14 太平記 巻第十四 (その二)


○箱根竹下合戦事
去程に同十二月十一日両陣の手分有て、左馬頭直義箱根路を支へ、将軍は竹下へ向べしと被定にけり。此間度々の合戦に打負たる兵共、未気を直さで不勇、昨日今日馳集たる勢は、大将を待て猶予しける間、敵已に伊豆の府を打立て、今夜野七里山七里を超ると聞しかば、足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・佐々木佐渡判官・赤松雅楽助貞則、「加様に目くらべして、鎌倉に集り居ては叶まじ、人の事はよし兎も角もあれ、いざや先竹下へ馳向て、後陣の勢の著ぬ先に、敵寄せば一合戦して討死せん。」とて、十一日まだ宵に竹下へ馳向ふ。其勢僅なりしかば、物冷しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共なれば、族に多少不可依とて、竹下へ打襄て敵の陣を遥に直下たれば、西は伊豆の府、東は野七里山七里に焼双べたる篝火の数幾千万とも不知けり。只晴天の星の影、滄海に移る如く也。さらば御方にも篝火を焼せんとて、雪の下草打払ひ、処々刈集めて幽に火を吹著たれば、夏山の茂みが下に夜を明す、照射の影に不異。されども武運強ければにや、敵今夜は寄来らず。夜已に明なんとしける時、将軍鎌倉を打立せ給へば、仁木・細河・高・上杉、是等を宗との兵として都合其勢十八万騎竹下へ著給へば、左馬頭直義六万余騎にて箱根峠へ著給ふ。去程に、明れば十二日辰刻に、京勢共伊豆の府にて手分して、竹下へは中務卿親王に卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助・細屋右馬助・堤卿律師・大友左近将監・佐々木塩冶判官高貞を相副て、已上其勢七千余騎、搦手にて被向けり。箱根路へは又新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉・宇都宮・大友千代松丸・菊池肥後守武重・松浦党を始として、国々の大名三十余人、都合其勢七万余騎、大手にてぞ被向ける。

☆ 箱根、竹之下合戦のこと

さて同年建武二年(1335年)十二月十一日、直義と尊氏との軍勢配置が決められ、左馬頭直義は箱根路の防衛に当たり、将軍尊氏は竹之下に向かうことになりました。しかし今まで幾たびもの合戦に負け続け、兵士の士気は上がりません。

昨日今日と駆け集まってきた軍勢が、大将の来られるのを待っている間に、敵はすでに伊豆の国府を出発し、今夜は長途行軍を続け野営をしてでも、攻め込んでくると言われていました。しかし足利尾張右馬頭高経、その弟式部大夫、三浦因幡守、土岐弾正少弼頼遠、その弟道謙、

佐々木佐渡判官道誉、赤松雅楽助貞則らは、「このようにお互い顔をつき合せて、鎌倉に集まっていても仕方ない。他人のことはさておき、何が何でもとりあえず竹之下に駆け向かい、後続の軍勢が到着する前に敵に攻め寄せ、一合戦して討ち死にを遂げよう」と言って、

十一日まだ宵の内に竹之下に駆け向かって行きました。その軍勢は僅かに過ぎず、頼りなく心細く見えました。とは言っても忠義に燃えた勇者らですから、いたずらに攻め込むことはせず、竹之下に着いてから、敵の陣営を遥か真下に見下ろしてみると、

西は伊豆の国府から、東は野七里、山七里にわたって並び燃え上がっている篝火の数たるや、幾千万なのか分かりません。ただ晴天の星の輝きが、青黒い海原に流れ込んでるように見えます。ではこちらも篝火を焚こうと考え、雪の積もった下草を払い除け、

そこらじゅうから刈り集め弱々しいながら火をつけ、まるで夏山で茂みの下で暑さを凌ぐようにして、夜を明かしました。そこは夏山の日陰と変わりありません。しかし軍の運が付いているのか、その夜敵は攻撃してきませんでした。その夜もすでに明けようとしていた時、

尊氏将軍は鎌倉を出発され、仁木、細川、高、上杉らを主力の軍勢として、総勢十八万騎が竹之下に到着し、また左馬頭直義の六万余騎の軍勢も箱根峠に着きました。やがて夜も明け、十二日辰刻(午前八時頃)に官軍、新田の軍勢らは伊豆の国府で軍勢を分け、

竹之下方面には中務卿尊良親王の率いる軍勢に、公卿、殿上人ら十六人、副将軍として脇屋治部大輔義助、細屋右馬助、堤卿律師、大友左近将監、佐々木塩冶判官高貞らを従わせ、総勢七千余騎を搦手軍として進発させました。

そして箱根路方面には、新田義貞の主だった一族二十余人、また千葉、宇都宮、大友千代松丸、菊池肥後守武重、松浦党らを始めに諸国の大名三十余人、総勢七万余騎が大手軍として向かいました。


同日午刻に軍始まりしかば、大手搦手敵御方、互に時を作りつゝ、山川を傾け天地を動し、叫喚で責戦ふ。去程に、菊池肥後守武重、箱根軍の先懸して、敵三千余騎を遥の峯へ巻上げ、坂中に楯を突双て、一息継て怺へたり。是を見て、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾・熱田の大宮司、一勢々々陣を取て曳声を出して責上々々、叫喚で戦たり。中にも道場坊助注記祐覚は、児十人同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づゝ甲の真額に挿たりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相摸の荒夷共、「児とも云はず只射よ。」とて、散々に指攻て射ける間、面に進みたる児八人矢庭に倒れて小篠の上にぞ臥たりける。党の者共是を見て、頚を取らんと抜連て打て下けるを、道場坊が同宿共児を討せて何か可怺。三十余人太刀・長刀の鋒を双べて手負の上を飛超々々、「坂本様の袈裟切に成仏せよ。」と云侭に、追攻々々切て廻りける間、武士散々に被切立て、北なる峯へ颯と引と、且し息をぞ継だりける。此隙に祐覚が同宿共、面々の手負を肩に引懸て、麓の陣へぞ下りける。義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。一様に笠験を付て、進にも同く進み、又引時も共に引ける間、世の人此を十六騎が党とぞ申ける。彼等が射ける矢には、楯も物具もたまらざりければ、向ふ方の敵を射すかさずと云事なし。執事舟田入道は、馳廻て士卒を諌め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を被実検ける間、名を重じ命を軽ずる千葉・宇都宮・菊池・松浦の者共、勇進で戦ける間、鎌倉勢馬の足を立兼て、引退者数を不知けり。

十二月十二日、午刻(午後零時頃)に戦闘が始まり、大手軍と搦手軍そして敵も味方もお互い閧の声を挙げながら、山や川もその姿を変えるかと思われるほど天地を鳴動させ、お互いわめき合いながら攻め込みました。やがて菊池肥後守武重が箱根軍の先鋒として突撃を敢行し、

