18 太平記 巻第十八 (その一)


○先帝潜幸芳野事
主上は重祚の御事相違候はじと、尊氏卿様々被申たりし偽の詞を御憑有て、自山門還幸成しか共、元来謀り進せん為なりしかば、花山院の故宮に被押篭させ給、宸襟を蕭颯たる寂寞の中に悩さる。霜に響く遠寺の鐘に御枕を欹て、楓橋の夜泊に、御哀を副られ、梢に余る北山の雪に御簾を撥ては、梁園の昔の御遊に御涙を催さる。紅顔花の如なりし三千の宮女も、一朝の嵐に誘引て、何地ともなく成しかば、夜のをとゞに入せ給ても、夢より外の昔もなし。紫宸に星を列し百司の老臣も満天の雲に被掩、参仕る人独もなければ、天下の事如何に成ぬ覧と、可被尋聞召便もなし。「抑朕が不徳何事なれば、か程に仏神にも放たれ奉て、逆臣の為に被犯覧。」と、旧業の程浅猿く、此世中も憑少く被思召ければ、寛平の遠き迹をも尋ね、花山の近き例をも追ばやと思召立せ給ける処に、刑部大輔景繁武家の許を得て、只一人伺候したりけるが、勾当内侍を以て潜に奏聞申けるは、「越前の金崎の合戦に、寄手毎度打負候なる間、加賀国・剣・白山の衆徒等御方に参り、富樫介が篭て候那多の城を責落して金崎の後攻を仕らんと企候なる。是を聞て、還幸の時供奉仕て京都へ罷上候し菊池掃部助武俊・日吉加賀法眼以下、皆己が国々へ逃下て義兵を挙、国中を打順へて候なる間、天下の反覆遠からじと、謳歌説満耳に候。急ぎ近日の間に、夜に紛れて大和の方へ臨幸成候て、吉野・十津川の辺に皇居を被定、諸国へ綸旨を被成下、義貞が忠心をも助られ、皇統の聖化を被耀候へかし。」と、委細にぞ申入たりける。主上事の様を具に被聞召、さては天下の武士猶帝徳を慕ふ者多かりけり。是天照太神の、景繁が心に入替せ給て、被示者也と被思召ければ、「明夜必寮の御馬を用意して、東の小門の辺に相待べし。」とぞ被仰出ける。相図の刻限にも成ければ、三種の神器をば、新勾当内侍に被持て、童部の蹈開たる築地の崩より、女房の姿にて忍出させ給ふ。景繁兼てより用意したる事なれば、主上をば寮の御馬に舁乗せ進せ、三種神器を自荷担して、未夜の中に大和路に懸て、梨間宿までぞ落し進せける。

☆ 先帝後醍醐が吉野に潜幸されたこと

後醍醐には再び天皇に戻って頂く事、間違いありませんと、尊氏卿が色々と説明した言葉を信じられて、自ら山門を出られて還幸されましたが、尊氏はもともと騙すつもりでしたから、花山院の以前の御所に押しこめられて、秋風が胸を吹き抜けるような寂しさを、お感じになっておられました。

霜にまで響くように遠くから聞こえる寺の鐘、その音に思わず枕から頭を上げて耳を澄ませば、楓橋夜泊の詩歌そのままな哀しみを覚え、梢に残っている北山の雪を見ようと御簾を上げれば、昔、皇居の庭園での御遊を思い出され、思わず涙がにじみます。

咲く花のごとく美しい三千人とも言われる後宮の女性たちも、突然の嵐に吹き流され何処に居るとも知れず、寝室に入られても、夢以外に昔をしのばせるものなどありません。天皇のお傍に綺羅星のごとく居並んでいた多くの重臣らも、満天を覆う雲に隠されて、

近くに仕える人など一人も居ませんので、天下の形勢がいかになっているのか、お尋ねすることもかないません。「一体、私にどんな落ち度があって、このように神仏にも見放され、逆臣のために迫害を受けねばならないのだ」と、今まで自分の行ってきた政道も、その結果に納得がいかず、

現実の世の中にも頼ることが出来ないとなれば、古くは寛平(889-898年)の昔、宇多天皇(在位::887-897年)や、近くでは花山(在位::984-986年)天皇のように、出家することもお考えになっておられる時、刑部大輔景繁が足利の許しを得て、ただ一人で後醍醐のもとにお伺いに現れました。

そして後醍醐へ勾当の内侍を通じて内密に、「越前における金崎の合戦で、寄せ手の足利軍は毎回毎回負けを喫しているため、加賀国の剣、白山の衆徒らが味方に加わり、富樫介が立て篭もっている那多城を攻め潰し、金崎城の寄せ手軍を背後より攻撃しようと企てています。

帝が京都に還幸の際、京都にお供してきた菊池掃部助武俊や日吉加賀法眼以下らがこの作戦を聞くと、皆それぞれ自分の国に逃げ帰り、義兵を募って国中を支配下に置いたため、天下の権力構造が逆転するのも近いのではと、世間において風説頻りであります。

そこで急ぎ近日中に夜陰に紛れて大和の方へお遷りになり、吉野か十津川の近辺に皇居をお定めになり、諸国に綸旨をお下しになれば、新田義貞の忠義心をますます奮い立たせ、その上、皇統の権威を正当化し、帝徳を輝かせることになるでしょう」と、こと詳しく申し上げました。

後醍醐は諸事情を詳細に聞かれ、いまだに天下の諸武士らは、私の帝王としての人徳を頼りに思っている者が多いのか。この大和方面に遷れとは、天照大神が景繁の心に入りこんで、自分の考えを話させているのだろうと思われ、「明日の夜、寮のお馬を用意して、

間違いなく東の小門の辺りで待つように」と、仰せられました。翌日の夜、合図の時刻になったので、三種の神器を新勾当内侍の持たせ、童たちが踏み崩した土塀の隙間から、女房姿に変装して忍び出られました。外で待っていた景繁は準備万端怠り無く、帝を寮のお馬に抱えるようにして乗せられると、

三種の神器は自ら背負って、夜の明けぬ間に大和路に入り、梨間の宿(城陽市)まで落とせ参らせたのでした。


白昼に南都を如此にて通らせ給はゞ、人の怪め申事もこそあれとて、主上をば怪げなる張輿に召替させ進て、供奉の上北面共を輿舁になし、三種の神器をば足付たる行器に入て、物詣する人の破篭なんど入て持せたる様に見せて、景繁夫に成て是を持つ。何れも皆習はぬ態なれば、急ぐとすれども行やらで、其日の暮程に内山までぞ著せ給ける。此までも若敵の追蒐進らする事もや有んずらんと安き心も無りければ、今夜如何にもして吉野辺まで成進せんとて、此より寮の御馬を進せたれ共、八月二十八日の夜の事なれば道最暗して可行様も無りける処に、俄に春日山の上より金峯山の嶺まで、光物飛渡る勢ひに見へて、松明の如くなる光終夜天を耀し地を照しける間、行路分明に見へて程なく夜の曙に、大和国賀名生と云所へぞ落著せ給ける。此所の有様、里遠して人烟幽に山深して鳥の声も稀也。柴と云物をかこいて家とし、芋野老を堀て渡世許なれば皇居に可成所もなく、供御に備べき其儲も難尋。角ては如何可有なれば、吉野の大衆を語ひて君を入進せんと思て、景繁則吉野へ行向ひ、当寺の宿老吉水の法印に此由を申ければ、満山の衆徒を語ひ蔵王堂に集会して僉儀しけるは、「古へ清美原の天皇、大友の皇子に被襲、此所に幸成しも、無程天下泰平を被致。其先蹤に付て今仙蹕を被促事、衆徒何ぞ異儀に可及乎。就中昨夜の光物臨幸の道を照す。是然当山の鎮守蔵王権現・小守・勝手大明神、三種の神器を擁護し万乗の聖主を鎮衛し給ふ瑞光也。暫くも不可有猶予。」とて、若大衆三百余人、皆甲冑を帯して御迎にぞ参りける。此外楠帯刀正行・和田次郎・真木定観・三輪の西阿、紀伊国には、恩地・牲河・貴志・湯浅、五百騎・三百騎、引も切らず面々馳参ける間、雲霞の勢を腰輿の前後に囲ませて、無程吉野へ臨幸なる。春雷一たび動く時、蟄虫萌蘇する心地して、聖運忽に開けて、功臣既に顕れぬと、人皆歓喜の思をなす。

白昼に南都をこのままの姿で通過などすれば、人々は必ず怪しむであろうと思われ、後醍醐に貧しげな張り輿(全体を畳表で張った略式の輿)に乗り換えをお願いし、お供してきた四位や五位の北面の武士らに輿を担がせ、三種の神器は足の付いた行器(ほかい::食物運搬用の木製容器)にしまい込み、

物詣する人が持つ破れ篭の中に入れて、景繁が人夫姿でこれを持ちました。いずれにしても皆、慣れない仕事ですので、気持ちばかりは急いでも、なかなか思うように進めず、その日の暮頃に何とか内山(天理市)にお着きになりました。ここに来るまでも、もしかして敵が追いかけてくるのではと、

