17 太平記 巻第十七  (その三)


○立儲君被著于義貞事付鬼切被進日吉事
暫有て、義貞朝臣父子兄弟三人、兵三千余騎を召具して被参内たり。其気色皆忿れる心有といへ共、而も礼儀みだりならず、階下の庭上に袖を連ねて並居たり。主上例よりも殊に玉顔を和げさせ給て、義貞・義助を御前近く召れ、御涙を浮べて被仰けるは、「貞満が朕を恨申つる処、一儀其謂あるに似たりといへ共、猶遠慮の不足に当れり。尊氏超涯の皇沢に誇て、朝家を傾んとせし刻、義貞も其一家なれば、定て逆党にぞ与せんと覚しに、氏族を離れて志を義にをき、傾廃を助て命を天に懸しかば、叡感更に不浅。只汝が一類を四海の鎮衛として、天下を治めん事をこそ思召つるに、天運時未到して兵疲れ勢ひ廃れぬれば、尊氏に一旦和睦の儀を謀て、且くの時を待ん為に、還幸の由をば被仰出也。此事兼も内々知せ度は有つれ共、事遠聞に達せば却て難儀なる事も有ぬべければ、期に臨でこそ被仰めと打置つるを、貞満が恨申に付て朕が謬を知れり。越前国へは、川島の維頼先立て下されつれば、国の事定て子細あらじと覚る上、気比の社の神官等敦賀の津に城を拵へて、御方を仕由聞ゆれば、先彼へ下て且く兵の機を助け、北国を打随へ、重て大軍を起して天下の藩屏となるべし。但朕京都へ出なば、義貞却て朝敵の名を得つと覚る間、春宮に天子の位を譲て、同北国へ下し奉べし。天下の事小大となく、義貞が成敗として、朕に不替此君を取立進すべし。朕已に汝が為に勾践の恥を忘る。汝早く朕が為に范蠡が謀を廻らせ。」と、御涙を押へて被仰ければ、さしも忿れる貞満も、理を知らぬ夷共も、首を低れ涙を流して、皆鎧の袖をぞぬらしける。九日は事騒き受禅の儀、還幸の装に日暮ぬ。夜更る程に成て、新田左中将潜に日吉の大宮権現に参社し玉ひて、閑に啓白し給けるを、「臣苟も和光の御願を憑で日を送り、逆縁を結事日已に久し。願は征路万里の末迄も擁護の御眸を廻らされて、再大軍を起し朝敵を亡す力を加へ給へ。我縦不幸にして命の中に此望を不達と云共、祈念冥慮に不違ば、子孫の中に必大軍を起者有て、父祖の尸を清めん事を請ふ。此二の内一も達する事を得ば、末葉永く当社の檀度と成て霊神の威光を耀し奉るべし。」と、信心を凝して祈誓し、当家累代重宝に鬼切と云太刀を社壇にぞ被篭ける。

☆ 恒良親王に皇位を譲った上、義貞に従わせたことと、鬼切を日吉神社に供えられたこと

しばらくして義貞朝臣父子と兄弟三人が、兵士ら三千余騎を率いて参内してきました。皆やりきれない怒りを心に秘めているとは言え、さすが礼を失することなく、階下の庭に袖を連ねて居並びました。後醍醐天皇はいつもよりお顔を和ませて、義貞、義助を御前近く呼び寄せられ、

お涙の中、「貞満がこの私を批判したが、その言い分、一理あるとは言えども、読みの深さにおいてまだまだ足らない所がある。つまり尊氏が分を過ぎた朝廷の恩恵を受けておきながら、朝廷の権威をおとしめようとした時、義貞も同じく源家の武家であれば、

きっと逆賊に加担するであろうと考えていたが、一族の誼を捨てその志を朝廷に忠義を尽くすことに置き、国家の滅亡を救わんと、命がけで戦ってきたことは、この私も大いに感謝しているところである。しかし、汝の一族を以って四海の鎮護に当たり、天下を治めようと考えていたが、

天運に恵まれず兵士らの疲労も大きく、また軍勢の補給も思うに任せずの状態であれば、ここは尊氏と一時の和睦を謀り、時期の到来を待とうと還幸を決めたのである。この件については前もって相談したく思ったが、事が洩れては返って難しいこともあろうかと、時期を見て話そうと考えていた。

しかし、貞満の申すことを聞いて私も過ちに気づいた。言っておくが、越前国へは河島維頼を先に下してあり、かの国ではきっと何も問題が無いと考えられるし、気比神宮の神官らが敦賀の浜に築城して、味方をすると言ってきているので、汝は、まず敦賀に入って軍事全般の準備を進め、

北国を従え再び大軍を編成して、国家の防衛軍となるように。とは言え、私が京都に行けば義貞が朝敵と呼ばれる可能性もあるので、皇太子、恒長親王に天子の位を譲った上、北国に同行させよう。以後は天下のこと大小にかかわり無く義貞が処理し、私と変わりなく新しい天子を良く補佐するように。

私はすでに汝のために勾踐の恥(越王勾踐は呉王夫差に会稽で破れ、夫差の臣下になるという屈辱)を覚悟している。汝は一日も早く私のために范蠡の謀(会稽の恥を雪がんため策略を練った)をめぐらすように」と、涙をこらえながら仰せられると、さすが怒りに震えていた貞満も、

詳しい事情は知らない荒武者どもも、首を低くたれ涙を流し、鎧の袖を濡らさない者はいませんでした。このように延元元年(建武三年1336年)十月九日は何かと騒がしい中、皇位継承の儀式や還幸の準備などで日が暮れました。やがて夜も更けた頃、

新田左中将義貞は密かに日吉大宮権現に参詣し心静かに、「この私は恐れながら神仏のご加護を頼りに日を過しておきながら、長期にわたり何らそれに報うことが出来ずにいます。しかし願わくば、逆賊を征伐出来るまで今後も援護を賜り、再び大軍を催して、朝敵を滅亡させる力をお与えください。

もし私が不幸にも祈願達成できずに命を落としても、この祈願が神仏のお心に叶っているならば、私の子孫の中より必ずや大軍を催す者が現れ、志半ばで倒れた父祖の無念を晴らすことが出来るようお願いします。この二つの願いのうち、一つでも達成出来たなら、今後末永く当神社の檀家となり、

霊験あらたな神仏の威厳を輝かし続けましょう」と、深い信仰心を持って祈願し、新田家累代重宝としている鬼切と言う名の太刀を壇上に供えられました。


○義貞北国落事
明れば十月十日の巳刻に、主上は腰輿にめされて今路を西へ還幸なれば、春宮は竜蹄にめされ、戸津を北へ行啓なる。還幸の供奉にて京都へ出ける人々には、吉田内大臣定房・万里小路大納言宣房・御子左中納言為定・侍従中納言公明・坊門宰相清忠・勧修寺中納言経顕・民部卿光経・左中将藤長・頭弁範国、武家の人々には、大館左馬頭氏明・江田兵部少輔行義・宇都宮治部大輔公縄・菊池肥後守武俊・仁科信濃守重貞・春日部左近蔵人家縄・南部甲斐守為重・伊達蔵人家貞・江戸民部丞景氏・本間孫四郎資氏・山徒の道場坊助注記祐覚、都合其勢七百余騎、腰輿の前後に相順ふ。行啓の御供にて、北国へ落ける人々には、一宮中務卿親王・洞院左衛門督実世・同少将定世・三条侍従泰季・御子左少将為次・頭大夫行房・子息少将行尹、武士には新田左中将義貞・子息越後守義顕・脇屋右衛門佐義助・子息式部大夫義治・堀口美濃守貞満・一井兵部大輔義時・額田左馬助為縄・里見大膳亮義益・大江田式部大夫義政・鳥山修理亮義俊・桃井駿河守義繁・山名兵庫助忠家・千葉介貞胤・宇都宮信濃将監泰藤・同狩野将監泰氏・河野備後守通治・同備中守通縄・土岐出羽守頼直・一条駿河守為治、其外山徒少々相雑て、都合其勢七千余騎、案内者を前に打せて、竜駕の前後に打囲む。此外妙法院の宮は御舟に被召て、遠江国へ落させ給ふ。阿曾宮は山臥の姿に成て吉野の奥へ忍ばせ給ふ。四条中納言隆資卿は紀伊国へ下り、中院少将定平は河内国へ隠れ給ふ。其有様、偏に只歌舒翰安禄山に打負て、玄宗蜀の国へ落させ給し時、公子・内宮、悉、或は玉趾を跣にして剣閣の雲に蹈迷ひ、或は衣冠を汚して野径の草に逃蔵れし昔の悲に相似たり。昨日一昨日までも、聖運遂に開けば、錦を著て古郷へ帰り、知ぬ里、みぬ浦山の旅宿をも語り出さば、中々にうかりし節も悲きも、忘形見と成ぬべし、心々の有様に身を慰めて有つるに、君臣父子万里に隔り、兄弟夫婦十方に別行けば、或は再会の期なき事を悲み、或は一身の置処なき事を思へり。今も逆旅の中にして、重て行、々も敵の陣帰るも敵の陣なれば、誰か先に討れて哀と聞んずらん、誰か後に死て、なき数を添んずらんと、詞に出ては云はね共、心に思はぬ人はなし。「南翔北嚮、難附寒温於春鴈。東出西流、只寄贍望於暁月。」江相公の書たりし、別れに送る筆の迹、今の涙と成にけり。

