20 太平記 巻第二十  (その二)


○義貞自害事
燈明寺の前にて、三万余騎を七手に分て、七の城を押阻て、先対城をぞ取られける。兼ての廃立には、「前なる兵は城に向ひ逢ふて合戦を致し、後なる足軽は櫓をかき屏を塗て、対城を取すましたらんずる後、漸々に攻落すべし。」と議定せられたりけるが、平泉寺の衆徒のこもりたる藤島の城、以外に色めき渡て、軈て落つべく見へける間、数万の寄手是に機を得て、先対城の沙汰をさしおき、屏に著堀につかつてをめき叫でせめ戦ふ。衆徒も落色に見へけるが、とても遁るべき方のなき程を思ひ知けるにや、身命を捨て是を防ぐ。官軍櫓を覆て入んとすれば、衆徒走木を出て突落す。衆徒橋を渡て打て出れば、寄手に官軍鋒を調て斬て落す。追つ返つ入れ替る戦ひに、時刻押移て日已に西山に沈まんとす。大将義貞は、燈明寺の前にひかへて、手負の実検してをはしけるが、藤島の戦強して、官軍やゝもすれば追立らるゝ体に見へける間、安からぬ事に思はれけるにや、馬に乗替へ鎧を著かへて、纔に五十余騎の勢を相従へ、路をかへ畔を伝ひ、藤島の城へぞ向はれける。其時分黒丸の城より、細川出羽守・鹿草彦太郎両大将にて、藤島の城を攻ける寄手共を追払はんとて、三百余騎の勢にて横畷を廻けるに、義貞覿面に行合ひ給ふ。細川が方には、歩立にて楯をついたる射手共多かりければ、深田に走り下り、前に持楯を衝双て鏃を支て散々に射る。義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持せざれば、前なる兵義貞の矢面に立塞て、只的に成てぞ射られける。中野藤内左衛門は義貞に目加して、「千の弩は為■鼠不発機。」と申けるを、義貞きゝもあへず、「失士独免るゝは非我意。」と云て、尚敵の中へ懸入んと、駿馬に一鞭をすゝめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輒く越けるが、五筋まで射立られたる矢にやよはりけん。小溝一をこへかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。義貞弓手の足をしかれて、起あがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞今は叶はじとや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其首を取て鋒に貫き、鎧・太刀・々同く取持て、黒丸の城へ馳帰る。義貞の前に畷を阻てゝ戦ける結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、此等馬より飛で下り、義貞の死骸の前に跪て、腹かき切て重り臥す。此外四十余騎の兵、皆堀溝の中に射落されて、敵の独をも取得ず。犬死してこそ臥たりけれ。此時左中将の兵三万余騎、皆猛く勇める者共なれば、身にかはり命に代らんと思はぬ者は無りけれ共、小雨まじりの夕霧に、誰を誰とも見分ねば、大将の自ら戦ひ打死し給をも知らざりけるこそ悲けれ。只よそにある郎等が、主の馬に乗替て、河合をさして引けるを、数万の官軍遥に見て、大将の跡に随んと、見定めたる事もなく、心々にぞ落行ける。

☆ 義貞が自害されたこと

さて義貞軍は燈明寺の前で、三万余騎の軍勢を七手に分け、七つの城に向かい合い、まず攻撃の拠点となる向かい城を構えることにしました。事前の作戦では、「先陣の兵士らは城に攻撃を仕掛け、後方の足軽らは櫓を構築したり、塀を作ったりして、向かい城の完成を急ぎ、

その後、敵城を徐々に攻め落とすこと」と決定されていましたが、平泉寺の衆徒らの立て篭もっている藤島の城が、思いのほか動揺を見せ始め、すぐにでも落城するのではと見え、数万の寄せ手軍はこの機を逃さじと、向かい城の構築を後回しにして、塀に取り付き、

堀に飛び込み、喚き散らして攻め込みました。衆徒らもこの急襲に逃げ落ちるのかと思われたのですが、とても逃げられそうにないと覚悟をきめ、ここを死処と考え命がけで防戦に努めました。寄せ手の官軍が櫓を破壊して入ろうとするところを、衆徒らは大木を投げ出し突き落としました。

衆徒らが橋を越えて打って出れば、寄せ手軍は太刀を揃えて斬りおとしました。追ったり追われたり、入れ替わり立ち代りの戦いが続く中、時は移り、日もすでに西山に沈もうとしてきました。大将の義貞は燈明寺の前に控えて、負傷者の調査をしていたのですが、

藤島での合戦が手ごわく、ややもすれば官軍が追い込まれているように見え、不安を感じたのか馬に乗り、鎧も着替え、僅か五十余騎の軍勢を従えて、道を選びながら、また畦を通ったりして、藤島の城に向かいました。その頃、黒丸の城から細川出羽守と鹿草彦太郎の両大将が、

藤島の城を攻撃している寄せ手軍を追い払おうと、三百余騎の勢を従えて、あぜ道を迂回していたところ、義貞の軍勢と真正面に出会いました。細川の軍勢には徒歩立ちの兵士で盾を手にした射手が多いので、深田に走り下りると、手にした盾を前に並べて、矢を激しく射込みました。

しかし義貞側には射手の一人もいない上、盾の一枚も持ち合わせていないため、前にいる兵士は義貞の矢面に立ちふさがり、ただの的になったように射られたのでした。中野藤内左衛門は義貞に目配せして、「千鈞(古代の重さの単位)もある石弓は、

ハツカネズミ(けい鼠)を捕るために使用しない(この程度の合戦に大将は参戦しない)」と、申し上げたのですが、義貞は聞こうともせず、「兵士を殺しておいて、自分だけ命を永らえるのは不本意である」と言って、なおも敵中に駆け込もうと駿馬に鞭を当てました。

この馬は有名な駿馬ですから、本当なら一、二丈もある堀などたやすく飛び越えられたのですが、五本の矢を受けていた馬は弱っていたのか、小さな溝一つを飛び越せず、屏風が倒れるように、岸の下に転がり落ちました。義貞は左の足を押さえつけられ、起き上がろうとした時、

白羽の矢が一筋、兜の鉢の正面端、眉間の真ん中に突き刺さったのでした。急所に受けた傷なので、ただ一本の矢ですが、目も見えなくなり気も遠くなっていくので、義貞はもうこれまでと覚悟を決め、抜いた太刀を左の手に持ち替え、自ら首を掻き切り、その首を深い泥の中に隠して、

その上に横たわったのでした。そこを越中の国の武将、氏家中務丞重国が畦伝いに走り寄り、その首を取り出し太刀の切っ先に貫き、鎧や太刀、脇差などをみな剥ぎ取って、黒丸の城へ駆け戻ったのでした。義貞の前で畦を中にして戦っていた、

結城上野介や中野藤内左衛門尉また金持太郎左衛門尉らは、馬を飛び降りて義貞の死骸の前にひざまずくと、腹を掻き切り折り重なって伏せたのでした。この外、四十余騎の兵士ら全員、堀溝の中に射落とされ、敵の一人さえ討ち取ることが出来ず、犬死をしたのです。

この時左中将義貞朝臣の率いる兵士ら三万余騎は、皆勇猛な武者ばかりですから、身代わりになって命を捨てようと思わない者などいないはずでしたが、小雨混じりの夕霧に、誰が誰だか見分けもつきかねていたため、大将自ら前線に向かい、