とても安心出来ず、何とかして今夜には吉野近くまでは行きたいと考え、ここからは寮のお馬に乗って頂きましたが、建武三年(1336年)十二月二十三日(八月二十八日は間違い?)の夜のことでもあり、道は真っ暗で歩行困難と思われた時、突然春日山の頂きから金峰山の峰に向って、

何か光る物体が飛んだように見え、松明のような光が一晩中天を輝かせ、地上を照らしたので道もはっきりと見え、やがて夜もあける頃、大和国賀名生(五條市)と言うところにお着きになりました。この賀名生と言う所は、里から遠く離れ、住む人もあまりいないようです。

その上、山は深くて鳥の声さえあまり聞こえません。柴など雑木で周りを囲って家にし、トコロと言う山芋の一種を掘り、それを食料として生活しているだけですから、皇居になるような場所もなく、食事の材料さえ手に入れるのが難しそうです。これではとても皇居など無理なので、

吉野の大衆に語り掛け、帝を迎えてもらおうと思い、景繁は即刻吉野に向かい、金峯山寺の長老、吉水の法印に事情を説明したところ、法印は満山の衆徒らに呼びかけ、蔵王堂に集合させ会議を開きました。法印は、「その昔、浄御原の天皇(天武天皇::大海人皇子)が大友の皇子(後の弘文天皇)に襲われて、

この場所に避難されたが、やがて天下の騒乱も収まった。その先例に従って、今回も帝に行幸をお勧めするのに、衆徒等に何か異議などあるはずが無い。そればかりでなく、昨夜は光る物体が臨幸の道を照らしたではないか。

これはとりもなおさず当山の鎮守である蔵王権現、小守、勝手大明神が三種の神器をお守りし、天子である後醍醐を護衛するための、幸先の良い光であろう。ここは一刻の猶予もならない」と話し、若い大衆ら三百余人を全員甲冑で身を固めさせ、お迎えに行かせました。

このほか、楠木帯刀正行、和田次郎、真木定観、三輪の西阿(玉井西阿)、また紀伊国からは恩地、牲河、貴志、湯浅らが五百騎、三百騎と休む間もなく駆けつけて来ましたので、雲霞のような大軍勢が帝の腰輿の前後を警固して、やがて吉野に臨幸されたのです。

春に雷鳴が轟くと、地中に篭って冬を過ごしていた虫も、元気良くよみがえるのと同じように、後醍醐の運命も明るい方向へ大転回し、朝廷にとって忠義にあふれ、功績のある臣下も続々と集結する様子に、人々は皆、これ以上の喜びはないと思われたのでした。


○高野与根来不和事
先帝花山院を忍出させ玉て吉野に潜幸成りしかば、近国の軍勢は申に不及、諸寺・諸社の衆徒・神官に至まで、皆王化に随て、或は軍用を支へ、或は御祷を致しけるに、根来の大衆は一人も吉野へ参〔ら〕ず。是は必しも武家を贔負して、公家を背申には非ず。此君高野山を御崇敬有て、方々の所領を被寄、様々の御立願有と聞て、偏執の心を挿ける故也。抑為釈門徒者は、以柔和宗とし以忍辱衣とする事にてこそあるに、根来と高野と、依何事是程迄に霍執の心をば結ぶぞと、事の起りを尋ぬれば、中比高野伝法院に、覚鑁とて一人の上人御坐けり。一度三密瑜伽の道場に入しより、永四曼不離の行業に不懈、観法座闌して薫修年久しかりけるが、即身成仏と乍談、猶有漏の身を不替事を歎て、求聞持の法を七座迄行ふ。され共三品成就の内、何れを得たりとも覚ざりければ、覚洞院の清憲僧正の室に入、一印一明を受て、又百日行ひ給ひければ、其法忽に成就して、自然智を得給て、浅略深秘の奥義、不習底を極め、不聞旨を開けり。爰に我慢邪慢の大天狗共、如何にして人の心中に依託して、不退の行学を妨んとしけれ共、上人定力堅固なりければ、隙を伺事を不得。されども或時上人温室に入て、瘡をたでられけるが、心身快して纔の楽に婬著す。是時天狗共力を得て、造作魔の心をぞ付たりける。是より覚鑁伝法院を建立して、我門徒を昌にせばやと思ふ心懇に成ければ、鳥羽禅定法皇に経奏聞て、堂舎を立僧坊を作らる。されば一院の草創不日に事成りし後、覚鑁上人忽に入定の扉を閉て、慈尊の出世五十六億七千万歳の暁を待給ふ。高野の衆徒等是を聞て、「何条其御房我慢の心にて被堀埋、高祖大師の御入定に同じからんとすべき様やある。其儀ならば一院を破却せよ。」とて、伝法院へ押寄せ堂舎を焼払ひ、御廟を堀破て是を見に、上人は不動明王の形像にて、伽楼羅炎の内に座し給へり。或若大衆一人走り寄て、是を引立んとするに、其身磐石の如くにして、那羅延が力にても動し難く、金剛の杵も砕難ぞ見へたりける。悪僧等猶是にも不恐、「穴こと/\し。如何なる古狸・古狐なりとも、妖る程ならば是にや劣るべき。よし/\真の不動か、覚鑁が妖たる形か、打見よ。」とて、大なる石を拾ひ懸て十方より是を打に、投る飛礫の声大日の真言に聞へて、曾て其身に不中、あらけて微塵に砕去る。是時覚鑁、「去ばこそ汝等が打処の飛礫、全く我身に中る事不可有。」と、少し■慢の心被起ければ、一の飛礫上人の御額に中て、血の色漸にして見へたりけり。「さればこそ。」とて、大衆共同音にどつと笑ひ、各院々谷々へぞ帰りける。是より覚鑁上人の門徒五百坊、心憂事に思て、伝法院の御廟を根来へ移して、真言秘密の道場を建立す。其時の宿意相残て、高野・根来の両寺、動すれば確執の心を挿めり。

☆ 高野山が根来衆と不和なこと

先帝の後醍醐が花山院から忍び出て吉野に潜幸されたので、近国の諸軍勢は勿論のこと、諸寺、諸神社の衆徒や神官に至るまで、皆朝廷に従い、また諸費用や兵糧の分担に応じたり、あるいは祈祷を行ったりしましたが、根来の大衆は誰一人として吉野には参内しませんでした。

これは必ずしも武家足利側を贔屓して、朝廷公家側に敵対したわけではありません。この君、後醍醐が高野山を篤く信仰して、方々の領地を寄付したり、色々な祈願をお願いをしていると、妬む気分があるからです。そもそも仏門に生きる者は何事に関しても温和であることを第一に考え、

耐え忍ぶことを身に備えるべきであるのに、根来と高野はなぜこれほどお互いに譲ることなく、不和になったのでしょうか。その原因を調べてみると、以下のような事情があったのです。平安時代後期に高野山金剛峯寺に覚鑁(かくばん)と言う一人の上人が居られました。

その方が一度、三密瑜伽(行者が仏の三密と一体化する行)の道場に入った時から、長い間四曼不離(四種の曼荼羅の教えや悟りを身に付ける)の修行に励んだ結果、実践的な修行が習慣として身に付いて長年になりますが、即身成仏(生身のまま悟りを得ること)と言いながら、

実際には煩悩から逃れられない我が身を嘆き、求聞持法(記憶力増進のための修法)を七度まで行いました。しかしそれほど修行を重ねたのに、真言宗の修法によって得られるという三品成就の中、一体何を得ることが出来たのかはっきりしないので、覚洞院の清憲僧正の道場に行き、

一つの印を結んで真言を唱えることを教えられ、そこでまた百日の修行をされた結果、その修法はたちまち成就し、自然智という生来本人に備わっている知恵により悟りを得、浅はかなことも、奥深く秘められたことも、その意味が教えられなくとも理解でき、聞かずともその本質が見えました。

そのため我慢邪慢(自己意識が強すぎて起こる各種の慢心)を起こす大天狗どもが、その人の心に入り込んで、どんなに修行を妨げようとしても、上人の乱されることのない強い意思のため、その隙を見つけることが出来ませんでした。しかしある時上人が浴室に入って、

腫れ物を薬湯で治療していましたが、あまりの気持ち良さに思わず緊張が緩みました。その瞬間を待っていたかのように、天狗どもが勢い付き、仏道修行の邪魔をするため、堂塔建設の気持ちを植えつけました。このため覚鑁は伝法院を建立し、

我が教義に従う弟子たちを明らかにしようと思う気持ちが強くなり、覚鑁に帰依していた鳥羽禅定法皇にお願いして、堂舎を建立し、僧坊を建造しました。やがて大伝法院の落成を見ると、覚鑁上人はたちまち入定(真言密教における究極の修行)に入るため扉を閉め切り、

五十六億七千万年を経て、弥勒菩薩がこの世に下ってこられる暁を待とうとされました。高野の衆徒らはこの事を聞くと、「あの人は自意識過剰で慢心しきっている。高祖弘法大師の御入定と同じことなどされてたまるか。そんなことをするなら、大伝法院などぶっ壊してしてしまえ」と言って、

