20 太平記 巻第二十  (その一)


○黒丸城初度軍事付足羽度々軍事
新田左中将義貞朝臣、去二月の始に越前府中の合戦に打勝給し刻、国中の敵の城七十余箇所を暫時に責落して、勢ひ又強大になりぬ。此時山門の大衆、皆旧好を以て内々心を通せしかば、先彼比叡山に取上て、南方の官軍に力を合せ、京都を責られん事は無下に輒かるべかりしを、足利尾張守高経、猶越前の黒丸城に落残てをはしけるを、攻落さで上洛せん事は無念なるべしと、詮なき小事に目を懸て、大儀を次に成れけるこそうたてけれ。五月二日義貞朝臣、自ら六千余騎の勢を率して国府へ打出られ、波羅密・安居・河合・春近・江守五箇所へ、五千余騎の兵をさし向られ、足羽城を攻させらる。先一番に義貞朝臣のこじうと、一条の少将行実朝臣、五百余騎にて江守より押寄て、黒龍明神の前にて相戦ふ。行実の軍利あらずして、又本陣へ引返さる。二番に船田長門守政経、七百余騎にて安居の渡より押寄て、兵半河を渡る時、細河出羽守二百余騎にて河向に馳合せ、高岸の上に相支て、散々に射させける間、漲る浪にをぼれて馬人若干討れにければ、是も又差たる合戦も無して引返す。三番に細屋右馬助、千余騎にて河合の庄より押寄、北の端なる勝虎城を取巻て、即時に攻落さんと、屏につき堀につかりて攻ける処へ、鹿草兵庫助三百余騎にて後攻にまはり、大勢の中へ懸入て面も振らず攻戦ふ。細屋が勢、城中の敵と後攻の敵とに追立られて本陣へ引返す。角て早寄手足羽の合戦に、打負る事三箇度に及り。此三人の大将は、皆天下の人傑、武略の名将たりしかども、余に敵を侮て、■に大早りなりし故に、毎度の軍に負にけり。されば、後漢の光武、々に臨む毎に、「大敵を見ては欺き、小敵を見ては恐よ。」と云けるも、理なりと覚たり。

☆ 黒丸城の最初の合戦のことと、足羽の度々の合戦のこと

新田左中将義貞朝臣は去る暦応元年(延元三年::1338年)二月の初めに、越前府中の合戦に勝利を収めた時、国中の敵城七十四ヶ所も同時に攻め落とし、再びその勢いを盛り返しました。この時比叡山延暦寺の大衆ら、皆は以前のよしみをもって、内心義貞に心を寄せていたので、

彼がまず比叡山に行き、吉野朝廷の官軍と協同して、京都の足利軍を攻めることは非常にたやすいことでしたが、足利尾張守高経が越前の黒丸城に健在で、まだ攻め落とせて無かったので、これを落とさずに上洛するのは残念だと、つまらぬことにこだわり、

肝心なことを後回しにしたことは情け無い話です。これを落とそうと、延元三年五月二日、義貞朝臣はみずから六千余騎の軍勢を率いて国府に進攻し、波羅密、安居、河合、春近と江守の五カ所に五千余騎の兵を向かわせ、足羽城を攻撃させました。

まず一番手に義貞朝臣の小舅、一条の少将行実朝臣が五百余騎で江守より進攻し、黒龍明神の前で戦闘を始めたものの、行実軍は苦戦を強いられ再び本陣に引き返しました。二番手は船田長門守政経が、七百余騎にて安居の渡しより押し寄せてみたものの、

兵士が川の半ばあたりまで進んだ時、細川出羽守が二百余騎で対岸に駆けつけ、岸の上に展開し激しく射込んできたため、川の激しい流れに溺れて、人馬多数が討ち取られてしまい、合戦らしい合戦をするまでもなく引返しました。三番手は細屋右馬助が千余騎にて河合の庄より押し寄せ、

北の端にある勝虎城を取り巻き、一気に攻め落とそうと塀に取り付き、堀を泳ぎ渡りして攻撃をしていたところ、鹿草兵庫助が三百余騎にて背後に回り込み、大勢の敵に向かって駆け込むと激しく攻撃を始めました。細屋の兵士は城内の敵兵と、背後から攻めてくる敵兵に追い立てられ、

これもまた本陣に引き返しました。このように寄せ手軍は、足羽の合戦に早くも三連敗を喫してしまいました。この攻城に向かった三人の大将は、それぞれ世の中では傑出した人物であり、武略においても名将と言われる人々でしたが、あまりにも敵を軽く見て、必要以上に勢い込んだため、

合戦に毎回負けてしまったのでした。つまり後漢の初代皇帝、光武帝が合戦に臨んで、「強そうな敵や大敵には、虚勢を張って恐れずに向かい、弱そうな敵や小勢の敵に向かえば、侮ったり油断することは禁物である」と言ったのも、当然の道理と思えます。


○越後勢越々前事
去ば越後の国は、其堺上野に隣て、新田の一族充満たる上、元弘以後義貞朝臣勅恩の国として、拝任已に多年なりしかば、一国の地頭・後家人、其烹鮮に随事日久し。義貞已に北国を平げて京都へ攻上らんとし給ふ由を聞て、大井田弾正少弼・同式部大輔・中条入道・鳥山左京亮・風間信濃守・禰津掃部助・大田滝口を始として、其勢都合二万余騎にて、七月三日越後の府を立て越中国へ打越けるに、其国の守護普門蔵人俊清、国の堺に出合て是を支んとせしか共、俊清無勢なりければ、大半討れて松倉城へ引篭る。越後勢はこゝを打捨て、やがて加賀国へ打通る。富樫介是を聞て、五百余騎の勢を以て、阿多賀・篠原の辺に出合ふ。然共敵に対揚すべき程の勢ならねば、富樫が兵二百余騎討れて、那多城へ引篭る。越後の勢両国二箇度の合戦に打勝て、北国所々の敵恐るゝに足らずと思へり。此まゝにて軈て越前へ打越べかりしが、是より京までの道は、多年の兵乱に、国ついへ民疲れて、兵粮有べからず。加賀国に暫く逗留して行末の兵粮を用意すべしとて、今湊の宿に十余日まで逗留す。其間に軍勢、剣・白山以下所々の神社仏閣に打入て、仏物神物を犯し執り、民屋を追捕し、資財を奪取事法に過たり。嗚呼「霊神為怒則、災害満岐。」といへり。此軍勢の悪行を見に、其罪若一人に帰せば、大将義貞朝臣、此度の大功を立ん事如何あるべからんと、兆前に機を見る人は潜に是を怪めり。

☆ 越後の軍勢が越前に進出したこと

さて越後の国は国境が上野国に接しているので、新田の一族が多数居住している上に、元弘の乱(元弘元年-三年::1331-1333年)以後、義貞朝臣が朝廷より恩賞として下賜された国で、すでに長年にわたり官職を務めていましたので、越後国の地頭や御家人は長年彼の政治方針に従ってきました。

