15 太平記 巻第十五  (その二)


○建武二年正月十六日合戦事
三井寺の敵無事故責落たりければ、長途に疲たる人馬、一両日機を扶てこそ又合戦をも致さめとて、顕家卿坂本へ被引返ければ、其勢二万余騎は、彼趣に相順ふ。新田左兵衛督も、同坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田長門守経政、馬を叩て申けるは、「軍の利、勝に乗る時、北るを追より外の質は非じと存候。此合戦に被打漏て、馬を棄物具を脱で、命許を助からんと落行候敵を追懸て、京中へ押寄る程ならば、臆病神の付たる大勢に被引立、自余の敵も定て機を失はん歟。さる程ならば、官軍敵の中へ紛れ入て、勢の分際を敵に不見せしとて、此に火をかけ、彼に時を作り、縦横無碍に懸立る者ならば、などか足利殿御兄弟の間に近付奉て、勝負を仕らでは候べき。落候つる敵、よも幾程も阻り候はじ。何様一追々懸て見候はゞや。」と申ければ、義貞、「我も此義を思ひつる処に、いしくも申たり。さらば頓て追懸よ。」とて、又旗の手を下して馬を進め給へば、新田の一族五千余人、其勢三万余騎、走る馬に鞭を進めて、落行敵をぞ追懸たる。敵今は遥に阻たりぬらんと覚る程なれば、逃るは大勢にて遅く、追は小勢にて早かりければ、山階辺にて漸敵にぞ追付ける。由良・長浜・吉江・高橋、真前に進で追けるが、大敵をば不可欺とて、広みにて敵の返し合つべき所迄はさまで不追、遠矢射懸々々、時を作る許にて、静々と是を追ひ、道迫りて、而も敵の行前難所なる山路にては、かさより落し懸て、透間もなく射落し切臥せける間、敵一度も返し不得、只我先にとぞ落行ける。されば手を負たる者は其侭馬人に被蹈殺、馬離たる者は引かねて無力腹を切けり。其死骸谷をうめ溝を埋みければ、追手の為には道平に成て、弥輪宝の山谷を平らぐるに不異、将軍三井寺に軍始たりと聞へて後、黒烟天に覆を見へければ、「御方如何様負軍したりと覚るぞ。急ぎ勢を遣せ。」とて、三条河原に打出、先勢揃をぞし給ひける。斯処に粟田口より馬烟を立て、其勢四五万騎が程引て出来たり。誰やらんと見給へば、三井寺へ向し四国・西国の勢共也。誠に皆軍手痛くしたりと見へて、薄手少々負はぬ者もなく、鎧の袖冑の吹返に、矢三筋四筋折懸ぬ人も無りけり。

☆ 建武二年正月十六日の合戦のこと

三井寺の敵も無事攻め落としたので、長距離の遠征に疲れた人馬など、一両日は体を休め英気を養った上で又合戦も致そうと、顕家卿は坂本に引き返されたので、彼の軍勢、二万余騎も彼に従いました。新田左兵衛督も同じく坂本に帰ろうとしたのを、

舟田長門守経政が馬の鞍壷を叩き、「軍が有利に展開し、勝利に乗ずることが出来る時は、かさにかかって攻撃を続けなければならないと思いなされ。この合戦に討たれずに生き残り、馬を捨て甲冑も脱ぎ捨てて、命ばかりを助かろうと落ち延びて行く敵を追いかけて、

京都内に押し寄せて行けば、臆病神につかれた敗軍の勢に振り回され、他の敵勢も勝機を得られるとは思えない。そう考えれば、我が官軍は敵の中に紛れ込み、悟られないようにして、こちらに火をかけ、あちらで閧の声を挙げて縦横無尽に駆け回れば、どうして足利殿兄弟に近づき、

勝負を決することが出来ないと言うのですか。逃げ延びてきた敵兵に、どれほどの抵抗が出来るでしょうか。ここは何が何でも追撃すべきでしょう」と、話されました。義貞は、「自分もそう考えていたところだ、良くぞ申した。すぐ追撃に移れ」と言うと、再び旗の手を下し、馬を進めました。

それに従い、新田の一族五千余人それに従う軍勢、総勢三万余騎が走る馬に鞭打って、落ち延びる敵を追撃しました。敵も今はかなり新田軍から逃げて来たと思っていましたが、逃げるのは大勢で遅い上、追いかけて来るのは小勢で早いので、山科あたりで漸く敵に追いつきました。

由良、長浜、吉江、高橋らは先頭を切って追いかけていましたが、敵も大軍なのであなどってはならないと、広くて敵が反撃に出そうなところまでは、それほど追撃せず遠矢を次々と射たり、閧の声を挙げるばかりで、静かに追撃し、やがて道が狭くなってきた上、

敵の進む先が通行困難な山道にかかると、高い場所から攻撃を加え、休みなく矢を射込み、斬り伏せていったので、敵は一度も反撃することが出来ず、ただ我先に逃げ落ちて行きました。そのため負傷した兵士は、なすすべなく馬や人に踏みつけられて死亡し、

馬を失った者は退却出来ず、止む無く腹を切ったのでした。それらの死骸は谷を埋め、溝をも埋めたので、追っ手にとっては道が平らになり、それは多数の輪宝(古代インドの武器、王の行くところ先行して、四方を制する)が谷を平にしていくのと変わりません。

さて尊氏将軍は三井寺で戦が始まったと聞いてから、黒煙が天空を覆うのを見て、「どうも味方は戦に負けているように思える。大急ぎで軍勢を派遣しろ」と言って、三条河原まで進出し、まず軍勢の集結をしました。その時、粟田口方面から馬ぼこりを立てて、四、五万騎ほどが現われました。

一体誰の勢かと見れば、三井寺に向かっていた四国、西国の軍勢です。全員、厳しい戦にこっぴどくやられたと思われ、負傷していない者などいませんし、鎧の袖や兜の吹き返しに、矢の三、四本が突き刺さっていない者なども居りません。


さる程に新田左兵衛督、二万三千余騎を三手に分て、一手をば将軍塚の上へ挙、一手をば真如堂の前より出し、一手をば法勝寺を後に当て、二条河原へ出して、則相図の烟をぞ被挙ける。自らは花頂山に打上て、敵の陣を見渡し給へば、上は河合森より、下は七条河原まで、馬の三頭に馬を打懸け、鎧の袖に袖を重て、東西南北四十余町が間、錐を立る許の地も不見、身を峙て打囲たり。義貞朝臣弓杖にすがり被下知けるは、「敵の勢に御方を合れば、大海の一滴、九牛が一毛也。只尋常の如くに軍をせば、勝事を得難し。相互に面をしり被知たらんずる侍共、五十騎づゝ手を分て、笠符を取捨、幡を巻て、敵の中に紛れ入り、此彼に叩々、暫可相待。将軍塚へ上せつる勢、既に軍を始むと見ば、此陣より兵を進めて可令闘。其時に至て、御辺達敵の前後左右に旗を差挙て、馬の足を不静め、前に在歟とせば後へぬけ、左に在かとせば右へ廻て、七縦八横に乱て敵に見する程ならば、敵の大勢は、還て御方の勢に見へて、同士打をする歟、引て退く歟、尊氏此二つの中を不可出。」韓信が謀を被出しかば、諸大将の中より、逞兵五十騎づゝ勝り出して、二千余騎各一様に、中黒の旗を巻て、文を隠し、笠符を取て袖の下に収め、三井寺より引をくれたる勢の真似をして、京勢の中へぞ馳加りける。敵斯る謀ありとは、将軍不思寄給、宗との侍共に向ふて被下知けるは、「新田はいつも平場の懸をこそ好と聞しに、山を後ろに当てゝ、頓ても懸出ぬは、如何様小勢の程を敵に見せじと思へる者也。将軍塚の上に取あがりたる敵を置てはいつまでか可守挙。師泰彼に馳向て追散せ。」と宣ければ、越後守畏て、「承候。」と申て、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺と中霊山とより、二手に成てぞ挙たりける。

やがて新田左兵衛督は二万三千余騎の軍勢を三手に分け、まず一手は将軍塚の上に上げ、次の一手は真如堂の前に展開させ、残る一手は法勝寺を後ろにして二条河原に進出させて、すぐに合図の煙を上げられました。また自分は華頂山に登って、敵の陣形を見渡してみれば、

都の北方は河合森(糺の森)から、南は七条河原まで、これでもかと馬を揃え、軍兵には鎧の袖に袖を重ねる如く武装させ、東西南北四十余町にわたり、立錐の余地も無く、身を引き締めて警戒厳しく展開しています。

義貞朝臣は弓を杖にして、「敵の軍勢と味方の軍勢を比較すれば、我が軍は大海の一滴に過ぎず、九牛の一毛のようなものだ。これを尋常な手段で戦おうとすれば、勝つことなど到底出来るものではない。お互い顔の知っている武士ら、五十騎ばかりを選んで分割し、

笠印を取り捨て、なお旗も巻いて敵の中に紛れ込み、暫くあちこちでじっと控えて待っているがよい。将軍塚に登っている軍勢が、今まさに戦闘を始めたと思った時に、我らの兵士らが紛れ込んだ軍勢から兵を動かし、戦闘命令が出るだろう。その時になって、

汝らは敵の前後左右に旗を差し上げ、馬の足を休めることなく、前に現われたと見えた時、サッと後ろに駆け抜け、左に見えたと思えば右に回り込んだりして、自由自在に駆け回ってやれば、敵の大軍はかえって味方の勢を敵と勘違いして、同士討ちを始めたり、退却したりするだろう。