敵の三千余騎を遥か山の上に追い上げ、途中の坂に盾を立て並べ、一息入れると共に防御にかかりました。この様子を見て新田軍の千葉、宇都宮、河越、高坂、愛曾、熱田の大宮司らが、各軍勢別に陣を構え閧の声を挙げ、攻めに攻めを続け、わめき散らしながら戦いました。

その中でも比叡山延暦寺の道場坊助注記祐覚は、稚児十人と共同生活している三十余人に、紅色裾濃の鎧を全員に着せ、稚児には紅梅の造花一枝を兜のまん前に挿して、盾で身を隠すこともなく、先陣として突き進んで行きました。

これを見た鎌倉方の武蔵、相模の荒武者どもは、「稚児であっても容赦せず、ただただ射てしまえ」と、激しく矢を射込んできました。このため正面を進んでいた稚児らは、一瞬に八人が次々と射られ、笹竹の上に倒れ込みました。鎌倉勢はこれを見て、首を挙げようと太刀を抜きはらい、

駆け下ってきました。道場坊の同門の僧兵らは稚児を討たれて我慢がならず、三十余人が太刀、長刀の刃先を揃えて、負傷者の上を飛び越えまた飛び越え、「坂本仕込みの袈裟切りを見舞ってやろう、成仏するがよい」と言いながら、追いかけては斬り、斬っては追いかけ廻したので、

さすが武士らも散々に斬られ、たまらず北の峯にサッと退却し、しばし体を休めました。この間に祐覚の同門の僧兵らが、それぞれ負傷者を肩にかけ、麓の陣営まで下っていきました。新田義貞に従っている武将の中に、杉原下総守、高田薩摩守義遠、葦堀七郎、

藤田六郎左衛門、川波新左衛門、藤田三郎左衛門、同じく四郎左衛門、粟生左衛門、篠塚伊賀守、難波備前守、河越三河守、長浜六郎左衛門、高山遠江守、園田四郎左衛門、青木五郎左衛門、同じく七郎左衛門そして山上六郎左衛門と言う、

党を組み弓の技術に優れた射手、十六人(十七人?)がいました。皆同じ笠印(敵味方の目印とする印)を付けて、進むときも退くときも同じ行動を取ったので、世間の人はこの集団を、「十六騎が党」と、名付けていました。彼らの射る矢は盾でも甲冑でも、射抜くほどの力を持っているので、

彼らに向かってくる敵を、射とめることの出来ないことなどありませんでした。新田勢の執事、舟田入道は陣内を駆け回って、諸将士らの戦闘意欲をかりたて、また大将軍の義貞は一段高くなった場所で、諸将の行動を注視しています。

だから名を重視して、その分命を軽んずる風のある、千葉、宇都宮、菊池、松浦の武将らが猛撃を加えてくるので、鎌倉勢は陣営を守ることが出来ず、退却する者、その数も分らないほどです。


懸る処に竹下へ被向たる中書王の御勢・諸庭の侍・北面の輩五百余騎、憖武士に先を不被懸とや思けん。錦の御旌を先に進め竹下へ押寄て、敵未一矢も不射先に、「一天君に向奉て曳弓放矢者不蒙天罰哉。命惜くば脱甲降人に参れ。」と声々にぞ呼りける。是を見て尾張右馬頭・舎弟式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則、自宵一陣に有けるが、「敵の馬の立様、旌の紋、京家の人と覚るぞ、矢だうなに遠矢な射そ。只抜連れて懸れ。」とて三百余騎双轡、「弓馬の家に生れたる者は名をこそ惜め、命をば惜まぬ者を。云処虚事か実事か、戦て手並の程を見給へ。」とて一同に時を咄と挙げ、喚てこそ懸たりけれ。官軍は敵をかさに受て麓に引へたる勢なれば、何かは一怺も可怺、一戦にも不及して、捨鞭を打てぞ引たりける。是を見て土岐・佐々木一陣に進て、「言ばにも似ぬ人々哉、蓬し返せ。」と恥しめて、追立々々責ける間、後れて引兵五百余騎、或は生捕れ或被討、残少に成にけり。手合せの合戦をしちがへて官軍漂て見へければ、仁木・細河・高・上杉の人々勇進で、中書王の御陣へ会尺もなく打て懸る。されば引漂たる京勢にて、可叶様無りけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「云甲斐なき者共が憖に一陣に進て御方の力を失こそ遺恨なれ。こゝを散さでは叶まじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旌の足を龍装に進めて、横合に閑々と懸られける。勝誇たる敵なれば何かは少しも疼むべき。十字に合て八字に破る。大中黒と二つ引両と二の旌を入替々々、東西に靡き南北に分れ、万卒に面を進め一挙に死をぞ争ひける。誠に両方名を被知たる兵共なれば誰かは独も可遁。互に討つ討れつ、馬の蹄を浸す血は混々として洪河の流るゝが如く也。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如く也。無慙と云も疎也。

そのような状況の中、竹之下に向かっていた中書王尊良親王直属の軍勢や、諸官庁の武士また北面の武士(院直属の武士)など五百余騎が、よせば良いのに武士より先に駆け込もうと考えたのでしょうか。錦の御旗を先頭にして竹之下に押し寄せ、

敵が未だ一矢も射てこない内に、「天皇陛下に向かって弓を引き、矢を放つ賊どもは天罰を蒙らずにはすまない。命が惜しければ兜を脱いで降伏して来い」と、声々に呼ばわりました。これを見て夕方より最前線にいた、尾張右馬頭、その舎弟の式部大夫、

土岐弾正少弼頼遠、その弟道謙、三浦因幡守、佐々木佐渡判官入道、赤松筑前守貞則らは、「敵軍の馬の配置や進退の具合、旗の紋所から見て、京の公卿連中と思える。無駄な遠矢など射るではない。ここは太刀を抜き払って一斉に突撃だ」と言って、

三百余騎が馬を並べ、「武門に生まれたからには、我が名のみに命を賭け、名を守るためには命など惜しいものではない。これが本当かどうか、ここで一戦して、皆に本当のところを知らせてやろう」と、全員が閧の声をドッと上げ、喚きながら攻撃しました。

官軍は敵を頭上に置いて、麓に展開していますから、とてもこの攻撃に耐えることが出来ず、一戦に及ぶ間もなく馬の尻に鞭を打ちながら退却しました。この様子に土岐、佐々木らの軍勢は先頭に進み出て、「口ほどにも無い奴ばかりだな、みっともないぞ、

引き返せや返せ」と、辱めながら追撃を加えましたから、しんがりを逃げていた兵士ら五百余騎がある者は生け捕られ、またある者は討たれてしまい、残る兵は僅かになってしまいました。初戦の失敗に官軍がうろたえているようなので、仁木、細川、高、上杉らの軍勢は勝ちに乗じて、