討ち死にをしたことも知らなかったのも、悲しい限りです。そんな中、誰かの家来が義貞の馬に乗り換えて、河合に向かって引き揚げていくのを、数万の官軍らが遠くから見て、大将の後に付いて行こうと、何も確認することなく各自が思い思いに落ちていったのです。


漢高祖は自ら淮南の黥布を討し時、流矢に当て未央宮の裡にして崩じ給ひ、斉宣王は自楚の短兵と戦て干戈に貫れて、修羅場の下に死し給き。されば「蛟竜は常に保深淵之中。若遊浅渚有漁綱釣者之愁。」と云り。此人君の股肱として、武将の位に備りしかば、身を慎み命を全してこそ、大儀の功を致さるべかりしに、自らさしもなき戦場に赴て、匹夫の鏑に命を止めし事、運の極とは云ながら、うたてかりし事共也。軍散じて後、氏家中務丞、尾張守の前に参て、「重国こそ新田殿の御一族かとをぼしき敵を討て、首を取て候へ。誰とは名乗候はねば、名字をば知候はねども、馬物具の様、相順し兵共の、尸骸を見て腹をきり討死を仕候つる体、何様尋常の葉武者にてはあらじと覚て候。これぞ其死人のはだに懸て候つる護りにて候。」とて、血をも未あらはぬ首に、土の著たる金襴の守を副てぞ出したりける。尾張守此首を能々見給て、「あな不思議や、よに新田左中将の顔つきに似たる所有ぞや。若それならば、左の眉の上に矢の疵有べし。」とて自ら鬢櫛を以て髪をかきあげ、血を洗ぎ土をあらひ落て是を見給ふに、果して左の眉の上に疵の跡あり。是に弥心付て、帯れたる二振の太刀を取寄て見給に、金銀を延て作りたるに、一振には銀を以て金膝纏の上に鬼切と云文字を沈めたり。一振には金を以て、銀脛巾の上に鬼丸と云文字を入られたり。是は共に源氏重代の重宝にて、義貞の方に伝たりと聞れば、末々の一族共の帯くべき太刀には非と見るに、弥怪ければ、膚の守を開て見給ふに、吉野の帝の御宸筆にて、「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也。」と遊ばされたり。さては義貞の頚相違なかりけりとて、尸骸を輿に乗せ時衆八人にかゝせて、葬礼の為に往生院へ送られ、頚をば朱の唐櫃に入れ、氏家の中務を副て、潜に京都へ上せられけり。

漢国の高祖は自ら淮南王の黥布を征伐に行った時、流れ矢に中ったのが原因で、長安にあった未央宮と言う宮殿で崩御され、また斉国の宣王は、自ら楚国との接近戦を戦い、敵の武器に体を貫かれ、戦場の修羅場の中で息を引き取ったのです。

そこで、「蛟竜(時運に巡り会えず実力を発揮できずにいる英雄、豪傑のたとえ)は常に水中深く潜んでいる。もし浅瀬に出てきて遊んでいたりすれば、魚網や釣り針にやられる不安がある」と、言うのです。この新田義貞と言う人間は、帝の信頼厚い朝臣であり、

武将としての最高位に任命されているのだから、身体の健康に留意し寿命を全うしてこそ、帝に対して忠義を尽くし、また功績も残せるのですが、さほど重要とも思われない戦場に自ら向かい、下郎の放った矢に命を失うとは、それもまた運命とは言いながら、情け無いことです。

ところで合戦が終結してから、氏家中務丞重国が足利尾張守高経のもとに来て、「この重国は、新田殿ご一族かと思われる敵を討ち、首を取りました。しかしその時名乗りがあったわけではないので、苗字は分りませんが、馬や甲冑の立派さや、従っていた兵士らが死骸を見て、

腹を切り討ち死にを果たすからには、とても下っ端の武者とも思えません。そして、これがその死人の肌に懸かっていた御守です」と言って、まだ血を洗い流していない首に、土の付着した金襴の御守を添えて提出しました。尾張守高経はその首をしげしげと見ていましたが、

「あれ、そういえば確かに新田左中将の顔つきに似たところがある。もし彼の首であれば、左の眉の上に矢の傷があるはずだが」と言って、自ら鬢用の櫛を取り出し髪を掻き揚げ、血と土を洗い流してから見ると、確かに左の眉の上に傷跡がありました。

これにいくらか自信を持ち、携えていた二振りの太刀を取り寄せて見てみれば、金銀を薄く延ばして作っていますが、一振りには鍔を固定するため、黄金で加工した金具に、銀で鬼切と言う文字が沈めてありました。もう一振りの太刀には同じく銀製の金具に、金で鬼丸と言う文字が入っていました。

この二振りの刀剣は源氏に代々伝わる家宝であり、義貞に伝わっていると聞いているので、源氏一族でも支流の人間が持つべき太刀とも思えないので、ますます不審に思い、肌に着けていた御守りを開いてみると、吉野の後醍醐天皇の直筆で、

「朝敵征伐事、叡慮所向、偏在義貞武功、選未求他、殊可運早速之計略者也(朝敵征伐には義貞の武功に全てかかっている。速やかに朝敵征伐の作戦に取り掛かれ)」と書かれていました。これで義貞の首に間違いないと決定し、死骸を輿に乗せて、時宗の僧俗ら八人に担がせ、

葬礼を行うため往生院に送りました。また首は朱色の唐櫃に入れて、氏家中務と共に密かに京都に送りました。


○義助重集敗軍事
脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸の城へ打帰て、義貞の行末をたづね給ふに、始の程は分明に知人もなかりけるが、事の様次第に顕れて、「討れ給ひけり。」と申合ければ、「日を替へず黒丸へ押寄て、大将の討れ給ひつらん所にて、同討死せん。」と宣ひけれども、いつしか兵皆あきれ迷て、只忙然たる外は指たる儀勢もなかりけり。剰へ人の心も頓て替りけるにや、野心の者内にありと覚へて、石丸の城に火を懸んとする事、一夜の内に三箇度也。是を見て斉藤五郎兵衛尉季基、同七郎入道々献二人は、他に異なる左中将の近習にて有しかば、門前の左右の脇に、役所を並べて居たりけるが、幕を捨てゝ夜の間に何地ともなく落にけり。是を始として、或は心も発らぬ出家して、往生院長崎の道場に入り、或は縁に属し罪を謝て、黒丸の城へ降参す。昨日まで三万騎にあまりたりし兵共、一夜の程に落失て、今日は僅に二千騎にだにも足ざりけり。かくては北国を蹈へん事叶ふまじとて、三峯の城に河島を篭め、杣山の城に瓜生を置き、湊の城に畑六郎左衛門尉時能を残されて、潤七月十一日に、義助・義治父子共に、禰津・風間・江戸・宇都宮の勢七百余騎を率して、当国の府へ帰給ふ。

☆ 脇屋義助が敗軍の兵士らを再び集められたこと

脇屋右衛門佐義助は河合の石丸の城に帰ってきて、義貞の消息を尋ねましたが、最初、誰もはっきりと知っている者はいませんでした。しかし次第に事情が知れ渡り、「討たれたそうだ」と、皆が口を揃えて話すので、義助は、「それではこのまま黒丸に押し寄せ、

大将が討たれた場所で、同じように討ち死にしよう」と仰せられたのですが、いつの間にか兵士らは、しらけきり我が身の振り方に迷い、ただ呆然とするだけで、義助の呼びかけにも特に反応はありませんでした。それだけでなく人の気持ちは早くも変わり出し、

