16 太平記 巻第十六 (その一)


○将軍筑紫御開事
建武三年二月八日、尊氏卿兵庫を落給ひし迄は、相順ふ兵僅七千余騎有しか共、備前の児嶋に著給ける時、京都より討手馳下らば、三石辺にて支よとて、尾張左衛門佐氏頼を、田井・飽浦・松田・内藤に付て留られ、細川卿律師定禅・同刑部大輔義敦をば、東国の事無心元とて返さる。其外の勢共は、各暇申て己が国々に留りける間、今は高・上杉・仁木・畠山・吉良・石塔の人々、武蔵・相摸勢の外は相順兵も無りけり。筑前国多々良浜の湊に著給ひける日は、其勢僅に五百人にも足ず、矢種は皆打出・瀬川の合戦に射尽し、馬・物具は悉兵庫西宮の渡海に脱捨ぬ。気疲れ勢尽ぬれば、轍魚の泥に吻き、窮鳥の懐に入ん風情して、知ぬ里に宿を問ひ、狎れぬ人に身を寄れば、朝の食飢渇して夜の寝醒蒼々たり。何の日か誰と云ん敵の手に懸てか、魂浮れ、骨空して、天涯望郷の鬼と成んずらんと、明日の命をも憑れねば味気無思はぬ人も無りけり。斯処に、宗像大宮司使者を進て、「御座の辺は余りに分内狭て、軍勢の宿なんども候はねば、恐ながら此弊屋へ御入有て、暫此間の御窮屈を息られ、国々へ御教書を成れて、勢を召れ候べし。」と申ければ、将軍軈て宗像が館へ入せ給ふ。次日小弐入道妙恵が方へ、南遠江守宗継・豊田弥三郎光顕を両使として、恃べき由を宣遣されければ、小弐入道子細に及ばず、軈嫡子の太郎頼尚に、若武者三百騎差添て、将軍へぞ進せける。

☆ 将軍足利尊氏が筑紫を開拓されたこと

建武三年(1336年)二月八日、尊氏卿が兵庫を落ちて行こうとした時には、従う兵士らは僅かではあっても七千余騎はいましたが、、備前の児嶋に着いた時に、もし京都より討手が下ってきた時には、三石のあたりで討手の進攻を防ぐようにと、

尾張左衛門佐氏頼を田井、飽浦、松田、内藤らの軍勢らと共に留め置き、細川卿律師定禅と同じく刑部大輔義敦を、東国の情勢も気がかりだと、ここより引き返させました。その他の軍勢らも各自暇を申し出て、それぞれの国に留まることになったので、

現状は、高、上杉、仁木、畠山、吉良、石塔の人達、武蔵、相模らの軍勢以外には従う兵士らはいません。筑前国多々良浜の港に着いた日には、総勢僅か五百人にも足らない有様でした。その上、用意していた矢は全て打出、瀬川の合戦で射尽くし、

馬や甲冑もことごとく兵庫西宮で舟に乗り込む時、脱ぎ捨ててしまいました。続く敗戦に精神は参ってしまい、わだちの水に住む魚が泥水に苦しみ、窮鳥が懐に飛び込んで助けを乞うように、知らない里に宿舎を乞い願い、親しくもない人の下に身を寄せていれば、朝の食事も思うように摂れず、

夜は夜で熟睡も望むべくはありません。何時の日に、誰か分からぬ敵の手にかかるのかと思えば、神経が疲れ果てると共に、肉体の疲労も激しく、ただ遥かかなたの故郷だけを懐かしむばかりで、明日の命さえ保障も無ければ、やるせない気持ちに成らない人など居ません。

そのような時、宗像大宮司が使者を寄こして、「今おられる所は余りにも手狭で、とても軍勢が駐屯できる宿舎もないと思いますので、もし良ければ、たいした家でもございませんが、我が屋敷に来られてしばらく体をお安めになり、その間に諸国に御教書を発せられ、

軍勢を召集されればいかがでしょう」と、申し出て来ました。尊氏将軍は早速宗像の屋敷にお入りになられました。その翌日、少弐入道妙恵のもとに、南遠江守宗継と豊田弥三郎光顕を両使として派遣し、加勢を信じている旨を伝えさせたので、少弐入道は躊躇することなく、

すぐ嫡子の太郎頼尚に若武者三百騎を与えて、将軍の陣営に向かわせました。


○小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事
菊池掃部助武俊は、元来宮方にて肥後国に有けるが、小弐が将軍方へ参由を聞て道にて討散んと、其勢三千余騎にて水木の渡へぞ馳向ける。小弐太郎は、夢にも此を知ずして、小船七艘に込乗て、我身は先向の岸に付く。畦篭豊前守以下は未越、叩へて船の指し戻す間を相待ける処に、菊池が兵三千余騎、三方より推寄て、河中へ追ばめんとす。畦篭が兵百五十騎、とても遁れぬ所也と、一途に思定て、菊池が大勢の中へ懸入て、一人も不残討死す。小弐太郎は川向より、此を見けれ共、大河を中に障て、舟ならでは渡べき便も無ければ、徒に恃切たる一族若党共を敵に取篭させける心中、遣方無して無念なる。遂に船共近辺に見へざりければ、忿を推て将軍へぞ参ける。菊池は手合の合戦に討勝て、門出吉と悦で、頓て其勢を率、小弐入道妙恵が楯篭たる内山の城へぞ推寄ける。小弐宗徒の兵をば皆頼尚に付て、其勢過半水木の渡にて討れぬ。城に残勢僅に三百人にも足ざりければ、菊池が大勢に可叶とも覚へず。されども城の要害緊しかりければ、切岸の下に敵を直下して、防戦事数日に及べり。菊池荒手を入替々々夜昼十方より責けれ共、城中の兵一人も討れず、矢種も未尽りければ、いかに責るとも不落物をと思ける処に、小弐が一族等俄に心替して攻の城に引挙、中黒の旗を揚て、「我等聊所存候間宮方へ参候也。御同心候べしや。」と、妙恵が方へ云遣しければ、一言の返答にも及ばず、「苟も存て義無んよりは、死して名を残さんには不如。」と云て、持仏堂へ走入、腹掻斬て臥にけり。郎等百余人も、堂の大床に並居て、同音に声を出し、一度に腹をぞ切たりける。其声天に響て、悲想悲々想天迄も聞へやすらんと夥し。小弐が最末の子に、宗応蔵主と云僧、蔀遣戸を蹈破て薪とし、父が死骸を葬して、「万里碧天風高月明、為問慧公行脚事、蹈翻白刃転身行、下火云、猛火重焼一段清」と、閑に下火の仏事をして、其炎の中へ飛入て同く死にぞ赴ける。

☆ 少弐と菊池の合戦のことと、宗応蔵主のこと

菊池掃部助武俊は元々宮方として肥後国に居ましたが、少弐が将軍方に味方せんと陣営に向かったと聞き、それでは途中で打ち散らしてやろうと、総勢三千余騎を率いて水木の渡しに駆け向かいました。少弐太郎頼尚は夢にもその計画など知らず、小舟七艘に乗り込み、

自分が先に向こう岸に着きました。畦篭豊前守以下の軍勢らは、まだこちら側の岸で舟が引き返してくるのを待っていたところ、菊池の軍勢三千余騎が三方から押し寄せて来て、少弐の兵士らを川に追い込もうとしました。畦篭の兵士ら百五十騎はとても逃げ切れないと覚悟を決め、