☆ 新田義貞の北国落ちのこと

明けて延元元年(建武三年1336年)十月十日、巳刻(御前十時頃)に後醍醐天皇は腰輿(前後を二人で腰の辺りでながえを支える乗り物)に乗られ、今路経由で西に向かって還幸され、皇太子は駿馬に乗られて戸津を北に向かって行啓されました。後醍醐の還幸にお供して京都に向かうのは、

吉田内大臣定房、万里小路大納言宣房、その子左中納言為定、侍従中納言公明、坊門宰相清忠、観修寺中納言経顕、民部卿光経、左中将藤長、頭弁範国ら、また武家の人々としては、大館左馬頭氏明、江田兵部少輔行義、宇都宮治部少輔公縄、菊池肥後守武俊、

仁科信濃守重貞、春日部左近蔵人家縄、南部甲斐守為重、伊達蔵人家貞、江戸民部丞景氏、本間孫四郎資氏、山徒の道場坊助注記祐覚など総勢七百余騎が、腰輿の前後に従いました。また皇太子の行啓にお供して北国に落ち延びる人々は、一宮中務卿親王、

洞院左衛門督実世、同じく少将定世、三条侍従泰季、その子左少将為次、頭大夫行房、その子少将行尹ら、武士では新田左中将義貞、その子越後守義顕、脇屋右衛門佐義助、その子式部大夫義治、堀口美濃守貞満、一井兵部大輔義時、額田左馬助為縄、

里見大膳亮義益、大江田式部大夫義政、鳥山修理亮義俊、桃井駿河守義繁、山名兵庫助忠家、千葉介貞胤、宇都宮信濃将監泰藤、同じく狩野将監泰氏、河野備後守通治、同じく備中守通縄、土岐出羽守頼直、一条駿河守為治らと、その外、山徒などが少々混じって総勢、

七千余騎が道案内を先頭にして、皇太子の乗り物の前後を囲んでいます。この人達以外に妙法院の宮(宗良親王)は舟に乗られて遠江国に落ちて行きました。また阿曾宮(懐良親王?)は山伏の姿になって、吉野の奥に忍び込みました。その外、四条中納言隆資卿は紀伊国に下り、

中院少将定平は河内国に隠れました。このようにばらばらになって落ち延びていく様子は、哥舒翰が潼関の戦いで安禄山に負け、唐の皇帝玄宗が蜀に落ち延びる時、子供たちや奥方ら全員が裸足になって、長安から四川省にある蜀の剣閣に通じる難所を、

方角もはっきり分らないまま歩き続けたり、あるいは衣服を泥で汚しながら野草に身を潜めたと言う、昔あった悲劇と変わりありません。昨日また一昨日まで帝の運さえ開けば、錦で身を飾って故郷に戻り、お互い知らない里や、見たことも無い海沿いの山々で宿営したことなどを話し合えば、

辛かったり悲しかったりしたことなども、今となれば良い思い出となるのではと、心の底で慰めていたのに、帝とその臣下、あるいは父子が万里に生き別れ、また兄弟や夫婦も四方に別れていくと、今後二度と再会出来ないのではと悲しくなったり、今後は身の置き所も無いのではと思うばかりです。

今も逃避行の中にあって、行く先には敵の軍勢がいるだろうし、退き返せばそこにも敵勢が待っていると言う状況では、誰が先に討たれてその死を悲しむのか、誰が後で死ぬことになり亡き人の数に入るのかと、口には出さないものの、心の奥で思わない人などいません。

「南翔北嚮、難附寒温於春鴈。東出西流、只寄贍望於暁月。」(勝手解釈::南や北に向かって飛ぶ雁に、暑さ寒さの便りを託すことも出来ない。東から上り西に沈む月にただ思いを寄せるだけだ。皆々遠くに離れ離れとなる悲しさ)と、江相公(大江朝綱)によって書かれた、別れに際して贈った詩歌も、今はただ涙の中にあります。


○還幸供奉人々被禁殺事
還幸已に法勝寺辺まで近付ければ、左馬頭直義五百余騎にて参向し、先三種の神器を当今の御方へ可被渡由を被申ければ、主上兼より御用意有ける似せ物を取替て、内侍の方へぞ被渡ける。其後主上をば花山院へ入進せて、四門を閉て警固を居へ、降参の武士をば大名共の方へ一人づゝ預て、召人の体にてぞ被置ける。可斯とだに知たらば、義貞朝臣と諸共に北国へ落て、兎も角も成べかりける者をと、後悔すれ共甲斐ぞなき。十余日を経て後、菊池肥後守は、警固の宥くありける隙を得て本国へ逃下りぬ。又宇都宮は、放召人の如にて、逃ぬべき隙も多かりけれ共、出家の体に成て徒に向居たりけるを、悪しと思ふ者や為たりけん、門の扉に山雀を絵書、其下に一首の歌をぞ書たりける。山がらがさのみもどりをうつのみや都に入て出もやらぬは本間孫四郎は、元より将軍家来の者なりしが、去る正月十六日の合戦より新田左中将に属して、兵庫の合戦の時は、遠矢を射て弓勢の程をあらはし、雲母坂の軍の時は、扇を射て手垂の程を見せたりし、度々の振舞悪ければとて、六条川原へ引出して首を被刎けり。山徒の道場坊助注記祐覚は、元は法勝寺の律僧にて有しが、先帝船上に御座ありし時、大衣を脱で山徒の貌に替へ、弓箭に携て一時の栄華を開けり。山門両度の臨幸に軍用を支し事、偏に祐覚が為処也しかば、山徒の中の張本也とて、十二月二十九日、阿弥陀が峯にて切られけるが、一首の歌を法勝寺の上人の方へぞ送りける。大方の年の暮ぞと思しに我身のはても今夜成けり此外山門より供奉して被出たる三公九卿、纔に死罪一等を被宥たれ共、解官停任せられて、有も無が如くの身に成給ければ、傍人の光彩に向て面を泥沙の塵に低、後生の栄耀を望で涙を犬羊の天に淋く。住にし迹に帰り給けれ共、庭には秋の草茂て通し道露深く、閨には夜の月のみさし入て塵打払ふ人もなし。顔子が一瓢水清して、独道ある事を知るといへ共、相如が四壁風冷して衣なきに堪ず、五衰退没の今の悲に、大梵高台の昔の楽を思出し給ふにも、世の憂事は数添て、涙の尽る時はなし。

☆ 後醍醐天皇の還幸に付き従った人々を監禁し殺害したこと

すでに天皇の還幸の列が法勝寺近くまで来たので、左馬頭直義は五百余騎を従えて参向し、まず最初に三種の神器を我らに引き渡すよう申し上げたところ、天皇は前もって用意していた偽物に取り替えて、内侍の方にお渡しになりました。

