14 太平記 巻第十四  (その三)


○将軍御進発大渡・山崎等合戦事
去程に改年立帰れ共、内裏には朝拝もなし。節会も行れず。京白川には、家をこぼちて堀に入れ、財宝を積で持運ぶ。只何にと云沙汰もなく、物騒く見へたりける。懸る程に、将軍已に、八十万騎にて、美濃・尾張へ著給ぬと云程こそあれ、四国の御敵も近付ぬ、山陰道の朝敵も、只今大江山へ取あがるなんど聞へしかば、此間召に応じて上り集たる国々の軍勢共十方へ落行ける程に、洛中には残り止る勢一万騎までもあらじとぞ見へたりける。其も皆勇る気色もなくて、何方へ向へと下知せられけれ共、耳にも聞入ざりければ、軍勢の心を勇ません為に、「今度の合戦に於て忠あらん者には、不日に恩賞行はるべし。」とし壁書を、決断所に押されたり。是を見て、其事書の奥に例の落書をぞしたりける。かく計たらさせ給ふ綸言の汗の如くになどなかるらん去程に正月七日に、義貞内裏より退出して軍勢の手分あり。勢多へは伯耆守長年に、出雲・伯耆・因幡三箇国の勢二千騎を副て向けらる。供御の瀬・ぜゞが瀬二箇所に大木を数千本流し懸て、大綱をはり乱ぐひを打て、引懸々々つなぎたれば、何なる河伯水神なり共、上をも游がたく下をも潛難し。宇治へは楠木判官正成に、大和・河内・和泉・紀伊国の勢五千余騎を副て向らる。橋板四五間はね迦して河中に大石を畳あげ、逆茂木を繁くゑり立て、東の岸を高く屏風の如くに切立たれば、河水二にはかれて、白浪漲り落たる事、恰か竜門三級の如也。敵に心安く陣を取せじとて、橘の小嶋・槙嶋・平等院のあたりを、一宇も残さず焼払ける程に、魔風大廈に吹懸て、宇治の平等院の仏閣宝蔵、忽に焼けゝる事こそ浅猿けれ。山崎へは脇屋右衛門佐を大将として、洞院の按察大納言・文観僧正・大友千代松丸・宇都宮美濃将監泰藤・海老名五郎左衛門尉・長九郎左衛門以下七千余騎の勢を向らる。宝寺より川端まで屏を塗り堀をほりて、高櫓・出櫓三百余箇所にかき双たり。陣の構へなにとなくゆゝしげには見へたれ共、俄に拵たる事なれば屏の土も未干、堀も浅し。又防ぐべき兵も、京家の人、僧正の御房の手の者などゝ号る者共多ければ、此陣の軍はか/゛\しからじとぞ見へたりける。大渡には、新田左兵衛督義貞を惣大将として、里見・鳥山・々名・桃井・額田・々中・篭沢・千葉・宇都宮・菊池・結城・池・風間・小国・河内の兵共一万余騎にて堅めたり。是も橋板三間まばらに引落して、半より東にかい楯をかき、櫓をかきて、川を渡す敵あらば、横矢に射、橋桁を渡る者あらば、走りを以て推落す様にぞ構へたる。馬の懸上りへ逆茂木ひしと引懸て、後に究竟の兵共、馬を引立々々並居たれば、如何なるいけずき・する墨に乗る共、こゝを渡すべしとは見へざりけり。

☆ 尊氏将軍が御進発されたことと、大渡、山崎合戦のこと

さて年が改まって新年を迎えたとはいえ、内裏においては朝拝(元日に行われる天皇が祝賀を受ける大礼)もありません。また節会(元日に天皇が諸臣に酒食を賜る儀式)も行われませんでした。京都の白川周辺では家を破壊して筏を作り、堀に浮かべて財産などを積んで運んだりしています。

ただ何となく騒々しく思われます。そんな時、尊氏将軍が率いる八十万騎の軍勢がすでに美濃、尾張に到着したと言われ、四国の朝敵も都に近づき、また山陰道を進んでいる朝敵も、もうすでに大江山にとりついているなどと聞けば、これまでに朝廷の召集に応じて、

諸国より集まっていた軍勢らは、四方に落ちて行き、今ではもう洛中に残っている軍勢は、一万騎はいないと思われます。その軍勢も皆、大して戦意があるわけでなく、守るべき戦場を指示されても耳を貸そうとしません。

これではと、士気を鼓舞するため、「今回の合戦において忠義ある行動をした者には、即刻論功行賞を実施する」と書いた紙を、決断所の壁に掲示しました。この掲示を見て、その奥書に例の如く落書きされました。

      かく計り たらさせ給ふ 綸言の 汗の如くに などかなるらん

ところで、建武三年(1336年)正月七日、新田義貞は内裏より退出すると、軍勢の配置を決めました。瀬田には伯耆守名和長年に出雲、伯耆、因幡三ヶ国の軍勢、二千騎を配下につけて向かわせました。供御の瀬(黒津浜)、膳所が瀬の二ヶ所に大木を数千本浮かべ、

大綱を張り巡らすとともに、乱杭を川底に埋めこみ、それぞれを繋ぎ合わせているので、どんな水神でも水面を泳ぐことは出来ず、また水中を潜って進むことも不可能です。宇治方面は楠木判官正成に大和、河内、和泉、紀伊三ヶ国の軍勢、五千余騎をつけて向かわせました。

橋板を四、五間取り外し、川の水中には大石を積み上げ、その上逆茂木を大量に設置し、また東側の岸を高く屏風のように切り立たせました。このため、川の流れは二つに分かれて、白波が逆巻く様子はまるで竜門三級の滝(中国龍門山にある三段の滝)かと思えます。

敵に簡単に陣を築かせまいと、橘の小嶋や槙嶋また平等院周辺を一軒残らず焼き払ったので、悪魔の風は大建造物に吹き荒れ、宇治の平等院にある仏閣や宝蔵などを、一瞬の内に燃やし尽くしてしまったことは、誠に残念至極なことです。

また山崎には脇屋右衛門佐義助を大将にして、洞院の按察大納言、文観僧正、大友千代松丸、宇都宮美濃将監泰藤、海老名五郎左衛門尉、長九郎左衛門以下、七千余騎の軍勢を向かわせました。宝寺(宝積寺::天王山中腹にある)から川端まで塀を構えて堀を掘って、

高櫓や出櫓などを三百余ヶ所に構築しました。陣の構えは何となく堅固な感じがしますが、何せ急ごしらえな物であり、塀を立てている土もまだ乾いておらず、堀も十分の深さはありません。また防衛に当たる兵士らも公卿だとか文観僧正に仕えている者だなどと言い騒ぐ者が多く、

この陣容で行う軍は余り期待の出来るものではありません。大渡(宇治川、桂川の合流地点)方面は、新田左兵衛義貞を総大将として、里見、鳥山、山名、桃井、額田、田中、篭沢、千葉、宇都宮、菊池、結城、池、風間、小国、河内などの軍勢、一万余騎にて防衛に当たりました。

