19 太平記 巻第十九  (その一)


○光厳院殿重祚御事
建武三年六月十日、光厳院太上天皇重祚の御位に即進せたりしが、三年の内に天下反覆して宋鑒ほろびはてしかば、其例いかゞあるべからんと、諸人異議多かりけれ共、此将軍尊氏卿の筑紫より攻上し時、院宣をなされしも此君也。今又東寺へ潜幸なりて、武家に威を加られしも此御事なれば、争其天恩を報じ申さではあるべきとて、尊氏卿平にはからひ申されける上は、末座の異見再往の沙汰に及ばず。其比物にも覚へぬ田舎の者共、茶の会酒宴の砌にて、そゞろなる物語しけるにも、「あはれ此持明院殿ほど、大果報の人はをはせざりけり。軍の一度をもし給はずして、将軍より王位を給らせ給たり。」と、申沙汰しけるこそをかしけれ。

☆ 光厳院殿が重祚されたこと

建武三年(1336年)六月十日、光厳院太政天皇の重祚をすぐに行おうとしましたが、ここ三年の間に天下の形勢が大転換し、前政権が滅び去ってしまい、その件は如何なものかと、異論を唱える人も多かったのですが、新政権の尊氏将軍が筑紫の国より都に攻め上ってきた時、

院宣を下されたのもこの光厳院でした。また都に入ってから尊氏軍が駐屯していた東寺に潜幸され、尊氏軍に権威を付加されたのもこの君でしたから、それらの恩に報わなければならないと、尊氏卿が熱心に説得をしたので、下座の者が今更、異論を繰り返すことは出来ませんでした。

当時詳しいことも知らない一般の庶民は、茶の席や酒宴の場において、取り留めの無い話の中でも、「まあこの持明院殿ほど、ある意味果報者はいないのでは。何せ、軍の一度だって経験せずに、将軍から皇位をもらったのだから」と、皆が話の種にしていることもおかしな話です。


○本朝将軍補任兄弟無其例事
同年十月三日改元有て、延元にうつる。其十一月五日の除目に、足利宰相尊氏卿、上首十一人を越て、位正三位にあがり、官大納言に遷て、征夷将軍の武将に備り給ふ。舎弟左馬頭直義朝臣は、五人を越て、位四品に叙し、官宰相に任じて、日本の副将軍に成給ふ。夫我朝に将軍を置れし初は、養老四年に多治比の真人県守、神亀元年に藤原朝臣宇合、宝亀十一年に藤原朝臣継綱。其後時代遥に隔て藤原朝臣小里丸、大伴宿禰家持・紀朝臣古佐美・大伴宿禰乙丸・坂上宿禰田村丸・文屋宿禰綿丸・藤原朝臣忠文・右大将宗盛・新中納言知盛・右大将源頼朝・木曾左馬頭源義仲・左衛門督頼家・右大臣実朝に至まで其人十六人皆功の抽賞に依て、父子其先を追事ありといへども、兄弟一時に相双で、大樹の武将に備事、古今未其例を聞ずと、其方様の人は、皆驕逸の思気色に顕たり。其外宗との一族四十三人、或は象外の選に当り、俗骨忽に蓬莱の雲をふみ、或乱階の賞に依て、庸才立ろに台閣の月を攀。加之其門葉たる者は、諸国の守護吏務を兼て、銀鞍未解、五馬忽策重山之雲、蘭橈未乾、巨船遥棹滄海之浪。総て博陸輔佐の臣も、是に向て上位を臨ん事を憚る。況や名家儒林の輩は、彼仁に列て下風に立ん事を喜べり。

☆ 我が国の将軍に足利兄弟がその職を拝任したのは、過去に例のないこと

建武三年(1336年)十月三日、改元が行われ延元となりました。その年十一月五日の人事異動で、足利宰相尊氏卿が上位十一人を飛び越えて、官位は正三位に、官職は大納言を拝任すると共に、征夷大将軍になりました。弟の左馬頭直義朝臣は上席者五人を飛び越えて、官位は四位となり、

職は宰相を拝して副将軍となりました。我が国において将軍職が任命されたのは、養老四年(720年::蝦夷反乱)に多治比の真人県守(征夷将軍)が、また神亀元年(724年::蝦夷反乱)に藤原朝臣宇合(持説大将軍)、そして宝亀十一年(780年::宝亀の乱)に藤原朝臣継綱(征東大将軍)らが任じられました。

その後、遥かに時代が下り、藤原朝臣小里丸、大伴宿禰家持、紀朝臣古佐美、大伴宿禰乙丸、坂上宿禰田村丸、文屋宿禰綿丸、藤原朝臣忠文、右大将宗盛、新中納言知盛、右大将源頼朝、木曾左馬頭源義仲、左衛門督頼家、右大臣実朝に至るまで、

その数十六人全員は各種功績に依って選ばれたり、父子が相続に依って選ばれることはあっても、兄弟が同時に朝廷軍の将軍職に並び立つことなど、古今にその例など聞いたこと無いので、批判的な人は少し驕りが強いのではと、顔色に表れていました。

