16 太平記 巻第十六  (その三)


○本間孫四郎遠矢事
新田・足利相挑で未戦処に、本間孫四郎重氏黄瓦毛なる馬の太く逞きに、紅下濃の鎧著て、只一騎和田の御崎の波打際に馬打寄せて、澳なる舟に向て、大音声を挙て申けるは、「将軍筑紫より御上洛候へば、定て鞆・尾道の傾城共、多く被召具候覧。其為に珍しき御肴一つ推て進せ候はん。暫く御待候へ。」と云侭に、上差の流鏑矢を抜て、羽の少し広がりけるを鞍の前輪に当てかき直し、二所藤の弓の握太なるに取副、小松陰に馬を打寄て、浪の上なる鶚の、己が影にて魚を驚し、飛さがる程をぞ待たりける。敵は是を見て、「射放たらんは希代の笑哉。」と目を放たず。御方は是を見て、「射当たらんは時に取ての名誉哉。」と、機を攻てぞ守ける。遥に高飛挙りたる鶚、浪の上に落さがりて、二尺計なる魚を、主人のひれを掴で澳の方へ飛行ける処を、本間小松原の中より馬を懸出し、追様に成て、かけ鳥にぞ射たりける。態と生ながら射て落さんと、片羽がひを射切て直中をば射ざりける間、鏑は鳴響て大内介が舟の帆柱に立、みさごは魚を掴ながら、大友が舟の屋形の上へぞ落たりける。射手誰とは知ねども、敵の舟七千余艘には、舷を蹈で立双、御方の官軍五万余騎は汀に馬を磬へて、「あ射たり/\。」と感ずる声天地を響して静り得ず。将軍是を見給て、「敵我弓の程を見せんと此鳥を射つるが、此方の舟の中へ鳥の落たるは御方の吉事と覚るなり。何様射手の名字を聞ばや。」と被仰ければ、「小早河七郎舟の舳に立出て、「類少なく、見所有ても遊されつる者哉。さても御名字をば何と申候やらん承候ばや。」と問たりければ、本間弓杖にすがりて、「其身人数ならぬ者にて候へば、名乗申共誰か御存知候べき。但弓箭を取ては、坂東八箇国の兵の中には、名を知たる者も御座候らん。此矢にて名字をば御覧候へ。」と云て、三人張に十五束三伏、ゆら/\と引渡し、二引両の旗立たる舟を指して、遠矢にぞ射たりける。

☆ 本間孫四郎が遠矢を射たこと

新田、足利軍がお互い睨み合ってまだ戦う前のことですが、本間孫四郎重氏が黄川原毛(黄白色でたてがみ、ひずめなどが黒いもの)の太った逞しい馬に乗り、紅裾濃(下に行くほど濃く染めたもの)の鎧を身に着け、ただ一人で和田岬の波打ち際に馬を寄せ、

沖にいる舟に向かって大音声で、「将軍が筑紫より御上洛される以上、きっと鞆の浦や尾道の遊女らを多数お呼びになり、引き連れてのことでしょう。そこで一つ珍しい肴を進呈致しましょう。しばらくお待ちください」と言いながら、上差しの鏑矢を引き抜き、羽が少し広がっているのを、

鞍の前輪(鞍の前、少し高くなったところ)に当てて直し、二所籐(ふたところどう::籐を二ヶ所ずつ一定の間隔をおいて巻いたもの)の太い弓に添えると、小松の陰に馬を寄せ、波の上を飛んでいるミサゴが、我が影で魚を驚かし、急降下してくるのを待ちました。

足利軍はこの様子を見て、「何時までも射ようとしないのは、めったにない笑いものだ」と、目を凝らしていました。新田軍では、「うまく射ることが出来れば、これはまた名誉なことではある」と、好機到来を見守っていました。その時遥か高く飛んでいたミサゴが、波に向かって急降下し、

二尺ばかりの魚のひれを掴んで、沖の方に飛んで行くのを、本間孫四郎が小松原の中から馬を駆け出し、ミサゴを追うようにして飛んでいる鳥を射たのです。殺さずに射落とそうと、わざと羽の中央を射ないようにしたので、鏑矢は鳴り響きながら、大内介の乗った舟の帆柱に立ち、

ミサゴは魚を摘んだまま、大友の乗った舟の屋根の上に落ちました。射た人の名は誰とも分かりませんが、敵、足利軍の舟七千余艘では船べりを踏んで並び立ち、味方の官軍では五万余騎が渚に馬を進め、「あたった、あたった、命中だ」と、感心する声が天地に響き渡り、静まりそうにもありません。

尊氏将軍はこれを見て、「敵は自分の弓の腕前を見せつけようと、この鳥を射たのだろうが、わが方の舟に鳥が落ちたことは、味方にとって縁起の良いことと思える。射手は誰なのか名前を聞きたいものだ」と、仰せられましたので、

小早川七郎が舟の舳先に進み出て、「めったに見ることの出来ないことをされるお方のようだ。何方なのか是非お名前をお聞きしたいと思いますが」と、尋ねられました。本間は弓を杖にしながら、「私めは身分のある者でもなく、名乗って見たところで誰もご存じないでしょう。

ただ弓箭に関しては、坂東八ヶ国の武者達の中には、私の名を知った者も居られるかも知れません。この矢で私の苗字をご覧になってください」と言って、三人張りの弓に、十五束三伏の矢をつがうと、ゆっくりと引き絞り、二引両の旗が立った舟をめがけて、遠矢に射たのでした。


其矢六町余を越て、将軍の舟に双たる、佐々木筑前守が船を箆中過通り、屋形に乗たる兵の鎧の草摺に裏をかゝせてぞ立たりける。将軍此矢を取寄せ見給ふに、相摸国住人本間孫四郎重氏と、小刀のさきにて書たりける。諸人此矢を取伝へ見て、「穴懼、如何なる不運の者か此矢崎に廻て死なんずらん。」と、兼て胸をぞ冷しける。本間孫四郎扇を揚て、澳の方をさし招て、「合戦の最中にて候へば、矢一筋も惜く存候。其矢此方へ射返してたび候へ。」とぞ申けれ。将軍是を聞給て、「御方に誰か此矢射返しつべき者有。」と高武蔵守に尋給ければ、師直畏て、「本間が射て候はんずる遠矢を、同じ坪に射返候はんずる者、坂東勢の中には有べしとも存候はず。誠にて候やらん、佐々木筑前守顕信こそ、西国一の精兵にて候なれ。彼を被召仰付られ候へかし。」と申ければ、「げにも。」とて佐々木をぞ被呼ける。顕信召に随て、将軍の御前に参たり。将軍本間が矢を取出して、「此矢、本の矢坪へ射返され候へ。」と被仰ければ、顕信畏て、難叶由をぞ再三辞し申ける。将軍強て被仰ける間、辞するに無処して、己が舟に立帰り、火威の鎧に鍬形打たる甲の緒を縮、銀のつく打たる弓の反高なるを、帆柱に当てきり/\と推張、舟の舳崎に立顕て、弓の弦くひしめしたる有様、誠に射つべくぞ見へたりける。かゝる処に、如何なる推参の婆伽者にてか有けん、讚岐勢の中より、「此矢一受て弓勢の程御覧ぜよ。」と、高らかに呼はる声して、鏑をぞ一つ射たりける。胸板に弦をや打たりけん、元来小兵にてや有けん、其矢二町迄も射付ず、波の上にぞ落たりける。本間が後に磬へたる軍兵五万余騎、同音に、「あ射たりや。」と欺て、しばし笑も止ざりけり。此後は中々射てもよしなしとて、佐々木は遠矢を止てけり。