中書王尊良親王の御陣に、挨拶もなしに攻撃を仕掛けました。退却して来たばかりで、まだ軍の姿になっていない官軍であれば、とてもこの攻撃に耐えられる訳が無いのですが、中書王軍の副将軍である脇屋右衛門佐は、「今更言っても仕方ないが、

公家の軍勢どもが何も考えず先鋒に進み出て、味方の軍勢の多くを失ってしまったことは、なんとも悔やまれ恨めしいことだ。この状況を何としても打開しなければならない」と、七千余騎の軍勢を一つにまとめ、馬の頭を斜めに並べる陣形を取り、

旗の末端部分を龍装(意味不明)に進め、敵軍の横腹に悠然とかかっていきました。しかし鎌倉軍も勝ち誇った軍勢なので、特に崩れるようなこともありません。横合いからぶつかり左右に分断し、大中黒の新田の紋と、二つ引き両の足利の紋の付いた旗が、

東西に流れまた南北に分かれ、多数の兵士らが突撃を繰り返し、ここを死処とひるむことなく戦いました。両軍とも名前の知られた勇者ばかりですから、誰一人として逃亡する者などいません。お互い討ったり討たれたりし、馬のひずめを濡らす血は尽きることなく、

淮河の流れる有様もかくやと思われます。死骸は地上に積み上がり、連なり続くさまは、屠殺場もこのようなものかと思うほどです。余りの悲惨な光景にあきれ返るばかりです。


爰に脇屋右衛門佐子息式部大夫とて、今年十三に成けるが、敵御方引分れける時、如何して紛れたりけん、郎等三騎相共に敵の中にぞ残りける。此人幼稚なれども心早き人にて、笠符引切て投捨、髪を乱し顔に振懸て、敵に不被見知とさはがぬ体にてぞ御坐ける。父義助是をば不知、「義治が見へぬは誅れぬるか、又生捕れぬるか、二の間をば離れじ。彼死生を見ずば、片時の命生ても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨る事只是子孫の後栄を思ふ故也。されば未幼なき身なれども、片時の別を悲んで此戦場にも伴ひつる也。其死生を知らでは、如何さて有べき。」とて、鎧の袖に泪をかけ、大勢の中へ懸入り給けるが、「誠に父の子を思ふ志、今に初ぬ事なれども、哀なる御事哉。いざや御伴仕らん。」とて義助の兵共轡を双べ三百余騎、主を討せじと懸入ける。義助の二度の懸に、指もの大勢戦疲れて、一度にばつとぞ引たりける。是に理を得て、義助尚追北進まれける処に、式部大夫義治、我が父と見成して馬を引返し、主従四騎にて脇屋殿に馳加はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両の笠符著たる兵二騎、御方が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給候へ。御供申て討死し候。」とて、連て是も返しけり。式部大夫義治は父の義助の勢の中へつと懸入り様に、若党にきつと目くはせゝられければ義治の郎従よせ合せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落し、頚を取てぞ指挙たる。義助是を見給て死たる人の蘇生したる様に悦て、今一涯の勇みを成し、「且く人馬を休めよ。」とて、又元の陣へは引返されける。一陣余に闘ひくたびれしかば、荒手を入替て戦しめんとしける処に、大友左近将監・佐々木塩冶判官が、千余騎にて後に引へたるが、如何思けん一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳加り、却て官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討れて、又も戦はず。右衛門佐の兵は両度の懸合に人馬疲れて無勢也。是ぞ荒手にて一軍もしつべき者と憑れつる大友・塩冶は、忽に翻て、親王に向奉て弓を引、右衛門佐に懸合せて戦しかば、官軍争か堪ふべき。「敵の後ろを遮らぬ前に、大手の勢と成合ん。」とて、佐野原へ引退く。仁木・細川・今川・荒川・高・上杉・武蔵・相摸の兵共、三万余騎にて追懸たり。是にて中書王の股肱の臣下と憑み思食たりける二条中将為冬討れ給ければ、右衛門佐の兵共返合々々、三百騎所々にて討死す。是をも顧ず引立たる官軍共、我先にと落行ける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三百余騎は、海道を西へ落て行く。

この状況の中、脇屋右衛門佐義助の子息で、式部大夫義治と言う今年十三歳になる少年が、乱戦の中、敵と味方に分かれたとき、どうしたのか敵軍に紛れ込み、家来の三騎と一緒に敵軍の中に取り残されました。この若者は機転の利く人ですから、

すぐに笠印を引きちぎって投げ捨て、髪をザンバラに乱して顔を隠すように垂らし、敵に気づかれないようにしていました。父の脇屋義助はこの事態を知らず、「義治が見えないが討ち取られたのか、それとも生け捕りになってしまったのか、二人が離れ離れになってしまってはいけない。

彼が無事なのかどうか分らないでは、片時の命を永らえても仕方ない。勇者が戦場において戦死を恐れずに闘うのは、ただ子孫の繁栄を願うからだ。だから彼はまだまだ幼いとは思っていたが、一時の別れを悲しんで、ここに連れて来たのだ。

その彼が生きているのか、どうかも知らないでは、一体どうするのだ」と言って、鎧の袖を涙で濡らしながら、敵の大軍に駈け入ると、「本当に父親が子供を思う気持ちは、今に始まったことではないが悲しいことではないか。ではお供しましょう」と言って、

義助の兵士ら三百余騎が馬を揃え、主人を討たせるものかと駆け込みました。義助の二度にわたる駆け込みに、あれほどの敵の大軍も疲れていたため、一気に軍を退きました。この有利な状況に脇屋義助がなお追撃にかかった時、式部大夫義治が自分の父ではないかと馬を引き返し、

主従共々四騎にて脇屋義助の軍勢に加わろうと、馬を進めていたところ、誰だか分りませんが片引両の笠印を付けた兵二騎が、味方が引き返そうとしていると思い、「何ともけなげな心掛けじゃないか、お供して討ち死にしよう」と言って、一緒になり引き返しました。

式部大夫義治は父の義助の軍勢にサッと駈け込むやいな、若武者にキッと目配せすれば、義治の家来もそれに応え、続いて引き返してきた二騎の兵士を斬って落とし、首を掻き切ってさし上げました。義助はこの様子を見て、死んだ人が蘇ったかのように喜ぶと共に、

再び勇気凛々と意気も盛んになり、「ひとまず人馬とも休憩するように」と言って、元の陣営に引き返しました。先鋒の軍勢は激しい戦いに疲れているので、新手を投入して戦闘を続けようと思っていたところ、後方で千余騎にて控えていた、

大友左近将監貞載、佐々木塩冶判官高貞の二人が何を思ったのか、一矢放つとそのまま旗を巻いて足利軍に駆け加わり、反対に官軍の義貞軍に向かって、激しく射込んできました。中書王尊良親王の軍勢は、最初の合戦にそこそこの人数が討たれ、