菊池の大軍の中に駈け入り、一人残らず討ち死にしてしまいました。少弐太郎は対岸からこの様子を見ていましたが、大河を間にしては舟が無ければ渡ることも出来ず、なすすべも無く信頼していた一族、若武者らを敵に取り篭められるのを、どれほど無念な気持ちでいたのでしょうか。

しかしついに舟も近辺に見付からず、こみ上げる怒りを抑えて、やむなく将軍の陣営に向かいました。菊池は最初の合戦に勝利を収め、門出幸先良しと喜び、すぐ軍勢を率いて、少弐入道妙恵が立て篭もっている内山の城に押し寄せました。

少弐は主だった兵士を皆、頼尚に従わせていましたが、その軍勢のほとんどが、水木の渡しにて討たれてしまいました。そのため、城に残っているのは僅か三百人にもならず、菊池の大軍に向かうことなど、できそうにありません。とは言っても城の防禦態勢も整っているので、

崖下に敵を迎えて防戦すること数日に及びました。菊池勢は次々と新手を投入し、入れ替わり立ち代り、昼夜四方八方より攻め続けましたが、城内の兵士は一人も討たれることもなく、矢もまだまだ尽きることもないので、これではどれほど攻めても落とすことが出来ないのではと思っていたところ、

少弐の一族らが突然寝返ると、攻城側の陣営に加わり、中黒の新田の旗を揚げ、「我らはいささか考えることがあって、宮方に味方することにします。皆様も一緒に味方すればどうですか」と、妙恵に伝えましたが、妙恵はそれには何も答えず、「たとえその場しのぎであっても、

義を失するようなことをするより、死んで名を残す方を良いだろう」と言って、持仏堂の中に走り入り、腹を掻き切ってその場に伏せたのでした。家来ら百余人も持仏堂の大床に居並び、全員同時に声をあげて腹を切りました。その声は天に響き渡り、

悲想悲悲想天(三界『無色界・色界・欲界』の内無色界の最高のところ)迄も聞こえるかと思うほどでした。少弐の末っ子で宗応蔵主と言う僧侶が、蔀や遣り戸を蹴破って薪にして、父の死骸を葬ろうと、「万里碧天風高月明、為問慧公行脚事、蹈翻白刃転身行、下火云、猛火重焼一段清」と声を上げ、

静かに火葬のため薪に火を付けて、弔った後、その炎の中に飛び入り同じく死んだのでした。


○多々良浜合戦事付高駿河守引例事
小弐が城已に責落されて、一族若党百六十五人、一所にて討れければ、菊池弥大勢に成て、頓て多々良浜へぞ寄懸ける。将軍は香椎宮に取挙て、遥に菊池が勢を見給ふに、四五万騎も有らんと覚敷く、御方は纔に三百騎には過ず。而も半は馬にも乗ず鎧をも著ず、「此兵を以て彼大敵に合ん事、■蜉動大樹、蟷螂遮流車不異。憖なる軍して、云甲斐なき敵に合んよりは腹を切ん。」と、将軍は被仰けるを、左馬頭直義堅く諌申れけるは、「合戦の勝負は、必も大勢小勢に依べからず。異国に漢高祖■陽の囲を出時は、才に二十八騎に成しかども、遂に項羽が百万騎に討勝て天下を保り。吾朝の近比は、右大将頼朝卿土肥の杉山の合戦に討負て臥木の中に隠し時は、僅に七騎に成て候しか共、終に平氏の一類を亡して累葉久武将の位を続候はずや。二十八騎を以て百万騎の囲を出、七騎を以て伏木の下に隠れし機分、全く臆病にて命を捨兼しには非ず、只天運の保べき処を恃し者也。今敵の勢誠に雲霞の如しといへども、御方の三百余騎は今迄著纏て、我等が前途を見はてんと思へる一人当千の勇士なれば、一人も敵に後を見せ候はじ。此三百騎志を同する程ならば、などか敵を追払はで候べき。御自害の事曾て有べからず。先直義馳向て一軍仕て見候はん。」と申捨て、左馬頭香椎宮を打立給へば、相順人々には、仁木四郎次郎義長・細川陸奥守顕氏・高豊前守師重・大高伊予守重成・南遠江守宗継・上杉伊豆守重能・畠山阿波守国清を始として、大伴・嶋津・曾我・白石・八木岡・相庭を宗徒の兵として、都合其勢二百五十騎、三万余騎の敵に懸合せんと志して、命を塵芥に思ける心の程こそ艷けれ。

☆ 多々良浜合戦のことと、高駿河守が例を引いて諌めたこと

少弐の城がすでに攻め落とされてしまい、一族、若武者ら百六十五人が一ヶ所で討たれてしまうと、菊池の軍勢はますます大軍となって、すぐに多々良浜へ駆け寄せました。尊氏将軍が香椎宮より遥かかなたの菊池の軍勢を見ると、四、五万騎もいるかと思え、

対して味方は僅か三百騎にも足りません。それも半数は馬にも乗れず、鎧も身に着けていません、「この軍勢であの大軍と戦うことは、虫偏に比)蜉大樹を動かす(大きな蟻が大樹を動かそうとする)とか、蟷螂(カマキリ)が動く車を止めようとするのと変わらない。

中途半端な合戦をして敵に恥をさらすより、腹を切ろうじゃないか」と尊氏が話すのを、左馬頭直義がきつく止め、「合戦の勝敗とは必ずしも軍勢の大小で決まる訳ではありません。異国中国では漢国の高祖がケイ(螢の中の虫を水に)陽において、楚の軍勢の包囲から脱出した時は、

僅かに二十八騎だったけれど、最後には楚軍、項羽の百万騎に対して勝利を収め、天下を無事守り切ったのです。また我が国ではつい最近、右大将源頼朝卿が石橋山の合戦に負けて、土肥の杉山に逃げ込み、朽木の中に隠れていた時は、僅か七騎になっていましたが、

最後には平氏の一族を滅ぼし、子孫一族を久しく武将の地位を守ったではありませんか。二十八騎でもって百万余騎の包囲網から脱出したり、七騎で伏木の下に隠れるというこの才覚は、ただ単に臆病なため命を惜しんだのではなく、世の流れに天の神が何を支え給うのかを信じていたからでしょう。

今現在、敵の軍勢は確かに雲霞の如くではありますが、味方の三百余騎は今まで付き従って来た者であり、今後とも我らに付き従っていこうと考えている、一騎当千の猛者ばかりなので、誰一人として敵に後ろを見せることなどしないでしょう。

これらの三百騎が心を合わせて闘えば、どうして敵を追い散らすことが出来ないと言えるのでしょうか。御自害のことなど、決してお考えになるべきことではないと考えます。ここはまず最初にこの直義が敵に駆け込み、一合戦して見せましょう」と言い捨てて、香椎宮を出て行くと、

仁木四郎次郎義長、細川陸奥守顕氏、高豊前守師重、大高伊予守重成、南遠江守宗継、上杉伊豆守重能、畠山阿波守国清を始めに、大伴、嶋津、曾我、白石、八木岡、相庭らを主力の兵士として、総勢二百五十騎がその後に従いました。その軍勢が三万余騎の敵に合戦を挑まんと心に決めて、

