17 太平記 巻第十七 (その一)


○山攻事付日吉神託事
主上二度山門へ臨幸なりしかば、三千の衆徒去ぬる春の勝軍に習て、弐ろなく君を擁護し奉り、北国・奥州の勢を待由聞へければ、将軍・左馬頭・高・上杉の人々、東寺に会合して合戦の評定あり。事延引して義貞に勢付なば叶まじ。勢未だ微なるに乗て山門を可攻とて、六月二日四方の手分を定て、追手・搦手五十万騎の勢を、山門へ差向らる。追手には、吉良・石堂・渋河・畠山を大将として、其勢五万余騎、大津・松本の東西の宿・園城寺の焼跡・志賀・唐崎・如意が岳まで充満したり。搦手には、仁木・細河・今川・荒河を大将として、四国・中国の勢八万余騎、今道越に三石の麓を経て、無動寺へ寄んと志す。西坂本へは、高豊前守師重・高土佐守・高伊予守・南部遠江守・岩松・桃井等を大将として三十万騎、八瀬・薮里・しづ原・松崎・赤山・下松・修学院・北白川まで支て、音無の滝・不動堂・白鳥よりぞ寄たりける。山門には、敵是まで可寄とは思も寄ざりけるにや、道々をも警固せず、関・逆木の構もせざりければ、さしも嶮しき道なれ共、岩石に馴たる馬共なれば、上らぬ所も無りけり。其時しも新田左兵衛督を始として、千葉・宇都宮・土肥・得能に至るまで東坂本に集居て、山上には行歩も叶はぬ宿老、稽古の窓を閉たる修学者の外は、兵一人も無りけり。此時若西坂より寄る大勢共、暫も滞りなく、四明の巓まで打挙りたらましかば、山上も坂本も、防に便り無して、一時に落べかりしを、猶も山王大師の御加護や有けん、俄に朝霧深立隠して、咫尺の内をも見ぬ程なりければ、前陣に作る御方の時の音を、敵の防ぐ矢叫の声ぞと聞誤て、後陣の大勢つゞかねば、そゞろに時をぞ移しける。懸る処に、大宮へをり下て三塔会合しける大衆上下帰山して、将門の童堂の辺に相支て、こゝを前途と防ける間、面に進みける寄手三百人被討、前陣敢て懸らねば、後陣は弥不得進、只水飲の木陰に陣をとり、堀切を堺て、掻楯を掻、互に遠矢を射違て、其日は徒に暮にけり。

☆ 山門を攻撃したことと日吉神社に神託があったこと

後醍醐天皇は再び山門に臨幸されましたが、三千の衆徒らはこの春の勝ち戦を前例に、二心無く帝を保護することに決め、北国や奥州の軍勢の到着を待つことにしました。この情報を手にした尊氏将軍、左馬頭直義や高、上杉らの人たちは東寺に集合し、

今後の合戦について作戦会議を開きました。ここで対応に遅れを取って、義貞に新手が到着すれば事は面倒になります。新手の到着する前に、圧倒的な軍勢で山門を攻撃すべしと、六月二日に四方くまなく手分けをして、追手、搦手勢として五十万騎を山門に向かわせました。

追手には吉良、石堂、渋川、畠山を大将にした総勢五万余騎が、大津、松本の東西の宿や園城寺の焼け跡から志賀、唐崎、如意が岳まで満ち溢れました。また搦手としては、仁木、細川、今川、荒川を大将として、四国や中国の軍勢、八万余騎が今道越(志賀越また山中越のこと)経由で、

三石の麓を通って無動寺に寄せて行こうとしました。西坂本へは高豊前守師重、高土佐守、高伊予守、南部遠江守、岩松、桃井らを大将にして三十万騎が、八瀬、薮里、しづ原、松崎、赤山、下松、修学院、北白川まで展開し、音無の滝、不動堂、白鳥よりの攻撃を目指しました。

山門では敵がまさかこれほどに寄せてくるとは考えていなかったので、途中の道路なども警固せず、防禦木戸の設置や逆茂木の構えも出来ていないので、あれほど険しい山道であっても、岩山に慣れた東国の馬たちは苦も無く登って行きました。

丁度その時、新田左兵衛督をはじめとして、千葉、宇都宮、土肥、得能に至るまで東坂本に集合していたため、比叡の山上には歩行も困難な老僧や、学問を探求する修行僧以外、兵士といえる者は一人も居ませんでした。この時、もし西坂から寄せていた大軍が、

瞬時の停滞もすることなく四明岳の頂上まで行き着いていたなら、山上も坂本も防御することは出来ず、いっぺんに陥落すること必死だったのですが、まだまだ山王大師(日吉山王権現)のご加護があったのか、突然朝霧が濃くたちこめて目の前が見えなくなり、

先鋒を行く味方の挙げた閧の声を、敵の挙げた矢叫びの声(遠矢を射る時に挙げる声)と聞き違え、後陣を行く兵士らが進軍に躊躇し、無駄な時間が過ぎました。そうこうしている内に、大宮に下山して会合を行っていた三塔(比叡山の東塔、西塔、横川)の大衆全員が帰山してきたので、

将門の童堂(大津市坂本本町)付近で攻撃を支え、ここを死処にせんと必死になって戦ったので、前を進んでいた寄せ手三百人が討ち取られ、先鋒を行く軍勢が攻撃をひるみ、後ろに続く軍勢は進むことも出来ず、仕方なく水飲の木陰に陣を構えて、

水路を挟んで楯を立て並べ、両軍お互いに遠矢を射るばかりで、その日はなすことなく暮れたのでした。


西坂に軍始りぬと覚へて、時声山に響て聞へければ、志賀・唐崎の寄手十万余騎、東坂本の西穴生の前へ押寄て、時声をぞ揚たりける。爰にて敵の陣を見渡せば、無動寺の麓より、湖の波打際まで、から堀を二丈余に堀通して処々に橋を懸け、岸の上に屏を塗、関・逆木を密しくして、渡櫓・高櫓三百余箇所掻双べたり。屏の上より見越せば、是こそ大将の陣と覚へて中黒の旗三十余流山下風に吹れて、竜蛇の如くに翻りたる其下に、陣屋を双て油幕を引、爽に鎧たる兵二三万騎、馬を後に引立させて、一勢々々並居たり。無動寺の麓、白鳥の方を向上たりければ、千葉・宇都宮・土肥・得能・四国・中国の兵こゝを堅めたりと覚へて、左巴・右巴・月に星・片引両・傍折敷に三文字書たる旗共六十余流木々の梢に翻て、片々たる其陰に、甲の緒を縮たる兵三万余騎、敵近付かば横合にかさより落さんと、轡を双て磬たり。又湖上の方を直下たれば、西国・北国・東海道の、船軍に馴たる兵共と覚て、亀甲・下濃・瓜の紋・連銭・三星・四目結・赤幡・水色・三■、家々の紋画たる旗、三百余流、塩ならぬ海に影見へて、漕双べたる舷に、射手と覚へたる兵数万人、掻楯の陰に弓杖を突て横矢を射んと構へたり。寄手誠に大勢なりといへども、敵の勢に機を被呑て、矢懸りまでも進み得ず、大津・唐崎・志賀の里三百余箇所に陣を取て、遠攻にこそしたりけれ。

西坂周辺で戦闘が始まったらしく、閧の声が山々に響き渡ってきたので、志賀、唐崎に展開していた寄せ手十万余騎は、東坂本の西穴太の前まで押し寄せ、閧の声を挙げました。ここで敵の陣形を見てみると、無動寺の麓から琵琶湖の波打ち際まで、空堀を二丈余り掘り切って、

所々に橋を架け堀の岸には塀を造り、防禦木戸や逆茂木の設置を密にして、渡り櫓や高櫓などを三百余ヶ所を建て並べています。塀の向こうを見てみれば、ここが大将の陣営らしく中黒の旗が三十余旒、山からの風に吹かれて、龍か蛇のように翻っています。

その旗の下に陣屋を建て並べ、油を塗った陣幕を引き、きりりと隙も無く鎧を身に着けた兵士ら、二、三万騎が馬を後に控えさせて、部隊ごとに居並んでいます。無動寺の麓、白鳥の方向を見上げると、千葉、宇都宮、土肥、得能、四国また中国の兵士らがここを防衛しているらしく、

左巴、右巴、月に星、片引両、傍折敷に三文字を書いた旗など、六十余流が木々の梢に翻っているその陰に、兜の緒を締めた兵士三万余騎が、敵が近づいて来ようものなら、横合いから一挙に殲滅せんと、馬を並べて控えています。