伝法院に押し寄せて堂舎を焼き払い、建物を壊して中を見ると、上人は不動明王のお姿になって、迦楼羅天の吐く炎の中にお座りになっていました。一人の若い大衆が走り寄って、上人を引き立たせようとしましたが、その体はいわおの如くビクともしません。

大力の持ち主と言われる、那羅延天の力をもってしても動きそうにありませんし、手にした金剛杵も砕けそうにありません。高野の悪僧らはこれにも恐れることなく、「これはまた、何てことだ。どんな古狸や古狐であっても、化け方ならこれには負けるだろう。

よし良く分かった、本当の不動明王か、それとも覚鑁が化けたものか見ておれ」と言って、大きな石を拾い集め、四方八方から投げつけてみたものの、飛び交う石の音が大日如来の真言に聞こえ、全くその体に当たることなく、散り散りになって砕け散りました。

その時覚鑁が、「汝らがいくらつぶてを投げつけようが、全く私の体に当たることなどないのだ」と、少し驕慢な心が起こった時、一つのつぶてが上人の額に命中し、少し血がにじみました。「どうだ、まいったか」と、大衆らはドッと声を揃えて笑うと、皆それぞれの院々や谷々に帰りました。

これ以後覚鑁上人の門徒ら五百坊は、何かと不安があるので、大伝法院の建物を根来山に移築し、真言秘密の道場を建立しました。その時の感情のもつれが今に残って、高野と根来の両寺は何かあれば、反目し合うことになったのです。


○瓜生挙旗事
去程に、先帝は吉野に御座有て、近国の兵馳参る由聞へければ、京都の周章は申に不及、諸国の武士も又天下不穏と、安き心も無りけり。此事已に一両月に及けれ共、金崎の城には出入絶たるに依て、知人も無りける処に、十一月二日の朝暖に、櫛川の島崎より金崎を差て游者あり。海松・和布を被く海士人か、浪に漂ふ水鳥かと、目を付て是をみれば、其には非ずして、亘理新左衛門と云ける者、吉野の帝より被成たる綸旨を、髻には結付て游ぐにてぞ有ける。城の中の人々驚て、急ぎ開て見るに、先帝潜に吉野へ臨幸成て、近国の士卒悉馳参る間、不日に京都を可被責由被載たり。寄手は是を聞て、此際隠しつる事を、城中に早知ぬと不安思へば、城の内には助の兵共国々に出来て、今に寄手を追掃ぬと、悦の心身に余れり。中にも瓜生判官保、足利尾張守高経の手に属して金崎の責口にあり。其弟兵庫助重・弾正左衛門照・義鑑房三人は、未金崎へは向はで、杣山の城に有けるが、去月十一日に、新田の人々北国へ被落たりし時、義鑑房が隠置たりし、脇屋右衛門佐の子息、式部大輔義治を大将として、義兵を挙んと日々夜々にぞ巧ける。兄の判官此事を聞て、「此者共若楚忽に謀叛を発さば、我必存知せぬ事は非じとて、金崎にて討れぬ。」と思ければ、兄弟一に成てこそ、兎も角も成めと思返して、哀同心する人あれかしと、壁に耳を付て、心を人の腹に置て、兎角伺ひ聞ける折節、陣屋を双べて居たりける宇都宮美濃将監と、天野民部大輔と寄合て、四方山の雑談の次に、家々の旗の文共を云沙汰しける処に、誰とは不知末座なる者、「二引両と大中黒と、何れか勝れたる文にて候覧。」と問ければ、美濃将監、「文の善悪をば暫置く、吉凶を云者、大中黒程目出き文は非じと覚ゆ。其故は前代の文に三鱗形をせられしが滅びて、今の世二引両に成ぬ。是を又亡さんずる文は、一引両にてこそあらんずらん。」と申ければ、天野民部大輔、「勿論候、周易と申文には、一文字をばかたきなしと読て候なる。されば此御文は、如何様天下を治めて、五畿七道を悉敵無世に成ぬと覚て候。」と、文字に付て才学を吐ければ、又傍らなる者の、「天に口なし以人云しむ。」と、無憚所笑戯れければ、瓜生判官是を聞て、「さては此人々も、野心を挿む所存有けり。」と、嬉く思て、常に酒を送り茶を進て連々に睦近付て後、大儀を思立候由を語りければ、宇都宮も天野も、「子細非じ。」とぞ同じける。

☆ 瓜生判官保が旗挙げしたこと

ところで、先帝後醍醐は吉野に皇居を定めて、近国の武士らの軍勢が駆け集まっているらしいと噂されると、京都の慌てぶりは言うまでもなく、諸国の武士らも再び天下は大乱になるのかと、心の休まることもありませんでした。この状態がすでに一、二ヶ月になろうとしているのに、

金崎の城は人の出入りが途絶えているので、誰もその事実を知りませんでしたが、十一月二日の朝方に、櫛川の島崎より金崎に向かって泳いでいる者がいました。ミル(海草)やワカメを採取する漁師なのか、それとも波に漂う水鳥なのかと、目を凝らして見てみると、そうではなく、

亘理新左衛門と言う者が、吉野の後醍醐より下された綸旨を、髷に結わいつけて泳いでいるのでした。城の中の人々は驚くとともに急いで読んでみると、先帝はひそかに吉野に臨幸され、近国の諸軍勢らがことごとく駆けつけているので、近い内に京都を攻撃すると書かれていました。

寄せ手軍はこの話を聞き、今まで隠していたことなのに、早くも城内の兵士に知られたかと不安を感じましたが、反対に城内ではこの情勢では、宮方が諸国に立ち上がり、もうすぐここの寄せ手など追っ払ってくれるのではと、大喜びしました。その中でも瓜生判官保は足利尾張守高経の配下として、

金崎の攻城軍に属していました。その弟、兵庫助重と弾正左衛門照そして義鑑房の三人は、いまだ金崎には向わず、杣山の城に残っていました。それは十月十一日に新田の軍勢が北国に逃げ落ちてきた時、義鑑房が匿っておいた、脇屋右衛門佐の子息、式部大輔義治を大将にして、

宮方新田の軍勢を集結しようと、日夜奮闘していたからです。兄の判官保はこの事を聞くと、「もしも彼らが軽率にも謀反を起こしたりすれば、この私が知らなかったはずが無いと、ここ金崎で討たれることになるだろう」と思い、ここは兄弟が一つにまとまってこそ、何とか道が開けるのではと考え直し、

誰か味方になってくれる者がいないかと、壁に耳を当てたり、神経を人の腹中に置くような気分で、あたりを見回していました。その当時陣屋を並べていた、宇都宮美濃将監泰藤と天野民部大輔政貞が集まり、取り留めの無い雑談の中、各家々の旗について、

その紋所の件で色々話し合っていました。その時誰だか分りませんが末座にいた者が、「二引両と大中黒とでは、どちらがすぐれた紋所でしょうか」と、質問されました。美濃将監はそれに答えて、「紋所の善悪についてはしばらく置くとして、吉凶を占う者は大中黒ほどめでたい紋は無いと言う。

その訳は前代の支配者、北条氏の紋は三つ鱗紋だったが滅亡して、現在は二引両の足利氏の世になっている。これを再び滅ぼす者の紋所は一引両でなければならないらしい」と話されると、天野民部大輔が、「確かにそうだ。周易(古代中国の周時代に作成された占いの書物)によれば、

一の文字は”かたきなし”と読むと言う。と言うことは、この紋所を用いる者が、どのような事情があろうと天下を治めることになれば、五畿七道に全く敵の姿が見えぬ世となるのではと思える」と、文字に関して薀蓄を披露すれば、また傍にいる者が、

「天に口なし以人云しむ(天はものを言わないが、人の口を通じて天意を告げる)」と、何遠慮することなく笑い戯れ、聞いていた瓜生判官保は、「さてはこの人々も、何かあれば野心に従い謀反する気だな」と、嬉しく思い、その後は彼らに酒を送ったり、茶を進めたりして絶えず親交を深めてから、