その矢は海上六町余りを飛び越え、将軍の舟に並んでいた佐々木筑前守の舟にまで届き、乗っていた兵士の鎧の草摺りの裏まで通って、突き刺さったのでした。将軍がこの矢を取り寄せ見てみると、相模国の住人本間孫四郎重氏と、小刀の先で書いてありました。

皆この矢を順に見て、「いやいや、恐ろしいことだ。一体誰が不幸にも、この矢に中って死ぬことになるのか」と、皆が肝を冷やしたのでした。本間孫四郎は扇を上げると、沖のほうに向かって、「合戦の最中でもあれば、矢の一本も惜しく思います。

その矢をこちらに射返してください」と、言いました。将軍はこれを聞くと、「味方の中に誰かこの矢を射返す者は居ないのか」と、高武蔵守に尋ねられました。高師直は恐縮して、「本間が射てきた遠矢を、同じ所に射返すことの出来る者は、坂東勢の中にいるとは考えられません。

本当かどうか分かりませんが、佐々木筑前守顕信こそ西国一の精兵だと言われています。彼をお呼びになられたら如何でしょうか」と申し上げると、「よし、そうしよう」と、佐々木を呼ばれました。顕信はお呼びに答えて、将軍の御前に参りました。

将軍は本間の矢を取り出して、「この矢を元々矢を放った場所に射返すように」と仰せられましたが、顕信は恐縮して、とても出来そうにありませんと、何度もお断りしました。なおも将軍が強く命令されるので、断ることが出来ず自分の舟に戻ると、緋縅の鎧に鍬形打った兜の緒を締めて、

銀の飾りのついた反りのきつい弓を帆柱に当て、キリリと弦を張ると舟の舳先に現われ、弦を少し湿らせた様子は、今まさに矢を放つように見えました。そんな時、何処の誰だか馬鹿なでしゃばりが、讃岐勢の中から現われ、「この矢一つ受けて、弓勢の程をご覧下さい」と高らかに声があり、

鏑矢を一筋射たのです。鎧の胸板に弦が当たったのか、それとも元々小兵の武者なのか、その矢は二町も飛ぶことなく波の上に落ちたのでした。本間の後ろに控えていた五万余騎の軍兵らは同時に、「あっ、本当に射たぞ」と馬鹿にして、しばらく笑い声も止まりませんでした。

こうなっては今更射ても仕方ないと、佐々木は遠矢を射ることを止めたのでした。


○経嶋合戦事
遠矢射損じて、敵御方に笑れ憎まれける者、恥を洗がんとや思けん。舟一艘に二百余人取乗て、経島へ差寄せ、同時に礒へ飛下て、敵の中へぞ打て懸りける。脇屋右衛門佐の兵ども、五百余騎にて中に是を取篭、弓手馬手に相付て、縄手を廻してぞ射たりける。二百余騎の者共、心は勇といへ共、射手も少く徒立なれば、馬武者に懸悩されて、遂に一人も残らず討れにければ、乗捨つる舟は、徒に岸打浪に漂へり。細河卿律師是を見給て、「つゞく者の無りつる故にこそ、若干の御方をば故なく討せつれ。いつを期すべき合戦ぞや。下場のよからんずる所へ舟を著て、馬を追下々々打て上れ。」と被下知。四国の兵共、大船七百余艘、紺部の浜より上らんとて、礒に傍てぞ上りける。兵庫嶋三箇所に磬へたる官軍五万余騎、船の敵をあげ立じと、漕行舟に随て、汀を東へ打ける間、舟路の勢は自進で懸る勢にみへ、陸の官軍は偏に逃て引様にぞ見へたりける。海と陸との両陣互に相窺て、遥の汀に著て上りければ、新田左中将と楠と、其間遠く隔て、兵庫嶋の舟著には支たる勢も無かりける。依之九国・中国の兵船六十余艘、和田の御崎に漕寄て、同時に陸へぞあがりける。

☆ 経島合戦のこと

遠矢を射損じて敵味方から笑われ、また憎まれた者が、恥を雪ごうと思ったのでしょう。舟一艘に二百余人が乗り込み、経島に押し寄せ一斉に磯に飛び降り、敵の中に突入しました。脇屋右衛門佐の兵士達は、五百余騎で彼らを中に取り篭め、左右両側から続けさまに射たのです。

二百余騎の者達、気持ちだけは勇猛なのですが、弓を持った者も少なく、徒歩立ちの兵士なので、敵の騎馬武者に蹴倒され、ついに一人残らず討ち取られ、乗ってきた舟はただ波打ち際を漂うばかりです。細川卿律師定禅はこれを見て、「彼らに続く者がいないから、多くの味方を無駄死にさせてしまった。

戦闘に入るのに何を逡巡しているのだ。足場の良いところに舟を着け、馬を順に降ろして上陸せよ」と、命令されました。そこで四国の兵士らが乗った大舟七百余艘は、紺部の浜より磯に近づき、上陸を始めようとしました。兵庫島周辺三ヶ所に展開している官軍、五万余騎は、

敵を舟からの上陸を阻止しようと、漕ぎ寄せる舟の傍を離れず、渚を東に向かって進んでいるので、海上の軍勢は自然と攻勢に見え、陸の官軍はただ退却しているように見えました。このように海上と陸上の両軍は、互いに勝機を窺う内、遥かかなたの渚に上陸したので、

新田左中将と楠木判官らの軍勢と遠く離れ、また兵庫島周辺の船着場は、防禦が手薄になってしまいました。このため九州、中国の兵船、六十余艘は和田岬に漕ぎ寄せ、同時に上陸を果たしたのでした。


○正成兄弟討死事
楠判官正成、舎弟帯刀正季に向て申けるは、「敵前後を遮て御方は陣を隔たり。今は遁ぬ処と覚るぞ。いざや先前なる敵を一散し追捲て後ろなる敵に闘はん。」と申ければ、正季、「可然覚候。」と同じて、七百余騎を前後に立て、大勢の中へ懸入ける。左馬頭の兵共、菊水の旗を見て、よき敵也と思ければ、取篭て是を討んとしけれ共、正成・正季、東より西へ破て通り、北より南へ追靡け、よき敵とみるをば馳双て、組で落ては頭をとり、合はぬ敵と思ふをば、一太刀打て懸ちらす。正季と正成と、七度合七度分る。其心偏に左馬頭に近付、組で討んと思にあり。遂に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に懸靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける。直義朝臣の乗られたりける馬、矢尻を蹄に蹈立て、右の足を引ける間、楠が勢に追攻られて、已に討れ給ぬと見へける処に、薬師寺十郎次郎只一騎、蓮池の堤にて返し合せて、馬より飛でをり、二尺五寸の小長刀の石づきを取延て、懸る敵の馬の平頚、むながひの引廻、切ては刎倒々々、七八騎が程切て落しける其間に、直義は馬を乗替て、遥々落延給けり。左馬頭楠に追立られて引退を、将軍見給て、「悪手を入替て、直義討すな。」と被下知ければ、吉良・石堂・高・上杉の人々六千余騎にて、湊河の東へ懸出て、跡を切らんとぞ取巻ける。正成・正季又取て返て此勢にかゝり、懸ては打違て死し、懸入ては組で落、三時が間に十六度迄闘ひけるに、其勢次第々々に滅びて、後は纔に七十三騎にぞ成にける。

☆ 正成兄弟が討ち死にしたこと

楠木判官正成は弟、帯刀正季に向かって、「敵に前後を遮断され、離れ離れになった味方の陣形は崩れてしまった。もはや逃れることは出来ないと思う。さぁ、それでは先ず前方の敵どもを一蹴し、そのまま後方の敵に挑みかかろう」と話せば、正季は、「当然のことかと思えます」と同意し、