また湖上の方向を見れば、西国や北国また東海道より参陣の舟戦に習熟した兵士らしく、亀甲、下濃、瓜の紋、連銭、三星、四目結、赤幡、水色、三?など各家々の紋を描いた旗が三百余旒、淡水の海にその影を見せ、並んだ各舟の舷側には射手と思える兵士が数万人、

楯の陰で弓を杖にして横矢を射ようと待ち構えています。確かに寄せ手は大軍ですが、敵の防御陣形に気勢をそがれ、射程距離まで進むことが出来ず、大津、唐崎また志賀の里など三百余ヶ所に陣を構え、ただ遠矢を射込むだけです。


六月六日、追手の大将の中より西坂の寄手の中へ使者を立て、「此方の敵陣を伺見候へば、新田・宇都宮・千葉・河野を始として、宗との武士共、大畧皆東坂本を堅たりとみへて候。西坂をば嶮きを憑て、公家の人々、さては山法師共を差向て候なる。一軍手痛く攻て御覧候へ。はか/\しき合戦はよも候はじ、思図に大岳の敵を追落されて候はゞ、大講堂・文殊楼の辺に引へて、火を被挙候へ。同時に攻合せて、東坂本の敵を一人も余さず、湖水に追はめて亡し候べし。」とぞ牒せられける。西坂の大将高豊前守是を聞て、諸軍勢に向て法を出しけるは、「山門を攻落すべき諸方の相図明日にあり。此合戦に一足も退たらん者は、縦先々抜群の忠ありと云とも、無に処して本領を没収し、其身を可追出。一太刀も敵に打違へて、陣を破り、分捕をもしたらんずる者をば、凡下ならば侍になし、御家人ならば、直に恩賞を可申与。さればとて独高名せんとて抜懸すべからず。又傍輩の忠を猜で危き処を見放つべからず。互に力を合せ、共に志を一にして、斬共射共不用、乗越々々進べし。敵引退かば、立帰さぬさきに攻立て、山上に攻上り、堂舎・仏閣に火を懸て、一宇も不残焼払ひ、三千の衆徒の頚を一々に、大講堂の庭に斬懸て、将軍の御感に預り給へかし。」と、諸人を励まして下知しける、悪逆の程こそ浅猿けれ。諸国の軍勢等此命を聞て、勇み前まぬ者なし。夜已に明ければ、三石・松尾・水飲より、三手に分れて二十万騎、太刀・長刀の鋒を双べ、射向の袖を差かざして、ゑい/\声を出してぞ揚たりける。

六月六日、追手の大将の中から、西坂の寄せ手に使者を派遣し、「目の前の敵陣を偵察したところ、新田、宇都宮、千葉や河野をはじめに主だった武士達が、東坂本全体を固めているように思えます。また西坂方面は地形の険しいことを頼りに、公家の人々や山法師を向かわせています。

ここは一つ厳しく攻撃を仕掛けてください。激しい応戦などまず無いでしょうから、思い通りに比叡山山頂の敵を追い落とすことが出来たなら、大講堂や文殊楼の周辺に行き、火を掛けてくだい。その時同時に当方も攻め込み、東坂本にいる敵どもを一人残さず、

琵琶湖畔に追い込み滅ぼしてしまいましょう」と、作戦を立てました。西坂の大将、高豊前守師重はこの作戦を聞くと、諸軍勢に向かって約束事と共に、「諸軍勢一致団結して山門を攻略し、陥落を目指す作戦がはっきりした。この合戦に一歩でもひるむ者は、その後たとえ抜群の勲功があっても、

それは認めることなく本領を没収し追放処分にする。一太刀でも敵に討ちかかり敵陣を破って、敵の武器など分捕った者には、侍以下の者は侍として召抱え、御家人であれば即刻恩賞を与えよう。とは言っても自分一人が功名を狙って、抜け駆けはするな。

また同僚の勲功を嫉んで、危地に陥っているのを見捨ててはならない。お互い協力し合い、共に心を一つにして、斬られようとも、射られようとも顧みることなく、屍を乗り越え乗り越え攻め込むのだ。敵が退却を始めたなら、戻る間を与えず山上まで攻め込み、

堂舎(寺社の建造物)や仏閣に火を掛けて一つも残さず焼き払い、三千の衆徒らの首を切り、大講堂の庭に一つ一つ架け並べて、尊氏将軍よりお褒めの言葉を頂こうではないか」と、諸士卒を奮励し命令するとは、余りにも人の道に外れた悪行で、情けない話です。

この軍令を聞いた諸国の軍勢らは、勇み立たない者などいませんでした。夜もすでに明けたので、三石、松尾、水飲より三手に別れて、二十万騎の軍勢が太刀、長刀の刃先を並べて射向けの袖(鎧の左側の袖)をかざし、エイエイと声を出して登って行きました。


先一番に中書王の副将軍に被憑たりける千種宰相中将忠顕卿・坊門少将正忠、三百余騎にて被防けるが、松尾より攻上る敵に後を被裹て一人も不残討れてけり。是を見て後陣に支へて防ぎける護正院・禅智坊・道場坊以下の衆徒七千余人、一太刀打ては引上暫支ては引退、次第々々に引ける間、寄手弥勝に乗て、追立々々一息をも継せず、さしも嶮き雲母坂・蛇池を弓手に見成て、大岳までぞ攻あがりける。去程に院々に早鐘撞て、西坂已に被攻破ぬと、本院の谷々に騒ぎ喚りければ、行歩も叶はぬ老僧は鳩の杖に携て、中堂・常行堂なんどへ参て、本尊と共に焼死なんと悲み、稽古鑽仰をのみ事とする修学者などは、経論聖教を腹に当て、落行悪僧の太刀・長刀を奪取て、四郎谷の南、箸塚の上に走挙り、命を捨て闘ける。爰に数万人の中より只一人備後国住人、江田源八泰氏と名乗て、洗革の大鎧に五枚甲の緒を縮、四尺余の太刀所々さびたるに血を付て、ましくらにぞ上たりける。是を見て、杉本の山神大夫定範と云ける悪僧、黒糸の鎧に竜頭の甲の緒をしめ、大立挙の髄当に、三尺八寸の長刀茎短に取て乱足を蹈み、人交もせず只二人、火を散してぞ斬合ける。源八遥の坂を上て、数箇度の戦に腕緩く機疲れけるにや、動ればうけ太刀に成けるを、定範得たり賢しと、長刀の柄を取延源八が甲の鉢を破よ砕よと、重打にぞ打たりける。源八甲の吹返を目の上へ切さげられて、著直さんと推仰きける処を、定範長刀をからりと打棄て、走懸てむずと組。二人が蹈ける力足に、山の片岸崩て足もたまらざりければ、二人引組ながら、数千丈高き小篠原を、上になり下になり覆けるが、中程より別々に成て両方の谷の底へぞ落たりける。此外十四の禅侶、法花堂の衆に至るまで、忍辱の衣の袖を結て肩にかけ、降魔の利剣を提て、向ふ敵に走懸々々、命を風塵よりも軽して防ぎ戦ける程に、寄手の大勢進兼て、四明の巓・西谷口、今三町許に向上て一気休てぞゆらへける。爰に何者か為たりけん、大講堂の鐘を鳴して、事の急を告たりける間、篠の峯を堅めんとて、昨日横川へ被向たりける宇都宮五百余騎、鞭に鐙を合て西谷口へ馳来る。皇居を守護して東坂本に被坐ける新田左中将義貞、六千余騎を率して四明の上へ馳上て、紀清両党を虎韜にすゝませ、江田・大館を魚鱗に連ねて真倒に懸立られけるに、寄手二十万騎の兵共、水飲の南北の谷へ被懸落て、馬人上が上に落重りしかば、さしも深き谷二つ死人に埋て平地になる。寄手此日の合戦に討負て、相図の支度相違しければ、水飲より下に陣を取て、敵の隙を伺ふ。義貞は東坂本を閣て、大岳を陣に取り、昼夜旦暮に闘て、互に陣を不被破、西坂の合戦此侭にて休ぬ。

まず最初に副将軍、中書王尊良親王に信頼の厚い千種宰相中将忠顕卿と、坊門少将正忠が三百余騎で防戦に努めましたが、松尾より攻め上ってきた敵に後方を遮断され、一人残らず討ち取られました。これを見て後方の防禦に努めていた護正院、禅智坊、道場坊以下の衆徒ら七千余人は、