自分が新田軍に味方しようと思い立ったことを話したところ、宇都宮も天野も、「我らも同感だ、異議なし」と、賛同しました。


さらば軈て杣山へ帰て旗を挙んと評定しける処に、諸国の軍勢共、暇をも不乞、己が所領へ抜々に帰りけるを押留めん為に、高越後守、四方の口々に堅く兵士を居て人を不通。若は所用ありて、此道を通る人は、師泰が判形を取てぞ通りける。瓜生判官、さらば此関を謀て通らんと思て、越後守の許に行て、「御馬の大豆を召進せん為に、杣山へ人夫を百五十人可遣候。関所の御札を給り候へ。」と云ければ、師泰が執事山口入道、杉板を札に作て、「此人夫百五十人可通。」と書て判を居てぞ出しける。瓜生此札を請取て、下なる判形許を残し置て、上なる文字を皆押削て、「上下三百人可通。」と書直し、宇都宮・天野相共に、三山寺の関所を無事故通てげり。瓜生判官杣山に帰りければ、三人の弟共大に悦て、軈式部大輔義治を大将として、十一月八日飽和の社の前にて中黒の旗を挙ける程に、去ぬる十月坂本より落下ける軍勢、此彼に隠居たりけるが、此事を聞て何の間にか馳来りけん、無程千余騎に成にけり。則其勢を五百余騎差分て、鯖並の宿・湯尾の峠に関を居て、北国の道を差塞。昔の火打が城の巽に当る山の、水木足て嶮く峙たる峯を攻の城に拵て、兵粮七千余石積篭たり。是は千万蒐合の軍に打負る事あらば、楯篭らん為の用意也。越後守師泰は此由を聞て、「若遅く退治せば、剣・白山の衆徒等成合て、由々敷大事なるべし、時を不替杣山を打落して、金崎の城を心安く可責。」とて、能登・加賀・越中三箇国の勢六千余騎を、杣山の城へぞ差向ける。瓜生是を聞て、敵の陣を要害に取せじとて、新道・今庄・桑原・宅良・三尾・河内四五里が間の在家を一宇も不残焼払て、杣山の城の麓なる湯尾の宿許をば、態焼残してぞ置たりける。去程に、十一月二十三日、寄手六千余騎、深雪に橇をも懸ず、山路八里を一日に越て、湯尾の宿にぞ著たりける。此より杣山へは五十町を隔て、其際に大河あり。日暮て路に歩み疲れぬ、明日こそ相近付て、矢合をもせめとて、僅なる在家に攻り居て、火を焼身を温めて、前後も不知して寝たりける。瓜生は兼て案の図に敵を谷底へ帯き入て、今はかうと思ければ、其夜の夜半許に、野伏三千人を後の山へあげ、足軽の兵七百余人左右へ差回して、鬨声をぞ揚たりける。寝をびれたる寄手共、時声に驚て周章翊く処へ、宇都宮・紀清の両党乱入て、家々に火を懸たれば、物具したる者は太刀を不取、弓を持たる者は矢を不矯。五尺余降積たる雪の上に橇も不懸して走出たれば、胸の辺迄落入て、足を抜んとすれ共不叶。只泥に粘たる魚の如にて、被生虜者三百余人、被討者は不知数を。希有にして逃延たる人も、皆物具を捨て、弓箭を失はぬ者は無りけり。

そうと決まれば早速杣山に帰り、旗を挙げようと相談している時、諸国の軍勢らが休暇の申請もせず、自分の領地にこっそりと帰ろうとするのを押し止めるため、高越後守師泰は四方の街道の出入り口に兵士を配置し、人の通行を禁止しました。

また所用があってこの道を通らざるを得ない人には、高師泰の許可を取ってから通行することになります。瓜生判官はそうであれば、この関所を謀略をめぐらして通行しようと考え、越後守のところに行き、「御馬の大豆を運び込むため、杣山へ人夫百五十人を向わせたい。

関所の通行札を頂きたい」と申請したところ、師泰の執事、山口入道が杉板を通行札に加工し、「この人夫ら百五十人の通行を許可する」と書き込み、書き判を書いて渡しました。瓜生はこの札を受け取って、札の下部にある書き判だけを残し、

上部の文字を全て削り取り、「上下の身分を問わず、三百人の通行を許可する」と書き直し、宇都宮、天野ら全員が三山寺の関所を無事通過しました。瓜生判官保が杣山に帰りつくと、三人の弟たちは大喜びし、早速式部大輔義治を大将にして、十一月八日飽和の社前にて中黒の旗を挙げました。

すると去る十月に坂本より落ち下って来てから、あちこちに身を潜めていた軍勢らがこの旗挙げを聞き、何時の間にか駆けつけて来たので、やがて千余騎になりました。すぐにその勢を五百余騎づつに分け、鯖波の宿と湯尾の峠に関所を設置し、北国街道を閉鎖しました。

昔木曾義仲が建造したという、火打ちが城の巽(南東)方向に当る山で、水に恵まれ、樹木が生い茂って険しくそびえ立った山の頂に城を構築して攻撃の基地とし、兵糧米七千余石の備蓄をしました。これは万が一にも決戦で負けるようなことがあれば、立て篭もるための用意です。

高越後守師泰は敵の動きを聞くと、「もしこの敵を征伐するのに時間がかかれば、剣(劔神社?)や白山の衆徒等が結束し、容易ならないことになるだろう。急ぎ杣山城を攻撃して城を落とし、背後を安心させてから金崎城の攻撃に移ろう」と言って、能登、加賀、越中三ヶ国の軍勢六千余騎を、

杣山の城に向わせました。瓜生はこの作戦を聞くと、敵に陣を要害に構えないようにと、新道、今庄、桑原(葉原?)、宅良、三尾、河内周辺四、五里間の民家を一軒残らず焼き払い、杣山城の麓にある湯尾の宿だけ、焼かずに残して置きました。

やがて、十一月二十三日、寄せ手六千余騎が深い雪の中、かんじきもつけずに一日に八里の山道を越えて、湯尾の宿に到着しました。ここから杣山までは五十町ほど離れており、その宿近くには大河(日野川?)があります。日も暮れてきて、山越えに歩き疲れた兵士らは、明日こそ杣山城に近づき、

矢合わせでもしようと、僅かながら焼け残った民家に押し込んで、焚き火をして体を暖めると、前後も不覚となって寝込みました。瓜生は作戦通り敵軍を谷底におびき入れ、今が好機だと判断し、その夜半頃、野伏三千人を後方の山に上げるとともに、足軽など歩兵七百余人を左右に展開し、

閧の声を挙げました。ぐっすりと寝込んでいた寄せ手の軍勢らは、突然の閧の声に驚き慌てふためいているところに、宇都宮と紀清の両党が乱入し、家々に放火して回ったので、甲冑を身に着けた者は太刀を手にすることが出来ず、弓を持った者は矢を用意することが出来ずに、

五尺余りも降り積もった雪の上に、かんじきも付けず走り出たため、胸のあたりまで雪に埋まり、足を抜こうにも抜くことが出来ません。ただ泥にまみれてうごめく魚のようであり、生け捕られる者は三百余人に上り、討たれた者はその数も分りません。

かろうじて逃げ延びた人も、皆甲冑、武器は捨て去り、弓や矢など手にしている者など居ませんでした。


○越前府軍並金崎後攻事
北国の道塞て、後に敵あらば、金崎を責ん事難儀なるべし。如何にもして杣山の勢を、国中へはびこらぬ様にせでは叶まじとて、尾張守高経、北陸道四箇国の勢三千余騎を率して、十一月二十八日に、蕪木の浦より越前の府へ帰給ふ。瓜生此事を聞て、敵に少しも足をためさせては悪かるべしとて、同二十九日に、三千余騎にて押寄せ、一日一夜責戦て、遂に高経が楯篭たる新善光寺の城を責落す。此時又被討者三百余人、生虜百三十人が首を刎て、帆山河原に懸並ぶ。夫より式部大輔義治勢ひ漸く近国に振ひければ、平泉寺・豊原の衆徒、当国他国の地頭・御家人、引出物を捧げ酒肴を舁せて、日々に群集しけれども、義治よに無興げなる体にのみ見へ給ければ、義鑑房御前に近て、「是程目出き砌にて候に、などや勇みげなる御気色も候はぬやらん。」と申ければ、義治袖掻収め給て、「御方両度の軍に打勝て、敵を多く亡したる事、尤可悦処なれ共、春宮を始進せて、当家の人々金崎の城に被取篭御座あれば、さこそ兵粮にも詰り戦にも苦みて、心安き隙もなく御坐すらめと想像奉る間、酒宴に臨め共楽む心も候はず。」と宣へば、義鑑房畏て申けるは、「其事にて候はゞ、御心安く被思召候へ。此間は余りに雪吹烈くして、長途の歩立難儀に候間、天気の少し晴るゝ程を相待にて候。」とて、感涙を押へながら御前をぞ立にける。宇都宮と小野寺と牆越に是を聞て、「好堅樹は地の底に有て芽百囲をなし、頻伽羅は卵の中に有て声衆鳥に勝れたり」といへり。此人丈夫の心ねをはして、加様に思ひ給けるこそ憑しけれ。さらば軈て金崎の後攻をすべし。」とて、兵を集め楯を作せて、さ程雪の降ぬ日を門出にしてぞ相待ける。

☆ 越前国府で行われた軍のことと、金崎の後方での合戦のこと

北国街道が閉鎖され、後方に敵を控えている状況では、金崎の攻撃などとても出来ない話です。ここは何としても杣山に味方する軍勢を、国中にはびこらせてはならないと、尾張守高経は北陸道四ヶ国の軍勢、三千余騎を率いて十一月二十八日に、

蕪木(甲楽城:福井県南越前町)の浦から越前の府(旧武生市)へお帰りになられました。瓜生はこの情報を得ると、敵に少しでも休養を与えては駄目だと思い、同じく二十九日に三千余騎で押し寄せ、丸一昼夜攻撃を続け、ついに高経の立て篭もっている新善光寺城(旧武生市)を攻め落としました。

この合戦で討ち取った三百余人と、生け捕りにした百三十人の首を刎ねて、日野川の帆山河原にその首を架け並べました。これによって式部大輔義治の勢威が近国に響き渡り、平泉寺や豊原寺の衆徒、また当国越前や他国の地頭、御家人らが、みやげ物を片手に酒肴を家来に持たせて、

