17 太平記 巻第十七 (その二)


○山門牒送南都事
官軍両度の軍に討負て、気疲れ勢ひ薄く成てげれば、山上・坂本に何なる野心の者か出来て、不慮の儀あらんずらんと、主上玉■を安くし給はず、叡襟を傾けさせ給ければ、先衆徒の心を勇しめん為に、七社の霊神九院の仏閣へ、各大庄二三箇所づゝを寄附せらる。其外一所住とて、衆徒八百余人早尾に群集して、軍勢の兵粮已下の事取沙汰しける衆の中へ、江州の闕所分三百余箇所を被行て、当国の国衙を山門永代管領すべき由、永宣旨を成て被補任。若今官軍勝事を得ば、山門の繁昌、此時に有ぬと見へけれ共、三千の衆徒悉此抽賞に誇らば、誰か稽古の窓に向て三諦止観の月を弄び、鑽仰の嶺に攀て一色一香の花を折らん。富貴の季には却て法滅の基たるべければ、神慮も如何有らんと智ある人は是を不悦。同十七日三千の衆徒、大講堂の大庭に三塔会合して僉議しけるは、「夫吾山者当王城之鬼門、為神徳之霊地。是以保百王之宝祚、依一山之懇誠。鎮四夷之擾乱、唯任七社之擁護。爰有源家余裔尊氏・直義者。将傾王化亡仏法。訪大逆於異国、禄山比不堪。尋積悪於本朝、守屋却可浅。抑普天之下無不王土。縦使雖為釈門之徒、此時蓋尽致命之忠義。故北嶺天子本命之伽藍也。何運朝廷輔危之計略。南都博之氏寺也。須救藤氏類家之淹屈。然早牒送東大・興福両寺、可被結義戦戮力之一諾。」、三千一同に僉議して、則南都へ牒状を送りける。

☆ 山門が南都に書状を送ったこと

さて官軍はここ二度の合戦に敗退を喫し、精神的に参っている上、また士気の低下もひどく、これでは比叡山や坂本にいる軍勢の中から、とんでもない考えを持った者が現れ、不慮の事故や異変も考えられるので、後醍醐天皇は玉イ(扁の中の冊を衣に)を安んずることなく(現状に不安を感じずにおれなく)

何か解決策を計ろうとして、とりあえず衆徒らの士気を高めるために、七社(日吉七社)の霊神と九院(比叡山の主要な九つの堂塔)の仏閣に対して、それぞれに大きな荘園を二、三ヶ所寄付されました。その外、一ヶ所に定住のため早尾神社に集結し、

官軍の兵糧などの手配を続けている衆徒八百余人には、江州にある知行人のいない荘園など三百余ヶ所を与え、これらの国の支配権を永久に山門に与える旨、宣旨を下した上、国司として任命しました。もし現段階で官軍が勝利を得たならば、山門延暦寺の繁栄はこの時に極まり、

その結果三千の衆徒らはこの特別な恩賞に溺れて、誰が修行の場で仏道を極めようと、夜を日に継いで修行に勤めたり、聖人や偉人の徳を仰ぎ尊び、仏道の修行を極めようとするのでしょうか。富や名誉を得てしまうと、かえって仏法の滅亡を招く原因となり、

神の思し召しも如何なものかと、思慮のある人はこれを喜びませんでした。七月十七日、大講堂の庭で山門三塔の衆徒ら三千人が集まって会議を開き、「詰まるところ我が比叡山は内裏の鬼門に当たっており、神の功徳あふれる霊地であり続けた。

この事によって、累代百王の皇位を守ってきたのであり、これも我が比叡山延暦寺の、あふれる真心のお陰である。四方に盤踞する者どもが起こした騒乱は、ただ日吉大権現の擁護によって鎮圧しよう。今ここに源家の末裔である足利尊氏、直義と言う者は、

朝廷の権威をないがしろにし、仏法をも滅ぼさんとしている。このような大逆を計る人物を、異国に求めれば安禄山であるが、彼とは比較にならない位である。また我が国における悪事の極まりは、物部守屋であるが尊氏兄弟と比較すれば、彼など可愛いものである。

そもそも、この天下に朝廷の支配が及ばない土地など、存在しないのある。たとえ仏門にある者と言えども、この危機に際して命の限りを尽くして、忠義に務めなければならない。比叡山延暦寺は天皇にとって、一番重要なる仏閣であるからして、

朝廷をお助けするために、策略を練るのものである。また南都の興福寺は国家重臣の氏寺であり、藤原氏及びその一族の危機を救わなければならない。そこで早急に東大寺、興福寺に書状を送り、今回の義戦に協力する確約をもらうべきだろう」と、三千の衆徒一同に議案を提出の上、議決し即刻南都に書状を送りました。


其詞に云、延暦寺牒興福寺衙請早廻両寺一味籌策、御追罰朝敵源尊氏・直義以下逆徒、弥致仏法・王法昌栄状。牒、仏法伝吾邦兮七百余歳、祝皇統益蒼生者、法相円頓之秘■最勝。神明垂権跡兮七千余座、鎮宝祚耀威光者、四所三聖之霊験異他。是以先者淡海公建興福寺、以瑩八識五重之明鏡、後者桓武帝開比叡山、以挑四教三観之法灯。爾以降南都北嶺共掌護国護王之精祈。天台法相互究権教実教之奥旨。寔是以仏法守王法濫觴、以王法弘仏法根源也。因茲当山有愁之時、通白疏而談懇情。朝家有故之日、同丹心而祈安静。五六年以来天下大乱民間不静。就中尊氏・直義等、起自辺鄙之酋長、飽浴超涯之皇沢。未知君臣之道、忽有犲狼之心。樹党而誘引戎虜、矯詔而賊害藩籬。倩思王業再興之聖運、更非尊氏一人之武功、企叛逆無其辞。以義貞称其敵、貪天功而為己力、咎犯之所恥也。仮朝錯挙逆謀、劉■之所亡也。為臣犯君忘恩背義、開闢以来未聞其迹。遂乃去春之初、猛火甚於燎原、九重之城闕成灰燼。暴風扇于区宇、無辜之民黎堕塗炭。論其濫悪誰不歎息。且為避当時之災■、且為仰和光之神助、廻仙蹕於七社之瑞籬、任安全於四明之懇府。衆徒之心、此時豈敢乎。爰三千一揆、忘身命扶義兵。老少同心、代冥威伏異賊。王道未衰、神感潜通之故也。逆党巻旗而奔西、凶徒倒戈而敗北。喩猶紅炉之消雪、相似団石之圧卵。昔晉之祈八公也。早覆符堅之兵、唐之感四王也。乍却吐蕃之陣。蓋乃斯謂歟。遂使儼鸞輿之威儀促鳳城之還幸。天掃■搶、上下同見慶雲之色。海剪鯨鯢、遠近尽歇逆浪之声。然是学侶群侶之精誠也。豈非医王山王之加護哉。而今賊党再窺覦帝城、官軍暫彷徨征途。仍慣先度之朝儀、重及当社之臨幸。山上山下興廃只在此時。仏法王法盛衰豈非今日乎。天台之教法、七社之霊験、偏共安危於朝廷。法相之護持、四所之冥応、盍加贔屓於国家。貴寺若存報国之忠貞者、衆徒須運輔君之計略矣。満山之愁訴、猶通音問而成合体。一朝之治乱、何随群議、而無与力。仍勒事由、牒送如件。敢勿猶予。故牒。延元々年六月日延暦寺三千衆徒等とぞ被書たる。

その書状には以下のことが書かれていました。
ここに延暦寺は興福寺と両寺院一致協力して作戦を練るため書状を送ります。

今、朝廷は朝敵源尊氏、直義以下の逆賊を追討征伐し、仏教と朝廷の権威を護り、ますます繁栄させようとしています。仏教が我が国に伝来して以来、七百余年になります。皇位を護り続け、民衆を幸せに出来るのは、興福寺法相宗の教義、

秘サク(臣の横に責:奥深い真理)が最も優れています。天照大神は衆生を救うため、仮のお姿として七千余座になられています。天子の地位を安定させて、その権威を光り輝かせているのは、藤原氏の氏神である春日大社の四柱の神々と、

日吉大社の大宮、二宮、聖真子の三聖のお陰に他なりません。そして前者は淡海公、藤原不比等が興福寺を建立し、八識五重(全ての存在が心の作用に過ぎないと悟ること)を得るため、曇りのないように鏡を磨き続け、また後者においては、桓武天皇が比叡山をお開きになり、