ここも橋板を三間ほどまばらに落とし、川の半ばから東側にかい盾を並べ、櫓を構築し、もし川を渡ろうとする敵が現れれば、横から矢を射込み、また橋桁を渡ろうとする者がいれば、走り木(高いところから落とし、敵をなぎ倒すための大木)で川に押し落とすように構えました。

馬が駆け上がると考えられる所には、逆茂木を隙間なく埋め、その後方には選り抜きの精兵が、逸りたった馬に乗って並んでいますから、これでは「いけずき」とか「するすみ」のような名馬に乗っても、ここを渡れるとは思えません。


去程に将軍は八十万騎の勢を率し、正月七日近江国伊岐州の社に、山法師成願坊が三百余騎にて楯篭たりける城を、一日一夜に責落して、八日に八幡の山下に陣を取る。細川卿律師定禅は、四国・中国の勢を率して正月七日播磨の大蔵谷に著たりけるに、赤松信濃守範資我国に下て旗を挙ん為に、京より逃下けるに行逢て、互に悦思ふ事限なし。且は元弘の佳例也とて、信濃守を先陣にて、其勢都合二万三千余騎、正月八日の午剋に芥川の宿に陣を取る。久下弥三郎時重・波々伯部二郎左衛門為光・酒井六郎貞信、但馬・丹後の勢と引合て六千余騎、二条大納言殿の西山の峯の堂に陣を取ておはしけるを追落して、正月八日の夜半より、大江山の峠に篝をぞ焼ける。京中には時に取て弱からん方へ向べしとて、新田の一族三十余人、国々の勢五千余騎を貽れたりければ、大江山の敵を追払ふべしとて、江田兵部大輔行義を大将として、三千余騎を丹波路へ差向らる。此勢正月八日の暁、桂川を打渡て、朝霞の紛れに、大江山へ推寄せ、一矢射違る程こそ有けれ、抜連れて責上りける間、一陣に進で戦ひける久下弥三郎が舎弟五郎長重、痛手を負て討れにけり。是を見て後陣の勢一戦も戦ずして、捨鞭を打て引きける間、敵さまでは追ざりけれ共、十里二十里の外まで、引かぬ兵はなかりけり。

ところで、尊氏将軍は八十万騎の軍勢を率いて、建武三年(1336年)正月七日、近江国、印岐志呂神社に比叡山の僧侶、成願坊律師が三百余騎で立て篭もっていた城を、一日一夜の攻撃で落としてしまい、八日には石清水八幡宮のある男山の麓に陣を構えました。

また細川卿律師定禅は四国、中国の軍勢を率いて、正月七日には播磨国大蔵谷に到着しましたが、赤松信濃守範資が自国に戻って挙兵しようと、京より逃げ下って来るのと行き会い、二人は大いに喜びあいました。これもまた元弘の時、赤松を先鋒に上洛したと同じく吉例だと思い、

信濃守範資を先陣にして総勢二万三千余騎が、正月八日の午刻(午後零時頃)に芥川(高槻市)の宿に陣営を構えました。丹波国の武将、久下弥三郎時重、波々伯部二郎左衛門為光、酒井六郎貞信らが但馬、丹後の軍勢を合わせて六千余騎で、

二条大納言殿が西山の峯の堂に陣を構えているのを追い落として、正月八日の夜半から大江山の峠で篝火を燃やしました。その頃、朝廷側では臨機応変に手薄な方面を守るため、新田の一族三十余人が遊軍として諸国の勢、五千余騎を残していましたが、

大江山の敵を追い払うべきだと、江田兵部大輔行義を大将として、三千余騎にて丹波路に向かわせました。この軍勢らは正月八日の明け方に、桂川を渡ると朝靄に紛れて大江山に押し寄せました。矢の一本くらいを射込んだ程度で後は太刀を抜きはらって攻め上って行くと、

先鋒で闘っていた久下弥三郎の弟、五郎長重が負傷を負った上、討ち取られてしまいました。これを見て後方の軍勢は一戦にも及ばず、鞭を振り上げて逃げ出し、朝廷軍は特に追撃などしなかったのですが、兵士は皆が皆、十里、二十里も逃げ去ったのです。


明れば正月九日の辰剋に、将軍八十万騎の勢にて、大渡の西の橋爪に推寄、橋桁をや渡らまし、川をや渡さましと見給に、橋の上も川の中も、敵の構へきびしければ、如何すべしと思案して時移るまでぞ引へたる。時に官軍の陣よりはやりをの者共と見へたる兵百騎計、川端へ進出て、「足利殿の搦手には憑思食て候つる丹波路の御敵どもをこそ、昨日追散して、一人も不残討取て候へ。御旗の文を見候に、宗との人々は、大略此陣へ御向有と覚て候。治承には足利又太郎、元暦には佐々木四郎高綱、宇治川を渡して名を後代に挙候き。此川は宇治川よりも浅して而も早からず。爰を渡され候へ。」と声々に欺て、箙を敲て咄と笑。武蔵・相摸の兵共、「敵に招れて、何なる早き淵川なり共渡さずと云事やあるべき。仮令川深して、馬人共に沈みなば、後陣の勢其を橋に蹈で渡れかし。」とて、二千余騎一度に馬を打入んとしけるを、執事武蔵守師直馳廻て、「是はそも物に狂ひ給ふか。馬の足もたゝぬ大河の、底は早して上は閑なるを、渡さば渡されんずるか。暫閑まり給へ。在家をこぼちて、筏に組で渡らんずるぞ。」と下知せられければ、さしも進みける兵、げにもとや思けん、軈て近辺の在家数百家を壊ち連て、面二三町なる筏をぞ組だりける。武蔵・相摸の兵共五百余人こみ乗て、橋より下を渡けるが、河中に打たる乱杭に懸て、棹を指せ共行やらず。敵は雨の降る如く散々に射る。筏はちともはたらかず。兎角しける程に、流れ淀たる浪に筏の舫を押切られて、竿にも留らず流けるが、組み重ねたる材木共、次第に別々に成ければ、五百余人乗たる兵皆水に溺れて失にけり。敵は楯を敲て、「あれ見よ。」と咲ふ。御方は手をあがいて、如何かせんと騒き悲め共叶はず。

明けて正月九日の辰刻(午前八時頃)に尊氏将軍は八十万騎の軍勢で、大渡の西に架けられた橋まで押し寄せ、橋桁を渡るべきか、川を渡るべきかと見てみると、橋の上も川の中も敵の防禦が厳しく、作戦を練るためしばらくその場に留まりました。

その時官軍側から、勇み立った兵士ら百騎ばかりが、川端にやってくると、「足利殿が搦手として頼りにしていたと思われる丹波路の軍勢どもは、昨日追い散らし一人残らず討ち取ってしまった。今、足利殿軍の旗印を見てみれば、主なる人々は全員この陣営に来られているようだ。