密かに野望を持つ者が現れたのか、石丸の城は一夜に三度も放火にあいました。この状況に斉藤五郎兵衛尉季基同じく七郎入道道献の二人は、他の者とは違って左中将義貞に近く仕える者だったので、門前の脇、左右に詰め所を並べていたのですが、

夜の間に陣幕を捨てて、どこかに落ちて行きました。この二人をはじめに、ある者はその気も無いのに出家を願って、往生院長崎の道場に入ったり、ある者は縁を頼って謝罪し、黒丸の城に降参を申し出ました。そのため昨日まで三万騎以上もいた兵士らは、一夜のうちに落ちていなくなり、

今日は僅か二千騎にも満たない有様です。これでは北国を維持することなど無理になり、三峯の城は河島に守らせ、杣山の城には瓜生を配置して、また湊の城には畑六郎左衛門尉時能を残し、閏七月十一日に義助、義治父子共に、禰津、風間、江戸、宇都宮らの軍勢七百余騎を率いて、越前の府に帰ったのでした。


○義貞首懸獄門事付勾当内侍事
新田左中将の首京都に著ければ、是朝敵の最、武敵の雄なりとて、大路を渡して獄門に懸らる。此人前朝の寵臣にて、武功世に蒙らしめしかば、天下の倚頼として、其芳情を悦び、其恩顧をまつ人、幾千万と云数を知ず、京中に相交りたれば、車馬道に横り、男女岐に立て、是を見に堪へず、泣悲む声■々たり。中にも彼の北の台勾当の内侍の局の悲を伝へ聞こそあはれなれ。此女房は頭の大夫行房の女にて、金屋の内に装を閉ぢ、鶏障の下に媚を深して、二八の春の比より内侍に召れて君王の傍に侍り、羅綺にだも堪ざる貌は、春の風一片の花をふき残すかと疑はる。紅粉を事とせる顔は、秋の雲半江の月をはき出すに似たり。されば椒房の三十六宮、五雲の漸くに遶る事を听、禁漏の二十五声、一夜の正に長き事を恨む。去建武の始、天下又乱れんとせし時、新田左中将常に召れて、内裡の御警固にぞ候はれける。或夜月冷く風秋なるに、此勾当の内侍半簾を巻て、琴を弾じ給ひけり。中将其怨声に心引れて、覚へず禁庭の月に立吟、あやなく心そゞろにあこがれてければ、唐垣の傍に立紛れて伺けるを、内侍みる人ありと物侘しげにて、琴をば引かずなんぬ。夜痛く深て、在明の月のくまなく差入たるに、「類ひまでやはつらからぬ。」と打詠め、しほれ伏たる気色の、折らばをちぬべき萩の露、拾はゞ消なん玉篠の、あられより尚あだなれば、中将行末も知ぬ道にまよひぬる心地して、帰る方もさだかならず、淑景舎の傍にやすらひ兼て立明す。朝より夙に帰りても、風かなりし面影の、なをこゝもとにある心迷に、世の態人の云かはす事も心の外なれば、いつとなくをきもせず寐もせで夜を明し日を暮して、若しるべする海人だにあらば、忘れ草のをふと云浦のあたりにも、尋ねゆきなましと、そゞろに思しづみ給ふ。

☆ 義貞の首が獄門に架けられたことと、勾当の内侍のこと

さて新田左中将義貞の首が京都に到着すると、これは本朝最大の朝敵を率いた武将の首であると、洛内主要道路を引き廻した上、獄門に架けられました。しかし義貞は先の朝廷において、帝の信頼厚い朝臣であり、その武功も世間に知れ渡っていましたから、

世の人々から頼りにされて、彼から受けた心遣いを嬉しく思い、彼の引き立てを期待する人など、その数、幾千万人とも知れず京都内に散らばっています。そのため車や馬が大路にあふれ、また男女が辻々に立ち止まって、この様子を見て泣き悲しむ声で満ち溢れています。

その中でも勾当内侍の局の悲嘆ぶりを伝え聞けば、あまりにも悲しく哀れです。この女房は頭の大夫行房(世尊寺一条行房)の娘(妹とも?)で、立派な屋敷内の奥深くで月日を送る内、深窓にその美しさは増して行き、十六歳の春頃より、内侍として宮中に入り、後醍醐天皇のお傍にお仕えし、

何者にも劣らないその華やかな美しい容貌は、春の風が一片の花を散り残したかと疑うばかりです。化粧を施したその顔は、秋の雲からのぞいている半江の月(?)のようです。そのため宮中の三十六宮は、五色の雲が空にかかり出すのを悲しく思い、

宮中の漏刻時計が刻む一夜の時間のあまりにも長いことが恨めしくなります。去る建武(南朝::1334−1336年・北朝::1334-1338年)の当初に、天下に再び騒動が起こりそうになった時、後醍醐天皇は新田左中将を常時内裏の警固に当たらせました。

月が冷たく冴え渡り、風も秋の気配を感じさせる、そんなある夜、この勾当内侍が半簾(簾の一種)を巻き上げ、琴を弾いておられました。新田左中将は何かに訴えかけるような音に心を奪われ、知らぬ間に禁裏の庭に入り込み、月の光がさす庭で何か吟じながら、

ふらふらとさまよい出し、唐垣(組垣根の一種)の傍に紛れ込んだのを、内侍は誰かに見られている気配を感じ、戸惑いを見せて琴を弾くのをやめました。その夜も明け方近くになり、まだ沈まず残っている月の光が庭一杯に射し込む中、

「つれなさの 類までやは つらからぬ 月をもめでじ 有明の空(新古今集)」と詠まれ、しょんぼりと伏せられた様子は、萩に降りた露のように今にも落ちそうで、また笹に積もった霰を手にすれば、すぐに消えるような、はかなさを感じさせるので、

中将もこの先どうすれば良いのか分らず、帰ろうにも方角さえ見失ってしまい、淑景舎(しげいしゃ::平安御所の後宮の一つ。別名桐壺)の傍に佇み躊躇している内に、夜が明けてしまいました。そのあと朝早く帰宅はしたものの、彼女のほのかな面影が心に残り、夢を見ているような気持ちですから、

世間の人々が話していることも、心に入らず、起きるわけでもなく、かと言って寝ることもせずに夜を明かし、日を過ごしているので、もし知っている海人がいれば案内を頼んで、忘れ草(心配や心の憂さを忘れさせる草)が生えていると言う海岸を何とか訪ねてみたいと、訳も無く気持ちが沈むばかりです。