天台宗の四教三観の教えを守るべく、法灯を絶やすことなくかかげ続け、朝廷の安泰を願ってきました。それ以降は南都興福寺と、北嶺延暦寺は共に国家と朝廷の安泰を祈願する役割を担ってきました。天台宗と法相宗はお互いに権教(仮の教え)、実教(唯一真実の教え)の奥義を極めました。

実に仏教によって、朝廷はその始まりから今までを守られてきたのであり、仏教は朝廷の力によって始まりから今まで、その発展を得られたのです。その関係で我が比叡山に何か問題が発生した時、その解決を求めて親しく相談を求めて書を送ります。

また朝廷に何かあれば、その沈静を真心こめてお祈りします。この五、六年、天下に大乱が発生し、そのため民間は何かと騒々しい有様です。その中でも、尊氏、直義ら地方における支配者らが自ら蜂起し、身分に過ぎた朝恩を受けているに関わらず、

帝に仕える臣下としての道を忘れ、突然欲望を満足させるため、残酷な考えを持ち出しました。地方の未開民族とも言える人間どもに語りかけて徒党を組み、朝廷の命令を無視して、朝廷直轄の領地に損害を与えています。よくよく考えてみれば、帝が朝廷の権威と政治を再興したことは、

決して尊氏一人の武力による功績ではなく、反逆を企てる理由とはなりません。新田義貞を自分の敵であると称し、他人の功績を我が物にするなど、その犯している行為は恥ずべきものであります。かりそめにも朝廷に対して謀反を起こすとは、劉備の勝ちに奢った結果の滅亡と変わりありません。

臣下として帝から受けた恩を忘れ、義に背いて帝に逆らうことなど、我が国始まって以来、そのような例は無いのです。その挙句去る年の初春頃より、激しい戦火は都を襲い、宮中の諸建造物まで灰燼に帰したのです。暴風は都中に吹き荒れ、何ら罪の無い民衆まで、

塗炭の苦しみに落ちました。その暴虐無人ぶりを嘆かない人など誰もいません。ここに一つは現在の苦難を避けるため、また一つは仏や菩薩に助けを求めんがために、日吉神社七社の境内に帝の輿を寄せ、比叡山に安全なる皇居を設けました。

延暦寺の衆徒らの考えはこの時点において決定し、三千人が心を合わせて、我が身命を顧みることなく老も若きも義兵となって、神に代わり逆賊を打ち滅ぼそうとしています。皇室や朝廷の権威は未だ衰えることなく、神のご意向に合致し、

その加護を受けることが密かに約束されているからです。そのため逆族らは旗を巻いて西方に走り去り、賊徒らは武器を捨て敗北することになります。喩猶紅炉之消雪、相似団石之圧卵。昔晉之祈八公也。早覆符堅之兵、唐之感四王也。乍却吐蕃之陣。蓋乃斯謂歟。(この部分的確な訳が出来ない。後回しにすることにした)

そしてついに天子の乗られる輿を厳しく威儀をただして、宮城へのお帰りを急がせることになります。(天掃■搶)貴賎を問わず皆はこのめでたさに酔い痴れ、大悪人を今ここに征伐した喜びの歓呼は、遠く近くに響き渡り止むこともありません。

しかしこれは仏教を学んでいる僧侶達の、心からの誠意で成し遂げられたことであり、決して延暦寺の本尊薬師如来や、日吉山王権現の加護に拠るものではありません。しかし今こうして、賊徒らは懲りることなく再び京都の攻略を狙い、官軍はここしばらくその迎撃に腐心しています。

そこで過去の朝廷における会議の決定に従い、再び延暦寺に臨幸されました。山上の延暦寺、麓の日吉山王は、今ここにその興廃を賭けることとなり、仏教と朝廷の盛衰は今日この時に決しようとしています。天台宗の仏法と日吉七社による霊験の存続は、

朝廷の存亡と運命を共にすることになりました。興福寺法相宗のご守護と、春日大社の神々のご利益を、国家の安泰のためなにとぞ授けて頂きたくお願いします。もし貴寺において、国家の恩恵に報いんとする忠義な人達が居られるならば、

それら衆徒らは是非とも帝をお助けする戦略を立てていただきたく、お願いします。比叡山全山は興福寺、春日大社の人たちと、協力出来ることを一番に願っています。国家の危急を救うために、何故皆の意見を聞く必要があるのでしょうか、何はともあれ我らと共に戦おうではありませんか。

このように色々な事情を勘案し、書状を送ることになりました。時間的な余裕はありません。故牒(文末に書く習慣文字)。延元元年(1336年)六月日延暦寺三千衆徒等。


状披閲の後、南都大衆則山門に同心して返牒を送る。其状云、
興福寺衆徒牒延暦寺衙来牒一紙牒、夫観行五品之居勝位也。学円頓於河淮之流。等覚無垢之円上果也。敷了義於印度之境。是以隋高祖之崇玄文、玉泉水清。唐文皇奮神藻、瑶花風芳。遂使一夏敷揚之奥■遥伝于叡山。三国相承之真宗、独留于吾寺以降、及于千祀、軌垂百王。寔是弘仏法之宏規、護皇基之洪緒者也。彼尊氏・直義等、遠蛮之亡虜、東夷之降卒也。雖非鷹犬之才、屡忝爪牙之任。乍忘朝奨還挿野心。討揚氏兮為辞、在藩渓兮作逆。劫略州県、掠虜吏民。帝都悉焼残、仏閣多魔滅。軼赤眉之入咸陽、超黄巾寇河北。濫吹之甚、自古未聞。天誅之所覃、冥譴何得遁。因茲去春之初、鋤■棘矜一摧関中焉、匹馬倚輪纔遁海西矣。今聚其敗軍擁彼余衆、不恐雷霆之威、重待斧鉞之罪。六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫所亡也。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也。夫違天者有大咎。失道者其助寡。積暴之勢豈又能久乎。方今廻皇輿於花洛之外、張軍幕於猶渓之辺。三千群侶、定合懇祈之掌、七社霊神、鎮廻擁護之眸者歟。彼代宗之屯長安也。観師於香積寺之中。勾践之在会稽也。陣兵天台山之北。事叶先蹤、寧非佳摸乎。爰当寺衆徒等、自翠花北幸、抽丹棘中庭。専祈宝祚之長久、只期妖■之滅亡。精誠無弐、冥助豈空乎。就中寺辺之若輩、国中之勇士、頻有加官軍之志、屡廻退凶徒之策。然而南北境阻、風馬之蹄不及、山川地殊、雲鳥之勢難接矣。矧亦賊徒構謀、寇迫松■之下。人心未和、禍在蕭牆之中。前対燕然之虜、後有宛城之軍、攻守之間進退失度。但綸命屡降、牒送難黙止。速率鋭師、早征凶党、今以状牒。々到准状。故牒。延元々年六月日興福寺衆徒等とぞ書たりける。

この書状を閲覧した後、南都興福寺大衆らは即刻北嶺比叡山延暦寺に協力すると決め、返事の書状を送りました。その書状には次のように書かれていました。
興福寺の衆徒らは、延暦寺首脳部より寄せられた書状に対し、わが寺院の本意を包み隠すことなく、ここに返事を送ります。

夫観行五品之居勝位也。学円頓於河淮之流。等覚無垢之円上果也。敷了義於印度之境。是以隋高祖之崇玄文、玉泉水清。唐文皇奮神藻、瑶花風芳。遂使一夏敷揚之奥■遥伝于叡山。三国相承之真宗、独留于吾寺以降、及于千祀、軌垂百王。寔是弘仏法之宏規、護皇基之洪緒者也。

彼尊氏・直義等、遠蛮之亡虜、東夷之降卒也。雖非鷹犬之才、屡忝爪牙之任。乍忘朝奨還挿野心。討揚氏兮為辞、在藩渓兮作逆。劫略州県、掠虜吏民。帝都悉焼残、仏閣多魔滅。軼赤眉之入咸陽、超黄巾寇河北。濫吹之甚、自古未聞。天誅之所覃、冥譴何得遁。因茲去春之初、

鋤■棘矜一摧関中焉、匹馬倚輪纔遁海西矣。今聚其敗軍擁彼余衆、不恐雷霆之威、重待斧鉞之罪。六軍徘徊、群兇益振。是則孟津再駕之役、独夫所亡也。城濮三舎之謀、侍臣攸敗也。夫違天者有大咎。失道者其助寡。積暴之勢豈又能久乎。方今廻皇輿於花洛之外、張軍幕於猶渓之辺。