それ以外にも主だった一族四十三人、ある者は現実離れした選考の結果、卑賤出身の人間が、たちどころに仙人の住むような場所で、高貴な立場に置かれたり、またある者は粗製乱造された官位を得て、凡人の凡才にも関わらず、国家機関の中枢に席を占めたりしました。

その上本人ばかりでなく、その縁につながる者も諸国の守護の職務を兼ねて、銀鞍未解、五馬忽策重山之雲、蘭撓未乾、巨船遥棹滄海之波(このような意味なのか?支配権の拡大::銀の鞍はいまだ解くことなく、領主は深い山奥にまで支配を伸ばし、舟の舵も乾くことなく、巨船は遥か大海の波を越えて進みます)

朝廷の重鎮と言われる人らは、ほとんどがこの事態に上の官位を求めることを遠慮しました。また名家や儒学者らは、彼ら武士の仲間となって、下座に居ることを喜んだのでした。


○新田義貞落越前府城事
左中将義貞朝臣・舎弟脇屋右衛門佐義助は、金崎城没落の後、杣山の麓瓜生が館に、有も無が如にてをはしましけるが、いつまでか右て徒に時を待べき。所々に隠れ居たる敗軍の兵を集て国中へ打出、吉野に御座ある先帝の宸襟をも休め進せ、金崎にて討れし亡魂の恨をも散ぜばやと思はれければ、国々へ潜に使を通じて、旧功の輩をあつめられけるに、竜鱗に付き、鳳翼を攀て、宿望を達せばやと、蟄居に時を待ける在々所々の兵共、聞伝々々抜々に馳集りける程に、馬・物具なんどこそきら/\敷はなけれ共、心ばかりはいかなる樊■・周勃にも劣じと思へる義心金鉄の兵共、三千余騎に成にけり。此事軈て、京都に聞へければ、将軍より足利尾張守高経・舎弟伊予守二人を大将として、北陸道七箇国の勢六千余騎を差副、越前府へぞ下されける。右て数月をふれ共、府は大勢なり、杣山は要害なれば、城へも寄えず府へも懸りへず、只両陣の堺、大塩・松崎辺に兵を出し合て、日々夜々に軍の絶る隙もなし。かゝる所に加賀国の住人、敷地伊豆守・山岸新左衛門・上木平九郎以下の者共、畑六郎左衛門尉時能が語に付て、加賀・越前堺、細呂木の辺に城郭をかまへ、津葉五郎が大聖寺の城を責落て、国中を押領す。此時までは平泉寺の衆徒等、皆二心なき将軍方にてありけるが、是もいかゞ思けん、過半引分て宮方に与力申し、三峰と云所へ打出、城をかまへて敵を待所に、伊自良次郎左衛門尉、是に与して三百余騎にて馳加る間、近辺の地頭・御家人等、ふせぎ戦に力を失て、皆己が家々に火を懸て、府の陣へ落集る。北国是より動乱して、汗馬の足を休めず。三峰の衆徒の中より杣山へ使者を立て、大将を一人給て合戦を致すべき由を申ける間、脇屋右衛門佐義助朝臣五百余騎を相副て三峯の陣へ指遣さる。牒使又加賀国に来て前に相図を定らるゝ間、敷地・上木・山岸・畑・結城・江戸・深町の者共、細屋右馬助を大将として、其勢三千余騎越前国へ打こへ、長崎・河合・川口三箇所に城を構て漸々に府へぞ責寄ける。

☆ 新田義貞が越前府の城を落としたこと

さて左中将新田義貞朝臣と舎弟脇屋右衛門佐義助は金崎城落城の後、杣山の麓、瓜生の舘に何するでもなくいましたが、いつまでもこのように時期を待ってもおられません。そこで、あちこちに身を隠している敗軍の兵士を集めて、国府周辺で軍事行動を起こし、

吉野に居られる先帝後醍醐に安心してもらうと同時に、金崎の合戦に討たれた武将らの恨みを晴らすと共に、成仏してもらいたく考えて、諸国に密かに使者を派遣し、功ある旧臣に召集をかけました。するとこの際竜のうろこにつかまり、鳳凰の翼を頼ってでも、

宿願を達成したく考えて隠れ潜んで時を待っていた諸所の兵士らも、この召集命令を伝え聞き、徐々に駆け集まってきました。馬や甲冑など立派なものではありませんが、闘争心においてはさすがの樊かい(カイは口偏に會)や周勃(樊かいと共に中国秦末から前漢にかけての武将)にも劣るとは思えない、

忠義心あふれる兵士ばかりが、三千余騎にまで膨れ上がりました。やがてこの状況について京都に情報が入り、将軍尊氏は足利尾張守斯波高経、その弟の伊予守二人を大将にして、北陸道七ヶ国の軍勢六千余騎を与えて、越前の国府(武生)に向って進発させました。

こうして数ヶ月が過ぎたものの、国府の敵勢は大軍であり、杣山は要害の地なので、杣山の城に寄せることも出来ず、国府の陣を攻撃することも出来ません。ただ両軍の境となる大塩や松崎周辺にお互い兵を出しては、日夜戦闘を続けていました。そのような状況の中、