戦闘に加わることが出来ませんし、また脇屋右衛門佐義助の軍勢は、二度の駆け込みに人馬とも疲労が激しく、とても戦闘の出来る状態ではありません。この時にこそ新手として一合戦を期待もし、頼りにしていた大友左近将監、塩冶高貞はにわかに叛旗を翻し、

親王に向かって弓を引き、右衛門佐義助を攻撃してきましたが、官軍はとてもこの攻撃に耐えることが出来ません。「敵に背後を遮断される前に、大手の軍勢と合流しよう」と、佐野原に向かって退却を始めました。そこで仁木、細川、今川、荒川、高、

上杉、武蔵、相模の軍勢が三万余騎で追撃にかかりました。この退却戦において、中書王が最も信頼していた忠義な家来、二条中将為冬が討たれてしまい、救おうとした右衛門佐の軍勢も引き返しては闘ったので、三百騎があちこちで討ち死にしました。

この状況を気遣うことも出来ずに退却を続ける官軍らは、我先に落ち延びて佐野原に到着はしたものの、軍の集結を計ることが出来ず、また伊豆の国府も守りきれずに、搦手を受け持った寄せ手の三百余騎は、東海道を西へ西へと落ちて行きました。


○官軍引退箱根事
追手箱根路の合戦は官軍戦ふ毎に利を得しかば、僅に引へて支たる足利左馬頭を追落て、鎌倉へ入らんずる事掌の内に有と、寄手皆勇に々で明るを遅しと待ける処に、搦手より軍破れて、寄手皆追散されぬと聞へければ、諸国の催し勢、路次の軍に降人に出たりつる坂東勢、幕を捨旗を側めて、我先にと落行ける間、さしも広き箱根山に、すきまも無く充満したりつる陣に、人あり共見へず成にけり。執事舟田入道は、一の責口に敵を攻て居たりけるが、敵陣に、「竹下の合戦は将軍打勝せ給て、敵を皆追散して候也。」と、早馬の参て罵る声を聞て、誠とやらん不審なく思ければ、只一騎御方の陣々を打廻て見るに、幕計残て、人のある陣は無りけり。さては竹下の合戦に、御方早打負てけり。かくては叶まじと思て、急大将の陣へ参て、事の子細を申ければ、義貞且く思案し給ひけるが、「何様陣を少し引退て、落行勢を留てこそ合戦をもせめ。」とて、舟田入道に打つれて、箱根山を引て下給ふ。其勢僅に百騎には過ざりけり。且く馬を扣へて後を見給へば、例の十六騎の党馳参たり。又北なる山に添て、三つ葉柏の旗の見へたるは、「敵か御方歟。」と問給へば、熱田の大宮司百騎計にて待奉る。其勢を合て野七里に打出給ひたれば、鷹の羽の旗一流指し揚て、菊池肥後守武重、三百余騎にて馳参る。爰に散所法師一人西の方より来りけるが、舟田が馬の前に畏て、「是はいづくへとて御通り候やらん。昨日の暮程に脇屋殿、竹下の合戦に討負て落させ給候し後、将軍の御勢八十万騎、伊豆の府に居余て、木の下岩の陰、人ならずと云所候はず。今此御勢計にて御通り候はん事、努々叶まじき事にて候。」とぞ申ける。是を聞て栗生と篠塚と打双べて候けるが、鐙蹈張り、つとのびあがり、御方の勢を打見て、「哀れ兵共や。一騎当千の武者とは、此人々をぞ申べき。敵八十万騎に、御方五百余騎、吉程の合ひ手也。いで/\懸破て道開て参せん。継けや人々。」と勇めて、数万騎打集たる敵の中へ懸て入。府中にて一条次郎三千余騎にて戦ひけるが、新田左兵衛督を見てよき敵と思ひけるにや、馳双で組んとしけるを、篠塚中に隔て、打ける太刀を弓手の袖に受留、大の武者をかい掴で弓杖二丈計ぞ投たりける。一条も大力の早業成ければ、抛られたれ共倒れず。漂ふ足を践直して、猶義貞に走懸らんとしけるを、篠塚馬より飛でおり両膝合て倒に蹴倒す。倒るゝと均く、一条を起しも立ず、推へて頚かき切てぞ指揚ける。一条が郎等共、目の前にて主を討せて心うき事に思ければ、篠塚を討んと、馬より飛下々々打て懸れば、篠塚かい違ては蹴倒、々々しては首を取、足をもためず一所にて九人迄こそ討たりけれ。

☆ 官軍が箱根を退却したこと

大手軍が受け持った箱根路の合戦は、戦うたびに官軍が有利に進め、少しばかり退却して防衛に努めていた、足利左馬頭直義を追い落として、鎌倉に入るのはもう目の前だと思い、寄せ手の軍勢は皆が皆、勇み切って夜の明けるのを、今や遅しと待っていたところ、

搦手軍より合戦に負けを喫し、寄せ手は全員追い散らされてしまったと、連絡が入りました。そのため諸国よりかき集めた軍勢や、途中の合戦において降参を申し出ていた坂東の軍勢などは、陣幕を捨て旗も巻き我先に落ちて行きました。

あれほど広い箱根山に、すき間もなく充満していた幕舎に、人の居るような気配も無くなってしまいました。執事の舟田入道は、ある戦場で敵を攻撃していましたが、敵陣の方から、「竹之下の合戦は尊氏将軍が勝利を収め、敵を皆追い散らした」と早馬が来て、

騒いでいる声を聞き、ことの真実を確かめようと、ただ一騎で味方の陣々をまわって見ると、陣幕だけは残っているものの、人の居る陣はありません。さては竹之下の合戦で味方は早くも負けたようだ。こうしていては駄目だと急いで大将の陣に行き、事の次第を詳しく説明すると、

義貞はしばらく考えて、「ここは陣を少し下げて、落ちてきた軍勢を集めて合戦をしよう」と、舟田入道と一緒になって箱根山を下りました。その時の軍勢は僅かに百騎ばかりです。しばらく馬を止めて後ろを見てみると、例の十六騎の党が駆けつけてきました。

また北の方角にある、山に沿って三つ葉柏の旗が見え、「あれは敵なのか、味方なのか」と問われましたが、それは熱田大宮司が百騎ばかりで待っていたのでした。その軍勢と一緒になって野七里に出ると、鷹の羽の旗、一旒を差し揚げた菊池肥後守武重が、

三百余騎を率いて駆け付けて来ました。そこへ、いかがわしい法師らしきものが、西のほうからやってきて、舟田入道の馬前に畏まり、「こちらの方々は何処へ参られるのでしょうか。昨日の暮れ頃に脇屋殿が竹之下の合戦に負けを喫し、落ち延びて行かれた後に、