その後天皇を花山院にご案内して、四方の門を閉め切って警固の者を配置し、また降参した武士は大名たちに一人づつ預け、囚人としての扱いをとりました。こんな目に逢うのが分かっていたら、義貞朝臣と一緒に北国に落ち延び、運を天に任せるのだったと後悔しても間に合いません。

十余日が過ぎた頃、菊池肥後守は警固の緩んだ隙を狙って本国に逃げ帰りました。また宇都宮は厳しい監視下に置かれた訳でなく、逃げ出す隙もたびたびあったのですが、出家し僧の姿になって無為に過ごしていました。

そのことを良く思わない人の仕業なのか、門の扉に山雀(やまがら)の絵を描き、その下に一首の歌が書いてありました。
      山がらが さのみもどりを うつのみや 都に入りて 出もやらぬは

また本間孫四郎はもともと足利将軍の家来だったのですが、去る正月十六日の合戦より、新田左中将の味方に加わり、兵庫の合戦の時には遠矢を射てその弓勢を披露し、雲母坂の合戦においては扇を射抜いて腕前の程を見せましたが、たびたびの行動に問題が多いという理由から、

六条河原に引き出され首を刎ねられたのです。比叡山の僧侶である道場坊助注記祐覚は、もとは法勝寺の律僧でしたが、先帝後醍醐が船上山を行宮にされていた時、僧としての袈裟を脱ぎ、僧兵の姿となって弓箭の道に進み、一時の栄華を謳歌しました。

先帝後醍醐の山門への二度にわたる臨幸に際して、軍事一般を全て祐覚が取り仕切ったので、山徒の中でも一番の張本人だと、十二月二十九日、阿弥陀が峯にて斬られましたが、一首の歌を法勝寺の上人に送られていました。

      大方の 年の暮ぞと 思いしに 我身のはても 今夜成けり

この外、山門より付き添ってきた三公九卿(太政大臣や左右大臣など朝廷の高官)らは、何とか死罪だけは逃れたものの、官位を剥奪されると共に官職も解任になり、世間から見放された人間にされては、周りの人の輝く姿を見れば、自分の顔が泥塗られた気分に落ち込み、

せめて後生だけでも良かれと、空しく天に向って涙を流すばかりです。住んでいた元の屋敷に戻って見れば、庭には秋の草が生い茂り、通路は夜露で濡れそぼち、寝所には夜の月の光だけが差し込んで、塵を払う人もいません。顔子(顔淵::孔子の門人)が瓢一杯の飲み物に不足しても、

人としての道徳は守ることが出来ると言っても、司馬相如の家屋のように四方の壁しかなければ、吹き込む風の冷たさに、衣服無しでは耐えられるものではありません。天人が死に臨んで現れるという衰えを思わせる今の悲しみに、以前の華やかな生活を思い出しては、

世間から受ける辛くて悲しいことに滅入って、涙の枯れる時も来そうにありません。


○北国下向勢凍死事
同十一日は、義貞朝臣七千余騎にて、塩津・海津に著給ふ。七里半の山中をば、越前の守護尾張守高経大勢にて差塞だりと聞へしかば、是より道を替て木目峠をぞ越給ひける。北国の習に、十月の初より、高き峯々に雪降て、麓の時雨止時なし。今年は例よりも陰寒早くして、風紛に降る山路の雪、甲冑に洒き、鎧の袖を翻して、面を撲こと烈しかりければ、士卒寒谷に道を失ひ、暮山に宿無して、木の下岩の陰にしゞまりふす。適火を求得たる人は、弓矢を折焼て薪とし、未友を不離者は、互に抱付て身を暖む。元より薄衣なる人、飼事無りし馬共、此や彼に凍死で、行人道を不去敢。彼叫喚大叫喚の声耳に満て、紅蓮大紅蓮の苦み眼に遮る。今だにかゝり、後の世を思遣るこそ悲しけれ。河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。同十三日義貞朝臣敦賀津に著給へば、気比弥三郎大夫三百余騎にて御迎に参じ、東宮・一宮・総大将父子兄弟を先金崎の城へ入奉り、自余の軍勢をば津の在家に宿を点じて、長途の窮屈を相助く。爰に一日逗留有て後、此勢一所に集り居ては叶はじと、大将を国々の城へぞ被分ける。大将義貞は東宮に付進せて、金崎の城に止給ふ。子息越後守義顕には北国の勢二千余騎を副て越後国へ下さる。脇屋右衛門佐義助は千余騎を副て瓜生が杣山の城へ遣はさる。是は皆国々の勢を相付て、金崎の後攻をせよとの為也。

☆ 北国に向かった軍勢が凍死したこと

延元元年(建武三年1336年)十月十一日、義貞朝臣は七千余騎を率いて塩津、海津に到着しました。この先七里半の山中は、越前の守護である尾張守斯波高経が、大軍を率いて街道を閉鎖していると聞き、ここから道を変えて木の芽峠越えを取りました。

例年北国では十月の初めより、高い山々には雪が降り積もり、麓では時雨の止むときもありません。その上今年は例年より寒波が早くやってきて、風と一緒になって降る山の雪が甲冑に吹きつけ、鎧の袖を翻して顔面を激しく殴りつけてくるので、将官、兵士らは山中で道に迷い、

暮れ行く山に宿営する場所も確保できず、木の下や岩の陰に小さくなって伏せることしか出来ません。たまたま火にありついた者は、弓矢を折って薪にしたのであり、いまだに友と離れていない者は、お互いに抱き合って暖を取ったりしました。

初めから薄着だった人や、飼葉にありつけない馬たちは、あちこちで凍え死んでしまい、軍勢は動きが取れません。あの叫喚地獄の叫び声が耳に溢れ返り、八熱地獄の紅蓮による苦しみが目をよぎります。このように死後の世界をあれこれ思い煩うとは、悲しい限りです。

河野、土肥、得能らは三百騎を率いてしんがりを担当していましたが、見の曲付近で前を行く軍勢に遅れて、進むべき方向が分らなくなり、塩津の北方で山から降りて駐屯していました。そこへ佐々木の一族と、熊谷の軍勢が取り囲んで討ち取ろうとしました。

河野らの軍勢は向かって行き、敵と刺し違える覚悟でしたが、馬は雪のため思うように動かず、兵士らも手の指が凍傷のため、弓を引くことが出来ず、太刀の柄さえ握ることが出来ません。やむを得ず腰の刀を地面に固定し、うつ伏せに倒れ込み自害しました。

千葉介貞胤は五百余騎にて行軍していましたが、東西の方角もはっきりせず、降る雪に道を間違えて、敵陣に迷い込んでしまいました。どうにも動きが取れない上に、前後の味方とも離れ離れになってしまったので、一ヶ所に集まって自害しようと思った時、

尾張守斯波高経のもとから使者があり、「弓矢の道、もう今となっては、これまでで良いでしょう。何はともあれ我らの陣営に来られたらいかがですか。今までの貴公の行動に関しては、私の身に替えても許しを願い出ましょう」と、丁寧に申し入れてきたので、貞胤は不本意ながら降伏し、

高経の陣営に所属することになりました。十月十三日、義貞朝臣は敦賀津に到着し、気比弥三郎大夫が三百余騎を率いて出迎えに来ました。東宮の恒長親王や一宮、総大将義貞の父子兄弟をまず金崎の城に入って頂き、その他の軍勢らは、敦賀津周辺の民家を宿舎に割り当て、

長距離行軍の疲れを休めてもらいました。ここに一日は滞在しましたが、軍勢全てが一ヶ所に駐屯しては危険極まりないと、各大将を諸国の城に分散配置しました。大将の義貞は東宮に付き従って金崎城に留まり、子息越後守新田義顕には、北国の軍勢、

二千余騎を従えさせて越後国に向わせました。また弟、脇屋右衛門義助は千余騎を与えて、瓜生判官保の杣山城に向わせました。これらの戦略はそれぞれ諸国の軍勢を味方に引き入れ、金崎城の後詰をさせようとするものです。


