18 太平記 巻第十八 (その二)


○春宮還御事付一宮御息所事
去程に夜明ければ、蕪木の浦より春宮御座の由告たりける間、島津駿河守忠治を御迎に進せて取奉る。去夜金崎にて討死自害の頚百五十一取並べて被実検けるに、新田の一族には、越後守義顕・里見大炊助義氏の頚許有て、義貞・義助二人の首は無りけり。さては如何様其辺の淵の底なんどにぞ沈めたらんと、海人を入て被かせけれ共、曾不見ければ、足利尾張守、春宮の御前に参て、「義貞・義助二人が死骸、何くに有とも見へ候はぬは、何と成候けるやらん。」と被尋申ければ、春宮幼稚なる御心にも、彼人々杣山に有と敵に知せては、軈て押寄る事もこそあれと被思召けるにや。「義貞・義助二人、昨日の暮程に自害したりしを、手の者共が役所の内にして火葬にするとこそ云沙汰せしか。」と被仰ければ、「さては死骸のなきも道理也けり。」とて、是を求るに不及。さてこそ杣山には墓々敷敵なければ、降人にぞ出んずらんとて、暫が程は閣けれ。我執と欲念とにつかはれて、互に害心を発す人々も、終には皆無常の殺鬼に逢ひ、被呵責ことも不久。哀に愚かなる事共なり。新田越後守義顕・並一族三人、其外宗徒の首七を持せ、春宮をば張輿に乗進せて、京都へ還し上せ奉る。諸大将事の体、皆美々敷ぞ見へたりける。越後守義顕の首をば、大路を渡して獄門に被懸。新帝御即位の初より三年の間は、天下の刑を不行法也。未河原の御禊、大甞会も不被遂行先に、首を被渡事は如何あるべからん。先帝重祚の初、規矩掃部助高政・糸田左近将監貞吉が首を被渡たりしも、不吉の例とこそ覚ゆれと、諸人の意見共有けれ共、是は朝敵の棟梁義貞の長男なればとて、終大路を被渡けり。

☆ 皇太子恒長親王が都に帰られたことと、一宮尊良親王の妃のこと

やがて夜も明け、蕪木の浦より皇太子恒良親王が居られると連絡があり、島津駿河守忠治をお迎えに行かせ、お引取りいたしました。また先日の夜金崎にて討ち死にや自害をした者、百五十一人の首を並べて実検してみましたが、新田の一族では、越後守義顕、里見大炊助義氏の首はありましたが、

義貞、義助二人の首はありませんでした。と言うことは、そのあたりにある海の底にでも沈めたのではないかと、海人を入れて探してみましたが全く見つからず、足利尾張守高経が皇太子恒良親王の御前に参り、「義貞と義助二人の遺体が何処にも見当たらないのですが、

どう言う訳なのでしょうか」とお尋ねになりましたが、皇太子はまだまだ幼いながら、彼らが杣山に居ることを敵に知られたら、すぐに押し寄せるのではないかと思われ、「義貞と義助の二人は昨日の暮頃自害したのだが、

傍に仕える者たちが城中で火葬にするとか言っていたようだ」と、仰せられました。尾張守は、「なるほど、それでは遺体の無いのも当然だな」と言って、それ以上追求することはありませんでした。さて今となれば、杣山にはもはや大した敵もいないので、その内降伏を申し出てくるだろうと、

しばらくはそのままにしていました。自分の意地と欲につられて、お互い危害を加えようとしていた人々も、最後には皆が皆、ただ人の命を奪い合ったことに、責めさいなまれ続けるとは、誠に哀しく馬鹿げたことです。

さて新田越後守義顕とその一族三人、そのほか主だった武将ら七人の首を持たせ、皇太子を板などを張っただけの、みすぼらしい輿にお乗せして、京都に向って還啓されることになりました。同行する諸大将らの様子など、皆晴れやかに見えました。

京都に着くと、越後守義顕の首は都大路を引き回した上、獄門に架けました。新帝がご即位された時は、三年間天下の刑罰を行わないのが慣例です。天皇の即位後、大嘗会の前月に行われる河原での禊も、大嘗会もいまだ行われていないのに、首を引き回すとは如何なものでしょうか。

先帝後醍醐が重祚された当初(元弘三年::1333年)、筑紫国で反乱を起こした規矩掃部助北条高政と糸田左近将監貞吉の首を渡したことも、不吉な例だったと思う人などもいて、皆の意見も分かれていましたが、今回は朝敵の首謀者新田義貞の長男だからと、ついに大路を渡されたのです。


春宮京都へ還御成ければ、軈楼の御所を拵へて、奉押篭。一宮の御頚をば、禅林寺の長老夢窓国師の方へ被送、御喪礼の儀式を引繕る。さても御匣殿の御歎、中々申も愚也。此御匣殿の一宮に参り初給し古への御心尽し、世に類なき事とこそ聞へしか。一宮已に初冠めされて、深宮の内に長せ給し後、御才学もいみじく容顔も世に勝れて御座かば、春宮に立せ給なんと、世の人時明逢へりしに、関東の計ひとして、慮の外に後二条院の第一の御子春宮に立せ給しかば、一宮に参り仕べき人々も、皆望を失ひ、宮も世中万づ打凋たる御心地して、明暮は只詩哥に御心を寄せ、風月に思を傷しめ給ふ。折節に付たる御遊などあれ共、差て興ぜさせ給ふ事もなし。さるにつけては、何なる宮腹、一の人の御女などを角と仰られば、御心を尽させ給ふまでもあらじと覚へしに、御心に染む色も無りけるにや、是をと被思召たる御気色もなく、只独のみ年月を送らせ給ける。或時関白左大臣の家にて、なま上達部・殿上人余た集て、絵合の有けるに、洞院の左大将の出されたりける絵に、源氏の優婆塞の宮の御女、少し真木柱に居隠て、琵琶を調べ給しに、雲隠れしたる月の俄に最あかく指出たれば、扇ならでも招べかりけりとて、撥を揚てさしのぞきたる顔つき、いみじく臈闌て、匂やかなる気色云ばかりなく、筆を尽してぞ書たりける。一宮此絵を被御覧、無限御心に懸りければ、此絵を暫被召置、みるに慰む方もやとて、巻返々々御覧ぜらるれ共、御心更に不慰。

皇太子が京都に還御されたので、早速監禁用の御所をこしらえて、押し込められたのです。また一宮尊良親王のお首を、禅林寺の長老夢窓国師の方にお送りして、葬儀の体裁を整えました。ところで一宮妃の悲しみお嘆きは、尋常ではありませんでした。

この妃の一宮に御仕えするお気持ちは、世に類無いほどの誠意にあふれていたと聞いています。その頃一宮はすでに元服もお済になっており、宮中で順調にご成長され、学問は言うに及ばず、容貌においても人並み以上に勝れておられたので、後醍醐天皇の皇太子になられるのも間違いないだろうと、

周りの人々は期待に胸をときめかせていましたが、関東、幕府の方針によって、思いがけなく後二条院の第一皇子(邦良親王)が皇太子となられました。そのため一宮にお仕えしていた人々は皆、望みを断たれて、宮もまた世の中の全てに絶望を感じて、毎日ただ詩歌しか興味を持つことが出来ず、

花鳥風月に心を痛める日々です。時節時節には宴遊などの行事は行われましたが、それほど興味を持って楽しまれることもありませんでした。そのような事情があるにしても、宮であればいかなる内親王でも、また摂関家の子女なり、

その気にさえなれば、宮は気持ちなど煩わすことはないと思うのですが、心を動かすような気配は感じられず、そのためこの人ならと思いこむようなこともなく、ただ独り身のまま年月を送っていました。そんなある時、関白左大臣の家で、

若手の公卿や殿上人(清涼殿の殿上の間に昇ることを許された人)らが多数集まり、絵合わせ(左右に分かれ、双方から一点ずつ絵をだして、優劣を判定する遊び)を楽しんでいましたが、洞院の左大将が出された絵に、源氏物語の登場人物である、優婆塞の宮(桐壺院の第八皇子)の息女が、

少しばかり柱の陰になって琵琶を奏でている時に、今まで雲に隠れていた月がにわかに姿を現し、扇があれば月を招くのだがと思いながら、撥を上げてそっと覗いている顔つきが、大変美しく気品にあふれて、匂うばかりの雰囲気を技法を凝らして描かれていました。

一宮はこの絵をご覧になって深く心を打たれ、しばらくこの絵を傍に置かれて、見ることにより心が癒されるかと思い、何度も何度もご覧になられましたが、心の安らぐことはありませんでした。