尊氏将軍の軍勢八十万騎が伊豆の国府に溢れ返り、木の下や岩の陰など、人の居ないところなどない有様です。そのような状況の中、これくらいの軍勢で通り抜けるのは、とても出来ることではございません」と、話しました。二人並んでそばにいた粟生と篠塚はこの話を聞き、

鐙を踏ん張るとサッと伸び上がり、味方の軍勢を見回して、「おーい、皆の者聞いたか。一騎当千の武者とは、我々のことを言うのだ。敵の八十万騎に対して我ら五百余騎とは、何ともはや格好の相手ではないか。一つ思い切って駆け込み、突破してやろうじゃないか。

皆の者、続けや続け」と、勇気を鼓舞して、数万騎がたむろしている敵中に駈け入りました。また府中においては一条次郎が、三千余騎を率いて闘っていましたが、新田左兵衛督義貞を見つけ、良き敵にめぐり合ったと思い、馬を寄せ並べ組み付こうとしましたが、

篠塚が中に割って入り、切りつけてきた太刀を鎧の左袖で受け止め、大の武者を担ぎ上げて、弓の長さ二丈ばかり投げつけました。しかし一条も太刀の技量には優れていますから、投げつけられたと言っても倒れませんでした。ふらついたものの、

しっかりと足を立て直すとそのまま、なお義貞に走りかかろうとしましたが、篠塚が馬より飛び降りると、両膝を狙って逆さまに蹴倒しました。一条は倒れるとすぐに起き上がることが出来ず、篠塚は押さえつけて首を掻き切り、その首をさし上げました。

一条の家来たちは目の前で主人を討たせて、余りの悔しさに辛く篠塚を討ち取ろうと馬より次々と飛び降り、かかっていきました。しかし、篠塚は次々と身をかわしては蹴倒し、また蹴り倒しては首を掻き切るなどして動き回った挙句、その場で九人までが討ち取られたのでした。


是を見て、敵数十万騎有と云ども、敢て懸合せん共せざりければ、義貞閑々と伊豆の府を打て通り給ふに、宵より落て其辺にまぎれ居たる官軍共、此彼より馳付ける程に、義貞の勢二千騎計に成にけり。「此勢にては縦ひ百重千重に取篭たり共、などか懸破て通らざるべき。」と、悦て行処に、木瀬川に旗一流打立て、勢の程二千騎計見へたり。近々と打寄て、旗の文を見れば、二巴を旗にも笠璽にも書たり。「さては小山判官にてぞ有らん、一騎も余さず打取。」とて、山名・里見の人々馬の鼻を双べておめいて懸りける程に、小山が勢四角八方に懸散されて、百騎計は討れにけり。かくて浮嶋が原を打過れば、松原の陰に旗三流差て、勢の程五百騎計扣たり。「是は敵か御方歟。」と在家の者に問給へば、「是は昨日の竹下より、一宮を追進せて、所々にて合戦し候し甲斐の源氏にて候。」とぞ答申ける。「さてはよき敵ぞ、取篭て討。」とて、二千余騎の勢を二手に分て北南より押寄れば、叶はじとや思けん、一矢をも射ずして、降人に成てぞ出たりける。此勢を先に打せて遥に行けば、中黒の旗を見付て、落隠居たる官軍共、彼方此方より馳付て、七千余騎に成にけり。今はかうと勇て、今井・見付を過る処に、又旗五流差揚て、小山の上に敵二千騎計扣たり。降人に出たりつる甲斐源氏に、「此敵は誰そ。」と問給へば、「是は武田・小笠原の者共にて候也。」と答ふ。「さらば責よ。」とて四方より攻上りけるを、高山薩摩守義遠、「此敵を余さず討んとせば、御方も若干亡ぶべし。大敵をば開ひて責るにこそ利は候へ。」と申ければ、由良・舟田げにもとて、東一方をば開けて三方より責上りければ、此敵共遠矢少々射捨て、東を指てぞ落行ける。是より後は敢て遮る敵もなかりければ、手負を相助、さがる勢を待連て、十二月十四日の暮程に、天竜川の東の宿に著給にけり。時節川上に雨降て、河の水岸を浸せり。長途に疲れたる人馬なれば、渡す事叶まじとて、俄に在家をこぼちて浮橋をぞ渡されける。此時もし将軍の大勢、後より追懸てばし寄たりしかば、京勢は一人もなく亡ぶべかりしを、吉良・上杉の人々、長僉議に三四日逗留有ければ、川の浮橋程なく渡しすまし、数万騎の軍勢残所なく一日が中に渡てけり。

この様子を見て、敵は数十万騎も居るとは言っても、特に向かってこようとはしませんので、義貞は静々と伊豆の国府を通り過ぎました。合戦に敗れ夕方から落ち延びてきて、そのあたりの鎌倉軍に紛れ込んでいた官軍らが、あちこちより義貞のもとに駆け付けてきたので、

その軍勢は二千騎ほどになりました。「軍隊としてこれだけの数が揃えば、たとえ敵に百重千重(ももえちえ)に包囲されたとしても、突破することが出来ないはずは無い」と、喜んで進んで行くと、黄瀬河に一旒の旗を立て、その数二千騎ほどの軍勢が見えます。

近くに寄って旗の紋をよく見ると、二つ巴の紋が旗にも笠印にも書いてあります。「さては小山判官に違いない、一騎も残さず討ち取ってしまえ」と言うや、山名、里見の兵士らが馬の鼻を揃えて、喚きながら突撃しますと、小山の軍勢は四方八方に蹴散らされ、

百騎ほどが討たれてしまいました。また浮島が原を通り過ぎて行くと、松原の陰に旗を三旒挿して、その数五百騎ばかりが集まっています。「あれは敵なのか味方なのか」と、土地の者に聞いてみると、「あれは昨日、竹之下から、官軍の一宮尊良親王が率いる軍勢を追い落とし、

あちこちで合戦を続けている甲斐の源氏勢です」と、返事がありました。「これは良い敵に出会った、取り囲んで討ち取ってしまえ」と、二千余騎の軍勢を二手に分け、南北より押し寄せたところ、源氏勢はとても闘うことなど出来ないと思ったのか、一矢をも射ることなく降伏を申し出ました。

そこからはこの降伏軍を先頭にして、どんどんと軍を進める内、中黒の新田の紋が付いた旗を見つけ、落ち延び隠れていた官軍らが、あちこちから駆けつけてきたので七千余騎まで膨れました。この状況に勇気百倍になり、今井、見付(静岡県)を過ぎる時、

また五旒の旗をさし上げた二千騎ばかりの敵が、小山の上でたむろしています。先ほど降伏してきた甲斐源氏の者に、「あの敵は誰だ」と質問すると、「これは武田、小笠原の勢です」と、答えました。「よし、わかった。攻撃にかかれ」と、四方から攻め上ろうとした時、

