19 太平記 巻第十九  (その二)


○奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事
奥州の国司北畠源中納言顕家卿、去元弘三年正月に、園城寺合戦の時上洛せられて義貞に力を加へ、尊氏卿を西海に漂はせし無双の大功也とて、鎮守府の将軍に成れて、又奥州へぞ下されける。其翌年官軍戦破れて、君は山門より還幸なりて、花山院の故宮に幽閉せられさせ給ひ、金崎の城は攻落されて、義顕朝臣自害したりと聞へし後は、顕家卿に付随ふ郎従、皆落失て勢微々に成しかば、纔に伊達郡霊山の城一を守て、有も無が如にてぞをはしける。かゝる処に、主上は吉野へ潜幸なり義貞は北国へ打出たりと披露ありければ、いつしか又人の心替て催促に随ふ人多かりけり。顕家卿時を得たりと悦て、廻文を以て便宜の輩を催さるゝに、結城上野入道々忠を始として、伊達・信夫・南部・下山六千余騎にて馳加る。国司則其勢を合て三万余騎、白川の関へ打越給に、奥州五十四郡の勢共、多分はせ付て、程なく十万余騎に成にけり。さらば軈鎌倉を責落て、上洛すべしとて、八月十九日白川関を立て、下野国へ打越給ふ。鎌倉の管領足利左馬頭義詮此事を聞給て、上杉民部大夫・細川阿波守・高大和守、其外武蔵・相摸の勢八万余騎を相副て、利根河にて支らる。去程に、両陣の勢東西の岸に打臨で、互に是を渡さんと、渡るべき瀬やあると見ければ、其時節余所の時雨に水増て、逆波高く漲り落て、浅瀬はさてもありや無やと、事問べき渡守さへなければ、両陣共に水の干落るほどを相待て、徒に一日一夜は過にけり。爰に国司の兵に、長井斉藤別当実永と云者あり。大将の前にすゝみ出て申けるは、「古より今に至まで、河を隔たる陣多けれ共、渡して勝ずと云事なし。縦水増て日来より深く共、此川宇治・勢多・藤戸・富士川に勝る事はよもあらじ。敵に先づ渡されぬさきに、此方より渡て、気を扶て戦を決候はんに、などか勝で候べき。」と申ければ、国司、「合戦の道は、勇士に任るにしかず、兎も角も計ふべし。」とぞ宣ける。実永大に悦て、馬の腹帯をかため、甲の緒をしめて、渡さんと打立けるを見て、いつも軍の先を争ひける部井十郎・高木三郎、少も前後を見つくろはず、只二騎馬を颯と打入て、「今日の軍の先懸、後に論ずる人あらば、河伯水神に向て問へ。」と高声に呼て、箆橈形に流をせいてぞ渡しける。

☆ 奥州国司顕家卿並びに新田徳寿丸が上洛したこと

奥州国の国司北畠源中納言顕家卿は、去る元弘三年(1333年)正月に起こった園城寺合戦の時上洛され、義貞軍に加勢して、尊氏卿を西海に漂わせると言う無類の大功を挙げ、鎮守府将軍を拝命し再び奥州に下っていました。

しかしその翌年に官軍は戦争に負けて、帝、後醍醐は尊氏と和解して山門を降りられ、花山院の旧宮殿に幽閉されました。また北陸では金崎の城が攻略されて、新田義顕朝臣は自害されたと情報が入ってからは、顕家卿に従う家来らも皆去って行き、配下の軍勢も少なくなてしまい、

何とか伊達郡霊山の城一つを守るだけとなり、その存在すら忘れられていました。そのような状況にあった時、主上、後醍醐は吉野に潜幸され、義貞は北国に進攻を始めたとの情報が入ると、いつしかまた、人は心変わりし、顕家の召集に応じる人も多くなりました。

顕家は機が熟したと喜び、書状を廻して軍勢の召集を掛けたところ、結城上野入道道忠をはじめとして、伊達、信夫、南部、下山らが、六千余騎を率いて駆けつけて来ました。顕家が国司の軍勢を含めて総勢三万余騎を率いて、白河の関を越えると、

奥州五十四郡の武将らの大半が駆けつけて来たので、やがてその軍勢は十万余騎になりました。よし、ではすぐに鎌倉を攻め落とし、上洛を目指そうと延元二年(建武四年::1337年)八月十九日に白河関を出発し、下野国に進攻しました。

鎌倉の管領、足利左馬頭義詮はこの情報を得て、上杉民部大夫、細川阿波守、高大和守らに、その他の武蔵や相模の軍勢八万余騎を与えて、利根川を前に防戦させました。やがて両軍の軍勢が東西の川岸に集結し、互いに川を渡らんと考え、渡河可能な浅瀬を探しました。

しかし、その頃上流に時雨でもあったのか、増水して流れは激しく逆巻き、果たして浅瀬などあるのかと聞こうにも、渡し舟の船頭も見つからず、両軍とも水の引くのを待って、何するでもなく一日一夜を過したのでした。その時、国司の兵士で長井斉藤別当実永と言う者がいました。

その彼が大将の前に進み出て、「昔から今に至るまで、川を挟んでの合戦は多かったのですが、渡河を決行して勝てなかったことはありません。たとえ増水して普段より深くても、この川が宇治川や瀬田川、また藤戸の瀬戸あるいは富士川より険しい川では決してないでしょう。

敵が先に渡河する前に、当方より渡河を決行し、士気を高めて戦闘に臨めば、間違いなく勝利を収めるでしょう」と、申し上げました。話を聞いていた国司は、「合戦のことは、その道に秀でた勇猛な武者に任せるのが良いだろう。取り敢えずその作戦で行こう」と、仰られました。

実永は大いに喜び、馬の腹帯を固く締め直し、また兜の緒も締めて川を渡らんと進むのを見て、いつも軍において彼と先陣争いをしている、部井十郎と高木三郎の二人が、前後の状況を確認することなく、ただの二騎で川にサッと馬を入れ、「今日の軍での先陣について、