治承の乱(以仁王の挙兵::治承四年・1180年)においては足利又太郎忠綱、また元暦(義経、義仲の戦い::元暦元年・1184年)には、佐々木四郎高綱が宇治川を強行渡河して、その名を後世にまで挙げた。この川は宇治川より浅くて、しかも流れも速くない。

ここを渡って来るがよい」と声々に叫ぶと共に、箙を叩いてドッと笑ったのでした。武蔵、相模の兵士らは、「敵に来いと言われては、如何に速い川と言っても渡河しない法はない。たとえ川が深くて、馬もろともに沈むことがあれば、後に続く者どもはそれを橋にして渡るが良い」と言って、

二千余騎が一斉に馬を川に入れようとした時、執事の武蔵守高師直が走り回って、「こら!者ども、気が狂ったのか。馬の脚も立たないような大河は、水底付近は流れが速く、水面は静かに見えるものだ。とても渡れるものではない。皆の者、落ち着くのだ。

民家を破壊して筏に組んで渡ろうぞ」と、命令しました。あれほど興奮していた兵士らも、納得するとすぐに近くの民家、数百戸を破壊し材木を繋ぎ合わせて、大きさ二、三町もある筏を組み上げました。武蔵、相模の兵士らがこの筏に乗り込み、橋の下流を渡ろうとしましたが、

川の中に打ち込まれていた乱杭に引っ掛かり、竿でいくら押せども動こうとしません。敵は矢を雨の降るかのように激しく射込んできますが、筏は何の役にも立ちません。そんな時筏を繋いでいた綱が、川の流れに耐え切れず千切れてしまい、

竿をいくら操っても止めることが出来ず流されて行き、その内組み重ねていた材木が次第にばらばらとなり、乗り込んでいた五百余人の兵士らは皆、水に溺れて死亡してしまいました。これを見ていた敵兵らは、「あれを見てみろ」と、笑っています。味方はじたばたと騒いでも手の打ちようがなく、ただ騒ぎ悲しむばかりです。


又此軍散じて後、橋の上なる櫓より、武者一人矢間の板を推開て、「治承に高倉の宮の御合戦の時、宇治橋を三間引落して、橋桁計残て候しをだに、筒井浄妙・矢切但馬なんどは、一条・二条の大路よりも広げに、走渡てこそ合戦仕て候ひけるなれ。況や此橋は、かい楯の料に所々板を弛て候へ共、人の渡り得ぬ程の事はあるまじきにて候。坂東より上て京を責られんに、川を阻たる合戦のあらんずるとは、思ひ設られてこそ候つらめ。舟も筏も事の煩計にてよも叶候はじ。只橋の上を渡て手攻の軍に我等が手なみの程を御覧じ候へ。」と、敵を欺き恥しめてあざ咲てぞ立たりける。是を聞て武蔵守師直が内に、野木与一兵衛入道頼玄とて、大力の早業、打物取て世に名を知られたる兵有けるが、同丸の上にふしなはめの大鎧すき間もなく著なし、獅子頭の冑に、目の下の頬当して、四尺三寸のいか物作の太刀をはき、大たて揚の膸当脇楯の下へ引こうて、柄も五尺身も五尺の備前長刀、右の小脇にかいこみて、「治承の合戦は、音に聞て目に見たる人なし。浄妙にや劣と我を見よ。敵を目に懸る程ならば、天竺の石橋、蜀川の縄の橋也とも、渡得ずと云事やあるべき。」と高声に広言吐て、橋桁の上にぞ進だる。櫓の上の掻楯の陰なる官軍共、是を射て落さんと、差攻引攻散々に射る。面僅に一尺計ある橋桁の上を、歩ば矢に違ふ様もなかりけるに、上る矢には指覆、下る矢をば跳越へ、弓手の矢には右の橋桁に飛移り、馬手の矢には左の橋桁へ飛移り、真中を指て射る矢をば、矢切の但馬にはあらねども、切て落さぬ矢はなかりけり。数万騎の敵御方立合て見ける処に、又山川判官が郎等二人、橋桁を渡て継たり。頼玄弥力を得て、櫓の下へかづき、堀立たる柱を、ゑいや/\と引くに、橋の上にかいたる櫓なれば、橋共にゆるぎ渡て、すはやゆり倒しぬとぞ見へたりける。

またこの騒動が一段落してから、橋の上に構築されていた櫓より、一人の武者が矢狭間のついた板を押し開き、「治承においては高倉の宮、以仁王の挙兵(治承四年::1180年)による合戦の時、宇治橋を三間ほど落とし、橋桁だけを残していたのを、三井寺の筒井浄妙明秀や五智院矢切但馬らは、

この橋など一条や二条の大通りより広いと言って、走り渡って合戦に及んだと言う。(平家物語第四巻、橋合戦)それから比べればこの橋などは、かい盾を設置するために、所々板がはずされていると言っても、人の渡ることが出来ないことはない。

坂東から上ってきて京を攻撃するについて、川を隔てての合戦が起こることは、当然想定されているはずだ。舟や筏を利用するのも準備その他、煩わしいばかりで、とてもうまくいくとは思えない。ここはただ橋を渡って白兵戦をやり、我々の実力の程をご覧になってはどうだ」と、

敵に向かって侮辱的な言葉で挑発し、笑いものにして立ち止まったのでした。この言い草を聞いていた、武蔵守高師直の家来、野木与一兵衛入道頼玄と言う、大力と敏捷な技で世間にその名を知られた兵士が、胴丸の鎧の上から伏縄目威し(斜線文様や波形に染めた革で威したもの)の大鎧をぴっちりと身に付け、

獅子頭の兜をかぶり、目の下には頬当てをして護り、四尺三寸の拵えのいかめしい太刀を帯びて、膝頭まで覆う大きな脛当てを、鎧の脇楯のあたりまで引っ張り、柄も五尺で刀身も五尺と言う備前の長刀を、右の小脇に掻き込み、「治承の合戦のこと、噂には聞いても実際に目にした者など居ない。

浄妙に劣るかどうかこの俺を見てみろ。敵が目に見えるくらいなら、天竺(インド)の石橋(千尋の谷にかかった長さ三丈、幅一尺ほどのコケで覆われた石橋)でも、蜀川の縄の橋(蜀の桟道では?)であっても、渡ることが出来ないなんてことがあろうか」と声高に広言を吐いて、橋桁の上を進んで行きました。

櫓の上にある大型の楯の陰にいる官軍らは、彼を射落とそうと、次から次へと激しく矢を放ちました。幅が僅か一尺ほどの橋桁の上を歩いて行けば、飛んでくる矢に行き会うこともあろうに、上方を飛ぶ矢には身を屈め、低く飛んでくる矢に対しては跳び越え、

左側に矢が来れば右の橋桁に飛び移り、右を飛んでくる矢には、左の橋桁に飛び移り、また正面に来る矢は、矢切の但馬ではありませんが、全て切り落としました。敵味方の数万騎がこの様子を見ていると、また山川判官の家来、二人が続けて橋桁を渡り始めました。