あまりにせん方なきまゝに、媒すべき人を尋出して、そよとばかりをしらすべき、風の便の下荻の穂に出るまではなくともとて、我袖の泪に宿る影とだにしらで雲井の月やすむらんと読て遣されたりければ、君の聞召れん事も憚ありとて、よにあはれげなる気色に見へながら、手にだに取らずと、使帰て語ければ、中将いとゞ思ひしほれて、云べき方なく、有るを憑の命とも覚へずなりぬべきを、何人か奏しけん、君、等閑ならずと聞召て、夷心のわく方なさに、思そめけるも理也と、哀れなる事に思召れければ、御遊の御次に左中将を召れ、御酒たばせ給ひけるに、「勾当の内侍をば此盃に付て。」とぞ仰出されける。左中将限なく忝と悦て、翌の夜軈て牛車さはやかにしたてゝ、角と案内せさせたるに、内侍もはや此年月の志に、さそふ水あらばと思ひけるにや、さのみ深け過ぬ程に、車のきしる音して、中門にながへを指廻せば、侍児ひとり二人妻戸をさしかくして驚破めきあへり。中将は此幾年を恋忍で相逢ふ今の心の中、優曇花の春まち得たる心地して、珊瑚の樹の上に陽台の夢長くさめ、連理の枝の頭りに驪山の花自濃也。あやなく迷ふ心の道、諌る人もなかりしかば、去ぬる建武のすへに、朝敵西海の波に漂し時も、中将此内侍に暫しの別を悲て征路に滞り、後に山門臨幸の時、寄手大岳より追落されて、其まゝ寄せば京をも落んとせしかども、中将此内侍に迷て、勝に乗疲を攻る戦を事とせず。其弊へ果して敵の為に国を奪れたり。誠に「一たび笑で能く国を傾く。」と、古人の是をいましめしも理也とぞ覚へたる。中将坂本より北国へ落給ひし時は、路次の難儀を顧て、此内侍をば今堅田と云所にぞ留め置れたりける。かゝらぬ時の別れだに、行には跡を顧て、頭を家山の雲に回らし、留まるは末を思ひやりて、泪を天涯の雨に添ふ。況や中将は行末とても憑みなき北狄の国に趣き給へば、生て再び廻りあはん後の契もいさ知らず。又内侍は、都近き海人の礒屋に身をかくし給ひければ、今もやさがし出されて、憂名を人に聞れんずらんと、一方ならずなげき給ふ。

あまりにもやりきれない気持ちに、誰か仲立ちをしてくれる人でも探し出し、この気持ちを何かの折にでも、それとなく知らせてほしいと、
      我袖の 泪に宿る 影とだに しらで雲居の 月やすむらん 
(私の袖を濡らしておいて、貴女は宮中に住み続けられるのですか)

と詠んで、彼女のもとに届けてもらいました。しかし、内侍はもしかして帝に気づかれることもあるかと恐れたのか、とても悲しそうな気配を見せ、手に取られることもされなかったと、使者が帰ってきてから話されたので、中将はがっくりと気落ちして言葉を発することも出来ず、

とても生きた心地さえしませんでした。ところが、誰かがその様子を見て後醍醐天皇に話されたのか、帝もいい加減に捨て置くこともどうかと考え、東国の無骨な人間であれば、女性への思い込みが激しいのも道理かなと哀れに思われ、管弦の催しが行われた時、

左中将をお傍に呼ばれ、お酒を進められながら、「勾当の内侍をこの盃に添えよう」と、仰せられたのです。左中将はこの言葉に大喜びし、早速翌日の夜、牛車を美しく飾って、勾当の内侍のもとへ迎えに行かせると、内侍の方でもここ数年の気持ちとして、小野小町の心境になり、

誘う水があれば(わびぬれば 身をうき草の ねを絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ::小野小町)と思っていたのでしょうか、それほど夜も更けぬ間に車のきしる音がして、中門の方に牛車を進めていくと、警備の人が一、二人、妻戸の陰に顔を隠し驚き合ったのです。

中将はこの幾年とも思えるほど長い間、恋焦がれてきた人に会うのは、言わば「優曇花の 春まち得たる 心地して 珊瑚の樹の上に 陽台の夢 長くさめ 連理の枝の 頭りに 驪山の花 自濃也」の気分でしょう。理屈では説明のつかない恋心による迷いであり、

注意や忠告をしてくれる人もいないので、去る建武の末期、朝敵足利軍を西海に漂泊させた時も、中将はこの勾当の内侍とのしばしの別れを悲しんで、追討軍の発向が遅れたことがありました。その後も後醍醐天皇が山門に臨幸された時、寄せ手の足利軍を比叡山から追い落とし、

そのまま攻撃を継続すれば京都も奪回出来たのですが、またもや中将はこの内侍にうつつを抜かし、勝ちに乗じての無理な戦闘はしませんでした。それらが原因なのか結局、敵に国を奪われたのでした。確かに、「一たび笑で能く国を傾く(美しい女性の笑顔は国を滅ぼすことがある)」と古人が忠告してきたのも、

道理かと思います。また中将が坂本を脱出して北国に落ち延びる時、途中の歩行の困難さを考え、内侍を今堅田と言う所に残されたのです。このような別れであっても、行く者は後ろを振り返り、思いを故郷の雲にめぐらし、留まる者は行く末を考えれば、涙が異郷の雨と共に流れます。

まして今の中将は、この先果たして頼りに出来るのか分らない、北陸の蛮地とも思える国に向かうのですから、再び生きて彼女に出会うことも確約できません。そして残された内侍は都に近い漁村の磯小屋に身を潜めたのですから、今にも探し出されて名も明らかにされ、

辛く情け無い目に会うのではと、考えれば考えるほど、嘆かわしくなるばかりです。


翌年の春、父行房朝臣金崎にて打れ給ひぬと聞へしかば、思の上に悲をそへて、明日までの命もよしや何かせんと、歎きしづみ給ひしか共、さすがに消ぬ露の身なれば、をき居に袖をほしわびて、二年あまりに成にけり。中将も越前に下り著し日より、軈て迎をも上せばやと思ひ給ひけれども、道の程も輒からず、又人の云思はんずる所憚あれば、只時々の音信ばかりを互に残る命にて、年月を送り給けるが、其秋の始に、今は道の程も暫く静に成ぬればとて、迎の人を上せられたりければ、内侍は此三年が間、暗き夜のやみに迷へるが、俄に夜の明たる心地して、頓て先杣山まで下著き給ぬ。折節中将は足羽と云所へ向ひ給たりとて、此には人も無りければ、杣山より輿の轅を廻して浅津の橋を渡り給ふ処に、瓜生弾正左衛門尉百騎ばかりにて行合奉りたるが、馬より飛でをり、輿の前にひれ伏て、「是はいづくへとて御渡り候らん。新田殿は昨日の暮に、足羽と申所にて討れさせ給て候。」と申もはてず、涙をはら/\とこぼせば、内侍の局、こは何なる夢のうつゝぞやと、胸ふさがり肝消て、中々泪も落やらず、輿の中にふし沈みて、「せめてはあはれ其人の討れ給ひつらん野原の草の露の底にも、身をすて置て帰れかし。さのみはをくれさきだゝじ、共に消もはてなん。」と、泣悲み給へ共、「早其輿かき返せ。」とて、急で又杣山へぞ返し入れまいらせける。是ぞ此程中将殿の住給ひし所也とて、色紙押散したる障子の内を見給へば、何となき手ずさみの筆の跡までも、只都へいつかと、あらまされたる言の葉をのみ書をき、読すてられたり。かゝる空き形見を見につけても、いとゞ悲のみふかくなり行ば、心少も慰べき方ならね共、中将のすみすて給し跡なれば、爰にて中陰の程をも過して、なき跡をも訪はゞやと覚しけるに、頓て其辺も騒しく成て敵の近付など聞へしかば、城の麓はあしかるべしとて、頓て又京へ上せ奉り、仁和寺のあたり、幽なる宿の、主だにすまずなりぬる蓬生の宿に送り置奉る。都も今は返て旅なれば、住所も定まらず、心うかれ袖しほれて、何くにか身を浮舟のよるべも有べきと、昔見し人の行末を尋て陽明の傍りへ行給ひける路に、人あまた立あひて、あなあはれなんど云音するを、何事にかと立留て見給へば、越路はるかに尋行て、あはで帰し新田左中将義貞の首を、獄門の木に懸られて、眼塞り色変ぜり。内侍の局是を二目とも見給はずして、傍なる築地の陰になき倒れ給ひけり。知も知らぬも是を見て、共に涙を流さぬはなかりけり。日已に暮けれども、立帰るべき心地もなければ、蓬が本の露の下に泣しほれてをはしけるを、其辺なる道場の聖、「余りに御いたはしく見させ給ひ候に。」とて、内へいざなひ入奉れば、其夜やがて翠の髪を刷下し、紅顔を墨染にやつし給ふ。暫しが程はなき面影を身にそへて、泣悲み給しが、会者定離の理に、愛別離苦の夢を覚して、厭離穢土の心は日々にすゝみ、欣求浄土の念時々に勝りければ、嵯峨の奥に往生院のあたりなる柴の扉に、明暮を行ひすましてぞをはしける。

