、世の人其名を眉間尺とぞ名付ける。年十五に成ける時、父が書置ける詞を見るに、日出北戸。南山其 松。松生於石。剣在其中。と書り。さては此剣北戸の柱の中に在と心得て、柱を破て見るに、果して一の雌剣あり。眉間尺是を得て、哀楚王を奉討父の仇を報ぜ ばやと思ふ事骨髄に徹れり。楚王も眉間尺が憤を聞給て、彼れ世にあらん程は、不心安被思ければ、数万の官軍を差遣して、是を被責けるに、眉間尺一人が勇力 に被摧、又其雌剣の刃に触れて、死傷する者幾千万と云数を不知。

ところで淵辺が宮のお首を取りながら、左馬頭直義殿に見せようとせず、傍らの藪に捨てたことは、少し思い当たることがあります。古代中国、周国の末頃、楚王と言う王が、武力で以って天下を取ろうとして、戦術を学び、剣術に長くいそしんでいました。

そんなある時、楚王の夫人が、鉄の柱に寄りかかって涼んでいたところ、何か気分に変調を感じると、何故だか突然懐妊してしまったのです。十月が過ぎて出産の時、苦しみながら一つの鉄丸を、お産みになりました。楚王はこれを少しも疑うこともなく、

「これは間違いなく、金鉄の精霊である」と言って、干将(かんしょう)と言う鍛冶を呼び、この鉄にて宝剣を作成するよう、命じられました。干将はこの鉄丸を受け取って、彼の妻、莫耶(ばくや)と一緒に呉山に行き、この鉄を赤熱させ、竜泉の水に入れて鍛えた上、

三年の内に雌雄二振りの剣を作成しました。剣の作成が終わって、まだ楚王にお届けする前に、莫耶は干将に向かって、「この二振りの剣が持つ精霊は、闇の世界に通じているのか、座して怨敵を滅ぼすことの出来る剣のようです。今、私は妊娠したようです。

生まれてくる子供は必ずや、激しい心を持った、勇敢な男に違いないでしょう。そこで、一振りの剣は楚王に献上するとしても、もう一振りの剣は隠し置き、我が子に与えてください」と、申し上げました。干将は莫耶の申し入れを受け、剣の内、雄の剣一振りを楚王に献上し、

もう一つの雌の剣を、まだ胎内にいる子供のため、見つからないように隠し置きました。楚王が献上された雄剣を、開いててご覧になると、確かにこの剣には精霊が宿っているように見え、再び箱の中に収め保管しました。ところが箱の中から、この剣の悲しみに泣く声が、

いつも聞こえます。楚王は不審に思い、並み居る臣下に、何故泣き声がするのか理由を尋ねると、彼らは、「この剣はきっと、雄と雌の二振りがあるに違いありません。その雌雄の剣が一ヶ所に無いので、これを悲しんで泣いているのでしょう」と、お答えしました。

楚王は激怒し、即刻干将を出頭させ、刑務所職員に首を刎ねるよう命じました。その後彼の妻、莫耶は出産しましたが、その子は顔かたちなど、とても尋常なものでなく、身長は一丈五尺、力は五百人力もあります。顔は三尺もあり、眉間は一尺もありますので、

世間の人は彼のことを、眉間尺と名付けました。彼が十五歳になった時、父が書き残していた詩を見ると、「日出北戸 南山其松 松生於石 剣在其中」と、書いてありました。と言うことは、剣は北戸の柱の中にあるのだろうと考え、柱を引き裂いてみると、

やはり一振りの雌剣がありました。眉間尺はこの剣を手にすると、なんとしても楚王を討ち取って、父の仇を晴らしてやろうと、心底思いました。楚王は眉間尺の憤慨ぶりを聞くと、彼が生きている限り、安心出来ないと考え、数万の官軍を派遣し、彼を攻撃することにしました。