三千群侶、定合懇祈之掌、七社霊神、鎮廻擁護之眸者歟。彼代宗之屯長安也。観師於香積寺之中。勾践之在会稽也。陣兵天台山之北。事叶先蹤、寧非佳摸乎。爰当寺衆徒等、自翠花北幸、抽丹棘中庭。専祈宝祚之長久、只期妖■之滅亡。精誠無弐、冥助豈空乎。

就中寺辺之若輩、国中之勇士、頻有加官軍之志、屡廻退凶徒之策。然而南北境阻、風馬之蹄不及、山川地殊、雲鳥之勢難接矣。矧亦賊徒構謀、寇迫松■之下。人心未和、禍在蕭牆之中。前対燕然之虜、後有宛城之軍、攻守之間進退失度。但綸命屡降、牒送難黙止。

速率鋭師、早征凶党、今以状牒。々到准状。故牒。延元々年六月日興福寺衆徒等とぞ書たりける。(的確な現代語訳出来ず、後回し)


京勢は疲れて、山門又つよる由聞へければ、国々の勢百騎・二百騎、東坂本へと馳参る事引もきらず。中にも阿波・淡路より、阿間・志知・小笠原の人々、三千余騎にて参りければ、諸卿皆憑しき事に被思けるにや、今はいつをか可期、四方より牒し合せて、四国の勢を阿弥陀が峯へ差向て、夜々篝をぞ焼せられける。其光二三里が間に連て、一天の星斗落て欄干たるに不異。或夜東寺の軍勢ども、楼門に上て是をみけるが、「あらをびたゝしの阿弥陀が峯の篝や。」と申ければ、高駿河守とりも敢ず、多く共四十八にはよも過じ阿弥陀峯に灯す篝火と一首の狂歌に取成して戯ければ、満座皆ゑつぼに入てぞ笑ける。今一度京都に寄せて、先途の合戦あるべしと、諸方の相図定りにければ、士卒の志を勇めんが為に、忝も十善の天子、紅の御袴をぬがせ給ひ、三寸づゝ切て、所望の兵共にぞ被下ける。七月十三日、大将新田左中将義貞、度々の軍に、打残されたる一族四十三人引具して先皇居へ参ぜらる。主上龍顔麗しく群下を照臨有て、「今日の合戦何よりも忠を尽すべし。」と被仰下ければ、義貞士卒の意に代て、「合戦の雌雄は時の運による事にて候へば、兼て勝負を定めがたく候。但今日の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ、箭一つ射入候はでは、罷帰るまじきにて候なり。」と申て、御前をぞ被退出ける。諸軍勢、大将の前後に馬を早めて、白鳥の前を打過ける時、見物しける女童部、名和伯耆守長年が引さがりて打けるを見て、「此比天下に結城・伯耆・楠木・千種頭中将、三木一草といはれて、飽まで朝恩に誇たる人々なりしが、三人は討死して、伯耆守一人残たる事よ。」と申けるを、長年遥に聞て、さては長年が今まで討死せぬ事を、人皆云甲斐なしと云沙汰すればこそ、女童部までもか様には云らめ。今日の合戦に御方若討負ば、一人なり共引留て、討死せん者をと独言して、是を最後の合戦と思定てぞ向ける。

尊氏勢は疲労が蓄積して精彩を欠き、反対に山門は再び勢力を盛り返して来たようだと言われ出し、それに伴って諸国より軍勢が百騎、二百騎と東坂本に次々と駆けつけてきました。その中でも阿波、志知、小笠原の武将らが三千余騎を引き連れて来ましたから、

諸公卿らは皆頼もしく思われ、今こそ好機と考え諸軍勢と作戦を立てた上、四国の軍勢を阿弥陀が峯に派遣し、毎夜毎夜かがり火を燃やしました。その光は二、三里ほども連なり、それはまるで空一面の星が地上に落ちて、欄干を形作っているようです。

ある夜、東寺に駐屯している足利尊氏の軍勢らが楼門に上ってこれを見ると、「なんとまあ、阿弥陀が峯の篝火はものすごい数だ」と口々に話すので、高駿河守は慌てることも無く、

      多くとも 四十八には よも過じ 阿弥陀峯に 灯す篝火

と一首の狂歌に詠み込むふざけた様子に、その場に居た人々は皆、笑い転げたのでした。山門に陣している官軍も、もう一度京都に攻め込んで、天下分け目の一大決戦をしようと諸軍勢らと作戦も決まったので、ここは将兵らの戦意を鼓舞しなければと、

畏れ多くも天皇は紅のお袴をお脱ぎになり、三寸の長さに切り分け、所望する兵士らに下げ与えたのです。さて延元元年(1336年:建武三年)七月十三日、大将の新田左中将義貞は数度の合戦を経て、なお生き残っている一族、四十三人を率いてまず皇居に参内しました。

天皇はご機嫌麗しく居並ぶ将官をご覧になり、「今日の合戦においては、今一層の忠義を尽くさねばならぬ」と仰せられると、義貞は皆の気持ちを代弁し、「合戦の勝敗は時の運に寄ることなので、前もって勝負を決めることは出来ません。とは言え、今日の合戦において、

尊氏が篭っている東寺の中に、矢の一本でも射込まずに帰ってこようとは思いません」と申し上げ、御前を退出しました。その後諸軍勢らが義貞大将の前後を馬を急がせて、白鳥越え途中の白鳥山の付近を通り過ぎるとき、

見物していた女児が名和伯耆守長年の少し遠慮気味に通り過ぎる様子を見て、「最近は天下に結城、伯耆、楠木、千種頭中将らが三木一草ありと言われて、朝廷の圧倒的な信頼とご恩を自慢していた人々だったのに、

この内の三人は討ち死にし伯耆守ただ一人残っているみたい」と、話しているのを長年は遠くで聞き、と言うことはこの長年が今まで討ち死にせずに居ることを、京中の人々が散々批判しているからこそ、あのように女児まで言うのに違いない。

もし今日の合戦に味方が打ち負かされたなら、この私一人だけでも退却することなく居残り、討ち死にしようと一人独りごち、今日の合戦を自分の最後の合戦だと決めて戦場に向かいました。


○隆資卿自八幡被寄事
京都の合戦は、十三日の巳刻と、兼て諸方へ触送たりければ、東坂本より寄る勢、関山・今路の辺に引へて、時剋を待ける処に、敵や謀て火を懸たりけん、北白川に焼失出来て、烟蒼天に充満したり。八幡より寄んずる宮方の勢共是を見て、「すはや山門より寄て、京中に火を懸たるは。今日の軍に為をくれば、何の面目か有べき。」とて、相図の剋限をも不相待、其勢纔に三千余騎にて、鳥羽の作道より東寺の南大門の前へぞ寄たりける。東寺の勢、山門より寄る敵を防んとて、河合・北白河の辺へ皆向たりければ、卿相雲客、或は将軍近習の老者・児なんど許集り居て、此敵を可防兵は更になかりけり。寄手の足軽共、鳥羽田の面の畔をつたひ、四塚・羅精門のくろの上に立渡り、散々に射ける間、作道まで打出たりける、高武蔵守師直が五百余騎、被射立て引退く。敵弥勝に乗て、持楯ひしき楯を突寄々々、かづき入て攻ける程に、坤の角なる出屏の上の高櫓一つ、念なく被攻破て焼けり。城中是に躁れて、声々にひしめき合けれ共、将軍は些共不驚給、鎮守の御宝前に看経しておはしける。其前に問注所の信濃入道々大と土岐伯耆入道存孝と二人倶して候けるが、存孝傍を屹と見て、「あはれ愚息にて候悪源太を上の手へ向候はで、是に留て候はゞ、此敵をば輒く追払はせ候はんずる者を。」と申ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打見て、「いかに上の手の軍は未始まらぬか。」「いやそれは未存知仕候はず。三条河原まで罷向て候つるが、東寺の坤に当て、烟の見へ候間、取て返して馳参じて候。御方の御合戦は何と候やらん。」と申ければ、武蔵守、「只今作道の軍に打負て引退くといへ共、是御陣の兵多からねば、入替事叶はず、已に坤の角の出屏を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事此時也。一騎なりとも御辺打出て此敵を払へかし。」畏て、「承り候。」とて、悪源太御前を立けるを、将軍、「暫。」とて、いつも帯副にし給ける御所作り兵庫鎖の御太刀を、引出物にぞせられける。