○瓜生判官心替事付義鑑房蔵義治事
同十四日、義助・義顕三千余騎にて、敦賀の津を立て、先杣山へ打越給ふ。瓜生判官保・舎弟兵庫助重・弾正左衛門照、兄弟三人種々の酒肴舁せて鯖並の宿へ参向す。此外人夫五六百人に兵粮を持せて諸軍勢に下行し、毎事是を一大事と取沙汰したる様、誠に他事もなげに見へければ、大将も士卒も、皆たのもしき思をなし給。献酌順に下て後、右衛門佐殿の飲給ひたる盃を、瓜生判官席を去て三度傾ける時、白幅輪の紺糸の鎧一領引給ふ。面目身に余りてぞみへたりける。其後判官己が館に帰て、両大将へ色々小袖二十重調進す。此外御内・外様の軍勢共の、余に薄衣なるがいたはしければ、先小袖一充仕立てゝ送るべしとて、倉の内より絹綿数千取出して、俄に是をぞ裁縫せける。斯る処に足利尾張守の方より潜に使者を通じ、前帝より成れたりとて、義貞が一類可御追罰由の綸旨をぞ被送ける。瓜生判官是を見て、元より心遠慮なき者なりければ、将軍より謀て被申成たる綸旨とは思も寄ず。さては勅勘武敵の人々を許容して大軍を動さん事、天の恐も有べしと、忽に心を反じて杣山の城へ取上り、関を閉てぞ居たりける。爰に判官が弟に義鑑房と云禅僧の有けるが、鯖並の宿へ参じて申けるは、「兄にて候保は、愚痴なる者にて候間、将軍より押へて被申成候綸旨を誠と存て、忽に違反の志を挿み候。義鑑房弓箭を取身にてだに候はゞ、差違て共に死ぬべく候へ共、僧体に恥ぢ仏見に憚て、黙止候事こそ口惜覚候へ。但倩愚案を廻し候に、保、事の様を承り開き候程ならば、遂には御方に参じ候ぬと存候。若御幼稚の公達数た御坐候はゞ一人是に被留置進候へ。義鑑懐の中、衣の下にも隠し置進せて、時を得候はゞ御旗を挙て、金崎の御後攻を仕候はん。」と申も敢ず、涙をはらはらとこぼしければ、両大将是が気色を見給て、偽てはよも申さじと疑の心をなし給はず、則席を近付て潜に被仰けるは、「主上坂本を御出有し時、「尊氏若強て申事あらば、休事を得ずして、義貞追罰の綸旨をなしつと覚るぞ。汝かりにも朝敵の名を取らんずる事不可然。春宮に位を譲奉て万乗の政を任せ進らすべし。義貞股肱の臣として王業再び本に複する大功を致せ」と被仰下、三種の神器を春宮に渡し進ぜられし上は、縦先帝の綸旨とて、尊氏申成たり共、思慮あらん人は用るに足ぬ所也と思ふべし。然れ共判官この是非に迷へる上は、重て子細を尽すに及ばず、急で兵を引て、又金崎へ可打帰事已に難儀に及時分、一人兄弟の儀を変じて忠義を顕さるゝ条、殊に有難くこそ覚て候へ。御心中憑もしく覚れば、幼稚の息男義治をば、僧に預申候べし。彼が生涯の様、兎も角も御計候へ。」と宣て、脇屋右衛門佐殿の子息に式部大夫義治とて、今年十三に成給ひけるを、義鑑坊にぞ預けらる。此人鍾愛他に異なる幼少の一子にて坐すれば、一日片時も傍を離れ給はず、荒き風にもあてじとこそ労り哀み給ひしに、身近き若党一人をも付ず、心も知ぬ人に預て、敵の中に留置き給へば、恩愛の別も悲くて、再会の其期知がたし。

☆ 瓜生判官が裏切ったことと、義鑑房蔵義治のこと

さて十月十四日、義助と義顕は三千余騎を率いて敦賀津を出発し、まず杣山に到着しました。瓜生判官保とその弟兵庫助重、弾正左衛門照の兄弟三人が種々の酒肴を持って、鯖波の宿(福井県南条郡南越前町)にやってきました。このほか人夫五、六百人に兵糧を持たせて諸軍勢の陣営を回り、

兵糧の分配に熱心な様子を見て、大将も兵士らも全員が頼もしく思いました。杯のやり取りも順次進み全員が終わり、右衛門佐義助殿が飲み干した盃を、瓜生判官が席を立って三度受けた時、銀で装飾を施した紺糸威しの鎧一領を、

引き出物として貰いました。瓜生判官は身に余る光栄に酔っているようでした。その後判官は自分の舘に帰ると、義助、義顕両大将に各種小袖を二十着献上しました。この外新田一族や外様の軍勢らが余りに薄着で寒そうに見えたので、とりあえず小袖を一枚づつ全員に仕立てて送ることにし、

倉庫より絹や綿の反物を数千取り出し、急遽縫製にかかりました。そんな時足利(斯波)尾張守高経の方から密かに使者を通じて、先帝後醍醐によるものだと言う、義貞の一族を追討すべきとの綸旨を送ってきました。瓜生判官はこれを見て、もともと深い思慮に欠ける者なので、

足利将軍の謀略による綸旨とは思いもしませんでした。すると綸旨に明記されている、朝廷からお咎めを受けた武士どもに協力して、大軍を催すのは、天の咎めを受けるかも知れぬと、ただちに考えを変えて、杣山の城に登り諸門を閉ざして篭りました。

さて当時、瓜生判官の弟で瓜生義鑑房と名乗る禅僧がいました。その弟が鯖波の宿に来て、「兄の判官、保は愚かな者なので、将軍が先帝に強制した綸旨を間に受けて、直ちに考えを変えて裏切ろうとしています。この義鑑房は弓矢を取る者ですから、

たとえ差し違えてでも、共に死を選ぶべきでありますが、僧形の者として恥ずべきことであり、また仏道の修行に対する自分の考えもありますが、かと言って、ただ黙っていることも悔しい限りです。しかし私のつたない考えではありますが、良く考えてみると、

保も事実を順を追って説明すれば、最後には考えを翻して、再び味方になると思います。また、もし幼いお子様が多数居られるなら、一人だけでもここに留め置いてください。この義鑑が懐の中や衣服の中にもでも匿い続け、時が参ったら御旗を挙げ、

金崎城の後詰を務めましょう」と申し上げる間もなく、涙をハラハラとこぼされました。この様子を見て、二人の大将、義助と義顕はまさか偽りはあるまいと疑いもせず、すぐ義鑑房を近くに呼ぶと声を潜めて、「実は帝が坂本をご出発される時、『尊氏がもし強引に何かを言い出すとすれば、

間違いなく義貞追討の綸旨を要求すると思われる。かりそめにも、汝が朝敵の汚名を着せられることがあってはならない。そこで皇太子に位を譲って、天皇としての政務を引き継いでおこう。義貞は最も信頼の置ける朝臣として、天皇親政が再び元のように行えるよう励み、

その功績を上げよ』と仰せられ、三種の神器を皇太子にお渡しになられた以上、たとえ先帝の綸旨だと言って尊氏が言ってこようが、物事を少しでも慎重に考える人間なら、彼の言など取り上げる必要は無いと思うように。しかしながら判官が事態に不審を感じ迷っているならば、

これ以上説得などする必要はない。急遽兵をまとめて再び金崎に退却するのも難しく思われる時に、ただ一人、兄弟の義理を捨ててでも、この私に忠義を尽くそうとしてくれたこと、非常にありがたく思う。貴僧の心中非常に頼もしく信用できるので、

私の幼い息子、義治を貴僧に預けよう。彼の生涯について何はともあれ、よろしく取り計らってくれるよう」と仰せられ、脇屋右衛門佐義助殿の子息で、今年十三歳になられる式部大夫義治を、義鑑房に預けられたのでした。この子は特に大切に可愛がってきた、

まだまだ幼い子で、一日一時とて傍から離すことなく、激しい風にも当てぬよう大事に育ててきたのですが、信頼できる若者の一人だけでも付けるわけでなく、内心では何を考えているのか分らない人に預けて、敵中に残し置くことになれば、親子の情感として離別の悲しみも大きく、再会出来る日も何時のことか分りません