しかし、眉間尺ただ一人の怪力に官軍は敗退し、またその雌剣に触れて、死傷する者幾千万なのか、その数も分らないほどです。


斯る処に、父干将が古への知音なりける甑山人来て、眉間尺に向て云けるは、「我れ汝が父干 将と交りを結ぶ事年久かりき。然れば、其朋友の恩を謝せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝若父の仇を報ぜんとならば、持所の剣の鋒を三寸嚼切て口の 中に含で可死。我汝が頭を取て楚王に献ぜば、楚王悦で必汝が頭を見給はん時、口に含める剣のさきを楚王に吹懸て、共可死。」と云ければ、眉間尺大に悦で、 則雌剣の鋒三寸喫切て、口の内に含み、自己が頭をかき切て、客の前にぞ指置ける。客眉間尺が首を取て、則楚王に献る。楚王大に喜て是を獄門に被懸たるに、 三月まで其頭不爛、■目を、切歯を、常に歯喫をしける間、楚王是を恐て敢て不近給。是を鼎の中に入れ、七日七夜までぞ被煮ける。余につよく被煮て、此頭少 し爛て目を塞ぎたりけるを、今は子細非じとて、楚王自鼎の蓋を開せて、是を見給ける時、此頭、口に含だる剣の鋒を楚王にはつと奉吹懸。剣の鋒不誤、楚王の 頚の骨を切ければ、楚王の頭忽に落て、鼎の中へ入にけり。楚王の頭と眉間尺が首と、煎揚る湯の中にして、上になり下に成り、喫相けるが、動ば眉間尺が頭は 下に成て、喫負ぬべく見へける間、客自己が首を掻落て鼎の中へ投入、則眉間尺が頭と相共に、楚王の頭を喫破て、眉間尺が頭は、「死して後父の怨を報じ ぬ。」と呼り、客の頭は、「泉下に朋友の恩を謝しぬ。」と悦ぶ声して、共に皆煮爛れて失にけり。此口の中に含だりし三寸の剣、燕の国に留て太子丹が剣とな る。太子丹、荊軻・秦舞陽をして秦始皇を伐んとせし時、自差図の箱の中より飛出て、始皇帝を追奉りしが、薬の袋を被投懸ながら、口六尺の銅の柱の半ばを切 て、遂に三に折て失たりし匕首の剣是也。其雌雄二の剣は干将莫耶の剣と被云て、代々の天子の宝たりしが、陳代に至て俄に失にけり。或時天に一の悪星出て天 下の妖を示す事あり。張華・雷煥と云ける二人の臣、楼台に上て此星を見るに、旧獄門の辺より剣の光天に上て悪星と闘ふ気あり。張華怪しで光の指す所を掘せ て見るに、件の干将莫耶の剣土五尺が下に埋れてぞ残りける。張華・雷煥是を取て天子に献らん為に、自是を帯し、延平津と云沢の辺を通ける時、剣自抜て水の 中に入けるが、雌雄二の竜と成て遥の浪にぞ沈みける。淵辺加様の前蹤を思ければ、兵部卿親王の刀の鋒を喫切らせ給て、御口の中に被含たりけるを見て、左馬 頭に近付奉らじと、其御頚をば薮の傍に棄けるとなり。

そのような時に、父、干将の古い親友、甑山(?)の人が来て、眉間尺に向かって、「私はあなたの父上、干将殿とのお付き合いは大変長いのです。そこで親友の恩に報いるため、貴方と一緒になって、楚王を討ち取ることを計画しましょう。

もし貴方が父の仇を晴らそうと思うなら、今持っている剣の切っ先三寸を噛み切って、口の中に含んだまま死ぬことです。そして私が貴方の首を持って、楚王に献上すれば、楚王はきっと喜んで、必ず貴方の顔を見ようとします。

その時、口に含んだ剣の切っ先を、楚王に向かって吹付ければ、二人とも死ぬでしょう」と、話しました。眉間尺は大いに喜んで、すぐ雌剣の切っ先三寸を噛み切って、口の中に含んだまま、自分の頭を掻き切って、客人の前に置きました。客人は眉間尺の首を持って、