加賀国に住む豪族の敷地伊豆守と山岸新左衛門光義そして上木平九郎家光以下の者達が、畑六郎左衛門尉時能の誘いに応じて、加賀国と越前国の境、細呂木のあたりに城郭を構え、また津葉五郎清文が立て篭もる大聖寺の城を攻め落とし、越前国を支配下におきました。

この事態になるまでは、平泉寺の衆徒等は皆、二心なく尊氏将軍の味方でしたが、この状況を見るとさすが考えも変わり、半数以上の者が宮方、南朝側に寝返り、三峰と言う所に進攻し、城郭を構えて敵を待ち受けました。そこへ伊自良次郎左衛門尉が平泉寺に味方して、

三百余騎にて加勢しましたから、近郷の地頭や御家人らは防戦に意欲を失い、皆が皆我が家に火をかけて、国府にある尊氏軍の陣中に落ちて行きました。このため北国の情勢は混沌として、戦場の馬は休むことも出来ません。そして、三峰の衆徒の中から杣山に使者を送り、

大将となるべき人を派遣してもらって、合戦を行いたい旨を申し入れました。そこで脇屋右衛門佐義助朝臣は、五百余騎を与えて三峰の陣に送り込んだのです。また書状を携えた使者は加賀国に赴き、前もって合図を決めておいた上、敷地、上山、山岸、畑、結城、江戸、深町の武将らは、

細屋右馬助を大将に定めて、総勢三千余騎で越前国へ進出すると、長崎、河合、川口の三ヶ所に城を構えて、徐々に国府に向かって攻め寄せて行きました。


尾張守高経は、六千余騎を随へて府中にたて篭られたりけるが、敵に国中を押取れて、一所に篭居ては兵粮につまりて、ついによかるまじとて、三千余騎をば府に残しをき、三千余騎をば一国に分遣て山々峯々に城を構へ、兵を二百騎・三百騎づゝ三十余箇所にぞ置れける。戦場雪深して馬の足の立ぬ程は、城と城とを合て昼夜旦暮合戦を致すといへ共、僅に一日雌雄を争ふ計にて、誠の勝負は未なかりけり。去程にあら玉の年立帰て二月中旬にも成ければ、余寒も漸く退て、士卒弓をひくに手かゞまらず、残雪半村消て、疋馬地を蹈に蹄を労せず。今は時分よく成ぬ。次第に府辺へ近付寄て、敵の往反する道々に城をかまへて、四方を差塞で攻戦べし。何くか用害によかるべき所あると、見試ん為に、脇屋右衛門佐僅百四五十騎にて、鯖江の宿へ打出られけり。名将小勢にて城の外に打出たるを、能隙なりと、敵にや人の告たりけん。尾張守の副将軍細川出羽守五百余騎にて府の城より打出鯖江宿へ押寄、三方より相近付て、一人もあまさじとぞ取巻ける。脇屋右衛門前後の敵に囲れて、とても遁ぬ所也と思切てければ、中々心を一にして少も機を撓さず。後陣に高木の社をあて、左右に瓜生畔を取て、矢種を惜まず散々に射させて、敵に少も馬の足を立させず、七八度が程遭つ啓つ追立追立攻付たるに、細川・鹿草が五百余騎、纔の勢に懸立られて、鯖江の宿の後なる川の浅瀬を打わたり、向の岸へ颯と引。結城上野介・河野七郎・熊谷備中守・伊東大和次郎・足立新左衛門・小島越後守・中野藤内左衛門・瓜生次郎左衛門尉八騎の兵共、川の瀬頭に打のぞみ、つゞいて渡さんとしけるが、大将右衛門佐、馬を打寄て制せられけるは、「小勢の大勢に勝事は暫時の不思議也。若難所に向て敵にかゝらば、水沢に利を失て、敵却て機に乗べし。今日の合戦は、不慮に出来つる事なれば、遠所の御方是をしらで、左右なく馳来らじと覚るぞ。此辺の在家に火を懸て、合戦ありと知せよ。」と、下知せられければ、篠塚五郎左衛門馳廻て、高木・瓜生・真柄・北村の在家二十余箇所に火を懸て、狼烟天を焦せり。所々の宮方此烟を見て、「すはや鯖江の辺に軍の有けるは、馳合て御方に力を合よ。」とて、宇都宮美濃将監泰藤・天野民部大輔政貞三百余騎にて、鯖並の宿より馳来。一条少将行実朝臣、二百余騎にて飽和より打出らる。瓜生越前守重・舎弟加賀守照、五百余騎にて妙法寺の城より馳下る。山徒三百余騎は大塩の城よりをり合ひ、河島左近蔵人惟頼は、三百余騎にて三峯の城より馳来り、総大将左中将義貞朝臣は、千余騎にて杣山よりぞ出られける。

さて尾張守斯波高経は六千余騎を従えて、国府内に立て篭もっていましたが、敵に国中を支配された以上、一ヶ所に立て篭もっていれば、やがて兵糧に行き詰まること必定なので、三千余騎を府内に残して置き、三千余騎は国中に分散をはかり、