後になって問題にする者がいれば、川の神、水の神に聞けばよい」と声高に叫び、流れを斜めに逆らいながら渡って行きました。


長井斉藤別当・舎弟豊後次郎、兄弟二人是を見て、「人の渡したる処を渡ては、何の高名かあるべき。」と、共に腹を立て、是より三町計上なる瀬を只二騎渡けるが、岩浪高して逆巻く波に巻入られて、馬人共に見へず、水の底に沈で失にけり。其身は徒に溺て、尸は急流の底に漂といへ共、其名は永く止て武を九泉の先に耀す。さてこそ鬚髪を染て討死せし実盛が末とは覚へたれと、万人感ぜし言の下に先祖の名をぞ揚たりける。是を見て、奥州の勢十万余騎、一度に打入れて、まつ一文字に渡せば、鎌倉勢八万余騎、同時に渡合て、河中にて勝負を決せんとす。され共先一番に渡つる奥勢の人馬に、東岸の流せかれて、西岸の水の早き事、宛竜門三級の如なれば、鎌倉の先陣三千余騎、馬筏を押破られて、浮ぬ沈ぬ流行。後陣の勢は是を見て、叶はじとや思けん、河中より引返て、平野に支て戦けるが、引立ける軍なれば、右往左往に懸ちらされて、皆鎌倉へ引返す。国司利根川の合戦に打勝て、勢漸強大に成と云ども、鎌倉に猶東八箇国の勢馳集て、雲霞の如なりと聞ければ、武蔵の府に五箇日逗留して、窃に鎌倉の様をぞ伺ひきゝ給ける。かゝる処に、宇都宮左少将公綱、紀清両党千余騎にて国司に馳加る。然共、芳賀兵衛入道禅可一人は国司に属せず。公綱が子息加賀寿丸を大将として、尚当国宇都宮の城に楯篭る。これに依て国司、伊達・信夫の兵二万余騎を差遣て、宇都宮の城を責らるゝに、禅可三日が中に攻落れて降参したりけるが、四五日を経て後又将軍方にぞ馳付ける。此時に先亡の余類相摸次郎時行も、已に吉野殿より勅免を蒙てければ、伊豆国より起て、五千余騎足柄・箱根に陣を取て、相共に鎌倉を責べき由を国司の方へ牒せらる。又新田左中将義貞の次男徳寿丸、上野国より起て、二万余騎武蔵国へ打越て、入間河にて著到を付け、国司の合戦若延引せば、自余の勢を待ずして鎌倉を責べしとぞ相謀ける。鎌倉には上杉民部大夫・同中務大夫・志和三郎・桃井播磨守・高大和守以下宗との一族大名数十人、大将足利左馬頭義詮の御前に参て、評定ありけるは、「利根川の合戦の後、御方は気を失て大半は落散候、御敵は勢に乗て、弥猛勢に成候ぬ。今は重て戦共勝事を得難し。只安房・上総へ引退て、東八箇国の勢何方へか付と見て、時の反違に随ひ、軍の安否を計て戦ふべきか。」と、延々としたる評定のみ有て、誠に冷しく聞へたる義勢は更になかりけり。

長井斉藤別当と舎弟の豊後次郎の兄弟二人はこれを見て、「人が渡った同じ所を渡って、何の高名が得られるのだ」と二人は腹を立て、ここより三町ほど上流にある瀬を、ただ二騎で渡ろうとしましたが、岩に当たる波も高く、逆巻く流れに巻き込まれると、人馬とも見えなくなり、

川底に沈んで死んでしまいました。何をするでもなく溺れてしまい、遺体は急流の川底に漂うとは言えども、その名前は永く記憶に残り、その武勇は後世に輝くことでしょう。それでこそ鬢の髪を染めて合戦に臨み、討ち死にをした斎藤実盛の末裔に違いないと、皆が皆感じることによって、

先祖の名を揚げることとなりました。この様子を見ていた奥州の軍勢、十万余騎が流れに一斉に馬を入れ、一文字になって渡って行くと、鎌倉勢の八万余騎も同時に渡りだし、川中で勝負をつけようとしました。しかしながら先に渡っている奥州の人馬により、

せき止められた東岸の水が西岸に流れ込み、そのため流れが激しくなり、まるで黄河の氾濫を防ぐ目的で山を切り落としたために出来た、竜門三級と言う滝のようになったので、鎌倉軍の先陣三千余騎は馬筏を破られ、浮いたり沈んだりしながら流されました。

後に続いていた軍勢はこれを見て、とても勝ち目がないと思い、川中より引き返し平地にて防戦にかかりましたが、退却軍の宿命か右往左往するばかりで蹴散らされ、皆、鎌倉に引き返しました。国司の顕家軍は利根川の合戦に勝利し、その勢威もだんだんと強大になりつつあると言えども、

鎌倉には尚も坂東八ヶ国の軍勢が集結し、雲霞の如くだと言われているので、武蔵の国府に五日間逗留し、密かに鎌倉の情報を集めました。そこに、宇都宮左少将公綱、紀清両党が千余騎で国司軍に加勢のため駆けつけました。

しかしその中でも、芳賀兵衛入道禅可の一人だけが国司軍に属しませんでした。そして宇都宮公綱の子息、加賀寿丸を大将にして、なおも、この国の宇都宮の城に立て篭もりました。そのため国司の顕家は伊達、信夫の兵士、二万余騎を向かわせ宇都宮の城を攻撃すると、

禅可は三日も経たずに城を落とされ、降参しましたが、四、五日も過ぎると再び足利将軍方に駆けつけました。その頃元弘の乱(1333年)において滅亡した北条家の一族、相模次郎時行もすでに吉野殿後醍醐より許しを得ていましたから、伊豆国で蜂起し五千余騎で足柄、箱根に陣を構え、

協力して鎌倉を攻撃したいと、国司軍に文書で申し入れました。また新田左中将義貞の次男、徳寿丸も上野国より蜂起し、二万余騎の軍勢で武蔵国に進出し、入間川で顕家に軍勢の到着を告げ、もし国司軍の合戦が長引くようだったら、他の軍勢を待つことなく鎌倉を攻撃する計画を持ちかけました。

一方鎌倉では上杉民部大夫、同じく中務大夫、志和三郎、桃井播磨守そして高大和守以下主だった一族や大名数十人が、大将の足利左馬頭義詮の御前に集まり相談しましたが、「利根川の合戦後は、味方の軍勢は士気が下がり、大半の兵士は逃げ散ってしまい、

反対に敵は勢いを得て、ますます強大な軍勢となっています。こうなっては再び戦闘を決行しても、勝つことは難しいと思えます。今は安房や上総に退却し、東八ヶ国の軍勢らがどちらに与するのか動向を調べ、臨機応変に対処し、合戦については勝算を考えた上、戦うのが良いのだろうか」などと、