義貞がすでに北国を平定し、京都に攻め上ろうとしている話を聞き、大井田弾正少弼氏経、同じく式部大輔、中条入道、鳥山左京亮、風間信濃守、禰津掃部助、大田滝口をはじめに総勢二万余騎が、暦応元年(延元三年::1338年)七月三日、越後国の国府を出発して、

越中国に進攻してきたので、越中国の守護、普門蔵人俊清が国境に向かい、これを迎撃しようとしましたが、俊清軍は小勢のため大半が討ち取られ、松倉城に逃げ込みました。越後勢は松倉城を無視して、そのまま加賀国に進出しました。

加賀国の守護、富樫介はこれを聞くと、五百余騎の勢で阿多賀、篠原周辺にて迎撃をはかりました。しかし敵に比べてあまりにも小勢なので、富樫の兵士ら二百余騎が討ち取られ、那多城に引き篭もりました。越後の軍勢は越中国と加賀国の二度の合戦に勝ち進み、

北国の敵は恐れるに及ばないと思いました。この勢いのまま越前に進攻すべきですが、この地から京までの街道は、長年の兵乱に国は疲弊し、民もまた疲れ切って兵糧の調達も難しいと思えます。ここは加賀国にしばらく駐留し、今後の兵糧を調達しようと、今湊の宿に十余日逗留しました。

その期間に軍勢は、剱神社や白山神社以下、諸所の神社仏閣に押し入り、仏具や神具などを強奪したり、民家から資財を略奪すると言う無法の限りを尽くしました。思えば昔から、「霊神が怒りを発すると、災害は天下に満ちる」と、言われている。

今この軍勢の悪行について、もしその罪を一人に負わせるならば、それは大将軍である義貞朝臣になり、その義貞朝臣が本当にこの大事を達成出来るのだろうかと、先の見通しに長けた人は密かに疑っていました。


○宸筆勅書被下於義貞事
日を経て越後勢、已に越前の河合に著ければ、義貞の勢弥強大に成て、足羽城を拉がん事、隻手の中にありと、皆掌をさす思をなせり。げにも尾張守高経の義を守る心は奪がたしといへ共、纔なる平城に三百余騎にて楯篭り、敵三万余騎を四方に受て、篭鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求る如くなれば、何までの命をか此世の中に残すらんと、敵は是を欺て勇み、御方は是に弱て悲めり。既に来二十一日には、黒丸の城を攻らるべしとて、堀溝をうめん為に、うめ草三万余荷を、国中の人夫に持寄させ、持楯三千余帖をはぎ立て、様々の攻支度をせられける処に、芳野殿より勅使を立られて仰られけるは、「義興・顕信敗軍の労兵を率して、八幡山に楯篭る処に、洛中の逆徒数を尽して是を囲む。城中已に食乏して兵皆疲る。然といへ共、北国の上洛近にあるべしと聞て、士卒梅酸の渇を忍ぶ者也。進発若延引せしめば、官軍の没落疑有べからず。天下の安危只此一挙にあり。早其堺の合戦を閣て、京都の征戦を専にすべし。」と仰られて、御宸筆の勅書をぞ下されける。義貞朝臣勅書を拝見して、源平両家の武臣、代々大功ありと云共、直に宸筆の勅書を下されたる例未聞所也。是当家超涯の面目也。此時命を軽ぜずんば、正に何れの時をか期すべきとて、足羽の合戦を閣かれて、先京都の進発をぞいそがれける。

☆ 後醍醐天皇直筆の勅書が義貞に下されたこと

さて日も過ぎて行き、すでに越後勢が越前国の河合に到着したので、義貞率いる軍勢はますます強大になり、足羽城を陥落させることなど、いとも簡単なことだと皆が皆、安心しきっていました。確かに尾張守斯波高経の忠義を尽くそうと言う気持ちは非常に強いのですが、

堅固とも思えない平城に三百余騎で立て篭もり、敵の三万余騎を四方から受ければ、籠の鳥が大空の雲を憧れたり、渇水に苦しむ魚が水を恋しがるようなものであり、何時まで我が命をこの世に保てるのか分らない状況であれば、敵はますます勢い込み、味方はどんどん落ち込むばかりです。

すでに来る二十一日には、黒丸の城を攻撃すべきと、堀を埋めるための材料として、草やその他三万余個の荷物を国中の人夫に持ってこさせ、手に持つ楯、三千余枚をつないで立て並べ、色々と攻城準備を行っていたところ、吉野朝廷より派遣された勅使を以って、

「義興(新田義貞の二男)、顕信(北畠親房の二男)の二人が敗軍の疲弊した兵士を率いて、八幡山(男山)に立て篭もっていたが、洛中の逆徒はありったけの人数でこれを取り囲んでいる。城中ではすでに食料も乏しくなり、兵士らの疲労も極限に達している。

しかし、北国の軍勢が上洛するのも間近いと聞き、将士や兵卒も何とか耐え忍んでいる状況である。ここで上洛がもし遅れるようであれば、官軍の没落は目に見えている。天下の情勢を決するのは、今ここでの行動如何にかかっている。今は北国における合戦はさておき、

京都での逆賊征伐戦を第一に考えるべきである」と仰せられ、天皇直筆の勅書を下されたのでした。義貞朝臣はこの勅書を拝見して、源平両家の武臣は代々大功を収めてきたと言えども、このように直接直筆の勅書を下されたためしなど、いまだ聞いたことがない。

これはまさしく我が家にとって過分な名誉である。この時に当たって、身命をかけて行動しなければ、一体何時すれば良いと言うのだと、足羽の合戦は取り止めて、まず京都に向かっての進発を急ぎました。