すぐ楚王に献上しました。楚王は大変喜び、首を獄門に架けましたが、三月経っても、其の頭は腐敗しませんでした。その上、目をカッと見開き、歯をむき出しにして、いつも歯ぎしりしているので、楚王は恐ろしくて近寄ることはしませんでした。

そこでこの首を鍋に入れ、七日七夜煮続けたのです。あまりにも良く煮たので、この頭もさすがに少しただれ、目も塞いだので、もう大丈夫だろうと、楚王は自ら鍋の蓋を開け見ようとした時、この頭は口に含んだ剣の切っ先を、楚王に向かって吹きかけたのです。

切っ先は誤ることなく、楚王の首の骨を斬り、首はすぐに鍋の中に落ちました。楚王の頭と、眉間尺の首は、煮えたぎる湯の中で、上になったり下になったりして、噛み付き合いをしていますが、ともすれば眉間尺の首が下になって、負けそうになるので、

客人は自分の首を掻き落して、鍋の中に投げ入れました。すると眉間尺の頭と一緒になって、楚王の頭を食い破り、眉間尺の頭は、「私は死んで後、父の恨みを晴らしたのだ」と叫び、客人の頭は、「あの世で親友の恩に報いることが出来た」と、喜ぶ声が聞こえ、

共に皆煮崩れて、亡くなったのです。この口に含んだ三寸の剣先は、燕国に受け継がれ、皇太子、丹の剣になりました。太子丹が荊軻と秦舞陽に命じて、秦の始皇帝を暗殺しようとした時、丹の指図で持って来ていた箱の中から飛び出し、始皇帝を追い回し、

薬の袋を投げつけられながらも、差し渡し六尺もある銅の柱を、半ばまで切った上、とうとう三つに折れ、行方不明になった匕首はこの剣です。また雌雄二振りの剣は、干将莫耶の剣と言われて、代々天子の宝物になりましたが、陳国の代になって、何故か突然紛失してしまいました。

またある時、天に不吉な星が一つ現れ、天下に何か良くない事が起こる前兆のように思えました。その時、天文に詳しい張華と雷煥と言う二人の家臣が、楼台に登ってこの星を見ると、旧獄門の周辺から、剣の光が天に向かって上り、その不吉な星と闘っているように思えました。

張華は怪しいと思い、光の出ている場所を掘らせてみれば、例の干将莫耶の剣が、地下五尺ばかりに埋まっていました。張華と雷煥はこれを掘り出し、天子に献上しようと思って、自らこの剣を身に付けて、延平津と言う、沢のあたりを通過しようとした時、

剣が勝手に抜けて水の中に入り、雌雄二匹の竜となって、はるか向こうの波間に沈みました。淵辺はこのような前例を考え、兵部卿護良親王が、刀の切っ先を噛み切って、御口の中に含まれていたのを見ると、左馬頭足利直義殿に、近付けてはならないと考え、その御首を藪の中に捨てたと言うことです。


