15 太平記 巻第十五  (その一)


○園城寺戒壇事
山門二心なく君を擁護し奉て、北国・奥州の勢を相待由聞へければ、義貞に勢の著ぬ前に、東坂本を急可被責とて、細川卿律師定禅・同刑部少輔・並陸奥守を大将として、六万余騎を三井寺へ被差遣。是は何も山門に敵する寺なれば、衆徒の所存よも二心非じと被憑ける故也。随而衆徒被致忠節者、戒壇造営の事、武家殊に加力可成其功之由、被成御教書。抑園城寺の三摩耶戒壇の事は、前々已に公家尊崇の儀を以て、勅裁を被成、又関東贔負の威を添て取立しか共、山門嗷訴を恣にして猛威を振ふ間、干戈是より動き、回禄度々に及べり。其故を如何と尋るに、彼寺の開山高祖智証大師と申奉るは、最初叡山伝教大師の御弟子にて、顕密両宗の碩徳、智行兼備の権者にてぞ御坐しける。而るに伝教大師御入滅の後、智証大師の御弟子と、慈覚大師の御弟子と、聊法論の事有て、忽に確執に及ける間、智証大師の門徒修禅三百房引て、三井寺に移る。于時教待和尚百六十年行て祈出し給し生身の弥勒菩薩を智証大師に付属し給へり。大師是を受て、三密瑜伽の道場を構へ、一代説教の法席を展給けり。其後仁寿三年に、智証大師求法の為に御渡唐有けるに、悪風俄に吹来て、海上の御船忽にくつがへらんとせし時、大師舷に立出て、十方を一礼して誠礼を致させ給ひしかば、仏法護持の不動明王、金色の身相を現じて、船の舳に立給ふ。又新羅大明神親りに船の艫に化現して、自橈を取給ふ。依之御舟無恙明州津に著にけり。角て御在唐七箇年の間、寝食を忘て顕密の奥義を究め給ひて、天安三年に御帰朝あり。

☆ 園城寺の戒壇のこと

山門延暦寺の衆徒らが二心なく、後醍醐天皇を擁護することになり、北国や奥州の軍勢をお待ちになっていると聞くと、尊氏の率いる軍としては、義貞にそれらの軍勢が加勢する前に、東坂本の日吉社を急いで攻略しようと、細川卿律師定禅、同じく刑部少輔、並びに陸奥守を大将に定め、

六万余騎で三井寺に派遣しました。これは三井寺が何かに付けて山門と敵対する寺院ですから、衆徒らの考えもまさか山門に同調などしないだろうと、頼りにしているからです。園城寺の衆徒らが忠義を守った上、武家に協力をすれば戒壇の造営に関しても、

その功によって建造の許可を御教書として渡しています。そもそも園城寺の三摩耶(真言密教で説く、心、仏、衆生は平等である)戒壇造営の件について、三井寺は以前よりすでに、公家から尊敬を受けている寺院なので、勅裁(天皇による決定)を頂いています。

また関東幕府から特別な援護も受けていましたが、比叡山は強訴に強訴を続けたため、幾度も武力衝突を引き起こし、その結果火災の難に度々合っている始末です。その理由は次のようなことです。この園城寺開山の高祖智証大師円珍と言われるお方は、

最初は比叡山伝教大師最澄の御弟子で、顕教、密教の二つに高い徳をお持ちであり、また智識と修行の二つを極められたお方です。ところが伝教大師がお亡くなりになってから、智証大師の御弟子と慈覚大師の御弟子の間で、いささか法論(仏教に関する理論など)の違いなどで問題が起こって、

このためすぐお互いが憎み合うこととなり、智証大師の門徒、修行僧が三百房の人間を率いて三井寺に移りました。その頃、教持和尚という老僧が、百六十年簡、行を行って、生身のままの弥勒菩薩になっていました。そしてこの三井寺の仏法を護ってきたのですが、

今後この弥勒菩薩は新しく三井寺に来られた智証大師に従うことになりました。智証大師はこの弥勒菩薩を受け入れ、行者と仏の三密(仏の身、言葉、意思)の融合をはかる道場を建造し、釈迦一代の説教を指導者が行う席を設けました。その後仁寿三年(853年)に智証大師円珍は仏法研究のため、

唐に渡られましたが、突然暴風が吹き荒れ、海上を進む舟が今にも転覆しそうになりました。しかし、その時大師は舷側に立ち、四方八方その他全てに向かって礼拝されますと、仏教を大切に護っている不動明王が金色の姿でその身を現し、舟のへさきにお立ちになりました。

また新羅大明神が船尾にその姿を現され、みずから櫂を取られました。このため舟は何事も無く明州(寧波)の港にお着きになりました。このようにして唐に居られた七ヵ年、寝食を忘れて努力され、顕教、密教の奥義を極められて、天安三年(859年)に日本にお帰りになられました。


其後法流弥盛にして、一朝の綱領、四海の倚頼たりしかば、此寺四箇の大寺の其一つとして、論場の公請に随ひ、宝祚の護持を致事諸寺に卓犖せり。抑山門已に菩薩の大乗戒を建、南都は又声聞の小乗戒を立つ。園城寺何ぞ真言の三摩耶戒を建ざらんやとて、後朱雀院の御宇長暦年中に、三井寺の明尊僧正、頻りに勅許を蒙らんと奏聞しけるを、山門堅く支申ければ、彼寺の本主太政大臣大友皇子の後胤、大友夜須磨呂の氏族連署して、官府を申す。貞観六年十二月五日の状に曰、「望請長為延暦寺別院、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、以園城寺、如解状可為延暦寺別院之由、被下寺牒。将俾慰夜須磨呂並氏人愁吟。弥為天台別院専祈天長地久之御願、可致四海八えん(土偏に延)之泰平云云。仍貞観八年五月十四日、官符被成下曰、以園城寺可為天台別院云云。如之貞観九年十月三日智証大師記文云、円珍之門弟不可受南都小乗劣戒、必於大乗戒壇院、可受菩薩別解脱戒云云。然ば本末の号歴然たり。師弟の義何ぞ同からん。」証を引き理を立て支申ける間、君思食煩せ給て、「許否共に凡慮の及処に非れば、只可任冥慮。」とて、自告文を被遊て叡山根本中堂に被篭けり。其詞云、「戒壇立、而可無国家之危者、悟其旨帰、戒壇立而可有王者之懼者、施其示現云云。」此告文を被篭て、七日に当りける夜、主上不思議の御夢想ありけり。無動寺の慶命僧正、一紙の消息を進て云、「自胎内之昔、至治天之今、忝雖奉祈請宝祚長久、三井寺戒壇院若被宣下者、可失本懐云云。」又其翌夜の御夢に彼慶命僧正参内して紫宸殿に被立たりけるが、大きに忿れる気色にて、「昨日一紙の状を雖進覧、叡慮更に不驚給、所詮三井寺の戒壇有勅許者、変年来之御祈、忽に可成怨心。」と宣ふ。又其翌の夜の御夢に、一人の老翁弓箭を帯して殿上に候す。主上、「汝は何者ぞ。」と御尋有ければ、「円宗擁護の赤山大明神にて候。三井寺の戒壇院執奏の人に向て、矢一つ仕ん為に参内して候也。」とぞ申れける。夜々の御夢想に、君も臣も恐て被成ければ、遂に寺門の所望被黙止、山門に道理をぞ被付ける。