一太刀ばかり戦っては引き上げ、しばらく留まってはまた引き上げ、次第次第に追い上げられて行きました。寄せ手は勝ちに乗じて、ますます追い込み追い上げ、敵に休む間もなく攻め上げたので、あれほど険しい雲母坂、蛇池を左に見て、比叡山の山頂まで攻め上ったのです。

その頃山門では各院が早鐘を撞き鳴らして、西坂がすでに攻め込まれて破れてしまったと大騒ぎになり、延暦寺本院の谷々では、騒ぎ喚き立てていますので、歩行も不自由な老僧は鳩の杖(握り部分に鳩の飾りのある老人用の杖)を持ち、根本中堂や常行堂などに参って、

本尊と一緒に焼け死のうかと思い悲しみ、また学問や、過去の偉人などの徳を学ぶことだけが全ての修行僧らは、釈迦や孔子の教えを納めた経論や聖教を腹に当てて、逃げ落ちて行く荒法師の太刀や長刀を奪い取り、四郎谷の南側、箸塚の上に走り上がって、命も惜しまず闘いました。

この時数万とも思える寄せ手の中より、ただ一人備後国の豪族、江田源八泰氏と名乗って、洗革(柔らかいなめし革)の大鎧に五枚兜(五枚の鉄板で出来た兜)の緒を締め、四尺余りの太刀には所々には古い血を付けて、まっしぐらに登ってきました。

これを見た杉本の山神大夫定範と言う悪僧が、黒糸縅の鎧に竜頭の兜の緒を締めて、鉄製の大きな脛あてを着け、三尺八寸の長刀を短く持ち、足を激しく踏みしめながらやってくると、他の者を交えることなくただ二人で、火を散らして激しく斬り合いをしました。

源八は長い坂を登って来た上、数回の戦闘に腕もなまり切っているので、何かと防戦一方になるので、定範はこの機を逃さず長刀の柄を長く持ち直し、源八の兜の鉢も砕けよとばかり、打ち続けました。源八は兜の吹き返しを目の上まで切り下ろされて、兜を着け直そうと上を向いた時、

定範が長刀をからりと投げ捨て、走り寄って来るやムンズと組みかかりました。二人の体重を受けた足に踏みつけられた山の崖が崩れ、とても支えきることが出来ず、二人は組み合ったまま数千丈ほどを、小篠原に向かって上になったり、下になったりしながら転がり落ちていきましたが、

途中から二人は別々になって両側の谷底に落ちて行きました。このほか十四人の禅侶(禅僧や修行僧)や、法華堂で修行に努めている僧侶に至るまで、仏道修行の象徴でもある袈裟の袖を結んで肩に掛け、不動明王が手にしている降魔の利剣を持ち、向かってくる敵に、

我が命を惜しむことなく懸かって防戦に努めました。これにはさすが大軍の寄せ手も進むことが出来ず、四明岳の頂上や西谷口まであと三町まで上った所で休憩しました。その時何者の仕業か、大講堂の鐘を鳴らして、緊急事態発生を知らせたので篠の峰を防禦しようと、

昨日横川方面に向かっていた宇都宮の軍勢ら、五百余騎が大急ぎで馬を飛ばして、西谷口に駆けつけてきました。また後醍醐天皇の居られる皇居の護衛のため、東坂本に駐留している新田左中将義貞は、六千余騎を率い四明岳に駆け上ってくると、

紀清両党を六韜に説かれている用兵通りに進ませ、江田と大館を魚鱗の陣形を取らせて、まっさかさまに攻め込んだので、寄せ手の二十万騎の兵士らは水飲の南側と北側の谷に転がり落ち、馬や人の上に、また人や馬が落ちてくる有様で、あれほど深い谷だと思われていましたが、

両の谷は死人で埋め尽くされ、平地になる始末です。結局、寄せ手はこの日の闘いに敗北を喫し、作戦の進め方に一致を図るため、水飲より麓側に陣を構えて、敵の隙を待ち受けていました。また官軍側の義貞は東坂本はそのままにして、比叡山の山頂に陣を構え、

昼夜構わず朝から晩まで戦闘したものの、お互い敵陣を攻略することが出来ず、西坂における合戦は、このままこう着状態に入り休戦となりました。


其翌日高豊前守大津へ使を立て、「宗との敵共は、皆大岳へ向たりと見へて候。急追手の合戦を被始て東坂本を攻破り、神社・仏閣・僧坊・民屋に至るまで、一宇も不残焼払て、敵を山上に追上、東西両塔の間に打上て、煙を被挙候はゞ、大岳の敵ども前後に心を迷はして、進退定て度を失つと覚へ候。其時此方より同攻上戦の雌雄を一時に可決。」とぞ牒せられける。吉良・石堂・仁木・細川の人々是を聞て、「昨日は已に追手の勧に依て高家の一族共手の定の合戦を致しつ。今日は又搦手より此陣の合戦を被勧事誠に理に当れり、非可黙止。」とて、十八万騎を三手に分て、田中・浜道・山傍より、態夕日に敵を向て、東坂本へぞ寄たりける。城中の大将には、義貞の舎弟脇屋右衛門佐義助を被置たりければ、東国・西国の強弓・手足を汰へて、土矢間・櫓の上にをき、土肥・得能・仁科・春日部・伯耆守以下の四国・北国の懸武者共二万余騎、白鳥が岳に磬へさせ、船軍に馴たる国々の兵に、和仁・堅田の地下人共を差添て五千余人、兵船七百余艘に掻楯を掻て、湖水の澳に被浮たり。敵陣の構密くして、人の近付べき様なしといへども、軍をせでは敵の落べき様やあるとて、三方の寄手八十万騎相近付て時を作りければ、城中の勢六万余騎、矢間の板を鳴し、舷を敲て時声を合す。大地も為之裂、大山も此時に崩やすらんとをびたゝし。寄手已に堀の前までかづき寄せ、埋草を以て堀をうめ、焼草を積で櫓を落さんとしける時、三百余箇所の櫓・土さま・出屏の内より、雨の降如射出しける矢、更に浮矢一つも無りければ、楯のはづれ旗下に射臥られて、死生の堺を不知者三千人に余れり。寄手余に射殺されける間、持楯の陰に隠んと、少色めきける処を、城中より見澄して、脇屋・堀口・江田・大館の人々六千余騎、三の関を開せて、驀直に敵の中へ懸入る。土肥・得能・仁科・伯耆が勢二千余騎、白鳥より懸下て横合にあふ。湖水に浮べる国々の兵共、唐崎の一松の辺へ漕寄て、さし矢・遠矢・すぢかひ矢に、矢種を不惜射たりける。寄手大勢なりといへ共、山と海と横矢に射白され、田中・白鳥の官軍に被懸立、叶はじとや思けん、又本陣へ引返す。

翌日高豊前守師重は大津に使者を派遣して、「主だった敵軍は皆大嶽に向かったようです。急いで追手方面の合戦を始め、東坂本を攻略して、神社、仏閣、僧坊から民家まで一つ残さず焼き払い、敵を山上に追い上げてから、東西両塔の中間付近を攻め上り、

火を掛けて煙攻めにすれば、山上の敵どもはうろたえて、まともな動きなど取れないでしょう。そこを狙って我らが攻め込んで行き、今回の合戦の決着を一時に付けようではありませんか」と、作戦を持ちかけました。吉良、石堂、仁木や細川の人々はこの作戦を聞くと、

「昨日は追手軍の勧めに従って、高家の一族が作戦通りに戦闘をされた。そこで今日は搦手より、我が軍に合戦を勧められるのも誠に理にかなっている。無視することは出来ない」と言って、十八万騎の軍勢を三手に分け、田中、浜道や、また山ぎわを通り、

敵をわざと夕日に向かわせるようにして、東坂本に寄せて行きました。官軍側では東坂本の城中に、大将として義貞の舎弟、脇屋右衛門佐義助を配置していました。そこで東国、西国の兵の中で、強弓をひく者を選りすぐって、矢狭間や櫓の上に控えさせ、

土肥、得能や仁科、春日部そして伯耆守以下、四国、北国の勇猛な精兵ら二万余騎を白鳥が岳に配置し、また舟合戦に手馴れた国々の兵士に、和仁、堅田の土着民を武装させ、総勢五千余人で兵船七百余艘に楯を設置して、琵琶湖沖合いを遊弋させました。