○足利殿東国下向事付時行滅亡事
直義朝臣は鎌倉を落て被上洛けるが、其路次に於て、駿河国入江庄は、海道第一の難所也。相摸次郎が与力の者共、若道をや塞んずらんと、士卒皆是危思へり。 依之其所の地頭入江左衛門尉春倫が許へ使を被遣て、可憑由を被仰たりければ、春倫が一族共、関東再興の時到りぬと、料簡しける者共は、左馬頭を奉打、相摸 次郎殿に馳参らんと云けるを、春倫つく/゛\思案して、「天下の落居は、愚蒙の我等が可知処に非ず。只義の向ふ所を思ふに、入江庄と云は、本徳宗領にて有 しを、朝恩に下し賜り、此二三年が間、一家を顧る事日来に勝れり。是天恩の上に猶義を重ねたり。此時争か傾敗の弊に乗て、不義の振舞を致さん。」とて、春 倫則御迎に参じければ、直義朝臣不斜喜て、頓て彼等を召具し、矢矯の宿に陣を取て、是に暫汗馬の足を休め、京都へ早馬をぞ被立ける。依之諸卿議奏有て、急 足利宰相高氏卿を討手に可被下に定りけり。則勅使を以て、此由を被仰下ければ、相公勅使に対して被申けるは、「去ぬる元弘の乱の始、高氏御方に参ぜしに依 て、天下の士卒皆官軍に属して、勝事を一時に決候き。然ば今一統の御代、偏に高氏が武功と可云。抑征夷将軍の任は、代々源平の輩功に依て、其位に居する例 不可勝計。此一事殊に為朝為家、望み深き所也。次には乱を鎮め治を致す以謀、士卒有功時節に、賞を行にしくはなし。若註進を経て、軍勢の忠否を奏聞せば、 挙達道遠して、忠戦の輩勇を不可成。然れば暫東八箇国の官領を被許、直に軍勢の恩賞を執行ふ様に、勅裁を被成下、夜を日に継で罷下て、朝敵を退治仕るべき にて候。若此両条勅許を蒙ずんば、関東征罰の事、可被仰付他人候。」とぞ被申ける。此両条は天下治乱の端なれば、君も能々御思案あるべかりけるを、申請る 旨に任て、無左右勅許有けるこそ、始終如何とは覚へけれ。但征夷将軍の事は関東静謐の忠に可依。東八箇国の官領の事は先不可有子細とて、則綸旨を被成下け る。是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。尊氏卿東八箇国を官領の所望、輒く道行て、征夷 将軍の事は今度の忠節に可依と勅約有ければ、時日を不回関東へ被下向けり。吉良兵衛佐を先立て、我身は五日引さがりて進発し給けり。

☆ 足利殿が東国に下向されたことと、北条時行が滅亡したこと

さて足利直義朝臣は鎌倉を捨てて上洛中ですが、その途中駿河国入江庄は、東海道第一の難所です。相模次郎(北条時行)に加担している者どもが、ひょっとして街道を閉鎖しているのではと、直義軍全員がこれを憂いていました。

そこで土地の地頭、入江左衛門尉春倫に使いを送り、我が方に味方を頼むと申し入れましたが、春倫の一族の中でも、関東北条家再興の機会がやって来たと考える者は、ここで左馬頭を討ち取って、相模次郎の下に駆け付けようと言いました。

春倫はよくよく考えた上、「今や天下の落ち着く先は、我らのような凡人に分る筈が無い。ただ人間として、義を中心に考えてみると、入江庄と言うのは、北条家嫡子代々の所領であったのを、朝廷の恩を受けて賜ったものである。ここ二、三年の間は、一家の将来など考えること、

今だかつて無いほどである。このことが今まで朝廷から受けた恩に、なおも義を重ねてきたことになる。この時期に敗戦の疲弊に乗じて、直義を討つような、義を失う行動はせぬが良いだろう」と、春倫が即刻お迎えに行くと、直義朝臣の喜びも一通りでなく、

すぐに彼らを連れて、矢矧の宿に陣を構えて、しばらく疲れた馬を休憩させるとともに、京都に早馬を立てました。この早馬が都に到着すると、議奏職(朝廷にあって、重要政務の合議をする)にある諸卿らは、急遽、足利宰相高氏卿を討手として、関東へ向かわせることを決定しました。

即刻、勅使を立てて、この決定事項を伝えたところ、宰相高氏卿は勅使に対して、「去る元弘の乱(1331年)が勃発した当初、高氏が朝廷に味方すべく駆け付けたため、天下の諸武将全員が官軍に属し、勝敗を一気に決することが出来ました。

その結果として、現在の天下統一が実現出来たこと、高氏の武功が全てと言っても過言ではありません。そもそも征夷将軍の職は、代々源氏、平家の人間が、武功によってその位を得るのであり、その例は数えることが出来ないほどです。

このことはとりもなおさず、朝廷のためであり、また家門にとっても、望んでやまないものです。次に乱を鎮圧し、治世の安定をはかるには、将士らに何か功績があれば、恩賞の実施を即刻行うことです。もし軍勢などの忠義の程度について、一々文書による報告を経るならば、