その後ますます園城寺の流派は盛んになり、我が朝廷の基本方針と共に、国家の鎮守の役割を担うようになり、この寺は日本四ヶ所の大寺院(朝廷の祈願所::大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺の四寺、または東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)の一つとなり、朝廷で行われる法会や講義に講師として呼ばれ、

天皇の地位と朝廷の安泰を祈願するよう、依頼を受けることは他の寺院より抜き出ています。また山門延暦寺はすでに、菩薩の大乗戒壇(大乗の菩薩が受け持つ戒を授ける壇)を建造しており、南都興福寺もまた仏弟子による小乗戒壇を建てています。

それなのに何故園城寺は真言の三摩耶戒壇を建造していないのかと、後朱雀院の御代、長暦(1037-1039年)の時代に、三井寺の明尊僧正が、朝廷より許可を貰おうと、しきりに申請をしましたが、延暦寺がそのたびに難色を示すので、園城寺の檀家である太政大臣大友皇子の子孫、

大友夜須麻呂に繋がる一族が連署して、朝廷に申請しました。貞観六年(864年)十二月五日付けの書類に、「園城寺が延暦寺の別院として認められることを乞い願っています。彼の円珍(智証大師)が責任者として維持管理を行いますので、早々にご理解頂き、

朝廷に提出した書類のように、園城寺をもって延暦寺の別院とすることの申請に許可をいただきたく願います。朝廷より許可の出るまでは、夜須麻呂とその一族の人々は、悩み嘆きのため身も心も無い状況です。許可されたなら今後一層、園城寺はもっぱら天皇家の長久と、

国土の末永い安泰を願い、この世界の隅々までを安定して統治することなど云々。また貞観八年(866年)五月十四日、太政官より書類が届き、それには園城寺を天台別院とすることを許可する、云々と書いてありました。貞観九年(867年)十月三日付けの智証大師の記録文書には、

円珍の門弟たる者は、南都の寺院において、小乗仏教による劣悪な戒を受けてはならない。必ず大乗戒壇院において、菩薩による別解脱戒(仏教の僧尼が守るべき禁止、罰則の条文で、僧尼になる時これを遵守することを誓う)を受けるべきであるとか云々。

そうすることによって、物事の根本がはっきりするのである。師弟と言えども、その教義が同じであるとは限らない」と、書いてありました。証拠を並べたて、理路整然と申請が行われているので、天皇もいささか煩わしくなられ、「許可か否かの判断は凡人の範疇を超えているので、

ここは神仏のお考えに任すが妥当であろう」と仰せられ、自ら神仏に対して起請文をお書きになると、比叡山根本中堂にお篭りになられました。その起請文には、「戒壇を建立することは、国家にとって危険はないのか、その帰着すべき結果を考えれば、天皇にとっては恐れるべきことなのか、

神仏のお考えを教えてくださいとか云々」と、書かれていました。その起請文を納めてから、七日目の夜、天皇は不思議な夢を見られました。それは無動寺の慶命僧正が一枚の書状を示して、「胎内にいた昔から、世の中が治まっている今に至るまで、

もったいなくも皇位が幾久しく続くよう祈願してきたといえども、もし三井寺の戒壇院建立を許可すれば、願望は達成出来なくなるとか云々」と、話されました。またあくる日の夜、夢の中で彼の慶命僧正が内裏に参内し、紫宸殿にお立ちになりましたが、激怒された表情をして、

「昨日一通の書状をお見せしましたが、天皇のお考えに何らお変わりはないようで、このままでは結局三井寺戒壇の建立許可を下ろされて、今まで行ってこられた祈願は、一瞬にして怨嗟の種となるでしょう」と、話されました。そしてまた翌日の夜、夢の中で一人の老翁が弓箭を手にして、

殿上に現れました。天皇が、「汝は一体何者だ」と、質問されると、「天台宗を擁護する赤山大明神である。三井寺の戒壇院建造を天皇に勧めている人に、矢の一本でも見舞わんために参内してきたのだ」と、話されました。毎夜の夢見に帝もお仕えする臣下も不安になり、

とうとう寺門、園城寺の要望は却下され、山門、延暦寺にその決定に至った理由などを連絡しました。


角て遥に程経て、白河院の御宇に、江帥匡房の兄に、三井寺の頼豪僧都とて、貴き人有けるを被召、皇子御誕生の御祈をぞ被仰付ける。頼豪勅を奉て肝胆を砕て祈請しけるに、陰徳忽に顕れて承保元年十二月十六日に皇子御誕生有てけり。帝叡感の余に、「御祷の観賞宜依請。」と被宣下。頼豪年来の所望也ければ、他の官禄一向是を閣て、園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申賜ける。山門又是を聴て款状を捧て禁庭に訴へ、先例を引て停廃せられんと奏しけれども、「綸言再び不複」とて勅許無りしかば、三塔嗷儀を以て谷々の講演を打止め、社々の門戸を閉て御願を止ける間、朝儀難黙止して無力三摩耶戒壇造立の勅裁をぞ被召返ける。頼豪是を忿て、百日の間髪をも不剃爪をも不切、炉壇の烟にふすぼり、嗔恚の炎に骨を焦て、我願は即身に大魔縁と成て、玉体を悩し奉り、山門の仏法を滅ぼさんと云ふ悪念を発して、遂に三七日が中に壇上にして死にけり。其怨霊果して邪毒を成ければ、頼豪が祈出し奉りし皇子、未母后の御膝の上を離させ給はで、忽に御隠有けり。叡襟是に依て不堪、山門の嗷訴、園城の効験、得失甚き事隠無りければ、且は山門の恥を洗ぎ、又は継体の儲を全せん為に、延暦寺座主良信大僧正を申請て、皇子御誕生の御祈をぞ被致ける。先御修法の間種々の奇瑞有て、承暦三年七月九日皇子御誕生あり。山門の護持隙無りければ、頼豪が怨霊も近付奉らざりけるにや、此宮遂に玉体無恙して、天子の位を践せ給ふ。御在位の後院号有て、堀河院と申しは、則此第二の宮の御事也。其後頼豪が亡霊忽に鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠と成て、比叡山に登り、仏像・経巻を噛破ける間、是を防に無術して、頼豪を一社の神に崇めて其怨念を鎮む。鼠の禿倉是也。懸し後は、三井寺も弥意趣深して、動ば戒壇の事を申達せんとし、山門も又以前の嗷儀を例として、理不尽に是を欲徹却と。去ば始天歴年中より、去文保元年に至迄、此戒壇故に園城寺の焼る事已に七箇度也。近年は是に依て、其企も無りつれば、中々寺門繁昌して三宝の住持も全かりつるに、今将軍妄に衆徒の心を取ん為に、山門の忿をも不顧、楚忽に被成御教書ければ、却て天魔の所行、法滅の因縁哉と、聞人毎に脣を翻しけり。