長々話し合うばかりで、真剣に戦おうと言う態度さえ見えませんでした。


○追奥勢跡道々合戦事
大将左馬頭殿は其比纔に十一歳也。未思慮あるべき程にてもをはせざりけるが、つく/゛\と此評定を聞給て、「抑是は面々の異見共覚へぬ事哉、軍をする程にては一方負ぬ事あるべからず。漫に怖ば軍をせぬ者にてこそあらめ。苟も義詮東国の管領として、たま/\鎌倉にありながら、敵大勢なればとて、爰にて一軍もせざらんは、後難遁れがたくして、敵の欺ん事尤当然也。されば縦御方小勢なりとも、敵寄来らば馳向て戦はんに、叶はずは討死すべし。若又遁つべくは、一方打破て、安房・上総の方へも引退て、敵の後に随て上洛し、宇治・勢多にて前後より責たらんに、などか敵を亡さゞらん。」と謀濃に義に当て宣ければ、勇将猛卒均く此一言に励されて、「さては討死するより外の事なし。」と、一偏に思切て鎌倉中に楯篭る。其勢一万余騎には過ざりけり。是を聞て国司・新田徳寿丸・相摸次郎時行・宇都宮の紀清両党、彼此都合十万余騎、十二月二十八日に、諸方皆牒合て、鎌倉へとぞ寄たりける。鎌倉には敵の様を聞て、とても勝べき軍ならずと、一筋に皆思切たりければ、城を堅し塁を深くする謀をも事とせず、一万余騎を四手に分て、道々に出合、懸合々々一日支て、各身命を惜まず戦ける程に、一方の大将に向はれける志和三郎杉下にて討れにければ、此陣より軍破て寄手谷々に乱入る。寄手三方を囲て御方一処に集しかば、打るゝ者は多して戦兵は少。かくては始終叶べしとも見へざりければ、大将左馬頭殿を具足し奉て、高・上杉・桃井以下の人々、皆思々に成てぞ落られける。かゝりし後は、東国の勢宮方に随付事雲霞の如し。今は鎌倉に逗留して、何の用かあるべきとて、国司顕家卿以下、正月八日鎌倉を立て、夜を日についで上洛し給へば、其勢都合五十万騎、前後五日路左右四五里を押て通るに、元来無慚無愧の夷共なれば、路次の民屋を追捕し、神社仏閣を焼払ふ。総此勢の打過ける跡、塵を払て海道二三里が間には、在家の一宇も残らず草木の一本も無りけり。前陣已に尾張の熱田に著ければ、摂津大宮司入道源雄、五百余騎にて馳付、同日美濃の根尾・徳山より堀口美濃守貞満、千余騎にて馳加る。今は是より京までの道に、誰ありとも此勢を聊も支んとする者は有がたしとぞ見へたりける。爰に鎌倉の軍に打負て、方々へ落られたりける上杉民部大輔・舎弟宮内少輔は、相摸国より起り、桃井播磨守直常は、箱根より打出、高駿河守は安房・上総より鎌倉へ押渡り、武蔵・相摸の勢を催るゝに、所存有て国司の方へは付ざりつる江戸・葛西・三浦・鎌倉・坂東の八平氏・武蔵の七党、三万余騎にて馳来る。又清の党旗頭、芳賀兵衛入道禅可も、元来将軍方に志有ければ、紀清両党が国司に属して上洛しつる時は、虚病して国に留たりけるが、清の党千余騎を率して馳加る。此勢又五万余騎国司の跡を追て、先陣已に遠江に著ば、其国の守護今河五郎入道、二千余騎にて馳加る。中一日ありて三河国に著ば、当国守護高尾張守、六千余騎にて馳加る。又美濃の州俣へ著ば、土岐弾正少弼頼遠、七百余騎にて馳加る。国司の勢六十万騎前を急て、将軍を討奉らんと上洛すれば、高・上杉・桃井が勢は八万余騎、国司を討んと跡に付て追て行。「蟷螂蝉をうかゞへば、野鳥蟷螂を窺ふ。」と云荘子が人間世のたとへ、げにもと思ひ知れたり。

☆ 奥州勢を追跡途上での合戦のこと

さて鎌倉軍の大将、左馬頭足利義詮殿は当時まだ十一歳でした。まだまだ思慮分別のつく年齢でもありませんが、この会議の様子を熱心に聞いた上、「何と、これは皆様の考えとも思えぬことである。軍をすれば当然一方は負けることになる。

やたらに恐れてばかりは、軍をしない者なら良いだろうが、もったいなくもこの義詮は東国の管領として、奇しくもここ鎌倉に居りながら、敵が大勢だからと言って一戦をもしないことなど、後日非難を受けるのは避けがたい上、敵から軽蔑を受けることも至極当然であろう。

それならば、たとえ味方が小勢であっても、敵が攻め込んできたら駆け向かって戦い、もし負ければ討ち死にするだけだ。またもし逃げるような時には、敵の何処か一方を突破して、安房や上総に向かって退却し、その後、敵の後ろについて上洛し、

宇治や瀬田で前後から攻撃すれば、どうして敵を滅ぼすことが出来ないと言うのだ」と、作戦を詳しく道理立てて話されたので、その場にいた勇将も勇猛な兵士らも皆、この言葉に励まされ、「こうなれば、討ち死に以外に取るべき道はない」と瞬時に覚悟を決め、

鎌倉中に立て篭もることになりました。総勢は一万余騎に少し足りません。この情報を得て、国司顕家、新田徳寿丸、相模次郎時行、宇都宮の紀清両党らの兵力、総勢十万余騎が延元二年(建武四年::1337年)十二月二十八日に、皆でしめし合わせて鎌倉に押し寄せました。

鎌倉では敵の様子を聞いて、とてもこの戦いに勝ち目などないと、皆が覚悟を決めていたので、城を補強したり、防御の堀を深くするなどもせずに、一万余騎を四手に分けて、各街道での遭遇戦に全力を尽くして、一日中命を惜しまず戦いましたが、

やがて一方の大将をつとめていた志和三郎が杉下で討たれると、そこより陣が崩れだし、寄せ手は谷々になだれ込みました。寄せ手が三方から鎌倉を包囲し、鎌倉軍は一ヶ所に集合したものの、多数が討ち取られ残る兵士も少なくなっていました。

こうなれば、とても先は見えないと、大将左馬頭義詮殿をお連れし、高、上杉、桃井以下の人々は、皆それぞれ自分の考えに従って落ちて行きました。この状況になってから、東国の軍勢は宮方への加勢が続いたので、顕家の軍勢は雲霞のような大軍となりました。

今はもう鎌倉に駐留する意味は無いと判断し、国司の顕家卿以下は延元三年(1338年)正月八日に鎌倉を出発し、夜を日に継いで上洛を急ぎました。やがてその軍勢は総勢五十万騎にもなり、五日間ほど街道を突き進んで行ったので、もともとが罪の意識の乏しい野蛮な兵士らですから、

途中の民家からの略奪を働いたり、神社仏閣は焼き払う始末です。その結果、この軍勢が通り過ぎた後は、街道の二三里は民家の一棟も残らず、草木の一本さえありません。そして早くも先頭の軍勢が尾張の熱田に到着すると、摂津大宮司入道源雄が五百余騎にて駆けつけ、

また同じ日に美濃国の根尾や徳山から、堀口美濃守貞満が千余騎にて駆けつけ合流しました。この勢いを持ってすれば、ここから京までの進軍途中で、邪魔をする者など居ないと思われます。ところが、鎌倉の軍において負けを喫し、諸方に落ち延びていた上杉民部大輔や、

その弟の宮内少輔が相模国にて立ち上がり、桃井播磨守直経は箱根より進攻し、また高駿河守が安房、上総から鎌倉に進攻して、武蔵や相模の軍勢に召集を掛けたところ、事情があって国司軍には属さなかった、江戸、葛西、三浦、鎌倉、坂東の八平氏や武蔵の七党らが、

三万余騎にて駆けつけて来ました。また清の党の長である芳賀兵衛入道禅可も、元来が尊氏将軍派なので、紀清両党が国司顕家に属して上洛する時に、仮病を使って国に居残っていましたが、このたび清の党の千余騎を率いて駆けつけました。

これらの軍勢五万余騎は再び国司軍を追跡し、先陣が早くも遠江に到着すると、遠江の守護今川五郎入道が、二千余騎にて駆けつけ参陣しました。中一日経って、三河国に到着すると、当国の守護、高尾張守が六千余騎にて駆けつけました。また美濃の墨俣に到着すると、