高山薩摩守義遠が、「この敵勢を一人残らず討ち取ろうとすれば、味方にもそれなりの損害が出る。大敵を攻めるには一方を開いておくことこそ、利があると言うものだ」と話され、由良、舟田もなるほどその通りだと、東側の一方を開けて、三方から攻め上りました。

敵軍は遠矢を少しばかり射たものの、東に向かって落ちて行きました。ここを最後にそれ以後は、特に行軍を妨害する敵もなく、負傷者をかばったり、また遅れがちな勢を待ったりしながら退却する内、建武二年(1335年)十二月十四日の暮頃に、天竜川の東の宿に到着しました。

丁度この頃天竜川上流に雨が降ったため、河原は水没していました。長距離の移動に疲れ果てた人馬ですから、水に入って渡ることは出来ないだろうと考え、急いで人家を破壊し、浮き橋を造って渡しました。もしこの時、将軍足利尊氏の大軍が、追撃に追撃を重ねて寄せていたなら、

京都の官軍は一人残らず討ち取られていたでしょうが、吉良、上杉の人々が、長時間の軍議に三日も四日も一ヶ所に留まっていたため、新田の軍勢は浮き橋を使って川を渡り、数万騎の軍勢は一人残らず一日で渡り終えたのでした。


諸卒を皆渡しはてゝ後、舟田入道と大将義貞朝臣と二人、橋を渡り給ひけるに、如何なる野心の者かしたりけん、浮橋を一間はりづなを切てぞ捨たりける。舎人馬を引て渡りけるが、馬と共に倒に落入て、浮ぬ沈ぬ流けるを、舟田入道、「誰かある、あの御馬引上げよ。」と申ければ、後に渡ける栗生左衛門、鎧著ながら川中へ飛つかり、二町計游付て、馬と舎人とを左右の手に差揚て、肩を超ける水の底を閑に歩で向の岸へぞ著たりける。此馬の落入ける時、橋二間計落て、渡るべき様もなかりけるを、舟田入道と大将と二人手に手を取組で、ゆらりと飛渡り給ふ。其跡に候ける兵二十余人、飛かねて且し徘徊しけるを、伊賀国住人に名張八郎とて、名誉の大力の有けるが、「いで渡して取せん。」とて鎧武者の上巻を取て中に提げ、二十人までこそ投越けれ。今二人残て有けるを左右の脇に軽々と挟で、一丈余り落たる橋をゆらりと飛で向の橋桁を蹈けるに、蹈所少も動かず、誠に軽げに見へければ、諸軍勢遥に是を見て、「あないかめし、何れも凡夫の態に非ず。大将と云手の者共と云、何れを捨べし共覚ね共、時の運に引れて、此軍に打負給ひぬるうたてさよ。」と、云はぬは人こそなかりけれ。其後浮橋を切て、つき流されたれば、敵縦ひ寄来る共、左右なく渡すべき様もなかりけるに、引立たる勢の習なれば、大将と同心に成て、今一軍せんと思ふ者無りけるにや。矢矯に一日逗留し給ひければ、昨日まで二万余騎有つる勢、十方へ落失て十分が一もなかりけり。早旦に宇都宮治部太輔、大将の前に来て申されけるは、「今夜官軍共、夜もすがら落候ひけると承が、げにも陣々まばらに成て、いづくに人あり共見へ候はず。爰にてもし数日を送らば、後ろに敵出来て、路を塞ぐ事有ぬと覚候。哀れ今少し引退て、あじか・州俣を前に当てゝ、京近き国々に、御陣を召され候へかし。」と申されければ、諸大将、「げにも皇居の事おぼつかなく候へば、さのみ都遠き所の長居は然るべし共存候はず。」とぞ同じける。義貞、「さらば兎も角も面々の御意見にこそ順ひ候はめ。」とて、其日天竜川を立てこそ、尾張国までは引かれけれ。

軍勢の全員を渡し終えてから、舟田入道と大将新田義貞朝臣の二人が橋を渡ろうとした時、誰が何を考えての仕業か、浮き橋をつないでいる綱の一部が切り捨てられていました。舎人が先に立って馬を引きながら渡っていたところ、馬と共に川に転げ落ちてしまい、

浮いたり沈んだりしながら流されて行くのを、舟田入道が、「誰かいないか、あの御馬を引き上げろ」と、どなりました。後ろを渡っていた粟生左衛門が鎧を身に着けたまま川に飛び込み、二町ほどで泳ぎ着き、馬と舎人とを左右の手に抱え込み、肩を超える深さの中、

水底を静かに歩んで向こう岸に着きました。この馬が転落するとき、橋板が二間ばかり落ちてしまい、渡る手段もないかと思われましたが、舟田入道と義貞大将の二人は手を組み、ひらりと飛び上がって渡りました。後に続いていた兵士ら二十余人が、

飛び越えることが出来ずにうろうろしていると、伊賀国の豪族で名張八郎と言う大力を持つことで有名な男が、「よし、渡して進ぜよう」と言って、鎧武者の背中に付いている飾り紐を掴んでぶら下げ、二十人まで放り投げて越えさせました。最後に残った二人は左右の脇に軽々と挟んで、

一丈余りも落ちてしまった橋をひらりと飛び越え、向こう側の橋げたに降りました。橋げたは少しも揺れることなく、余りにも簡単にまた軽々とした行動に、遠くよりこれを見ていた軍勢らは、「なんとも素晴らしいではないか。この二人の行動はとても常人の技とは思えない。

大将と言い、その部下の者と言い、どちらが劣るとは思えない。しかしながら、時流に流されて今回の合戦に負けを喫したこと、情けない話である」と言わない人など、居ませんでした。その後浮橋は切り落とされ流れてしまったので、たとえ敵が寄せて来ても、

そう簡単に川を渡ることなど出来ないはずなのに、負けて退却する軍の常であれば、大将と同じ気持ちになって、ここでもう一合戦をしようと考える者などいません。天竜川を渡ってから矢矧に一日駐屯したところ、昨日までは二万余騎いた軍勢は、四方八方に落ちて行き、

今はその十分の一も居ない有様です。朝早く宇都宮治部太輔公綱が大将義貞の御前に来て、「昨夜は官軍の兵士らが一晩中逃げ落ちて行ったと聞きましたが、確かに各所にあった陣は歯抜けとなり、人の姿も見えません。もしここで数日を送れば、後方に敵が出現し、

退路を遮断される恐れもあります。ここは涙を呑んで今少し退却し、あじか、墨俣まで退いて長良川を防衛線にして、少しでも京に近い国々に、陣営を構えるのが良いでしょう」と、申し上げました。諸大将らも、「確かに都や皇居の事も心配だし、

このように都から離れた場所での長居は良くないでしょう」と、宇都宮の意見に賛同しました。義貞も、「よく分った、とりあえず皆々のご意見に従おう」と、その日に天竜川を出発し、尾張国まで退却しました。