やがて長い年月が過ぎ行き、白河院の御代に、江帥(ごうのそつ)匡房つまり大江匡房の兄で、三井寺の頼豪僧都という位の高い人をお呼びになり、皇子の誕生祈願を命じられました。頼豪僧都は勅命を受けて一心不乱に祈願を行うと、人知れず行ってきた善行のお陰か、

てきめんに効果が現れ、承保元年(1074年)十二月十六日、皇子が誕生されたのでした。当時天皇だった白河院は大変お喜びになり、「今回の祈祷に対する恩賞は望み通りに行う」と、仰せられたのです。頼豪は以前からの宿願ですから、いわゆる官位や俸禄などは一切望まず、

園城寺の三摩耶戒壇の建造許可を申請しました。山門延暦寺はこの申請を聞きつけ、訴訟をも辞さない旨の嘆願書を持って朝廷に訴え、先例を引き合いに出して、申請を却下するよう願い出ましたが、「綸言(天皇の言葉)は一旦口から出た以上、取り消すことは出来ない」と言って、山門の要求を却下しました。

この結論に延暦寺側は大勢を頼んで、谷々の講演を中止し、各寺社もその門戸を閉ざして、あらゆる祈願の祈祷を中断しましたから、朝廷も無視することが出来ず、やむを得ず三摩耶戒壇建立の決定を破棄しました。頼豪はこの処置に激怒し、百日にわたって髪を剃ることなく、

爪も切らずに護摩をたく炉の煙にすすけながら、怒りの炎で我が骨を焦がし、願わくば生きたまま悪魔になり、天皇を悩み苦しませて、延暦寺の仏教そのものを滅ぼそうと言う悪い考えを起こし、とうとう二十一日目に壇上にて死亡しました。その怨霊は忌まわしい結果を生み、

頼豪の祈祷により出産された皇子は、未だ母君の膝から離れない内に、急死されたのでした。天皇もこの結末には耐えられず、山門の強硬な要求と、園城寺の祈祷の効果など、それぞれに利害得失もあることであり、なおかつ山門の恥も雪ぎ、また皇位の安定した相続を完璧にするため、

延暦寺座主良信大僧正に頼んで、皇子誕生の祈祷をさせました。その修法を行っている間にも、色々とめでたいことを想像させる不思議な現象が現われ、そして承暦三年(1079年)七月九日、皇子が誕生されたのです。山門による皇子守護は完璧なものであり、頼豪の怨霊も近づくことが出来ず、

この宮はつつがなく成長され、天皇の位を継がれたのです。皇位を去ってから院号を贈られ、堀河院となられました。つまり第二の宮はこの方です。その後、頼豪の亡霊は鉄の牙と石の体を持った大量の鼠に姿を変え、比叡山に登って仏像や経巻を噛み砕いたり破ったりしましたが、

これを防ぐ手当ても無く、結局頼豪を一つの社に祀り、その怨念を鎮めたのでした。「鼠の禿倉」(現在は十八明神社::ねずみの宮)と言うお社がこれです。この様なことがあったので、その後三井寺もいささか恨みを持ち、何かあれば戒壇建立の件を持ち出そうとし、

山門は山門で以前のように強硬手段を常として、無理やり要求を退けようとしました。そのため天暦(947-957年)の半ば頃より文保元年(1317年)に至るまで、この戒壇建造を理由に、園城寺が火災になったのは七回を数えます。最近は戒壇建造が原因で焼き討ちなどの計画も無いため、

三井寺は大いに栄え、仏教における仏・法・僧三つの宝も安全に護られているのに、今になって尊氏将軍が衆徒の気を引くため、比叡山延暦寺の憤慨を無視して、不合理な建造許可を軽率に出したことは、天魔の所業であり、仏法衰微の原因になるのではと、この話を聞く人全てが批判したのでした。


○奥州勢著坂本事
去年十一月に、義貞朝臣打手の大将を承て、関東へ被下向時、奥州の国司北畠中納言顕家卿の方へ、合図の時をたがへず可攻合由綸旨を被下たりけるが、大軍を起す事不容易間、兎角延引す。剰路すがらの軍に日数を送りける間、心許は被急けれども、此彼の逗留に依て、箱根の合戦には迦れ給ひにけり。されども幾程もなく、鎌倉に打入給ひたれば、将軍は早箱根竹下の戦に打勝て、軈て上洛し給ひぬと申ければ、さらば迹より追てこそ上らめとて、夜を日に継でぞ被上洛ける。去程に越後・上野・常陸・下野に残りたる新田の一族、並千葉・宇都宮が手勢共、是を聞伝て此彼より馳加りける間、其勢無程五万余騎に成にけり。鎌倉より西には手さす者も無りければ、夜昼馬を早めて、正月十二日近江の愛智河の宿に被著けり。其日大館中務大輔、佐々木判官氏頼其比未幼稚にて楯篭りたる観音寺の城郭を責落て、敵を討事都て五百余人、翌日早馬を先立て事の由を坂本へ被申たりければ、主上を始進せて、敗軍の士卒悉悦をなし、志を不令蘇と云者なし。則道場坊の助註記祐覚に被仰付、湖上の船七百余艘を点じて志那浜より一日が中にぞ被渡ける。爰に宇都宮紀清両党、主の催促に依て五百余騎にて打連たりけるが、宇都宮は将軍方に在と聞へければ、面々に暇を請、色代して志那浜より引分れ、芋洗を廻て、京都へこそ上りけれ。