○義貞牒山門同返牒事
児島備後守高徳、義貞朝臣に向て申けるは、「先年京都の合戦の時、官軍山門を落されて候し事、全く軍の雌雄に非ず、只北国の敵に道をふせがれて兵粮につまりし故也。向後も其時の如に候はゞ、縦ひ山上に御陣を召れ候共、又先年の様なる事決定たるべく候。然れば越前・加賀の宗との城々には、皆御勢を残し置れて兵粮を運送せさせ大将一両人に御勢を六七千騎も差副られ山門に御陣を召れ、京都を日々夜々攻られば、根を深し蔕を堅する謀成て、八幡の官軍に力を付け、九重の凶徒を亡すべき道たるべく候。但小勢にて山門へ御上候はゞ、衆徒案に相違して御方を背く者や候はんずらん。先山門へ牒状を送られて、衆徒の心を伺ひ御覧ぜられ候へかし。」と申ければ、義貞「誠に此義謀濃にして慮り遠し。さらば牒状を山門へ送るべし。」と宣ば、高徳兼て心に草案をやしたりけん。則筆を取て書之。其の詞云、
正四位上行左近衛中将兼播磨守源朝臣義貞牒延暦寺衙。請早得山門贔屓一諾、誅罰逆臣尊氏・直義以下党類、致仏法王法光栄状。式窃覿素昔渺聞玄風、桓武皇帝下詔専一基叡山者、以聖化期昌顕密両宗於億載。伝教大師上表九鎮王城者、以法威為護国家太平於無疆之耳也。然則聞山門衰微悼之、見朝庭傾廃悲之。不九五之聖位三千之衆徒為孰乎。去元弘之始、一天革命、四海帰風之後。有源家余裔尊氏直義。無忠貪大禄、不材登高官。自誇超涯之皇沢、不顧欠盈之天真。忽棄君臣之義、猥懐犲狼之心。聿害流于蒸民、禍溢于八極。公議不獲止、将行天誅之日、烟塵暗侵九重之月、翠花再掃四明之雲。此時貴寺忽輔危、庸臣謀退暴。雖然守死於善道者寡、求党於利門者多。因茲官軍戦破、而聖主忝逢■里之囚。氈城食竭而君王自臥戦場之刃。自爾以降逆徒弥恣意、婬刑濫行罰。凶戻残賊無不悪而極。自疑天維云絶、日月無所懸。地軸既摧、山川不得載。側耳奪目。苟不忍待時、呑炭含刃、径欲計近敵之処、忽聴鸞輿幸南山、衆星拱北極。於是蘇恩、発恩、徹憤啓憤。起自嶮溢之中、纔得郡県之衆。然則駆金牛開路、飛火鶏劫城。其戦未半決勝於一挙、退敵於四方訖。疇昔范蠡闘黄地、破呉三万之旅、周郎挑赤壁、虜魏十万之軍。把来何足比。如今挙国量誅朝敵。天慮以臣為爪牙之任。肆不遑卜否泰、振臂将発京師。貴山償若不捐故旧、拉大敵於隻手中必矣。伝聞当山之護持、亘古亘今、卓犖于乾坤。承和修大威徳之法、次君乃坐玉■。承平安四天王之像、将門遂傷鉄身。是以頼佳運於七社之冥応、復旧規於一山之懇祈。熟思量之凡悪在彼与義在我、孰与天下之治乱山上之安危。早聞一諾之群議、而遠合虎竹、速靡三軍之卒伍而為揺竜旗。牒送如件、勒之以状。延元二年七月日とぞ書たりける。

☆ 義貞が比叡山延暦寺に書状を送り、その返事が来たこと

ある時、児島備後守高徳が新田義貞朝臣に向かって、「何年か前、京都で合戦があった時、官軍が山門を負かしたことがありましたが、それは何も合戦の結果ではなく、ただ北国の敵に糧道を断たれたからです。今後もその時のように無策であれば、

たとえ山上に陣を構えられても、再び先年のような事態を招くこと間違いありません。そこで越前や加賀国の主だった城々には軍勢を残し置き、兵糧の運搬を受け持たせて、大将一人か二人が六、七千騎ほど率いて山門に陣を構え、京都を日々夜毎に攻撃を加えれば、

準備おさおさ怠ることもなく、また堅実な計画による謀略が功を奏して、八幡に篭っている官軍も再び勢いを盛り返し、洛内に盤踞する兇徒を滅ぼすことが可能になるでしょう。ただし、小勢で山門に上れば、衆徒らは予想に反して味方を裏切る者が出るかも知れません。

そこでまず山門に書状を送りつけ、衆徒の本心を聞き出されるのが良いでしょう」と申し上げれば、義貞は、「確かにこの計画は綿密であり、またよく先を読んでいる。早速、書状を山門に送るとしよう」と仰せられると、高徳は心中草案を用意していたのか、

すぐに筆を手に取って次のような書状を書きました。

正四位上行左近衛中将兼播磨守源朝臣義貞、延暦寺寺務所に書状を送ります。尊氏と直義以下一族を誅罰し、仏教の繁栄と朝廷の権威復活を図るため、山門が我らに加勢されることを快諾してくださるようお願いいたします。(以下訳は無理)このように書状を送ります。延元二年(1337年)七月日と書いてありました。


山門の大衆は先年春夏両度、山上へ臨幸成たりし時、粉骨の忠功を致すに依て、若干の所領を得たりしが、官軍北国に落行き、主上京都に還幸成しかば、大望一々に相違して、あはれいかなる不思議も有て、先帝の御代になれかしと祈念する処に、此牒状来したりければ、一山挙て悦び合る事限なし。同七月二十三日に、一所住の大衆、大講堂の庭に会合して返牒を送る。其詞云、
延暦寺牒新田左近衛中将家衙。来牒一紙被載朝敵御追罰事。右鎮四夷之擾乱、而致国家之太平者、武将所不失節。祈百王之宝祚、而銷天地之妖■者、吾山所不譲他。途殊帰同。豈其際措一線縷乎。夫尊氏・直義等暴悪、千古未聞其類。是匪啻仏法王法之怨敵。兼又為害国害民之残賊。孟軻有言、出於己者帰己矣。渠若今不亡、以何待之。雖然逆臣益振威、義士恒有困何乎。取類看之、夫差合越之威、遂為勾践所摧、項羽抜山之力、却為沛公見獲。是則所以呉無義而猛、漢有仁而正也。安危所拠無若天命矣。是以山門内重武候之忠烈期佳運、外忝聖主之尊崇、祈皇猷。上下庶幾貪聴之処、儻投青鳥見竭丹心。一山之欣悦底事如之。七社之霊鑒、此時露顕。倩把往昔量吉凶、当山如棄則挙世起而不立。治承之乱、高倉宮聿没外都之塵。吾寺専与則合衆禦而不得。元暦之初、源義仲忽攀中夏之月。是人情起神慮。捨彼取此之故也。満山之群議今如斯。凶徒之誅戮何有疑。時節已到。暫勿遅擬。仍牒送如件。以状。延元二年七月日とぞ書たりける。山門の返牒越前に到来しければ、義貞斜ならず悦で、頓て上洛せんとし給ひけるが、混らに北国を打捨なば、高経如何様跡より起て、北陸道をさし塞ぬと覚れば、二手に分て国をも支へ、又京をも責べしとして、義貞は三千余騎にて越前に留り、義助は二万余騎を率して七月二十九日越前の府を立て、翌日には敦賀の津に著にけり。

山門の大衆らは先年の春と夏の二度にわたり、後醍醐天皇が山上に臨幸された時、身を挺して忠孝に努めその功によって、それなりの所領を得たのですが、その後官軍が北国に落ちて行き、また後醍醐天皇も京都に還幸されたりで、期待していた望みなどすべて思うようにならず、

何とか事態が急変して、先帝後醍醐の御代になっていただきたいと祈る気持ちでいたところ、このような書状が舞い込み、一山挙げて大喜びしました。同じく延元二年(1337年)七月二十三日、山上に居住する大衆らは大講堂の庭に集合し、以下のような返事を送ることにしました。

延暦寺は新田左近衛中将家の執事に書状を送ります。朝敵の追討の件が記載された書状一通受け取りました。(以下訳は無理)比叡山延暦寺の衆議はこのようになり、兇徒の誅伐完遂に対し、何ら疑う余地はありません。すでに時期は到来しており、しばしの猶予も許されません。