このように敵の防禦陣形には隙が無く、人の近づくことも難しいとは言えども、戦闘もしないで敵を攻略することも出来ないので、三方からの寄せ手軍、八十万騎は互いに集まりだして閧の声を挙げました。それに応えるように城中の軍勢、六万余騎は矢狭間の板を鳴らしたり、

湖上では船べりを叩いて閧の声を挙げました。この声によって大地は裂け、大山も崩れるかと思えるほど激しいものでした。寄せ手は早くも堀の前まで忍び寄り、草で堀を埋めようとしたり、積み上げた草を燃やして櫓を落とそうとしている時、三百余ヶ所の櫓や矢狭間また出張った塀の内側から、

まるで雨の降るが如く矢が射込まれて来る上、無駄矢の一筋とて無いので楯から身を出したり、旗の下で射られたりして、生死の境をさまよう者三千人を超えました。寄せ手は余りにも多くの者が射殺されるため、手にした楯の陰に身を隠そうと慌てているところに、

見透かしたように城中より、脇屋、堀口、江田そして大館の軍勢ら六千余騎が、三ヶ所の関を開かせると一目散に敵陣の中に突入してきました。また土肥、得能や仁科、また伯耆の軍勢、二千余騎が白鳥より駆け下って、側面より攻撃をしました。

湖上にある諸国の軍勢らは、唐崎の一松周辺に舟を漕ぎ寄せ、さし矢、遠矢、すじかい矢と、あらゆる方法で矢を惜しまず射込みました。寄せ手は如何に大軍であると言っても、山と海また横矢に思うように射られて、挙句に田中、白鳥の官軍に追い落とされては手の打ちようもなく、再び本陣に引き返したのでした。


其後よりは日夜朝暮に兵を出し、矢軍許をばしけれ共、寄手は遠攻に為たる許を態にし、官軍は城を不被落を勝にして、はか/゛\しき軍は無りけり。同十六日熊野の八庄司共、五百余騎にて上洛したりけるが、荒手なれば一軍せんとて、軈て西坂へぞ向ひたりける。黒糸の鎧甲に、指のさきまで鎖りたる篭手・髄当・半頬・膝鎧、無透処一様に裹つれたる事がら、誠に尋常の兵共の出立たる体には事替て、物の用に立ぬと見へければ、高豊前守悦思事不斜、軈て対面して、合戦の意見を訪ければ、湯河庄司殊更進出て申けるは、「紀伊国そだちの者共は、少きより悪処岩石に馴て、鷹をつかひ、狩を仕る者にて候間、馬の通はぬ程の嶮岨をも、平地の如に存ずるにて候。ましてや申さん、此山なんどを見て、難所なりと思事は、露許も候まじ。威毛こそ能も候はね共、我等が手づから撓拵て候物具をば、何なる筑紫の八郎殿も、左右なく裏かゝする程の事はよも候はじ。将軍の御大事此時にて候へば、我等武士の矢面に立て、敵矢を射ば物具に請留め、斬らば其太刀・長刀に取付、敵の中へわり入程ならば、何なる新田殿共のたまへ、やわか怺へ候や。」と傍若無人に申せば、聞人見人何れも偏執の思を成にけり。「さらば軈て是をさき武者として攻よ。」とて、六月十七日の辰刻に、二十万騎の大勢、熊野の八庄司が五百余人を先に立て、松尾坂の尾崎よりかづきつれてぞ上たりける。

その後は毎日のように兵士を向かわせては、終日矢戦ばかりをしていましたが、寄せ手側では遠方からの攻撃を作戦と考え、官軍側では城さえ落とされなければ勝ちと思い、これと言った合戦は行われませんでした。

同じく十六日に熊野八庄司(紀伊熊野の八つの庄の庄司:土豪化していた)らが五百余騎を率いて上洛してきましたが、新手としては一戦を行おうと考え、すぐに西坂に向かいました。黒糸縅の鎧に兜を身に着け、指の先まで鉄の鎖で保護された篭手、脛当、半頬(頬と顎を保護するもの)

膝鎧(大腿部を保護するもの)などを装備し、およそ隙も無く武装している姿は、確かに普通の兵士らとは異なり、非常に心強く思われたので、高豊前守師重は大変お喜びになりすぐに面会を求め、合戦についての意見を質しました。

それに応えて湯河庄司は一歩身を乗り出して、「紀伊国育ちの我々は、幼少の時よりガレ場や岩場を庭のように慣れ親しみ、鷹を用いて猟を行う者であれば、普通の人間なら馬の通行は不可能と思われる険しい所であっても、平地のように思っている。だから言ってみれば、

この程度の山を見て、難所だと思うことなど絶対にあり得ません。鎧の縅に使っている革や糸は、見た目こそ大したことはありませんが、我らが自ら膠に革を浸して作り上げた甲冑であれば、たとえ筑紫の源八郎為朝殿であっても、そう簡単に射通すことなど出来ないでしょう。

今、尊氏将軍の御大事に当たって、我らが武士の矢面に立ち塞がり、敵が矢を射込んでくれば、我らの甲冑で受け止め、敵が切りつけて来れば、その太刀、長刀を取り上げて敵の中に割って入れば、いかに新田殿の軍勢と言っても、とても支えることなど出来ないでしょう」と、

無遠慮に言いたい放題なので、聞く人、見る人皆が皆、妬ましく良い気はしませんでした。「では、早速熊野の軍勢を先鋒にして攻撃を仕掛けよう」と決まり、六月十七日の辰刻(午前八時頃)に二十万騎の大軍勢は、熊野の八庄司が率いる五百余人を先陣にして、松尾坂の唐崎より身を隠すようにして上って行きました。


官軍の方に綿貫五郎左衛門・池田五郎・本間孫四郎・相馬四郎左衛門とて、十万騎が中より勝出されたる強弓の手垂あり。池田と綿貫とは、時節東坂本へ遣はされて不居合ば、本間と相馬と二人、義貞の御前に候けるが、熊野人共の真黒に裹つれて攻上けるを、遥に直下し、から/\と打笑ひ、「今日の軍に御方の兵に太刀をも抜せ候まじ。矢一をも射させ候まじ。我等二人罷向て、一矢仕て奴原に肝つぶさせ候はん。」と申、最閑に座席をぞ立たりける。猶も弓を強引ん為に、著たる鎧を脱置て、脇立許に大童になり、白木の弓のほこ短には見へけれ共、尋常の弓に立双べたりければ、今二尺余ほこ長にて、曲高なるを大木共に押撓、ゆら/\と押張、白鳥の羽にてはぎたる矢の、十五束三臥有けるを、百矢の中より只二筋抜て弓に取副、訛歌うたふて、閑々と向の尾へ渡れば、跡に立たる相馬、銀のつく打たる弓の普通の弓四五人張合たる程なるを、左の肩に打かたげて、金磁頭二つ箆撓に取添て、道々撓直爪よりて一村茂る松陰に、人交もなく只二人、弓杖突てぞ立たりける。爰に是ぞ聞へたる八庄司が内の大力よと覚へて、長八尺許なる男の、一荒々たるが、鎖の上に黒皮の鎧を著、五枚甲の緒を縮、半頬の面に朱をさして、九尺に見る樫木の棒を左の手に拳り、猪の目透したる鉞の歯の亘一尺許あるを、右の肩に振かたげて、少もためらふ気色なく、小跳して登る形勢は、摩醯脩羅王・夜叉・羅刹の怒れる姿に不異。あはひ二町許近付て、本間小松の陰より立顕れ、件の弓に十五束三臥、忘るゝ許引しぼり、ひやうと射渡す。志す処の矢坪を些も不違、鎧の弦走より総角付の板まで、裡面五重を懸ず射徹して、矢さき三寸許ちしほに染て出たりければ、鬼歟神と見へつる熊野人、持ける鉞を打捨て、小篠の上にどうど臥す。

その時官軍側に綿貫五郎左衛門、池田五郎、本間孫四郎また相馬四郎左衛門と言う、十万騎の中でも強弓を手にする傑出した猛者がいました。その時池田と綿貫は東坂本に派遣されて居合わせなかったのですが、本間と相馬の二人が義貞の御前に控えていました。

彼らは熊野の軍勢らが、真っ黒になって攻め上ってくるのを遥か真下に見て、カラカラと笑い捨て、「今日の合戦において、我等は味方の兵士らに太刀など抜かせません。また矢の一筋さえ射させることもさせません。ここは我ら二人が向かって行き、矢の一本でも見舞ってやり、