さて翌年(延元二年・建武四年::1337年)の春、勾当の内侍は父(兄?)の一条行房朝臣が、金崎の戦いで討ち死にをしたと聞き、それでなくても悲しい気持ちも尚一層辛くなり、明日の命さえ果たして保てるのかと、嘆き悲しみ落ち込んでいましたが、かと言って、はかない露の命でも消えることはなく、

日々の暮らしに濡れた袖を干しかねている内に、はや二年あまりが過ぎました。義貞中将も越前に下り着いた日から、すぐにでも迎えに上らせようと思っていましたが、途中の道路も容易な状態でなく、また他人の思惑や批判なども気になって実行出来ず、

ただ時折の便りだけがお互いをつないで、年月を送っていました。しかし、その年の秋の初め頃、もう今は道路の状態も良くなっただろうと、迎えの者を上らせました。内侍はこの三ヵ年、暗闇の中に迷い続けていたのですが、迎えを受けて突然夜が明けたような気持ちになり、

すぐ出発すると、まず杣山の城にお着きになりました。ところが、その時中将は足羽に向かっているとのことで、城には人もいないので、杣山の城から輿を出発させ、浅津の橋を渡ろうとした時、百騎ばかりを率いた瓜生弾正左衛門尉と出会いました。

瓜生は馬から飛び降り、輿の前にひれ伏して、「これはどちらに向かわれているのですか。新田殿は昨日の暮、足羽と言う所で討ち死にされました」と言い終わらぬ内に、涙をはらはらとこぼされたので、内侍の局はこれは一体夢かそれとも現実なのかと、胸が締め付けられ気も失いそうになり、

涙も流れ出ることなく輿の中に伏せられ、「こうなれば、せめてあの人が討たれたと言う野原にでも私を連れて行き、露の降りた草の下にでも我が身を捨て置いて、お帰りになるのが良いでしょう。それほどあの人に遅れた訳でもないので、

一緒に死にとうございます」と泣き悲しまれましたが、「急いでその輿を担いで引き返すように」と、大急ぎで再び杣山に引き返したのです。杣山ではここが中将殿のお住みになっておられたお部屋ですと言われ、色紙を散らし張りにした障子の内側を見てみれば、

退屈しのぎの取るに足らない書き付けさえ、ただいつか都に戻りたいと言う、切実な言葉ばかりが書かれて散乱していました。このような形見とも言えない形見を見ていると、悲しさがこみ上げて来るばかりで、少しも気持ちの安らぎは得られないのですが、

中将がお住みになっていたお部屋なので、ここで四十九日程は過して、後生を弔おうと考えていました。しかし杣山周辺も騒がしくなり、敵が近づきつつあると言われ出し、城の麓は危険だと言うことで、急遽再び都へお連れして、仁和寺周辺の静かではあるが、人さえ住んでいない荒れ果てた家に案内したのです。

都とは言え、今は仮の住まいで住む所さえ決まらない上、辛い気持ちばかりに濡れた袖の乾く間もなく、どこかにこの頼りない我が身を寄せられる所がないだろうかと、昔の知り合いの消息を尋ねて陽明門(大内裏東門の一つ、上東門と待賢門の間にある)のあたりに行く途中、

大勢の人が立ち止まって、あぁ、あまりにも可哀そうだとか言う声がするので、一体何事かと立ち寄って見ると、北陸道はるかに尋ねて行ったものの、会うことも出来ずに帰ってきた新田左中将義貞の首が、獄門の木に架けられ、目は塞がり、変色も進んでいます。

内侍の局は二目と見ることが出来ず、傍らの築地塀の陰に泣き倒れたのでした。事情を知っている人、また知らない人でもこの様子を見て、共に涙を流さない人などいませんでした。日はすでに暮れたのですが、帰る気持ちにもならず、

そこらの露の降りた草むらの根元で泣き崩れているのを、そのあたりの寺院の僧が、「あまりにも痛ましい様子なので」と言って、中に誘い入れられたのです。すぐその夜、彼女は翠の黒髪を剃り落とし、墨染めの姿に身をやつされたのでした。

しばらくの間こそ、亡き中将の面影を思い出しては泣き悲しんでいましたが、会者定離(出会った者は必ず別れる)の道理による、愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)の現実を知ってから、厭離穢土(穢れた現世を嫌う)の気持ちは日々に高まり、

欣求浄土(極楽浄土に往生することを求める)の考えが強くなってきましたので、嵯峨の奥、往生院あたりに粗末な庵を結んで、日々勤行に励んで暮らされました。


○奥州下向勢逢難風事
吉野には、奥州の国司安部野にて討れ、春日少将八幡の城を落されて、諸卒皆力を失といへども、新田殿北国より責上る由奏聞したりけるを御憑あつて、今や/\と待給ける処に、此人さへ足羽にて討れぬと聞へければ、蜀の後主の孔明を失ひ、唐の太宗の魏徴に哭せしが如く、叡襟更にをだやかならず、諸卒も皆色を失へり。爰に奥州の住人、結城上野入道々忠と申けるもの、参内して奏し申しけるは、「国司顕家卿三年の内に両度まで大軍を動して上洛せられ候し事は、出羽奥州の両国みな国司に従て、凶徒其隙を得ざる故也。国人の心未変ぜざるさきに、宮を一人下し進せて、忠功の輩には直に賞を行はれ、不忠不烈の族をば根をきり葉をからして、御沙汰候はんには、などか攻随へでは候べき。国の差図を見候に、奥州五十四郡恰日本の半国に及べり。若兵数を尽して一方に属せば、四五十万騎も候べし。道忠宮を挟み奉て、老年の首に胄を頂く程ならば、重て京都に攻上り、会稽の恥を雪めん事一年の内をば過し候まじ。」と申ければ、君を始奉て左右の老臣悉く、「此議げにも然るべし。」とぞ同ぜられける。依之第八宮の今年七歳にならせ給ふを、初冠めさせて、春日少将顕信を輔弼とし、結城入道々忠を衛尉として、奥州へぞ下しまいらせられける。是のみならず新田左兵衛義興・相摸次郎時行二人をば、「東八箇国を打平て宮に力を副奉れ。」とて、武蔵相摸の間へぞ下されける。陸地は皆敵強して通りがたしとて、此勢皆伊勢の大湊に集て、船をそろへ風を待けるに、九月十二日の宵より、風やみ雲収て、海上殊に静りたりければ、舟人纜をといて、万里の雲に帆を飛す。兵船五百余艘、宮の御座舟を中に立てゝ、遠江の天竜なだを過ける時に、海風俄に吹あれて、逆浪忽に天を巻翻す。或は檣を吹折られて、弥帆にて馳る舟もあり。或は梶をかき折て廻流に漂船もあり。暮れば弥よ風あらく成て、一方に吹も定らざりければ、伊豆の大島・女良の湊・かめ河・三浦・由居の浜・津々浦々の泊に船の吹寄せられぬはなかりけり。宮の召れたる御舟一艘、漫々たる大洋に放たれて、已に覆らんとしける処に、光明赫奕たる日輪、御舟の舳前に現じて見へけるが、風俄に取て返し、伊勢国神風浜へ吹もどし奉る。若干の舟共行方もしらず成ぬるに、此御舟計日輪の擁護に依て、伊勢国へ吹もどされ給ぬる事たゞ事にあらず。何様此宮継体の君として、九五の天位を践せ給ふべき所を、忝も天照太神の示されける者也とて、忽に奥州の御下向を止られ、則又吉野へ返し入れ進せられけるに、果して先帝崩御の後、南方の天子の御位をつがせ給し吉野の新帝と申奉しは、則此宮の御事也。