毎日毎日集まって来ましたが、義治はもう一つ浮かぬ表情をしているので、義鑑房が御前に参り、「これほどめでたい時なのに、何故そんなに憂鬱そうにされているのですか」と、申し上げると、義治は袖を合わせ改まって、「味方はここ二度の合戦に勝利を収め、

多数の敵を討ち取ったこと、本来なら喜ぶべきことに違いないが、皇太子をはじめとして、新田家の人々が金崎の城に立て篭もっておられ、多分兵糧も乏しくなり、軍にも苦しんで心の休まる間もなくされているかと思えば、酒宴の席に着いていても、とても心から楽しめないのだ」と、仰せられました。

義鑑房は、「その件に関してはどうかご安心ください。ここ最近は余りにも雪が激しくて、長距離の進軍が困難なため、少しでも天気のよくなるのを待っているのです」と、感激に思わず流れる涙をこらえながら、御前を立たれました。宇都宮と小野寺は垣根越しにこの話を聞き、

「好堅樹と言う想像上の木は、地中に百年間も留まって立派な根や葉を育て、発芽すると一日で百丈も成長し、頻伽羅という良い声でなく鳥は、卵の中にあるときから良い声を出し、他の鳥とは差をつけている」と、言われている。この人の心がけは非常に立派で、

このように考えておられるとは、本当に頼もしい限りである。ここは急いで金崎の後方を攻撃しようではないか」と言って、兵を招集し楯を作らせ、少しばかり雪の収まった日を選んで進発しようと待ちました。


正月七日椀飯事終て、同十一日雪晴風止て、天気少し長閑なりければ、里見伊賀守を大将として、義治五千余人を金崎の後攻の為に敦賀へ被差向。其勢皆雪吹の用意をして、物具の上に蓑笠を著、踏組の上に橇を履で、山路八里が間の雪蹈分て、其日桑原迄ぞ寄たりける。高越後守も兼て用意したる事なれば、敦賀津より二十余町東に当て、究竟の用害の有ける処へ、今河駿河守を大将として、二万余騎を差向て、所々に掻楯掻せて、今や寄ると待懸たり。夜明ければ先一番に、宇都宮・紀清両党三百余人押寄て、坂中なる敵千余人を遥の峯へ巻り上て、軈二陣の敵に蒐らんとしけるが、両方の峯なる大勢に被射立、北なる峯へ引退く。二番に瓜生・天野・斉藤・小野寺七百余騎、鋒を調へて上りけるに、駿河守の堅めたる陣を三箇所被追破、はつと引ける処へ、越後守が勢三千余騎、荒手に代て相戦ふ処に、瓜生・小野寺が勢又追立られて、宇都宮と一に成んと、傍なる峯へ引上りけるを、里見伊賀守僅の勢にて、「蓬し、返せ。」とて横合に進まれたり。敵是を大将よと見てんげれば、自余の葉武者には懸らず、をつ取篭て討んとしけるを、瓜生と義鑑房と屹と見て、「我等爰にて討死せでは御方の勢は助るまじき処ぞ。」と自嘆して、只二人打て蒐り、敵の中へ破て入んとするを見て、判官が弟林次郎入道源琳・同舎弟兵庫助重・弾正左衛門照三人是を見て、遥に落延たりけるが、共に討死せんと取て返しけるを、義鑑房尻目に睨で、「日来再三謂し事をば何の程に忘れけるぞ。我等二人討死したらんは、永代の負にて有んずるを、思篭る心の無りける事の云甲斐なさよ。」と、あらゝかに申留めける間、三人の者共、現もと思返して少し猶予しける間、大勢の敵に中を被押隔、里見・瓜生・義鑑房三人は一所にて被討にけり。桑原より深雪を分て重鎧に肩をひける者共、数刻の合戦に入替る勢もなく戦疲れければ、返さんとするに力尽き引んとするに足たゆみぬ。されば此彼に引延て、腹を切者数を不知。適落延る兵も、弓矢・物具を棄ぬはなし。「さてこそ先日府・鯖並の軍に多く捨たりし兵具共をば、今皆取返たれ。」と、敦賀の寄手共は笑ける。是程に不定の人間、化なる身命を資とて、互に罪業を造り、長き世の苦みを受ん事こそ浅猿けれ。

さて延元二年(建武四年::1337年)正月七日には正月恒例の食事会の儀も済み、同じく十一日には雪も止んで晴れ上がり、風も無くて天気も少しばかり穏やかだったので、義治は里見伊賀守時成を大将にして、五千余人の軍勢を金崎の後方攻撃のため、敦賀に向わせました。

兵士らは全員吹雪の備えをし、甲冑の上には蓑笠を着て、履物の上にはかんじきを付け、八里の山道を雪踏み分けて進軍し、その日の内に葉原(?)まで迫りました。足利軍では予想されたことでもあって、高越後守師泰は敦賀津より二十余町東方にある格好の要害に、

今川駿河守を大将にして二万余騎を向わせ、所々に垣根のように楯を立て並べ、寄せ手を今や遅しと待ち受けました。夜が明けるとまず一番手として宇都宮、紀清の両党三百余人が押し寄せ、坂の中途に展開していた敵の千余人を、はるか山の上に追いやり、すぐ次の敵に向おうとしましたが、

両側の峰に控えている敵軍に矢を射込まれ、北の峰に引き下がりました。二番手として瓜生、天野、斉藤、小野寺の七百余騎が、切っ先を揃えて上って行きました。駿河守が守りを固めていた陣三ヶ所を攻略し、サッと引き上げたところに、越後守の勢三千余騎が新手として参戦したため、

瓜生、小野寺の勢は再び追い立てられ、宇都宮の軍勢に合流せんがため、傍の山に引き上げようとするのを、里見伊賀守のわずかな勢が、「汚いぞ、返せ」と、ののしりながら敵の側面に回り込みました。敵の足利軍はここに大将が居ると判断して、その他の端武者には目もくれず、

里見軍を取り込めて討ち取ろうとするのを、瓜生と義鑑房は敵をキッと睨みつけ、「我等がここで討ち死に覚悟で戦わなければ、味方はとても助からないぞ」と自分らを奮い立たせ、ただ二人で敵の中に討ちかかって行きました。その様子を見ていた判官の弟、林次郎入道源琳、

同じく弟の兵庫助重と弾正左衛門照の三人は、遠くまで落ち延びていましたが、ここで兄とともに討ち死にしようと引き返すのを、義鑑房はチラッと睨んで、「日頃何かにつけ言い聞かせていることを、ここに来て忘れたのか。我ら二人が討ち死にしても、それは一時の負けであって、

未来永劫の負けにはならないと何故分らないのだ」と、言葉激しく制止したので、三人の弟たちはそうだったと思い返し、少しばかりひるんだ隙に、大勢の敵が中に割って入ったため、里見、瓜生、義鑑房の三人は一ヶ所で全員討たれてしまいました。新田の軍勢は、

葉原から深い雪をかき分けて進軍した上、思い鎧が肩にのしかかり数時間にわたる合戦、それも交代要員も無しで戦って、疲労は極限であり退却するにも力尽き、足も今や言うことを聞きません。そのため此処彼処に逃げたものの、止む無く腹を切る者、数知れ無い状況です。

たまたま落ち延びることの出来た兵士らでも、弓矢や甲冑など捨てずにいた者などおりません。敦賀に展開する足利の兵士らは、「こうなれば、先日の国府や鯖波の軍で捨てざるを得なかった我々の武具を、今こそみんな取り返してやろう」と、笑いました。

このように誰とも決まっていない人間同士が、はかない身体や命を投げ出して、お互いに罪業を重ねてその結果、長い世の苦しみを味わうことになるとは、本当に哀しく情けないことです。


○瓜生判官老母事付程嬰杵臼事
去程に、敗軍の兵共杣山へ帰ければ、手負・死人の数を註すに、里見伊賀守・瓜生兄弟・甥の七郎が外、討死する者五十三人蒙疵者五百余人也。子は父に別れ弟は兄に殿れて、啼哭する声家々に充満り。去共瓜生判官が老母の尼公有けるが、敢て悲める気色もなし。此尼公大将義治の前に参て、「此度敦賀へ向ふて候者共が不覚にてこそ里見殿を討せ進せて候へ。さこそ被思召候らめと、御心中推量り進せて候。但是を見ながら、判官兄弟何れも無恙してばし帰り参りて候はゞ、如何に今一入うたてしさも無遣方候べきに、判官が伯父・甥三人の者、里見殿の御供申し、残の弟三人は、大将の御為に活残りて候へば、歎の中に悦とこそ覚て候へ。元来上の御為に此一大事を思立候ぬる上は、百千の甥子共が被討候共、可歎にては候はず。」と、涙を流して申つゝ、自酌を取て一献を進め奉りければ、機を失へる軍勢も、別を歎く者共も、愁を忘れて勇みをなす。抑義鑑房が討死しける時、弟三人が続て返しけるを、堅く制し留めける謂れを如何にと尋ぬれば、此義鑑房合戦に出ける度毎に、「若此軍難儀に及ばゞ、我等兄弟の中に一両人は討死をすべし。残の兄弟は命を全して、式部大輔殿を取立進すべし。」とぞ申ける。是も古への義を守り人を規とせし故也。