昔漢李夫人甘泉殿の病の床に臥して無墓成給しを、武帝悲みに堪兼て返魂香を焼玉しに、李夫人の面影の烟の中に見へたりしを、似絵に書せて被御覧しかども、「不言不笑令愁殺人。」と、武帝の歎給けんも、現に理と思知せ給ふ。我ながら墓なの心迷やな。誠の色を見てだにも、世は皆夢の中の現とこそ思ひ捨る事なるに、是はそも何事の化し心ぞや。遍照僧正の哥の心を貫之が難じて、「歌のさまは得たれ共実少し。譬へば絵に書ける女を見て徒に心を動すが如し。」と云し、其類にも成ぬる者哉と思棄給へ共、尚文悪なる御心胸に充て、無限御物思に成ければ、傍への色異なる人を御覧じても、御目をだにも回らされず。況て時々の便りにつけて事問通し給ふ御方様へは、一急雨の過る程の笠宿りに可立寄心地にも思召さず。世中にさる人ありと伝聞て御心に懸らば、玉垂の隙求る風の便も有ぬべし。又僅に人を見し許なる御心当ならば、水の泡の消返りても、寄る瀬はなどか無るべきに、是は見しにも非ず聞しにも非ず、古の無墓物語、化なる筆の迹に御心を被悩ければ、無為方思召煩はせ給へば、せめて御心を遣方もやと、御車に被召、賀茂の糾の宮へ詣させ給ひ、御手洗河の川水を御手水に結ばれ、何となく河に逍遥せさせ給ふにも、昔業平中将、恋せじと御祓せし事も、哀なる様に思召出されて、祈る共神やはうけん影をのみ御手洗河の深き思をと詠ぜさせ給ふ時しもあれ、一急雨の過行程、木の下露に立濡て、御袖もしほれたるに、「日も早暮ぬ。」と申声して、御車を轟かして一条を西へ過させ給ふに、誰が栖宿とは不知、墻に苔むし瓦に松生て、年久く住荒したる宿の物さびし気なるに、撥音気高く青海波をぞ調べたる。「怪しや如何なる人なるらん。」と、洗墻に御車を駐めさせて、遥に見入させ給ひたれば、見る人有とも不知体にて、暮居空の月影の、時雨の雲間より幽々と顕れ出たるに、御簾を高く巻上て、年の程二八許なる女房の、云ばかりなくあてやかなるが、秋の別を慕ふ琵琶を弾ずるにてぞ有ける。鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声、雑錯たる其声は、庭の落葉に紛つゝ、外には降らぬ急雨に、袖渋る許にぞ聞へたる。宮御目も文に熟々と御覧ずるに、此程漫に御心を尽して、夢にもせめて逢見ばやと、恋悲み給ひつる似絵に少しも不違、尚あてやかに臈闌て、云はん方なくぞ見へたりける。御心地空に浮て、たど/\しき程に成せ給へば、御車より下させ給て、築山の松の木陰の立寄せ給へば、女房見る人有と物侘し気にて、琵琶をば几帳の傍らに指寄せて内へ紛れ入ぬ。引や裳裾の白地なる面影に、又立出る事もやとて、立徘徊はせ給たれば、怪げなる御所侍の、御隔子進する音して、早人定りぬれば、何迄角ても可有とて、宮還御成ぬ。

昔、漢国の李夫人が甘泉殿で病床にあって、やがてお亡くなりになられた時、武帝は悲しみに耐え切れず、返魂香(焚くとその煙の中に死者の姿が現れると言う伝説上の香)を焚かれたところ、李夫人の面影が煙の中に見えたので、その姿を肖像画に描かせてご覧になりましたが、

「話しもしなければ、笑いもせず、ただ人を嘆き殺すだけだ」と武帝が嘆かれたのも、当然といえば当然なことと、思い知らされたのです。我ながら情けない心の乱れです。現実にある姿かたちを見たとしても、世の中のことは全て、夢の中での現実に過ぎないと考えるのに、

これはまた何と言う迷いに満ちた心なのでしょう。遍照僧正が詠まれた歌の心を、紀貫之が批判し、「歌としての体裁は整っているものの、心に訴えかけるものが乏しい。たとえて言えば、絵に描かれた女を見て、無駄に心をときめかすようなものだ」と評したように、

今の自分も同じ状態なのかと、思わぬ訳ではありませんが、意地悪く思いだけが胸にあふれて、他のことなど何も頭に入らないので、周りにいる他の人をご覧になっても、興味を持って目を向けることもありません。まして時々、何かの折につけて、お尋ねのあるお方に対しても、

にわか雨をやり過ごすため、雨宿りをする程度の気遣いさえされようとしません。世の中にこの人ありと伝え聞き、もしかして、お心にとまるようであれば、玉すだれの隙間を吹き抜ける風のように、伝を求めることも出来るのですが。また少しでもその人を見ようかとの、

お気持ちでも持たれるのであれば、水が泡となって消えても、寄り付く先があるように、何か方法も取りようがありますが、実際は見ようともしなければ、聞こうともされない古い過去のつまらない話です。罪作りな絵筆に心を悩まされ、やるせない気持ちをどうすることも出来ず、

せめての気晴らしにと、お車に乗られて賀茂神社の糺の宮に参詣され、御手洗川の水で手を清められて、何気なく川の周辺をそぞろ歩きされました。昔、業平中将が、もう恋などしないと(恋せじと 御手洗川に せしみそぎ 神はうけずも なりにけるかな)、御手洗川で禊をされたことも哀しく思い出され、

      祈る共 神やはうけん 影をのみ 御手洗河の 深き思を

と詠ぜられた時、突然に雨が降り出し、木の下に避けたものの、落ちるしずくにお袖も濡れてしまい、「日もはや暮れたようだ」と声を上げられ、一条通りを西へお車を急がせていると、誰が住んでいるのかは分りませんが、垣根には苔がむして、瓦には松も生えている建物がありました。

長年人が住んではいるものの、建物には手入れが行き届かず、物寂しい雰囲気の中、撥音にも気品が満ちて青海波の調べが流れてきます。「不思議だな、どなたが奏しているのだろうか」と、垣根の隙間に車を停めさせて、遠く中の様子を窺ってみれば、

人に見られているのも気付かない様子で、暮れ始めた空に浮かぶ月の光が時雨の雲間からさして、かすかにその姿を現しました。それは簾を高く巻き上げ、歳の頃なら十六ばかりの女性が、この上なくあでやかな風情で、秋の別れを惜しむかのように琵琶を弾いておられたのです。

「鉄砕珊瑚一両曲、氷写玉盤千万声」(白居易、「五弦弾」の一部)激しくかき鳴らすその声は、庭の落ち葉に混じりあい、ここだけに降る時雨に、悲しく響くように聞こえます。宮は目を見張って熱心にご覧になると、近頃無性に我が心に入り込み、せめて夢の中でもお会いしたいものだと、

恋焦がれている絵の中の女性とそっくりで、それ以上にあでやかな上、気品にあふれ言うようもなく美しく見えます。宮は夢見心地になって、いつもの冷静さもどこかにお車を降りられ、築山の松の陰に近づかれたので、女性は誰かに見られているらしいと困惑し、

琵琶を几帳のそばにソッと置くと、室内に姿を隠しました。裳裾の白生地が引き込まれて行く様子に、再び姿を現すこともあろうかと、しばらく周辺をぶらついていましたが、素性もはっきりしない御所侍風の者によって、格子戸の閉める音が聞こえ、

はや人の寝静まる時刻(午後十時頃)にもなったので、何時までもこうしてはおられず、宮は還御されたのでした。


絵にかきたりし形にだに、御心を悩されし御事也。まして実の色を被御覧て、何にせんと恋忍ばせ給も理哉。其後よりは太すらなる御気色に見へながら、流石御詞には不被出けるに、常に御会に参り給ふ二条中将為冬、「何ぞや賀茂の御帰さの、幽なりし宵の間の月、又も御覧ぜまぼしく被思召にや。其事ならば最安き事にてこそ侍るめれ。彼の女房の行末を委尋て候へば、今出河右大臣公顕の女にて候なるを、徳大寺左大将に乍申名、未皇太后宮の御匣にて候なる。切に思召れ候はゞ、歌の御会に申寄て彼亭へ入せ給て、玉垂の隙にも、自御心を露す御事にて候へかし。」と申せば、宮例ならず御快げに打笑せ給て、「軈今夜其亭にて可有褒貶御会。」と、右大臣の方へ被仰出ければ、公顕忝と取りきらめきて、数寄の人余た集て、角と案内申せば、宮は為冬許を御供にて、彼亭へ入せ給ぬ。哥の事は今夜さまでの御本意ならねば、只披講許にて、褒貶はなし。主の大臣こゆるぎの急ぎありて、土器もて参りたれば、宮常よりも興ぜさせ給て、郢曲絃歌の妙々に、御盃給はせ給ひたるに、主も痛く酔臥ぬ。宮も御枕を傾させ給へば、人皆定りて夜も已に深にけり。媒の左中将心有て酔ざりければ、其案内せさせて、彼女房の栖ける西の台へ忍入せ給て、墻の隙より見給へば、灯の幽なるに、花紅葉散乱たる屏風引回し、起もせず寝もせぬ体に打濡、只今人々の読たりつる哥の短冊取出して、顔打傾けたれば、こぼれ懸りたる鬢の端れより、匂やかに幽なる容せ、露を含める花の曙、風に随へる柳の夕の気色、絵に書共筆も難及、語るに言も無るべし。外ながら幽に見てし形の、世に又類ひもやあらんと、怪しきまでに思ひしは、尚数ならざりけりと御覧じ居給ふに、御心も早ほれ/゛\と成て、不知我が魂も其袖の中にや入ぬらんと、ある身ともなく覚させ給ふ。