これにより頼玄はますます勇気付き、櫓の下に近づくと立ててある柱を、エイやエイやとゆすりました。橋の上に造られた櫓なので橋もろとも揺れ動き、今にも揺れ倒されそうに見えました。


櫓の上なる射手共四五十人叶はじとや思けん、飛下々々倒れふためいて二の木戸の内へ逃入ければ、寄手数十万騎同音に箙を敲てぞ笑ける。「すはや敵は引ぞ。」と云程こそ有けれ、参河・遠江・美濃・尾張のはやり雄の兵共千余人、馬を乗放々々、我前にとせき合て渡るに、射落されせき落されて、水に溺るゝ者数を知ず。其をも不顧、幾程もなき橋の上に、沓の子を打たるが如く立双で、重々に構たる櫓かい楯を引破らんと引ける程に、敵や兼てをしたりけん、橋桁四五間中より折れて、落入る兵千余人、浮ぬ沈ぬ流行。数万の官軍同音に楯を敲てどつと咲。され共野木与一兵衛入道計は、水練さへ達者也ければ、橋の板一枚に乗り、長刀を棹に指て、本の陣へぞ帰りける。是より後は橋桁もつゞかず、筏も叶ず。右てはいつまでか向居べきと、責あぐんで思ける処に、さも小賢げなる力者一人立封したる文を持て、「赤松筑前殿の御陣はいづくにて候ぞ。」と、問々走て出来る。筑前守は八日の宵より、桃井修理亮・土屋三川守・安保丹後守と陣を双て、橋の下に居たりけるが、此使を見付て、急文を披て見れば、舎兄信濃守範資の自筆にて、「義貞以下の逆徒等退治の事、将軍家の御教書到来の間、為挙義兵播州に罷下る処に、細川卿律師定禅、京都に責上らるゝ間、路次に於て参会す。且く元弘の佳例に任て、範資可打先陣由一諾事訖、今日已芥河の宿に著候也。明日十日辰剋には、山崎の陣へ推寄て、合戦を致すべきにて候。此由を又将軍へ申さしめ給ふべし。」とぞ書たりける。筑前守此状を持参して読上たりければ、将軍を始奉て、吉良・石堂・高・上杉・畠山の人々、「今はかうぞ。」と悦合る事不斜。此使立帰て後、相図の程にも成ければ、細川卿律師定禅二万余騎にて、桜井の宿の東へ打出、赤松信濃守範資二千余騎にて、川に副て押寄る。筑前守貞範、川向より旗の文を見て、小舟三艘に取乗押渡りて兄弟一所になる。此間東西数百里を隔て、安否更に知らざりしかば、いづくの陣にか討れぬらんと安き心もなかりつるに、互に恙無りける天運の程の不思議さよと、手に手を取組み、額を合せて、先づ悦び泣にぞ泣たりける。

櫓の上で矢を射ていた兵士四、五十人は危険を感じたのか、櫓より次々飛び降り、倒れ込むようにして二の木戸内へ逃げ込むと、見ていた寄せ手、数十万騎は箙を叩き声を揃えて笑いました。「そら見たか、敵は退いたぞ」と言うや、三河、遠江、美濃、尾張の勇み立った兵士ら千余人が、

馬を乗り捨てては我先に橋に向かい、ひしめき合って渡ろうとしましたが、敵の攻撃に射落とされたり、ひしめき合って川に落ち水に溺れる者、その数も分らないほどです。しかしそんなことにはお構いなく、それほども広くない橋の上を、大勢の人が隙間なく並んで、

幾重にも構えた櫓や、かい楯を破壊しようと、引っ張っていたところ、敵は前もって準備していたのか、橋桁が四、五間中程より折れると、千余人の兵士らは川に落ち、浮きつ沈みつ流されて行きました。数万の官軍らは、楯を叩き声を揃えてドッと笑いました。

その中でも野木与一兵衛入道は水泳が達者なので、橋の板切れ一枚に乗り、長刀を竿にして元の陣営に帰りました。この後は、橋桁を渡っての進攻もままならず、かといって筏に依る渡河も出来ません。いつまでも敵と向かい合っている訳にもいかず、

かといって良い攻撃方法も見つからず、攻めあぐねていると、見るからに要領の良さそうな一人の下人が、封をした書状を手にして、「赤松筑前守貞範殿の陣営は何処でしょうか」と問いかけ問いかけ、走ってきます。筑前守は八日の夕方より、

桃井修理亮、土屋三河守、安保丹後守らと陣を並べ、橋の近くにいましたが、この使者を見つけ、急いで書状を開いてみると、兄の赤松信濃守範資の自筆で、「新田義貞以下の逆賊征伐に関して、足利尊氏将軍家より御教書を頂いてから、

召しに応じて義兵と共に播州に向かっていたところ、京都に攻め上る途中の細川卿律師定禅に出会いました。ここは元弘の吉例に従って、範資を先陣にすることを快諾して頂き、今日、すでに芥川の宿に到着した。明日十日の辰刻(午前八時頃)には山崎の陣に押し寄せ、

合戦に及びたく考えている。この事、将軍に連絡されたし」と、書かれていました。筑前守は将軍の陣営に行き、持参したこの書状を読み上げたところ、将軍を初めとして、吉良、石堂、高、上杉、畠山の人々が、「よし、やったぞ」と、喜ぶこと並ではありません。

この使者が帰り約束の時間になった頃、細川卿律師定禅が二万余騎で桜井宿の東に展開し、また赤松信濃守範資が二千余騎で川に沿って押し寄せてきました。筑前守貞範は川向こうに見える旗の紋を見ると、小舟三艘に飛び乗って川を渡り、

兄弟は再会をしました。この戦乱の時代、東西に数百里を隔てて、お互い安否を知るすべもなく、どこかの合戦で討たれたのではないかと、心の休まる間も無かったのですが、このようにお互い無事だったとは天運に恵まれたのかと、その不思議さに手に手を取って額を寄せ合い、ただただ喜びに泣き続けられたのです。