七百余騎を前後に控えさせ、大軍の中に駈け入りました。左馬頭直義に従う兵士らは、菊水の旗を見て良き敵に巡り会えたと思い、取り篭めて討ち取ろうとしましたが、正成、正季共に東から西に駆け破り、また北から南へ敵を追いまわし、良い敵と見れば駆け寄り組み合って下に落とし首を刎ね、

良からぬ敵と思えば、一太刀打ち付けては駆け散らしました。このように正季と正成は七回合流しては、また分かれて戦いました。その気持ちはただ左馬頭に近づき、組み合って討ち取ることにありました。そしてとうとう左馬頭の軍勢、五十万騎は楠木の七百余騎に駆け散らされ、

再び須磨、上野の方に引き返しました。直義朝臣の乗られた馬は鏃を蹄で踏みつけて、右足を引きずっていたので、楠木の軍勢に追いつかれ、まさに討ち取られそうに見えた時、薬師寺十郎次郎がただ一騎で蓮池の堤から引き返し、馬から飛び降りると二尺五寸の小長刀の石突を握り締め、

懸かってくる敵の馬の平首を切ったり、むながいを引き回したりして、次々と踏み倒し七、八騎を切り落としている間に、直義は馬を乗り換えて、遥々と落ち延びて行ったのです。左馬頭が楠木に追い立てられ、引下がるのを尊氏将軍は見て、「新手を投入して直義を討たせるな」と、命令しました。

それに応えて、吉良、石堂、高、上杉の人達が六千余騎にて湊川の東に駆け込み、後方を遮断しようと取り巻きました。正成、正季は再び引き返すとこれらの軍勢に向かって、懸かって行っては討ち合って殺され、駆け入っては組み落とされ、六時間ほどの合戦で十六度の吶喊をする内に、

その勢は次第次第に少なくなり、最後には僅か七十三騎にまでなりました。


此勢にても打破て落ば落つべかりけるを、楠京を出しより、世の中の事今は是迄と思ふ所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ、湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、腹を切ん為に、鎧を脱で我身を見るに、斬疵十一箇所までぞ負たりける。此外七十二人の者共も、皆五箇所・三箇所の疵を被らぬ者は無りけり。楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹をぞ切たりける。正成座上に居つゝ、舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。橋本八郎正員・宇佐美河内守正安・神宮寺太郎兵衛正師・和田五郎正隆を始として、宗との一族十六人、相随兵五十余人、思々に並居て、一度に腹をぞ切たりける。菊池七郎武朝は、兄の肥前守が使にて須磨口の合戦の体を見に来りけるが、正成が腹を切る所へ行合て、をめ/\しく見捨てはいかゞ帰るべきと思けるにや、同自害をして炎の中に臥にけり。抑元弘以来、忝も此君に憑れ進せて、忠を致し功にほこる者幾千万ぞや。然共此乱又出来て後、仁を知らぬ者は朝恩を捨て敵に属し、勇なき者は苟も死を免れんとて刑戮にあひ、智なき者は時の変を弁ぜずして道に違ふ事のみ有しに、智仁勇の三徳を兼て、死を善道に守るは、古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。

たとえこの軍勢でも敵軍を突破し、落ちようと思えば落ちることも出来るのですが、楠木は京を出た時より、世の中の事はもうこれまでかと思っていたため、一歩も退くことなく戦い続け、すでに戦闘意欲も失ってしまったので、湊川の北にある民家の建ち並んだ一村に走り入り、

腹を切ろうと鎧を脱ぎ我が身を見てみると、切り傷が十一ヶ所もありました。このほか七十二人の兵士らも皆、五ヶ所や三ヶ所の傷を受けていない者などいませんでした。楠木の一族十三人と家来ら六十余人が、六間の客殿に二列に並び、声を合わせて念仏を十遍ほど唱えて、

その後一斉に腹を切ったのでした。正成は座を占めている場所から、弟の正季に向かって、「そもそも臨終の時の心の持ち方によって、来世の生の善悪が決まると言う。九界(十界の内、仏界以外の世界::地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩)のどこかにいる今、

汝の願いは何であろうか」と、質問されました。正季はカラカラと笑い、「七度まで同じように人間に生まれて、朝敵を滅ぼしたく思います」と答えられると、正成は喜びを隠すことなく、「良くない考えかも知れぬが、私もそのように思うばかりだ。では、さらばだ。

同じように生まれ変わってこの本懐を遂げようではないか」と約束し、兄弟刺し違えて、同じ枕に伏せられたのでした。橋本八郎正員、宇佐美河内守正安、神宮寺太郎兵衛正師、和田五郎正隆をはじめに、主だった一族十六人、それぞれに従う兵士ら五十余人が、思い思いに居並んで、

一斉に腹を切りました。またその時、菊池七郎武朝は兄の肥前守(肥後守?)の使いで、須磨口の合戦の様子を見に来ていたのですが、正成が割腹する場に行き合わせ、このまま平気な顔で見捨てて帰ることなど出来ないと考え、同じく自害して炎の中に倒れ込みました。

もともと元弘以来、天皇からあり難くも厚い信頼を得て、忠義を守り通した上に大きな戦功も上げ、その功を誇っている者は、幾千万人もいたのでしょう。しかしながら、この戦乱が始まってからというものは、仁義を知らない者は天皇の恩を忘れて、敵に従属したり、武勇に自信を持てない者は、

一時でも命を守ろうとして、逆に処刑されたり、また知恵のない者は、時代の転換を知らないため、正道を歩むことが出来ないのに、正成のように智仁勇の三つの徳を持ち合わせた人間が、死ぬことによって人間として道義にかなった生き方を守ったのは、過去から現在に至るまで、

正成ほどな人間は居なかったのです。その人間が兄弟共に自害を遂げたことは、今の後醍醐天皇が結果として国を追われ、逆臣が横暴な権威を振りかざすこととなる、その前触れだったのでしょう。


○新田殿湊河合戦事
楠已に討れにければ、将軍と左馬頭と一処に合て、新田左中将に打て懸り給ふ。義貞是を見て、「西の宮よりあがる敵は、旗の文を見るに末々の朝敵共なり。湊河より懸る勢は尊氏・直義と覚る。是こそ願ふ所の敵なれ。」とて西宮より取て返し、生田の森を後ろを当て四万余騎を三手に分て、敵を三方にぞ受られける。去程に両陣互に勢を振て時を作り声を合す。先一番に大館左馬助氏明・江田兵部大輔行義、三千余騎にて、仁木・細川が六万余騎に懸合て、火を散して相戦ふ。其勢互に討れて、両方へ颯と引のけば、二番に中院の中将定平・大江田・里見・鳥山五千余騎にて、高・上杉が八万騎に懸合て、半時許黒烟を立て揉合たり。其勢共戦疲れて両方へ颯と引退けば、三番に脇屋右衛門佐・宇都宮治部大輔・菊池次郎・河野・土居・得能一万騎にて、左馬頭・吉良・石堂が十万余騎に懸合せ、天を響かし地を動して責戦ふ。或は引組で落重て、頚を取もあり、取るゝもあり。或は敵と打違て、同く馬より落るもあり。両虎二龍の闘に、何れも討るゝ者多かりければ、両方東西へ引のきて、人馬の息をぞ休めける。新田左中将是を見給て、「荒手の兵已に尽て戦未決せず。是義貞が自当るべき処也。」とて、二万三千騎を左右に立て、将軍の三十万騎に懸合せ、兵刃を交へて命を鴻毛よりも軽せり。官軍の総大将と、武家の上将軍と、自戦ふ軍なれば、射落さるれども矢を抜隙なく、組で下になれ共、落合て助くる者なし。只子は親を棄て切合、朗等は主に離れて戦へば、馬の馳違ふ声、太刀の鐔音、いかなる脩羅の闘諍も、是には過じとをびたゝし。先に一軍して引しさりたる両方の勢共、今はいつをか可期なれば、四隊の陣一処に挙て、敵と敵と相交り、中黒の旗と二引両と、巴の旗と輪違と、東へ靡き西へ靡き、礒山風に翩翻して、入違ひたる許にて、何れを御方の勢とは見へ分かず。新田・足利の国の争ひ今を限りとぞ見へたりける。