人材の登用に遅れが生じ、真に忠義ある武者は、戦闘意欲が削がれることになります。と言うことで、暫定的に東国八ヶ国の支配権を頂くとともに、直ちに軍勢の論功行賞を実施されるよう、天皇に申し上げて頂き、許可を頂けるなら、夜を日に継いで東国に下り、

朝敵を征伐いたします。しかし、もしこの二件の許可が、頂けないようでしたら、関東朝敵征伐の件は、なにとぞ他の人に命令されるよう願います」と、申し上げたのでした。この二ヶ条の申し入れの内容は、天下の安定、動乱に関わることであり、

後醍醐天皇も充分時間をかけて、熟慮すべきであるにかかわらず、申請通り何事もなく許可されたことは、一体何がどうなったのかと思われます。ただし、征夷将軍任命の件については、関東の騒動を鎮圧してから、その忠義と軍功によって判断することにし、

もう一つの東八ヶ国の支配権については、問題ないと言うことで許可が降りました。またそれだけでなく、後醍醐天皇のお名前、尊治の中から一字を取って、高氏の高の字を尊の字に改めました。尊氏卿は、東八ヶ国の管領職の希望がようやくかなえられ、

また征夷将軍の件は、今回の戦闘の結果次第であると、天皇の確約を得た以上、時間を措かず関東に向かって出陣することにしました。吉良兵衛佐を先陣にして出発させ、自分は五日後に進発しました。


都を被立ける日は其勢 僅に五百余騎有しか共、近江・美濃・尾張・三河・遠江の勢馳加て、駿河国に著給ける時は三万余騎に成にけり。左馬頭直義、尊氏卿の勢を合て五万余騎、矢矯 の宿より取て返して又鎌倉へ発向す。相摸次郎時行是を聞て、「源氏は若干の大勢と聞ゆれば、待軍して敵に気を呑れては不叶。先ずる時は人を制するに利 有。」とて、我身は鎌倉に在ながら、名越式部大輔を大将として、東海・東山両道を押て責上る。其勢三万余騎、八月三日鎌倉を立んとしける夜、俄に大風吹 て、家々を吹破ける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃入り、各身を縮て居たりけるに、大仏殿の棟梁、微塵に折れて倒れける間、其内にあつまり居たる軍兵 共五百余人、一人も不残圧にうてゝ死にけり。戦場に趣く門出にかゝる天災に逢ふ。此軍はか/゛\しからじと、さゝやきけれ共、さて有べき事ならねば、重て 日を取り、名越式部大輔鎌倉を立て、夜を日に継で路を急ける間、八月七日前陣已に遠江佐夜の中山を越けり。足利相公此由を聞給て、「六韜の十四変に、敵経 長途来急可撃と云へり。是太公武王に教る所の兵法也。」とて、同八日の卯刻に平家の陣へ押寄て、終日闘くらされけり。平家も此を前途と心を一にして相当る 事三十余箇度、入替々々戦ひけるが、野心の兵後に在て、跡より引けるに力を失て、橋本の陣を引退き、佐夜の中山にて支へたり。源氏の真前には、仁木・細河 の人々、命を義に軽じて進みたり。平家の後陣には、諏方の祝部身を恩に報じて、防戦ひけり。両陣牙に勇気を励して、終日相戦けるが、平家此をも被破て、箱 根の水飲の峠へ引退く。此山は海道第一の難所なれば、源氏無左右懸り得じと思ける処に、赤松筑前守貞範、さしも嶮き山路を、短兵直に進んで、敵の中へ懸入 て、前後に当り、左右に激しける勇力に被払て、平家又此山をも支へず、大崩まで引退く。清久山城守返し合せて、一足も不引闘けるが、源氏の兵に被組て、腹 切る間もや無りけん、其身は忽に被虜、郎従は皆被討にけり。

宰相足利尊氏が都を出発した日には、僅か五百余騎の軍勢でしたが、近江、美濃、尾張、三河、遠江の軍勢が駆けつけ、加わったので、駿河国に到着する頃には、三万余騎にまで膨らんでいました。左馬頭足利直義軍は、尊氏卿の軍勢と合わせて五万余騎になり、