尊氏はその二つの混乱の中を脱出が出来るとはとても思えない」と、韓信(張良韓信か韓信なのか?)のような計略を立てて、諸大将の勢の中から精兵五十騎づつを選び出した二千余騎が、中黒の旗を巻いて新田の紋を隠した上、笠印を取ると袖の下に収めて、

三井寺の合戦に破れ、退却してきた兵士のふりをして、京都軍、尊氏の軍勢に駆け込みました。尊氏は新田軍にこのような計略が潜んでいるとは夢にも思わず、主だった武将に向かって、「新田はいつも平地での合戦を得意としていると聞いているが、山を後ろに背負い、

すぐにでも攻撃に移ろうとしないのは、自分らの軍勢が小勢であることを、敵に知られたくないからだろう。将軍塚の上に敵がいては、何時までも都を守り通すことが出来ない。師泰よ、将軍塚に向かって攻撃を開始し、追い散らしてしまえ」と話すと共に、命令をしました。

越後守高師泰は謹んで、「了解しました」と返事し、武蔵、相模の軍勢二万余騎を率いて、雙林寺と中霊山から、二手に分かれて攻め上りました。


此には脇屋右衛門佐・堀口美濃守・大館左馬助・結城上野入道以下三千余騎にて向たりけるが、其中より逸物の射手六百余人を勝て、馬より下し、小松の陰を木楯に取て、指攻引攻散々にぞ射させたりける。嶮き山を挙かねたりける武蔵・相摸の勢共、物具を被徹て矢場に伏、馬を被射てはね落されける間、少猶予して見へける処を、「得たり賢し。」と、三千余騎の兵共抜連て、大山の崩るが如く、真倒に落し懸たりける間、師泰が兵二万余騎、一足をもためず、五条河原へ颯と引退。此にて、杉本判官・曾我二郎左衛門も被討にけり。官軍態長追をばせで、猶東山を後に当て勢の程をぞ見せざりける。搦手より軍始まりければ、大手音を受て時を作る。官軍の二万余騎と将軍の八十万騎と、入替入替天地を響して戦たる。漢楚八箇年の戦を一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になす共、猶是には不可過。寄手は小勢なれども皆心を一にして、懸時は一度に颯と懸て敵を追まくり、引時は手負を中に立て静に引く。京勢は大勢なりけれ共人の心不調して、懸時も不揃、引時も助けず、思々心々に闘ける間、午の剋より酉の終まで六十余度の懸合に、寄手の官軍度毎に勝に不乗と云事なし。されども将軍方大勢なれば、被討共勢もすかず、逃れども遠引せず、只一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交りたる一揆の勢共、将軍の前後左右に中黒の旗を差揚て、乱合てぞ戦ける。何れを敵何を御方共弁へ難ければ、東西南北呼叫で、只同士打をするより外の事ぞ無りける。将軍を始奉りて、吉良・石堂・高・上杉の人々是を見て、御方の者共が敵と作合て後矢を射よと被思ければ、心を置合て、高・上杉の人々は、山崎を指して引退き、将軍・吉良・石堂・仁木・細川の人々は、丹波路へ向て落給ふ。官軍弥勝に乗て短兵急に拉。将軍今は遁る所なしと思食けるにや、梅津、桂河辺にては、鎧の草摺畳み揚て腰の刀を抜んとし給ふ事、三箇度に及けり。

将軍塚の陣営は脇屋右衛門佐義助、堀口美濃守、大館左馬助、結城上野入道以下、三千余騎で陣取っていましたが、その中から腕の良い射手を六百余人選び出し、馬から下ろすと松の木を楯にして、次から次へと休みなく射込みました。

険しい山への攻撃に手こずっていた武蔵、相模の軍勢は、この攻撃に甲冑も射抜かれてその場に伏せたり、馬を射られて撥ね落とされたりして少しひるんだ隙に、「よし、今だ」と、三千余騎の兵士らが太刀を抜き連ねて、大山の崩れるような勢いで、逆落としに攻め込んで来たので、

師泰の兵士ら二万余騎は、ひとたまりもなく五条河原に退却しました。この戦いで杉本判官、曽我二郎左衛門の二人が討たれました。新田の官軍勢は敢えて長追いはせず、なおも東山を後ろにして、軍勢の実態を見せようとはしません。搦手より戦闘が始まったので、

大手ではそれに合わせて閧の声を挙げました。官軍の二万余騎と、尊氏将軍の八十万余騎が、入れ替わり立ち代り天地を揺るがせて闘いました。漢国と楚国の八年(五年?)にわたる戦争を一度にしても、また呉国と越国の三十回にわたる合戦を、百倍にしたとしても今回の合戦には及ばないでしょう。

寄せ手の官軍は小勢であっても、攻撃する時は全員が一致団結して、攻め込み敵を追いまくり、退く時は負傷した兵士を中にして、静かに引き上げました。反対に尊氏の軍勢は大軍ではありますが、意思の統一がはかられていないので、攻撃もばらばらになり、

退くときも互いに援護することもなく、諸大将の色々な思惑の中での戦闘ですから、午の刻(午後零時頃)から始まって、酉の刻(午後六時頃)までの六十余回の戦闘において、寄せ手の官軍はその度に勝ちを収めました。しかしながら、将軍の軍勢は大軍ですから、

少々討ち取られても軍勢に影響がなく、退却する時も遠くまで退かずに、同一場所に留まって持ちこたえようとしていました。その時、最初から尊氏軍に紛れ込んでいた敵の軍勢が、尊氏の前後左右に中黒(新田の紋)の旗を差し揚げ、入り乱れての戦いが起こりました。

一体誰が敵なのか味方なのか分らず、互いに呼び合ってはみても、同士討ちにならざるを得ません。将軍をはじめに、吉良、石堂、高、上杉の人々はこの状況を見て、味方の者が敵に通じて味方の攻撃に移ったと思い、高、上杉らの勢は山崎に向って退却を始め、

将軍、吉良、石堂、仁木、細川の軍勢は、丹波路に向って落ちて行きました。官軍はますます勝ちに乗じて、かさにかかって攻め続けました。尊氏将軍も今は逃れ得ないと思ったのか、梅津や桂川のあたりでは鎧の草摺りを畳み揚げ、腰の刀を抜き自害を図ること、三度に及びました。


されども将軍の御運や強かりけん、日既に暮けるを見て、追手桂河より引返ければ、将軍も且く松尾・葉室の間に引へて、梅酸の渇をぞ休められける。爰に細川卿律師定禅、四国の勢共に向て宣けるは、「軍の勝負は時の運に依事なれば、強に恥ならねども、今日の負は三井寺の合戦より事始りつる間、我等が瑕瑾、人の嘲を不遁。されば態他の勢を不交して、花やかなる軍一軍して、天下の人口を塞がばやと思也。推量するに、新田が勢は、終日の合戦に草伏て、敵に当り変に応ずる事自在なるまじ。其外の敵共は、京白河の財宝に目をかけて一所に不可在。其上赤松筑前守僅の勢にて下松に引へて有つるを、無代に討せたらんも可口惜。いざや殿原、蓮台野より北白河へ打廻て、赤松が勢と成合、新田が勢を一あて/\て見ん。」と宣へば、藤・橘・伴の者共、「子細候まじ。」とぞ同じける。定禅不斜喜で、態将軍にも知らせ不奉、伊予・讚岐の勢の中より三百余騎を勝て、北野の後ろより上賀茂を経て、潛に北白河へぞ廻りける。糾の前にて三百余騎の勢十方に分て、下松・薮里・静原・松崎・中賀茂、三十余箇所に火をかけて、此をば打捨て、一条・二条の間にて、三所に鬨をぞ挙たりける。げにも定禅律師推量の如く、敵京白河に分散して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞・義助一戦に利を失て、坂本を指して引返しけり。所々に打散たる兵共、俄に周章て引ける間、北白河・粟田口の辺にて、舟田入道・大館左近蔵人・由良三郎左衛門尉・高田七郎左衛門以下宗との官軍数百騎被討けり。卿律師、頓て早馬を立て、此由を将軍へ被申たりければ、山陽・山陰両道へ落行ける兵共、皆又京へぞ立帰る。義貞朝臣は、僅に二万騎勢を以て将軍の八十万騎を懸散し、定禅律師は、亦三百余騎の勢を以て、官軍の二万余騎を追落す。彼は項王が勇を心とし、是は張良が謀を宗とす。智謀勇力いづれも取々なりし人傑也。

しかしながら尊氏は運が強いのか、やがて日が暮れてくると追手は桂川より引き返したので、将軍も松尾、葉室のあたりまで退却し、一時の休息を得ることが出来ました。この時、細川卿律師定禅が四国の軍勢に向って、「軍の勝敗は時の運によるので、特に恥と思ことは必要ないが、

今日の負けは三井寺の合戦での敗戦から始まったことなので、我々に落ち度があり、人様のそしりから逃れることは出来ない。そこで、ここは他の軍勢を交えずに華やかな一戦を行い、天下の悪い評判に一石を投じようではないか。想像するに、新田の軍勢はここ一日の戦いに疲れきっているため、

敵に対して臨機応変の戦闘など出来ないだろう。新田以外の敵どもは、京白川周辺の財宝を狙って、一ヶ所には居ないだろう。その上、赤松筑前守が僅かの軍勢で、下がり松に控えているのを、むざむざ討たせるのも悔しい限りである。どうだ皆の者、