彼奴らの度肝を抜いてやりましょう」と申し上げると、落ち着き払ってその席を立ち去りました。その上、より強い弓を引くため、身に着けていた鎧も脱ぎ捨て、 興奮気味に髪を大童にすると、少し短かそうに見える白木の弓ですが、実際に普通の弓と並べて比較してみれば二尺はゆうに長く、

そりの大きい弓材を大木を利用して撓ませ、ゆっくりと弦を張りました。そして白鳥の羽を付けた、十五束三伏(矢の長さ)の矢を百本もある矢の中から、ただ二筋だけを取り出して弓に番え、民謡の一節でも歌いながら、静かに向かいの尾根に歩いて行きました。

後に残された相馬四郎左衛門は銀の飾りが付き、普通の弓の四、五人張りほどもある弓を左の肩に掛け、鏑矢の似た金属製の鏃の付いた矢のそりを道々直しながら近づき、とある松の群落の陰に、二人だけで弓を杖にして立ち止まったのです。

そこへ、これもまた八庄司の中でも名を知られた大力の持ち主である、身長八尺もあろうかと言う荒くれた男が、鎖帷子の上に黒革縅の鎧を着け、五枚兜の緒を締め、半頬(頬と顎を保護するもの)の表面には朱色を塗って、九尺にも見える樫の木の棒を左の手に持ち、

また猪の目(猪の目のようなハート型)透かしの模様が付いた刃渡り一尺もあろうかと言うマサカリを右の肩に担いで、躊躇することなくヒョイヒョイと登ってくる様子は、摩醯脩羅王、夜叉、羅刹(古代インドでは悪鬼、仏教では善神)などが、怒り狂っている姿と何ら変わりません。

やがて間合い二町ばかりに近づいてきた時、本間は松の木陰から姿を見せ、先ほどの弓に十五束三伏の矢を番え、これでもかと引き絞りヒョウッと放ちました。思った狙いを少しも外すことなく、大鎧の弦走(正面の部分)から総角(鎧の背後の紐)についている板まで、

表から裏まで射抜き、矢の先三寸ばかりが血に染まって出ています。鬼神とも見えた熊野の猛者も、持ったマサカリを手放し、篠だけの上にドタッと倒れ込みました。


其次に是も熊野人歟と覚へて、先の男に一かさ倍て、二王を作損じたる如なる武者の、眼さかさまに裂、鬚左右へ分れたるが、火威の鎧に竜頭の甲の緒を縮、六尺三寸の長刀に、四尺余の太刀帯て、射向の袖をさしかざし、後を吃とみて、「遠矢な射そ。矢だうなに。」と云侭に、鎧づきして上ける処を、相馬四郎左衛門、五人張に十四束三臥の金磁頭、くつ巻を残さず引つめて、弦音高く切て放つ。手答とすがい拍子に聞へて、甲の直向より眉間の脳を砕て、鉢著の板の横縫きれて、矢じりの見る許に射篭たりければ、あつと云声と共に倒れて、矢庭に二人死にけり。跡に継ける熊野勢五百余人、此矢二筋を見て、前へも不進後ろへも不帰、皆背をくゝめてぞ立たりける。本間と相馬と二人ながら是をば少しもみぬ由にて、御方の兵の二町許隔たりける向の尾に陣を取て居りけるに向て、「例ならず敵共のはたらき候は、軍の候はんずるやらん。ならしに一矢づゝ射て見候はん。何にても的に立させ給へ。」と云ければ、「是を遊ばし候へ。」とて、みな紅の扇に月出したるを矢に挟て遠的場だてにぞ立たりける。本間は前に立、相馬は後に立て、月を射ば天の恐も有ぬべし。両方のはづれを射んずるぞと約束して、本間はたと射れば、相馬もはたと射る。矢所約束に不違、中なる月をぞ残しける。其後百矢二腰取寄て、張がへの弓の寸引して、「相摸国の住人本間孫四郎資氏、下総国の住人相馬四郎左衛門尉忠重二人、此陣を堅て候ぞ。矢少々うけて、物具の仁の程御覧候へ。」と高らかに名乗ければ、跡なる寄手二十万騎、誰追としも無れども、我先にとふためきて、又本の陣へ引返す。如今矢軍許にて日を暮し夜を明さば、何年責る共、山落る事やは可有と、諸人攻あぐんで思ける処に、山徒金輪院の律師光澄が許より、今木の少納言隆賢と申ける同宿を使にて、高豊前守に申けるは、「新田殿の被支候四明山の下は、山上第一の難所にて候へば、輒く攻破られん事難叶とこそ存候へ。能物馴て候はんずる西国方の兵を四五百人、此隆賢に被相副、無動寺の方より忍入り、文殊楼の辺四王院の傍にて時声を被揚候はゞ、光澄与力の衆徒等、東西両塔の間に、旗を挙時声を合て、山門をば時の間に、攻落し候べし。」とぞ申ける。あわれ山徒の中に御方する者の一人なり共出来あれかしと、念願しける処に、隆賢忍やかに来、夜討すべき様を申ければ、高豊前守大に喜で、播磨・美作・備前・備中四箇国の勢の中より、夜討に馴たる兵五百余人を勝て、六月十八日の夕闇に四明の巓へぞ上せける。

その後、また熊野の人間だと思われますが、最初の男より一倍大きく、まるで仁王を作り損じたような武者が、つりあがった目をして、髭を左右に分けて現れ、緋縅の鎧に竜の頭が付いた兜の緒を締め、六尺三寸の長刀と四尺余りもある太刀を帯び、

射向の袖をかざして後ろをキッとにらむと、「遠矢は射るなよ、無駄な矢を射るな」と言いながら、鎧に隙間の生じないよう鎧を揺すりながら登ってきました。そこを相馬四郎左衛門が五人張りの弓に、十四束三伏の矢に金磁頭の鏃を付け、

鏃の根元まで引き絞ると、弦音高く切って放ちました。手応えを感じさせた矢は相手の兜を真正面、眉間に突き刺さり、脳を砕いて兜の鉢に付いているしころの板を、横様に縫うように射抜き、鏃も見えるばかりでは、アッと言う声もそこそこに倒れ込み、見る間に二人が即死してしまいました。

後に続いていた熊野の軍勢らは、この二筋の弓勢を見て前に進むことをためらい、かと言って後ろに下がることも出来ず、皆は背をかがめて立ち止まるしかありません。本間と相馬の二人はこれには何ら見向きせず、向かいの二町ばかり隔てた尾根に陣取っている味方の兵士らに向かって、

「いつもと違って敵どもが動きを止めないのは、いくさのなせる業であろう。練習として我らが一筋づつ矢を射て見よう。何でも良いから、的になるものを立ててくださらぬか」と、話しかけました。味方の軍勢は、「では、これを的にしてはいかが」と言って、

紅色の地に月の出ている絵柄の扇を矢に挟んで、丁度、遠的場における的のように立てました。本間は前に立ち、相馬は後ろに立って、もし月を射たなら天の怒りを受けるかも知れない。月をはずして両側を狙おうと約束し、本間が射ると同時に相馬もはたと射ました。

矢は約束どおり中の月を残しました。その後、多くの矢を入れた矢櫃と大小、二本の太刀を取り寄せ、また予備の弓の弦を調整して、「相模国の住人、本間孫四郎資氏と下総国の住人、相馬四郎左衛門尉忠重の二人が、この陣地を警固している。

我々の射る矢を少しばかり受けて、甲冑の出来不出来でも調べたら如何だ」と、声高らかに名乗りを上げれば、後ろを進んでいた寄せ手の二十万騎は、誰に追われている訳でもないのに、我先にと大慌てで元の本陣に引き返しました。

このように近頃は矢軍ばかりで日を過し、夜の明けるに任せているので、このままでは何年攻撃を続けても、果たして比叡山を攻略することなど出来ないのではと、皆が攻めあぐんでいたのです。そんなことを考えていた時、延暦寺の衆徒、金輪院の律師光澄のもとより、

今木の少納言隆賢と言う同僚を使者として高豊前守に派遣し、「新田殿が守っている四明山の下はこの比叡山でも一級の難所であり、そう簡単に攻め落とすことは難しいとお思いください。ここは戦争経験豊かな西国の兵士四、五百人を、この隆賢に預けていただければ、