☆ 奥州へ下向の軍勢が暴風にあわれたこと

さて吉野では奥州の国司北畠顕家が阿倍野で討ち死にし、春日少将顕信も八幡の城を落とされて、諸軍勢らは意気消沈していたとは言え、新田殿が北国から攻め上ってくると後醍醐に話されたことを頼りにして、今や遅しと待ち続けていたところ、この人も足羽の戦いで討たれたと聞くと、

蜀国で次の主君と期待されていた諸葛孔明が死去されたことや、唐国において諫臣として名のあった魏徴の死に、太宗が悲しまれたことなどが思い出され、後醍醐の心中も穏やかなものではなく、諸将から兵卒に至るまで士気の低下は否めません。

この事態に奥州の豪族で結城上野入道道忠と言う者が参内してくると、「奥州国司の顕家卿がここ三年の間に、二度まで大軍を率いて上洛をされたと言うことは、出羽や奥州両国の者が皆国司に従って、顕家卿の留守を守り、凶徒らに隙を見せなかったからです。

その彼らが心変わりしない内に、宮様の一人を奥州に下されて、忠義を誓う者には即刻恩賞を行い、そうでない不義者に対しては、根こそぎ処罰すれば、どうして従わない者などがいるでしょうか。今、国の地図を良く見れば、奥州の五十四郡は日本全国の半分にあたるほどです。

もし全力で兵士を召集し、悉くを一軍にまとめることが出来れば、四、五十万騎にもなるでしょう。私、道忠は宮を陣中に戴いた上、この老人に兜を着けさせてもらえれば、再び京都に攻め上り、会稽の恥を雪ぐのに、一年とかからないでしょう」と、申し上げました。

この申し出を聞いていた後醍醐をはじめとして、左右に控える老臣ら全員が、「この提案は誠に当を得ている」と、賛同されたのです。この決定により、第八の宮、今年七歳になられる義良親王(後の後村上天皇)を元服の儀を行った上、春日少将顕信を補佐人とし、

結城入道道忠を衛尉に命じて、奥州に下されたのでした。またこれだけではなく、新田左兵衛義興(新田義貞の次男)と相模次郎時行(北条高時の次男)の二人に、「東八ヶ国を支配し従属させ、宮に加勢をするようにせよ」と命じて、武蔵、相模の両国に向かわせました。

陸上の進軍は敵勢の妨害が厳しく、困難が予想されたので、これらの軍勢は悉く伊勢の大湊に集結し、船を準備して順風を待っていたところ、延元三年(暦応元年::1338年)九月十二日の宵頃より、風が収まり雲も晴れ、海上もきわめて静まったので、舟人らは艫綱を解き、

はるか遠国に向かって帆を揚げました。兵船五百余艘が宮の乗船を中心にして、遠江の天龍灘を通過していた時、突然海上を吹く風が大荒れになり、逆立つ波は天にまで届きそうです。ある舟は帆柱を折られ、舳先に張った小さい帆で進んだり、またある舟は舵を折られて、

流れに漂うだけの舟もあります。日が暮れる頃になると、ますます風は強くなり、風向きも安定しないので、伊豆の大島、女良の湊、かめ河、三浦、由居の浜など津々浦々の泊にほとんどの舟が吹き流されました。宮の乗られた一艘の舟は、はるか沖合いに流されて、

最早転覆は逃れられないと思われた時、光り輝く太陽が舟の舳先に現れたように見えると風は急に向きを変え、伊勢国神風浜に吹き戻されたのでした。多数の舟が行方不明になる中、この御舟だけが太陽の加護を受けて、伊勢国に吹き戻されるとは尋常なことではありません。

いずれにしても、この義良親王は次期天皇を継ぐ宮として、鷹揚に構えていても間違いなく天皇になられることを、畏れ多くも天照大神が保証する者ですから、奥州への御下向を中止し、再びすぐに吉野に引き返されたのです。そしてその結果、先帝後醍醐が崩御されてから、

南朝の天皇(後村上天皇)になられ、吉野の新帝と言われたのは、この義良親王のことです。


○結城入道堕地獄事
中にも結城上野入道が乗たる舟、悪風に放されて渺渺たる海上にゆられたゞよふ事、七日七夜也。既に大海の底に沈か、羅刹国に堕かと覚しが、風少し静りて、是も伊勢の安野津へぞ吹著られける。こゝにて十余日を経て後猶奥州へ下らんと、渡海の順風を待ける処に、俄に重病を受て起居も更に叶はず、定業極りぬと見へければ、善知識の聖枕に寄て、「此程まではさり共とこそ存候つるに、御労り日に随て重らせ給候へば、今は御臨終の日遠からじと覚へて候。相構て後生善所の御望惰たる事無して、称名の声の内に、三尊の来迎を御待候べし。さても今生には、何事をか思召をかれ候。御心に懸る事候はゞ仰置れ候へ。御子息の御方様へも伝へ申候はん。」と云ければ、此入道已に目を塞んとしけるが、ゝつぱと跂起て、から/\と打笑ひ、戦たる声にて云けるは、「我已に齢七旬に及で、栄花身にあまりぬれば、今生に於ては一事も思残事候はず。只今度罷上て、遂に朝敵を亡し得ずして、空く黄泉のたびにをもむきぬる事、多生広劫までの妄念となりぬと覚へ候。されば愚息にて候大蔵権少輔にも、我後生を弔はんと思はゞ、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をも成すべからず。只朝敵の首を取て、我墓の前に懸双て見すべしと云置ける由伝て給り候へ。」と、是を最後の詞にて、刀を抜て逆手に持ち、断歯をしてぞ死にける。罪障深重の人多しといへ共、終焉に是程の悪相を現ずる事は、古今未聞の所也。げにも此道忠が平生の振舞をきけば、十悪五逆重障過極の悪人也。鹿をかり鷹を使ふ事は、せめて世俗の態なれば言ふにたらず。咎なき者を殴ち縛り、僧尼を殺す事数を知ず。常に死人の頚を目に見ねば、心地の蒙気するとて、僧俗男女を云ず、日毎に二三人が首を切て、態目の前に懸させけり。されば彼が暫も居たるあたりは、死骨満て屠所の如く、尸骸積で九原の如し。

☆ 結城入道が地獄に堕ちたこと

また多くの舟の中でも結城上野入道の乗った舟は、暴風に吹き流されて、果てしない大海原を揺れ漂うこと、七日七晩になりました。もはや大海の藻屑となるか、羅刹国(人を食う鬼のすむ国)に堕ちるのかと思われたのですが、風が少し静まって、この舟も伊勢の安野津へに吹き寄せられました。