蓮台野から北白川に回り込んで赤松の軍勢と一つになり、新田の軍勢と一戦してみようではないか」と、話しました。それに答えて、藤、橘、伴の者たちが、「異議なし」と、応じました。定禅は大いに喜んで、敢えて尊氏将軍には連絡せず、伊予、讃岐の軍勢の中から三百余騎を選ぶと、

北野の裏から上賀茂を経由して、見つからないように北白川に回り込みました。糺の森の前あたりで三百余騎の軍勢を四方に向かわせ、下がり松、薮里、静原、松ヶ崎、中賀茂など三十余ヶ所に火をかけると、ここには留まらず、一条、二条のあたりで三ヶ所に分かれて閧の声を挙げました。

たしかに定禅律師の想像した通り、敵は京白川周辺に分散しているため、一ヶ所に集まる勢が少なく、義貞、義助もこの合戦には不利を感じ、坂本を目指して退却しました。あちこちに散らばっていた兵士らも、事態の急変に大慌てで退却に移ったものの、

北白川や粟田口の周辺で、舟田入道、大館左近蔵人、由良三郎左衛門尉、高田七郎左衛門以下、官軍の主だった武将ら数百騎が討たれたのでした。律師卿はすぐに早馬を立てて、この戦況を将軍に報告しましたので、山陽、山陰両道に落ち延びていた兵士らは、

再び全員が京都に戻ってきました。義貞朝臣は僅か二万騎の軍勢で、尊氏の八十万騎を蹴散らしましたが、定禅律師もまた三百余騎の勢で、官軍の二万余騎を追い落としたのでした。新田義貞は項王(項羽:楚の武将)の勇気を心に持って戦い、定禅律師は張良の智謀を重視しました。

智謀と言い、勇猛と言いそれぞれ違ってはいるものの、優れた人たちではあります。


○正月二十七日合戦事
斯る処に去年十二月に、一宮関東へ御下有し時、搦手にて東山道より鎌倉へ御下有し大智院宮・弾正尹宮、竹下・箱根の合戦には、相図相違して逢せ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野・下野勢共馳参しかば、御勢雲霞の如に成て、鎌倉へ入せ給ふ。此にて事の様を問へば、「新田、竹下・箱根の合戦に打負て引返す。尊氏朝臣北を追て被上洛ぬ。其後奥州国司顕家卿、又尊氏朝臣の跡を追て、被責上候ぬ。」とぞ申ける。「さらば何様道にても新田蹈留らば合戦有ぬべし。鎌倉に可逗留様なし。」とて、公家には洞院左衛門督実世・持明院右衛門督入道・信濃国司堀河中納言・園中将基隆・二条少将為次、武士には、嶋津上野入道・同筑後前司・大伴・猿子の一党・落合の一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・々上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、是等を宗との者として都合其勢二万余騎、正月二十日の晩景に東坂本にぞ著にける。官軍弥勢ひを得て翌日にも頓て京都へ寄んと議しけるが、打続き悪日也ける上、余に強く乗たる馬共なれば、皆竦て更はたらき得ざりける間、兎に角に延引して、今度の合戦は、二十七日にぞ被定ける。

☆ 正月二十七日の合戦のこと

さて去年(建武二年::1335年)十二月に一宮尊良親王が関東に御下りになられた時、搦手軍として東山道を経由して鎌倉に向っていた、大智院宮忠房親王、弾正尹宮のお二人は竹之下、箱根の合戦には連絡の行き違いがあって、間に合わなかったのですが、

甲斐、信濃、上野、下野などから軍勢が駆けつけて来たので、その軍勢は雲霞のような大軍となって、鎌倉にお入りになられました。鎌倉に入ってから合戦の様子をお聞きになると、「新田軍は竹之下、箱根の合戦に負けて引き返しました。尊氏朝臣は北に向って追撃し、

そのまま上洛をされるようです。その後、奥州国司顕家卿もまた、尊氏朝臣の後を追って攻め上られています」と、返事がありました。大智院宮は、「そうであれば、都への途上で新田軍が踏みとどまって、合戦が起こるかも知れぬ。鎌倉に留まっているわけにはいかない」と言って、

公家として、洞院左衛門督実世、持明院右衛門督入道、信濃国司堀川中納言、園中将基隆、二条少将為次ら、また武士としては、嶋津上野入道、同じく筑後前司、大伴、猿子の一党、落合の一族、相場、石谷、纐纈、伊木、津子、中村、村上、源氏、仁科、

高梨、志賀、真壁などを主力に総勢二万余騎が鎌倉を出発し、正月二十日の夕方、東坂本に到着されたのでした。これによって官軍は一度に勢い付き、早速翌日にでも京都に寄せようと決めましたが、暦によると合戦に不向きな日が続く上、先の合戦で余りにも馬を酷使したため、

疲労が蓄積し動きが鈍いので、とにかく日延べすることになり、次の合戦は二十七日に行うと決定しました。


既其日に成ぬれば、人馬を休ん為に、宵より楠木・結城・伯耆、三千余騎にて、西坂を下々て、下松に陣を取る。顕家卿は三万余騎にて、大津を経て山科に陣を取る。洞院左衛門督二万余騎にて赤山に陣を取。山徒は一万余騎にて竜花越を廻て鹿谷に陣を取。新田左兵衛督兄弟は二万余騎の勢を率し、今道より向て、北白河に陣を取る。大手・搦手都合十万三千余騎、皆宵より陣を取寄たれども、敵に知せじと態篝火をば焼ざりけり。合戦は明日辰刻と被定けるを、機早なる若大衆共、武士に先をせられじとや思けん、まだ卯刻の始に神楽岡へぞ寄たりける。此岡には宇都宮・紀清両党城郭を構てぞ居たりける。去ば無左右寄著て人の可責様も無りけるを、助註記祐覚が同宿共三百余人、一番に木戸口に著て屏を阻て闘けるが、高櫓より大石数た被投懸て引退処に、南岸円宗院が同宿共五百余人、入替てぞ責たりける。是も城中に名誉の精兵共多かりければ、走廻て射けるに、多く物具を被徹て叶はじとや思ひけん、皆持楯の陰に隠れて、「悪手替れ。」とぞ招きける。爰に妙観院の因幡竪者全村とて、三塔名誉の悪僧あり。鎖の上に大荒目の鎧を重て、備前長刀のしのぎさがりに菖蒲形なるを脇に挟み、箆の太さは尋常の人の蟇目がらにする程なる三年竹を、もぎつけに押削て、長船打の鏃の五分鑿程なるを、筈本迄中子を打徹にしてねぢすげ、沓巻の上を琴の糸を以てねた巻に巻て、三十六差たるを、森の如に負成し、態弓をば不持、是は手衝にせんが為なりけり。切岸の面に二王立に立て名乗けるは、「先年三井寺の合戦の張本に被召て、越後国へ被流たりし妙観院高因幡全村と云は我事也。城中の人々此矢一つ進せ候はん。被遊て御覧候へ。」と云侭に、上差一筋抽出て、櫓の小間を手突にぞ突たりける。此矢不誤、矢間の陰に立たりける鎧武者のせんだんの板より、後の角総著の金物迄、裏表二重を徹て、矢前二寸許出たりける間、其兵櫓より落て、二言も不云死にけり。是を見ける敵共、「あなをびたゝし、凡夫の態に非ず。」と懼て色めきける処へ、禅智房護聖院の若者共、千余人抜連て責入ける間、宇都宮神楽岡を落て二条の手に馳加る。是よりしてぞ、全村を手突因幡とは名付ける。山法師鹿谷より寄て神楽岡の城を責る由、両党の中より申ければ、将軍頓て後攻をせよとて、今河・細川の一族に、三万余騎を差副て被遣けるが、城は早被責落、敵入替ければ、後攻の勢も徒に京中へぞ帰ける。

やがてその二十七日になったので人馬を休めようと、宵のうちから楠木、結城、伯耆らの軍勢が三千余騎にて、西坂を下って下松に陣取りました。顕家卿は三万余騎を率いて、大津を経由して山科に陣を構えました。また洞院左衛門督は二万余騎で赤山に陣取り、

比叡山の僧兵らは一万余騎で、龍華越えを回って鹿谷に陣を取りました。そして新田左兵衛督兄弟は二万余騎の軍勢を率いて、今道を通って北白川に陣取りました。大手、搦手の総勢十万三千余騎は、全軍が宵より陣を構えましたが、敵に知られたくないので敢えて篝火は燃やしませんでした。

合戦の開始は明日、辰の刻(午前八時頃)と決められていましたが、血気に逸る若い大衆らが、武士に先を越されてはならないと思ったのか、まだ卯の刻(午前六時頃)の初め頃に神楽岡(吉田山南付近)に攻め寄せました。この岡には宇都宮、紀清の両党が城郭を構えていました。

そのような所ですから、無闇に攻め寄せることなど無理な話なのに、助註記祐覚の同じ房に住む者ども、三百余人が一番に木戸口に到着すると、塀をはさんで闘っていました。そこに高櫓から多量の大石が投げかけられたため退却しましたが、

その時、南岸円宋院の同宿の者ども五百余人が入れ替わって攻めました。しかしこの攻城軍も、城内で守っている名を重んじる多くの精兵らが、走り回って射掛けるので、多くの者が甲冑を射抜かれ、勝ち目無しと思ったのか、全員が手にした楯の陰に身を隠し、「交代だ交代だ」と、