我が命を塵芥の如くに捨て去ろうと思う心中は、また素晴らしいことではあります。


直義已旌の手を下し、社壇の前を打過給ひける時、烏一番杉の葉を一枝噛て甲の上へぞ落しける。左馬頭馬より下て、是は香椎宮の擁護し給ふ瑞相也と敬礼して、射向の袖に差れける。敵御方相近付て、時の音を挙んとしける時、大高伊予守重成は、「将軍の御陣の余りに無勢に候へば帰参候はん。」とて引返しけり。直義此を見て、「始よりこそ留るべきに、敵を見て引返すは臆病の至也。あはれ大高が五尺六寸を五尺切てすて、剃刀にせよかし。」と欺れける。去程に菊池五千余騎を率し、浜の西より相近付て、先矢合の流鏑をぞ射たりける。左馬頭の陣よりは矢の一筋をも射ず、鳴を閑めて、透間あらば切懸んと伺見給ひけるに、誰が射とも不知白羽の流鏑矢敵の上を鳴響て、落所も見へず。左馬頭の兵共、是は只事に非と憑敷思、勇を不成と云者なし。両陣相挑で、未兵刃を交へざる処に、菊池が兵黄河原毛なる馬に、火威の鎧著たる武者只一騎、御方の勢に三町余り先立て、抜懸にぞしたりける。爰に曾我左衛門・白石彦太郎・八木岡五郎、三人共に馬・物具無て、真前に進だりけるが、見之、白石立向て馬より引落さんと、手もと近く寄副ければ、敵太刀を捨て、腰刀を抜んと、一反り反りけるが、真倒に成て落にけり。白石此を起も立ず、推へて首をば掻てけり。馬をば曾我走寄て打乗り、鎧をば八木岡剥取て著たりけり。白石が高名に、二人得利、軈三人共に敵の中へ打入れば、仁木・細川以下、「御方討すな、連や。」とて、大勢の中へ懸入て乱合てぞ闘ける。仁木越後守は、近付敵五騎切て落し、六騎に手負せて、猶敵の中に乍有、仰たる太刀を蹈直しては切合ひ、命を限とぞ見たりける。されば百五十騎、参然として堅を破れば、菊池が勢誠に百倍せりといへども、才の小勢に懸立られて、一陣の軍兵三千余騎、多々良浜の遠干潟を、二十余町までぞ引退ける。搦手に回りける松浦・神田の者共、将軍の御勢の僅に三百余騎にも足ざりけるを二三万騎に見なし、礒打浪の音をも敵の時の声に聞なしければ、俄に叶はじと思ふ心付て、一軍をもせず旌を捲と甲を脱で降人に出にけり。

直義が早くも旗の手を下ろして開戦の意思を表し、社殿の前を通り過ぎようとした時、一つがいのカラスが杉の葉を一枝噛み切り、直義の手の甲に落としました。左馬頭直義は馬より降りて、これは香椎宮が、我らを援護するという吉事の前兆に違いないと、

敬って頭を下げ射向けの袖に挿しました。やがて敵味方が近づいて、閧の声を挙げようとした時、大高伊予守重成が、「尊氏将軍の陣営が余りにも手薄なので、私は引き返すことにした」と言って、引き返したのです。直義はこの様子を見て、「それなら最初から警固に残れば良いのに、

敵を見てから引き返すとは臆病の最たるものだ。それだったら、大高の五尺六寸の太刀を五尺切り捨てて、剃刀にしてしまえ」と、馬鹿にしました。やがて菊池が五千余騎の軍勢を率いて、浜の西方から近づき、まず矢合わせに鏑矢を射放ちました。

しかし左馬頭の陣からは、一筋の矢も射返すことなく鳴りをひそめ、隙があれば切りかかろうと窺っていた時、誰が射たのか分かりませんが、白羽の鏑矢が敵の頭上を音を発しながら飛んで行き、どこに落ちたのかも見えませんでした。左馬頭の兵士らはこれは縁起が良いぞと頼もしく思い、

皆が皆、勇気百倍になったのでした。直義、菊池の軍勢が互いににらみ合ったものの、未だ兵士らが刃を交える前に、菊池の兵士の中から、黄河原毛(馬の毛色の一種)の馬に乗り、緋縅の鎧を着けた武者がただ一人で、味方の軍勢より三町ほど先を進み、抜け駆けを図りました。

その時直義軍の曾我左衛門と白石彦太郎そして八木岡五郎の三人が、馬も甲冑も無しに前を進んでいましたが、白石はこの抜け駆けの兵士を見て、馬から引き落としてやろうと、手元近くに寄せようとしたところ、敵は太刀を捨て腰の刀を抜こうと体を反らしたはずみに、

まっさかさまになって馬から落ちたのです。白石は起き上がる隙を与えず押さえ込み、首を掻き切ったのでした。敵の馬を曾我が走り寄って飛び乗り、鎧は八木岡が剥ぎ取って着たのです。白石の手柄によって、二人が戦利品を得たことになったのです。

すぐ三人とも敵の中に駈け入ったところ、仁木、細川以下が、「彼らを討たすな、付いて来い」と、大軍の中に駆け込み、乱戦となりました。仁木越後守は近づいてきた敵を五騎切り落とし、また六騎に傷を負わせて、なお敵中にあり、ゆがんだ太刀を踏んでは直して切り合い、

ここを死処と闘いました。このように百五十騎が全力を出し切って菊池の堅陣を破ったので、菊池軍は百倍の軍勢と言えども、この戦略に長けた小勢に追い込められ、先鋒の軍兵三千余騎は多々良浜の干潟を二十余町ほど退却したのでした。また搦手に控えていた松浦、神田の軍兵らは、

尊氏将軍の勢が、僅か三百余騎に足らないのにかかわらず、二、三万騎もいるかと思い込み、磯を打つ波の音も敵の閧の声に聞こえる始末で、これではとても勝ち目が無いと怖気づき、一戦にも及ばず旗を巻くと共に兜を脱いで降参したのでした。