☆ 瓜生判官の老母のことと、程嬰、杵臼のこと

さて高越後守のため敗戦を喫した兵士らが杣山に帰り、負傷した者や討ち死にした者などの数を控えていくと、里見伊賀守と瓜生兄弟、そして甥の七郎以外討ち死にした者は、五十三人で、負傷した者は五百余人でした。子は父と死に別れ、弟は兄の討ち死にから死に遅れ、

哀しみに泣き叫ぶ声はどの家にも溢れています。その中で、瓜生判官の老母、尼ですがそれほど悲しそうにしている様子はありません。この尼公は大将脇屋義治の御前に参り、「この度敦賀に向かった者どもが、不覚にも里見殿(新田一族)を討ち死にさせることとなりました。

きっと悲しんでおられることと、心中お察し申し上げます。しかしこの状況を知りながら、もし判官兄弟が無事に帰還などすれば、情けなさもいっそう増すところでしたが、判官の伯父や甥の三人が里見殿のお供をし、残る弟三人が大将のお役に立とうと生き残ったことは、

この嘆かわしい状況にあって、ひとつの喜びとも感じています。もともと帝に対する忠誠心から、この一大事を思い立った以上、幾百千の甥や子供らが討たれようとも、嘆き悲しむことなどありません」と涙を流しながら申し上げ、自ら酌をしてお酒を勧められたので、意気消沈していた軍勢や、

討ち死にに嘆き悲しんでいた者たちも、いつまでも落ち込んでいてはと、再び勇気付けられたのでした。そもそも義鑑房が討ち死にした時、弟ら三人が皆引き返そうとしたのを固く制止したのは、次のようなことがあったからです。

それは義鑑房が合戦に臨んでいつも、「もしこの合戦が負けそうになった時は、我等兄弟の中で一人、二人は討ち死にしても仕方ないが、残る兄弟は命を全うし、式部大輔義治殿の補佐に励むよう」と、話していたことです。これも昔、忠義を守り通した人を見習ったからです。


昔秦の世に趙盾・智伯と云ける二人、趙の国を諍ふ事年久し。或時智伯已に趙盾がために被取巻、夜明なば討死せんとしける時、智伯が臣程嬰・杵臼と云ける二人の兵を呼寄て、「我已に運命極迄趙盾に囲まれぬ。夜明ば必討死すべし。汝等我に真実の志深くば、今夜潜に城を逃出て、我三歳の孤を隠置て、長ならば趙盾を亡して、我生前の恥を雪むべし。」とぞ宣ひける。程嬰・杵臼是を聞て、「臣等主君と共に討死仕ん事は近して易し。三歳の孤を隠して命を全せん事は遠して難し。雖然、為臣道豈易を取て難きを捨ん哉。必君の仰に可随。」とて、程嬰・杵臼は、潜に其夜紛れて城を落にけり。夜明ければ、智伯忽に討死して残る兵も無りしかば、多年諍ひし趙国終に趙盾に随ひけり。爰に程嬰・杵臼二人は、智伯が孤を隠さんとするに趙盾是を聞付て、討んとする事頻也。程嬰是を恐れて、杵臼に向て申けるは、「旧君三歳の孤を以て、此二人の臣に託たり。されば死て敵を欺かんと、暫く命を生て孤を取立んと、何れか難かるべき。」杵臼が云く、「死は一心の義に向ふ処に定り、生は百慮の智を尽す中に全し。然ば吾生を以て難しとす。」と。程嬰、「さらば吾は難きに付て命を全すべし。御辺は易きに付て討死せらるべし。」と云に、杵臼悦で許諾す。「さらば謀を回すべし。」とて、杵臼我子の三歳に成けるを旧主の孤なりと披露して、是を抱きかゝへ、程嬰は主の孤三になるを我子なりと云て、朝夕是を養育しける。角て杵臼は山深き栖に隠れ、程嬰は趙盾が許に行て、可降参由を申に、趙盾猶も心を置て是を不許。程嬰重て申けるは、「臣は元智伯が左右に仕へて、其行跡を見しに、遂に趙の国を失はんずる人なりとしれり。遥に君の徳恵を聞に、智伯に勝れ給へる事千里を隔たり。故に臣苟も趙盾に仕へん事を乞。豈亡国の先人の為に有徳の賢君を謀らんや。君若我をして臣たる道を許されば、亡君智伯が孤三歳になる此にあり。杵臼が養育深く隠置たる所我具にしれり。君是を失せ給ひ、趙国を永く令安給へ。」とぞ申たりける。趙盾是を聞給ひて、さては程嬰不偽吾が臣とならんと思けると信じて、程嬰に武官を授て、あたり近く被召仕けり。さて杵臼が隠したる所を委尋聞て、数千騎の兵を差遣して是を召捕らんとするに、杵臼兼て相謀し事なれば、未膝の上なる三歳の孤を差殺して、「亡君智伯の孤運命拙して謀已に顕れぬ。」と喚て、杵臼も腹掻切て死にけり。趙盾今より後は吾子孫の代を傾けんとする者は非じと悦で、弥程嬰に心をも不置。剰大禄を与へ高官を授て国の政を令司。爰に智伯が孤程嬰が家に長りしかば、程嬰忽に兵を発して三年が中に趙盾を亡し、遂に智伯が孤に趙国を保たせり。此大功然程嬰が謀より出しかば、趙王是を賞して大禄を与へんとせらる。程嬰是を不請。「我官に昇り禄を得て卑くも生を貪らば、杵臼と倶に計し道に非ず。」とて杵臼が尸を埋し古き墳の前にて、自剣の上に伏て、同苔にぞ埋れける。されば今の保と義鑑房と討死す。古への程嬰・杵臼が振舞にも劣るべしとも云がたし。

それは古代中国、秦の時代、趙盾、智伯と言う二人は、趙の国を長年争っていました。ある時、智伯は趙盾に取り巻かれてしまい、夜が明ければ間違いなく討ち死にするだろうという時に、智伯の臣下、程嬰、杵臼の兵士二人を呼び寄せ、「私はすでに趙盾に取り囲まれ、

我が運命もこれまでだろう。夜が明ければ討ち死にすること必死である。汝らが真実私に対して忠義の意志があるならば、今夜密かにこの城を逃げ出して、三歳になる私の子供を隠し育て、長じれば趙盾を滅ぼして、私の生前の恥を雪いでもらいたい」と、仰せられました。

程嬰と杵臼はこの命令を聞き、「臣として主君とともに討ち死にすることは、時間もかからず簡単なことです。しかし三歳になる子を隠し育てて、命令を実行することは、気の遠くなるほど時間がかかり、しかも非常に困難なことでもあります。とは言っても臣として、簡単な事を選んで、

難しいことを避けて良いものでしょうか。必ずや主君の命令を果たしましょう」と言って、その夜程嬰と杵臼は夜陰に紛れて城を落ちて行きました。やがて夜が明けると、智伯はすぐ討ち死にし、残る兵士もいなくなってしまい、長年争ってきた趙国は、とうとう趙盾に従うことになりました。

しかし程嬰と杵臼の二人が、智伯の忘れ形見を隠していることを聞きつけた趙盾は、幾度も彼らを討とうとしました。これを恐れた程嬰は杵臼に向かい、「亡き主君は三歳の孤児を我等二人の臣下に預けて、その後を託された。そこでだ、死を利用して敵を欺くのと、

しばらく命を永らえて子供の養育に務めるのと、どちらが難しいだろうか」と、尋ねました。杵臼は、「死はただ忠義だけを考えていれば、自然とそこに落ち着くだろうし、生を保つには、深い思慮と知恵を働かせなければ、全うし難いだろう。そこで私は生を保つ方が難しいと考える」と、答えました。

程嬰は、「それならば、私は難しい方を選んで命令を全うしよう、汝は簡単な方を選んで、討ち死にされるが良かろう」と話したところ、杵臼は喜んで承諾しました。杵臼は、「では早速謀略を練ろう」と言って、杵臼は三歳になる我が子を、旧主の子供であると話し、皆の前で抱きかかえ、

また程嬰は旧主の三歳になる子を、我が子であると皆に紹介して、朝夕養育に務めました。このようにして杵臼は山深い住処に隠れ住み、程嬰は趙盾のもとに出頭し、降伏したい旨を申し上げましたが、趙盾はこの申し出でに不審を感じて、お許しにはなりませんでした。

しかし程嬰はなおも重ねて、「以前より私は智伯のそば近くにお仕えし、日頃の行いを注意深く見ているうち、この方はいずれ趙の国を失うことになると分かりました。ところが遠く離れて趙盾閣下の人徳、聡明さを知るに及び、智伯とは比較にならないと思いました。

それから私は出来ることなら、趙盾閣下にお仕えすることを願うようになりました。すでに滅び去った国の旧主君のために、徳ある賢君をどうして落とし入れることなどするのでしょうか。もし閣下がこの私を臣として召抱えて下さるなら、