味方に向って呼び掛けました。この時、妙観院の因幡竪者全村と言う、比叡山の三塔(東塔、西塔、横川)でも評判の悪僧が現れました。鎖帷子の上に大荒目(縅の一つ::太い糸で荒く嚇したもの)の鎧を重ねて、備前の鎬下がり(鎬が普通より刃に寄っている刀)で菖蒲形(刀身が菖蒲の葉に似ていること)の長刀を脇に挟んで、

(の::矢の竹の部分)の太さは普通であれば、蟇目柄(鏑矢)にするほどの三年物の太い竹を削り、備前長船製で五寸鑿ほどの大きさの鏃を、筈の根元付近まで中子を通し、鏃の差し込んだ場所は琴の糸で硬く巻き上げ、三十六本の矢を挿した箙を森のように背負い、

わざと弓は持っていません。これは矢を手突きにしようとの考えからでしょう。切り立った崖の上に仁王立ちになり、「以前、三井寺の合戦の首謀者にさされて、越後国に流された妙観院因幡全村とは私のことだ。城内の人々にこの矢を一つ進呈しよう。楽しんでご覧くだされ」と名乗りながら、

上差しの矢(実戦用以外の矢::鏑矢)を抜き出し、櫓の柱の間を手突きで突き通しました。この矢は間違えることなく、矢狭間の陰に立っていた鎧武者の栴檀の板(脇と胸部を防御する楯状の板)から、後ろの飾り金物まで突き刺ささって、矢の先も二寸ほどが出ています。

重傷を負った兵士は櫓から落ちて、一言も発することなく死んでしまいました。この様子を見ていた敵兵らは、「これはすごいぞ、普通の人間が出来ることじゃない」と、恐怖で慌てだしたところに、禅智房聖護院の若者ら千余人が、太刀を抜き連ねて攻め込んだので、

宇都宮は神楽岡から逃げ落ちて、二条の軍勢に駆け込みました。このことがあってから、全村のことを手突因幡と名付けたのでした。比叡の山法師らが鹿谷より神楽岡の城を攻め寄せて来たと、宇都宮の両党から告げられた尊氏は、すぐに援軍を送り後方から攻めよと、

今川と細川の一族に三万余騎を与えて急派しましたが、すでに城は攻め落とされて、敵が占領していたので、援軍はやむなく京都に引き返したのです。


去程に、楠判官・結城入道・伯耆守、三千余騎にて糾の前より押寄て、出雲路の辺に火を懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様神楽岡の勢共と覚るぞ、山法師ならば馬上の懸合は心にくからず、急ぎ向て懸散せ。」とて、上杉伊豆守・畠山修理大夫・足利尾張守に、五万余騎を差副てぞ被向ける。楠木は元来勇気無双の上智謀第一也ければ、一枚楯の軽々としたるを五六百帖はがせて、板の端に懸金と壷とを打て、敵の駆んとする時は、此楯の懸金を懸、城の掻楯の如く一二町が程につき並べて、透間より散々に射させ、敵引けば究竟の懸武者を五百余騎勝て、同時にばつと駆させける間、防手の上杉・畠山が五万余騎、楠木が五百余騎に被揉立て五条河原へ引退く。敵は是計歟と見処に、奥州国司顕家卿二万余騎にて粟田口より押寄て、車大路に火を被懸たり。将軍是を見給て、「是は如何様北畠殿と覚るぞ、敵も敵にこそよれ、尊氏向はでは叶まじ。」とて、自五十万騎を率し、四条・五条の河原へ馳向て、追つ返つ、入替々々時移る迄ぞ被闘ける。尊氏卿は大勢なれども軍する勢少くして、大将已に戦ひくたびれ給ぬ。顕家卿は小勢なれば、入替る勢無して、諸卒忽に疲れぬ。両陣互に戦屈して忿りを抑へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛督義貞・脇屋右衛門佐義助・堀口美濃守貞満・大館左馬助氏明、三万余騎を三手に分け、双林寺・将軍塚・法勝寺の前より、中黒の旗五十余流差せて、二条河原に雲霞の如くに打囲たる敵の中を、真横様に懸通りて、敵の後を切んと、京中へこそ被懸入けれ。敵是を見て、「すはや例の中黒よ。」と云程こそあれ、鴨河・白河・京中に、稲麻竹葦の如に打囲ふだる大勢共、馬を馳倒し、弓矢をかなくり捨て、四角八方へ逃散事、秋の木の葉を山下風の吹立たるに不異。

やがて楠木判官、結城入道、伯耆守らが三千余騎で糺す森から押し寄せ、出雲路(下賀茂神社西、加茂川沿い)の周辺に火をかけたのです。尊氏はこれを見て、「これは間違いなく神楽岡の占領軍の仕業と思える。山法師なら馬上での戦いなど小癪な話だ。

急いで駆けつけ蹴散らしてしまえ」と言って、上杉伊豆守、畠山修理大夫、足利尾張守に五万余騎の軍勢を与えて向かわせました。楠木は元々武勇にかけては並びなく、その上智謀にも優れた人ですから、軽い楯を五、六百枚用意し、楯の端に留め金と壷を打ちつけ、

敵が攻めてきた時はこの楯の留め金で固定し、城に設置した掻楯(垣根のように立て並べた楯)のように一、二町ほども並べて、その隙間から激しく射させ、敵が退いたとみれば、屈強の騎馬武者を五百余騎選び、同時にバッと駆け込ませたので、防戦していた上杉、畠山の五万余騎は、

楠木の五百余騎の軍勢に翻弄され、五条河原まで引き下がりました。尊氏が敵勢はこの程度かと見ていたところ、奥州の国司、顕家卿が二万余騎を率いて粟田口から押し寄せ、車大路(京都の車大路は何ヶ所かあるみたい::蹴上から東山三条への道)沿いの民家に火をかけました。

尊氏将軍は、「今度の敵はどう考えても北畠殿と思える。敵は敵でも、この敵には尊氏が相手しなければならないだろう」と言って、自ら五十万騎を率いて四条、五条の河原に駆け出し、追いつ追われつ、入れ替わり立ち代り、幾時間か闘い続けました。尊氏卿の軍勢は数こそ多いのですが、

まともに戦おうとする兵士は少なく、大将の尊氏もすでに戦い疲れてしまいました。顕家卿の軍勢は少なく、交代の兵士もいないので、早くも全員の疲労が限界になりました。両軍とも戦闘に疲れたものの、戦闘意欲を抑えて馬を休ませていたところに、

新田左兵衛督義貞、脇屋右衛門佐義助、堀口美濃守貞満、大館左馬助氏明の勢、三万余騎を三手に分けて、雙林寺と将軍塚そして法勝寺の前から、中黒の新田の旗、五十余旒をはためかせながら、二条河原に雲霞の如くひしめいている敵の中を真横に横切って、

敵の後方を遮断すべく京都の中へ駈け入りました。尊氏の軍兵はこれを見ると、「わッ、例の中黒だ」と言う間もなく、鴨川や白川また京都内に稲や竹などが群生するように、ひしめいていた軍勢らは、馬を駆けまわし弓矢もかなぐり捨てて、四方八方に逃げようとする様は、

秋になって木の葉が山から吹き降ろす風に舞っているのと大差ありません。


義貞朝臣は、態鎧を脱替へ馬を乗替て、只一騎敵の中へ懸入々々、何くにか尊氏卿の坐らん、撰び打に討んと伺ひ給ひけれども、将軍運強くして、遂に見へ給はざりければ、無力其勢を十方へ分て、逃る敵をぞ追はせられける。中にも里見・鳥山の人々は、僅に二十六騎の勢にて、丹波路の方へ落ける敵二三万騎有けるを、将軍にてぞ坐らんと心得て桂河の西まで追ける間、大勢に返合せられて一人も不残被討にけり。さてこそ十方に分れて追ける兵も、「そゞろに長追なせそ。」とて、皆京中へは引返しける。角て日已に暮ければ、楠判官総大将の前に来て申けるは、「今日御合戦、不慮に八方の衆を傾くと申せ共さして被討たる敵も候はず、将軍の落させ給ける方をも不知、御方僅の勢にて京中に居候程ならば、兵皆財宝に心を懸て、如何に申すとも、一所に打寄る事不可有候。去程ならば、前の如く又敵に取て被返て、度方を失事治定可有と覚候。敵に少しも機を付ぬれば、後の合戦しにくき事にて候。只此侭にて今日は引返させ給ひ候て、一日馬の足を休め、明後日の程に寄せて、今一あて手痛く戦ふ程ならば、などか敵を十里・二十里が外まで、追靡けでは候べき。」と申ければ、大将誠にげにもとて、坂本へぞ被引返ける。将軍は今度も丹波路へ引給んと、寺戸の辺までをはしたりけるが、京中には敵一人も不残皆引返したりと聞へければ、又京都へぞ帰り給ひける。此外八幡・山崎・宇治・勢多・嵯峨・仁和寺・鞍馬路へ懸りて、落行ける者共も是を聞て、みな我も我もと立帰りけり。入洛の体こそ恥かしけれども、今も敵の勢を見合すれば、百分が一もなきに、毎度かく被追立、見苦き負をのみするは非直事。我等朝敵たる故歟、山門に被咒詛故歟と、謀の拙き所をば閣て、人々怪しみ思はれける心の程こそ愚なれ。

義貞朝臣は思うところがあり、鎧を取り替え、また馬も乗り換えるとただ一騎で敵の中に駈け入り、尊氏卿を捜し求めて狙い討ちを考えていましたが、将軍の運が強かったのか、とうとう見つけ出すことが出来ず、仕方なく自分の軍勢を分割し、逃げる尊氏勢を追い掛けさせました。