無動寺の方面から忍び入り、文殊楼の近く四王院の辺りで閧の声を挙げれば、光澄に従う衆徒等が東西両塔の間で旗を差し上げると同時に、閧の声を挙げて攻め込めば、山門など一瞬に攻め落とすことが出来るでしょう」と、申し送りました。何と言えば良いのか、

山門の大衆の中から、一人でも味方になってくれないかと思い続けていた時に、隆賢が隠れてやって来て、夜討の計画を進言されたので、高豊前守は大いに喜び、播磨、美作、備前、備中など四ヶ国の軍勢から、夜討に慣れた兵士五百余人を選抜し、六月十八日の夕闇に隠れて、四明岳の山頂に向かわせました。


隆賢多年の案内者なる上、敵の有所無所委見置たる事なれば、少しも道に迷べきにては無りけるが、天罰にてや有けん、俄に目くれ心迷て、終夜四明の麓を北南へ迷ありきける程に、夜已に明ければ紀清両党に見付られて、中に被取篭ける間、迹なる武者共百余人討れて、谷底へ皆ころび落ぬ。隆賢一人は、深手数箇所負て、腹を切んとしけるが、上帯を解隙に被組て生虜れにけり。大逆の張本なれば、軈てこそ斬らるべかりしを、大将山徒の号に宥如して、御方にある一族の中へ遣はされ、「生て置ん共、殺されんとも意に可任。」と被仰ければ、今木中務丞範顕畏て、「承候。」とて、則使者の見ける前にて、其首を刎てぞ捨たりける。忝も万乗の聖主、医王山王の擁護を御憑有て、臨幸成たる故に、三千の衆徒悉仏法と王法と可相比理を存じて、弐なく忠戦を致す処に、金輪院一人山徒の身として我山を背き、武士の家に非して将軍に属し、剰弟子同宿を出し立て、山門を亡んと企ける心の程こそ浅猿けれ。されば悪逆忽に顕て、手引しつる同宿ども、或は討れ或は生虜れぬ。光澄は無幾程して、最愛の子に殺されぬ。其子は又一腹一生の弟に討れて、世に類なき不思議を顕ける神罰の程こそ怖しけれ。

隆賢はこの山について、長年にわたる土地勘があり、敵兵の配置も詳しく調べていたので、道に迷うことなどあり得ないのですが、味方を裏切った天罰なのでしょうか、突然目の前が真っ暗になるとともに、精神状態も不安定となって、一晩中四明岳の麓を北に行ったり南に行ったりと、

歩き迷い続ける内に夜もすでに明け、そこを紀清両党に発見され包囲されてしまい、従っていた武者ら百余人が討ち取られ、谷底に転び落ちたのです。その中、隆賢一人は深手を数ヶ所負い、腹を切ろうと上帯を解きかけた時組み付かれ、生け捕りになりました。

裏切り行為の張本人ですから、即刻斬られるべきなのですが、大将義貞は山門の僧でもあるので、味方の山門大衆一族にその身を預け、「生かしておこうが、殺してしまおうが全て任せる」と、仰せられました。身柄を引き取った今木中務丞範顕は謹んで、「承知いたしました」と返事をし、

すぐ使者の目の前でその首を刎ね、捨ててしまいました。畏れ多くも我が国の天子が、延暦寺の本尊薬師如来と、日吉山王権現のご加護を頼られて、臨幸されたからには、山門三千の衆徒らは仏教の安泰と、天子による政道を守ることを考えて、

二心無く忠義をもって戦うべきであるに関わらず、金輪院一人が山門の人間であるのに、自分の所属する山門の方針に背いて、武家でもないのに足利将軍の配下になり、その上弟子や同僚をも引き連れて、山門の滅亡を計画し実行に移した心中は、なんとも情けない限りです。

これでは当然の如く、悪だくらみは瞬く間に露見し、行動を共にした同僚らも、或る者は討たれ、また或る者は生け捕りになったのです。そして光澄はしばらくして最愛の子に殺されたのでした。そしてその子はまた、同じ父母から生まれた弟に討たれると言う、

あまり世間に例を見ない不思議な運命をたどるとは、やはり神罰ではと思われ、恐ろしい話ではあります。


去程に越前の守護尾張守高経・北陸道の勢を率して、仰木より押寄て、横川を可攻と聞へければ、楞厳院九谷の衆徒、処々のつまり/\に関を拵へ逆木を引て要害を構へける。其比大師の御廟修造の為とて、材木を多く山上に引のぼせたりけるを、櫓の柱、矢間の板にせんとて坂中へぞ運ける。其日、般若院の法印が許に召仕ける童、俄に物に狂て様々の事を口走けるが、「我に大八王子の権現つかせ給たり。」と名乗て、「此御廟の材木、急本の処へ返し運ぶべし。」とぞ申ける。大衆是を不審して、「誠に八王子権現のつかせ給たる物ならば、本地内証朗にして諸教の通儀明かなるべし。」とて、古来碩学の相承し来る一念三千の法門、唯受一人の口決共を様々にぞ問たりける。此童から/\と打笑て、「我和光の塵に交る事久して、三世了達の智も浅く成ぬといへ共、如来出世の御時会座に列て聞し事なれば、あら/\云て聞かせん。」とて、大衆の立てつる処の不審、一々に言に花をさかせ理に玉を聯ねて答へける。大衆皆是に信を取て、重て山門の安否、軍の勝負を問ふに、此物つき涙をはら/\と流して申けるは、「我内には円宗の教法を守り、外には百王の鎮護を致さん為に、当山開基の初より跡を垂し事なれば、何にも吾山の繁昌、朝廷の静謐をこそ、心に懸て思ふ事なれ共、叡慮の向ふ所も、富貴栄耀の為にして、理民治世の政に非ず、衆徒の願ふ心も、皆驕奢放逸の基にして、仏法紹隆の為に非ざる間、諸天善神も擁護の手を休め、四所三聖も加被の力を不被回。悲哉、今より後朝儀久く塗炭に落て、公卿大臣蛮夷の奴となり、国主はるかに帝都を去て、臣は君を殺し、子は父を殺す世にならんずる事の浅猿さよ。大逆の積り却て其身を譴る事なれば、逆臣猛威を振はん事も、又久しからじ。嗚呼恨乎、師重が吾山を攻落して堂舎・仏閣を焼払はんと議する事、看々人々、明日の午刻に早尾大行事を差遣して、逆徒を四方に退けんずる者を。此上は吾山に何の怖畏か可有。其材木皆如元運返せ。」と託宣して、此童自四五人して持程なる大木を一つ打かつぎ、御廟の前に打捨、手足を縮めて振ひけるが、「明日の午刻に、敵を追払ふべしと云神託、余りに事遠からで、誠共覚へず、一事も若相違せば、申処皆虚説になるべし。暫く明日の様を見て思合する事あらば、後日にこそ奏聞を経め。」と申して、其日の奏し事を止めければ、神託空く衆徒の胸中に蔵れて、知人更に無りけり。

やがて越前の守護、尾張守斯波高経が北陸道の軍勢を率い、仰木方面から押し寄せてきて、横川を攻撃するのではと聞くと、横川の楞厳院九谷の衆徒らは山の要所要所に関戸を造ったり、逆茂木を埋め込んで要害化し、敵の攻撃に備えました。

丁度その頃、横川大師の修繕工事のため、材木が大量に山上へ運び込まれていたので、それを櫓の柱とか、矢狭間の板に利用しようと考え、要害の建造現場まで運びました。ところがその日、般若院の法院に召し使われている子供が、突然何かに取り付かれたのか、

様々なことを口走っていましたが、「私には八王子権現が取り付かれたのである」と名乗り、「これら御廟修復用の材木など、急いで元の場所に返すように」と、話しました。大衆はこの事に不審を感じ、「間違いなく八王子権現が取り付いているのなら、仮の姿ではなく本来の仏や菩薩であり、

悟りも得てあらゆる教義に対して詳しいはずである」と言って、古来より学問を専門にしている者が、伝承してきた一念三千(天台宗の根本教理)の教えや、唯一人だけが受け伝える事の出来る重要な教義、儀式などの口伝について、色々と質問をしました。

それらに対して、この少年はカラカラと笑い捨て、「私はこの俗世間の塵にまみれて、長らく衆生の救済に努めてきた。そのため過去、現在、未来にわたって悟っていたことなども、少しは衰えたかも知れないが、釈尊が説法をされた時に、同席して聞いていたことなので、