山崎の合戦は、元弘の吉例に任せて、赤松先矢合をすべしと、兼て定められたりけるを、播磨の紀氏の者共、三百余騎抜懸して一番に押寄せたり。官軍敵を小勢と見て、木戸を開き、逆茂木を引除て、五百余騎抜連て懸出たるに、寄手一積もたまらず追立られて、四方に逃散る。二番に坂東・坂西の兵共二千余騎、桜井の宿の北より、山に副て推寄たり。城中の大将脇屋右衛門佐義助の兵、並宇都宮美濃将監泰藤が紀清両党二千余騎、二の木戸より同時に打出て、東西に開きあひ、南北へ追つ返つ、半時計相戦ふ。汗馬の馳違音、鬨作る声、山に響き地を動して、雌雄未決、戦半なる時、四国の大将細川卿律師定禅、六万余騎、赤松信濃守範資二千余騎、二手に分て押寄たり。官軍敵の大勢を見て、叶はじとや思ひけん、引返して城の中に引篭る。寄手弥機に乗て、堀に飛漬り、逆茂木引のけて、射れ共痛まず、打て共漂はず、乗越々々責入ける程に、堀は死人に埋て平地になり、矢間は皆射とぢられて開きゑず。城中早色めき立て見へけるが、一番に但馬国の住人、長九郎左衛門、同意の兵三百余騎、旗を巻て降人に出づ。是を見て、洞院按察大納言殿の御勢、文観僧正の手の者なんど云て、此間畠水練しつる者共、弓を弛し冑を脱で我先にと降人に出ける間、城中の官軍力を失て防得ず。さらば淀・鳥羽の辺へ引退て、大渡の勢と一に成て戦へとて、討残されたる官軍三千余騎、赤井を差て落行ば、山崎の陣は破にけり。「右ては敵皇居に乱入りぬと覚るぞ。主上を先山門へ行幸成奉てこそ、心安合戦をもせめ。」とて、新田左兵衛督、大渡を捨てゝ都へ帰給へば、大友千代松丸・宇都宮治部大輔降人に成て、将軍の御方に馳加る。義貞・義助一手に成て淀の大明神の前を引時、細川卿律師定禅六万余騎にて追懸たり。新田越後守義顕後陣に引けるが、三千余騎にて返合せ、相撲が辻を陣に取て、旗を颯と指揚たりけれ共、跡に合戦有とは義貞には告られず。先山門へ行幸を成奉らん為也。越後守義顕、矢軍にて且く時を移し、義貞今は内裏へ参られぬらんと覚る程に成て、三千余騎を二手に分て、東西よりどつとをめいて懸入、大勢に颯と乱合ひ火を散してぞ闘たる。只今まで御方に有て、敵になりぬる大友・宇都宮が兵共なれば、越後守を見知て、自余の勢には目を懸ず、此に取篭め彼によせ合せて、打留めんとしけるを、義顕打破ては囲を出、取て返ては追退け、七八度まで自戦れけるに、鎧の袖も冑のしころも、皆切落されて、深手あまた所負ひければ、半死半生に切成されて、僅に都へ帰り給ふ。

山崎の合戦は元弘の吉例に従って、赤松がまず最初に矢合わせを行うと、前もって決められていたのに、播磨の紀氏の兵士ら三百余騎が、抜け駆けして一番に押し寄せました。官軍はこの敵を僅かな軍勢だと考え、木戸を開き逆茂木も引き抜いた上、

五百余騎が太刀を抜き放って駆け出たところ、寄せ手はたまらず追い立てられ、四方に逃げ散りました。二番手は阿波国の坂東郡、坂西郡の兵士ら二千余騎が、桜井の宿の北方から山に沿って押し寄せました。城中にいる官軍の大将脇屋右衛門義助の兵士と、

並びに宇都宮美濃将監泰藤の紀清両党と呼ばれる二千余騎が、二の木戸より同時に飛び出すと、東西に開いたり、南北に追い込み、また引き下がったりしながら、半時(約一時間)ばかり闘いました。汗にまみれた馬の駆け違う音や、互いに挙げる閧の声などが、

山に響き渡り地は鳴動するものの、勝敗は未だ決せず、戦闘半ばに四国の大将、細川卿律師定禅の六万余騎と、赤松信濃守範資の二千余騎が、二手に分かれて押し寄せてきました。官軍はこの敵の大軍勢を見ると、これは戦にならないと思ったのか、

引き返して城に引き篭もりました。これによって寄せ手軍は勝機を逃さじと、堀に飛び込み逆茂木を引き抜きました。城内から矢を射込まれても怯まず、討たれてもたじろぐことなく、死人を乗り越え乗り越え攻め込んで行ったので、堀は死人で埋まって、

まるで平地のようになり、矢狭間は全て矢で閉じられ開くことも出来ません。城内では早くも動揺が見られ、一番最初に但馬国の豪族、長九郎左衛門と同じ考えの兵ら三百余騎が、旗を巻いて降参を申し出でました。これを見て洞院按察大納言殿の軍勢である文観僧正の家来、

普段は兵士と名乗っていながら、実際には理屈ばかりで、実地の訓練が出来ていない僧兵らが、弓の弦を外し、兜を脱いで我先に降伏したので、城内の官軍らは戦意を失って、もう防禦にも身が入りません。こうなれば、淀か鳥羽のあたりまで退却し、大渡の軍勢と合流して戦おうとなり、

討たれずに残っている官軍の軍勢三千余騎は、赤井を目指して落ちて行き、山崎の陣地はここに敗れたのでした。新田左兵衛督義貞は、「この様子では、敵は皇居になだれ込むと思われる。とりあえず、天皇には比叡山延暦寺まで行幸して頂き、

その後憂い無く合戦に集中出来ると言うものだ」と言って、大渡の陣を捨て都に帰る事にしたところ、大友千代松丸と宇都宮治部大輔は降伏して、尊氏将軍の味方に加わったのです。官軍側は、新田義貞と脇屋義助が合流し、淀の大明神(淀姫の社?)の門前を退却している時、

細川卿律師定禅が六万余騎にて追撃してきました。官軍の新田越後守義顕(新田義貞の長男)はその時しんがりで退却中でしたが、三千余騎で引き返し相撲が辻に陣を構え、旗をサッと揚げましたが、前方を退却中の義貞には、知らせませんでした。

帝を比叡山延暦寺に行幸願うことが、何よりも急がれたからです。越後守義顕は矢戦をしながら時を稼ぎ、義貞がすでに内裏に到着したと思われる頃、三千余騎の軍勢を二手に分け、東西からドッと喚声をあげて攻め込み、敵の大軍の虚を突いて乱戦に持ち込み、

火花を散らしての激戦となりました。ついさっきまで官軍に属していながら、今は敵になった大友や宇都宮の兵士らですから、越後守を良く知っているので、その他の兵士らには目もくれず、ただ越後守だけを取り囲み、討ち取ろうとしましたが、

義顕はその攻撃をかわして包囲網を脱出し、引き返しては戦い、また退却するなど七、八度を自ら闘う内に、鎧の袖も兜の錣も皆切り落とされ、体中いたる所に深い傷を負い、半死半生の状態で何とか都に逃げ帰ったのでした。