絵に描かれた容貌でさえ、心を悩まされたほどです。まして実際にご覧になっては、どうもこうも、恋に溺れてしまわれるのも当然です。それ以後と言うのは彼女のとりこになってしまわれたようですが、さすがに、お口に出されることは無くかったのです。

しかし、いつも歌の会合に出席されている二条中将為冬が、「どうかしたのですか。賀茂からお帰りになられた時、静かな宵に浮かんだ月を、再びご覧になりたいと思っているのですか。もしそのことなら、簡単なことでございます。あの女性の身分や経歴など詳しく調べて見たところ、

今出河右大臣公顕(西園寺公顕)の娘で、徳大寺左大将と婚約をしていますが、いまだに皇太后のお住まい近くにお仕えしている高級女官です。もし真剣に思いつめて居られるならば、歌の会合に事寄せて、今出河公顕の屋敷にお邪魔し、何かの隙を狙って、

自分のお気持ちを告げられてはいかがですか」と、申し上げました。聞いていた宮はいつもと違って気分も晴れやかにお笑いになり、「突然だが今夜でも、公顕の屋敷で歌の論評会を開くことができるだろうか」と、右大臣公顕に仰せられました。

公顕はありがたい申し出だと、開催の段取りを進め、歌の道に興味のある人達多数に案内をしました。宮は二条中将為冬一人をお連れになって、公顕の屋敷にお入りになりました。宮にとって今夜は歌については興味がありませんから、ただ聞いているだけで批評はしませんでした。

主人の右大臣は準備万端整え、飲酒の用意も出来ていましたから、宮もいつもより楽しまれ、歌謡、俗曲その他弦楽曲の素晴らしさに盃も進み、さしつさされつしている内に、主人も大いに酔いが回り、寝込んでしまわれました。また宮もお枕に顔をうずめられる頃には、

他の人々も寝静まり夜もすでに深くなっていました。左中将は女性との仲立ちを受け持っている以上、酔うことも無く待っていましたので、彼に彼女の居られる所まで案内させ、住まわれている西の台に忍び入りました。垣根の隙間より中をご覧になれば、かすかな灯火の中、

桜や紅葉を散らし描きにした屏風を立てて、起きるとも寝るとも無いようなご様子です。今さっき皆様が詠まれた歌の短冊を取り出され、顔を少しかしげておられ、鬢のほつれを通して、匂うような美しいご様子や、曙に露を含んだ花、また夕景、風に身をまかせるかの柳の様子、

絵にしようとも筆では表わすことが出来ず、語るにもとても言葉では尽くせない上品な美しさです。それとなくそっと見ている彼女の様子も、世の中にはそのような女性も居るのではと思え、大したことも無いのかとご覧になっている内、お気持ちはすっかり彼女に心を奪われ、

気の付かない間に、我が魂は彼女の袖に入ってしまいそうで、意識もはっきりしなくなりました。


時節辺に人も無て、灯さへ幽なれば、妻戸を少し押開て内へ入せ給たるに、女は驚く貌にも非ず、閑やかにもてなして、やはら衣引被て臥たる化妝、云知らずなよやかに閑麗なり。宮も傍に寄伏給て、有しながらの心尽し、哀なる迄に聞へけれ共、女はいらへも申さず、只思にしほれたる其気色、誠に匂深して、花薫り月霞む夜の手枕に、見終ぬ夢の化ある御心迷に、明るも不知語ひ給へ共、尚強顔気色にて程経ぬれば、己が翅を並べながら人の別をも思知ぬ八声の鳥も告渡り、涙の氷解やらず、衣々も冷やかに成て、類も怨き在明の、強顔影に立帰せ給ぬ。其後より度々御消息有て、云ばかりなき御文の数、早千束にも成ぬ覧と覚る程に積りければ、女も哀なる方に心引れて、のぼれば下る稲舟の、否には非ずと思へる気色になん顕れたり。され共尚互に人目を中の関守になして、月比過させ給けるに、式部少輔英房と云儒者、御文談に参じて、貞観政要を読けるに、「昔唐の太宗、鄭仁基が女を后に備へ、元和殿に冊入んとし玉ひしを、魏徴諌て、「此女は已に陸氏に約せり」と申せしかば、太宗其諌に随て、宮中に召るゝ事を休め給き。」と談じけるを、宮熟々と聞召て、何なれば古の君は、かく賢人の諌に付て、好色心を棄給けるぞ。何なる我なれば、已に人の云名付て事定りたる中をさけて、人の心を破るらん。古の様を恥、世の譏を思食て、只御心の中には恋悲ませ給ひけれ共、御詞には不被出、御文をだに書絶て、角とも聞へねば、百夜の榻の端書、今は我や数書ましと打侘て、海士の刈藻に思乱給ふ。角て月日も過ければ、徳大寺此事を聞及、「左様に宮なんどの御心に懸られんを、争でか便なうさる事可有。」とて、早あらぬ方に通ふ道有と聞へければ、宮も今は無御憚、重て御文の有しに、何よりも黒み過て、知せばや塩やく浦の煙だに思はぬ風になびく習ひを女もはや余りに強顔かりし心の程、我ながら憂物に思ひ返す心地になん成にければ、詞は無て、立ぬべき浮名を兼て思はずは風に烟のなびかざらめや其後よりは、彼方此方に結び置れし心の下紐打解て、小夜の枕を河島の、水の心も浅からぬ御契に成しかば、生ては偕老の契深く、又死ては同苔の下にもと思召通して、十月余りに成にけるに、又天下の乱出来て、一宮は土佐の畑へ被流させ給しかば、御息所は独都に留らせ給て、明るも不知歎き沈せ給て、せめてなき世の別なりせば、憂に堪ぬ命にて、生れ逢ん後の契を可憑に、同世ながら海山を隔てゝ、互に風の便の音信をだにも書絶て、此日比召仕はれける青侍・官女の一人も参り通はず、万づ昔に替る世に成て、人の住荒したる蓬生の宿の露けきに、御袖の乾く隙もなく、思召入せ給ふ御有様、争でか涙の玉の緒も存へぬ覧と、怪き程の御事也。

丁度その時は回りに人影も無く、灯火もそれほど明るくないので、妻戸を少し押し開けて中に入って行きますと、女は驚く様子も無く、静かに宮を迎え入れると、頭から静かに着物を被って伏せた様子は、言いようも無いほど弱々しく見えながら、それもまた雅な美しい姿です。

宮も彼女のそばに寄られ、以前から好意を寄せていたことなどを、切々とお話しされましたが、彼女は何もお答えにならず、ただ何か困惑した様子もまた情感にあふれています。花の香に包まれ、かすんだ月の浮かぶ夜、見終わることの無い夢の中のように、

心も乱れて夜の明けるのも気付かず話されましたが、彼女は心を動かすことも無く、時間ばかりが過ぎて行き、男女の細やかな情愛を打ち破るような鶏の声が、無情にも夜の明けたことを告げ、流れる涙を抑えることも出来ずに朝の別れを迎え、

耐え難い思いを秘めた有明の月の下、思うようにならない苛立ちを秘めて、お帰りになられたのです。その後宮は幾度も文を送り、言葉にするのもはばかられますが、その数は千通にもなったのでしょうか、さすが彼女も不憫な宮の熱意に動かされ、

はっきりと拒否する様子(最上川上れば下る稲舟の、稲にはあらずこの月ばかり::古今和歌集)はなくなってきました。とは言え二人はお互い人目をはばかって日々を過ごしていましたが、ある時式部少輔英房と言う儒者が講義に来られて、貞観政要を題材に、

「昔、唐の太宗が鄭仁基の娘を后にするべく、元和殿に入内させようとした時、魏徴が諌められ、『この女性はすでに陸氏と婚約しています』と申し上げると、太宗はその諫言に従って、宮中に呼び入れることをやめられた」と、話されました。宮は熱心に聞いていましたが、