その中で、里見と鳥山は僅か二十六騎ですが、丹波路に向かって敵の二、三万騎が落ちて行くのを見て、あの中に尊氏将軍がいるのに違いないと考え、桂川の西まで追いかけましたが、敵に反撃を受け一人残らず討たれてしまいました。

その頃四方に分かれて追撃していた兵士らも、「やたらに深追いはせぬが良いだろう」と、全員京都に引き返しました。やがて日もすっかり暮れたので、楠木判官は総大将新田義貞の前に来て、「本日の合戦では、思いがけなく方々の敵どもを追い散らしたとは言っても、

それほど敵を討ち取った訳でもなく、将軍の落ち延びた先も分っていません。このまま僅かな勢で味方が京都に居残ったら、兵士らは皆が皆、財宝に気を取られ、どう命令を下したとしても、一ヶ所に集結することは難しく思われます。それでは、以前のように敵に都を取り戻されて、

味方の混乱を招くこと必定と思われます。敵に少しでも戦闘意欲を起こさせたなら、後々の合戦に支障をきたすことになるでしょう。そこで今日はこのまま坂本に引き返して、一日馬の疲労を解いた上、明後日ぐらいに京都に攻め寄せ、今一度こっぴどく叩けば、

間違いなく敵を十里、二十里も追い落とすことが出来るでしょう」と、申し上げました。義貞も確かにそうだと思い、坂本に引き返されたのです。尊氏将軍は今回も丹波路に向かって退却しようと、寺戸(向日市西部)のあたりにいましたが、京都内の敵は一人残らず引き返したと聞き、

再び京都に帰ったのでした。このほか、八幡、山崎、宇治、瀬田、嵯峨、仁和寺、鞍馬路方面に落ち延びていた者たちも、この話を聞いて我も我もと、皆が帰ってきたのでした。さすが都に入る姿は恥ずかしく、軍勢の数を比較すれば、敵は百分の一も無いのに、

毎度毎度追い立てられ、見苦しい負け戦ばかりをするのも、ただ事ではありません。これは我らが朝敵と呼ばれているからなのか、それとも山門、延暦寺が朝敵追討の祈祷を行っているからなのか、自分らの計画の杜撰さはさておき、人々を怪しみ疑う心こそ愚かな話です。


○将軍都落事付薬師丸帰京事
楠判官山門へ帰て、翌の朝律僧を二三十人作り立て京へ下し、此彼の戦場にして、尸骸をぞ求させける。京勢怪て事の由を問ければ、此僧共悲歎の泪を押へて、「昨日の合戦に、新田左兵衛督殿・北畠源中納言殿・楠木判官已下、宗との人々七人迄被討させ給ひ候程に、孝養の為に其尸骸を求候也。」とぞ答へける。将軍を始奉て、高・上杉の人々是を聞て、「あな不思議や、宗徒の敵共が皆一度に被討たりける。さては勝軍をばしながら官軍京をば引たりける。何くにか其頚共の有らん。取て獄門に懸、大路を渡せ。」とて、敵御方の尸骸共の中を求させけれ共、是こそとをぼしき頚も無りけり。余にあらまほしさに、此に面影の似たりける頭を二つ獄門の木に懸て、新田左兵衛督義貞・楠河内判官正成と書付をせられたりけるを、如何なるにくさうの者かしたりけん、其札の側に、「是はにた頚也。まさしげにも書ける虚事哉。」と、秀句をしてぞ書副て見せたりける。又同日の夜半許に、楠判官下部共に焼松を二三千燃し連させて、小原・鞍馬の方へぞ下しける。京中の勢共是を見て、「すはや山門の敵共こそ、大将を被討て、今夜方々へ落行げに候へ。」と申ければ、将軍もげにもとや思ひ給ひけん。「さらば落さぬ様に、方々へ勢を差向よ。」とて、鞍馬路へは三千余騎、小原口へ五千余騎、勢多へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨・仁和寺の方迄、洩さぬ様に堅めよとて、千騎・二千騎差分て、勢を不被置方も無りけり。さてこそ京中の大勢大半減じて、残る兵も徒に用心するは無りけれ。

☆ 尊氏将軍が都落ちされたことと、薬師丸が京都に帰ってきたこと

楠木判官は山門に帰って、翌朝戒律正しい僧侶二、三十人を選び出すと京都に向かわせ、あちこちの戦場で命を落とした死骸を探させました。京都の人々は不思議に思い、事情を尋ねてみれば、この僧侶は悲嘆に流れる涙をこらえながら、「昨日の合戦において、

新田左兵衛督殿、北畠源中納言顕家殿、楠木判官以下主だった武将七人が、討ち取られてしまったので、供養をしようと考え、その遺体を捜し求めているのです」と、答えられました。尊氏将軍を始めに、高、上杉の人々らもこの話を聞き、「なんとも不思議なことだ。主だった敵が皆一度に討ち取られたとは。

それで官軍は戦に勝っておきながら、京を引き上げたのか。どこかにその首があるのに違いない。探し出して獄門に架け、大路を引き回せ」と命じ、敵味方の死骸を探し求めましたが、これと思われる首は見つかりませんでした。しかし、そうあってほしいと思う気持ちの余り、

よく似た顔つきの頭を二つ獄門の樗の木に架け、新田左兵衛督義貞、楠木河内判官正成と書き付けた札も一緒に架けました。しかしこれに対して、一体誰がしたのか、その札の傍に、「これはにた首なり。まさしげにも書ける虚事哉」と、立派な句が書き添えてありました。

またその日の夜半頃、楠木判官は使用人らに燃えた松明を二、三千本持たせ、大原、鞍馬の方に列を作って向かわせました。洛内に駐屯する尊氏勢はこれを見て、「さては山門の敵勢どもは大将を討ち取られたので、今夜にもあちこちに落ち行く気だな」と話し合っていると、

尊氏もそうかも知れぬと思われたのか、「よし、では逃げ落ちないよう四方に軍勢を差し向けよ」と命じ、鞍馬路には三千余騎、大原口へは五千余騎を、また瀬田には一万余騎、宇治方面には三千余騎、そして嵯峨、仁和寺方面も逃がさないよう警備せよと、

千騎、二千騎を向かわせ、京よりの脱出口は全て軍勢を派遣したのです。そのため京都内の軍勢は半減し、残った兵士らも警戒を緩めていました。


去程に官軍宵より西坂をゝり下て、八瀬・薮里・鷺森・降松に陣を取る。諸大将は皆一手に成て、二十九日の卯刻に、二条河原へ押寄て、在々所所に火をかけ、三所に時をぞ揚たりける。京中の勢は、大勢なりし時だにも叶はで引し軍也。況て勢をば大略方々へ分ち被遣ぬ。敵可寄とは夢にも知ぬ事なれば、俄に周章ふためきて、或は丹波路を指て引もあり、或は山崎を志て逃るもあり、心も発らぬ出家して禅律の僧に成もあり。官軍はさまで遠く追ざりけるを、跡に引御方を追懸る敵ぞと心得て、久我畷・桂河辺には、自害をしたる者も数を不知ありけり。況馬・物具を棄たる事は、足の蹈所も無りけり。将軍は其日丹波の篠村を通り、曾地の内藤三郎左衛門入道々勝が館に著給へば、四国・西国の勢は、山崎を過て芥河にぞ著にける。親子兄弟骨肉主従互に行方を不知落行ければ、被討てぞ死しつらんと悲む。されども、「将軍は正しく別事無て、尾宅の宿を過させ給候也。」と分明に云者有ければ、兵庫湊河に落集りたる勢の中より丹波へ飛脚を立て、「急ぎ摂州へ御越候へ、勢を集て頓て京都へ責上り候はん。」と申ければ、二月二日将軍曾地を立て、摂津国へぞ越給ひける。此時熊野山の別当四郎法橋道有が、未に薬師丸とて童体にて御伴したりけるを、将軍喚寄給て、忍やかに宣けるは、「今度京都の合戦に、御方毎度打負たる事、全く戦の咎に非ず。倩事の心を案ずるに、只尊氏混朝敵たる故也。されば如何にもして持明院殿の院宣を申賜て、天下を君与君の御争に成て、合戦を致さばやと思也。御辺は日野中納言殿に所縁有と聞及ば、是より京都へ帰上て、院宣を伺ひ申て見よかし。」と被仰ければ、薬師丸、「畏て承り候。」とて、三草山より暇申て、則京へぞ上りける。

そんな時官軍は比叡山より西坂を下ってくると、八瀬、薮里、鷺森、下り松に陣を構えました。諸大将らは全員が一軍としてまとまった上、二十九日の卯刻(午前六時頃)に二条河原に押し寄せ、周辺諸所に火をかけて、三ヶ所で閧の声を挙げたのです。

京に残っている勢は大軍の時でも、勝ち目が無く退却した軍勢です。況や今はほとんどの軍勢が方々に分散配置されています。まさか敵が攻め寄せてくるなど夢にも思っていなかったので、突然の出来事に慌てふためき、或る者は丹波路に向かって落ち行き、

またある者は山崎方面を目指して逃げようとしました。中には心にも無い信仰心を起こし、出家して禅宗や律宗の僧になる者もいました。官軍はそれほど遠くまで追撃しなかったのに、後から退却してくる味方を、追撃の敵軍と思い、久我畷や桂川周辺では自害をした者も、

数知れずいました。その上馬や甲冑も置き去りにされて、それこそ道中足の踏み場も無い始末です。尊氏将軍はその日、丹波の篠村を通って、曾地(篠山市野々垣)の内藤三郎左衛門入道道勝の屋敷に到着され、また四国や西国の軍勢は、山崎を通り過ぎ芥川に着きました。