土岐弾正少弼頼遠が七百余騎にて駆けつけました。このように国司顕家の軍勢、六十万騎は、尊氏将軍を討ち取るため上洛を急げば、高、上杉、桃井の軍勢、八万余騎は国司顕家を討ち取ろうと追跡しました。「蟷螂が蝉を狙っていると、野鳥が蟷螂を狙う」と、荘子が人間世界を例えたのも、なるほどと思い知ったのです。


○青野原軍事付嚢沙背水事
坂東よりの後攻の勢、美濃国に著て評定しけるは、「将軍は定て宇治・勢多の橋を引て、御支あらんずらん。去程ならば国司の勢河を渡しかねて、徒に日を送べし。其時御方の勢労兵の弊に乗て、国司の勢を前後より攻んに、勝事を立ろに得つべし。」と申合れけるを、土岐頼遠として耳を傾けゝるが、「抑目の前を打通る敵を、大勢なればとて、矢の一をも射ずして、徒に後日の弊に乗ん事を待ん事は、只楚の宋義が「蚊を殺には其馬を撃ず。」と云しに似たるべし。天下の人口只此一挙に有べし。所詮自余の御事は知ず、頼遠に於ては命を際の一合戦して、義にさらせる尸を九原の苔に留むべし。」と、又余儀もなく申されければ、桃井播磨守、「某も如此存候。面々はいかに。」と申されければ、諸大将皆理に服して、悉此儀にぞ同じける。去程に奥勢の先陣、既垂井・赤坂辺に著たりけるが、跡より上る後攻の勢近づきぬと聞へければ、先其敵を退治せよとて、又三里引返して、美濃・尾張両国の間に陣を取らずと云処なし。後攻の勢は八万余騎を五手に分、前後を鬮に取たりければ、先一番に小笠原信濃守・芳賀清兵衛入道禅可二千余騎にて志貴の渡へ馳向ば、奥勢の伊達・信夫の兵共、三千余騎にて河を渡てかゝりけるに、芳賀・小笠原散々に懸立られて、残少に討れにけり。二番に高大和守三千余騎にて、州俣河を渡る所に、渡しも立ず、相摸次郎時行五千余騎にて乱合、互に笠符をしるべにて組で落、々重て頚を取り、半時ばかり戦たるに、大和守が憑切たる兵三百余人討れにければ、東西に散靡て山を便に引退く。三番に今河五郎入道・三浦新介、阿字賀に打出て、横逢に懸る所を、南部・下山・結城入道、一万余騎にて懸合、火出程に戦たり。今河・三浦元来小勢なれば、打負て河より東へ引退く。四番に上杉民部大輔・同宮内小輔、武蔵・上野の勢一万余騎を率して、青野原に打出たり。爰には新田徳寿丸・宇都宮の紀清両党三万余騎にて相向ふ。両陣の旗の紋皆知りたる兵共なれば、後の嘲をや恥たりけん、互に一足も引ず、命を涯に相戦ふ。毘嵐断て大地忽に無間獄に堕、水輪涌て世界こと/゛\く有頂天に翻へらんも、かくやと覚るばかり也。され共大敵とりひしくに難ければ、上杉遂に打負て、右往左往に落て行。五番に桃井播磨守直常・土岐弾正少弼頼遠、態と鋭卒をすぐつて、一千余騎渺々たる青野原に打出て、敵を西北に請てひかへたり。

☆ 青野原の合戦のことと、 韓信が土嚢を使って背水の陣を布いたこと

坂東より追尾している鎌倉の軍勢が、美濃国に到着して作戦会議を開き、「尊氏将軍はきっと宇治と瀬田の橋板をはずして防御するでしょう。すると国司の軍勢は渡河出来ず、無駄に日を送ることにならざるを得ない。その時我らの軍勢が敵兵の疲労に乗じて、

国司軍を前後から攻め立てれば、簡単に勝利を収めることが出来るでしょう」と作戦を立てたのを、土岐頼遠は黙って聞いていましたが、「そもそも目の前を通り過ぎる敵を、大軍だからと言って、矢の一本も射ることもせずに見過ごして、後日敵の疲弊を待って戦うのは、

たとえば楚国の宋義が、『蚊を殺すには、その馬を撃たない。つまり勝負を焦って大局を見ない』と言ったのに、似ているではないか。世間の評価はここでの挙動に係っているとも思える。とは言え、つまるところ皆様の考えは知らず、この頼遠は命を賭けて一合戦し、

義に生き義に死んだ屍を、墓地の苔にその名と共に留めよう」と、他に方法など無いとばかりに話されました。聞いていた桃井播磨守が、「私も同様に考えます。皆様はいかがですか」と申されると、諸大将らは皆道理に納得して、全員がこの意見に賛同しました。

やがて奥州の軍勢の先鋒が、すでに垂井(岐阜県不破郡)や赤坂(大垣市)の周辺に到着しましたが、後ろから追いかけてくる敵勢が近づいていると聞き、まずその敵を追い払おうと、再び三里ほど引き返し、美濃、尾張両国の間の周辺一帯に陣を構えました。

追いかけてきた軍勢の八万余騎は軍を五手に分けて、攻撃の順序と配置を籤によって決めました。まず最初に小笠原信濃守と芳賀清兵衛入道禅可が、二千余騎にて志貴の渡しに向かって進軍しましたが、奥州の伊達、信夫の軍勢が三千余騎で川を渡ると襲い掛かり、

芳賀と小笠原軍は散々に蹴散らされ、残り少なくなるまで討ち取られてしまいました。二番手として高大和守が三千余騎にて、墨俣川を渡ろうとしている時、許さぬとばかりに相模次郎時行が五千余騎にて襲い掛かり、お互い笠印を頼りに組み合いました。

組み合っては落ち、落ち重なると首を取り、取られして、小一時間ばかり戦いましたが、高大和守が最も頼りにしている兵士ら三百余人が討たれたので、軍は東西にばらばらとなってしまい、山を頼って退却しました。

三番手としては、今川五郎入道、三浦新介らが阿字賀に進出して側面攻撃に掛かろうとした時、南部、下山、結城入道道忠らが一万余騎で襲い掛かり、火の出るような激しい戦いをしました。しかし、今川や三浦はもともと小勢だったので勝負にならず、川の東側に退きました。

四番手として上杉民部大輔、同じく宮内少輔が武蔵、上野の軍勢一万余騎を率いて青野原に進攻しました。これに対して新田徳寿丸(新田義貞の二男、後の義興)、宇都宮の紀清両党が三万余騎にて待ち構えました。両軍の兵士らは、お互い旗の紋所を知り抜いているので、

後に戦いぶりの批判を恐れたためか、お互い一歩も引くこと無しに、命の限り戦いました。この世の沙汰とも思えないほど、激しく果敢に戦ったものの、上杉勢はとうとう負けを喫し、兵士らは混乱の中、あちこちに落ちて行きました。最後の五番手は桃井播磨守直常と土岐弾正少弼頼遠が、