以上の決定を知らせる書状を送ります。延元二年七月日と書いてありました。山門からの返事が越前にいる義貞の下にもたらされると、義貞は非常に喜び、即刻上洛しようとしましたが、不用意に北国を捨て置くと、尾張守高経が北陸道の閉鎖を狙ってくるのではと考えられるので、

軍勢を二手に分け越前の抑えと、もう一手は京都の攻撃に充てることにしました。そこで義貞は三千余騎で越前に居残り、脇屋義助は二万余騎を率いて、七月二十九日、越前の府を進発し、翌日には敦賀の港に着きました。


○八幡炎上事
将軍此事を聞召れて、「八幡の城未責落さで、兵攻戦に疲ぬる処に、脇屋右衛門佐義助山門と成し合て、北国より上洛すなるこそゆゝ敷珍事なりけれ。期に臨で引かば、南方の敵勝に乗べし。未事の急にならぬ先に、急八幡の合戦を閣て、京都へ帰て北国の敵を相待べし。」と、高武蔵守の方へぞ下知し給ひける。師直此由を聞て、此城を責かゝりながら、落さで引返しなば、南方の敵に利を得られつべし。さて又京都を閣ば、北国の敵に隙を伺れつべし。彼此如何せんと、進退谷て覚へければ、或夜の雨風の紛に、逸物の忍を八幡山へ入れて、神殿に火をぞ懸たりける。此八幡大菩薩と申奉るは、忝も王城鎮護の宗廟にて、殊更源家崇敬の霊神にて御坐せば、寄手よも社壇を焼く程の悪行はあらじと、官軍油断しけるにや、城中周章騒動して烟の下に迷倒す、是を見て四方の寄手十万余騎、谷々より攻上て、既に一二の木戸口までぞ攻入ける。此城三方は嶮岨にして登がたければ、防に其便あり。西へなだれたる尾崎は平地につゞきたれば、僅に堀切たる乾堀一重を憑で、春日少将顕信朝臣の手の者共、五百余騎にて支たりけるが、敵の火を見て攻上りける勢に心を迷はして、皆引色にぞ成にける。爰に城中の官軍、多田入道が手の者に、高木十郎、松山九郎とて、名を知られたる兵二人あり。高木は其心剛にして力足らず、松山は力世に勝て心臆病也。二人共に同関を堅めて有けるが、一の関を敵にせめ破れて、二の関になを支てぞ居たりける。敵已に逆木を引破て、関を切て落さんとしけれども、例の松山が癖なれば、手足振惶て戦ん共せざりけり。高木十郎是を見て眼を嗔かし、腰の刀に手を懸て云けるは、「敵四方を囲て一人も余さじと攻戦ふ合戦也。こゝを破られては宗との大将達乃至我々に至までも、落て残る者やあるべき。されば爰を先途と戦べき処なるを、御辺以の外に臆して見へ給こそ浅猿けれ。平生百人二百人が力ありと自称せられしは、何の為の力ぞや。所詮御辺爰にて手を摧きたる合戦をし給はずば、我敵の手に懸んよりは、御辺と差違へて死べし。」と忿て、誠に思切たる体にぞ見へたりける。松山其色を見て、覿面の勝負敵よりも猶怖くや思けん、「暫しづまり給へ、公私の大事此時なれば、我命惜むべきにあらず。いで一戦して敵にみせん。」と云侭に、はなゝく/\走り立て、傍にありける大石の、五六人して持あぐる程なるを軽々と提て、敵の群て立たる其中へ、十四五程大山の崩るゝが如に投たりける。寄手数万の兵共、此大石に打れて将碁倒をするが如、一同に谷底へころび落ければ、己が太刀長刀につき貫て、命を堕し疵を蒙る者幾千万と云数を知らず。今夜既に攻落されぬと見へつる八幡の城、思の外にこらへてこそ、松山が力は只高木が身にありけりと、咲はぬ人もなかりけり。去程に敦賀まで著たりける越前の勢共、遥に八幡山の炎上を聞て、いか様せめ落されたりと心得て、実否を聞定ん為に数日逗留して、徒に日数を送る。八幡の官軍は、兵粮を社頭に積で悉焼失しかば、北国の勢を待までのこらへ場もなかりければ、六月二十七日の夜半に、潜に八幡の御山を退落て、又河内国へぞ帰りける。此時若八幡の城今四五日もこらへ、北国の勢逗留もなく上りたらましかば、京都は只一戦の内に攻落すべかりしを、聖運時未至らざりけるにや、両陣の相図相違して、敦賀と八幡との官軍共、互に引て帰りける薄運の程こそあらはれたれ。

☆ 八幡城が炎上したこと

さて尊氏将軍は越前での義貞の動きを耳にすると、「八幡の城が未だ落とせず、兵士らは攻城戦に疲れきっているのに、脇屋右衛門佐義助が山門と同盟を結んだ上、北国より上洛してくるとは、とんでもない事態になってきた。事態の如何によって、もし退くようなことがあれば、

吉野の敵軍は勝ちに乗じてくるだろう。事態が急迫せぬ前に、急ぎ八幡の合戦は中断して京都に戻り、北国からの敵軍に備えることだ」と、高武蔵守師直に命じました。師直はこの転進命令を受けたものの、この城を攻撃しておきながら、落とすことも出来ずに引き返したりすれば、

吉野の官軍が優位に立つではないか。とは言え、京都の防衛をしなければ、北国から攻め上ってくる敵に隙を見せることになる。あれやこれや考えれば考えるほど進退窮まり、風雨の激しいある夜、嵐に紛れて、優れた忍びの者を八幡山に忍び込ませ、神殿に火をかけさせました。

この八幡大菩薩は、有り難くも京都と朝廷を守護する神社であり、また源家にとっては特別なる信仰を寄せている霊験豊かな神ですから、寄せ手がまさか社殿に火をかけるなどの悪行を働くことは有り得ないと、官軍は油断をしていました。

そのためこの事態に城中の兵士ら慌てふためき、煙にまかれ行き場を失い倒れこむ始末です。この状況を見て、十万騎の寄せ手が四方の谷々より攻め上り、早くも一、二の木戸口まで攻め込みました。この八幡城は三方が険しい崖で、登ることが難しく、防御に適しているのですが、

西方の傾斜地から麓はそのまま平地につながり、わずかに堀としての空堀一つを頼りに、春日少将顕信朝臣の家来ら五百余騎が防御に当たっていました。しかし、敵が火を見て攻め上るその圧倒的な勢いに負け、皆は戦闘意欲をなくしました。

ところがその時、城中の官軍で多田入道の家来の中に、高木十郎と松山九郎と言う名の知られた兵士が二人いました。高木は気性だけ勇猛なのですが、腕力的に劣り、反対に松山は腕力では人に負けないのですが、精神的に臆病なところがあります。

二人共ここに設置した関を守っていましたが、一の関は敵に突破されたものの、二の関をまだ守り通していました。敵はすでに逆茂木を取っ払い、この関も突破を図ろうとしましたが、守っている松山はいつもの癖で手足に震えがきて、戦おうともしません。