山々峰々に城を構築し兵士を二百騎また三百騎と三十余ヶ所に配置しました。戦場は雪が深く馬の脚も立ちづらいので、昼夜分かたず合戦を行いましたが、ただその日の勝敗を争うばかりで、本当の勝負は未だ行われていません。やがて新年(暦応元年、延元三年::1338年)を迎え、

二月も中旬になったので、寒さもようやく和らぎ出すと、将士らの弓を引く手もかじかむことがなくなり、残雪も半ば解けてきたので、馬も脚が地に着くようになりました。宮方では時期は到来したと、徐々に国府周辺に近づき、敵が行き来する道々に城を構え、四方を閉鎖して攻撃するのが良いだろう。

どこかにこの作戦に向く要害の地が無かろうかと調査のため、脇屋右衛門佐義助は僅か百四、五十騎を従えて、鯖江の宿に向かいました。名将義助が小勢を率いて城外に出て行ったので、今が好機だと誰かが敵に知らせたのか。尾張守の副将軍、細川出羽守が五百余騎で国府の城を飛び出し、

鯖江の宿に殺到すると三方より近づき、一人残さず討ち取ろうと取り囲みました。脇屋右衛門佐は前後を敵に囲まれては、とても逃げ切ることなど出来ないと覚悟を決めると、かえって気が引き締まりました。背後を高木の社で守り、左右は瓜生の畔で守ると、矢を惜しむことなく激しく射込んで、

敵の馬を思うように動かせないようにして、七、八度にわたって攻め込んでは後退し、また攻め込み、追い立て追い立て攻め続けました。この攻撃に細川、鹿草の五百余騎は、僅かな敵勢に追い立てられ、鯖江宿の後ろの川の浅瀬を渡って、向こう岸にサッと引き上げました。

結城上野介、河野七郎、熊谷備中守、伊東大和次郎、足立新左衛門、小島越後守、中野藤内左衛門、瓜生次郎左衛門尉ら八騎の軍勢が川のそばまで来て、そのまま渡ろうとしましたが、大将の右衛門佐義助が馬を寄せて来ると制止し、「小勢の我等が敵の大勢に勝つことなど、

めったにないことであり奇跡とも言える。もし危険を顧みず敵に向かっていけば、川の中に居る我等に利は無く、反対に敵は機に乗じて来るだろう。今日の合戦は思いがけなく発生したものなので、遠くにいる味方は何も知らず、駆けつけて来ないのも止むを得ないと思う。

このあたりの民家に火をかけて、合戦のあったことを知らせるよう」と、命令しました。命に従って篠塚五郎左衛門があたりを駆け回り、高木、瓜生、真柄、北村などの民家二十余ヶ所に火をかけると、合図の煙は天を焦がすばかりでした。

諸方に展開している味方の宮方は、この煙を見て、「さては鯖江の周辺で軍が起こっているようだ。すぐに駆けつけて味方の加勢をしよう」と言って、宇都宮美濃将監泰藤と天野民部大輔政貞が三百余騎で鯖波の宿から駆けつけて来ました。また一条少将行実朝臣は二百余騎で飽和を飛び出しました。

瓜生越前守重とその弟加賀守照は、五百余騎にて妙法寺の城より駆け下ってきました。そのほか山徒の三百余騎が大塩の城から下ってくると、河島左近蔵人惟頼は三百余騎で三峰の城から駆けつけ、また総大将の左中将新田義貞朝臣は、千余騎を率いて杣山の城を後にしました。


合戦の相図ありと覚へて、所々の宮方鯖江の宿へ馳集る由聞へければ、「未河ばたに叩へたる御方討すな。」とて、尾張守高経・同伊予守三千余騎を率して、国分寺の北へ打出らる。両陣相去事十余町、中に一の河を隔つ。此河さしもの大河にてはなけれ共、時節雪消に水増て、漲る浪岸をひたしければ、互に浅瀬を伺見て、いづくをか渡さましと、暫く猶予しける処に、船田長門守が若党葛新左衛門と云者、川ばたに打寄て、「此河は水だに増れば州俄に出来て、案内知ぬ人は、いつも謬する河にて候ぞ。いで其瀬ぶみ仕らん。」と云まゝに、白蘆毛なる馬に、かし鳥威の鎧著て、三尺六寸のかひしのぎの太刀を抜、甲の真向に指かざし、たぎりて落る瀬枕に、只一騎馬を打入て、白浪を立てぞ游せける。我先に渡さんと打のぞみたる兵三千余騎これを見て、一度に颯と打入て、弓の本筈末筈取ちがへ、馬の足の立所をば手綱をさしくつろげて歩せ、足のたゝぬ所をば馬の頭をたゝき上て泳せ、真一文字に流をきつて、向の岸へ懸あげたり。葛新左衛門は、御方の勢に二町ばかり先立て渡しければ、敵の為に馬のもろ膝ながれて、歩立に成て敵六騎に取篭られて、已に打れぬと見へける処に、宇都宮が郎等に清の新左衛門為直馳合て、敵二騎切て落し、三騎に手負せ、葛新左衛門をば助てけり。寄る勢も三千余騎、ふせぐ勢も三千余騎、大将は何れも名を惜む源氏一流の棟梁也。而も馬の懸引たやすき在所なれば、敵御方六千余騎、前後左右に追つ返つ入乱、半時ばかりぞ戦たる。かくては只命を限の戦にて、いつ勝負あるべしとも見へざりける処に、杣山河原より廻ける三峰の勢と、大塩より下る山法師と差違て、敵陣の後へ廻り、府中に火を懸たりけるに、尾張守の兵三千余騎、敵を新善光寺の城へ入かはらせじと、府中を指引返す。義貞朝臣の兵三千余騎、逃る敵を追すがうて、透間もなく攻入ける間、城へ篭らんと逃入勢共、己が拵たる木戸逆木に支られて、城へ入べき逗留もなかりければ、新善光寺の前を、府より西へ打過る。伊予守の勢千余騎は、若狭をさして引ければ、尾張守の兵二千余騎、織田・大虫を打過て、足羽の城へぞ引れける。都て此日一時の戦に、府の城すでに責落されぬと聞及て、未敵も寄ざる先に、国中の城の落事、同時に七十三箇所也。