親子兄弟親族主従など、お互いその行方も安否も分らず逃げ落ちていくので、討たれたのではないかと悲しみに耐えません。とは言っても、「将軍は間違いなく無事であり、曾地の宿で過ごされています」と、はっきり言い切る者がいますので、兵庫の湊川に集まっていた、

落ち武者らの中から丹波に飛脚を立て、「大急ぎで摂州に来てください。軍勢を集結させて、出来るだけ早く京都に攻め上りましょう」と連絡したところ、将軍は二月二日に曾地を出発し、摂津国に来られたのです。この時、熊野山の別当四郎法橋道明の末っ子で、

薬師丸と言う童武者がお供していたのですが、将軍は彼を呼び寄せて、「このたびの京都における合戦では、毎回毎回味方が負け続けたけれど、戦にあたって戦法などに全く問題があった訳ではない。よくよく敗因を考えてみると、ただ一点、尊氏がよこしまな朝敵といわれているからだ。

そこでここは何としても持明院殿の院宣を賜って、この戦乱を天皇と天皇の争いにして、我々が合戦を行えば良いと思う。汝は日野中納言殿と有縁の者と聞いているので、これより京都に上って、院宣が賜れるよう話をしてくれないか」と仰せられ、

薬師丸は、「謹んで命令をお受けいたします」と返事をして暇をもらい、三草山よりすぐに京都に上って行きました。


○大樹摂津国豊嶋河原合戦事
将軍湊河に著給ければ、機を失つる軍勢共、又色を直して、方々より馳参りける間、無程其勢二十万騎に成にけり。此勢にて頓て責上り給はゞ、又官軍京にはたまるまじかりしを、湊河の宿に、其事となく三日迄逗留有ける間、宇都宮五百余騎道より引返して、官軍に属し、八幡に被置たる武田式部大輔も、堪かねて降人に成ぬ。其外此彼に隠れ居たりし兵共、義貞に属ける間、官軍弥大勢に成て、竜虎の勢を振へり。二月五日顕家卿・義貞朝臣、十万余騎にて都を立て、其日摂津国の芥河にぞ被著ける。将軍此由を聞給て、「さらば行向て合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬頭に、十六万騎を差副て、京都へぞ被上ける。さる程に両家の軍勢、二月六日の巳刻に、端なく豊嶋河原にてぞ行合ける。互に旗の手を下して、東西に陣を張り、南北に旅を屯す。奥州国司先二たび逢て、軍利あらず、引退て息を継ば、宇都宮入替て、一面目に備んと攻戦ふ。其勢二百余騎被討て引退けば、脇屋右衛門佐二千余騎にて入替たり。敵には仁木・細川・高・畠山、先日の恥を雪めんと命を棄て戦ふ。官軍には江田・大館・里見・鳥山、是を被破ては何くへか可引と、身を無者に成てぞ防ぎける。されば互に死を軽ぜしかども、遂に雌雄を不決して、其日は戦ひ暮てけり。爰に楠判官正成、殿馳にて下りけるが、合戦の体を見て、面よりは不懸、神崎より打廻て、浜の南よりぞ寄たりける。左馬頭の兵、終日の軍に戦くたびれたる上、敵に後をつゝまれじと思ければ、一戦もせで、兵庫を指て引退く。義貞頓て追懸て、西宮に著給へば、直義は猶相支て、湊河に陣をぞ被取ける。同七日の朝なぎに、遥の澳を見渡せば、大船五百余艘、順風に帆を揚て東を指て馳たり。何方に属勢にかと見る処に、二百余艘は梶を直して兵庫の嶋へ漕入る。三百余艘は帆をつゐて、西宮へぞ漕寄せける。是は大伴・厚東・大内介が、将軍方へ上りけると、伊予の土居・得能が、御所方へ参りけると漕連て、昨日迄は同湊に泊りたりしが、今日は両方へ引分て、心々にぞ著たりける。

☆ 征夷大将軍が摂津国豊嶋河原で合戦したこと

尊氏将軍が湊川にお着きになると、戦意喪失していた軍勢らも再び気を取り直し、また他の軍勢らも諸方から駆けつけて来たので、やがてその軍勢は二十万騎になりました。しかしこの軍勢をもってすぐに京都に攻め上ったら、官軍はまたしても京都を守りきることが出来なかっただろうに、

湊川の宿に三日間も徒に過ごしている内に、宇都宮の五百余騎が途中より引き返すと官軍に従ってしまい、また八幡に置かれたままの武田式部大輔も、たまりかねて官軍に降伏しました。その他、諸所に隠れていた兵士らも義貞の支配下になったため、官軍はますます大軍となり、

竜虎の勢いを彷彿とさせます。二月五日に北畠顕家卿と新田義貞朝臣は十万余騎で都を出発し、その日に摂津国芥川にお着きになられました。尊氏はこの情報を手に入れると、「よし、攻め寄せよう。合戦だ」と命じ、尊氏の舎弟左馬頭直義に十六万騎の軍勢を与え、京都に上らせました。

やがて両軍は二月六日の巳刻(午前十時頃)に思いがけなく豊嶋河原にて遭遇しました。両軍互いに旗を下げ、東西に陣を構えて南北に兵士を配置しました。奥州国司が先鋒として二度突撃しましたが、勝機をつかめず退却し休んでいると、宇都宮が入れ替わって名誉にかけてもと、攻撃しました。

しかし二百余騎が討ち取られたので引き下がり、その後、脇屋右衛門佐が二千余騎を率いて入れ替わりました。敵軍では仁木、細川、高、畠山らが先日の恥を雪がんと、命を惜しまず戦いました。また官軍側では江田、大館、里見、鳥山らが、ここを破られては退く場所などないぞとばかり、

必死になって防戦に努めました。この両軍が死を恐れず戦ったので、終に雌雄を決することが出来ず、その日は戦う内に日が暮れました。この時楠木判官正成は最後尾に控えていましたが、合戦の様子を見て、正面から戦うことは避け、神埼方面から回り込み、浜の南から攻め寄せました。

左馬頭直義の率いる兵士らは、終日の戦闘に疲れ果てている上、敵に後方を遮断されてはならじと考え、一戦にも及ばず兵庫に向かって退却を始めました。義貞は直ちに追撃にかかり西宮に着きましたが、直義は防戦を続けて湊川に陣を構えました。

二月七日の朝凪頃に遥か沖合いを見渡すと、大船が五百余艘、帆に順風を受け東に向かって進んでいます。何処の援軍なのかと見ていると、その内の二百余艘は、舵を兵庫の島に向けて漕ぎ入れてきました。残る三百余艘は帆の向きを変え、西宮に漕ぎ寄せました。

つまり大伴、厚東、大内介らが尊氏将軍に味方するつもりで、また伊予の土居、得能らは官軍に味方しようと、昨日までは同じ港で夜を明かしましたが、今日になってそれぞれの思惑に従い二つに分れて上陸したのでした。


荒手の大勢両方へ著にければ、互に兵を進めて、小清水の辺に羽向合。将軍方は目に余る程の大勢なりけれども、日比の兵、荒手にせさせんとて、軍をせず。厚東・大伴は、又強に我等許が大事に非ずと思ければ、さしも勇める気色もなし。官軍方は双べて可云程もなき小勢なりけれども、元来の兵は、是人の大事に非ず、我身の上の安否と思ひ、荒手の土居・得能は、今日の合戦無云甲斐しては、河野の名を可失と、機をとき心を励せり。されば両陣未闘はざる前に安危の端機に顕れて、勝負の色暗に見たり。されども荒手の験しなれば、大伴・厚東・大内が勢三千余騎、一番に旗を進めたり。土居・得能後へつと懸抽て、左馬頭の引へ給へる打出宿の西の端へ懸通り、「葉武者共に目な懸そ、大将に組め。」と下知して、風の如くに散し雲の如くに集て、呼ひて懸入、々々ては戦ひ、戦ふては懸抽け、千騎が一騎に成迄も、引なと互に恥めて面も不振闘ひける間、左馬頭叶はじとや被思けん、又兵庫を指して引給ふ。千度百般戦へども、御方の軍勢の軍したる有様、見るに可叶とも覚ざりければ、将軍も早退屈の体見へ給ける処へ、大伴参て、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも覚候はず。幸に船共数候へば、只先筑紫へ御開き候へかし。小弐筑後入道御方にて候なれば、九国の勢多く属進せ候はゞ、頓て大軍を動て京都を被責候はんに、何程の事か候べき。」と申ければ、将軍げにもとや思食けん、軈て大伴が舟にぞ乗給ひける。諸軍勢是を見て、「すはや将軍こそ御舟に被召て落させ給へ。」とのゝめき立て、取物も取不敢、乗をくれじとあはて騒ぐ。舟は僅に三百余艘也。乗んとする人は二十万騎に余れり。一艘に二千人許こみ乗ける間、大船一艘乗沈めて、一人も不残失にけり。自余の舟共是を見て、さのみは人を乗せじと纜を解て差出す。乗殿れたる兵共、物具衣裳を脱捨て、遥の澳に游出で、舟に取著んとすれば、太刀・長刀にて切殺し、櫓かいにて打落す。乗得ずして渚に帰る者は、徒に自害をして礒越す波に漂へり。尊氏卿は福原の京をさへ被追落て、長汀の月に心を傷しめ、曲浦の波に袖を濡して、心づくしに漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高して、数万の降人を召具し、天下の士卒に将として花の都に帰給ふ。憂喜忽に相替て、うつゝもさながら夢の如くの世に成けり。