高木十郎はこの様子を見て、目に怒りを込め腰の刀に手をかけて、「敵は四方を取り囲んで、一人残さず討ち取れと襲ってきた合戦である。ここを突破されては、主だった大将以下我々まで生き残ることなど出来ない。だからここを死処と定めて戦うべきなのに、

貴殿はなんとも気後れしてしているようで、情け無い限りである。普段百人、二百人力だと自慢しているが、その力は何のためにあるのだ。どうせ貴殿はここでまともな戦闘などしないに決まっているので、私は敵の手にかかるより、貴殿と刺し違えて死のうではないか」と怒りを込め、

覚悟を決めたように見えました。松山はその様子を目の当たりにして、敵との勝負より恐ろしく思ったのか、「ちょっと待ってくれ、静まってくれ。今この公私を越えた非常時であれば、私は命を惜しむものではない。ではここで一戦して、敵に見せてやろう」と言うや、

走り出ると傍らにあった大石、それも五、六人でも持ち上げられそうにないのを軽々と持って、群がる敵の中へ十四、五程も大山が崩れたかのように投入れました。寄せ手の数万の兵士らは、この大石にあたって将棋倒しになり、一同そのまま谷底に転がり落ちたので、

自分の持っていた太刀や長刀につき抜かれて命を落とす者、また傷を負う者、その数幾千万とも知れません。そのためか今夜にも陥落するのではと思えた八幡の城は、思いがけなく持ちこたえることが出来、松山の腕力は高木の身にあるのと変わらないと、笑わない人は居ませんでした。

その頃、敦賀まで進攻してきた越前の軍勢は、遠く離れていても八幡山の炎上を聞きつけ、これはきっと攻め落とされたのに違いないと考え、事実確認のため数日間逗留し無駄な時間を送りました。八幡の官軍は兵糧を社殿に積んで保管していたため、全て焼失してしまいました。

そのため北国の軍勢を待つことが出来ず、六月二十七日の夜半、密かに八幡山を脱出し再び河内国に帰りました。もしこの時、八幡の城がたとえ四、五日でも支え、また北国の軍勢が逗留することなく上洛を急げば、京都はただの一戦だけも支えることが出来ず、

攻め落とされたのでしょうが、この時後醍醐天皇は幸運を引き寄せることが出来なかったのか、官軍の両陣営は意図がかみ合わず、敦賀も八幡もお互い退却したことは、めぐり来たった幸運を自ら捨て去った結果となったのです。


○義貞重黒丸合戦事付平泉寺調伏法事
義貞京都の進発を急れつる事は、八幡の官軍に力をつけ、洛中の隙を伺ん為也。き。而に今其相図相違しぬる上は、心閑に越前の敵を悉く対治して、重て南方に牒合てこそ、京都の合戦をば致さめとて、義貞も義助も河合の庄へ打越て、先足羽の城を責らるべき企也。尾張守高経此事を聞給て、「御方僅に三百騎に足ざる勢を以て、義貞が三万余騎の兵に囲まれなば、千に一つも勝事を得べからず、然といへ共、敵はや諸方の道を差塞ぬと聞ゆれば、落とも何くまでか落延べき。只偏に打死と志て、城を堅くするより外の道やあるべき。」とて、深田に水を懸入て、馬の足も立ぬ様にこしらへ、路を堀切て穽をかまへ、橋をはづし溝を深して、其内に七の城を拵へ、敵せめば互に力を合て後へまはりあふ様にぞ構られたりける。此足羽の城と申は、藤島の庄に相双で、城郭半は彼庄をこめたり。依之平泉寺の衆徒の中より申けるは、「藤島庄は、当寺多年山門と相論する下地にて候。若当庄を平泉寺に付らるべく候はゞ、若輩をば城々にこめをきて合戦を致させ、宿老は惣持の扉を閉て、御祈祷を致すべきにて候。」とぞ云ける。尾張守大に悦で、今度合戦雌雄、■借衆徒合力、憑霊神之擁護之上者、先以藤島庄所付平泉寺也。若得勝軍之利者、重可申行恩賞、仍執達如件。建武四年七月二十七日尾張守平泉寺衆徒御中と、厳密の御教書をぞ成れける。衆徒是に勇て、若輩五百余人は藤島へ下て城に楯篭り、宿老五十人は、炉壇の烟にふすぼり返て、怨敵調伏の法をぞ行はれける。

☆ 義貞が再び黒丸と合戦したことと、平泉寺が調伏の法を行ったこと

義貞が京都へ進発を急ぐのは、八幡に篭っている官軍を勇気付けると同時に、洛中の防衛力の隙を狙って攻め込むためでした。ところが今、互いに思惑がずれてしまったからには、ここは腰を落ち着けて越前の敵を全て討伐し、改めて吉野の朝廷軍と相談してから、

京都の合戦を再開しようと考えました。そこで義貞も義助も河合の庄に侵攻して、まず手始めに足羽の城を攻撃にかかる計画でした。斯波尾張守高経はこの企てを聞き、「味方の僅か三百騎にも満たない軍勢で、義貞の三万余騎の軍勢に取り囲まれたりしたら、

千に一つも勝つことなど考えられない。とは言っても、敵軍はすでに諸方の街道を閉鎖してしまったと言われているので、落ちようとしても一体どこまで落ち延びることが出来ると言うのか。もはやこうなれば討ち死にを覚悟して、城の防御に全力を尽くす以外、方法はないだろう」と言って、

深田に水を引き込み、馬の脚も立たぬ位に水を湛え、道路には堀を穿って落とし穴など造り、橋もはずして溝を深く掘りなおし、その区域内に七つの砦を造り、敵が攻めてくれば互いに力を合わせて、敵の後方に回り込むことが出来るように構えました。

この足羽の城と言うのは、藤島の庄の隣にあり、その城郭の半分ほどは藤島の庄に入り込んでいます。このことから平泉寺の衆徒の一部より、「藤島庄は長年山門延暦寺と我が平泉寺が、論争を続けている土地です。もし藤島の庄を平泉寺のものと認めてもらえるなら、

若者を城に派遣し合戦の手伝いをさせ、年老いた高僧らは無念無想の境地に入り、戦勝祈祷を致しましょう」と、申し入れてきました。尾張守はこの申し入れを大変喜び、「この度の合戦について、衆徒等の協力を頂き、また霊験あらたかなる神の擁護を頂ければ、

まず藤島庄は平泉寺のものとする。その上もし合戦に勝利を得たならば、重ねて恩賞を行うものとする。この件通知する。建武四年(延元二年::1337年)七月二十七日尾張守 平泉寺衆徒御中」と、言葉を尽くして書き上げた伝達文書を渡しました。