私は亡き主君智伯の三歳になると思われる子供を、杵臼が養育のため、山深く隠している場所を知っていますので、閣下はこの子供を亡き者にして、趙国を末永く安泰に導かれてはいかがでしょうか」と、申し上げました。趙盾はこの話を聞き、程嬰は心底私の臣下になりたがっているようだと信じ、

程嬰に武官の地位を与え側近として採用しました。さて約束どおり杵臼が子供を隠しているという場所を詳しく聞き出し、召し捕るため数千騎の兵士を向かわせました。しかし、杵臼はかねてから計画していた謀略ですから、未だ膝の上にいる三歳の子供を刺し殺し、

「亡き主君智伯の子供も運命ここに極まり、残念ながら謀略はすでに露見したようだ」と喚きながら、杵臼も腹を掻き切って死んだのでした。趙盾は今後、私の子孫の代において、国を危うくするものは出てこないだろうと喜び、ますます程嬰を信用して高給を支給した上、

重要な地位に就かせて国家の政治をも任せたのです。このようにして、智伯の忘れ形見は程嬰の家で成長したので、程嬰は早速兵士を招集し、三年もかけずに趙盾を滅ぼし、とうとう智伯の子供に趙国を支配させることとなりました。このすばらしい功績はすべて程嬰の謀略によるものなので、

趙王はこの功を賞し高給を取らせようとしました。しかし程嬰は断り、「私が高官に就き高禄を得た上、生に対して貪欲な執着など持てば、杵臼とともに立案実行した謀略の道義に反することになる」と言って、杵臼の遺体が埋められている古い墓の前で、我が剣の上に伏せて倒れ込み、

同じ墓に埋められたのでした。このように今、瓜生保と義鑑房が討ち死にしたことも、昔の程嬰と杵臼が取った行動に劣るとは、とても言い難いことであります。


○金崎城落事
金崎城には、瓜生が後攻をこそ命に懸て待れしに、判官打負て、軍勢若干討れぬと聞へければ、憑方なく成はて、心細ぞ覚ける。日々に随て兵粮乏く成ければ、或は江魚を釣て飢を資け、或は礒菜を取て日を過す。暫しが程こそ加様の物に命を続で軍をもしけれ。余りに事迫りければ、寮の御馬を始として諸大将の被立たる秘蔵の名馬共を、毎日一疋づゝ差殺して、各是をぞ朝夕の食には当たりける。是に付ても後攻する者なくては、此城今十日とも堪がたし。総大将御兄弟窃に城を御出候て杣山へ入せ給ひ、与力の軍勢を被催て、寄手を被追払候へかしと、面々に被勧申ければ、現にもとて、新田左中将義貞・脇屋右衛門佐義助・洞院左衛門督実世・河島左近蔵人惟頼を案内者にて上下七人、三月五日の夜半許に、城を忍び抜出て杣山へぞ落著せ給ひける。瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。

☆ 金崎城が落城したこと

金崎城では瓜生判官の軍勢が、寄せ手の後方を攻撃してくれることを、ただ一つ命がけで待ち続けていましたが、判官は負けてしまい軍勢の多くも討たれたらしいと聞こえてくると、頼りとするものも無くなり心細くなりました。日に日に兵糧も乏しくなってきたので、

ある兵士は湾内の魚を釣って飢えを凌ぎ、またある者は磯に生える海草を取るなどして、日を過していました。このようにして飢えを凌ぎ命を永らえて、しばらくは軍もしていました。しかしやがて兵糧は危機的状況になり、城内の馬寮で飼育している公用の馬を始めとして、

諸大将らが所有している秘蔵の名馬など、毎日一頭を殺しては朝夕の食事に当てるようになりました。このようなことをしたところで、後方から寄せ手を撃退出来なければ、この城は十日も保つことなど出来ません。そこで総大将ご兄弟に何とかこの城を脱出し、杣山に入っていただいた上、

味方の軍勢を召集して、寄せ手を攻撃してもらいたいと皆から勧められ、確かにそれが現実的な作戦とも思われ、新田左中将義貞、脇屋右衛門佐義助、洞院左衛門督実世らは河島左近蔵人惟頼を道案内にして、上下七人が二月五日(三月五日は間違い?)の夜半に城を密かに脱出して、

杣山に落ち着きになられました。瓜生、宇都宮は大変喜ばれ、再度金崎に向かい前回の恥を雪ぎ、城内の兵士の士気を蘇らせようと、色々策を練りましたが、春の風も漸く吹き出し、山道を閉ざしていた雪も解け出してくると、国々の軍勢らは寄せ手に加勢を始め、足利軍はその数十万騎を越えました。

対して義貞の軍勢は僅か五百余人に過ぎません。戦意、闘志は十分ですが、馬や甲冑なども不足しており、ああしよう、こうしなければと身もだえしている内に、二十日程が過ぎてしまいました。その頃金崎では、すでに馬など食べつくし、食事はここ十日ほどありついていないので兵士とは言え、

今はもう手足も思うように動きません。寄せ手側では、大手の攻撃を受け持っていた兵士らが、高越後守師泰の前に来て、「この城はどれほど兵糧に困っているのか、どうも馬を食べているようです。初めの頃、城内に四、五十頭の馬がいるように思われ、

いつも馬を洗ったり水に入れたりしていましたが、最近は一頭の馬さえ引き出すこともありません。ためしに一つ攻撃をかけてみればいかがでしょうか」と、申し上げました。諸大将も、「それが良いだろう」と賛同し、延元二年(建武四年::1337年)三月六日の卯の刻(午前六時頃)に、

大手、搦手の十万騎が同時に切り立った岸の下や、塀際に取り付いたのです。城内の兵士らはこの攻撃を防ごうと、木戸の周辺までよろめきながら出てきたものの、太刀を振る力も無く、弓を引くことも出来ません。ただ何をするのでもなく、櫓の上に上ったり、塀の陰に集まって、息を切らせているだけでした。


寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。其程は我等責口へ罷向て、相支候べし。見苦しからん物共をば、皆海へ入させられ候へ。」と申て、御前を立けるが、余りに疲れて足も快く立ざりければ、二の木戸の脇に被射殺伏たる死人の股の肉を切て、二十余人の兵共一口づゝ食て、是を力にしてぞ戦ける。河野備後守は、搦手より責入敵を支て、半時計戦けるが、今はゝや精力尽て、深手余多負ければ、攻口を一足も引退かず、三十二人腹切て、同枕にぞ伏たりける。新田越後守義顕は、一宮の御前に参て、「合戦の様今は是までと覚へ候。我等無力弓箭の名を惜む家にて候間、自害仕らんずるにて候。上様の御事は、縦敵の中へ御出候共、失ひ進するまでの事はよも候はじ。只加様にて御座有べしとこそ存候へ。」と被申ければ、一宮何よりも御快気に打笑せ給て、「主上帝都へ還幸成し時、以我元首将とし、以汝令為股肱臣。夫無股肱元首持事を得んや。されば吾命を白刃の上に縮めて、怨を黄泉の下に酬はんと思也。抑自害をば如何様にしたるがよき物ぞ。」と被仰ければ、義顕感涙を押へて、「加様に仕る者にて候。」と申もはてず、刀を抜て逆手に取直し、左の脇に突立て、右の小脇のあばら骨二三枚懸て掻破り、其刀を抜て宮の御前に差置て、うつぶしに成てぞ死にける。一宮軈て其刀を被召御覧ずるに、柄口に血余りすべりければ、御衣の袖にて刀の柄をきり/\と押巻せ給て、如雪なる御膚を顕し、御心の辺に突立、義顕が枕の上に伏させ給ふ。

寄せ手の軍勢はこの状況を見て、「案の定、城の防衛力はがた落ちだ。今日中に攻め落としてしまおう」と言って、乱杭や逆茂木を引き抜き塀も破壊し、三重に構えた二の木戸まで攻め込みました。由良、長浜の二人は新田越後守義顕(新田義貞の長男)の御前に参って、

「城内の兵士らはここ数日の疲労が重なって、今は矢の一本たりと射ることさえ出来ない状況にあり、敵はすでに一、二の木戸を打ち破り、ついそこまで攻め込んできています。今はもう手の打ちようもございません。そこで皇太子恒良親王は小舟にお乗せになり、

どこかの浦に落とし参らすよう願います。その他の人々は一ヶ所に集まり、御自害をされるように。その間は我らが敵の攻撃に立ち向かい、しばらく防ぐことにしましょう。見苦しいものは皆海にお捨てになられるよう」と申し上げ、御前を立とうとされましたが、

あまりにも疲労がたまり足もふらつくような状態なので、二の木戸の脇で射殺され伏せている死人から、二十余人の兵士らは股の肉を切り取り一口づつ口に入れ、それに力を得て戦ったのでした。河野備後守通治は搦手より攻め込んでくる敵に向かって、小一時間ばかり戦いましたが、

体力、精神力ともに尽き果てた上、体中も重傷を受けているのでは止む無く、その場を一歩たりと退くこともせず、三十二人は一緒に腹を切り、同じ場所に伏せたのでした。新田越後守義顕は一宮尊良親王の御前に参り、「合戦のことは、もはやこれまでかと思われます。