敢えて少数ではあるが精鋭の将兵一千余騎を選び、広大な青野原に進出し、西北に控える敵に向かって軍を展開しました。


是には奥州の国司鎮守府将軍顕家卿・副将軍春日少将顕信、出羽・奥州の勢六万余騎を率して相向ふ。敵に御方を見合すれば、千騎に一騎を合すとも、猶当るに足ずと見ける処に、土岐と桃井と、少も機を呑れず、前に恐べき敵なく、後に退くべき心有とも見へざりけり。時の声を挙る程こそ有けれ、千余騎只一手に成て、大勢の中に颯と懸入、半時計戦て、つと懸ぬけて其勢を見れば、三百余騎は討れにけり。相残勢七百余騎を又一手に束ねて、副将軍春日少将のひかへたる二万余騎が中へ懸入て、東へ追靡、南へ懸散し、汗馬の足を休めず、太刀の鐔音止時なく、や声を出てぞ戦合たる。千騎が一騎に成までも、引な引なと互に気を励して、こゝを先途と戦けれ共、敵雲霞の如くなれば、こゝに囲れ彼に取篭られて、勢もつき気も屈しければ、七百余騎の勢も、纔に二十三騎に打成され、土岐は左の目の下より右の口脇・鼻まで、鋒深に切付られて、長森の城へ引篭る。桃井も三十余箇度の懸合に七十六騎に打成され、馬の三図・平頚二太刀切れ、草摺のはづれ三所つかれて、余に戦疲ければ、「此軍是に限るまじ、いざや人々馬の足休ん。」と、州俣河に馬を追漬て、太刀・長刀の血を洗て、日も暮れば野に下居て、終に河より東へは越給はず。京都には奥勢上洛の由、先立て聞へけれ共、土岐美濃国にあれば、さりとも一支は支へんずらんと、憑敷思はれける処に、頼遠既に青野原の合戦に打負て、行方知らずとも聞へ、又は討れたり共披露ありければ、洛中の周章斜ならず。さらば宇治・勢多の橋を引てや相待つ。不然ば先西国の方へ引退て、四国・九州の勢を付て、却て敵をや攻べきと異議まち/\に分て、評定未落居せざりけるに、越後守師泰且く思案して申されけるは、「古より今に至まで、都へ敵の寄来る時、宇治・勢多の橋を曳て戦事度々也。然れ共此河にて敵を支て、都を落されずと云事なし。寄る者は広く万国を御方にして威に乗り、防ぐ者は纔に洛中を管領して気を失故也。不吉の例を逐て、忝く宇治・勢多の橋を引、大敵を帝都の辺にて相待んよりは、兵勝の利に付て急近江・美濃辺に馳向ひ、戦を王城の外に決せんには如じ。」と、勇み其気に顕れ謀其理に協て申されければ、将軍も師直も、「此儀然べし。」とぞ甘心せられける。「さらば時刻をうつさず向へ。」とて、大将軍には高越後守師泰・同播磨守師冬・細川刑部大輔頼春・佐々木大夫判官氏頼・佐々木佐渡判官入道々誉・子息近江守秀綱、此外諸国の大名五十三人都合其勢一万余騎、二月四日都を立、同六日の早旦に、近江と美濃との堺なる黒地河に著にけり。奥勢も垂井・赤坂に著ぬと聞へければ、こゝにて相まつべしとて、前には関の藤川を隔、後には黒地川をあてゝ、其際に陣をぞ取たりける。抑古より今に至まで、勇士猛将の陣を取て敵を待には、後は山により、前は水を堺ふ事にてこそあるに、今大河を後に当て陣を取れける事は又一の兵法なるべし。

この鎌倉勢に対しては、奥州の国司、鎮守府将軍顕家卿と副将軍春日少将顕信の二人が出羽、奥州の軍勢、六万余騎を率いて対陣しました。敵軍と味方の軍勢を数字だけで判断すると、千騎に対して一騎を向かわせても、とても足りないと思えるほどですが、

土岐と桃井は全く戦意を落とすことなく、前に恐れるほどの敵など見えないかのように、後ろに退くことなど全く考えにはありません。やがて閧の声を挙げると千余騎が一団になって、敵の大軍の中にサッと駈け入ると小一時間ほど戦ってから、急遽戦場を離脱して自軍を見ると、

三百余騎が討たれていました。残った七百余騎を再び一軍にまとめて、副将軍春日少将の率いる二万余騎の中に駈け入り、東に追い込み、また南に蹴散らして馬を休めることもせず、太刀の鍔音が止む間もなく、声を出し合って戦い続けました。

千騎が一騎になるまで退くな退くなと、お互い戦意を高め合いながら、ここを死処と戦いましたが、敵軍は雲霞の如くなので、やがてここかしこで取り囲まれては、さすが気力体力とも衰え、七百余騎の軍勢も、今はわずか二十三騎にまで打ちのめされ、

土岐弾正少弼頼遠は左の目の下より、右の口脇から鼻まで深手を負って、長森の城に引きこもりました。また桃井播磨守直常も三十余回の会戦に、七十六騎まで討ち取られ、馬の三図(馬の尻の方で骨が盛り上がったところ)や平首(馬の首の両側平たいところ)の二ヶ所を切られ、

また草摺りの端を三ヶ所突き刺され、戦いに疲れ果てて戦意も喪失し、「この合戦はここで終わるものではない。さあ皆の者、馬を休めようぞ」と墨俣川に馬を入れ、太刀や長刀の血痕を洗い落とし、日も暮れて来たので、そのまま野営に入り、ついに川を東に越えることは無かったのです。

京都では奥州の軍勢が上洛を目指しているらしいと、前もって聞かされてはいましたが、土岐弾正少弼頼遠が美濃国に控えている以上、どんなことがあっても敵軍の進攻を防いでくれると、頼りにしていたのですが、頼遠はすでに青野原の合戦で負けてしまい、行方不明になっているとか、

またすでに討たれてしまったとか聞けば、洛中の人々は大騒ぎし、ただうろたえるばかりです。こうなれば宇治や瀬田の橋板を取り払って敵を待ち受けようか、それとも、まず西国に退いて、四国や九州の軍勢を味方に付け、反対に都の敵を攻撃しようとか、なかなか意見がまとまりません。

その時、越後守師泰が熟考の上、「古来より現在に至るまで、敵が都に押し寄せて来た時、宇治や瀬田の橋を落として戦うこと幾度もありました。しかしながら、これらの川で敵を待ち受けた上、防衛戦に勝利して都を落とされなかったことなどありません。

その理由として、寄せ手は広く諸国の軍を味方にして、その勢威を増すことが出来ますが、防御側はただ洛中の軍勢を指揮するのみでは、士気の低下は避けがたいからです。このような不吉な例に従って、宇治や瀬田の橋を落として、大敵を都の周辺に待ち受けるより、

戦略的な有利を求めて、急いで近江や美濃周辺に駆け向かい、今回の合戦は洛外で決着を付けるのが良いでしょう」と、昂ぶる士気もあらわに、しかし冷静な兵理に基づいて話されたので、尊氏将軍も高師直も、「この提言、尤もである」と、同意されました。