菊池此を見て弥難儀に思ひ、「大勢の懸らぬ先に。」と急肥後国へ引返す。将軍則一色太郎入道々献・仁木四郎次郎義長を差遣し菊池が城を責させらるるに、一日も堪得ず深山の奥へ逃篭る。是より軈同国八代の城を責て内河彦三郎を追落す也。此のみならず、阿蘇大宮司八郎惟直は、先日多々良浜の合戦に深手負たりけるが、肥前国小杵山にて自害しぬ。其弟九郎は、知ぬ里に行迷て、卑き田夫に生擒れぬ。秋月備前守は、大宰府迄落たりけるが、一族二十余人一所にて討れにけり。是等は皆一方の大将共なり。又九州の強敵ともなりぬべき者也しが、天運時至ざれば加様に皆滅されにけり。爾より後は九国・二嶋、悉将軍に付順奉ずと云者なし。此全く菊池が不覚にも非ず、又直義朝臣の謀にも依らず、啻将軍天下の主と成給ふべき過去の善因催して、霊神擁護の威を加へ給しかば、不慮に勝ことを得て一時に靡き順けり。今まで大敵なりし松浦・神田の者共、将軍の小勢を大勢也と見て、降人に参たりと其聞有ければ、将軍高・上杉の人々に向て宣けるは、「言の下に骨を消し、笑の中に刀を砺は此比の人の心也。されば小弐が一族共は多年の恩顧なりしか共、正く小弐を討つるも遠からぬ様ぞかし。此を見るにも松浦・神田何なる野心を挿でか、一軍もせず降人には出たるらん。信心真と有時は感応不思議を顕事あり。今御方の小勢を大勢と見し事、不審無に非ず。相構て面々心赦し有べからず。」と仰ければ、遥の末坐に候ける高駿河守進出て申けるは、「誠に人の心の測り難事は、天よりも高地よりも厚と申せども、加様の大儀に於ては、余に人の心を御不審有ては、争か早速の大功を成候べき。就中御勢の多見へて候ける事、例無にも有べからず。其故は昔唐朝に、玄宗皇帝の左将軍に哥舒翰、与逆臣安禄山兵崔乾祐、潼関にて戦けるに、黄なる旗を差たる兵十万余騎、忽然として官軍の陣に出来れり。崔乾祐此を見て敵大勢なりと思ひ、兵を引て四方に逃散る。其喜に勅使宗廟に詣けるに、石人とて、石にて作双て廟に置たる人形共両足泥に触れ、五体に矢立り。さてこそ黄旗の兵十万余騎は、宗廟の神官軍に化して、逆徒を退け給たりけりと、人皆疑を散じけり。吾朝には天武天皇与大友王子天下を争はせ給ける時、備中国二万郷と云所にて、両方の兵戦を決せんとす。于時天武天皇の御勢は僅に三百余騎、大友王子の御勢は、一万余騎也。勢の多少更闘ふべくも無りける処に、何より来れる共知ぬ爽かなる兵二万余騎、天皇の御方に出来て、大友王子の御勢を十方へ懸散す。此よりして其所を二万里と名付らる。君が代は二万の里人数副て絶ず備る御貢物哉と周防の内侍が読たりしも、此心にて候也。」と、和漢両朝の例を引て、武運の天に叶へる由を申ければ、将軍を始まいらせて、当座の人々も、皆歓喜の笑をぞ含れける。

菊池は味方のこの状況に面倒なことになったと思い、「大軍が寄せて来ぬ内に」と、急いで肥後国に引き返しました。尊氏はすぐに一色太郎入道道献と仁木四郎太郎義長を派遣して、菊池の城を攻撃させると、一日も支えることが出来ず山深く奥地に逃げ込んだのでした。

この後すぐに肥後国八代の城を攻めて、内河彦三郎を追い落としました。これだけでなく、阿蘇大宮司八郎惟直は、先日の多々良浜の合戦において重傷を負っていましたが、肥前国小杵山にて自害しました。またその弟、九郎は地理不案内な村里に迷い込み、

卑しい農夫に生け捕られたのでした。そのほか秋月備前守は大宰府まで落ち延びましたが、一族二十余人が一ヶ所にて討たれてしまいました。これらの人たちは皆、一方の大将でした。また尊氏にとって九州における強敵ともなりうる人たちでしたが、天の運に見放されたのか、

このように皆滅ぼされてしまったのです。これより後は、九州、二島(対馬、壱岐)全ての武将らで、尊氏に従属しない者など居ませんでした。この事実は決して菊池の不手際でもなければ、また直義朝臣の謀略が勝ったからでもなく、それはただ尊氏将軍が、

天下の支配者となるべく行ってきた過去の善因が作用し、霊験あらたかな神々の援護を受けることにより、思いがけない勝利を得ることが出来たため、皆が皆、尊氏に従うこととなったのです。今まで強敵だった松浦や神田の人たちは、将軍の小勢を大軍と思い違いして、

降参してきたと聞くと尊氏将軍は高や上杉の人たちに向かって、「言葉巧みに人を滅亡に導いたり、愛想笑いをしながら、その陰で刀を研ぎ澄ますのは、最近の人々に共通する風潮ではある。そんな訳でつい最近も、菊池が少弐の城を攻撃中に、少弐の一族が長年の恩顧も省みず寝返り、

本家の少弐を討ち取ったではないか。これを見ても、松浦や神田らがどのような野心があって、一戦にも及ばず降参を申し出たのだろうか。神仏を信仰する気持ちに偽りがなければ、神仏に願いが通じて不審なことを知らせてくれるものだ。

今、我らの小勢に過ぎない軍勢を、大軍と見たと言うことも、不審と言えば不審とも言える。皆々方も決して油断なさらぬように」と、仰せられました。その時遥か末座に控えていた高駿河守が進み出て、「確かに人の心を読むことの難しさは、天よりも高く、大地の深さより厚いとは言えども、

このような重大な局面おいて、余りに人の心ばかり疑っていれば、どうして大業の速やかな成就が出来るでしょうか。特に我らの軍勢が大軍に見えたと言うことは、過去に例がない訳ではありません。たとえば昔、唐の国で玄宗皇帝に仕える左将軍の哥舒翰と、

逆臣の安禄山の武将、崔乾祐が潼関にて戦った時、黄色の旗を挿した十万余騎の兵が、突然官軍の陣営に現われました。崔乾祐はこれを見て敵は大軍だと思い、兵を退くと四方に逃げ散りました。この事態に喜んで勅使が宗廟(先祖の霊を祀ったところ)に参ってみれば、

石人と言う石で作った人物像が廟に並べられており、その人形らの両足は泥にまみれ、五体には矢が立っていました。やはり黄色の旗を挿した兵士十万余騎は、宗廟の石人が神官軍となって逆徒を追い払ったのだと、人は皆、疑問が解決しました。

また我が国では、天武天皇と大友皇子が天下を争った時、備中国の二万郷(倉敷市)と言うところで、両軍の決戦が行われそうになりました。その時天武天皇の軍勢は僅か三百余騎で、大友皇子の軍勢は一万余騎だったそうです。軍勢の多少を考えれば今更戦うまでもないのですが、

何処から来たのか分からない兵士ら二万余騎が颯爽と現われ、天武天皇の味方となって大友皇子の軍勢を四方八方に蹴散らしました。このことからその場所を二万里と名づけられております。

      君が代は 二万の里人 数添えて 絶えず備わる 御貢物哉

と周防の内侍(平安時代後期の歌人)が詠まれたのも、この気持ちを歌ったものでしょう」と、和漢両朝の例を引いて、我が足利軍の武運が天の意向に叶っていると申し上げたので、将軍を始めとしてその席にいた人々は全員が歓喜の笑みを浮かべられたのでした。