夜明れば右衛門佐は金崎へ打帰り、越後国へ下んとて、宿中にて勢をそろへ給ふに、瓜生が心替を聞ていつの間にか落行けん、昨日までは三千五百余騎と注したりし軍勢、纔二百五十騎に成にけり。此勢にては、何として越後まで遥々と敵陣を経ては下べし。さらば共に金崎へ引返てこそ、舟に乗て下らめとて、義助も義顕も、鯖並の宿より打連て、又敦賀へぞ打帰り給ける。爰に当国の住人今庄九郎入道浄慶、此道より落人の多く下る由を聞て、打留めん為に、近辺の野伏共を催し集て、嶮岨に鹿垣をゆひ、要害に逆木を引て、鏃を調へてぞ待かけたる。義助朝臣是を見給て、「是は何様今庄法眼久経と云し者の、当手に属して坂本まで有しが一族共にてぞ有らん。其者共ならばさすが旧功を忘じと覚るぞ。誰かある、近付て事の様を尋きけ。」と宣ひければ、由良越前守光氏畏て、「承候。」とて、只一騎馬を磬て、「脇屋右衛門佐殿の合戦評定の為に、杣山の城より金崎へ、かりそめに御越候を、旁存知候はでばし、加様に道を被塞候やらん。若矢一筋をも被射出候なば、何くに身を置て罪科を遁れんと思はれ候ぞ、早く弓を伏せ甲を脱で通申され候へ。」と高らかに申ければ、今庄入道馬より下りて、「親にて候卿法眼久経御手に属して軍忠を致し候しかば、御恩の末も忝存候へ共、浄慶父子各別の身と成て尾張守殿に属し申たる事にて候間、此所をば支申さで通し進せん事は、其罪科難遁存候程に、態と矢一仕り候はんずるにて候。是全く身の本意にて候はねば、あはれ御供仕候人々の中に、名字さりぬべからんずる人を一両人出し給り候へかし。其首を取て合戦仕たる支証に備へて、身の咎を扶り候はん。」とぞ申ける。光氏打帰て此由を申せば、右衛門佐殿進退谷りたる体にて、兎角の言も出されざりければ、越後守見給て、「浄慶が申所も其謂ありと覚ゆれ共、今まで付纏たる士卒の志、親子よりも重かるべし。されば彼等が命に義顕は替るとも、我命に士卒を替がたし。光氏今一度打向て、此旨を問答して見よ。猶難儀の由を申さば、力なく我等も士卒と共に討死して、将の士を重んずる義を後世に伝へん。」とぞ宣ひける。光氏又打向て此由を申に、浄慶猶心とけずして、数刻を移しける間、光氏馬より下て、鎧の上帯切て投捨、「天下の為に重かるべき大将の御身としてだにも、軍勢の命に替らんとし給ぞかし。況や義に依て命を軽ずべき郎従の身として、主の御命に替らぬ事や有べき。さらば早光氏が首を取て、大将を通し進らせよ。」と云もはてず、腰の刀を抜て自腹を切んとす。其忠義を見に、浄慶さすがに肝に銘じけるにや、走寄て光氏が刀に取付、「御自害の事怒々候べからず。げにも大将の仰も士卒の所存も皆理りに覚へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当られ候共、争でか情なき振舞をば仕り候べき。早御通り候へ。」と申て、弓を伏逆木を引のけて、泣々道の傍に畏る。両大将大に感ぜられて、「我等はたとひ戦場の塵に没すとも、若一家の内に世を保つ者出来ば、是をしるしに出して今の忠義を顕さるべし。」とて、射向の袖にさしたる金作の太刀を抜て、浄慶にぞ被与ける。光氏は主の危を見て命に替らん事を請、浄慶は敵の義を感じて後の罪科を不顧、何れも理りの中なれば、是をきゝ見る人ごとに、称嘆せぬは無りけり。

さて夜が明け、右衛門佐は金崎に引き返して越後国に向おうと、宿で軍勢をまとめて見たところ、瓜生の裏切りを聞いていつの間に落ち逃げたのか、昨日まで三千五百余騎と記されていた軍勢は、僅か二百五十騎になっていました。

この軍勢ではどうすれば越後まではるばると、敵中を進むことが出来るのか。それならば、皆一緒に金崎まで引き返して、舟にて越後に下ろうと、義助も義顕も鯖波の宿から一緒に再び敦賀へ戻りました。ところでここ越前国の武将で今庄九郎入道浄慶と言う者が、

この道を経由して落人が多数通るらしいと聞き、討ち取ってやろうと周辺の野伏らを呼び集め、険しい岩場などに鹿垣を組み、要害には逆茂木を設け、弓を揃えて待ち構えていました。脇屋義助はこの様子を見て、「ここの軍勢は、確か今庄法眼久経と言う者がわが陣営に参加して、

坂本まで一緒だったがその一族に違いないだろう。もしその者であれば、いくらなんでも昔のよしみを忘れてはいないと思う。誰か居ないか、近くに行って事情を問いただすよう」と命じられ、由良越前守光氏が、「了解いたしました」と、謹んで返事しました。

彼はただ一騎で馬を走らせ、「脇屋右衛門佐殿が今合戦の軍議に出席するため、ただ単に杣山の城から金崎へ向かっている途中である。貴殿は事情をご存じないから、このように街道を閉鎖しておられるのでしょう。もし矢の一本でも射るようなことがあれば、

その罪は地の果てまで逃れることが出来ないと、思われるが良い。ここは早く弓を伏せ兜も脱いで、我らを通させるよう計らえ」と声高に申し入れると、今庄入道は馬より降りて、「父親である法眼久経は新田殿の味方として、忠義を守って戦ってまいり、

新田殿から受けた恩には感謝いたしておりますが、現在、浄慶父子は各自が立場を異にしており、私は尾張守高経殿に仕えております以上、ここを無条件でお通しすれば、その罪を問われること必定ですので、ここはとにかく矢の一本なり射かけましょう。

しかしこれは私の本意ではありませんので、申し訳御座いませんが、そちらの軍勢に従っている人々の中で、それなりの身分の人を一、二人ほど当方に引渡し願いたい。その首を証拠に合戦を行ったと説明し、身の潔白を証明して罪から逃れましょう」と、話されました。

光氏は帰ってこの交換条件を伝えると、右衛門佐殿は追い詰められた様子で、何ら言葉を発することも出来ずにいるのを見た越後守義顕は、「浄慶の言い分も無理は無いとは思うが、今まで運命を一つに従ってきた士官や兵士の心情は、親子の情愛より重いだろう。

となれば、彼らの命と義顕の命は交換できても、我らの命と士卒の命は交換することなど出来ないだろう。光氏よ、今一度向こうに行き、この事情を話して説得して来い。それでも出来ぬと言うならば、仕方ないだろう、我らも士卒共々討ち死にし、将たる者は士卒をいかに重要視しているのか、

その気概を後世に伝えようじゃないか」と、話されました。再び光氏は出向き説得しましたが、浄慶はなおも納得せず、数時間が経過した頃、光氏は馬から降りると鎧の上帯(鎧の胴を締める緒)を切って、投げ捨てると、「天下にとって重要な大将の命であっても、

軍勢の命と替えようとされているのだ。そのような時にあたり、命がけで忠義を尽くすべき家来の身として、主人の御命のため命を捨てるのは当然だろう。だから、すぐこの光氏の首を取って、大将を通して下され」と言うや、腰の刀を抜き腹を切ろうとしました。

この忠義振りを目の当たりにして、さすが浄慶も心を打たれ、走り寄って光氏の刀に取り付き、「御自害のこと、早まられるな。確かに大将の仰せられることも、士卒の考えられることも全て、理に叶っていると思いますので、この浄慶としては如何なる罪をかけられようと、

どうして無情な行動など取れるでしょうか。早くお通りください」と話し、弓を伏せ逆茂木も引き抜いて、泣く泣く道の傍らに控えました。義助、義顕の両大将は大いに感激し、「我らがたとえ戦場の塵として命を落としても、もし我ら一族の中から、天下を治める者が現れたなら、

これを証拠にして今回の忠義振りを申し出れば良いだろう」と言って、射向の袖に差している黄金造りの太刀を抜き、浄慶に与えられたのです。光氏が主人の危機を見て、我が命と引き換えようと申し出たことや、また浄慶は敵が人として取るべき道を選んだことに感激して、