☆ 奥州勢が坂本に到着したこと

昨年(建武二年::1335年)十一月に義貞朝臣が討手の大将を命じられて関東に下向された時、奥州の国司である北畠中納言顕家卿に、合図があれば新田の軍勢と共に攻撃を始めるよう、綸旨が下されていましたが、顕家側も大軍の召集や準備に手間取り、何かと遅延気味でした。

その上奥州は出発したものの、途中の戦闘などに時間を使い、気持ちばかりは焦っても、あちこちで足止めを食らい、箱根竹之下の合戦には間に合いませんでした。しかし、しばらくして鎌倉に突入はしたものの、尊氏将軍はすでに箱根の合戦に勝利を収めると、

すぐに上洛を始めていると聞き、それなら後から追いかけて上洛しようと、夜を日に継いで進軍し都に向うこととなりました。やがて越後、上野、常陸、下野周辺に残っていた新田の一族や千葉、宇都宮の軍勢らが、顕家の動向を伝え聞き、あちこちから駆けつけ加勢したので、

その数はすぐに五万余騎になりました。鎌倉を出てから西には邪魔をする者もなく、夜も昼もなく馬を急がせ進軍しましたから、建武三年(1336年)正月十二日、近江の愛知川の宿に到着されました。その日、大館中務大輔幸氏と、

当時まだ幼かった佐々木判官氏頼の立て篭もる観音正寺の城郭を攻め落とし、討ち取った敵兵は合わせて五百余人、翌日には早速、早馬を立てて、この結果を坂本の陣営に報告しました。この知らせは天皇を始めとして、敗戦の続く陣営に大きな喜びをもたらし、

士卒の士気は大いに盛り上がったのでした。すぐに道場坊の助註記祐覚に命じて、琵琶湖に浮かぶ船七百余艘を集めさせ、志那浜(滋賀県草津市)より一日で軍勢を渡し終えたのです。しかしこの時、宇都宮氏に属す紀清両党の軍勢は、後醍醐天皇の要請に従って五百余騎にて従軍して来ましたが、

主人の宇都宮氏が尊氏将軍に従属していると聞き、それぞれが顕家軍に暇を申し出て、挨拶も済ませると志那浜より別れ、一口を経由して京都に上りました。


○三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事
東国の勢既[に]坂本に著ければ、顕家卿・義貞朝臣、其外宗との人々、聖女の彼岸所に会合して、合戦の評定あり。「何様一両日は馬の足を休てこそ、京都へは寄候はめ。」と、顕家卿宣けるを、大館左馬助被申けるは、「長途に疲れたる馬を一日も休候はゞ中々血下て四五日は物の用に不可立。其上此勢坂本へ著たりと、敵縦聞及共、頓て可寄とはよも思寄候はじ。軍は起不意必敵を拉習也。只今夜の中に志賀・唐崎の辺迄打寄て、未明に三井寺へ押寄せ、四方より時を作て責入程ならば、御方治定の勝軍とこそ存候へ。」と被申ければ、義貞朝臣も楠判官正成も、「此義誠に可然候。」と被同て、頓て諸大将へぞ被触ける。今上りの千葉勢是を聞て、まだ宵より千余騎にて志賀の里に陣取る。大館左馬助・額田・羽川六千余騎にて、夜半に坂本を立て、唐崎の浜に陣を取る。戸津・比叡辻・和爾・堅田の者共は、小船七百余艘に取乗て、澳に浮て明るを待。山門の大衆は、二万余人、大略徒立なりければ、如意越を搦手に廻り、時の声を揚げば同時に落し合んと、鳴を静めて待明す。去程に坂本に大勢の著たる形勢、船の往反に見へて震しかりければ、三井寺の大将細川卿律師定禅、高大和守が方より、京都へ使を馳て、「東国の大勢坂本に著て、明日可寄由其聞へ候。急御勢を被添候へ。」と、三度迄被申たりけれ共、「関東より何勢が其程迄多は上るべきぞ。勢は大略宇都宮紀清の両党の者とこそ聞ゆれ。其勢縦誤て坂本へ著たりとも、宇都宮京に在と聞へなば、頓て主の許へこそ馳来んずらん。」とて、将軍事ともし給はざりければ、三井寺へは勢の一騎をも不被添。

☆ 三井寺合戦と三井寺の鐘のこと、並びに俵藤太のこと

すでに東国の軍勢が坂本に到着したので、顕家卿と新田義貞朝臣その他の主だった人たちは、聖女の彼岸所(日吉社にある彼岸所の一つ)で会合を持ち、合戦に関する軍議が行われました。顕家卿が、「長距離の行軍に兵馬も疲労しているので、

一両日は休みを頂きその後京都に寄せようと思います」と話されたのですが、大館左馬助氏明が、「長距離の行軍に疲れた兵馬を、一日でも休ませると却って疲労が増し、四、五日は使い物にならないものだ。その上、新手の軍勢が坂本に到着したことを、たとえ敵が知ったとしても、

まさかすぐに攻撃してくるとは思わないだろう。戦と言うものは不意を襲えば、必ず敵を負かすことが出来ると言うものだ。ここはただ、今夜中に志賀、唐崎の周辺まで近づいて、明日未明に三井寺に押し寄せ、四方より閧の声を挙げて攻め込んだら、

この合戦、我が軍の勝利は間違いないと思う」と、話されました。聞いていた義貞朝臣も楠木判官正成も、「言われること全く同感です」と賛成し、すぐ諸大将にその旨を告げました。到着早々の千葉勢もこの命を受け、まだ宵の内から千余騎にて志賀の里に陣取りました。

また大館左馬助、額田、羽川らは六千余騎にて夜半に坂本を出発し、唐崎の浜に陣を構えました。そして戸津、比叡辻、和邇、堅田の衆は小舟七百余艘に乗り込み、沖合いで夜の明けるのを待ちました。そのほか、山門の大衆ら二万余人はほとんどの者が歩兵なので、

如意越え(鹿ヶ谷と大津の皇子山を結ぶ)経由で搦手に回り込み、閧の声が挙がれば同時に落ち合おうと、静かに夜の明けるのを待ちました。さて尊氏側も坂本に敵の大軍が到着したらしい様子が、舟の頻繁な往来などから感じられ、三井寺の大将細川卿律師定禅と高大和守は京都に使者を立て、

「東国より多数の軍勢が坂本に到着し、明日攻撃を仕掛けてくるらしく思える。急遽援軍をお願いしたい」と、三度まで連絡しましたが、「関東から何処の軍勢か知らないが、そんなに大勢が上ってくるはずがない。またその軍勢もほとんどが、宇都宮氏の紀清両党の者だと聞いている。