矢矧の宿から引き返し、再び鎌倉に向かって進発しました。相模次郎北条時行はこの話を聞いて、「足利の源氏軍は、それなりの大軍だと言われているが、敵を待ち受けていて、相手に精神的に圧倒されてはいけない。先手を取ることが、敵を制することになる」と話し、

自分は鎌倉に滞在しながら、名越式部大輔を大将にして、東海、東山の両道を支配下においた上、攻め上りました。その軍勢三万余騎が、建武二年(1335年)八月三日、鎌倉を立とうとした時、突然暴風が吹き荒れ、家々を吹き倒す中、暴風から逃れようと、

大仏殿の中に逃げ込みました。中で各人は身を縮めていましたが、大仏殿の棟木や梁が木っ端微塵に折れ、倒壊してしまい、中に集まっていた軍兵ら五百余人は、一人残らず圧死したのです。戦場に向かう門出に、このような天災に見舞われてしまい、

この戦争は前途多難だと、皆はひそひそと話していましたが、かと言って中止する訳にもいかず、改めて出発の日を決め、名越式部大輔は鎌倉を進発しました。夜を日に継いで、行軍を急いだ結果、八月七日には先頭の軍勢は遠江、小夜の中山を通過しました。

足利宰相尊氏はこの情報を聞くと、「中国の代表的な兵法書、六韜に書かれている十四変の中に、敵が長距離を遠征して来た時は、速やかにこれを攻撃すべきだとある。これは太公武王に教わった兵法である」と言って、同じく八月八日の卯刻(午前六時頃)に平家北条軍に押し寄せ、

終日戦闘を続けました。平家軍もここが死処と考え、全軍結束して突撃すること、三十余回に上り、入れ替わり立ち替わり戦いましたが、自軍の後方に何か企んでいる一軍があるため、後方が気になって戦力が落ちだし、やむなく橋本(浜名湖付近)の陣を退却し、

小夜の中山で敵軍を食い止めました。源氏足利軍の真ん前は、仁木、細川の軍勢が義を一番と考え、命を賭けて突き進んでいます。また平家北条軍のしんがり軍は、諏訪の祝部が引き受け、今までの恩顧に答えようと、防戦に努めました。源平両軍は勇気を、

これでもかと奮い立たせ、終日闘い続ける内、平家軍は敗色濃くなり、箱根の水呑峠に退却しました。この箱根山は東海道一の難所であり、源氏軍もむやみに攻撃に移ることは出来ないと考えていたところ、赤松筑前守貞範がこの険しい山道をものともせず、

無謀にも突き進むと、敵の中に駆け込み、前後左右の敵軍を片っ端に討ち払うと、平家はまたもやこの山を守ることが出来ず、大崩(焼津付近)まで引き下がりました。その退却戦の中、清久山城守は退却軍から引き返し、一歩も退かずに闘っていましたが、

源氏の兵士に組み付かれ、腹を切る間も無かったのか、情けなくも生け捕りになってしまい、その家来らは全員、討ち取られてしまいました。


路次数箇度の合戦に打負て、平家やたけに思へ共不叶。相摸河を引越て、水を阻て支へたり。時節 秋の急雨一通りして、河水岸を浸しければ、源氏よも渡しては懸らじと、平家少し由断して、手負を扶け馬を休めて、敗軍の士を集めんとしける処に、夜に入 て、高越後守二千余騎にて上の瀬を渡し、赤松筑前守貞範は中の瀬を渡し、佐々木佐渡判官入道々誉と、長井治部少輔は、下の瀬を渡して、平家の陣の後ろへ回 り、東西に分れて、同時に時をどつと作る。平家の兵、前後の敵に被囲て、叶はじとや思けん、一戦にも不及、皆鎌倉を指て引けるが、又腰越にて返し合せて葦 名判官も被討にけり。始遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は 討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏方三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めけ る。其死骸を見るに、皆面の皮を剥で何れをそれとも見分ざれば、相摸次郎時行も、定て此内にぞ在らんと、聞人哀れを催しけり。三浦介入道一人は、如何して 遁れたりけん、尾張国へ落て、舟より挙りける所を、熱田の大宮司是を生捕て京都へ上せければ、則六条河原にて首を被刎けり。是のみならず、平家再興の計 略、時や未だ至らざりけん、又天命にや違ひけん。名越太郎時兼が、北陸道を打順へて、三万余騎にて京都へ責上けるも、越前と加賀との堺、大聖寺と云所に て、敷地・上木・山岸・瓜生・深町の者共が僅の勢に打負て、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報ぜり。時行は已に関東にして滅び、時兼は又北国にて被討 し後は、末々の平氏共、少々身を隠し貌を替て、此の山の奥、彼の浦の辺にありといへ共、今は平家の立直る事難有とや思けん、其昔を忍びし人も皆怨敵の心を 改て、足利相公に属し奉らずと云者無りけり。さてこそ、尊氏卿の威勢自然に重く成て、武運忽に開けゝれば、天下又武家の世とは成にけり。