「決まった以上、早急に進発しよう」と言って、大将軍には高越後守師泰、同じく播磨守師冬、細川刑部大輔頼春、佐々木大夫判官氏頼、佐々木佐渡判官入道道誉、その子息、近江守秀綱らと、それ以外に諸国の大名五十三人を加え、総勢一万余騎が延元三年(暦応元年::1338年)二月四日、

都を出発して、同じく六日の早朝に近江と美濃の国境、黒地川に着きました。奥州勢も垂井、赤坂に到着したらしいと聞くと、ここで待ち受けることにして、関の藤川を前に、後ろは黒地川を背に陣を構えました。昔から今まで勇猛と言われる将卒が、陣を構えて敵を待つ場合、後方には山を控え、

前方は河川で防御を図ることが多いのですが、今回のように大河を後方に置いて陣を構えるのも、また一つの戦法なのでしょう。


昔漢の高祖と楚の項羽と天下を争事八箇年が際戦事休ざりけるに、或時高祖軍に負て逃る事三十里、討残されたる兵を数るに三千余騎にも足ざりけり。項羽四十余万騎を以て是を追けるが、其日既に暮ぬ。夜明ば漢の陣へ押寄て、高祖を一時に亡さん事隻手の内に在とぞ勇みける。爰に高祖の臣に韓信と云ける兵を大将に成して、陣を取らせけるに、韓信態と後に大河を当て橋を焼落し、舟を打破てぞ棄たりける。是は兎ても遁るまじき所を知て、士卒一引も引心なく皆討死せよと、しめさん為の謀也。夜明ければ、項羽の兵四十万騎にて押寄、敵を小勢也と侮て戦を即時に決せんとす。其勢参然として左右を不顧懸けるを、韓信が兵三千余騎、一足も引ず死を争て戦ける程に、項羽忽に討負て、討るゝ兵二十万人、逃るを追事五十余里なり。沼を堺ひ沢を隔て、こゝまでは敵よも懸る事得じと、橋を引てぞ居りける。漢の兵勝に乗て今夜軈て項羽の陣へ寄んとしけるに、韓信兵共を集て申けるは、「我思様あり。汝等皆持所の兵粮を捨てゝ、其袋に砂を入て持べし。」とぞ下知しける。兵皆心得ぬ事哉と思ながら、大将の命に随て、士卒皆持所の粮を捨て、其袋に砂を入て、項羽が陣へぞ押寄たる。夜に入て項羽が陣の様を見るに、四方皆沼を堺ひ沢を隔て馬の足も立ず、渡るべき様なき所にぞ陣取たりける。此時に韓信持たる所の砂嚢を沢に投入々々、是を堤に成て其上を渡るに、深泥更に平地の如し。項羽の兵二十万騎終日の軍には疲れぬ。爰までは敵よすべき道なしと油断して、帯紐とひてねたる処に、高祖の兵七千余騎時を咄と作て押寄たれば、一戦にも及ばず、項羽の兵十万余騎、皆河水にをぼれて討れにけり。是を名付て韓信が嚢砂背水の謀とは申也。

昔中国で漢国の高祖と楚国の項羽が、八ヵ年にわたり天下の覇権争いに明け暮れていました。ある時、高祖は合戦に破れ三十里を敗走して、生き残った兵士を数えてみると、三千余騎にも足りませんでした。項羽は四十余万騎で高祖軍を追走したものの、その日は暮れてしまいました。

夜が明ければ漢の陣営に押し寄せ、高祖を一気に滅亡させることなど、簡単な話と士気は高まっていました。この時高祖の家臣で韓信と言う兵を大将に命じ、陣を構えさせたところ、韓信は敢えて後方に大河を控えさせ、橋を焼き落とした上、舟も壊して捨ててしまったのです。

この作戦はとても逃れ得ないことを肝に命じて、将士も兵卒も退くことなど考えずに、皆、討ち死にを覚悟させるための策略でした。夜が明けると項羽は四十万の兵で押し寄せると、敵は小勢だと甘く考え、一気に勝負を決しようとしました。自信満々な兵士らが左右を顧みず攻めかかるのを、

韓信の率いる兵士、三千余騎は一歩も退くことなく、討ち死にを争うかの如く戦ったので、項羽の軍勢は瞬く間に負けてしまい、討たれた兵士は二十万人にのぼり、逃げる敵兵の追撃は五十余里になりました。沼地にある沢から離れた場所で、まさかここまで敵兵は来ないだろうと、

橋を落として駐屯しました。漢の兵士らは勝ちに乗じて、今夜にでも項羽の陣営に迫ろうとするのを、韓信は兵士らを集めて、「私は今一つの策略を持っている。皆は今持っている兵糧を捨てて、かわりにその袋に砂を入れて持ってほしいのだ」と、命じました。

兵士らは不審に思いながらも、大将の命令である以上従い、将士も兵卒も所持している食料を捨て去り、代わりに砂を入れて、項羽の陣営に押し寄せました。夜に入って項羽の陣営を見ると、四方は全て沼で馬の脚も届かぬ深さで、渡る場所もないような所に陣を構えています。

この時韓信は持ってきた砂袋を沢に次々と投げ入れ、土手状になった上を渡ると、あのぬかるみも、ただの平地を歩むが如くになりました。その頃項羽の兵士ら二十万騎は、終日続いた合戦に疲れきっており、ここまでは敵も押し寄せることは無いと油断し、

甲冑の帯や紐など解き放って寝ていましたが、そこへ高祖の率いる兵士ら七千余騎が、閧をドッと作り押し寄せてきました。この不意打ちに項羽の軍勢は一戦さえ出来ず、十万余騎が皆、水におぼれたり、討たれたりしました。この作戦を名づけて、「韓信の嚢砂背水の謀略」と、言われた策略です。