どういう訳で古代の帝王はこのような賢人の諫言に従って、自分の恋心を捨てられたのだ。それなのにこの私は、すでに人と婚約が決まっている仲を裂いてまで、人の心を動かそうとするのか。昔にあった出来事に恥じると共に、世間の非難も考え合わせられ、

心の奥底に悲しい恋心を秘められたものの、口には出されませんでした。しかし彼女に文を送ることはやめられたので、彼女も事情が分からず、今は小野小町と深草少将の関係を思い起こされ(あかつきの 榻の端書き 百夜書き 君の来ぬ夜は われぞ数書く )、小野小町のように心細くなり、

海人の刈藻(作者不詳の物語。権大納言と藤壺の女御との悲恋物語)の悲恋を思って、心も乱れに乱れたのでした。そのような状態のまま月日は流れて行くなか、婚約者の徳大寺はこの事情を聞くと、「このように宮のお気持ちを煩わせることなどを、この私が勝手にして良いのだろうか」と、考えられました。

そして彼がすでに他の女性の元に通っているらしいと聞いた宮は、こうなれば誰に気兼ねなどすることないと、再びお手紙を差し出しましたが、それには今までと違い思い切って、

      知らせばや 塩やく浦の 煙だに 思はぬ風に なびく習ひを

と、歌を送りました。姫も今となっては、つれない態度を取る自分に嫌気が差して、言葉はありませんが返歌として、
      立ちぬべき 浮名を兼ねて 思はずは 風に烟の なびかざらめや

その後は何かと二人の心を縛っていた紐も解け枕も共に、心もお互い許しあった契りを交わされれば、生きている間は、お互い年齢を重ねるまで仲良く暮らし、また死んでからは同じ墓に納まろうと思い合って、十ヶ月ばかり過ぎた頃、再び天下に騒乱が出来し、

一宮尊良親王は土佐の畑の庄に流されました。しかし奥方は一人で都に留まられ、毎日毎日を嘆き悲しまれ、日の過ぎるのもお気付きにならず、せめて死に別れなら辛いこの世を生きても、生まれ変われば再びお会いできることを心の頼りとするのに、

同じ世にいながら遥かな海山を隔てて、お互い風の便りさえ途絶えてしまい、常日頃召しつかっていた若侍や官女らも、誰一人として姿を見せなくなりました。全てが昔の世に戻ってしまい、人の住み荒らしたみすぼらしい家で、涙の袖も乾く間もなく思いつめたご様子は、かない命さえ繋ぎとめられそうになく、不吉なことを想像させるようです。


宮も都を御出有し日より、公の御事御身の悲み、一方ならず晴やらぬに、又打添て御息所の御名残、是や限と思召しかば、供御も聞召入られず、道の草葉の露共に、消はてさせ給ぬと見へさせ給ふ。惜共思食ぬ御命長らへて、土佐の畑と云所の浅猿く、此世の中とも覚へぬ浦の辺に流されて、月日を送らせ給へば、晴るゝ間もなき御歎、喩へて云ん方もなし。余りに思くづほれさせ給ふ御有様の、御痛敷見奉りければ、御警固に候ける有井庄司、「何か苦く候べき。御息所を忍で此へ入進せられ候へ。」とて、御衣一重し立て、道の程の用意迄細々に沙汰し進せければ、宮無限喜しと思召て、只一人召仕れける右衛門府生秦武文と申随身を、御迎に京へ上せらる。武文御文を給て、急京都へ上り、一条堀川の御所へ参りたれば、葎茂りて門を閉、松の葉積りて道もなし。音信通ふものとては、古き梢の夕嵐、軒もる月の影ならでは、問人もなく荒はてたり。さては何くにか立忍ばせ給ぬらんと、彼方此方の御行末を尋行程に、嵯峨の奥深草の里に、松の袖垣隙あらはなるに、蔦はい懸て池の姿も冷愁く、汀の松の嵐も秋冷く吹しほりて、誰栖ぬらんと見るも懶げなる宿の内に、琵琶を弾ずる音しけり。怪しやと立留て、是を聞ば、紛ふべくもなき御撥音也。武文喜しく思ひて、中々案内も不申、築地の破れより内へ入て、中門の縁の前に畏れば、破れたる御簾の内より、遥に被御覧、「あれや。」と許の御声幽に聞へながら、何共被仰出事もなく、女房達数たさゞめき合ひて、先泣声のみぞ聞へける。「武文御使に罷上り、是迄尋参りて候。」と申も不敢、縁に手を打懸てさめ/゛\と泣居たり。良有て、「只此迄。」と召あれば、武文御簾の前に跪き、「雲井の外に想像進らするも、堪忍び難き御事にて候へば、如何にもして田舎へ御下り候へとの御使に参て候。」とて、御文を捧たり。急ぎ披て御覧ぜらゝるに、げにも御思ひの切なる色さもこそと覚て、言の葉毎に置露の、御袖に余る許なり。「よしや何なる夷の栖居なりとも、其憂にこそ責ては堪め。」とて、既に御門出有ければ、武文甲斐々々敷御輿なんど尋出し、先尼崎まで下し進せて、渡海の順風をぞ相待ける。

尊良親王が都をご出発する日の決まってから、公務のことや我が身の悲しみなど、気分の晴れることも無いのに、その上奥方ともこれが今生の別れとも思われ、食事ものどを通らず、道に生えている草葉の露と共に、消え果るかのような様子に見えました。

惜しむに値しない命を永らえて、この世とも思えない土佐の畑の庄に流され、月日を過ごすこととなり、一瞬足りとて晴れることも無いその嘆き悲しみは、言葉に表すことも出来ないほどです。余りにも気分が晴れずに、ぼんやりしたご様子を警固に就いている有井庄司が痛ましく思われ、

「とても辛そうにお見受けします。一つ奥方をそっとここに呼ばれてはいかがですか」と話され、一重の着物を仕立て、道中の準備などこまごまと用意を進められたので、宮は非常にお喜びになり、ただ一人ここで召し使っている右衛門府生秦武文という供の者を、お迎えとして京に上らせました。

武文はお手紙を受け取ると急いで京都に上り、一条堀川の御所に参りましたが、雑草が生い茂り門も閉ざされた上、松の落ち葉が積もってどこが道とも分りません。手がかりともなるのは、古木の梢を吹き抜ける夕嵐か、軒を漏れる月の光だけで、問いかける人も居ず荒れ果てています。

これはきっとどこかに身をお隠しになられたに違いないと、あちこちに行方を訪ね歩いて行く内に、嵯峨の奥、深草の里で、松の植わった小さな垣根の崩れから見ると、蔦が絡み付いた池も裏寒く、水際の松に吹きかかる風も寒々と、一体誰がお住みになっているのか、

見るからに怪しげな家の中から、琵琶を奏でる音が聞こえます。不審に感じ立ち止まって聞いて見れば、間違いなく琵琶の撥音です。武文は嬉しく思い敢えて案内を乞わずに、築地の崩れた場所から中に入り、中門の縁の前に控えたところ、

破れた御簾の中より遠くこちらをご覧になって、「あれ、人が」との声がかすかに聞こえましたが、特に何もおっしゃられず、ただ多くの女性たちのざわざわする音と、何か泣き声だけが聞こえます。「武文が宮のお使いとして上洛し、ここまでお尋ねして参りました」と申し上げる間もなく、

縁側に手をつかえて涙を流しました。しばらくして、「こちらへどうぞ」とお呼びがあり、武文は御簾の前にひざまずいて、「外部から想像しても、耐えがたく忍びがたいご様子であり、何とかしてこちらの方に下って来るよう伝えよと、命を受けての御使いで参ったので御座います」と言って、

宮のお手紙を差し出しました。急いで開いてご覧になると、確かに差し迫った思いがありありと感じられ、読んでいく言葉の端々に涙を誘われ、袖も濡れるばかりです。「分かりました。どれほど辺鄙なお住まいであっても、その辛さには耐えてまいりましょう」と言って、