○諸国朝敵蜂起事
かゝる処に、十二月十日、讚岐より高松三郎頼重早馬を立て京都へ申けるは、「足利の一族細川卿律師定禅、去月二十六日当国鷺田庄に於て旗を揚る処に、詫間・香西これに与して、則三百余騎に及ぶ。是に依て、頼重時剋を廻らさず、退治せしめん為に、先づ矢嶋の麓に打寄て国中の勢を催す処に、定禅遮て夜討を致せし間、頼重等身命を捨て防戦ふと雖も、属する所の国勢忽に翻て剰へ御方を射る間、頼重が老父、並に一族十四人・郎等三十余人、其場に於て討死仕畢。一陣遂に彼が為に破られし後、藤橘両家・坂東・坂西の者共残る所なく定禅に属する間、其勢已及三千余騎に、近日宇多津に於て兵船を点じ、備前の児嶋に上て已に京都に責上んと仕候。御用心有べし。」とぞ告申ける。かゝりけれ共、京都には新田越後守義顕を大将として、結城・名和・楠木以下宗との大名共大勢にて有しかば、四国の朝敵共縦ひ数を尽して責上る共、何程の事か有るべきと、さまでの仰天もなかりけるに、同十一日、備前国住人児嶋三郎高徳が許より、早馬を立て申けるは、「去月二十六日、当国の住人佐々木三郎左衛門尉信胤・同田井新左衛門尉信高等、細川卿律師定禅が語いを得て備中国に打越、福山の城に楯篭る間、彼国の目代先手勢計を以て合戦を致と雖も、国中の勢催促に随はず。無勢なるに依て引退く刻、朝敵勝に乗し間、目代が勢数百人討死し畢。其翌日に小坂・川村・庄・真壁・陶山・成合・那須・市川以下、悉く朝敵に馳加る間、程なく其勢三千余騎に及べり。爰に備前国の地頭・御家人等、吉備津宮に馳集て、朝敵を相待処に、浅山備後守、備後の国の守護職を賜て下向する間、其勢を合て、同二十八日、福山に押寄責戦〔し〕日、高徳が一族等大手を責破て、已に城中に打入る刻、野心の国人等、忽に翻て御方を射る間、目代浄智が子息七条弁房・小周防の大弐房・藤井六郎・佐井七郎以下三十余人、搦手に於て討れ候畢。官軍遂に戦ひ負て備前国に引退、三石の城に楯篭る処に、当国の守護松田十郎盛朝・大田判官全職・高津入道浄源当国に下著して、已御方に加る間、又三石より国中へ引返、和気の宿に於て、合戦を致す刻、松田十郎敵に属する間、官軍数十人討れて、熊山の城に引篭る。其夜、当国の住人内藤弥二郎、御方の陣に有ながら、潛に敵を城中へ引入責劫間、諸卒悉行方を知らず没落候畢。高徳一族等此時纔に死を免る者身を山林に隠し、討手の下向を相待候。若早速に御勢を下されずば、西国の乱、御大事に及ぶべし。」とぞ申たりける。

☆ 諸国に朝敵が蜂起したこと

その頃都では、建武二年(1335年)十二月十日に、讃岐より高松三郎頼重が立てた早馬が京都に到着し、「足利の一族細川卿律師定禅が先月の十一月二十六日に、当讃岐国、鷺田庄において叛旗を揚げたところ、詫間、香西らがこれに呼応して、

たちまちにして三百余騎の軍勢となりました。このため高松頼重が即刻征伐に向かい、最初屋島の麓に押し寄せ、国中の軍勢に召集をかけていたところ、細川定禅が夜討ちで抵抗してきたため、頼重らは身命を投げ捨て防戦に努めましたが、すぐに味方の軍勢らが寝返りをし、

我らに向かって矢を射込んできました。そのため頼重の老父、並びに一族の十四人、また家来など三十余人が、その場で討ち死にしてしまいました。討伐軍が彼らに敗れてからというものは、藤原、橘の両家、坂東郡も坂西郡の者ども残らず定禅に味方し、

その総勢はすでに三千余騎に膨れ、近日中に宇多津で兵船を用意し、備前の児島に上陸して、今まさに京都に向かって攻め上ろうとしています。どうぞくれぐれもご用心願います」と、告げてきました。しかし京都には新田越後守義顕を大将として、

結城、名和、楠木以下、主要な大名らが大勢居ますので、四国の朝敵がたとえ数を頼んで攻め上って来ようと、何も恐れることなど無いと、特に驚き慌てることもありませんでした。ところが十二月十一日、備前国の豪族、児嶋三郎高徳のもとより、

早馬が到着し、「先月十一月二十六日、当国の豪族、佐々木三郎左衛門尉信胤、同じく田井新左衛門尉信高らが細川卿律師定禅の誘いに応じて、備中国に進出し、福山の城に立て篭もりました。そこで備中国の目代が、まず直属の軍勢にて合戦に及びましたが、

備中の他の武家らは召集に応じませんでした。目代はこの小勢では合戦にならないと、退却しようとしたところ、朝敵は勝ちに乗じて攻撃してきたので、目代の軍勢、数百人が討ち死にしてしまいました。また、その翌日に小坂、川村、庄、真壁、陶山、成合、那須、市川らが全て、

朝敵の陣営に加わったため、朝敵の軍勢はやがて三千余騎にまでなりました。そこで備前国の地頭、御家人らが吉備津宮に集合し、朝敵を待ち受けていたところ、浅山備後守が備後国の守護職に命じられ下向してきたので、彼の軍勢と共に十二月二十八日、福山に押し寄せ闘った結果、

児嶋高徳の一族が城の大手の攻略に成功し、今まさに城内に攻め込もうとした時、野望を持った豪族らが突然寝返り、味方に向かって矢を放ったため、目代の小野浄智房の子息七条弁坊、小周防の大弐房、藤井六郎、佐井七郎以下三十余人が、搦手において討たれてしまいました。

こうしてとうとう官軍は負けてしまい、備前国まで退却して三石の城に立て篭もりました。そこに備前国の守護、松田十郎盛朝、大田判官全職、高津入道浄源らが備前国に着き、どう考えても味方に加わったと思い、再び三石より軍を返したところ、和気の宿で合戦となったのですが、

松田十郎が敵に通じ、そのため官軍の数十人が討たれ、熊山の城に引き篭もりました。しかしその夜、備前国の住人、内藤弥二郎が官軍に属していながら、ひそかに敵を城内に引き入れたので、激しい戦いとなり、その挙句、諸将士らは全て行方不明になり、城も陥落してしまいました。

児嶋高徳一族はこの合戦において、何とか一命を取り留めた者だけは、山林に逃れその身を隠して、討手が都より下向して来るのを待っています。もし即刻、討手の派遣が行わなければ、西国の乱は大変な事態に発展することになるでしょう」と、申し伝えてきました。