今師泰・師冬・頼春が敵を大勢也と聞て、態水沢を後に成て、関の藤川に陣を取けるも、専士卒心を一にして、再び韓信が謀を示す者なるべし。去程に国司の勢十万騎、垂井・赤坂・青野原に充満して、東西六里南北三里に陣を張る。夜々の篝を見渡せば、一天の星計落て欄干たるに異ならず。此時越前国に、新田義貞・義助、北陸道を順て、天を幹らし地を略する勢ひ専昌也。奥勢若黒地の陣を払ん事難儀ならば、北近江より越前へ打越て、義貞朝臣と一つになり、比叡山に攀上り、洛中を脚下に直下して南方の官軍と牒し合せ、東西より是攻めば、将軍京都には一日も堪忍し給はじと覚しを、顕家卿、我大功義貞の忠に成んずる事を猜で、北国へも引合ず、黒地をも破りえず、俄に士卒を引て伊勢より吉野へぞ廻られける。さてこそ日来は鬼神の如くに聞へし奥勢、黒地をだにも破えず、まして後攻の東国勢京都に著なば、恐るゝに足ざる敵也とぞ、京勢には思ひ劣されける。顕家卿南都に著て、且く汗馬の足を休て、諸卒に向て合戦の異見を問給ひければ、白河の結城入道進て申けるは、「今度於路次、度々の合戦に討勝、所々の強敵を追散し、上洛の道を開といへども、青野原の合戦に、聊利を失ふに依て、黒地の橋をも渡り得ず、此侭吉野殿へ参らん事、余に云甲斐なく覚へ候。只此御勢を以て都へ攻上、朝敵を一時に追落す歟、もし不然ば、尸を王城の土に埋み候はんこそ本意にて候へ。」と、誠に無予義申けり。顕家卿も、此義げにもと甘心せられしかば、頓て京都へ攻上給はんとの企なり。其聞へ京都に無隠しかば、将軍大に驚給て、急ぎ南都へ大勢を差下し、「顕家卿を遮り留むべし。」とて討手の評定ありしかども、我れ向んと云人無りけり。角ては如何と、両将其器を撰び給ひけるに、師直被申けるは、「何としても此大敵を拉がん事は、桃井兄弟にまさる事あらじと存候。其故は自鎌倉退て経長途を、所々にして戦候しに、毎度此兵どもに手痛く当りて、気を失ひ付たる者共なり。其臆病神の醒めぬ先に、桃井馳向て、南都の陣を追落さん事、案の内に候。」と被申しかば、「さらば。」とて、頓て師直を御使にて桃井兄弟に此由を被仰しかば、直信・直常、子細を申に及ばずとて、其日頓て打立て、南都へぞ進発せられける。顕家卿是を聞て、般若坂に一陣を張、都よりの敵に相当る。桃井直常兵の先に進んで、「今度諸人の辞退する討手を我等兄弟ならでは不可叶とて、其撰に相当る事、且は弓矢の眉目也。此一戦に利を失はゞ、度々の高名皆泥土にまみれぬべし。志を一に励して、一陣を先攻破れや。」と下知せられしかば、曾我左衛門尉を始として、究竟の兵七百余騎身命を捨て切て入る。顕家卿の兵も、爰を先途と支戦しかども、長途の疲れ武者何かは叶ふべき。一陣・二陣あらけ破て、数万騎の兵ども、思々にぞ成にける。顕家卿も同く在所をしらず成給ぬと聞へしかば、直信・直常兄弟は、大軍を容易追散し、其身は無恙都へ帰上られけり。されば戦功は万人の上に立、抽賞は諸卒の望を塞がんと、独ゑみして待居給たりしかども、更に其功其賞に不中しかば、桃井兄弟は万づ世間を述懐して、天下の大変を憑にかけてぞ待れける。

同じように今、師泰、師冬、頼春は敵が大軍であると聞き、あえて河川を後方に控えて、関の藤川に陣を構えたのも、ただ偏に士卒が心を一つに合わせ、再び韓信の策略を現在に実行しようとするものです。やがて国司顕家の軍勢、十万騎が垂井、赤坂、青野原に満ち溢れ、

東西六里、南北三里にわたって陣を構えました。夜に入って各陣営の篝火を見渡せば、まるで天空の星がこの地上に落ちて、光り輝いているようです。この頃越前の国では、新田義貞と義助が北陸道の軍勢を従わせ、その勢いは天下を制するかと思えるほどです。

奥州の軍勢は、もし黒地の敵陣を突破することが難しいようであれば、北近江から越前に入り、義貞朝臣の軍と合流し、比叡山に登り洛中を眼下に見て、南方の官軍と協力して東西から足利軍を攻め立てれば、尊氏将軍は一日とて京都を守りきれないと思えたのですが、

顕家卿は自分の軍功が義貞の忠義に飲み込まれるのを妬んで、北国と協同作戦も取らず、かといって黒地の敵陣を突破することも出来ず、突然軍勢を率いて伊勢から吉野に回りました。この状況に今まで鬼神のように思われていた奥州勢が、黒地の陣営さえ攻略できず、

その上奥州勢を追撃している東国の軍勢が京都に到着すれば、もはや奥州の敵勢恐れるに足らずと、京都の軍勢らは思い直したのです。顕家卿は南都に到着すると、とりあえず軍馬を休ませ、合戦についての意見を皆に聞いてみました。

すると白河の結城入道が進み出て、「今回の進軍途中においては、度々の合戦に勝利を収め、諸方の強敵も追い散らして、上洛に向かって順調に進んできましたが、青野原の合戦では思うように戦えず、黒地の橋を渡ることが出来なくて、このまま吉野の朝廷に向かうのは、

あまりにも情けなく思います。ここは何も考えず、今の軍勢で都に攻め上り、朝敵を瞬時に追い落とそうではありませんか。もしもそれがかなわなければ、その時は屍を都の土に埋めることこそ本望です」と、これ以外考えようのないように話されました。

顕家卿もこの意見に全面的に賛成し、急遽京都に攻め上ることを決めました。そしてこの情報が京都にもたらされると、尊氏将軍は大いに驚き、急いで大軍を南都に向かわせ、「とにかく顕家卿の進軍を阻止することだ」と、征討軍の派遣について会議を行ったものの、

誰一人として引き受ける者は居ませんでした。これでは具合が悪いと、両将が人選の検討に入ったところ、師直が、「何が何でもこの大敵を阻止出来るのは、桃井兄弟より勝る者はいないと考えられます。何故かと言えば、鎌倉を引き上げてから長途の進軍途中、諸所にて行われた合戦で、

常に敵兵に対して厳しい攻撃をして、戦闘意欲をそいできた軍勢です。その臆病神に取り付かれているうちに、桃井の軍勢が駆けつければ、南都に構えている敵陣を追い落とすことは、たやすいことでしょう」と、話されました。「では、そうしよう」となり、

すぐ師直を使者にして桃井兄弟に、この人選結果を伝えたところ、直信、直常兄弟は、詳しい理由など聞く必要は無いと、その日すぐに南都に向かって進発しました。顕家卿はこの話を聞くと、般若坂に陣を構えて、都からの攻撃に備えました。

桃井直常は兵士らの先頭に進み出て、「今回、各武将らが辞退した討手の大役を、我ら兄弟でなければ果たせないと選出されたことは、何はさておき弓矢を持つ者として、これ以上の名誉はない。しかし、もしこの一戦で不覚を取るようなことがあれば、今までの輝かしい高名も失うことになる。

ここは皆全員が心を一つにして、まず最初の敵陣に攻め込み突破しようぞ」と命令をすれば、曾我左衛門尉を先頭に屈強の兵士ら七百余騎が、捨て身の覚悟で切り込みました。顕家卿の兵士らも、ここを死処と迎え撃ちましたが、長途の遠征に武者らは疲れきっており、

とても支えられるものではありません。一陣、二陣と突破され数万騎の兵士らは、てんでばらばらになってしまいました。顕家卿の所在も分からないと聞き、直信と直常兄弟は敵の大軍を簡単に追い散らして、無事に都へ凱旋されたのです。このため、彼らの戦功は誰よりも優れている以上、

その恩賞たるや思い通りであろうと、独り笑みを漏らしていたのですが、何もその様子は見られず、桃井兄弟は何かと世間の人に恨み言を言って、天下に大騒動が起こるのを頼みにして待っていました。