☆ 四条隆資卿が八幡から攻め寄せられたこと

さて京都における合戦は十三日の巳刻(御前十時頃)に始めると、前もって諸軍勢に申し送っていましたから、東坂本から攻め込む軍勢らは、関山、今路の周辺に控えて打ち合わせの時刻を待っていましたが、敵の尊氏軍は戦略として放火をしたため、北白川周辺に火の手が上がり、

その煙は満天を覆い尽くしました。その頃八幡から攻め込む予定の宮方軍はこの火の手を見て、「これは早速山門の軍勢が攻め込んで、京都中に火をかけたに違いない。今日の合戦で遅れを取っては面目丸つぶれだ」と、予ての約束の時刻まで待たず、

僅か三千余騎の軍勢で鳥羽の作道より、東寺の南大門の前に攻め寄せました。東寺の軍勢は山門から攻めて来る敵勢を防ぐため、河合、北白川の周辺に皆向かっていたので、東寺には公卿百官や尊氏将軍に仕える老人また小さな童などが残っているだけで、

攻めてきた敵を防げる兵士らは一人も居ません。寄せ手軍の足軽たちは鳥羽周辺の田圃の畦伝いに、四塚、羅城門(東寺の西側)近くの畦まで近づくと、激しく矢を射込んだので、作道まで進出していた高武蔵守師直の五百余騎は、矢攻めに耐え切れず退却しました。

敵軍はますます勝ちに乗じて、手にした楯や、竹ざおに数枚の楯を結わえたものを数人で持ち、突き進みまた突き進んで攻め込んだので、坤(ひつじさる::西南の方向)の角にある出っ張った塀に建つ高櫓を訳なく攻略し、火をかけたのです。このため城中では大騒ぎになり、

お互い声を上げて右往左往しましたが、尊氏将軍は何も驚いたり慌てたりすることなく、鎮守の本尊の御前で読経されたいました。傍には問注所の信濃入道道大と、土岐伯耆入道存孝の二人が控えていましたが、存孝が傍らをキッと見て、

「しまった、頼りないけど我が息子の悪源太を、他方の戦場に向かわせず、ここに留めておいたなら、こんな敵など簡単に追い払うことが出来たのに」と話しているところに、悪源太がヒョコッと現れました。存孝は息子を嬉しそうに見て、

「どうしたのだ、北方の合戦はまだ始まっていないのか」と、問いかければ、「いやいや、それは分りません。三条河原まで駆け向かいましたが、東寺の西南方向に煙が見えたので、駆け戻ってきたのです。今ここの合戦において味方の状況はいかがですか」と話され、

武蔵守は、「ついさっき、作道での合戦に負けを喫し、退却はしたものの、ここも味方の兵士が少ないため、新手を投入することが出来ない。すでに西南の角は塀を破られて、櫓を燃やされてしまったので、今や将軍にとって一大危機である。

ここは例え一騎であっても汝が打って出て、向かう敵を追い払うべきだろう」と言えば、畏まって、「了解しました」と返答し、悪源太が御前を立とうとした時、将軍が、「しばらく待て」と言って、いつも帯にしている菊の銘が入り、銀の鎖を紐にした太刀を、引き出物として与えられたのです。


悪源太此太刀を給て、などか心の勇まざらん。洗皮の鎧に、白星の甲の緒を縮て、只今給りたる金作りの太刀の上に、三尺八寸の黒塗の太刀帯副、三十六差たる山鳥の引尾の征矢、森の如にときみだし、三人張の弓にせき絃かけて噛しめし、態臑当をばせざりけり。時々は馬より飛下りて、深田を歩まんが為也けり。北の小門より打出て、羅精門の西へ打廻り、馬をば畔の陰に乗放て、三町余が外に村立たる敵を、さしつめ引つめ散々にぞ射たりける。一矢に二人三人をば射落せども、あだ矢は一も無りければ、南大門の前に攻寄たる寄手の兵千余人、一度にはつと引退く。悪源太是に利を得て、かけ足逸物馬に打乗、さしも深き鳥羽田中を真平地に懸立て、敵六騎切て落し、十一騎に手負せて、仰たる太刀を押直し、東寺の方を屹と見て、気色ばうたる有様は、いかなる和泉小次郎・朝夷那三郎も是には過じとぞみへたりける。悪源太一人に被懸立て、数万の寄手皆しどろに成ぬと見へければ、高武蔵守師直千余騎にて、又作道を下りに追かくる。越後守師泰は、七百余騎にて竹田を下りに要合せんとす。已に引立たる大勢なれば、なじかは足を留むべき。討るゝをも顧ず、手負をも不助、我先にと逃散て、元の八幡へ引返す。

悪源太はこの太刀を賜って、どうして戦意が高揚しないでいられるでしょうか。薄紅色に染めた鹿革で威した鎧に、銀の星をつけた兜の緒を締めて、今、賜ったばかりの黄金造りの太刀の上に、三尺八寸の黒塗りの太刀を添えて、

山鳥の羽を付けた矢を三十六本、森のように箙に挿して、三人張りの弓に麻に漆を塗り絹を巻いて固めた弦を張って、わざと脛あては付けませんでした。なぜかと言えば時々馬より飛び降りて、深田を歩かねばならないからです。北側の小門より外に出て、

羅城門の西に向かうと馬を畦の陰に乗り捨て、三町ばかり離れて群れている敵に向かって、矢を次々と激しく射込みました。一本の矢で二、三人を射落とし、無駄な矢は一本たりとて無いので、南大門の前まで攻め寄せていた寄せ手軍の兵士、千余人は一度にサッと引き下がりました。

悪源太は勝機ありと思い、自慢の馬に駆け寄り乗るや、鳥羽のあれほど深い田圃をまるで平地のように駆けて行き、敵の六騎を切り落とし、十一騎に傷を負わせ、曲がった太刀を直し東寺の方向をキッと見つめた表情は、

いかに和泉小次郎(源氏の武将::和泉小次郎親衡?)や朝夷那三郎(頼朝時代の別当和田義盛の三男朝夷奈三郎義秀?)もかなわないだろうと見えました。悪源太ただ一人に追い立てられた数万の寄せ手軍は、秩序を失って収拾がつかない有様なので、

高武蔵守師直は千余騎を率いて再び作道を南に向かって追いかけました。また高越後守師泰は七百余騎にて竹田街道を南に向かい、一戦に及ぼうとしました。しかしすでに退却中の大軍なので、とても留まることなど出来ません。

味方が討たれようとも顧みることなく、また負傷を負っても助けようともぜすに、我先に逃げ回るばかりで、元の八幡に引き返しました。


○義貞軍事付長年討死事
一方の寄手の破れたるをも不知、相図の剋限よく成ぬとて、追手の大将新田義貞・脇屋義助、二万余騎を率して、今路・西坂本より下て、三手に分れて押寄る。一手は義貞・義助・江田・大館・千葉・宇都宮、其勢一万余騎、大中黒・月に星・左巴、丹・児玉のうちわの旗、三十余流連りて、糾すを西へ打通り、大宮を下りに被押寄。一手には伯耆守長年・仁科・高梨・土居・得能・春日部、以下の国々の勢集て五千余騎、大将義貞の旗を守て鶴翼魚鱗の陣をなし、猪隈を下りに押寄る。一手は二条大納言・洞院左衛門督を両大将にて五千余騎、牡丹の旗・扇の旗、只二流差揚て、敵に跡を切られじと、四条を東へ引亘して、さきへは態進まれず。兼てより阿弥陀が峯に陣を取たりし阿波・淡路の勢千余騎は、未京中へは入ず、泉涌寺の前今熊野辺までをり下て、相図の煙を上たれば、長坂に陣を取たる額田が勢八百余騎、嵯峨・仁和寺の辺に打散、所々に火を懸たり。京方は大勢なれども、人疲れ馬疲れ、而も今朝の軍に矢種は皆射尽したり。寄るは小勢なれ共、さしも名将の義貞、先日度々の軍に打負て、此度会稽の恥を雪んと、牙を咀名を恥づと聞ぬれば、御治世両統の聖運も、新田・足利多年の憤も、只今日の軍に定りぬと、気をつめぬ人は無りけり。去程に六条大宮より軍始て、将軍の二十万騎と義貞の二万騎と入乱て戦たり。射違る矢は、夕立の軒端を過る音よりも猶滋く、打合ふ太刀の鍔音は、空に応る山彦の、鳴り止む隙も無りけり。京勢は小路々々を立塞で、敵を東西より取篭、進まば先を遮り、左右へ分れば中をわらんと、変化機に応じて戦ければ、義貞の兵少も散らで、中をも不破、退て、跡よりも揉で、向ふ敵に懸立々々、大宮を下りにましくらに懸りける程に、仁木・細川・今川・荒川・土岐・佐々木・逸見・武田・小早河、此を被打散、彼に被追立、所々に磬へたれば、義貞の兵二万余騎、東寺の小門前に推寄て、一度に時をどつと作る。