退却途中での、数回の合戦にも平家は負け続け、いくら勇気を出して闘おうとしても、どうにもなりません。相模川を渡ったところで、川を前にして防御を計りました。この時期、秋のにわか雨が通り過ぎて、増水のため岸を水が洗い、これではまさか源氏軍も渡河はしないだろうと、

平家も少し油断し、負傷した兵士の治療や、馬を休息させ、敗軍の兵士らの集結を図っていました。しかし夜に入って、高越後守師泰が二千余騎で上流の浅瀬を渡り、赤松筑前守貞範は中流の瀬を渡河し、また佐々木佐渡判官入道道誉と長井治部少輔は下流を渡河して、

平家軍の後方に回り込むと、東西に分かれて、同時に閧の声をドッと挙げました。平家の兵士らは、前後から敵軍に包囲され、とても叶わないと思ったのか、一戦もせず全員が鎌倉に向かって、退却しました。また腰越で葦名判官は、退却中の軍より引き返し戦いましたが、

討たれてしまいました。遠江国橋本を最初にして、その後小夜の中山、江尻、高橋、箱根山、相模川、片瀬、腰越、十間坂などこれらの十七回に及ぶ戦闘に、平家北条軍は二万余騎の兵士らが、ある者は討たれ、ある者は傷を受け、今は僅か三百余騎になってしまいました。

諏訪三河守頼重をはじめとして、主だった大名四十三人が、大御堂の中に走り込み全員が自害して、その名前と共に北条時行滅亡に殉じたのでした。その死骸を見れば、全員が顔の皮を剥いで、誰が誰だか見分けが付きませんでしたが、相模次郎時行も、

きっとこの中に居るに違いないと、話を聞いた人は悲しんだのです。その中で、三浦介入道一人が、一体どうしてその場から逃れたのか、尾張国に落ちて行き、舟から上陸しようとしたところを、熱田大宮司が彼を生け捕りにし、京都に上らせましたが、

すぐ六条河原で首を刎ねられたのです。このようにして、平家再興の計画挫折は、まだその時期になっていないからか、それともこれが天命なのでしょうか。また名越太郎時兼(北条氏名越流の人物)が北陸道の諸軍勢を従え、三万余騎で京都に向かって、

攻め上ろうとしましたが、越前と加賀の境、大聖寺と言うところで、敷地、上木、山岸、瓜生、深町らの、僅かな軍勢に負けてしまい、その骨は白刃に砕かれ、朝恩はあの世で報うことになりました。北条時行がすでに関東で滅亡し、時兼もまた北国にて討たれてしまってからは、

北条家の末端につながる平氏らが、それとなく身を隠したり、容貌を変えたりして、ここの山の奥や、あちらの海辺に潜んでいるとは言っても、今となっては、平家の再興はとても出来るとは思えません。そのため昔のことは昔のこととして人は皆、怨敵の気持ちを捨て去り、

足利宰相尊氏に従わない者はおりません。そのため尊氏卿の存在や権力は、自然と重く大きくなり、武力による状況の変化が、当然だと思えるようになり、天下は再び武家の世になったのです。      (終り)

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