☆ 新田殿の湊川における合戦のこと

楠木をすでに討ち取ったので、尊氏将軍と左馬頭直義は合流し、新田左中将の攻撃を始めることにしました。義貞はこの状況に、「西宮に上陸した敵は旗の紋を見る限り、朝敵の中でも下っ端の者だろう。しかし湊川から襲って来つつある軍勢は、尊氏、直義の勢と思われる。

これこそ願ってもない良き敵だ」と言って、西宮より引き返し生田の森を背にして、四万余騎の勢を三手に分け、敵の攻撃を三方面で防ぎました。やがて両軍はお互いに闘志を奮い立たせ、双方閧の声を挙げました。まず最初に、大館左馬助氏明、江田兵部大輔行義の二人が三千余騎を率いて、

仁木、細川の軍勢六万余騎に懸かり、火を散らすような戦いをしました。やがてお互い多数が討ち取られ、両陣営にそれぞれがサッと引き下がると、二番手として中院の中将定平、大江田、里見、鳥山が五千余騎で高、上杉の八万騎に襲い掛かり、一時間ばかり黒煙を上げて、

揉みあうように戦いました。それらの軍勢も戦い疲れて自陣にサッと退くと、今度は三番手として、脇屋右衛門佐、宇都宮治部大輔、菊池次郎、河野、土居、得能らの一万騎が、左馬助直義、吉良、石堂らの十万余騎に攻めかかり、その激しさは天に響き渡り、地をも鳴動させて戦いました。

ある者は組み合ったまま馬から重なり落ち、首を取る者がいれば取られる者もいます。またある者は敵と刺し違えて、同時に馬から落ちる者などもいます。両虎二龍の戦いの如く、いずれも並外れた勇者であれば、お互い討たれる者も多くて双方東西に引き下がり、

人馬とも息を継ぎ体を休めました。新田左中将はこの状況を見て、「新手の軍勢も今は使い果たし、合戦の決着も未だ付かないようだ。こうなれば、この義貞が自ら敵に向かうべきだろう」と言って、二万三千騎を左右に控えさせて、尊氏将軍の三十万騎に戦いを挑み、太刀で斬り合い、

命を羽毛の如く軽んじて戦いました。官軍の総大将と武家の大将軍が、自ら戦うと言う究極の軍であれば、射落とされても矢を引き抜く暇もなく、組み合って下に押さえつけられても、誰も助けには来てくれません。ただただ、子は親を顧みることなく斬り合い、家来は主人と離れて戦いを続け、

馬が駆け回る声や、太刀の鍔と鍔がぶつかり合う音など、修羅におけるどのような闘争でも、これほどひどい事はないでしょう。先に一戦して引き上げていた両軍の軍勢らも、今はもう何を期することが出来るのかと、四つの隊形になっていた軍勢も一ヶ所に集結し、両軍入り乱れての戦闘となりました。

中黒の新田の旗と二引両の足利の旗、巴と輪違いの旗が東に靡いていたかと思うと、西に靡き、山風に翻れば浜風に吹かれ、互いに一ヶ所に留まることもないので、いずれが味方なのか敵なのか分かりません。新田と足利は自国の存亡を、この一戦に決しようと戦っているように見えました。


官軍は元来小勢なれば、命を軽じて戦といへども、遂には大敵に懸負て、残る勢纔五千余騎、生田の森の東より丹波路を差てぞ落行ける。数万の敵勝に乗て是を追事甚急なり。され共何もの習なれば、義貞朝臣、御方の軍勢を落延させん為に後陣に引さがりて、返し合せ/\戦れける程に、義貞の被乗たりける馬に矢七筋迄立ける間、小膝を折て倒けり。義貞求塚の上に下立て、乗替の馬を待給共、敢て御方是を不知けるにや、下て乗せんとする人も無りけり。敵や是を見知けん、即取篭て是を討んとしけるが、其勢に僻易して近は更不寄けれ共、十方より遠矢に射ける矢、雨雹の降よりも猶繁し。義貞は薄金と云甲に、鬼切・鬼丸とて多田満仲より伝たる源氏重代の太刀を二振帯れたりけるを、左右の手に抜持て、上る矢をば飛越、下る矢には差伏き、真中を指て射矢をば二振の太刀を相交て、十六迄ぞ切て被落ける。其有様、譬ば四天王、須弥の四方に居して同時に放つ矢を、捷疾鬼走廻て、未其矢の大海に不落著前に、四の矢を取て返らんも角やと覚許也。小山田太郎遥の山の上より是を見て、諸鐙を合て馳参て、己が馬に義貞を乗奉て、我身徒立に成て追懸る敵を防けるが、敵数たに被取篭て、遂討れにけり。其間に義貞朝臣御方の勢の中へ馳入て、虎口に害を遁給ふ。

しかし官軍は元々小勢であり、いかに命がけで戦うと言っても、とうとう最後には大敵に打ち負かされて、残っていた僅か五千余騎の軍勢は、生田の森の東から、丹波路方向へ落ちて行きました。数万の敵軍は勝ちに乗じて、この敗走軍を急追しました。

しかし撤退軍の常の手段通り、義貞朝臣は味方の軍勢を何とか落ち延びさせようと、後方の軍勢に引下がり、追ってくる敵に向かっては戦い、また向かっては戦っている内に、義貞の乗った馬に、矢が七本突き刺さり、馬は膝を折って倒れました。

義貞は求塚の上で馬から降り立ち、乗り換えの馬を待とうとしましたが、味方の者もこの事実を知らないのか、馬を下りて乗せようとする者も居ません。敵はこの状況を知ったのか、すぐに取り囲んで討とうとしましたが、義貞の気勢に押されて近づくことも出来ず、周囲より遠矢を雨霰の如く射込みました。

義貞は薄金(源氏伝来の兜の一つ)と言う兜に、帯びていた鬼切、鬼丸と言う、多田満仲より伝来の源氏重代の太刀、二振りを抜き払い、左右の手に持って、上方を飛んでくる矢は上に跳ね上げたり、下方に来る矢は下に叩き落し、正面を狙ってくる矢は、二振りの太刀を交叉させたりして、

十六本の矢を打ち落としました。その様子はまるで四天王が須弥山の四方に居ながら、同時に放った矢を、捷疾鬼が走り回って矢が大海に落ちる前に、四方から射た矢を取って射返したというのも、このような状況だったのではと思えます。小山田太郎は遥かかなたの山上からこの様子を見て、

左右の鐙で同時に馬の腹を打ち、一目散に駆けつけて、義貞に自分の馬を乗換えとして乗せ、自分は徒歩立ちとなって、追撃する敵を防いでいましたが、多数の敵に取り篭められ、とうとう討たれてしまいました。しかしその間に義貞朝臣は味方の軍勢の中に駆け込み、間一髪の危機から逃れられたのです。