○主上都落事付勅使河原自害事
山崎・大渡の陣破れぬと聞へければ、京中の貴賎上下、俄に出来たる事の様に、周章ふためき倒れ迷て、車馬東西に馳違ふ。蔵物・財宝を上下へ持運ぶ。義貞・義助未馳参らざる前に、主上は山門へ落させ給はんとて、三種の神器を玉体にそへて、鳳輦に召されたれ共、駕輿丁一人もなかりければ、四門を堅て候武士共、鎧著ながら徒立に成て、御輿の前後をぞ仕りける。吉田内大臣定房公、車を飛ばせて参ぜられたりけるが、御所中を走廻て見給ふに、よく近侍の人々も周章たりけりと覚て、明星・日の札、二間の御本尊まで、皆捨置かれたり。内府心閑に青侍共に執持せて参ぜられけるが、如何かして見落し給ひけん、玄象・牧馬・達磨の御袈裟・毘須羯摩が作し五大尊、取落されけるこそ浅猿しけれ。公卿・殿上人三四人こそ、衣冠正くして供奉せられたりけれ、其外の衛府の官は、皆甲冑を著し、弓箭を帯して、翠花の前後に打囲む。此二三年の間天下僅に一統にして、朝恩に誇りし月卿雲客、指たる事もなきに、武具を嗜み弓馬を好みて、朝義道に違ひ、礼法則に背しも、早かゝる不思議出来るべき前表也と、今こそ思ひ知られたれ。新田左兵衛督・脇屋右衛門佐・並に江田・大館・堀口美濃守・里見・大井田・々中・篭沢以下の一族三十余人・千葉介・宇都宮美濃将監・仁科・高梨・菊池以下の外様の大名八十余人、其勢僅に二万余騎、鳳輦の跡を守禦して、皆東坂本へと馬を早む。事の騒しかりし有様たゞ安禄山が潼関の軍に、官軍忽に打負て、玄宗皇帝自ら蜀の国へ落させ給しに、六軍翠花に随て、剣閣の雲に迷しに異ならず。爰に信濃国の住人に勅使川原丹三郎は、大渡の手に向たりけるが、宇治も山崎も破れて、主上早何地共なく東を差て落させ給ひぬと披露有ければ、「見危致命臣の義也。我何の顔有てか、亡朝の臣として、不義の逆臣に順はんや。」と云て、三条川原より父子三騎引返して、鳥羽の造路・羅精門の辺にて、腹かき切て死けり。

☆ 帝が都を落ちられたことと、勅使河原丹三郎が自害したこと

山崎、大渡の合戦に敗れた事が都中に知れ渡ると、京中の人々は身分に関係なく、突然の出来事かのように慌てふためき、何をどうすれば良いのかウロウロするばかりで、ただ車馬が東西に走り回り、家財道具や資財などを運び出しています。

義貞や義助らがまだ都に駆けつける前に、帝は比叡山延暦寺に落ちて頂こうと、三種の神器を帝のお体に添えて頂き、天子用の駕籠にお乗り頂こうとしましたが、駕籠を担ぐ専門の役人が一人もいないので、内裏の四門を警護している武士らに、身に付けた鎧はそのままに馬を降り、

御輿の前後を担ぎました。やがて吉田内大臣定房公が車を飛ばして参内され、御所中を走り回って見たところ、近侍の人々もよほど慌てていたらしく、清涼殿の明星と日の簡(殿上人の名札)、二間(持仏堂)のご本尊(観音像ともう一つ)まで置き去りになっていました。

定房公は冷静沈着な心を保って、若侍らに指図しながら点検していましたが、何処でどう見落としたのか、玄象、牧場、達磨の御袈裟と毘須羯磨(びしゅかつま)が彫刻した五大尊をうっかりしたのは、何とも残念なことでした。帝には公卿や殿上人の三、四人が衣冠正しく着用してお供しましたが、

その他衛府の役人らは皆甲冑を身に着け、弓箭を手に、天皇の旗の前後を囲みました。ここ二、三年の間と言うものは、天下が何とか統一されて、朝廷から受ける恩賞を誇っていた公卿や殿上人などが、特に必要も無いのに武具に凝ったり、弓馬に興味を持ったりして、

朝廷に対して義理を欠き、礼儀をわきまえなかったことなどは、このように早すぎる異常事態を引き起こす前触れだったのかと、今更思い知らされたのでした。さて新田左兵衛督義貞と脇屋右衛門佐義助並びに江田、大館、堀口美濃守、里見、大井田、田中、篭沢以下の一族三十余人、

千葉介、宇都宮美濃将監、仁科、高梨、菊池以下の外様大名ら八十余人など、総勢僅か二万余騎が天皇の御輿の後を護衛しながら、東坂本に向かって馬を急がせました。ことの騒々しさは、その昔、安禄山が潼関(どうかん)の戦で唐と戦ったところ、

唐の官軍はたちまちに負けを喫し、玄宗皇帝が自ら蜀の国に落ち延びる時、天皇の軍隊は帝の旗に従ったものの、蜀への道の中でも、一番の難所と言われる剣閣にかかる雲に迷っている様子と何ら変わりありません。またこの戦の最中、信濃国の豪族、勅使河原丹三郎は、

大渡の陣営に向かっていましたが、宇治も山崎も敗れてしまい、天皇は早くも東に向かって何処かに落ちられたと聞き、「危険を見れば命を投げ出すのが、臣のとるべき道である。この私は滅亡した朝廷に仕える臣下として、人の道に外れた逆臣に従属して、何の体面が保てると言うのか」と言うと、

三条河原より父子三騎で引き返し、鳥羽の造り道(当時の幹線道路)、羅城門の近くで腹を掻き切って死んだのでした。


○長年帰洛事付内裏炎上事
那和伯耆守長年は、勢多を堅めて居たりけるが、山崎の陣破れて、主上早東坂本へ落させ給ぬと聞へければ、是より直に坂本へ馳参らんずる事は安けれ共、今一度内裏へ馳まいらで直に落行んずる事は、後難あるべしとて、其勢三百余騎にて、十日の暮程に又京都へぞ帰ける。今日は悪日とて将軍未都へは入給はざりけれ共、四国・西国の兵共、数万騎打入て、京白川に充満たれば、帆掛舟の笠符を見て、此に要彼に遮て、打留んとしけれ共、長年懸散ては通り、打破ては囲を出、十七度まで戦けるに、三百余騎の勢次第々々に討れて、百騎計に成にけり。され共長年遂に討れざれば、内裏の置石の辺にて、馬よりをり冑を脱ぎ、南庭に跪く。主上東坂本へ臨幸成て、数剋の事なれば、四門悉閇て、宮殿正に寂寞たり。然ば早甲乙人共、乱入けりと覚て、百官礼儀を調し紫宸殿の上には賢聖の障子引破られて、雲台の画図此こ彼こに乱たり。佳人晨装を餝りし弘徽殿の前には、翡翠の御簾半より絶て、微月の銀鉤虚く懸れり。長年つく/゛\と是を見て、さしも勇める夷心にも哀れの色や勝りけん、泪を両眼に余て鎧の袖をぞぬらしける。良且く徘徊て居たりけるが、敵の時の声ま近く聞へければ、陽明門の前より馬に打乗て、北白川を東へ今路越に懸て、東坂本へぞ参ける。其後四国・西国の兵共、洛中に乱入て、行幸供奉の人々の家に、屋形屋形に火を懸たれば、時節辻風はげしく吹布て、竜楼竹苑准后の御所・式部卿親王常盤井殿・聖主御遊の馬場の御所、煙同時に立登りて炎四方に充満たれば、猛火内裏に懸て、前殿后宮・諸司八省・三十六殿十二門、大廈の構へ、徒に一時の灰燼と成にけり。越王呉を亡して姑蘇城一片の煙となり、項羽秦を傾て、咸陽宮三月の火を盛にせし、呉越・秦楚の古も、是にはよも過じと、浅猿かりし世間なり。