この場所で十日あまりを過ごしてから、再び奥州に下ろうと、渡海のため順風を待っていたところ、突然重病を患って起居も思うようにならず、寿命もここに尽きるのかと考えられたので、徳ある僧侶を枕元にお呼びすると、「先ごろまでは何とかと思っておりましたが、

お疲れが重なって病も篤くなってこられ、このままではご臨終の日もそう遠くないと思われます。今はただ、後生は浄土に生まれ変わることを念じ続けられ、称名(仏や菩薩の名を称えること)の声の中、三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)が浄土から紫雲に乗って迎えに来られるのをお待ちください。

ところでこの世に何事か思い残すことはお有りですか。もし気がかりなことがあれば、おっしゃってください。ご子息の方にお伝えいたしましょう」と、話されました。しかし、この入道すでに目も塞ぐかと思われたのですが、ガバっと跳ね起きるとカラカラと笑い、

声を震わせながら、「私はすでに七十歳を越えて、栄華も十二分に堪能してきたので、今生には何も思い残すことなどありません。ただ、再び上洛をして朝敵征伐をついに果たせず、むなしく黄泉の国への旅に向かうことが、いつまでも逃れられない妄念になると思われる。

そこで、私の愚息である大蔵権少輔に、もし私の後生を弔おうと思うのならば、仏を供養したり僧侶をもてなすなど、仏縁のために善事をする必要はない。それどころか称名や読経などの追善もしないで良い。ただ朝敵の首を取り、私の墓前に架け並べ、

見せるようにと言い残したことを伝えてもらいたい」と、これを最期の言葉にすると、刀を抜き逆手に持ち変え、悔しさからか歯ぎしりをして死んだのでした。成仏の妨げとなる悪行を重ねた人は多いと言えども、臨終に際してこれほどの悪態をついた者は、古今東西聞いたこともありません。

確かにこの道忠の普段の振る舞いを聞くと、十悪五逆(身、口、意の三業が作る十種の罪悪と五種の最も重い罪)を犯すことなどものともしない、根っからの大悪人でした。鹿狩りを行ったり鷹狩りをすることは、世の中にままあることなので、問題ではありません。

しかし、罪の無い者を暴力を用いて捕縛したり、僧侶や尼僧など一体何人殺害したのでしょうか。いつも死人の首を目にしなければ、気分が良くないと言って、僧俗男女を問わず毎日二、三人の首を切って、わざわざ目の前に架けさせたりしました。そんな訳で彼の行くところは、

死体や白骨があふれまるで、と殺場のように死骸が山積みにされ、とてもこの世のものと思えませんでした。


此入道が伊勢にて死たる事、道遠ければ故郷の妻子未知る事無りけるに、其比所縁なりける律僧、武蔵国より下総へ下る事あり。日暮野遠して留るべき宿を尋ぬる処に、山伏一人出来て、「いざ、ゝせ給へ。此辺に接待所の候ぞ。其所へつれ進せん。」と云ける間、行脚の僧悦て、山伏の引導に相順ひ、遥に行て見に、鉄の築地をついて、金銀の楼門を立たり。其額を見れば、「大放火寺」と書たり。門より入て内を見るに、奇麗にして、美を尽せる仏殿あり。其額をば「理非断」とぞ書たりける。僧をば旦過に置て、山伏は内へ入ぬ。暫く有て、前の山伏、内より螺鈿の匣に法花経を入たるを持来て、「只今是に不思議の事あるべきにて候。いかに恐しく思召候共、息をもあらくせず、三業を静めて此経を読誦候べし。」と云て、己は六の巻の紐を解て寿量品をよみ、僧には八の巻を与て、普門品をぞ読せける。僧何事にやとあやしく思ひながら山伏の云に任て、口には経を誦し、心に妄想を払て、寂々としてぞ居たりける。夜半過る程に、月俄にかき陰り、雨あらく電して、牛頭馬頭の阿放羅刹共、其数を知らず、大庭に群集せり。天地須臾に換尽して、鉄城高く峙ち、鉄綱四方に張れり。烈々たる猛火燃て一由旬が間に盛なるに、毒蛇舌をのべて焔を吐き、鉄の犬牙をといで吠いかる。僧是を見て、あな恐ろし、是は無間地獄にてぞあるらんと恐怖して見居たる処に、火車に罪人を独りのせて、牛頭馬頭の鬼共、ながへを引て虚空より来れり。待て忿れる悪鬼共、鉄の俎の盤石の如なるを庭に置て、其上に此罪人を取てあをのけにふせ、其上に又鉄の俎を重て、諸の鬼共膝を屈し肱をのべて、ゑいや声を出、「ゑいや/\。」と推すに、俎のはづれより血の流るゝ事油をしたづるが如し。是を受て大なる鉄の桶に入れあつめたれば、程なく十分に湛へて滔々たる事夕陽を浸せる江水の如也。其後二の俎を取のけて、紙の如に推しひらめたる罪人を、鉄の串にさしつらぬき、炎の上に是を立てゝ、打返々々炮る事、只庖人の肉味を調するに不異。至極あぶり乾して後、又俎の上に推ひらめて、臠刀に鉄の魚箸を取副て、寸分に是を切割て、銅の箕の中へ投入たるを、牛頭馬頭の鬼共箕を持て、「活々。」と唱へて是を簸けるに、罪人忽に蘇て又もとの形になる。時に阿放羅刹鉄の■を取て、罪人にむかひ、忿れる言を出して、罪人を責て曰、「地獄非地獄、汝が罪責汝。」と、罪人此苦に責られて、泣んとすれども涙落ず。猛火眼を焦す故に、叫ばんとすれ共声出ず。鉄丸喉を塞故に、若一時の苦患を語るとも、聞人は地に倒れつべし。

この入道が伊勢で死去したことは、遠く離れているため故郷の妻子は、まだご存知ではなかったのです。しかしその頃入道に縁のある律僧が、武蔵国より下総に下る事がありました。広野を歩む内、日も暮れてきたので、どこか宿泊できる宿を探していると、

山伏が一人現れ、「さぁ、いらっしゃい。このあたりに旅の僧を接待してくれる所があります。そこへお連れいたしましょう」と話されたので、修行のため遍歴中の僧は喜び、山伏の案内に従って遠くまで来てみると、鉄で出来た築地と、金銀で造られた楼門が建っていました。

かかっていた額を見ると、「大放火寺」と、書かれています。門を入ってみると内部は綺麗で、美を尽くした仏殿がありました。その額には、「理非断」と、書かれていました。僧を旦過詰めをする部屋(遊歴の修行僧が禅院に一夜投宿する部屋)に置いて、山伏は中に入っていきました。

しばらくすると先ほどの山伏が、中から螺鈿(貝殻を使用して飾った)の箱に法華経を入れたのを持ってきて、「今から不思議なことが起こると思われます。どんなに恐ろしいと思っても、息を荒くすることなく精神の平静を保って(三業::身、口、心による種々の行為)、この経を読誦してください」と言って、

自分は六の巻の紐を解くと寿量品を読み、僧には八の巻を与え普門品を読ませました。僧は何事なのかと怪しみながらも、山伏の指図に従い口では経を誦し、心中は邪念を払って無念無想になりました。夜半も過ぎる頃、月がにわかにかき曇り、雷雨が激しく降り出して、

頭が牛や馬で、体は人の形をして(牛頭馬頭)地獄からやって来た鬼らが、その数も分らないくらい広い庭に集まってきました。天地は瞬く間に入れ替わり、鉄の城が天高くそば立ち、鉄の綱が四方に張り巡らされています。激しい火は牛車一日の行程分を燃え盛り、