自分の将来に降りかかるであろう罪科を顧みなかったことなど、どちらも人間としての理屈に合致しているので、この事を聞いたり見たりした人すべてが、褒め称えたのでした。


○十六騎勢入金崎事
始浄慶が問答の難儀なりしを聞て、金崎へ通らん事叶はじとや思けん、只今まで二百五十騎有つる軍勢、いづちともなく落失て纔十六騎に成にけり。深山寺の辺にて樵の行合たるに、金崎の様を問給へば、「昨日の朝より国々の勢二三万騎にて、城を百重千重に取巻て、攻候也。」とぞ申ける。「さてはいかゞすべき。是より東山道を経て忍で越後へや下る、只爰にて腹をや切る。」と異儀区なりけるを、栗生左衛門進出て申けるは、「何くの道を経ても、越後まで遥々と落させ給はん事叶はじとこそ存候へ。下人の独をもつれぬ旅人の、疲て道を通り候はんを、誰か落人よと見ぬ事の候べき。又面々に爰にて腹を切候はんずる事も、楚忽に覚へ候へば、今夜は此山中に忍て夜を明して、まだ篠目の明はてざらん比をひ、杣山の城より後攻するぞと呼はりて、敵の中へ懸入て戦んに、敵若騒ひで攻口を引退事あらば、差違ふて城へ入候べし。忻て路を遮り候はゞ、思ふ程太刀打して、惣大将の被御覧御目の前にて討死仕て候はんこそ、後までの名も九原の骨にも留り候はんずれ。」と申ければ、十六人の人々皆此義にぞ被同ける。去ば大勢なる体を敵に見する様に謀れとて、十六人が鉢巻と上帯とを解て、青竹の末に結付て旗の様にみせて、此の木の梢、彼の陰に立置て、明るを遅しとぞ待れける。金鶏三たび唱て、雪よりしらむ山の端に、横雲漸引渡りければ、十六騎の人々、中黒の旗一流差挙、深山寺の木陰より、敵陣の後へ懸出て、「瓜生・富樫・野尻・井口・豊原・平泉寺、並に剣・白山の衆徒等、二万余騎にて後攻仕候ぞ。城中の人々被出向候て、先懸者共の剛臆の振舞委く御覧じて、後の証拠に立れ候へ。」と、声々に喚て時の声をぞ揚たりける。其真前に前みける武田五郎は、京都の合戦に切れたりし右の指未痊ずして、太刀のつかを拳るべき様も無りければ、杉の板を以て木太刀を作て、右の腕にぞ結付たりける。二番に前ける栗生左衛門は帯副の太刀無りける間、深山柏の回り一尺許なるを、一丈余に打切て金才棒の如に見せ、右の小脇にかい挟て、大勢の中へ破て入。是を見て金崎を取巻たる寄手三万余騎、「すはや杣山より後攻の勢懸けるは。」とて、馬よ物具よと周章騒ぐ。案の如深山寺に立並たる旗共の、木々の嵐に翻るを見て、後攻の勢げにも大勢なりけりと心得て、攻口に有ける若狭・越前の勢共、楯を捨て弓矢を忘れてはつと引。城中の勢八百余人是に利を得て、浜面の西へ、大鳥居の前へ打出たりける間、雲霞の如くに充満したる大勢共、度を失て十方へ逃散。或は迹に引を敵の追と心得て、返し合せて同士打をし、或要て逃を敵とみて、立留て腹を切もあり、二里三里が外にも猶不止、誰が追としもなき遠引して、皆己が国々へぞ帰りける。

☆ 十六騎の軍勢で金崎に到着したこと

当初浄慶との交渉が難航しているらしいと聞き、この様子では金崎へ引き返すのは難しいと思ったからか、その時までは二百五十騎いた軍勢も、何処へ落ちて行ったのか、僅か十六騎になってしまいました。深山寺(敦賀市)の付近で行き会った樵に、

金ヶ崎城の様子を聞いてみると、「昨日の朝から諸国の軍勢、二、三万騎が城の周りを十重二十重に取り囲んで、攻め続けているようだ」と、話します。「ではどうすれば良いのか。ここから東山道経由で見つからないように越後に下るべきか、それとも思い切ってここで腹を切るか」など、

色々意見のある中で、粟生左衛門が進み出て、「どの道を経由しようが、越後まではるばると落ちることなど出来ないとお考えください。下人の一人も連れず、疲れ果てて街道を通る者を見て、誰が落人と気付かないでしょうか。かと言って、皆がここで腹を切るなんてことも、

余りにも軽率に過ぎると思えるので、今夜はこの山中に隠れて夜を明かし、明日まだ夜の明けきらない頃に、杣山の城から後陣の攻撃に来たぞと、呼びかけながら敵中に駆け入り戦えば、敵が騒ぎ立て、もしかして攻城の最前線を退くことがあれば、その隙に入れ替わるように城に入り込もう。

また行く手を敵が喜んで遮ってくれば、その時は思い切って太刀を振り回し、奮戦振りをお目にかけた上、総大将の目前で討ち死にをしてこそ、後々までその名を墓地の骨にさえ残すことになろう」と話されると、十六人の人々もこの方針に同意しました。

よしそうと決まれば、敵に大軍と見せかけるため、十六人が鉢巻と上帯を解くと青竹の先に結わいつけ、旗のように見えるようにして、こちらの木の梢、またあちらの陰に立てかけ、夜の明けるのを今や遅しと待ちました。暁を知らせる鶏の声が三たび聞こえ、

雪に負けじと山の端が白々となり、雲も漸く横に流れ出すと、十六騎の人々は中黒の旗、一旒差し揚げながら、深山寺の木陰から敵陣の後ろに駆け出し、「瓜生、富樫、野尻、井口、豊原と平泉寺並びに剣(劔神社?)、白山の衆徒らが二万余騎にて、後陣の攻撃に取り掛かるぞ。

城内の人々よ、すぐ出向いて来て、先駆けの者どもが、剛勇か臆病だったか、その振る舞いを詳しくご覧になり、後々の証拠にされたらどうだ」と声々に喚きながら、閧の声を挙げました。先駆けらの先頭を行く武田五郎は、京都の合戦において切られた指の傷がまだ治りきらず、

太刀の柄を握ることが出来ないので、杉板で木太刀を作り右腕に結わえ付けていました。二番手を行く粟生左衛門は脇差が無いので、深山柏(深山柏槙?)で周り一尺ほどのものを一丈あまりに切り、金砕棒(金棒)のように見せて右の小脇に挟み、大軍の中へ突入しました。

この様子に金崎を取り巻いていた寄せ手の三万余騎は、「大変だ、杣山から後陣の攻撃に来たぞ」と言って、馬は何処だ、太刀は、弓は何処だと大騒ぎになり慌てふためきました。その上予想に違えず、深山寺に立て並べた旗などが、木々の風に翻るのを見て、

この攻撃軍は確かに大軍らしいと思い込み、攻城に取り付いていた若狭や越前の軍勢らは、楯を捨て弓矢も置いたままサッと引き上げました。この様子を見ていた城内の勢、八百余人はこの好機を逃さず、浜面の西や大鳥居の前に打って出たので、

雲霞のように集まっていた大軍は、混乱の中、四方八方に逃げ散りました。ある者は後ろを退却してくる味方を、敵の追撃と間違え、立ち止まって同士討ちを演じたり、またあるいは先に逃げていた者を敵と勘違いし、これまでと立ち止まり腹を切る者もいる始末です。