○西国蜂起官軍進発事
去程に、将軍筑紫へ没落し給し刻、四国・西国の朝敵共、機を損じ度を失て、或は山林に隠れ或は所縁を尋て、新田殿の御教書を給らぬ人は無りけり。此時若義貞早速に被下向たらましかば、一人も降参せぬ者は有まじかりしを、其比天下第一の美人と聞へし、勾当の内侍を内裏より給たりけるに、暫が程も別を悲て、三月の末迄西国下向の事被延引けるこそ、誠に傾城傾国の験なれ。依之丹波国には、久下・長沢・荻野・波々伯部の者共、仁木左京大夫頼章を大将として、高山寺の城に楯篭り、播磨国には、赤松入道円心白旗が峯を城郭に構て、射手の下向を支んとす。美作には、菅家・江見・弘戸の者共、奈義能山・菩提寺の城を拵へて、国中を掠め領す。備前には、田井・飽浦・内藤・頓宮・松田・福林寺の者共、石橋左衛門佐を大将として、甲斐河・三石二箇処の城を構て船路・陸地を支んとす。備中には、庄・真壁・陶山・成合・新見・多地部の者共、勢山を切塞で、鳥も翔らぬ様に構へたり。是より西、備後・安芸・周防・長門は申に不及、四国・九州も悉著では叶まじかりければ、将軍方に無志も皆順ひ不靡云事なし。処々の城郭、国々の蜂起、震く京都へ聞ければ、先東国を敵に成ては叶まじとて、北畠源中納言顕家卿を、鎮守府の将軍になして、奥州へ下さる。新田左中将義貞には、十六箇国の管領を被許、尊氏追討の宣旨をぞ被成ける。義貞綸命を蒙て、已に西国へ立んとし給ける刻、瘧病の心地煩しかりければ、先江田兵部大輔行義・大館左馬助氏明二人を播磨国へ被差下。其勢二千余騎、三月四日京を立て、同六日書写坂本に著にけり。赤松入道是を聞て、敵に足をためさせては叶まじとて、備前・播磨両国の勢を合て書写坂本へ押寄ける間、江田・大館、室山に出向て相戦ふ。赤松軍利無して、官軍勝に乗しかば、江田・大館勢を得て、西国の退治輒かるべき由、頻に羽書を飛せて京都へ注進す。

☆ 西国に反乱軍が蜂起し官軍が進発したこと

さて、足利尊氏将軍が筑紫に落ちて行った時、四国や西国の朝敵らは、将軍と共に落ちることが出来なかったため、慌ててしまいある者は山林に隠れ、またある者は縁を頼って落ちて行きましたが、新田殿の御教書を受け取らない人は居ませんでした。

もしこの時に義貞が即刻下向していれば、一人として降伏しない者など居なかったのですが、当時、義貞は天下第一の美人と言われていた勾当の内侍を帝より下賜され、少しでも別れ別れになることが辛くて、三月の末まで西国への出発を引き伸ばしたことが、

結果として色香に迷って国を危うくするの例となったのです。この間に丹波国では久下、長沢、荻野、波々伯部の武士らが、仁木左京大夫頼章を大将に立てて、高山寺の城に立て篭もりました。また播磨国では赤松入道円心が白旗が峰に城郭を構え、官軍の西国遠征を阻止しようとしました。

美作では菅家、江見、弘戸の武将らが奈義能山城と菩提寺城を構築し、国中の土地を横領しました。備前では田井、飽浦、内藤、頓宮、松田、福林寺の軍勢らが石橋左衛門佐を大将にして、甲斐河と三石の二ヶ所に城を構築し、官軍による海路、陸路からの襲撃に備えました。

備中では庄、真壁、陶山、成合、新見、多地部の武将らが勢山を砦にして構え、鳥も通わぬ位にしました。これらの岡山周辺より西方の備後、安芸、周防、長門は言うに及ばず、四国、九州も全ての武将が尊氏に味方するとなっては、将軍方に積極的に味方する気の無い武将らも、

皆、尊氏に従わないと言うことはありませんでした。諸所に築かれていく城郭や、諸国の反乱軍の蜂起などの情報が、頻繁に京都に聞こえてきますので、今は東国が敵になっては問題があると、北畠源中納言顕家卿を鎮守府将軍に任命して、奥州に下るよう命じました。

新田左中将義貞には十六ヶ国の領有支配を許し、尊氏追討の宣旨を与えました。義貞は天皇の命令に従って、早速にも出発しようとした時、瘧病(一定の周期で高熱を発する病気。マラリアに似た熱病の症状が現れて病状もはっきりしないので、まず江田兵部大輔行義と大館左馬助氏明の二人を、

播磨国へ下向させました。その二千余騎の軍勢は三月四日京を進発し、同じく六日に書写坂本(圓教寺の麓)に到着しました。赤松入道はこの情報を得て、敵に休息を与えてはならじと、備前、播磨の両国の勢を糾合し、書写坂本に押し寄せれば、江田、大館軍は室山まで迎えうち、

戦闘となりました。しかし赤松軍は勝負に利あらず、官軍は勝ちに乗じ、江田も大館も気勢が上がり、西国の騒乱鎮圧は簡単に出来そうだと、しきりに書簡を京都に送り報告しました。


○新田左中将被責赤松事
去程に、左中将義貞の病気能成てければ、五万余騎の勢を率して、西国へ下り給ふ。後陣の勢を待調へん為に、播磨国賀古河に四五日逗留有ける程に、宇都宮治部大輔公綱・紀伊常陸守・菊池次郎武季三千余騎にて下著す。其外摂津国・播磨・丹波・丹後の勢共、思々に馳参じける間、無程六万余騎に成にけり。「さらば軈て赤松が城へ寄て可責。」とて、斑鳩の宿迄打寄せ給たりける時、赤松入道円心、小寺藤兵衛尉を以て、新田殿へ被申けるは、「円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。」と申たりければ、義貞是を聞給て、「此事ならば子細あらじ。」と被仰て、頓て京都へ飛脚を立、守護職補任の綸旨をぞ申成れける。其使節往反の間、已に十余日を過ける間に、円心城を拵すまして、「当国の守護・国司をば、将軍より給て候間、手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。」と、嘲哢してこそ返されけれ。新田左中将是を聞給て、「王事毋脆事、縦恨を以て朝敵の身になる共、戴天欺天命哉。其儀ならば爰にて数月を送る共、彼が城を責落さでは通るまじ。」とて、六万余騎の勢を以て、白旗の城を百重千重に取囲て、夜昼五十余日、息をも不継責たりける。斯りけれ共、此城四方皆嶮岨にして、人の上るべき様もなく、水も兵粮も卓散なる上、播磨・美作に名を得たる射手共、八百余人迄篭りたりける間、責けれども/\只寄手々負討るゝ許にて、城中恙なかりけり。脇屋右衛門佐是を見給て、左中将に向て被申けるは、「先年正成が篭りたりし金剛山の城を、日本国の勢共が責兼て、結句天下を覆されし事は、先代の後悔にて候はずや。僅の小城一に取懸りて、そゞろに日数を送り候はゞ、御方の軍勢は皆兵粮に疲、敵陣の城には弥強り候はんか。其上尊氏已に筑紫九箇国を平て、上洛する由聞候へば、彼が近付ぬ前に備前・備中を退治して、安芸・周防・長門の勢を被著候はでは、ゆゝしき大事に及候ぬとこそ覚候へ。乍去今迄責懸たる城を落さで引は、天下の哢共成べく候へば、御勢を少々被残、自余の勢を船坂へ差向られ、先山陽道の路を開て中国の勢を著け、推て筑紫へ御下候へかし。」と被申ければ、左中将、「此儀尤宜覚候。」とて、頓て宇都宮と菊池が勢を差副、伊東大和守・頓宮六郎を案内者として、二万余騎舟坂山へぞ向られける。彼山と申は、山陽道第一の難処也。両方は嶺峨々として、中に一の細道あり。谷深石滑にして、路羊腸を践で上る事二十余町、雲霧窈溟たり。若一夫怒臨関、万侶難得透。況岩石を穿て細橋を渡しゝ大木を倒して逆木に引たれば、何なる百万騎の勢にても、責破るべしとはみへざりけり。去ば指も勇める菊池・宇都宮が勢も、麓に磬へて不進得。案内者に憑れたる伊東・頓宮の者共も、山をのみ向上て徒に日をぞ送ける。