ざっとしたことは話して聞かそう」と言って、大衆らが感じてる不審について、一つ一つ言葉に花を添え、道理には玉を連ねる如く、丁寧に答えられました。大衆は皆が皆、この返答にすっかり信じ込み、なお今後の山門の安否や、今回の戦争の勝敗に関して質問をしました。

この憑き物がついた少年は、ハラハラと涙を流しながら、「私は心の中では天台宗の教義を一心に守り続け、外部に対しては朝廷にある帝を代々守護せんがために、この比叡山延暦寺開基の当初より、仮に神の姿として現れてきたので、

何とあってもこの山の繁栄と、朝廷の安泰だけを心から望んではいるが、帝のお考えも我が身の富貴繁栄のみにあり、民衆のために政治を行っている訳ではない。同じように衆徒の考えていることも、勝手気ままに奢侈にふけることのみ求め、

先人から引き継いだ仏法の繁栄を望んでいるのではないから、天上界にある神々も、天照大神や、八幡大菩薩などの神々も救いの手を休め、奈良の春日大社の神々や、古代中国の三聖人からも、救いの力を貰うことが出来ません。悲しいことですが、

今後は朝廷に関係することは非常に苦しい境涯におかれ、公卿や大臣と言われる人々も、野蛮人に仕える奴隷の境遇に置かれ、また帝は遠く京都を離れ、臣下は主君を殺害し、子供は親を殺す世の中になるであろう。何とも情けないことではあるが。悪質な行動を続けていると、

その科は結局我が身に降りかかって来るため、逆臣もいつまでも猛威をふるうことは出来ない。何と無念なことであろうか、高師重が我ら比叡山を攻略し、域内の建造物や仏閣を焼き払おうと計画していると聞くが、皆の者良く見ておくがいい、

明日の午刻(午後零時頃)に早尾大神と大行事権現をこの地に来させ、逆徒を四方に追い払ってしまうことを。これでも我が山は何か恐れるものがあると言うのか。その材木など全てもとの場所に運び返すように」と、神の意思を告げて、この童は運ぶには四、五人も必要かと思える大木を一本担ぎ上げ、

大師の御廟の前に捨て置くと、手足を縮めて体を震わせていました。聞いていた大衆らは、「明日の午刻(午後零時頃)に敵を追い払うという神のお告げらしいが、余りにも差し迫った時刻なので、本当なのか疑わしい。一つでも間違っていれば、彼の言ったことは全て嘘ということになる。

少し待ち明日の様子を見て納得できたら、その後天皇にお伝えしよう」と話しを決め、その日に奏聞することはしなかったので、せっかくの神のお告げも、衆徒の胸の内に収まったきり、他の人に知られることはありませんでした。


山門には西坂に軍あらば、本院の鐘をつき、東坂本に合戦あらば、生源寺の鐘を鳴すべしと方々の約束を定たりける。爰に六月二十日の早旦に早尾の社の猿共数群来て、生源寺の鐘を東西両塔に響渡る程こそ撞たりけれ。諸方の官軍、九院の衆徒是を聞て、すはや相図の鐘を鳴すは。さらば攻口へ馳向て防がんとて、我劣らじと渡り合ふ。東西の寄手此形勢を見て、山より逆寄に寄するぞと心得て、水飲・今路・八瀬・薮里・志賀・唐崎・大津・松本の寄手共、楯よ物具よと、周章色めきける間、官軍是に利を得て、山上・坂本の勢十万余騎、木戸を開、逆木を引のけて打て出たりける。寄手の大将蹈留て、「敵は小勢ぞ、引て討るな。きたなし返せ。」と下知して、暫支たりけれ共、引立たる大勢なれば一足も不留。脇屋右衛門佐義助の兵五千余騎、志賀の炎魔堂の辺に有ける敵の向ひ城に、五百余箇所に東西火を懸て、をめき叫で揉だりける。敵陣こゝより破て、寄手の百八十万騎、さしも嶮しき今路・古道・音無の滝・白鳥・三石・大岳より、人雪頽をつかせてぞ逃たりける。谷深して行さきつまりたる所なれば、馬人上が上に落重て死ける有様は、伝聞治承の古へ、平家十万余騎の兵、木曾が夜討に被懸立て、くりから谷に埋れけるも、是には過じと覚へたり。大将高豊前守は太股を我太刀に突貫て引兼たりけるを、舟田長門守が手者是を生虜り白昼に東坂本を渡し、大将新田左中将の前に面縛す。是は仏敵・神敵の最たれば、「重衡卿の例に任すべし。」とて、山門の大衆是を申請て、則唐崎の浜に首を刎てぞ被懸ける。此豊前守は将軍の執事高武蔵守師直が猶子の弟にて、一方の大将を承る程の者なれば、身に替らんと思者共幾千万と云数を不知しか共、若党の一人も無して、無云甲斐敵に被生取けるは、偏に医王山王の御罰也けりと、今日は昨日の神託に、げにやと被思合て、身の毛も弥立つ許なり。

由来延暦寺では西坂に戦闘が起これば、本院の鐘を撞き、東坂本に合戦があれば、生源寺の鐘を鳴らすようにと、皆で取り決めをしていました。そして六月二十日の早朝、早尾のお社に住む猿どもが群れをなしてやって来ると、生源寺の鐘を東西の両塔に響き渡るほどに撞いたのです。

諸方面に展開している官軍や、九院の衆徒らはこの音を聞き、ソレっ合図の鐘が鳴ったぞ。急いで前線に駆けつけ防ごうと、我先に走り出しました。東西から攻めていた寄せ手は、この状況を見て、これは山門の軍勢が反攻に移ったと考え、

水飲、今路、八瀬、薮里、志賀、唐崎、大津、松本に展開していた寄せ手の軍勢らは、ソレっ楯だ甲冑だ、武器だとうろたえ大騒ぎになったので、官軍はこの優位な立場を利用して、山上や坂本の軍勢十万余騎が木戸を開き、逆茂木も引き抜いて攻勢に出ました。

寄せ手軍の大将は踏みとどまって、「敵は小勢だ、退却などして討たれるな。卑怯だぞ、引き返せや引き返せ」と命令し、しばらくは支えたものの、圧倒的な大軍に恐れをなして、誰も引き返そうとはしません。脇屋右衛門佐義助に従う兵士ら五千余騎は、

志賀の閻魔堂のあたりに建造されていた敵の向い城の五百余ヶ所に、東西より火を点け、喚き散らして攻め倒しました。寄せ手の軍勢はこの攻撃に耐え切れず、百八十万騎は非常に険しいと言われる、今路、古道、音無の滝、白鳥、三石、大岳方面からなだれをうって逃げました。

しかし谷は深く、逃げ行く先も行き止まりになったりし、馬や人の上にまた、人や馬が落ち重なると言う状況は、伝え聞いている治承(治承七年:1183年)の昔、平家十万余騎の兵士が、木曾義仲の夜討に総崩れを来たし、倶利伽羅の谷をその死骸で埋めたと言うのも、今回の惨事ほどではないと思えます。

寄せ手の大将、高豊前守は太ももを自分の太刀で刺し貫き、退却出来ずにいたところを、舟田長門守の家来が生け捕りにし、白昼東坂本に連行し、両手を後ろに縛り上げて、大将新田左中将の前に引き出しました。大将新田義貞はこの男が仏敵であり、

また神の敵としても第一級なので、「平重衡卿の先例に従うよう」と仰せられ、山門の大衆はこの捕虜を引き取り、すぐ唐崎の浜で首を刎ね、さらし首にしました。この豊前守は、将軍尊氏の執事を務める高武蔵守師直にとって養子の弟であり、一方の大将をも任されるほどの者なので、

いざと言う時には我が身を投げ出そうと思う部下が何千万と居ても不思議ではないのですが、若侍誰一人として身代わりにならず、何することも無く敵に生け捕られるのは、医王山王(延暦寺の薬師如来と、日吉山王権現)の罰を受けたからに違いないと、