☆ 新田義貞の合戦の様子と、名和長年が討ち死にしたこと

さて官軍側では八幡の寄せ手が破れたことを知らずにいましたが、合図の時刻になったので大手軍の大将、新田義貞、脇屋義助の二人は二万余騎を率いて、今路、西坂本経由で山を下り、三手に分かれて押し寄せました。

その内の一手は新田義貞と脇屋義助兄弟、江田、大館、千葉、宇都宮ら総勢一万余騎が大中黒、月に星、左巴などの紋が付いた旗、また丹、児玉党の団扇を模した紋の旗など三十余旒を連ねて、糺すの森を西に向かって過ぎ行き、大宮通りを南に向かって押し寄せました。

もう一手は伯耆守長年、仁科、高梨、土居、得能、春日部以下の国々の軍勢を集めた五千余騎が、大将新田義貞の旗を護持して、鶴翼魚鱗の陣形を作って、猪隅通りを南に向かって押し寄せました。残る一手は二条大納言、洞院左衛門督を両大将として五千余騎が、

牡丹の旗と扇の旗ただ二旒を差し上げて、敵に後方を遮断されないように、四条を東に進むものの、わざとそれ以上は進みませんでした。以前より阿弥陀が峯に陣を構えていた阿波と淡路の軍勢千余騎は、未だ京には入ることなく泉涌寺の前、今熊野周辺まで山から下って、

合図の煙を上げたので、長坂に陣を構えていた額田の軍勢八百余騎は、嵯峨、仁和寺周辺に展開し、あちこちに火を付けて回りました。さて足利尊氏軍は数こそ多いのですが、兵士も馬も疲労の極にあり、その上、今朝の合戦で、矢種は皆射尽くしてしまっています。

寄せ手軍は小勢ですが、名将と言われる義貞も、先日来の度々の合戦に負けが続いているため、今回は会稽の恥を雪がんと牙を研ぎ、名を汚すことなく戦うつもりらしいと聞こえてくるので、世を治めるべき大覚寺、持明院両統の命運も、新田と足利両家の多年に亘る確執も、

全てが今日の合戦で決着が付くだろうと、誰もが注目していました。やがて六条大宮周辺から戦闘が始まり、将軍率いる二十万騎と義貞の二万騎が、入り乱れての合戦になりました。互いに射る矢の立てる音は、夕立が軒端を打つ音よりも激しく、打ち合う太刀の鍔が放つ音は空に響き渡り、

山彦となって鳴り止むこともありません。足利勢は小路小路を遮断して、敵の官軍を東西から取り囲んで、進もうとすれば前方を遮断し、左右に分かれようとすれば中央の突破を図り、臨機応変に戦いました。しかし義貞の軍勢もバラバラになることなければ、

中央を突破されることもなく、退くと見せては攻撃に移ったり、向かう敵には一気に攻め込みながら、大宮の通りを南に向かって、まっしぐらに攻め込みました。この勢いに、仁木、細川、今川、荒川、土岐、佐々木、逸見、武田、小早川らの軍勢は蹴散らかされ、

そこかしこに追い込まれたり、あちこちに呆然と立ちすくばかりなので、義貞の兵士ら二万余騎は東寺の門前に押し寄せ、一度にドッと閧の声を挙げました。


義貞坂本を打出し時、先皇居に参て、「天下の落居は聖運に任せ候へば、心とする処に候はず。何様今度の軍に於ては、尊氏が篭て候東寺の中へ矢一射入候はでは、帰参るまじきにて候。」と申て出たりし其言に不違、敵を一と的場の内に攻寄せたれば、今はかうと大に悦で、旗の陰に馬を打すへ城を睨み、弓杖にすがつて、高らかに宣ひけるは、「天下の乱休事無して、無罪人民身を安くせざる事年久し。是国主両統御争とは申ながら、只義貞と尊氏卿との所にあり。纔に一身の大功を立ん為に多くの人を苦しめんより、独身にして戦を決せんと思故に、義貞自此軍門に罷向て候也。それかあらぬか、矢一受て知給へ。」とて、二人張に十三束二臥、飽まで堅めて引しぼり、弦音高く切て放つ。其矢二重に掻たる高櫓の上を越て、将軍の座し給る帷幕の中を、本堂の艮の柱に一ゆり/\て、くつまき過てぞ立たりける。将軍是を見給、「我此軍を起して鎌倉を立しより、全君を傾け奉んと思ふに非。只義貞に逢ひて、憤を散ぜん為也。き。然れば彼と我と、独身にして戦を決せん事元来悦ぶ所也。其門開け、討て出ん。」と宣ひけるを、上杉伊豆守、「是はいかなる御事にて候ぞ。楚の項羽が漢の高祖に向ひ、独身にして戦んと申しをば、高祖あざ笑て汝を討に刑徒を以てすべしと欺き候はずや。義貞そゞろに深入して、引方のなさに能敵にや遭と、ふてゝ仕候を、軽々しく御出ある事や候べき。思も寄ぬ御事に候。」とて、鎧の御袖に取付ければ、将軍無力義者の諌に順ふて、忿を押へて坐し給ふ。

新田義貞は坂本を出陣する時、先に皇居に参内し、「天下の今後については帝の御運にお任せしている以上、私には何も考えることはございません。ただ今回の合戦においては、尊氏が篭っている東寺に、矢の一本でも射込まずには、

帰ってくるものではありません」と、申し上げて御前を退出した通り、その言葉に違えず、敵をこの場まで追い込んだことに大いに喜び、旗の陰に馬を寄せると城内を睨みつけ、弓を杖にして大声で、「天下の騒乱は収まることなく、長年に亘り罪無き人々を苦しめてきた。

その原因たるや天皇の位に関して、両統の諍いにあるとは言いながら、実は義貞と尊氏卿の確執にある。ただ我が身の出世のため、数多くの人々を苦しめるより、ただ自分一人でこの戦いに決着を付けようと思って、この義貞は自らこの軍門に参ったのだ。

なにはともあれ、ここは矢の一筋でも受けて考えることだ」と言って、二人張りの弓に十三束二臥の矢を、キリリと引き絞り弦音高く放ちました。放たれた矢は二重にかき上げた土塀に建つ高櫓の上を飛び越え、尊氏将軍の座っている陣幕の中、本堂の艮(北東)の柱に、

鏃の根元深くブルルッと突き刺さりました。将軍はこの矢をご覧になり、「私はこの戦争を起こして鎌倉を出て以来、帝の地位を脅かそうと考えたことなど全くない。ただ義貞に出逢って、今までの憤懣を晴らしたいためである。面白いではないか。

ならば彼と私が互いに一人だけで雌雄を決すること、なんとも喜ばしいことではないか。その門を開けよ、打って出ようじゃないか」と話されましたが、上杉伊豆守が、「何をおっしゃっているのですか。楚国の項羽が漢国の高祖に向かって、一人で戦おうではないかと申し入れたのに対し、

高祖は冷ややかに笑い飛ばし、汝を討ち取るには罪人で十分だと、取り合わなかったではないですか。義貞は意味も無く深入りして今や退くことも出来ずにいたところ、良き敵に出会ったと開き直っているのに釣られて、軽はずみに打って出ることなどされるものではありません。