☆ 新田左中将義貞が赤松を攻撃されたこと

やがて、左中将義貞も病状が回復したので、五万余騎の軍勢を率いて西国に下りました。後から来る軍勢を待つと共に、我が軍勢の編成を調整するため、播磨国加古川に四、五日駐留している内に、宇都宮治部大輔公綱、紀伊常陸守、菊池次郎武季らが三千余騎を率いて到着しました。

それ以外にも、摂津国、播磨、丹波、丹後の軍勢らが思い思いに駆けつけてきたので、やがて六万余騎の大軍となりました。義貞は、「よし、即刻赤松の城に攻撃を仕掛けよう」と、斑鳩の宿まで軍を進めた時、赤松入道円心が小寺藤兵衛尉を使者として、

新田殿に、「円心は未熟者でありながら、元弘(1331-1334年)の初めに北条の大敵と戦い、逆徒を討滅に追い込んだこと、おそらく第一等の忠義であろうと考えていたのに関わらず、恩賞に関して所領の配分たるや、降参した連中より少なくあっては、さすが頭にきて過去の大功を捨てて、

敵対は致しました。しかしながら兵部卿護良親王のご恩は、未来永劫忘れられるものではないので、現在、敵側に回っていますが、これは全く私の本意ではありません。ここは播磨国の守護職だけでも任じてもらえるよう、綸旨に辞令を添えてもらえれば、当初のように宮方に回り、

忠節を果たすつもりです」と、伝えさせました。義貞はこの申し入れを聞いて、「このような事情なら何ら問題なかろう」と仰せられ、すぐ京都に飛脚を送り、守護職任命の綸旨を下してもらえるよう申し入れました。その使者が往復する十余日が経過する間に、

円心は城の補強を終え、「私は当国の守護、国司の職を将軍より受けているので、手の裏を返すような綸旨を今更頂くことなど出来ない」と、馬鹿にして綸旨を返しました。新田左中将はこのことを聞き、「皇帝が行うことは中途半端なものではない。

たとえ恨みが高じて朝敵の身になったとしても、この世にあっては天より与えられた運命に逆らうことなど出来ない。そのようなことを言って来る気なら、ここに数ヶ月を要しても、彼の城を攻め落とさずに通り過ぎるわけにはいかない」と言って、六万余騎の軍勢で白旗の城を十重二十重に取り囲み、

昼夜通して五十余日を休みなく攻め続けました。しかしながらこの城は四方が全て地勢が険しく、人の上れる状態ではありませんし、城内には水も兵糧も潤沢にあり、その上、播磨、美作国ではそれなりに名の知られた射手ら、八百余人が立て篭もっていますので、

攻めても攻めても攻撃陣は負傷したり討たれたりするばかりで、城内は一向に被害を受けている様子もありません。脇屋右衛門佐義助はこれを見ると左中将に向かって、「以前、楠木正成が立て篭もった金剛山の城を、日本国中の軍勢が攻めあぐねて、

その結果天下が覆ったことは、先代北条家の後悔事であったはずです。僅か一つの小城に取り付いて、為すことなく日を過ごしていれば、味方の軍勢は兵糧の調達に疲れてしまい、反対に敵の城はますます強固になっていくでしょう。しかも尊氏がすでに筑紫九ヶ国を平定し、

上洛の機を窺っていると聞けば、彼が西国に近づかぬ前に備前、備中を征伐し、安芸、周防、長門の軍勢を我らの味方にさせなくては、非常に困難な事態に陥るとお考え下さい。とは言っても、今まで攻撃を続けてきた城を、落とすことなく軍勢を引き上げれば、

世間の人々の嘲笑を受けるとも思えるので、いくらかの軍勢を残して置き、その他の軍勢は船坂方面に向かわせ、まず山陽道を平定、打通し、中国の軍勢を味方にさせた上、筑紫に向かって進軍されるべきでしょう」と、申し上げました。

左中将義貞も、「この提案、もっともだと思う」と、早速宇都宮と菊池の軍勢を率い、伊東大和守と頓宮六郎を道案内者にして、二万余騎で船坂山に向かいました。この船坂山と言うのは、山陽道第一の難所であり、両側は高い山々が峰を連ね、中央に一本の細い道があるばかりです。

谷は深くまた石は滑らかで、その山道は羊の腸の如く長く、歩き続けること二十余町もある上に、雲や霧が立ちこめ薄暗い有様です。もし一人の武士であっても、厳重に関を守れば、万人でもそこを通ることは難しいでしょう。ましてそこは岩石を穿ち、大木で細い橋が渡してあったのですが、

それも取り払い逆茂木にしていますから、如何に百万騎の軍勢であっても、そこを攻め破ることなど出来そうに思えません。そんな訳で、あれほど勇猛な菊池や宇都宮の軍勢でも、麓で足止めを喰らって進むことも出来ません。道案内として頼りにされていた伊東や頓宮の人たちも、ただ山を見上げていたずらに日を送るばかりです。


○児嶋三郎熊山挙旗事付船坂合戦事
斯りける処に、備前国の住人児嶋三郎高徳、去年の冬、細川卿律師、四国より責上し時、備前・備中数箇度の合戦に打負て、山林に身を隠し、会稽の恥を雪がんと、義貞朝臣の下向を待て居たりけるが、舟坂山を官軍の超かねたりと聞て、潛使を新田殿の方へ立て申けるは、「舟坂より御勢を可被越由承及候事実に候はゞ、彼要害輒く難被破候歟。高徳来十八日当国於熊山可挙義兵候。さる程ならば、舟坂を堅たる凶徒等、定て熊山へ寄来候はん歟。敵の勢のすきたる隙を得て御勢を二手に分たれ、一手をば舟坂へ差向て可攻勢ひを見せ、一手をば三石山の南に当て樵の通ふ路一候なる、潛に廻せて、三石の宿より西へ被出候はゞ、船坂の敵前後を被裹、定て引方を失候はんか。高徳国中に旗を挙、舟坂を先破り候はゞ、西国の軍勢御方に参ずと云者候べからず。急此相図を以て、御合戦有べく候也。」とぞ申送ける。其比播磨より西、長門の国に至まで悉く敵陣にて、案内を通づる者もなきに、高徳が使者来て、企の様を申ければ、新田殿悦給ふ事不斜。則相図の日を定て、其使をぞ被返ける。使者備前に帰て相図の様を申ければ、四月十七日の夜半許に、児嶋三郎高徳、己が館に火をかけて、僅二十五騎にてぞ打出ける。国を阻境を隔たる一族共は、事急なるに依て不及相催、近辺の親類共に事の子細を告たりければ、今木・大富・和田・射越・原・松崎の者共、取物も不取敢馳著ける間、其勢二百余騎に成にけり。兼ては夜中に熊山へ取上り、四方に篝火を焼て、大勢篭りたる勢ひを、敵にみせんと巧みたりけるが、馬よ物具よとひしめく間に、夏の夜程なく明けれども、無力相図の時刻を違じとて、熊山へこそ取上りけれ。如案三石・舟坂の勢共是を聞て、「国中に敵出来なば、ゆゝしき大事なるべし。万方を閣て、先熊山を責よ。」とて、舟坂・三石の勢三千余騎を引分て、熊山へぞ向たりける。