二里、三里を過ぎても逃げ足は止まらず、誰も追って来ないのに逃げ続け、皆が皆、それぞれの国に帰ってしまいました。


○金崎船遊事付白魚入船事
去程に、百重千重に城を囲みたりつる敵共、一時の謀に被破て、近辺に今は敵と云者一人も無りければ、是只事に非ずとて、城中の人々の悦合る事限なし。十月二十日の曙に、江山雪晴て漁舟一蓬の月を載せ、帷幕風捲て貞松千株の花を敷り。此興都にて未被御覧風流なれば、逆旅の御心をも慰められん為に、浦々の船を点ぜられ、竜頭鷁首に准て、雪中の景をぞ興ぜさせ給ける。春宮・一宮は御琵琶、洞院左衛門督実世卿は琴の役、義貞は横笛、義助は箏の笛、維頼は打物にて、蘇合香の三帖・万寿楽の破、繁絃急管の声、一唱三嘆の調べ、融々洩々として、正始の音に叶ひしかば、天衆も爰に天降り、竜神も納受する程也。簫韶九奏すれば鳳舞ひ魚跳る感也。誠に心なき鱗までも、是を感ずる事や有けん、水中に魚跳御舟の中へ飛入ける。実世卿是を見給て、「昔周武王八百の諸侯を率し、殷の紂を討ん為に孟津を渡りし時、白魚跳て武王の舟に入けり。武王是を取て天に祭る。果して戦に勝事を得しかば、殷の世を遂に亡して、周八百の祚を保り。今の奇瑞古に同じ。早く是を天に祭て寿をなすべし。」と、屠人是を調て其胙を東宮に奉。春宮御盃を傾させ給ける時、島寺の袖と云ける遊君御酌に立たりけるが、柏子を打て、「翠帳紅閨、万事之礼法雖異、舟中波上、一生之歓会是同。」と、時の調子の真中を三重にしほり歌ひたりければ、儲君儲王忝も叡感の御心を被傾、武将官軍も齊く嗚咽の袖をぞぬらされける。

☆ 金崎で舟遊びをしている時、白魚が舟に飛び込んできたこと

やがて幾重にも城を取り囲んでいた敵勢らは、その場しのぎの謀略に引っ掛かって退却し、今や周辺に敵といえる者は一人もいないので、こんな奇跡があって良いものかと、喜び合うこと限りありません。延元元年(建武三年1336年)十月二十日の明け方、

周辺の山や川に降っていた雪が晴れ渡り、漁を終えた舟が月を背にして帰る中、陣営の帷などが風にあおられ、そのさまは千株の松が一度に花が開いたかと見えました。このような遊びなど都ではご経験のない風雅な趣なので、旅に疲れた気持ちも癒していただこうと、

各浦々の舟を寄せ集め、それらを竜頭鷁首(竜の頭と鷁-想像上の水鳥-の首を飾った舟)の舟になぞらえて、雪中の風情を楽しまれました。皇太子恒長親王と一宮中務卿尊良親王は琵琶を受け持たれ、洞院左衛門督実世卿は琴の役、義貞は横笛、

義助は筝の笛、また河島惟頼は打楽器を担当して、蘇合香(雅楽曲の一)の三帖と万秋楽(雅楽曲の一)の序破急の内、破の部分を演奏されました。また調子が早く賑やかで華麗な音楽が響き渡り、一唱三嘆(一度読めば何度も感嘆するほど優れたもの)の調べや、

声や音楽がのびのびと広がるさまは、正始の音(三国時代、魏の正始時代に始まった学風)に合致しているので、天上の諸神らもこの時に天より地上に降り、竜神も全ての願いを受け入れるのではと思われました。簫韶の曲を九節奏すれば鳳凰が舞い、魚も飛び上がるかと思われます。

確かに人間のような心情など持ち得ない魚類でも、この楽曲を聞き何かを感じたのか、水中の魚が飛び跳ねて舟の中に飛び入りました。洞院実世卿はこれを見て、「昔、周国の武王が八百人の諸侯を率いて、殷国の紂王を討伐しようと孟津を通過したとき、

白魚が跳ねて武王の乗った舟に飛び入りました。武王はその魚を取り上げて、天を祀る儀式を行いお供えとしました。合戦には予定通り勝利を収め、殷の世はここに滅び、周国八百年にわたる天子継承の基礎が確立しました。今ここで起こった出来事も、その昔あった吉瑞と全く同じであれば、

早くこの魚を天を祀る儀式を行い、それに供えて喜びを表わすが良いだろう」と、早速調理人がこの魚を料理して供えた後、皇太子に提供しました。皇太子が盃をお持ちになった時、島寺の紬と言う遊女がお酌に立ちましたが、拍子を取って、

「翠帳紅閨、万事之礼法雖異、舟中波上、一生之歓会是同」(翠の帳を垂らした寝室とは、諸事作法は異なれど、舟の中、波の上でも、一生一度の出会いの喜びは同じでしょう)と、この季節にふさわしい調子で、高音部を少し低めに歌われたので、恒長親王も尊良親王も大変感激され、

また傍に控えている武将や官軍の人々皆が皆、嗚咽の声を上げ袖を濡らされたのでした。


○金崎城攻事付野中八郎事
杣山より引返す十六騎の勢に被出抜、金崎の寄手四方に退散しぬる由京都へ聞へければ、将軍大に忿りを成して、軈て大勢をぞ被下ける。当国の守護尾張守高経は、北陸道の勢五千余騎を率して、蕪木より向はる。仁木伊賀守頼章は、丹波・美作の勢千余騎を率して、塩津より向はる。今河駿河守は但馬・若狭の勢七百余騎を率して、小浜より向はる。荒河参川守は丹後の勢八百余騎を率して疋壇より向はる。細川源蔵人は四国の勢二万余騎を率して、東近江より向はる。高越後守師泰は、美濃・尾張・遠江の勢六千余騎を率して、荒血中山より向はる。小笠原信濃守は、信濃国の勢五千余騎を率して、新道より向ふ。佐々木塩冶判官高貞は、出雲・伯耆の勢三千余騎を率して、兵船五百余艘に取乗て海上よりぞ向ひける。其勢都合六万余騎、山には役所を作双べ、海には舟筏を組で、城の四方を囲ぬる事、隙透間も無りけり。彼城の有様、三方は海に依て岸高く巌滑也。巽の方に当れる山一つ、城より少し高ふして、寄手城中を目の下に直下すといへ共、岸絶地僻にして、近付寄ぬれば、城郭一片の雲の上に峙ち、遠して射れば、其矢万仞の谷の底に落つ。さればいかなる巧を出して攻る共、切岸の辺までも可近付様は無りけれ共、小勢にて而も新田の名将一族を尽して被篭たり。寄手大勢にて而も将軍の家礼威を振て向はれたれば、両家の争ひ只此城の勝負に有べしと、各機を張心を専にして、攻戦ふ事片時もたゆまず。矢に当て疵を病、石に打れて骨を砕く者、毎日千人・二千人に及べ共、逆木一本をだにも破られず。是を見て小笠原信濃守、究竟の兵八百人を勝て、東の山の麓より巽角の尾を直違に、かづき連てぞ揚たりける。城には此や被破べき所なりけん、城の中の兵三百余人、二の関を開て、同時に打て出たり。両方相近に成ければ、矢を止て打物になる。防ぐ兵は、此を引ば継て攻入られぬと危みて、一足も不退戦。寄手は無云甲斐引て、敵・御方不被笑と、命を捨てぞ攻たりける。

☆ 金崎城攻撃と野中八郎のこと

さて杣山より引き返してきた、僅か十六騎の小勢に出し抜かれ、金崎の攻城軍は四方八方に退却してしまったと京都に連絡が入ると、尊氏将軍は激怒し、すぐ大軍を編成し金崎攻撃に向わせました。当国越前の守護、尾張守斯波高経は北陸道の軍勢五千余騎を率いて、

蕪木(甲楽城:福井県南越前町)から出発しました。仁木伊賀守頼章は丹波、美作の軍勢千余騎を率いて、近江塩津より向い、今川駿河守は但馬、若狭の軍勢七百余騎を率いて、小浜より向いました。荒川三河守は丹後の軍勢八百余騎を率いて、疋田(敦賀市)より向かい、

また細川源蔵人は四国の軍勢二万余騎を率いて東近江より、高越後守師泰は美濃、尾張、遠江の軍勢六千余騎を率いて荒血(アラチ::愛発?)中山より向いました。そして小笠原信濃守は、信濃国の勢五千余騎を率いて今庄新道より向かい、

そのほか佐々木塩冶判官高貞は出雲、伯耆の軍勢三千余騎を率い、兵船五百余艘に分乗して海上より向いました。この結果、攻撃軍は総勢六万余騎になり、山には作戦詰所を設置し、海には舟筏を組み上げ、金崎城の四方を隙間もなく取り囲みました。