合戦の合図があったのか、諸方に展開していた宮方の軍勢が、鯖江の宿に駆け集まってるらしいと聞き、「まだ川の周辺で戦っている味方を討たせるな」と言って、尾張守高経、同じく伊予守が三千余騎を率いて、国分寺の北に駆けつけました。

ここに両軍は間に一つの川を挟んで、十余町を隔てて対峙することとなりました。この川は大して大河でもありませんが、時節柄雪解けによって増水しており、激しい流れに川岸は洗われているので、両軍お互いにどこか浅瀬を見つけ、渡河をしようと考えていると、

船田長門守に仕える若武者、葛新左衛門と言う者が川のそばに来て、「この川は水が増えると、浅瀬が突然出来るのですが、このことを知らない人はいつも間違えるのです。では早速調べてみよう」と言うや、白葦毛の馬に樫鳥(カケス)縅の鎧(カケスの模様に似た配色の鎧)を着て、

三尺六寸の貝しのぎ(刀のしのぎが普通より丸みを帯びたもの)の太刀を抜き放ち、兜の真正面に指をかざして、激しく流れ落ち、岩か何かに当たって盛り上がるのをものともせず、ただ一騎で馬を進めると、白波を立てながら泳がせました。

我先に渡ろうと控えていた兵士ら三千余騎はこれを見ると、一度に川へなだれ込み、弓を上下逆さまに持ち替え、馬の脚が立つところは手綱を緩めて歩かせ、脚の立たない所に来ると、馬の頭を叩き上を向かせて泳がせ、真一文字に流れを渡り切り、向こう岸に駆け上がったのです。

葛新左衛門は味方の軍勢より二町ほど前を渡っていたのですが、敵の矢に馬のもろ膝を射られたため、徒歩立ちになっていたところを敵の六騎に取り囲まれ、今や討たれんと思われた時、宇都宮の家来である清新左衛門為直が駆けつけ、敵二騎を切り倒し、三騎には傷を負わせて、

葛新左衛門を助けました。寄せ手の軍勢は三千余騎であり、防戦に努める勢も同じく三千余騎、その上指揮を執る大将は、いずれも名を惜しむ源氏でも一級の棟梁です。しかも戦場は馬の駆け引きが容易な場所ですから、敵味方の六千余騎が前後左右に追いつ、

追われつ入り乱れて一時間ばかり戦いました。こうなればただ命のある限り戦い続け、いつになれば勝負がつくのか分らないところに、杣山河原より回り込んだ三峰の軍勢と、大塩から駆け下ってきた山法師が、入れ替わるように敵陣の後方に回り込み、府中に火をかけました。

対して尾張守の兵士ら三千余騎は、敵を新善光寺の城に入れてはならじと、府中に向かって引き返しました。義貞朝臣配下の兵士ら三千余騎は逃げる敵を追いかけ、激しく攻めたてたので、城に篭ろうと逃げてきた軍勢は、自分らが設置した木戸や逆茂木に阻まれ、城に入ることが出来ず、

新善光寺の前を府より西に向かって通り過ぎました。やむなく伊予守の軍勢、千余騎は若狭に向かって退却し、尾張守の軍勢、二千余騎は織田、大虫を通り過ぎ、足羽の城に退きました。結局この日突然に起こった合戦の結果として、尊氏軍の府にあった城はすでに落とされたとの報が入り、