早くも御門を出られましたので、武文は手際よくどこからか御輿を探し出して、まず尼崎までお連れし、四国への順風を待つことにしました。


懸りける折節、筑紫人に松浦五郎と云ける武士、此浦に風を待て居たりけるが、御息所の御形を垣の隙より見進せて、「こはそも天人の此土へ天降れる歟。」と、目枯もせず守り居たりけるが、「穴無端や。縦主ある人にてもあれ、又何なる女院・姫宮にても坐ませ。一夜の程に契を、百年の命に代んは何か惜からん。奪取て下らばや。」と思ける処に、武文が下部の浜の辺に出て行けるを呼寄て、酒飲せ引出物なんど取せて、「さるにても御辺が主の具足し奉て、船に召せんとする上臈は、何なる人にて御渡あるぞ。」と問ければ、下臈の墓なさは、酒にめで引出物に耽りて、事の様有の侭にぞ語りける。松浦大に悦で、「此比何なる宮にても御座せよ、謀反人にて流され給へる人の許へ、忍で下給はんずる女房を、奪捕たり共、差ての罪科はよも非じ。」と思ければ、郎等共に彼宿の案内能々見置せて、日の暮るをぞ相待ける。夜既に深て人定る程に成ければ、松浦が郎等三十余人、物具ひし/\と堅めて、続松に火を立て蔀・遣戸を蹈破り、前後より打て入。武文は京家の者と云ながら、心剛にして日比も度々手柄を顕したる者なりければ、強盜入たりと心得て、枕に立たる太刀をゝつ取て、中門に走出て、打入敵三人目の前に切臥せ、縁にあがりたる敵三十余人大庭へ颯と追出して、「武文と云大剛の者此にあり。取れぬ物を取らんとて、二つなき命を失な、盜人共。」と■て、仰たる太刀を押直し、門の脇にぞ立たりける。松浦が郎等共武文一人に被切立て、門より外へはつと逃たりけるが、「蓬し。敵は只一人ぞ。切て入。」とて、傍なる在家に火を懸て、又喚てぞ寄たりける。武文心は武しといへ共、浦風に吹覆はれたる烟に目暮て、可防様も無りければ、先御息所を掻負進せ、向ふ敵を打払て、澳なる船を招き、「何なる舟にてもあれ、女性暫乗進せてたび候へ。」と申て、汀にぞ立たりける。舟しもこそ多かるに、松浦が迎に来たる舟是を聞て、一番に渚へ差寄たれば、武文大に悦で、屋形の内に打置奉り、取落したる御具足、御伴の女房達をも、舟に乗んとて走帰たれば、宿には早火懸て、我方様の人もなく成にけり。松浦は適我舟に此女房の乗せ給たる事、可然契の程哉と無限悦て、「是までぞ。今は皆舟に乗れ。」とて、郎等・眷属百余人、捕物も不取敢、皆此舟に取乗て、眇の澳にぞ漕出したる。武文渚に帰来て、「其御舟被寄候へ。先に屋形の内に置進せつる上臈を、陸へ上進せん。」と喚りけれども、「耳にな聞入そ。」とて、順風に帆を上たれば、船は次第に隔りぬ。又手繰する海士の小船に打乗て、自櫓を推つゝ、何共して御舟に追著んとしけれ共、順風を得たる大船に、押手の小舟非可追付。遥の沖に向て、挙扇招きけるを、松浦が舟にどつと笑声を聞て、「安からぬ者哉。其儀ならば只今の程に海底の竜神と成て、其舟をば遣まじき者を。」と忿て、腹十文字に掻切て、蒼海の底にぞ沈ける。

風待ちで尼崎に滞在している時、筑紫の武士である松浦五郎も、ここ尼崎で風待ちをしていましたが、奥方のお姿を垣根の隙間からご覧になり、「これは一体天女がこの地上に降りてこられたのか」と、目を凝らして見守っていましたが、「これはまた、何の巡り会わせなのか。

もしやご主人のある人であろうとも、また公卿に連なる女院や姫君であろうとも、一夜の契りに百年の寿命と交換するのに、何を惜しむことなどあろうか。奪い取ってしまおう」と思案していたところ、武文が浜辺の方に歩んでいるのを見つけて呼び寄せ、

酒を飲ませたりみやげ物などを渡しながら、「ところで貴殿がご主人の如くにお連れして、舟にお乗せしようとしている女性は、一体どなたなのでしょうか」と問いかけると、酒を飲まされたり、みやげ物を貰ったりした上、思慮に欠けた人間だったので、事情をありのままにしゃべってしまいました。

聞いた松浦は大いに喜び、「最近、謀反人として流された誰か分からない宮のもとに、こっそりと忍んで行こうとする女房を奪い取っても、大した罪になどならないだろう」と考えて、家来らに武文らが泊まっている宿の状況を詳しく調べさせ、日の暮れるのを待ちました。

夜も更け、すでに人々が寝静まった頃、松浦の家来ら三十余人が甲冑で身を固め、松明を灯して蔀や遣戸を蹴破って、宿に表と裏口から乱入しました。武文は公家育ちとは言いながら、胆が座っている上、今までにも度々の武勇を発揮している者なので、

これは強盗が入って来たのに違いないと考え、枕のそばに立て掛けた太刀を手にすると、中門まで走り出て、打ち入ってきた敵三人を目の前に斬り伏せ、縁に上がっている敵三十余人を大庭へ一気に追い出し、「武文と言う猛者とはこの私だ。

取ることもできない物を取ろうとして、二つとない命を粗末にするな、盗っ人ども」と言って、反った太刀を直しながら、門の脇に仁王立ちとなりました。松浦の家来らは武文一人に斬り込まれて、門から外に逃げ出したのですが、「汚いぞ、敵はただ一人ではないか。

切り込め」と言って、そばの民家に火をかけ、再び喚き声を上げながら突入しました。武文も意気込みだけは盛んですが、海を吹き渡る風にあおられた烟に、目も開けられなければとても防戦できず、とりあえず奥方を背負い、向う敵を打ち払いながら沖の舟に呼び掛け、

「どの舟でも良いから、女性たちをしばらく乗せてもらえないか」と頼みながら、波打ち際に立ち止まりました。多数の舟が沖にいたのですが、松浦が待ち構えていた舟がこの呼びかけを聞き、一番に渚に漕ぎ寄せると、武文は大いに喜んで屋形の中に女性をお乗せし、

うっかり残してきた甲冑や、お供の女房らもこの舟に乗せようと、走り帰ったところ、宿はすでに火が掛けられて、同行してきた人達は誰もいません。その頃、松浦は思いがけなくも、自分の舟に目当ての女性が乗ってきたので、これぞもっけの幸いと大いに喜び、

「皆の者、これまでだ。全員舟に乗れ」と言って、家来や同族の者、百余人は取るもの取り敢えず全員が舟に乗って、遥か沖の方へ漕ぎ出しました。武文は渚に引き返してくると、「おーい、その舟こちらに引き返してくれ。さっき屋形の中にお乗せした女性を、舟から降ろしてくれ」と喚きましたが、

舟では、「ほっとけ、耳にすることなどない」と順風に帆を膨らませ、次第に遠ざかっていきました。武文は漁師の手漕ぎの小舟に乗り込み、みずから櫂を漕いで何とか追いつこうとしましたが、順風に帆を膨らました大船に、手漕ぎの舟では到底追いつくことなど出来ません。

遥か沖の舟に向かって扇で差し招くのを、松浦らの乗った舟から、ドッと笑い声が起こったのを聞き、「手に負えん奴らだな。それならこの俺は今すぐにでも、海底の竜神になってその舟を逃がさないぞ」と怒り狂い、腹を十文字に掻き切って、大海原の底に沈みました。