○小山田太郎高家刈青麦事
抑官軍の中に知義軽命者雖多、事の急なるに臨で、大将の替命とする兵無りけるに、遥隔たる小山田一人馬を引返して義貞を奉乗、剰我身跡に下て打死しける其志を尋れば、僅の情に憑て百年の身を捨ける也。去年義貞西国の打手を承て、播磨に下著し給時、兵多して粮乏。若軍に法を置ずば、諸卒の狼藉不可絶とて、一粒をも刈採、民屋の一をも追捕したらんずる者をば、速可被誅之由を大札に書て、道の辻々にぞ被立ける。依之農民耕作を棄ず、商人売買を快しける処に、此高家敵陣の近隣に行て青麦を打刈せて、乗鞍に負せてぞ帰ける。時の侍所長浜六郎左衛門尉是を見、直に高家を召寄、無力法の下なれば是を誅せんとす。義貞是を聞給て、「推量するに此者、青麦に替身と思んや。此所敵陣なればと思誤けるか、然ずば兵粮に術尽て法の重を忘たるかの間也。何様彼役所を見よ。」とて、使者を遣して被点検ければ、馬・物具爽に有て食物の類は一粒も無りけり。使者帰て此由を申ければ、義貞大に恥たる気色にて、「高家が犯法事は、戦の為に罪を忘たるべし。何様士卒先じて疲たるは大将の恥也。勇士をば不可失、法をば勿乱事。」とて、田の主には小袖二重与て、高家には兵粮十石相副て色代してぞ帰されける。高家此情を感じて忠義弥染心ければ、此時大将の替命、忽に打死をばしたる也。自昔至今迄、流石に侍たる程の者は、利をも不思、威にも不恐、只依其大将捨身替命者也。今武将たる人、是を慎で不思之乎。

☆ 小山田太郎高家が青麦を刈り取ったこと

そもそも官軍の中には、忠義を尽くすことをわきまえ、そのためには我が命を軽んじる者は多数いるとは言えども、事態の急変に遭遇し、大将の命を救うため、我が命を捨てる兵士は居ませんでした。それが遥か遠くに居た小山田一人が、馬に乗って引き返すと、その馬に義貞を乗せて逃がした上、

自分はそこに居残って討ち死にしたのです。何故そのような忠義心を持っていたのか、その理由はささやかな恩情によって、我が命を捨てることになったのです。それは昨年、義貞が西国の征伐軍を命じられ、播磨にお着きになった時、軍兵は多数従軍しているのに、兵糧が乏しかったのです。

もし軍規を定めずにいたら、諸卒らの狼藉は避けることが出来ないだろうと、一粒の穀物でも刈り取ったり、民家の一軒でも略奪を計ろうとした者は、即刻誅伐の対象になると大札に書き、道の辻々に立てました。この定めによって農民らは耕作を続け、また商人は安心して売買を行うことが出来ました。

そんな折、この小山田高家は敵陣の近くに行って、青麦を刈り取らせ馬に乗せて持ち帰ったのでした。当時の侍所、長浜六郎左衛門尉がこの行為を見つけ、すぐに高家を出頭させ、法に従ってやむを得ず彼を処刑しようとしました。義貞はこの事情をお聞きになり、「想像するにこの者は、

青麦と我が命を引き換えようと思ったのではないか。この場所が敵陣だと勘違いしたのか、それでなければ兵糧が底をつき、万策果てて法の重要性を忘れたかの、どちらかであろう。とにかく彼の政庁を家宅捜索するように」と言って、使者を派遣し調査してみたところ、

馬や甲冑など整然と管理されていましたが、食物の類は一粒とてありませんでした。使者はこの結果を報告したところ、義貞は大変面目なく思い、「高家が法を犯したのは、戦時にあってその罪をうっかり忘れたのであろう。どんなことがあっても、将官、兵士らが戦の前に気力、体力をなくすのは、

大将として恥ずべきことである。勇猛なる将官を失うことは良くないが、かと言って軍法を軽視することも、同じく許せない」と言って、田んぼの主には小袖を二着与えて、高家には兵糧米十石支給して、面談して話し合った上、帰させたのです。高家はこの時の恩情が忘れられず、

忠義を尽くす気持ちはいやがうえにも高まっていたので、求塚において義貞の命を助けようと、我が命を投げ出して、討ち死にすることになったのです。過去から現在に至るまで、あの人物は確かに侍だなと言われるような人は、自分の利益のみを考える訳でなく、

かと言って権威を恐れることもなく、ただ自分が仕える大将の命に代えて、我が命を投げ出す者でしょう。今、武将として指揮、統率する者は、このことを真剣に考えるべきではないでしょうか。


○聖主又臨幸山門事
官軍の総大将義貞朝臣、僅に六千余騎に打成されて帰洛せられければ、京中の貴賎上下色を損じて周章騒事限なし。官軍若戦に利を失はゞ、如前東坂本へ臨幸成べきに兼てより儀定ありければ、五月十九日主上三種の神器を先に立て、竜駕をぞ廻らされける。浅猿や、元弘の初に公家天下を一統せられて、三年を過ざるに、此乱又出来て、四海の民安からず。然ども去ぬる正月の合戦に、朝敵忽に打負て、西海の浪に漂ひしかば、是聖徳の顕るゝ処也。今はよも上を犯さんと好み、乱を起さんとする者はあらじとこそ覚へつるに、西戎忽に襲来て、一年の内に二度まで天子都を移させ給へば、今は日月も昼夜を照す事なく、君臣も上下を知ぬ世に成て、仏法・王法共に可滅時分にや成ぬらんと、人々心を迷はせり。されども此春も山門へ臨幸成て、無程朝敵を退治せられしかば、又さる事やあらんと定めなき憑みに積習して、此度は、公家にも武家にも供奉仕る者多かりけり。

☆ 後醍醐天皇が再度山門に臨幸されたこと

官軍の総大将である義貞朝臣は僅か六千余騎になるまで打ちのめされて、都に戻って来ましたが、京都中の人々は身分に関係なく、この事態に怒りを覚えるとともに、慌てふためくことこの上ありません。朝廷ではもしも官軍が戦に負けるようなことがあれば、以前のように難を逃れんため、

東坂本へ臨幸をされるよう、すでに決定がなされていましたから、五月十九日、後醍醐天皇は三種の神器を先頭に、駕籠の中の人となりました。情けない話ですが、元弘(1331-1333年)の初めに公家が天下の統一をなされて、三年も経たない内に再びこの戦乱が起こり、

日本国中の民衆は不安な日々を過ごしています。しかし建武三年(1336年)正月に起こった合戦では、朝敵尊氏軍はなすすべなく敗退し、西海の海上を漂うこととなり、これは全て帝の徳が優れていることの表れだと思われました。だから今後は朝廷に叛旗をあげようとしたり、

戦乱を起こそうと考える者など居ないと思われていたのにかかわらず、西国方面から西戎(古代中国西部に住んでいた牧畜民)とも言うべき逆臣が襲来し、ここ一年の内に二度に渡って、天子を都からお遷しすることとなりました。そのため今は太陽も月も、昼夜に渡って都を照らすこともなく、

帝も臣下も身分や年齢など頓着しない世の中となってしまい、仏の悟りにより思想精神を規制する仏法も、帝王として守るべき王法も、共に滅び去る時代になったのかと、人々は思い悩むこととなりました。しかしながら今年の春も、山門に難を逃れてから、

しばらくして朝敵を都から追い出すことに成功したので、今度もうまく追い出せるのではと、当てにもならないことに頼るという昔からの考えによって、今回も公家や武家など、帝のお供をして避難する者が多かったのです。