未だ敵の攻撃を受ける前に、国中の七十三ヶ所の城が一度に落ちたのです。


○金崎東宮並将軍宮御隠事
新田義貞・義助杣山より打出て、尾張守・伊予守府中を落、其外所々の城落されぬと聞へければ、尊氏卿・直義朝臣大に忿て、「此事は偏に春宮の彼等を御扶あらん為に、金崎にて此等は腹を切たりと宣しを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差下つるによつて也。此宮是程当家を失はんと思召けるを知らで、若只置奉らば、何様不思議の御企も有ぬと覚れば、潜に鴆毒を進て失奉れ。」と、粟飯原下総守氏光にぞ下知せられける。春宮は、連枝の御兄弟将軍の宮とて、直義朝臣先年鎌倉へ申下参せたりし先帝第七の宮と、一処に押篭られて御座ありける処へ、氏光薬を一裹持て参り、「いつとなく加様に打篭て御座候へば、御病気なんどの萌す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候、毎朝一七日聞食候へ。」とて、御前にぞ閣ける。氏光罷帰て後、将軍宮此薬を御覧ぜられて宣けるは、「未見へざるさきに、兼て療治を加る程に我等を思はゞ、此一室の中に押篭て朝暮物を思はすべしや。是は定て病を治する薬にはあらじ、只命を縮る毒なるべし。」とて、庭へ打捨んとせさせ給けるを、春宮御手に取せ給て、「抑尊氏・直義等、其程に情なき所存を挿む者ならば、縦此薬をのまず共遁べき命かは。是元来所願成就也。此毒を呑世をはやうせばやとこそ存候へ。「夫れ人間の習、一日一夜を経る間に八億四千の念あり。一念悪を発せば一生の悪身を得、十念悪を発せば十生悪身を受く。乃至千億の念も又爾也。」といへり。如是一日の悪念の報、受尽さん事猶難し。況一生の間の悪業をや。悲哉、未来無窮の生死出離何れの時ぞ。富貴栄花の人に於て、猶此苦を遁ず。況我等篭鳥の雲を恋、涸魚の水を求る如に成て、聞に付見るに随ふ悲の中に、待事もなき月日を送て、日のつもるをも知らず。悪念に犯されんよりも、命を鴆毒の為に縮て、後生善処の望を達んにはしかじ。」と仰られて、毎日法華経一部あそばされ、念仏唱させ給て、此鴆毒をぞ聞召ける。将軍の宮是を御覧じて、「誰とても懸る憂き世に心を留べきにあらず、同は後生までも御供申さんこそ本意なれ。」とて、諸共に此毒薬を七日までぞ聞食ける。軈春宮は、其翌日より御心地例に違はせ給けるが、御終焉の儀閑にして、四月十三日の暮程に、忽に隠させ給けり。将軍宮は二十日余まで後座ありけるが、黄疸と云御いたはり出来て、御遍身黄に成せ給て、是も終に墓なくならせ給にけり。哀哉尸鳩樹頭の花、連枝早く一朝の雨に随ひ、悲哉鶺鴒原上の草、同根忽に三秋の霜に枯ぬる事を。去々年は兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、又去年の春は中務親王金崎にて御自害あり。此等をこそためしなく哀なる事に、聞人心を傷しめつるに、今又春宮・将軍宮、幾程なくて御隠れありければ、心あるも心なきも、是をきゝ及ぶ人毎に、哀を催さずと云事なし。かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒害せられ給ふ事こそ不思議なれ。

☆ 金崎にて捕えられた恒良皇太子と、将軍宮成良親王がお亡くなりになられたこと

新田義貞と義助の二人が杣山より出撃したため、尾張守、伊予守らが府中を落ちて行ったばかりでなく、その他諸所に構えていた城も落とされたと聞くと、尊氏卿も直義朝臣も激怒し、「この結果は皇太子恒良親王が彼ら二人を助けようと考え、金崎落城の際、

彼らは腹を切ったと仰せられたことを信用し、杣山城へ討手の派遣が遅れたたことが原因である。この宮が足利家の破滅を願っているのを知らずに、もしこのままの状態にしておれば、どのような策略を考え出すか分らないから、ここは密かに毒薬(鴆毒::鴆と言う鳥の羽にある猛毒)を盛って、

お命を頂戴するように」と、粟飯原下総守氏光に命じられました。春宮の恒良親王はご兄弟の将軍の宮(鎌倉府将軍、また一時征夷大将軍にも任じられた)と言う、直義朝臣と一緒に鎌倉に下向された先帝、後醍醐の第七の宮、成良親王と一ヶ所に監禁されていましたが、

そこへ氏光が薬を一包み持ってきて、「いつまでか分りませんが、このように閉じこもっておられると、ご病気などで体調を崩されることもあるのではと、三条殿が調剤されたものです。毎朝七日間お飲みになられるように」と言って、御前に置かれました。

氏光が帰られてから、将軍宮、成良親王はこの薬をご覧になりながら、「まだ病気にもなっていないのに、前もって病気予防のためと言うほど我らの健康を気遣ってくれるなら、この一部屋に押し込めて、明け暮れ精神的な苦痛を与えることなどしないだろう。

これはきっと病を治す薬ではなく、命を縮めるだけの毒薬だろう」と言って、庭に放り捨てようとされるのを、春宮、恒良親王が手に取られ、「考えてもみよ、尊氏や直義がそれほど情け容赦ない者ならば、たとえこの薬を飲まなくとも、助かるとも思えない命ではある。