新手の大軍勢が両陣営に到着したので、お互いが兵を進め越水のあたりでにらみ合いになりました。しかし尊氏軍は大変な数の軍勢ですが、以前から従軍してきた兵士らは、今回参陣した新手の兵に任せて、自分らは戦闘をしようとはしません。

しかし厚東や大伴の軍勢は軍勢で、何もこの合戦が我らにとって重要とも思えず、そんなに士気が上がる様子もありません。対して官軍側では、尊氏軍とは比較にならない小勢ですが、今まで戦ってきた兵士らは、この合戦が他人事とは思えず、我が身の行く末を左右する戦いだと認識し、

また新手の土居、得能らは今日の合戦で不甲斐ない戦いをすれば、河野の名前を汚すことになると考え、戦機を油断無くうかがうとともに、士気を高めて行きました。そのような訳で両軍は戦う前に、勝敗の行方ははっきりしていました。しかし新手として加わった軍勢の例として、

大伴、厚東や大内の軍勢三千余騎は、先頭を切って旗を進めました。官軍側の土居、得能軍は後方に引き下がり、左馬頭直義が控えている打出の宿の西端に向かい、「木っ端武者などは相手にするな。大将だけを狙って行け」と命令し、疾風の如くに展開したかと思うと、

次の瞬間には雲のように集まり、集まっては敵中に駆け込み駆け込んでは戦い、戦った次の瞬間にはサッと退き、千騎が一騎になるまで退くなとお互いに辱め、わき目もふらずに戦い続けましたから、さすがの左馬頭も、とても勝ち目が無いと思ったのか、再び兵庫を目指して退却にかかりました。

ありとあらゆる方法を駆使して戦っても、味方の合戦振りは見るからに勝ち目を感じることが出来ず、尊氏もいささか嫌気がさしだしてきた頃、大伴が尊氏の前に来て、「今のような状況では、合戦を続けることなど、中止したほうが良いと思われます。幸いここには舟が沢山ありますので、

まず筑紫に向かい今後の策を考えましょう。少弐筑後入道が味方にいますから、九州の軍勢ら多数応援に駆けつけてくるでしょう。それから出来るだけ早く大軍を動員し、京都に攻め上るのに何の問題がありましょうか」と申し上げると、尊氏も確かにその方が良いだろうと思われ、

すぐに大伴の舟に乗られたのです。この様子を見ていた諸軍勢らも、「それっ、将軍をお舟に乗せて、落ちていただかなけりゃ」と騒ぎたて、取る物も取りあえず、乗り遅れまいと慌て騒ぎました。しかし舟は僅かに三百余艘ばかりしかありません。

対して乗ろうとする者は二十万騎を超えています。そのため一艘に二千人もが乗ったので、大船が一艘沈んでしまい、一人残らず死んでしまいました。他の舟はこれを見たので、あまり人は乗せられないぞと、とも綱を解き沖に向かいました。乗り遅れた兵士らは甲冑や衣服を脱ぎ捨て、

遥か沖合いまで泳ぎ舟に取りすがろうとしましたが、舟に乗った者たちは太刀や長刀で斬り殺したり、すがる手を櫓や櫂で打ち落としたりしました。乗ることが出来ずに渚に帰った者は、なすすべなく自害し、磯を漂う波に浮かんでいる有様です。

尊氏卿は福原の京さえも、追い落とされて、遥かに続く渚を照らす月に、その心中を苦しめられ、海岸に打ち寄せる波に袖を濡らされて、あれこれ思い煩いながら舟で漂っている頃、義貞朝臣は百戦に勝利を収め、数万に上る降伏兵を引き連れて、

天下の武家全体を率いる将官として、意気揚々と花の都に凱旋したのです。それぞれの立場は瞬時に入れ替わり、何が現実で何が幻なのか分らない世になってしまいました。


○主上自山門還幸事
去月晦日逆徒都を落しかば、二月二日主上自山門還幸成て、花山院を皇居に被成にけり。同八日義貞朝臣、豊嶋・打出の合戦に打勝て、則朝敵を万里の波に漂せ、同降人の五刑の難を宥て京都へ帰給ふ。事体ゆゝしくぞ見へたりける。其時の降人一万余騎、皆元の笠符の文を書直して著たりけるが、墨の濃き薄き程見へて、あらはにしるかりけるにや、其次の日、五条の辻に高札を立て、一首の歌をぞ書たりける。二筋の中の白みを塗隠し新田々々しげな笠符哉都鄙数箇度の合戦の体、君殊に叡感不浅。則臨時除目を被行て、義貞を左近衛中将に被任ぜ、義助を右衛門佐に被任けり。天下の吉凶必しも是にはよらぬ事なれども、今の建武の年号は公家の為不吉也けりとて、二月二十五日に改元有て、延元に被移。近日朝廷已に逆臣の為に傾られんとせしか共、無程静謐に属して、一天下又泰平に帰せしかば、此君の聖徳天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾け可申と、群臣いつしか危を忘れて、慎む方の無りける、人の心ぞ愚かなる。

☆ 後醍醐天皇が山門、比叡山から都にお帰りになったこと

先月晦日に逆賊尊氏らを都から追い出したので、二月二日天皇は山門を出られ、都にお帰りになりましたが、大内裏は未だ出来上がっていませんので、花山院を皇居に定められました。同じく二月の八日に義貞朝臣は豊嶋、打出の合戦に勝利を収め、

朝敵らを即刻、万里の波濤に漂わせ、降参してきた者どもに対しては五刑(律で規定された五つの刑::笞・杖・徒・流・死)の罪を許し、京都に戻ってきました。その様子たるや、大変なものでした。一緒に連行されてきた降伏者ら、一万余騎は全員、元の笠印の紋を書き直して付けていますが、

墨の濃淡を通して元の紋が見えるので、その次の日に五条の辻に高札が立てられ、一首の歌が書かれていました。
      二筋の 中の白みを 塗隠し 新田新田しげな 笠符哉

都や地方において、数回行われた合戦の様子について、後醍醐天皇のお喜びも非常に大きかったのです。そのためすぐに臨時の除目が行われ、義貞を左近衛中将に任命し、脇屋義助を右衛門佐に任命しました。天下の安定や動乱などに影響があるとも思えませんが、

現在の建武の年号は公家にとって不吉ではないかと、二月二十五日に改元が行われ、延元となりました。つい最近、朝廷は逆臣のためにその安定を失い、権威も失墜してしまったのですが、程なく動乱も収まり、再び天下が泰平になったのも、この後醍醐天皇の人徳が、

天や地の神々に受け入れられたからでしょう。どんなことがあっても何時かは誰かによって、朝廷の安定が失われるはずですが、群臣はいつの間にかその危険性を忘れ去り、その事態に備えようとする人も居なくなってしまいました。人の心とは愚かなものです。


○賀茂神主改補事
大凶一元に帰して万機の政を新たにせられしかば、愁を含み喜を懐く人多かりけり。中にも賀茂の社の神主職は、神職の中の重職として、恩補次第ある事なれば、咎無しては改動の沙汰も難有事なるを、今度尊氏卿貞久を改て、基久に被補任、彼れ眉を開く事僅に二十日を不過、天下又反覆せしかば、公家の御沙汰として貞久に被返付。此事今度の改動のみならず、両院の御治世替る毎に転変する事、掌を反すが如し。其逆鱗何事の起ぞと尋ぬれば、此基久に一人の女めあり。被養て深窓に在し時より、若紫の■匂殊に、初本結の寐乱髪、末如何ならんと、見るに心も迷ぬべし。齢已に二八にも成しかば、巫山の神女雲と成し夢の面影を留め、玉妃の太真院を出し春の媚を残せり。只容色嬋娟の世に勝れたるのみに非ず、小野小町が弄びし道を学び、優婆塞宮のすさみ給し跡を追しかば、月の前に琵琶を弾じては、傾く影を招き、花の下に歌を詠じては、うつろう色を悲めり。されば其情を聞き、其貌を見る人毎に、意を不悩と云事なし。其比先帝は未帥宮にて、幽かなる御棲居也。是は後宇多院第二の皇子後醍醐天王と申せし御事也。今の法皇は伏見院第一の皇子にて、既に春宮に立せ可給と云、時めき合へり。此宮々如何なる玉簾の隙にか被御覧たりけん。此女最あてやかに臈しとぞ被思食ける。されども、混すらなる御業は如何と思食煩て、荻の葉に伝ふ風の便に付け、萱の末葉に結ぶ露のかごとに寄せては、いひしらぬ御文の数、千束に余る程に成にけり。

☆ 賀茂神社の神主を交代させたこと

大変だった動乱や騒動も元通りに安定した世に戻り、あらゆる政治の行い方も新しくなったので、多少の不安はあっても、喜びを感ずる人は多かったのです。その中でも賀茂神社の神主職は、神職の中でも重要な地位にあり、恩賞としてその職を命じられることがあるので、

今回の騒動に関しても、何らかの処分無しでは済まないと考えられていました。今回尊氏卿が前任の貞久を更迭し、基久を任命し彼も喜んでいいたものの、今回の政変で僅か二十日を過ぎずに、天下の情勢は変わってしまい、公家による処置として、貞久が再び任命されました。

このような職制に対する更迭や、方針変更などは何も今回だけでなく、大覚寺統と持明院統の交代がある度に、入れ替わりがあり、それこそ掌を返すようなものです。この更迭劇のもととなった天皇のお怒りは、次のような事情があったからです。この前職の基久には一人の娘がいましたが、