金崎城と言うのは、三方を海に面して海岸の崖は高く、その上滑りやすくなっています。巽(東南)の方角にある山の一つは、城より少し高いので、寄せ手軍は城内を見下ろすことが出来ますが、そこへの道は絶壁が立ちふさがる上に、距離もそこそこあって近寄ることも出来ません。

そのため金崎城は、言わば雲の上に建造された堅城みたいなもので、遠くから矢を射込んでも、その矢は千尋の谷に落ちるだけです。城はこのような状況ですから、どのように策を練って攻撃しようとも、切り立った城の崖下まで近づくことさえ出来ないのに、

小勢ではありますが新田の名将が一族を挙げて立て篭もっています。また寄せ手軍も、大軍で足利将軍の面子と権威をもって攻撃に掛かっているので、両家の抗争もこの城の攻防で決着をつけようと、両陣営とも戦機を逃すことの無いよう状況把握に努めながら、

一時も休むことなく攻め続けました。矢に中って傷を負った者や、石の直撃を受けて骨を砕いた者など、毎日千人、二千人と増え続けども、いまだ逆茂木の一本とて撤去出来ていません。これを見て、小笠原信濃守は屈強の猛兵八百人を選抜し、

東の山麓から巽(東南)角の尾根を斜めに横切るように、盾で防御しながら攻め上って行きました。この城はこの方法以外に攻略できるところは無かったのでしょう。城を守る新田軍の兵士ら三百余人は、二つの城戸を開いて同時に出撃しました。両軍は接近戦になったので、

矢を使うことは出来ず太刀での戦闘になりました。城を守る兵士らはここを退いたりすれば、追うようにして城内に攻め込まれる危険があるので、一歩たりと退くことなく戦いました。寄せ手の兵士らもなすすべなく退いては、敵味方の笑いものになるのではと、命を惜しむことなく攻めました。


敵さすがに小勢なれば、戦疲れてみへける処に、例の栗生左衛門、火威の鎧に竜頭の甲を夕日に耀かし、五尺三寸の太刀に、樫の棒の八角に削たるが、長さ一丈二三尺も有らんと覚へたるを打振て、大勢の中へ走り懸り、片手打に二三十、重ね打に打たりける。寄手の兵四五十人、犬居にどうと打居られ、中天にづんと被打挙、沙の上に倒れ伏。後陣の勢是を見て、しどろに成て浪打際に村立所へ、気比の大宮司太郎・大学助・矢島七郎・赤松大田の帥法眼、四人無透間打て懸りける間、叶はじとや思けん、小笠原が八百余人の兵、一度にはつと引て本の陣へぞ帰りける。今河駿河守此日の合戦を見て推量するに、「此が如何様被破ぬべき所なればこそ、城より此を先途と出ては戦らめ。陸地より寄せばこそ足立悪て輒く敵には被払つれ。舟て一攻々て見よ。」とて、小舟百余艘に取乗て、昨日小笠原が攻たりし浜際よりぞ上ける。寄と均く切岸の下なる鹿垣一重引破て、軈て出屏の下へ著んとしける処へ、又城より裹まれたる兵二百余人、抜連て打出たりけるに、寄手五百余人真逆に被巻落、我先にと舟にぞ込乗ける。遥に舟を押出して跡を顧に、中村六郎と云者痛手を負て舟に乗殿れ、礒陰なる小松の陰に太刀を倒について、「其舟寄よ。」と招共、あれ/\と許にて、助んとする者も無りけり。爰に播磨国の住人野中八郎貞国と云ける者是を見て、「しらで有んは無力。御方の兵の舟に乗殿れて、敵に討れんとするを、親り見ながら助ぬと云事や有べき。此舟漕戻せ。中村助ん。」と云けれ共、人敢て耳にも不聞入。貞国大に忿て、人の指櫓を引奪て、逆櫓に立、自舟を押返し、遠浅より下立て、只一人中村が前へ歩行。城の兵共是を見て、「手負て引兼たる者は何様宗との人なれば社、是を討せじと、遥に引たる敵共は、又返合すらん。下合て首を取れ。」とて、十二三人が程、中村が後へ走懸りけるを、貞国些も不騒、長刀の石づき取伸て、向敵一人諸膝薙で切居、其頚を取て鋒に貫き、中村を肩に引懸て、閑に舟に乗ければ、敵も御方も是を見て、「哀剛の者哉。」と、誉ぬ人こそ無りけれ。其後よりは、寄手大勢也といへ共、敵手痛く防ければ、攻屈して、只帰り、逆木引、向櫓を掻て、徒に矢軍許にてぞ日を暮しける。

敵の攻城軍は小勢であり、さすがに戦い疲れが見えてきた頃、十六騎での金崎城攻撃を決行を提案した例の粟生左衛門が、緋縅の鎧を着け、竜頭の飾りがついた兜を夕日に輝かせながら、五尺三寸の太刀と八角に削った樫の棒で、長さも一丈二、三尺はあろうかと思えるのを振り回し、

多勢の中に走り入り、片手で振り回して二、三十回ばかり滅多打ちにしました。この攻撃に寄せ手の兵士ら四、五十人がしりもちをついたり、打ち据えられ地面に両手をついたり、中には空中に突き上げられたりして、砂の上に倒れ込みました。

後に続いていた寄せ手勢はこの様子を見て、波打ち際でうろたえているところに、気比の大宮司太郎、大学助、矢島七郎、赤松大田の帥法眼の四人が続けて攻撃にかかったので、とても反撃など出来ないと思ったのか、小笠原の八百余人の兵士らは一度に退却に移り、

元の陣営に引き返しました。今川駿河守はこの日の合戦を見て考えた上、「ここがどうしても守らなければならない場所なので、ここを死守せんがため城から出てきて戦うのだろう。陸地から攻め寄せると足場が悪いので、敵に簡単に追い返されるのだ。

ここは舟で海より攻撃をかけてみよう」と、作戦を立てました。そこで小舟百余艘に分乗し、昨日小笠原が攻め込んだ浜辺から上陸しました。上陸するや岸の下にある鹿垣の一つを引き抜くとすぐ出っ張った塀の下に取り付こうとした時、再び城から武装した兵士二百余人が、

太刀を抜き放って飛び出して来ました。寄せ手の五百余人は真っ逆さまに落とされ、我先に舟に逃げ込みました。はるか沖まで逃げて後ろを振り返って見れば、中村六郎と言う者が傷を負ったため舟に乗り遅れ、磯の陰に生えた小松の下で太刀を杖代わりに立ち、

「その舟、こちらに寄せてくれ」と呼び掛けても、おいおい、どうするやと言うばかりで、誰も助けようとしません。その時、播磨国の武将で野中八郎貞国と言う者がこれを見て、「知らずにいたなら止むを得ないが、味方の舟に乗り遅れて、敵に討たれようとするのを目の当たりにして、

助けないことなどあって良いものか。この舟漕ぎ戻せ。中村を助けよう」と言いますが、他の人たちは聞いて聞かないふりをしています。貞国は怒り狂って人の漕いでいる櫓を奪い取り櫓を逆に漕ぎ、舟を岸に向けて漕ぎ進め、遠浅の海岸に降り立って、ただ一人で中村に向って歩みました。

城内の兵士らはこれを見て、「傷を負って逃げ遅れた者がそれなりの武将に違いないからこそ、助けに来るのだろう。助けに行った武将を討たすなと、はるか沖に引き上げた敵も、引き返して来るに違いない。その前に首を取ってしまえ」と、

十二、三人が中村の後ろに走り込むのを貞国は少しも慌てることなく、長刀の石突を持って、向ってくる敵の一人の諸膝を狙って薙ぎ切り、その首を掻き切ると長刀の峰に突き刺し、中村を肩にかけ静かに舟に乗り込みました。敵も見方もこの状況を見て、

「すごい男がいたものだ。猛者とは彼のことを言うのだろう」と、褒めない人はいませんでした。これ以後は寄せ手がいかに大軍であろうと、篭城軍も激しい抵抗をして守ったので、攻めあぐんでしまい、寄せ手も逆茂木を設置し、向い櫓を構築したりして、いたずらに日を過し、ただ矢軍ばかりしていました。      (終り)

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