これもまた、本望ではないか。『そもそも人間というのは、一日一夜の間に、八億四千回、心の動きがあるという。一度でも悪いことを考えれば、一生その悪から逃れられず、十度では十生逃れられない。そして千億の悪もまた同じく』と、言う。このようにただ一日の悪心の報いさえ、

全てを受けることは出来ない。ましてや一生かけての悪業などを。悲しいことであるが、果てしなく続く時間の中で、一体何時になれば悟りの境地に入れると言うのか。富貴栄華を極めた人間であっても、この苦しみから逃れることは出来ない。

況や我らは籠の鳥が雲を恋しがったり、干上がった所にいる魚が水を求めるような状況に置かれて、聞いたり見たりすることに一喜一憂するだけで、何することも無くただ日を送るだけになる。疑心暗鬼の毎日を過すよりも、毒薬でもって命を縮め、

後生は浄土に生まれることを望む方が良いだろう」と仰せられ、毎日法華経を読誦され、この毒薬をお飲みなられました。将軍の宮、成良親王はこの恒良親王の行動に、「誰だって今の我々の置かれた辛く悲しい世に、未練などある訳はありません。

出来れば私も後生までお供することを望みます」と言って、一緒にこの薬を七日間お飲みになられました。早くも春宮の恒良親王はその翌日から体調を崩されると、四月十三日の暮れ頃に、静かにご最期を迎えられ、お隠れになられたのです。

また将軍の宮、成良親王は二十日間ほどはお元気でしたが、黄疸を発症されてお身体が黄色になられ、このお方もとうとうお亡くなりになられました。ご兄弟がこのようにお亡くなりになられるとは、誠に悲しい限りです。一昨年(建武二年1335年)には兵部卿護良親王を鎌倉でお命を頂戴し、

また昨年(建武四年1337年)の春には中務尊良親王が金崎にて御自害されました。このように、かつて無いほどの悲しい出来事に、聞く人は皆、心を痛めていたのに、今回またもや春宮と将軍の宮が、思いがけなくお隠れになられたので、思慮分別の豊かな人も、またそれなりの人も、

この話を聞くと皆が皆、悲しみに沈んだのでした。このように無情な処置をされてきた足利直義朝臣の行く末について、一体どのような報いがあるのか、気にしない人は少なかったのですが、果たして毒殺されたことも、不思議な巡り会わせであります。(この段、親王の没年は不明瞭。各親王没年。兵部卿護良親王::1335年・中務尊良親王::1337年・恒良親王::1338年・成良親王::不詳)


○諸国宮方蜂起事
主上山門より還幸なり、官軍金崎にて皆うたれぬと披露有ければ、今は再び皇威に服せん事、近き世にはあらじと、世挙て思定ける処に、先帝又三種の神器を帯して、吉野へ潜幸なり、又義貞朝臣已に数万騎の軍勢を率して、越前国に打出たりと聞へければ、山門より降参したりし大館左馬助氏明、伊予国へ逃下り、土居・得能が子共と引合て、四国を討従へんとす。江田兵部大夫行義も丹波国に馳来て、足立・本庄等を相語て、高山寺にたて篭る。金谷治部大輔経氏、播磨の東条より打出、吉河・高田が勢を付て、丹生の山陰に城郭を構へ、山陰の中道を差塞ぐ。遠江の井介は、妙法院宮を取立まいらせて、奥の山に楯篭る。宇都宮治部大輔入道は、紀清両党五百余騎を率して、吉野へ馳参ければ、旧功を捨ざる志を君殊に叡感有て、則是を還俗せさせられ四位少将にぞなされける。此外四夷八蛮、此彼よりをこるとのみ聞へしかば、先帝旧労の功臣、義貞恩顧の軍勢等、病雀花を喰て飛揚の翅を伸、轍魚雨を得て■■(げんぐう)の脣を湿すと、悦び思はぬ人もなし。

☆ 諸国の宮方が蜂起したこと

主上、後醍醐が山門比叡山より還幸され、官軍も金崎において全員討たれたと報告があり、今後再び朝廷の権威が復活することなど、しばらくは無いだろうと世間の人々が皆考えていたところ、先帝後醍醐がまた三種の神器を携えて吉野に潜幸され、義貞朝臣もすでに数万騎の軍勢を率いて、

越前国に進出したと情報が流れました。そこで山門の陣営から降伏していた、大舘左馬助氏明は伊予国に逃げ帰り、土居や得能の子供と一緒になって、四国を討伐しようと考えました。江田兵部大夫行義も丹波国に駆けつけ、足立や本庄らと相談して、高山寺に立て篭もりました。

金谷治部大輔経氏は播磨の東条より進出し、吉河、高田の軍勢を従えて、丹生の山中に城郭を構築し、山陰の街道を閉鎖しました。また遠江の井介つまり井伊道政は妙法院宮、宗良親王を先頭に立てて、奥の山、三岳城に立て篭もりました。