御息所は夜討の入たりつる宵の間の騒より、肝心も御身に不副、只夢の浮橋浮沈、淵瀬をたどる心地して、何と成行事共知せ給はず。舟の中なる者共が、「あはれ大剛の者哉。主の女房を人に奪はれて、腹を切つる哀さよ。」と沙汰するを、武文が事やらんとは乍聞召、其方をだに見遣せ給はず。只衣引被て屋形の内に泣沈ませ給ふ。見るも恐ろしくむくつけ気なる髭男の、声最なまりて色飽まで黒きが、御傍に参て、「何をかさのみむつからせ給ふぞ。面白き道すがら、名所共を御覧じて御心をも慰ませ給候へ。左様にては何なる人も船には酔物にて候ぞ。」と、兎角慰め申せ共、御顔をも更擡させ給はず、只鬼を一車に載せて、巫の三峡に棹すらんも、是には過じと御心迷ひて、消入せ給ぬべければ、むくつけ男も舷に寄懸て、是さへあきれたる体なり。其夜は大物の浦に碇を下して、世を浦風に漂ひ給ふ。明れば風能成ぬとて、同じ泊りの船共、帆を引梶を取り、己が様々漕行けば、都は早迹の霞に隔りぬ。九国にいつか行著んずらんと、人の云を聞召すにぞ、さては心つくしに行旅也と、御心細きに付ても、北野天神荒人神に成せ給し其古への御悲み、思召知せ給はゞ、我を都へ帰し御座せと、御心の中に祈せ給。其日の暮程に、阿波の鳴戸を通る処に、俄に風替り塩向ふて、此船更に不行遣。舟人帆を引て、近辺の礒へ舟を寄んとすれば、澳の塩合に、大なる穴の底も見へぬが出来て、舟を海底に沈んとす。水主梶取周章て帆薦なんどを投入々々渦に巻せて、其間に船を漕通さんとするに、舟曾不去。渦巻くに随て浪と共に舟の廻る事、茶臼を推よりも尚速也。「是は何様竜神の財宝に目懸られたりと覚へたり。何をも海へ入よ。」とて、弓箭・太刀・々・鎧・腹巻、数を尽して投入たれ共、渦巻事尚不休。「さては若色ある衣裳にや目を見入たるらん。」とて、御息所の御衣、赤き袴を投入たれば、白浪色変じて、紅葉を浸せるが如くなり。是に渦巻き少し閑まりたれ共、船は尚本の所にぞ回居たる。角て三日三夜に成ければ、舟の中の人独も不起上、皆船底に酔臥て、声々に呼叫ぶ事無限。御息所は、さらでだに生る御心地もなき上に、此浪の騒になを御肝消て、更に人心も坐さず。よしや憂目を見んよりは、何なる淵瀬にも身を沈めばやとは思召つれ共、さすがに今を限と叫ぶ声を聞召せば、千尋の底の水屑と成、深き罪に沈なん後の世をだに誰かは知て訪はんと思召す涙さへ尽て、今は更に御くしをも擡させ給はず。むくつけ男も早忙然と成て、「懸る無止事貴人を取奉り下る故に、竜神の咎めもある哉らん。無詮事をもしつる者哉。」と誠に後悔の気色なり。斯る処に梶取一人船底より這出て、「此鳴渡と申は、竜宮城の東門に当て候間、何にても候へ、竜神の欲しがらせ給ふ物を、海へ沈め候はねば、いつも加様の不思議ある所にて候は、何様彼上臈を龍神の思懸申されたりと覚へ候。申も余に邪見に無情候へ共、此御事独の故に若干の者共が、皆非分の死を仕らん事は、不便の次第にて候へば、此上臈を海へ入進せて、百余人の命を助させ給へ。」とぞ申ける。

奥方は松浦の郎等らが討ち入った宵の騒動頃より、身も心もここにあらず、ただ夢の中で浮き沈みする橋を渡ったり、深いよどみや浅瀬を選んで歩いている気持ちがするばかりで、事態の状況については何も分りません。

ただ舟に乗っている者たちが、「可哀そうに、あれほどの猛者だったけど、主人の女房を他人に奪われ、腹を切るとは哀れな話だ」と、話しているのを聞き、武文のことに違いないとは思いながら、とても確認など出来ず、ただ衣を頭から被って、屋形の中で泣き沈むばかりです。

見るからに気味悪く恐ろしそうな上、なまりのある話しかたをする、色黒で髭の伸びた男が傍に来て、「何故そんなに機嫌が悪いのだ。めったに無い船旅の途中、名所などをご覧になって、気持ちを和ませれば良いだろう。そのように不機嫌でいれば、

誰だって舟に酔ってしまうものだ」と、あれこれ機嫌をとりに来ました。しかし、お顔を持ち上げることもせず、鬼と同じ乗り物に乗り込み、巫山県の三峡に棹差して行くのも、これほどには心細くないと思われ、今にも息が絶えそうに見えるため、さすが恐ろしげな男たちも舷側に寄りかかって、

ただ唖然とするばかりです。その夜は大物の浦に碇を下ろし、浦風に漂うに任せて夜を明かしました。夜が明けると、風の向きも良くなってきたので、同じく停泊していた他の舟なども帆を張り、梶を手にしてそれぞれに漕ぎ進み、やがて都もはるか霞の中に遠ざかって行きました。

いつかは九州に着くのだろうかと、人の話を聞いては考えることも多く、心細くなるばかりです。その昔、北野天神菅原道真公が九州大宰府に流された時の悲しみを思い出されるならば、どうかこの私を都に帰してくださいと、心の中でお祈りしました。その日の夕方頃、阿波の鳴門海峡を通り過ぎる時、

突如として風向きが変わるとともに、潮の流れも向かい潮になり、舟は思うように進まなくなりました。水夫らは帆を引き下ろし、近くの磯に舟を寄せようとしましたが、沖で潮がぶつかり合う所に、大きな穴の底のように見えるものが現れ、舟を海底に沈めようとします。

船頭や水夫らは大慌てで海に帆などを投げ込み、渦に巻かせてその間に、舟を渦から漕ぎ抜けようとしましたが、舟は言うことを聞きません。逆巻く渦につられて波と共に舟も回り、茶臼(抹茶を挽く臼)以上に速く回っているように思えます。「これはきっと竜神が財宝に目が眩んだのに違いないと思う。

何でも良いから海へ投入れよう」と言って、弓箭や太刀、刀、鎧や腹巻など数多く投入れたものの、渦巻きは収まりません。「もしかして色の付いた衣装に、目が眩んだのではないか」と言って、今度は奥方のお着物や赤い袴を投入れたところ、白波はその色を変え、海中に紅葉を咲かせました。

これで渦も少しは静まったのですが、舟は相変わらず元の場所で回っています。このように三日三晩経った頃、舟の中の人は誰も立ち上がることが出来ず、全員舟底に酔いつぶれて、うめき声が聞こえるだけです。それでなくても、奥方は生きた心地などしていなかったのに、

この波による大騒ぎのため、心はずたずたに切り裂かれたようです。こうなれば辛い目に会うよりも、何処でも良いから、深い海に身を沈めてしまおうと思いましたが、さすがに今を最期とうめいている声を聞くと、深い海底に沈んで藻屑となっては、罪深い命を失ってからの後生を、

誰かが気付いて尋ねてくれるのだろうかと思う涙も枯れ果てて、今はもう、頭を上げることさえ出来ません。荒くれた男どもも今や手の打ちようもなく、「このように特別な貴人を拉致して、国へ下ろうとするから、竜神に罰を与えられたのだろう。余計なことをしたものだ」と、後悔ばかりです。

そこへ船員の一人が舟底から這い出てきて、「この鳴門と言う所は、竜宮城の東門にあたり、何でも良いから竜神の欲しがるものを海に沈めなければ、いつもこのような目に遭うのです。今、竜神はあの女性を欲しがっているように思います。とは言え余りにも無情なことだと思いますが、

一人の命のため多くの者どもが不合理な死を遂げると言うことも不憫なので、ここはあの女性を海に沈めて、百余人の命を救おうではないか」と、話しました。


松浦元来無情田舎人なれば、さても命や助かると、屋形の内へ参て、御息所を荒らかに引起し奉り、「余に強顔御気色をのみ見奉るも、無本意存候へば、海に沈め進すべきにて候。御契深くば土佐の畑へ流れよらせ給ひて、其宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住せ給へ。」とて、無情掻抱き進せて、海へ投入奉んとす。是程の事に成ては、何の御詞か可有なれば、只夢の様に思召して、つや/\息をも出させ給はず、御心の中に仏の御名許を念じ思召て、早絶入せ給ぬるかと見へたり。是を見て僧の一人便船せられたりけるが、松浦が袖を磬て、「こは如何なる御事にて候ぞや。竜神と申も、南方無垢の成道を遂て、仏の授記を得たる者にて候へば、全く罪業の手向を不可受。而るを生ながら人を忽に海中に沈められば、弥竜神忿て、一人も助る者や候べき。只経を読み陀羅尼を満て法楽に備られ候はんずるこそ可然覚へ候へ。」と、堅く制止宥めければ、松浦理に折て、御息所を篷屋の内に荒らかに投棄奉る。「さらば僧の儀に付て祈りをせよや。」とて、船中の上下異口同音に観音の名号を唱奉りける時、不思議の者共波の上に浮び出て見へたり。先一番に退紅著たる仕丁が、長持を舁て通ると見へて打失ぬ。其次に白葦毛の馬に白鞍置たるを、舎人八人して引て通ると見へて打失ぬ。其次に大物の浦にて腹切て死たりし、右衛門府生秦武文、赤糸威の鎧、同毛の五枚甲の緒を縮、黄■毛なる馬に乗て、弓杖にすがり、皆紅の扇を挙げ、松浦が舟に向て、其舟留まれと招く様に見へて、浪の底にぞ入にける。梶取是を見て、「灘を走る舟に、不思議の見ゆる事は常の事にて候へ共、是は如何様武文が怨霊と覚へ候。其験を御覧ぜん為に、小船を一艘下して此上臈を乗進せ、波の上に突流して、竜神の心を如何と御覧候へかし。」と申せば、「此儀げにも。」とて、小船を一艘引下して、水手一人と御息所とを乗せ奉て、渦の波に漲て巻却る波の上にぞ浮べける。彼早離・速離の海岸山に被放、「飢寒の愁深して、涙も尽ぬ。」と云けんも、人住島の中なれば、立寄方も有ぬべし。是は浦にも非ず、島にも非ず、如何に鳴渡の浪の上に、身を捨舟の浮沈み、塩瀬に回る泡の、消なん事こそ悲けれ。されば竜神もゑならぬ中をや被去けん。風俄に吹分て、松浦が舟は西を指して吹れ行と見へけるが、一の谷の澳津より武庫山下風に被放て、行方不知成にけり。其後浪静り風止ければ、御息所の御船に被乗つる水主甲斐々々敷舟を漕寄て、淡路の武島と云所へ著奉り、此島の為体、回一里に足ぬ所にて、釣する海士の家ならでは、住人もなき島なれば、隙あらはなる葦の屋の、憂節滋き栖に入進せたるに、此四五日の波風に、御肝消御心弱りて、軈て絶入せ給ひけり。