考え直してください」と言って、鎧の袖に取りすがったので、将軍も仕方なく忠臣の諫言に従い、怒りを収めてお座りになられました。


懸る処に、土岐弾正少弼頼遠、三百余騎にて、上賀茂に引へて有けるが、五条大宮に引へたる旗を見てければ、大将は皆公家の人々よと見てければ、後ろより時を吐と作て、喚き叫でぞ懸たりける。「すはや後ろより取回しけるは。川原へ引て、広みにて戦へ」と云程こそ有けれ、一戦も不戦、五条川原へはつと追出されて、些も足を不蹈留、西坂本を差して逃たりける。土岐頼遠、五条大宮の合戦に打勝て、勝時を揚ければ、此彼より勢共数千騎馳集て、大宮を下りに、義貞の後へ攻よする。神祇官に磬へたる仁木・細川・吉良・石堂が勢二万余騎は、朱雀を直違に西八条へ推寄る。東よりは小弐・大友・厚東・大内、四国・中国の兵共三万余騎、七条河原を下りに、針・唐橋へ引回して、敵を一人も不討洩引裹。三方は如此百重千重に取巻て、天を翔り地に潜て出るより外は、漏ても可逃方なし。前には城郭堅く守て、数万の兵鏃をそろへて散々に射る。義貞今日を限の運命也と思定給ければ、二万余騎を只一手に成て、八条・九条に引へたる敵十万余騎四角八方へ懸散し、三条河原へ颯と引て出たるを、千葉・宇都宮も、はや所々に引分れ、名和伯耆守長年も、被懸阻ぬとみへたり。仁科・高梨・春日部・丹・児玉三千余騎一手に成て、一条を東へ引けるが、三百余騎被討て鷺の森へ懸抜たり。長年は二百余騎にて大宮にて返し合せ、我と後の関をさして一人も不残死してけり。其後処々の軍に勝ほこりたる敵三十万騎、纔に討残されたる義貞の勢を真中に又取篭る。義貞も思切たる体にて、一引も引んとはし給はず、馬を皆西頭に立て、討死せんとし給ける処に、主上の恩賜の御衣を切て、笠符に付たる兵共所々より馳集り、二千余騎、戦ひ疲たる大敵を懸立々々揉だりけるに、雲霞の如くなる敵共、馬の足を立兼て、京中へはつと引ければ、義貞・義助・江田・大館、万死を出て一生に逢ひ、又坂本へ被引返。

その頃、土岐弾正少弼頼遠は三百余騎にて上賀茂に控えていましたが、五条大宮に翻っている旗を見ると、大将は皆公家の人々らしいので、後方に回り込みドッと閧の声を挙げ、喚き叫びながら懸かっていきました。「あっ、後ろから取り囲まれたぞ。

河原まで引き上げて広場で戦おう」と言ったものの、一戦に及ぶことなく五条河原へ追い出され、足を留めることなくそのまま西坂本に向かって逃げて行きました。このように土岐頼遠は五条大宮の合戦に勝利し勝鬨を挙げたので、あちこちから数千騎の軍勢が駆け集まり、

大宮通を南に向かって義貞の後方から攻めようとしました。神祇官に控えていた仁木、細川、吉良、石堂らの軍勢二万余騎は、朱雀大路を斜めに越えて西八条へ押し寄せました。また東からは少弐、大友、厚東、大内など四国や中国の兵士ら三万余騎が、

七条河原を南に針、唐橋方面に迂回し、敵を一人残らず討ち取らんと包囲しました。このように新田義貞の軍勢は三方を幾重にも包囲され、天空を翔けるか地に潜るかしない限り、逃げ出すことなど不可能です。また前方は東寺が城郭の如きに守りを固め、

数万の兵士が弓を並べて激しく射込んできます。この状況に義貞は今日限りの命かと覚悟を決め、二万余騎の軍勢を一つにまとめて、八条、九条に陣取っている敵、十万余騎を四方八方に蹴散らし、三条河原まで退却しましたが、千葉、宇都宮らとも何処かで別れ別れになり、

名和伯耆守長年とも引き離されたようです。仁科、高梨、春日部、丹、児玉らの三千余騎も一団になり、一条通りを東に向かって退却しようとしましたが、三百余騎が討ち取られ、鷺の森に逃げ込みました。名和長年は二百余騎を率いて大宮まで引き返し、退路を閉ざされた状況の中、

一人残らず討ち死にしました。その後あちこちの合戦で勝ちを収め、気勢の上がる足利軍三十万騎は、僅かに生き残っている義貞の軍勢を再び中に取りこめました。義貞も此処を死処と覚悟を決めたようすで、一歩も退こうとせず、馬の頭を全て西に向けさせ、討ち死にしようとしていたところ、

天子より恩賜の御衣を切って笠印にした兵士らが、処々より駆け集まってきたので、その数二千余騎になりました。そして戦い疲れた足利の大軍を、駆け立て追い立て戦いを挑んだところ、雲霞のごとくの敵どもは馬の進退が取れず、京の中央に向かってサッと引き上げました。

その隙に義貞、義助、江田、大館らは絶体絶命の危地を脱して、再び坂本に引き返されました。


○江州軍事
京都を中に篭て四方より寄せば、今度はさりともと憑しく覚へしに、諸方の相図相違して、寄手又打負しかば、四条中納言も、八幡を落て坂本へ被参ぬ。阿弥陀が峯に陣を取し阿波・淡路の兵共も、細川卿律師に打負て、坂本へ帰ぬ。長坂を堅めたりし額田も落て、山上へ帰参しければ、京勢は篭の中を出たる鳥の如く悦、宮方は穴に篭りたる獣の如く縮れり。南都の大衆も山門に可与力由返牒を送しかば、定て力を合せんずらんと待れしかども、将軍より数箇所の庄園を寄附して、被語ける程に、目の前の慾に身の後の恥を忘ければ、山門与力の合戦を翻して、武家合体の約諾をぞなしける。今は君の御憑有ける方とては、備後の桜山、備中の那須五郎、備前の児島・今木・大富が兵船を汰て近日上洛の由申けると、伊勢の愛州が、当国の敵を退治して、江州へ発向すべしと注進したりし許也。山門の衆徒財産を尽して、士卒の兵粮を出すといへ共、公家・武家の従類、上下二十万人に余りたる人数を、六月の始より、九月の中旬まで養ければ、家財悉尽て、共に首陽に莅んとす。剰北国の道をば、足利尾張守高経差塞で人を不通。近江の国も、小笠原信濃守、野路・篠原に陣を取て、湖上往返の舟を留めける間、只官軍朝暮の飢を嗜むのみに非ず、三千の聖供の運送の道塞て、谷々の講演も絶はてゝ、社々の祭礼も無りけり。山門角ては叶まじとて、先江州の敵を退治して、美濃・尾張の通路を開くべしとて、九月十七日に、三塔の衆徒五千余人、志那の浜より襄て、野路・篠原へ押寄る。小笠原、山門の大勢を見て、さしもなき平城に篭て、取巻れなば叶まじとて、逆よせに平野に懸合せて戦ける程に、道場坊注記祐覚、一軍に打負て、立足もなく引ければ、成願坊律師入替て、一人も不残討にけり。山門弥憤を深して、同二十三日、三塔の衆徒の中より五百房の悪僧を勝て、二万余人兵船を連て推渡る。小笠原が勢共、重て寄る山門の大勢に聞懼して大半落失ければ、勢纔三百騎にも不足けり。是を聞て例の大早の極めなき大衆共なれば、後陣の勢をも待調へず我前にとぞ進みける。

☆ 江州における合戦のこと

足利勢を京都の中に閉じ込めて四方から攻め込めば、今回はめったなことも無いだろうと頼もしく思っていたのに、諸方の戦闘計画が思うように行かず、寄せ手の義貞軍は再び負けを喫し、そのため四条中納言隆資も八幡を落ちて坂本に着きました。

阿弥陀が峯に陣を構えていた阿波、淡路の兵士らも細川卿律師に負けてしまい、坂本に帰ってきました。長坂を警固していた額田も攻略され、比叡山上に帰ってきたので、京都の足利勢は篭から出た鳥のように喜び、反対に宮方は穴に篭った獣のように萎縮しました。

南都興福寺の大衆からも山門延暦寺に味方すると返事が来ていたので、きっと協力してくれるだろうと待っていましたが、南都は将軍から数ヶ所の荘園の寄付を持ちかけられると、目の前の欲に目がくらんで、死後の恥を思わず、今回の合戦で山門に味方する約束を破棄して、

足利勢に従うことを承諾しました。今となっては後醍醐天皇の信頼できる勢力としては、備後の桜山、備中の那須五郎また備前の児島、今木、大富らが兵船を用意して、近日中に上洛する予定だと言ってきたのと、伊勢の愛州秀俊が自国の敵を征伐し、

江州に向かって進発すると報告があったくらいです。山門の衆徒らは財産を使い切ってでも、兵士や将官の兵糧は賄うとは言っても、公家や武家の縁者など上下含めて二十万人を超える人々を、六月の初めから九月中旬まで養ってきたので、すでに家財一切使い切り、