また宇都宮治部大輔入道は、紀清両党の五百余騎を率いて吉野へ駆けつけたので、古くからの忠誠を忘れずにいた気持ちを、帝は大変お喜びになり、すぐに彼を還俗させて、四位の少将に任じました。この外、畿内以外の地方軍勢らが、ここかしこで蜂起したとの情報ばかり入ってくるので、

先帝の忠義あふれる旧臣や義貞恩顧の軍勢たちは、病んだ雀が花を食べて、羽を伸ばして高く飛び上がったり、轍の溜まり水に苦しんでいた魚が、雨のおかげで口を湿らせることが出来たように、喜びを感じない人はいませんでした。


○相摸次郎時行勅免事
先亡相摸入道宗鑒が二男相摸次郎時行は、一家忽に亡し後は、天に跼り地に蹐して、一身を置に安き所なかりしかば、こゝの禅院、彼の律院に、一夜二夜を明て隠ありきけるが、窃に使者を吉野殿へ進て申入けるは、「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、遂に滅亡を勅勘の下に得たりき。然といへ共、天誅の理に当る故を存ずるに依て、時行一塵も君を恨申処を存候はず。元弘に義貞は関東を滅し、尊氏は六波羅を攻落す。彼両人何も勅命に依て、征罰を事とし候し間、憤を公儀に忘れ候し処に、尊氏忽に朝敵となりしかば、威を綸命の下に仮て、世を叛逆の中に奪んと企ける心中、事已に露顕し候歟。抑尊氏が其人たる事偏に当家優如の厚恩に依候き。然に恩を荷て恩を忘れ、天を戴て天を乖けり。其大逆無道の甚き事、世の悪む所人の指さす所也。是を以当家の氏族等、悉敵を他に取らず。惟尊氏・直義等が為に、其恨を散ん事を存ず。天鑒明に下情を照されば、枉て勅免を蒙て、朝敵誅罰の計略を廻すべき由、綸旨を成下れば、宜く官軍の義戦を扶け、皇統の大化を仰申べきにて候。夫不義の父を誅せられて、忠功の子を召仕はるゝ例あり。異国には趙盾、我朝には義朝、其外泛々たるたぐひ、勝計すべからず。用捨無偏、弛張有時、明王の撰士徳也。豈既往の罪を以て、当然の理を棄られ候はんや。」と、伝奏に属して委細にぞ奏聞したりける。主上能々聞召て、「犁牛のたとへ、其理しか也。罰其罪にあたり、賞其功に感ずるは善政の最たり。」とて、則恩免の綸旨をぞ下れける。

☆ 相模次郎北条時行が後醍醐先帝より許しを得たこと

故相模入道宗鑒(北条高時)の二男、相模次郎北条時行は、一家が瞬く間に滅亡してからは、この天の下で身を縮め、歩くにも足音さえ出さぬようにするなど、我が身の置き場にも困り、心の休むこともなかったので、ここの禅宗寺院、またあちらの律宗の寺と言う具合に、

毎日毎夜を明かしながら隠れていたのです。彼は密使をそっと吉野の後醍醐天皇のもとに派遣し、「亡き父親、高時法師は臣たる道をわきまえなかったので勅勘を受けて、とうとう滅亡に至りました。事実はそうであっても、これは天によって下された罰と考えていますから、

この時行は全く帝を御恨みなどしていません。元弘の戦いで義貞は関東を滅ぼし、尊氏は都の六波羅を攻略しました。彼ら二人は勅命に従って征伐を行った訳ですが、朝廷に何の不満があったのか、尊氏は突然朝敵となり、天皇の命令を利用してその威勢を加え、

反逆を起こして天下を我が物にしようと考えていたのですが、すでにこの陰謀は露見しました。そもそも尊氏と言う者は、全く当北条家の引き立てによって恩恵を受けてきた。しかしながら彼はその恩を受けておきながらそれを忘れ、天子を推戴して一方の天子に背いているのです。

この甚だしい悪逆無道のやり方には、世間の人々は皆が皆憎み、非難するところであります。このため当家の一族にとって、敵と言えば尊氏以外には考えられないのです。今はただ尊氏、直義にこの恨みを晴らそうと考えています。天の鏡によって照らして、

下々の実情をご理解され、ここは是非とも帝よりお許しを頂き、朝敵誅伐の計略を立てよとの綸旨を下されれば、官軍が戦っている義戦に参加し、皇統の正常化をはかる所存です。過去においても不善の父が処罰されても、忠義ある子供を召し使う例は多々あります。

中国においては趙盾が居り、我が国では源義朝、またそれ以外知られているだけでも、数え切れません。用いるか、用いないかは公正であるべきで、寛大か厳格にするかは、明王の判断であり、また高い人間性を持った人の選択でもあります。

どうして過去の罪を根拠に、守られるべき道理を捨てられるのでしょうか」と取次ぎの人に頼り、こと詳しく奏聞したのです。後醍醐は熱心にお聞きになり、「犁牛(論語::名門の出でなくても、才能さえあれば用いられる)の例えは、そのことであろう。罰はその罪にあって、

功績は功績として理解するのは、善政のきわみである」と言って、すぐに赦免の綸旨を下されたのです。      (終り)

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