我らは名を惜しむ弓箭の家に生まれたからには、残念ながら自害をいたします。上様はたとえ敵に見つかることがあっても、めったにお命まで召されることはないでしょう。ただここにこうして居られるのが良かろうと思います」と、申し上げました。

しかし一宮はさわやかに笑い飛ばされ、「帝、後醍醐が都に還幸された時、帝は私を総大将に命じられ、汝を私の忠義あふれる臣下として従わせられた。腹心の家来を失った総大将などあり得ない。そこで私はここで白刃のもと自害を遂げ、怨みは黄泉の国で晴らそうと思うばかりである。

ところで自害とはいか様にするのが良いのか」と仰せられ、義明はたまらず溢れる涙を抑えながら、「このようにするので御座います」と言うや、刀を抜き逆手に持ち直すと左の脇腹に突き立て、右の小脇に向かってあばら骨の二、三本ほどを切り進み、その刀を抜いて宮の御前に置くと、

うつ伏せになって死んだのでした。一宮はすぐその刀を取り上げて見たものの、刀の柄に血糊が付いてすべるので、着物の袖を刀の柄にきりきりと巻き付け、雪のような肌をあらわにし、心臓のあたりに突き立てられ、義顕の体を枕に伏せられたのでした。


頭大夫行房・里見大炊助時義・武田与一・気比弥三郎大夫氏治・大田帥法眼以下御前に候けるが、いざゝらば宮の御供仕らんとて、同音に念仏唱て一度に皆腹を切る。是を見て庭上に並居たる兵三百余人、互に差違々々弥が上に重伏。気比大宮司太郎は、元来力人に勝て水練の達者なりければ、春宮を小舟に乗進せて、櫓かいも無れ共綱手を己が横手綱に結付、海上三十余町を游で蕪木の浦へぞ著進せける。是を知人更に無りければ、潜に杣山へ入進せん事は最安かりぬべかりしに、一宮を始進せて、城中人々不残自害する処に、我一人逃て命を活たらば、諸人の物笑なるべしと思ける間、春宮を怪しげなる浦人の家に預け置進せ、「是は日本国の主に成せ給ふべき人にて渡せ給ふぞ。如何にもして杣山の城へ入進せてくれよ。」と申含めて、蕪木の浦より取て返し、本の海上を游ぎ帰て、弥三郎大夫が自害して伏たる其上に、自我首を掻落て片手に提、大膚脱に成て死にけり。土岐阿波守・栗生左衛門・矢島七郎三人は、一所にて腹切んとて、岩の上に立並で居たりける処に、船田長門守来て、「抑新田殿の御一家の運爰にて悉極め給はゞ、誰々も不残討死すべけれ共、惣大将兄弟杣山に御座あり、公達も三四人迄、此彼に御座ある上は、我等一人も活残て御用に立んずるこそ、永代の忠功にて侍らめ。何と云沙汰もなく自害しつれて、敵に所得せさせての用は何事ぞや。いざゝせ給へ、若やと隠れて見ん。」と申ければ、三人の者共船田が迹に付て、遥の礒へぞ遠浅の浪を分て、半町許行たれば、礒打波に当りて大に穿たる岩穴あり。「爰こそ究竟の隠れ所なれ。」とて、四人共に此穴の中に隠れて、三日三夜を過しける心の中こそ悲しけれ。由良・長浜は、是までも猶木戸口に支へて、喉乾けば、己が疵より流るゝ血を受て飲み、力落疲るれば、前に伏たる死人の肉を切て食て、皆人々の自害しはてん迄と戦けるを、安間六郎左衛門走り下て、「何を期に合戦をばし給ぞ。大将は早御自害候つるぞや。」と申ければ、「いざやさらば、とても死なんずる命を、若やと寄手の大将のあたりへ紛れ寄て、よからんずる敵と倶に差違へて死ん。」とて、五十余人の兵共、三の木戸を同時に打出、責口一方の寄手三千余人を追巻り、其敵に相交て、高越後守が陣へぞ近付ける。如何に心許は弥武に思へ共、城より打出でたる者共の為体、枯槁憔悴して、尋常の人に可紛も無りければ、皆人是を見知て、押隔ける間、一人も能敵に合者無して、所々にて皆討れにけり。都て城中に篭る処の勢は百六十人、其中に降人に成て助かる者十二人、岩の中に隠れて活たる者四人、其外百五十一人は一時に自害して、皆戦場の土と成にけり。されば今に到迄其怨霊共此所に留て、月曇り雨暗き夜は、叫喚求食の声啾々として、人の毛孔を寒からしむ。「誓掃匈奴不顧身、五千貂錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」と、己亥の歳の乱を見て、陳陶が作りし隴西行も角やと被思知たり。

その時、頭大夫行房、里見大炊助時義、武田与一、気比弥三郎大夫氏治、大田帥法眼らが宮の御前にいましたが、では皆の者おさらばだ、宮のお供を致しましょうと、声を揃えて念仏を唱え、全員が一度に腹を切ったのでした。この様子を見守って庭に居並んでいた兵士ら三百余人は、

お互い刺し違い合い、屍に屍を重ねて伏せたのでした。さて皇太子恒長親王をお連れした気比大宮司太郎は元来、力も人より優れ水泳も達者な人なので、皇太子を小舟にお乗せしたものの、舟には櫓や櫂がなく、舟につないだ綱を自分のまわしに結わい付け、海上三十余町を泳ぎ切って、

蕪木の浜に着きました。このことを知っている人などいないので、こっそりと杣山にお連れするのは簡単なことでしたが、一宮尊良親王をはじめに、城中の人々が一人残らず自害をしたのにかかわらず、自分一人逃げ仰せ命を持ちこたえなどすれば、人々の物笑いになると思い、

皇太子を貧しげな浜辺の民家に預けられ、「このお方は日本国の主になられる人です。何があっても必ず杣山の城にお連れするように」とくれぐれも頼み込み、蕪木の浦より海上を泳いで引き返し、弥三郎大夫が自害して伏せているその上に、自分で自分の首を掻き切って片手に下げ、

上半身肌脱ぎになって死にました。また土岐阿波守、粟生左衛門と矢島七郎の三人は、皆揃って一ヶ所にて腹を切ろうと、岩の上に並んでいたところ、船田長門守が来て、「確かに新田殿御一家の運はここに極まってしまい、誰も彼も一人残らず討ち死にすべきかも知れぬが、

総大将兄弟は杣山にあって、子供達も三、四人ほどがあちこちにいる以上、我等は一人でも生き残ってお役に立ってこそ、永遠の忠義を果たすことになるのではないか。何ら意味も持たぬ自害などして、敵に利得を与えるとはどう言うことなのだ。

さあ、こちらに来られたし、もしやうまくいくかも知れないので隠れてみよう」と申し上げると、三人は船田の後をついて来ました。浜辺より遥かの磯に向かって遠浅の海を半町ばかり行った所に、磯を打つ波により削られた大きな岩穴がありました。

「これはまた格好の隠れ場だ」と言って、四人は一緒にこの穴に隠れ、三日三晩を過しましたが、その時の心中、どれほど悲しかったでしょうか。由良、長浜の二人は新田越後守義顕らが、自害するための時間稼ぎのため、今まで木戸の前で防戦に努め、

喉が渇けば我が傷口から流れ出る血を受けて飲み、力が尽きそうになれば、前に倒れている死人の肉を切って口に入れ、全員の自害が済むまで戦おうとしていましたが、安間六郎左衛門が走り寄ってくると、「何を何時まで戦っているのだ、大将ははや御自害なされたぞ」と、申し上げると、

「では皆ともお別れだ、どうせ死ぬ命なら、出来れば寄せ手の大将近くまで紛れ込み、良き敵を見つけ刺し違えて死のうぞ」と言って、五十余人の兵士らは三の木戸を同時に飛び出し、攻撃陣の一方の寄せ手三千余人を追いかけ、その敵勢に紛れて高越後守師泰の陣営まで近づきました。

しかしどんなに戦闘意欲があっても、城を出た兵士らの姿はやせ衰え疲れきっているので、普通の人の中にいかに紛れようともすぐに見つかり、やがて寄せ手勢とは切り離され、ただ一人の良き敵に巡り会うこともなく、そこかしこで全員討たれてしまいました。

城中に立て篭もっていた軍勢は全てで約百六十人、その中で降伏して助かった者は十二人、岩の中に隠れて生き残った者が四人、それ以外の百五十一人は一時に自害し、全員戦場の土となったのでした。そのため、今に至るもその怨霊はここに留まり、月が曇って雨で暗い夜には、

食べ物を求める声がどこからか聞こえ、人は毛穴も逆立つ恐怖を感じます。「誓掃匈奴不顧身、五千貉錦喪胡塵、可憐無定河辺骨、猶是春閨夢裡人」(必ず匈奴を追い払おうと、我が身を顧みることなく出征した、毛皮や錦で飾った五千人の兵士は、砂漠の塵と消え去った。哀れにもこの無定河《小黄河》のほとりに散らばる骨は、

今なお帰りを待つ妻が夢に見る人のものだろう)と己亥の歳の乱(黄巣の乱)を見て、陳陶が作った「隴西行」も、このような状況だったのかと思い知らされます。      (終り)

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