松浦五郎と言う武士は、元来が薄情で荒くれた男なので、命が助かるのならばと屋形の中に入り、奥方を荒々しく引き起こし、「余りにもよそよそしい態度を見ているのも、心が滅入るばかりなので、海に沈んでもらうことになりました。もしご主人との契りが強ければ、

土佐の畑の庄にでも流れ着いて、その宮とどこかの配流先で一緒にお住まいになられるよう」と言って、情け容赦なく抱き上げると、海に投げ込もうとしました。もはやこうなっては、今更何を言っても仕方ないと、ただ夢の中の出来事のように思って、すっかり息をすることも忘れ、

心の中で仏の御名ばかりを念じようと考え、早くも息が絶えるかと思われました。この様子を見て同じ舟に乗っていた僧の一人が、松浦の袖をひっぱり、「これは一体どういうことなのでしょうか。竜神と申すものは、南方無垢の世界(竜王の娘竜女が成仏した世界)において悟りを開き、

仏より成仏の予言をもらった程の者なので、罪業に対してのお布施など受け取ることはしません。それなのに生きながら人をそのまま海中に沈めることなどすれば、竜神はますます怒りを強くし、一人だって助けることなどしないでしょう。ここはただ経を読み、

陀羅尼(呪文の一種で比較的長いもの)を繰り返し繰り返し唱えることによって、竜神を楽しませることが一番だと考えます」と厳しく制止するとともに、興奮した気持ちをなだめられました。松浦もこの論理的な説得に応じ、奥方を屋形の中へ荒々しく放り投げました。

「では僧の方針に従って祈りをするように」と言って、船中の水夫ら身分に関係なく、全員異口同音に観音の名号を唱えていると、何か不思議な者たちが波の上に浮かび出るのが見えました。まず一番最初に、薄紅色に染めた狩衣を着た下男が、長持を担いで通り過ぎるように見えたものの、

そのまま消えてしまいました。その次には白葦毛(白色の勝った栗毛)の馬に白鞍(銀造りの鞍)を置いて、口取りの者が八人がかりで引いて通ると、また消えてしまいました。そして次には大物の浦で腹を切って死んだ、右衛門府生秦武文が赤糸縅の鎧に、

同じく五枚兜(五枚の鉄板で頭を包むようにした兜)の緒を締めて、黄つき(牟扁に鳥::栗色に黄味のかかった赤色が混ざったもの)毛の馬に乗り、弓を杖にしてすがりつき、紅色一色の扇を上げて、松浦の舟に向って、その舟止まれと招くように見えたものの、すぐ波の底に沈んでいきました。

船頭はこの様子を見て、「航海困難な海で沖合いを航行すると、不可解な事象を見るのはいつものことだが、今回はやはり武文の怨霊が原因だと考えられる。それを裏付けるため小舟を一艘、海に下ろしてこの女性を乗せ、波の上に漂わせ、竜神の思いが何なのかご覧になれば良いでしょう」と、

話されたので、「それもそうだ」と言って、小舟を一艘、海に下ろし水夫一人と奥方を乗せて、渦の逆巻く波の上に浮かべました。あの早離、速(即)離の兄弟が海岸近くの山に捨て去られ、「飢えと寒さの辛さに、涙も尽きてしまった」とは言うものの、人の住む島なので、

もしかして立ち寄ることもあるでしょう。しかしここは海岸でなければ島でもなく、このように鳴渡の渦巻く波の上に、我が一身を捨てられた舟の浮き沈みに任せ、潮の流れのまま回る泡のように、消えていくことも哀しいものです。やがて竜神もそんな中、立ち去って行ったのでしょうか、

にわかに風の吹く方向もばらばらになり、松浦の乗った舟は、西に向かって流されて行ったようですが、一の谷の沖合いあたりで、六甲山から吹き降ろす風に流され、行方不明になりました。その後波も静まり、風も収まったので、奥方の乗られた舟の水夫は、一生懸命に舟を漕ぎ進め、

淡路島の武島(煙島?)と言うところに着きました。この島は周囲一里足らずで、釣りをする漁師の家以外、住んでいる人もいない島なので、隙間だらけの葦葺きの家、それも気が滅入りそうなあばら家に入っていただきましたが、ここ四、五日間、海の上で波風に吹かれ続けていたため、

体力は消耗し精神力も衰えていたので、やがて意識不明に陥りました。


心なき海人の子共迄も、「是は如何にし奉らん。」と、泣悲み、御顔に水を灑き、櫓床を洗て御口に入なんどしければ、半時許して活出させ給へり。さらでだに涙の懸る御袖は乾く間も無るべきに、篷漏る滴藻塩草、可敷忍旅寝ならねば、「何迄角ても有佗ぶべき。土佐の畑と云浦へ送りてもやれかし。」と、打佗させ給へば、海士共皆同じ心に、「是程厳敷御渡候上臈を、我等が舟に乗進せて、遥々と土佐迄送り進せ候はんに、何の泊にてか、人の奪取進せぬ事の候べき。」と、叶まじき由を申せば、力及ばせ給はずして、浪の立居に御袖をしぼりつゝ、今年は此にて暮し給ふ。哀は類ひも無りけり。さて一宮は武文を京へ上せられし後は、月日遥に成ぬれ共、何共御左右を申さぬは、如何なる目にも逢ぬる歟と、静心なく思食て、京より下れる人に御尋有ければ、「去年の九月に御息所は都を御出有て、土佐へ御下り候しとこそ慥に承りしか。」と申ければ、さては道にて人に被奪ぬるか、又世を浦風に被放、千尋の底にも沈ぬる歟と、一方ならず思ひくづほれさせ給けるに、或夜御警固に参たる武士共、中門に宿直申て四方山の事共物語しける者の中に、「さるにても去年の九月、阿波の鳴渡を過て当国に渡りし時、船の梶に懸たりし衣を取上て見しかば、尋常の人の装束とも不見、厳かりし事よ。是は如何様院・内裏の上臈女房なんどの田舎へ下らせ給ふが、難風に逢て海に沈み給けん其装束にてぞ有らん。」と語て、「穴哀や。」なんど申合ければ、宮墻越に被聞召、若其行末にてや有らんと不審多く思食て、「聊御覧ぜられたき御事あり。其衣未あらば持て参れ。」と御使有ければ、「色こそ損じて候へ共未私に候。」とて召寄進せたり。宮能々是を御覧ずるに、御息所を御迎に武文を京へ上せられし時、有井庄司が仕立て進せたりし御衣也。穴不思議やとて、裁余したる切れを召出して、差合せられたるに、あやの文少も不違続きたれば、二目共不被御覧、此衣を御顔に押当て、御涙を押拭はせ給ふ。有井も御前に候けるが、涙を袖に懸つゝ罷立にけり。今は御息所の此世に坐す人とは露も不被思召、此衣の橈に懸りし日を、なき人の忌日に被定、自御経を書写せられ、念仏を唱へさせ給て、「過去聖霊藤原氏女、並物故秦武文共に三界の苦海を出て、速に九品の浄刹に到れ。」と祈らせ給ふ。御歎の色こそ哀なれ。

情に乏しい漁師の子供までが、「これはどうすれば良いのだろうか」と泣き悲しんで、奥方のお顔に水をそそいだり、櫓杭を洗って口に入れ、口を開かせたりしていると、一時間ばかりすると、息を吹き返されました。それでなくても、涙に濡れる袖は乾く間もないのに、

あらむしろから雨の漏れるようなところで、我慢しなければならない旅でもないので、「何時までもここで思い煩わせることもないでしょう。土佐の畑の庄という所へ送ってあげようではないか」と皆の意見を聞いてみると、漁師たちは皆の考えとして、

「これほどに道中厳しい貴婦人を我らの舟にお乗せして、遥々と土佐までお送りなどすれば、どこかの港で拉致される恐れもあるだろう」と言って、とても無理だと断りました。こうなれば仕方なく、寄せては返す波に涙を誘われながら、今年はこの海岸で暮らすことになりました。