摂録臣は申に及ず、公卿には吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・竹林院大納言公重・御子左大納言為定・四条中納言隆資・坊城中納言経顕・洞院左衛門督実世・千種宰相中将忠顕・葉室中納言長光・中御門宰相宣明、殿上人には中院左中将定平・坊門左大弁清忠・四条中将隆光・園中将基隆・甘露寺左大弁藤長・岡崎右中弁範国・一条頭大夫行房、此外衛府諸司・外記・史・官人・北面・有官・無官の滝口・諸家の侍・官僧・官女・医陰両道に至まで、我も我もと供奉仕る。武家の輩には、新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大輔義治・堀口美濃守貞満・大館左馬助義氏・江田兵部少輔行義・額田掃部助正忠・大江田式部大輔氏経・岩松兵衛蔵人義正・鳥山左京助氏頼・羽川越中守時房・桃井兵庫助顕氏・里見大膳亮義益・田中修理亮氏政・千葉介貞胤・宇都宮治部大輔公綱・同美濃将監泰藤・狩野将監貞綱・熱田大宮司昌能・河野備後守通治・得能備中守通益・武田甲斐守盛正・小笠原蔵人政道・仁科信濃守氏重・春日部治部少輔時賢・名和伯耆守長年・同太郎判官長生・今木新蔵人範家・頓宮六郎忠氏、是等を宗との侍とし、其勢都合六万余騎、鳳輦の前後に打囲て、今路越にぞ落行給ける。

摂政は当然のことながら、公卿では吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、竹林院大納言公重、御子左大納言為定、四条中納言隆資、坊城中納言経顕、洞院左衛門督実世、千種宰相中納言忠顕、葉室中納言長光、中御門宰相宣明など、

また殿上人としては、中院左中将定平、坊門左大弁清忠、四条中将隆光、園中将基隆、甘露寺左大弁藤長、岡崎左中弁範国、一条頭大夫行房などがお供し、このほかにも宮中警備の職員や、諸官庁の外記、史などの職員、役人など、

その他北面の武士など官位を持っている者、持っていない警護職の武者、その他では諸家に仕える侍、国家公認の僧侶、女性役人や医療、陰陽道に携わる人々まで、我も我もとお供に駆けつけました。そして武家の人達では、新田左中将義貞、その子息越後守義顕、脇屋右衛門佐義助、

子息式部大輔義治、堀口美濃守貞満、大館左馬助義氏、江田兵部少輔行義、額田掃部助正忠、大江田式部大輔氏経、岩松兵衛蔵人義正、鳥山左京助氏頼、羽川越中守時房、桃井兵庫助顕氏、里見大膳亮義益、田中修理亮氏政、千葉介貞胤、宇都宮治部大輔公綱、同じく美濃将監泰藤、

狩野将監貞綱、熱田大宮司昌能、河野備後守通治、得能備中守通益、武田甲斐守盛正、小笠原蔵人政道、仁科信濃守氏重、春日部治部少輔時賢、名和伯耆守長年、同じく太郎判官長生、今木新蔵人範家、頓宮六郎忠氏らを主力の武将として、

総勢六万余騎が、帝が乗られた駕籠の前後を取り囲むように警護しながら、今路越(北白川越えか?)を経由して落ちて行かれました。


○持明院本院潛幸東寺事
持明院法皇・本院・新院・春宮に至まで、悉皆山門へ御幸成進らすべき由、太田判官全職、路次の奉行として、供奉仕たるに、本院は兼てより尊氏に院宣を被成下たりしかば、二度御治世の事やあらんずらんと思召て、北白川の辺より、俄に御不預の事有とて、御輿を法勝寺の塔前に舁居させて、態時をぞ移されける。去程に敵已に京中に入乱れぬと見て、兵火四方に盛也。全職是を見て、「さのみはいつまでか、暗然として可待申なれば、供奉の人々に急ぎ山門へ成進らすべし。」と申置て、新院・法皇・春宮許を先東坂本へぞ御幸成進せける。本院は全職が立帰る事もやあらんずらんと恐しく思召されければ、日野中納言資名、殿上人には三条中将実継計を供奉人として、急東寺へぞ成たりける。将軍不斜悦で、東寺の本堂を皇居と定めらる。久我内大臣を始として、落留給へる卿相雲客参られしかば、則皇統を立らる。是ぞはや尊氏の運を開かるべき瑞なりける。

☆ 持明院の本院が東寺にお忍びで向かわれたこと

持明院法皇(後伏見院::この時はすでに故人のはず?)、本院(花園院)、新院(光厳院)から春宮(豊仁親王)に至るまで全員山門に御幸されるよう、太田判官全職(みつもと、 あるいは、 たけもと)が責任者となり、山門にお連れするべく供奉していましたが、本院は以前、尊氏に義貞討伐の院宣を与えているので、

もしかすると再び政治をすることになるかと考えて、北白川のあたりで急病を訴えると、御輿を法勝寺の門前に留めさせ、わざと時間を稼ぎました。やがて、敵がすでに京都になだれ込んだと見え、四方に兵火らしいものが燃え上がりました。

全職はこの事態を見ると、「私はこのようにいつまでも無為に待っている訳にはいかないので、お供の人たちは後から急いで山門にお連れするように」と言い残して、新院と法皇そして春宮だけを先に東坂本にお連れしました。本院は全職が戻ってくることもあるかと、

怯えていましたが、日野中納言資名と殿上人の三条中納言実継だけをお供にして、急遽東寺へ御幸されました。尊氏将軍は大変喜ばれ、東寺の本堂を皇居と定めました。久我内大臣をはじめ、落ちて行かず都に残っていた、公卿、殿上人らが参内して来られたので、

直ちに皇位継承の手続きを済ませました。これはまさしく尊氏の運命を決める吉事となりました。(本院は新院の間違いでは?)


○日本朝敵事
夫日本開闢の始を尋れば、二儀已分れ三才漸顕れて、人寿二万歳の時、伊弉諾・伊弉冊の二の尊、遂妻神夫神と成て天の下にあまくだり、一女三男を生給ふ。一女と申は天照太神、三男と申は月神・蛭子・素盞烏の尊なり。第一の御子天照太神此国の主と成て、伊勢国御裳濯川の辺、神瀬下津岩根に跡を垂れ給ふ。或時は垂迹の仏と成て、番々出世の化儀を調へ、或時は本地の神に帰て、塵々刹土の利生をなし給ふ。是則迹高本下の成道也。爰に第六天の魔王集て、此国の仏法弘らば魔障弱くして其力を失べしとて、彼応化利生を妨んとす。時に天照太神、彼が障碍を休めん為に、我三宝に近付じと云誓をぞなし給ひける。依之第六天の魔王忿りを休めて、五体より血を出し、「尽未来際に至る迄、天照太神の苗裔たらん人を以て此国の主とすべし。若王命に違ふ者有て国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来て其罰を行ひ其命を奪ふべし」と、堅誓約を書て天照太神に奉る。今の神璽の異説是也。誠に内外の宮の在様自余の社壇には事替て、錦帳に本地を顕はせる鏡をも不懸、念仏読経の声を留て僧尼の参詣を許されず。是然当社の神約を不違して、化属結縁の方便を下に秘せる者なるべし。されば天照太神より以来、継体の君九十六代、其間に朝敵と成て滅し者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇御宇天平四年に紀伊国名草郡に二丈余の蜘蛛あり。足手長して力人に超たり。綱を張る事数里に及で、往来の人を残害す。然共官軍勅命を蒙て、鉄の網を張り、鉄湯を沸して四方より責しかば、此蜘蛛遂に殺されて、其身分々に爛れにき。又天智天皇の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随て、善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。」とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。