今日のこの出来事と昨日の神託を思い合わせて、身の毛が逆立つ思いがしたのでした。


○京都両度軍事
六月五日より同二十日まで、山門数日の合戦に討るゝ者疵を被る者、何千万と云数を不知。結句寄手東西の坂より被追立、引退たる兵共は、京中にも猶足を留めず、十方へ落行ける間、洛中以外に無勢に成て、如何はせんと仰天す。此時しも山門より時日を回らさず寄たらましかば、敵重て都にはよも怺へじと見へけるを、山門に様々の異義有て、空く十余日を過されける程に、辺土洛外に逃隠たる兵共、機を直して又立帰ける間、洛中の勢又大勢に成にけり。是をば不知、山門には京中無勢也と聞て、六月晦日十万余騎を二手に分て、今路・西坂よりぞ寄たりける。将軍始は態と小勢を河原へ出して、矢一筋射違へて引んとせられける間、千葉・宇都宮・土肥・得能・仁科・高梨が勢、勝に乗て京中へ追懸て攻入る。飽まで敵を近付て後、東寺より用意の兵五十万騎を出して、竪小路・横小路に機変の陣をはり、敵を東西南北より押隔て、四方に当り八方に囲で余さじと闘。寄手片時が間に五百余人被討て西坂を差て引返す。さてこそ京勢は又勢に乗り山門方は力を落して、牛角の戦に成にけり。角て暫は合戦も無りけるに、二条の大納言師基卿、北国より、敷地・上木・山岸・瓜生・河島・深町以下の者三千余騎を率して、七月五日東坂本へ著給ふ。

☆ 京都における二度の合戦のこと

六月五日より六月二十日まで、山門との数日にわたる合戦で、討たれた者や傷を負った者など、その数一体何千万になるのか分りません。その挙句に寄せ手軍は東西の坂より追っ立てられ、退却してきた兵士らは京都に留まろうとせず、四方八方に落ちて行ったので、

洛中は考えられないほど無勢になり、これでは京都の守備はどうすれば良いのか驚くばかりです。この時機を逸することなく山門が攻勢をかけてきたなら、尊氏軍はとても都を支えることなど出来ないと思われるのですが、山門には様々な意見があり、

むなしく十日あまりを過している間に、尊氏軍では洛外の辺鄙な場所まで逃げ隠れていた兵士らも、思い直して再び都に戻ってきたので、洛内の軍勢も元のように大軍となりました。ところが山門ではこの事実を知らず、今でも洛内には軍勢は少ないと考え、

六月晦日に十万余騎を二手に分けて、今路、西坂より攻勢に出ました。尊氏将軍は最初わざと小勢を河原辺に向かわせ、矢を一筋を射込んで引き下がらせたので、千葉、宇都宮、土肥、得能、仁科、高梨らの軍勢は、勝ちに乗じて京都内まで追いかけ攻め込んで来ました。

とことん敵を引きつけてから、東寺に待機させていた兵士五十万騎を出陣させ、東西南北の小路小路に臨機応変の戦陣を張って、敵軍を東西南北に分断し、四方から攻め立てると共に、八方を包囲して徹底的に攻め付けました。この攻撃に寄せ手の官軍は瞬く間に五百余人が討ち取られ、

西坂に向かって退却を始めました。このように京都の尊氏軍は再び勢いを取り戻し、反対に山門方は勢いを失い、またまた互角の戦いとなったのでした。このようにしばらくは合戦も行われなかったのですが、

二条大納言師基卿が北国より、敷地、上木、山岸、瓜生、河島、深町などの軍勢三千余騎を率いて、七月五日東坂本に到着しました。


山門是に又力を得て同十八日京都へぞ被寄ける。前には京中を経て、遥々と東寺まで寄ればこそ、小路ぎりに前後左右の敵を防かねて其囲をば破かねつれ、此度は、一勢は二条を西へ内野へ懸出て、大宮を下りに押寄せ、一勢は河原を下りに押寄せ、東西より京を中に挿て、焼攻にすべしとぞ被議ける。此謀いかなる野心の者か京都へ告たりけん、将軍是を聞すましてげれば、六十万騎の勢を三手に分、二十万騎をば東山と七条河原に被置たり。是は河原より寄んずる敵を、東西より却て中に取篭ん為なり。二十万騎をば船岳山の麓、神祇官の南に被隠置たり。是は内野より寄んずる敵を、南北より引裹まん為也。残る二十万騎をば西八条東寺の辺に磬へさせて、軍門の前に被置たり。是は諸方の陣族の被懸散ば、悪手に替らん為也。去程に明れば十八日卯刻に、山門の勢、北白河・八瀬・薮里・下松・修学院の前に押寄て東西二陣の手を分つ。新田の一族五万余騎は、糾杜を南に見て、紫野を内野へ懸通る。二条師基卿・千葉介・宇都宮・仁科・高梨、真如堂を西へ打過て、河原を下りに押寄る。其手の足軽共走散り、京中の在家数百箇所に火を懸たりければ、猛火天に満ち翻て、黒烟四方に吹覆ふ。五条河原より軍始て、射る矢は雨〔の〕如く、剣戟電の如し。軈て内野にも合戦始て、右近の馬場の東西、神祇官の南北に、汗馬の馳違音、時声に相交て、只百千の雷の大地に振ふが如く也。暫有て五条川原の寄手、一戦に討負て引たりける程に、内野の大勢弥重て、新田左中将兄弟の勢を、十重・二十重に取巻て、をめき叫で攻戦ふ。され共義貞の兵共、元来機変磬控百鍛千錬して、己が物と得たる所なれば、一挙に百重の囲を解て、左副右衛一人も討れず、返合々々戦て、又山へ引帰す。夫武の七書に言、云、「将謀泄則軍無利、外窺内則禍不制。」とて、此度の洛中の合戦に官軍即討負ぬる事、たゞ敵内通の者共の御方に有ける故也とて、互に心を置あへり。

山門側はこの加勢に力を得て、七月十八日に再び京都に攻め込みました。前回は京都内を通り過ぎて遠く東寺まで寄せたため、小路各所で前後左右から攻めてくる敵を防ぐことが出来ず、敵の包囲を突破することが出来ませんでした。

そこで今回は一手は二条を西に向かい内野に駆け込み、大宮通りを南に向かって押し寄せ、またもう一手は河原を南に押し寄せ、東西より京都を中に取り囲んで、焼き討ちをかけることにしようと、作戦がまとまっていたのです。ところがこの作戦は、

何か野望を持っている人物によって京都軍に知らされ、尊氏将軍はこの作戦をすっかり聞いていたので、六十万騎の軍勢を三手に分け、二十万騎を東山と七条河原に配置しました。これは河原から攻めてくる敵を、反対に東西から中に取り込んでしまうためです。

また二十万騎を船岡山の麓、神祇官の南側周辺に潜ませました。これは内野から寄せてくる敵を、南北より挟み撃ちにするためです。そして残る二十万騎は西八条の東寺周辺に控えさせ、本営の門前に配置しました。これは諸方面の戦闘が不利と見れば、即刻新手として出撃するためです。

さて明けて十八日、卯刻(午前六時頃)に山門の軍勢は北白川、八瀬、薮里、下松や修学院の前に押し寄せ、東西二つに軍勢を分けました。新田の一族五万余騎は糺の森を南に見て、紫野を内野に向かって駆けました。また二条師基卿、千葉介、宇都宮、仁科、高梨らは真如堂から西に通り過ぎ、

河原を南に向かって押し寄せました。この軍勢に属する足軽達は四方に走り散って、洛内の民家数百ヶ所に火をかけたので、激しい火炎は天に満ち翻り、黒煙は四方に広がり天を覆いました。五条河原から合戦が始まり、射る矢は雨のように降りかかり、太刀の打ち合う音は雷鳴のようです。

やがて内野周辺でも合戦が始まり、右近の馬場の東西、また神祇官の南北方面では、馬の激しく駆け交わる音が閧の声に混じって、まるで数知れぬほどの雷が大地に落ちたようです。しばらくして五条河原の寄せ手軍は、ここでの合戦に負けて退却を始めたので、

内野の軍勢は益々その勢を増し、新田左中将兄弟の軍勢を十重二十重に取り巻き、わめき散らしながら攻め込みました。しかしながら義貞の率いる兵士らは、元々があらゆる場合を想定し、鍛えに鍛えぬいた強兵なので、このような事態は得意としているから、一挙に重包囲を突破し、

左中将義貞や右衛門佐義助ら一人も討たれることなく、返しては戦い、また返して戦いながら、再び比叡山に引き返しました。ここで考えなければならないのは、古代中国の代表的な七つの兵法書に書かれているように、

「将謀泄即軍利、外窺内即禍不制」(作戦などが洩れるようでは、戦闘に利は得られず、外部から内部を知られるようでは、禍を防ぐことは出来ない)と言うように、この度の洛中における合戦に、官軍がいとも簡単に負けたことは、ただ一つ、敵に内通している者が味方の陣営にいるからだと、お互いが疑心暗鬼になりました。      (終り)

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