受け取った衆徒等はこの条件に奮い立ち、若者五百余人が藤島の城に立て篭もり、高僧ら五十人は護摩壇の煙をもうもうと上げ、怨敵調伏の祈祷を行いました。


○義貞夢想事付諸葛孔明事
其七日に当りける夜、義貞の朝臣不思議の夢をぞ見給ける。所は今の足羽辺と覚たる河の辺にて、義貞と高経と相対して陣を張る。未戦ずして数日を経る処に、義貞俄にたかさ三十丈計なる大蛇に成て、地上に臥給へり。高経是を見て、兵をひき楯を捨て逃る事数十里にして止と見給て、夢は則覚にけり。義貞夙に起て、此夢を語り給に、「竜は是雲雨の気に乗て、天地を動す物也。高経雷霆の響に驚て、葉公が心を失しが如くにて、去る事候べし、目出き御夢なり。」とぞ合せける。爰に斉藤七郎入道々献、垣を阻て聞けるが、眉をひそめて潜に云けるは、「是全く目出き御夢にあらず。則天の凶を告るにて有べし。其故は昔異朝に呉の孫権・蜀の劉備・魏の曹操と云し人三人、支那四百州を三に分て是を保つ。其志皆二を亡して、一にあはせんと思へり。然共曹操は才智世に勝れたりしかば、謀を帷帳の中に運して、敵を方域の外に防ぐ。孫権は弛張時有て士を労らひ衆を撫でしかば、国を賊し政を掠る者競ひ集て、邪に帝都を侵し奪へり。劉備は王氏を出て遠からざりしかば、其心仁義に近して、利慾を忘るゝ故に、忠臣孝子四方より来て、文教をはかり武徳を行ふ。此三人智仁勇の三徳を以て天下を分て持ちしかば、呉魏蜀の三都相並で、鼎の如く峙てり。其比諸葛孔明と云賢才の人、世を避け身を捨てゝ、蜀の南陽山に在けるが、寂を釣り閑を耕て歌ふ歌をきけば、歩出斉東門。往到蕩陰里。里中有三墳。塁々皆相似。借問誰家塚。田疆古冶子。気能排南山。智方絶地理。一朝見讒言。二桃殺三士。誰能為此謀。国将斉晏子。とぞうたひける。蜀の智臣是を聞て、彼が賢なる所を知ければ、是を召て政を任せ、官を高して世を治め給ふべき由をぞ奏し申ける。劉備則幣を重し、礼を厚して召れけれ共、孔明敢て勅に応ぜず。只澗飲岩栖して、生涯を断送せん事を楽しむ。劉備三度び彼の草庵の中へをはして宣ひけるは、「朕不肖の身を以て、天下の太平を求む。全く身を安じ、欲を恣にせんとには非ず。只道の塗炭にをち、民の溝壑に沈ぬる事をすくはん為のみ也。公若良佐の才を出して、朕が中心を輔られば、残に勝、殺を棄ん事、何ぞ必しも百年を待ん。夫石を枕にし泉に漱で、幽栖を楽むは一身の為也。国を治め民を利して大化を致さんは、万人の為也。」と、誠を尽し理を究て仰られければ、孔明辞するに詞なくして、遂に蜀の丞相と成にけり。劉備是を貴寵して、「朕有孔明如魚有水。」と喜給ふ。遂に公侯の位を与て、其名を武侯と号せられしかば、天下の人是を臥龍の勢ひありと懼あへり。其徳已に天下を朝せしむべしと見へければ、魏の曹操是を愁て、司馬仲達と云将軍に七十万騎の兵を副て蜀の劉備を責んとす。

☆ 義貞が夢に見たことと、諸葛孔明のこと

ところで七月七日の夜、義貞朝臣は不思議な夢を見ました。場所としては、今居る所の足羽らしい河のそばで、義貞と高経が向かい合って陣を張っていました。まだ戦いも起こらず数日を経た頃、義貞が突然高さ三十丈もあろうかと思われる大蛇になって、地上に伏せていました。

高経はこの大蛇を見て、兵を退き楯を捨てて逃げること、数十里に至って停止すると、夢はすぐに覚めました。義貞は朝早く起きるとこの夢について、「竜は雲や雨の気配を感じて天地を支配するものである。高経は雷の響き渡る音に驚いて、

葉公(竜が大好きな人で、ただし本物ではなく模様などが好きなだけでした。ところが本物の竜を目にした時、怖くて逃げ出しました)が気の狂ったように逃げ出したように、逃げ去ったのだ。めでたい夢に違いない」と語ると共に、このように占いました。この時、斉藤七郎入道道献が垣根越しにこの話を聞いていましたが、

眉をひそめて小さな声で、「この夢は全くめでたい夢ではありません。すなわち天の神が災禍の恐れを告げている夢である。その理由は、昔、中国で呉国の孫権、蜀国の劉備、魏国の曹操と言う三人が、支那四百州を三分割して支配していました。

しかし皆心中では二つを滅ぼして、一つの国にしようと思っていました。しかし曹操は知恵智識が世間の人より優れているので、その計画は帷幕の中で検討し、敵を自国の外で防ぎました。孫権は緊張と緩和の中で、兵士をいたわり、大衆を慰撫することに努めたので、

国に反逆を企て、政権を奪おうとする者が競うように集まり、無法に帝都を侵略し奪おうとしました。また劉備は王氏(前漢、景帝の子、中山靖王)からそう遠くない末裔なので、その心情は仁義に溢れ、私利私欲を追い求めようとしないので、忠臣や孝子と言える人物が四方より集まり、

勉学にいそしみ、武道の研鑽を行っていました。このように三人が智仁勇の三っつの徳を施しながら、天下を分割支配していましたから、呉魏蜀三国の都はそれぞれ繁栄して、鼎のように安定し磐石なものでした。その当時、諸葛孔明と言う賢人が世を避け、世間から身を隠して、

蜀国の南陽山に隠棲していたのですが、心寂しい時は釣りに興じ、また暇な時は田畑を耕したりし、そんな時彼が歌う歌を聞いてみれば、『歩いて斉の東門を出でて、蕩陰(地名)の里に行き着く。里には三基の墳墓あり、連なった様子は皆相似ている。

これは誰の家の墓なのかと問えば、田疆、古冶子(斉国の勇士)の墓だと言う。彼らの力は南山(崑崙山脈の一部)を抜き、文は大地を揺り動かすほどである。しかし、いったんの讒言に会い、二つの桃で三人は殺された。誰がこの謀略をしたのか、それは斉国の宰相晏子である』と、歌っていました。

蜀国の賢臣がこの話を聞き、彼が優秀な人物であることを知っていましたので、彼を呼び寄せて政治を任せ、高い官位を与え治世に当てさせることを、皇帝に申し上げました。劉備は早速過分な報酬を提示し、礼を尽くして招聘しようとしましたが、

孔明はその申し入れに全く応じようとしませんでした。ただ彼は川の水を飲み、岩を住処にして生涯を送ることに決め、それを楽しんでいるようです。劉備は彼の草庵に三度目の訪問をし、『私は至らぬ身でありながら、天下の安定した治世を求めています。

自分の身の安全をはかり、欲望を追い求めようとしているのではありません。ただ自分は、守られるべき道義が廃れることにより、民が艱難辛苦を受けることから救いたいと思うだけです。もし貴殿が賢才振りを発揮して、腹心の参謀として私を補佐して頂ければ、