☆ 名和長年が都に帰ってきたことと、内裏が炎上したこと

名和伯耆守長年は瀬田の防衛に務めていましたが、山崎の陣営が破れ、天皇もすでに東坂本へ落ちて行かれたと聞き、ここより真っ直ぐ坂本に駆け付けることは簡単だけれど、ここで一度も内裏に駆けつけることもせず、直接坂本に落ちて行くことは、

後で何か問題があるかもしれないので、その勢三百余騎を率いて、十日の暮れ頃、再び京都に帰られました。その頃尊氏将軍は、今日は日が悪いからと都にはまだ入っていませんが、四国、西国の兵士ら数万騎が都に進軍し、京白川周辺に満ち溢れていました。

そこに長年の軍勢が内裏に向かって進んできたのです。尊氏軍の兵士らが帆掛舟の笠印を見つけ、ここで迎え撃とうとしたり、またあちらで行く手を遮って、討ち取ろうとしましたが、長年の軍勢は敵を駆け散らして進み、また包囲網を破ったりしながら、

十七回にわたる戦闘を繰り返す内、三百余騎の軍勢も次第次第に討たれて、百騎ばかりになってしまいました。しかし長年は最後まで討たれることなく、内裏に着き、置石の近くで馬を降り、兜を脱いで紫宸殿正面の庭に跪きました。天皇が東坂本に臨幸されてから、

数刻を過ぎていますが、四門は全て閉められており、宮殿内はひっそりとしています。ところが早くも群衆らが乱入したのか、殿上人ら百官が礼儀を尽くしていた紫宸殿の床には、賢聖障子(紫宸殿の母屋と北庇との境に立てられている襖)が引き破られ、書庫に格納されていた書物や絵画なども、

あちこちに散乱しています。皇后や女御など美しい女性らが、化粧を競った弘徽殿に掛けられていた、翡翠のように緑色の美しい簾は、半ばから引きちぎられ、月の形をした銀製の簾かけだけが空しく残っています。長年はこの様子をしみじみ眺めて、あれほど勇猛にして荒くれた心でさえ、

物の哀れを感じたのか、涙が両の目に溢れ鎧の袖を濡らしたのでした。その後もしばらく内裏の中を見回っていましたが、敵の挙げる閧の声も、間近くに聞こえ始めたので、陽明門の前から馬に乗り、北白川を東に向かって、今路越(山中越)を経由して東坂本に着きました。

その後四国、西国の兵士らが洛内になだれ込み、行幸にお供した人達の屋敷の各建物に、火をかけ回ったので、時節柄、激しく吹き荒れる風のため、宮殿の楼門や准后(阿野廉子)の御所や、式部卿親王常盤井殿(亀山法皇の末子)、帝の御遊される馬場の御所などが同時に煙を上げ、

炎は四方に充満し、激しく燃える火は内裏にまで襲い掛かり、紫宸殿、皇后の御殿、諸官庁や八省の建物、三十六殿十二門、その他大きな建物など、為すすべなく一時に灰燼となってしまいました。古代中国の越王、勾踐が呉の夫差を滅ぼし、姑蘇城が一片の灰になったことや、

また楚国の項羽が秦国を滅ぼして、咸陽宮が三ヶ月に渡って燃え続けたと言う、呉越、秦楚の故事も、この内裏炎上ほどではなかったのではと言われ、誠に情けない限りの世の中です。


○将軍入洛事付親光討死事
明れば正月十一日、将軍八十万騎にて都へ入給ふ。兼ては合戦事故なくして入洛せば、持明院殿の御方の院・宮々の御中に一人御位に即奉て、天下の政道をば武家より計ひ申べしと、議定せられたりけるが、持明院の法皇・儲王・儲君一人も残らせ給はず、皆山門へ御幸成たりける間、将軍自ら万機の政をし給はん事も叶ふまじ、天下の事如何すべきと案じ煩ふてぞおはしける。結城大田判官親光は、此君に弐ろなき者也と深く憑まれ進せて、朝恩に誇る事傍に人なきが如也ければ、鳳輦に供奉せんとしけるが、此世の中、とても今は墓々しからじと思ひければ、いかにもして将軍をねらい奉らん為に、態と都に落止てぞ居たりける。或禅僧を縁に執て、降参仕るべき由を将軍へ申入たりければ、「親光が所存よも誠の降参にてはあらじ、只尊氏をたばからん為にてぞあるらん。乍去事の様を聞かん。」とて、大友左近将監をぞ遣されける。去程に大友と太田判官と、楊梅東洞院にて行合たり。大友は元来少し思慮なき者也ければ、結城に向て、「御降参の由を申され候つるに依て、某を御使にて事の由を能々尋ねよと仰せらるゝにて候。何様降人の法にて候へば、御物具を解せ給ひ候べし。」と、あらゝかに言をぞ懸たりける。親光是を聞て、さては将軍はや我心中を推量有て、打手の使に大友を出されたりと心得て、「物具を解せよとの御使にて候はゞ進候はん。」と云侭に、三尺八寸の太刀を抜て、大友に馳懸り、冑のしころより本頚まで、鋒五寸計ぞ打こみたる。大友も太刀を抜んとしけるが、目やくれけん、一尺計抜懸て馬より倒に落て死にけり。是を見て大友が若党三百余騎、結城が手の者十七騎を中に取篭て、余さず是を討んとす。結城が郎等共は、元来主と共に討死せんと、思切たる者共なれば、中々戦てはなにかせんとて、引組では差違差違、一足も引かず、一所にて十四人まで打れにけり。敵も御方も是を聞て、「あたら兵を、時の間に失つる事の方見しさよ。」と、惜まぬ人こそなかりけれ。

☆ 尊氏将軍が入洛されたことと、親光が討ち死にしたこと

明けて建武三年(1336年)正月十一日、尊氏将軍は八十万騎の軍勢を率いて都に入りました。以前から合戦を行うことなく入洛を果たしたなら、持明院殿の系列に居られる、院や各宮家の中からお一人を選んで、天皇に即位していただき、

天下の政治一般を武家によって執り行うことと決めていましたが、持明院統の法皇、皇太子、そのほか有資格者など皆、延暦寺に御幸され、一人も残っていません。かといって将軍自ら政治を行うことも出来ず、どうすれば良いのか解決の方法に悩んでいました。

さて、結城大田判官親光は、後醍醐天皇には二心無き者と思われて信頼厚く、朝廷よりの待遇も人並み以上で、当然の如く天皇の御輿にお供するつもりでいましたが、今の世の中、何事も思い通り進むことなど考えられず、ここは何としても尊氏将軍を亡き者にしなければと、