毒蛇は舌を伸ばして炎を吐き、鉄の犬は牙を研ぎ澄まして吠え掛かります。この様子に僧は恐ろしいことだ、これはきっと無間地獄に違いないと、恐れおののいて見ていたところ、火が燃え盛る車に、罪人らしき者を一人乗せて、牛頭馬頭の獄卒らが車を操作しながら大空からやってきました。

怒りながら地上で待っていた悪鬼らは、がっしりとした鉄製のまな板を庭に置き、その上にこの罪人を引き取って仰向けに乗せると、またその上に鉄のまな板を重ね、その場にいる鬼どもが、膝を曲げ肱を伸ばして、エイヤっと声を出し、「エイヤ、エイヤ」とまな板を押すと、

まな板の端から血が流れ出し、まるで油がしたたるのと変わりません。この血を受けて大きな鉄の桶に集め入れる内、しばらくすると満々と湛え、まるで揚子江が夕陽を飲み込んだようになりました。そのあと、二つのまな板を取り除け、紙のように平たくなった罪人を、鉄の串に貫き通し、

炎の上にこれを立て、あぶっては返し、またあぶっては返す様子は、料理人が肉の調理をしているのと変わりありません。十分にあぶって乾燥させてから、再びまな板の上に押し広げ、臠刀(れんとう::肉切り刀)に鉄製のまな箸(魚の料理用箸)を添えて、これを細かく切り裂き、銅製の箕の中に投げ入れ、

牛頭馬頭の鬼どもが、この箕を持って、「活々」と唱えながらこれを篩うと、罪人はたちまち甦り、再び元の姿になりました。その時鬼どもは、鉄のしもと(罪人を打つための鞭)を手にして、罪人に向かい怒声を浴びせ、痛めつけながら、「地獄であって地獄ではない。

汝の犯した罪が汝を責めるのだ」と言うと、罪人はこの責め苦に耐えかねて、泣こうにも涙も出ません。激しく燃え盛る炎が目を焦がすので、叫ぼうとしても声が出ません。鉄の玉が喉を塞ぐので(無間地獄に堕ちた者は鉄丸、鉄汁を飲まされます)、もし一時でも苦しみを語ろうとしても、聞く人は地に倒れ込むことになるでしょう。


客位の僧是を見て、魂も浮れ骨髄も砕ぬる心地して、恐しく覚へければ、主人の山伏に向て、「是は如何なる罪人を、加様に呵責し候やらん。」と問ければ、山伏の云、「是こそ奥州の住人結城上野入道と申者、伊勢国にて死して候が、阿鼻地獄へ落て呵責せらるゝにて候へ。若其方様の御縁にて御渡候はゞ、跡の妻子共に、「一日経を書供養して、此苦患を救ひ候へ。」と仰られ候へ。我は彼入道今度上洛せし時、鎧の袖に名を書て候し、六道能化の地蔵薩■にて候也。」と、委く是を教へけるに、其言未終、暁をつぐる野寺の鐘、松吹く風に響て、一声幽に聞へければ、地獄の鉄城も忽にかきけす様にうせ、彼山伏も見へず成て、旦過に坐せる僧ばかり野原の草の露の上に惘然として居たりけり。夢幻の境も未覚へね共夜已に明ければ、此僧現化の不思議に驚て、いそぎ奥州へ下り、結城上野入道が子大蔵権少輔に此事を語に、「父の入道が伊勢にて死たる事、未聞及ばざる前なれば、是皆夢中の妄想か、幻の間の怪異か。」と、真しからず思へり。其後三四日あつて、伊勢より飛脚下て、父の上野入道が遺言の様、臨終の悪相共委く語りけるにこそ、僧の云所一も偽らざりけりと信を取て、七々の忌日に当る毎に、一日経を書供養して、追孝の作善をぞ致しける。「「若有聞法者無一不成仏。」は、如来の金言、此経の大意なれば、八寒八熱の底までも、悪業の猛火忽に消て、清冷の池水正に湛ん。」と、導師称揚の舌をのべて玉を吐給へば、聴衆随喜の涙を流して袂を沾しけり。是然地蔵菩薩の善巧方便にして、彼有様を見せしめて追善を致さしめんが為也。結縁の多少に依て、利生の厚薄はあり共、仏前仏後の導師、大慈大悲の薩■に値遇し奉らばゝ真諦俗諦善願の望を達せん。今世後世能引導の御誓たのもしかるべき御事也。

客の僧侶はこの様子を見ている内に、精神に異常を来たし、体力の消耗も激しく、恐ろしさのあまり主人の山伏に向かって、「これはどのような罪を犯した人なので、これほど厳しく責め苦しめられるのですか」と質問したところ、山伏は、「この男こそ、奥州の住人、結城上野入道と言う者です。

伊勢の国にて死去したのですが、阿鼻地獄(八大地獄の一つ)に堕ちて責め苦にあっているのです。もし貴殿がその方とご縁があれば、残された妻子らに、『一日経(一日で経を書写し終えること)を書いて供養をし、この苦患から救ってやるように』と、仰ってください。

私は彼の入道がこのたび上洛した時、鎧の袖に名を書いてさしあげた、六道能化(六道に現れて衆生を救う地蔵菩薩)の地蔵薩タ(土偏に垂)でございます」と詳しく事情を説明すると、その言葉の終わらぬ内に、夜明けを告げる野寺の鐘が、松林を吹きぬける風に響いて、小さく聞こえたと思った時、

地獄にあった鉄の城もたちまちに掻き消え、かの山伏の姿も見えず、旦過詰めの部屋にいた僧だけが、露を含んだ野原の草の上に、呆然とした様子で座っていました。夢か幻なのかまだはっきりしませんが、夜はすでに明けきっているので、

この僧侶は神仏が現世に出現する不思議な現象に驚きながらも、急いで奥州に下ると、結城上野入道の子息、大蔵権少輔に会ってこの出来事を話すと子息は、「父の入道が伊勢で亡くなったことは、まだ聞いていないので、今聞いた話は全て、貴僧が夢に見た妄想か、

幻覚に惑わされたための怪異現象なのだろうか」と、信じようとしませんでした。しかしその後三、四日して伊勢より飛脚が到着し、父の上野入道が言い残した言葉や、臨終に際しての悪態など詳しい報告を聞くと、僧の語ったことに合致したので今は全て僧の言葉を信じ、

七日ごとの忌日には一日経を書いて供養をし、追善の法要をしました。「『若有聞法者無一不成仏』(もし法を聞く者は一人として成仏しない者はいない)とは釈迦如来が言われた不滅の真理であり、法華経の根底をなす趣旨ですので、八寒地獄また八熱地獄の底まで届き、

悪行のために受けていた猛火の炎もたちまちに消えて、冷たく澄みきった水に池は満たされるでしょう」と法要主宰の僧侶が、弁舌さわやかに話されると、聞いていた人々は歓喜の涙を流し、袂を濡らしたのでした。これは地蔵菩薩は人々の導き方が上手なので、

地獄の有様を見せつけることによって、追善法要を行わせるためです。仏との縁の強弱によって、仏からのご利益に差はありますが、仏が世に居られない時期に現れる地蔵菩薩や、また観世音菩薩に縁あって巡り会うことが出来れば、

仏法(仏教)、王法(朝廷による法や政治)とも互いに関連して望みが達せられるでしょう。現世来世とも、よろしく導いてくださる僧侶が、衆生を救おうと誓いを立てられることは、本当に頼もしい限りです。      (終り)

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