無駄に傷付け合うことや、殺戮の繰り返しなどを止めるのに、百年の歳月を待つ必要などありません。つまり、石を枕にし、泉で口をすすいで、隠遁生活を楽しむのは貴方一人にとっては満足でしょうが、国を良く治めて民衆の生活を豊かにすることは、

結果として万人を満足させることとなります』と、誠意あふれる言葉に道理を極めて話されましたから、孔明も辞退する言葉を失い、ついに蜀国の丞相になったのです。劉備は諸葛孔明を丁重に扱うと共に可愛がり、『私に孔明がいることは、魚に水のあるが如きである』と、喜ばれたのでした。

そしてとうとう諸侯としての位を与え、その名も武候と称するようになったので、天下の人々は彼を臥龍(優れた能力を秘めている龍)の勢いを持っていると恐れたのです。すでにその優れた人徳が天下に響き渡っているように見えたので、魏国の曹操はこの事態を憂慮し、

司馬仲達と言う将軍に七十万騎の兵士を与えて、蜀国の劉備を襲撃することを命じました」


劉備は是を聞て孔明に三十万騎の勢を付て、魏と蜀との堺、五丈原と云処へ差向らる。魏蜀の兵河を阻て相支る事五十余日、仲達曾て戦んとせず。依之魏の兵、漸く馬疲れ食尽て日々に竃を減ぜり。依之魏の兵皆戦んと乞に、仲達不可也と云て是を許さず。或時仲達蜀の芻蕘共をとりこにして、孔明が陣中の成敗をたづね問に、芻蕘共答て云けるは、「蜀の将軍孔明士卒を撫で、礼譲を厚くし給ふ事疎ならず。一豆の食を得ても、衆と共に分て食し、一樽の酒を得ても、流れに濺で士と均く飲す。士卒未炊ざれば大将食せず。官軍雨露にぬるる時は大将油幕を不張。楽は諸侯の後に楽み、愁は万人の先に愁ふ。加之夜は終夜睡を忘て、自城を廻て懈れるを戒め、昼は終日に面を和て交を睦ましくす。未須臾の間も心を恣にし、身を安ずる事を見ず。依之其兵三十万騎、心を一にして死を軽くせり。鼓を打て進むべき時はすゝみ、鐘を敲て退くべき時は退ん事、一歩も大将の命に違事あるべからずと見へたり。其外の事は、我等が知べき処に非。」とぞ語りける。仲達是を聞て、「御方の兵は七十万騎其心一人も不同、孔明が兵三十万騎、其志皆同じといへり。されば戦を致して蜀に勝事は努あるべからず。孔明が病る弊に乗て戦はゞ、必勝事を得つべし。其故は孔明此炎暑に向て昼夜心身を労せしむるに、温気骨に入て、病にふさずと云事有べからず。」と云て、士卒の嘲をもかへりみず、弥陣を遠く取て、徒に数月をぞ送りける。士卒ども是を聞て、「如何なる良医と云共あはひ四十里を阻て、暗に敵の脈を取知る事やあるべき。只孔明が臥龍の勢をきゝをぢしてかゝる狂言をば云人也。」と、掌を拍て笑あへり。或夜両陣のあはひに、客星落て、其光火よりも赤し。仲達是を見て、「七日が中に天下の人傑を失べき星也。孔明必死すべきに当れり。魏必蜀を合せて取ん事余日あるべからず。」と悦べり。果して其朝より孔明病に臥事七日にして、油幕の裏に死にけり。蜀の副将軍等、魏の兵忽に利を得て前まん事を恐て、孔明が死を隠し、大将の命と相触て、旗をすゝめ兵をなびけて魏の陣へ懸入る。仲達は元来戦を以て、蜀に勝事を得じと思ければ一戦にも及ばず、馬に鞭て走事五十里、嶮岨にして留る。今に世俗の諺に、「死せる孔明生る仲達を走しむ。」と云事は、是を欺る詞也。戦散じて後蜀の兵孔明が死せる事を聞て、皆仲達にぞ降ける。其より蜀先亡び呉後に亡て、魏の曹操遂に天下を保ちけり。此故事を以て、今の御夢を料簡するに、事の様、魏呉蜀三国の争に似たり。就中竜は陽気に向ては威を震ひ、陰の時に至ては蟄居を閉づ。時今陰の初め也。而も龍の姿にて水辺に臥たりと見給へるも、孔明を臥龍と云しに不異。されば面々は皆、目出き御夢なりと合られつれ共、道猷は強に甘心せず。」と眉をひそめて云ければ、諸人げにもと思へる気色なれども、心にいみ言ばに憚て、凶とする人なかりけり。

斉藤七郎入道道献の話は続きます。「蜀国の劉備はこの情報を得ると、孔明に三十万騎の軍勢を与え、魏国と蜀国の国境である、五丈原と言う所に向かわせました。魏と蜀の兵士らは川を挟んで五十余日間にらみ合いを続け、仲達はこれまで戦おうとはしませんでした。

この長期の対峙に魏国の兵士らは、だんだんと馬の疲労も重なり兵糧も乏しくなって、日ごとに調理する竈の数も減ってきました。このため魏の兵士らは戦闘の開始を願い出ましたが、仲達は許可をしませんでした。ある時、仲達は蜀国のきこりや草刈をする者などを捕らえて、

孔明の陣営の状況を尋ねてみましたが、彼らは異口同音に、『蜀国の将軍孔明は、将士兵卒らを丁重に扱い、いつも謙虚な態度で彼らと接しています。一粒の豆を得たとしても、皆と分け合って食べ、一樽の酒が手に入っても、酒を川にそそぎ流して、皆で分け合って飲みます。

兵士らの炊事が終わらぬ内は、大将も食事は致しません。率いる官軍が雨露に打たれ濡れるような時には、大将孔明は雨よけに油を塗った幕を張ることもありません。音曲など楽しむ場合でも、諸侯が楽しんだ後に楽しみ、また辛く悲しいことがあれば誰よりも先に苦しみます。

そればかりではなく、夜は終夜眠りを忘れたかのように、自ら城内を点検して回り、警戒に緩みが見えれば注意し、昼間は終日和やかな顔つきで皆と接しています。いまだかつて、瞬時も気ままに我が身の安泰を図ろうとしたこともありません。

このような大将ですから、率いる三十万騎の兵士らは、意思を厳しく統一し、命を捨てて戦う覚悟が出来ています。戦闘中の合図も、鼓を打って進むべき時は突撃し、鐘を叩いて退くべき時は、戦闘を切り上げて退き、大将の命令に従うこと寸分の間違いもありません。

その他のことは我らが関知するものではありません』と、語りました。話を聞いた仲達は、『味方の兵士は七十万騎であるが、意思の統一が不十分であり、反対に孔明が率いる三十万騎の兵士は、全員意思の統一が出来ていると言う。この状態では蜀国と軍をしても、勝つことなど到底無理であろう。