彼らが何かの間違いでたとえ坂本に着いたとしても、宇都宮が京都に居ることを聞いたならば、すぐにでも主人のもとに駆けつけて来るだろう」と言って、尊氏将軍は特にその知らせを重視せず、三井寺には援軍を一騎たりとも派遣しませんでした。


夜既に明方に成しかば源中納言顕家卿二万余騎、新田左兵衛督義貞三万余騎、脇屋・堀口・額田・鳥山の勢一万五千余騎、志賀・唐崎の浜路に駒を進て押寄て、後陣遅しとぞ待ける。前陣の勢先大津の西の浦、松本の宿に火をかけて時の声を揚ぐ。三井寺の勢共、兼てより用意したる事なれば、南院の坂口に下り合て、散々に射る。一番に千葉介千余騎にて推寄せ、一二の木戸打破り、城の中へ切て入り、三方に敵を受て、半時許闘ふたり。細川卿律師定禅が横合に懸りける四国の勢六千余騎に被取篭て、千葉新介矢庭に被打にければ、其手の兵百余騎に、当の敵を討んと懸入々々戦て、百五十騎被討にければ、後陣に譲て引退く。二番に顕家卿二万余騎にて、入替へ乱合て責戦ふ。其勢一軍して馬の足を休れば、三番に結城上野入道・伊達・信夫の者共五千余騎入替て面も不振責戦ふ。其勢三百余騎被討て引退ければ、敵勝に乗て、六万余騎を二手に分て、浜面へぞ打て出たりける。新田左衛門督是を見て、三万余騎を一手に合せて、利兵堅を破て被進たり。細川雖大勢と、北は大津の在家まで焼る最中なれば通り不得。東は湖海なれば、水深して廻んとするに便りなし。僅に半町にもたらぬ細道を只一順に前まんとすれば、和爾・堅田の者共が渚に舟を漕並て射ける横矢に被防て、懸引自在にも無りけり。官軍是に力を得て、透間もなく懸りける間、細川が六万余騎の勢五百余騎被打て、三井寺へぞ引返しける。額田・堀口・江田・大館七百余騎にて、逃る敵に追すがふて、城の中へ入んとしける処を、三井寺衆徒五百余人関の口に下り塞て、命を捨闘ける間、寄手の勢百余人堀の際にて被討ければ、後陣を待て不進得。其間に城中より木戸を下して堀の橋を引けり。義助是を見て、「無云甲斐者共の作法哉。僅の木戸一に被支て是程の小城を責落さずと云事やある。栗生・篠塚はなきか。あの木戸取て引破れ。畑・亘理はなきか。切て入れ。」とぞ被下知ける。栗生・篠塚是を聞て馬より飛で下り、木戸を引破らんと走寄て見れば、屏の前に深さ二丈余りの堀をほりて、両方の岸屏風を立たるが如くなるに、橋の板をば皆刎迦して、橋桁許ぞ立たりける。二人の者共如何して可渡と左右をきつと見処に、傍なる塚の上に、面三丈許有て、長さ五六丈もあるらんと覚へたりける大率都婆二本あり。爰にこそ究竟の橋板は有けれ。率都婆を立るも、橋を渡すも、功徳は同じ事なるべし。いざや是を取て渡さんと云侭に、二人の者共走寄て、小脇に挟てゑいやつと抜く。土の底五六尺掘入たる大木なれば、傍りの土一二尺が程くわつと崩て、率都婆は無念抜にけり。

夜もすでに明け方近くなったので、源中納言顕家卿の二万余騎と新田左兵衛督義貞の三万余騎、そして脇屋、堀口、額田、鳥山らの軍勢一万五千余騎が志賀、唐崎の浜辺に馬を進め、後陣の到着を今や遅しと待っていました。先鋒を進む軍勢がまず最初に、

大津の西浦、松本の宿周辺に放火して閧の声を挙げました。三井寺の軍勢らは前もって準備していたので、南院(三井寺を地域で三院に分けた時の南部地域)の坂付近にまで下ってくると、激しく矢を射掛けました。義貞軍は一番手として、千葉介が千余騎を率いて押し寄せ、

一、二の木戸を破壊して城内に斬り込み、三方から敵の攻撃を受けながら半時(約一時間)ばかり闘いました。しかし、横合いから攻撃を仕掛けてきた、細川卿律師禅定に従う四国の勢、六千余騎に取り囲まれ、千葉介は思いがけなく討ち取られてしまいました。

千葉勢の兵士ら百余騎を討ち取ろうと、四国勢が次々に懸かって闘う内に、千葉勢も百五十騎を討ち取られ、後陣の勢に後を任せて退きました。二番手として、顕家卿の軍勢二万余騎が入れ替わりになだれ込み、攻撃を続けました。一戦の後、馬を休めると、三番手として、

結城上野入道、伊達、信夫の軍勢五千余騎が入れ替わりに、わき目も振らず闘い続けました。しかしその勢も三百余騎が討ち取られ退却すると、細川勢は勝ちに乗じ、六万余騎の軍勢を二手に分けて、琵琶湖の浜辺まで攻め込んだのです。新田左衛門督はこの状況を見て、

三万余騎の軍勢を一つにまとめ、強兵、精兵が破竹の勢いで攻め込みました。細川勢も数だけは多いのですが、湖岸北側は大津の民家が火災の真っ只中で、通行不能ですし、東側は湖水で水深もそこそこあり、迂回することも不可能です。僅か半町もないような細い道を、

一列に並んで進もうとすれば、和邇や堅田の軍勢が渚近くに舟を漕ぎ寄せ、並んで射掛ける側面からの矢に妨害されて、どうにもこうにも動きが取れません。官軍の新田勢はこの状況に勢い付き、休む間もなく攻めに攻め続けたため、細川の六万余騎の軍勢も、

五百余騎が討ち取られて三井寺に引き返しました。額田、堀口、江田、大館らの勢、七百余騎が逃げる敵に追いすがって、城の中に入り込もうとしたところを、三井寺の衆徒ら五百余人が、関の口まで降りて来ると後方を遮断し、命を顧みず闘いを続ける内に、

寄せ手の兵士ら百余人が堀の際で討たれてしまい、後方からの軍勢を待つためその場に留まりました。その間に城内の兵士らが木戸を下ろし、堀に架かった橋を取り外しました。脇屋義助はこれを見て、「何とも情けない者どものやり方だな。僅か木戸一枚で支えているこんな小城を、