☆ 児嶋三郎が熊山に旗挙げをしたことと、船坂合戦のこと

ところで備前国の武将、児嶋三郎高徳は去年の冬、細川卿律師が四国より攻め上ってきた時、備前や備中で行われた数回の合戦に全て負けを喫し、山林に身を隠しながらも会稽の恥を雪がんと、義貞朝臣の下向を待っていました。

しかし、義貞率いる官軍が船坂山を越えかねていると聞くと密使を新田殿に派遣し、「船坂を官軍の軍勢が越えられようとしている旨お聞きましたが、もしそれが事実であるなら、そこの要害は簡単に突破することなど出来ないと思います。高徳は来る十八日当国の熊山において、

正義を守らんため兵を挙げる予定です。そうすれば船坂を防衛している凶徒らは、きっと熊山に寄せてくると考えられます。敵の勢が手薄になった隙をついて、味方の軍勢を二手に分け、一手を船坂に向かわせ攻勢をかけ、他の一手を三石山の南側に向かわせ、

樵が通う一筋の道に気付かれないよう迂回させ、三石の宿から西に進出すれば、船坂に展開している敵は前後を封鎖され、当然退路を失うことになります。高徳は国中に義兵の旗を挙げて、まず船坂を突破すれば、西国の軍勢らは全員が味方につくことになるでしょう。

この合図によって、急遽作戦を実施されるように」と、申し送らせました。その頃、播磨より西は長門の国まで全て敵勢で、敵情を探る手段も持てない時に、高徳がこのように使者を派遣してきて、協同作戦を持ちかけてきたことに、新田殿は大喜びしました。

早速合図の日を定め、高徳よりの使者を帰されました。使者は備前に戻って、合図の段取りを話します。そして四月十七日の夜半、児嶋高徳は自分の屋敷に火をかけて、僅か二十五騎だけで挙兵しました。遠く離れた一族らには事態の急変のため連絡が出来ず、

同時に軍勢を召集出来ませんでしたが、近隣の親類などには事情を説明しましたので、今木、大富、和田、射越、原、松崎の軍勢らが、大急ぎで駆け付けてきて、やがて総勢二百余騎になりました。前もって夜中の内に熊山に上り、四方に篝火を燃やして、

いかにも大軍が立て篭もっていると敵に見せようとしていましたが、馬はどうした、武具は揃ったかと騒いでいる内に夏の夜は明けて来ましたが、合図する約束の時刻に間に合わそうと、熊山に登りました。この事態を聞くと案の定、三石、船坂の軍勢は、「国内に敵が出現したら大変なことになる。

何を差し置いても、まず先に熊山を攻めなければ」と、船坂、三石の軍勢、三千余騎を引き抜いて熊山に向かいました。


彼熊山と申は、高さは比叡山の如にして四方に七の道あり。其路何も麓は少し嶮して峯は平なり。高徳僅の勢を七の道へ差分て、四方へ敵をぞ防ぎける。追下せば責上り、責上れば追下し、終日戦暮して態と時をぞ移しける。夜に入ける時、寄手の中に石戸彦三郎とて此山の案内者有けるが、思も寄ぬ方より抜入て、本堂の後なる峯にて鬨をぞ揚たりける。高徳四方の麓へ勢を皆分て遣ぬ。僅に十四五騎にて本堂の庭に磬たりけるが、石戸が二百騎の中へ喚て懸入り、火を散てぞ闘ひける。深山の木隠れ月暗して、敵の打太刀分明にも見へざりければ、高徳が内甲を突れて、馬より倒に落にけり。敵二騎落合て、頚を取んとしける処へ、高徳が甥松崎彦四郎・和田四郎馳合て、二人の敵を追払ひ、高徳を馬に引乗せて、本堂の縁にぞ下しける。高徳は内甲の疵痛手也ける上、馬より落ける時、胸板を強く蹈れて、目昏魂消ければ、暫絶入したりけるを、父備後守範長、枕の下に差寄て、「昔鎌倉の権五郎景政は、左の眼を射抜れ、三日三夜まで其矢を抜かで、当の矢を射たりとこそ云伝へたれ。是程の小疵一所に弱りて死ると云事や可有。其程無云甲斐心を以て此一大事をば思立けるか。」と荒らかに恥しめける間、高徳忽に生出て、「我を馬に舁乗よ、今一軍して敵を追払はん。」とぞ申ける。父大に悦で、「今は此者よも死なじ。いざや殿原、爰らに有つる敵共追散さん。」とて、今木太郎範秀・舎弟次郎範仲・中西四郎範顕・和田四郎範氏・松崎彦四郎範家主従十七騎にて、敵二百騎が中へまつしらくに懸入ける間、石戸是を小勢とは知ざりけるにや、一立合せも立合せず、南面の長坂を福岡までこそ引たりけれ。其侭両陣相支て互に軍もせざりけり。

この熊山と言うのは高さは比叡山(848.3m)ほどであり、四方に七つの道が通じています。その道はどれも麓付近は険しいけれど、山頂付近は平坦になっています。児嶋三郎高徳は僅かな軍勢を分割し、七つの道に向かわせ四方の敵に備えました。敵を追い落とすと山に上り、

敵が攻め上ってくると、追い落とすという合戦を終日繰り返し、わざと時間を稼ぎました。夜に入ってから、寄せ手の中にいた、石戸彦三郎と言うこの山に詳しい者が、思いがけない方角から忍び込み、本堂後方の山頂で閧の声を挙げました。高徳は四方の麓に軍勢を分けて配置していたので、

僅かに十四、五騎ばかりで本堂の庭に控えていましたが、石戸の二百騎の軍勢に喚きながら駆け込み、火を散らして激しく戦いました。深い山に月明かりも木に邪魔をされ、敵の斬りつけてくる太刀もはっきりと見えず、高徳は兜の真下、額部分を突かれて、

馬から逆さになって落ちました。敵の二騎が走り寄ってきて、首を切ろうとした時、高徳の甥、松崎彦四郎と和田四郎が駆けつけて、二人の敵を追い払い高徳を馬に乗せ、本堂の縁側に下ろしました。高徳は内兜に重傷を負っている上、馬から落ちた時胸板を強く踏まれていますから、

目の前も真っ暗になり、意識も無くなりかけ、今にも死にそうな状況の時、父の備後守範長が枕のそばに近寄り、「その昔、鎌倉権五郎景政は左の目を射抜かれ、三日間もその矢を抜くことなく戦い、敵にその矢を射返したと言い伝えられている。

これ位の傷一つで、弱って死ぬことなどあるはずが無い。そんなに情けない考えを持って、これほど大事なことを思い立ったのか」と声を荒げて、侮辱しました。すると高徳は見る見るうちに元気を取り戻し、「私を馬にかつぎ上げろ。今一度戦って敵を追い払って見せよう」と、話されました。

父はこの言葉に大いに喜んで、「もうこの男は死ぬことなどないだろう。いざ皆の者、この周りに居る敵どもを追い散らしてやろう」と言って、今木太郎範秀、その弟次郎範仲、中西四郎範顕、和田四郎範氏、松崎彦四郎範家ら主従十七騎が、敵の二百騎の中にまっしぐらに駈け入ったところ、

敵の石戸はまさかこのような小勢とは思わず、一戦にも及ばず南側の長坂を駆けて、福岡まで退却したのでした。その後は、そのまま両軍お互いにらみ合ったまま、戦闘は行いませんでした。