皆で首陽山(周の武王を諌めた伯夷、叔斉が隠棲し餓死した山)に行くことになりそうです。そればかりでなく、北国への道筋を足利尾張守(斯波)高経が閉鎖してしまいました。近江の国においても、小笠原信濃守が野路、篠原に陣を構えて、琵琶湖の舟での往来を禁止したので、

単に官軍の朝晩の兵糧の確保が難しいだけでなく、三千人の衆徒らの食事や、仏前に供える食品の輸送路も確保できず、比叡山の谷々での説法も行われること無く、各僧坊での祭礼も絶えてしまいました。延暦寺はこの状況を打破しなければと、まず近江の敵を追い払い、

美濃、尾張への街道を確保しようと、九月十七日に三塔の衆徒ら五千余人が、志那の浜から回り込み、野路、篠原に押し寄せました。小笠原は山門の大軍を見て、大した防衛能力もない平城に篭って、もし取り囲まれたら勝機など無いと考え、城から打って出てると平坦な土地で戦いました。

山門の道場坊注記祐覚はこの一戦で負けて、踏みとどまることが出来ず退却したので、成願坊律師が入れ替わったものの、一人残らず討たれてしまいました。この敗戦に、さすが山門としては大いに憤慨し、同じく二十三日、三塔の衆徒らが諸房より五百人の勇猛な僧兵を選抜し、

二万余人の兵士と共に舟を連ねて琵琶湖を渡りました。小笠原の軍勢らは、再び寄せてきた山門の大軍を見ると恐れをなし、大半の者が逃げ落ちて、残るは僅か三百騎にも足りません。この情報を得ると、いつものように血気にはやった大衆のことなので、陣形を固めたり整えることもなく我先に進みました。


大勢を敵に受て落留る程の者共なれば、なじかは些も気を可屈す。小笠原が三百余騎、山徒の向ひ陣を取たりける四十九院の宿へ、未卯刻に推寄て、懸立々々戦けるに、宗との山徒理教坊の阿闍梨を始として、三千余人まで討れにければ、湖上の舟に棹て堅田を差して漕もどる。懸る処に佐々木佐渡判官入道導誉、京より潜に若狭路を廻て、東坂本へ降参して申けるは、「江州は代々当家守護の国にて候を、小笠原上洛の路に滞て、不慮に両度の合戦を致し、其功を以て軈て管領仕候事、導誉面目を失ふ所にて候。若当国の守護職を被恩補候はゞ、則彼国へ罷向ひ、小笠原を追落し、国中を打平げて、官軍に力を著ん事、時日を移すまじきにて候。」とぞ申ける。主上も義貞も、出抜て申とは不知給、「事誠に可然。」とて、導誉が申請る旨に任せて、当国の守護職並に便宜の闕所数十箇所、導誉が恩賞に被行て江州へぞ被遣ける。元来斟て申つる事なれば、導誉江州へ推渡て後、当国をば将軍より給りたる由を申す間、小笠原軈て国を捨て上洛しぬ。導誉忽に国を管領して、弥坂本を遠攻に攻ければ、山徒の遠類・親類、宮方の被管・所縁の者までも、近江国中には迹を可止様ぞ無りける。「さては導誉出抜けり、時刻を不移退治せよ。」と、脇屋右衛門佐を大将にて、二千余騎を江州へ被差向。此勢志那の渡をして、舟より下ける処へ、三千余騎にて推寄せ、上も立ず戦ひける程に、或は遠浅に舟を乗すへ、襄り場に馬を下し兼て、被射落被切臥兵数を不知。此日の軍にも官軍又打負て、纔坂本へ漕返る。此後よりは山上・坂本に弥兵粮尽て、始め百騎二百騎有し者、五騎十騎になり、五騎十騎有し人は、馬にも不乗成にけり。

小笠原軍の兵士たちも、延暦寺の大軍を敵に受けて、逃げることなく留まった精兵であり、全く怖気づくことはありませんでした。小笠原の三百余騎は山徒らが向かい陣を構えている四十九院の宿に、卯刻(午前六時頃)になる前に押し寄せて、激しく攻撃を仕掛けました。

そのため山徒において重要な地位にある、理教坊の阿闍梨をはじめに三千余人が討たれてしまい、やむなく湖上を舟で堅田に向かって漕ぎ戻りました。そのような折、佐々木佐渡判官入道道誉が京都よりひそかに若狭路を迂回し、東坂本の官軍に降参を申し入れ、

「江州は代々当家が守護を務めてきた国だったのですが、小笠原が上洛の途上に滞陣し、突発的な合戦を二度まで行い、その軍功によってすぐに江州の支配を任され、この道誉は面目を失うことになりました。そこでもし江州の守護職を任されるなら、

すぐ、かの国に出兵して小笠原を追い落とし、国中の支配を確実にして、官軍の兵力増強に協力することに、それ程の時間は必要ないでしょう」と、申し上げました。後醍醐天皇も新田義貞も、謀略を含んだ申し入れとは気づかず、「なるほど、

そう言う事情なら申し入れも当然か」と、道誉の申し入れを許可し、当国江州の守護職に任命し、また都合よく領主のいない土地、数十ヶ所を道誉に恩賞として与えた上、江州に派遣しました。もともと本心からの申し入れではないので、江州に渡った道誉は小笠原に向かって、

この国は足利将軍より私が拝領した土地であると言うと、小笠原はすぐこの国を捨てて上洛しました。道誉は国の支配権をすぐ確実にしてからは、坂本の官軍陣営への敵対をあらわにしたので、山徒の親族また縁のある者などや、宮方に仕えていた者からその縁者まで、

近江の国に留まることが出来なくなりました。「さては、道誉め謀ったな、直ちに征伐してしまえ」と、脇屋右衛門佐義助を大将にして、二千余騎を江州に向かわせました。その軍勢は志那に渡ろうと舟より下りようとした時、道誉勢の三千余騎が押し寄せ、

両軍入り乱れての戦闘を続けるうち、ある舟は浅瀬に乗り上げて、馬を下ろすことも出来ず、射落とされる者や切り伏せられる者など、その数も分らないくらいです。この日の合戦も官軍は再び負けを喫し、かろうじて坂本に逃げ帰ったのでした。この後は比叡山上も坂本も兵糧尽き果てて、

当初百騎、二百騎を抱えていた武将も、五騎、十騎になり、五騎、十騎を抱えていた人は、馬に乗ることも出来なくなりました。


○自山門還幸事
斯る処に、将軍より内々使者を主上へ進じて被申けるは、「去々年の冬、近臣の讒に依て勅勘を蒙り候し時、身を法体に替て死を無罪賜らんと存候し処に、義貞・義助等、事を逆鱗に寄て日来の鬱憤を散ぜんと仕候し間、止事を不得して此乱天下に及候。是全く君に向ひ奉て反逆を企てしに候はず。只義貞が一類を亡して、向後の讒臣をこらさんと存ずる許也。若天鑒誠を照されば、臣が讒にをち罪を哀み思召て、竜駕を九重の月に被廻鳳暦を万歳の春に被複候へ。供奉の諸卿、並降参の輩に至で、罪科の軽重を不云、悉本官本領に複し、天下の成敗を公家に任せ進せ候べし。」と、「且は条々御不審を散ぜん為に、一紙別に進覧候也。」とて、大師勧請の起請文を副て、浄土寺の忠円僧正の方へぞ被進ける。主上是を叡覧有て、「告文を進する上、偽てはよも申されじ。」と被思召ければ、傍の元老・智臣にも不被仰合、軈て還幸成べき由を被仰出けり。将軍勅答の趣を聞て、「さては叡智不浅と申せ共、欺くに安かりけり。」と悦て、さも有ぬべき大名の許へ、縁に触れ趣きを伺て、潜に状を通じてぞ被語ける。去程に還幸の儀事潜に定ければ、降参の志ある者共、兼てより今路・西坂本の辺まで抜々に行設けて、還幸の時分をぞ相待ける。中にも江田兵部少輔行義・大館左馬助氏明は、新田の一族にて何も一方の大将たりしかば、安否を当家の存亡にこそ被任べかりしが、いかなる深き所存か有けん、二人共降参せんとて、九日暁より先山上に登てぞ居たりける。義貞朝臣斯る事とは不知給、参仕の軍勢に対面して事なき様にておはしける処へ、洞院左衛門督実世卿の方より、「只今主上京都へ還幸可成とて、供奉の人を召候。御存知候やらん。」と被告たりければ、義貞、「さる事や可有。御使の聞誤にてぞ有覧。」とて、最騒がれたる気色も無りけるを、堀口美濃守貞満聞も敢ず、「江田・大館が、何の用ともなきに、此暁中堂へ参るとて、登山仕つるが怪く覚候。貞満先内裏へ参て、事の様を見奉り候はん。」とて、郎等に被著たる鎧取て肩に投懸け、馬の上にて上帯を縮、諸鐙合せて参ぜらる。