☆ 日本における朝敵のこと

ここで日本国の成り立ちを最初から見てみると、天と地がすでに別々になり、宇宙の万物も漸く現れだし、人間であれば二万歳になった時、伊弉諾、伊弉冉の二人の神が、夫婦神としてこの日本国の地上に降りられ、一女三男を出産されました。

その中の一女とは天照大神(太陽を神格化した神)であり、三人の男性とは月神(月を神格化した月夜見尊)、蛭子(蛭子命)そして素盞烏尊です。第一の御子、天照大神はこの国の主人となって、伊勢国、御裳濯川(五十鈴川)のあたりの、神瀬下津岩根に民を救うため、神の姿となって現われました。

そしてある時は仏の姿となって、諸仏が次々とこの世に現われて、民衆を教え導くことを手伝い、またある時はもとの神になって、国土満遍なく民衆にご利益を与えられました。まさしくこれは仏が菩薩になったり、菩薩が仏になることなのでしょう。

この時、仏道修行を妨げている、第六天の魔王波旬が集まって、この国に仏教が広まると、我ら修行の邪魔をする力が弱まるからと、仏や菩薩が人々に説法や教化をして、ご利益を与えることを妨害することにしました。その時天照大神は、彼ら魔王の妨害を止めさせるため、

今後三宝(仏と教えである法、そしてその教えを奉じる僧の三つの宝)には近づかないと約束されました。この約束に第六天の魔王は怒りを鎮め、五体より血を流し、「今後未来永劫、天照大神の子孫であることを望む人を、この国の主人としましょう。

もし王の命令に背く者が現われ、国を騒乱に導いたり、民衆を苦しめることがあれば、十万八千の仏や菩薩に従う者が、朝に夕に駆けつけ懲らしめて、その命を奪いましょう」と固く約束し、書状に書いて天照大神に渡されました。今、神璽について言われている異説とはこのことです。

確かに内宮、外宮の建築様式は、他の社殿とは異なって、錦織りの垂れ布には、本来の仏や菩薩を表すような鏡を掛けることなく、念仏や読経の声もせず、僧侶や尼僧の参詣も許されません。それは、化俗結縁(世俗の人を仏法と縁を結ばせること)の便宜的な手段を潜めているからです。

だから天照大神を最初として、第九十六代の後醍醐天皇に至るまで、その間朝敵となって、その身を滅ぼした者を数えると、以下のようになります。先ず最初には、神日本磐余彦天皇(神武天皇の日本書紀和風諡号)の御代、天平四年(732年)、紀伊国、名草郡に二丈余りの蜘蛛がいました。

手足は非常に長く、その力も人より強かったのです。蜘蛛が張りめぐらした網は数里に及び、通行する人々を殺傷しました。しかし、天皇の命を受けた官軍が鉄製の網を張り、ドロドロに溶かした鉄の湯を、四方から流し込んで攻めたので、この蜘蛛はとうとう殺され、その体はただれきったのです。

また天智天皇(668-672年)の御代、藤原千方(ちかた)という者がいましたが、彼は金鬼、風鬼、水鬼、隠形鬼と言う、四人の鬼を従えていました。金鬼はその身体が堅固に出来ており、矢を射ても体には突き刺さりません。風鬼は強風を吹きつけ、敵の城を風で破壊します。

また水鬼は洪水を発生させ、敵を陸地にありながら溺れさせます。そして隠形鬼はその姿を隠して敵に近づき、突然敵を押しつぶします。このように不可思議な鬼を従えているため、通常の人間の知識、能力ではとても太刀打ち出来ず、このため伊賀、伊勢の両国は、朝廷の命令に従おうとしませんでした。

しかし、紀朝雄と言う者が帝より討伐の宣旨を受けてこの国に向かい、一首の歌を詠んで鬼の連中に送りつけました。
      草も木も 我大君の 国なれば いづくか鬼の 棲なるべき

四人の鬼はこの歌を見て、「ということならば、我らは悪逆無道の臣下に仕えて、善政を行い徳有る帝に対して抵抗していることになり、これでは天罰から逃れることが出来ない」とすぐに四方に逃げ去ってしまい、鬼を失った千方は抵抗するすべもなく、すぐに朝雄に討ち取られてしまいました。


是のみならず、朱雀院の御宇承平五年に、将門と云ける者東国に下て、相馬郡に都を立、百官を召仕て、自平親王と号す。官軍挙て是を討んとせしかども、其身皆鉄身にて、矢石にも傷られず剣戟にも痛ざりしかば、諸卿僉議有て、俄に鉄の四天を鋳奉て、比叡山に安置し、四天合行の法を行せらる、故天より白羽の矢一筋降て、将門が眉間に立ければ、遂に俵藤太秀郷に首を捕られてけり。其首獄門に懸て曝すに、三月迄色不変、眼をも不塞、常に牙を嚼て、「斬られし我五体何れの処にか有らん。此に来れ。頭続で今一軍せん。」と夜な/\呼りける間、聞人是を不恐云事なし。時に道過る人是を聞て、将門は米かみよりぞ斬られける俵藤太が謀にてと読たりければ、此頭から/\と笑ひけるが、眼忽に塞て、其尸遂に枯にけり。此外大石山丸・大山王子・大友真鳥・守屋大臣・蘇我入鹿・豊浦大臣・山田石川・左大臣長屋・右大臣豊成・伊予親王・氷上川継・橘逸勢・文屋宮田・江美押勝・井上皇后・早良太子・大友皇子・藤原仲成・天慶純友・康和義親・宇治悪左府・六条判官為義・悪右衛門督信頼・安陪貞任・宗任・清原武衡・平相国清盛・木曾冠者義仲・阿佐原八郎為頼・時政九代の後胤高時法師に至迄、朝敵と成て叡慮を悩し仁義を乱る者、皆身を刑戮の下に苦しめ、尸を獄門の前に曝さずと云事なし。去ば尊氏卿も、此春東八箇国の大勢を率して上洛し玉ひしかども、混朝敵たりしかば数箇度の合戦に打負て、九州を差て落たりしが、此度は其先非を悔て、一方の皇統を立申て、征罰を院宣に任られしかば、威勢の上に一の理出来て、大功乍に成んずらんと、人皆色代申れけり。去程に東寺已に院の御所と成しかば、四壁を城郭に構へて、上皇を警固し奉る由にて、将軍も左馬頭も、同く是に篭られける。是は敵山門より遥々と寄来らば、小路々々を遮て、縦横に合戦をせんずる便よかるべしとて、此寺を城郭にはせられけるなり。

これだけでなく、朱雀院の御代、承平五年(935年)に平将門と言う者が東国に下ると、相馬郡(茨城県)に都を立てて、百官をも召抱え自ら平親王と称しました。官軍は総力を注いで将門を征伐しようとしましたが、彼の身体は全て鉄で出来ており、矢も石に対しても傷つくことなく、

太刀を受けても負傷することありません。諸公卿らは会議を開いて、直ちに鉄製の四天王を鋳造し、比叡山に安置すると共に、鉄の四天王を本尊として、同じ壇で修法を行いました。このためか天から白羽の矢が一本下ってくると、将門の眉間に突き刺さり、とうとう俵藤太秀郷に首を刎ねられました。

その首を都の獄門に架けてさらしましたが、三ヶ月を経てもその色に変化無く、目も塞ぐことなくいつも牙のような歯を剥き出しにして、「私の斬られた五体は何処にあるのだ。ここに持って来い。頭とつないで今一度、戦をしよう」と、夜な夜な呼びかけましたから、聞く人は皆が皆、恐れおののきました。