両日の早馬天聴を驚しければ、「こは如何すべき。」と周章ありける処に、又翌日の午剋に、丹波国より碓井丹波守盛景、早馬を立て申けるは、「去十二月十九日の夜、当国の住人久下弥三郎時重、波々伯部次郎左衛門尉・中沢三郎入道等を相語て守護の館へ押寄る間、防戦と雖も、劫戦不慮に起に依て、御方戦破れて、遂に摂州へ引退く。雖然と猶他の力を合て其恥を雪ん為に、使者を赤松入道に通じて、合力を請る処に、円心野心を挟む歟、返答にも及ばず。剰へ将軍の御教書と号し、国中の勢を相催由、風聞在人口に。加之但馬・丹後・丹波の朝敵等、備前・備中の勢を待、同時に山陰・山陽の両道より責上るべき由承及候、御用心有るべし。」とぞ告たりける。又其日の酉剋に、能登国石動山の衆徒の中より、使者を立てゝ申けるは、「去月二十七日越中に守護、普門蔵人利清・並に井上・野尻・長沢・波多野の者共、将軍の御教書を以て、両国の勢を集め、叛逆を企る間、国司中院少将定清、就用害に被楯篭当山処、今月十二日彼逆徒等、以雲霞勢押寄間、衆徒等与義卒に、雖軽身命を、一陣全事を得ずして、遂に定清於戦場に被墜命、寺院悉兵火の為に回禄せしめ畢。是より逆徒弥猛威を振て、近日已に京都に責上らんと仕候。急ぎ可被下御勢を。」とぞ申ける。是のみならず、加賀の富樫介、越前に尾張守高経の家人、伊予に川野対馬入道、長門に厚東の一族、安芸に熊谷、周防に大内介が一類、備後に江田・弘沢・宮・三善、出雲に富田、伯耆に波多野、因幡に矢部・小幡、此外五畿・七道・四国・九州、残所なく起ると聞へしかば、主上を始めまいらせて、公家被官の人々、独として肝を消さずと云事なし。其比何かなる嗚呼の者かしたりけん。内裏の陽明門の扉に、一首の狂歌をぞ書たりける。賢王の横言に成る世中は上を下へぞ帰したりける四夷八蛮起り合て、急を告る事隙なかりければ、引他の九郎を勅使にして、新田義貞猶道にて敵を支へんとて、尾張国に居られたりけるを、急ぎ先上洛すべしとぞ召れける。引他九郎竜馬を給て、早馬に打けるが、此馬にては、四五日の道をも、一日には輒く打帰んずらんと思けるに合せて、げにも十二月十九日の辰刻に、京を立て、其日の午刻に近江国愛智川の宿にぞ著たりける。彼竜馬俄に病出して、軈て死にけるこそ不思議なれ。引佗乗替に乗替々々、日を経て尾張国に下著し、此子細を左兵衛督に申ければ、「先京都へ引返して宇治・勢多を支てこそ、合戦を致さめ。」とて、勅使に打つれてぞ上られける。

この十日、十一日の早馬による情報は天皇の耳にも入り、その驚きも大変で、「一体どうすれば良いのか」と、うろたえていたところ、また翌日十二日の午刻(午後零時頃)に、丹波国から碓井丹波守盛景の早馬が着き、「去る十二月十九日の夜に、

当国の武将、久下弥三郎時重(第九巻に登場)が波々伯部(ほほかべ)次郎左衛門尉、中沢三郎入道らと結託して、守護の屋敷に押し寄せました。守護側も防戦に努めましたが、突然の攻撃と長時間の戦闘に我が軍はついに敗れ、摂津国に退却しました。

しかし我が軍も、他の武将らの軍勢と力を合わせて、この恥を雪がんと、使者を赤松入道に派遣し協力を頼みましたが、円心も何か野心があるのか返事はありませんでした。そればかりでなく、尊氏将軍の御教書による檄だと言って、

国中の軍勢に召集をかけているとか、噂もあります。また、そのほかにも、但馬、丹後、丹波の朝敵らが、備前、備中の軍勢を待って、同時に山陰、山陽の両道より、都に攻め上るとも聞いています。どうか御用心されますよう」と、伝えてきました。またその日の酉刻(午後六時頃)に、

能登国の石動山、天平寺の衆徒の中より、派遣されてきた使者が、「先月の十一月二十七日に、越中国の守護、普門蔵人俊清並びに井上、野尻、長沢、波多野らの者どもが、尊氏将軍の御教書に従って、能登、越中両国の軍勢を召集し叛逆を企んだので、

国司の中院少将定清が当山、石動山の要害を頼って立て篭もっていたところ、今月十二月十二日に叛逆者らが、雲霞のような大軍で押し寄せてきました。衆徒らは忠義あふれる兵士らと共に、身命を惜しむことなく闘いましたが、先鋒をはじめに防禦線が崩れ、

ついに中院少将定清は戦場に命を落としました。また寺院は全て兵火のために燃えてしまいました。その後逆賊らはますます猛威を発揮し、近い内に京都に攻め上ろうとしています。急いで軍勢を派遣してください」と、申し上げました。これだけでは終わらず、

加賀国の富樫介、越前国の尾張守高経の一族、伊予国の河野対馬入道、長門国では厚東の一族、安芸国では熊谷、周防国は大内介の一族が、備後国では江田、弘沢、宮、三善、また伯耆国では波多野、因幡国では矢部、小幡などが、

またこれ以外にも五畿(山城、大和、河内、和泉、摂津)、七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海道)、四国、九州など残る所無く、逆徒が蜂起したと聞き、天皇をはじめとして公卿および彼らに奉公する諸役人ら、一人として不安と恐怖を覚えない人はいませんでした。

その頃この状況に何を思った者なのか、内裏の陽明門の扉に一首の狂歌を書き付けた者がいました。
      賢王の 横言に成る 世の中は 上を下へぞ 返したりける

都の朝廷に反抗する逆賊らが国中で蜂起し、急を告げる早馬の休むこともないので、引他九郎を勅使として新田義貞のもとに派遣しました。その時新田は退却途上で、敵の進撃を防ごうと尾張国に駐屯していたのですが、とりあえず先に上洛するよう伝えました。

引他九郎は勅使にあたって竜馬を賜り、その馬にて使者を務めました。この馬は普通四、五日の行程を一日で往復するとも言われていますが、確かに十二月十九日の辰刻(午前八時頃)に京を出発し、その日の午刻(午後零時頃)には近江国、愛知川の宿に到着しました。

ところがこの竜馬が突然発病し、すぐに死んでしまったのも不思議な話です。やむなく引他は馬を乗り換え乗り換えしながらも、日を経ればやがて尾張国に到着しました。ことの仔細を左兵衛督義貞に申し上げ、義貞も、「まず京都に引き返し宇治や瀬田にて、

敵の攻撃からの防衛戦をやろう」と言って、勅使と共に都に上られました。      (終り)

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