☆ 後醍醐天皇が山門から還幸されたこと

このような実情の時(延元元年・建武三年1336年)、尊氏将軍が内々に天皇に使者を遣わし、「一昨年の冬、帝にお仕えする近臣の讒言により勅勘を蒙った時、出家し身を法体にして死罪を許されようと考えていたところ、新田義貞、義助らが帝の逆鱗に事寄せて、年来の鬱憤を晴らそうとしたため、

やむを得ずこの大乱を天下に引き起こすことになりました。従って帝に向かって反逆を企てた訳では全くございません。ただ義貞一族のみを滅亡に導き、今後現れる讒臣を牽制しようと思うだけです。もし天に鏡があって真実を写したならば、朝臣尊氏は讒訴によって罪を受けたことがはっきりし、

哀れと思し召されるならば、帝は御輿を宮中に向かわせられ、今のこの乱世を万歳の声が満ち溢れる春に戻してください。付き従った諸卿や降参を申し出た者どもに至るまで、罪科の軽重を問わず全て元の官位、領地に戻し、今後の天下の政治一般を、

公家にお任せいたしましょう」と申され、「なお、何かと持たれるご不審を解くために、別紙書状にして一通添えておきます」と言って、大師勧請の起請文(伝教大師、慈覚大師に誓い、破った時は罰を受ける)をさし添えて、後醍醐天皇との交渉役である浄土寺の忠円僧正に渡されました。

後醍醐天皇はこの起請文をご覧になり、「起請文として申し入れてきたからには、めったに偽りはなかろう」とお考えになり、近くに仕える元老や重臣らと相談されることも無く、すぐに還幸する旨を仰せられたのでした。将軍は後醍醐からの返答を聞き、「天皇の叡智は計り知れないと言われているが、

簡単に騙せるものだ」と喜ばれ、味方に引き込めそうな大名に対して、折を見て真意を聞き出した上、密かに書状を渡されました。やがて還幸の進行次第も内密に決められ、降伏の意思を持った武将たちは、前もって今路、西坂本のあたりまで早々と行って、還幸の時日を待っていました。

その中でも江田兵部少輔行義と大館左馬助氏明は新田の一族として、二人とも一方の大将をも務めていたのであり、本来なら我が家の存亡は新田家の運命に任すべきなのですが、何か深い考えがあってのことか二人とも降参を決め、九日の明け方より先に山上に登っていました。

義貞朝臣はこの事態の急変を知らず、集結した軍勢と対面し、特別変わった様子も感じられないところに、洞院左衛門督実世卿から使者が来て、「今、山上では後醍醐天皇が京都に還幸されるからと、お供される人々をお呼びになっているが、

貴殿はこの事ご存知でしょうか」と、知らせてきました。義貞はこの話を聞いても、「そんなことあるはずが無い。貴殿の聞き間違いではないのか」と言って、特にお騒ぎになる様子も見せませんでしたが、堀口美濃守貞満がこの話しを聞くやいなや、「江田と大館が何の用事も無いのに、

今朝早く延暦寺根本中堂にお参りするとか言って登山されたが、考えればおかしな話しだ。この貞満が先に内裏に参内し、事実を確認して来ましょう」と言って、家来に持たせていた鎧を取り肩に引っ掛け、馬の上で鎧の帯を締めると、馬の腹を両側より鐙で打ち、早駆けにて出発しました。


皇居近く成ければ、馬より下、甲を脱で中間に持せ、四方を屹と見渡すに、臨幸只今の程とみへて、供奉の月卿雲客、衣冠を帯せるもあり、未鳳輦を大床に差寄て、新典侍、内侍所の櫃を取出し奉れば、頭弁範国、剣璽の役に随て、御簾の前に跪く。貞満左右に少し揖して御前に参、鳳輦の轅に取付、涙を流して被申けるは、「還幸の事、児如の説幽に耳に触候つれ共、義貞存知仕らぬ由を申候つる間、伝説の誤かと存て候へば、事の儀式早誠にて候ける。抑義貞が不義何事にて候へば、多年の粉骨忠功を被思召捨て、大逆無道の尊氏に叡慮を被移候けるぞや。去元弘の始、義貞不肖の身也といへ共、忝も綸旨を蒙て関東の大敵を数日の内に亡し、海西の宸襟を三年の間に休め進せ候し事、恐は上古の忠臣にも類少く、近日義卒も皆功を譲る処にて候き。其尊氏が反逆顕しより以来、大軍を靡して其師を虜にし、万死を出て一生に逢こと勝計るに不遑。されば義を重じて命を墜す一族百三十二人、節に臨で尸を曝す郎従八千余人也。然共今洛中数箇度の戦に、朝敵勢盛にして官軍頻に利を失候事、全戦の咎に非ず、只帝徳の欠る処に候歟。仍御方に参る勢の少き故にて候はずや。詮ずる処当家累年の忠義を被捨て、京都へ臨幸可成にて候はゞ、只義貞を始として当家の氏族五十余人を御前へ被召出、首を刎て伍子胥が罪に比、胸を割て比干が刑に被処候べし。」と、忿る面に泪を流し、理を砕て申ければ、君も御誤を悔させ給へる御気色になり、供奉の人々も皆理に服し義を感じて、首を低てぞ坐られける。

やがて皇居に近づいてきたので馬より下りて、兜を脱ぐと中間に持たせ、四方をキッと見回してみれば、今まさに臨幸のご出発らしく、お供の諸公卿や殿上人らは、衣冠を身に着け正装の人もいます。天皇の乗られる行幸用の輿はまだ大床に置かれており、

新典侍が内侍所(八咫鏡)の櫃を取り出され、頭弁範国が剣璽(草薙の剣と八尺瓊曲玉)を捧げ持って御簾の前に跪いています。貞満は左右にちょっと礼をして御前に進み出、鳳輦(天皇の乗られる輿)の轅に取りすがると涙を流しながら、「帝の還幸の件について、

あり得ないことと思いながらも聞いてはいましたが、義貞も存じ上げないと話されるので、何かの間違いではないかと思っていましたところ、来て見れば還幸の事実は確実に進んでいるようです。そもそも義貞に如何なる不義があって、長年の粉骨砕身の忠義を見捨てられ、

大逆無道の尊氏に気持ちをお移しになられたのでしょうか。さる元弘(1331-1334年)の初め、義貞は不肖の身ではあっても、かたじけなく綸旨を賜り、関東の大敵北条家を数日の内に滅亡させ、帝のお心を三年にわたり安らかに保って頂いた事、恐らく上古にさかのぼっても、

彼ほどの忠臣は例が少なく、そのため最近は忠義あふれる武将らも彼に功を譲るほどです。しかるにあの尊氏は反逆の意思を明確にして、大軍を擁して我らの大元帥殿を虜にし、九死に一生を得ようと最後の手段に出たものに違いありません。ところが忠義を第一に考えて、

我が命を捨ててきた我らの一族百三十二人と、忠節に生きようと屍を野にさらしたその家来たちは、八千余人に上ります。しかしながら現在、洛中における数回の会戦において、朝敵は戦意盛んで軍勢も豊富であり、反対に我ら官軍は戦いを有利に進めることが出来ずにいますが、

これは何も我らの戦法に問題があるわけでなく、帝の威徳が欠けているからではないでしょうか。つまり帝の危機に当たって、我ら官軍に味方せんと、駆けつける軍勢が少ないからではないでしょうか。つまるところ、我ら新田家が尽くしてきた積年の忠義を無視して、京都に臨幸されるならば、

ここは義貞をはじめに当家の一族五十余人を御前に呼びたて、首を刎ねて伍子胥(呉王夫差に越王勾踐の降伏を許さないよう諌めて死を命じられる)の処刑になぞらえるか、胸を裂いて比干の処刑(殷の紂王を諌めた比干の胸をえぐって殺した)如きにされてはいかがでしょうか」と、怒りをあらわにした顔に涙を流して、

理路整然と申し上げたので、さすが後醍醐天皇も、自分の過ちを後悔されるようなお顔になられ、取り巻いている人々も理屈に逆らえず、あふれる忠義心に心を打たれ、首を低くして座っておられました。      (終り)

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