お供を取り止め都に留まっていました。そして或る禅僧の縁を頼って、尊氏将軍に降参する旨申し入れたところ、尊氏は、「親光の降参申し出でなど、まさか本気とは思えない。尊氏を欺こうと考えてのことだろう。ここは彼の言い分を聞いてやろう」と言って、大友左近将監に面接させました。

そして大友と大田判官は楊梅東洞院にて落ち合いました。大友左近将監は元来軽薄なところがあり、結城に向かって、「降参されるとの申し入れがあったので、私が使者として降参の理由など、事情を詳しく聞いてくるよう言われました。とりあえずここは降伏者としての扱いなので、

腰の物など武器を預からせてもらいます」と、ぶしつけに声を掛けました。親光はこの言葉を聞くと、さては足利将軍は、早くもこの私の意図を察して、討手として大友を遣わしたと考え、「武器を差し出せとの仰せなら、そう致しましょう」と言いながら、三尺八寸の太刀を抜き大友に斬りかかり、

兜の錣から首まで、深さ五寸ばかり打ち込んだのです。大友も太刀を抜こうとしましたが、目の前が真っ暗になり、一尺ほど抜いただけで馬から倒れ落ち、死んでしまいました。これを見て大友の若侍ら三百余騎が、結城の家来ら十七騎を取り囲んで、全員を討ち取ろうとしました。

結城の家来らは、当然主人と共に討ち死にを覚悟した者ですから、戦闘になれば思い切って闘おうと、意外に抵抗し、一歩も退くことなく闘ったので、その場で十四人が討たれたのです。敵も味方もこの話を聞き、「惜しむべき勇敢な兵士らを、そんな簡単に失って良いものか、情けない話だ」と、惜しまない人はいませんでした。


○坂本御皇居並御願書事
主上已に東坂本に臨幸成て、大宮の彼岸所に御座あれ共、未参ずる大衆一人もなし。さては衆徒の心も変じぬるにやと叡慮を悩されける処に、藤本房英憲僧都参て、申出たる言もなく泪を流して大床の上に畏てぞ候ける。主上御簾の内より叡覧あて名字を委く尋仰らる。さて其後、「硯やある。」と仰られければ、英憲急ぎ硯を召寄て御前に閣く。自宸筆を染られて御願書をあそばされ、「是を大宮の神殿に篭よ。」と仰せ下されければ、英憲畏て右方権禰宜行親を以て是を納め奉る。暫くあて円宗院法印定宗、同宿五百余人召具して参りたり。君大に叡感有て、大床へ召る。定宗御前に跪て申けるは、「桓武皇帝の御宇に、高祖大師当山を開基して、百王鎮護の伽藍を立られ候しより以来、朝家に悦び有る時は、九院挙て掌を合せ、山門に愁へある日は、百司均く心を傾られずと申す事候はず。誠に仏法と王法と相比する故、人として知ずと云者候べからず。されば今逆臣朝廷を危めんとするに依て、忝も万乗の聖主、吾山を御憑あて、臨幸成て候はんずるを、褊し申す衆徒は、一人もあるまじきにて候。身不肖に候へ共、定宗一人忠貞を存ずる程ならば、三千の宗徒、弐ろはあらじと思食し候べし。供奉の官軍さこそ窮屈に候らめ。先御宿を点じて進せ候べし。」とて、二十一箇所の彼岸所、其外坂本・戸津・比叡辻の坊々・家々に札を打て、諸軍勢をぞやどしける。其後又南岸坊の僧都・道場坊祐覚、同宿千余人召具して、先内裏に参じ、やがて十禅師に立登て大衆を起し、僉議の趣を院々・谷々へぞ触送りける間、三千の衆徒悉く甲冑を帯して馳参。先官軍の兵粮とて、銭貨六万貫・米穀七千石・波止土濃の前に積だりければ、祐覚是を奉行して、諸軍勢に配分す。さてこそ未医王山王も、我君を捨させ給はざりけりと、敗軍の士卒悉く憑もしき事には思ひけれ。

☆ 坂本の皇居と、願書をお書きになったこと

後醍醐天皇はすでに東坂本に臨幸され、日吉社大宮彼岸所に居られますが、未だ参内する大衆は一人もいません。天皇も、さては衆徒らは心変わりしたのではないかと思い、頭を痛めておられたところ、藤本房英憲僧都が参内し、何も言わずに涙を流しながら、

大床の上に畏まって控えました。帝は御簾の中から彼をご覧になり、名前を詳しくお尋ねになりました。その後、「硯はあるか」と仰せられたので、英憲は大急ぎで硯を取り寄せ、御前に置かれました。帝は自ら筆をとられて、御願書を認められると、「これを大宮の神殿に納めるように」と仰せられ、

英憲が謹んで受け取り、右方権禰宜行親に指示して、これを納められました。しばらくして円宗院法印定宗が同じ僧房で生活する、五百余人を連れて参内してきました。帝は大いに喜ばれ、大床に呼ばれました。定宗は帝の御前に跪き、「桓武天皇の御代に、高祖伝教大師最澄が当山を開き、

代々の天皇、国家の安泰を願って、伽藍を建造されて以来、朝廷に慶事のある時は九院(止観院、定心院、惣持院、戒壇院、八部院、山王院、西塔院、浄土院、四王院)揃って合掌して仏に感謝し、山門延暦寺に難題が起こった時には、諸官庁の諸役人らも、同じように心を痛められないことなどありません。

誠に仏教と帝の行う政治は、互いに影響を与え合っていること、万人の知るところであります。ところが今、逆臣尊氏が朝廷の権威を脅かそうとするため、万乗の君は我が山門を頼りに思われ、御臨幸されたことについて、批判的なことを話す衆徒など、一人もおりません。

私、未熟者ではありますが、この定宗一人の忠義と貞節を信じていただき、三千の衆徒らに二心が無いとお考えください。供奉されてきた官軍の皆様も、さぞやご不便をお感じになっておられることでしょう。まずお宿をご用意いたしましょう」と話し、

二十一ヶ所の諸建物やその外、坂本、戸津、比叡辻付近の諸坊や諸民家に謝礼を渡して、軍勢の宿営地としました。その後、また南岸坊の僧都、道場坊祐覚らが同僚の千余人を引き連れて最初内裏に参内してから、十禅師(日吉山王七社権現の一)に登り大衆に向かって、

会議の趣旨とその結果を、院々や谷々に触れ回りました。その結果、三千の衆徒ら全員が、甲冑で身を固めて駆けつけてきました。まず官軍の兵糧として、銭貨六万貫、米穀七千石を橋殿(簡単な屋形)の前に積み上げ、祐覚が責任者となってこれらの兵糧を諸軍勢に配分しました。

このようにして、まだまだ医王山王(延暦寺根本中堂の本尊、薬師如来と、日吉神社の日吉山王権現)も後醍醐天皇をお見捨てにはなっていないと、敗軍の兵士や将官らですが、全員頼もしく思われたのです。      (終り)

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