しかし孔明が病に倒れた時、その隙を狙って合戦すれば、必勝は間違いないだろう。それは孔明がこの炎暑の中、昼夜分かたず心身を酷使している状況であれば、暑さにやられて病に倒れないことなどあり得ないからだ』と言って、将士ら嘲笑を顧みず、

ますます陣営を後ろに下げて、何するでもなく数ヶ月を過ごしました。士卒達はこの話を聞くと、『どんな名医であっても、四十里の距離を隔てて、ひそかに敵の脈を知ることなど出来るわけがない。これはただ、孔明の臥龍のような勢威に怖気づき、

このような冗談を言っているのだろう』と、手をたたいて笑い合ったのです。ある夜、両陣営のあいだに隕石が落下し、真っ赤な光を発しました。仲達はこれを見て、『七日の内に天下の逸材が失われることを暗示する星である。その暗示とは孔明が必ず死ぬと言うことだろう。

魏国が蜀国を必ず滅ぼして領土するのも、それほどの日数は必要ないだろう』と、喜んだのです。案の定、その朝から孔明は病に伏せ、七日目に油の塗布した陣幕の中で、その命を終わったのでした。魏国の兵士らがこれを知れば喜び勇んで、即刻進撃を加えてくることを恐れ、

蜀国の副将軍らは孔明の死亡を隠し、大将孔明の命令であることを前面に出して、旗を前線に進め兵士らを引き連れて、魏国の陣営に駈け入りました。対して仲達は、もともと軍で蜀に勝つことは無理だと思っていたので、一戦さえすることも無く、馬に鞭を当てて五十里を走り、

険阻な場所に至って留まりました。今に伝えられる諺、『死せる孔明、生ける仲達を走らす』とは、この事を馬鹿にした言葉です。やがて軍が終わってから、蜀国の兵士らは孔明が亡くなったことを聞くと、皆、仲達の陣営に降伏しました。その結果、蜀国が最初に滅亡し、

その後、呉国が滅び、魏国の曹操がついに天下を治めることになりました。このような故事に基づいて、今の夢を判断すると、状況は魏呉蜀の三国の争いに似ている。中でも特に竜は活動期になれば、その勢いをますます増しますが、停滞期になればじっとして動こうとはしません。

今現在、我々は陰の時期に入りかけている。しかも竜の姿になって水辺に伏せていると言うのも、孔明を臥龍と言うことと同じである。と言うことで皆さんは目出度い夢だと言い合っておられるが、私、道献はそう簡単に同意することは出来ません」と眉をひそめて話され、

聞いていた人達もなるほどとは思いましたが、不吉な意味も含んでいることを気にして、この夢を凶と考える人はいませんでした。


○義貞馬属強事
潤七月二日、足羽の合戦と触れられたりければ、国中の官軍義貞の陣河合庄へ馳集りけり。其勢宛も雲霞の如し。大将新田左中将義貞朝臣は、赤地錦の直垂に脇立ばかりして、遠侍の座上に坐し給へば、脇屋右衛門佐は、紺地の錦の直垂に、小具足計にて、左の一の座に著給ふ。此外山名・大館・里見・鳥山・一井・細屋・中条・大井田・桃井以下の一族三十余人は、思々の鎧甲に色々の太刀・刀、奇麗を尽して東西二行に座を烈す。外様の人々には、宇都宮美濃将監を始として、禰津・風間・敷地・上木・山岸・瓜生・河島・大田・金子・伊自良・江戸・紀清両党以下著到の軍勢等三万余人、旗竿引そばめ/\、膝を屈し手をつかねて、堂上庭前充満たれば、由良・舟田に大幕をかゝげさせて、大将遥に目礼して一勢々々座敷を起つ。巍々たるよそをひ、堂々たる礼、誠に尊氏卿の天下を奪んずる人は、必義貞朝臣なるべしと、思はぬ者はなかりけり。其日の軍奉行上木平九郎、人夫六千余人に、幕・掻楯・埋草・屏柱・櫓の具足共を持はこばせて参りければ、大将中門にて鎧の上帯しめさせ、水練栗毛とて五尺三寸有ける大馬に、手綱打懸て、門前にて乗んとし給けるに、此馬俄に属強をして、騰跳狂ひけるに、左右に付たる舎人二人蹈れて、半死半生に成にけり。是をこそ不思議と見る処に、旗さしすゝんで足羽河を渡すに、乗たる馬俄に河伏をして、旗さし水に漬にけり。加様の怪共、未然に凶を示しけれ共、已に打臨める戦場を、引返すべきにあらずと思て、人なみ/\に向ひける勢共、心中にあやふまぬはなかりけり。

☆ 義貞の馬は人や荷物を乗せるのを嫌がったこと

延元三年(建武五年::1338年)閏七月二日、足羽で合戦を行うと各陣営に触れが回り、国中の官軍は義貞が陣を構えている河合庄に駆け集まってきました。その軍勢たるや、まるで雲霞の大群のようです。大将の新田左中将義貞朝臣は、赤地錦の直垂に脇楯(わいだて::鎧に付属する防具)だけを付け、

警固の武士の詰め所で上座に座っていました。また脇屋右衛門佐義助は紺地錦の直垂に小具足(鎧に付属する篭手や脛当てなど)だけを着けて、左側の上座に着かれました。そのほか山名、大館、里見、鳥山、一井、細屋、中条、大井田、桃井以下一族の三十余人は思い思いの鎧や兜を着け、

色々な太刀や刀で身を飾って、東西二列に連なって座りました。外様の人々としては、宇都宮美濃将監をはじめに、禰津、風間、敷地、上木、山岸、瓜生、河島、大田、金子、伊自良、江戸、紀清両党以下駆け集まってきた軍勢、三万余人が旗竿を手元に引き寄せ、

膝を折って腕組みなどし、床上から庭先まで人々で溢れています。やがて由良、舟田に大幕を引き上げさせ、大将義貞が遠くから目礼をすれば、一同一斉に座から立ち上がりました。徳の高さを感じさせる装束や、堂々とした礼に、なるほど尊氏卿の天下を奪うことの出来る人は、

義貞朝臣以外考えられないと思わない人はいませんでした。その日の軍奉行、上木平九郎と人夫六千余人に幕、掻楯(大型の楯)、埋草(堀などを埋める草)、塀柱、櫓の具足などを運ばせてくると、大将義貞は中門において、鎧の上帯を締めさせ、

水練を積んだ栗毛で、五尺三寸もある大きな馬に手綱をつけ、門前で乗ろうとした時、突然この馬が乗られるのを嫌がって、狂ったように飛び跳ねたので、左右にて口取りをしていた下人二人が馬に踏みつけられ、半死半生の大怪我をしました。

この事件だけでも不思議なことだと思っていたのですが、大将の旗を持って進んでいた武士が、足羽川を渡っていたところ、乗っていた馬が突然川に倒れ込み、旗を持っていた武士は水に漬かったのでした。このような不思議な事件が、先行きの不吉を暗示しているように思えたのですが、

すでに戦場に向かっているからには、引き返すことなど出来ないと思い、ただ皆と一緒になって敵に向かっている軍勢ですが、心中不安を感じない者などいませんでした。

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