攻め落とせないことなどないはずだ。粟生、篠塚はいないのか。居れば、あの木戸を取っ払ってしまえ。畑、亘理はいないか、切り込んで行け」と、命令しました。粟生、篠塚は命を受け馬から飛び降り、木戸を取っ払おうと走り寄ってみれば、塀の前に深さ二丈余りの堀を穿ち、

両方の岸は屏風を立て並べているようであり、橋の板は皆が皆取り払って、橋桁だけが残っています。二人はどうして渡れば良いか左右をキッと見回せば、近くにある塚の上に表面三丈ほどで、長さは五、六丈もあるかと思われる大きな卒塔婆が二本ありました。

うまい具合にうってつけの橋板があったものです。卒塔婆を立てるのも、橋として利用するのも、その功徳に変わりないだろう。よし、この卒塔婆を引き抜いて橋にしようと言いながら二人は走り寄り、小脇に挟むとエイヤッと引っこ抜きました。土を五、六尺ばかり掘って埋めた大木ですから、

あたりの土も一、二尺ほどが崩れて、卒塔婆はあっさり抜けたのでした。


彼等二人、二本の率都婆を軽々と打かたげ、堀のはたに突立て、先自歎をこそしたりけれ。「異国には烏獲・樊■、吾朝には和泉小次郎・浅井那三郎、是皆世に双びなき大力と聞ゆれども、我等が力に幾程かまさるべき。云所傍若無人也と思ん人は、寄合て力根の程を御覧ぜよ。」と云侭に、二本の率都婆を同じ様に、向の岸へぞ倒し懸たりける。率都婆の面平にして、二本相並たれば宛四条・五条の橋の如し。爰に畑六郎左衛門・亘理新左衛門二人橋の爪に有けるが、「御辺達は橋渡しの判官に成り給へ。我等は合戦をせん。」と戯れて、二人共橋の上をさら/゛\と走渡り、堀の上なる逆木共取て引除、各木戸の脇にぞ著たりける。是を防ぎける兵共、三方の土矢間より鑓・長刀を差出して散々に突けるを、亘理新左衛門、十六迄奪てぞ捨たりける。畑六郎左衛門是を見て、「のけや亘理殿、其屏引破て心安く人々に合戦せさせん。」と云侭に、走懸り、右の足を揚て、木戸の関の木の辺を、二蹈三蹈ぞ蹈だりける。余に強く被蹈て、二筋渡せる八九寸の貫の木、中より折て、木戸の扉も屏柱も、同くどうど倒れければ、防がんとする兵五百余人、四方に散て颯とひく。一の木戸已に破ければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ懸入て、先合図の火をぞ揚たりける。是を見て山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎・仏閣に火を懸て呼き叫でぞ責たりける。猛火東西より吹懸て、敵南北に充満たれば、今は叶じとや思けん、三井寺の衆徒共、或は金堂に走入て猛火の中に腹を切て臥、或は聖教を抱て幽谷に倒れ転ぶ。多年止住の案内者だにも、時に取ては行方を失ふ。況乎四国・西国の兵共、方角もしらぬ烟の中に、目をも不見上迷ひければ、只此彼この木の下岩の陰に疲れて、自害をするより外の事は無りけり。されば半日許の合戦に、大津・松本・三井寺内に被討たる敵を数るに七千三百余人也。抑金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡せ給へば、角ては如何とて或衆徒御首許を取て、薮の中に隠し置たりけるが、多被討たる兵の首共の中に交りて、切目に血の付たりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立て、一首の歌に事書を書副たりける。「建武二年の春の比、何とやらん、事の騒しき様に聞へ侍りしかば、早三会の暁に成ぬるやらん。いでさらば八相成道して、説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立出たれば、業火盛に燃て修羅の闘諍四方に聞ゆ。こは何事かと思ひ分く方も無て居たるに、仏地坊の某とやらん、堂内に走入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切し間、阿逸多といへ共不叶、堪兼たりし悲みの中に思ひつゞけて侍りし。山を我敵とはいかで思ひけん寺法師にぞ頚を切るゝ。

彼ら二人は二本の卒塔婆を軽々と担いでくると、堀の縁に突き立て、まず自慢を始めました。「異国中国には烏獲や樊かい、我が国には和泉小次郎、浅井那三郎など世に二人と居ない大力持ちだと言われているが、我らの力にどれほど勝っていると言うのだ。

我々のことを、好き勝手なことばかり言っていると思う者は、寄ってきて我らの怪力振りをご覧になれ」と言いながら、二本の卒塔婆を揃えて向こう岸に倒し、橋にしました。卒塔婆の表面は平らで二本が並んでいますから、それはあたかも四条、五条の橋のようです。

この時橋の袂に居た、畑六郎左衛門と亘理新左衛門の二人が、「あなた達は橋渡しの判官に就任されなさい。我らは合戦を受け持とう」と冗談を言って、二人とも橋の上を軽やかに走り渡り、堀の上にある逆茂木を取り除き、それぞれの木戸脇に置きました。

彼らの行動を妨害しようと兵士らが、三方の矢狭間などから槍や長刀で突きを激しく繰り返すのを、亘理新左衛門は十六本を奪い取って捨ててしまいました。畑六郎左衛門はこれを見て、「そこを空けてくれないか、亘理殿。その塀を引き破って、

人々に思う存分合戦をさせてやろう」と言いながら、塀に走りかかり右足を上げて、木戸のかんぬきのあたりを二、三回蹴りつけました。蹴りがあまりに強かったので、二本渡してあった八、九寸のかんぬき用の木が、中央付近で折れたので、木戸の扉、塀や柱なども同時にドッと倒れてしまい、

防戦に努めていた兵士ら五百余人は、四方に散りサッと退きました。一の木戸がすでに破壊されたので、新田軍の三万余騎は城の中に駆け込み、まず合図として火を上げました。この合図により山門の大衆ら二万余人は、如意越えから集まるとすぐに院々、谷々に乱入し、

堂社、仏閣に火をかけ、大声を出して喚きながら攻めました。激しい火炎が東西より襲いかかるので、南北に寄せ集められた敵の足利勢は、もはや防戦不可能と思ったのか、三井寺の衆徒ら、ある者は金堂に走りこむと、猛火の中で腹を切って倒れたり、

またある者は経典を抱えて、静かな谷で割腹し倒れ込みました。長年三井寺で暮らし、地理に詳しい者であっても、場合によっては方角を見失うのに、いわんや四国や西国の兵士らは、方角も分からず煙にまかれて、目も開けられずに、ただ右往左往してばかりでは、もう疲れ果て、