その娘が親の庇護を受け、深窓に暮らしておられた時より、若紫色に輝く髪の匂い、また結った髪が寝乱れている様子など、この先どうなるのかと想像するだけで心も乱れます。年齢もすでに十六歳になり、朝、雲になると言う巫山の神女の面影を想像させ、

また楊貴妃を思わせる美しさを持っています。ただそれも単に容色が他に抜きん出て美しいだけでなく、小野小町がたしなんでいた歌の道に通じ、優婆塞宮(源氏物語・橋娘の登場人物)が世を儚んで隠棲していた宇治を訪ね、月に向かって琵琶を弾じては、雲間に隠れた月を招きよせ、

また花の下に歌を詠んでは、衰えていく花の色を悲しみました。そのような訳で、彼女の細やかな感情の襞の話を聞いたり、その容貌を見た人たちは、皆が皆、心を動かされ思い煩うことになりました。その頃先帝、後醍醐はまだ大宰府の長官として、ひっそりとお住まいになっておられました。

この方が大覚寺統の後宇多天皇、第二皇子、後醍醐天皇と呼ばれるお方です。今の法皇(後伏見天皇)は持明院統、伏見院の第一皇子で、すでに皇太子になっておられ、脚光を浴びておられました。この二人の宮様方がどうしたはずみなのか、御簾の隙間からご覧になられたのでしょう、

この女性が最もあでやかで上品な方だと思われたのでした。とは言っても、余り理性のない行いも如何かと思われ、荻の葉を揺らす風が吹けば吹いたで、萱の葉の先に露が結べば結んだで、それにかこつけて、お送りしたお手紙も言い尽くせぬほどの数になり、千通を越えるほどでした。


女も最物わびしう哀なる方に覚へけれども、吹も定ぬ浦風に靡きはつべき烟の末も、終にはうき名に立ぬべしと、心強き気色をのみ関守になして、早年の三年を過にけり。父は賎して母なん藤原なりければ、無止事御子達の御覚は等閑ならぬを聞て、などや今迄御いらへをも申さではやみにけるぞと、最痛ふ打侘れば、御消息伝へたる二りのなかだち次よしと思て、「たらちめの諌めも理りにこそ侍るめれ。早一方に御返事を。」と、かこち顔也ければ、女云ばかりなく打侘て、「いさや我とは争でか分く方可侍。たゞ此度の御文に、御歌の最憐れに覚へ侍らん方へこそ参らめ。」と云て、少し打笑ぬる気色を、二りの媒嬉しと聞て、急ぎ宮々の御方へ参てかくと申せば、頓て伏見宮の御方より、取手もくゆる許にこがれたる紅葉重の薄様に、何よりも言の葉過て、憐れなる程なり。思ひかね云んとすればかきくれて泪の外は言の葉もなしと被遊たり。此上の哀誰かと思へる処に、帥宮御文あり。是は指も色深からぬ花染のかほり返たるに、言は無て、数ならぬみのゝを山の夕時雨強面松は降かひもなしと被遊たり。此御歌を見て、女そゞろに心あこがれぬと覚て、手に持ながら詠じ伏たりければ、早何れをかと可云程もなければ、帥宮の御使そゞろに独笑みして帰り参りぬ。頓て其夜の深け過る程に、牛車さはやかに取まかないて、御迎に参りたり。滝口なりける人、中門の傍にやすらひかねて、夜もはや丑三に成ぬと急げば、女下簾を掲させて、被扶乗としける処に、父の基久外より帰りまうで来て、「是はいづ方へぞ。」と問に、母上、「帥宮召有て。」と聞ゆ。父痛く留て、「事の外なる態をも計ひ給ひける者哉。伏見宮は春宮に立せ給べき由御沙汰あれば、其御方へ参てこそ、深山隠の老木迄も、花さく春にも可逢に、行末とても憑みなき帥宮に参り仕へん事は、誰が為とても可待方や有。」と云留めければ、母上げにやと思返す心に成にけり。滝口は角ともしらで簾の前によりゐて、月の傾きぬる程を申せば、母上出合て、「只今俄に心地の例ならぬ事侍れば、後の夕べをこそ。」と申て、御車を返してげり。帥宮かゝる事侍とは、露もおぼしよらず、さのみやと今日の憑みに昨日の憂さを替て、度々御使有けるに、「思の外なる事候て、伏見宮の御方へ参りぬ。」と申ければ、おやしさけずば、東路の佐野の船橋さのみやは、堪ては人の恋渡るべきと、思ひ沈ませ給にも、御憤の末深かりければ、帥宮御治世の初、基久指たる咎は無りしかども、勅勘を蒙り神職を被解て、貞久に被補。其後天下大に乱て、二君三たび天位を替させ給しかば、基久・貞久纔に三四年が中に、三度被改補。夢幻の世の習、今に始ぬ事とは云ながら、殊更身の上に被知たる世の哀に、よしや今は兎ても角てもと思ければ、うたゝねの夢よりも尚化なるは此比見つる現なりけりと、基久一首の歌を書留めて、遂に出家遁世の身とぞ成にける。

その女性も何となく寂しげで、憂いを感じさせる人のように思われましたが、何処に向かって吹くかも分からない海の風、その風に振り回される私の心の苦しみも、最後には良からぬ評判を立てられことになるだろうとは思いながらも、気丈に振舞っている内に、はや三年の年月が経ちました。

父は身分が卑しくても、母は藤原の出ですから、特別な立場にあるお子達の思いが一通りでないと聞き、何故今までご返事も差し上げずにいたのかと、嘆き悲しんだのです。そこで事情を知らせに来てくれた二人の仲立ちの方に説明をしようと思って、

娘に向かい、「母親として忠告しておきますが、早くお一方にご返事をしなさい」と、困り果てた顔をされたので、娘は娘で悲嘆にくれ、「そんなことを言われても、私がどうして選ぶことが出来るのでしょうか。ただ、この次頂くお手紙に書かれたお歌に、心が一番引かれた方のもとに参りましょう」と話すと、

少し笑顔が浮かびました。この笑顔を見て、二人の仲立ちの人は了解されたと思い、急いでお二人の宮様のもとに参り、事情をお話ししました。すぐに伏見宮から、持つ手も染まるほど香を強くたきしめ、紅葉の色をした薄手の和紙に、言葉も非常な過激さで、かわいそうにも思われる歌が詠まれていました。

      思いかね 言わんとすれば かきくれて 泪の外は 言の葉もなし

これ以上の悲しみを持つ人など、誰がいるのかと思われていたところ、帥宮、後醍醐からお手紙が来ました。これは、それ程色も濃くはないのですが、露草染めの香りが引き立つ紙に、言葉は無く、歌のみが詠まれていました。

      数ならぬ みのゝお山の 夕時雨 強面松は 降るかいもなし
この歌を見て、娘は何となく心が動かされたようで、手紙を手にしたまま歌を詠むと、伏せてしまわれたので、もはやいずれの宮をお選びになるのかと、

問うまでもないと考え、帥宮のお使いは訳もなくひとりでに笑みを浮かべると、お帰りになり帥宮のところへ参ったのです。早速その夜も遅く、美しい牛車が用意されお迎えが来ました。滝口(宮中の警護武者)らしき人は、夜もはや丑三つ(午前三時前後)ともなれば、

中門の傍に何時までも待っていることも出来ず、女房車の下簾を揚げさせて、牛車に乗るのを手助けしようとしていたところ、父の基久が外出より帰られて来て、「どうした、何処へ行くのだ」と尋ねると、母上より、「帥宮からお呼びがかかりまして」と、返事がありました。

父はとんでもないと引き止め、「何を思ってそんなことをするのだ。伏見宮は皇太子になられると言う話があるのだから、そちらに参られてこそ、深山に隠れて生えている老木にも、花の咲く春に巡り会えるというものだ。なのに行く末も大して頼みにならない帥宮のもとに参り、

お仕えなどして一体誰のためになると言うのだ」と、引き止めました。母上はなるほどと考え直したのです。滝口はそうとも知らずに簾の前に寄って来て、月もすでにあのように傾いていますと、話されたのですが母上は出て来ると、「突然なことですが、心境に変化があったたので、

又の夕べにしてくださいませんか」と申し上げ、お車を帰されたのでした。帥宮はこんな事情があったことなどつゆ知らず、今日こそ来てくれるものと思えば、昨日の辛さも我慢出来るものと、幾度もお使いを遣わしましたが、「思いがけないことが起こり、伏見宮のもとに参られたそうです」とお聞きになると、

東路にあると言う佐野の船橋で起こったようなことに負けていては、人としての恋など成就することなど出来るものではないと、落ち込んではいてもその憤慨の度合いも激しく、帥宮が天下の政治を執ることになった当初、基久にそれと言って不都合なことがあった訳でもないのに、

帝の怒りを買ってその職を解任され、貞久が任命されたのです。その後、天下は大いに乱れてこの二人の帝が、天皇の位を交替すること三度に及びましたから、基久、貞久も同じく三、四年の間に三度も解任、就任を繰り返されたのでした。諸行無常、はかないことは世の常で、

今に始まったことではありませんが、我が身をもって、その哀しみを思い知らされては、今はもう良かろうと思って、
      うたたねの 夢よりもなお 化なるは このごろ見つる 現なりけり

と、基久は一首の歌を書きとめて、ついに出家し俗世間から身を退かれたのでした。      (終り)

←前へ   太平記総目次に戻る