相図の日にも成ければ、脇屋右衛門佐を大将として、梨原へ打莅み、二万騎の勢を三手に分たる。一手には江田兵部大輔を大将として、二千余騎杉坂へ向らる。是は菅家・南三郷の者共が堅めたる所を追破て、美作へ入ん為也。一手には大江田式部大輔氏経を大将として、菊池・宇都宮が勢五千余騎を船坂へ差向らる。是は敵を爰に遮り留て、搦手の勢を潛に後より回さん為也。一手には伊東大和守を案内者として、頓宮六郎・畑六郎左衛門、当国の目代少納言範猷・由良新左衛門・小寺六郎・三津沢山城権守以下態小勢を勝て三百余騎向らる。其勢皆轡の七寸を紙を以て巻て、馬の舌根を結たりける。杉坂越の北、三石の南に当て、鹿の渡る道一あり。敵是を知ざりけるにや、堀切たる処もなく、逆木の一本をも引ざりけり。此道余に木茂て、枝の支へたる処をば下て馬を引く。山殊に嶮して、足もたまらぬ所をば、中々乗て懸下す、兎角して三時許に嶮岨を凌で三石の宿の西へ打出たれば、城中の者も舟坂の勢も、遥に是を顧て、思も寄ぬ方なれば、熊山の寄手共が帰たるよと心得て、更に仰天もせざりけり。三百余騎の勢共、宿の東なる夷の社の前へ打寄り、中黒の旗を差揚て東西の宿に火をかけ、鬨をぞ挙たりける。城中の兵は、大略舟坂へ差向けぬ。三石に有し勢は、皆熊山へ向ひたる時分なれば、闘はんとするに勢なく、防がんとするに便なし。舟坂へ向ひたる勢、前後の敵に取巻れて、すべき様もなかりければ、只馬・物具を捨て、城へ連たる山の上へ、はう/\逃上らんとぞ騒ぎける。是を見て、大手・搦手差合せて、「余すな漏すな。」と追懸ける間、逃方を失ける敵共此彼に行迫て自害をする者百余人、生取らるゝ者五十余人也。爰に備前国一宮の在庁、美濃権介佐重と云ける者、可引方なくして、已に腹を切らんとしけるが、屹と思返す事有て、脱たる鎧を取て著、捨たる馬に打乗て、向ふ敵の中を推分て、播磨の方へぞ通りける。舟坂より打入る大勢共、「是は何者ぞ。」と尋ければ、「是は搦手の案内者仕つる者にて候が、合戦の様を委く新田殿へ申入候也。」と答ければ、打合ふ数万の勢共、「目出候。」と感じて、道を開てぞ通しける。佐重、総大将の侍所長浜が前に跪て、「備前国の住人に、美濃権介佐重、三石の城より降人に参て候。」と申ければ、総大将より、「神妙に候。」と被仰、則著到にぞ被著ける。佐重若干の人を出抜て、其日の命を助かりける。是も暫時の智謀也。舟坂已に破れたれば、江田兵部大輔は、三千余騎にて美作国へ打入て、奈義能山・菩提寺二箇所の城を取巻給ふ。彼城もすべなき様なければ、馬・武具を捨て、城に連たる上の山へぞ逃上りける。脇屋右衛門佐義助は、五千余騎にて三石の城を責らる。大江田式部大輔は、二千余騎にて備中国へ打越、福山の城にぞ陣を被取ける。

やがて約束の当日になったので、脇屋右衛門佐を大将にして梨原に向かわれ、二万騎の兵士を三手に分割しました。その中の一手は江田兵部大輔を大将にして、二千余騎を杉坂に向かわせました。これは菅家、南三郷の軍勢が守備している場所を追い払って、

美作に突入しようと言う作戦です。もう一手は大江田式部大輔氏経を大将として、菊池、宇都宮の軍勢、五千余騎を船坂方面に向かわせました。これは敵軍をこの場所に引き留め置いて、搦手の軍勢を密かに後方に回らせるためです。残る一手は伊東大和守を先導者にして、

頓宮六郎、畑六郎左衛門、備前国の目代少納言範猷、由良新左衛門、小寺六郎、三津沢山城権守以下が、敢えて選りすぐった僅か三百余騎の小勢をもって、搦手に向かわせました。この軍勢は全員が馬の轡部分に紙を巻き、馬の舌を結わって音のしないようにしました。

杉坂越の北側、三石の南に鹿の通る道が一筋あります。敵はこの道を知らないのか、堀を穿ったところもなく、逆茂木の一本とて埋めてありません。しかしこの道は非常に木が生い茂っており、低い枝が邪魔をする所では馬から下り、馬を引かねばなりません。

山も大変険しく、足もと不安定な所は思い切って馬に乗って駆け下りました。三刻(約六時間)ばかり険しい山道を難儀しながら行軍して、三石宿の西側に出ると、城中の兵士や、船坂の守備勢は遠くからこれを見て、思いがけない方角でもあるので、熊山攻撃の寄せ手が帰ろうとしていると思い、

特に驚きも警戒もしませんでした。三百余騎の兵士らは、宿の東にある夷神社の前に集まり、中黒の新田の旗をさし上げ、東西の宿に火をかけ閧の声を挙げたのです。城中の兵士らはほとんど船坂に向かっており、三石にいた軍勢らも皆、熊山攻撃に向かっているので、

戦うにも兵士が居らず、防御しようにもその手段がありません。船坂に向かっていた軍勢は前後を敵に封鎖されては、戦闘を行うことも出来ず、ただ馬や甲冑など投げ捨て、城に連なる山頂を目指して、何とか逃げ延びようと大騒ぎになりました。

この状況を見て大手、搦手の兵士らは一緒になって、「一人残らず、皆殺しだ」と追いかけまわし、敵勢は逃げ場を失い、ここかしこで行く手を阻まれ、自害に及ぶ者百余人、生け捕りになる者も五十余人になりました。この時、備前国、一宮の役人で美濃権介佐重と言う者が、

逃げ延びることは無理だと思い、今まさに腹を切ろうとしましたが、ハッと思い当たることがあり、脱いだ鎧を取り上げて再び身に着け、捨てた馬に乗りこむと向かってくる敵の中を押し分けて、播磨の方へ向かいました。船坂から攻め込んできた大軍に、

「お前は誰だ」と、質問され、「私は搦手軍の先導者だが、合戦の模様を詳しく新田殿に報告をしに行くところだ」と答えると、その場に居た数万の敵勢は、「勝ち戦の話なら、めでたいことだ」と思い、道を開いて通したのでした。佐重は新田軍の総大将、侍所長浜の前にひざまずき、

「私は備前国の住人、美濃権介佐重ですが、三石の城より降伏を申し入れに参った者です」と話すと、総大将は、「神妙である」と仰せられ、すぐに着到簿にその名を記載しました。介重は多くの人を出し抜いて、その日の命を永らえたのです。これも取り敢えずの策略なのでしょう。

さて、船坂はすでに陥落したので、江田兵部大輔は三千余騎にて美作国に侵攻し、奈義能山、菩提寺の二ヶ所の城を取り囲みました。しかしこれらの城も今更何も出来ず、馬や武具を捨てて城に連なる上の山を目指して逃げたのです。脇屋右衛門佐義助は五千余騎にて三石の城を攻撃しました。

また大江田式部大輔は二千余騎を率いて備中国に侵攻し、福山の城に陣営を構えました。      (終り)

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