ある時側を通った人(歌人の藤六左近)がこの声を聞き、
      将門は 米かみよりぞ 斬られける 俵藤太が 謀にて

と、詠まれました。その時この頭はカラカラと笑いましたが、眼はたちまちに塞ぎ、その頭はとうとう白骨化したのでした。この人達以外にも、大石山丸、大山王子、大友真鳥、守屋大臣、蘇我入鹿、豊浦大臣、山田石川、左大臣長屋、右大臣豊成、伊予親王、氷上川継、橘逸勢、

文屋宮田、江美押勝、井上皇后、早良太子、大友皇子、藤原仲成、天慶純友、康和義親、宇治悪左府、六条判官為義、悪右衛門督信頼、安陪貞任、宗任、清原武衡、平相国清盛、木曾冠者義仲、阿佐原八郎為頼、時政九代の後胤高時法師に至るまで、朝敵として時の帝のお心を悩ませ、

人として守るべき仁義をないがしろにした者は皆、我が身は刑罰の洗礼を受け、頭を獄門に架けられないことなどありませんでした。だから尊氏卿もこの春、東国八ヶ国の軍勢を率いて上洛したものの、朝敵に属していたため数回の会戦に敗退し、九州を目指して逃げ落ちました。

しかし、この度は前回の失敗を反省し、もう一方の皇統、持明院統を官軍としての裏付けに用い、新田義貞征伐の院宣をたてにしていますので、その圧倒的な軍勢の上に理論的な裏付けも出来たため、このたびの作戦は成功間違い無いだろうと考え、人々はお世辞を申し送って来ました。

さて、東寺がすでに院の御所と決まった以上、四方の壁を城郭風に建造し、上皇を警固することを理由に、尊氏将軍も左馬頭直義も、ここ東寺に篭られました。これは敵が比叡山より、はるばると攻め寄せてきた場合、都の小路小路を遮断して、思い通りの合戦を行うのに都合が良いだろうと考え、東寺を城郭に改造したのです。


○正成首送故郷事
湊川にて討れし楠判官が首をば、六条川原に懸られたり。去ぬる春もあらぬ首をかけたりしかば、是も又さこそ有らめと云者多かりけり。疑は人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が頚と、狂歌を札に書てぞ立たりける。其後尊氏卿楠が首を召れて、「朝家私日久相馴し旧好の程も不便也。迹の妻子共、今一度空しき貌をもさこそ見度思らめ。」とて、遺跡へ被送ける情の程こそ有難けれ。楠が後室・子息正行是を見て、判官今度兵庫へ立し時、様々申置し事共多かる上、今度の合戦に必ず討死すべしとて、正行を留置しかば、出しを限の別也とぞ兼てより思ひ儲たる事なれども、貌をみれば其ながら目塞り色変じて、替はてたる首をみるに、悲の心胸に満て、歎の泪せき敢ず。今年十一歳に成ける帯刀、父が頭の生たりし時にも似ぬ有様、母が歎のせん方もなげなる様を見て、流るゝ泪を袖に押へて持仏堂の方へ行けるを、母怪しく思て則妻戸の方より行て見れば、父が兵庫へ向ふとき形見に留めし菊水の刀を、右の手に抜持て、袴の腰を押さげて、自害をせんとぞし居たりける。母急走寄て、正行が小腕に取付て、泪を流して申けるは、「「栴檀は二葉より芳」といへり。汝をさなく共父が子ならば、是程の理に迷ふべしや。小心にも能々事の様を思ふてみよかし。故判官が兵庫へ向ひし時、汝を桜井の宿より返し留めし事は、全く迹を訪らはれん為に非ず、腹を切れとて残し置しにも非ず。我縦ひ運命尽て戦場に命を失ふ共、君何くにも御座有と承らば、死残りたらん一族若党共をも扶持し置き、今一度軍を起し、御敵を滅して、君を御代にも立進らせよと云置し処なり。其遺言具に聞て、我にも語し者が、何の程に忘れけるぞや。角ては父が名を失ひはて、君の御用に合進らせん事有べし共不覚。」と泣々勇め留て、抜たる刀を奪とれば、正行腹を不切得、礼盤の上より泣倒れ、母と共にぞ歎ける。其後よりは、正行、父の遺言、母の教訓心に染肝に銘じつゝ、或時は童部共を打倒し、頭を捕真似をして、「是は朝敵の頚を捕也。」と云、或時は竹馬に鞭を当て、「是は将軍を追懸奉る。」なんど云て、はかなき手ずさみに至るまでも、只此事をのみ業とせる、心の中こそ恐しけれ。

☆ 楠木正成の首を故郷に送ったこと

さて、湊川にて討たれた楠木判官の首が、六条河原に架けられました。この春(建武三年::1336年)にも違う首を架けたりしましたので、今回もどっちみち偽首ではないかと、言う者が多く居ました。

      疑は 人によりてぞ 残りける まさしげなるは 楠が頚

と、狂歌を札に書き付けて立ててありました。その後尊氏卿が楠木の頚を持って来させ、「彼とは朝廷においても、私的な関係においても、昔より親しく付き合っていた者なので、可哀そうなことである。後に残った妻や子らも、死に顔であっても、今一度見たく思っているだろう」と話して、

遺族のもとに送られたことも、有難い気遣いでした。楠木の妻、子息正行は送られてきた首級を見て、判官正成が今回兵庫に出発する時、色々と言い置いたことが多く、また今回の合戦では必ずや命を落とすことになろうと思って、正行を家に留めておいたことなどを考え合わせると、

出陣の日がこの世の別れだと、以前より覚悟はしていました。しかし届けられた首級は、目が塞がっている上変色し、変わり果てた顔を見れば、悲しみに胸は締め付けられ、嘆きに流れる涙は止まりません。今年十一歳になる帯刀正行は、父の生前とは余りにもかけ離れた姿に、

母が嘆き悲しみを抑えることの出来ない様子を見て、流れる涙を袖で抑え、持仏堂に向かって行きました。母はその様子を不審に思いすぐ妻戸(家の開き戸)を開いて中を見ると、父、正成が兵庫に向かう時、形見として残し置いた菊水の刀を抜いて右手に持ち、袴の腰板(袴の後ろ腰に入れた芯板)を押し下げ、

今まさに自害をしようとしていました。母は大急ぎで走りよると、正行の腕に取りすがり涙を流しながら、「『栴檀は二葉より芳し』と、言う。汝は幼いと言えども父の子であれば、この程度のことで何を血迷うているのだ。ことの経緯を良く冷静に考えて見ればよい。

亡き判官正成が兵庫に向かう時、汝を桜井の宿より帰らせて残したのは、何も後生を弔わすためでもなければ、腹を切れと残したわけでもない。父がたとえ運尽きて戦場に命を失うことになっても、帝がどこであろうと健在であることを知ったなら、生き残っている一族や若武者らを召抱えた上、

今一度、戦を起こして怨敵を滅亡に追いやり、再び帝を皇位にと、言い残したのではないか。その遺言を良く理解し、この母にも語ってくれた汝が、何故忘れてしまったのか。こんなことでは父の名誉も失い、また帝の御用が勤まるとも思えません」と、泣きながら諌めて、

抜いた刀を奪い取ったので、正行は腹を切ることが出来ず、礼盤(本尊の前の高座)の上に泣き崩れ、母と一緒になって嘆き泣き続けられたのです。このことがあってから、正行は父の遺言、母の教えを肝に銘じて、ある時は子供達を押し倒しては、首を取る真似をし、「ほら、朝敵の首を取ったぞ」と言ったり、

またある時は竹馬に鞭を当てて、「これは尊氏将軍を追いかけているところだ」などと言って、取り留めの無い遊びや所作にまで、ただこのことだけを組み込んでしまった心の動きほど、恐ろしいことはありません。      (終り)

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