あちこちの木の下や岩陰で、自害をするしか仕方ないようです。このように、たった半日ばかりの合戦で大津、松本や三井寺の中で討ち取られた足利軍の兵士は、数えてみれば七千三百余人になりました。そもそも三井寺金堂のご本尊は、弥勒菩薩の化身でございますので、

この状況を何とかしなければと、ある衆徒が弥勒菩薩の首だけを取って、藪の中に隠していましたが、多数の兵士の首の中に混じって、切り口に血が付けてあるのを見て、山法師がしたのか大きな立て札を立てて、一首の歌と詞書が書き添えてありました。

「建武二年(1335年)の春の頃、世の中何やら騒がしく思えて、これは弥勒菩薩が人間界に下って、衆生を救済する法会を行う時になったのだろう。それならば八相成道して(釈迦八相を成就し、人間として成就する)衆生を救済し、利益を与えようと思い金堂の方へ向ったところ、

悪魔のような猛炎が燃え盛り、果てしなく続く闘争の声が四方から聞こえます。これは一体何事なのかと判断もつかず、その場に居たところ、仏地坊の何某とか言う僧が堂内に走り込んで来て、理由もなくのこぎりで私、弥勒菩薩の首を切りだしました。

弥勒菩薩であると言っても、やめてもらえず、耐え難い悲しみの中で、次のように思い続けていました。
      山を我 敵とはいかで 思ひけん 寺法師にぞ 頸を切るゝ」


前々炎上の時は、寺門の衆徒是を一大事にして隠しける九乳の鳧鐘も取人なければ、空く焼て地に落たり。此鐘と申は、昔竜宮城より伝りたる鐘也。其故は承平の比俵藤太秀郷と云者有けり。或時此秀郷只一人勢多の橋を渡けるに、長二十丈許なる大蛇、橋の上に横て伏たり。両の眼は耀て、天に二の日を卦たるが如、双べる角尖にして、冬枯の森の梢に不異。鉄の牙上下に生ちがふて、紅の舌炎を吐かと怪まる。若尋常の人是を見ば、目もくれ魂消て則地にも倒つべし。されども秀郷天下第一の大剛の者也ければ更に一念も不動ぜして、彼大蛇の背の上を荒かに蹈で閑に上をぞ越たりける。然れ共大蛇も敢て不驚、秀郷も後ろを不顧して遥に行隔たりける処に、怪げなる小男一人忽然として秀郷が前に来て云けるは、「我此橋の下に住事已に二千余年也。貴賎往来の人を量り見るに、今御辺程に剛なる人を未見ず。我に年来地を争ふ敵有て、動ば彼が為に被悩。可然は御辺我敵を討てたび候へ。」と、懇にこそ語ひけれ。秀郷一義も不謂、「子細有まじ。」と領状して、則此男を前に立てゝ又勢多の方へぞ帰ける。二人共に湖水の波を分て、水中に入事五十余町有て一の楼門あり。開て内へ入るに、瑠璃の沙厚く玉の甃暖にして、落花自繽紛たり。朱楼紫殿玉欄干、金を鐺にし銀を柱とせり。其壮観奇麗、未曾て目にも不見耳にも聞ざりし所也。此怪しげなりつる男、先内へ入て、須臾の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請ず。左右侍衛官前後花の装善尽し美尽せり。酒宴数刻に及で夜既に深ければ、敵の可寄程に成ぬと周章騒ぐ。秀郷は一生涯が間身を放たで持たりける五人張にせき弦懸て噛ひ湿し、三年竹の節近なるを十五束二伏に拵へて、鏃の中子を筈本迄打どほしにしたる矢、只三筋を手挟て、今や/\とぞ待たりける。夜半過る程に雨風一通り過て、電火の激する事隙なし。暫有て比良の高峯の方より、焼松二三千がほど二行に燃て、中に嶋の如なる物、此龍宮城を指てぞ近付ける。事の体を能々見に、二行にとぼせる焼松は皆己が左右の手にともしたりと見へたり。あはれ是は百足蜈蚣の化たるよと心得て、矢比近く成ければ、件の五人張に十五束三伏忘るゝ許引しぼりて、眉間の真中をぞ射たりける。其手答鉄を射る様に聞へて、筈を返してぞ不立ける。

ずっと昔のことですが、この三井寺が炎上した時、三井寺の衆徒らが大事に隠しておいた九乳の鳧鐘(いぼ状の突起が付いた釣鐘)も、取り外す人もなく、むなしく焼け落ちていました。この釣鐘は昔竜宮城より伝わった鐘です。

その訳は、承平(931-938年)の頃、俵藤太秀郷と言う者が居ました。或る時、この秀郷がただ一人で瀬田の橋を渡ろうとした時、長さ二十丈程もある大蛇が橋の上に横たわっていました。両の眼は光り輝き、それは天に二つの太陽がかかっているようです。

また二つ並んだ角は尖って、冬枯れの森の梢と異なりません。口には鉄のような牙がくいちがうように上下に生え、真っ赤な舌は炎を吐いているのかと怪しまれます。もし普通の人がこれを見れば、目の前は真っ暗になり、気が動転してすぐ地面に倒れてしまうでしょう。

しかし秀郷は天下に聞こえた第一等の猛者ですから、特に気が動転することもなく、その大蛇の背中を踏みつけながら、静かに通り越えて行きました。また大蛇の方も、特に驚いた様子も見えず、秀郷も後ろを振り返ることもなく、遠くまで歩いてきた時、

突然怪しげな小男が一人秀郷の前に現れ、「自分はこの橋の下に、二千余年も住んでいます。この橋を往来する人々など、身分に関係なく観察してきましたが、今の貴方ほど勇猛なる人は未だ見たことがありません。私には長年にわたって地所を争っている人が居り、

何かとその人物に悩まされています。そこでお願いですが、その敵たる人間を討ち取ってはくれませんか」と、丁寧な口調で話されました。秀郷は詳しく訳を聞くことなく、「良かろう」と引き受け、すぐこの男を前にして、再び瀬田の方に引き返しました。

二人は一緒に湖水の波をかき分けて水中に入り、五十余町ほど進むと一つの楼門がありました。楼門を開いて中に入ってみれば、瑠璃の砂が厚く敷き詰められ、まるで宝石で造ったような石畳がやさしく続き、散り落ちた花々が入り乱れているようです。

朱色にそびえる高い建物、美しい殿舎また玉の欄干など、黄金を垂木(屋根の下地)にして、銀で柱を造っています。その素晴らしい景観は、未だかつて目にしたこともなく、また聞いたこともない美しさです。この正体不明な男はまず最初に中へ入ると、瞬く間に衣冠正しく正装し、