懸る処に、顕家卿舎弟春日少将顕信朝臣、今度南都を落し敗軍を集め、和泉の境に打出て近隣を犯奪、頓て八幡山に陣を取て、勢ひ京洛を呑。依之京都又騒動して、急ぎ討手の大将を差向べしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井兄弟だにも抽賞の儀もなし。況て其已下の者はさこそ有んずらんとて、曾て進む兵更に無りける間、角ては叶まじとて、師直一家を尽して打立給ける間、諸軍勢是に驚て我も我もと馳下る。されば其勢雲霞の如にて、八幡山の下四方に尺地も不残充満たり。されども要害の堀稠して、猛卒悉く志を同して楯篭たる事なれば、寄手毎度戦に利を失ふと聞へしかば、桃井兄弟の人々、我身を省みて、今度の催促にも不応、都に残留られたりけるが、高家氏族を尽し大家軍兵を起すと云ども、合戦利を失と聞て、余所には如何見て過べき。述懐は私事、弓矢の道は公界の義、遁れぬ所也とて、偸かに都を打立て手勢計を引率し、御方の大勢にも不牒合、自身山下に推寄せ、一日一夜攻戦ふ。是にして官軍も若干討れ疵を被りける。直信・直常の兵ども、残少に手負討れて、御方の陣へ引て加る。此比の京童部が桃井塚と名づけたるは、兄弟合戦の在所也。是を始として厚東駿河守・大平孫太郎・和田近江守自戦て疵を被り、数輩の若党を討せ、日夜旦暮相挑。かゝる処に、執事師直所々の軍兵を招き集め、「和泉の堺河内は故敵国なれば、さらでだに、恐懼する処に、強敵其中に起ぬれば、和田・楠も力を合すべし。未微〔な〕るに乗て早速に退治すべし。」とて、八幡には大勢を差向て、敵の打て出ぬ様に四方を囲め、師直は天王寺へぞ被向ける。顕家卿の官軍共、疲れて而も小勢なれば、身命を棄て支戦ふといへども、軍無利して諸卒散々に成しかば、顕家卿立足もなく成給て、芳野へ参らんと志し、僅に二十余騎にて、大敵の囲を出んと、自破利砕堅給ふといへども、其戦功徒にして、五月二十二日和泉の堺安部野にて討死し給ければ、相従ふ兵悉く腹切疵を被て、一人も不残失にけり。顕家卿をば武蔵国の越生四郎左衛門尉奉討しかば、頚をば丹後国の住人武藤右京進政清是を取て、甲・太刀・々まで進覧したりければ、師直是を実検して、疑ふ所無りしかば、抽賞御感の御教書を両人にぞ被下ける。哀哉、顕家卿は武略智謀其家にあらずといへども、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じ奥州の大軍を両度まで起て、尊氏卿を九州の遠境に追下し、君の震襟を快く奉休られし其誉れ、天下の官軍に先立て争ふ輩無りしに、聖運天に不叶、武徳時至りぬる其謂にや、股肱の重臣あへなく戦場の草の露と消給しかば、南都侍臣・官軍も、聞て力をぞ失ける。

そのような時に顕家卿の舎弟、春日少将顕信朝臣(春日顕国では?)が、今回南都を落ちてきた敗軍の兵士らを集め、和泉の国境辺に進出すると周辺を略奪し、すぐに八幡山(男山)に陣営を構え、その勢いは京都を飲み込むばかりです。

このため京都は再び大騒ぎになり、急いで大将を選定し、討手を向かわせるよう、厳しく命令を出したものの、他と比べ物にならない軍功を上げた桃井兄弟でさえ、特別な恩賞があった訳でもありません。いわんや彼以下の軍功では、とても恩賞にありつけないと、全く志願する将兵などいません。

これでは京都の防衛など出来るものではないと、高師直が一族を挙げて立ち向かおうとしましたので、諸軍勢はこれに驚き我も我もと駆けつけました。そのため迎撃軍は雲霞の如くの大軍になり、八幡山の麓は立錐の余地がないほど、軍勢がひしめき合いました。

しかしながら八幡山は要害として堀も備わり、勇猛な兵士らが全員心を合わせ、立て篭もっていますので、寄せ手軍は戦闘を行う度に負けを喫しているらしいと言われていましたが、桃井兄弟の人々は先日の処遇を考えて、今回の召集には応じず都に留まっていました。

しかし、高家が一族全員で迎撃軍を編成し、攻撃を行っているものの、不利な合戦ばかり行っていると聞けば、さすがに知らぬ顔も出来ません。過去における処遇の不満は私事であり、弓矢をとっての戦闘行動は公務であれば、何時までも知らぬ顔は出来ぬと、

密かに手勢だけを率いて都を出発し、味方の軍勢に連絡を取ることもなく、自軍だけで八幡山の麓に押し寄せ、終日攻撃を加えました。この合戦で官軍奥州側も多数の死傷者を出しました。しかし桃井直信、直常率いる兵士らも残り少なくなるまで討たれたり、傷を受けたので、

味方の陣営に加わりました。この頃京都の若者達が桃井塚と名付けていたのは、この桃井兄弟が合戦を行い、討ち死にをした場所です。これ以降、厚東駿河守、大平孫太郎、和田近江守らも自身戦闘に加わって負傷し、率いる兵士ら多数を討たれながら、

毎日終日にわたって攻撃を加えました。そんなさなか、執事高師直が諸所の軍兵を招き寄せ、「和泉の境、河内は敵国なので、それでなくても警戒が必要なのに、そこに手強い敵が蜂起でもすれば、和田や楠木も加わるに違いない。敵勢がまだ小勢の内に討伐しなければならない」と言って、

八幡には大軍を控えさせ、敵が進攻出来ないように四方を取り囲み、高師直は天王寺に向かわれました。顕家卿の率いる官軍らは、疲労も激しい上、小勢となっては命をなげうって戦っても、合戦を有利に進めることなどかなわず、諸兵士らも散りじりになってしまいました。

このような状況になっては、顕家卿も基盤を置くべき場所も無くなり、吉野に向かうことに決め、わずか二十余騎にて取り囲んでいる大敵を突破しようと、自らがむしゃらに戦いましたが、それも無駄になり、延元三年(暦応元年::1338年)五月二十二日、和泉の境、阿倍野で討ち死にしてしまったので、

従ってきた兵士らも全員が腹を切って、一人残らず自害しました。武蔵国の越生四郎左衛門尉が顕家卿を討ち取り、その首を丹後国の武士、武藤右京進政清が受け取り、それと共に顕家の兜、太刀から脇差まで、師直の実検に供しました。間違いのないことが確認出来たので、

特別な恩賞と共に賞状を与える旨の書類を両人に渡しました。哀しいことにも、顕家卿は武略や智謀を誇る家系ではないのですが、世間に二人と居ない勇猛な将士であり、鎮守府将軍を拝命して奥州の大軍を二度まで率いて、尊氏卿を九州の辺境まで追い落とすことによって、

後醍醐天皇の不安を一掃した名誉は、天下の諸官軍に類のない戦功でした。しかし天皇の運命が天に受け入れられなかったのか、それとも武将としての徳義が未熟であった為か、後醍醐天皇の信頼する重臣がはかなく戦場の露と消え去ってしまい、

吉野朝廷に仕えている臣下や、官軍の将士らも顕家の死を聞いて気落ちしました。      (終り)

←前へ   太平記総目次に戻る