世の中にこれほどの哀しみなどあるのでしょうか。一方、一宮尊良親王は武文を都に上らせてから、ずいぶんと月日も過ぎているのにかかわらず、何も連絡が入ってこないので、もしや大変な事態に巻き込まれたのではないかと心配も尽きず、

京より下ってくる人にお尋ねしたところ、「昨年の九月に奥方は都をご出発され、土佐へ向われたと確かお聞きしました」と、答えました。それでは道中で誰かに拉致されたのか、それとも厳しい世間の風に吹き晒されて、千尋の海底に沈んでしまったのかとふさぎ込み、

気の滅入ること並ではありません。そしてある夜、宮の配所を警固に来た武士らが、中門で不寝番を務めながら世間話していましたが、その中の一人が、「それにしても昨年九月に、阿波の鳴門を通過して土佐に向っていた時、舟の舵に引っ掛かった着物を取り上げて見たら、

とても普通の人の衣裳とも思えず、何か大変なことだと思った。これはきっと、院か内裏の上流貴婦人が田舎に下る途中、嵐に遭遇し海に沈まれた時の装束に違いなかろう」と話すと、皆も口を揃えて、「何とも可哀そうな話だ」と、言いました。この話を垣根越しに聞いていた宮は、

もしかして彼女の消息に関わることではないかと、不審に感じ、「少しばかり見てみたいことがある。その着物がまだ手元にあるなら、持ってきてくれないか」と、使いを送りました。そして、「色は少しばかり褪せていますが、まだ私が保管しています」と返事があり、持ってこさせました。

宮がこれをよく見れば、奥方をお迎えに武文を京都に上らせた時、有井庄司が仕立てた着物に違いありません。余りにも不思議な感じがするので、残っていた生地の切れ端を取り寄せ、照合してみれば、模様が少しもずれることなくぴったりと合うので、宮はもう二度と着物を見ることなく、

そのままお顔に押し当てて、涙を拭われたのでした。有井もその場にいましたが、涙で袖を濡らしながらその場を退出しました。もう今や、奥方はこの世に居られるとはとても思われず、この着物が舵に引っ掛かった日を、奥方の命日に定めて、自ら写経し、

念仏を唱えられ、「過去代々続く藤原氏の娘、並びに亡き秦武文共に、三界の苦海(欲界、色界、無色界の苦しみ)から逃れ出て、速やかに極楽往生を遂げ、浄土に生まれ変わるように」と、祈られました。その嘆かれるご様子たるもの、哀しいばかりです。


去程に其年の春の比より、諸国に軍起て、六波羅・鎌倉・九国・北国の朝敵共、同時に滅びしかば、先帝は隠岐国より還幸成り、一宮は土佐の畑より都へ帰り入らせ給ふ。天下悉公家一統の御世と成て目出かりしか共、一宮は唯御息所の今世に坐さぬ事を歎思食ける処に、淡路の武島に未生て御坐有と聞へければ、急御迎を被下、都へ帰上らせ給ふ。只王質が仙より出て七世の孫に会ひ、方士が海に入て楊貴妃を見奉りしに不異。御息所は、「心づくしに趣し時の心憂さ、浪に回りし泡の消るを争そう命の程、堪兼たりし襟は御推量りも浅くや。」とて、御袖濡る許なり。宮は又「外渡る舟の梶の葉に、書共尽ぬ御歎、無跡問し月日の数、御身に積りし悲みは、語るも言は愚か也。」と書口説せ給ひける。さしも憂かりし世中の、時の間に引替て、人間の栄花、天上の娯楽、不極云事なく、不尽云御遊もなし。長生殿の裏には、梨花の雨不破壌を、不老門の前には、楊柳の風不鳴枝。今日を千年の始めと、目出きためしに思食たりしに、楽尽て悲み来る人間の習なれば、中一年有て、建武元年の冬の比より又天下乱て、公家の御世、武家の成敗に成しかば、一宮は終に越前金崎の城にて御自害有て、御首京都に上て、禅林寺長老夢窓国師、喪礼被執行など聞へしかば、御息所は余りの為方なさに御車に被助載て、禅林寺の辺まで浮れ出させ給へば、是ぞ其御事と覚敷て、墨染の夕の雲に立煙、松の嵐に打靡き、心細く澄上る。さらぬ別の悲さは、誰とても愚ならぬ涙なれ共、宮などの無止事御身を、剣の先に触て、秋の霜の下に消終させ給ぬる御事は、無類悲なれば、想像奉る今はの際の御有様も、今一入の思ひを添て、共に東岱前後の烟と立登り、北芒新丘の露共消なばやと、返る車の常盤に、臥沈ませ給ける、御心の中こそ哀なれ。行て訪旧跡、竹苑故宮月心を傷しめ、帰臥寒閨、椒房寡居の風夢を吹、著見に順聞に、御歎日毎に深く成行ければ、軈御息所も御心地煩ひて、御中陰の日数未終先に、無墓成せ給ひければ、聞人毎に押並て、類ひ少なき哀さに、皆袂をぞ濡しける。

やがてその年(元弘三年・正慶二年::1333年)の春頃より、諸国に戦乱が勃発して、六波羅、鎌倉、九州、北国の朝敵らが同時に滅び去ったので、先帝後醍醐は隠岐国より還幸され、一宮尊良親王も土佐国畑の庄より、都にお戻りになられました。天下国家は全て公家の支配する御世となり、

これほどめでたいことはないのですが、一宮だけは奥方がこの世に居られないことを嘆かれていました。しかし淡路の武島で生存されているとお聞きになると、急いでお迎えを遣わして、都に連れて帰りました。これはまるで晋国の王質が、仙人の住むような山で時間の過ぎるのを忘れてしまい、

やがて国に戻って見たところ数百年が経っており、七世の孫に出会ったことや、玄宗皇帝に命じられた方士(ほうじ::仙術を行う者)が、海中にある蓬莱宮で楊貴妃に出会うのと異なりません。奥方は、「あれこれ考えて気分が落ち込んでいくと、波に渦巻く泡の消えるのと、

自分の命が消えるのを争うように思われて、耐え難い胸のうちはご賢察ください」と言って、涙でお袖も絞れるばかりです。また宮は宮で、「海を過ぎ行く舟の舵(カジノキ::昔七夕の祭りに、この葉に思いを書き付ける風習があった)の葉に書いたとしても、とても書き尽くせないお嘆きや、

後生を思い悩んだ月日の長さなど、身体に積み重なった嘆き悲しみは、言うのもばかげているほどでしょう」と、繰り返し話されました。これほど辛く悩みの多い世の中ですが、たとえわずかな時間であったとしても、人間としての栄華を極めたり、究極の娯楽などを楽しみました。

長生殿(唐の太宗が驪山に建てた離宮)の中にあっては激しく雨に打たれることもなければ、不老門(中国洛陽の城門の一)の前では楊柳を吹き抜ける風は、枝を鳴らすこともありません。今日がこれから千年にわたる栄華の始まりになると喜んでいましたが、

快適な時が過ぎれば悲しみが始まるのも、人間にとって当然の流れであれば、それから中一年過ぎた建武元年(1334年)の冬頃から、再び天下に大乱が勃発し、今までの公家の時代が終り、武家が政治を行う世になって、一宮尊良親王はついに越前金崎の城で自害(延元二年・建武五年::1337年)され、

そのお首は京都に運ばれました。そして禅林寺の長老無窓国師が葬儀を執り行なうことになったとお聞きした奥方は、あまりのやりきれない悲しさにお車に乗せてもらい、禅林寺の付近までフラッと来てみれば、薄暗い夕方の雲に、間違い無いと思われる煙が立ち上り、

それが松を吹き抜ける風になびいて、心細げに上って行きました。避けることの出来ない別れの悲しさは、誰でも涙を止めることは出来ませんが、宮のように身分の高いお方が、我が身を剣の先に当てて、刀剣によって我が命を縮めることなど、今だかつて例の無い哀しみなので、

その様子を想像すればなお一層増すやるせなさと共に、泰山(中国の名山五岳の一。皇帝の葬儀場所)の煙となって立ち上り、墓地に出来た新しい塚に、はかない露の命と消え去ったと思えば、引き返す車の中で、悲しみに伏せられた奥方の胸中、あまりにも可哀そうです。

昔を偲んで尋ねて行けば、宮中のもとの宮殿に上がる月に心を痛め、帰れば独り寝の寂しい寝所に吹く風に夢は吹き飛ばされ、見るにつけ聞くにつけ日ごとにお嘆きが深まって行き、やがて奥方も病を得て、四十九日も終わらぬ前に、とうとうお亡くなりになりました。

この話を聞いた人々は、皆が皆あまりにも哀しくて、袂を涙で濡らさない人はいませんでした。      (終り)

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