秀郷を客として上席に招きました。左右に控える護衛の役人は、美しい衣装でこれでもかと着飾っています。やがて始まった酒宴は数時間に及び、夜もすっかり更けてきた頃、敵がそろそろやって来る時間だと、うろたえ騒ぎ始めました。秀郷はいつも身の傍に置いてある五人張りの弓に、

せき弦(戦陣で使用の弓弦の一、弦に漆を塗り、絹糸を巻いた上に漆を塗ったもの)を張ると歯で湿らせ、三年物で節の間隔が短い竹を、十五束二伏(矢の長さの単位)にこしらえて、鏃の根元を弓の下部まで通した矢を、ただ三本だけを手にして、今や遅しと敵を待ちました。

夜半を過ぎた頃、風雨が通り過ぎると、雷光が激しく響き渡り止む様子もありません。しばらくすると比良の峰高くから、松明二、三千本ほどが二列に燃え盛り、その中ほどにある、何か島のような物が、この竜宮城に向かって近づいてきます。正体を見極めようとよくよく見てみると、

二列に燃えている松明は、皆それぞれが左右の手に持った松明と分かりました。何と、こいつは百の足を持ったむかでの化け物だと分かり、射程距離まで入ってきた時、先ほどの五人張りの弓に番えた矢が、十五束三伏と思えないほど引き絞り、

眉間の真ん中めがけて射込みました。鉄を射るような手ごたえがありましたが、矢ははね返されて突き刺さりませんでした。


秀郷一の矢を射損て、不安思ひければ、二の矢を番て、一分も不違態前の矢所をぞ射たりける。此矢も又前の如くに躍り返て、是も身に不立けり。秀郷二つの矢をば皆射損じつ、憑所は矢一筋也。如何せんと思けるが、屹と案じ出したる事有て、此度射んとしける矢さきに、唾を吐懸て、又同矢所をぞ射たりける。此矢に毒を塗たる故にや依けん、又同矢坪を三度迄射たる故にや依けん、此矢眉間のたゞ中を徹りて喉の下迄羽ぶくら責てぞ立たりける。二三千見へつる焼松も、光忽に消て、島の如に有つる物、倒るゝ音大地を響かせり。立寄て是を見るに、果して百足の蜈蚣也。竜神は是を悦て、秀郷を様々にもてなしけるに、太刀一振・巻絹一・鎧一領・頚結たる俵一・赤銅の撞鐘一口を与て、「御辺の門葉に、必将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。秀郷都に帰て後此絹を切てつかふに、更に尽事なし。俵は中なる納物を、取ども/\尽ざりける間、財宝倉に満て衣裳身に余れり。故に其名を俵藤太とは云ける也。是は産業の財らなればとて是を倉廩に収む。鐘は梵砌の物なればとて三井寺へ是をたてまつる。文保二年三井寺炎上の時、此鐘を山門へ取寄て、朝夕是を撞けるに、敢てすこしも鳴ざりける間、山法師共、「悪し、其義ならば鳴様に撞。」とて、鐘木を大きに拵へて、二三十人立懸りて、破よとぞ撞たりける。其時此鐘海鯨の吼る声を出して、「三井寺へゆかふ。」とぞ鳴たりける。山徒弥是を悪みて、無動寺の上よりして数千丈高き岩の上をころばかしたりける間、此鐘微塵に砕にけり。今は何の用にか可立とて、其われを取集て本寺へぞ送りける。或時一尺許なる小蛇来て、此鐘を尾を以[て]扣きたりけるが、一夜の内に又本の鐘に成て、疵つける所一も無りけり。されば今に至るまで、三井寺に有て此鐘の声を聞人、無明長夜の夢を驚かして慈尊出世の暁を待。末代の不思議、奇特の事共也。

秀郷は一の矢を射損じて不安を感じましたが、二の矢を番えると、先ほど矢があたった場所に一分も違えず射込みました。しかしこの矢も前と同じようにはね返され、突き刺さることはありませんでした。秀郷は二本の矢を皆射損じ、残るは一本の矢だけとなりました。

どうすれば良いかと考えていましたが、ふと思いついたことがあり、今度番える矢の先に唾を吐きかけ、再び同じ所を狙って射込みました。矢に毒を塗ったからなのか、同じ所を三度も射られたからなのか、この矢は眉間の真ん中を通り、喉の下まで矢の羽が隠れるほど突き刺さりました。

二、三千ほども見えていた松明も忽ち消えて、島のように見えていた物が倒れる音が、大地を揺るがせ響き渡りました。そばに寄ってこれを見ると、やはり百の足を持った百足でした。竜神はこの結果を大いに喜び秀郷をもてなした上、引き出物として、

太刀一振り、巻絹を一つ、鎧一領、口を結わえた俵を一つ、赤銅製の釣鐘を一口(いっこう)を与えて、「あなたの一門の中から、将軍になる人が必ず多く出るでしょう」と、予言しました。秀郷は都に帰ってから、この巻絹を切っては使用しましたが、一向に無くなる気配がありません。

俵も中に入っている品々を、取り出しても取り出しても無くならないので、財宝は倉庫に満ち溢れ、衣裳も我が身に過分なほどです。そこでその名前も俵藤太と言う訳です。この俵は生活の基盤としなければと、倉庫に保管し、鐘は寺院に必要な物なので、三井寺に奉納しました。

文保二年(1318年)三井寺が炎上した時、この鐘を山門延暦寺が取り寄せ、朝夕これを撞いて見たけれど一向に鳴りません。山法師らは、「憎たらしい鐘だ。だったら鳴るようにして撞いてやろう」と言って、大きな撞木を作ると、二、三十人がかりで鐘も壊れよと撞きました。

その時この鐘は鯨が吼えるような声を出し、「三井寺へ行こう」と、鳴ったのでした。山法師らはますますこの鐘が憎くなり、無動寺の上から数千丈もある岩の上を転ばしたので、鐘は木っ端微塵に砕けてしまいました。こうなれば何の用にも立たないので、

その破片を拾い集めて、もとの三井寺に送り届けました。そして、ある時一尺ほどの小さな蛇が現われ、この鐘を尻尾で撞いたところ、一夜の内に元通り鐘の姿になり、疵ついた場所も一つとしてありません。そこで現在に至るまで三井寺にあって、この鐘の音を聞く人は、

煩悩ゆえに解脱できずに長く苦しむことなく、弥勒菩薩がこの世に出現し、救済してくれる日を期待できます。道義の衰えたこの世にあって、不思議な鐘であり、霊験あらたかなことであります。      (終り)

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